したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

 佛教の經典・祖録・禪語等の保管庫

1安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:13:41 ID:iNWvsNmI0
もともとは仏法仏道は円かに全体に通じている。どうやって修行して悟りを証する必要があるというのか。
仏の教えという乗り物は自由自在で何処にでも誰にでもある。どうして巧夫してそれを得ようというのか。
ましてや何もかも全てが塵埃煩悩穢れなど越えているのであり、
誰がその塵埃を払拭する手段が必要だと信じるというのか。
おおよそはじめからド真ん中にいるのだ。だから悟りのための修行行脚に出る必要などないのだ。
だが、わずかでも分別が生ずれば、天地の差が生じてしまう。自分の主義と違うとか同じだとか、
そういう分別がわずかでも起これば滅茶苦茶になって仏心は失われてしまう。
仏法をわかったつもりになり、悟った気になり、瞥地の智通をチラ見して、仏道を得て、心を究め、
天にも昇るような自信を得るかもしれない。だがそれは入口周辺を知って調子に乗ってるだけで、
迷悟善悪仏悪という対立から脱出する活路を欠いているのだ。
生まれながらの智者である釈迦牟尼が、六年端坐したのを知るべきだ。
少林寺に仏心印を伝えた達磨が面壁して九年端坐したのも知られている。
現代人の我々がどうして坐禅をしないでいられようか。


『普勧坐禅儀』

2安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:29:03 ID:iNWvsNmI0

だから書物や文章を読んでわかろうとする哲学的究明をいい加減やめたまえ。
外を照らすのではなく、内なる自己を照らし、本来の自己へ戻りたまえ。
さすれば身心は自然に脱落して、本来の面目が現れるだろう。
完全なる解脱を得たいと思うなら、今すぐ坐禅をせよ。


『普勧坐禅儀』二

3安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:37:21 ID:iNWvsNmI0
坐るなら静かな部屋で飲食を慎み、諸縁を捨て、万事休息し、
善悪を思わず、是非に及んではならない。
念想観の測量はやめて心意識の運転停止したまえ。仏になろうとか思ってはならない。
行住坐臥にかかわらずそのようにしているべきである。
厚い敷物の上に坐蒲を起き、結跏趺坐か半跏趺坐すべし。
結跏趺坐は右足を左足の上、次に左足を右足の上に置く。
半跏趺坐は左足を右足に置く。衣はゆるいのがいいが整ってるものを着るべし。
次に右手の掌に左手の掌を起き親指同士をくっつけて定印をつくり、
正身端座して左右前後にグラグラ揺れてはならない。 耳と肩は地面に対し垂直にし、
鼻と臍も地面に対し垂直にし、舌は上顎につけ、歯にもつけよ。
目は常に開いておくべきだ。息は鼻から微かにすべし。
まずは深く深呼吸してから、左右に体を揺らして真ん中に定め、 不思量底を思量する。
不思量底をどうやって思量するするか。非思量が坐禅の要術である。

『普勧坐禅儀』三

4安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:56:23 ID:iNWvsNmI0

いわゆる坐禅というのは、何らかの方法で無になったりするものではなく、安楽の法門なのだ。
これは悟りや佛道を極め尽くすための修行であり悟りなのだ。
何ら手を付けずに悟り仏法であり、牢獄や檻などないに等しい。
こうなれば龍は水を得たように昇天する様に、山を縄張りにする虎の如くに近寄りがたい様に誰も寄せ付けぬ。
そのように励めば正法は自ずから現れ、心が沈んだり乱れたりすることは消え失せることを知りなさい。

もし坐から起きるときには、ゆっくりと体を動かして、緩りと起きなさい。
急に雑で性急な動きをしてはならない。

『普勧坐禅儀』四

5安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:35:23 ID:iNWvsNmI0

かつては、凡を越え、聖を越え、坐したまま、立ったまま死した者もこの力による。
倶胝に対する天龍和尚の一指禅、迦葉が阿難に命ずる門前の旗竿を降ろせ、
提婆の一針、釈迦が坐れば文殊が鎚を打つ・・・、などの転機によって悟らせた。
よって馬祖の払子で百丈大悟、趙州が庵主に拳上げてありや、徳山は棒で叩き、臨済は喝をくらわす、
というのも当然の悟りの転機だ。それらは思量分別で解るものではない。
かの神通力ですら修行や悟りは解らないことなのだ。
人間の見たり聞いたりすることを越えた威儀なのだ。
いったい誰が人間を越えたこの知識や見解たる真理を知りえようか。

『普勧坐禅儀』五

6安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:49:26 ID:iNWvsNmI0

このように経典・祖録・禅語などの一片を載せて欲しい。

誰でもわかる現代語にしてな。どんな経でもかまわん。

誰かの役に立つかもしれない。

お願い申す。


普勧坐禅儀は最後まで今後私が記す。

7安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:09:12 ID:iNWvsNmI0

よって頭が良いか悪いかは関係ない。要領が良い悪いも関係ない。
専一に巧夫して坐ればだれもが弁道なのだ、誰でも修行しておるのだ。
修行の中に、自分は悟ったとか、未だ悟れず迷いだとかは無い。
修行も悟りも、浄なるも汚なるもなく平常でもとのままなのだ。
この世に於いては何処でも同じく仏法を伝えてきたのだ。
ただ何者にも邪魔されずに坐禅に打ち込んできたのだ。
様々な道はあれども坐禅をして只管打坐に参ずべし。
どうして自分のやるべきことがあるのに、他のところをうろつき回って探すのか。
坐禅に専一に打ちむのだ。少しでも外れれば天地の差が出て的外れになってしまう。

『普勧坐禅儀』六

8安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:32:17 ID:iNWvsNmI0
すでに人には備わっている要があるのだ。虚しく光陰たる日々を過ごしてはならん。
佛道の機要をしっかり保って守っていろよ。
誰が火打ち石に生じた火花の如くに短く儚い世を楽しむというのか。
そればかりでなく、体は草木の露のようで、命運も雷光の如く儚いものと同じではないか。
あっという間に、これら体も命も刹那のうちに消え失せるものと。

本気の坐禅修行者にはこいねがう。
全体の一部に過ぎない偽仏法で調子に乗って、真なる仏法を疑ってはならない。
直指端的のド真ん中仏道に精進し、思想哲学を越えた人を尊び、仏と仏らに合わさり、
祖師方の三昧の嫡子となれ。


『普勧坐禅儀』七

9安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:38:01 ID:iNWvsNmI0

そして、長らく坐禅の修行してきたた者は、やっただけやったことを受ける。
つまり、宝蔵は自ら開き、自らそれを開けて、
思いのままになるのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!

『普勧坐禅儀』八 終

10安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/18(水) 00:54:32 ID:iNWvsNmI0

壹、菩提心を発すべき事
貳、正法を見聞して必ず修習すべき事
參、仏道は必ず行に依りて証入すべき事
肆、有所得心を用って仏法を修すべからざる事
伍、参禅学道は正師を求むべき事
陸、参禅に知るべき事
柒、仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
捌、禅僧行履の事
玖、道に向かって修行すべき事
拾、直下承当の事

『学道用心集』

11安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:05:58 ID:iNWvsNmI0

天竺の大仙人である釈迦の心は、東から西へしかと伝えられてきた。
人には賢人も愚人もいるが、佛道に南宗禅北宗禅の違いはないのだ。
もとの霊源は無色透明で明らかであったが、支派が多く出て暗くて
わからなくなってしまった。分かれた多くの支派ばかりに
目を奪われていると、元の霊源を見失って迷いだ。
理法にしがみついているのも、また悟りではないのだ。

          『参同契』

12安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:19:29 ID:iNWvsNmI0

六根と六境は、一如の世界と差別の世界を回って、お互いに関わりあっている。

それがなければ、どこかに留まることになる。

眼に見える色の物質的世界は質や形態が異なっており、

耳が聞く声境もいいことと嫌なことが元々異なっている。

            『参同契』

13安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:34:46 ID:iNWvsNmI0

暗の平等界では、上流も中流も言うことは同じく合しておるが、

明の差別界では、清濁浄垢生滅増減の二元論に分かれてしまう。

四大である地水火風の性質は自ずから復元するもので、

子供が母親に再会するようなものである。

             『参同契』

14安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:46:57 ID:iNWvsNmI0

火は熱し風は吹く、水は潤い地は堅固、

眼は色を見、耳は音を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を感じる、

しかもこれら一つ一つの法は根本から枝分かれして葉に分布している。

本末たる始めも終わりも、みんな宗たる元に帰らなければならん。

貴族も平民もそれぞれの話し言葉を用いるところに・・・。

               『参同契』

15安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:59:24 ID:iNWvsNmI0

明中たる差別界にあっても、暗の平等界はあるのだ、

暗相の平等界に浸って、明相の差別界を疎かにしてはならない。

暗中たる平等界にあっても、明の差別界はあるのだ、

明相の差別界に浸って、暗相の平等界を疎かに観てはならない。

明相と暗相は相互が関係しあっており、

例えるなら、右足を出せば、次に左足が前に出るようなものだ。

              『参同契』

16安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 03:12:14 ID:iNWvsNmI0

万物たるすべてのものは自ずから役割というものがあるのだ。

まさに用途と場所があるはずだ。

事が存すれば、函と蓋がピタリと合い、理が合えば互いに放った矢先がぶつかるようなもの。

言葉を承れば、宗たる大元に戻るべきで、自分の立てた物差しで測ってはならない。

             『参同契』

17安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 03:23:29 ID:iNWvsNmI0

目で物が見えたとしても、道とは何かがわからないならば、

ただ足を動かして歩いていても、どうして道路を知ることができるのか。

歩みを進めても、近いとか遠いとかいうことではない。

迷って山と河の隔たりが生じてしまうのだ。

参ずる者に謹んで申し上げる、年月を無駄に過ごしてはならない。

             『参同契』 完

18n:2012/02/04(土) 17:18:42 ID:xPYhjiK60
集団ストーカー犯罪者のオッサンに贈る言葉

サンキッチャ沙弥は、彼らに「生きる」ということがどういうものかを明確に説明しました。
「生命というのは機械みたいに生きているだけではないでしょうか。ただ生きるだけで、せいいっぱいでしょう。何とかして生きる。強盗でも、人殺しでも、何でもして生きる。何のために生きるのかと瞬間でも考えることはしません。国王であろうとも、あなた方みたいな殺人者であろうとも、みんな生きることに必死になってはいますが、結局人は誰でも老いて、病気になって、死んでいくでしょう。ですから、人は何をして生活しても、ただ無意味で無駄なことをやっているだけです。みんな確実に死ぬのです。王様も大臣も知識人も一般人も、あなた方みたいな犯罪者も、みんな死んでしまうのですから、あなた方の、とにかく生きよう、なんとでもして生きよう、という行動は、あまりにも無知でおかしくて、見ていられません。私にとっては、あなた方が私を殺そうとしたその馬鹿げた行動さえもおかしくてたまらなかったのです。生け贅までして、この妙なおじさんたちは生きようとしているのではないか。でも結局みんな死んでしまう。生きられるわけではない。それさえわかっていないのだなあと私は考えていました。私は子供かもしれませんが、人間として生まれてきた目的を達成しています。今死んでも、年をとってから死んでも、私にとってはどちらでもかまわないことです。あなたがたもこんなくだらないばかばかしい生き方をやめて、何のために生きるかと自己観察し、それを発見されてはいかがでしょう」

19n:2012/02/04(土) 19:43:29 ID:xPYhjiK60
自殺の苦しみは単純に殺されるよりも深い


プンナ:スナーパランタという地方に定住して伝道しようと思います。


ブッダ:スナーパランタの人は凶悪である。しかも粗暴である。人々がお前を罵り嘲ったならば、お前はどのように対処するか。


プンナ:そのときはこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら私を掌をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、掌をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら土塊をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、杖をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら刀剣をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、刀剣をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら命を奪うことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、命を奪ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら世尊の弟子の中には苦悩のために刃物をとって死を求めるものもおります。私は自分で刃物をとらないで死ぬことができる」と思いましょう。


ブッダ:お前は自制力と安穏な心を持っている。(p.123)


     『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二

http://deathofgangstalkers.blogspot.com/2012/02/blog-post.html

The Death of Gangstalkers  <集団ストーカーの死>にても掲載中

20n:2012/02/05(日) 23:39:39 ID:XCh81jy20
こんにちは

自殺を助長するアメリカの集団ストーカー犯罪に関するブログ更新です

http://americanobotsuraku.blog132.fc2.com/blog-entry-46.html


『拝啓 日本のギャングストーカー犯罪者の皆様』

「・・この10年だけで30万人以上自殺。広島・長崎の原爆で殺された人の数に匹敵。これはどう考えても正常な国ではない」

【ストーカー側の罪悪意識を被害者に転嫁させるためのストーキング】その5

21安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/07(火) 03:11:44 ID:S9sDEAhM0

遊びをせんとや生れけむ、

戯れせんとや生れけん、

遊ぶ子供の声きけば、

我が身さえこそ動がるれ。

『梁塵秘抄』法文歌

22安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/10(金) 02:17:58 ID:S9sDEAhM0

人のいない林は楽しい。

世人の楽しまないところにおいて、

愛著なき人々は楽しむであろう。

かれは快楽を求めないからである。

23安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/20(月) 02:39:11 ID:OCZ2H4N20
禅病が起こった時は、意識を両足の上に集めて坐りなさい。

心が沈む時は、意識を眉間に集めなさい。

心が落ち着かないときは、意識を鼻の頭、もしくはその奥の方に集めなさい。

一般に坐るときには、左手の掌に集めなさい。

長く坐っていると、必ずしも寂静境に落ち着かなくても、心は自然と落ち着いてきます。

坐禅用心記

24安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:03:47 ID:ii2zRgw.0
今いう我とは釈尊自身のことでない。釈尊もこの「我」から生まれてきたんや。
ただ釈尊が生まれたばかりでない。大地も一切の生類も、悉くがこの「我」より生まれたんや。
大綱を持ち上げりゃ、網目がみな持ち上げって来るように、釈尊の成道の瞬間、
大地も一切の生類も成道するんや。ただ現在する大地生類一切が成道するだけやなく、
過去現在未来の諸仏全て成道するんや。

25安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:09:02 ID:ii2zRgw.0
諸法は悉く本来的に不生。万象の中の一法たる山は本来的に一法たる山ではない。
一法たる水は、本来的に一法たる水ではない。不肖の性である。
そこで阿難は商那和修の袈裟の角を指したのだ。袈裟の角もまたその体は、
そのままもと不生の性だ。

26安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:11:51 ID:ii2zRgw.0
参禅とは必ずみずから坐禅し悟ることだ。しかし自分だけで悟ったつもりならば、
邪道に落ちやすい。そこで悟ったなら、正師にあわねばならん。
もし正師にあわなんだら、いたずらに分別計度して安心できない。
このこと思うに、実に参禅というは大切なことである。

27安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:16:43 ID:ii2zRgw.0
釈尊がどんだけ優れた理論を説いて、場や人に応じて説かれた無数の説法の内容が
千差万別であったといってもただ「このこと」と説いているきり。
だから仏は、天上天下唯我独尊であるから仏とうのでもないし、真如から来て真如に去る
なんて、一歩突っ込んで言えば、真如遍在だから来るも去るもない。無來無去だが、
その当体を仏というかというと違う。

28安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:20:11 ID:ii2zRgw.0
あらゆる仏法の法門も、限りない仏法の妙理も、坐禅工夫の中で、機縁にふれて
自分の肌で感得できなけりゃ、煩悩妄想の流れになってとどまることを知らない有様になる。

29安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:26:50 ID:ii2zRgw.0
出家など我も我所もない我の露呈だ。身とか心が出家するとか思わんことだ。
身心は変滅するが、無我我は不変の大我だ。大我は諸仏でも衆生でもなく迷悟を超越してる。
肉体とか精神でもないし、輪廻してる三界六道の世界でもない。これらは生滅するものだし。
心は定まった形態相貌なし。
眼耳鼻舌身の作用や判断推量の知も妄分別の変動だから心の実相にあらず。
心の実相は、過去未来を行ったり来たりもせず、動いたり静まったりもしない。
このように見抜いた者は、知ったといえるが知的理解どまりの奴だ。

30安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:28:57 ID:ii2zRgw.0
以上、伝光録(瑩山禅師)から・・・。少々簡略した。

31安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/30(火) 00:49:28 ID:ii2zRgw.0


みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。

修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。

故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

32安堂:2012/11/02(金) 00:40:06 ID:ii2zRgw.0
不生にして霊明なのが仏心に極りきったというのを、
人々皆決定して、不生の仏心で御座る人は、今日より未来永劫の活如来と申すものでござるわいの。
不生なが一切のもと、不生なが一切のはじめでござるわいの。
不生より一切の始という物はござらぬゆえに、不生なれば諸仏のもとで居るというもので御座る。
所で、不生にして居れば不滅というもむだ事でござれば、身どもは不生というて、不滅とは申さぬ。
生ぜぬものの滅するという事はなきほどに。

33安堂:2012/11/02(金) 00:42:22 ID:ii2zRgw.0
親の産み付けたもつたは、仏心一つでござる。
その仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切の事が調いまする。
その不生で調いまする証拠は、皆の衆がこちら向いて、身共が云ふことを聞いてござるうちに、
後ろにて烏の声、雀の声、それぞれの声が、聞かうとも思ふ念を生ぜずに居るに、
烏の声、雀の声が通じ別れて、聞き違はず聞かるるは、不生で聞くといふものでござる。
そのごとくに皆、一切の事が不生で調ひまする。これが不生の証拠でござる。
その不生にして霊明なる仏心に極まつたと決定して、直に不生のままで居る人は、
今生より未来永劫の、活如来でござるわいの。

34安堂:2012/11/15(木) 01:48:02 ID:dQGgUa0s0
これから、ヨーガについて、解説をしよう。
ヨーガとは、心の作用を止滅することである。
心が止まると、真我は、自己本来の姿に止まる。

心が動くと、真我は、心の作用と同化して、
心が止まると、真我は、心の作用と分離する。
分離をした、本来の真我は、純粋観照者である。

心の作用は、正知、誤謬、分別、昏睡、記憶。
このそれぞれが、煩悩性と非煩悩性に分かれる。

正知とは、正しい知識であり、三種類がある。
経験による知識、推理による知識、聖典の知識。

誤謬は、実態に基かない、不正な知識である。
分別とは、陰陽に分かれる、固定の観念である。

昏睡は、意識が隠される、虚空の体験である。
記憶とは、意識に現われる、過去の経験である。

心に生じている、種々の作用を越える為には、
修習と離欲という、二つの方法が不可欠である。

修習とは、繰り返し、努めて行うことである。
心の動きと、逆に繰り返せば、心は止り始める。

離欲とは、あらゆる対象から、遠離すること。
最終的には、三つのグナからも、離れてしまう。

35安堂:2012/11/15(木) 01:48:49 ID:dQGgUa0s0
三昧とは、主体と客体の合一のことである。
有想三昧は、想念の有る、三昧のことであり、
無想三昧とは、想念の無い、三昧のことである。

有想三昧は、想念の種類で、四つに分かれる。
第一には、有尋であり、粗大な心の作用を伴う。
第二には、有伺であり、微細な心の作用を伴う。
第三には、有楽であり、平安な心の状態を伴う。
第四は、有我想であり、純粋な心の状態を伴う。

尋が消え、伺も消え、楽も消え、我も消えて、
最後に、行だけが残ると、有想から無想となる。

色界や無色界の神々は、無想三昧で居るが、
その他の者は、精進の結果、無想三昧に至る。
解脱への欲を持つほど、無想三昧の完成は早い。

即ち、信念が生まれると、精進が生まれる。
精進が生まれると念想、念想が生じると三昧、
三昧が生じると真智、これは欲により早くなる。

36安堂:2012/11/15(木) 01:49:44 ID:dQGgUa0s0
自在神を祈念しても、無想三昧に到達する。
自在神とは、煩悩に塗れてない、真我であり、
自在神は、一切知の最高の種子を、持っている。

自在神は、時間を越えた、存在であるため、
過去のグルにとっても、自在神はグルである。
その至高神を、音で表した物が、AUMである。

AUMを唱えながら、自在神を念じなさい。
そうするならば、内観の力を得ることにより、
ヨーガに対する障害を、無くすことが出来よう。

病、無気力、疑、放逸、怠惰、貪欲、妄見、
三昧に入れないこと、三昧に止まれないこと。
この九つが障害であり、全て心が散動している。

このように、心が動くほど、手足が震えて、
呼吸が乱れて、苦悩や不満が噴き出して来る。
これを治すには、繰り返し、思念を集中させる。

慈の心とは、他の幸福に対して、注ぐ心であり、
悲の心とは、他の不幸に対して、注ぐ心であり、
喜の心とは、他の善行に対して、注ぐ心であり、
捨の心とは、他の悪行に対して、注ぐ心である。

このように、心を念じても、心が安らかになる。

眼の先に、心を集中させると、良き色が生じて、
耳の先に、心を集中させると、良き音が生じて、
鼻の先に、心を集中させると、良き香が生じて、
舌の先に、心を集中させると、良き味が生じて、
身の先に、心を集中させると、良き触が生じる。

このように、心を念じても、心が安らかになる。

或いは、呼吸法を行じても、心が動じなくなる。
或いは、純質性を高めても、心が動じなくなる。
或いは、聖者方を念じても、心が動じなくなる。
或いは、神に夢で会っても、心が動じなくなる。
或いは、熟睡し目覚めても、心が動じなくなる。
或いは、好む物を念じても、心が動じなくなる。

これらの法をして、心が動かなくなった者は、
極微から、極大まで、すべての物を治められる。

こうして、心の作用が、完全に消えたとき、
心は、認識主体の真我か、認識客体の対象か、
認識手段の器官かに止まる、これが禅定である。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板