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信仰は役に立つか

167パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:08
 【法則3-1】 宗教は「ハードウェア型宗教」から「ソフトウェア型宗教」へと進化する。

 さて、人類史の大きな流れをみると、宗教を大きく二つのタイプにわけることができます。ひとつは、宗教が存在する根拠を「モノ」(物質)に求める宗教であり、
これを「ハードウェア型宗教」と呼んでおきます。もうひとつは、宗教の根拠を「情報」に求める宗教で、これを「ソフトウェア型宗教」と呼んでおきましょう。
仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの「世界宗教」と呼ばれるものに共通する点は、いずれも「教義」(教え)という情報に宗教の根拠を置いていることです
(このことは、小室直樹さんが『天皇の原理』文藝春秋社、1993、で指摘していることです)。
たとえば、ユダヤ教の場合、モーセが神から授かったとされる、十戒(十の戒め)が刻まれた石版を大事にしていました。それを「契約の箱」(アーク)と呼ばれるものに納めて、
神殿に安置しておいたのですが、神殿が破壊された際、どこかに消えてしまいました。それは現在も見つかっていません。だからこそ、スピルバーグの『インディージョーンズ:失われたアーク』などという映画が作られるのです。
もし、ユダヤ教が契約の箱を宗教の根拠とし、それにこだわり続けたとしたら、ユダヤ教はもっと違った姿になっていたでしょう。しかし、ユダヤ教は、契約の箱が失われたのをきっかけに、宗教の根拠を教えに置くという、
方向転換を行ないます。このことは、ユダヤ教にとって重要な展開であったと思われます。
 古代の宗教や「未開」の宗教と呼ばれるものの多くは、不思議な石や精霊が宿る木といった、モノを中心に組み立てられていました。そのため、もし、宗教の根拠になっている石や木が破壊されたり、
盗まれてしまえば、宗教は存亡の危機をむかえます。つまり、モノに根拠を求めるハードウェア型宗教は、ひじょうに弱い側面をもっています(ただし、生き残りの方法がないわけではありません。
ひとつの方法としては、宗教が根拠とするモノのコピーをつくり、それを教えと一緒に広めることです。これについては、また別のところでお話します。)。
 これに対して、情報(教義)に根拠を求めるソフトウェア型宗教は、持ち運びできるという情報の利点をいかして、広い範囲に布教することができます。ハードウェア型のように、「〜村の木」とか「〜寺院の石」といった、
特定の空間や場所にしばられませんから、活動範囲が格段に広くなります。
ただし、注意しておかなければならないのは、【法則1-1】でもふれたように、宗教にはハードとソフトの両方が必要です。だから、ハードウェア型からソフトウェア型への変化というのは、
ウェイトの置きかたが変化したといったほうが適切です。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

168パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:37
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず。
   宗教の聖典(正典)は、社会・時代・地域との妥協の産物である。
   人々のニーズにあうように、聖典は編集しなおされてきた。
     
われわれは、印刷文化になれしたしんでいるせいか、キリスト教の聖書をはじめ、宗教の聖典が最初から、一冊の本として存在したかのような誤解をしていることが多いようです。
しかし、おもだった宗教をみてみると、おおかたの場合、ひじょうに長い時間をかけて聖典が編集されてきたことがわかります。
 イスラームの聖典『コーラン』(クルアーン)の場合、比較的早い時期にまとめられていますが、キリスト教などの場合、現在の『新約聖書』の原型のまた原型となる、
『マルキオン聖書』と呼ばれるものが成立したのが、イエス・キリストが死んでほぼ100年以上たってからのことです。仏教のお経にしても、お釈迦さんがなくなってから、
しばらくは弟子たちの記憶力によって教えが維持されていましたが、文字に書かれたのは、かなり後のことです。よく誤解されていることですが、イエス・キリストは、
聖書に一言も自分で文章を残していませんし、お釈迦さんも、自分で書いたお経を残していません。
このようなことがなぜ起こるのでしょうか? 理由は三つほど考えられます。第一に、布教上の理由、第二に技術史上の理由、第三に組織上の理由、などです。
まず、布教上の理由です。ある人が神のお告げを受けて、それを広めようとしている場面を想像してください。最初から一冊の本をもってきて、「これを読め!」と大衆に叫んでも、なかなか読んでくれるわけがありません。
学校の教科書のように、それを読まないと勉強ができないとなれば話は別ですが・・・。それに、世の中にはさまざなな考えをもった人々がいます。もし、活字にしたものをもって教えを広めようとしても、
そのすべてが人々に受け入れられるとはかぎりません。それに、ひとたび文字に書かれたものは、なかなかあとで修正することができません。この手間は、新聞や雑誌が謝罪や訂正の広告をだすのを考えればわかることです。
 しかし、口頭の説教ならば、臨機応変に対応できるし、人々の反応もフィードバックできます。そこで、多くの宗教は、口頭による布教からはじまり、いわば「マーケティング・リサーチ」をしたうえで、
受け入れられやすい教えを編集し、最終的に一冊の聖典に仕上げていったということができます。

169パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:57
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず のつづき
 
次に、第二の技術史上の理由です。われわれは、紙に印刷された本になれていますが、古代にそんなものはありませんでした。最初は、粘土版・竹・木や、
「パピルス」と呼ばれる植物から作った、紙の原型しかありませんでした。パピルスは巻物として使われましたから、「一冊」という感覚はまだ芽生えていません。
次に登場したのが羊皮紙です。羊の皮と書きますが、実際には子牛の皮が珍重されたようです。この段階になると、すこしおりたたみができるようになり、冊子の感覚もでてきます。
さて、最終的に紙が登場したことで、現在のルーズリーフ・ノートのように差し替え(編集)の効率が良くなり、とじることも容易になったので、一冊という感覚が明確になってきます。
このような技術史的な変遷を考えてみると、「宗教の中心となる一冊の本」という感覚は、かなり後になって出てきたと考えられます。
さて、技術史的な背景について、もうひとつ付け加えておく必要があります。それは「異本」(variant)というものについてです。そこで、『源氏物語』を例にとってみましょう。
この小説は、いうまでもなく、11世紀に紫式部によって書かれたものですが、驚くべきことに、その原本はいまだ発見されていません。では、なぜ『源氏物語』が存在するかというと、
原本を書き写した「写本」がいくつも存在するからです。印刷技術が発達する以前には、人間の手によって、原本を書き写すしかなかったのです。
しかし、人の手によって書き写されていくうちに、いつしか原本の内容は変化していきます。これは写し間違いや意図的な創作によるもので、
場合によっては、登場人物の名前や筋書きまで変化するものもあります。このようにしてできた、原本とは異なる写本のことを「異本」(variant)といいます。たとえば、『源氏物語』の場合、
多くの異本が残されており、それらの情報を総合することで、成立年代や作者が判明したのです。
異本が多くなれば、それだけ十人十色に内容がバラバラになっていくようにも思われますが、実際には、内容の類似性から、いくつかの系統に分けることができます。
 さて、話を宗教にもどすと、原本から異本が生まれていく過程は、そのまま宗教の聖典が成立する過程にもみられます。
ユダヤ教やキリスト教などの聖典も、たくさんの異本のなかから文書が取捨選択され、ながい時間をかけて編集されて、「正典」にまとめられたのです。
ちなみに、「正典」とは、宗教の中心となる権威ある教義を、一定の基準にしたがってまとめたものです。
 さて、第三の組織上の理由についてです。世界の宗教の展開をみると、聖典が編集されるきっかけとして、ふたつの出来事があげられます。ひとつは創始者や教祖の死、いまひとつは、教団分裂の危機です。
創始者や教祖が存命中は、教えについてわからないことがあれば、師匠に聞けばよいのですが、なくなってしまえば、それができません。
そこで、教えが忘れられてしまう前に、一度まとめておこうという動きがでます。お釈迦さんの死後に行なわれた、世界史用語でおなじみの「仏典結集」などもそのひとつです。
このような動きには、教えを再確認すると同時に、間違った解釈が広がることを、未然に防ごうという意図もふくまれています。とはいっても、さまざなな解釈が出てくることを完全に抑えられないのが、宗教の常ですが・・・。
また、宗教教団がある程度成長してくると、かならず分裂騒動が起こります。その際に、自分達の信仰を再確認し、分派活動を抑制する意味でも、聖典の編集が行なわれます。
さて、以上のようにみてきますと、古代の教えが、現代に100%そのまま伝わるなどということは不可能に近いし、聖典は、それぞれの社会・時代・地域のニーズにあったように、
長い時間をかけて編集されてきた、ということがわかります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

170顕正居士:2008/02/25(月) 04:35:27
信仰への誡め(『カーラーマ・スッタ』その他)

「何事かを信じてはいけない…
そう聞いただけの理由では。

伝承されて来たからといって伝統を信じてはいけない。
多くの人が語り広まっているからといって何事かを信じてはいけない。
聖典に記されているからといって何事かを信じてはいけない。
単に教師や長老の解説を根拠に何事かを信じてはいけない。
しかし観察し分析した後に理性に合致する事柄があればそれを受け容れ
全生類を善と福とに導く事柄があればそれに基づいて生活すべきである」

http://www.metta.lk/english/not_believe.htm

171顕正居士:2008/03/27(木) 20:27:42
信じてもいい理由と信じてはいけない理由  リチャード・ドーキンス

'and warn you against three bad reasons for believing anything.
They are called "tradition," "authority," and "revelation" '

「わたしはお前に何事かを信じる3つのよからぬ根拠について警告しよう。
それは「伝統」、「権威」、「啓示」と呼ばれるものである」

http://po3a.blogspot.com/2006/03/blog-post_114298809344017542.html

172顕正居士:2008/04/06(日) 01:25:54
幾つかの経典で繰り返される信仰を戒める言葉。これは仏陀その人の金言でしょう。
ドーキンス氏はこの言葉を知っていて娘に訓戒したのかも知れませんが、
現代の知識人が同じ事柄を語るのですから、仏陀の発想の先駆性は確かです。
(仏陀だけではなく六師と称される古代インド都市国家の思想家全員にいえますが)
この金言は陣那菩薩(ディンナーガ 480年頃-540年頃)によって大乗仏教の原理とされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
要するに直接経験と推理だけが認識根拠であり、「伝聞」は認識根拠になりません。
一見は近代哲学と同様の考察が6世紀にすでに発表されたのですが、インド哲学や仏教が
いう直接経験とは禅定の幻覚を含んでおり、それで結局は話にならなかったのです。
自己内心に起こる強い確信 revelation は認識の根拠になりません。
ドーキンス氏は「伝聞」に加えて「啓示」を信じてはいけないと述べているのです。


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