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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない

1モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/11(火) 20:51
創価では勤行・唱題より折伏のほうが功徳が大きいと指導し
投票依頼や新聞セールスは折伏と同じだから功徳は勤行・唱題より大きい
と指導しています。

勤行・唱題をやると仏界が涌現しますが
その勤行・唱題より功徳が大きいということは
折伏や投票依頼や新聞セールスでも仏界が涌現するということになります。
しかし、そんなことはありえません。
折伏や投票依頼や新聞セールスで仏界が涌現するなら
勤行・唱題をしなくても折伏や投票依頼や新聞セールスをやるだけで
仏界が涌現することになります。

勤行・唱題をしなくても折伏だけで仏界は涌現するという意見もありますが
それもウソです。なぜなら勤行・唱題で折伏を決めるための祈念をしているからです。
勤行・唱題をしなくても折伏だけで仏界が涌現するなら、また、折伏の成就を折伏より
功徳の小さい勤行・唱題に依存するくらいなら、勤行・唱題などやらずに毎日毎日アカ
の他人でも捕まえて連日折伏だけやっているほうがはるかに早く折伏は成就して、功徳
だらけの生活になるはずです。
しかし連中はそれをやりません。功徳なんか全然ない、生活の
向上に全く寄与しないことがわかっているからです。

2モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/11(火) 20:52
(続き)

活動(折伏や投票依頼や新聞セールスなど)と勤行唱題両方やってはじめて
仏界が起きるなどと言う意見がありますがたとえ御書に書いてあっても
それはウソです。
なぜなら勤行唱題だけで功徳を受けた人が実際にいるからです。
これは勤行唱題だけで仏界が起きることの証左です。
活動もやらないと仏界が起きないなどというのは
そう言わないと誰も活動をやらなくなるから言っているだけのことです。

また、学会活動では仏界は起きないが菩薩界が起きると言う意見も
ありますが、それならわざわざ学会活動などやらなくても
自宅で座ってできて仏界の起きる勤行唱題をやればいいのです。
これなら人間関係を壊さなくてすみますし、時間やお金を浪費することもありません。
しかも功徳はばっちり受けられます。

というわけで折伏や投票依頼や新聞セールスなどの学会活動をやっても何にもなりません。
むしろこういう活動は宗教でメシを食っている創価学会本部の役職員がやるべきなのです。
会員に食わせてもらっている分際でその会員をタダ働きさせるなど言語道断です。
以上。

3銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/12(水) 01:01
通りすがりですが、支援・新聞啓蒙はひとまず置いておくとして。

自行化他は基本中の基本でしょう。
唱題だけでも×です。折伏だけでも×です。
三業で法華経を読んで初めて信心と言えるのです。

御書や法華経をお読みになられるとよいでしょう。
また、大聖人のご生涯も知ってください。
仏界や功徳というものが何なのか知ることくらいはできるはずです。

4モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/12(水) 06:16
>>3
>銀舌居士さん

どうもはじめまして♪
大聖人のご生涯、だいたい知ってます。
御誕生から御入滅までいろいろ本で読みましたよ。
以前、上野で大日蓮展があって見てきました。
また、10年近く前に比叡山行きましたが、境内の道路脇で
大聖人様のご生涯を何枚か看板みたいなのに絵入で紹介してましたね。
伊豆流罪の地の川奈に行った事もあります。
蓮慶寺というお寺(船守弥三郎ゆかりの寺のようです)も行きました。
御書全集一回だけ全頁読みました。
法華経は全頁は読んでないです。

ところで、ここに来てる人達のほとんどは
学業なり仕事なり家事なり持ちながら信心してる人なのですが
(信心してない方もいらっしゃいますが)
私も含めそういう人にとっては信心は生活の手段にすぎません。
大聖人様をはじめ御僧侶や宗教団体の役職員など
宗教でメシを食っている人(言い方は悪いけど)にとっては
信心は「本来」命を捧げて取り組む対象でしょう。
いくら日蓮と同意とかいっても
私やここに来てる人達は出家してないし、教団の役職員でもないので
命を賭けてやるわけにはいかないのです。
命がけでやるかどうかはあくまで各自の判断のみでやるべきです。
私もかつては信心して親から勘当されたことがあります(学生の頃、
信心をやめないなら学費も生活費も出さない、籍も抜けと言われました。
保険証も返せなんてことまで言われましたよ(笑))。
しかし他人に「命がけでやれ」などと言うわけにはいかないのです。
他人の人生には責任を負えないからです。
銀舌居士さんは「三業で法華経を読んで初めて信心と言えるのです。」と
おっしゃってますが、あなたはこの信心で難を受けた人の人生に責任を
負えますか?

自行化他は基本中の基本とのことですが
折伏で仏界が涌現することを証明してもらわないと
化他も基本なのか納得しかねるところです。
ただ基本だからやれといわれてもできるものではありません。
出家や教団の役職員のように宗教でメシを食っている人達はともかく
私やここの住人のように家庭や仕事や学業ほか人生のいろいろなものを
背負ってる者は、メリットのないものに時間や手間ひまやエネルギーを
かけるわけにはいかないのです。

5つぶやき:2004/05/13(木) 12:09
こんにちは、モーリスさん。

あなたのご意見、読ませていただきました。
私は以前、「拝み屋じゃないんだから題目ばかりあげていても、動かなきゃだめなんだよっ!」
と、直接面と向かって言われたことがあります。
つまり、折伏や投票依頼や新聞セールスなどのノルマをこなさなければ、学会員はだめ
ということだなと、解釈しました。

しかし、若い頃の知り合いが、「進行性の胃ガン」になり、若いので進行も早く
手術も出来るかどうかと言う状態と告知されたとき、入院するまでの一週間一日
10時間以上の題目をそれこそ必死で上げたのですが、(もっとあげてたかな)
一週間後、胃ガンが消え、普通の健康体になっていたのです。
(信じる信じないは個人の判断なので、皆様過剰な反応はご容赦ください。)

私個人はこの事実を、「友人に仏界が湧現した」と捉えています。

例えば、折伏や投票依頼や新聞セールスで功徳があった、という程度の話で
「仏界が湧現した」したなどと口にする人がいたとすれば、個人の主観から
の発言とはいえ、解釈にかなりの飛躍があるのではと考えます。
モーリスさんのように、「ウソ」と決めつけるようなことはしませんが、
役職がある影響力のある人が、安易に指導のなかで語るとするなら、
方便だとしても、私としては認められる行為だとは思えません。

6:2004/05/13(木) 13:33
そうですよね。まず仏界があるかどうか、これを証明しなければならない。だけど、これは信じるしかない部分でしょう。
自分にも他人にも仏界があると信じているから、自他共に生命を尊重できるという概念だとして捉えるところまでが、一般の中で説明できる範囲だと思っています。

7つぶやき:2004/05/13(木) 14:05
>>5 訂正です。湧現×  涌現○

8モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/13(木) 22:09
>>5
つぶやきさん

私は勤行唱題で功徳を受けたことを実感しているので
お知り合いの方の事件は事実だったと信じられます。
(もっとも私がその方ほど題目をあげ、ガンまで治すほどの
治癒力を引き出す自信はありませんが・・・)

つぶやきさんがお書きになった事実から考えても
折伏や新聞や選挙をやらなければ宿命転換できないとか
仏界は涌現しないとか功徳が無いなどという創価学会の指導に対しては
私はウソと断ぜざるを得ないです。
(せっかく書き込んでいただいた事実をこのように使ってしまって
つぶやきさんにとっては不本意かもしれませんが・・・ごめんなさい。
私は創価学会の指導をウソと断じていますが、決してつぶやきさんへの
批判ではありません。)

9つぶやき:2004/05/14(金) 00:09
>>8 モーリスさん

>折伏や新聞や選挙をやらなければ宿命転換できないとか
>仏界は涌現しないとか功徳が無いなどという創価学会の指導に対しては
>私はウソと断ぜざるを得ないです。

モーリスさんの、仰ることは理解しているつもりでおります。あなたの視点から見た、
学会組織の方便を「ウソ」と断言なさることも、妥当と考えます。
ただ、私個人の表現としてあえて断言はしないというだけのことなのです。

折伏や新聞や選挙をやらなければ宿命転換できない、仏界は涌現しない、
功徳が無い〜このような内容で会員に対して断定した指導をすることは、
間違っていると考えます。一人の個人として幹部自身が上記のごとく
体験していたとしたら、指導ではなく体験として話すべきだと思うからです。

しかし、現実的な話をするならば、組織ノルマ達成が目的の「口から出任せ」と
いうことは明らかではあると想像します。

10銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:30
>私やここに来てる人達は出家してないし、教団の役職員でもないので
>命を賭けてやるわけにはいかないのです。

>しかし他人に「命がけでやれ」などと言うわけにはいかないのです。
>他人の人生には責任を負えないからです。

千丁万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、
今度法華経のために命をすつる事ならばなにはをしかるべき、
薬王菩薩は身を千二百歳が間やきつくして仏になり給い
檀王は千歳が間身をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし
(上野殿御返事 1540頁)

各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり
(種種御振舞御書 910頁)

>化他も基本なのか納得しかねるところです。

勧とは化他持とは自行なり南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり。
(御義口伝 747頁)

題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、
正法には天親菩薩竜樹菩薩題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、
像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて
自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、
末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
名体宗用教の五重玄の五字なり
(三大秘法禀承事 1022頁)

願くは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ
須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
(持妙法華問答抄 467頁)

唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ
(立正安国論 33頁)

11銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:31
>折伏

これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、
いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るに
いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、
いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし
(開目抄 200頁)

邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、
此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事
法華涅槃に定め置き天台妙楽の解釈にも分明なり是れ仏法修行の大事なるべし

其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも
訴へずば教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり、
涅槃経第三に云く
「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」
と、此の文の意は仏の正法を弘めん者経教の義を悪く説かんを聞き見ながら
我もせめず我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば仏法の中の敵なり

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)

12銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:31
>我見に対する戒め

仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし
(破良観等御書 1293頁)

仏教には経論にはなれたるをば外道と云う、
涅槃経に云く「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり」
(蓮盛抄 152頁)

>いくら日蓮と同意とかいっても

総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、
さだにも候はば釈迦多宝十方の分身十羅刹も御守り候べし
(四菩薩造立抄 989頁)

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、
共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城に堕つ可し

今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは学無学の人に如我等無異の記を授くるに非ずや、
色法は無学なり心法は学なり又心法は無学なり色法は学なり学無学の人とは日本国の一切衆生なり

(御義口伝 734頁)

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、
所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を
「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候

総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、
日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに
還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す
(生死一大事血脈抄 1337頁)

13銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 03:49
唱題のみでも仏界は開くということ。

唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
素直に実践されていくことになるならば、それをもって
唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。

唱題をしていても、あくまで我見にこだわり、
御本仏の書かれたものやそのご精神を否定されるというならば、
仏界が開くとは言えないのではないかと思います。

14ぱるぱる:2004/05/14(金) 09:15
基本的な事をお聞きしたいのですが「仏界」っていうのは世間との共通言語での「仏界」なのでしょうか?
学会のいう「仏法」は世間との共通言語でないので「仏界」も違うのかな?と思いました。
「本仏」が世間とは違うんですもんね。

で「涌現」の一つのあらわれが願望達成ならば、モーリスさんの仰ってることに同感です。
私はあれこれ願望達成や奇跡についての本を読んでいますが、そのどの本も願望達成についての
方法論がほとんど同じなのですね。
ある一定の意識状態を続けて保つ・・・これは祈り(学会では題目ですね。念仏でもコーランでもキリスト教でも同じです)を静かに続けていくことで
その状態に入っていけます・・・ことが方法なのです。
科学的には証明されていませんが、仮説として宇宙の根本意識というのがあってそれに触れられると
望みが叶いやすくなる、そしてそういう意識状態が触れることのできる状態だという事を書いている本は
枚挙にいとまがありません。
根本意識というのは仏教的にいうと大日如来、キリスト教でいうと主(キリストのいうところの主です)
にあたると思います。
真剣に静かに祈ること。これが願望達成に必要なことです。
なのでその仮説でいくと、新聞、折伏、選挙運動をしていてもその意識状態は保てませんから
願望達成はできないと私も思います。

15ぱるぱる:2004/05/14(金) 09:35
それと思うんですけど、学会のかたはよく「御書根本」と仰いますけど、学会が使っている御書は学会版のものですよね。
背表紙にしっかり「新編 日蓮大聖人御書全集 創価学会版」とあります。
偽書と言われているものが入っていたり逆に本物と言われているものが入っていなかったりしてますね。
それだけでも私などには頼りないような気がしてしまいます。
それに日蓮さんは60いくつかで亡くなっていますけど、親鸞さんのように80過ぎまで生きてたら
また考えが違ってきてたかもしれないなぁと思うんですよね。
そういう事もあって日蓮さんは「法華経に帰依するように」「人に依らないように」と言っていたのかも?とも思います。
なので組織を盛り上げる行動や御書を信仰するよりも、ひたすら題目をあげる(法華経に帰依する)のが信仰としては
幸せになるんじゃないかなぁと感じます。
御書にもたくさん良いことが書いてあると思うので、人生の教訓や指針にするのはおおいに結構と思うのですが、
人間が書いたものなので、それを信仰して批判精神がなくなることは、日蓮さんも望んでいないのじゃないかなと思ってしまうのです。

16銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:11
>>14 ぱるぱるさん
>基本的な事をお聞きしたいのですが「仏界」っていうのは世間との共通言語での「仏界
>」なのでしょうか?
>学会のいう「仏法」は世間との共通言語でないので「仏界」も違うのかな?と思いまし
>た。
>「本仏」が世間とは違うんですもんね。

法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
(観心本尊抄 240頁)

仏が出現する理由とは、法華経に説かれるとおり一大事因縁、つまり衆生をして
仏知見を開示悟入させることでありますが、凡夫が仏界を現す時も、一大事因縁があるはずです。
利他の精神は顕然であろうとなかろうとあって然るべきもののはずです。

また、功徳は功能福徳の略であり、善の行動そのもに、善を生じさせる徳が備わっているということです。
御書には功徳についてこう説かれています。

功徳とは六根清浄の果報なり、
所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、
されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、
功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、
功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり
(御義口伝 762頁)

功徳とは現世利益のみのことを言うのではないのです。


>ある一定の意識状態を続けて保つ・・・これは祈り(学会では題目ですね。念仏でもコ
>ーランでもキリスト教でも同じです)を静かに続けていくことで
>その状態に入っていけます・・・ことが方法なのです。

キリスト教は予定説ですから本来の教義では、神への祈りに神を働かせるようなものはありません。
イスラム教では祈りというものは救済を約束する戒律のうちの一つです。
念仏は娑婆世界ではいくら修行しても成道不可能であるから、
阿弥陀の慈悲にすがって成仏可能な極楽浄土に往生させてもらうための祈りです。
いずれも救済は死後であり、かなり異なるものと考えられます。

17銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:13
>根本意識というのは仏教的にいうと大日如来、キリスト教でいうと主(キリストのいう
>ところの主です)
>にあたると思います。
>真剣に静かに祈ること。これが願望達成に必要なことです。

七識までは瞑想などによって入ることができるされていますが、
八識が蔵する業を変化するまでには至らないとされています。
業を変化させるには、唱題によって九識に入ることが必要とされます。
ともあれ、なんらかの方法で種種の願望が達成されたと言っても、それを短絡的に
成仏という願望が達成されたということにするのは飛躍であり非論理的であると思います。

また、唱題することで病気が治ったというのは内薫外護です。
唱題によって仏界が薫発され、法味倍増されて
薬王菩薩などの諸天善神がよく働いたのだということでしょう。
素晴らしいことです。
そうした素晴らしい功徳を受けられ、なおかつ感謝されておられるならば、
或いは苦手意識などがあったりするのはともかくとして、
頭から利他行を否定されるというのは現実的にあまりありえないことだと思います。


>なのでその仮説でいくと、新聞、折伏、選挙運動をしていてもその意識状態は保てませ
>んから
>願望達成はできないと私も思います。

法華経には五十展転が説かれ、50番目の化他行を欠く者の功徳の絶大さを説いていますが、
自行化他を具足する1〜49番目の者の功徳は無量無辺で比べられないほどだ説いてます。
また、確かに自行のみでも功徳はある。しかし、化他行、折伏が欠けたならば
地獄の因を作ることになる、とも経文には見られる。
自行だけでは功徳がないというのは嘘であり方便だが、自行化他でなければいけないと
いうのは経文や御書を照らしてみれば明らかなのです。

法華経を賛嘆するその功徳の大きさを説く場面が経文に見られます。
また逆に弘教をしている者を誹謗して無間地獄に落ちる者のことも説かれております。
貴方の論理に則れば、折伏している大聖人や法を説いている釈尊はその時、
仏ではないということになります。これは矛盾した論理だと思います。
仏界ではなく地獄界を開くことになるはずであり、折伏しても功徳がないなどという
嘘をつかれるのは一切やめておくべきです。

18銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/14(金) 20:15
>偽書と言われているものが入っていたり逆に本物と言われているものが入っていなかっ
>たりしてますね。
>それだけでも私などには頼りないような気がしてしまいます。

今回、論点となっている折伏や自行化他については他門流においても
その重要性は疑がれておりません。御真筆に限っても立証されることであり、
何ら心配するところのない教義です。


>それに日蓮さんは60いくつかで亡くなっていますけど、親鸞さんのように80過ぎま
>で生きてたら
>また考えが違ってきてたかもしれないなぁと思うんですよね。

61年のご生涯です。
寿命についてご自身が悟られていたことは御書で伺い知ることができます。
御自身の寿命を悟られた上で仕上げられた、
何ら迷うところのない思想と御生涯であられたと拝しております。


>そういう事もあって日蓮さんは「法華経に帰依するように」「人に依らないように」と
>言っていたのかも?とも思います。

「依法不依人」はそのような意味ではありません。
仏法の教相判釈などについて、経文に依るべきで、経文に依らない人師
(つまり例えばあなた方のこと)の言葉を用いてはならないという意味です。

また、大聖人が言っているのではなく、これは涅槃経の文です。
これに従うならば、先にあげた涅槃経の文、
「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」
にも従うべきであり、折伏すべきです。


>人間が書いたもの

法華経見宝塔品第十一、に、
「此の経第一なり、若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つなり」
とあるように、人法一箇です。
また、大聖人は経文から文証を示して語られていますので、「不依人」ではありません。

19モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/15(土) 09:25
>銀舌居士さん

なるほど、確かにそれらの御書があるのは認めます。
しかし、それらの御書は日蓮大聖人ほどの力量や人格や
行動力のある方が書いたからこそ説得力があるのです。

日蓮さんはただ無責任に「折伏やれ」というだけの人間ではありません。
ちゃんとアフターケアやフォローをしてます。
四条頼基が主君から疎んぜられてたところに、頼基陳状を書かれたことはご存知でしょう?
諸々の御書も、そういった行動の裏付けがあればこそ説得力を持つのです。

失礼ながら銀舌居士さんは、折伏をやったために難を受けた会員のアフターケアやフォローが
できますか?会員を迫害する者から会員を救い出せますか?
それとも昨今流行の「自己責任」を言い放って無責任に放置しますか?
あなたは>>12「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」
とおっしゃってますがいかがなもんでしょう?

あと、>>13で「唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
素直に実践されていくことになるならば、それをもって
唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。
唱題をしていても、あくまで我見にこだわり、
御本仏の書かれたものやそのご精神を否定されるというならば、
仏界が開くとは言えないのではないかと思います。」
とおっしゃってますが、そんなことを言ってたら初信の功徳など
絶対ありません。最初からそんな信心に立つ人間などいません。
どういう形で信じようと御本尊に向かって勤行唱題しさえすれば
仏界が涌現するのです。
日寛上人は文底秘沈抄の中で妙楽大師の言葉を引いてこう言ってます。
「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」

いくら御書に書いてあっても、一般信者は自分で責任の取れないことや
自分でできないことをやる必要はないのです。
自分で責任を負える範囲のことや自分で無理なくできることだけを
やればいいのです。

だいたい折伏だの選挙だの新聞だのは会員の出すお金で食べさせてもらってる
学会本部の役職員がやるべきなのです。
会員に食べさせてもらってる分際で会員をタダ働きさせるなど言語道断です。

20銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 13:56
自行化他が基本であり、折伏に功徳があるということは
御書や経文を通してご理解していただけたと思います。

大聖人の仏法を信じる者として、大聖人の御正意を知っているなら我見を交えずに
率直に伝えることが信仰者としての最低限の責任ではないかと考えます。
もちろん現代的な解釈や臨機応変の対応は当然必要であると考えておりますが、
自身の力及ばずとも言い切るべき時は言い切るのが大事であると思います。

各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、
師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし

我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、
設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず。

彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、
彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ
ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、
をそろししといわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ
(聖人御難事 1190-1191頁)

一番肝心なことはこの熱原の農民に対しての激励を拝してもわかるように、
退転の道をふさぐということなのです。


また、折伏はさせられるものではなく、自分で決意してするものです。
折伏は相手の方に対する慈悲心からするものであり、また自分のためでもあります。

人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、
譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし
(食物三徳御書 1598頁)

相手が信心を始めて成長していく姿を見ること、また感謝の言葉をいただいた時など
単に仏縁の手助けしただけの身としては過分な言葉ではあるけれども、
最高に嬉しいことであります。
「我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」です。

功徳は頂くものでもありけれど、積んでいくものでもあると思います。
ともあれ折伏はこのようなものであり、本部職員のためにするものではありません。

21銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 13:56
また、自分が出来ていないことは人にやるべきだと言うものではありません。
それは本部職員に対してのみならず、モーリスさんにも言えることです。
折伏は人任せにするものではありません。

末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、
皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
(諸法実相抄 1360頁)

とあるように、我々は地湧の菩薩です。

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、
仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし
(減劫御書 1467頁)

と御書に仰せの通り、我々法華経を受持するものは地涌の菩薩としての誓願のとおり、
誰しもがその自身の眷属に下種をし、自身が今いる場所を仏国土に変えていくための
使命があるのだと思います。

また、大聖人は法華経の行者という最高の呼称を与えられるのに、
出家在家の区別をつけてはいません。あくまで信心によってです。

今月十五日[酉時]御文同じき十七日[酉時]到来す、
彼等御勘気を蒙るの時南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、
偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、
例せば雪山童子尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、
釈迦多宝十方の諸仏梵帝等五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、
大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、
妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
(聖人等御難事 1455頁)

ここで法華経の行者や雪山童子と呼ばれているのは農民なのです。

22銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 14:06
また、私は唱題行のみで仏界が開かないとは言ってはいません。
初心の功徳についてはあなたの言うとおりでしょう。
しかし、大聖人はこうも仰せです。

月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
(聖人御難事1190頁)

浅を去って深きに就くのは丈夫の心なり
(撰時抄 271頁)

受くるはやすく持つはかたし、さる間成仏は持つにあり
(四条金吾殿御返事 1136頁)

いつまでも初心の時のままの状態であったり、発心が真実でない状態は
大聖人は勧められておりません。
またそのようにして進まず結局退転すれば、善根を断つことになるわけですから、
仏界が開かなかったも同然ということになるでしょう。

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)

いずれ必ず悪道に落ちる者が、今仮に仏界を開いているからと
言って何になるというのでしょう。

仏法は自他宗異ると雖も翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり、
謗法に成り伏して悪道に堕つ可くば文殊の智慧富楼那の弁説一分も無益なり
(真言見聞 143頁)

以上の御文を拝すればわかるように、仏法は現当二世なのです。


また、日寛上人のを引かれておりますが、
日寛上人の時代には折伏は幕府によって禁じられていたはずです。
日寛上人の言葉にはそうした時代背景が込められていることは十分に気をつけるべきかと思います。
その上でしかし、日寛上人は次のようにも仰っています。

常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。
口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。
(如説修行抄筆記)

さきの日寛上人の言葉を信じるならば、当然これも信じるべきです。

23つぶやき:2004/05/15(土) 21:40
折伏・投票依頼・新聞セールスでは、仏界が涌現しないと、断定なさるモーリスさんを、
妥当と考えます。そう断定するに至った因に重きを置くべきと考えるからです。
モーリスさんのこの言葉は、決して御書・ご本尊・法華経・大聖人への不信から
起こったことではないと理解しています。

折伏を実践し、ご本尊送りをさせていただいた者として、功徳の有無を御書に
照らし合わせて語るつもりはありませんが、折伏で功徳を受けたと感じられない
会員は存在します。
近年の学会組織において「折伏」はただのノルマの一つ、選挙の票取りや新聞
購読推進実績と変わらない位置付けと感じられます。
「今はまだ〜」と躊躇する会員を幹部が囲んで「折伏実践」強要し(主観です。)
結果、会員は後悔し功徳を実感することは出来なかったようです。「幹部」への
不信は感じたようですが・・・。
「今月一杯だから」とか「来月折伏したって見向きもされない」などと平然と
口にする幹部を、私も信頼できませんでした。
「信・行・学」の中の、信を失う因を身近な幹部から受けた場合、その本人に
何が出来ますか?耳に入る「学」もノルマのための、「ウソ」と感じてしまう
場合も起こりえると考えます。
「信」を失わせた人間に「行」を強制されれば、「学」を説かれたところで
人のこころは癒せません。

24銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 00:34
お気持ちは察します。
しかし、幹部の善し悪しによって功徳の有無が生じるということはありません。
また、幹部を信じられるか否かは信心とは一切関係がありませんし、
役職は所詮仮のものに過ぎず、信心を測る物差しとすべきではありません。
幹部に批判すべきものがあればそのつどしていくようにして、
日常の自分の時間においてはそれには囚われないようにしたいものです。

法華経には如来の滅後、法華経を得るためには四つの条件を成就する必要がある
と説かれています。

仏告普賢菩薩。若善男子。善女人。成就四法。於如来滅後。当得是法華経。

一者為諸仏護念。二者植諸徳本。三者入正定聚。四者発救。一切衆生之心。

一には、諸仏に護念せらるることを為、(ご本尊)
二には、諸の徳本を植え、(題目)
三には、正定聚に入り、(和合僧)
四には、一切衆生を救う心を発せるなり(広宣流布)
となります。

利他の精神が必要であることは経文に照らして明白です。

また、折伏で功徳を感じない人がいるということですが、功徳には四つの種類が存在します。

祈祷に於ては顕祈顕応顕祈冥応冥祈冥応冥祈顕応の祈祷有りと雖も
只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候
(道妙禅門御書 1242頁)

顕祈冥応や冥祈冥応においては、その功徳を受けていてもよくわからないのです。
感じないからといって、御書や経文に明確に書かれてあることに対して
不信を起こすのは早合点が過ぎるというものです。
(ずるく感じられるかもしれませんが、御書に書かれてある以上、意味のあることです)


此は物のはしなり大果報は又来るべしとおぼしめせ
陰徳陽報御書 1178頁

「あなたの受けている功徳はまだほんのはじまりにすぎない。
大果報は、また後にくると思っていきなさい」と大聖人は仰っておられますが、
あなたがたの受けている功徳もまた同様で、本来ならばもっともっと大きな功徳を
受けることが出来るだろうと思います。

25銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 00:35
信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり
法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも
法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし、
たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども
君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還つてとがに行はれんが如し
異体同心事 1464頁

戸田先生はこう仰っています。
「折伏は、素直に、どんどんしなさい。それから人を憎んではならない。
喧嘩口論はいけない。
真面目に、優しく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。
それで反対すれば、反対した本人がだめになる。
優しく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」
「折伏というものは苦しんでやるものではない。楽しくやらなければなりません」

あなた方は折伏を誤解されていると思います。
上のように戸田先生が言われている通りにすればいいのです。

法華経法師品にはこう説かれています。
成就大願。愍衆生故。生此人間。
「大願を成就して、衆生をあわれむが故に、此の人間に生ずるなり」と。
妙楽大師はこれを「願兼於業」と呼びました。
本来は善処に生まれるところを、願って悪世に生まれて法華経を弘通する、と。

戸田先生はこれに関してこう仰っています。
「はじめから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、
われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」

そして池田先生はこう仰っています。
「自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは後ろ向きになる。
それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」
「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。
自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。」

法華経を受持し、自行化他に励むとはこのようなことであると思います。

ところで、心の傷と仰いますが、私はそのようなことは存じ上げておりませんでした。
もしも心的外傷があるならば、ネット上で何年もこのようなことをしていらっしゃるのは
かえって精神的によくないのではないでしょうか?むしろ危険であるような気がします。
私が言うのもなんですが、宗教に変に囚われすぎるのはよくないはずです。
癒しが目的ならば、何らかの別の手段をとることをお勧め致します。

26つぶやき:2004/05/16(日) 01:15
>>24 銀舌居士さん

>幹部の善し悪しによって功徳の有無が生じるということはありません。
>また、幹部を信じられるか否かは信心とは一切関係がありませんし、
>役職は所詮仮のものに過ぎず、信心を測る物差しとすべきではありません。
>幹部に批判すべきものがあればそのつどしていくようにして、
>日常の自分の時間においてはそれには囚われないようにしたいものです。

確かにあなたの仰る通りです。それが道理であり、正しいあり方と認識いたして
おります。功徳の有無に関しては、功徳を受ける本人の心のあり方と考えます。
ただこのように、万人が貴方と同じ価値観を持ち、信仰生活を送れるなら
なにも掲示板で多くの方が、悩みや批判を書き込むことはないと考えます。
「銀舌居士さんは強い方ですね」というのが私の感想です。

迷うことも、絶望することも、批判することも、ながい信仰生活の中で
誰にもあり得ることです。この掲示板での有意義な意見交換を心がけていきたいと
希望しています。

27銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 02:03
>「銀舌居士さんは強い方ですね」というのが私の感想です。
とんでもありません。
強いのではなく、私は運がよかっただけです。
私はこの仏法に利他の精神があったから信じることができたので
もともと弘教は絶対不可欠という考え方ではありましたが、その利他の姿を
客観的に示してくれたのは役職などの上下とは一切関係ない一介の高校生でした。
役職と関係のないところに多くの尊敬する同志・友達がおり、
そうした方がいればこそ役職に惑わされることがなかっただけです。
釈尊は阿難に対し、「善き友を得ることが仏道修行の全てである」と
仰っていますが、全くその通りなのでしょう。
彼らの存在が私の確信につながっているのは間違いありません。


>迷うことも、絶望することも、批判することも、ながい信仰生活の中で
>誰にもあり得ることです。この掲示板での有意義な意見交換を心がけていきたいと
>希望しています。
確かにその通りです。
しかし、ネット上の掲示板というものはその性格上、プライベートなものではありませんので
誰が見ているかわかりません。ROMする方に影響を与える可能性も十分あります。
そうした性質を考えた上での発言であり、意見交換でないといけないだろうなと思います。

28つぶやき:2004/05/16(日) 11:24
>>27 銀舌居士 さん

学会組織は地区・支部によって、雰囲気も考え方も異なり、自分の価値観が
簡単に否定される場合も多く、それは「今は、そう言う時代だから」との一言で
片付けられる現実がありました。(引っ越しの際感じました)
私も、身近な友人の体験等において、仏法に対しての迷いはありませんが、今
憂いているのは、確信のつかめていない会員が、組織の一方的な打ち出しに
追い立てられ信仰に対しての想いを、自らが断念させてしまうことです。

幸い、掲示板という空間を結んで不特定多数の方と、意見交換が出来る機会に
恵まれて、こちらのように、学会員の方が毅然としたコンセプトのもとに
管理する場所に参加できました。そして「不信の原因」が今も昔も変わらない
と言うことを知ることができたのです。

>しかし、ネット上の掲示板というものはその性格上、プライベートなものではありませんので
>誰が見ているかわかりません。ROMする方に影響を与える可能性も十分あります。
>そうした性質を考えた上での発言であり、意見交換でないといけないだろうなと思います。

仰る通りです。私としても書き込みには、心を配って行きたいと考えております。
銀舌居士さんの、「御書講義」?のおかげでしばらくひもといていない「御書全集」を
手に取ったりしております。(^^;)
これからもよろしくお願いいたします。

29モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:12
>>20

>自行化他が基本であり、折伏に功徳があるということは
>御書や経文を通してご理解していただけたと思います。

御書や経文に功徳を謳っているのはわかりますが
勤行や唱題を上回る功徳があるとでも言うのですか?
実際には折伏に勤行・唱題を上回る功徳はないと認識しておりますが。
また、折伏で仏界が起きないことはあなた自身が認めていることです。
それとも前言を翻して勤行・唱題を一切しなくても折伏で仏界が涌現する
というご意見でしょうか?

>大聖人の仏法を信じる者として、大聖人の御正意を知っているなら我見を交えずに
>率直に伝えることが信仰者としての最低限の責任ではないかと考えます。

その責任は一般信者にメシを食わせてもらっている僧侶や教団の役職員が
負うべきであって一般信者が負うべきものではありません。

>自身の力及ばずとも言い切るべき時は言い切るのが大事であると思います。

あなたや学会本部役職員にとっては大事であっても
一般信者にとっては二の次なのです。
仏界が起きない以上、折伏は教団の拡大にとっては大事ではあっても
一般信者にとっては極論すればどうでもいいことなのです。
本人の発心のみで見返りも求めず真心で仏法を知らせたいときだけやればいいのです。
あなたがどういう目的で信心をやってるのか知りませんが
私は生活を良くしたいためだけに信心をしています。
生活の足しにならないものは無意味なのです。

30モーリス </b><font color=#FF0000>(JExy6YJA)</font><b>:2004/05/16(日) 20:15
(続き)

>一番肝心なことはこの熱原の農民に対しての激励を拝してもわかるように、
>退転の道をふさぐということなのです。

やめたい人はやめればいいのです。
あくまで本人が決めることです。
誰だって自分の責任で生きているのです。
重ねて尋ねますが、銀舌居士さんは、折伏をやったために難を受けた会員のアフターケアやフォローができますか?会員を迫害する者から会員を救い出せますか?
それとも昨今流行の「自己責任」を言い放って無責任に放置しますか?
あなたは>>12「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」
とおっしゃってますがいかがなもんでしょう?
それともあなたは、難を受けて人生壊れてもかまわないから
とにかく折伏やれとでも言うのですか?

>また、折伏はさせられるものではなく、自分で決意してするものです。
>折伏は相手の方に対する慈悲心からするものであり、また自分のためでもあります。

折伏はあくまで自分自身の意思でやるべきものであって
池田さんや大幹部某さんが何を言おうと関係ありません。
それで折伏が一体どう自分のためになるのですか?
外交力や度胸がつくくらいのことは認めますけどね(まさかそれが功徳とでも?)。
仏界は起きない、世間から顰蹙を買い嫌われる、功徳は勤行・唱題に及ばないのに
一体どうして自分のためになるんですか?
折伏なんかやったって全然生活の足しにはなりません。


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