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御本尊のご開眼について

44勉強中:2004/11/10(水) 00:30

直人さんこんばんは。オスカーさんはじめまして。

種々お教え戴きありがとうございます。
日国定書は以前図書館で静岡県史からコピーしてきたものですが、たしか5巻から8巻までのどこかに収録されていたと記憶しています。
何巻であったかは忘れてしまいました。お役に立てず申し訳ございません。

ともかく直人さんの真摯な研鑽態度には敬服致します。今後ともよろしくご教示願います。

45直人:2004/11/10(水) 19:53
勉強中さん、こんばんは。

 ここ数日の論談は改めて気づかされるものがあり有益でした。こちらこそ、今後ともよろしく
お願いいたします。

46川蝉:2005/05/19(木) 14:00:52
「本尊問答抄」について。

「本尊問答抄」に
「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひて後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台、日本の伝教ほぼしろしめして、いさゝかひろめさせ給はず。・・・此の御本尊の御前にして、一向に後世をもいのらせ給い候へ、」(学会版373〜4頁)
とあるので、「本尊問答抄」は大曼荼羅を本尊とし、その説明の一端を教示されている書であることがわかります。

「仏は身なり法華経は神なり」(同366)
とあるように法華経ないし法華経の題目は単なる理法ではなく釈尊の証悟・心とされています。

文永元年の「木絵二像之事」にある
「仏の御意あらわれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」(469頁)や、
文永九年の「四条金吾殿御返事」にある
「其中法華経は釈迦如来の書顕して、此御音を文字と成給ふ。仏の御心はこの文字に備れり。たとへば種子と苗と、草と稲とはかはれども心はたがはず、釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一也。然ば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。」(1122頁)
に見える法仏一体(法仏不二)思想と同じです。

「本尊問答抄」も法仏一体の立場にたっていますので、釈尊と遊離した単なる経法の題目とは捉えていないことはたしかです。

「本尊問答抄」初めの
「答へて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし。」
とある「法華経の題目」とは、文面上では法華経二十八品の題目のように表現されていますが、日蓮聖人の内意では「寿量品の釈尊の証悟・御心である」と云うお考えが底にあることを忘れてはならないものでしょう。

迹門的には釈尊始め諸仏は、それぞれ先仏の法華経説法を受け修行して成仏したことになっているので、法華経は「諸仏出生の種」「法華経は能生、仏は所生」であり、そこで「本尊とは勝れたるを用うべし」と云うことから、法華経・題目を本尊とすべきであると云う論理展開です。

「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり。此は法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず。上に挙ぐる所の本尊は釈迦、多宝、十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり。」
とありますが、
この文意は、「法華儀軌は釈尊多宝を本尊としているが、迹門の釈尊多宝なので法華経の所生である。ゆえに、法華経正意の本尊ではない」
と云う意味でしょう。

寿量品の釈尊は無始の仏、一切諸仏の根本仏とされるので、経法としての法華経より出生した仏の中の範疇に入らないですね。

「本尊問答抄」は対機説法の書なので、迹門的立場にたって、法華経・題目こそ諸仏修行の法であり、諸仏は法華経・題目から出生したのであるから、法華経の題目こそ諸仏が本尊とするものだと論じています。
ですから日蓮聖人の本尊観が変化して題目本尊を鮮明に打ち出した御書ではなく、浄顕・義城房の機根に合わせた御書なので、迹門的に説明した結果、法の面が表に出ている御書とみるべきでしょう。
「本尊問答抄」を述作された時期に於いても、題目は、寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち、寿量所顕の本仏を表すと云う本門の立場に立ったお考えは変化していないと見るべきでしょう。

大曼荼羅は寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち寿量品の釈尊の一念三千の世界(身・土)を表したものですから、寿量品の釈尊の証悟・御心としての題目をさらに詳しく現したものと云うことになりましょう。
ゆえに、「報恩抄」では
「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦、多宝、(塔)外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。」(328頁)
と、大曼荼羅を「本門の教主釈尊」と呼んでいるのでしょう。
「報恩抄」と「本尊問答抄」との本尊観は相反するものではないことになります。

47伝六:2005/05/20(金) 10:02:56
川蝉さん、おはようございます。本尊問答抄が対機説法というのはちがうのではないでしょうか。宗義をのべられた御書に対機説法はないと考えます。次に「本尊とは勝れたるを用ふべし」ですが、文脈上仏と法では法が勝れていることを肯定されているかのようですが、佛家では釈尊を本尊とすべしとむすばれていて、結局仏と法とはどちらがすぐれているかという問いにはお答えにならなかった。解釈のしかたによっては、仏と法とどちらが勝れているかという問いには、あまり意味がないといわれているようにも考えられます。

48川蝉:2005/05/20(金) 16:35:23
伝六さん今日は。

冨士門流信徒掲示板(http://jbbs.livedoor.jp/study/364/)のスレッド「4、本尊と曼荼羅」の376〜384番の投稿を閲覧したので「本尊問答抄」について私なりの考えをまとめてみた投稿です。
「佐渡の国より弟子どもにより内々申す法門あり」(三沢抄)「(観心本尊抄は)日蓮身に当たるの大事なり」(本尊抄送状)とあるのとから、去来、本尊については「観心本尊抄」を正依御書とすべきと云われています。
と云う事は、個別の対告者に宛てた御書は対機説法が含まれている場合があるからです。
「三沢抄」に
「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。」
とある事から、佐渡前を序分に、佐渡在島中を正宗分に、それ以降を流通分に先学が配当しています。流通分は相手に合わせて真義を説明する場合が有るわけです。ゆえに正宗分の御書を正依として、云わんとされている事を理解しないと真義をはずした解釈をしてしまうことがあるわけです。

「日蓮聖人遺文全集講義」にも、担当者の高田恵忍師が
「本抄は台密の徒たる浄顕に対して、東密と台密を破しするため、両密の中心本尊大日如来信仰を打破するため、題目本尊の義を高くかかげたもので、その法本尊を強調するは大日の人本尊を打倒せん為めである。その法本尊は唯大日打倒の為めに強説するけれども、本門の教主釈尊、あるいは寿量本仏本尊は決してその所破でなく、題目本尊は即本仏釈尊本尊であり、題目本尊を法とは大日本尊に対していうことであって、寿量本仏本尊、本門の教主釈尊本尊とはその体に於いて全然同一であって、やはり人本尊である。(取意)」(第二十二巻116頁)
と解説しています。題目本尊を強調しているのは対告者が台密になづんでいた浄顕等だからであると云う事です。
優陀那日輝師も同様な解釈で
「対告衆浄顕房、其の機未だ生しきが故に、ただ権実相対の一辺を示して、真言諸家の本尊を破し、通途の天台法華の法相を述べ給うなり。・・題目の正体は本是れ寿量所顕の本仏なるが故なり。而も本仏なることを明かし給はざる事は、当機未熟の故なり、故に文中都べて権実相対の法門のみなり。しかれども此の一段の文最も学者の迷惑に堕する所なり。余文の明鏡を以て照徹するに非ずんば、誰か無明を免れんや」(本尊略辨)
と解説しています。
「日蓮聖人御遺文講義5」の担当者の守屋貫教師も、
「対告衆浄顕房の機根未だ到らざる故に権実相対の立場から迹門竝びに天台の義に依って説かれた迄である。聖人の本尊に二義あることなし」と優陀那日輝師解説の要旨をのべ、「快刀乱麻を断つが如き会通」であるとしています。
このような先師の説明をもとに「本尊問答抄は対機説法」と前回投稿に述べたわけです。

寿量品の釈尊は法格的にも人格的にも表現できるので、人本尊だとか法本尊だとか一片に偏れないことは云うまでもありません。
そこで、前回投稿にも
「本尊問答抄を述作された時期に於いても、題目は、寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち、寿量所顕の本仏を表すと云う本門の立場に立ったお考えは変化していないと見るべきでしょう。」
と書いております。

49顕正居士:2005/05/21(土) 02:43:31
川蝉さん。こんばんは。

一妙日導師は『祖書綱要』第23巻の本門本尊三種異目章に
「今家の本尊に又二種有り、一には久遠実成の釈尊を以て本尊と為し、本化を以て脇士と為す、是れ三大
秘法の随一にして本門の本尊と名くる者也。真間の生身仏、及び四條金吾の持仏の如き是れ也。二には
首題を以て本尊と為し釈迦多宝等の十界を以て脇士と為す、是れ未曾有の大曼荼羅也。是れ観心の本尊
也」と教観二種の本尊ありとする。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049111&VOL_NUM=00012&KOMA=6&ITYPE=0

しかし『本尊問答抄』によれば本門の本尊また妙法五字ではないかと問を立て、然り、「本門八品の本尊は
法を以て本尊と為す」、「本門八品の本尊は唯だ是れ題目の五字の体用」であると答える。ただし本尊抄に
『来入末法始此仏像可令出現歟』等の文あり、「本門八品の本尊は仏を以て本尊と為す」の意義あるべし、
結論して「大曼荼羅即寿量品の釈尊の自受用身の形貌也」と料簡する。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049111&VOL_NUM=00012&KOMA=31&ITYPE=0

一尊四師をもって教門の本尊、仏本尊とし、大曼荼羅をもって観門の本尊、法本尊とする分類観を問答抄
に適用することは妥当であろうか?行学日朝師は『法華経為本尊事』に「問答鈔には題目に限る本尊云云、
観心鈔には三部十界倶に本尊云云、其相違如何」と問を立てる。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=35&ITYPE=0

本尊抄、報恩抄には教主釈尊を本尊と為すとし大曼荼羅の形貌を示す。本尊問答抄には能生の法を本尊と
為すとし首題本尊(元意本尊)を示す。三抄を料簡すれば大曼荼羅の全体が本門教主釈尊であるが、中尊
は法であって仏ではない意義となる。中尊を仏とすれば、多宝仏と並坐する釈迦仏と別の仏がおられること
になる。それでは毘盧遮那仏の応化が釈迦仏であるとする通途の考えに戻ってしまうと思うのです。

50顕正居士:2005/05/21(土) 08:58:53
優陀那日輝師は『妙宗本尊弁』に「道樹の応仏と報土の報仏」の関係を論じ、

「然るに若し深く之を原ぬれば、本有の一仏流れて衆生と為り、迷従り悟に向ひ、因従り果に至る。乃至
道樹にして本有の法界に帰入す。隔異の色心始て滅するを以ての故也。已に帰入すと雖も、更に復た
智散じ身分て、果従り因に入り、悟従り迷に入り、理即の衆生と為る。進んで亦果に向ひ番番止まらず。
故に知ぬ、報土の報身常に生死に入り、番番成道す。報仏の知見に約すれば、則ち始覚も始覚に非ず、
始成も始成に非ず、久遠劫従り来た其の幾百千万番の成道なるを計る可からざる也」といい、ゆえに

「後番初番に異ならず。初番後番に異ならず。理等しく事等しく智等しく用等し。故に迹仏の三身、本仏の
三身と異ならず。迹を開するに即ち本也」と丈六の釈尊そのまま本仏であるとし、

「若し釈迦の本身は則ち報土に於て尊特の身を以て成道す、是を舎那仏と為す。迹身は則ち同居に於て
丈六の身を以て成道す、是を釈迦仏と為す」ならば三身の無始無終の義は成じないと述べている。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049311&VOL_NUM=00000&KOMA=14&ITYPE=0

伝教大師は『顕戒論』の巻頭に「稽首十方常寂光 常住内証三身仏 実報方便同居土 大悲示現大日尊 
稽首十方真如性 妙法一乗真実教」という。三身常住の本有の一仏とは三世諸仏の内証であり、報土の
報仏、直ちにこれと同一ではないと解せる。
3年前に報恩抄を送った浄顕房に対機の説を述べるとは考えられない。しかし本尊問答抄の後半は真言
批判である。わたしは行学日朝師の解釈が適切であると考えます。本尊抄も報恩抄も大曼荼羅即本門の
教主を示すのに対して、問答抄は首題本尊を述べる、中尊を仏とする義はないことを決しているとおもう。
三抄の間に矛盾はない。多宝仏と並坐する釈迦仏以外に久成の本仏は存在しない。中尊は仏ではなく法
であるが、それは宝塔自体であり、二仏この中に並坐し、二仏を全く離れない法である。中尊を仏と解する
と塔中の釈迦仏以外に久成本仏が存在することになり、毘盧遮那報身、釈迦応身の思想に戻ってしまう。
ゆえにこの抄の内容は真言宗や台密と関係があるが、対機の説ではなく、逆に重大な教説であるとおもう。

51川蝉:2005/05/21(土) 15:29:32

顕正居士さん今日は。

「祖書綱要」の該当巻は所有していませんので、「祖書綱要刪略」の「本門本尊三種異目章」を見てみました。
「大曼荼羅は只是れ寿量の教主釈尊の形容」(巻の七・二十紙右)「曼荼羅中の諸尊、咸く皆な本門の教主一仏の尊容」(巻の七・二十紙左)
「釈迦一仏自受用身の尊形」(巻の七・二十一紙右)
等とあり、顕正居士さんのご指摘通りですね。

さらに、
「本門八品の儀相に約すれば塔中の妙法は是れ体の三身本仏なり。左右の二尊は是れ用の三身迹仏なり」(巻の七・二十紙左)
と解説しているので、
「大曼荼羅の全体が本門教主釈尊であるが、中尊は法であって仏ではない意義となる。」
と云うことでなく、中尊を「体の三身本仏」と見ていますね。

「故に本尊抄に此の本門の肝心妙法五字と云って、先ず十界の総体本尊の正意を挙げ、この体を顕さん為めに、次に其の用を出し、本尊の相を明かす。其れ左右の仏菩薩、何ぞ別物なるべけんや。之に依って之れを言わば、八品の本尊は只だ是れ題目の五字の体用なり。併せて題目を以て本尊と為すものなり」(巻の七・四十紙左)
等と体用の関係としていますね。

「一尊四師をもって教門の本尊、仏本尊とし、大曼荼羅をもって観門の本尊、法本尊とする分類観を問答抄に適用することは妥当であろうか?」
とのことですが、「本尊問答抄」は、法仏不二の立場を外していない、と私は理解していますので、法格的表現とか人格的表現の違いがありますが、強いて、その様な分類観を適用して、「本尊問答抄」の題目本尊の意義を限るべきでないと思います。

「祖書綱要刪略」では「逆縁の本尊と順縁の本尊」と云う分類はしていますが、さっと見たところ「仏本尊と法本尊」と云う区別や優陀那日輝師のような「教門の本尊と観門の本尊」という分類をしてないようですね。

「順縁に約して為めに本門八品の観心本尊を示し、次に逆機に約して更に一尊四士観心本尊を立てたもう」(巻七二十二紙左)
と云って、大曼荼羅と一尊四士とも観心本尊としていますね。

むしろ「一尊四士を本門本尊と為し大曼荼羅を観心本尊と為す」説に対し
「遂に両種をして各一辺に局ぎざらしむ。且く日女書の如き、大曼荼羅の相貌を明かすに、未だ是れ観心本尊と言わず。
本尊抄に一尊四士を立て而も観心を明かす。何ぞ両種を分かって永く両重に対せんや」(巻の七・三十三紙右)
と言っています。

「綱要刪略」は、中尊の題目と列座の諸尊とは、体と用の関係(体用本迹)であるという見解のようですね。

近くは茂田井教亨師も、中央題目と釈尊とは、体と用の関係(体用本迹)であるという見解を採っています。

茂田井教亨師に執行海秀教授が「それでは釈尊が二つになる」とせせら笑ったとのことです。茂田井教亨師は「釈尊が二つあって可笑しいと云うのは全くの形式論。釈尊は尽十方に分身されているから二人どころでない。私の云うのは単なる本迹でなく、体用本迹なのです。働くのはこれが(右側に書かれているの釈尊のこと)働かなければならない」と説明したそうですが、執行海秀教授は納得しなかったとのことです。(本尊抄講話・中巻862頁取意)

「綱要刪略」や茂田井教亨師の見解は、
中央題目は霊山虚空会の釈尊の本体を表示しているが、中央題目は釈尊と別仏として在るのではないと云う事であろうと私は理解します。
「毘盧遮那仏の応化が釈迦仏であるとする通途の考え」に似ていると云えば云えるかも知れませんが、中央題目を単なる法身(真如)としていないので、そこに違いがあるのではないでしょうか。

52伝六:2005/05/21(土) 21:50:14
川蝉さん、今晩は。御妙判は、佐前、佐渡、佐後をわけて、拝読すべきものであることは存じております。これは田中智学大居士がはじめて言われたことで、桂谷教話にあります。ご存知ない方の参考のために、日蓮主義教学大観の第一巻に引用文が掲載されていることを申しそえます。宗義については佐渡以前は未顕真実ですが、佐渡以後において、本尊という重要教義についておっしゃられたことは、相手の未熟の機にあわせたものでないと愚考します。

53川蝉:2005/05/23(月) 09:32:13
伝六さん今日は。

「本尊問答抄」は文面上、「法華経は能生、仏は所生」であるから経の方が勝れているという法勝仏劣を面に出し、だから大日如来を本尊とするより勝れた法華経題目を本尊とすべきである。と教示されています。
御存知のように、能生所生・能証所証・能説所説の関係があるので勝劣を一辺に限る事は出来ないと田中智学大居士が説明しています。
「本尊問答抄」も、勝劣を一辺に限る事は出来ないと云うお考えの基に述作されていることは間違いないと思います。

「本尊問答抄」に於いては、
法仏の勝劣は本来、一片に限られないと云う立場でありながら、迹門的に法勝仏劣を面に立てて大日如来本尊を破しており、題目は、久遠釈尊能証の法、所説の法であり、久遠釈尊の証悟・お心であると云う説明が面に立っていない。ゆえに、対機説法の御書であると云える。しかし真意は観心本尊抄の本尊観と相違や変化はなく法仏一体の立場にあり、法勝仏劣に限った本尊観ではない旨を述べたのです。
もう一度読み返してください。

田中智学大居士は「日蓮主義教学大観4・2497頁)」に
「斯く法勝仏劣は諸宗統一の為めであるから、法勝仏劣対他門というのである、しかしながら対他門であるから方便であるというのではない。この対他門の当所にすぐに真実はあるのである。」
と説明されていますが、この説明を私も云わんとしているのです。「対他門」を「浄顕房等の機根に対応した御書」と表現していると理解下さい。

54顕正居士:2005/05/24(火) 00:41:48
川蝉さんご紹介の茂田井師と執行師の問答は面白いですね。Web上に執行海秀師の『日蓮宗の本尊』
(「みのぶ」誌・昭和43年)という文章があります。
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/gyoshobunnko/shigyou2.pdf

「インド出現の釈尊を除いて本仏はありません」といわれておりますから、中尊を仏と解することに賛成
しなかったのでしょう。体用本迹だから変ではないんだ、というのを考えてみますと。

「体用」というのは中国思想に固有の概念だそうです。「中体西用」(中学為体、西学為用)のように頻りに
使う。「体言」、「用言」もこれから来ているらしいから、体というのは不動の何かで、用は変化するもので
あろう。天台大師は法華玄義そのほかに六重本迹、本迹ということの六種類の意味を述べる。その中の
一つに体用本迹があります。

「四に體用に約して本迹を明かすとは。昔最初に修行し理に契ふに由り、法身を證するを本と為す。初に
得る法身本なる故に、即ち體より應身の用を起す。應身に由って法身を顯すことを得。本迹殊なりと雖も
不思議一なり」(玄義巻第七上)

天台宗では仏の内証を自受用身といい報身に摂するから、法身といえば真如実相の理である。だから
中尊を法身であるというのは、中尊が法であるというのと矛盾はしません。

55顕正居士:2005/05/24(火) 14:10:34
ところで「体用」の「体」を「実体」と理解すると、「体用論」は全く非仏教的なものにみえます。
仏教、特に大乗仏教は現象の背後にあって、永遠に不変である実体というものの存在を認めません。
「体用」が中国ではどういう意味に使われるのか、中国社会科学院の蒙培元教授はこう解説します。

「中国哲学も「本体論」をいうが、西洋哲学とは非常に大きな相違がある。西洋哲学のいう「本体」
とは「実体」である。これは哲学において最後に要請されるものである。中国哲学のいう「本体」
も要請されるものではある。しかしそれは「実体」ではなく、「本源的なもの」あるいは「潜在
的なもの」である。なんらかの創造や発展の可能性であって、それが実現して作用、効能となる。
これがつまり中国哲学の「体用観」である」(『実体と境界』)
別の文章では「心に体用有り、未発の前は是れ心の体、已発の際は是れ心の用なり」(朱子語類)
を実例であるとします。
http://www.confucius2000.com/poetry/shtyjj.htm

さて、曼荼羅の中尊と釈迦仏について「体用本迹」を述べた御抄があります。『諸法実相抄』です。

「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

「法身五道に流転するを名けて衆生と曰ふ」(不増不減経)ので、中尊を仏と解すると、それは
法身の意味ですから、理即の仏である衆生のことにもなります。「体」とは「潜在的なもの」を
いうから、凡夫のほうが「体」であり、仏のほうが「用」です。そして「体」が本、「用」が迹
です(体用本迹)。「五百塵点は迹仏の寿命、森羅万像は本仏の寿命」(文句略大綱私見聞)。
しかし凡夫がほんものの仏であるとか、釈迦仏よりもえらい仏だといっているのではありません。

56川蝉:2005/05/24(火) 14:42:32
顕正居士さん今日は。

「四に體用に約して本迹を明かすとは。昔最初に修行し理に契ふに由り、法身を證するを本と為す。」

「六重本迹」の中の
「理事本迹」や「理教本迹」の場合は、「本」は「無住の理」「本時の実相真諦」「実相の真本」と説明されているので、「理法」を指していますが、
體用本迹の場合の「本」とは、
「修行し理に契ふ」「法身を證する」身ということですから、慈悲救済の念熱い人格的仏身(報身的)を指して「本」としていると思います。

「初に得る法身本なる故に」とありますが、ここに云う「法身」とは、人格的仏身(報身的)を指していると思います。
法身は真如実相の理をも指しますが、涅槃経では、悟りを開き(真如を悟り)常住不滅金剛不壊の身となった仏身をも法身と表現しています。この用例に順じて、一分中道を証悟した菩薩を「法身の大士」とか「法身の菩薩」と云う用例もあるわけです。

このように體用本迹を理解して、綱要の日導上人や茂田井教亨師は、中央題目を「本」(体の三身本仏・本体仏)とし右側の釈尊を「迹」に配当したのだと思われます。


凡夫が仏の教の媒介なしに直接に実相真如を証悟して行くことはできません。故に単なる法身としての実相真如の理法は本尊と成り得ません。

山川智応居士の以下の解説をなるほどなと納得しています。
「最初に覚った仏と法とは不二一体のものである。能覚の内容を能説の根本原理として、一言に説き顕したのが南無妙法蓮華経の五字七字であるから、本尊問答抄に云うところの法本尊とは、決して本有の理乗二法を云うのではなくて、覚法の直潟たる根本教法、神力別付の結要の大法を指している。神力結要の題目は本仏の御覚り一念三千の結論、根本教法で、本仏の心であるから、名は法で体は本仏の覚りである。すなわち『名法体仏』である。
これに対して、報恩抄に『本門の教主釈尊を本尊とすべし』とある本尊形貌の中尊は本仏の一念を妙法蓮華経の智慧光明であるから、これは『名仏体法』である。(取意)」(本門本尊唯一精義50〜52頁)

「御本尊を拝見すると、ただ妙法蓮華経ではない。理法をば妙法蓮華経と仏が結論的に名づけた。それが法である。南無とは帰依帰命である。帰依帰命ということはどうしても人でなければならない。南無妙法蓮華経ということは、本有の法に帰依帰命していることだ、本有の法に帰依帰命していることは何だ、この七字の全体がそのままこれは人格を示したものである。すなわち法仏一如の人格を示したものだ。所謂無始の妙法蓮華経に南無すること、それをば絶対的に完全に実行している人格は何だ、それは無始の仏界である。(取意)」(本門本尊論168頁)


ご紹介の執行海秀教授の『日蓮宗の本尊』掲載の「みのぶ」が手元に残っていました。
執行海秀教授は
「観心本尊抄には曼荼羅の用語がなく、それに対する明瞭な解説がない。曼荼羅そのものは、本尊でなく、本尊の原理本質を図示された図表である。日蓮聖人の正意本尊は久遠の本仏で、その表現形式は一尊四士の造立にある」
等と主張されたとのことです。
一尊四士も本尊とすることには異論はありませんが、曼荼羅は本尊でないという見解はだいぶ無理があると思っています。

57顕正居士:2005/05/24(火) 17:27:14
川蝉さん。今日は。

>単なる法身としての実相真如の理法は本尊と成り得ません。

わたしは、本尊問答抄は中尊が法であることを示されたのであって、一遍首題がより正式の本尊である
と示されたとは思いません。そういう宗派がありますが。中尊が法であるからこそ、曼荼羅が人法ともの
本尊になるのだとおもいます。また中尊が法であるといっても、単なる実相真如の理というよりは法華経
という教法としてあらわれたものであるから、智応居士のおっしゃる「本仏の一念」というのも適切な方面
があります。

しかしそれでもやはり法身として理解するべきでははないかとおもう理由は、「諸法実相抄」があります。
「諸法実相抄」を依用しないのなら別ですが、宗門諸派の先師、近代の智学居士や智応居士は依用して
おられます。同抄の文脈は在纏位の法身をいっておりますから、いきなり「本仏の一念」というと矛盾が
生じます。また体用本迹の「体用」を蒙培元教授のいわれるように解すれば、この抄には論理的な飛躍
があるわけではありません。

58川蝉:2005/05/26(木) 09:46:47

顕正居士さん今日は。

『諸法実相抄』の本迹は、「六重本迹」の中の「理事本迹」に大分近いというか、また「真如は不変真如であるばかりでなく、染浄の諸法を顕現する動性である。事相差別の当相がそのまま真如の動態に外ならず、十界は悉く真如の随縁であり平等不二である」とする真如随縁思想に極めて近い思想であると思います。

「諸法は真如の随縁変作であり、諸仏も真如の変作である」と云う思想はすでに五大院安然の「教時義」にあると、浅井円道立正大教授も指摘していますので、『諸法実相抄』の前半は「日蓮己証の法門等をかきつけて」と言い得るのかな?と思ったりしています。

浅井円道教授が、
「一代聖教大意には心生十界論は別教説であるとしている。日蓮聖人は心生と心具を分別し、心生十界論を厭捨する教えがある。そして心生十界論とは真如随縁論のことに外ならない。なぜなら真如随縁論とは真如の随縁生起が万法であるという心生論だからである(取意)」(日蓮聖人教学の探求・226頁)
と指摘していますが、別教に摂属する真如随縁論に極めて近い『諸法実相抄』の前半部分の思想を日蓮聖人の本義とは言い難いと思います。
傍系思想の書と指摘されている『諸法実相抄』の前半を以て大曼荼羅の意味合いを推測す依文とするのは危険があるように思えます。
『諸法実相抄』の前半において、真如随縁思想の上から、実相としての妙法蓮華経が本仏であるとし、釈迦多宝の二仏を用の仏としているわけですが、はたして、大曼荼羅上の南無妙法蓮華経と釈尊の関係を語っているものでしょうか。

『諸法実相抄』の後半に、
「既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来にたてまつり給し時、妙法蓮華経のはた(旛)をさし顕はし、」(1360頁)
とあります。これは虚空会の様相であり、また大曼荼羅を述べているものと理解すべきでしょう。中央の題目は「さし顕はされたはた(旛)」であるとしていますが、その旗は、
「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。かくのごとく我も聞きし故ぞかし。」(1361頁)
とあるように、単なる実相真如や、単なる在纏位の三身如来(仏性)を表す妙法蓮華経でなく、釈尊の教法(衆生を本有の尊形と為さしむ妙法)・釈尊の証悟・お心・全現の三身如来を表す題目とするのが本義であろうと思われます。

ちなみに、偽書説がありますが
偽書説がありますが、「阿仏房御書」では、行者の肉身が妙法五字の宝塔であると教示しています。この場合は、中央の題目は衆生本具の三身如来(仏性)を表すと云えますね。

「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我ら衆生との三つ全く差別無し」であれば、何れにも重点を置いた説明されることがあると思うので、法だとか人だとか一方的に限定しない方が良いのかも知れませんね。

59伝六:2005/05/27(金) 11:03:57
まとまったことは書けないのですが、思ったことを書きます。「末代悪世の凡夫は何物を以って本尊と定むべきや。答云く、法華経の題目を以て本尊とすべし」ということは深い意味のあることと思いますが、本尊として礼拝修行の対象とするのは五字七字の題目であるということは、万人に明白であると思います。この御文を解釈して、一尊四士等を本尊とすべしと読む智者があるでしょうか。しかし、一尊四士も二尊四士も日蓮聖人の指導の下に造立されたのは事実のようです。これについては「本尊造立私議」に、「そもそも本門本尊を顕はすに就いて、之を法門の立場よりすると、修行の立場よりすると、因縁の立場よりするとの次第がある」と言われています。一尊四士二尊四士は法門の立場からの本尊であって、われらの修行のために模範としておつくりになったものではないと信じます。本尊造立私議には「本化妙宗の正式正意としては、局って文字曼荼羅に在ること・・・」と言われています。

60川蝉:2005/05/28(土) 14:09:57
伝六さん今日は。

「この御文を解釈して、一尊四士等を本尊とすべしと読む智者があるでしょうか。」とのことですが、
昔から、「本尊問答抄」をもって一尊四士本尊の依文としてあげる先師は居ないと思います。

本尊に関する教示は観心本尊抄等の他の御書にもあります。本尊に関する教示を総覧し勘案して、「一尊四士の形も本尊として日蓮聖人は認められていた」と先師がたは領解したのだと思います。

「一尊四士二尊四士は法門の立場からの本尊であって、われらの修行のために模範としておつくりになったものではないと信じます。」とのことですが、一尊四士二尊四士は御本尊として不適当であると云うご意見なのですか?。

修行時の本尊とならないのならば、そもそも本尊としての資格はないことになるので、日蓮聖人が造立を否定されたと推定されます。
田中智学大居士も
「(一尊四士は)本尊のことであるから修行の所対でないことはないが、この重に於いては法門が面になって修行が裏面に廻って居る。即ち『法面行裏』である。」(本尊造立私議・75頁)
と述べていますが、修行時の本尊にならないと云っていませんね。
また、
「予は今この一尊四士又は二尊四士を『(大曼荼羅の)妙略』といふた。」(同書86頁)
とも
「即ち文字式ならば御聖筆の正範である教義的整斉の原式に拠り(例せば佐渡始顕本尊の如き)、形像式ならば一尊四菩薩、又は二尊四菩薩の内にてその一方を取って、闔宗通同教内統一の式と定めたいというのである。」(同書84頁)
とも述べていますね。

(お願い)
引用典拠の書名と頁数を記して下さい。

61伝六:2005/05/29(日) 10:42:16
川蝉さん、おはようございます。本尊造立私議の単行本はもっていないので、師子王全集教義篇続々のページ数ですが、「そもそも本門本尊を顕はすについて、之を法門の立場よりすると、修行の立場よりすると、因縁の立場よりするとの次第がある」は、207頁で、二、教義上の不可能 (其二)教意不成立 の節にある文章です。「本化妙宗の正意正式としては、局って文字曼荼羅に在ること、・・・・」は冒頭の部分で、くわしく引載しますと、「本尊を勧請し造立するに就いて、木像、絵画、文字等、さまざまの形式ある中に本化妙宗の正意正式としては、局って文字曼荼羅に在ること、随って絵画や木像、就中、木像で具体勧請を全うすることは断断乎として不可能であるという理由を述べるのが、この篇の主張である。」です。大居士が「即ち文字式ならば・・・」(同書86頁)と言われるのは、本尊を正しくしたい、形像式ならば一尊四菩薩、又は二尊四菩薩が正しく、文字式なら一機一縁に授与されたものでない等のことを考えて原式と考えられるものにより、正しくしたい、そして統一の式を定めたい、二つのなかでは文字曼荼羅にすべきであるという主張だと私は理解します。三、実行上の不可能 其一勧請不能 の節に、「或る学説には「木像で本尊を造立するのは、四海同帰の暁、本門戒壇勅立の時のみであって、それまでは文字曼荼羅に限る」という古伝がある」と言われていますが、私は、この古伝がほんとうではないかと思います。それは未来のことだから、それ以前にできれば結構なことだと思いますが。

62今川元真:2006/04/09(日) 12:30:05
伝六さん、はじめまして。文字漫陀羅を上一人下万民の目にするように掲げていたので本尊を漫陀羅で教えるのは自然な流れでは、と思います。戒壇堂は僧の授戒だけしか使わないなら後回しになるのも当然では無いでしょうか。相対的に東大寺、延暦寺に替わる物なら闇雲に建てても二の舞三の舞に成り兼ないですから。

63伝六:2006/04/10(月) 09:36:54
今川元真さん、はじめまして。何が問題であるのか、よくわかりません。本門戒壇についてがテーマなら、前提から確認しないとなりませんので、戒壇論は他日を期したいと思っています。

64今川元真:2006/04/10(月) 11:04:39
個人的感想なので論議できる挙証を持っているわけでは無いのです。宜しければ「此の時地涌千界出現して本門のシャクソンを脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」の真偽解説をお願いします。

65伝六:2006/04/10(月) 21:52:09
富士宗学要集等を読んだことがないので、富士門流の本門釈尊脇士の要義はわかりませんが、昨今の日蓮本佛論は日蓮聖人のほうが釈尊よりエライと言っているのに等しく、それだったら謗法だと信じます。

66今川元真:2006/04/10(月) 23:06:04
日蓮正宗:日蓮本仏+戒壇様本尊+唯授一人法主=三位一体説、 創価学会:日蓮本仏≒掛軸本尊≒池田本仏、 各々個人の見方考え方は千差万別になっていくと思います。

67一寸法師:2006/04/14(金) 02:56:02
御曼陀羅の地涌の菩薩の位置は、釈尊を脇士としていないでしょう。大石寺派の意図的な御遺文の歪曲であることは明確ですね。

68一寸法師:2006/04/19(水) 00:00:32
shamonさんの法輪のBBSの転用です。http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

本来の「法体」とは、法華経の教えの本体、法華経の本質となる教え、所謂法華経の肝心である教えを言います。ですから、「南無妙法蓮華経」は法華経という優れた教え、特に寿量品を中心とした教えへの信心となります。その信心を以て、人生を懸命に修行して真理・真実に至らんとするのです。勿論、法華経の教えを謗る世の中或いは人達の中に交わって、法華経の教えこそ最勝であると「南無妙法蓮華経」と唱えて宣伝するならば、法華経を説かずとも、法華経の哲学を理解するに至らずとも、その功徳はとても大きいでしょう。

ところが、中古天台的な本覚思想に影響された人達、そして彼等が創りだした日蓮聖人の書にあらざるものを日蓮聖人の書と信じてきた人達は、「法体」とは即ち「真理(妙法)」であるからと、前述の「南無妙法蓮華経」を置き換えます。即ち「南無妙法蓮華経」そのものが真理の名称であって、その真理をただ口に出して唱えていれば、真理を悟る身になる、本来自分が仏であることを覚ると、仏教の常識では有り得ない極端な事を言うわけです。ですから、彼等にとっては釈尊も法華経も必要なものではなくなるのです。そして日蓮聖人の教えを、矮小なカルトとしてしまいながらも、最も優れた教えであると自負するに至ります。

日蓮門下にあっても、近代の文献的な研究を尊重せず、或いは日蓮聖人の御遺文を勉強せず、その本来の宗教的・哲学的思想を理解せずして、創価学会と同じようなことを言う僧侶が結構います。まあ、最近は本覚思想に影響されていると言うよりも、面倒な勉強も厳しい実践もしなくて楽だからのようですが。一方で堕落した教えに満足できない人、日蓮聖人の教えを誤解している人達は、心の持って行き場がないので、荒行に入って祈祷を学んだり、或いは慈善活動に傾倒したりしているようでもあります。

69今川元真:2006/04/19(水) 06:28:20
一寸法師さん、はじめまして。  「本覚」思想の進化発展が「本因妙・本果妙」なのでしょうか。日蓮聖人は三時・三身・三証を学問の軸に考えられていたと思いますか。

70一寸法師:2006/04/19(水) 11:05:53
逆ですね。本覚思想は、本因本果からの堕落ですよ。別に、学問の軸とは思いませんけど

71今川元真:2006/04/27(木) 11:25:05
学問の軸は、注法華経でしょうか?

72問法第三:2009/07/05(日) 05:58:13
私は細かいことは良く分かりませんが、末法において法華経は有効でしょうか。この件について日蓮は釈尊を指して、末法の衆生を救済しないのは慈悲が有って無きが如しと云っていましたが、どうなのでしょうか。私は各宗各派は無力だと聞いていますが?基本的なぎもんです。

73問法第三:2009/07/19(日) 02:49:26
失礼しました。スレの最終の日付けを確認しませんでした。

74常修院二番弟子:2014/09/12(金) 13:25:38
本門戒壇の大御本尊は、真実です。
下記サイトにて。
エイチティティピー://zyoushuin2.web.fc2.com


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