したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚に聞いてみるスレ part8

1避難民のマジレスさん:2016/12/05(月) 22:15:12 ID:5WAaNl9c0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part7
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1463059357

336324:2017/02/15(水) 00:03:06 ID:Jg0hNPyA0
それとも、認識とは、もっと単純なもので、
あの人はああゆう性格だという決めつけのようなものでしょうか?

自我が自分に対するもので、認識が周囲に対するもの、
これでいいのでしょうか?

337313:2017/02/15(水) 00:50:59 ID:7BINeFUs0
鬼和尚、313です。
連投ですみません。

もしかして私は、認識を観察しているのでしょうか。

意識を私の一点に向けている時は私があります(目の奥の肉体感覚を「私」としていることがわかります)
その最中、不意に車のエンジンの音を認識した時、意識がエンジン音になります。
その時先程の「私」はなく、音に成っています。
次に「音を認識したぞ」という思考に意識は成っています。

認識と現象は同じであり、それを認識していると思っている「私」も、認識される方だった…と理解します。
これは認識の観察ができていると言えるのでしょうか。

338324:2017/02/15(水) 01:06:41 ID:Jg0hNPyA0
認識についてですが、
周囲に起こる事に対する評価というものを
自分が決めているという事なのでしょうか。

小林正観さんが、
コップに水が半分入っているとして、
半分も入っていると考えるか、半分しか入っていないと考えるかは
その人次第だが、
コップに半分水が入っているという事実しかない
というような事を書いていますが、
まさにその事が認識なのでしょうか?

色々と考えてしまって、すみません。

339避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 15:42:29 ID:Daf3Ag0M0
鬼和尚さん、自己イメージを厭離する方法について教えてください。

私は自分を自己イメージだと思っていることが多く、とくに過去に誰かが自分の自己イメージを傷つけようとしたという記憶が、いつも怒りの苦になっています。
だから、手を観察していればそれが自分のものではないと厭離されるように、自分の過去の自己イメージも観察して厭離できれば、苦をなくせると思うのですが、どう観察すれば良いでしょうか?
手を観察するのと違って、イメージの観察というのが掴みどころがないです。

とりあえず、自分はその時こういう存在だったのというのを言葉にしてみています。
それは効果はあると思うのですが、でも、言葉が自分だと思っているのかというと違う気もします。
そうではなくて、言葉と一体化したぼんやりとしたイメージが自分なので、はっきりと厭離できた気がしません。
どうすれば自己イメージを観察できるのでしょうか?

鬼和尚さん、何か観察のコツなどがあったら教えてください。

340蓮祥:2017/02/15(水) 16:49:33 ID:2yQs4YkA0
>>330
鬼和尚、ありがとうございます!
まっさらな何かに生まれ変わった心地です。
今までの自分がなんか他人のように、記憶も心なしか他人事のように感じられます。
鬼和尚の"名前とイメージ"のお話を少しだけ理解できたような気がします。
字面もラクシュミっぽい艶があっていいですわ〜。読みはレンショウでいいんですよね。
本当にありがとうございました。大事にします!!

341避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 18:46:57 ID:nWzXHqEc0
鬼和尚さんおかえりなさい。引っ越しお疲れ様でした。

瞑想、座禅、数息観の違いとは、数息観は座禅に含まれ、座禅は瞑想に含まれるという解釈で合ってますか?

数息観をするとすぐにまどろみ、言葉やイメージが浮かんでは消える様になりました。
次第に何も浮かばなくなり、またイメージが突然湧いたり消えたりを繰り返しています。
目を開けて、夢の中のようなイメージを言語化すると、困り事の解決に直結することでした。
これは集中しながら観察していたのでしょうか?観察してる意識はありませんでした。これは瞑想ですか?

今日は数息観の後、頭がぼうっとするような、夢の中にいるような感覚がしばらく続き、少し困りました。
意識や視覚はいつも以上にクリアなのですが、
巨大ロボの頭に乗っているような...
家事をしようと思い、家事をする自分を外から「家事をしようと思ってしている自分」を見ているような、奇妙な感覚でした。
このまま車を運転すると事故を起こしそうで買い物に出るのはやめ、昼寝をして起きたら元にもどってました。
なぜこうなったのでしょうか?すぐに我に返る方法はありますか?

342避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 18:56:42 ID:czRftzgI0
>>326
ありがとうございました

343鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/15(水) 21:06:31 ID:1d4drIFg0
>>332 そのように自我と思っているものは何か観察してみるのじゃ。
 永続する主体と認識しているものを観察してみるのじゃ。
 いかなる見解にも囚われず常に新しいことを見つけようと注意するのが観察なのじゃ。

>>333 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。


>>334 >>278>>279 観照とは自我を見ることなのじゃ。
 観察によって自我に気付くことを特に観照と呼ぶのじゃ。
 そうすると自己同一化がなくなるのじゃ。
 自我はもはや観察対象であり、主体ではないと気付くからのう。
 
>>335 見られたならば自我はなくなるのじゃ。
 ただの観念と知れるからのう。
 
 そうじゃ、記憶と照合するパターン認識がなくなるのじゃ。
 そして本来の認識が起るのじゃ。

>>336 違うのじゃ。
 ものごとを記憶によって分類し、照合するのが認識なのじゃ。
 それが阿頼耶識なのじゃ。

>>337 まだなのじゃ。
 自分も完全には観察できていないのじゃ。
 サマーディには達しているのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>338 違うのじゃ。
 ものごとを記憶によって分類し、照合するのが認識なのじゃ。
 それが阿頼耶識なのじゃ。
 その働きは思考よりも早く、自我によって修正などはできないものじゃ。
 ただひたすら観察に励むことで自我を超え、観察することも出来るようになるのじゃ。

344335 336 338:2017/02/15(水) 21:21:16 ID:Jg0hNPyA0
そうであるとすると、

記憶からくる物事の見方が「認識」であり、
ある特定の条件からくる感情の発露などが「自我」なんですか?

例えば、
20万の給料があるとして、
20万の給料は安いと自分の記憶から判断するのが認識で、
安いから劣等感を持ったりするのが自我というものなのですか?

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/15(水) 21:30:11 ID:1d4drIFg0
>>339 とらえどころの無い心を観察するためにお釈迦様は縁起の法を教えられたのじゃ。
 例えば名前を呼ばれたらそれによって起こるのが自己イメージなのじゃ。
 それを名前を聞くことで自己イメージが起こったと観察するのじゃ。
 悪口で怒りが起こるのも傷ついた自己イメージが起こるからなのじゃ。
 ほめられたら喜ぶのもよい自己イメージが起こるからなのじゃ。
 そのように自己イメージは言葉によってさまざまに変化して起こるものじゃ。
 それをありのままに観察するとよいのじゃ。

>>340 そうじゃ、レンショウなのじゃ。
 蓮祥よ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>341 数息観は座禅だけではないのじゃ。
 立ってやるのもあるものじゃ。
 全て瞑想でよいのじゃ。

それは観察ではないのじゃ。
 智恵が生じたのじゃ。瞑想なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

 集中状態なのじゃ。
 瞑想をやめる時に体操をしたりして日常の意識に戻るのじゃ。
 それを怠ると注意が不足するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>342 どういたしまして、またおいでなさい。

346344:2017/02/15(水) 22:40:44 ID:Jg0hNPyA0
要はパターン認識が悪く、ありのまま見る認識が良い。

そして、ここで言っている認識とは、
通常では人が気付かないレベルで行われている
脳の情報の処理というものですよね?

そうすると、自我と認識は別モノと捉えた方が良いのでしょうか?

それで、認識を改める方が難しいので、
自我を厭離すると小悟、認識を厭離すると大悟というわけですよね?

347避難民のマジレスさん:2017/02/15(水) 23:13:54 ID:9XP4Lp720
>>345
鬼和尚さん、ありがとうございます。

つまり、私が厭離しようとしている自己イメージは、私が嫌な思い出を思い出した瞬間に作られたものだということですよね?
確かに、思い出した時にだけ、傷ついたという感覚がはっきりと感じられます。
そうやって自己イメージの感覚が起こる瞬間を観察すれば厭離できるという理解で合っていますか?
こうやって、その時その時にだけ生まれているような感覚が自己イメージであるならば、それは確かに自分ではないです。
まだ厭離できたかはっきりしませんが、できたかもしれません。
また嫌な思い出を思い出した時に確かめてみます。

的確なアドレスをありがとうございました。

348313:2017/02/16(木) 00:04:21 ID:6HMnteno0
鬼和尚、ありがとうございます。
これはより細やかな観察が必要となりそうですね。
それとも既に現れているのに、ただ見落として気づいていないだけなのか…。
もっと観察してみます。
アドバイス頂きましてありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

349避難民のマジレスさん:2017/02/16(木) 09:10:30 ID:nWzXHqEc0
>>345
違いの区別つかなかったのが、よくわかりました。

智恵が生じることと観察は違うのですね。
でも確かに苦を滅するために囚われることはないですね。わかりました。

瞑想をやめても集中状態が続くことがあるのですね。今、試しに瞑想後にヨガをやったところ、頭がスッキリしました。

お導きありがとうございます。

350龍氣:2017/02/16(木) 14:04:15 ID:cVgUA7Co0
鬼和尚、お邪魔します。
ダンマパダ311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、
地獄にひきずりおろす
正しい方法とはなんでしょうか?
修行の動機が邪なものであったりするならば、
より一層ひどいこともおきたりするのでしょうか?

351344:2017/02/16(木) 20:02:32 ID:Jg0hNPyA0
自我というのが、自分であるという意識で、
それが特定の事物と結びつく・一体化すると、執着などを生み出す。

それを厭離するのが、小悟。

観察によって、自分の自我を観察対象とするのは、
観察対象とする事によって、自我と事物との距離を作るため。

認識は、記憶と照合するパターン認識が悪く、ありのまま見る認識が良い。

ここで言っている認識とは、
通常では人が気付かないレベルで行われている脳の情報の処理。

自我を厭離するよりも、認識を厭離する方が難しく、
認識を厭離すれば、大悟。

これでいいのでしょうか?

352344:2017/02/16(木) 20:04:22 ID:Jg0hNPyA0
(追加です)

つまり、自我と認識は別物と考えた方がよい。

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/16(木) 21:28:05 ID:1d4drIFg0
>>346 そうじゃ、自我は認識されている観念に過ぎないのじゃ。
 それを過って自我が認識の主体と思っているのじゃ。
 それに気付くのじゃ。

>>347 そうじゃ、自我は刹那に起こる観念なのじゃ。
 それが原因によって起こる瞬間が見られれば消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>348 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

354鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/16(木) 21:43:20 ID:1d4drIFg0
>>349 どういたしまして、またおいでなさい。

>>350 正しい方法とは本心を観ることなのじゃ。
 本心を観ずに偽りの心や観念を観ていたらそれに囚われてしまうのじゃ。
 そして驕り昂ぶり本人も周りの者も惑わすことになるのじゃ。

 動機が邪ならばもはや修業ともいえないのじゃ。
 金儲けや名声のために悪事をしているのと同じなのじゃ。
 そのように注意するとよいのじゃ。

>>351>>352 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

355351:2017/02/16(木) 21:59:06 ID:Jg0hNPyA0
ありがとうございます。

実践はまだできていませんが、
和尚の考えをまず正確に理解しようと
質問攻めをしてしまいました。

お付き合いいただきありがとうございます。

これから実践していきます。

356避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 00:24:49 ID:GXTFMGi.0
>>343 >>278です。
ということは観照が起こると自我が観られる、というか観照が
起こった時点ではもうすでに観られる対象である自我(同一化の観念)は消滅している、
ということでしょうか?

357313:2017/02/17(金) 01:05:48 ID:ifOe7d1s0
鬼和尚、またひとつ質問ですみません。

自我というのは、六根ひとつひとつの働きから作りあげられた幻想のようなものだと観察しています。

例えば視覚が私の目の前にありますが、「私の目の前」と感じるのは微細なイメージによるものです。
視覚は誰の目の前にあるわけでもなく、ただここに起こったもの。

イメージも「私の中のイメージ」としていますが、観察するとこれも誰の中にあるわけではなく、ただここに起こったものです。

ですから自我は六根からの幻想であり、自我が認識しているのではなく、起こった六根が六根そのものを認識していると今は観察しています。

そして「六根」という意味付けさえも思考だったと観察すると、これは何とも言い難いエネルギーのようなものとなります。

ではこの起こっているエネルギーとは一体何なのか?という疑問が湧きます。
私はこのエネルギー自体が自我の素であり、その本質だと思っていましたが…。
一体これは何なのでしょうか?

何かヒントを頂けると幸いです。
よろしくお願い致します。

358避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 07:20:47 ID:czRftzgI0
和尚さん、ここでいう認識とは物につけたラベル(名前や性質)を頭の中で読むことですか?
例えば、目前のオレンジ色で丸い物体をかつてそれに似た物につけたみかんという名前(記憶)と照合してみかんと識別する作用を認識と呼んでいるのですか?

359蓮恵:2017/02/17(金) 08:01:06 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま

例えばゲームのキャラって実体がない存在ですが、キャラクターのグラフィックとかボイスとか会話等の要素を見せられると、そのキャラクターが一人格として存在しているようの見える
絵師が描いたグラフィックで、声優が録音したボイス、シナリオライターが考えた会話の集合でしかないのですが

自我は本来の存在しないが、五蘊が集まると自我が存在しているように見える
また、五蘊の全てが自分の物ではない

同じ論理だと捉えることができるようになりました

360避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 08:23:53 ID:Y5LPInQE0
>>359
>自我は本来の存在しないが、五蘊が集まると自我が存在しているように見える
また、五蘊の全てが自分の物ではない

すみません、質問させてください。

>また、五蘊の全てが自分の物ではない

ここの、自分とは、自我のことでしょうか?
『五蘊の全てが自我の物ではない』ということですか?

361蓮恵:2017/02/17(金) 09:36:28 ID:Bfk7ET5s0
>>360
私は悟りを開いた訳ではないので、
回答が正しいかの責任が取れませんが、その上で答えさせていただきます
和尚さまとも違う見解かもしれません

自分の物とではないといっても、
自我のものではないといっても、
両者とも正しいし意味は通ると思います

しかし、私個人の脳内では、自我と自分という言葉は完全に違うものです
自我は認識を歪ませるイメージであり、自分は〜な存在であるとする、記憶から生まれる妄想のことです。レンズの汚れみたいなものです。
自分は、世界と世界を認識する主体を解釈する際の智恵から生まれた言葉で、仮説の概念であり、うまく生きるために定義されたものです。無分別の世界なら自分はありませんが、生きていく上でこれは自分であると分別できないと困るから、自分という言葉が使われるわけです。

362蓮恵:2017/02/17(金) 09:58:41 ID:Bfk7ET5s0
続き
>>360
自我というイメージがあると認識が歪むので、仮説的な主体(自分)をうまく定義できないのです。
自我というイメージがないと、大円境地とかいって、"ワシはこの世界と一体じゃった"的な言葉があるのは、正しい智慧で自己を定義できているから生まれる言葉です。
というわけで、自我はイメージでしかないのですが、自分は仮説的な主体でありむしろ智慧によって定義されるべきものです。

ということで、私は、「自我」を何かの所有格と見れないので、"自我のものである"というフレーズに、文法的に違和感を感じるのです。
「自分」は仮説的な主体の概念なので、 "自分のものである"という言葉には違和感は感じないのですが、両者とも意味は似たようなようなものです。

363としぼっくり:2017/02/17(金) 10:09:41 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、本心を観察しながら、自分を追求するのは、座禅しながら行った方がよろしいのでしょうか?それとも常日頃から行った方がよろしいのでしょうか?

364龍氣:2017/02/17(金) 14:13:27 ID:cVgUA7Co0
観察中に出てきた自分の気持ちがよい考えだったりに固執すると、
悪い結果をもたらすだろうな、というのはなんとなく想像がついてしまいます。

邪な動機とは願望成就等も含まれるのでしょうか?
禅の修行者等が勝負事に勝つために修行する、というのは
悪いことに含まれるのでしょうか?

365避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 16:48:54 ID:kbrYSHvs0
鬼和尚さん、また質問させてください。

お金について教えてほしいのですが、
例えば、誰かにお金で損させられてしまったと思うと、とても嫌な気持ちになります。
これはお金を自分だと思っているからなのでしょうか?
お金で苦しまないためには、お金をどう捉えたら良いと思いますか?

366避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 19:18:29 ID:eiZIpJOk0
鬼和尚のブログで、自我完成の後、自我放棄とありますが、
これはまず、他人から作られた自己イメージを自分で作った自己イメージに作り変え、
その後に、自分で作った自己イメージを放棄するということなのでしょうか?

367鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/17(金) 22:13:08 ID:1d4drIFg0
>>355 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>356 観照とは自我を観ることなのじゃ。
 観ているときはあるじゃろう。
 観ることでそれが観念に過ぎなかったと気付いて厭離されるのじゃ。
 
>>357 エネルギーなどないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。
 その事実に恐れを抱くといろいろ考えてしまうのじゃ。
 思考するのではなくただあるがままに観察するのじゃ。

>>358 そうじゃ、それが認識なのじゃ。
 その作用を止めようと思っても止まるものではないじゃろう。
 見た瞬間にもはや名前とイメージが起こってしまっているからのう。
 よく観察してみると善いのじゃ。

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/17(金) 22:19:43 ID:1d4drIFg0
>>359 そうじゃ、そのようなものじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>363 両方やるとよいのじゃ。
 瞑想している時も、日常も自分を追及すれば進歩も早いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>364 そうじゃ、そのようなものを昔から野狐禅とか言ったりするのじゃ。
  勝負に勝つためとかも悪いことになるのじゃ。
 ただひたすらに悟りを求めて瞑想するのが正しい動機なのじゃ。

>>365 自分ではないが、自分のものと思っているのじゃ。
 この世のお金は子供が遊びで葉っぱをお金としているようなものじゃ。
 交換のための道具に過ぎないのじゃ。
 生きているときだけ役に立つものじゃ。
 そのように道具として捉えたらよいのじゃ。

>>366 そのような理解でよいのじゃ。
 他人の言いなりでは悟りを目指すこともできないからのう。
 自分を自分の主とするのじゃ。

369としぼっくり:2017/02/17(金) 23:25:55 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。早速、実践していこうと思います。

370避難民のマジレスさん:2017/02/17(金) 23:35:15 ID:eiZIpJOk0
366
返答をありがとうございます。
私は自我完成からやっていきます。

371避難民のマジレスさん:2017/02/18(土) 00:27:19 ID:uCTaZ5cc0
>>368
鬼和尚さん、回答ありがとうございます。
でも、お金が道具だと考えたとしても、お金を貴重だと思ってしまい、失いたくないという気持ちになってしまいます。
お金に執着する苦をなくす方法を、もう少し詳しく教えてください。
お願いします。

372313:2017/02/18(土) 01:06:36 ID:OG.0SVTA0
鬼和尚、お答え頂きありがとうございます。

エネルギーなどなく、これは観念なのですね!!
もしかしてそうなのではないかと仮説を思考しておりました。
しかし今度は仮説や思考ではなく、実際に観察しきってみようと思います。

373避難民のマジレスさん:2017/02/18(土) 06:44:57 ID:czRftzgI0
>>358
はい、観察に努めます

374:2017/02/18(土) 12:36:54 ID:riPWbNKI0
「思いつき、発想、何かの拍子で思い出す記憶。
このようなものが沸き上がるプロセスを観察しなさい」その一連のプロセスがアラヤシキであり、認識であると理解しております。
こんな感じでいいのですよね?

375龍氣:2017/02/18(土) 20:08:09 ID:2Lxi7rds0
ありがとうございます。
どうやら私はまずいことをしようとしていたようです。申し訳ありませんでした。
とすると、悟りを求めていない場合、数息観や観察もしてはならない、ということなのでしょうか?
ダンマパダを読む限り、俺は何がしたいのと強烈に悩んでしまいます。煩悩も捨てようとしていないのにもかかわらず、osho やお釈迦様、鬼和尚の話を読んでいったい何がしたいんだ、と。

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/18(土) 22:20:16 ID:1d4drIFg0
>>369 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>377 そうじゃ、いろいろ試して見るのじゃ。
 またおいでなさい。

>>371 それも原因から追求すればなくなるじゃろう。
 お金が無くて苦労したとか、親からお金は大事だと教えられてきたとかの原因が有るじゃろう。
 そのような原因からお金に対する執着があり、それがなければお金に対する執着も無いと心を観るのじゃ。
 そうすればそれもなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>372 そうじゃ、観察によって気付きは訪れるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

377鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/18(土) 22:25:39 ID:1d4drIFg0
>>373 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>374 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>375 実践するのはよいのじゃ。
 それを以って自分は悟りのための修業をしているとするのはいかんのじゃ。
 嘘をついていることになるからのう。
 それによって驕り昂ぶり自他を苦に陥らせることになるのじゃ。

 今のおぬしのように自分が何を望んでいるのか心を観察することによって明らかにする事もできるのじゃ。
 それを悟りのための修業とはいえないが、自分を知るために行なうというならば自分に利益はあるのじゃ。
 本心を知るために実践あるのみなのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2017/02/19(日) 00:55:52 ID:4nJZYcxk0
>>376
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、お金への執着も原因を観察すればなくすことができるのですね。

観察してみると、私はお金を貴重だと思わなくなってしまったら、お金を失いやすくなってしまうのではないかという不安を持っていることに気づきました。
お金がなくなったら好きなように生きていけないと思っていて、つまり、今の自分に執着していることに気づきました。
つまり、お金だけではなくて、自分に執着しているようです…。
そして、自分に執着している原因は、やはり自己イメージを維持したいということだと思います。

こういう場合の自己イメージは、記憶の想起によってその都度起こっている気がしますが、合っていますか?
この場合、記憶を想起する時にできるだけ自分を観察していれば、この自己イメージを厭離できますか?
…なかなかそこまで行けるかはわかりませんが…。

379避難民のマジレスさん:2017/02/19(日) 13:51:00 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちは。

↓こんな理解でよいでありましょうか?

無我とは、自分が誰だかわからなくなっちゃうことではないでのである。

自分のもの、自分の考え、自分の感情、他人と自分、と言うとき、自分のもの、自分の考え、自分の感情 自分の存在が傷つかないように守ろうとする。
守ろうとする自我がなければ、傷つく主体はなく、不安になることも、恐れることもない。

感受して、分別して、快不快を生じる過程を幾度も経験することにより、守るべき自我が消しがたく実感されるようになり、不快を避けたいがために、不安になり、恐怖する。

だけど、感受して、その反射として危険を避けることは、無我とは関係ないことでありましょう。
これは、分別思考の前の「反射」でありましょう。

無我とは、その感受を否定するものではなく、感受するものを主体と認識することが幻想だと言うことなのでありましょう。
分別したり、快不快を感じたりするものが、主体としてあり続けると感じていることが幻想であると言うことなのかなと思うのであります。

無論、このような理解が正しかったとしても、心身の痛みを感じる今の自分の実感とは異なるのであります。
そうであるのかないのか、確かめてみたいと思うのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)

380蓮恵:2017/02/19(日) 16:55:52 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
死ぬのが怖いというのが、曖昧にしか感じられませんが
もし、来世で正しい仏道に出会えなかったらと思うと恐ろしいです
精進します

381龍氣:2017/02/19(日) 17:55:41 ID:cVgUA7Co0
何やら、私の中に大きな罪悪感みたいなものがあり、
これをいやすすべをしたたか酔っぱらう以外に知らなかったところがありました。
もしかすると、そのようなものを求めるのはこれから逃れたいがためなのかもしれません。
今までのことを家族や友人たちに償いたいと考えています。
鬼和尚、私は許されるのでしょうか?
後、ぜひうちで働いて、お前なら歓迎するよ、と言ってくれたところで働こうと考えています。
ですが、少々危険ととなり合わせな仕事なのです。
やっていいのかどうか疑問と不安があります。
もしかすると自分で自分に罰を加えようとするのではないかと懸念があるのです。

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/19(日) 21:41:19 ID:1d4drIFg0
>>378 合っていればお金への執着はなくなるじゃろう。
 なくならなければ違うのじゃ。
 観察が完全になればそれも消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>379 そのような理解でよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>380 そうじゃ、今の世で精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>381 許されるのじゃ。
 その罪悪感もまた過去の記憶が原因に過ぎないかもしれんのじゃ。
 危ない仕事は避けて安全に自分を観るとよいのじゃ。
 原因がわかれば罪悪感も消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

383としぼっくり:2017/02/19(日) 23:50:08 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、瞑想をするときに、数息観とは別に、自分を追求する瞑想を行った方がよろしいのでしょうか?

384避難民のマジレスさん:2017/02/20(月) 19:17:12 ID:izxhxeRQ0
>>382
鬼和尚さん、ありがとうございます。
観察してみたのですが、私にはまだ自分の自己イメージの生まれる瞬間を見ることができないようなので、瞑想して集中力を鍛えたいと思います。
でも、お金への執着が自分への執着だとわかっただけで、かなり不安がなくなりました。
さらに実践してみます。
ありがとうございました。

385鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/20(月) 20:43:48 ID:1d4drIFg0
>>383 そうじゃ、数息観は集中の行なのじゃ。
 自分を追及するのは観察の行なのじゃ。
 集中して雑念が無くなった状態で自分を追求するとよいのじゃ。
 それが止観の修行なのじゃ。

>>384 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。

386としぼっくり:2017/02/20(月) 21:11:24 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、本心を観察するのも、観察の行になるんですか?

387龍氣:2017/02/21(火) 14:18:31 ID:cVgUA7Co0
鬼和尚、ありがとうございます。
善事をなし、驕りに気を付けて励みます。
ただこのままだと老いたときに路頭に迷いそうな気もしてます。
仕事を決めようとする際、自分の心を見なければ遠回りになるのでしょうか?

388:2017/02/21(火) 14:32:27 ID:n.IQ64bs0
心に浮かぶもの。
無意識の範疇ではかなりの情報が浮かび上がっていますが、その情報は高速で流れていきます。
これが認識であり、アラヤシキ。
自分に障りがない、対象に執着がなければこの高速の情報にアクセスすることはない。
従って認知することはなく消えていく。
それは寝ている時にも続いている。

これが答えと観ました。
永遠の意識といえるかどうかはまだわかりません。

389避難民のマジレスさん:2017/02/21(火) 19:03:51 ID:czRftzgI0
和尚さん、制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
以下、目を閉じただけでは・・・肉体の感覚が全て消えれば・・・それは空無辺処定とか識無辺処定と呼ばれる境地じゃ。さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や「何ものかを分別する」働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。

Q,この「何ものかを分別する」は、物自体を認識する意味(例えばみかんと認識する)で、好悪を判断する分別(みかんの好き嫌い)の意味ではないですか?上の文は何ものかを認識する事自体を止めよということですか?

390鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/21(火) 21:17:35 ID:1d4drIFg0
>>386 そうじゃ、それこそが観察の行そのものなのじゃ。
 常に本心を観察するならば、正しく観察ができたといえるのじゃ。
 偽りの心を観察すれば正しくは無いのじゃ。
 そのように注意して実践するのじゃ。

>>387 そうじゃ、本当は自分に合わない嫌な仕事を無理にすれば心身ともに疲弊するじゃろう。
 結局体を壊したりして辞めて別の仕事を探す遠回りになってしまうのじゃ。
 自分の性質を知り、少しでも興味が持てる仕事をすれば、楽しくやれて心身も快調になるのじゃ。
 そのように理解するとよいのじゃ。

>>388 そのような観察でよいのじゃ。
 それにも囚われず日々新たなものを見つけるように注意するのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>389 そうじゃ、物自体を認識する意味なのじゃ。
 それを観るだけでよいのじゃ。
 止める事などは不可能であるからのう。
 まずは自我を忘れる忘我を目指すとよいのじゃ。

391としぼっくり:2017/02/21(火) 21:29:56 ID:DAY232aw0
丁寧なご説明ありがとうございます。どんどん実践していこうと思います。またわからない事があればよろしく

392としぼっくり:2017/02/21(火) 21:31:16 ID:DAY232aw0
↑お願いします。すいません。

393避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 06:11:33 ID:czRftzgI0
>>389
ありがとうございました。が、また新たに疑問が生じました

「自分では観察している積りでも、つい記憶から生じた観念を作り出している事もあるからのう。
常に今ここに集中し、心を観察しつづければ観るものを観るのも近いのじゃ。」

「心を観察しつづければ」とは、認識しないで(何も考えないで)ただ見るだけという意味でいいですか?よろしくお願いします

394避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 07:55:04 ID:czRftzgI0
思考を考えないで観察をしたことがないので、本当にそんなことで何か起きるのかがわからないのです

395蓮恵:2017/02/22(水) 10:00:24 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
思いつきですが、クンダリニーが上がるときの恐怖と自我が破壊される時の恐怖は似ているのでしょうか?

396避難民のマジレスさん:2017/02/22(水) 15:20:08 ID:awp6alaA0
ー警告ー
あんさん等は鬼和尚に依存し過ぎてる。

397鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/22(水) 22:22:35 ID:1d4drIFg0
>>391>>392 そうじゃ、何でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>393 そうじゃ、無心に観察すると善いのじゃ。
 そして新しい何かを発見しようと努めるのじゃ。
 今までわからなかったことにも気付くじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>394 集中すればできるのじゃ。
 まずは集中の瞑想で無念無想に至るのじゃ。
 それから観察すれば動揺することもなくなるのじゃ。

>>395 人によっては似ていると感じるじゃろう。
 気が上れば自然に我を忘れるからのう。
 自分が無くなると言う感じを受けるものも居るじゃろう。

398蓮恵:2017/02/22(水) 23:35:10 ID:Bfk7ET5s0
>>397
クンダリニー(擬き)が上がるときは、
毎回死ぬかも知れないと思うのですが、むしろ抵抗せずに死んだふりというか、リラックスするとダメージもなく終わるのです
これが修行の障壁になる無我への恐怖に役立つかなと思いまして
確かにエネルギーが上がっている最中は無我かもしれません

399避難民のマジレスさん:2017/02/23(木) 18:34:05 ID:czRftzgI0
>>394
無念無想は非常に集中力を要して大変でしたが、おかげさまで新たな気づきを得ることができました。
ありがとうございました

400避難民のマジレスさん:2017/02/23(木) 18:47:23 ID:/LtJi/2c0
鬼和尚さん、楽しいことが終わってしまい元気が出ない場合、その原因は何になるのでしょうか?
何となく、この楽しいこと自体が麻薬のようなものだっただけで、それがなくなった今の方が本来の状態のような気がしますが、これが本来の状態だったら元気がなさすぎて疲れます。
どうしたら良いのでしょうか?
人間は本来、生活が平凡で何もなくても元気ですか?
例えば、悟った人は、とくに何もなくても毎日が新鮮で楽しいのですか?

401鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/23(木) 22:06:37 ID:1d4drIFg0
>>398 クンダリニーがあがれば自然にサマーディに入れるのじゃ。
 それによって我を忘れられるのじゃ。
 何度も味わえば無我への恐れも薄らぐかもしれん。
 精進あるのみなのじゃ。

>>399 どういたしまして、またおいでなさい。

>>400 それに依存していたからじゃろう。
 執着する者が無くなれば苦が起こるものじゃ。
 自分の心を観察して、執着から苦が起こったと気付けばよいのじゃ。
 苦が無ければ安楽なのじゃ。

 元気じゃろう。
 安楽と喜びが常にあるのじゃ。
 しかしそれにすらも執着せず特に必要ともしないのじゃ。
 大金持ちが小銭にはもはや執着しないようなものじゃ。
 永遠の意識に至ればもはや喜びさえも必要ではないのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 15:10:52 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚に質問です。
観照が進むと、自分の目玉をくり貫いて、焼肉のたれをつけて、網で炙って賞味することも
やろうと思えば簡単に出来ますか?

403蓮恵:2017/02/24(金) 16:44:10 ID:/840N4pM0
今日感じたのですが、唯識論でいうように、人間の意識は一つのみではなくて人間には眼耳鼻舌身意の六処とマナ識とアラヤ識がありますが、今まで一つの意識が8つの階層を持っていると見ていましたが、

実際はそれぞれ独立した別々の8つの意識があり、それらが合わさるの(五蘊仮和合的な意味で)我在ると思う意識と人格を持った人間が存在しているように見えるというのですか

我在るという意識を8つの別々の意識の集合としてみるならば、空観もしやすいです

404蓮恵:2017/02/24(金) 16:48:30 ID:/840N4pM0
>>401
ありがとうございます、恐怖の質は似ているか同質のようなので、工夫すればクンダリニーを観察するのもよい手段ですね
といえど私はクンダリニーが制御できず寝てるときに勝手に上がるときが多いです笑

405避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 18:41:39 ID:czRftzgI0
大悟は内面を観察することの他に肉体を観察して乖離しておくことが必要なのでしょうか
肉体の乖離無くしてサマーディも大悟もないのでしょうか?

406鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/24(金) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>402 やろうとおもえばできるじゃろう。
 無意味であるからやらないであろうがのう。

>>403 そのように感じるならばそれでよいのじゃ。
 自分のやり易いようにみるがよいのじゃ。
 それが一番なのじゃ。

>>404 そうじゃ、なんでも実践するとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>405 それは絶対に必要というものではないのじゃ。
 肉体に執着したり、肉体を自分と思っているものには効果があるものじゃ。
 法は全て人の性質に従って行なうものなのじゃ。
 それもまた法のうちの一つに過ぎないのじゃ。

407避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 20:59:03 ID:BvB6XB0M0
>>401
鬼和尚さん、ありがとうございます。
執着というのは、それがなくなった後でも、それがあれば良かったのにと思って囚われてしまうことですよね?
自覚はなかったのですが、私は楽しいことに執着して、それがなくなったことを悲しんで辛いと思っていたのかもしれません。
それを知って、はっきりと自覚してはいないのですが、楽になってきました。
もう少しよく観察してみます。

悟った人は永遠の意識に至っているのですね。
それは安楽も喜びも超えたところにあることは想像もつきませんが、救いがあるのだと思って、それを覚えておこうと思います。

408避難民のマジレスさん:2017/02/24(金) 21:19:09 ID:czRftzgI0
>>405
よくわかりました。また何かあればお願いします

409避難民のマジレスさん:2017/02/25(土) 11:57:08 ID:lWDDL8yU0
鬼和尚様。
清浄道論やアビダンマッタサンガハは正しいというか参考になりますか?

410鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/25(土) 21:51:23 ID:1d4drIFg0
>>407 そうじゃ、それも執着なのじゃ。
 善い気付きなのじゃ。
 既に苦が離れてきたようじゃ。

 そうじゃ、永遠の安楽を目指して精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>408 どういたしまして、またおいでなさい。

>>409 全て正しい訳ではないのじゃ。
 無因の心があるなどおかしなことも書いてあるのじゃ。
 しかし、参考程度にはなるじゃう。
 全て正しいという囚われる事がなければ参考になるものじゃ。
 ためしに読んでみると善いのじゃ。

411としぼっくり:2017/02/25(土) 22:22:50 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、悟りを得る為には、数息観を合わせて1日何回、どれくらいの時間、瞑想したらよろしいでしょうか?

412鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/26(日) 21:43:38 ID:1d4drIFg0
>>411 それは修業する者の性質とか上達で変るものじゃ。
 最初は朝と夜に五分やる程度でよいのじゃ。
 よく眠れるようになるじゃろう。
 なれてきたら10分ぐらいにふやすのじゃ。
 さらに上達して長く座っているのが苦にならなくなったら20分位にすると善いのじゃ。
 それからは観察もしてみると善いのじゃ。
 たまに長くやるよりは五分でもよいから毎日やるのがよいのじゃ。
 そうすれば上達も早いのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2017/02/27(月) 01:37:32 ID:GXTFMGi.0
鬼和尚が観察を本格的にやり出してから無認識へ至るまでは具体的にどれくらいの期間を要しましたか?

414入り口の人:2017/02/27(月) 02:30:24 ID:dFAk.kvU0
数息感で1,2,3…数えていくと集中が弱って気がつくと11,12,13と進んでしまう事があるのですが
数字の代わりに、あかさたなはまやらわ と数えても良いですか?
これなら、わの次は無いので必ず止まります。

415素人A:2017/02/27(月) 08:54:27 ID:uMEXtJH60
数息感は吸う息感何かなあ吸つて吐いてだけ鼻先を心て観ていれば?
でも私は試みが習慣づかなくて昨日の想いが完全に死んでいて
今日は新でいて自分でも呆れる地球はど声いった

416としぼっくり:2017/02/27(月) 10:06:22 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん何度も同じ事を聞いてすいません。観察は数息観とは別に、観察の瞑想として行った方がよろしいのでしょうか?するとしたら何分位したらよろしいでしょうか?

417としぼっくり:2017/02/27(月) 10:21:40 ID:DAY232aw0
連投すいません。観察の瞑想をするとすれば、数息観に続けて行った方がよろしいのでしょうか。

418鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/27(月) 22:14:17 ID:1d4drIFg0
>>413 わしは観察をしていなかったのじゃ。
 経典を読んでいて観照が起こったのじゃ。
 悟った後にお釈迦様が止観を説いていたと知って観察を勧めたのじゃ。
 
>>414 やってみるとよいのじゃ。
 それが合っているかもしれんのじゃ。
 自分にやり易いように法を実践するとよいのじゃ。
 
>>415 毎日なんども行えば必ず習慣は根付くのじゃ。
 そんなに長くなくてもよいのじゃ。
 一日五分ぐらいでもやってみるのじゃ。 
 その位でも毎日やれば上達していくのじゃ。

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/27(月) 22:17:36 ID:1d4drIFg0
>>416 何度でも聞いてよいのじゃ。
 そうじゃ、別にやるとよいのじゃ。
 上達したら一緒にやる方法もできるのじゃ。
 最初は別々にやらないと何をやっているのかわからなくなるのじゃ。

>>417 続けてやったほうがよいのじゃ。
 心が集中しているからのう。
 雑念も少なく観察もはかどるのじゃ。
 日々自分の本心の新しいところを探すつもりでやってみるのじゃ。

420としぼっくり:2017/02/27(月) 23:03:31 ID:DAY232aw0
ややこしい質問に答えて下さりありがとうございます。
まだ質問なんですが、観察の瞑想は、観察の行と同じでよろしいのでしょうか?
数息観と観察の瞑想の時間配分は、どれくらいなのでしょうか?

421避難民のマジレスさん:2017/02/28(火) 04:58:49 ID:GXTFMGi.0
>>418

わかりました、ありがとうございました。

422蓮恵:2017/02/28(火) 19:37:34 ID:Bfk7ET5s0
鬼和尚さま
>>292の説法の続きとか詳細かありましたら、お聞かせ下さい

423蓮祥:2017/02/28(火) 20:37:25 ID:V7DzBOsQ0
鬼和尚、自分も>>422の蓮恵さんと同じく、聞きたいです!

424鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/02/28(火) 22:10:13 ID:1d4drIFg0
>>420 同じなのじゃ。
 観察も五分でよいのじゃ。
 日常でも特に時間を決めずに自らの心を観察すると善いのじゃ。
 そうすれば上達も早いじゃろう。

>>421 どういたしまして、またおいでなさい。

>>422>>423 もはや無いのじゃ。
 自ら実現していくことだけが残っているのじゃ。
 やがて全ての人間に悟りという最高の境地があると知らしめるのじゃ。
 それが続きなのじゃ。

425避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 04:05:15 ID:czRftzgI0
私は後発なので292の説法を今知りました。
世界に変革が起きると。でも、私はそれを種々の予言から第三次世界大戦・天変地異などが起きるからだと考えていました。
和尚さんの話だと、そういう最悪のことはこの地球に起きないということでいいですか?
みんなから始まるとありますが、和尚さん自身は先頭に立って世界を導くご意志はないのですか?

426としぼっくり:2017/03/01(水) 06:52:28 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。どんどん観察もして行こうと思います。沢山の質問にお答え下さりありがとうございます。

427避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 07:09:01 ID:GXTFMGi.0
自分が行為者であるという感覚、自分が行為を行っている主体なんだというこの感覚は
観照が起こり、無我になった瞬間に消えるのでしょうか?

それ以前の段階でこの感覚が消えることはないのですか?

428としぼっくり:2017/03/01(水) 12:55:59 ID:jGbOOhtA0
>>424
鬼和尚さんすいません。質問ですが、心を観察するとは、本心を観察するという事ですか?

429蓮祥:2017/03/01(水) 18:53:31 ID:Fpl15Aq20
>>424
鬼和尚、ありがとうございました。
知らしめるには知らねばならぬですよね…う〜ん、自分にはちょっとハードル高いかもw
それでも後方支援できるレベルにはなっておきたいので、がんばってみます!

430鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/03/01(水) 22:10:51 ID:1d4drIFg0
>>425 おぬしが諦めたりしたらおきるかもしれん。
 おぬしが誰かを教えたらその誰かが又誰かを教え、智慧と慈悲の絆が途絶える事無く繋がっていくのじゃ。
 そして多くの者が賢い選択和するようになり、災いも防げるのじゃ。
 おぬしがもはややっていられないと諦めたら、人々は自らを破壊する道を良いものと思って選択してしまうじゃろう。
 全て今のおぬしの選択にかかっているのじゃ。

 すでに今ここが先頭なのじゃ。
 人々の心に慈悲と智慧の種を植えることによってのみ、世界は変るのじゃ。
 
>>426 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>427 我を忘れる忘我にょっても消えるのじゃ。
 一時的に自分を忘れているだけであるが、無我と同じ感覚になるのじゃ。
 強い集中力によってそれも可能になるのじゃ。

>>428 そうじゃ、本心を観察するのじゃ。
 本心とは偽らない心なのじゃ。
 本心を観察することによってのみ進歩していくのじゃ。

>>429 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

431としぼっくり:2017/03/01(水) 22:14:58 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。またお願いします。

432避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 22:43:01 ID:GXTFMGi.0
>>427です、ということは忘我の状態(=一瞥体験ですよね?)になって行為者の感覚が
消えて「自分がやった」という観念から生じたすべての罪悪感が消えても、
自我が戻ってきてしまった場合、また自分が行為を起こしている、という感覚も戻ってきて、
「自分がやった」という罪悪感も復活してしまうんでしょうか?

433避難民のマジレスさん:2017/03/01(水) 22:47:57 ID:GXTFMGi.0
追記です。

×「自分がやった」という観念から生じた

〇「自分がやった」というような、自分が行為の主体であるという観念から生じた

です、よろしくお願いします。

434蓮恵:2017/03/02(木) 00:10:51 ID:Bfk7ET5s0
>>424
時代が人間自体の変革を求めており、個人の実践が必要とのことですね

435避難民のマジレスさん:2017/03/02(木) 07:36:54 ID:czRftzgI0
>>425
地球の出来事には色々思うところがありますが、当面は目の前のことをやろうと思います


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板