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御本尊のご開眼について

51川蝉:2005/05/21(土) 15:29:32

顕正居士さん今日は。

「祖書綱要」の該当巻は所有していませんので、「祖書綱要刪略」の「本門本尊三種異目章」を見てみました。
「大曼荼羅は只是れ寿量の教主釈尊の形容」(巻の七・二十紙右)「曼荼羅中の諸尊、咸く皆な本門の教主一仏の尊容」(巻の七・二十紙左)
「釈迦一仏自受用身の尊形」(巻の七・二十一紙右)
等とあり、顕正居士さんのご指摘通りですね。

さらに、
「本門八品の儀相に約すれば塔中の妙法は是れ体の三身本仏なり。左右の二尊は是れ用の三身迹仏なり」(巻の七・二十紙左)
と解説しているので、
「大曼荼羅の全体が本門教主釈尊であるが、中尊は法であって仏ではない意義となる。」
と云うことでなく、中尊を「体の三身本仏」と見ていますね。

「故に本尊抄に此の本門の肝心妙法五字と云って、先ず十界の総体本尊の正意を挙げ、この体を顕さん為めに、次に其の用を出し、本尊の相を明かす。其れ左右の仏菩薩、何ぞ別物なるべけんや。之に依って之れを言わば、八品の本尊は只だ是れ題目の五字の体用なり。併せて題目を以て本尊と為すものなり」(巻の七・四十紙左)
等と体用の関係としていますね。

「一尊四師をもって教門の本尊、仏本尊とし、大曼荼羅をもって観門の本尊、法本尊とする分類観を問答抄に適用することは妥当であろうか?」
とのことですが、「本尊問答抄」は、法仏不二の立場を外していない、と私は理解していますので、法格的表現とか人格的表現の違いがありますが、強いて、その様な分類観を適用して、「本尊問答抄」の題目本尊の意義を限るべきでないと思います。

「祖書綱要刪略」では「逆縁の本尊と順縁の本尊」と云う分類はしていますが、さっと見たところ「仏本尊と法本尊」と云う区別や優陀那日輝師のような「教門の本尊と観門の本尊」という分類をしてないようですね。

「順縁に約して為めに本門八品の観心本尊を示し、次に逆機に約して更に一尊四士観心本尊を立てたもう」(巻七二十二紙左)
と云って、大曼荼羅と一尊四士とも観心本尊としていますね。

むしろ「一尊四士を本門本尊と為し大曼荼羅を観心本尊と為す」説に対し
「遂に両種をして各一辺に局ぎざらしむ。且く日女書の如き、大曼荼羅の相貌を明かすに、未だ是れ観心本尊と言わず。
本尊抄に一尊四士を立て而も観心を明かす。何ぞ両種を分かって永く両重に対せんや」(巻の七・三十三紙右)
と言っています。

「綱要刪略」は、中尊の題目と列座の諸尊とは、体と用の関係(体用本迹)であるという見解のようですね。

近くは茂田井教亨師も、中央題目と釈尊とは、体と用の関係(体用本迹)であるという見解を採っています。

茂田井教亨師に執行海秀教授が「それでは釈尊が二つになる」とせせら笑ったとのことです。茂田井教亨師は「釈尊が二つあって可笑しいと云うのは全くの形式論。釈尊は尽十方に分身されているから二人どころでない。私の云うのは単なる本迹でなく、体用本迹なのです。働くのはこれが(右側に書かれているの釈尊のこと)働かなければならない」と説明したそうですが、執行海秀教授は納得しなかったとのことです。(本尊抄講話・中巻862頁取意)

「綱要刪略」や茂田井教亨師の見解は、
中央題目は霊山虚空会の釈尊の本体を表示しているが、中央題目は釈尊と別仏として在るのではないと云う事であろうと私は理解します。
「毘盧遮那仏の応化が釈迦仏であるとする通途の考え」に似ていると云えば云えるかも知れませんが、中央題目を単なる法身(真如)としていないので、そこに違いがあるのではないでしょうか。


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