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御本尊のご開眼について

48川蝉:2005/05/20(金) 16:35:23
伝六さん今日は。

冨士門流信徒掲示板(http://jbbs.livedoor.jp/study/364/)のスレッド「4、本尊と曼荼羅」の376〜384番の投稿を閲覧したので「本尊問答抄」について私なりの考えをまとめてみた投稿です。
「佐渡の国より弟子どもにより内々申す法門あり」(三沢抄)「(観心本尊抄は)日蓮身に当たるの大事なり」(本尊抄送状)とあるのとから、去来、本尊については「観心本尊抄」を正依御書とすべきと云われています。
と云う事は、個別の対告者に宛てた御書は対機説法が含まれている場合があるからです。
「三沢抄」に
「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。」
とある事から、佐渡前を序分に、佐渡在島中を正宗分に、それ以降を流通分に先学が配当しています。流通分は相手に合わせて真義を説明する場合が有るわけです。ゆえに正宗分の御書を正依として、云わんとされている事を理解しないと真義をはずした解釈をしてしまうことがあるわけです。

「日蓮聖人遺文全集講義」にも、担当者の高田恵忍師が
「本抄は台密の徒たる浄顕に対して、東密と台密を破しするため、両密の中心本尊大日如来信仰を打破するため、題目本尊の義を高くかかげたもので、その法本尊を強調するは大日の人本尊を打倒せん為めである。その法本尊は唯大日打倒の為めに強説するけれども、本門の教主釈尊、あるいは寿量本仏本尊は決してその所破でなく、題目本尊は即本仏釈尊本尊であり、題目本尊を法とは大日本尊に対していうことであって、寿量本仏本尊、本門の教主釈尊本尊とはその体に於いて全然同一であって、やはり人本尊である。(取意)」(第二十二巻116頁)
と解説しています。題目本尊を強調しているのは対告者が台密になづんでいた浄顕等だからであると云う事です。
優陀那日輝師も同様な解釈で
「対告衆浄顕房、其の機未だ生しきが故に、ただ権実相対の一辺を示して、真言諸家の本尊を破し、通途の天台法華の法相を述べ給うなり。・・題目の正体は本是れ寿量所顕の本仏なるが故なり。而も本仏なることを明かし給はざる事は、当機未熟の故なり、故に文中都べて権実相対の法門のみなり。しかれども此の一段の文最も学者の迷惑に堕する所なり。余文の明鏡を以て照徹するに非ずんば、誰か無明を免れんや」(本尊略辨)
と解説しています。
「日蓮聖人御遺文講義5」の担当者の守屋貫教師も、
「対告衆浄顕房の機根未だ到らざる故に権実相対の立場から迹門竝びに天台の義に依って説かれた迄である。聖人の本尊に二義あることなし」と優陀那日輝師解説の要旨をのべ、「快刀乱麻を断つが如き会通」であるとしています。
このような先師の説明をもとに「本尊問答抄は対機説法」と前回投稿に述べたわけです。

寿量品の釈尊は法格的にも人格的にも表現できるので、人本尊だとか法本尊だとか一片に偏れないことは云うまでもありません。
そこで、前回投稿にも
「本尊問答抄を述作された時期に於いても、題目は、寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち、寿量所顕の本仏を表すと云う本門の立場に立ったお考えは変化していないと見るべきでしょう。」
と書いております。


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