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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

707避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 13:24:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

そうさんは、鬼和尚の先輩みたいな人なのですね。

自他も生死も社会も善悪も時間さえも本当はなく、一切は幻想であるとすれば、自我が見ている幻想の世界を造り出しているものは、他ならぬ自我と言うことになり、これは、我は創造主なりと宣言しているようでありますが、これは世界の真相を表現したものではなく、修行者が既成観念を破壊し、思い込みを排して自らの心の深奥にせまり、言葉で表現できない、悟りへと導くための方便なのですね!


クリスマスでにぎわう街中で「神は死んだ!」と言うプラカードをもって行進する人たちの横を、「おればまだ、生きてるぞ!」と白髭の男が通りすぎる、というアメリカの漫画を思い出しました。

708避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:45:32 ID:jfWCoXjM0
>>706
講評ありがとうございます!

僧さんの返照は鬼和尚が説く観照と同じですか?

709避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:47:13 ID:jfWCoXjM0
それからまたお願いで恐縮ですが、
鬼和尚が好きなマハームドラーの歌の解説もしていただけたら嬉しいです_| ̄|○

710鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/29(土) 21:55:19 ID:/HbFv/.o0
>>707 そうじゃ、全て方便なのじゃ。
 よく現したのじゃ。

>>708 同じなのじゃ。
 禅も昔は観察する事をも説いていたのじゃ。
 後に文字通りに禅になったのじゃ。

>>709 それもどこかに無料で公開している原文が必要なのじゃ。
 大体そうさんと同じ事を説いているのであるがのう。

711避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:45:40 ID:jfWCoXjM0
>>710
古仏の残した言葉を鬼和尚の言葉で聞きたい!という欲が凄いですw
了解しました。また楽しみにしてます。
まず英語訳です。

Mahamudra is beyond all words and symbols,
But for you, Naropa, earnest and loyal, must this be said.

The Void needs no reliance; Mahamudra rests on naught.

Without making an effort, but remaining natural,
One can break the yoke thus gaining liberation.

If one looks for naught when staring into space;
If with the mind one then observes the mind;
One destroys distinctions and reaches Buddhahood.

The clouds that wander through the sky have no roots, no home,
Nor do the distinctive thoughts floating through the mind.
Once the Self-mind is seen, Discrimination stops.

In space, shapes and colors form
But neither by black nor white is space tinged.
From the Self-mind all things emerge;
The Mind by virtues and by vices is not stained.

The darkness of ages cannot shroud the glowing sun;
The long eons of Samsara ne'er can hide the Mind's brilliant light.

Though words are spoken to explain the Void, the Void as such can never be
expressed. Though we say "the Mind is a bright light," it is beyond all words and
symbols. Although the Mind is void in essence, all things it embraces and contains.

Do naught with the body but relax;
Shut firm the mouth and silent remain;
Empty your mind and think of naught.
Like a hollow bamboo rest at ease your body.
Giving not nor taking, put your mind at rest.
Mahamudra is like a mind that clings to naught.
Thus practicing, in time you will reach Buddhahood.

The practice of Mantra and Perfections, instructions in the Sutras and
Precepts, and teaching from the Schools and Scriptures will not bring
realization of the Innate Truth.
For if the mind when filled with some desire should seek a goal,
it only hides the Light.

One who keeps the Tantric Precepts yet discriminates, betrays the vows of
Awakening,

Cease all activity; abandon all desire; let thoughts rise and fall as they
will like the ocean waves.
One who never harms the Non-abiding nor the Principles of non-distinction,
upholds the Tantric Precepts.

712避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:47:40 ID:jfWCoXjM0
He who abandons craving and clings not to this or that,
Perceives the real meaning given in the Scriptures.

In Mahamudra all one's sins are burned; in Mahamudra one is released from
the prison of this world. This is the Dharma's supreme torch. Those who
disbelieve it are fools who ever wallow in misery and sorrow.

To strive for liberation one should rely on a Guru. When your mind receives
the Guru's blessing emancipation is at hand.
Alas, all things in this world are meaningless; they are but sorrow's seeds.
Small teachings lead to acts. One should only follow teachings that are great.

To transcend duality is the Kingly View; to conquer distractions is the
Royal Practice; the Path of No-practice is the Way of the Buddhas. 0ne who
treads that Path reaches Buddhahood.

Transient is this world; like phantoms and dreams,
Substance it has none. Grasp not the world nor your kin;
Cut the strings of lust and hatred; meditate in woods and mountains.
If without effort you remain loosely in the "natural state," soon Mahamudra
you will win and attain the Non-attainment.

Cut the root of the tree and the leaves will wither;
cut the root of your mind and Samsara falls.

The light of any lamp dispels in a moment the darkness of long eons;
The strong light of the mind in but a flash will burn the veil of ignorance.

Whoever clings to mind sees not the truth of what's beyond the mind.
Whoever strives to practice Dharma finds not the truth of Beyond-practice.
One should cut cleanly through the root of the mind and stare naked.
One should thus break away from all distinctions and remain at ease.

One should not give and take but remain natural, for Mahamudra is beyond all
acceptance and rejection.
Since the consciousness is not born, no one can obstruct it or soil it;
Staying in the "Unborn" realm all appearances will dissolve into the
ultimate Dharma.
All self-will and pride will vanish into naught.
The supreme Understanding transcends all this and that.
The supreme Action embraces great resourcefulness without attachment.
The supreme Accomplishment is to realize immanence without hope.

At first a yogi feels his mind is tumbling like a waterfall;
In mid-course, like the Ganges, it flows on slow and gentle;
In the end, it is a great vast ocean,
Where the lights of Child and Mother merge in one.

Jack Kornfieldさんの訳です。

713避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

714避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

715避難民のマジレスさん:2014/11/30(日) 08:39:19 ID:SO86/s7A0
鬼和尚は誰に教えているのですか?
教えを受けているのは自我ですか?無我ですか?無ですか?

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0
>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

>>715 おぬしに教えているのじゃ。
 おぬしは自我じゃろうか?
 それとも無我じゃろうか?
 それとも無じゃろうか?
 速やかに答えてみるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 11:21:13 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、
マハームドラーの和尚訳ありがとうございます。

今回の詩も非常に興味深いものがあります。
wktkしながら続きを待ちたいと思います。

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:33:23 ID:zljf.XjA0
>>717 そうじゃ、今日も続くのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚の説明を読むと、バカな龍明でもわかる気がして、できる気がするであります


721避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 15:09:01 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
昨夜と今朝、早速やってみたであります。
 
今まで、「集中」「観察」「縁起の法」等の訓練をし、その有効性を実感してきたので、「空とマハームドラーの観想」も自分なりに理解できました。
自分にとって、集中の行において難しいのは、集中しょうとする「意思」の存在で、その意思がなければ雑念にまみれ座って考えことをしてるだけになることです。
ある程度慣れて、無思考の状態、意識のエアポケットみたいなものを作れるようになり、そこに浮かび上がる雑念を客観視する意識のようなものを実感できても、それもまた、意識であり、自分の意思にもとづくものにかわりありません。
空の観想も、最初にそれを教えられたなら、何をどうやったら良いか解らなかったでしょうが、
いきなり「空」「無」「無思考」をイメージすることにより、集中の行に要する「意思」の存在がぐぅっっ後退するように感じられました。
しかし、その状態を長時間維持するのは集中同様難しく、じきに、空を観想している自分と言うイメージがわいてくる。
これは、自我が生じる瞬間をとらえて厭離する技として、私にもできるのではないかと思ってしまいました。

722避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 17:17:22 ID:jfWCoXjM0
>>718
解説ありがとうございます。いつも楽しみにしてます(・ω・`)

723そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/02(火) 18:58:23 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
教えてください。
覚醒したという方のブログがあり、そこに自我と真我とカルマについて次の記述があるのですが、これは正しいのでしょうか。

「自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。」


私の成り立ち(2) - 私を知る
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/d4c3c46981add517661cdcffc6ee0657/?st=1

724避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 20:09:35 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚さんも何か、悟りを表現した詩を書いてみてください。

725避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 21:26:40 ID:VDi3L7Co0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
空の法をしていたからでしょうか?
体の外の音が、自分にダイレクトに響いて
猫のくしゃみが自分の中に響いてビックリしたり、遠くのカラスの音も自分の中で鳴っている。
という感じになりました。
こういう話を聞いたことがありませんので、こういうものなのか確認したい思いが出ました。
何か間違っていますか?このまま続けていいですか?
アドバイスをお願いいたします。

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:32:11 ID:BPNow3.w0
>>720>>721 そうじゃ、何でも試して見たら良いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>722 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

>>724 趙州頭上無靴跡なのじゃ。

>>725 それでよいのじゃ。
 空間の意識と繋がったのじゃ。
 空間がおぬしの意識となったから体の中で聞こえたように思ったのじゃ。
 空無辺の始まりなのじゃ。
 瞑想の邪魔になるならば制感の行をすると良いのじゃ。

728そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/03(水) 07:42:34 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
>>723をお願いします。

729避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 11:30:48 ID:LC3de7YgO
>>727
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘とマハームドラの鬼和尚解説を通して今まで教えていただいたことの集大成を読めているようであります。

>>726
>分別(や認識、思考感情)なども本来は何の主体も無く自動的に起こるもの
→感覚や感情の自動性は理解できるし、思考も記憶の組合せと言う意味での自動性があるのかなと思いますが、記憶だけは個別のものという感じが拭えません。
しかし、その先の認識の自動性ということについては、なんとなくそんなものかもという気もするので、だとすれば、記憶も自動なのかな・・・と

記憶も認識も主体なく自動であるとすると、起こる事=認識や記憶の対象は自動ではないとしても、起こった事実に対する認識は主体がない以上一つの認識になるはず・・・うぅぅ

>分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いもの
 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われ
>一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
>認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れる
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすから
  
→重要なのはこの辺を実践により体得することなのですね。道は遠いですががんばります!

730避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 12:50:31 ID:nm8il/2Q0
鬼和尚さん、こんにちは。

最近、やっと数息観で集中力がついてきました。
息を数えながら意識を集中して、10分の間、気がそれても、すぐに元に戻れるようになりました。
それで、さらに進むには、どうしたら良いのかを教えてください。
気が逸れることもないほどに、10分間集中できるように、練習したほうがいいのか、
自分の心を観察する練習をはじめたほうがいいのか、どちらが良いでしょうか?

731素人A:2014/12/03(水) 14:35:46 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんひまで落ち着いた性格のひとは数息感で歩いたりパソコン見たり
テレビ見たり出来ると思うけど今の私はあれも是もしたいで少しも落ち着きが
ない困ったものだ色々な物を求めるの網止められない別に色々手足を出しても
大したものないと解っているけど人間だもので楽しい事を求める数数える暇は
無い事もないのだけど次々であせるばかり此処で書いている時は落ち着いているか
ぽ師匠も無事帰還したし少し数数えようコンビニざ前だ

732避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 17:09:50 ID:LC3de7YgO
一つの意識に全ては包含されるということが実感できることが悟り一側面なのでありましょうが、その世界は、自他も明暗も美醜も快不快も時間も世界という境界もない世界であり、安らぎのみあり、他に何もないとしたら、そこへ行きたいと思えるほどに強く「苦」を観想できるか、実感できる経験がまず必要なののかもしれないと思いました。
心の深奥を観察すれば、「苦」はいくらでも掘り起こせそうに思えますので、修行に取り組む強い動機を失わないためには、縁起の法等で簡単に楽にならず、「苦」を温存した方が良いのでしょうか?
(´・(エ)・`)ゞ

733725:2014/12/03(水) 20:55:39 ID:Pbg1oRkU0
>>727
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は私だったのですね!ウフフ
実を申しますとずっと遊んでおりましたところ、鬼和尚のおかげで尻に火が付いたのです。
本当に感謝いたします。ますます精進いたします。

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:59:52 ID:gKd/0M7o0
>>728 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>723 悟っていないのじゃ。
 言葉の意味もわかっていないようじゃ。
 真我などないのじゃ。

>>729 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>730 そのまま続けるのじゃ。
 やがて雑念がありながら集中できる状態になるじゃろう。

 そしてさらに続ければ雑念が自然に止まるまで流していけるようにもなるじゃろう。
 雑念や思考が止まり、それにもかかわらず意識はある状態に気付くじゃろう。
 それが無念無想の状態なのじゃ。

 思考や雑念に邪魔されず、観察する事が可能になるのじゃ。
 そこまで行ったら観察をするのが良いのじゃ。

>>731 パソコンのやりすぎだとクリック一つでいろいろできるから散漫になるの字や。
 一日1時間とか時間を決めてやると良かろう。

>>732 特に苦が無くとも、他の衆生を観察すればいかにひとは苦によって苛まれるかわかるじゃろう。
 それを観るが良いのじゃ。
 自分の苦は少ないほうが良いのじゃ。
 できることが多くなるからのう。
 自分の可能性を広げるのじゃ。

>>733 どういたしまして、またおいでなさい。

736そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/04(木) 07:37:05 ID:rzoJTJNQ0
>>735
ありがとうございました。

737避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

738避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 12:45:30 ID:xqk39LY60
>>735
鬼和尚さん、ありがとうございます。
では、次は、雑念があっても集中しているという感覚が掴めるまで
やってみようと思います。
鬼和尚さんのように教えてくださる人がいて、本当に良かったです。
ありがとうございます。

739鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

741避難民のマジレスさん:2014/12/05(金) 18:47:48 ID:jfWCoXjM0
>>739
法は理解するだけでなく、本心に向けて実践すべきものと再認識できました。

鬼和尚の案内で道を間違えないですみそうです。いつもありがとうございます_| ̄|○

742そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/05(金) 20:26:25 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
感興のことば 第32章 修行僧のところで
『「わがもの」という観念がなく』の辺りを読んでいて、
私が思考する時はたいてい、何物かを我が物としようとしているのだと気付きました。
対象をとり挙げて、あれこれと考え、考えの中にオリジナリティを見出し、
他人はこうは考えないだろう、こう考えるのは自分ならではだと思い、
そうやって「我」という感覚を得ようとしていたようです。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:41:41 ID:N4ZFFlx20
>>741 そうじゃ、自らの本心を明らかにするのが真の実践なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>742 良い気付きなのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば悟りも近いじゃろう。
 見る者に気付くのじゃ。

745そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/06(土) 13:47:12 ID:rzoJTJNQ0
>>744
ありがとうございました。

746避難民のマジレスさん:2014/12/06(土) 14:46:04 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
ぷよぷよとかブロック崩しとか、誰でも勝ったり負けたりできるゲームは、普通の人がはまるので、定番の入門ゲームとして不動地位を占める。
チョピッと頭の良い人や反射神経のよい人はすぐに攻略法を見出だすのですぐに飽きちゃう。
ゲーム人口が増え、普通の人もみんな少しずつ上達し、ゲーム作家は飽きられないようにゲームは少しずつ複雑化してきた。
文明文化芸術等はきっと、こんな風だったのかなと・・・・「欲」についてボーッと考えてたら思い付きました。
どんなゲームにも、きっと、攻略法はあるのでしょう!

鬼和尚は悟る前、ゲームとかやったことありましたか?

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:23:35 ID:N4ZFFlx20
>>745 どういたしまして、またおいでなさい。

>>746 昔は将棋などもやったのじゃ。
 インベーダーとかもやったのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 01:00:56 ID:LC3de7YgO
>>747
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
> それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。

→小乗の観念を生み出す行い、執着の元となる「修行法(?)」具体的にはどのようなことをいうのでしょうか?

>真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。
→大乗では「止」を重視し、小乗では「観」を重視してきた。ここではマハームドラの法(「空」の法)をイチオシとしているけど、
 方法論としては相互補完的に、いいとこ取りで、目的に向かおうというような理解で良いのでしょうか?

>行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
→とは、単にマハームドラの法の言い換えという理解で良いのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 20:06:33 ID:jfWCoXjM0
     (~)
    γ´⌒`ヽ
     {i:i:i:i:i:i:i:i:}   ブッコクドハ
    (  ´・ω)   ココデスカ?
      (:::O┬O
 = ◎-ヽJ┴◎ キコキコ

751鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:22:48 ID:N4ZFFlx20
>>749 それらは自分が行うという観念があれば、全てがそうなるのじゃ。
 止観や四諦や縁起を観るのも自己という観念に囚われれば執着の元になるのじゃ。

 相互補完と見て良いのじゃ。
 自分がやり易い方法で進むのが良いのじゃ。

 それがマハームドラーで良いのじゃ。
 それも無というのがマハームドラーであるがのう。

>>750 おぬしの心がすでに仏国土なのじゃ。
 心の中心に仏が居るのであるからのう。

753避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 22:51:17 ID:LC3de7YgO
>>751
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
死すべきものとしての人が究極の「苦」であるその死を乗り越えるには、、まず、永遠普遍のもの以外は全て「実体」のないものと位置付け、実体のないものは観念に過ぎないものであり、その観念に過ぎないものをの根幹である「自我」をまず消し去る。
その上で更に意識をも消し去り、「空」「マハームドラ」と合一化する。

という理解で良いのでしょうか?

時間や実体等々に関する観念を乗り越えるために、ありとあらゆる修行方があると言うことでありますね。

754避難民のマジレスさん:2014/12/08(月) 18:59:52 ID:jfWCoXjM0
>>751
解説ありがとうございます_| ̄|○

気づきが起こって無明を払っても、これまでの習慣から無意識のうちに
以前の無明の状態に戻ってしまうことってありませんか?

755鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 23:00:07 ID:0erK2p060
>>753 それでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>754 そのような事は無いのじゃ。
 例えばくちた縄を蛇と間違えていた者が、それを縄だと気付いたら二度と蛇とは思わないようにのう。
 気付くとは、文字通り今までの間違いに気づき、正しい認識を取戻す事であるから、戻る事は無いのじゃ。
 人と話をするために、自我があるふりをすることはあるがのう。

757避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 01:43:07 ID:LC3de7YgO
>>756
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

金剛般若経の暗記は中断して、般若心経から岩波文庫の解説の精読を始めました。
四回ほど熟読してみて気になるところが一ヶ所だけありました。
第21刷の21ページ、13行目に「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」と説明されているのですが、空=相関的という説明に違和感を感じます。
違和感の理由は説明できないのですが・・・。

758素人A:2014/12/09(火) 10:38:20 ID:lrr2AdnA0
真でも死んでも芯でも新でも解らないカラー空?
我々我求めても身得ない仕組みの言葉にもならない世界の仕組みが有る世うな
我々が生きている間は見える部分と見えない部分カラー成り立っている
枝の感覚は見えているけど見えないところもある。
見えない不文は肉体が新でも枝より身樹の部分で枝か落ちてもまた新しい枝が出る
それより元は限りなく枝分かれの逆で元の元を求めたら無限に続くのか
哲学的に最後は 嘘から出た真に たどり着いて居直るしかない。
このことわざの真の意味は凄い事いつている野鴨 嘘カラー出た誠もありの鴨
後は鬼和尚さんに聞くカラー 嘘空飛び出した独りの人は一人だけでは寂しいので
虹の世界を夢見るのでしょうか色々あるカラーでにぎやか過ぎるとうるさくて困るし

759避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 12:06:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

Aさんの文章を読んでて「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」、空=相関的という説明に対する違和感の理由を思い付きました。
「空」とは生でも死でもなく、あるでもないでもない、ただ「無」のみによってあらわされる。
背景として、まず「無」があり、そこから「有」が生まれ、また「無」に帰る。
「空」を相関的と説明すると、生あっての死、有あっての無みたいな感じで、空あっての何なのか? みたいな発想を私がしてしまうので、違和感に繋がったのかなと思いました。
「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」とは、「無」を背景としつつ、全てを包含するその構造のことを説明しているのかなと思いました。

で、「空」とは、極めて希な確率でこの世に生まれ、死んで行く人の「死」のイメージそのものかなとも思いました。
「空」を観想することは、「死」を観想することと一緒で、自分を観察しつくすことは、自分の死を観察しつくすことなのかなと思いました。
こんな理解でも良いのでしょうか?

760避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 18:54:32 ID:QMm34KcU0
鬼和尚のような徹底した悟りを得てしまうと、普通の社会では、かえって生き辛くなるということはありませんか?

761避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 22:32:35 ID:jfWCoXjM0
>>755
解説ありがとうございます_| ̄|○

一切の識別を離れた観察と、無意志による観察と、観照は同じものですか?

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。

763鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:23:46 ID:q5vkUh4s0
>>757 そうじゃ、本当は無なのじゃ。
 学者なども本当は知らないのじゃ。
 縁起も無であるのが空なのじゃ。

>>758 仕組みも無なのじゃ。
 寂しさも無いのじゃ。
 それが在るのは何か執着が在るからなのじゃ。
 それを観察するのじゃ。

>>759 そうじゃ、一切を無であり空であると観るのじゃ。
 死もまた空なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>760 突き抜けてしまえば辛くも無いのじゃ。
 全ては試であるからのう。
 むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

>>761 同じではないのじゃ。
 自我が観察できたら観照なのじゃ。
 それ以外は同じと言ってよいのじゃ。

764避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 01:31:05 ID:LC3de7YgO
>>763
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

今日は金剛般若経の訳文を読みました。
求道者は無我であるべしという教えでありますね。

暗記するのは、信心銘やマハームドラにしょうかと思います。
この二つは日々の瞑想に直結する詳細を説いていることが、鬼和尚の解説でよくわかりました。

765避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 02:35:46 ID:QMm34KcU0
>>763
>むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

哀れむということは、哀れむ自分とその対象である他人の区別がある
ということですね。
「悟っている自分」 と 「悟っていない他人」 を区別するということは、上の
マハームドラーの解説で言われている 「もはや自分も他人も無い」 という
ことと矛盾しませんか?

766素人A:2014/12/10(水) 08:14:45 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんありがとう最近時間が無く年末に追われている。起きるのも遅く
太陽のせいで時間が短いと言う.昔の人は太陽を大事にしたが今は正確な
時計に支配されて.年末は今年の暮れで金稼げないで焦るけどもう遅い
あきらめて一休さんのなんとかなる使用しかないのだけど焦る

767避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 14:58:37 ID:jfWCoXjM0
>>762
マハームドラーの解説ありがとうございました!ヽ( ´ー`)丿

鬼和尚はどんな感じで解説を書いているんですか?
悟った人同士、僧さんやティローパの言葉を読めば
言わんとすることを即座に感じ取れるんでしょうか?

768避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 22:17:56 ID:cbrvr2Ew0
鬼和尚、いつ死ぬか分からないという無常観をといつめた方が菩提心も強くなるのでしょうか?
また和尚自身は無常観はありましたか?

769鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/10(水) 22:37:20 ID:uy5NHaGM0
>>764 そうじゃ、覚えたらよいのじゃ。
 日々読んで実践すれば何かつかめるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>765 対象と同一であるから哀れむのじゃ。
 全く無関係ならば哀れみも起こらないのじゃ。
 
>>766 なんだか知らんが稼げないとか考えるのは無駄な上にお金を遠ざけるのじゃ。
 どのような方法を行えばお金を稼げるかという事に思考を集中するのじゃ。
 その心構えがお金を生む道を作り出すのじゃ。
 
 実践あるのみなのじゃ。

>>767 そうじゃ、それを解説する時、わしは既にそうさんやティローパになりきるのじゃ。
 本人ならば良く判るのじゃ。
 おおかわりゅうほうではないがのう。

>>768 そうじゃ、それを常に意識すれば強くなるのじゃ。

 わしは常に死を恐れ、死を超える道を探していたのじゃ。
 そして死を超えて目覚めたのじゃ。
 無常観は菩提に行くための杖のようなものじゃ。
 常に思えば本当に死を超えた境地以外で満足する事はなくなるのじゃ。

770避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 23:33:33 ID:/Tir5mUE0
∵顔に見える

771避難民のマジレスさん:2014/12/11(木) 16:28:59 ID:cbrvr2Ew0
>>769
ありがとうございます

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/11(木) 21:59:45 ID:ZB7yU0ZY0
>>770 それが記憶によるパターン認識なのじゃ。
 似た形があれば記憶から顔であるとか感じるのじゃ。
 夜空の星も適当に並んでいるのに人とか白鳥などに見えるのじゃ。

>>771 どういたしまして、またおいでなさい。

773避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 01:18:25 ID:r1oLRRk20
自我と本心の違いはなんですか?
例えば宝くじを買ったとして、当たっていて欲しいと思うのは自我なのですか?本心なのでしょうか?

774避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 13:53:19 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚にいろいろ質問しながら今までやって来たことをまとめてみます。
1)姿勢をただし、呼吸に集中して、雑念がわいたことにできるだけ早く気付き、集中にもどる。
ここでまず、日常の雑念の多さを知り、それらは制御されていない記憶が、不規則に溢れだしていることであることを知るとともに、それらは、集中対象に意識を戻すことにより、あっさり消え去るものであることも知る。
2)(1)だけでは消えない強い感情を伴う雑念については、「止」から「観」に切り替え、縁起の法で分析し、記憶=観念に基づき生じた感情には実体はなく、消えるものであることを実感する。
3)少しずつ無思考の状態をもてるようになると、(1)(2)により記憶や観念の実体のなさを実感していなければとても向き合いたくないような、心の深奥に隠されていた自分の、本心、本性、負の側面が、見えてくることを経験する。
4)(1)(2)によりそれらとも、向き合えるようになっており、完全に自らを暴き尽くせているわけではないが、様々な負の感情から解放が進んでいるのを感じる。
5)本心、本性、負の側面に蓋をしなおしたり、消し去るのではなく、それに苦しまなくなれば、経験、記憶により形成されたそれらの本心以前の、「無分別」の本心=「無我」を見いだせるかもしれないと座っている。←今ここ(´・(ェ)・`)

*)(1)で姿勢や呼吸を追求してる時に
生じるようになった臍下丹田の強い陽気による禅病・クンダリニ症候群対策から始めた「気」の行については、鬼和尚からも私には、「気」の行が私には向いているかもしれないと以前言っていただきましたので、陽気が充実していると感じたり、勝手に動き出した時には、積極的に取り組むようにしています。
このような身体技法で、途中(サマディ)まででも何等かの変容が起こるのであれば、解りやすくていいなと思います。

以上龍明のおすわりの途中経過であります。

775鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/12(金) 21:51:25 ID:nVVDF5XM0
>>773 自我とは観念なのじゃ。
 観念であるから存在せず、あると思うのが謬見なのじゃ。

 本心は自分が本当に思っている事なのじゃ。

 観念である自我はそれ自身の繁栄を願うから当って欲しいとするかも知れんが、本心は破滅したいと思っているのかもしれん。
 ギャンブラーなどは大体そうなのじゃ。
 そのようであるから自分の本心を知るように努めなければ、破滅するかも知れんのじゃ。

>>774 良かったのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 更に精進するのじゃ。

776避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 23:39:33 ID:r1oLRRk20
鬼和尚さん、ありがとうございました。

777そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/13(土) 13:06:40 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
死に対する意識が変わってきました。
以前は、単なる恐怖、終わり、生きてるうちに知ることのできないもの、などでした。
今は次のようなものです。

光とそれを視るものの別がなくなる。
音とそれを聞くものの別がなくなる。
匂いとそれを嗅ぐものの別がなくなる。
味と舌の別がなくなる。(どこまでが味でどこまでが舌なのか。)
触れるものと触れられるものの別がなくなる。
これらの統合としての個がなくなる。

778避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 16:04:54 ID:LC3de7YgO
>>775
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ

信心銘は、分別をなくすことが悟りへの道であると繰り返し説いてるのですね。
分別された自己が自我であり、経験と記憶により植え付けられた観念を全て捨て去り、生まれたばかりの最初の意識の種に立ち返り、物事を観れるようになることを求めるのが修行なのですね。
きっと、悟れば、裸眼で全てが見えるようになるのでしょう。
裸眼で見える世界は、鬼和尚が見る世界も私が見る世界も変わらないのでしょうから、私は記憶と観念という眼鏡を外すべく修行を続ければいいのですね。
要は、個は個だけど、裸眼で観るありのままの世界は一つで、倒錯した世界を見てしまう記憶に基づく観念の眼鏡を外すことに気付けは、あの個もこの個も一として、その中に永遠に生きつづけることができ、いつか、人類学滅び去っても、見ている個が一なら、見られる世界がどう変わろうと、滅びようと、見られる世界と一体であることには変わりがない。
「空」「マハームドラ」あるいは「死」とはそんなイメージでしょうか?

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/13(土) 22:00:37 ID:nVVDF5XM0
>>776 どういたしまして、またおいでなさい。

>>777 良い気づきなのじゃ。
 更に観察を続ければ他の気付きも起こるじゃろう。
 それにも囚われずに進むのじゃ。

>>778 マハームドラーと空にはいかなるイメージも無いのじゃ。
 何かイメージを持ちたくなるのが記憶による認識の習慣なのじゃ。
 何のイメージも無い、無によってのみ表されるのがマハームドラーであり、空と知るのじゃ。
 それは記憶によるイメージ照合の習慣を持つ人間には、困難であるがそれを超えて実践するのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 23:19:57 ID:LC3de7YgO
>>779
(´・(ェ)・`)ゞあっ! そうでありました。 鬼和尚、いつもありがとうございます。
信心銘 毎日3段(ふられてる数字の3つ)づつ暗記してるであります。

781そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/14(日) 11:16:02 ID:rzoJTJNQ0
>>779
ありがとうございました。

782避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:16:45 ID:ESomIESI0
鬼和尚
鬼和尚が死を超えたのは厭離の行の最後の一歩なのですか?
死を超えた後はどんな修行をされているのですか?

輪廻から解脱し来世に生まれる事はないのですか?

783避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:30:31 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

改めて和尚のブログを最初から読ませて頂いているのですが、
数年前の記事に質問などのコメントを書いてもお返事を頂けますでしょうか。

システム上、コメントが見つけにくいようであるなら
こちらで質問させて頂こうかと考えております。

784鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/14(日) 22:36:52 ID:uVYxezU60
>>780 そうじゃ、何のイメージも無い事には分別の習慣が常に邪魔をするのじゃ。
 イメージがないとそこに何かのイメージを設けたくなるのじゃ。
 それこそが観念の罠なのじゃ。

 同時にそのような抵抗があるからこそ、観念を滅するために使えるのじゃ。
 
 精進する心に花が咲くじゃろう。

>>781 どういたしまして、またおいでなさい。

785避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 21:22:20 ID:LC3de7YgO
>>784
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>観念の罠
>抵抗があるからこそ、観念を滅するために使える
→鬼和尚によって、全てを悟りを得るために合目的的に配置し直して説明していただけるので、バガな龍明でも悟れそうな気がしてしまうであります! 
>精進する心に花が咲くじゃろう。
花を咲かせたいであります!


信心銘 4分の1くらい覚えたであります。

786鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/15(月) 22:12:59 ID:OTCU79po0
>>782 死を超えたのは悟ってからなのじゃ。
 認識をも厭離しなければ死は超えられないのじゃ。
 個我という観念を生起する認識が残っていれば、自我は又起こり、死もまた起こるのであるからのう。

 衆生を導くために衆生の心について学び、瞑想をしているのじゃ。

 もはや生まれる事は無いのじゃ。
 個我がないからのう。

>>783 一応、昔の記事のコメントも見られるがのう。
 直ぐに返事を望むならばこちらで聞くほうが良いじゃろう。

>>785 良い事じゃ。
 一事に通じれば万事に通じるのじゃ。
 信心銘に専念してわかればみんなわかるということなのじゃ。
 一事に精進するのじゃ。

787避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 23:23:50 ID:NwrrXpyY0
寒い中外にジョギングに行くのは嫌だ、とか腹筋運動は疲れるからやりたくない、とか注射は痛いからしたくないとかはなんなのですか?
これも自我なのでしょうか?

788避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 10:24:30 ID:JagcJSxo0
>>786
了解しました。
では質問があった場合はこちらでさせて頂きます。

と返事しておきながらいきなり質問なんですけど、
「姿勢が大事じゃ」で書かれている丹田の統一ですが、

①これは仙道や気功のような特別な訓練をしている者でなくても、
 ピッタリと揃えば気がのぼり快が生じるのでしょうか。

②瞑想状態ではなく、「こうかな、いやこれかな」などと思考をしながらでも、
 揃えば快は生じてくるのでしょうか。

よろしくお願いします。

789そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/16(火) 19:45:31 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
日常的にはこれといった苦が起こることがほとんどなくなってきました。
それに伴って気付きも増えてきています。

例えば、頭の中で他人のことを考えて、そして頭の中で自分のことを考えている時、
その他人は目の前には居なくて、頭の中だけにいるわけですが、
それと同じように自分というものも実は頭の中だけに居るのだろう、ということです。

また、瞑想中に呼吸の間隔が長くなってほとんど止まった時、
「これは死んでいるようなものじゃないか」と思ったのですが、
してみると、我々が一般に「生きている」と言うのは実はとても観念的なものではないかと。
生が観念なら、死も同様に観念なのだろう。
いわゆる生とか死というものは虚構のようなものだと。

それから、様々なことがどうでもよくなってきています。
以前と同じような出来事があっても、それに対する心の動きがとても少ないです。
そのような自分に対して「ほんとにそれでいいのか?」
と問い質す自分の声もありますが、それは旧い自分の声なのでしょう。

790避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 21:36:39 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
厳密なやり方ではないまでも縁起の法をやることや、常に「記憶にもとづく観念に過ぎない自我の抱く感情」という見方をすることにより、ずいぶん前から感情の起伏が急低下しており、最近は、他者の発言や態度に感情を動かされることも、自らの行く末について不安を感じることも、どんどん少なくなってきました。
また、感情の起伏や不安を感じにくくなっていることが、そらいろさんが書いてるように、>様々なことがどうでもよくなってきているとも感じられたりします。
これは、かなり楽チンでいいやって感じになっています。それ以上の変容は今のところ特別ありませんが、どうせなら、最後の花が咲くところまで行きたいと思うであります
(´・(ェ)・`)

791鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:27:18 ID:sPEHpKsg0
>>787 そうじゃ、自我や観念の働きなのじゃ。
 今までの経験からそれらは後には肉体に良いかも知れんが、今は苦しいと判っているから、避けようとするのじゃ。
 何も考えずにやってしまうと意外に簡単なのじゃ。

>>788 ① そうじゃ、本当に姿勢が正しければ下丹田に圧力がかかり、気が上るのじゃ。
       白隠は気功などはしていなかったが、座っているだけで気が昇りのぼせたのじゃ。
       気を下ろす行をして健康になったのじゃ。

     ② それも出来るのじゃ。
        気が昇れば思考は自然に停止するか弱くなるのじゃ。
        姿勢を正す事で初心者でも素早く深い境地には入れるのじゃ。

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:37:06 ID:sPEHpKsg0
>>789 良い気付きなのじゃ。
 境地が深まっているのじゃ。
 そのまま恐れなく進めば永遠の意識に至るじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>790 良い事なのじゃ。
 自然な厭離が起こってきているのじゃ。
 悟りも近付いてきているのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

793787:2014/12/16(火) 23:41:46 ID:NwrrXpyY0
>>791
ありがとうございます。原因がわかりすっきりしました。

794避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 23:48:26 ID:LC3de7YgO
>>792
鬼和尚、ありがとうございます。

鬼和尚に教えてもらった通りにやれば、こんなに楽になれるんだから、みんなやったらいいのに・・・と強く思うであります。

難しいのかもしれないことを、簡単なことのように思わせていただけ、その気になって実践したら、全部自分で実感できることばかりであります。
けど、未だ、三昧も観照も遠くに感じるであります。
けど、がんばりますo(`(へ)´*)o

795そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/17(水) 07:42:45 ID:rzoJTJNQ0
>>792
まだまだ執着も多いですが精進します。
ありがとうございました。

796避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 11:38:01 ID:JagcJSxo0
>>791
和尚、こんにちは。お返事ありがとうございます。

姿勢はかなり重要のようですね。
武道やスポーツなど、体を動かすことなら姿勢の影響は直に感じることはできますが、
精神世界においてもそこまで影響してくるとは思ってもみませんでした。

今までは座ったらとにかく意識を置こうとしていましたが、
これからはまず姿勢をチェックしてみたいと思います。

797避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:10:46 ID:NpBkhqbI0
http://www.kaynotes.com/archives/7976419.html
悟りを開いた人があまり楽しそうでない理由

↑この記事の理解は正しいですか?
修行者は、必ず、この手のジレンマに陥ると思いますが。
悟りを開いた人の立場からコメントをお願いします。

798避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○

wikiからコピペです。
※原文書き下し

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

799鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:38:02 ID:3LQWQGf.0
>>793 どういたしまして、またおいでなさい。

>>794 そうじゃ、苦しむものに教えたらよいのじゃ。
 すでにサマーディは近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>795 どういたしまして、またおいでなさい。

>>796 そうじゃ、姿勢によって瞑想も成功したり失敗したりするものじゃ。
 姿勢はいくら研究してもし足りないぐらいなのじゃ。
 正しい姿勢が判ればサマーディにも速やかにたどり着けるのじゃ。

>>797 正しくないのじゃ。
 我見によって観念妄想に陥っているだけなのじゃ。

 我見が消えれば全てが一つとなり、全ての喜びがあるのじゃ。
 それは一個人の味わえる喜びを超えた無限の喜びなのじゃ。
 我見による個我の喜びではないから、全てが喜び、全てが安楽なのじゃ。

 その境地は我見に陥っていればわからないのじゃ。
 サマーディにでも達すれば、その片鱗を僅かに垣間見ることが出来るのじゃ。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

801避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 16:17:19 ID:LC3de7YgO
>>799
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
信心銘、半分暗記しました。

信心銘を何度か読んで思ったことを書いてみます。

物事を認識し、認識対象が確かにあると実感されるとしても、現象としてある物全てが永遠に存在し得ない以上、今あることは確かだったとしても、いずれ無に帰するものとしてあるに過ぎない。

同様に、認識している自分自身の存在も、限られた経験と記憶に基づく観念的存在であり、観念にすぎないものは、夢幻のようなものであり、実体はない。
個としての観念の根底にある、「本心」に気付けば、そこに、個的経験、記憶以前の意識そのものを想定できる。
そこまで、実感としてたどりつければそれが「無我」である。
しかし、認識がある以上認識する主体が前提となり、いかに変容しようとも、残った「自我」の再生の契機となる。
そこで、認識も認識対象もない、有も無もない、善も悪もない、時間もない、「空」を想定することにより、認識を消し去り悟りに至る。

快を求め不快を嫌い、生を求め死を嫌い、善を求め悪を嫌らうのが本質であってもなくても、全てを包含する「空」であるということは、個の根底にある本心の求めるもののみに満たされることになる。

こんな信心銘の理解でも良いでしょうか?

802避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 20:50:40 ID:jfWCoXjM0
>>800
解説ありがとうございます!
今日も続くのでしょうか?楽しみに待ってます☆

803鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:44:15 ID:3LQWQGf.0
>>801 そのようなものじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>802 そうじゃ、続くのじゃ。
 WKTKして待つのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 23:31:22 ID:LC3de7YgO
>>804
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
目の前のあんパンやPCや、それを五感で認識するおのれの存在の確からしさを実感として否定できるとこまで行き着くのは、記憶の断片=観念の寄せ集めとしての自我という理屈の単なる延長戦上では無理でありますね。
それを、 見抜くためには、無分別=空を追求するか、自我が生じる瞬間を観察し切る実践しかないのでありますね。

けど、鬼和尚の説明で理屈も少しづつ、整理できてきた気がするので、励みになります。

806鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。


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