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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

2ladio:2006/10/27(金) 23:50:01
Esperanto 2.0b
1.1 人称代名詞・草案
me(mea men)  私は(私の 私を)
mej(meja mejn) 私たちは(私たちの 私たちを)
ve あなた vej あなた達
ŝe 彼女 ŝej 彼女たち
le 彼 lej 彼ら
ce あの人(三人称中性代名詞) cej あの人達
ĝe それ ĝej それら

veajn amikojn あなたの友達達を
vejan amikon あなた達の友達を
vejajn amikojn あなた達の友達達を

発音の都合上、以下のような省略が必然的に形成される:
M'estas Esperantisto.

#Web 2.0の流行に乗って、エスペラントも2.0に!!
#文法に必要最低限の変更をちょっとづつしていこう。

3隣の隠居:2006/10/28(土) 15:03:12
「〜達」というのは、単に複数語尾を付けるというのは違うと思います。
「私たち」というのは、その場に"mi"が全員いる場合もあるでしょうが、その場に全員いない"mi kaj li"の可能性もあるでしょう。

4USoZo(JL1USZ):2006/10/28(土) 17:03:09
『(状況が)判り易いけど覚えにくい』ことにならないと良いですね。
設定が細かくなりすぎると覚え辛くなります。
私は、漢字で書く「おじ・おば」でも苦労するのでひらがなで誤魔化しますので。

5ladio:2006/10/28(土) 18:38:58
>>3
確かにその通りですね。
それでは、
「ŭe 私たちは」
に訂正(mとnは聞き分けづらいと言うイドの意見を取り入れて)。

ところで、「riisumo」運動と言うのがあるそうです。
liとŝiのように性別を区別しないriを使おう、と言うものです。
というわけで、
re あの人(三人称中性代名詞) rej あの人達
に訂正。


Esperanto 2.0b
1.2 性接尾辞・草案
-it- 男性接尾辞
-in- 女性接尾辞

patro 親
patrito 父親
patrino 母親

6USoZo(JL1USZ):2006/10/30(月) 02:41:52
>5
-it- 男性接尾辞

すでに -it- -at- -ot- がありますが、これらを他のモノに替えるのでしょうか?
すると、 -int- -ant- ont- も関連付けて変更しなければならなくなりますね。

7Nemaldekstremistocxjo:2006/10/30(月) 15:18:24
私もpatroが「親」や、instruistoなどの-istoには中性的な意味があればいいのになとは思います。
ただ、riでさえ、まだまだですし新しい接尾辞を使うのは反対意見が多いと思います。

あえて、女性教師であることを強調したいときにのみ、instruistinoを使うことにする、や
日本でも「看護婦」から「看護士」になったように、女性にもflegistoを使う(使っても良いことにする)など。
そういった自然な変化の方が受け入れられていくのではないでしょうか。

それで、父親であることを強調するときは、masklpatroとか?(笑)

8Kanva:2006/10/30(月) 22:55:28
二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。

Riistoの提唱する男性化語尾は-iĉ-だけれども、例えば-oĉ-のように母音も
女性と違えてくれたほうがイメージしやすい。-i-自体に女性のイメージが
あるので(個人的感覚)。

9ladio:2006/10/31(火) 18:08:43
>>6
しくじりました。。。
>>8
既にあるんですね。
「-oĉ- 男性接尾辞」賛成です。

Esperanto 2.0b
1.3 冠詞
定冠詞laの使用を任意とする。
つまり、話者の母国語に冠詞がない場合、laは使わなくてもよく、
母国語に冠詞がある場合、laを使ってもよい。

#laを理解できるかできないかは文化によって違います。
#日本人にはどこにlaを使うのか分かりにくいものです。
#むしろ、必要性すら理解できないケースもあります。
#文化的差違を少なくするため、laを非推奨とします。

#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
#迷惑を顧みず、勉強不足を晒しつつ改造案をほざいていきたいと思います。

10Kanva:2006/10/31(火) 22:24:59
「定冠詞を持たぬ言語を母語とする者は最初のうちlaを使わなくともよい」
とは、Fundamentoにも出ていた説明と思いますが、ladioさんの言いたい
のは、もっと減らさせようということですね。

11USoZo(JL1USZ):2006/11/01(水) 00:10:23
>8
#二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。
同感ですね。「お前」だけに対して文句言いたいのに複数が目の前に居ると
「お前ら」全部に文句言ってると取られる場面が(英語で)以前あって
《一人対一人なら勝てるけど一人対多数では勝ち目が無いぢゃぁないか》
ってことで燻った経験があります。

 あ?これだと相手が目の前に居るときですね?
何十年も前のことなのに思い出したらまた悔しくなってきました。<`ヘ´>

>9
#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
根拠は個人のそれぞれでよいですよね。
楽しめなければ学問はただの拷問だと思います。

#勉強不足を晒しつつ
自分で読書をしたり聞いたりして理解を深めていくことが勉強でしょうから、
知らないことを聞くこと(教えを請うこと)は極自然なことだと思います。
勉強完全なら教授になっているのでしょうから。
ladioさんやみなさんの勢いに乗っからせて貰いますね。(^^♪

12ladio:2006/11/01(水) 19:08:02
Esperanto 2.0b
2.1 動詞の不定形
動詞の不定形は動詞の目的語としてのみ用いる。
つまり、povi(〜できる),devi(〜しなければならない)などの後に用いる。
それ以外の場合、名詞化したり、形容詞化したり、前置詞を用いて表現する。

2.2 二重否定
二重否定、可。

13ladio:2006/11/02(木) 19:56:59
Esperanto 2.0b
2.3 能動分詞
分詞形容詞が叙述形容詞として使われるときは、分詞形容詞は動詞の不定形をとる。(-anti,-inti,-ontiを語尾にとる)
つまり、叙述修飾句の分詞は動詞の不定形を用いる。
Mi rigardis akvon falanti sur la straton.
私は水が路上に落ちつつあるのを見た。
Mi rigardis akvon falantan sur la straton.
私は路上に落ちつつある水を見た。

14ladio:2006/11/03(金) 18:38:01
Esperanto 2.0b
2.4 分詞動詞(2.3 能動分詞を破棄)
分詞動詞を作ることができる。
能動分詞動詞は-anti,-inti,-ontiを
受動分詞動詞は-ati,-iti,-otiを語尾に持つ。

E: La bebo estas dormanta.
E-2.0: La bebo dormantas.
日本語:赤ちゃんは眠っている。

E: Mi estas invitata.
E-2.0: Mi invitatas.
日本語:私は招待されています。

問題点:一つの単語で2つの時制を表さなければならない。
ただ、受動分詞動詞ではほとんどの場合、2つの時制は一致するので、問題ないと思われる。

15Kanva:2006/11/03(金) 21:17:50
そういえば、JoMoの"Suno sunu !"という曲の歌詞の最後に、
"esperantu"という命令法があるのを聞きました。
他にそういう特殊な用例をご存知の方は?

16エスペロ:2006/11/04(土) 06:45:56
>>14
La bebo dormantas. Mi invitatas.

この言い方は、Monato誌にはよく出てきます。やはり、estiが2音節で冗長
なので、estiを使いたくないという心理が働くのでしょうね・・・

17ladio:2006/11/04(土) 11:53:17
分詞動詞は使われているんですね。
私にとって、そっちの方が使いやすそうなので良かったです。
と言うか、最初に分詞について学んだとき、これは動詞として使うものだと思いこんでいました。

18松戸彩苑:2006/11/11(土) 23:36:18
「改造」のうちに入るのかどうか判りませんけど、エスペラントの単語(あるいは
語根)には、長すぎるものがあると思うんですね。

で、そういうものは合成語をつくるのにも不便だと思いますので、短い語形が
あると良いと思います。

たとえば

pantalono → panto
au'skulti → au'ski
trankvila → tranka
cirkonstanco → cirkono
impertinenta → imperta

のようにです。

19ladio:2006/11/14(火) 20:19:01
ノシロでは、単語の文字数はなるべく少なくなるようにしているみたいです。
単語が短いと合成語作りに便利なだけでなく、単語の視認性も向上しますね。

20ladio:2006/11/17(金) 18:32:31
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/nutrlg.html
良いこといってます。(もしかしたら皆さんご存じかも知れませんが)
私はほぼ同意です。

特に、「
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html
エスペラントでは、「生物学」「同音異義語」などの高級語を安易にラテン語からとっている。
造語法で作れるものは造語法でとことん作るべきだ。

と言う、意見です。一番下には、造語法による高級語が列挙されています。

21Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:01:05
ladioさんの斬新な発想は大好きですが、ノシロのような失敗した人工言語を参考にされる意味は、まだ私にはよく分かりません。

22Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:09:30
追伸
>>20
もちろん、私もこのページはお気に入りです。この中にもいらっしゃったり(笑)

23ladio:2006/11/18(土) 17:07:37
>>21
ノシロなどは失敗したのではなく、ただ広まらなかったのです。
あらゆる人口言語は大事な遺産であり、良いところは取り入れるべきだと思います。
新しい発想はなかなかでませんので、過去の優秀な人の思いつきをパクってしまいます。

24松戸彩苑:2006/11/26(日) 02:15:48
エスペラントというのは基本的に「書き言葉」として発達したものなので、「耳で聞いただ
けでは区別しにくい」という単語が、けっこうあるように思います。
できれば、そういうものも改善したほうが良いと思ってるんですが。

具体的に言いますと、matura と natura、multa と muta といったものです。
これらは「目で見る」場合にはまず間違えないのですが、「耳で聞く」場合には、かなり
紛らわしいと思うんですね。

で、私は matura を mjura としたら良いんじゃないかと考えています。
これはフランス語の m&ucirc;r を参考にしたものです。
ほんとは mju なんて発音じゃないほうが良いんですが、mira や mura とするわけには
いかないので、こういう語形になったわけです。
スペイン語ふうに madura とすることも考えましたが、インドネシアには「マドゥラ族(人)」
という人たちがいますので、これも不採用としました。

それから muta は mjuta としたら良いと思います。
これは言うまでもなく、英語の mute の発音を参考にしています。

しかし笑い話のようですが、結局 mjura と mjuta も似てしまってますね。
これは最終的には、しばらく試験的に(話し言葉として)使ってみないことには、「改良」に
なってるのか、それとも「改悪」なのかが判断できませんね。
こういったことを考えますと、むしろ multa のほうをイタリア語ふうに変更して molta とす
るほうが良いのかもしれません。

こういった単語のペアはたくさんありまして、ほかにも ses と sep なんかが気になるとこ
ろです。
sep をギリシア語ふうに hep あるいは ep とするのは、どうでしょうか。

それから vidi と vivi というのも、耳で聞いた場合には、区別しにくいように思います。
私は今のところ vidi を vjui とするということを考えています。

ほかにも sama-sana、ankau'-antau'、al-au'、jam-iam、se-sed、mi-ni、el-en、sub-sur
なんかも気になっているのですが、これらについては、なかなか良い代案が思いつきま
せん。
今のところは「ゆっくりと丁寧に発音する」ということを心がけるしかないでしょう。

25松戸彩苑:2006/12/09(土) 09:46:10
エスペラントに対する批判や不満のひとつに「語彙が欧米中心である」という事が
ありますね。

もちろんエスペラントは、もともとフランス語やラテン語をもとに作ってあるので
「基礎的な部分」が欧米的なのはやむを得ないのですが、しかし「基礎的な部分」
以外の語彙に、もう少し、欧米以外のものがあっても良いのではないでしょうか。

欧米以外の文明で重要なものとしては、中国を中心とした極東文明、インド文明、
それにイスラム文明などがあると思うのですが、ここでは我々にとって最も身近
な「極東文明」に由来する語彙を提案してみたいと思います。

エスペラントにおいて「漢字」を表わすさいに最もよく使われるのは cxina ide-
ogramo という表現です。
しかし、言語学にくわしい一部の人たちからは「漢字は ideogramo ではなく logo-
gramo である」という指摘がなされています。
また、このほかにも cxina litero とか cxina signo という言い方もあるわけ
ですが、しかし考えてみれば、漢字というのは、現在、十数億人が使っている
文字なのです。
こういうことを考えれば、固有の語根で表わしても良いのではないでしょうか。

ということで、「hanzo = 漢字」という語根を提案してみようと思います。
これは、中国語の hanzi(漢字) から作ったものです。

26松戸彩苑:2006/12/09(土) 10:14:09
>>25
hanzo(漢字) という語根があれば、「日本で作られた漢字」という表現も
hanzo elpensita en Japanio と表現することが出来ます。

従来の表現方法ですと、cxina ideogramo(litero, signo) elpensita en Japanio
「日本で作られた中国文字」という、少々おかしな表現になってしまいますね。

なお余談ですが、かつてのベトナムでも、ベトナム独自の漢字が使われていました
し、また朝鮮にも、朝鮮独自の漢字があるらしいです。

それから「漢字の辞書(あるいは字書)」も hanzaro と表現することが出来ますね。

27松戸彩苑:2006/12/09(土) 13:00:21
>>26 で elpensita en Japanio と書きましたが、elpensita de japano のほうが
良いかもしれませんね。

あと、>>25 で出てきた ideogramo は「表意文字」、logogramo は「表語文字」という
意味です。

28松戸彩苑:2006/12/09(土) 16:08:03
>>24 で「耳で聞いただけでは区別しにくい単語が、けっこうある」と書きました
が、そういう例は、ほかにもあります。

それは、enlitigxi と ellitigxi のような例です。
この「en〜igxi」と「el〜igxi」というのが、なんとも紛らわしいと思いますね。

それで私は「en〜igxi」のほうを「〜enigxi」に換えたら良いのではないかと
考えてるんですね。
「liten」に「igxi」をつけて「litenigxi」とするわけです。
litenigxi と ellitigxi であれば、見た目も、発音も、適度に違っていて、区別
しやすいと思うのです。

もっとも、「el〜igxi」のほうを「de〜igxi」に換えるという方法もありますが、
私は上記の方法のほうが良いように思います。

29Kia-kablo-mi-estu:2006/12/11(月) 22:37:02
松戸さんのいう事には一理ありますが、耳を慣らすことが一番の方法だと思います。
エス語の単語には音韻論的には、一子韻の違いでその意味を区別する単語がたくさんあります。
例として、
bato, dato, fato, kato, rato, k.a.
これは、発話の「省エネ化」傾向から考えるとなるべく文の単位である意味を表す最小単位の
形態素を出来る限り短くする必要から来ています。お手本となる「自然言語」がそういう傾向で
「進化?」してきているのです。

実際、特に話し言葉(言語の本源)の場合は、発声器官に掛かる負担の軽減とその代償となる
意味の不明瞭化との攻め合いで決まるものなのですね。

この省エネ化のエス語の身近な例としては、人称代名詞の mi, vi, li, sxi などがそうでしょう。
これらは多くの印欧語にある動詞の活用の不規則性が学習を難しくしている事から導入された
ものでしたが、その代償として、時として情報の不正確さをもたらすものでもあります。
エス語を聞くのが不慣れな人にとっては、時として主語がはっきりと聞き取れないこともありますね。
それに反して、活用の違いが残っている言語(例えば、スペイン語、イタリア語等)では
主語を省略しても動詞を耳にしただけで主語(人称の違い)が明瞭です。

この例のように言語を学びやすくするためには、規則性と共に簡潔さも一つの要素となりますが、
場合によっては意味は不確実になる場合もあるということだと思います。
ところで、'en-litigxi'と'el-litigxi'も確かに耳で聞いた場合には区別しにくい語だと思います。
これが改められないでいるということは、実際にはTLO(tempo, loko, okazo)でその区別を理解して
いるか、あまり実際場面では使う機会がそれほど(修正が必要なほど)も今のところはない、
という事でしょうか。denaskaj esperantistoj に伺ってみなければなりませんな。。。

30Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:23:19
エスペラントにとってマイナスのような書き方をしましたが、実は、発話の
省エネ化傾向にブレーキをかけて来たのが書き言葉なんですね。正書法とか
伝統文法の様な権力による強制がなければ、話し言葉は所詮前回に述べた様に
意味の不正確という対価を払わなくても一定の共同体の中では、ダーウィンの
自然淘汰説を待つまでもなく落ち着くところに落ち着いたわけですね。
特に英語なんかは、長期に渡ってどちらかというと被支配者たちの言語傾向が
強かったので(今とは大違い)割と省エネ化が進んでいるんですね。

ザメンホフもエスペラントの創作には英語が大いに参考になったと語っていっている
位ですから。その代償として綴りとの乖離が矯正不可能な程となってしまいましたけど。
もう一つの例として、「民族的統一」を比較的早く行ったにも関わらず常に
ゲルマン言語の影響を受けやすかったフランス語の場合は権力により正書法等の
厳格な統制が長らくありましたしその傾向は今も続いたいます。にも拘らずですよ、
話し言葉では省エネ化が例外なく進んでいます。動詞の活用などは厳密に残っているのは
書き言葉においてだけで、話し言葉では単複の一、二人称の区別に縮小しています。

そういった意味で考えるとはザメンホフは天才でしたね。現在の科学としての言語学的
見解を先取りしているのですから。
時間がなくなりましたのでこの続きはまたの機会に述べさせていただきますが、
en-litigxi, el-litigxiの違いは話すときには、ハイフンで分けたようにelとen
の次の語との間に少し時間を入れるようです。具体的には所謂「曖昧母音」を間に
入れるようです。かなで書けばエヌリティージ、エレリティージのようになります。
en-iri, el-iriの場合は、文法書に書いてある通りというより、むしろ離さないで
話したほうがむしろ分かりやすいですね。

31Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:37:33
重要な事を書き忘れました。
何も印欧語に真似なくても日本語や中国語には人称による動詞の活用は存在しませんね。
しかも主語というか主題というか、その提示は義務的ではありません。
それに対しては論理的にどうのこうのと批判めいた事を言う人がおりますが、
話し言葉でも、実際その使用場面では不便を感じた事は少なくとも私には
ありませんでした。
上述の「むしろ、はなさないではなしたほうが.....」もTLOを考えれば誤解を
生じないでしょう。

32胡人:2006/12/12(火) 11:00:20
先日新しく出版された藤本達夫さんの「エスペラント語の入門書」を読みました。
長年、世界中の高名なエスペランチスト達と交流のある彼なりの、文法等の感じ方捉え方が、分かりやすく多くの例文で示され、大変面白かったです。正直、Enkonduka;入門書とは言えないと思いますが(^^)

彼が良く言われるのは、2,3時間外国の空港で耳を澄ませていると、必ず言葉として聞こえて来る、中には内容が分かって来る言葉もある。本当にそう思います。私はちゃんとした文章を書くのは苦手ですが、会話で苦労した事はあまりありません。

本当の初心者の時、往復2時間くらい、ロシア人エスペラチスト2人を人足替りにピアノを運んだ時、運転しながらだったのもあり、母音も聞き取れず、初めは彼らが何を言っているのか全くわかりませんでしたが、帰りの1時間は結構分かる様になりました。その場で「cxf-」という言葉を理解し覚える事が出来ました。私はその様にトニカク習うより慣れろという事と思わされました。

私が習った Gvidanto は良い意味で、いわゆる16か条というモノは、エスペラントを宣伝するための、ザメンホフの天才的宣伝用のキャッチコピーという言い方をされています。

以前、Ladio さんが 字上符の方法、ri 使用について等を改造と書いておられましたが、藤本さんや私の Gvidanto 的には改造ではなく、それがエスペラント採用されるかどうかは、その使用頻度(使用者による自然淘汰・自然選択的)だという考え方です。

33Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 21:44:46
胡人さんの見解に概ね賛成です。
ただ私たちが心に留めておかねばならないのは、残念な事ですが人には個人差が
有るという事です。これを言うと直ぐ差別主義のように言う人もおりますが、
これは厳然たることで、エスペラントの聞き取りになれるのに要する時間は、人に
よってかなりの差が有ります。
私も含めて、私たちが陥りやすい傾向として仮に「言語学習に於けるエリート主義」
とでも言いましょうか。そういったものにかぶれないよう注意する事ですね。
ザメンホフの16ヶ条の文法ルールをを読んで直ぐに使いこなせるようになった
人達は、相当のインテリだったと思います。
我々(日本のエスペランティスト)の殆んどもすでに英語の洗礼を受けていたと
言うことには大いに留意すべき事だと思います。
私も小学生にエスペラントを教えた経験がありますが、とりわけ日本人であって、
平均的能力の持ち主にとっては英語の学習と同じく、エス語の習得は至難の技だ
と思っております。
主要な自然言語(歴史的に現代文明の持つ知識十分に耐えうる機能を全て有して
いるという意味で)が持っているあらゆる基本的素材を包含した言語には語彙や
その統語法において例外なくミニマム量が有るという事ですから。。。。

34松戸彩苑:2006/12/13(水) 05:10:59
>>29-31
ご意見、ありがとうございます。

「bato, dato, fato, kato, rato」の例ですが、たしかに一音の違いで意味を区別
するケースが多いのは事実です。
しかしですね、同じ一音の違いでも「聞き分けやすい」ものと「聞き分けにくい」
ものとがあると思うんですね。
私は「聞き分けにくい」と思われるものだけを挙げたつもりなんですけどね。

35Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 07:28:45
松戸さんの挙げた ses と sep なんかは、典型的な例ですね。最後に子音のみで終わるもの。
私は ses はむしろ最終的には英語の six を参考に sis に換えたほうが良いのでは、とも
思いますが、これはfundamento に抵触する事なので宣伝はしません。しかし、私と違って所謂「改造論者」
の人達が敢えて意識的に使い多くの esperantistoj がそれに習うようになれば、それはそれで
言語的進化だと言えるでしょうね。

36Kanva:2006/12/13(水) 08:57:44
梵語等を参考に ses を sxas に換える、或いは露語等を参考に sxes に、
というのはどうでしょう。

37Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 20:38:34
Kanva さんへ
結局、この問題は将来、エスペラントで生活する人達の判断で決まる問題でしょう。
すでにエスペラントの存在は少数の恣意的所有物というような物からとっくに離れた
ものとなっていますから。
言ってみれば、誕生は創作言語として、現状としてはすでに殆んど「自然言語」として
存在しているわけです。

38松戸彩苑:2006/12/13(水) 20:51:07
今まで私は、改造や新語根について論じてきましたが、今回は新しい合成語の話をし
ようと思います。

東京、ニューヨーク、ロンドンなどの大都市は「区」に分かれています。
この「区」をエスペラントでどう表わすかということを考えてみたいのですが、『日本語エ
スペラント辞典』の kvartalo の項の(2)を見ると

(2)【地理】〔大都市の行政上の区分〕区〔東京などの〕:la Latina K〜o 〔パリの〕カル
チェラタン.

と書いてあります。
これでめでたしめでたし…と言いたいところですが、じつは問題が2つあるのです。

1つ目は、そもそもパリのカルチェラタンは「行政上の区」では無いということです。
ご存知の方も多いと思いますが、パリ市は20の区に分かれており、1区、2区…という
ふうに呼ばれています。これが「行政上の区」です。
で、カルチェラタンというのは、パリ大学の周辺部のことを言うわけですね。行政上の区
で言いますと、5区から6区あたりになるそうです。
ということで、パリのカルチェラタンは『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある

(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

というのに相当するものなのです。

で、2つ目の問題は、Nova PIV の kvartalo の項を見てみますと、『日本語エスペラント
辞典』とは違って、定義が1つだけだということです。
つまり『日本語エスペラント辞典』の(1)の意味しか書いていないのです。
そして、ここにも la Latina K〜o が載っていました。もちろん、これは正しいわけです。

念のため、旧版のPIV の kvartalo の項も見てみましたが、やはり『日本語エスペラント
辞典』の(1)の意味しか書いてありませんでした。

ということで、Nova PIV(および旧版の PIV)と『日本語エスペラント辞典』とでは定義が
違っているということが判りました。
もちろん、kvartalo が「行政上の区」の意味で国際的に使われている、つまり『日本語エ
スペラント辞典』のほうが詳しくて Nova PIV のほうが不十分だという疑いもあるわけで
すが、私の場合、kvartalo を「行政上の区」の意味で使っている例は、日本人が書いた
エス文のなかでしか見たことが無いように思います。

また、Wikipedia エスペラント版の kvartalo の項には

Kvartalo

Kvartalo estas parto de urbo, sed gxi ne estas administra distrikto. Gxi estas ia ka-
rakteriza parto de la urbo ekz.: komerca kvartalo; la latina (studenta) kvartalo; cxina
kvartalo.

と書いてあります(原文では字上符を用いているが、筆者が代用表記に改めた)。

ということで、どうやら kvartalo には「行政上の区」の意味は無いみたいだって事になる
わけですが、しかし、これで一件落着というわけにはいきません。
「行政上の区」を表わす表現がないと困るわけです。

フランスの「区」は arrondissement というのですが、Nova PIV や『日本語エスペラント
辞典』にも arondismento という語根が収録されています。
しかし、ほとんど見かけることがないですし、また、この単語には「区」のほかに「郡」の
意味もあるらしいんですね(パリ、リヨン、マルセイユのような大都市の「区」と、それ以
外の地域の「郡」の両方を、ひとつの語で表わしてるみたいです)。
ということで、なんとか「区」を合成語によって表現できないかって考えたわけです。

で、私が最初に考えたのは urbero というものでした。
町をいくつかに分割したものだから urb-ero だというわけです。
で、けっこう良いかなって思ったんですが、しばらくして urbeto と(音声的に)似すぎて
いるということに気づいたんですね。
ほんとに困ってしまったんですが、でもそのうちに、そもそも区というものは大都市にし
かないということに気がついて、今度は urbegero というのを考え出しました。
我ながら名案だと思ったんですが、しかし、意味的には正確ではあるものの、音声的に
はあまり魅力的ではないですね。

みなさんは、どのようにお考えでしょうか。
もちろん「kvartalo に2つの意味があっても構わない」「言葉は少しずつ変わっていくもの
だ」といった考え方もあると思いますが、これはじっくりと考えてみるべき問題だと思いま
す。(完)

39Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 21:52:21
所謂、Quartier latin ですか。懐かしいですね。日本にも「学生街の喫茶店」
という曲がガロの歌でヒットしましたが。
有名なSorbonne 大学がある界隈ですね。

>『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

PIV より確かに親切ですね。
でも詳しく定義分けをすることで誤解も生じるという事でしょう。
文脈で、所詮、語の正確な意味が決まるわけですから、PIV の定義の方がより
「安全」といえるでしょうね。

それから行政区画を正確に表す必要に迫られた場合は(政治や法律等の関係文書以外
あまりないと思いますが)、何も無理に一語の単語を作る必要はなく、
la distrikto, Minato, とか Minato-distrikto といえば行政区画ということは
分かると思いますが。
どうしても kvartalo を使いたければ、administr(aci)a kvartalo で良いと思います。
最もあなたのお考えになった合成語を使いたければ、それは一向に構わない事です。
「便利だ」と多くの人に受け入れられれば、おのずと広まっていくでしょう。

40りょほう:2006/12/13(水) 22:11:07
松戸彩苑さんへ

私はエスペラント版ウィキペディアでkvartaloを「行政上の区」の意味で使い、既に記事を幾つか作っています。
kvartalo には「行政上の区」の意味がないってことはわかっていたんですが、かといって他に使えそうな単語があるわけでもなし・・・当然選択肢は無く使うことに。
ああ、こうやって使うことで1つの単語にどんどんいろんな意味が追加されていくんだなあって、しみじみ思いました。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Curumi-kvartalo_%28Jokohamo%29
http://eo.wikipedia.org/wiki/Setagaja-kvartalo

41松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:31:36
「行政上の区」のことですが、新たな発見がありました。

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の borough の項は、
次のようになっています。

borough, (district), (urbo)distrikto; (Br:chartered town), municipo

また Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』の Bezirk の項にも
urba distrikto という表現が載っています。

ということで「行政上の区」を表わすには urbo-distrikto あるいは urba distrikto という
表現が使えると言って良いようですね。
distrikto だけですと、市町村よりも大きいのか小さいのか、ハッキリしないと思われます。

…ということで、この問題は一件落着と言いたいところなのですが、しかしここで問題提
起をしてみようと思います。
問題とは、たかが「行政上の区」といった程度の表現を見つけることが、エスペラントで
はかなり大変だという事です。
また、どうして大変なのかと言えば、この程度の表現がハッキリとは決まっていないか
らなのです。

歴史をひもといてみれば、東京、大阪、京都などに区が設けられたのは、1878年のこ
とです。
欧米においては、もっと以前から区があったことでしょう。
そういう、エスペラントが発表されるよりも前からあり、文明国のふつうの住民なら誰でも
知ってるはずの「行政上の区」を表わす表現が、エスペラントではいまだにすんなりとは
出てこないということは、大問題だと思うのですね。
また、エスペラント界では、語彙・表現は「自然に決まる」ものとされていますが、この
「神話」にも疑問を感じざるを得ないわけです。

私は以前から痛感していたのですが、エスペランティストは「日常生活に必要な語彙」と
いうものに、ほとんど関心をもっていないという事があると思うのです。
たとえば「腕立て伏せ」「腹筋運動」「懸垂」といった表現を、エスペラントですんなりと表
現できるでしょうか?
英語ですと「腕立て伏せ」は push-up(米)、press-up(英)、「腹筋運動」は sit-up、「懸
垂」は chin-up、pull-up などというように、簡単に調べることが出来ます。

しかし、エスペラントでは、これがなかなか簡単には出てこないのです。
『日本語エスペラント辞典(第二版)』を見ると、次のようになっていました。

うでたてふせ【腕立て伏せ】 〜をする sin subteni per brakoj kaj piedoj.
ふっきん【腹筋】 〔解〕 abdomenaj muskoloj.
けんすい【懸垂】 pendado. 〜運動 pendgimnastiko. 〔鉄棒体操〕 rekgimnastiko. 〜線
katenario.

つまり「腕立て伏せ」で出てくるのは、地面に四つんばいになるポーズを表わすだけの表
現であって「動き」が表現されていません。
「懸垂」にしても、ぶら下がるだけで、ここにも「動き」は表現されておらず、「腹筋運動」に
至っては、まったく載っていません。

42松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:32:29
>>41 の続き)

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみると、push
の項にある push-up(腕立て伏せ)には lev-pusxo という訳語が与えられています。
また chin の項にある chin-up(懸垂)には mentonumo、mentonumi sin という訳語がつ
いています。このような表現は、新旧どちらの PIV の mentono の項にも載っていません。
press-up は収録されておらず、また sit-up、pull-up の項はありますが、運動を意味す
るものは載っていませんでした。

これが、エスペラントの実態なのです。
しかし、こういう話をしても、従来の考え方に染まりきったエスペランティストたちであれば
「大した問題ではない」「そのうちに自然に決まる」と考えることが出来るものなのでしょう。

このあたりのことがいい加減だから、エスペラントは発表から120年もたっているのに
Tok Pisin にも劣る二流の言語にとどまっているのだと、私は思うのです。
今のままでも、日常生活に必要な表現を「大ざっぱ」には表現できるのですが「正確」に
は表現できないのです。
そういうことに気づかない理由は、やはり「日常生活に必要な語彙というものに、ほとんど
関心をもっていない(詩をつくったり、抽象的な話をしたりすることだけが好きだから)」と
いうことと「(大部分のエスペランティストは母語でも使うことのないような)学術用語がた
くさんあるということで満足してしまっている」ということと「自然に決まるという神話がある」
ことなんかが原因なのだと思います。

エスペラント界には英語などの外国語が堪能な方が多いんですけど、そういう方たちは、
エスペラントがほんとうに他の民族語と比べて遜色ないと思っておられるんでしょうか?
私なんかは大して英語はできないんですけど、その私から見ても、遜色ありまくりなん
ですけどね。

また私は、周囲にいる人たちにエスペラントを勧めたことが一度もありません。
理由は、日常生活に必要な語彙でさえ不足しているので、他人に勧める気にはとてもな
れないからです。
専門家しか知らないような単語が無いのは許せますが、日常生活に必要な単語がアイ
マイなのでは、他人に勧めようが無いのです。

もちろん私は「エスペラントはもうダメだ」と言ってるのではなく、「日常生活に必要な語彙
を、みんなで整備していく必要がある」「それは可能だ」と言ってるのです。(終)

43胡人:2006/12/16(土) 12:08:19
「行政上の組織」の表現は、各々の国、地域によって結構違いがあり、それらはその歴史的文化的な背景からくるものです。

東洋においては、漢字を使用するため、かえって間違い易い点の一つとも言えます。例えば、韓国における、市、洞、里、中国の郡、県など、漢字を使いながらも、それぞれ基準が全く異なります。

そのためエスペラントは、橋渡し言語として、ヨーロッパだけではなく世界中に様々な言い方がある以上、世界的基準を勝手に決めない方が良いと思います。

urbo,vilagxo,kvartalo,bloko,gubernio等を,例えばkvartalo;"KU"(区)と表記し、注釈において説明するのが一番良いと私は思います。

44松戸彩苑:2006/12/16(土) 13:30:50
>>43
まぁ、国によってバラツキがあるということと、原語を添えるというのは、よく
判ります。

でも、どの国でも、英語で説明するときのために「訳語」が決まっていると思う
んですよね。
たとえば、日本の「区」は ward って訳されますよね。
(ニューヨークやロンドンの区は borough なんですけど、どうして日本の区だけ
ward って訳されるのか、よく判りませんね)

また、大都市の「区」くらいは、国際的に通用する語があっても良いように思っ
たんですけどね。

45樂々:2006/12/18(月) 20:55:11
「自然に決まる」はウソでしょう。百年かかっても決まらなかったんですから。

46胡人:2006/12/19(火) 07:07:50
正直、決める必要は?
公文書に記入の時は、urbo等大まかな表現で良いし、また必要なら"Ku"等注意書きで良いし。
郵便等は配達作業者が理解できる様に書くのが基本だし、様々な基準が本当に必要であれば決まるしょうが…

少なくとも現在までは必要がなかったのが本当のところでしょう(^^)V
必要な時には、決まるでしょうし決めるでしょう必要なところが…決め、発表する事になると思います。

47松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:57:51
「エスペラントは、日常生活に関する用語でさえも不足・混乱している」という私の持論を、
さらに詳しく説明してみようと思います。

まず最初に「分割払い」と「割り勘」という表現をエスペラントでどう表わすかについて調
べてみます。
どちらも「分けて支払う」ということなので、よく考えて造語しないと区別がつかなくなって
しまうわけですが、結論から言いますと、やっぱり混乱してるんですよね。

『日本語エスペラント辞典』では

ぶんかつ【分割】 (中略) 〜払い partopago. 〜払いする partopagi. (後略)
わりかん【割勘】 〜で払った Cxiu kotizis; Cxiu pagis sian parton.

となっていました。
「割り勘」のほうは、これでは「みんなが支払った」ということしか判らないので、良い表現
だとは思えません。
しかし「分割払い」のほうは、これで良さそうな気がしますね。

次に『エスペラント日本語辞典』の pagi の項を見ると

partopago 手付け(金);分割払い(金)

となっています。
つまり、ここでは「分割払い(金)」の意味だけではなく「手付け(金)」の意味もあるんだと
いうことになってました。
しかし考えてみると「手付け(金)」と「分割払い(金)」の表現が一緒というのは、混乱しな
いでしょうか?

そんなことを考えながら Nova PIV の pagi の項を見てみると

parto〜o. Parta 〜o, farita kiel garantio de la pli malfrue pagota sumo: (後略)

と書いてありました。
つまり「手付け(金)」の意味しか無いというのです。
さらに、念のために旧版の PIV を見てみますと、parto〜e という副詞のかたちで副見出
しになっていて

Kiel ek〜o: (f) nur unu kiseton, parto〜e de nia edzigxo!

とあり、文末に z マークが付いています。
つまり、ザメンホフが使った用法なのですが、たしかにこれは「手付け」の意味だと思わ
れます。
Nova PIV も、このザメンホフの用法を踏襲しているわけです。

話をもとに戻しますが、どうやら『エスペラント日本語辞典』では、Nova PIV には書いて
なかった「分割払い(金)」の意味を付け加えたらしいのです。
まぁ、実際に使われているから付け加えたのでしょうか、しかし、先に述べたように「手付
け(金)」と「分割払い(金)」の両方を partopago という同一の表現で表わすというのは、
やはり問題だと思います。

ちなみに Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の install-
ment(分割払い) の項には partopago が載っています。
つまり『日本語エスペラント辞典』と同じで、Nova PIV とは違っているというわけです。
また、この辞書の go Dutch(割り勘にする) のところには iri mempage と書いてありま
すが、この表現もやはり「自腹で支払う」という意味しかないと思います。

48松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:59:27
>>47 の続き)

このように、いくつかの辞書を見てきたわけですが、ここまで来れば、これらの表現をも
っと明確に表わす方法はないだろうかと考えるわけです。
まずは「割り勘」ですが、いろいろと考えて思いついたのは egala pago という表現でした。
みんなで同額を支払うことなので egala を付けてみたわけです。

次に「分割払い」ですが、lau'grada pago あるいは grada pago というのはどうでしょうか。
po-parta(po-ioma、po-era) pago とか、「分割払い」を直訳した divid-pago なんてのも
考えたんですが、これらは「割り勘」と誤解される危険があるかもしれませんね。
---

次に「逆立ち」をエスペラントでどう言うかについて考えてみようと思います。

英語では handstand と言うらしいので、これを参考にして man-stari あるいは brak-
stari などと言えば良いと思われます。
さらに「逆立ちした状態で歩く」というのは man-pasxi、man-marsxi、man-iri (あるいは
man- の代わりに brak- としても良い)で表わすことが出来るでしょう。

このように考えていくと何でもないような気がしますが、しかし実際には man-star(ad)o
という表現が載っているのは(私が知るかぎりでは) Esperanta Bildvortaro くらいのも
のなのです(同書278−24)。

『エスペラント日本語辞典』の kapo の項にある surkape という副見出しのところには
「stari sur〜e 逆立ちしている」というのが載っています。
これはどうやら、ドイツ語の Kopfstehen、Kopfstand などの影響をうけたもののようです
が(英語にも headstand という表現がありますが)、しかし細かいことをいうと、頭を地面
につけるタイプの逆立ちならば良いでしょうが、頭をつけない場合にも surkape と言うの
はどうかなと思います。
もっとも「慣用句だ」と言われれば、それまでですが。

『日本語エスペラント辞典』を見ると

さかだち【逆立ち】 〜する starigxi kapmalsupren. 〔頭をつけて〕starigxi kappiede. 〜し
て歩く pasxi per manoj. (後略)

となっています。
「逆立ちして歩く」だけはすんなりと処理していますが、「逆立ち」のほうは、かなり難しい
表現をしています。
pasxi per manoj を参考にすれば starigxi per manoj という表現がつくれると思うのです
が、なぜかそうしていません。
---

このように、エスペラントを勉強していきますと、日常生活に関する用語の不足・混乱とい
うものが嫌でも目につくという事があるわけです。

一部の専門家しか知らないような単語は、無くても仕方がないと思いますが、いわゆる文
明社会の一般人なら誰でも知っているような事物を表わす単語・表現が無い(あるいは混
乱している)というのは、大問題だと思います。

もちろん、こういうものは、割合から言えば、ひじょうに小さいものですが、しかし「使ってる
うちに自然に決まる」と信じて、こういったものを放ったらかしにしておくのは良くないだろう
と思うのです。

(終わり)

49松戸彩苑:2007/01/04(木) 12:53:10
「上下が逆」「左右が逆」「前後が逆」「表裏(おもてうら)が反対」ってのを、エスペラントで
はどのように表現するんでしょうかね?

英語だと upside down(上下が逆)とか inside out(表裏が反対)のように言いますね。
(英語で「左右が逆」と「前後が逆」をどう言うのか知らないんですけど、ここではどうでも
良いことです)

自分で考えてみたんですが supro-sube、dekstro-live、antau'o-poste、interno-ekstere
なんてのはダメですかね?

50松戸彩苑:2007/01/06(土) 12:29:02
>>49 で「表裏が反対 = interno-ekstere」と書きましたが、これは洋服や手袋や靴下な
どの表裏(= 内側と外側)のことを念頭においたものですね。

紙やシートといった薄いものの裏表の場合ですと fronto-dorse とでも言えば良いんでし
ょうか?

また、こういった表現の仲間として「タテとヨコが逆」というのもあると思うんですが、これ
はどのように言えば良いのか、私には思いつきません。
---

私は、エスペラントを始めて3年くらい経ったころから、自分の身の回りにあるものを見て
「これはエスペラントでなんと言うのだろう?」と思うことがたびたびありました。

で、判らない場合は和エス辞典を引くわけですが、首をかしげるような訳語が載っていた
り、あるいは、まったく載っていなかったりということがよくあったのです。

もちろん、新しい事物であるとか、昔はあったが今は無いものとか、日本独自のものだと
か、民族語においても一部の人しか知らないようなものなどであれば、エスペラントの表
現が無いのは理解できます。

しかし、昔からあって、現代の文明社会に住んでいるふつうの人間であれば誰でも知っ
ているような、ごくごく日常的な事物なのに、訳語が無かったり、あるいは有っても、訳語
があまり適切だとは思えなかったり、または長すぎて使いにくそうだといったことに頻繁
に出くわしますと、現在のエスペラントのありかたそのものに疑問がわいてくるわけです。
---

たとえば「キャッチボール」をエスペラントでどう言うんだろう?と思って『日本語エスペラ
ント辞典』を見ても、まったく出てきません。

「キャッチボール」という見出しはありませんし、「キャッチ」と「ボール」の項はありますが、
キャッチボールは載っていません。

私はいろいろと考えて、自力で inter-jxetado という表現を考え出しましたが、このときに
思ったのは「このような合成語というのは、ふだんからみんなで作って発表していかない
とダメだ」ということでした。

少なくとも私は、ある表現が必要になったとき、即座にその表現を考え出せるほど、頭が
良くありません。
---

エスペラントはこのような状態だから、理論的には便利な言葉であるはずなのに、現実
には、理論上考えられるほど便利な言葉とはなっていないのだと、私は考えるのです。

また、eterna komencanto や、数年でやめてしまう人がたくさん発生するのも、これが一
因だと思います。
だいたい「学習容易」なはずの言葉なのに、身の回りの事物を表現するのがしばしば困
難なのでは、どうしようもないではないですか。

それから、エスペラント界には「エスペラントはすでに、政治・経済・学術などといった高度
な活動に使用することが出来るんだ」などと考えている人がいるようですが、私はかなり
危険だと思います。

もちろん、エスペラント界の内部で「試験的に使用」することは大事であり必須であるとさ
え思いますが、しかし、現在のエスペラントを過大評価するのは、やはりマズイと思うの
です。

>>47 で論じたことですが、現在のエスペラントは partopago に「手付け」と「分割払い」の
2つの意味があるような混乱した状態だということを忘れないでいただきたいのです。

こういうことは今のところ起こりうるとは思えませんが、もしも、どこかの会社でエスペラン
トを使って取引をすることになったのは良かったが、表現のマズさから大きな損害が発生
してしまった、などということが起こると困るわけです。

たとえエスペラント界に賠償が来なかったとしても、エスペラントの信用はがた落ちになる
でしょう。

世界中どこに行っても「あぁ、あの大損の元になった言葉か」と言われることになると思う
のです。

私が「日常生活」や「娯楽」のために使うことを奨励しているのは、そういったトラブルが起
きにくいだろうと考えたからです。

またそもそも、世間の人たちが、エスペラントを「高度な、失敗すると損害が大きい」ような
分野で採用することは、まずありえないと考えたからでもあります。
---

ということで、私は「日常生活に関する表現が不足・混乱している」ということを、エスペラン
ト運動の根幹の問題だと考えております。

これを読んで「単なる揚げ足とりだ」とか「くだらない」とか「そのうち自然に決まる」などと思
われる方もいらっしゃるかもしれませんが、けっしてそうではないのです。

「社会の問題」には敏感だが、「エスペラントの問題」には鈍感だというのでは、やはり困る
のです。

(終わり)

51松戸彩苑:2007/01/08(月) 12:00:53
mon-kolekto という表現がありますが、『エスペラント日本語辞典』の kolekti の項を見る
と「募金」という訳語がつけられています。

また Nova PIV で mon-kolekto を調べてみますと、この表現を「募金」の意味で使った
のはザメンホフだということが判ります。

でも考えてみると、世の中には「集金」ってものもあるんですよね。

「募金」は慈善事業のために集められるもので、絶対に出さなければならないという義務
はありませんが、「集金」は純然たる経済活動の一つであって、支払う義務のあるもので
す。

また英語でも、募金は fund-raise、fund-raising、whip-round などと言うのに対して、集
金は bill collecting、bill collection などと言って、両者を区別しているようです。

ということで、この2つの概念は区別したほうが良さそうですね。
ところが『エスペラント小辞典』の mon-kolekto の項には「募金」と「集金」の両方が訳語
としてあげてあったりします。

私の考えでは mon-kolekto を「集金」の意味に使い、「募金」は kvesti を使って表現す
るのが良いと思います。

もちろん、ザメンホフの用法を尊重して mon-kolekto を「募金」の意味で使っても良いの
ですが、その場合には「集金」を表わす表現を考え出さないといけません。
私には、そういう表現が思いつかないので「mon-kolekto = 集金」「kvesti = 募金」の
ほうが良いと考えたわけです。

Nova PIV で kvesti を調べてみると Grabowski が使ったということが判りますが、おそら
く「募金」を mon-kolekto で表わしたのでは「集金」と区別できないということに気がつい
て、これと区別するために新語根を導入したのでしょう。
---

『日本語エスペラント辞典』で「手抜き」の項を見てみますと

てぬき【手抜き】 〔意識的な〕 neglekto; saboto. 〔不注意による〕 forgeso. 〜をする
neglekti; saboti. 工事に〜が発見された Oni trovis (intence) preterlasitan parton en
la laboro.

となっています。
かなり頑張ってはいるのですが、しかし残念ながらイマイチな感じがします。

ということで、もっと良い表現はないだろうかと考えて、最初に思いついたのが malsincere
farita あるいは malsincera という表現でした。
「手抜きの仕事」を malsincera laboro のように表わそうというわけです。

しかし、もっと適切で短い表現はないだろうかと考えました。
「ラクをしよう、かんたんにしようとして不正をする」ということだなと考えて、facil-umi とか
simpl-umi などとすれば良いのかなと思ったりもしました。

しかしそのうちに sxpari に「出し惜しむ」という意味があることに気がついたので、sxpar-
umi あるいは sxpar-acxi といった表現で表わすことが出来るのではないかと思いました。

「sxpar-umi (あるいは sxpar-acxi) = fari ion kun tro da sxparemo de mono, peno kaj/
au' tempo」とでも説明しておけば、理解してもらえるでしょう。

もっと良い表現があるかもしれませんが、もしも思いつかれた方がおられましたらご教示
をねがいます。
---

先日、駅前を歩いていたら、目の前にハトが舞い降りてきたんですが、それを見て「(鳥が)
舞い降りる」ってエスペラントでどう表現するんだろう?と思いました。

『日本語エスペラント辞典』には「舞い降りる」の見出しは無く、「舞う」「舞い」「降りる」の項
にも「舞い降りる」はありませんでした。

「舞い降りる」は英語だと to swoop というらしいので、これを Peter Benson(編)『Compre-
hensive English-Esperanto Dictionary』で調べてみると、fal-flugi という表現が載ってい
ました。

fali は「落ちる」とか「倒れる」という意味があるのでイマイチかな?とも思いましたが、まぁ
「下にむかって飛ぶ」ってことだから、こんなものなのかなとも考えました。
でも、ひょっとすると、この fal-flugi という表現は「鳥が、地上にいる獲物をつかまえるた
めに急降下する」って意味なのかもしれないな、とも思ったのですが、実際のところはどう
なんでしょうか。

ちなみに fal-flugi は Nova PIV にも旧版の PIV にも載っていません。
Wells の辞書には載っています(英エスの部の swoop)。

私も自力でいろいろと考えたんですが、flugil-bat(ant)e al-ter-igxi くらいしか思いつきま
せんでした。
「羽ばたきながら着地する」ということですが、なんとも長ったらしく、ぎこちない表現ですね。
なんとかして「フワッと降りてくる」というニュアンスを簡潔に表現したいものだなと思ってい
るのですが…。


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