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刑事弁護の危機と医療の危機

1キラーカーン:2008/08/26(火) 23:12:25
コメントの流れをぶった切ります。

 犯罪であれ、医療の現場であれ、最愛の人を失った悲しみは遺族にとって変わりません。
 そして、その遺族の悲しみは何らかの手段によって癒される必要があります。そのための第一歩が「事実を知る」と言うことであるということも一定のコンセンサスが得られていると思います。ここでいう「事実を知る」とは、

ある時点時点における事実という「点」を理解(納得)できる形で「線(歴史)」として叙述した「物語」

であると私は認識しています。その意味において、この問題は「歴史認識問題」と共通する部分があると私は思います。


ということで、今回も、光市の事件と大野病院との比較が「枕」です。実は

・光市の(差戻審)被告人弁護団と本村氏
・大野病院事件の医者と亡くなった患者の父親

は法律上「同じ」関係にあります。(厳密に言えば、被告人と弁護人との違いはありますが、裁判の当事者としては同一視できます)。また、本村氏となくなった患者の父親は刑事裁判上「犯罪被害者」という同じ存在であるのです。
 蛇足的にいえば、大野病院の事件においては、無罪判決が出たため、結果的に「犯罪被害者」ではなくなりました。また、「推定無罪」の原則との関係から、『刑事裁判において「犯罪被害者」は存在しない』との説も存在します

で、双方の裁判とも起訴された罪名については否認していたわけです。しかも、双方とも、弁護人の行為や医師の行為について
・刑事弁護の崩壊(by弁護士:光市の事件)
・医療崩壊(by医師:大野病院事件)
と同様の懸念が同業者である弁護士及び医師の多数からから発せられていました。

 しかし、光市の弁護団は強烈な「バッシング」を受け、大野病院事件の医師はそこまでの「バッシング」は受けていません。
 それはなぜでしょうか。大野病院事件においては、

「被害者(患者)のため」

という立論を崩してはいませんが、光市の事件においては

「弁護人(弁護士)、被告人のため」

の立論に終始し、「被害者の存在を無視」してからです。
 もちろん、「このままでは医療崩壊を招く」という医者側の立論は

「医者の脅迫」

として、批判されることもありますが、その場合でも

「医者のため」

という「被害者不在の立論」であるという「光市の事件に関する多くの弁護士が陥った落とし穴にはまった」からと言うことができます。

 では、なぜ、医者はそのような議論が提起できるのでしょうか。私が考えるに、医療崩壊の問題については、「加害者(医者)」と「被害者(患者)」の双方を包含する『医療』という社会的枠組が存在するのに対して、光市の事件においてはそのような枠組みがないからだということができます。
 医療の場において、医者(「加害者」)と患者(「被害者」)の接触は必須です。その意味において、医者と患者との対話、意思の疎通は円滑な医療の実施のための必要条件であるということができます。

 一方、刑事司法の場において、加害者と被害者が会して、双方の意思の疎通を行う発想そのものが伝統的な刑事司法の場では『存在しません』。そういう発想は「修復的司法」という考え方によって刑事司法に導入されたものであって、現在における日本の刑事司法では存在しないものです。
 と言うことで、本来争うべき場所が機能しないために(刑事裁判で争うべきものでないものが)刑事裁判の場に持ち込まれたと言うのが、光市の事件と大野病院事件という2つの事件に接して感じたことです。

 と言うことで、、「ミスはある一定の確率で絶対に起きる世界」なので、そのことについて「過失犯」に問うことはやめて欲しいという医者側の問題提起は理解できます。
 しかし、その一方で、最愛の人を失った遺族(あるいは一命を取り留めた患者)の蒙った精神的損害は何らかの形で埋め合わせなければなりません。そのためには、何らかの形で『医者の側の無過失責任』を表象する『お詫び』を医者側(医療提供側)から患者側に対して、示す必要があるのではと思っています。
 それと併せて、起きた事実を患者側が納得できる形(専門的ではなく、一般的な論理構成と用語使用)で医療側が提示する必要があると思います。そして、それが患者側にとっての「事実を知る」と言うことになると思います。
 
 これは、医療問題に対するエントリなので、光市の事件に関しての「加害者と被害者との対話(和解)」についての方策は割愛しますが、弁護士の方々には、光市の事件に関する弁護団に対する「バッシング」に対して

被害者という視点を組み入れない(被害者を無視した)形での

「刑事弁護の崩壊」という立論をしても、一般国民の理解を得られないとだろうと言うことを申し添えておきます

32キラーカーン:2009/02/16(月) 21:37:21
 その一方で「刑事裁判の機能は社会秩序の維持であり、被害者感情の慰藉については反射的効果に過ぎない」というような最高裁判所の裁判例もあり、その観点からすれば、刑事裁判において犯罪被害者の意見は聞くべきではなく、これまでのように被害者を「疎外」しておくべきという結論になります。しかしながら、上述のように、この方針は現実問題として採り得ず、犯罪被害者保護基本法の制定など、現実の刑事政策の方向性を踏まえれば「反射的効果に過ぎない」の部分については、この裁判例は、現時点においては判例法として機能しなくなったといっても良いでしょう。現実には、「刑事裁判は被害者感情にも配慮しなければ社会秩序の維持という機能を果たせられない」ということになっていると思います。
 したがって、この裁判例の趣旨に忠実であった(と思われる)光市の事件の弁護団とその支持者は、刑事裁判は被害者にも相応の配慮を払うべしという現在の刑事司法の流れ、あるいは、社会の刑事裁判(あるいは刑事司法)に対するニーズに反しているという意味で社会的に大きな反発を受けることはこれまた理の当然だったわけです。

 では、どうすればよいのか。個人的には、これまでの役割分担を変えない方が混乱が少ないと思われますから、検察官と被告人(弁護人)の役割分担を変えずに、被害者固有の事情について被害者が刑事裁判において主体的な地位を占めるということになるでしょう。また、被害者固有の事情は被害者自身(あるいはその代理人)に代弁させたほうが良いと思いますので、その観点からも、検察官はこれまでどおり「公益」の名を以って被告人を糾弾するということになるかと思います。
 つまり、検察官が主張すべき「処罰感情」というのは「世間」または「社会」の処罰感情の相場であって、被害者が主張するそれであってはいけないと個人的には考えています。そのような情勢においても、「自分が被害者になったら」や「被害者への感情移入」等々により、被害者感情が被害者固有のものから世間・社会に共有されます。その「共有された被害者感情」を無視して判決を下すのであれば、社会秩序の維持という刑事裁判の最も重要な目的も果たせなくなってしまいます。
 したがって、被害者固有の感情から世間・社会として共有される「被害者感情」として昇華させる作業を経てから検察官が「処罰感情」や「被害者感情」を「公益」として主張できるものと考えます。したがって、被害者が懲役20年を望んでも、世間の相場が懲役10年から15年であれば、その範囲でしか判決は下されないでしょうし、そのような差異が生ずることは受任せざるを得ないでしょう。
 それであっても、被害者を蚊帳の外において下した判決と被害者を被害者としてバーの中に入れて被害者の話を聴いた上で下した判決とでは、被害者にとっての意味が違ってくるでしょう。それだけでも「疎外感」は格段に緩和されるはずです。更に、上述の「ずれ」を被害者がどのようにして埋めるのかといえば、それこそ「修復的司法」の出番ではないかと思う訳です。

 だからといって、その疎外感を刑事裁判外で埋める適当な方法があれば、そのような方策も考えられるのではないかとは思います。例えば、被告人の弁論に対して被害者として反論したいというのであれば、刑事裁判の場ではなく、裁判官が被害者への質問という形で、別途被害者の言い分をくみ上げるという方法もあるでしょうし、あくまで、被告人と被害者との間の「個人的事情」として、刑事裁判の場にこだわることなく、別途対峙する場が設定しても良いのかもしれません。
 よく言われているのは修復的司法的手法で用いられている各種手法ですが、そのほかに、例えば、刑事裁判には参加させないが、犯人の釈放又は執行猶予期間の満了の判断について、被害者の承諾を得なければならないというような形で、被害者に事実上量刑と執行猶予期間の微修正権を与えるという方法もあるかもしれません。あるいは、懲役の仕事を大きく変えて、現在派遣労働者が行っている業務をやらせて、その賃金(派遣労働者の給与相当額)を被害者への賠償に充てるという方法もあるかもしれません。

 法律というものは情と理の微妙なバランスに立っています。情に傾いても、理に傾いてもその法律は空文と化します。また、「法律は最低の道徳」という言葉からも、法律には人として守らなければならない最低限の「善」あるいは「情」というものが含まれていると信じています。だからこそ「大岡裁き」というものが光を放つものだと思っています。

33キラーカーン:2009/03/05(木) 21:19:39
この件は、証人として出廷した被害者に対して被告人が暴言を浴びせたという事案(http://motoken.net/2009/02/11-162958.html)ですから、被害者参加制度が認められる前の「被害者は証拠(証人)に過ぎない」といわれた時代においてもあり得る事件です。しかも、被告人の暴言自体が証人等威迫といった刑事罰に触れる行為を行ったことが根本問題であるわけで、被害者参加制度とは関係なく「許されざる行為」だったわけです。

だからこそ、証人保護の規定(衝立を入れる、ビデオリンク方式)というものが整備されてきているのであって、この事件を以って被害者参加制度に反対するのは「犯罪者を免責してより犯罪被害者にその罪をかぶせる」という状況になってしまいます。強いて言えば、「法廷の秩序維持に失敗した裁判所による被害者への2次被害」という言い方も不可能ではないですが、それは裁判所にとってあまりにも酷だと思います。

もし、被告人の(被害者にとって)聞くに堪えない弁明を聞くのがいやだというのであれば、「だったら参加するな(という選択肢もある)」という反論も相応の意味はありますが、この事件は位相を異にします。(国籍法改正後につかまった中国人ブローカーの事件も改正前の国籍法に触れる話なので、国籍法改正問題と位相が異なるのと同じ)

34キラーカーン:2009/03/05(木) 21:22:36
>「被告人という『一個人の権利』が『国家によって不当に蹂躙される』
>ことを「国民の感情次第で認める」結果となり、ひいては
>「未来にまで同様の不当な蹂躙が認められる」という『公益を損ねる事態を招く』
>可能性があった

そのような主張をするなといった覚えはありません。つまり、この問題の発端であった弁護団の言動によって、私のような

被害者がないがしろにされている(刑事裁判において被害者の権利を認めろ)

という主張に対し、そのような主張を認めると上述のように被告人の権利に対する不利益が出るという反論は十分に理解できます。真っ当な議論の流れといえましょう。
 そして、刑事裁判において被害者参加を認めないほうが結局、被害者と被告人との間で WIN−WIN の関係になり、被害者参加を認めた場合、一見、被害者の権利にも配慮しているように見えるが、実は双方とも損害を蒙る LOSE―LOSEの関係になるという横槍氏の立論は、このスレでは唯一といってもいい「真 っ 当 な 反 論」だったわけです(勿論、私はこの見解には、かつて議論したように現時点で反対ですが、そういう立論があるいるということについては否定しませんし、そういう見解を投稿するという権利は全力で擁護します。それが「言論の自由」です。一部の弁護団擁護派のように自分の意見に反対だからといって「曲解」や「ファシスト」や「民主主義の敵」呼ばわりはしません。それぐらいの分別はあります。)。

 ということは、この議論の行方、あるいは、弁護団に対して批判的であった人々への説得の技法としては

被害者の権利保護と被告人(弁護人)の権利保護の均衡点(妥協点)はどこか
(数学的に言えば、X+Y=8のときにX*Yが最大となるX(被害者の権利),Y(加害者の権利)の値は何かという議論)

ということになるはずです。被害者保護基本法の制定などもあり、「被害者の権利」も「被告人の権利」と同様に法的保護に値する権利であるというのは「ドタキャン」時点でも明らかであった(その意味において、平成2年の最高裁判決だけを引いて、最近の被害者保護法制の動向についてダンマリを決め込んだ すちゅわーです さんの議論は「プロ」として素人に対峙する場合には極めて不適切、不遜極まりないでしょう)のですから、その意味においても、

被告人の権利と被害者の権利との比較考量の上で、つまり、刑事裁判(あるいは刑事司法)におけるあるべき被害者保護も語った上で

「だ か ら、 弁 護 団 の 言 動 は 許 容 さ れ る」と主張しなければならないし、それこそが「真 っ 当 な 議 論」だったはずです。(井上薫弁護士も、弁護団の行為が適法かどうかは「社 会 通 念」にも照らして考える必要がある。弁護団の行為は「弁 護 権 の 濫 用 の 疑 い」があるとの見解を表明しています(『裁判官が見た光市母子殺害事件―天網恢恢 疎にして逃さず』)
 そして、裁判所への遺影の持ち込みの問題などから見ても、被告人の権利と被害者との権利を比較考量した上で決定するというような趨勢になっています(例えば、「遺影の持込は認めるが、被告人の『死角』になる場所に置くように」との指導が有る場合もあると聞いています。これも、被害者と被告人の権利相互間の比較考量の上での「妥協点」ということも言えるでしょう)。

 これが、私は最初の投稿以来主張している「弁護団擁護派」は「被害者保護について語るべきだ(それなくして弁護団擁護派の議論は理解されることはない)」ということの意味です。そのことの意味を理解せずに、被告人(弁護人)の権利だけを主張し、被害者の権利については無視、拒絶を決め込む(被害者の権利について語る意思がない)という態度は、

建前として被害者にも権利があると認めること
本音として被害者の権利など存在しない

という弁護団擁護派の本音と建前の乖離を如実に物語るものだったのであり、真っ当な議論の流れではない。(上記の数式の例を引けば、Yについてのみ語って、Xの存在を無視するという、奇妙奇天烈な答案になっているわけです。そんな答案が「0点」であることは論を俟ちません)
だからこそ、私は すちゅわーです さんの「不十分かもしれないが弁護士も色々被害者保護の活動をしている」(大意)に反応して

そこがもっと聞きたい。そこを語ってくれ(大意)

といったのです。今回の祭りの発端は「弁護人(弁護士)が被害者をないがしろにしている」という「怒り」だったのですから、そこ(=弁護士は必ずしも被害者をないがしろにしていない)をうまく説明すれば、弁護士に対するあらぬ誤解が避けられるはずだと思ったからです。そして、それを引き出せればとも思ったのです。しかし、結果はゼロ回答どころか、感情的な反発だったのです。

35キラーカーン:2009/03/05(木) 21:22:50
 例えば、安田弁護氏はこの事件の「弁護人」としては死刑廃止論を主張したことはなかったが、「弁護士」という法律専門家としては死刑廃止論に立っている。というように、弁護人としての立場と弁護士としての立場で主張を制御するということがあります。この場合においても、(潜在的)弁護人として弁護人の職責を説明するが、弁護士として被害者と被告人との権利保護についてどのように考えるのかということについて「法律のプロ」としての見解を述べるということはあってしかるべきだったはずです。それが、刑事弁護について理解を得る王道であったというのは上述のとおりです。
 しかし、被害者の権利と関連つけて立論することをせず、被告人の権利は検察(国家権力)という巨大な力からか弱い一般国民を守るために必要であるという(一種の「反権力イデオロギー」的な)観点でしか説明できなかったために、結局理解を得られることなく、「刑事弁護はつらいもの」と捨て台詞を吐いて説明を放棄せざるを得ないところまで追い込まれたのです。

 そして、このスレ(過去スレを含む)の議論結果は周知のとおりです。で、横 槍 氏 を 除 く 弁護団擁護派は被害者保護との比較考量で被告人の権利を正当化する能力もなければ、そのような比較考量すること自体を拒否したのです。私は、そこまでして、検察と被告人との二当事者対立構造という刑事裁判制度を絶対視し、それに疑問を呈しただけで「ファシスト容認」、「民主主義の敵」という罵詈雑言を浴びせ、被害者保護という法律でも認められた人権に優先させ、被害者保護に関する議論を避ける理由が理解出来ない。で、議論を進めていくうちに、弁護士のブログや弁護士会のHPを閲覧していくうちに

反権力イデオロギーに毒されている
二当事者対立構造は反権力イデオロギーにとって非常に都合が良いのでなんとしても守らなければならない

という仮説にいたったわけです。
 被害者保護について語ることを一貫して拒否し、被 害 者 の 人 権 を 無 視 し、二当事者対立構造における被告人・弁護人の権利については一歩も譲ることなく擁護しなければならないという弁護団擁護派の立論は、(反権力イデオロギーに極めて役に立つ)刑事裁判の構造(二当事者対立構造)を維持することが 唯 一 至 上 の 目 的であったということが明らかになったのです。

結局「人権派弁護士」という言葉が

イデオロギー擁護の道具として人権を利用する

という揶揄と軽蔑を込められているという一般常識が必ずしも間違っていなかったということだったのです。(「右翼雑誌」のSAPIOの最新号でもそのような記事がありました。)

在野法曹意識(反権力イデオロギーは用法・要領を守って正しく使用しましょう。
弁護士の社会的信頼を損ねる恐れがありますので在野法曹意識(反権力イデオロギー)の使い過ぎに注意しましょう。

36キラーカーン:2009/11/20(金) 23:14:06
身もふたもないが
178の
>要はこの法律自体が未完成で、みんなを振り回してるってことか
がこの件についての実態を端的に言い表しているのではないだろうか

203の
>刑が嫌なら犯罪を犯さなければ良い。
これがいわゆる刑法の「一般予防効果」といわれるもので、刑法の犯罪予防効果の2本柱のうちのひとつ。予断ながら、この効果がどれほどかということも死刑の存廃論争においても主要な論点の1つ。
ということで、どういう行為であれば犯罪を犯さないということになるのか、裏を返せば

「どのような行為が犯罪行為になるのか」

ということが国民の代表が決めた法律で明確に分からなければならないと一般国民として困るというのも「罪刑法定主義」の実際的な意味の1つ。
この観点からも、法律時の条文をもっと明確(分かりやすく)すべきというのはというのはひとつの方向性だと思う。その場合、

179の「アルコール又は薬物の影響で運転」

だけの構成要件にするべきというのはひとつのたたき台と思う。レスにもあったが、「薬物」だけでは風邪薬も含まれるというのであれば、覚せい剤などの「禁止薬物」に限定するのも一法だと思う。
今回の場合、飲酒運転によって引き起こされた重大事故を「故意」犯に準じて処罰するという立法趣旨については一応のコンセンサスが得られているのだから、当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない。その意味でも、178のいう「未完成」という言葉が妥当する。

余談的にいえば、日本の刑法で殺人罪に関する条文は1つだけ(過去には尊属殺規定もあったが、意見判決後の長い空文期間を経て条文は削除された)で、事件の態様に応じて裁判官が判決を下すというシステムになっているが、これは、世界的にも異例で、外国から日本の司法を研修に来ていた人から「罪刑法定主義」との関係で問題にならないのかという質問もあった。
 つまり、

裁判官の裁量が広すぎる。殺人の類型に応じて類型化して、各類型ごとに刑罰を定めるのが罪刑法定主義の趣旨からいって適切ではないか

という趣旨の質問だった

例えば、米国では、殺人罪は謀殺(murder)と故殺(Manslaughter)とに分かれ、前者は一級と二級に分かれるので、実質的には三段階の殺人罪がある。後者には今回の危険運転致死罪のような「重過失致死」罪も含まれる。であれば、
199の
>今回は殺人じゃないよ。一緒にすれば、殺人の悪質性が見えにくくなる
という観点から、少なくとも
殺人罪
重過失致死罪(危険運転致死罪のようなもの)
その他致死罪
という位の類型は必要かもしれない。

37キラーカーン:2009/11/20(金) 23:14:16
身もふたもないが
178の
>要はこの法律自体が未完成で、みんなを振り回してるってことか
がこの件についての実態を端的に言い表しているのではないだろうか

203の
>刑が嫌なら犯罪を犯さなければ良い。
これがいわゆる刑法の「一般予防効果」といわれるもので、刑法の犯罪予防効果の2本柱のうちのひとつ。予断ながら、この効果がどれほどかということも死刑の存廃論争においても主要な論点の1つ。
ということで、どういう行為であれば犯罪を犯さないということになるのか、裏を返せば

「どのような行為が犯罪行為になるのか」

ということが国民の代表が決めた法律で明確に分からなければならないと一般国民として困るというのも「罪刑法定主義」の実際的な意味の1つ。
この観点からも、法律時の条文をもっと明確(分かりやすく)すべきというのはというのはひとつの方向性だと思う。その場合、

179の「アルコール又は薬物の影響で運転」

だけの構成要件にするべきというのはひとつのたたき台と思う。レスにもあったが、「薬物」だけでは風邪薬も含まれるというのであれば、覚せい剤などの「禁止薬物」に限定するのも一法だと思う。
今回の場合、飲酒運転によって引き起こされた重大事故を「故意」犯に準じて処罰するという立法趣旨については一応のコンセンサスが得られているのだから、当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない。その意味でも、178のいう「未完成」という言葉が妥当する。

余談的にいえば、日本の刑法で殺人罪に関する条文は1つだけ(過去には尊属殺規定もあったが、意見判決後の長い空文期間を経て条文は削除された)で、事件の態様に応じて裁判官が判決を下すというシステムになっているが、これは、世界的にも異例で、外国から日本の司法を研修に来ていた人から「罪刑法定主義」との関係で問題にならないのかという質問もあった。
 つまり、

裁判官の裁量が広すぎる。殺人の類型に応じて類型化して、各類型ごとに刑罰を定めるのが罪刑法定主義の趣旨からいって適切ではないか

という趣旨の質問だった

例えば、米国では、殺人罪は謀殺(murder)と故殺(Manslaughter)とに分かれ、前者は一級と二級に分かれるので、実質的には三段階の殺人罪がある。後者には今回の危険運転致死罪のような「重過失致死」罪も含まれる。であれば、
199の
>今回は殺人じゃないよ。一緒にすれば、殺人の悪質性が見えにくくなる
という観点から、少なくとも
殺人罪
重過失致死罪(危険運転致死罪のようなもの)
その他致死罪
という位の類型は必要かもしれない。

38キラーカーン:2009/11/20(金) 23:15:49
>故意か過失かは関係ない。
これを、今回の事件に即していえば、理由はどうであれ、人を死に至らしめたのだから殺人罪ということになるのだか、これがいわゆる

「結果無価値論」

という考え方。
その一方、人が、罪を犯そうという意思から発した行為こそが罰するに値するという考え方が

167の「行為無価値論」

ということになる。現状では、後者の行為無価値論が基礎となっており、それが広く受け入れられていることから、このスレでも飲酒運転での事故は「故意か過失か」ということが主要な論点の1つとなっている。故意がなければ、罪に問えないのだから学術上では、「過失犯」を刑法で罰するべきかという議論さえある。派生的な問題として「不真正不作為犯」(喧嘩の現場に通りかかったが、そのまま通り過ぎたため、けが人(死者)が出た行為を傷害罪や殺人罪に問えるか)という問題もある。
しかし、最近では、犯行動機が理解を絶するような犯罪が増えてきているので(例:秋葉原通り魔事件)、結果無価値論が盛り返してきている状況ではないか。

また、203のように
>24歳で過失を犯した彼は、この先家族を持つことも出来ず
>おそらく40半ばで出所した後も不幸な人生を送るでしょう。
ということが社会的コンセンサスとしてあり、実際そうなるのであれば、厳罰化の流れは止まる。しかし、現在の日本社会では、そうではなく、名前を変え、フリーターとして経歴を「白紙」にしておけば、「ワーキングプア」並みには生きていけるのだから、それは、「前科者」としての「不幸な人生」にならないというコンセンサスがなんとなく出来上がっているから、184の言うように
>罪=罰=社会的制裁+刑罰
の社会的制裁の部分が減少しているので、その穴埋めとして厳罰化の風潮があるということだと思う。

39キラーカーン:2009/11/20(金) 23:16:48
>152で再発防止に関する意見をコメントしたけど、だーれもコメントせず。

 言い訳がましく言わせてもらえれば、「あまりにも当然のことは、議論にもならず、記録にも残らない」ということだと思います。この議論も、「識者」のコメントが当たり前では「なかった」ことに起因しています。コメントがつくのは、ある意味、

そのコメントが、当たり前ではないと思っている人がいる

ということでしょう。
で、私自身はその再発防止策に基本的には賛成です(酒税の増税は少し留保)。
 余談的にいえば、名神高速道路では高速運転のために直線区間が多くしたため、居眠り運転が多くなったので、以後の高速道路は意識的にカーブなどを入れているようです。
 本来、事故を起こさなくても、飲酒運転自体が禁じられているので、

危険運転=飲酒運転+重大な結果(事故)
(被害者を救護しなければ、さらにドン! として、「逃げ得」をなくす。)
(もちろん、懸命に救護した人は情状酌量を与えるべき)

でよかったのではないかと思います。ただ、この理論を突き詰めると、無過失責任、結果責任、ひいては結果無価値論の肯定(つまり、故意又は過失の存在を問わない。せいぜい、飲酒を「故意」と同等に扱うというところ)まで突き進んでしまう可能性があるので、現行の刑法理論との間にかなり懸隔があるとは思います。
 なぜ、そんな条件が入ったかは分かりませんが、飲酒と交通事故の間に直接的な因果関係がなければならないとでも思ったのでしょうか、それとも、対象行為があまりにも拡大すること(極論すれば、「国民総犯罪者化」となる)を恐れたのでしょうか。

個人的には、この事件は最高裁の判断を必要とする事案だと思います。

240の
>批判すべきは立法府で、一審の判事ではないはず

はそのとおりで、コメント「240」の全体の流れも現時点では異論を唱える次元ではないです(細かいレベルまでいけば、異論が出る可能性はありますが、現段階では、そのレベルに達していませんし、達する必要もないと思います)
 とはいっても、立法府も完璧ではありません。そういったことを司法(裁判所)が穴埋めするというのも三権分立の実際的な運用ではないかと思う次第です。これも、細かく言えば、「裁判所による立法行為」であり、国会(立法府)の権限を侵しているのではないかという論題は十分成立するのですが、立法府が作ったできの悪い法律を裁判所が専門家の目から見て、「実際に使える」ように支援することがあってもよいと思います。
 米国では、国会議員だけしか法案提出権がないので、国会議員が関連法律との整合性を図らずに法案提出をして、可決成立することがよくあるとのことです。そして、裁判所はそういう法律の「交通整理」を行う役目も担っているとのことです。(日本では政府提出法案は、既存の法律と齟齬をきたさないように、主管省庁、内閣法制局で徹底的にチェックされます。

 今回の事例については、立法趣旨からいって危険運転致死罪を適用すべきだとは思いますが、条文があいまいに過ぎるという批判を回避するために、最高裁で何らかの基準を示すべきだと思います。
 レベルは違いますが、いわゆる「永山基準」というものも、死刑に値する「一級殺人」とそれ以外の「二級殺人」とに分ける「判例法」として機能していたわけです(221のコメントのように、日本の刑法上一級殺人、二級殺人という区別はありません)。その意味で、221の

>当座(法律が改正されるまで)は「判例法」という「不文法」で凌ぐしかない

となると思います。もちろん、その最高裁の判断を受けて、立法府が刑法を改正するというのが、わが国における、好ましい、「三権分立」の運用になるのではないかと思います。

40キラーカーン:2009/11/20(金) 23:17:43
法律学では自然科学のような厳密な法則というものはなく、271の言うように、法解釈や法理論には論者の「何を正義とするか」という「イズム」言い換えれば「主観」が入り込みます。刑法では

結果無価値と行為無価値
応報刑主義と教育刑主義

というように。この理論の対立は、自然科学のように「決着」することはありません。しいて言えば、どちらが「社会通念」に近いかという、「感情論」あるいは「多数決」の次元で決められるものであるため、社会構造が変化すれば、優劣が逆転することもあります。
 このようなことは自然科学ではありえません。自然科学では種々の仮説があっても正しいものは正しいし、間違っているものは間違っているという判定が「論者の主観」とは無関係に決定されます。

犯罪の成立には故意の存在を必要とすることを原則とする「行為無価値」を突き詰めると、その故意を処罰するのが主目的なので、犯罪の結果は量刑には影響を与えないということになります。
つまり、純粋な行為無価値理論では、

人を1人殺しても、3人殺してもそのこと自体では量刑に影響を与えない

ということになります。
日本の刑法では、犯罪の成立は故意の存在が前提であり過失犯は例外(刑法38条)で、未遂犯も既遂犯と同様に処罰できますが、刑法、善悪の弁別能力がない場合(心神喪失)あるいは劣っている場合(心神耗弱、未成年)の場合には刑罰が免除あるいは軽減される(刑法39条)というのがその例です。
光市の事件や名古屋の事件のように、被害者の数に関係なく、悪質なものは死刑という裁判例が出たことは、この行為無価値の原点に戻ったということがいえます。

しかし、現実にはそうなってはいません。永山基準にも見られるように、生じた結果によって刑罰が重くなるというのが一般的になっています。この限りにおいて、行為無価値を基準とするが結果無価値的な観点を取り入れているということになるでしょう(尤も、故意の悪質性と結果の重大さは比例する(正の相関関係にある)という論理構成も可能だとは思います)。いずれにしましても、量刑の決定については、事実上、横軸に「故意、過失のレベル」、縦軸に「結果」をとった二次元の座標上で決定されるということです。(例:故意過失レベル4、結果レベル4の事件と故意過失レベル6、結果レベル2の事件では前者のほうが罪が重くなる(=原点より遠くなる)

故意犯より過失犯の方が刑罰が「常に軽い」というようなことはなく、
316の
>3、故意より過失が重く処罰されるのは法律的にそもそもおかしい
についてはこの見解に賛成です。そもそも、殺人罪の最低が懲役5年で、危険運転致死罪の最高刑が懲役20〜30年ですから、極端な例を選択すれば306の言うように

危険運転致死罪>殺人罪

となる場合があるということは、刑法自身が許容しているということになります。少なくとも、危険運転致死罪に問われる程度の「重過失」であれば、「故意」との差は「逆転可能」というのが刑法の下している価値判断です。

41キラーカーン:2009/11/20(金) 23:19:15
同様に
>過失犯で結果の重大性から重罰を下すのはおかしい
についても現行刑法でも「結果的加重犯」という概念はあります。
端的な例は「傷害罪」と「傷害致死罪」(「○○致死罪」の類)です。一般的にいって、この二つの罪は「故意」のレベルでは同等です。しかし、不幸な偶然で被害者が亡くなったという結果によって罪のレベルが上がってしまうということです。
したがって、危険運転であっても事故を起こさなければ、単なる「飲酒運転」であり、人身事故の発生という結果によって罪が重くなるということも現行刑法上では奇異なものではありません。

とはいっても、最近の「体感治安」の悪化は、
・「通り魔殺人」に代表されるような犯罪動機が理解できない「結果が甚大」な犯罪が多くなっているために
・そういう動機が理解できない犯罪の方が「心神喪失(耗弱)」による無罪(減刑)を主張しやすく、結果として「いつ被害者になるか」という恐怖が増幅される(本件の「危険運転致死罪」もその延長)
が原因と思われるため
・「社会秩序の安定」という刑事裁判の目的からすれば、(動機よりも)結果の甚大さを以って処罰する「結果無価値」的主張の説得力が増大する
というような社会情勢となっていると考えられます。

専門家とは、その専門知識を持って、専門的知識が必ずしも十分でない市井の人々の思いを専門的な議論に「翻訳」し(吸い上げ)て、専門家同士の議論に耐える素材として「料理する」ことが求められています。
このスレでも、そのように、市井の人々の思いを「感情論」と【馬鹿にして】【切って捨てる】ではなく、その「感情論」を専門家の言葉に翻訳して議論に耐えるネタとして提供しようとしている人はいます。
市井の人々との議論においては、専門的知識は市井の人々と専門家とをつなぐ道具として使うべきであって

専門的知識の欠如を以って、議論する資格がないと
「排除する」あるいは「馬鹿にする」

ために機能しているわけではありません。
人権派弁護士をはじめとする法律の専門家といわれる、あるいは、法律学を「かじった」人の議論が

>>専門的知識を楯に、
>>市井の人々の思いを【無 視 し】【見 下 し】【馬 鹿 に し】
>>自らの専門領域に閉じこもって、
>>現実を全く反映していない偏ったイデオロギーを
>>さも「中立的な正義」のように
>>市井の人々に押し付け、

現実との齟齬を指摘されると

>>現実が間違っている、
>>専門的知識のないものの戯言は聞くに値しない

と嘯(うそぶい)いて、市井の人々の声を無視するような傲岸不遜な態度をとるから、光市の事件における弁護団に対する批判や「人権派弁護士」に対する批判のように

>>「法曹の常識は社会の非常識」
>>イデオロギーのために「人権」を利用している

という批判を浴びることになるのです。
そして、現在の状況においては、その批判は大筋において当たっていると断ぜざるを得ません。それは、冒頭で引用したこのスレッドにおける書き込みにも妥当します。

例えば、法哲学を専門にする、名古屋大学の大屋准教授は

>interconnectivity principle、
>(中略)法は社会を運営する仕組みのうちの一つで
>(中略)他のさまざまな仕組み(たとえば宗教や市場や伝統的秩序)
>と相互に関連して存在している
>(中略)「社会の法に対する優越性」を承認し、
>(中略)社会の中で所期の目的を果たす手段の一つとして
>法改革を位置付けなくてはならないと

とある学者の見解を自らのブログで好意的に引用しています。
最近の弁護士はこの

「相互に関連して存在」

というのを忘れているのではないでしょうか。
このため、弁護士(に代表される法律の専門家)には現代社会の現状に応じた「法律的な解決策」を生み出す能力が決定的に欠けていると断ぜざるを得ません。自らの専門敵領域に閉じこもって、社会のために法律学を役立てるというという法律家としての使命を忘れ去っているのです。それが

>>光市の事件における「弁護団バッシング」に対する拒絶反応
>>刑事裁判にかけて欲しいと起訴を求める一般国民の権利を
「権力の味方」と切って捨て
>>本件のように「殺人でもこんなに重くない」

という「非常識」なコメントになって、市井の人々から「法律家は社会のゴミ」といわんばかりの嘲りを受けるのです。


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