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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
503
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/05(火) 17:49:44 ID:Y5LPInQE0
>>498
縄が蛇かどうか見極める勇気が無い場合、自分は逃避しているといくら観察しても
見極める勇気は得られないのではないでしょうか?
504
:
としぼっくり
:2017/09/05(火) 18:05:39 ID:DAY232aw0
お礼に続けて申し訳ないです。
質問ですが、観察が中心なのでしょうか?
505
:
sage
:2017/09/05(火) 20:44:25 ID:vd1QzfGM0
観照が起こる条件について確認させてください。
観照が起こるためには、前提として自我を捨てる覚悟を持ち「体の各パーツや思考など」に対する
自己同一化を観察により厭離させる必要があり、ほとんどすべての対象への自己同一化が消滅したとき
観照が起こり、無我になる、で合ってますか?
微妙な違いとかがあれば指摘してくれると助かります。
そして、鬼和尚の教えでいうと観照が起こるためには
「自己同一性が付与された対象を観察して厭離すること(自己同一化の観念を厭離させること)」が直接的に必要なのであって
「「褒められるのは良い」とか「学歴がないのは悪いことだ」というような自我の種々の好悪の観念などは厭離させる必要性はない(観照を起こすという観点からのみ見た場合)
ということで合ってますか?
506
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/05(火) 21:35:31 ID:1d4drIFg0
>>500
どういたしまして、またおいでなさい。
>>501
そうじゃ、全て意識なのじゃ。
分別がなければ一つであることが感じられるのじゃ。
それは知識ではなく感じることなのじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
>>502
出来るじゃろう。
旅に出るなどの今の環境から離れることで、それも観察できるようになるじゃろう。
他人から離れることで、他人からの条件付けもわかるようになるのじゃ。
実践してみるとよいのじゃ。
>>503
逃避していると観察できたならば既に蛇を観ているのじゃ。
それもまた反応のひとつであるからのう。
実践によって確めるのじゃ。
507
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/05(火) 21:41:18 ID:1d4drIFg0
>>504
そうじゃ、観察によって悟りは訪れるのじゃ。
集中の瞑想はそのための集中力を身に付ける役に立つだけなのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>505
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践によって確めるのじゃ。
またおいでなさい。
508
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/05(火) 23:46:30 ID:Y5LPInQE0
>>506
鬼和尚さんは、下記のように言っています。
>質問ですが、鬼和尚さんが10年位説法しているのに何故一人も悟りを得た人はいないのでしょうか?
>>それはおぬし自身がよくわかっているじゃろう。
自己を見ることの恐れ、悟りへの恐れ、自己が消えるという恐れ、。
そのような恐れがあるたびに心は逃避してしまうのじゃ。
それがなければ直ぐにでも誰でも悟りは得られるじゃろう。
逃避しているならば、逃避していると観察すれば、逃避は消えるんですよね?
しかし、それだけでは、自己を見る事が出来ない、自己が消えることの恐れを
乗り越えられないのではないですか?
逃避が無ければ直ぐにでも悟りを得られるのに、誰も悟りを得られていない
=誰も逃避が無くなっていないという事ですよね?
逃避している事を観察しても逃避は無くならないと言う事の証明のように
思えるのですが?
また、世の中には自殺者が居ますが、この人たちは、自己が消える恐れを
乗り越えているのに、どうして悟りが訪れなかったのでしょうか?
509
:
sage
:2017/09/06(水) 18:10:05 ID:vd1QzfGM0
>>507
ありがとうございます。
あと、阿頼耶識を厭離するっていうのは、膨大な阿頼耶識の働きのほんの一部でもとらえられたら、
膨大な規模を誇る阿頼耶識のすべてが消滅するんですか?
例えば「今、目の前の物体をコーヒーカップだと阿頼耶識により認識している」、という過程がとらえられたとして、
たったそれだけで過去から現在に至るまでに蓄積された膨大な観念のすべて、諸々の悪感情や想念のすべてが
消え去る、というのは少しむしが良すぎる感じがするんですが、、
510
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/06(水) 18:59:58 ID:czRftzgI0
ある思考・感情があるとして、その原因を観察するのが苦滅、原因から思考・感情に至る過程を観察するのが悟りの修行でいいですか?
511
:
進路探訪者
:2017/09/06(水) 19:26:04 ID:DIiPmWc60
ご無沙汰しております。
最近は、感覚と感情と自分が区別されるものだと分かりました。
嫌な感覚があり、怖いという感情が芽生えても、逆に感覚と感情を力技
で意識すると、それがはっきりしたものであるので、逆に自分そのもので
はないということが理解できました。
しかし、①刺激が強すぎると、たちまちその刺激に感覚から感情、自意識
の何から何まで囚われ区別できず、どうしようもありません。
また、②いきなり嫌な刺激に直面すると、それが感情にまで達するとして、
それを自意識と力技で区別する時間がありません。現実とは時間の流れが
速いので結局感覚に自意識が支配されてしまいます。
この2点につき、何とかならないでしょうか。
512
:
としぼっくり
:2017/09/06(水) 20:29:51 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。
513
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/06(水) 20:46:44 ID:1d4drIFg0
>>508
それはまだ逃避を観ていないのじゃ。
多くの者が悟りを求めながら悟りを回避しているのじゃ。
それが逃避であると言うことにも気付かないのじゃ。
悟りを求めない者は自己が消える恐れがなくても悟れないのじゃ。
>>509
阿頼耶識の働きはとめることが出来るようになるのじゃ。
例えば目が見えなくなったら今見ている膨大な視点も全て消えるじゃろう。
空を見ていても目が見えないだけで空は全て消えるのじゃ。
そのように認識が変容すれば認識された観念的存在は全て消え去るのじゃ。
しかしなくなったのではないのじゃ。
いつでも使うことも出来るのじゃ。
>>510
それらはまだ苦を滅するだけなのじゃ。
さらに根本原因が自分があるという無明であると観察して自分を滅するのが悟りの修業になるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
514
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/06(水) 20:56:33 ID:1d4drIFg0
>>511
二つとも数息観などを行い、不動心を身につければ無くすことができるのじゃ。
心が動揺することがなくなるからのう。
不動の心で何事も観察できるのじゃ。
一日五分でも効果は出るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>512
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
515
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/06(水) 22:54:22 ID:Y5LPInQE0
>>513
では、どうすれば逃避を見られるようになるのでしょうか?
悟りを求めていないと、どうして自己が消える恐れが無くても、悟れないのでしょうか?
516
:
としぼっくり
:2017/09/06(水) 23:28:56 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察に集中すれば良いのでしょうか?
517
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/07(木) 02:30:31 ID:vd1QzfGM0
>>513
509です。そうですか、一部さえ観られればそれで大悟に至れるんですね、
しかし、自分に観照が起きて、いざ認識を滅するぞ、という段階に立った際にきちんと認識を
滅するという手順を進められるか不安です。
本来は今の段階の自分がそんなこと思案する必要もないんでしょうが、、
というのも「認識を厭離する」ということが、鬼和尚の説く教えの中で今の自分自身にとっては最も想像しづらくピンと来ないプロセスなんです。
例えば、手を観察してそこから自己同一化の観念を厭離するというのはわかります、観察する対象がきちんと
目の前にありますし、そのあとの手順も、単に手を観察して観察の作用により厭離が起きればいいだけですし、
あるいは善悪の観念のような観念であっても、その観念の真偽を突き詰めていったら最終的には滅することができる、ということも学びました。
思考に対する自己同一化の厭離の手順も手を観察する際と似たようにすればいいのだろうと思います。
しかしながら、「認識を厭離させる手順」というのがどうしてもまったくピンときません、
阿頼耶識が記憶から認識するプロセスを観察する、っていったってそのプロセスは手のようにどこかにわかりやすく置いてあるわけではないじゃないですか、、
手から自我が厭離される様は無理に図として表そうとすれば脳内にイメージが浮かびますが、認識が厭離される様は手順のイメージが浮かびませんし想像もできません、
「認識のプロセスをとらえる」という様は何となく想像がつきますが、それを観察できた後にその認識するプロセスが?阿頼耶識全体が?
どんな風にどこからどこへ(どこなんていうのもたぶんないのでしょうが)どのように厭離され本来の認識が無事にそれにとって代わるようになるのかというところが
もっとも不明瞭です。
こんな状態の自分でも、いざ観照が起きて認識を滅する段階に立って認識の働きを観察することができればどうすれば認識が厭離されるか
というのは勝手にピンとくるものなのでしょうか?後から理解がついてくるようなものなのでしょうか?
観照が起こる→阿頼耶識の認識プロセスを観察できた→自分「ああ、こんな感じで厭離されるのね」→認識を厭離できた
こんな感じで簡単で自然な流れとして進むようなもんなんでしょうか?
518
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/07(木) 07:21:48 ID:czRftzgI0
>510
そのように修行します
519
:
進路探訪者
:2017/09/07(木) 20:59:12 ID:DIiPmWc60
>514
ご指導ありがとうございます。
あれからまだ修行の実践は行っていないですが、感情というのが実は
その全てが重要ではなく、余分な感情があるから人は苦を感じると思い
至りました。
自分が法に則った言動をしていれば、仮にそれにケチをつける者がいても、
それに対して不安や恐怖で押しつぶされません。
もちろんそれらの感情はあるし、無くならない気がしますが、相手が単に
無理筋なことをいっているだけという「理屈」に集中すれば、自分の正しさに
納得が生まれ、不安や恐怖に負けないようになる気がします。
だから不安や恐怖から逃げるのと集中は外からは似てるけど違うというのも
分かってきたような気がします。
これで成長できているのでしょうか。
520
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/07(木) 21:40:17 ID:1d4drIFg0
>>515
自らの本心を真摯に観察する以外にないのじゃ。
自分は本当に悟りを求めているのか、常に自分に問いかけてみるのじゃ。
本当に悟りを求めていなければ到底悟れないのじゃ。
山に登るのに強い意志が必要なのと同じなのじゃ。
自己が消える恐れなどの一つの障害がなくなっただけでは一つの岩を乗り越えたと言うぐらいなのじゃ。
自らの本心を受け入れ、死を超える道が修行しかないと知れば実践する気にもなるのじゃ。
>>516
そうじゃ、観察に集中するのじゃ。
集中すれば観察できるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>517
そうじ、無我になれば自然に出来るようになるものじゃ。
もはやそれ以外に観るものはないからのう。
後から知識によって認識を厭離したとわかるのじゃ。
実践によって証明するのじゃ。
>>518
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
521
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/07(木) 22:03:47 ID:1d4drIFg0
>>519
実践しなければ成長は無いのじゃ。
知識ではなく観察による気付きによって成長もするのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
522
:
としぼっくり
:2017/09/07(木) 22:12:22 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。
523
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/08(金) 21:53:50 ID:1d4drIFg0
>>522
そうじゃ。実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
524
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/09(土) 14:26:38 ID:vd1QzfGM0
>>520
わかりました、どうもありがとうございました。
525
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/09(土) 20:12:44 ID:vd1QzfGM0
自我が消える恐怖というのは自分が消えることを心底のレベルで受け入れるだけでは完全に
消えることはないのでしょうか?
肉体を自己と同一化している観念が消えない限り自我が
消える恐れも消えないのでしょうか?つまり「自分を肉体だと思っている」限り自我が消える
恐れも消えないんでしょうか、、
526
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/09(土) 21:51:29 ID:1d4drIFg0
>>524
どういたしまして、またおいでなさい。
>>525
そうじゃ、観察が完全でないと消えないのじゃ。
原因が肉体を自分と思っていることならば、その原因から観察する事で消えるじゃろう。
それによって自我の投影も肉体から厭離されるじゃろう。
実践によって確めるのじゃ。
527
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/10(日) 06:03:11 ID:fpGbb5P20
>>506
ご教授ありがとうございました。
別の質問なのですが、最近は腕時計型などの活動量計なるものがあり、
睡眠の深さを計ったりできるそうです。
この装置は、止の行の進捗具合の目安として使うことができますでしょうか?
528
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/10(日) 10:29:23 ID:czRftzgI0
苦滅はその苦を消すことはできても対症療法に過ぎず、自我が無限に作られ続けることまで抑えることはできない。しかも膨大な苦を消し尽くすのは無理。
根本的に自我による苦を消すには悟りしかないと気づいたのですが、合ってるでしょうか?
529
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/10(日) 14:20:06 ID:czRftzgI0
HPに集中法が書かれていますが、これと制感の法とはどんな関係がありますか?
先に集中してそれから制感するとさらに集中度が上がるのでしょうか
どちらかだけでは不十分でしょうか
530
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/10(日) 21:20:12 ID:1d4drIFg0
>>527
できるかもしれん。
計ってみるとよいのじゃ。
いろいろ試してみるのじゃ。
>>528
そうじゃ、そのような理解でよいのじゃ。
後は実践するがよいのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>529
制感は集中の助けになるものじゃ。
外で物音がするたびに集中が途切れたら瞑想も出来ないからのう。
感覚を制御して集中を深める効果があるのじゃ。
鋭敏すぎて外の刺激に反応しすぎる者が制感をするとよいのじゃ。
しなくても集中出来る者はしなくてよいのじゃ。
自分に合わせて法を選ぶのじゃ。
531
:
進路探訪者
:2017/09/10(日) 22:03:07 ID:DIiPmWc60
>>521
ご返信ありがとうございます。
しかし、日常の仕事での会話の中でさえ何か掴んだ気がします。
自分の感情に怒りや恐怖、不安もあるけど、他方で相手を諭したり、
相手の悪い点を指摘したいという感情もたしかに全て存在している。
問題はどう感じるかではなく、どれを選び取るか、その時にどれを
とるべきかを、きちんと自分の意思で納得して選び取ろうとすること
が大事な気がします。
これが不動心と同じ感覚なのだなと納得したと考えています。
532
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 01:46:10 ID:YAWI8URw0
無我になる→そのまま今に集中する(観察)→サマタ瞑想の第四禅定の状態になる
体感として言葉にしにくい領域だと思うけど認識を滅するってこんな感じの事?
無我になった状態でただ集中(観察)してればその内体感できるって事でいいの?
(この段階だと「する」っていうより「ある」とか「いる」だと思うけどまぁ便宜上)
533
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 03:45:08 ID:YAWI8URw0
初歩的な質問で悪いけどそもそも阿頼耶識って何?
それと自我を消した後ただ心の作用を観察してればいいの?
534
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 04:25:15 ID:YAWI8URw0
認識(阿来耶識)から関連付けされる記憶の観察?
533の心の作用の観察は忘れて
535
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 07:16:22 ID:czRftzgI0
>529
今までの問答で何をするかはわかっているので、実践するだけです
どうもありがとうございました
536
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 18:05:30 ID:YAWI8URw0
>>532
〜534の質問はやっぱり答えなくて良いです
自己解決出来ました
537
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 18:29:00 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
気づきが起こるまで観察し続けるしか無いのでしょうか?
538
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 18:32:31 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
このサイトの人↓は悟っていますか?
http://houtokuji.a.la9.jp/jikonokaiketsu.html
539
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/11(月) 20:53:00 ID:1d4drIFg0
>>531
善かったのじゃ。
それにも囚われずに進むとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>535
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>537
そうじゃ、観察は気付くためにあるものじゃ。
気付くまで観察し続けるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>538
悟っていないのじゃ。
仏教とは関係ない感情の高振りを書いているだけなのじゃ。
無意味なのじゃ。
540
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/11(月) 21:01:16 ID:vd1QzfGM0
525です、ありがとうございました。
541
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/12(火) 05:51:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
私は性格的に理論的に物事を見ていく傾向があるので、語らせてください。
見えるものと見えないもの
目の前に林檎があるとして、それは、感覚、知覚、知性、知識などによって受け取られた仮象です。だから、本来は林檎など無いと言えますね。
しかし、人間が認識するとき、林檎は生まれる。
また、「林檎」が「割れた」とか、形態の変化も見ますが、これも、人間的な解釈であり、それ自体は本当は変化していないと言えます。変化は人間がそう見るからそう見えるだけで。
林檎が現象であれば、勿論、我々自身も同じですね。林檎が割れたが言語現象ならば、私の死も仮象に過ぎません。認識の世界(有の世界)があるならば、それを支える認識を越えた無の世界のようなものがあるはずです。その無こそが我々自身では無いでしょうか?
542
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/12(火) 05:58:40 ID:o7TfOr0I0
結局、無自体は認識出来ないので、無以外の見える世界だけを見ていくと、切り絵のように無の輪郭が見える。・・おしいとこいってますか?
鬼和尚が言われる、悟りとは、この無の領域を知ることではないでしょうか?
我々や世界の実体が「無」なのであれば、何かに生まれ変わるとか、不死であることなども、納得できるんですよね
543
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/12(火) 12:45:07 ID:t8PlW.qA0
鬼和尚さん、苦滅について教えてください。
例えば、会社など組織の中でうまく楽をした人がいて、その分、自分が労力を払わないといけない時、すごく苦が生じます。
原因は、他人のせいで自分の生存のためのエネルギーが減ってしまうと思ってしまうことと、不公平感です。
こういう場合は、どう観察すれば原因がなかった場合を想定できますか?
なかなか他人のせいじゃないとも思えないし、不公平でも仕方ないとも思えないので、苦を滅することができません。
どうしたら良いでしょうか?
もやもやして疲れてしまいます。
544
:
香雪
:2017/09/12(火) 18:43:07 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
認識についてのご質問です、よろしくお願いします。
眼耳鼻舌身意に接触する前の段階が観えれば認識を観たことになるのでしょうか?
記憶からイメージもしくは言葉が想起され、それを空と観ることはできるようになりました、時々。
以前に伺った際には、何かがあると感じた時点で既に認識は作用しているとのことでしたが、
これは、何らかの気配を感じているが、記憶への依存が起こる前に観るということですか?
545
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/12(火) 22:00:24 ID:1d4drIFg0
>>540
どういたしまして、またおいでなさい。
>>541
>>542
そうじゃ、無であればそこには我々も無いじゃろう。
無自己なのじゃ。
そして無認識に至って大悟徹底なのじゃ。
想像すらも超えたその境地に進むのじゃ。
>>543
苦がなくならないのならばその原因は正しいものではないのじゃ。
自分の本心を飾らずに受け入れるのじゃ。
例えばそれは実は自分自身が楽をして他人に労力を払わせたいと思っているからかもしれん。
その真の欲求と逆になるから苦になるのかもしれん。
そんな欲求が無ければ苦にはならないと観察するのは容易なことじゃ。
どのようなものであっても自分の本心を飾らずに受け入れ、観察する以外にないのじゃ。
>>544
無我にならなければ認識は見えないのじゃ。
我があるのに認識を観ようとしても我が邪魔をするのじゃ。
認識主体である自我がそれを見ることはできないという観念があるからのう。
先ずは無我を目指すがよいのじゃ。
546
:
香雪
:2017/09/12(火) 22:14:11 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
なるほどやはりそういうものなのですね。
自我を消していくのもやはり手探りな感じですが、
おっしゃられる通り、一つ一つ片付けて無我を目指していこうと思います。
ありがとうございました。
547
:
543
:2017/09/13(水) 00:23:00 ID:0GihLr0IO
>>545
鬼和尚さん、ありがとうございます。
じつは今日この質問をした後で、その人と相対する場面があり、私は何故かその人に別のことを訴えていました。
自分では些細なことだと思って過ごしてきたことで、労力とは関係ない、ちょっとした精神的なストレスになっていたことについてです。
その事を何故か相手に話しながら、その時は自分でもあれ?と思っていたのですが、話が終わってみると、労力についての苦が消えていました。
つまり、その直前まで不満に感じて苛ついていたり、このストレスの原因だと思考していたことが、さっぱり外れていました。
本心では労力についての不満があったのではなくて、別の些細なことにものすごいストレスを感じていたみたいです。
実際はそのストレスで疲れていたようで、疲れまでとれてしまいました。
それでちょっと混乱しそうなのですが、これはどういうことなのでしょうか?
これが感情や思考は自分ではないということですか?
つまり、思考や感情も本心とは関係なく勝手にやっているだけということでしょうか?
でも、些細なことにストレスを感じていたという本心?も大層なことではないので、何だか勝手な動きのような気もします。
本心とは一体何のことなのでしょうか?
548
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/13(水) 10:43:58 ID:vd1QzfGM0
行為者の感覚が消える地点、すなわち「自分が行為を行っているんだ」という誤った感覚が消える地点は
鬼和尚が「観照」と呼んでいる現象が起き、無我に至ったのと同じ地点でしょうか?
また、そうであるなら「行為者なんて元からいなかった、ということがわかった」とおっしゃっている非二元の先人達は
鬼和尚の教えでいう「観照」が起き、無我に至った人である(無認識まで至ったかはわからないが少なくとも無我までは)、と判断していいのでしょうか?
549
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/13(水) 22:34:46 ID:1d4drIFg0
>>546
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>547
それはまだおぬしが自分の本心を把握していないということなのじゃ。
自分が今知っていることより他に本心があり、それを知らないのじゃ。
本心とは偽らない心なのじゃ。
自分の心を偽っていれば本当は自分がどのように感じ、どのように反応するかわからなくなるのじゃ。
偽らない心を受け入れ、見るようにすれば本心はわかってくるのじゃ。
>>548
そのような理解でよいのじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
550
:
543
:2017/09/14(木) 00:56:37 ID:FocWw5K20
>>549
鬼和尚さん、ありがとうございます。
そうか、この状態は自分が、何をどう感じどのように反応するかがわかっていない状態なのですね。
そう思って今回のことを捉え直してみると、自分で些細なことと決めつけていたことは、本心にとってはとても重要なことだったということになります。
自分の価値観や性格はそこに強く影響されるものだったわけです。
私は自分のことがわかっていなかったせいで、その些細だと決めつけていたことが大きな苦の原因になることが推測できませんでした。
自分のことをわかっていれば、すんなり今の苦の原因がわかって解決も早かったはずです。
自分の知らなかった面を知ることができたことに、今ようやく気づきました。
たぶん他にも自分で気づいていない自分の本心があるはずなので、探っていきます。
今回は自分でも意外でした。
鬼和尚さんに質問しなければ、苦がなくなってそれで終わってしまっていたと思います。
ありがとうございました。
551
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/14(木) 01:45:54 ID:F20GGGvA0
鬼和尚
世間には、人が生まれてから死ぬまで、あらゆるしくみや決まり事があり、自由などほとんどないのですね。
そして大抵の人は、しくみや決まり事に見事に従っているのですね。
従うかどうかは、自主的に選択しているのかと私は思っていたのですが、そういうわけでもなさそうで、わりと盲目的なのですね。
そういうことが私の思っていることとは全く逆なんです。
私はこれまでずっと世の中に対して違和感を感じていましたが、それは私の考えとは違うからだとわかってはいたんですが、実はわかっていなかったと言いますか、ようやく気付いた感じです。
うまく認識出来ず、ギャップばかりを感じていました。
何かあると「信じられない」と思っていました。日常的にです。
それをスルーし他人を見ず自分を見るのが修行と思ってやってきました。
しかし、ようやくギャップ=苦の元は私の考えだということもわかりました。
いつどうやってその考えを持ったのかはわからないので、前世と関係あるのかなと思ったりもしていました。
違和感の正体は、土居健郎著「甘えの構造」とか山本七平著「空気の研究」とかルース・ベネディクト著「菊と刀」などに書いてあることはあてはまるなと思っていましたが、なんの解決にもなりませんでした。
むしろ、あれも違う、これも違う、ということを考える材料にしていました。
552
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/14(木) 05:58:57 ID:YUVcWBgU0
>>551
山本七平はいかがわしい人物だから信用してはいかんのじゃ。
553
:
541
:2017/09/14(木) 18:01:55 ID:o7TfOr0I0
ありがとうございます。
確かに、我々と言うのは、思考的な表現ですね。
全ては解釈です。
我々が経験する世界は全て現象です。
「区別」は人間の思考の働きで、本当にうごいて居るのは無と言う全体です。
椅子が倒れたと認識しますが、本来は椅子もなければ倒れることもなく、なにも動いてない。
何かが動いているように見えるのは心の働きです。
無門関に出てくる、旗が動いているのか、風邪が動いているのか、いや、心が動いているのだと言う結論は、本当にその通りです。
全ては自分の心です。鬼和尚も私も心の反映で、有の世界は自分の心の世界です。
554
:
541
:2017/09/14(木) 18:08:39 ID:o7TfOr0I0
こうやって、会話していても、自分の心からレスポンスを貰っている訳で、自分の理解力以上のものは認識できない。
だから、相手から何かを得ようとしても無駄なのだ。洞窟の壁の絵と会話しているようなもの。
本当に欲しいものは壁の絵からは受け取れない。
全ては無から流出した仮象である。
555
:
541
:2017/09/14(木) 18:14:03 ID:o7TfOr0I0
かといって、流出を留めることはできるのだろうか。
例えば、完全性の象徴として、鬼和尚を生み出したが、、
無から不完全なる私が生まれ、私が生れたことにより、完全性を説く鬼和尚が生まれる。
556
:
541
:2017/09/14(木) 18:50:00 ID:o7TfOr0I0
何故、無は安定しないのか、どうして有を生み出すのか
その本性が無だと解っていながら、有を生きるしかないのか
557
:
541
:2017/09/14(木) 19:58:46 ID:o7TfOr0I0
有を滅ぼす事ができるようになった。
有はまた立ち上ってくるだろうけれど、
その都度、滅する事が出来る
558
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/14(木) 20:09:20 ID:czRftzgI0
思うに公案は問の中に思考を回させるような種が仕込んである。例えば、達磨はなぜ中国に来たかは、なぜという言葉によって理由を懸命に探させるよう誘導する。しかし、達磨が来たことをありのままに見ればそこには理由も何もなく来たという行為があるのみである。こうした公案はトンチ問答のようなもので、いきすぎると本来の悟りから離れてしまうだろう。
と最近考えた次第です。
559
:
541
:2017/09/14(木) 20:46:26 ID:o7TfOr0I0
有を滅ぼすと、無と言うストレスゼロの最高に幸せな境地に立てるのですが、それは、人々が、大抵、悪夢の中に居るからで、滅ぼす事が出来ると言うことは作り出す事も出来る訳で、
有を宝物のように磨きあげる事も出来る。
有は素材に過ぎないからね。
だけど、子煩悩と言うように、最高の宝が苦しみを生み出す場合もありますね。
鬼和尚が「人に親切にするのじゃ」と言うのは、有を愛に変えることで、愛の世界に包まれることが出来ると言う事なんでしょうね。
560
:
541
:2017/09/14(木) 21:06:04 ID:o7TfOr0I0
ただ、有に囚われた状態で親切にしても、恨みつらみも増えていく事が多いし、振り回されて消耗したりする。
やはり、無と言う自他未分離の境地での自然なふるまいが愛に繋がるのかなと思います。
561
:
541
:2017/09/14(木) 21:17:22 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。無認識と言うのは、認識が無の基盤に立っていると理解していることとは違うのですよね?
鬼和尚も、鬼和尚と名乗っている認識はあると思うのですが、その認識が虚構であると、知っている状態を無認識としていますか?
認識を認識している状態の事でしょうか?
562
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/14(木) 21:23:36 ID:1d4drIFg0
>>550
そうじゃ、些細なことでも本心を受け入れてこそ変化は起こるのじゃ。
本心を認めなければいつまでもそのままなのじゃ。
本心を見つめて進むのじゃ。
またおいでなさい。
>>551
それはむしろ家族などから条件付けされた考えじゃろう。
友人なども同じ価値観を共有するのじゃ。
自分の本心を真摯に見るのじゃ。
>>553
善かったのじゃ。
後は実践あるのみなにのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>558
そうじゃろう。
それもまた本来は必要無いものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
563
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/14(木) 21:24:23 ID:1d4drIFg0
>>561
そのような理解でよいのじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
564
:
541
:2017/09/14(木) 21:33:48 ID:o7TfOr0I0
全くの無認識だと、車の運転が出来なくなります。鬼和尚さんは運送業だと聞きましたが、道路標識は認識しないのですか?
565
:
541
:2017/09/14(木) 21:39:36 ID:o7TfOr0I0
実践とは何の実践になりますか?
あえて言えば今、認識に囚われずに生きると言うことを実践しています。
たまに、現象を実体化してしまうことがありますが、「色は私を離れてあるだろうか」「形は私を離れてあるだろうか」「臭いは私を離れてあるだろうか」「やっぱり無があるだけだ」と気が付きます。これを、ある種、仏法の実践ととらえてよろしいでしょうか?
566
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/14(木) 22:00:17 ID:F20GGGvA0
>>562
ありがとうございます。
家族の行動を見ていると私と逆なので家族ではないと思います。
幼いころ親から言われたことに疑問を持ったことは記憶しています。
友人はいますが、同じ価値観を共有できたと思える人はいません。
もし同じ価値観を持ったなら、私と同じように苦悩を持つのではないかと思います。
567
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/15(金) 00:23:41 ID:vd1QzfGM0
>>549
ありがとうございました。
568
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/15(金) 18:51:42 ID:.d4fjvgs0
鬼和尚さま
微細身やサトルボディとは何なのでしょうか
鬼和尚さまが気と言っているのと同じようなものですか?
ヴォパッサナーでも微細身を感じられるようにするといいなど言う人がいますが、
観察と関係ありますか?
観察が繊細になっていくと自然と感じされるものなのでしょうか?
自我や認識を滅したり悟りの修行になりますでしょうか?
569
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/15(金) 22:40:47 ID:1d4drIFg0
>>564
認識も無認識も使えるのじゃ。
自在なのじゃ。
>>565
止観をすると善いのじゃ。
集中し、自らの本心を観察するのじゃ。
本心を観察していないと無意味なのじゃ。
本心を観るのが仏法の実践なのじゃ。
>>566
常に真摯に本心を観察していれば原因にも気付くじゃろう。
体験によって作られたものかもしれん。
本心を観るのじゃ。
>>567
どういたしまして、またおいでなさい。
>>568
それらもまた妄想なのじゃ。
気とは違うものなのじゃ。
観察によって真実に気付けば妄想と知れるのじゃ。
修業にはならないのじゃ。
囚われれば煩悩にもなるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
570
:
541
:2017/09/15(金) 23:28:54 ID:o7TfOr0I0
例えば、「女の子にもてたーい」みたいな本心があったとして、観察して、理解したら、どうしたらよいでしょうか
571
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/16(土) 00:56:15 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察するのが辛いのですが、苦が無く観察し続ける方法はないのでしょうか?
572
:
568
:2017/09/16(土) 06:20:50 ID:88jKuaRs0
>>569
そうなんですね。
自分は凡夫でも判断しやすいる修行の方法では無執着が一番だと思ってまして、
何であれそれに囚われないように気をつけています。
これからも囚われないように気を付けていきたいと思います。
ありがとうございました。
573
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/16(土) 21:48:38 ID:1d4drIFg0
>>570
それはおぬしの人生の目的によって異なるのじゃ。
悟りを得たいと想い、そのために邪魔になるならば原因から観察して滅すると善いのじゃ。
邪魔にならないならば放って置いて善いのじゃ。
特に悟りを求めていないならばもてもてになるように努力すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>571
集中が深くなれば苦は無く観察できるじゃろう。
自分を忘れられるからのう。
上から自分を見ている感じになるのじゃ。
肉体の反応はあるがそれはもはや自分の苦ではないのじゃ。
そこまで至るのに精進あるのみなのじゃ。
>>572
そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
またおいでなさい。
574
:
541
:2017/09/17(日) 04:44:42 ID:o7TfOr0I0
女の子とやりたいと言う本心の原因が、結局のところキンタマ(睾丸)だとしたら、悟りを得るために睾丸除去手術をしなくてはならないのでしょうか?
575
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/17(日) 21:45:52 ID:1d4drIFg0
>>574
それが修業の妨げになっているならば観察すると善いのじゃ。
そうでなければ何もしなくて善いのじゃ。
悟りを得るのでないならばナンパでもするとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
576
:
541
:2017/09/17(日) 21:53:11 ID:o7TfOr0I0
観察してもキンタマは無くならないかと。
577
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/18(月) 06:09:50 ID:fpGbb5P20
>>530
ご教授ありがとうございました。
活動量計を購入してみました。計測しているのは心拍数と体の動きのようです。
不安や興奮があるとき、心拍数が上がるのが数値でわかり面白いです。
止の行のとき、心拍数が下がるかと思いましたが、むしろ少し高いようです。
行が上達すると心拍数は下がりますか?
578
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/18(月) 07:49:58 ID:DAY232aw0
>>571
ご回答ありがとうます。
質問ですが、新しい何かに気づくまで観察し続ければ良いのでしょうか?
579
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/18(月) 09:16:07 ID:DAY232aw0
>>578
ご回答ありがとうございますです。
すいません。
580
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/18(月) 12:31:28 ID:rIFRVnQI0
感情と身体反応は同じものでしょうか?
観察していると、身体反応→感情となっている時もあるようです。
身体的にお腹の辺りが重たい・窮屈・熱い 感じだと、怒りが生まれやすいようです。
反応として、怒りに変換されやすいといいますか…。
恐怖は身の毛がよだつような背筋がゾワゾワっというような感覚です。
可笑しい事があれば腹がゆれますし、
悲しいは胸が苦しく涙が出たりします。
安らぎや安心は暖かく身体に力の入っていない状態です。
緊張や不安は身体の特に肩あたりに力が入っているし 呼吸も浅くなります。
(普段はこの状態が多いです)
感情を、
このような身体反応として観察するのですが、その反応に飲み込まれないようにするのが、感情と離れる事なのでしょうか?
それとも、それが起こる原因を観察し、身体反応そのものが出来るだけ起きないようにすることでしょうか?
581
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/18(月) 21:06:56 ID:Jw3dzeXk0
鬼和尚さん
子供の頃、狡いことをしてはいけないと厳しく教えられてきたことが原因で、他人が狡いことをすると必要以上に怒ってしまいます。
そして、自分も狡いことをすることを許せないので、他人が狡いことをすることを許せません。
でも、それが苦を生んでしまう場合があるし、よく考えれば誰しも狡さを隠しているだけです。
他人を許せるようになるには、どうしたら良いですか?
上手くいかないので教えてください。
582
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/18(月) 21:25:32 ID:1d4drIFg0
>>576
百年すればなくなるじゃろう。
>>577
下がるじゃろう。
神経が落ち着くからのう。
さらにどんどん試してみるのじゃ。
>>578
>>579
そうじゃ、続けるのじゃ。
注意して心を観察するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>580
同じではなくそれらは連携して起こるものじゃ。
そうじゃ、反応をも飲み込まれないように観察するのじゃ。
反応は起こるままにしておくがよいのじゃ。
それは起こっては消えていく性質のものと気付くじゃろう。
>>581
そのように原因がわかっていれば全て観察して滅することも出来るのじゃ。
親に教えられたから狡いことが許せず怒りが起こり、それがなければ怒りも無いと観察するのじゃ。
何度も観察すれば消えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
583
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/19(火) 18:51:50 ID:czRftzgI0
通常、感覚→認識→分別→感情という反応のところを、トラウマは感覚→認識→感情と反応すると聞きました。悪口などを聞いたときの苦の感情の記憶が強すぎて思考を飛ばしていきなり反応が出てしまうからだと思います。そうなのですか?
そうだとしたら、トラウマを滅するときは感覚から感情が起きる過程を観察するのがいいのですか?
584
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/19(火) 19:12:28 ID:sVk/xi5.0
>>582
鬼和尚さん、ありがとうございます。
狡さについては少しずつ洗脳が解けてきたような感じですが、今度は自己イメージとの同一化が止まりません。
自己イメージを汚されて、被害を被ったという怒りが止まりません。
以前は、自己イメージは自分の肉体でも財産でもない、と思っただけで苦がなくなったのですが、今回はそう思ってもやっぱり被害を受けたという気持ちが起きてきます。
苦を観察してみると、相手に同じだけの被害を与えるか、弁償させたいというような、自分の財産を奪われたのと同じ気持ちです。
さらにどう観察したらいいのでしょうか?
昨日からずっと怒っていて、それでも怒りが止まらないので疲れました。
585
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/19(火) 21:42:21 ID:1d4drIFg0
>>580
全てそのような反応なのじゃ。
分別を思考と思っているようじゃのう。
分別は思考ではないのじゃ。
パターンによって認識する作用の一部なのじゃ。
ものごとをあれこれと分けて記憶と合わせる働きなのじゃ。
思考は感情の反応の後に起こるものじゃ。
全てを固定観念がない状態でありのままに観察するのじゃ。
>>584
それは思っているからなのじゃ。
記憶を観てしまっているのじゃ。
以前に成功した記憶を思い起こして観察と思っているのじゃ。
自己イメージを自分としてみている働きそのものを受けいれ、観察するのじゃ。
そこから怒りも起こると観察するのじゃ。
観察と思うことを明確にわけるのじゃ。
586
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/20(水) 07:00:00 ID:czRftzgI0
分別は思考ではなく脳の反応ということですか?
感情後の思考は、あんな事言いやがってとかなんて嫌なやつだとか思うことですか?
587
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/20(水) 12:52:05 ID:DAY232aw0
>>578
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、真の観察とは一体何のでしょうか?
588
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/20(水) 20:34:13 ID:t8PlW.qA0
>>585
鬼和尚さん、ありがとうございます。
思考と観察を区別できるようにしてみます。
悪戦苦闘していたら、自己イメージについての苦がなくなってきてしまいました。
観察できたというはっきりした感覚があれば良いのですが、自己イメージがそもそもはっきりしないものなので、何となく苦が消えてしまった感じです。
これでも観察できたのでしょうか?
それから、さらに観察していたら、狡いということよりもさらに、卑怯な人間に対する怒りがあることに気づきました。
狡いというのは、自己の利益のために動物でもそう動くと思えますが、卑怯というのは、動物でもあることなんでしょうか?
弱い者に対しては苛めていいとか、弱そうと見ると反射的に苛めているとか、そういう反応が許せません。
すぐに反撃しにくい場面だったのが悔しくて、怒りが湧きます。
もっとコテンパンにやり返したかったです。逃げられたのがムカつきます。
こんなに怒っているのはやはり原因があるのでしょうか?
どんなことが原因になり得ますか?
589
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/20(水) 22:26:06 ID:1d4drIFg0
>>586
そうじゃ、思考は認識や感情の後に起こるものじゃ。
よく観察してみればわかるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>587
自らの心の働きをありのままに認め、認識することなのじゃ。
それに何か働きかけようとしてはいかんのじゃ。
好悪とかも起きればありのままに認めるだけでよいのじゃ。
>>588
苦が無くなったのならば出来ているのじゃ。
思考できなくても気にしなくてよいのじゃ。
あるかもしれん。
肉食動物は子供とか病気のものとか弱いものから食べていくのじゃ。
おぬしの心の中に原因があるじゃろう。
親とかが弱いものをいじめる者には攻撃してよいと思っているものであったとか。
自分の攻撃欲を満たすために卑怯な者を攻撃してよいと言ったとかじゃな。
そのような原因を自らの心の中に探すのじゃ。
590
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/20(水) 23:29:40 ID:czRftzgI0
続けてお願いします。
ある嫌なことを思い出して嫌な気分になった時、嫌な記憶で自分のイメージが傷ついたと自我は感じます。でも、記憶から嫌な気分になるのは自動で起こっていること。その過程には主体がないのにあると勘違いして主体像を投射し、自分が嫌な気分を感じていると思ってしまう。だから、自分が嫌な気分を起こしているわけではないことを観察して、結果そこに投射する主体がない事に気付き、自我を投射する作用をなくす。
これが無我の観察ですか?
591
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 02:28:37 ID:DAY232aw0
>>587
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、新しい何かに気付く事が大事なのでしょうか?
592
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 12:44:09 ID:ydE4b1w.0
質問です、例えば右足に対して強く自己同一化の観念を持っている人がいるとします、
その人は右足に対する観察だけ忘れていましたがその他の身体部位のほとんどを観察し、それにより
厭離し、最終的には観照が起きて無我に至ったとします。
しかし、右足に対する自己同一化の観念を観察するのを
忘れていたのであれば何か機会があれば自分を右足だと思ってしまうことになる右足に対する自己同一化の観念は残存したままなんでしょうか?
つまり観照が起き、無我になったとしても自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り残り続けるということでしょうか?
そしてそのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?
593
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 12:50:31 ID:ydE4b1w.0
訂正です
× つまり観照が起き、無我になったとしても自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り残り続けるということでしょうか?
そしてそのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?
◎つまり観照が起き、無我になったとしてもそれまでの過程で観察し忘れてしまった自己同一化の観念の残りかすみたいなものは個別に観察されない限り無我に至ったとしても残り続けるということでしょうか?
しかし、そのような観察しそこなった自己同一化の観念も認識を滅してしまえばその他のすべての観念と一緒に
消滅するんでしょうか?
594
:
541
:2017/09/21(木) 18:46:06 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。5年前鬼和尚に宣言した通り、生活を楽にする為に資産を作りました。また、好きなことも片っ端から始めました。哲学も極めた、法学も、宗教も、音楽も、科学も、瞑想も、だが、私は退屈なのです!
595
:
541
:2017/09/21(木) 18:51:36 ID:o7TfOr0I0
あとは、女かな。ハイデガーもアーレントと言う恋人に狂ったそうだが、俺も狂いたい。
596
:
541
:2017/09/21(木) 19:55:00 ID:o7TfOr0I0
でもね。本音を言うと疲れたから寝たいんだよ。
疲れることはしたくないと言うのも本音、美女をつれ回したいのも本音
597
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 19:55:09 ID:DAY232aw0
>>591
スルーしてください。すいません。ありがとうございます。
598
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 20:00:29 ID:t8PlW.qA0
>>589
鬼和尚さん、ありがとうございます。
観察の状況を思考できなくても良いのですね。
観察できているかどうかがいまいちわからなくて試行錯誤なのですが、何となく気づいて、何となく厭離されていくということでも良いのでしょうか?
卑怯な人に対する怒りも、何となく消えてきてしまいました。
親など周りの人の考えもあるし、子供の頃に卑怯な人に出会って恐怖を感じたりしたことなど、いくつかの複合的なものが原因のようで、それらの原因について思い出していたら何だか怒りがなくなってきました。
それに、卑怯さというのも縁による自動的なものだと思えてきました。
でも、苦の場合は、苦が消えることで観察できているかがわかるかもしれませんが、自分を観察するときも、こんなに曖昧で良いのですか?
何だか心許ない感じです。
599
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/21(木) 21:13:15 ID:1d4drIFg0
>>590
そのような理解でよいのじゃ。
それが十二因縁の正確な理解なのじゃ。
苦から自我の観念まで完全に観察する事で全て厭離できるのじゃ。
後は実践在るのみなのじゃ。
>>591
そうじゃ、その心構えが大事なのじゃ。
一日で気付けなくとも日々続けることで自我にも気付くのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>592
そのようなことはないのじゃ。
一度、厭離が起こってしまえばもはや戻らないのじゃ。
自我が観念であると気付いたのであるからのう。
もはや何を観ても無我なのじゃ。
その後に無認識にも至るのじゃ。
>>594
-
>>596
寝たらよいのじゃ。
女子もナンパしたらよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
600
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/21(木) 21:17:00 ID:1d4drIFg0
>>598
それでよいのじゃ。
観察は知識を固定することが目的ではなく、厭離を起こすことが目的であるからのう。
苦が厭離されればそれでよいのじゃ。
気付くことによる厭離の過程は自動的に素早く起こる故に、それ自体を認識するのは困難なのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
601
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 21:32:04 ID:czRftzgI0
>590
どうやら理論的な理解はこれでいいようで安心しました。所詮頭でわかっただけなので、実感できるよう瞑想に励みたいと思います。
面倒な質問にお付き合い頂きありがとうございました
602
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 21:44:01 ID:DAY232aw0
>591.>597ご回答ありがとうありがとうございます。わざわざすいません。実践して行きます。
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