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鬼和尚に聞いてみるスレ part2

601避難民のマジレスさん:2014/01/10(金) 16:22:49 ID:wAZuhk5M0
自我の生起を観察してみました。自我は後になって現れるものだったんですね。
自我というものは、対象に憑依しないと現れることができない幽霊のようなものでしょうか?
感覚、感情、思考、想念やこの世界は、自我が口を挟まなければ、
何が起ころうとそのままで何の問題もないのではないでしょうか?

602避難民のマジレスさん:2014/01/10(金) 17:00:29 ID:wAZuhk5M0
記憶に依存しない認識とは、記憶を持たない生まれたての赤子の認識ということでしょうか?

認識というものは、
「ドン!(音です)」→振動をただ振動として感知するー→「音だ」とわかるーー→「うるさい」と思う
この初めの→の部分の働きのことを指すのでしょうか?それともー→もーー→の部分の働きも認識でしょうか?

鬼和尚が言われている”認識を厭離する”とは、
このような働きも対象がないと存在できない一時的なものであると気づくことでしょうか?

認識を滅すると、世界は一様であり差異は認められなくなるのでしょうか?

603鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/10(金) 20:41:37 ID:kaXJvxhM0
>>595 
 言葉の無い観察に入っていくのじゃ。
 またおいでなさい。

>>596 主体という概念を厭離しただけでは未だ無我による小悟なのじゃ。
 阿頼耶識そのものも観察して厭離しなければ真の悟りではないのじゃ。
 阿頼耶識はただ記憶に依存した認識である故に、自我が無くなれば容易に滅する事も出来るのじゃ。

>>598 それも気づきなのじゃ。
 
>>599 そうじゃ、一切の障害を滅して進むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>600 集中によって言葉とイメージを結びつける分別の働きが止まりかけたのじゃ。
 そのまま続けてよいのじゃ。
 自我の働きは無いのじゃ。

 瞑想中にはさまざまな怪異な現象なども現れるが、その一つ一つに意味は無いのじゃ。
 あっても無くても同じなのじゃ。
 瞑想中に現れる一つ一つの現象に囚われず、ただひたすらに集中すればサマーディは向こうから現れるものじゃ。
 それまで精進在るのみなのじゃ。

604鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/10(金) 21:18:56 ID:kaXJvxhM0
>>601 そうじゃ、自我は心の働きに投射される観念に過ぎないものじゃ。
 自我が投射されなければ苦しみさえも無に等しいものじゃ。
 始めから全てには何の問題も無いのじゃ。

>>602 記憶の種子の無い赤子の認識は悟りの認識に近いが、やはり薫習はあるものじゃ。
 阿頼耶識は分別と記憶による照合を行うのじゃ。
 それを行わないのが本来の認識なのじゃ。

 それも気付きの一つではあるがそのように気付くとは限らないのじゃ。
 認識が記憶に依存していると気付くこともあるじゃろう。
 気付きも言葉で限定されるものではないのじゃ。

 そうとも言えるのじゃ。
 しかし言葉で現されるような在りようではないのじゃ。

605避難民のマジレスさん:2014/01/10(金) 22:22:05 ID:LC3de7YgO
>>603
ありがとうございます。

ネットで調べてみました。↓
『唯識では,無始以来の人間の業は阿頼耶識にプールされ,その阿頼耶識が生死輪廻の主体となると考え,無我説に抵触することなく生死輪廻の機構を巧みに説明』・・・・と解説されていました。
唯識思想、阿頼耶識、輪廻という概念を用いずに、悟りを説明することは不可能でしょうか? 。

606避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 10:12:15 ID:aqEyZ8OU0
何日か前、食べ物の好き嫌いを観察したら原因が滅して以後は美味しく食べられるようになった
という書き込みがあったのですが、美味しく食べられるというのは観念では無いのですか?
美味しいという観念も五蘊・十二処・十八界の範疇で、当然縁起の法で滅せられるものですよね。

もの事をありのまま見るには自我を滅するしかないし、自我が無くなれば
全ての苦から解放されるのは理解できます。
ただそれと同時に、楽しい、嬉しい、美味しいなどの世間的にはポジティブと言われている観念も
全て消えてしまうのでは無いのですか?

ポジティブな観念も滅しないと悟りには至らないけど、ネガティブな観念だけを滅する為に
縁起の法を利用する事も出来るというなら、まあそれに越した事は無いし
ポジティブな観念もいずれは苦に変わる事に修行を続ければ気づくから、まずネガティブなものから
滅していったほうが理に適っているという事なんでしょうかね。

ただ悟ったら世界が輝いて見えるとか、素晴らしい世界が待っているなんて事もなく、
淡々と日々の生活を過ごしていくような気がするんですよね。
まあ苦しい事が無いだけで十分なんでしょうけど、過度に期待してる人も多いような気がします。
結局そういう期待が悟りを遠ざけるのでは無いのでしょうか。

607避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 12:37:14 ID:7rD9T5220
>>603 ありがとうございます。
瞑想中に起こったことは、瞑想中にはスルーできてましたが、
瞑想後に、あれこれ思考して囚われていました。
今後は瞑想後も気にしないようにしたいのですが、
一つだけ追加で質問をさせてください。
もしサマーディが現れれば、それは本人にはサマーディだと
分かりますか?

608避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 16:12:32 ID:PoOqi1b.0
鬼和尚、
観察と気づきとの関係について、教えてください。
観察によって何かを観ても、気づきが無い場合もありますか?
それとも、正しく観察すれば、必ず気づきがあるものでしょうか。
というのも、観察は能動的にできますが、気づきは他任せというか、
どこかからやってくるような感覚があります。

苦滅の法を試していて、成功した場合には、「そうか!」という
ような気づきが伴っていますが、何回か同じように対象を観察して、
それで初めて気づきが現れることもあるように思いましたので。

609避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 16:35:11 ID:Bwz0R3.60
古今亭志ん生 「怪談阿三の森」 - 55:05
http://www.youtube.com/watch?v=Cs_ac_K3VdU
古今亭志ん生 - 200件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=-0GVTduiPLE&list=PLB43FE0867B789EFD

610避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 20:39:34 ID:wAZuhk5M0
悟りとは明確な理解のことではないでしょうか?

611鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/11(土) 20:46:07 ID:kaXJvxhM0
>>605 出来るじゃろう。
 阿頼耶識とは現代の言葉で言えば、記憶に依存した認識なのじゃ。
 それが記憶から自我という観念を創り上げるのじゃ。
 観念でしかない自我が苦の原因となるのじゃ。
 集中と観察によって自我を滅し、認識を記憶の依存から解き放てば真の悟りが得られるのじゃ。

>>606 それは観念ではなく感覚である事もあるじゃろう。
 体は本来健康に良いものを美味しく感じるものじゃ。
 味覚とはそのためのものともいえるのじゃ。
 今の肉体に合う物を美味しく感じ、害のあるもの不味く感じるというのじゃ。

>>607 必ず気づくじゃろう。
 我を忘れ、快が生じ、寂静が起こるのじゃ。
 光り輝く世界の真の姿が垣間見えて、自他の無い一切が一つの境涯を味わえるのじゃ。
 それによって死の恐れも無くなり、安心するじゃろう。

612鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/11(土) 21:09:02 ID:kaXJvxhM0
>>608 あるじゃろう。
 心に恐れがあって逃避して対象を本当に観察して居なかったり、自己同一化が強ければ気づきも起こらなかったりするのじゃ。
 原因が間違っていたり、複数あっても正しい気づきは起こらなかったりするのじゃ。
 常に集中して真摯に詳細に観察しなければいかんのじゃ。

>>610 違うのじゃ。
 理解や知識だけでは失う事も在るのじゃ。
 真の悟りとは観察による気づきによって自我を滅し、認識をも滅する事なのじゃ。
 それによる変容は本来の認識に回帰する事であり、永遠に戻る事は無いのじゃ。

613避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 21:29:11 ID:ZPFk8Jag0
サマーディってそのときだけのものなの?
例えば瞑想しているときにサマーディになって、瞑想終わって1時間後にはいつも通りになってた。とかもあるの?

614避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 21:38:15 ID:LC3de7YgO
>>611
ありがとうございます。
> 『阿頼耶識とは現代の言葉で言えば、記憶に依存した認識なのじゃ。
 それが記憶から自我という観念を創り上げるのじゃ。』
ここで仰られている 阿頼耶識とは、主体のない意識・・・「全体(あるいは宇宙)」の意識のようなものであり、その 「全体」の記憶に依存した「全体」の認識 であり且つ「部分」である「自我」も「阿頼耶識」を共有するという仮定を前提におくことにより、本来言葉にできない「悟り」を想像してみる…イメージをつかむ試みであるとの理解でよいのでしょうか?

615避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 21:48:20 ID:/3RaFYDk0
>>611
確かにそれだけのことが起これば、間違いなくサマーディに気づけそうですね。
懸案が解決しました。瞑想中も瞑想後も囚われず、精進します。
ありがとうございました。

616避難民のマジレスさん:2014/01/11(土) 21:56:59 ID:/3RaFYDk0
>>612
気づきが起こるまで、本心から逃げずに粘り強く、観察につとめ励みます。
ありがとうございました。

617避難民のマジレスさん:2014/01/12(日) 00:43:11 ID:Bwz0R3.60
無門関 第二則 百丈野狐

 百丈和尚、凡ソ参ノ次イデ、一老人アリ、常ニ衆ニ随ッテ法ヲ聴ク。
衆人退ケバ、老人モ亦退ク。
忽チ一日退カズ。
師遂ニ問フ、面前ニ立ツ者ハ、復タ是レ何人(ナンピト)ゾ。

 老人云ク、諾、某甲(ソレガシ)ハ非人ナリ、過去迦葉仏ノ時ニ於テ曾テ、此ノ山ニ住ス、因ミニ学人問フ、大修行底ノ人、還ッテ因果ニ落ツルヤ也タ無シヤ。
某甲対(コタ)ヘテ云ク、不落因果ト、五百生野狐身ニ堕ス。今請ウ和尚、一転語ヲ代ッテ、貴(タット)ムラクハ野狐ヲ脱セシメヨト。
遂ニ問フ、大修行底ノ人、還ッテ因果ニ落ツルヤ也タ無シヤ。

 師云ク、不昧因果。

 老人言下ニオイテ大悟、作礼シテ云ク、某甲已ニ野狐身ヲ脱シテ、山後ニ住在ス、敢テ和尚ニ告ス、乞フ亡僧ノ事礼ニ依レ。

 師、維那ヲシテ白槌(ビャクツイ)シテ衆ニ告ゲシム、食後ニ亡僧ヲ送ルト、大衆言議ス、一衆皆安シ、涅槃堂ニ又人ノ病ム無シ、何ガ故ゾ是ノ如クナルト。
食後ニ、只師ノ衆ヲ領シテ、山後ノ巖下ニ至リ、杖ヲ以ッテ一ノ死野狐ヲ跳出シテ、乃チ火葬ニ依ルヲ見ル。
師、晩ニ至ッテ上堂、前ノ因縁ヲ挙ス。

 黄蘗便(スナワ)チ問フ、古人錯マッテ一転語ヲ祇対シテ五百生野狐身ニ堕ス、転転錯ラズンバ合ニ箇ノ甚麼(ナニ)トカ作ルベキ。
師云ク、近前来、伊(カレ)ガ與ニ道ハン。

黄蘗遂ニ近前シテ、師、一掌ヲ與フ、師、手ヲ拍ッテ笑ッテ云ク、将ニ謂ヘリ胡鬚赤ト、更ニ赤鬚胡アリ。 』


 無門関 第二則 百丈野狐 

これは、色即是空は、空即是色と返す、と言っている。

618避難民のマジレスさん:2014/01/12(日) 09:46:26 ID:aqEyZ8OU0
>>611
だからその感覚も五蘊・十二処・十八界の範疇なのだから、悟りに至るためには
縁起の法で滅せられるものですよね。
それとも悟った後も美味しいとかそういう都合のいい感覚の方だけは残るという事ですかね。
都合のいいものだけを滅せられる素晴らしい法なんて有るとは思えないんですけど。

619避難民のマジレスさん:2014/01/12(日) 18:09:00 ID:wAZuhk5M0
サマーディの間は自我が忘れられるようですが、
その他の、感情や感覚や思考といったものも忘れられるのでしょうか?
それとも、それらの働きは一時的に機能しなくなるのでしょうか?
そして、サマーディの間に機能しているものは何なのですか?

ヨーガでは、サマーディに入って何日間も座ったままでいる人もいるようですが、
サマーディに入り、そのまま出られなくなるということはありますか?
それとも、サマーディに入ったり出たりするのは、意志によってコントロールできるのでしょうか?

620鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/12(日) 20:37:37 ID:kaXJvxhM0
>>613 そうじゃ、知識は増えるが認識はそのままなのじゃ。
 苦はそのまま残り、些細な事で怒ったり、悲しんだりするのじゃ。
 人によって元に戻る時間は違うがのう。

>>614 違うのじゃ。
 阿頼耶識は個人の記憶に依存しているのじゃ。
 それ故に人は自分が記憶している事しか認識できないのじゃ。
 阿頼耶識をも滅した後に真の悟りが得られるのじゃ。

 自我は記憶から起こる観念でしかないのじゃ。
 何かを共有したりは出来ないのじゃ。
 知覚対象に投射されているだけなのじゃ。

>>615 そうじゃ、精進するのじゃ。
 またおいでなさい。

621鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/12(日) 20:44:55 ID:kaXJvxhM0
>>616 どういたしまして、またおいでなさい。

>>618 感覚をそのように観察するのは、自我の投射から厭離させるためなのじゃ。
 感覚は認識と共に記憶に依存しなくなるだけで滅する事は無いのじゃ。
 悟った後も感覚はあるものじゃ。
 肉体によいものを食べさせれば肉体は喜び、うまいという認識を得るじゃろう。

>>619 思考などは止まるのじゃ。
 感情や感覚は残っているのじゃ。
 一時的に止まるだけなのじゃ。
 阿頼耶識は未だ機能しているのじゃ。

 インドではサマーディに入ったまま死んだ者が何人かいるというのじゃ。
 快が大きい故にそのまま帰りたくなくなるのじゃろう。
 意志や習慣によって出入りできるのじゃ。

622避難民のマジレスさん:2014/01/12(日) 22:15:39 ID:aqEyZ8OU0
>>621
なら肉体に悪いものを食べたら不味いという認識を得るって事ですよね。
ようするに感覚は消えないが、美味い不味いに囚われなく成るだけって事かな。
まあ私もそりゃあそうだと思いますけど、良薬口に苦しなんて言葉も有るくらいだから
体に良い物が美味いは限らないとも思いますよ。
ましてや観察で美味い不味いの味覚が変わるというのもおかしな話ですよね。

623避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 00:13:29 ID:LC3de7YgO
>>620
ありがとうございます。
歴史を振り返ってみると、ブッタもキリストも実践しただけで、何も書き残さず、宗教は実践者から影響を受けた人が、何とか伝えたいと切実に追求した結果結実し固定化したものかなと思いました。実践しない人が理解しようとすると思い切り違う方向に向かってしまうのかなと思いました。
座って、集中して、観察して、自分で経験することがすべてだと言い残してくれた先人に感謝したいと思いました。
ありがとうございますm(__)m

624避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 00:50:27 ID:wAZuhk5M0
610で質問した者です。
空の法も、”一切皆空”と理解するだけではただ知識を頭に入れただけであり、
実際に自我や認識を空と観想してはじめて悟りが訪れるということでしょうか?

625避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 16:59:46 ID:LC3de7YgO
>>620
やっと少し整理ができました。
阿頼耶識は個人の記憶に依存したものだけど、身体の一部が自分ではないように、阿頼耶識も自分ではない。「意識」と言った場合主体の存在を前提とするが、自我は記憶に依存した観念にすぎないので、阿頼耶識には「主体」という概念がそもそも無い。
そして自我が観念にすぎないものであることを体得するために止観の行を行う。という理解で良いのでしょうか?

626鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/13(月) 20:09:38 ID:kaXJvxhM0
>>622 体によい薬は苦くても体に合えば美味く感じるというのじゃ。
 味覚とは本来そのためにあるものじゃ。

>>623 そうじゃ、実践あるのみじゃ。

>>624 そうじゃ、知識や理解だけでは何も起こらないのじゃ。
 実践してこそ変容も訪れるのじゃ。
 法はそのためにあるのじゃ。

>>625 そのような理解で良いのじゃ。
 自我が主体であるという思い込みを持つ人間は、何を考えてもそこに主体を見出そうとするものじゃ。
 そのような人間には出世間の法を理解するのも難しいものじゃ。
 理解すれば次は実践あるのみなのじゃ。

627避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 20:46:45 ID:LC3de7YgO
>>626
ありがとうございますm(__)m
ここのところ、呼吸だけでなく、音、皮膚感覚等全ての感覚に気付き続けるようにして座っておりましたが、昨日からまた呼吸への集中を再開したところ、数ヶ月振りに腹部の熱感が復活しました。この熱感を育てて意念で頭まで持ち上げてみたいと思います。

628避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 20:54:24 ID:aqEyZ8OU0
>>626
それは個人の嗜好の問題で、甘いのが好きな人も居れば辛いが好きな人も居るって
いうのと同じものだと思うけど。
それだと体に良いと思えば美味しく感じるという思い込みもかなり入るんじゃないですかね。

味覚とは本来そのためにあるというのは、鬼和尚がいうような事ではなく
腐ったものは酸っぱい味がするとか、そういう生命の危険を
回避するために有るとかでしょ。

苦いものは苦いと感じる感覚が残るというのは納得出来ますが、苦くても体に合えば
美味く感じるというのは、それこそ体に依存した認識が残るって事ですよね。

629避難民のマジレスさん:2014/01/13(月) 21:57:06 ID:Bwz0R3.60
落語 - 110件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=92lXQTR_xsA&list=PL77EB63B593F329E9

630鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/14(火) 19:50:01 ID:kaXJvxhM0
>>627 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>628 普段は苦くて嫌なのに病気になるとその苦味が快く感じるのじゃ。
 肉体が自らに良いものを美味として感じるのじゃ。
 動物なども病気になると普段食べない草とか泥を食べたりするのじゃ。
 体を善くする成分のあるものを美味と感じるからなのじゃ。
 体に悪いものを退け、体に良いものを美味として取り入れるようにするのが感覚の本来の役割なのじゃ。

631避難民のマジレスさん:2014/01/14(火) 19:58:51 ID:wH0JIS760
鬼和尚、
集中の瞑想における、集中と快について、お聞きしたいことがあります。
姿勢を修正することで、快が強まったり、集中が深まりやすくなったり
しますが、快の強まりと集中の深まりとが必ずしも一致しないことが
あるように思います。

例えば、腰と下腹の力を強めれば、快は増しますが、強めすぎると
体が不自然になり、集中が深まりにくいような感覚があります。

もしかしたら、慣れてくると腰と下腹に強い力を入れ続けた方が
より深い集中ができるのかと思いつつも、集中と快のどちらを
優先したら良いのかが分かりません。何か助言をいただけますと
ありがたいです。

632避難民のマジレスさん:2014/01/14(火) 21:46:49 ID:aqEyZ8OU0
>>630
それは体調で味覚が変化したって事でしょ。
観察で原因を滅したから美味しく感じるようになったというのとは全然違いますよね。

633避難民のマジレスさん:2014/01/14(火) 22:43:45 ID:LC3de7YgO
>>630
記憶に依存した観念にすぎない自我を滅し、認識を滅しても、感覚がなくなるわけではなく、それが記憶に依存したものではなくなるということですね。例えば味覚であれば、体に良いものを美味しく感じる。
要は、記憶に依存しているかいないかの違いが大であるということですね。

634避難民のマジレスさん:2014/01/15(水) 18:49:38 ID:wAZuhk5M0
理解と気づきは異なるものでしょうか?
気づきとは確信のようなものでしょうか?

635鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/15(水) 20:32:00 ID:kaXJvxhM0
>>631 そのような快は本来サマーディに達するためのものなのじゃ。
 呼吸ではなく、その快に集中するが良いのじゃ。
 下腹に力を入れて頭の中心にある快に意識を集中するのじゃ。
 慣れれば下腹全体ではなく、腰と外腹斜筋のみに力をいれて楽に丹田に力を加える事が出来るのじゃ。
 快をどこまでも強めていけば自然に忘我に入るのじゃ。

 観察もその快があることを観察してみるのじゃ。
 快が厭離出来れば更に進歩するじゃろう。

>>632 おぬしが前レスで個人の嗜好で苦味が美味いと感じると書いたから、病を得ると苦いものも美味いと感じると書いたのじゃ。
 何かの観念に囚われて体に良いものを不味いと感じられたならば、その観念が無くなれば美味いと感じる事もあるのじゃ。

 おぬしは美味いというのが観念であるという考えに囚われているようじゃ。
 苦味とか辛味とかの味覚の中に旨味というのもあるのじゃ。
 それを研究して実現したのが味の素のような調味料なのじゃ。
 体を造るたんぱく質の原料であるアミノ酸が美味いと感じるのは肉体が必要としているからなのじゃ。
 もし美味いという味覚が観念のみであるという考えに囚われていたら、 それを見つけることは出来なかったじゃろう。
 
>>633 そうじゃ、感覚はあるのじゃ。
 観念が無ければ感覚も本来の役割に還り、体に良いものを美味いと感じるのじゃ。
 それが感覚による智慧なのじゃ。

636鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/15(水) 20:38:48 ID:kaXJvxhM0
>>634 理解は気づきとは違うのじゃ。
 確信とも違うのじゃ。
 
 気づきとは物事に投射された観念を取り除き、本当のありようを観る事なのじゃ。
 例えば道に蛇が居るから通れないと思っていて、近寄ってよく観たら古い縄だったと知るのが気づきなのじゃ。
 間違った観念を正しく観察して取り除くのが気づきと言えるのじゃ。
 
 知らなかった事をただ理解するのは、間違った観念を取り除いたのではないから気づきではないのじゃ。
 確信は真実に辿り着いても居ないのであるから気づきではないのじゃ。

637避難民のマジレスさん:2014/01/15(水) 21:04:57 ID:aqEyZ8OU0
>>635
好き嫌いの原因を滅したからって、その食べ物が体に良い物に変化するわけじゃ無いでしょう。
それとも原因を滅したら体調が悪くなって美味しく感じるようになったとでも言うのですか?

そもそも不味いと思っていたものが、体にいいものだったどうかも分からないのだから
体にいいものは美味しく感じるという、鬼和尚の説明は的外れでしょう。

638避難民のマジレスさん:2014/01/15(水) 23:47:31 ID:Bwz0R3.60
米朝 『地獄八景亡者戯』  1/3 - 24:57
http://www.youtube.com/watch?v=H2Ym-lPWE60
米朝 『地獄八景亡者戯』  2/3 - 20:10
http://www.youtube.com/watch?v=7ZIasACMapY
.米朝 『地獄八景亡者戯』  3/3  - 22:49
http://www.youtube.com/watch?v=JEY4HhmkfCA
桂吉朝 「地獄八景亡者戯 」 - 1:14:56
http://www.youtube.com/watch?v=Eq8IQP7Q-NI
.桂枝雀 Shijaku Katsura 地獄八景亡者戯 1/2 - 29:11
http://www.youtube.com/watch?v=HZRVw08WZV8
桂枝雀 Shijaku Katsura 地獄八景亡者戯 2/2 - 41:48
http://www.youtube.com/watch?v=nG0rl0oOF7Q

639避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 01:20:27 ID:Bwz0R3.60
.初代 桂歌丸『牡丹燈篭-栗橋宿』-rakugo- .52:48
http://www.youtube.com/watch?v=DLtt9JvWwV4
怪談 牡丹灯籠 1/4 お露と新三郎 三遊亭圓生(六代目) - 1:04:02
http://www.youtube.com/watch?v=OSi9e42XiBg
.怪談 牡丹灯籠 2/4 御札はがし 三遊亭圓生(六代目) - 50:22
http://www.youtube.com/watch?v=GF9sMszJ8FU
.怪談 牡丹灯籠 3/4 おみね殺し 三遊亭圓生(六代目) - 39:51
http://www.youtube.com/watch?v=3bV0R39mfxU
怪談 牡丹灯籠 4/4 栗橋宿 三遊亭圓生(六代目) - 44:58
http://www.youtube.com/watch?v=NHrE2ma-l2w
真景累ヶ淵 No1 宗悦殺し 三遊亭圓生(六代目) - 1:06:06
http://www.youtube.com/watch?v=Vx-ue0qkYII
真景累ヶ淵 No2 深見新五郎 三遊亭圓生(六代目) - 58:33
http://www.youtube.com/watch?v=CSDroBu0hQU
真景累ヶ淵 No3 豊志賀の死 三遊亭圓生(六代目) - 1:08:32
http://www.youtube.com/watch?v=AAzCt9ALWZk
真景累ヶ淵 No4 お久殺し 三遊亭圓生(六代目) - 1:04:49
http://www.youtube.com/watch?v=l7JtfwsiNVM
.真景累ヶ淵 No5 お累の婚礼 三遊亭圓生(六代目) - 1:04:49
http://www.youtube.com/watch?v=nB_trZ3TLGc
真景累ヶ淵 No6 勘蔵の死 三遊亭圓生(六代目) - 1:15:09
http://www.youtube.com/watch?v=lOFd87Rk9c4
真景累ヶ淵 No7 お累の自害 三遊亭圓生(六代目) - 1:00:54
http://www.youtube.com/watch?v=cOL3hba7x3A
怪談 牡丹灯籠 1/4 お露と新三郎 三遊亭圓生(六代目) - 1:04:02
http://www.youtube.com/watch?v=OSi9e42XiBg
怪談 牡丹灯籠 2/4 御札はがし 三遊亭圓生(六代目) - 50:22
http://www.youtube.com/watch?v=GF9sMszJ8FU
.怪談 牡丹灯籠 3/4 おみね殺し 三遊亭圓生(六代目) - 39:51
http://www.youtube.com/watch?v=3bV0R39mfxU
怪談 牡丹灯籠 4/4 栗橋宿 三遊亭圓生(六代目) - 44:57
http://www.youtube.com/watch?v=NHrE2ma-l2w

640避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 07:33:02 ID:byGhGyc60
>>635
>>631 私のサマーディの理解が間違っていたようです。
対象のあるサマーディは、心の集中によって対象と一体化することで
忘我を実現するものであり、気が上丹田に上昇することによる快は
二次的なものと理解していました。

正しくは、サマーディに達するためにはむしろ気の上昇が主で、心の集中が従
ということでしょうか?
それとも、気の上昇と心の集中は互いに補い合う関係で、サマーディには両方が
同時に必要ということでしょうか?

いずれにしても、大変貴重な実践の助言をしていただき、ありがとうございます。
快に集中して瞑想を実践してみます。
また、快の厭離もその次の目標として、やってみようと思います。

641避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 16:09:50 ID:Bwz0R3.60
般若心経の現代語訳が素晴らし過ぎた件 - 3:32
http://www.youtube.com/watch?v=QQBy1LA1uIU
般若心経. 現代語訳 - 5:29
http://www.youtube.com/watch?v=E_SgUM2NhM0
般若心経 「超訳」 - 5:35
http://www.youtube.com/watch?v=fAqqpMnbmp0
.般若心経清新版 - 7:30
http://www.youtube.com/watch?v=5VKSZArL9UE
.15_0 宇宙論における般若心経研究 - 26:25
http://www.youtube.com/watch?v=kIKR1UUtxKE
.般若心経 Heart Sutra 〜サンスクリット、チベット、アジア各国言語チャンティング - 9:44
http://www.youtube.com/watch?v=hi5TrWNw7gQ
般若心経 Heart Sutra - 37本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=WCIFo6zPf2Y&list=RDhi5TrWNw7gQ
般若心経 - 47本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=UjxlmPOoDzE&list=RDEB-bYJoqvQQ
.般若心経 Heart Sutra - 49本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=hi5TrWNw7gQ&list=RDWCIFo6zPf2Y.
.瀬戸内寂聴 - 『般若心経』とは - 29:07
http://www.youtube.com/watch?v=Q-rbuvDb3bw
.12分で分かる!「般若心経」 - 12:47
http://www.youtube.com/watch?v=SiduypCL9NA
ゴスペル風「般若心経」つのだ☆ひろ - 5:36
http://www.youtube.com/watch?v=EB-bYJoqvQQ
.sm12037793 - 【halyosy】「般若心経R&B」を歌ってみた【アレンジ】 - 2:44
http://www.youtube.com/watch?v=dedRPzy9R2I
般若心経RAP / AMIDA - 49件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=HVJELGsO7YM&list=RDaV6VyvAHOdg
般若心経 - 33件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=TPsYd7EXJOU&list=PL4B675F032CA31732
仏教の本質 哲学者「中村元」 - 8:48
http://www.youtube.com/watch?v=NWZtkxP3eGg..

642避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 16:47:59 ID:NpBkhqbI0
悟りよりもまず、世間を生きる知恵と行動力が欲しい。

643避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 17:46:10 ID:wAZuhk5M0
サマーディに入りながら日常生活を送ることは可能でしょうか?
それともこの2つは両立しないものですか?

644鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/16(木) 19:42:52 ID:kaXJvxhM0
>>637  何かの観念に囚われて体に良いものを不味いと感じていたならば、その観念が無くなれば美味いと感じる事もあるのじゃ。
 観念を厭離して何かが美味く感じられたのならば、それはもともと体に良いものを観念に因って不味いと思っていたからであるという推測が出来るのじゃ。
 
>>640 そうじゃ、サマーディの必要条件は正しい姿勢による気の上昇なのじゃ。
 集中するのは丹田以外の全身の力を抜き、その条件を満たす姿勢をつくり出すためなのじゃ。
 世の中には集中行を行わず、姿勢だけでサマーディにまで到達した者も居るのじゃ。
 集中もその後のエネルギーのコントロール等に必要であるがのう。
 何でも試して見たら良いのじゃ。

>>643 出来るのじゃ。
 むしろ効率よく出来るようになるのじゃ。
 武道とか茶道とかの道は、そのようなサマーディによる究極の動作を求めて行うものじゃ。
 サマーディによって自我が忘れられていれば、肉体は観念に囚われない働きが出来るからなのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 20:34:13 ID:aqEyZ8OU0
>>644
ようするに嫌いな原因を滅したその食べ物が“たまたま”その人の体に良い物だった
というだけであって、好き嫌いの原因を滅したから美味しく感じられた訳では無く
体に良いものだったから美味しく感じるようになったという事でしょ。

観察で嫌いな原因を滅した食べ物が、元々体に良くも悪くも無いものなら
美味しいとも不味いとも感じないし、甘いものは甘い、辛いものは辛いという
一次的な味だけを感じるはずで、その次に起こる美味い、不味いという感覚は
二次的な認識の要素が働くはずですよね。

ですからやはり、観察で嫌いな原因を滅したからといって、食べ物が美味くなったり
不味くなったりするのはおかしいし、観念の働きによるものなんじゃ無いですか。

646避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 20:52:27 ID:4Pp0TD2o0
>>644
快に集中して瞑想をしてみました。
はじめ座ったばかりの時は快の感覚が弱く、上手に集中できなかったので、数息観に切り替えました。
集中が深まり、姿勢を調整すると快が強くなってきたので、そこからは快に集中しました。
気が遠くなるような感覚の中で、頭の中がジンジンして、視界が白で覆われるような
感覚を観察しましたが、それに囚われてしまい、そこで止まってしまいました。
かなり良い感じなので、この行を続けてみようと思います。

また、姿勢がとても重要ということで、普段から背骨が立っているかどうか観察する
習慣をつけようと思います。普通に立っている時でも、姿勢が整うと微妙に快の感覚が
生じるようです。
おかげさまで、集中の行をさらに進めるヒントがいただけました。ありがとうございました。

647避難民のマジレスさん:2014/01/16(木) 22:01:22 ID:Bwz0R3.60
.「タイで修行、おもろい坊主」1 - 8:51
http://www.youtube.com/watch?v=0VeDLg4DvLA
.「タイで修行、おもろい坊主」2 - 9:56
http://www.youtube.com/watch?v=h-oyYSdY4vI
ヴィパッサナー瞑想の勧め。オモロイ坊主の「楽になる生き方3」 - 1:59
http://www.youtube.com/watch?v=BLjWcBIWw6I
.ヴィパッサナー瞑想&歩く瞑想。オモロイ坊主の「楽になる生き方4」 - 3:24
http://www.youtube.com/watch?v=8j-h64b9rq4
.スマナサーラ長老「悟りを開く瞑想について」 - 29:30
http://www.youtube.com/watch?v=SiqcshhHDJs
「手放すことが生きること」スマナサーラ長老との対話(2012年12 - 1;20:52
http://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
タイの仏教 b- 48:59
http://www.youtube.com/watch?v=ov20xbOFWFo
インド不可触民を救う日本人仏教指導者_佐々井秀嶺 - 47:53
http://www.youtube.com/watch?v=e9cAD06EXcw
親日国インド、日本を味方にして中国に対抗 - 107件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=-sVYoIeHoaQ&list=PL573D8C8444BF2A38
親日国 台湾 タイ インド ベトナム 他 - 58件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=Nnvnrf23h2Q&list=PLE4D61955F91CA71F
日本と親日国のいい話 - 15件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=-glmyOXyuII&list=PL69590755C80FE360
親日国との歴史 - 35件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=GcXTY5BkOTY&list=PL3931BA8F965A38AE

648避難民のマジレスさん:2014/01/17(金) 03:45:12 ID:wAZuhk5M0
自我が忘れられる=行為者としての感覚がなくなる、でしょうか?

649避難民のマジレスさん:2014/01/17(金) 08:56:15 ID:WL2yRwjAO
うまいまずいの議論中ですが
例えば若い男にとって若い女の人が美しく感じるのは
若い女を身体に良いものだと若い男の身体が認識しているからでしょうか
若くない女を嫌うのは身体に悪いと男の身体が反応するからでしょうか
だとすると色欲は単なる観念とは言えないと言うことでしょうか

650避難民のマジレスさん:2014/01/17(金) 16:08:52 ID:zz3du5Nk0
>>644 集中もその後のエネルギーのコントロール等に必要であるがのう。

サマーディの後のエネルギーのコントロール等とは何でしょうか?
もう少し詳しく教えてください。

651鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/17(金) 19:53:23 ID:kaXJvxhM0
>>645 わしはすでに言葉で美味いという一次的な感覚もあると書いたのじゃ。
 美味いという感覚が観念ではないと理解出来ないのならば観察してみると良いのじゃ。
 観察によって観念からの囚われが無くなるのじゃ。

>>646 どういたしまして、またおいでなさい。

>>648 そうじゃ。
 行為は行為者が居ないときに最も上手くできるのじゃ。
 行為者により、自分は弱いとか下手だとか恐いとかの行為の障害になる観念がもたらされるからなのじゃ。
 行為者が居なければそのような観念は無く、行為に専念できるからなのじゃ。
 
>>649 そうじゃ。
 それも本能じゃろう。
 元気な子供を作る女子を本能が求めるのじゃ。

>>650 エネルギーをコントロールしないと不眠とか食欲の暴走等に悩まされるのじゃ。
 熱が頭にばかり篭もると白隠のように病気になったりするのじゃ。
 熱を下げるために集中による気のコントロールが必要なのじゃ。
 インドでは七つのチャクラに集中したりするのじゃ。
 胸に五つの元素をイメージする法もあるのじゃ。
 やはり集中が大事なのじゃ。

652避難民のマジレスさん:2014/01/17(金) 20:27:06 ID:wH0JIS760
>>651
なるほど、頭に上がったエネルギーを下ろすのに
集中が必要となるのですね。

私はこれまで、止観と苦滅のみを行ってきましたが、
気を上げたり下げたりする訓練もしておいたほうが良いでしょうか?
クンダリニーヨーガや気功のように、意識的に気を上げる
方法は、師がいないと危険が大きいと判断し、興味がありつつも
これまでは試していませんでした。

653避難民のマジレスさん:2014/01/17(金) 23:59:21 ID:x3qGKFVU0
>>651
美味いが一次的な感覚というのは分かったと言ってるでしょ。
だから今回は原因を滅した食べ物が“たまたま”肉体に良いものだったから
美味しく感じただけだと言ってるんですよ。

私がずっと言ってるのは、嫌いな原因を滅しても食べ物が美味くなったりしない
という事でしょ。
鬼和尚の言うとおりでも、嫌いな原因を滅した食べ物が体に悪いのなら不味く感じるだろうしし、
結局それは体に良いとか悪いとか二次的な要素が加わるから、そう感じるんでしょ。

だから舌自体がそれを一次的な感覚で感じるのだとしても、それは原因を滅したからでは無く
食べ物自体が体に良かったり悪かったりするからそう感じるだけで
好き嫌いの観念を滅したからそう感じる訳では無いと言ってるんですよ。

何回同じ説明すれば良いんですか?
なんかわざとシラバックレてません?

654避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 07:13:11 ID:LTUvvDAY0
鬼和尚のような悟った方は、常にサマーディに入っているのでしょうか?

655避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 07:15:11 ID:LTUvvDAY0
「無住心」について釈義していただけませんか?

656そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/18(土) 11:53:29 ID:cAZcWhe20
鬼和尚
悟っていなくても、瞑想中でなくても、普段の行いで自我の投射のないことが持続することはあり得るのでしょうか。

657そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/18(土) 11:59:06 ID:cAZcWhe20
鬼和尚
自分のある行いが、自我の投射によるものなのか、それとも自他不二によるものなのか、どちらなのか自分でわかるのでしょうか。

658そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/18(土) 13:06:38 ID:cAZcWhe20
鬼和尚
自分のある行いを仮に自他不二によるものとするならば、その姿は「激高」していると表現していいと思います。
それでもどこかで自制している感があります。
自制を緩めれば、鬼のようになりそうです。
しかし、何かを破壊するでしょうが、傷つけることはないかもしれません。

659避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 17:47:50 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚
たまに、ひどく疲れたときなど、夢なのか現なのかわからない現象があらわれることがあります。
ダイヤブロックの人形のような細かい動物や人や建物がワーッと目の前に現れて消えたりとか
見たこともない外国の町が見えたりします。これらは脳が生み出した幻覚なのでしょうか?
それとも非物理的な、異世界のような場所なのでしょうか?

660避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 19:47:32 ID:bMXO5xH.0
余り思考を挟まないで直観で行動する方が知恵に近いですか?

661避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 19:49:20 ID:WL2yRwjAO
サマーディの状態で日常を送る心得のようなものがあれば教えてください。

662鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/18(土) 20:46:49 ID:kaXJvxhM0
>>652 座禅だけしていても百隠のように頭に気が上る事もあるのじゃ。
 出来れば気をコントロールする法を知っていたほうが良いのじゃ。
 そうすれば気が頭に上っても慌てることなく対応できるのじゃ。
 
>>653 まだわかっていないのじゃ。むしろ混乱しているのじゃ。
 おぬしは「今回は原因を滅した食べ物が“たまたま”肉体に良いものだったから
美味しく感じただけだと言ってるんですよ。」と確かに書いている。

 そして直ぐに「私がずっと言ってるのは、嫌いな原因を滅しても食べ物が美味くなったりしない
という事でしょ。」と書いておる。
 食べ物がたまたま体に良いものだったから、嫌いな原因を滅したら美味く感じられたとしても、それは嫌いな原因を滅したから食べ物が美味く感じられたと言う事じゃろう。
 おぬしはたまたまでも嫌いな原因を滅したら食べ物が美味しく感じられ事を認めておる。
 そして直ぐに否定しておる。
 観察によって混乱を離れるのじゃ。
 
 >>654 入っていないのじゃ。
 日常が混乱するからのう。
 仮にでも自我が無ければ、会話も出来ないのじゃ。

663避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 20:54:29 ID:x3qGKFVU0
>>662
だから違うって。
観察で原因を滅した食べ物が体に良いものじゃ無かったら美味しくは感じないんだろ。
なら観察で原因を滅しても全ての食物が美味しく感じる訳じゃないとずっと言ってるんだよ。
本当にいい加減にしろよ。
あんた分かっててわざとやってるだろう。

664鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/18(土) 21:08:57 ID:kaXJvxhM0
>>655 それは金剛経の言葉じゃな。
 前の文から訳すとこのようになるのじゃ。

 まさに色に住して心を生じてはならない。
 まさに声香味触法に住して心を生じてはならない。
 まさに住する所無き心を生ずべし。

 五感から心に浮かぶ観念にまで、何ものにも囚われない心を生じさせよと言う意味なのじゃ。
 六つの感覚に囚われない心とは、もはや無念無想に等しい心なのじゃ。
 そのようにまでなればサマーディにも近く、体も自在に動くのじゃ。

 心は本来、五感と心の働きである観念に住し、囚われ易いものじゃ。
 心が形に囚われれば形によって苦を受け、形による制約を受ける。
 そのように五感も同じであり、観念に心が囚われればやはり観念に因って苦を受け、観念による制約を受けるじゃろう。

 心が六感に囚われなければ六感による苦を受けず、その制約を受ける事もないのじゃ。
 そのように何ものにも囚われない心が無住心と呼ばれるのじゃ。

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/18(土) 22:14:01 ID:kaXJvxhM0
>>656 あるじゃろう。
 我を忘れて行動するというのがそうなのじゃ。
 スポーツでも緊急時でもありえるのじゃ。

>>657 わかるのじゃ。
 我と言う観念が無ければ気づくのじゃ。

>>658 自制があればまだ自我はあるじゃろう。
 分裂しているようではあるがのう。
 
>>659 認識する全ては心が作り出した幻影なのじゃ。
 おぬしの心の現れと同じ数だけ異世界はあり、幻想もあるじゃろう。
 これは幻想であり、あれは異世界であると言う秩序のない姿が本来のありように近いのじゃ。

>>660 そうかもしれん。
 直感智という智慧もあるのじゃ。
 しかしちゃんと考えて正しいかどうか判別しなければいかんのじゃ。

>>661 姿勢を正しくするのじゃ。
 骨盤を垂直にして下腹に力が自然に入るようにすると気が頭に上るじゃろう。
 後は自然な体の動きに任せるのじゃ。

666避難民のマジレスさん:2014/01/18(土) 22:28:58 ID:P.PEnNUg0
>>662 ありがとうございます。
気を下げる法に関しては、滝を浴びているとイメージする方法、
薬が体の中を下りていくとイメージする方法、胸式呼吸
を鬼和尚は他の場所で説いてくださっておりますが、
他に気を感知するコツや、気をコントロールする法で
良いものがありましたら、お教えください。

667そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/18(土) 23:14:39 ID:cAZcWhe20
>>665

>我を忘れて行動するというのがそうなのじゃ。
> スポーツでも緊急時でもありえるのじゃ。
一時的ではなく継続することはあり得るのでしょうか。

>>>657 わかるのじゃ。
> 我と言う観念が無ければ気づくのじゃ。
本当に気付いたのか、それとも、気付いたということが自我の投射によるものなのか、自分でわかるでしょうか。

>>>658 自制があればまだ自我はあるじゃろう。
鬼のような自他不二でも構わないでしょうか。

> 分裂しているようではあるがのう。
何が言いたいのかわかりません。
別の表現をしてもらえませんか。

668避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 07:48:58 ID:NpBkhqbI0
>>660 そうかもしれん。
 直感智という智慧もあるのじゃ。
 しかしちゃんと考えて正しいかどうか判別しなければいかんのじゃ

なるほど。ただ、鬼和尚さんは、普段、思考というものは過去の記憶の反応に過ぎないということをおっしゃっていたかと思います。
クリシュナムルティさんも、思考から時間が生まれ恐怖が生まれ、恐怖から逃避が生じ、あらゆる悲惨が生まれると思考というものをネガティブにとらえていたように思います。
そして、おっしゃる通りで、何かしようとするときに、私は思考がアイデンティティのために、考えてから行動することが多いのですが、考えると、過去の経験に照らし合わせて「やめて置こう」とか
消極的な結論に陥ることが非常に多いです。一方、観察は現在なので、過去に犬にかまれた経験があっても、目の前にいるのがチワワであると認識すれば怖がる必要はないように、時宜に応じた適切な行動が取りやすいのかなと思い
余り思考を挟まず、まぁ、直観も過去の記憶から生じるのですが、行動する方が良い結果が生まれやすいかなと思い、質問しました。

669避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 09:59:41 ID:NpBkhqbI0
これは知識や経験から生じてくる結論であり、それこそ疑わしいかもしれません。
智慧とは、正しく見ることから生じるのではないでしょうか?
対象が、縄か蛇かわからないで取る行動は、それが妥当なものであったとしても、それはまぐれあたりです。
しかし、それが縄ならば、拾って工具箱にでも入れるかもしれないし、それが蛇、それも毒蛇ならば、近寄らないでしょう。
しかしもし、人が、目の前のものを観察せず、「毒蛇注意」という看板を、百メートル前で見た、記憶から、夜道に落ちている縄を見るならば、それは蛇にしか見えず、恐怖し、悲鳴を上げ、助けを呼ぶかもしれません。
つまり、正しい観察によって付随的に生じる思考こそが智慧と呼ばれるべきではないでしょうか?
であれば、我々が何をするべきかというと、日常生活においても、瞑想中であろうが、いかなる時にでも、物事をよく見ることから始める必要があるのではないでしょうか?
我々は、あれをせよこれがいいといわれると混乱してしまいます。
もっとも、重要なこと、無知や混乱からの「救い」の必要十分条件を述べよというのであれば、正しく物事を見ること、ではないでしょうか?

670避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 10:12:18 ID:NpBkhqbI0
余談ですが
先ほど、縄か蛇かという話をしましたが、縄か蛇かと判断するのも、実は知識や経験によるものですね。
これは縄、これは蛇、縄は安全、蛇は危険という知識に基づいて行動しています。
正しく観察しているつもりでも、その観察自体が、実は、知識による条件反射的観念であると。
多くの場合、実体ではなく、知識を見ているわけですね。
「あそこにいるのは花子だな」これも、花子という知識から生じる認識です。これも虚構であり、実体ではない。
しかし、そこまで認識を解体していくと、日常生活を送る上では不便なので、我々は、知識の基盤にのっとって、生活をしています。
つまり我々が見ているのは、実体ではなく、知識であり、どんな即物的な人間ですら、観念的に生活しているわけです。
究極的には、観察を純化していけば、「そこに本がある」ではなく、「そこに白と青の色で囲まれた一定の厚みのあるスペースがある。それは本と呼ばれているものである
ように私には見える」というような認識になってきますね。
一言でいうと「色即是空」ですが。

671そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 14:37:38 ID:cAZcWhe20
鬼和尚
自我があるとかないとか、ということと、自我の投射があるとかないとか、ということは違うのでしょうか。
違うならば、どう違うのでしょうか。

672避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 17:02:38 ID:NpBkhqbI0
もし、何かが存在するという観念が生じた場合
ああ、何かがあるという観念が生じているなぁと淡々と観察し続けることで、解脱に到達するものでしょうか。

673避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 17:10:33 ID:NpBkhqbI0
金剛法の論理や目的はわかるけれど、その意味が知的にわかるだけでは悟れないですよね。
具体的実際的に、目の前に、リンゴが現れたとき、どのように金剛経を活用するればいいのでしょうか
これは、リンゴではない、しかしリンゴでないということもないと、念仏のように唱えるのでしょうか?

674避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 17:46:03 ID:3qg6l7MU0
こんにちわ
先月和尚様のブログで心の病(神経症)で相談させて頂いた者です
瞑想で症状を悪化させてしまったことについて今すぐ瞑想を辞めるべきとのアドバイスを頂ましたが
辞めてしまっても今の症状にとても耐えられません(一週間止めていますが症状自体酷過ぎるのです)、どうしたらいいでしょうか?

675避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 18:14:17 ID:3qg6l7MU0
鬼和尚に会うことはできますか?
今の症状は信じられない程に酷いですが心の状態を観て頂きたいのです

676鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/19(日) 20:17:11 ID:kaXJvxhM0
>>663 おぬしは今まで自分が書いたレスを観察し、「全ての食物が美味しく感じる訳じゃない」と書いてある文章を見つけてみるのじゃ。
 自分では言っていないことを言っていると思っているだけかもしれん。

>>666 気とは本来様々なエネルギーなのじゃ。
 熱でも磁力のようなものでもみんな気と呼ぶのじゃ。
 熱や体が重くなったり痺れるような感覚があれば全て気がたまっているからなのじゃ。
 頭にそのように気がたまっていれば不眠にもなるのじゃ。
 気を下ろす法を行ってそのような感覚が無くなれば気が下がったのじゃ。

>>667 通常は一時期が過ぎれば止まるのじゃ。
 自我が思い出されてくるからのう。

 わかるのじゃ。
 自分と言う観念が無い状態は人にとっては特殊な状態なのじゃ。
 普段と同じ感覚しかないのならば、サマーディには入っていないのじゃ。

 怒りや何かの原因で激高しているのならばいかんのじゃ。
 自制しているものがあればそれが普通は自我なのじゃ。
 何かの原因で変成意識状態になり、自制しているものと激高しているものの二つの意識があるように感じるならば分裂しているのじゃ。

677鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/19(日) 20:28:10 ID:kaXJvxhM0
>>668->>670 そうじゃ、何でも試してみると良いのじゃ。
 実践が全てじゃ。

>>671 違うのじゃ。
 事実に沿って言えば、悟った者も悟っていない者も自我が無い事は、単なる事実なのじゃ。
 悟っていない者には自我の投射がされているのも事実なのじゃ。
 自我の投射が無いのが悟った者なのじゃ。
 
>>672 その観察が自我にまで行われれば解脱に到達するじゃろう。
 観察の対象は自己でなければいかんのじゃ。
 さまざまな観念を観るのはそのための準備でしかないのじゃ。

>>673 そうじゃ、そのように唱えたり、観想してみたりするのじゃ。
 さまざまなものに投射された観念が厭離されるのがわかるじゃろう。
 人の認識も習慣によって行われている故に何度も繰り返すことで認識も変えられるのじゃ。

678避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 20:30:46 ID:x3qGKFVU0
>>676
だから初めの頃はともかくとして、一次的な感覚として美味というのが有ると
認めてからは、そう書いてなくてもそれが言いたかったんですよ。
鬼和尚は結構曲解することが多いから、どう言えばちゃんと伝わるか
あれこれ考えながら書いたんだけど、それが余計伝わりにくかったみたいだね。

で、観察によって嫌いな原因を滅しても、全ての食物が美味く成るわけじゃない
というのには同意するんですよね。

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/19(日) 20:33:10 ID:kaXJvxhM0
>>674 先ずはその苦を観察してみるのじゃ。
 それは悲しみであるのか、不安や恐れであるのか、過去の記憶であるのかはっきりと観察して明らかにするのじゃ。
 それが出来れば半分は苦が消えるじゃろう。
 それがさまざまな苦を滅する第一歩なのじゃ。

>>675 わしに会っても苦はなくならないのじゃ。
 しかしわしに会わなくとも苦は消せるのじゃ。
 おぬし自身が己の苦を観察すれば、苦は消えるのじゃ。
 おぬしを救えるのはおぬしだけなのじゃ。

680避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 20:54:27 ID:3qg6l7MU0
>>679
ありがとうございます

681そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 20:56:20 ID:cAZcWhe20
>>676
>怒りや何かの原因で激高しているのならばいかんのじゃ。
> 自制しているものがあればそれが普通は自我なのじゃ。
> 何かの原因で変成意識状態になり、自制しているものと激高しているものの二つの意識があるように感じるならば分裂しているのじゃ

普段の冷静な時の方が自制が強く、すなわち自我があると言えるかもしれません。
しかし自他不二から遠いかもしれません。
また、自制する必要の無いことまで自制しているかもしれません。

激高(周囲の人から見るとこのように見えるであろう、という意味の言葉です。)している時の方が自我(あるいはその投射)がないかもしれません。
そして自他不二に近いかもしれません。

その意味では常時分裂しているかもしれません。
分裂は統合した方がいいでしょうか。
いいならば、どのように統合すればいいでしょうか。

激高に何かの原因があるとするならば、
あるいは逆に、普段の冷静な時の姿に原因があるとするならば、
それをどのように探ればいいでしょうか。

682そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 21:02:48 ID:cAZcWhe20
>>677
>事実に沿って言えば、悟った者も悟っていない者も自我が無い事は、単なる事実なのじゃ。
> 悟っていない者には自我の投射がされているのも事実なのじゃ。
> 自我の投射が無いのが悟った者なのじゃ。

自我が無い事が事実であるならば、無いものが投射されているということでしょうか。
無いものをどうやって投射しているのでしょうか。
投射する対象を認識することによって、本来無い自我が現れるということでしょうか。

683避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 21:07:40 ID:Zck0SGB60
鬼和尚さま
味覚の美味い不味いの話が出てますが、サマーディなどによって、
記憶や経験から生じる美味い不味いの分別がなくなって、
どのようなものでもそのものの味をそのまま感じる状態になりますよね?
あれはサマーディなんですかね?
一般的にいうところの美味い(不味いに対しての相対的な美味い)とは違いますが、
なんでも美味しいですよね。
美味しいというかそのものの味を100%感じられて、なるほどこういう味なんだと、
普段わからないような細かい味覚まで知覚全開に感じられる明晰な状態。
知覚できる(したい)ことが美味しいこと、知覚できない(したくない)ことが不味いこと、という意味では、
純粋な知覚になると全て知覚できるし全て美味しいという言い方もできるような。

684避難民のマジレスさん:2014/01/19(日) 21:49:00 ID:P.PEnNUg0
>>676
気自体には囚われないようにします。
鬼和尚の書かれていたような体の異常な感覚を観察した時に、
気を下ろす法を行い、その感覚がどうなるかを観察しようと思います。
いつも、安全かつ最短と思われる道を示していただき、ありがとうございます。
実践につとめ励みます。

685そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 22:10:04 ID:cAZcWhe20
>>676
>普段と同じ感覚しかないのならば、サマーディには入っていないのじゃ。

サマーディ(悟りも含まれるでしょうが)以外では、我と言う観念が無いことに気付くことはできないということでしょうか。

686そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 22:46:05 ID:cAZcWhe20
>>676
>怒りや何かの原因で激高しているのならばいかんのじゃ。

怒りや何かの原因がないものであるならば、鬼のような自他不二でもいいということでしょうか。

687そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/19(日) 23:55:16 ID:cAZcWhe20
鬼和尚
瞑想しながら、激高した時の事例をいくつか再現し、トレースして、己の観察を試みました。

怒りやその他の激しい感情は特にわきませんでした。
肉体的な変化も同時に観察しましたが、特に感じられませんでした。

おそらく、自他不二となった時、だからこそ自分と他人の違いがわかり、その違いがあまりにも大きいことに改めて触れ(これまでの経験上、既に普段から違うことはわかっているのですが、直に触れると改めてそれを再認識する、という意味です)、そのギャップが激高という形で表に現れたのだろう、と見えました。

怒りに関しては、他人がその時の自分を見た姿は、単に怒っているように見えるでしょうから、他人が認識しているであろう怒りを、他人から自分へ逆流する形で受け取っているものを、それが自分の怒りではないことを明確に区分するまでに至らない、のように見えました。
自他不二の順序が逆で、他自不二です。
原因としての怒りと言うよりは、結果としての怒りという感じです。

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/20(月) 19:56:44 ID:kaXJvxhM0
>>680 どういたしまして、またおいでなさい。

>>681 そのような一時的な状態ならばもはや止めた方がよいのじゃ。
 自分でコントロールできなければ意味が無いからのう。
 修行によって忘我によるサマーディの状態に入るのは、心をコントロールするためなのじゃ。

>>882 本当は存在しないものを、言葉とイメージによって投射しているのじゃ。
 映画のようなものじゃ。
 何も無いスクリーンに映像が投射されるように、自我も存在しないのに感覚などに投射されているのじゃ。

>>683 そうかもしれん。
 普通は美味いものとか体に良いものを食べているからのう。
 観念がなくなれば大抵は美味く感じるものじゃ。

>>684 そうじゃ、実践が全てじゃ。
 またおいでなさい。

689鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/20(月) 20:00:09 ID:kaXJvxhM0
>>685 あまりにも興奮状態で我を失ってるならば、気づくことも無いじゃろう。
 それは先の無い袋小路の道なのじゃ。
 
>>686>>687 自分でコントロールできなければ意味が無いのじゃ。
 集中は観察の為に心をコントロールする技であるからのう。

690そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/20(月) 21:02:38 ID:cAZcWhe20
>>689

>あまりにも興奮状態で我を失ってるならば、気づくことも無いじゃろう。
興奮していなければ、サマーディでなくても、我と言う観念が無いことに気付くことがあるということでしょうか。

>自分でコントロールできなければ意味が無いのじゃ。
意味が無いとやめた方がよいのは何故でしょうか。

691避難民のマジレスさん:2014/01/20(月) 21:14:05 ID:Bwz0R3.60
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中島みゆき(Nakajima Miyuki) 夜会(Yakai) - 21件の動画
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692避難民のマジレスさん:2014/01/20(月) 21:27:45 ID:x3qGKFVU0
>>689
>>678に返事をくれないのはわざとですか?

693そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/20(月) 22:47:30 ID:cAZcWhe20
私が現世(あるいは世間と言うか)に存在するためには、分裂せざるを得ないのかもしれません。
分裂することでかろうじて現世に適応している。
それが私が子供のころから感じている違和感の原因かもしれません。

694そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/21(火) 01:19:13 ID:cAZcWhe20
>>688

>>882 本当は存在しないものを、言葉とイメージによって投射しているのじゃ。
 映画のようなものじゃ。
 何も無いスクリーンに映像が投射されるように、自我も存在しないのに感覚などに投射されているのじゃ。

わかりません。
映画のたとえですと、投射についてはわかりますが、自我については、フィルムあるいはデジタルの映像データが自我に相当するのではないでしょうか。

695そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/01/21(火) 07:49:24 ID:cAZcWhe20
>>688
>自分でコントロールできなければ意味が無いからのう。
> 修行によって忘我によるサマーディの状態に入るのは、心をコントロールするためなのじゃ。

サマーディに入らなければ心のコントロールができないということでしょうか。
もしそうならば、サマーディに入らぬまま行う自他不二は止めた方がよいということになるのでしょうか。
サマーディに入れない人、すなわち、おそらくほとんどすべての人々は自他不二を止めた方がよいということになります。

696避難民のマジレスさん:2014/01/21(火) 11:12:56 ID:LTUvvDAY0
輪廻から脱したいというのは、悟りへ向かう正しい動機でしょうか?

697避難民のマジレスさん:2014/01/21(火) 17:33:25 ID:YWqLYYqo0
鬼和尚、
瞑想中に、あと少しで自我を手離すところまで来ているようなのですが、
そこで恐怖が生じて、抜けていた体の力が再び入ってしまい、覚醒度が
上がってしまう状況にいます。

快に集中している意志の力を少しずつ弱めていくと、意識を保ったまま眠りに
落ちていくような感覚が生じてきます。気持ちが良いし、
自分としては、サマーディの話を読んで、それを楽しみにしている
つもりなのですが、本心にはしつこい恐怖が残っているようで、落ちきれません。

この恐怖を乗り越えるには、意志を強く保ち、ひたすら励み続けるのが
良いかと思うのですが、もし、他に助言がありましたら、お願いいたします。

698鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/21(火) 20:19:27 ID:kaXJvxhM0
>>690 そうじゃ、気づきの体験とかピーク体験とか自己喪失とか言う体験があるのじゃ。
 何かのきっかけで一時的に自己イメージの投射が止まると起こるのじゃ。

 集中は心をコントロールして観察を容易にするためのものであるからじゃ。
 意味の無い事をやるのは修行ではないのじゃ。

>>692 昨日は見落としたのじゃ。すまんのう。
 >>689 そうじゃ、全てが美味く感じるわけではないじゃろう。
 体に悪いものなどは余計に不味く感じるかもしれん。
 しかし、嫌なものを食べるのは、一般的に美味いとか、体に良いとされているからである可能性が多い故に大抵は観念が無くなれば美味く感じるじゃろう。
 
>>693>>694 それもまた本来は無いフィルムの上の点やデータなのじゃ。
 
>>695 それが本当に我を失うような体験ならば、サマーディにも容易には入れるじゃろう。
 すでに己を無くす恐れを克服している事になるからのう。
 多くの者が無我にまでもいけないのは、己を失う恐れがあるからなのじゃ。
 それが無ければサマーディにまで達するのは容易なのじゃ。

>>696 それも正しいといえるじゃろう。
 一切の苦から逃れられるからのう。

699鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/01/21(火) 20:23:30 ID:kaXJvxhM0
>>697 無常とか死を想うのじゃ。
 今自分を手離さなくともいずれは死によって自分は消え去るのじゃ。
 それを思えば今の恐れは小さくなるじゃろう。
 本当の虚しい死に比べれば、今自分を捨てるのは永遠への門と呼べるのじゃ。
 必ず消えなくてはならない自分を今手離して永遠への門を開くのじゃ。

700避難民のマジレスさん:2014/01/21(火) 20:38:11 ID:x3qGKFVU0
>>698
今回の場合は観念を滅したらどうなるかを確かめる為に、あえて嫌いだった食べ物を食べた
と思いますよ。
まあただそう考えると、体に悪いものが嫌いでも困らない訳だから、あえてその原因を滅する
必要も無いでしょうから、鬼和尚の言ってることも一理ありますね。
ありがとうございました。


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