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鬼和尚に聞いてみるスレ part8

499としぼっくり:2017/03/11(土) 12:12:22 ID:DAY232aw0
鬼和尚すいません。
 そのような者のために方法が必要なのじゃ。
とは一体どの様な方法ですか。

500としぼっくり:2017/03/11(土) 16:01:55 ID:DAY232aw0
もう一つ質問で申し訳ないのですが、
心身を観察したり、自分を追求するのは、
自分の本心を観察していないとできないのでしょうか?

501避難民のマジレスさん:2017/03/11(土) 17:38:16 ID:GXTFMGi.0
493です。そうなんですか、でも仮にでも自我がないと生活できないってのは、その仮の自我
というのは一種のカルマとして手放す必要のないものなんですか?

仮にでも同一化の観念であるならそのままにしておくのは少し気が引けるような気がします。

502避難民のマジレスさん:2017/03/11(土) 18:28:24 ID:pgFZqdGU0
鬼和尚様
禅って、最初から認識(阿頼耶識)だけを相手にしてるような気がしますが、違いますか?
だからこそ、シンプルではあるが、逆に難しくもあるという、そんな気がしたのですが。

503鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/11(土) 22:42:38 ID:1d4drIFg0
>>495 認識と気付きは違うものじゃ。
 認識に依って気づきはあるのじゃ。
 ものごとの真実にたどり着いた時に気付いたと人はいうのじゃ。
 認識は間違っていても認識なのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

>>496 1 そうじゃ、集中した後に観察すると善いのじゃ。

 2 自我を思い出してよいのじゃ。
   それをも観察するのじゃ。
 意志や思考が働いても自我は忘れたままで居ることもできるのじゃ。

 3 忘我とはサマーディーの要件の一つなのじゃ。
  我を忘れるほどの強い集中状態をサマーディーと呼ぶのじゃ。

>>497 そのようなものじゃ。
 知識では語れないからズバッとかいうのじゃ。
 伝えようとする言葉がたりないがのう。

>>498 それはおぬしが定義するそのままのものが己なのじゃ。
 おぬしが自分というものをどのように定義しているかでなにものであるかわかれるのじゃ。
 例えば肉体は自分で操ることが出来るから己であるとするならば、操るものが己じゃろう。
 感じるもの全てが己ならば、感じるものが己じゃろう。
 それらの主体が己であると認識するならば、主体が己じゃろう。
 それらを全て記憶するものが己であるとするならば記憶が己じゃろう。
 自分が何をもって己としているのか観察によって見極めるのじゃ。

504鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/11(土) 22:48:28 ID:1d4drIFg0
>>499 お釈迦様や目覚めた者たちが説いた方法なのじゃ。
 瞑想とか観察とか観想とかなのじゃ。
 全ての修行法はありのままに本心を観ることが出来無い者のための方法なのじゃ。

>>500 そうじゃ、本心を観なくては何もならないのじゃ。
 本心でなければ偽りの心を観ていることになるからのう。
 偽りの心を観て悟ったとか言っても全て嘘なのであるから何にもならないのじゃ。

>>501 そうじゃ、カルマも自らの心から来る観念による報いを説明するために創られたものであるからのう。
 既に観念を離れたものには無いのじゃ。 
 
>>502 禅でも己を見ることが大事なのじゃ。
 見性というのも己の性質をみることであるからのう。
 それ故に推奨されるのじゃ。

505避難民のマジレスさん:2017/03/11(土) 23:14:14 ID:Mv1H2QeE0
>>503
鬼和尚さん、ありがとうございました。
ようやく忘我と観察についてわかってきました。
まずはとにかく瞑想して集中の練習をします。
またわからないことが生まれてしまったら教えてください。
いつもありがとうございます。

506としぼっくり:2017/03/11(土) 23:19:50 ID:DAY232aw0
二つも質問お答え下さりありがとうございます。
質問ですが、
自分を追求する時は、自分の本心を観察する様にしていれば良いという事ですか?

507481:2017/03/12(日) 07:33:05 ID:3L2ZJjcQ0
鬼和尚、ありがとうございます。

「気づきがあった」の気づきではなく、よく「私という存在は気づきである」とか言いますよね。
そのニュアンスの「気づき」は認識のことを指しているのかと思いましたが…あまり違う言葉を用いると混乱しますのでやめます。すみません。
認識は認識で統一します。

ところで阿頼耶識を厭離する具体的な観察ですが、
何かを見てそれを解釈する瞬間を観察すればよいでしょうか?
思考が解釈を起こすのだと思っていましたが、観察していたところ既に思考の前に見たものを判断しているように思えます。
花を見たら「花だな」という思考のラベル付け以前に花だと判断しているような…、
それが認識なのかなと。

508鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/12(日) 20:11:17 ID:1d4drIFg0
>>505 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>506 自分を追及する時にも本心を観察しなければならないのじゃ。
 うその自分を追及しても何の意味もないのじゃ。
 自分とは何か本当に感じていることを追求すれば本心を観察して自分を追及していることになるのじゃ。

>>507 そのような言い回しは気付くことに主体を投射しているのじゃ。
 
 そのように観察できればよいじゃろう。
 思考の前に分別や認識はあるのじゃ。
 認識されたものを思考しているのじゃ。
 認識できないものは思考できないのじゃ。
 思考は認識に依ってあるものであるからのう。

509蓮恵:2017/03/12(日) 21:40:05 ID:/840N4pM0
>>503
禅僧は良くも悪くも体験主義な面があるのでしょうか、ですから、ズババッと勢いで表現してしまいますね
自分のような人間にとっては、和尚さまのように知識で解説してくださるかたに会えて幸運だったと思います

510481:2017/03/12(日) 21:59:10 ID:FpZPAQus0
>>508
鬼和尚、何度もありがとうございます。

確かに認識がなければ、思考もない。
認識があるからこそ思考も存在できるんですね。

ということは、認識が思考を作っていると言えるのかと思います。
認識がなければ、そもそも思考も存在しませんからね。
などと悟ったようなことを言ってみましたが、相変わらず認識だけを捉えるのはなかなか難しいものです。

しかし確かに思考を一切しなくとも花壇の花を「花」と認識しています。
しかし認識の作用する瞬間と言いますか、認識が立ち上がる瞬間が見えない。
これが観れれば、私という観念が立ち上がる瞬間も観れるはず。
一日二日で観れるものではないと思いますので焦らず注意してみます。
ありがとうございます。

511蓮恵:2017/03/12(日) 23:09:02 ID:/840N4pM0
和尚さま
ある物Aが消滅したとして、一なる境地た立てばこの消滅でさえ、ものの顕れ、演出、体験の一つにしか過ぎないのですか。
これが正見であり、法なのだとすれば、この法を思うと狂気に近いものを感じるのです。
この法を念じて修行すれば、我が跡形もなくぶっ飛ぶのが目に見えているから、実際に恐怖を感じます。

まさに鬼じゃ。です。

512としぼっくり:2017/03/13(月) 06:03:40 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分の本心を観察して、自分を追求して行こうと思います。

513避難民のマジレスさん:2017/03/13(月) 14:08:17 ID:GXTFMGi.0
501です。その「仮の自我」が作られる段階というのはどこらへんなんでしょうか、

無我に至る→直後に仮の自我が生成される→認識を観察する→無認識に至る

位置づけ的にはこんな感じですか?違ってたらどの段階で仮の自我が生成されるのか
教えていただけると助かります。

514避難民のマジレスさん:2017/03/13(月) 17:57:18 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
仏教の三法印の一つに「諸行無常」があるから、認識を滅した後にある絶対不変の何かのようなのようなものを説くのは
仏教じゃないと言う意見がありますが、どうなのでしょうか

515鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/13(月) 21:48:27 ID:1d4drIFg0
>>509 善かったのじゃ。
 チャンスを逃さず実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>510 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>511 それでよいのじゃ。
 自我か消えると思えば誰でも恐れを生じるものじゃ。
 それを超えてこそ悟りもやってくるのじゃ。
 恐れを乗り越えて進むのじゃ。

>>512 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

516鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/13(月) 22:00:28 ID:1d4drIFg0
>>513 それは段階ではないのじゃ。
 悟った後に他人と話すためにつくるものなのじゃ。
 悟っても他人に教えを説かない者はつくらないのじゃ。
 無為のまま涅槃に至るのじゃ。

>>514 諸行無常とは修行者に世間の虚しさを教えるために説かれたものじゃ。
 それもまた固定した観念として受け取るべきではないのじゃ。
 いかだの例えにあるように悟りに至るには法をもいずれは捨てるべきなのじゃ。
 そしてお釈迦様も法を超えた不死の境地を説いたのじゃ。

517としぼっくり:2017/03/13(月) 22:55:05 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、まとめてみたんですが、
集中の行で、数息観して、
観察の行で、自分の本心を観察して、
心身を観察するか、自分を追求していれば
自我が観られる、自我に気付くという事でしょうか?
あと、数息観の時は、
呼吸を数えるよりも、呼吸に集中する事を意識した方がよろしいのでしょうか?

518避難民のマジレスさん:2017/03/13(月) 23:27:35 ID:GXTFMGi.0
513です。
その「仮の自我」っていうのは無認識まで至らないと自ら作ろうとしても作れないんでしょうか?
つまり、無我に至っただけでは「仮の自我」を作ろうと思っても作れませんか?

519鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/14(火) 21:32:51 ID:1d4drIFg0
>>517 それでよいのじゃ。
 呼吸に集中するために数えるのじゃ。
 呼吸に集中できるようになったならば数えなくとも善いのじゃ。 
 実践あるのみなのじゃ。

>>518 無我でもつくれるじゃろう。
 意味は無いがのう。
 悟った者が他人に話をするためにつくるものなのじゃ。 
 無我ではつくる意味も無いものじゃ。

520としぼっくり:2017/03/14(火) 22:00:57 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
実践して行こうと思います。
また何かわからない事があればすいませんがよろしくお願いします。

521としぼっくり:2017/03/15(水) 11:24:18 ID:DAY232aw0
>>519のそれでよいのじゃとは、まとめたことがそれで良いということですか?

522避難民のマジレスさん:2017/03/15(水) 15:59:07 ID:R2VeAlFU0
鬼和尚!
写経はよいものですか?修練の一環になりますか?とても興味があります

523避難民のマジレスさん:2017/03/15(水) 17:11:57 ID:4M/dQBfY0
鬼和尚さま

この方は認識を滅して大悟徹底していると思われますか。
http://dharma-winds.net/%E6%91%82%E5%BF%83%EF%BC%88%E6%8E%A5%E5%BF%83%EF%BC%89%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98/%E3%81%82%E3%82%8B%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%83%A7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%82%9F/

この方がまだ大悟徹底していないとするとこれはどういう段階でしょうか。

また大悟徹底していないとすると何が足りないのでしょうか。
それはこの記述のどのあたりからわかりますでしょうか。

自分からするとこの方は記述の内容から認識を滅して大悟徹底しているように思えたのですが、
自分も悟っていない身ですのでわかりません。
記述も詳細で自分の参考にしたいと思いましたのでお聞きしました。
よろしくお願いします。

524蓮恵:2017/03/15(水) 17:13:39 ID:hu.n.GIQ0
和尚さま
最近、自分の注意力に気づけるようになりました
恥ずかしながら、煩悩の多い(笑)私には異性に対する注意力が大きく働いており、視界と聴覚の情報から女の情報が見つかれば情報を集めるために集中し、女の情報が見つからなければ不要な情報として捨てるというような感じでした(笑)

525避難民のマジレスさん:2017/03/15(水) 17:46:11 ID:GXTFMGi.0
>>519

でも「仮の自我」って意図的に作ろうとしないと作れないんですよね、いざ自分が仮の自我を
作るか作らないかの分岐点に立った場合ちゃんと作れるかわかりません、作る方法もさっぱり
わかりませんし、具体的にどうやってそれを作るんですか?詳細な手順を教えてください。

526避難民のマジレスさん:2017/03/15(水) 18:37:12 ID:czRftzgI0
和尚さん、私は大悟どころかサマーディも未経験です。HPには自分を観察し尽くして座る理由がなくなった時禅が始まるとあります。ということは私はまだ観察によって執着を取り切れていないということでしょうか。

527鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/15(水) 21:35:25 ID:1d4drIFg0
>>520 こちらこそよろしくなのじゃ。

>>521 そうじゃ、そのまとめでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>522 集中の役には立つじゃろう。
 好きなことはどんどんやったらよいのじゃ。
 努力は無駄にならないのじゃ。

>>523 悟っていないのじゃ。
 サマーディを経験しただけなのじゃ。
 普通に自我もあるのじゃ。
 みんな自分と言っているのじゃ。
 自分が無ければみんな自分も無いのじゃ。
 
>>524 善かったのじゃ。
 それも見性なのじゃ。
 自分の性質が見えたのであるからのう。
 更に精進あるのみなのじや。

528鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/15(水) 21:46:02 ID:1d4drIFg0
>>525 それも言葉とイメージによる観念なのじゃ。
 自分の名前とイメージを使っているならば自然に慣れてくるものじゃ。
 特に作り方がある訳ではないのじゃ。む

>>526 執着があるのかもしれん。
 ただ単に姿勢が悪いからかもしれん。
 座っていられる限界近くまで力を抜くと誰でもサマーディに入れるものじゃ。
 そのためには姿勢が正しくなければならんのじゃ。
 姿勢が正しくないと力を抜いたら倒れてしまうからのう。
 姿勢をよく研究してみるのじゃ。

529523:2017/03/16(木) 01:38:42 ID:4M/dQBfY0
>>527
お答えありがとうございます。

なるほど
みんな自分という認識は自他同一で自分という認識がないのかと思いましたが、
みんな自分という認識(自分、自我)があるということでしょうか。

そのあたりの認識が滅っせられると、和尚さまの言う全て意識とか、
鈴木大拙や井上ぎえんが無限や宇宙と言ったような表現になるのですかね。

そうなるとクリシュナムルティが悟ったと言われているときの体験の描写、
以下のようなものも、この時点ではまだサマーディで、
悟ったのはこのあと認識を滅したからということになるのでしょうか。

「やがて八月十七日になると、私は首筋に激しい痛みを感じ、瞑想を 十五分に短縮しなければならなくなった。
私の容態はどんどん悪化し、 ついに十九日にそのクライマックスに達した。
私は考えることも、何 をすることもできずにベッドに横になった。
やがて私はほとんど無意 識状態になったが、まわりで起こってることはよくわかった。
私は毎 日正午頃には正気に返った。
最初の日、自分がそんな状態で、いつも より周囲のものがはっきり意識に入ってるときに、私は最初の最も不 思議な体験をした。
道を補修している人がいた。その人は私自身であった。
彼の持ってい る(つるはし※傍点が付されてあります)も私自身であった。
彼が砕 いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私そのものであ った。
私のそばの木も私自身であった。私はほとんどその道路補修工 のように感じたり考えたりできた。
私は木々の間を通り抜ける風を感 じ、草の上にとまった小さな蟻を感じることができた。
鳥や、ほこり、 さらには騒音までもが私の一部であった。ちょうどそのとき、少し離 れたところを車が通っていった。
私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。
自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。
私はす べてのなかにあり、というよりはすべてが――無生物も生物も、山も 虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった。」

530避難民のマジレスさん:2017/03/16(木) 05:15:30 ID:GXTFMGi.0
525です。
特に作り方がある訳でもない、ですか、、しかし自ら意図しないと作れないんですよね、
どうやって仮の自我ができあがるのかのプロセスをもう少し詳しく教えていただけない
でしょうか?

531避難民のマジレスさん:2017/03/16(木) 09:18:15 ID:axbVFonA0
痔です。
瞑想中、尻が痛くて数分毎に姿勢を微調整しなければならず集中が途切れます。
何か良い方法はありますか。

532避難民のマジレスさん:2017/03/16(木) 17:21:47 ID:czRftzgI0
触覚による肉体の乖離について色々考えた結果、出た結論は以下の通りです。
背中と考えているものは、背中に服が触れる時に生じる感覚と他人の背中の視覚記憶を元に作り出したイメージである。つまりその実体は記憶と感触であり、経験の対象ないしは客体であって主体ではない。
どうでしょうか?

533避難民のマジレスさん:2017/03/16(木) 17:30:30 ID:czRftzgI0
(訂正)
Xその実体は記憶と感触 → Oその実体はイメージの記憶

534鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/16(木) 21:58:15 ID:1d4drIFg0
>>529 そうじゃ、まだ自分という観念が残っているのじゃ。
 その投射する所が違うだけなのじゃ。

 クリシュナムルティもその時にはまだ悟っていなかったのじゃ。
 
>>530 例えば自分の名前が呼ばれたらそれを自分が呼ばれたとして返事をするとかなのじゃ。
 自分のイメージも度々思い出したりするのじゃ。
 そうすれば慣れてきて自分の観念を上手く使えるようになるのじゃ。

>>531 治るまで横になってやってもよいのじゃ。
 しりのマッサージをするとかするとよいのじゃ。
 温冷浴などもよいのじゃ。
 治ってからやわらかい座布団などをして座ると善いのじゃ。

>>532 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践にょって証明するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

535蓮恵:2017/03/16(木) 22:16:05 ID:P0oV4erc0
和尚さま
悟りを開くとはつまるところ、無我と無常の法をズバッ(笑)と体験し、無我無常を完全に理解することと言えるのではないのでしょうか
そのために止観で認識を破壊するという感じでしょうか

536523 529:2017/03/16(木) 23:00:03 ID:4M/dQBfY0
>>534
お答えありがとうございます。
納得できる部分もあり聞いてよかったです。
あとは知識としてではなく体得できるようにお答えを参考に地道に精進したいと思います。
ありがとうございました。

537避難民のマジレスさん:2017/03/17(金) 10:09:08 ID:GXTFMGi.0
530です。なんだか仮の自我を作ることはお聞きする限り結構簡単そうですね、
私はもっと複雑で難しいプロセスを必要とするのかと思っていましたが、
本当にそんな簡単なものなんですか?

538避難民のマジレスさん:2017/03/17(金) 18:40:48 ID:czRftzgI0
>>532
実践します。ありがとうございました

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/17(金) 22:40:48 ID:1d4drIFg0
>>535 無常は別に要らないのじゃ。
 それは世間を捨てるための法であるからのう。
 無我になり、無認識に至れば大悟徹底なのじゃ。
 止観もそのための法なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>536 どういたしまして、またおいでなさい。

>>537 そうじゃ、観念を持つだけであるから簡単なのじゃ。
 ものごとに名前とイメージをもてばそれが観念であるからのう。
 無意味とわかっていても観念をもつことはできるのじゃ。

>>538 そうじや、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

540避難民のマジレスさん:2017/03/18(土) 02:32:48 ID:GXTFMGi.0
>>537です。

ということは無我になった瞬間、(無認識になった後じゃないとダメでしょうか?)そのまま
肉体を動かさないで至福のまま死んでいくことを選択しても良いし、あるいは教えを説く目的で
この世界に残る選択をするなら、「よし、自分の名前や自分についてのイメージを思い出そう」みたいな感じで自ら意志して仮の自我を作る
、このような流れで仮の自我は作られるのでしょうか?

541避難民のマジレスさん:2017/03/18(土) 03:38:13 ID:ypqmFy8U0
鬼和尚、私を覚えていますか。
以前は、大変な無礼をしてしまって申し訳ありませんでした。
私はどうすれば良いのでしょうか。
私をお導きください。

542鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/18(土) 21:56:55 ID:1d4drIFg0
>>540 無我でも観念はあるからそのまま死なないのじゃ。
 無認識になった後に教えを説くならばそうなるじゃろう。
 実践によって証明するのじゃ。

>>541 全て忘れたのじゃ。
 懺悔告白すれば全て許されるのじゃ。
 これからは善事を積むとよいのじゃ。
 更に悟りを求めて修業するとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

543避難民のマジレスさん:2017/03/19(日) 12:23:31 ID:ypqmFy8U0
>>542
はい、みんなに感謝し懺悔し感涙し、悟りを目指そうと思います。
それまで、菩薩道を歩もうと思います。

544鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/19(日) 21:32:03 ID:1d4drIFg0
>>543 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

545避難民のマジレスさん:2017/03/19(日) 22:23:04 ID:GXTFMGi.0
>>540です。

でも、無我のままでは生活できないって以前鬼和尚が書いてらっしゃったのを
見たと思います。(もし書かれてないのであれば申し訳ありません。)

生活ができないほどになるのであれば、そのまま死ぬことも不思議ではないと思いますが?
例え、観念が残っていたとしても。

546545:2017/03/19(日) 22:27:21 ID:GXTFMGi.0
訂正です

× 生活ができないほどになるのであれば

〇 生活ができないほどに何もできない状態になるのであれば

です、よろしくお願いします。

547避難民のマジレスさん:2017/03/20(月) 10:27:42 ID:tHj0j65Y0
わざと顔を火傷した美女
http://www.epochtimes.jp/2016/01/25103.html

548鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/20(月) 21:46:16 ID:1d4drIFg0
>>545 無我になればむしろものごとはうまくやれるようになるのじゃ。
 自我の邪魔がないからのう。
 実践によって確めるのじゃ。

549としぼっくり:2017/03/20(月) 22:15:18 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
3年で悟りを得ようと思えば、1日にどれくらいの時間、瞑想した方がよろしいでしょうか?

550鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/21(火) 20:36:14 ID:1d4drIFg0
>>549 それは人によって違うじゃろう。
 意欲や才能も違うからのう。
 お釈迦様は七日間座り続けて悟ったのじゃ。
 悟りを得るためならば命も要らないという熱意で座れば七日で十分なのじゃ。
 自らの熱意によって決めるのじゃ。

551としぼっくり:2017/03/21(火) 20:57:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分の熱意で決めようと思います。

552避難民のマジレスさん:2017/03/22(水) 09:37:20 ID:8VTqO4V.0
鬼和尚、自由意思について質問です。
ここで質問するような内容ではないとは思いますがご容赦下さい。

私は以前、自分には自由意思はないという気づきを得ました。
自由意思は無い、と言うと決定論が思い出されます。
お釈迦様は決定論を否定されたとのことですが、私はこの仏陀の否定に頭を悩ませました。
しかし最近、「自由意思はあると言えばある」という考えになってきています。

現象が起こる根本的な仕組みやルールはどうしようもないですが、「認識」によって様々な現象をコントロールできるのではないかと考えています。
ゲームのルールは変えられませんが、その縛りの中で自由に活動することはできる。
その仕組みを知り、あえてその中で生きるのが悟った方なのかなと思いますが、鬼和尚は自由意思についてどのようなお考えでしょうか。

553避難民のマジレスさん:2017/03/22(水) 17:43:47 ID:/LtJi/2c0
鬼和尚さん

鬼和尚さんはよく「自分の本心を見ないで悟った人はいない」ということを言っていますが、それはどういう意味なのでしょうか?
自分の自我を見るためには、自分に隠している部分があると、自我をすべて見ることができないので、悟れないということですか?
それとも、自分に隠している部分があると、人間はどうしても自我が見られない構造になっているのですか?

554蓮恵:2017/03/22(水) 21:45:08 ID:hu.n.GIQ0
和尚さま

動中の工夫とはいかなるものでしょうか

555鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/22(水) 21:47:54 ID:1d4drIFg0
>>551 そうじゃ、自らの意志で決めるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>552 そうじゃ、人は条件付けなどで自由意志がかなり制限されているのじゃ。
 しかしよく考えて道を選ぶことも出来るのじゃ。
 大体2%ぐらいは自由意志はあると考えてよいのじゃ。
 真実を受け入れて学べば環境や条件付けに左右されずに自分の意志を発揮できるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>553 自我の全てをみなくてよいのじゃ。
 それは瞑想によるサマーディで悟ったとしても、やはり自我を観て悟っているという意味なのじゃ。
 自我の働きを全て観なくとも厭離は起こるじゃろう。
 それが自分ではなく、自動的に起こる観念に過ぎないと気付けば善いのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

556避難民のマジレスさん:2017/03/22(水) 23:51:46 ID:/LtJi/2c0
>>555
鬼和尚さん、553です。
理解できました。
ありがとうございました。

557避難民のマジレスさん:2017/03/23(木) 00:05:19 ID:4.ICUonI0
>>555
ありがとうございます。

約2%とはかなり具体的であり、かつほとんど自由意思がなさそうな印象ですね笑

悟り一歩手前の話なのかもしれませんが、人は今この瞬間、認識という選択権を持っているように思えます。
それが約2%の部分なのかもしれません。
物事に対する認識、選択によって如何様にも道筋をざっくりですが変えられる。
それさえも自由意思ではなくすでに決定されていたと言われればそれまでなのですが…。

そのような認識や選択さえも超えたところに悟りがあると思いますが、私はあえて意識の創り出す現実という夢を楽しみたいと最近思うようになってきました。
またいつ悟りへの情熱が噴出するかわかりませんが、しばらくはこのままでいてみようと思います。
お答え頂きありがとうございました。

558鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/23(木) 21:34:14 ID:1d4drIFg0
>>556 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>557 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

559としぼっくり:2017/03/23(木) 23:19:20 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
心身を観察するのも、自分を追求するのも、自我に気付くと言う目的を持って、行った方がよろしいでしょうか?

560163:2017/03/24(金) 08:22:28 ID:6ZZgOq8Y0
鬼和尚様、こんにちは。
良寛は悟っていますか?

561避難民のマジレスさん:2017/03/24(金) 08:48:29 ID:6ZZgOq8Y0
また、鈴木正三は悟っていますか?

562避難民のマジレスさん:2017/03/24(金) 18:43:40 ID:czRftzgI0
空の法の「りんごというものが、実はりんごではないとすれば、りんごの認識は止まる。
しかし、りんごで無いならば、他のものであるという認識もできる。
それを止めるには、さらにりんごでないものが、それ故にりんごであると観じる。
そうすれば認識の働きは、逃げ道がなく、止まる事になる。」の意味についてお伺いします。

りんごをりんごでないものと見た後、そのりんごでないものを再びりんごと見ることでどうして認識が止まるのですか?結局りんごをりんごと見ていることに変わりはないのではないですか?
特に「さらにりんごでないものが、それ故にりんごであると観じる」の意味がわからないので、よろしくお願いします。

563蓮恵:2017/03/24(金) 19:36:12 ID:QZjWADYU0
和尚さま
>>554をお願いします

564避難民のマジレスさん:2017/03/24(金) 22:53:01 ID:XxxP/YTE0
和尚、ごぶさたしています。
仏教関連で必読というかこれは読んどけというもの1冊(多数あるなら何冊でもよいです)勧めてくださいませんか。

565鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/24(金) 23:04:47 ID:1d4drIFg0
>>559 そうじゃ、そうしていれば向こうから悟りはやってくるじゃろう。
 自分に気付くのじゃ。
 観ようとすれば観えるのじゃ。

>>560 悟っていたじゃろう。
 死ぬときは死ぬが善いのじゃとかいっていたのじゃ。
 その通りじゃ。

>>561 悟ってはいないようじゃ。
 学者じゃな。

>>562 それが認識を壊すからなのじゃ。
 記憶による認識はものごとを記憶と照らし合わせて分別するのじゃ。
 これは赤いからりんごとかのう。
 あかくてもりんなごではなく、りんごでないからりんごとすれば分別は混乱をきたして認識は止まるのじゃ。
 それは認識の仕組みに基づいて創られた方法なのじゃ。
 理解は出来なくて当然なのじゃ。
 思考の元となる認識を混乱させるのであるからのう。
 理解してはいかんのじゃ。
 常に認識を混乱させる方法として実践するのみなのじゃ。

566鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/24(金) 23:10:00 ID:1d4drIFg0
>>563 動中の工夫とは日常生活でも集中することなのじゃ。
 掃除でも洗濯でも常に心がけて集注していれば進歩も早いというのじゃ。
 観察も日常でやれば早いのと同じことなのじゃ。
 日常の一切が修業となるのじゃ。

>>564 法句経、ダンマパダをよむとよいのじゃ。
 わからなくとも読み返せば理解できるようになるのじゃ。
 古本で買うとやすいのじや。

567としぼっくり:2017/03/25(土) 00:15:45 ID:DAY232aw0
>>565ありがとうございます。
自分に気づくように心がけたら良いと言うことでしょうか?

568避難民のマジレスさん:2017/03/25(土) 07:42:42 ID:XxxP/YTE0
>>566
和尚、ありがとうございますいます!
すぐに手に取ります。読み終えたら次の一冊また聞くやもしれませぬがよろしくお願いします!

569避難民のマジレスさん:2017/03/25(土) 08:46:05 ID:czRftzgI0
>>562
なるほどそういうわけでしたか。これは直接聞く以外に知りようのなかったことで、その機会が与えられる和尚さんの存在のありがたさと自分の幸運を改めて認識しました。
どうもありがとうございました

570としぼっくり:2017/03/25(土) 11:13:13 ID:DAY232aw0
すいません>>567スルーして下さい。
ありがとうございます。
自分に気付くのじゃ。とは
自分に気付けば良いと言うことですか?

571避難民のマジレスさん:2017/03/25(土) 17:06:47 ID:6ZZgOq8Y0
>>565
ありがとうございます。では、良寛の書いたものを読むことは悟りに役立ちますか?
もし役立つのなら、おすすめの本はありますか?
私は悟ることが人生の目的です。

572鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/25(土) 20:47:35 ID:1d4drIFg0
>>567>>570 そうじゃ、自分に気付くのじゃ。
 自分とは何か?
 何を自分と認識しているのか観察によって気づくのじゃ。
 それだけで変容は始まるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>568 そうじゃ、読んでみるとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>569 どういたしまして、またおいでなさい。

>>571 あまり役には立たないじゃろう。
 修行法を書いたわけではないからのう。
 ありのままの詩歌が多いのじゃ。

573としぼっくり:2017/03/25(土) 21:34:00 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か?追求すれば良いと言うことでしょうか?

574避難民のマジレスさん:2017/03/26(日) 11:13:02 ID:R./ZkTe.0
鬼和尚、481です。
こんにちは。

しばらく観察してみましたが、認識を観ることについて糸口が掴めずにいます。

認識を観察するについてですが、
例えば音を聞こうとした時、本当は「音」という認識と、「私」という認識がそれぞれ起こっており、「音」→「私」と意識が切り替わっています。
この認識が繋がり「私が音を聞いている」という分離の幻想が出来るているのかと思います。
ここまではわかりました。

今のところ、意識が音を捉えた瞬間には既に「音」として認識しているように思えますが、認識が厭離されると音を音として認識しなくなるということですよね?
音を認識した直後に「音だ」と言う思考は捉えられてはいるのですが、その一歩前の音を音と認識する瞬間がわかりません。
何かアドバイス頂けると幸いです。

575鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/26(日) 21:38:45 ID:1d4drIFg0
>>573 そうじゃ、自分とは何か観察してみるのじゃ。
 そうすれば悟りはやってくるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>574 その私が起こることをよく観察してみるのじゃ。
 それが観察できれば私が滅するじゃろう。
 無我によって認識も観察できるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

576としぼっくり:2017/03/27(月) 00:24:36 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か観察して行こうと思います。

577481:2017/03/27(月) 00:47:57 ID:JtkEeVqo0
鬼和尚、ご返信ありがとうございます。

私が立ち上る瞬間を観るということですね。

音を認識した直後に、「それを聞く者」として私がイメージされます。
私の場合、ざっくりと「こちら側」だったり、頭の中心の筋肉の収縮感に「私」を投射しているようです。
またこれは非常に微かで瞬間的なイメージであることも捉えています。
そこがわかると、頭の中心には「私」の中心や、音を聞いている者いうものはないことがわかります。

しかし、これが認識を捉えた瞬間なのでしょうか?
相変わらず思考を捉えているように思えるのですが…。
それともこの無我を維持しつつ観察をしなければわからないところなのでしょうか?

578避難民のマジレスさん:2017/03/27(月) 02:30:29 ID:xETinsKE0
F1レーサーであった故アイルトンセナはあるレースで自分がマシンを操縦しているのを
ふと気が付くと体から離れて上から観察していたという有名な話があります。
小説家もいわゆるライターズハイになるとまるで自分以外の何かが勝手に
物語を書いているような感覚に陥るということですね。

これは集中力が極限に高まると起こるみたいなのですが
なぜ集中力が増すとそのような現象が起こるんでしょう?
これが瞑想の数息感と同じ効果ということなんでしょうか?

私以外の何かが常に自分を観察しているが普段は気づけない
集中力が高まるとそれを感じることができやすいということですか?

579鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/27(月) 21:28:15 ID:1d4drIFg0
>>576 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>577 認識は捉えていないのじゃ。
 私が観えるならばそれを更に詳しく観察するのじゃ。
 そうすれば自然に無我になるじゃろう。
 認識は私が消えた時に観えるようになるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>578 それは意識が拡大したからなのじゃ。
 普段肉体とか思考などに限定されていた投射が弱まるからなのじゃ。
 瞑想によるものと同じなのじゃ。
 そのようなものじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

580481:2017/03/27(月) 22:46:51 ID:52V0SuOc0
鬼和尚、
なるほど、無我になればわかる時がくるのですね。
社会生活を送っているとなかなか難しいなと感じますが、できる限り一日中観察に集中してみます。
ありがとうございました。

581避難民のマジレスさん:2017/03/28(火) 01:30:24 ID:lf.lkoB20
和尚、法句経を勧めていただいた者です。
この本が聖書や論語レベルで重要なものだと訳者の説明でわかりました。
喩えがどれも秀逸で思わず膝を叩くようなこともしばしば、心が洗われるようです。
読中ですが感動したのでまずご一報をと思いまして。何度も読み返そうと思います。

582避難民のマジレスさん:2017/03/28(火) 01:43:49 ID:DIiPmWc60
はじめまして、鬼和尚さん。

いつも鬼和尚さんの記事を拝見しとても参考にしております。

今回は、修行の実習における苦の区別についてお伺いします。

2009年4月の記事では、苦の観察の実修について記されています。

そして、苦は因により生じ縁により起き、苦が次々に起き増大し、それに自我を投影して終わるという結果までが一連の展開で、これを順番に観察していくのが順観、逆から順番に観察していくのが逆観とされております。

しかし、自分が今観察して発見した苦について、苦は様々な段階で発現するので、どの苦に該当するかの区別がつきません。

ひいては苦の順観や逆観も不可能であるように思われるのですが、なにか良い方法はないものでしょうか。

ご教授お願いします。

583避難民のマジレスさん:2017/03/28(火) 02:06:20 ID:PlRl0u560
>>579
集中が高まると自我への投射が弱まる ということですか
ありがとうございます

584としぼっくり:2017/03/28(火) 15:06:41 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
悟りを得るためには、タバコをやめた方が良いのでしょうか?

585鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/28(火) 21:18:21 ID:1d4drIFg0
>>580 どういたしまして、またおいでなさい。

>>581 そうじゃ、善いものじゃ。
 どんどん読むと善いのじゃ。
 またおいでなさい。

>>582 それは観察方法の一つに過ぎないのじゃ。
 縁起によって苦を全体的に観察する方法なのじゃ。
 それが困難ならば別の方法で観てよいのじゃ。
 五つの心身の要素を観る時のように、苦を分解して詳細に観察する方法でもよいのじゃ。
 苦の要素を幾つも分解してみるのじゃ。
 或いは苦が起こり消えるままにしておくのもよいのじゃ。
 いろいろ試してみると善いのじゃ。

>>583 そうじゃ、実践によって確めるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>584 無理に辞めなくてもよいのじゃ。
 それに囚われてしまうからのう。
 健康とかもっと集中したいからという理由でやめたくなったらやめたらよいのじゃ。
 自由なのじゃ。

586としぼっくり:2017/03/28(火) 21:29:34 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
スッキリしました。
タバコ吸いながらでも修行続けて行こうと思います。ありがとうございます。

587582:2017/03/29(水) 01:30:32 ID:DIiPmWc60
ご助言ありがとうございました。

逆観のような難易度の高い観察方法にあまり囚われず、かといって、
考えなしに観察はせずに、単純な観察を手を抜かずに丁寧にやって
いこうと思います。

588鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/29(水) 22:11:38 ID:1d4drIFg0
>>586 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>587 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

589避難民のマジレスさん:2017/03/30(木) 14:55:01 ID:UATLzvCM0
むのうしょうげんという方は悟ってましたでしょうか?本は面白かったです

590避難民のマジレスさん:2017/03/30(木) 20:46:17 ID:kV7xIwD.0
鬼和尚さん、感覚が自分ではないということは、どうすればわかりますか?

591鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/30(木) 21:47:58 ID:1d4drIFg0
>>589 悟っていないのじゃ。
 行者じゃな。

>>590 それは観察をすればわかるのじゃ。
 目や耳や鼻や舌やひふの感覚についてそれぞれ詳細に観察すれば、それが自分ではないと気付くじゃろう。
 仏教ではそれらと心の感覚について六の感覚器官とそれぞれの感覚について観察するようにと教えているのじゃ。
 目と目による視覚について観察する。
 耳と耳による聴覚について観察するというようにのう。
 実践あるのみなのじゃ。

592避難民のマジレスさん:2017/03/31(金) 13:00:01 ID:ZmtoUYNs0
>>591
鬼和尚さん、ありがとうございます。

さらに教えてください。
とくに触覚の観察方法についてなのですが、例えば、手を動かして、物に触った時、その感覚はどう観察すれば良いですか?
触った時、同時に自分が存在していると感じるのですが、触った瞬間に感じることを詳しく観察すれば良いのでしょうか?
どうすれば、物に触った感覚と自分の存在を切り離すことができますか?

593避難民のマジレスさん:2017/03/31(金) 17:06:12 ID:czRftzgI0
身体の乖離は手を手と認識しないことなのか手を自分のものと認識しないことなのかどちらですか?
考えているうちにわからなくなりました。

594としぼっくり:2017/03/31(金) 21:34:52 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
瞑想の時間は、出来る範囲で良いのでしょうか?

数息観は20分ぐらいで良いのでしょうか?

595鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/31(金) 21:45:39 ID:1d4drIFg0
>>592 者に触ったら物に触ったと観察すればよいのじゃ。
 触らなくなったら触らなくなったとありのままに観察するのじゃ。
 感じることがあればそれもありのままに観察すればよいのじゃ。
 切り離さなくてよいのじゃ。
 触ったときに自分の存在を感じるとありのままに観察するのじゃ。
 そうすれば自分の存在は自然に厭離されるのじゃ。
 切り離そうとか、切り離さなくてはならないとか、そのように思っていると観察は不完全になり、厭離も起こらないのじゃ。
 自分が感じられるのならばそれら全てをありのままに観察するのじゃ。

>>593 おぬしが感じられるままなのじゃ。
 手を手と認識しなくなったならばそれでよいのじゃ。
 手を自分のものと感じられなくなったならばそれでも善いのじゃ。
 変容は考えるのではなく感じるものじゃ。
 観察によって明らかに変化が起こったと感じるならば更に続けて行うのみなのじゃ。
 
>>594 そうじゃ、出来る範囲でよいのじゃ。
 20分でもよいのじゃ。
 毎日続けられる範囲で行うのが善いのじゃ。

596としぼっくり:2017/03/31(金) 21:55:29 ID:DAY232aw0
すいません。ありがとうございます。

597避難民のマジレスさん:2017/03/31(金) 23:08:59 ID:9XP4Lp720
>>595
鬼和尚さん、ありがとうございます。
物に触った時に自分の存在を感じることも、そのまま観察していれば良いのですね。
私は触覚に自我をとても投影しているようなので、厭離されるのには時間がかかりそうですが、正しい観察の方法がわかって良かったです。
ありがとうございました。

598としぼっくり:2017/04/01(土) 07:51:05 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
1.自我に気付くと言う目的が無いと、自分とは何かを観察していても、自我に気づかないのでしょうか?

2.自分とは何かを観察していたら、自分を追求している事になるのでしょうか?


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