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でぃべーと高校

1管直人:2003/06/12(木) 18:29
肯定側の多くは「他に治療手段がなく本人が死を望む場合、それを聞き入れることが患者のQOL(Quality of Life:生命の質)を向上させる」ということを言います。一見良いことのように聞こえます。

(1)積極的安楽死専門病院の設立
(2)20才以上で死を望んだ人に安楽死(=病を患ってなくとも安楽死)
(3)安楽死の実施の是非を精神科医が判断
(4)3名以上の立ち会いで安楽死。ただし立ち会いには家族等の関係者を含まない
(5)裁判所管轄の安楽死判定委員会が安楽死を法的に検証

 ということで、「望んでいる人には全員安楽死で全員QOL向上」というメリットが、予め想定された“患者に関わる”デメリットを発生させず。

「死にたい人は殺せばいいじゃん。望んでいればQOLだよ。」と、選手もジャッジも安易に考えちゃいけないのでは?と痛感させられました。

 会場の意見では(上記プランを提示したチームでさえも)「論題を普通に考えれば否定側でも勝機は十分にあるはず…」という思いと裏腹に、否定側が勝てない現実が露呈しました。否定側がうまく議論出来ていない、つまり否定側として想定されることがうまく言葉に出せないので、ジャッジが取れないのでしょう。

更に例外的なプラン。よい子はマネをしないでね(^^;
(1)死刑を絞首刑から積極的安楽死に切り換えます。
(2)全国から募集した医師が、死刑として積極的安楽死を実施します。
M1死刑囚の苦しみからの開放
M2死刑執行人の苦しみがなくなる

2管直人:2003/06/12(木) 18:29
1.QOLの定義ですが、それはどのような定義なのですか?
 日本でこのQOLの定義ははっきりしていない気がします。
(私の勉強不足でしたら、すみません)「生命の質の向上」って
考え方によっていろいろな見方ができるので。

2.死刑囚=患者じゃないんじゃ・・・?

 患者って「病人やけが人」(by新辞林)という感じがするのですが。
まあ、死刑囚はつねに精神を病んでいて、患者であるということを
証明すれば一応論題の対象内になるのかなぁ?
でも無理があると思います。ターンがたくさんありそうだし。

3管直人:2003/06/12(木) 18:30
1.望んでいるなら殺してやれ、という価値観が吟味されることのないまま提示されている
2.否定側が明確な哲学を示せていない/示しにくい
※1.家族負担によって生じた本人の意思は純粋意思と何が違うのかという点
※2.論題範囲が異なるのでそのまま拡張することはできないが(医学界<>日本政府)、うちの教授が言うには→
「新治療法開発や、あるいはpain-clinic、セラピーなどによるtarminal-care、
安楽死という選択肢の存在を患者に与えれば、そのすべての努力は無効化する」

4管直人:2003/06/12(木) 18:30
QOLとは、「患者の幸福」と肯定的な文脈で捉える事もできま
すが、ずばりそのまま「生命の質」として捉える事もできる
と思いますし、まさにその点が、安楽死議論が紀元前から決着
しないでいる大きな要因だと思います。
おそらく、医療哲学、生命倫理の本なんかを読めば出てくると
思います。

僕個人としては、「生命の質」という概念には、若干違和感が
あります。なぜ、ある特定の場合には、命を絶つ事が許される
のか?自己決定が大事というだけなら自殺まで可能になるはず
です。(それを良いか悪いかは別として)

そこら辺の議論がでてきたら、安楽死のディベートもグンと広
がってくるんじゃないかと思います。

5管直人:2003/06/12(木) 18:31
「安楽死を選択することによって、生きる期間(=介護期間)が
短くなる分、家族の介護ストレス&金銭的負担が軽減される」
一般的にはunacceptableな(ヒトとして違和感を
覚える)議論だと思いますので、そのあたり、否定側は確実に
この論点をひっくり返せるだけの準備が必要なのではないかと
いう感想を持ちました。

6管直人:2003/06/12(木) 18:31
議論上、「全ての苦痛とれますから〜・・・」系列の反駁があまり意味を出しそうにないので、メリットを享受している人がいる限り、「メリット」は発生していると思います。
ですが・・・逆に「自殺の増加」(←おととい作ったら、先生や仲間に相手にされませんでしたが・・)や「社会的風潮の悪化」系列のデメリットは、もろに発生しそうな気が・・・。
でもどちらにとっても戦いやすいかもしれませんね

7管直人:2003/06/12(木) 18:33
「1人でも間違って安楽死が行われたら問題である」という考え方が簡単かつ重要だと思います。
他の論題と違い、数値(どのくらい安楽死が実行されるのか、医者はどのくらい確実なのか)がわからないですし、よほどうまく論証しない限り、メリット・デメリット双方ともある程度発生する事になると思います。
そのときに重要なのは、仮に実行されるとして、「正しく安楽死が実行される」ときと、「判断が誤って実行される」ときと患者の命の重さは同じなのか、ということです。「軍人の命」と「民間人の命」が等しくないのと同じように。
そうすれば、「誤診が起こりうる可能性」を残しさえすれば、否定も勝てると思います。
2反で、判断基準・価値基準を提示したり、価値の点で比較をもう少しやってみるべきではないでしょうか。(大学生もですが)2反が反駁だけになってしまい、比較やいかに勝っているか(優っているか)というスピーチが少ないように感じます。

肯定側の安易な自己決定権の主張には、違和感を感じてしまいます。ご存じとは思いますが、権利をその後行使出来なくなるような自己決定権の行使は制限しうる、というのが学説です(従って自殺は認められない)。所詮は学説ですが、全体として認知されていないタイプの権利だ、とした上で、よほどの理由がないと、このタイプの行使は認められない、というやり方も出来るかな、と感じました。

8管直人:2003/06/12(木) 18:34
否定側について・・・自己決定権の話をするのも、有効ではないかと。

自己決定とは、ちゃんとした知識、環境の下でないとなされない・・・といった議論も有効だと。
強制されたりした上での自己決定は自己決定といえない・・・といったようなものです。
確かに、普段、考えられないような立論に対して、否定側が対応をするということは、一立、カウンタープランなし、しかも準備時間が1分という段階では、困難があるといえるでしょう。
ただ、これは、いつどんな論題でも起こりうる問題だと思います。

9管直人:2003/06/12(木) 18:35
>「1人でも間違って安楽死が行われたら問題である」という考え方が簡単かつ重要だと思います。

>そうすれば、「誤診が起こりうる可能性」を残しさえすれば、否定も勝てると思います。

 可能性だけのデメリットですと、「確実にある程度(数千人とか)の命が尊ばれる」 メリットに負けてしまうと思われます。悪い可能性は工夫により回避できるでしょうから。
 ただ、患者と医者の「判断」については、もっと論点になっていいと思います。(ともすると、論点が除痛の是非に留まってしまいがちで…)否定側も「実際には可能性だけではなく更にとんでもない状態になる」と言いたいですね。

10管直人:2003/06/12(木) 18:36
「生命の質」というものを語るためにはある基準を示す必要があると思います。
現段階では、その基準が不明確なまま、肯定側も否定側も議論をしているようです。
特に否定側は肯定側はどのような基準を設定しているのか、それは妥当なものなのか、という点をよく吟味することが必要だと思います。

そこが否定側にとっては突破口になるのでないでしょうか。

11管直人:2003/06/12(木) 18:36
ただ、「死刑囚に安楽死」というプランをノントピカルにする力も基礎基本ではないかと思います。
こういうものが出たとき、質疑の時間と準備時間の合計五分を利用して二つ三つトピカリティーをその場で作って返す力は自衛のためにも必要なのではないでしょうか?
いくつか例を挙げてみます。普通に「患者=病気の人。よって死刑囚は違う」というものとか「法的に認める=今は認められていないものを認める。いま、残虐な死刑は認められてなく、ゆえに全て安楽死といえる。よってプランは「認める」わけではない」とか「延命中止以外の手段により・・・=延命中止と言う手段があることを前提としている。死刑囚は延命治療中止で殺すことは不可能。」こんな感じですかね。論題に対して議論するのも必要なことだと思いますよ。

12管直人:2003/06/12(木) 19:14
いろいろひっぱってきたが、宗教論なってたな。

13ねじまき鳥:2003/06/13(金) 00:05
宗教論ってのは、具体的にどういうことですか?
おそらく自死の権利があるかないかについてだと思うのですが、
そりゃ反駁で言うんですよね。
それ自体デメリットにするってのは、難しいはなしですし。
額田先生曰くの、「人倫への背徳」みたいなやつって、デメリットになりえるのか危ういですし。
そのような深いエチカ的考察が必要になる(?)ような議論が試合のメインストリーム
になりそうな試合で、うちは両方の2反をやらねばならぬという窮地に追い込まれちまいました。
・・・どうしましょ〜〜〜!!

あとですね、QOLって、要するに生命の質、生活の質であって、
それは尊厳死を行って生命維持装置をはずした後死ぬまでの、
生かされた命ではない自分で生きる命の大切さをいっているのであって、
安楽死ですぐに死んじゃったんじゃ生命の質も何も、生命自体ないじゃないか
という話なような。

それからですね、これまた額田先生にぶっ潰されちゃったんですけど、
(もともと砂上の楼閣的だった我々の立論の方が悪いのでは在るが)
デメリットで、「望まない安楽死」というタイトルなんですが、
つまり末期患者等は家族に多大な経済的、肉体的、精神的負担を
かけているから、患者は「家族に悪いな〜」という気持ちが強まって、
それが一種のプレッシャーのように患者の心に働いて、
その結果死に度くもないのに死を選んでしまうという、
一種の思い込み的安楽死なんです。
これを何とか持ちこたえられるような強度にするためには、
どうしたらよいでしょうか。他のデメリットもあまりないようですし。

14もせ:2003/06/13(金) 02:32
論題読んで思ったんだけどさ、積極的安楽死と普通の安楽死と尊厳死ってなにが違うの?
「積極的」っていうことは死期が一年以内の人は死にたいって言ったら殺していいって事かな?

15てんがん:2003/06/13(金) 19:19
ついにこの季節が、、、皆さん頑張ってください。

正直な話、「死」をディベートで扱うのは不適当ではと思うんですが、制限の中で
できるだけ考察を深めて下さい。(他人事だと思うと何でも言えるなぁ)

ちょっと聞きたいんだけど、たとえば病状がゆっくり進行していって、統計的に
発症から約10年後に死ぬ可能性が高いっていう人の場合、発症直後に安楽死を
選択することは積極的安楽死として認められるの?

あと、直接的に死につながらない病気があるとして、だけどそれによって精神的
苦痛を蒙り、自殺しかねないっていう人がせめて安楽死をとか言い出したらそれも
認められるの?

個人的には、グレーゾーンが広すぎる以上、安楽死を認めてしまうと、判断にばら
つきが出て、医療の現場が混乱してしまわないかと思うんだが。それともグレー
ゾーンっていうのをなくす方法ってのはあるのか。安楽死を認める明確な線引き
っていうのはあるの?

16bj:2003/06/13(金) 23:26
「やめるんだキリコ.おまえはひとをころしているんだぞ.」

17ねじまき鳥:2003/06/14(土) 16:38
遅くなってすいません。

>もせ先輩
積極的ってのは、すぐに筋弛緩剤とかで殺しちゃうことです。
安楽死ってのはたいてい苦痛の除去を目的として行われます。
それに対して尊厳死は、生命維持装置をはずしたりして
延命治療を中止するだけで、積極的に殺しはしません。
これは消極的安楽死と同じなのかもしれませんが、
おそらく尊厳死は苦痛とかよりも尊厳を守るのが目的で、
そこが違うんだと思います。

>てんがん先輩
その辺のディテールはプランで決めるところであります。
まあ確かにそれでも線引きの問題は出てくるのでしょうが、
一応うちは安楽死を行う方法として、ドナーカードみたいな
「安楽死パス」なる物を作りました。これは健康なときでもいつでも作れて、
医者と話し合って自分が安楽死を望むような条件(病名、余命、状態など)
を記入するというもので、随時書き換え可能。
しかし、最低条件として不治かつ致死的な病か、植物状態でないと
安楽死は行えず、それ以上の細かい条件を患者が決める、という風にしました。

18管直人:2003/06/19(木) 18:09
「安楽死関係」の資料を読んでいると、宗教関係のものが多々あります。
特に、ホスピス系の資料は、キリスト教系のものが多いです。
普通のディベートで使う資料では宗教関連だと信憑性が薄れるのでは、と思います。
しかし、安楽死の場合、末期症状には「宗教的痛み」などというものもあるらしく、宗教と切り離せません。
しかも、「祈れば神が救ってくれる」というような、宗教色の強い内容ではありません。末期患者に対するケアについて等です。
それでも、書名に「キリスト教の〜」などとついたり、著者が敬虔な宗教信者だったりすると、証拠資料の信憑性が薄れてしまうのでしょうか??

証拠資料の内容が客観的で論理的であれば、問題ないと思います。
その著者あるいはその宗教団体が、実際にホスビス・ケアに携わっていて、
終末期医療の実情を報告・紹介するような内容であれば、かえって信憑性は
高いと言えます。

19ねじまき鳥:2003/06/20(金) 22:38
宗教的痛みって、「人間としての尊厳を欠いた」みたいな話ですか?
宗教的資料なんて今まで目にしたこともないです。やばいですかな。
「宗教論になってる」とのご連絡を頂き、
自死の権利の否認みたいな話かな〜とか思ってたんですが、違うやふですね。
なんだかどうも分かりかねますな。
宗教的議論と如何なる議論にや侍る?

20もせ:2003/06/22(日) 02:38
すまんね、資料遅くて…忙しくて図書館に長いできん。
何を持ってるか、何がほしいか、等などメールして下さいな。
月曜午後図書館行ってちょろちょろやるんで。

宗教論っていまいちピンと来ないんだけど。
宗教論っていうのは宗教的理由からホスピス等の死を迎える際にどのような介護や待遇を死を待つ人に団体が提供できるかという話なんだと思いますが。
具体的にはキリスト教は積極的にホスピスなどの活動を行ってるっていう資料ががんがんでてきてますっちう話ではないのでしょうか。
宗教的痛みっていうのは自決権によって自ら望むような死を得ることができるということであれば特に問題にならないのというか存在しないのではないかと思うんですが。
ディベート連盟のラウンジを見る限りでは「死んだら楽になる」という点について、無宗教、キリスト教、仏教などの価値観で色々言ってた。
ラウンジの内容だけを見る限りでは、この手の議論に乗る必要はないだろうと考えてます。
個人の価値基準に則った自決権であるはずで、地獄が存在することを証明しろとか言われても証明する必要なんてない。笑
地獄があると考えてる人は現世がつらいものであるとしても地獄なんてもっとつらいわけで死なない。自決権の行使の一形態。
地獄がないと考えている苦しんでいる人は現世からの苦痛から解放されることのほうが死ぬことよりもベネフィットが大きいわけだから自決権の行使として積極的安楽死。
あまりに強引ですか?
個人的にはこのような宗教論に乗る必要は無いというのが率直な感想…。
説明不足勉強不足でスマソ。

21ねじまき鳥:2003/06/23(月) 13:00
確かにラウンジの地獄云々の話は首が47度くらい傾いてしまいます。
重要なのは、客観的に地獄の存在証明がなされるかとか、
客観的に死ぬことは楽になることであるとかじゃなくて、
患者が余生も少なく、死ぬことも確実という状況において、
主観的に自分の命をどう処理したがっているかである、と思うのです。
確かに、それは自己決定権の範疇を逸脱しているという話もありますが、
しかし倫理的にいって、そのような極限状態で患者から明確に「死なせてくれ」
という意思表示があるなら、殺さないほうが問題が多いと思います。

患者の生命の処理は患者の主観的判断によってのみ行われるべきであり、
それを客観的に行って問題になったのが、ナチスとかなわけですし。

22ねじまき鳥:2003/06/23(月) 13:03
添加。

それゆえ、宗教的議論というのは、患者の意思絶対主義的な
議論をしていれば包括して話せるのでは。
つまり、宗教的痛みだろうがなんだろうが、
極限状態で患者がどうしても死にたいというなら死なせてやりなさいという話です。


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