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御本尊のご開眼について
46
:
川蝉
:2005/05/19(木) 14:00:52
「本尊問答抄」について。
「本尊問答抄」に
「此の御本尊は世尊説きおかせ給ひて後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台、日本の伝教ほぼしろしめして、いさゝかひろめさせ給はず。・・・此の御本尊の御前にして、一向に後世をもいのらせ給い候へ、」(学会版373〜4頁)
とあるので、「本尊問答抄」は大曼荼羅を本尊とし、その説明の一端を教示されている書であることがわかります。
「仏は身なり法華経は神なり」(同366)
とあるように法華経ないし法華経の題目は単なる理法ではなく釈尊の証悟・心とされています。
文永元年の「木絵二像之事」にある
「仏の御意あらわれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」(469頁)や、
文永九年の「四条金吾殿御返事」にある
「其中法華経は釈迦如来の書顕して、此御音を文字と成給ふ。仏の御心はこの文字に備れり。たとへば種子と苗と、草と稲とはかはれども心はたがはず、釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一也。然ば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。」(1122頁)
に見える法仏一体(法仏不二)思想と同じです。
「本尊問答抄」も法仏一体の立場にたっていますので、釈尊と遊離した単なる経法の題目とは捉えていないことはたしかです。
「本尊問答抄」初めの
「答へて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし。」
とある「法華経の題目」とは、文面上では法華経二十八品の題目のように表現されていますが、日蓮聖人の内意では「寿量品の釈尊の証悟・御心である」と云うお考えが底にあることを忘れてはならないものでしょう。
迹門的には釈尊始め諸仏は、それぞれ先仏の法華経説法を受け修行して成仏したことになっているので、法華経は「諸仏出生の種」「法華経は能生、仏は所生」であり、そこで「本尊とは勝れたるを用うべし」と云うことから、法華経・題目を本尊とすべきであると云う論理展開です。
「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり。此は法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず。上に挙ぐる所の本尊は釈迦、多宝、十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり。」
とありますが、
この文意は、「法華儀軌は釈尊多宝を本尊としているが、迹門の釈尊多宝なので法華経の所生である。ゆえに、法華経正意の本尊ではない」
と云う意味でしょう。
寿量品の釈尊は無始の仏、一切諸仏の根本仏とされるので、経法としての法華経より出生した仏の中の範疇に入らないですね。
「本尊問答抄」は対機説法の書なので、迹門的立場にたって、法華経・題目こそ諸仏修行の法であり、諸仏は法華経・題目から出生したのであるから、法華経の題目こそ諸仏が本尊とするものだと論じています。
ですから日蓮聖人の本尊観が変化して題目本尊を鮮明に打ち出した御書ではなく、浄顕・義城房の機根に合わせた御書なので、迹門的に説明した結果、法の面が表に出ている御書とみるべきでしょう。
「本尊問答抄」を述作された時期に於いても、題目は、寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち、寿量所顕の本仏を表すと云う本門の立場に立ったお考えは変化していないと見るべきでしょう。
大曼荼羅は寿量品の釈尊の証悟・御心すなわち寿量品の釈尊の一念三千の世界(身・土)を表したものですから、寿量品の釈尊の証悟・御心としての題目をさらに詳しく現したものと云うことになりましょう。
ゆえに、「報恩抄」では
「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦、多宝、(塔)外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。」(328頁)
と、大曼荼羅を「本門の教主釈尊」と呼んでいるのでしょう。
「報恩抄」と「本尊問答抄」との本尊観は相反するものではないことになります。
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