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大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

1凡人:2011/11/06(日) 15:51:51
戦争の風化や元日本兵の美化や伝説化が見られるなかで歴史の真実に迫る。

6凡人:2011/12/02(金) 09:19:56
ワシントン駐在編集特別委員・古森義久
2011.12.2 02:56

 ■よみがえる山本五十六

 今月8日は日米開戦からちょうど70年となる。20年前の1991年のパールハーバー記念日は50周年とあって、現地で大規模な式典が催された。私も日本軍が沈めた戦艦の残骸の上のアリゾナ記念館で先代のブッシュ大統領が戦死者への追悼を述べるのに耳を傾けた。

 ブッシュ氏は日本に恨みはないと繰り返し、友好の実績を強調した。だが、「パールハーバー生存者連盟」のメンバーが6千人も式典に加わっていた。日本軍の攻撃時に現地で軍務にあった旧将兵によるこの会は半世紀が過ぎても全米で1万2千人が健在だった。だから「多くの戦友は日本軍のスニーク・アタック(だまし討ち)に不意をつかれ殺された」という非難の声もなお出ていた。

 日米間の戦争を人間同士の殺し合いの歴史としてまだ皮膚でなまなましく感じさせられた記念日だった。

 だがそれから20年、米国側のパールハーバーへの思いはずいぶんと変わったものだと認識させられた。抑制とか自省という表現を連想させられる変化なのだ。その変化は11月はじめに出版された日米戦史「太平洋の試練」を読んでの実感だった。著者は44歳の歴史研究者、イアン・トール氏で、ノートン社刊。大手新聞各紙がすでに大きな書評で紹介し、話題の書となってきた。

 同書は開戦冒頭の半年、とくにパールハーバーへの日本軍奇襲の成功とミッドウェー海戦での米軍の圧勝という二大作戦に多角的な光を当てた。主眼は二大戦闘にしぼり、日米両海軍の戦略や戦術を精密に紹介しているものの、開戦までの日本側の事情を明治にまでさかのぼって解説した点が類似の戦記とは異なる。

 日本にとってロシアとの戦争も不可避の事態として描かれ、日本軍将兵の武勇や礼節を正面からたたえている。米国との協調を求めた日本がカリフォルニアの排日運動で傷つけられた経緯をも詳述する。満州事変以降の日本の動きについては従来の米側歴史家の一方的断罪にも流れるが、日本が中国からの全面撤退要求や石油禁輸に直面し、選択肢を失っていく状況も客観的に伝えていた。

 しかし同書の最大の特徴は戦争の当事者たちの人間像を日米均等な視線で追ったことだろう。政治指導者から提督、一兵卒まで膨大な資料を駆使して、その言動の人間的軌跡をわかりやすく伝えている。なかでもとくにハイライトを浴びるのは連合艦隊の山本五十六司令長官である。

 同書は山本長官を「例外的な天然のカリスマを有し、国と部下を愛した豪胆な人物」とほめながらも、ミッドウェー海戦での決定的な敗北の責任者とも評する。ギャンブルや恋愛を楽しみながらも、米国との戦争に反対し続けた英知も指摘する。その意味ではこの書は、今の米国民にとって多様な顔でよみがえる山本五十六像の提示だともいえそうだ。

 山本長官についての米書はすでにかなり世に出たが、戦史にその人間像をここまで盛り込んだ作品は初めてだろう。しかも敵将としてよりもまず人間としてという視点なのだ。

 著者のトール氏は5年前に米海軍の起源を書いた大作でデビューし、幾多の賞を得た海軍史の気鋭作家で、11歳からの3年間、両親とともに日本で暮らした。本書の「人間的な視点」について本人に問うと、「疑いなく自分自身の日本での生活、日本の人との親しい交流が主要因だと思います」と答えるのだった。(ワシントン駐在編集特別委員)

7凡人:2011/12/02(金) 10:41:08
神社と国家との分離指令
1945年12月15日

国家神道は国民に天皇崇拝を強制し、軍国主義につながったとして、GHQは政府に国家神道に関する覚書を出した。覚書では、神社神道に対する公的財政援助の停止、公立学校での神道的教育の廃止、学校や役所などからの神棚の撤廃などを求めた。国家と宗教の分離、信仰の自由の保障を骨子とし、覚書で示された理念は日本国憲法に引き継がれ、政教分離や信教の自由が確立された。

<当時の新聞紙面>

国民学校の教室にも神棚がつくられていた 1941年4月 

靖国神社の見学にきた進駐軍兵士 1945年11月 東京・九段

8凡人:2011/12/03(土) 07:30:38
戦前の日本と今の北朝鮮が幾つもの点で類似していないか。当時アメリカ人が日本の教育を知ったら、同じように驚愕したろう。
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北朝鮮・驚愕の教科書 (文春新書)
By 宮塚 利雄, 宮塚 寿美子
おすすめ度:
(6 カスタマーレビュー)
商品の詳細
発売日: 2007-02 /版型: 新書/232 ページ
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エディターレビュー
内容(「BOOK」データベースより)
「日帝野郎」「天皇野郎」「米帝野郎」のオンパレード。日本人は徹底的に極悪で、金正日は昼の日本列島を夜にする妖術師。仰天の教科書を読み解き、反日・嫌日誕生の現場を検証する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
宮塚 利雄
1947年、秋田県生まれ。高崎経済大学卒業後、韓国・慶煕大学校大学院修士課程、檀国大学校大学院博士課程修了。山梨学院大学教授

宮塚 寿美子
1980年、ソウル生まれ。立命館大学文学部日本文学科卒業後、韓国・明知大学校北朝鮮学科大学院修士課程修了。同大博士課程在籍中。現在、韓国の大学、政府機関で日本語講師をしながら北朝鮮社会の分析・研究を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
最も参考になったカスタマーレビュー

29 人中、 32 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
衝(笑?)撃の北朝鮮教科書の世界
By ishilinguist
 本書は、きわめて入手困難な北朝鮮の小学校の国語と音楽の教科書を紹介している。
 そこには例えば、金日成、金正日の明らかに非現実的な超人的な能力(金正日が地球儀の日本を塗りつぶすと本当に日本でも真っ暗になったらしい)や、ひたすら彼らを賛美する言葉、そして日本、韓国、米国に対する明らかに事実と反する罵倒の言葉が展開している。
 これらの常軌を逸した、とうてい教育的と思えない教科書は、金日成・金正日体制を正当化するためのものであるという。
 誤解を恐れずに言えば、「キワモノ」として冗談の種にあふれた一冊ではある。しかしまた同時に、日本海のすぐ向こうにこのような体制を持つ国家が現実に存在しており、多くの民を飢えに苦しませながら、現代の日本を「軍国主義」と非難し、拉致問題や核ミサイルに対してなんら誠実的な対応をみせていないことに、我々は戦慄せざるを得ない。
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9凡人:2011/12/03(土) 07:31:35
22 人中、 26 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
どこまで嗤えるか
By 青ち
北朝鮮の初等教育の現場で、どのような教材で何が教えられているか。使用されている教科書を資料として読み解いた一冊。資料紹介や解題もさることながら、ふんだんに示される現物の写真は、日本随一の北朝鮮グッズ蒐集で知られる著者であればこそ紹介可能なものであり、たいへん興味深い。

北朝鮮の教育とは、要するに金日成・金正日親子の「偉大さ」を子どもたちに繰り返し教え込み、リッパな「朝鮮人民」に育て上げるための刷り込み機能を受け持っているわけだ。そのために用意されるお話や歌の数々は、当事者ならぬ評者からすれば荒唐無稽・抱腹絶倒なネタの行列である。

だが、当事者にしてみれば、こうした教育内容の教材に、評者と同じ感想を抱きつつ接しているわけではないだろう。程度はわからぬが、それ相当の真剣さでもって扱われているはずである。でなければ、今日まで曲がりなりにも北朝鮮の体制が維持できていることの説明がつかないし、韓国にたどり着いた脱北者が一様に「だまされた」という感想を述べるはずもない。

考えてみれば、教育というのはそもそも子どもへの何らかの刷り込み機能を担っているわけであって、ここに出てくる「驚愕の教科書」をどこまで嗤っていいのか、斬って捨ててしまうには若干の躊躇いが残る。リアルな北朝鮮製品のように歪んではいるが、これもやはり自らを映す鏡として読むことができるのではないか。

8 人中、 10 人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
金日成原理主義による政教融合
By according to the conservative
  北朝鮮の教科書を紹介した一書です。ひと事でいう、国家の英雄
である金日成、金正日親子を神格化する一方で、日本・アメリカを憎
み打倒すべき敵とする教育が徹底的に刷り込まれています。現実と
してこのような教育が為されている国家と国交正常化は、中国の反日
デモに遭遇する以上のリスクがあると思われます。ちなみに、金日成
の神格化は、日本の天皇が神の子孫であるとする古事記の導入のよ
うです。憎むべき敵のシステムを採用する貪欲さには脱帽しました。

http://astore.amazon.co.jp/asapykadan-22/detail/4166605577
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10凡人:2011/12/08(木) 01:59:06
ニュース争論:真珠湾攻撃70年 半藤一利氏/松尾文夫氏
毎日新聞 2011年12月5日 東京朝刊

 真珠湾攻撃(41年12月8日)から70年。先の大戦が遠い過去の出来事になりつつある中、パールハーバーの記憶は両国に今も複雑な影を落としている。少年時代に共に日米開戦を体験した作家の半藤一利さんと首脳の相互献花外交を訴えるジャーナリストの松尾文夫さんが、「真珠湾の日」を語り合う。【立会人・岸俊光編集委員、写真・武市公孝撮影】

 ◆米国を知らず誤解の開戦−−作家・半藤一利氏

 ◆首脳献花で戦争にけじめ−−ジャーナリスト・松尾文夫氏

 ◇快哉叫んだ大人たち
 立会人 日米開戦の時、半藤さんは11歳だったそうですね。

 半藤 東京の向島にあった国民学校の5年生でした。12月8日は月曜日で学校へ行かなきゃいけないので、7時ごろには起きていました。薄氷が張るぐらいの本当に寒い朝でしたね。午前7時にラジオの臨時ニュースが流れ、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と。普段通りにラジオ体操も放送されましたが、臨時ニュースは何べんも繰り返されました。学校に行くと先生たちが興奮していましてね。1時間目に1年生から6年生まで校庭に集められ、校長の訓示がありました。「大変な時代になる。しっかり勉強せい」という、下町の悪がきには迷惑千万な話でしたが、学校中が緊張していたことを明瞭に覚えています。

 うちに帰ったら、父親が「これでこの国も駄目になった」と言ってましたよ。私が「始めたら勝たなきゃいけねえじゃないか」と反発したら「勝つと思うのか、バカ」なんて言われてね。

 松尾 すごいお父さんですね。何をされていたんですか。

 半藤 区会議員をやっていました。そういう変なおやじでしたので、他の子供よりは目覚めていましたけどね。

 日中戦争が泥沼化したあたりから、日本人には頭に重い物が載っているような感じがありました。アメリカとイギリスが後ろにいるから日中戦争がうまくいかないことは、子供でも知っていた。いつか討たなきゃいけないと、世間ではかなり言われていたと思います。それがいっぺんに晴れた感じが大人たちにはあったんじゃないでしょうか。「〔真珠湾〕の日」という本にも書きましたけど、当時のインテリがみんな快哉(かいさい)を叫んでいますからね。

 松尾 私は半藤さんより3歳下の2年生なんです。今の新宿区百人町に住んでいました。父は軍人で中国に出征していました。母がみるみる緊張したことが記憶にあります。学校では、先生が高揚して「南洋からゴムがいっぱい届くので道路がゴム敷きになる」と話されていたのを覚えています。

 半藤 結局戦争は石油が原因なんだけど、当時はあまり言わなかったね。

 松尾 私の場合は、4カ月後の42年4月18日にアメリカのドーリットル爆撃機が真珠湾攻撃の報復に東京を初空襲した時、国民学校の校庭で副操縦士の顔を目撃したことの方が強烈な出会いでした。2005年にアメリカまで彼を訪ねていったんです。94歳で今も元気。時々電話してきます。毎年4月18日に乗員の同窓会を開いています。隊員80人のうち5人が生き残っています。いまだに空軍の愛国行事です。

 ◇野球と映画とジャズ
 立会人 アメリカと戦争するのは特別だったんでしょうか。当時の言い方は「米英」ですか、「英米」ですか。

 半藤 米英ですね。後で調べた話ですが、1939(昭和14)年ぐらいまでは英米なんです。アメリカが日本との通商航海条約を破棄し、40年に失効した。それからなんですよ、アメリカが上に出てきたのは。日本はアメリカを意識しているから日中戦争も戦争にしない。あくまで事変なんです。アメリカは、中立法で戦争当事国には石油を送らないと言っていました。中国もアメリカに借金をしているから日本に宣戦布告しない。そもそもそれが国民にはよく分からない話でした。

 松尾 アメリカがでかい国だということを意識したのは、日米の子供が綱引きをしている絵を描いた5年生の時でした。その後、福井でB29の爆撃を生き延び、今もアメリカを追い続けています。当時、日本はアメリカをどの程度知っていましたかね。

 半藤 いやあ、知らなかったね。知っているのは野球と映画ぐらい。

 松尾 ジャズもあったと思いますが、基本的にはすれ違いでしたね。

 半藤 12月8日は新宿の昭和館で「スミス都へ行く」を上映していたんです。作家の野口冨士男がアメリカ民主主義を描いたこの映画を見に行った様子を書いています。山本五十六はアメリカを知っていた方ですが、向こうに3年もいたのに友人がいない。太平洋戦争は誤解の戦争です。アメリカ人も日本人はみんな近眼で飛行機の操縦なんかできないと思っていたんだから。
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11凡人:2011/12/08(木) 01:59:43
 ◇若者に昭和の歴史を
 立会人 戦後、日本人は真珠湾攻撃をどう受け止めてきたのでしょうか。

 半藤 若い人は12月8日に日米戦争が始まったことを多分よく知らないんじゃないですか。20年ほど前に、ある女子大で学生50人にアンケートをしたことがあります。第二次大戦で日本と戦争をしなかった国はアメリカ、ドイツ、オーストラリア、ソ連のうちどれかと尋ねた時、13人がアメリカと答えました。どっちが勝ったんですかと聞いた学生もいました。ひっくり返るほど驚いて、若い人たちに昭和の歴史を教えるのが大事だと思いました。

 松尾 そこが、あの戦争にけじめをつけていないという問題と絡んできます。300万人の犠牲を出した責任を日本は自ら裁いていない。5年ほど前に必修科目の世界史を履修していない高校が明るみに出ましたが、当時の駐日ドイツ大使は大変驚いていました。

 立会人 アメリカ人の捉え方は?

 松尾 第二次大戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争を戦い、今もアフガニスタン戦争の渦中にあります。アメリカ人にとって、戦争は身近な経験ですよ。戦後の日本とは対照的です。ですからアメリカをはじめ、あの戦争の当事国との和解の儀式が必要です。大統領の広島、首相のハワイ真珠湾アリゾナ記念館での相互献花はいまだに実現していません。中国の南京でも首相に献花をしてほしい。これは国際社会で生き残るためにも必要です。ドイツは完全に済ませています。

 半藤 今では太平洋戦争や昭和史を書く若い人が多くなってきましたが、私がのめり込んだ昭和30年代は、文芸春秋にも他には誰もいませんでした。一人で元提督や元将軍に会いにいったものだから、半藤という名前から「あいつは反動分子だ」と言われたりしてね(笑い)。墨塗り教科書もよく占領軍の指令だと間違われますが、日本が自主的にやったことでした。それぐらい歴史から離れようとしたんです。

 松尾 日本はそのしっぺ返しを今静かに受けていると思いますね。

 ■聞いて一言

 ◇子供の鋭い時代観察 体験者の提言を心に
 資料の公開を待って歴史の決定版を書くのもいいが、体験者にしか語れない時代の息吹がある。その大切さをお二人に教えられた。真珠湾攻撃がアメリカの日曜日とは知っていたが、日本では学校の始まる月曜日の朝だったことまで思い及ばなかった。子供から見た大人社会の鋭い観察だと思う。米スミソニアン航空宇宙博物館別館を訪れた時、展示されている広島原爆投下のB29エノラ・ゲイの説明板が犠牲者に何も触れていないことに驚いた覚えがある。日米の認識の違いはなお大きいだけに貴重な提言をかみしめたい。(岸)

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 ■人物略歴

 ◇はんどう・かずとし
 30年生まれ。東京大文学部卒。文芸春秋に入社し「文芸春秋」編集長、取締役を歴任。著書に「日本のいちばん長い日」「山本五十六」など。

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 ■人物略歴

 ◇まつお・ふみお
 33年生まれ。学習院大政経学部卒。共同通信に入り、ワシントン支局長などを務めた。著書に「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」など。
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12凡人:2011/12/08(木) 02:05:06
太平洋戦争:日米開戦70年 運命の12・8 破局への道、なぜ
毎日新聞 2011年12月4日 東京朝刊

 日本軍がハワイ・真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発してから、8日で70年を迎える。終戦までの3年8カ月の間に、日本人だけで約300万人が命を奪われた。補償を求める裁判が続くなど、戦争は今日にまでつながっている。大日本帝国の政府、軍部とも、アメリカとの戦争に勝つことはできないと承知していた。ではなぜ、開戦に踏み切ったのか。また、引き返す道はなかったのか。12・8から70年を前に、検証したい。【栗原俊雄】

 ●分水嶺、三国同盟

 太平洋戦争に至った原因としては明治以来の大陸膨張政策や満州事変などさまざまな指摘がある。今回は平和と戦争の分水嶺(ぶんすいれい)の一つとなった、日独伊三国同盟(1940年)以降を中心にみてみよう。

 欧州で独伊の、アジアで日本の指導的地位を相互に認め、第三国(事実上アメリカ)との武力衝突の際は相互に軍事的支援を行う−−これが三国同盟の内容だ。

 須藤眞志・京都産業大名誉教授(国際関係史)によれば「日本近代外交史上、最悪の選択」だった。「米国にとって最大の敵、ドイツと同じファシズムの国と認定されてしまった」からだ。井口治夫・名古屋大教授(日米関係史)も「フランスをあっという間に破ったドイツと日本が組めば、米国にとって脅威。日本は同盟を結ばず、その脅威をカードに対米交渉を続けるべきだった」と指摘する。

 なぜ同盟を結んだのか。山田朗・明治大教授(近現代軍事史)は「第二次世界大戦初頭のドイツの華々しい勝利で日本、特に軍部は幻惑された。イギリスを屈服させられると信じた」と解説する。ドイツ勝利でアジアにおける植民地再分割に参加できる、との期待があった。

 また、時の松岡洋右外相は、同盟で対米交渉を優位に進めようとし、ソ連を含めた4カ国同盟も想定していた。だが独ソ開戦で、松岡の構想は空中分解する。

 ●独頼みの戦争構想

 日米間には圧倒的な国力差があった。独力で米国を屈服させることは不可能と、当時の日本政府、軍首脳とも承知していた。では、どのように戦争を構想したのか。

 開戦直前の41年11月15日、大本営政府連絡会議で「戦争終結構想」が決定された。主な内容は(1)南方作戦で戦略的自給圏を確保する(2)中国の蒋介石政権への圧力を強める(3)独伊と連携し英国を屈服させる(4)それによって米国の戦意を失わせ、講和に持ち込む−−といったものだ。対英戦争の主力は独軍だが、海軍力に乏しく、英軍を屈服させられるかは未知数。実現しても、それで米国が戦意を失うとは限らない。仮定の上に仮定を重ねた空想のような「戦争構想」で、日本は戦争へと進んでいく。

 ●仏印進駐が「引き金」

 日本の中国侵略に対し、米国は対日経済制裁を強めた。日本はさらに40年9月23日、フランスの植民地だった北部仏印(現ベトナム北部)に進駐。すでにフランスはドイツに敗北しており、日本にとっては石油など戦略資源が豊富な南方を獲得する好機だった。英米などによる蒋介石政権への支援物資補給路(援蒋ルート)を断つ目的もあった。

 これに米国は、くず鉄など戦略物資の禁輸で応じた。日本は翌年7月2日の御前会議で、南進を優先し、状況に応じ北進(対ソ戦)することを決めた。一方米国は、在米日本資産を凍結してしまった。

 それでも同月28日、日本軍は南部仏印に進駐し、米側は対日石油輸出を全面的に禁止。日本の政府、軍首脳は、これを全く予想していなかった。

 当時、日本は石油の大半を米国からの輸入に頼っており、打撃は大きかった。軍部の見立てでは石油備蓄量は2年分しかなかった。オランダの植民地だった蘭印(現インドネシア)からの輸入交渉も、うまくいかなかった。

 「日本側は、北部と南部ではたいした違いがないとみていた。ところが米国にとっては南部進駐で(アジアにおける米軍の拠点)フィリピンが脅かされると感じた」と、等松春夫・防衛大学校教授(政治外交史・戦争史)。米国はこの時点で対日戦を決意した、とみる研究者が多い。
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13凡人:2011/12/08(木) 02:05:47
 ●「開戦決意」御前会議

 国策については、政府や統帥部(陸軍参謀本部、海軍軍令部)首脳による「大本営政府連絡会議」で話し合い、その決定は天皇が臨席する御前会議で裁可された。会議では、天皇は発言しないのが習わしだった。

 だが9月6日の御前会議で天皇は、明治天皇の和歌を読み上げた。「四方(よも)の海皆同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」。「避戦」のための、異例の発言だった。

 だが、この日決定された「帝国国策遂行要領」には、10月下旬をめどに対米英蘭戦争の準備を完成させること、とある。また外交を進める一方、10月上旬ごろまでに要求貫徹のめどが立たない場合は「直ちに開戦を決意」することを決めた。戦争への、大きな前進−−。

 天皇の発言について戦中派の作家、五味川純平は後に「詩歌は感傷的感慨の表現手段でしかない」「朕(ちん)は戦争を欲せず、と言ったらどうであったか」と嘆息している。

 ●「切り札」東条内閣

 対米交渉の鍵は中国撤兵だった。だが東条英機陸相ら陸軍強硬派は「多大な犠牲を払った中国から撤兵できない」と猛反対。日米交渉の見通しを失った近衛文麿首相は、内閣総辞職を選ぶ。

 内大臣の木戸幸一は、後任首相として東条を天皇に推薦。陸軍ににらみがきく者を首相に据え、強硬派を抑える狙いだった。天皇は「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だね」と応じた。すでに米国という虎の尾を踏んでいたことに、日本の為政者は気づかなかった。

 天皇は東条に、9月6日の決定を白紙に戻すように指示。東条は国策の変更を模索するが、国家が平和へとかじを切り直すことはなかった。

 天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、説得工作を進める。兵器や船舶確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。天皇は説得された。

 山田教授は「甘い見通しだったが、軍官僚たちも安心材料が欲しかった。自分たちが作ったデータを信じるようになり、催眠術にかかったように『何とかなる』と思い込んだ」とみる。11月5日の御前会議で対米英蘭戦争を決意し、「武力発動の時期を12月初頭と定め」た。ただ、対米交渉が同月1日午前0時までに解決すれば、武力発動は停止することが確認された。

 ●拒否できぬ海軍

 対米戦は、海軍が「ノー」と言えば始められない。自らの意思で「避戦」を貫くことのできない近衛や、陸軍の一部も、それに期待した。だが及川古志郎海相は「戦争をするかしないかは政府の決めること」と判断を回避。永野修身・軍令部総長はより強硬な対米開戦論者だった。

 井上寿一・学習院大教授(日本政治外交史)は「海軍は対米戦を想定して軍備を拡張してきた。いざという時『戦えない』とは言えなかった」とみる。現代史家の秦郁彦氏も「時がたつほど国力の差が出てしまう。石油も心もとない。やるなら今、ということだった」と解説する。

 井上教授は「軍部に複雑な国家運営を任せるのは無理。また明治憲法体制下では天皇親政は否定されている。本来なら政党が責任を果たすべきだった」と指摘する。だが2大政党、政友会と民政党は、腐敗や政争のため国民の支持を失った。さらに大政翼賛会に参加するため、解党してしまった。「権力の核が陸軍と海軍、外務省などに細胞分裂のように広がり、誰も調整できないまま戦争に突き進んでしまった」(井上教授)

 ●ハル・ノート

 対米妥協を模索する東条内閣は、米側との交渉で11月7日に「甲案」を提示。主な内容は(1)日中間の平和が確立した場合、最大25年をめどに中国から撤兵する(2)仏印の進駐軍は、日中戦争の解決か極東平和の確立とともに撤兵する−−だったが、事実上拒否された。さらに20日、乙案(日本が仏印以外の南東アジア、南太平洋地域には進駐しない代わりに米側は日米関係を資産凍結以前に戻す)を提示した。中国撤兵問題という懸案を棚上げするものだ。この時点で日本政府は、これを切り札かつ最終案と認識していた。

 米側は結果的に「ハル・ノート」で応じた。主な内容は(1)中国、仏印からの撤兵(2)汪兆銘政権の否認(3)三国同盟の空文化。日本側の主張とかけ離れており、戦争を避けたがっていた東郷茂徳外相でさえ「もはや立ち上がるより外はない」と覚悟する内容だった。運命の開戦が決まった。

 アメリカ側にも誤算があった。「対日強硬派は弱者(日本)は強者(米)に立ち向かわない、と読んだ。『窮鼠(きゅうそ)、猫をかむ』という発想はなかった」(須藤名誉教授)のだ。現実の歴史では日本は直ちに立ち上がり、米軍は緒戦に大きな痛手を受ける。日米は互いに、相手の譲れない一線を読み違えていた。
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14凡人:2011/12/08(木) 02:06:31
 ●誤算続き、日米交渉

 井上教授は「日米間には開戦を不可避とするような対立点はなかった」とみる。ではどの時点なら、戦争への道を引き返せたのか。

 日米関係の改善のための交渉は41年4月から本格化し、野村吉三郎駐米大使によって日米「諒解(りょうかい)案」の内容が本国に伝えられた。日本政府は、それが米側の提案であると認識した。内容は(1)日本軍の中国撤兵などを条件として、米国が満州国を承認、日中和平交渉を仲介する(2)日米通商航海条約の実質的復活(3)米側は三国同盟を防衛的なものとして解釈し容認する−−など。

 日本に大きく配慮した内容で、天皇は「我国が独伊と同盟を結んだからとも云(い)える、総(すべ)ては忍耐だね、我慢だね」と喜んだ。

 だが同案は、実は日米の民間人らが作成した試案だった。米側のハル国務長官の真意は(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持−−との「4原則」で、日本の希望とはかけ離れていた。ただハルも、暫定案を交渉のたたき台として認めてはいた。

 ところが、頭越しの交渉を知った松岡外相が反発。日本政府の回答は遅れ、しかも松岡の意を受けてはるかに後退したものになった。諒解案は雲散霧消する。

 対米交渉に行き詰まった近衛首相は、米側にルーズベルト大統領との直接交渉を申し入れた。中国撤兵を約束し、あとで天皇の認可を得るというもくろみだった。

 しかし米側はこれを拒否。近衛の指導力、日本の外交そのものへの不信感もあった。須藤名誉教授は「近衛は天皇の許可を得ていた節がある。実現していれば、日米交渉は続いたのでは」と言う。

 日本の乙案提示後、米側は(1)民需用石油に限り禁輸を暫定的に3カ月停止し、その後は交渉次第で延長する(2)日本軍は南部仏印から撤兵する−−という「暫定協定案」を用意していた。だが中国が強く反対。チャーチル英首相も同調し、結局提示は見送られた。スティムソン陸軍長官から、日本の大輸送船団がインドシナへ向け航行中であることを聞いたルーズベルト大統領が激怒したため、という説もある。東条は敗戦後、「あれ(協定案)が来ればなあ」と悔やんだという。

 ●避戦の可能性

 ハル・ノートが開戦につながる「最後通告(通牒(つうちょう))」だったかどうかは、当時から議論がある。外務省を退職していた吉田茂は「最後通牒ではない」と、東郷外相に交渉継続を訴えた。問題の中国撤兵も「事実上、満州は除外されていた」(井上教授)。秦氏も「中国からすぐに出て行けという内容ではない。国際情勢をにらみながら対応していれば、活路が見えた」と話す。

 真珠湾奇襲の直前、ソ連軍は独軍への反転大攻勢を始めていた。ハル・ノートをたたき台として交渉を続けていれば、独軍の苦戦が明らかになり、日本の戦略は足元から揺らぐ。日本は開戦に踏み切れなかったかもしれない。

 ●暴走の教訓とは

 70年前、破滅的な戦争へと突き進んだ歴史から、後世の私たちは何を学ぶべきだろうか。

 国策決定者たちは、自分たちに好都合な情報を集め、希望的観測を続けた。その結果、独ソ戦の勃発や米国による石油禁輸など「想定外」の事態によって、窮地に追い込まれた。彼らが戦争へと前のめりになる中で、避戦を模索し続けた者も、少数ながらいた。国家は、それをくみ取れなかったのだ。

 今年、東京電力福島第1原発の事故が発生。国策である原発推進の危険性を指摘する声は昔からあったが、生かされなかった。「原発は安全」という希望的観測は、「想定外」の巨大地震と大津波で崩壊した。

 国策決定者・組織は時に、取り返しのつかない判断ミスを犯すものだ。しかし、今昔のミスに違う点もある。

 開戦という国策決定には軍官僚や宮廷政治家ら、国民が選ぶことのできない者たちが大きな役割を占めた。当時、女性に参政権はない。国策に反対する言論の自由もなかった。

 戦後、国民の権利は増大した。国家を運営する官僚は選べないが、政治家と政党を選ぶことはできる。戦前に比べ権限が強化された首相も、間接的にではあるが選出が可能だ。

 それだけに、私たち選ぶ側の責任は大きい。戦争の惨禍で今も多くの人々が苦しんでいるように、選択失敗のツケは後世にまで累を及ぼすことを肝に銘じたい。
3-4

15凡人:2011/12/08(木) 02:07:44
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 ◇「生きて帰れぬ」覚悟−−真珠湾攻撃隊
 前田武さん(90)は空母「加賀」の97式艦上攻撃機(艦攻、3人乗り)の偵察員だった。艦攻は800キロの魚雷を抱いていた。

 真珠湾の深さは平均およそ12メートル。魚雷は投下すると50メートル程度潜るため攻撃は不可能だが、日本海軍は浅深度魚雷を開発した。さらに海面10メートルほどの低空から投下するため、搭乗員に猛訓練を課した。鹿児島湾などでの訓練は「土曜も日曜もなかった。嫌になるほど繰り返しやった」。

 「浅深度魚雷は40本ほどしかなく、必ず当てられる者しか乗れなかった。名誉でしたね」。出航前、上官に「家族とお別れしてこい」と言われ、「戦争だ。シンガポール攻撃か」と話し合った。11月26日、機動部隊は択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出撃した。そこで目的地を知らされたが、「アメリカとの和平が成立すれば帰る」とも言われた。「戦争はしない方がいい」と思った。

 発艦するとき「生きては帰れないだろうな」と覚悟した。狙いは米戦艦ウェストバージニア。「魚雷が当たった瞬間、泥水がばーっと上がってきて、飛行機の中に入った。ふつうなら青い水が上がってくるのに」。「奇想天外な作戦」は成功した。

 前田さんはその後ミッドウェー沖海戦、沖縄戦も生き抜いた。

 ◇「政府広報機関」新聞の責任
 東京日日新聞(現毎日新聞)は8日の夕刊(日付は9日)で、1面トップに昭和天皇の詔勅を掲載した。詔勅は中国の蒋介石政権を「東亜ノ平和ヲ攪乱(かくらん)」、米英を「東洋制覇」をもくろんでいると批判。「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以(もっ)テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」などとした。続いて「英米の暴政を排し/東亜の本然を復す」との見出しの記事で「軍官民一体となって国難を突破する用意は全く成った」「真の平和を期待する明日の世界のために不退転の決意と不屈の努力を傾倒する」と記した。政府声明をそのまま載せ、政府支持一色の紙面だ。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは開戦の経緯における新聞の責任を鋭く指摘する。「当時の新聞社は政府の広報機関。多少の例外はあるが、記者はジャーナリストではなく宣伝要員だった。同情すべき点もあるが、今日の教訓にすべきだ」

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 ◇主な参考文献(順不同)
 新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録」(毎日新聞社)▽五味川純平「御前会議」(文春文庫)▽半藤一利、加藤陽子「昭和史裁判」(文芸春秋)▽吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)▽井口武夫「開戦神話」(中公文庫)▽古川隆久「昭和天皇」(中公新書)▽山田朗「昭和天皇の軍事思想と戦略」(校倉書房)▽須藤眞志「日米開戦外交の研究」(慶応通信)▽保阪正康「昭和陸軍の研究(上)」(朝日文庫)▽秦郁彦「統帥権と帝国陸海軍の時代」(平凡社新書)▽防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」(朝雲新聞社)▽寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋)▽コーデル・ハル「回想録」(朝日新聞社訳・朝日新聞社)▽参謀本部編「杉山メモ(上)」(原書房)▽ジョセフ・C・グルー「滞日十年(下)」(石川欣一訳・毎日新聞社)
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16凡人:2011/12/09(金) 03:53:27
「誰の責任かもあいまいな」。今となっても同じ。
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余録:70年前の鏡
毎日新聞 2011年12月8日 1時01分

 「周囲は真珠湾の勝利にざわめいていたが、彼は浮かぬ顔をしていた……『えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有り様はせいぜい2、3カ月だろう』と沈鬱な声で言った」▲彼とは近衛文麿、70年前のきょう真珠湾攻撃の日の細川護貞による記録である。近衛は日中戦争では「国民政府を対手とせず」と声明してその泥沼化をもたらし、日米交渉に努力したものの南部仏印進駐で米国の石油禁輸を招く。日本の運命を決定づけた人だった▲一方、日米開戦に際し「三国同盟は僕の一生の不覚だった。こと(米国参戦防止の)志と違い、今度の戦争の原因になった」と涙ながらに知人に語ったのは元外相の松岡洋右だ。つい半年前の独ソ開戦時には対ソ侵攻を提言し、日米交渉にも強硬に反対した人物である▲「財布に1000円しかないのに1万円の買い物をしようという日本と、100万円をもって1万円の買い物をするアメリカとの競争でしょう。たちまちだめです」。こちらは昭和の動乱の原点、満州事変を仕掛けた軍人・石原莞爾の日米開戦間もないころの断言だ▲国民の多くが緒戦の勝報に熱狂していた中、その戦争への道を踏み固めた張本人たちの破滅の予言だ。彼らの無責任を今さらなじってもむなしいが、誰の責任かもあいまいな場当たり的対外膨張の破綻は、誰の予想をも超える途方もない数の内外の人命をのみこんだ▲責任の底が抜けた国策が国民の運命を狂わせるのは当時だけでない。こう聞けば今度の原発災害を思い浮かべる方もいよう。日本人が危機にのぞんで自らを映してみなければならぬ70年前の鏡だ。

17凡人:2011/12/09(金) 04:33:08
話題:コタバル上陸 知られざる開戦 真珠湾1時間前 旧日本兵ら証言集会
2011年12月7日

70年前のコタバル上陸作戦当時の様子を語る武田義雄さん=佐賀県鳥栖市の自宅で2011年12月6日、田鍋公也撮影 ハワイ・真珠湾攻撃の約1時間前、日本はマレー半島で太平洋戦争への第一歩を踏み出していた。1941年12月8日午前2時過ぎ、旧日本陸軍は当時英国領のマレーシア北東岸コタバルへの上陸作戦を開始。敵味方多くの犠牲者を出し、戦線拡大への契機となった東南アジアでの奇襲攻撃は戦後、対米開戦の真珠湾攻撃に比べ、語り継がれることが少なかった。70年を経て、コタバル上陸作戦に参加した元日本兵と当時を知るマレーシア男性が10日、横浜市で証言集会に臨み、「知られざる開戦」を語る。【夫彰子】

 「上陸用の小舟から降りて海岸に伏せていたら前方のトーチカから敵の銃弾がビュンビュン飛んできて、同じ分隊の4、5人が戦死しました。私も背負っていた(背嚢はいのう)に一発食らってビクッとしました」

 コタバル上陸作戦に参加した元陸軍兵の一人、武田義雄さん(90)は佐賀県鳥栖市の自宅で、遠い70年前に思いを(馳、は)せた。ほぼ同時に海軍が真珠湾を攻撃するとは露知らず、ただ、恐怖の中で「これでついに戦争が始まった」と実感していた。

 父親が警察官をしていた台湾で生まれ育った武田さんは19歳で陸軍へ志願した。「当時はお国のために戦うのが当たり前だった」

 福岡県久留米市の第18師団歩兵連隊に配属後、中国・海南島に移り、なぜか上陸戦の練習ばかりさせられた。「一兵卒には上が考えてることなんて分かりません。軍の命令に従うだけでした」と淡々と語る。

 奇襲作戦の数日前に輸送船「淡路山丸」へ乗せられた時も、行き先がコタバルとは知らず「またいつもの訓練かと思った」。武田さんにとって初めての実戦となったコタバル奇襲は、味方にもギリギリまで隠された。

 砲銃撃を受けたり、波浪にのまれるなどして多数の死傷者を出しながらコタバル上陸を果たした旧日本軍は、シンガポールを目指して一気に南下する。

 42年2月13日、武田さんはシンガポール陥落を目前に迫撃砲の破片を受け右腕を負傷。(壊死、え、し)を防ぐための切断手術は、けが人があふれ麻酔もない中、料理包丁のような刃物とノコギリで行われた。「その時の恐怖と痛みは言葉で言い表せません」

 上陸作戦から70年、コタバル関係者のほとんどが世を去った。10日の証言集会。妻や2人の息子にさえ多く語らなかった自らの体験談とともに、「戦争さえなかったらたくさんの人が死ぬことも、私が腕をなくすこともなかった。平和が一番ありがたいこと」という思いを伝えたいと、武田さんは願っている。

  *    *

 集会は、横浜市の「かながわ労働プラザ」で午後3時から。マレーシアから、戦時中に兄が抗日軍と疑われ旧日本軍に殺害されたという葉徳明さんも来日し、武田さんとともに証言する。参加費1000円。問い合わせは主催の「アジア・フォーラム横浜」(090・9346・5884)。

 コタバル上陸作戦 旧日本軍は、オランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯占領へ向け、その途上にあるイギリス領シンガポールの確保を計画。マレー(現マレーシア)北東部のコタバルを奇襲し、シンガポールまで南下する進攻作戦を立てた。旧防衛庁の戦史叢書(そうしょ)によると、1941年12月8日午前2時15分にコタバルへ上陸。70日目にシンガポールを陥落させた。軍はほぼ同時に真珠湾とフィリピンにも奇襲攻撃を展開、太平洋戦争へ突入した。

18凡人:2011/12/10(土) 07:12:57
家奪われ、飛行場になった 高知龍馬空港=南国市下島
2011年12月09日朝日

1941年まで自宅があった辺りを指さす吉井武雄さん。後方は高知龍馬空港=南国市下島

1940年に撮影された旧三島村下島地区住民の集合写真。翌年、散り散りになった=吉井武雄さん提供

 日米開戦から8日で70年を迎えた。開戦11カ月前の1941年1月、旧海軍航空隊の飛行場建設を理由に、旧三島村(現在の南国市南東部)の住民は立ち退きを強いられた。当時を知る数少ない元住民の一人、吉井武雄さん(84)を南国市に訪ねた。

 高知龍馬空港から旅客機が飛び立つ。吉井さんは轟(ごう)音に顔をしかめながら、滑走路の南側を流れる新秋田川沿いの一帯を指さした。そこは旧三島村の下島地区で、吉井さんが27年に生まれてから住んでいた木造平屋の自宅があった。

 郷土史を研究する南国史談会や「高知空港史」などによると、旧三島村は物部、下島、久枝の3地区からなり、東側に物部川が流れる水田地帯だった。

 41年1月、旧海軍航空隊の偵察隊の訓練飛行場を村中央部に建設するため、村の7割
が軍の立ち退き命令で強制収用された。263戸の約1500人が約2年半で県内外へ散り、村は翌年に合併して旧日章村となって消えた。

 吉井さんは立ち退き当時、尋常高等小学校に通う13歳だった。下島地区は「ぐずぐずしていると『国賊』にされるぞ」と移転先探しで騒然とした。

 吉井さんの両親もすぐに自宅を解体し始めた。長男だった吉井さんも5人の弟や妹たちと朝から晩まで屋根瓦をはがし、瓦や柱をたわしで洗う作業を繰り返した。両親は飛行場近くに土地を見つけ、解体した建材をリヤカーに載せて馬と牛に引かせて何往復もした。

 40アールの水田も失い、大工だった父親は高知市内の造船工場へ働きに出た。吉井さんは広島県の広海軍工廠(こう・しょう)に入り、44年には台湾へ渡って海軍航空隊の練習機の整備を担った。しかし戦況が悪化するにつれ、練習機も特攻機に動員された。「生きて帰れた私は幸せ。死んだ者が一番哀れだ」と特攻隊員をしのぶ。

 終戦翌年に帰国すると、吉井さんの実家はさらに北、現在の南国市田村に移転させられていた。働く場もなく、飛行場周辺を水田に戻す開墾作業に出た。一帯は戦闘機を隠すためにつくられた約40基の掩体(えん・たい)や誘導路で寸断・破壊され、「おもちゃのように馬力がない」トラクターで土を起こすのに何年もかかった。

 吉井さんは「戦争がなければ、家の移転や田を開墾し直す苦労も特攻隊もなかった。どうもこうもなく、戦争はいかん」と話した。(滝沢卓)

19凡人:2011/12/16(金) 07:16:16
「人間魚雷」の造船所跡、最後の公開 佐賀、年内に解体
2011年12月15日23時39分

 戦時中、「人間魚雷」といわれた特殊潜航艇「海龍」を造った佐賀県伊万里市の「川南(かわなみ)造船所」跡の建物が15日、年内解体を前に報道陣に公開された。生い茂っていた樹木はすでに切られ、22日以降とされる解体を待つばかりになっていた。

 建物は戦後66年間放置されてきた。現在残っている建物は、造船所の本体ではなく、機械や鋳物工場など。天井の鉄筋がむき出しになり、コンクリートの柱が途中からなくなるなど、危険な状態だ。11、12日の佐賀大の調査で「かかさぬ点検かならず安全」などの標語が書かれた柱4カ所と鉄製の窓枠2カ所を切り取って保存することを決めた。

 地元から取り壊しの要望を受け、市の検討委員会は7月に「全面解体撤去」を提言していた。一方、廃虚として全国の愛好家らに人気があり、市の解体方針がインターネットなどを通じて伝わると反対運動が起きていた。

 川南造船所で終戦までに「海龍」が4隻建造され、12隻が建造中だったことを突き止めた佐賀大の青木歳幸教授(歴史学)は「壊されるのはやむを得ないが、戦争と造船所の記憶が残るよう資料を保存して後世に伝えていくべきだ」と話している。(田中良和)

20凡人:2011/12/17(土) 23:58:06
南京大虐殺を扱った中国映画「ザ・フラワーズ・オブ・ウォー」。コレを読むと、ハリウッド映画産業界を占めているアメリカリベラル派たちは「南京大虐殺」を認めているようですね。日本側の動きが今後気になるところ。アカデミー賞ほど世界の認知は高くないが、ゴールデン・グローブ賞はアカデミー賞の行方を予測するうえで、映画界では結構話題になる。八木氏をはじめとして産経新聞その他の保守論客たちが、賞にノミネートされたことについて、否定的意見で論及することが予想される。
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G・グローブ賞、無声映画が候補 6部門で
(2011/12/16 11:35)

 【ロサンゼルス共同】アカデミー賞の前哨戦となる米国の主要映画賞、ゴールデン・グローブ賞の各候補が15日、米ロサンゼルスで発表され、モノクロのサイレント映画「アーティスト」がミュージカル・コメディー部門の作品賞など最多の計6部門で候補となった。

 ドラマ部門の作品賞はスティーブン・スピルバーグ監督の「戦火の馬」などが候補。外国語作品賞の候補には南京大虐殺を扱った中国映画「ザ・フラワーズ・オブ・ウォー」などが選ばれた。

 ドラマ部門の主演男優賞はジョージ・クルーニーさんやブラッド・ピットさんら大物が名を連ねた。

 発表・授賞式は来年1月15日に行われる。

【写真】  ゴールデン・グローブ賞の候補作を発表する、米女優ラシダ・ジョーンズ=15日、ビバリーヒルズ(UPI=共同)

21凡人:2011/12/18(日) 00:00:18
ハリウッド映画のリーディングマンであるクリスチャン・ベールが主演していることは注目に値する。Youtubeのトレイラーを観て知った。
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南京虐殺映画に主演したクリスチャン・ベイル、「プロパガンダではない」
AFPBB News 2011年12月13日 07:59

【12月12日 AFP】(写真追加)俳優クリスチャン・ベイル(Christian Bale)は11日、北京(Beijing)で
行われた南京虐殺を描いた主演作『ザ・フラワーズ・オブ・ウォー(原題、The Flowers of War)』の
記者会見に出席し、同作品は反日のプロパガンダ映画ではないと主張した。

 ベイルはチャン・イーモウ(Zhang Yimou)監督がメガホンを取った本作で、南京(Nanjing)に進攻
した日本軍の残忍な略奪行為から少女や売春婦らを守ることになる米国人を演じている。

 製作費9000万ドル(約70億円)をかけた2時間半にわたる本作は、中国軍と日本軍の戦闘シーンや、
日本兵による中国人女性のレイプや殺害のシーンが多い。中国では16日に公開される。

 中国には、反日感情で国をまとめようとする映画やテレビ番組があり、中国共産党は世界での同国
の存在感を高めようと映画産業に力を入れている。

 しかしベイルは、撮影に入る前は南京虐殺についてほとんど知らなかったと語り、この作品は日本
の過去の暴力行為を描いただけの映画ではないと訴えた。

「人間を描いた作品だ。人間の危機に対する反応の本質や、危機に直面した人間がどのようにして
野獣のような行動を取り、また逆にどのようにして最も高潔な行動へと出るのかが描かれている」

 ベイルはさらに、この作品を「プロパガンダ」だと表現するのは間違っていると話した。

「そんなのは、お決まりの反応だ。そういう反応をする人は、この映画を十分理解していないと思う」

■オスカー獲得なるか?

 前回のアカデミー賞(Academy Awards)で助演男優賞を受賞したベイルの主演は、本作のオスカー
獲得への後押しとなっている。

 本作は、米国では23日に、ロサンゼルス(Los Angeles)、ニューヨーク(New York)、サンフランシスコ
(San Francisco)で限定公開され、来年のアカデミー賞外国語映画賞のノミネートに向けた条件は満た
すことになる。

 しかしこれまで、中国人監督がアカデミー賞の主要部門で受賞したことはない。(c)AFP/Jonathan Landreth

22凡人:2011/12/18(日) 00:01:23
オーストラリア国営テレビの視点からみた日本。

直接の利害関係国ではないオーストラリアの国営テレビ局が作成したということで説得力がある。そこでは大東亜戦争で、中国侵略をまったく反省していない日本の姿が浮き彫りにされている。中国に懺悔するひとりの日本人が「裏切り」と見なされる国ニッポン。日本には「良心の自由」さえないのかと驚く。Unit731の否定、学校での改ざんした歴史教育のようす、極右翼の宣伝カー群と自民とのつながり、教員の証言等を織り込んだドキュメンタリー映像は日本の反論のすきを与えない。

こういう映画が世界で作られ、観られているという事実。案外、日本で生まれ育った日本人より、外国人の方が日本の近代史や社会をよく知っているのでは、と考えるととても面白い。グローバルな時代だからこそ、正しい歴史が求められる。それによってはじめて、日本の進むべき正しい方向に舵が取れると考える。
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Japan's Dirty Secret - Japan 英語 字幕なし
http://www.youtube.com/watch?v=D7yDOXGmtro

May 2003
Memories of Japanese war crimes continue to poison Japan's relations with its neighbours. Many Chinese are still suffering the effects of a vicious campaign of germ warfare.

"Our unit did things no human being should ever do," confesses Unit 731 member Yoshio Shinozuka. His unit developed the deadly pathogens which were used to infect 250,000 Chinese. Japan's refusal to apologise for its actions, or to acknowledge Unit 731's existence, has further upset its victims.

Produced by ABC Australia
Distributed by Journeyman Pictures

23凡人:2012/01/17(火) 12:06:18
「家族を大切にする心」「戦前教育が否定される中で見失われた精神」。戦前の教育によって女性が家庭に縛り付けられ、社会の犠牲を余儀なくされた。そうした女性の立場で考えた戦前の歴史は日本には価値がない。ナチスヒトラーもドイツの伝統や優秀性を強調し、その基盤となる家族の大切さを見落としてはいない。いったいどの国が家族をないがしろにしろと教えているのか。無謀な戦争を引き起こし、夫や息子を徴兵という名で、貧しい家庭からもぎ取り、皇国のために玉砕を奨め、凄まじい数の戦死者を生み出し、家庭をぶち壊しておいて、「家庭を尊重」した精神がいったい何処の日本に存在するというのか教えて欲しいもの?女子供にまで竹槍を持たせて、本土決戦に最後まで戦うことを宣誓させた、その精神とはなにか。アメリカ政府では女子供にそんなことをさせるなんて考えも及ばないことである。ではナチスドイツはどうか。日本以外で女子供が、国の名で竹槍、あるいは武器らしいものならなんでもいいが、戦闘の訓練をさせている古い映像があるのか知りたい。
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戦争の記憶 孫世代へ
(2012年1月17日 読売新聞)

絵本・すごろくなども 国内外の3万点

戦時中の絵本について、福田元首相(左)に説明する町田さん(右)=昨年12月、マチダ平和資料館で

 前橋市の建設資材会社「マチダコーポレーション」会長の町田錦一郎さん(68)が、国内外で収集した太平洋戦争時の遺品など約3万点の資料を今春から一般公開する準備を進めている。戦争の悲惨さを孫の世代に伝えたいと、本格的に集め始めてから30年余り。著名人もうならせた貴重な戦争資料が、多くの人に触れられるようになる。

 同市駒形町の社屋に隣接する「マチダ平和資料館」。硫黄島の激戦を物語る爆風で裂けた鉄かぶとなど、各国の兵の装備品や戦時中の新聞、生活用品などがずらりと並ぶ。

 資料館は1998年に開設。以来、取引先企業の新入社員研修や地元小学校の社会科見学などに使われ、これまで約2万人が訪れた。ルース駐日米大使ら多くの著名人も足を運んだ。

 昨年12月には福田康夫元首相が訪れ、約3時間かけてじっくり見て回った。福田元首相は「貴重な資料の多さに驚いた。きちんと残していくことが大事」と感心していた。

 開設のきっかけは、町田さんが79年にオーストラリアに行き、首都キャンベラにある戦争記念館を訪ねた時のこと。館内には同国と日本の戦時品がずらりと並び、高齢の男性が孫に戦争について教えていた。「日本ではそんな場所がない。現代史でも表面的なことしか学ばない」と案じた。

 日本や米国などの古くから残る家を訪ね歩き、家財道具や国民向けのポスター、子供たちの当時の制服などを私費で買うなどして集めた。日本赤十字社県支部の副支部長を務める縁から、日赤から従軍看護婦の制服や野戦病院で使われたベッドなども寄贈を受けた。

 米軍との地上戦で多くの日本兵が戦死した硫黄島の遺品からは、戦闘の過酷さが伝わる。日本がいかに無謀な戦争に突き進んでいたかを感じてもらおうと、同島での歩兵数や航空機数など米国と日本との比較解説も併せた。当時の米国の国力を感じさせる高級車「キャデラック」も展示した。

 子供たちが戦争に協力する心を植え付けられたことを伝えようと、日本軍の活躍を紹介する絵本やすごろくなども飾る。一方で、「家族を大切にする心も書かれている。戦前教育が否定される中で見失われた精神も感じてほしい」と話す。

 来館者の声を受け、一般公開に踏み切ることにした。現在は説明資料などを作成中だ。町田さんは「事実を並べて、一兵士、一国民が戦争になるとどうなってしまうのか、感じられる場所にしたい」と話す。

 見学など問い合わせは同社(027・266・1211)へ。

24凡人:2012/01/26(木) 06:36:54
報道の自由度 日本、22位に後退
2012.1.26 00:21

 国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は25日、世界179カ国・地域を対象にした報道の自由度ランキングを発表した。日本は前年の11位から22位に後退した。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で過剰な報道規制が行われ、「報道の多元性が制限された」としている。

 「アラブの春」の結果、中東諸国ではチュニジアが164位から134位、リビアが160位から154位にそれぞれ上昇した一方、ムバラク政権崩壊後も軍が統治を主導するエジプトは127位から166位に下がった。(ベルリン 宮下日出男)

25凡人:2012/02/19(日) 11:49:03
「戦時中「敵国の人形」として多くは処分」。人形に何の罪があるというのか?当時の日本人の偏狭した考えがこんなところでも伺われる。
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青い目の人形、米に里帰り 前橋・城東小「バージニア」
2012年2月19日(日) AM 07:11

小竹さん(左)に「バージニア」を手渡す児童たち

 日米親善のために米国から贈られた「青い目の人形」の里帰り展が米バージニア州ロアノーク市で開かれることになり、前橋城東小(関根秀司校長)に保存されている人形「バージニア」が一時里帰りする。17日には同校で引き渡し式が行われた。

 人形は、1927年に1万2千体以上が日本各地の小学校や幼稚園に贈られた。戦時中「敵国の人形」として多くは処分され、難を逃れた人形は321体。県内には「バージニア」を含め19体が保存されている。

 ロアノーク市は、3月から日本文化に関するさまざまな催しを行い、その一つとして「青い目の人形」3体と、返礼として米国へ贈られた日本人形6体を展示する。

 同市在住の絹子・ジャンボールさんが調べたところ、「バージニア」の存在が分かり、友人の小竹洋子さん(78)=三俣町=に里帰りの協力を依頼。その後、ロアノーク市長から前橋市に要請があった。

 引き渡し式には、特使として出席予定だったジャンボール夫妻に代わって小竹さんが出席。児童代表から人形を受け取った。

 高橋美貴さん(6年)は「里帰りできるのは周りの人のおかげ。バージニアは感謝していると思う」、秋山祐希君(同)も「生まれ故郷に帰れるので、うれしいと思う」と喜んだ。

 関根校長は「平和を願う気持ちが子どもたちに培われれば」と期待する。

26凡人:2012/02/19(日) 23:29:38
騙し打ちのかたちでハワイ湾攻撃。大戦不参加の態度を取っていたアメリカを戦争に引きずりこんで、その結果が東京大空襲。戦争を仕掛け、大空襲の原因を作った当時の日本側の戦争責任者たちをなぜ責めないのか不思議でしょうがない。日本の国宝級の文化遺産を避けて空襲したアメリカ軍を責め、日本人の愛国心を訴える論法は右翼そのものですね。もし恨みがあるのだったら、もう一度戦争を仕掛けてみることをお薦めする。
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東京大空襲風化させぬ 東京・石原慎太郎知事
2012.2.19 08:00

 「いつも同じような文言を読むよりも、思い出しなさい、アメリカはひどいことをしたんだぞ。そういうものを考えて付き合おうじゃないか−と言いたいね」

 石原慎太郎知事が17日の定例会見で激しい言葉で語ったのは、毎年3月10日に追悼式典が実施されている、東京大空襲についてだ。

 「日本がもう制空権を失っているときに、B29で強引に絨(じゅう)毯(たん)爆撃した。彼らには耳の痛い話かもしれないが、こっちはたくさんの人がむげに殺されたんだから」

 米軍による複数回の大空襲で、多くの一般の人々が犠牲になった。都は、死者・行方不明者が10万人を超え最悪の被害が出たとされる3月10日を「都平和の日」に定めており、今年も式典を行う。

 東日本大震災1年と重なり風化を懸念する指摘には「思い出すことで、風化させない。大丈夫です」と語った。

27凡人:2012/03/05(月) 07:48:41
沖縄戦の記憶伝える 大田元知事の研究所、写真など1700点常設
2012/3/5 2:44

 元沖縄県知事の大田昌秀さん(86)が主宰する大田平和総合研究所(那覇市)で、大田さん自らが収集した太平洋戦争末期の沖縄戦の写真や資料など約1700点の常設展示が5日、始まる。

 住民を巻き込んだ激しい地上戦や、沖縄が廃虚から復興する様子、米軍が沖縄戦を記録した貴重なカラー写真などが、館内の壁面を埋めるように展示されている。

 戦時中、沖縄師範学校の生徒だった大田さんは沖縄戦で学徒隊「鉄血勤皇隊」に動員され、悲惨な戦場の真っただ中にいた。「戦争の怖さは、体験を伝えていかないと分からない」と、67年前の記憶を風化させないことの重要さを説く。

 展示では、米軍が戦後、土地を接収して沖縄本島全域を軍事基地化していく様子も紹介されている。大田さんは「(過去を)知らなければ、基地がこれだけある日常にも無感覚になってしまう」と指摘。今後、「平和大学」と名付けた学習会も館内で開催する。

 特別展としてナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)や、広島と長崎の原爆被害に関する展示もある。

 開館は午前9時〜午後6時。木曜休館。入館料は一般300円、中高大学生200円、小学生以下は無料。問い合わせは同研究所((電)098・979・9490)。

〔共同〕

28凡人:2012/04/19(木) 04:41:42
Buried Treasure: World War II Spitfires to Be Unearthed in Burma
Paging Indiana Jones: a British farmer's 15-year quest to find a squadron of legendary fighter planes buried in a far-off land has finally paid off
By Sonia van Gilder Cooke| April 17, 2012

Read more: http://newsfeed.time.com/2012/04/17/buried-treasure-world-war-ii-spitfires-to-be-unearthed-in-burma/#ixzz1sQGwBvVi
It’s like something out of an Indiana Jones film, if you take away the religious overtones and ophidiophobic adventurer. After 15 years, a British farmer’s quest to find a squadron of legendary fighter planes lost in Burma during World War II has finally paid off.

Lincolnshire farmer David Cundall, 62, has spent about $207,000, traveled to Burma a dozen times and negotiated with the cagey Burmese government, all in the hopes of finding a stash of iconic British Spitfires buried somewhere in the Southeast Asian country.

(PHOTOS: Burma’s Landmark Elections and Aung San Suu Kyi’s Path to Victory)

Buried planes? It sounds odd, but in fact this was fairly common toward the end of the war; as the conflict wound down and jet aircraft promised to make propeller-driven fighters obsolete, many aircraft were scrapped, buried or sunk by Allied Forces in order to prevent them from falling into enemy hands.

(PHOTOS: Europe Then and Now)

Cundall started his search after his friend heard from a group of U.S. veterans that they had stashed Spitfires in the region. “We’ve done some pretty silly things in our time, but the silliest was burying Spitfires,” the veterans said.

His interest piqued, Cundall began placing ads in magazines to try to find soldiers who might have been involved.

After a decade and a half of searching, he finally managed to locate the missing airplanes, which had never been flown and were indeed buried while still in their transport crates. “We sent a borehole down and used a camera to look at the crates. They seemed to be in good condition,” Cundall told the Telegraph.

The aircraft arrived at a Royal Air Force base in Burma in August 1945. But by that point in the war, just before the bombing of Hiroshima, the fighters weren’t needed. “In 1945, Spitfires were ten a penny,” said Cundall. “It was a typical British solution: ‘Let’s bury them lads.’”

Getting the planes out of the ground is one thing; getting them out of Burma — a secretive nation that until recently was ruled by a brutal military junta and remains under a variety of international sanctions — is another. But as the Telegraph reports, following the intervention of British Prime Minister David Cameron, who recently visited the country, the Spitfires could soon be on their way back to the U.K.

Cundall hopes that with the help of investors, the planes can finally take to the skies. “Spitfires are beautiful airplanes and should not be rotting away in a foreign land. They saved our neck in the Battle of Britain and they should be preserved.”

29凡人:2012/05/13(日) 04:03:25
日本の観光客で支えられているホノルル経済だからこそなのかもしれないが、姉妹都市提携の理由に大きく頭をかしげる。
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ホノルルの空に大輪、山本五十六が縁の長岡花火
(2012年3月5日22時12分 読売新聞)

ホノルル市で打ち上げられた長岡花火=北條豊撮影

 【ホノルル=北條豊】終戦直前の空襲で多くの犠牲者が出た新潟県長岡市で、戦後の復興を祈願して毎年打ち上げられてきた「長岡花火」が4日(日本時間5日)、米ハワイ・ホノルル市で打ち上げられた。

 白一色の慰霊の花火など、平和や東日本大震災からの復興への願いを込めた約1400発が夜空を彩った。

 両市は、長岡市出身で真珠湾攻撃を指揮した山本五十六が縁で、今月2日に姉妹都市提携に調印している。

 関係者によると、米国では2001年の同時テロ以降、火薬類の輸入が厳しく制限されており、特例的に持ち込みが認められたという。昨年3月に打ち上げる予定だったが、直前の大震災で延期されていた。長岡市国際交流協会専務理事の高野克広さん(42)は「多くの人の熱意で実現した。言葉に出来ない」と感無量の様子だった。

30凡人:2012/06/08(金) 10:24:02
戦時中の日系人収容要請取り消し ロス、70年前に決議
(2012/06/07 11:21)

 【ロサンゼルス共同】米ロサンゼルス郡の行政委員会は6日、旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃から間もない1942年1月に、日系米国人が危険だとして隔離するよう連邦政府に求めた同委員会の決議を、全会一致で取り消した。

 今年は、第2次大戦中の42年2月に日系人の強制収容を可能にする米大統領令が出されてから70年の節目。収容は不当な人種差別だったとあらためて確認する動きが続いており、この日の決議取り消しもその一環。

 採決に先立つスピーチで、全米日系人博物館のグレッグ・キムラ館長は「米現代史で最もひどい、憲法に反する行為だった」と収容を厳しく批判した。

31凡人:2012/08/31(金) 16:55:38
Poland hopes to identify remains of Auschwitz hero
Aug 30, 10:04 AM EDT

WARSAW, Poland (AP) - It could hardly have been a riskier mission: infiltrate Auschwitz to chronicle Nazi atrocities. Witold Pilecki survived nearly three years as an inmate in the death camp, managing to smuggle out word of executions before making a daring escape. But the Polish resistance hero was crushed by the post-war communist regime - tried on trumped-up charges and executed. Six decades on, Poland hopes Pilecki's remains will be identified among the entangled skeletons and shattered skulls of resistance fighters being excavated from a mass grave on the edge of Warsaw's Powazki Military Cemetery. The exhumations are part of a movement in the resurgent, democratic nation to officially recognize its war-time heroes and 20th century tragedies.

32凡人:2012/09/02(日) 11:37:39
平和の尊さ、次代に 太田で戦争記録展 群馬
2012年9月2日(日) AM 07:00

 「太田戦争記録展2012」が1日、太田市強戸行政センターで始まり、百数十点の資料が紹介されている。同市西長岡町に残る旧中島飛行機太田製作所の疎開地下工場跡の保存に取り組む「トンネルの会」(石塚久則代表)が主催した。2日まで。

 旧日本軍下士官の制服や外とう、水筒、ゲートル、女子通信隊員の制服などを展示。「よくきれいな状態で残っていた」と見入るお年寄りの姿もあった。

「空中写真から読み解く」をテーマにコーナーを設け、1947〜48年ごろに米軍が上空から撮影した太田市や大泉町、埼玉県熊谷市の写真を展示。爆撃でできたクレーターのような穴など“戦争の爪痕”がはっきり分かる場所もある。45年2月、邑楽町秋妻地区に墜落したB29が黒煙を上げる様子を地元住民が撮影した写真も並んでいる。

33凡人:2012/09/18(火) 06:33:06
戦前、戦時中のナチスドイツが支配したドイツ社会と戦後を経ても変らない日本社会の類似点がとても気になる。
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書評
Not Me
By Joachim Fest (German author); Translated by Martin Chalmers
Atlantic, 304 pages, £20

In Hitler's Germany, He Kept His Head
As a historian, Joachim Fest saw through the 'romance' of Nazism. But he began resisting popular opinion much earlier.
August 23, 2012, 3:04 p.m. ET
By TOBIAS GREY, WSJ

The title of Joachim Fest's autobiography came from a valuable piece of advice given to him by his father: "Etiam si omnes, ego non!" ("Even if all others do, not me!") For a child such as Fest, who grew up in a rare German family opposed to the Nazi regime, the only way to be forearmed was to be forewarned. In "Not Me: Memoirs of a German Childhood," Fest, who went on to become one of the world's leading historians of the Third Reich, writes: "The lesson of the Nazi years for me was to resist current opinion."

First published in German in September 2006, mere days after Fest's death at the age of 79, "Not Me" has the elegiac quality of a writer who has finally put enough distance between himself and his tumultuous past. It is a remarkable work of childhood reminiscence, not least for the fact that most of it is written from memory: Fest could not rely on any keepsakes, notes or letters, as they were all lost when the Nazis expelled his family from their Berlin home.

"I have not written a history of the Hitler years," writes Fest, "but only how they were reflected in a family and its surroundings." This is not, of course, the only angle on the Third Reich that Fest took during his life as a scholar. With his 1973 biography of Hitler, Fest became the first German historian to lay bare the mechanisms behind his countrymen's fascination with the late Führer. His 2002 book "Inside Hitler's Bunker" was the basis for the commercially successful German film "Downfall."

In these and other works, he argued that Hitler's popularity was just as much about Germany's romantic yearning for the trappings of a chivalric past as it was about the dire state of the Weimar economy. Conservative in outlook and mistrustful of any form of extremism, Fest depicted Hitler's rise in recognizably human terms.

"Not Me" suggests more than a few reasons for which Fest might have kept such a cold eye toward the "romance" of Nazism. The son of an elementary school headmaster and a devoted mother, Fest was the second and most outspoken of five children. His father, Hans, had been politically committed from an early age and became a staunch defender of the Weimar Republic following the German revolution of 1918. Their Catholic family attended church on Sundays and as part of the Bildungsbürger class, they valued cultural education above material possessions.

One of Hans Fest's favorite pedagogical tricks was to offer his children a one mark reward for every ten poems recited without error. Fest and his beloved elder brother Wolfgang were invited to dine with his parents from an early age, and it was at the supper table that the family became bound together by conspiratorial feeling.

"It was an utterly politicized world in which we were growing up," writes Fest. "Many conversations and almost all personal decisions were made with an eye to the prevailing conditions."
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34凡人:2012/09/18(火) 06:34:09
These conditions worsened as Hitler rose to power. Hans Fest was fired from his job and was forbidden to give private tutorials. "At table, friends were mentioned who had suddenly disappeared; others disappeared from conversation, because they were no longer friends," writes Fest, displaying his mastery of the telling phrase.

Fest underlines the stealthiness of the Nazi regime and the cunning abstraction of their persecution. "My father was 'cut back,' that was the euphemism, others were 'provisionally retired'; arrests were called 'preventive custody.'" By the spring of 1940 the Nazis had begun closing in on Fest's family. Only an anonymous phone call saved them from being unprepared when a search of their apartment was performed.

"In the years that followed, such calls warned the family something like another 15 times," writes Fest. The only real point of contention between Fest's father and his mother had been whether it was better for the family to become members of the various branches of the National Socialist Party or to continue their covert defiance. Fest's mother vainly tried to persuade her husband to live a lie to protect his family and regain his job. "We are not little people," replied Hans. "Not when it comes to such questions!"

Of his father's steadfastness Fest writes: "When it came to the Nazis, as he had often observed, even the passing thought of giving up had been enough and a person was already lost."

In the face of almost daily harassment, Fest's family maintained a policy of ironic detachment, dubbing themselves "the-other-side-of-the-street-walkers." More than his brothers and sisters, Fest followed his father's example by registering his indifference to authority figures. He was asked to leave his school after being caught carving a caricature of Hitler on his desk. This led to him and his two brothers having to leave Berlin and attend a different school in Freiburg, 400 miles away. In 1944, at the age of 18, Fest then decided to join the Luftwaffe as an antiaircraft batteryman to avoid the risk of being conscripted by the Waffen SS.

This decision provoked a furious row with his father, who argued that there was no excuse to volunteer for "Hitler's criminal war." The war's terrible toll on Fest's family is the subject of the autobiography's moving final chapters. Avoiding pathos, Fest describes the grief he felt when he received news of his brother Wolfgang's death and his father's gloomy return from a Russian prison camp, where he had been forced to volunteer. The author's own narrow escape from death, his imprisonment by American soldiers, and a subsequent failed escape attempt are all wryly detailed.

Most shocking is an account of a long sequence of atrocities suffered by female relatives on his father's side. American troops pulled his polio-crippled aunt, Franziska, out of her wheelchair, repeatedly raped her and then threw her down the cellar stairs of her house, where she subsequently died.

For Fest's family, "the Second World War exploded everything." Even after it ended, they still felt like "the odd ones out." "Unlike the overwhelming majority of Germans, we were not part of some mass conversion," Fest writes. "Whenever talk came around to the 1930s and 1940s, many of our contemporaries felt remorse, but we were excluded from the psychodrama."

—Mr. Grey is a writer and critic living in Paris.
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35凡人:2012/11/02(金) 18:03:19
Navajo code talker from World War II diesBy the CNN Wire Staff
updated 11:31 PM EDT, Thu November 1, 2012

A group of Navajo Code Talkers attends the 2011 Citi Military Appreciation Day event to honor U.S. veterans and current service members at Citi Pond in Bryant Park on November 11, 2011 in New York City. Few of the code talkers are still alive, 67 years after WWII ended.

(CNN) -- George Smith, one of the Navajo code talkers who helped the U.S. military outfox the Japanese during World War II by sending messages in their obscure language, has died, the president of the Navajo Nation said.

"This news has saddened me," Ben Shelly, the Navajo president, said in a post Wednesday on his Facebook page. "Our Navajo code talkers have been real life heroes to generations of Navajo people."

Smith died Tuesday, Shelly said, and the Navajo Nation's flag is flying at half-staff until Sunday night to commemorate his life.

Several hundred Navajo tribe members served as code talkers for the United States during World War II, using a military communications code based on the Navajo language. They sent messages back and forth from the front lines of fighting, relaying crucial information during pivotal battles like Iwo Jima.

Military authorities chose Navajo as a code language because it was almost impossible for a non-Navajo to learn and had no written form. It was the only code the Japanese never managed to crack.

The Navajo code talkers participated in every assault the U.S. Marines carried out in the Pacific between 1942 and 1945.

The code talkers themselves were forbidden from telling anyone about the code -- not their fellow Marines, not their families -- until it was declassified in 1968.

Now in their 80s and 90s, only a handful of code talkers remain.

"They have brought pride to our Navajo people in so many ways," Shelly said. "The nation's prayers and thoughts are with the family at this time as they mourn the passing of a great family man who served his country and protected his people."

Shelly's Facebook post didn't mention Smith's age or the cause and location of his death. A statement about the death on the official Navajo Nation website was not accessible late Thursday.

36凡人:2013/01/05(土) 12:23:09 ID:UG5ezLOs0
となりんち 群馬と東アジア<4> まず史実に向き合う 【群馬】
2013年1月5日

事件現場に続くトンネル跡と石塚久則さん=太田市で

◆「中島飛行機太田地下工場跡を保存する会」代表 石塚久則さん(65)
 まるで忌まわしい歴史を覆い隠すかのように、トンネルの奥に暗黒の闇が続く。

 死者は少なくとも五十人。戦時中に太田市西長岡町一帯であった「藪塚事件」の現場だ。軍部は今は八王子山公園墓地となった丘陵地に中国人二百七十六人を強制連行。地下工場建設のためにトンネルを掘るという過酷な労働を強いた。連行者は次々と無念の死を遂げた。

 「(日本に)史実としての責任はある。思想にとらわれず、正確に語り継ぐ必要がある」

 事件の研究を二十年以上続ける石塚久則さん(65)は言葉をかみしめた。

 戦時中、市内には中島飛行機(現富士重工業)の軍需工場があった。しかし、米軍が空襲で狙うため、軍部は地下に工場の建設を計画。鹿島組(現鹿島)が請け負い、一九四五年一月に着工した。

 計画では、建設規模は約二ヘクタール。長さ四百メートル、高さ四メートル、幅四メートルのトンネルを十八メートル間隔で三十六本掘り、それに直角となる方向に十本以上の連絡トンネルをつなぐはずだった。ただ、完成前に終戦を迎えた。

 日本人関係者が中国人から聞き取った記録によると、四五年四月ごろ、長野県に強制連行され、既に過酷な労働をしていた中国人が太田市に移送された。労働時間は一日十時間。二百七十六人のうち、失明者と重症患者が計66%いた。治療も受けられず、働かされた者もいたという。

 石塚さんは九五年ごろ中国に渡り、藪塚事件の被害者男性、候潤五さんの聞き取りをした。「押していたトロッコが脱線し、指がつぶれた。食事はパンが一日二つ。植物の実で飢えをしのいだ」と証言した。トロッコの鉄路は今でも、トンネルの入り口に残存する。

 中国人だけではない。石塚さんは「約二千八百人の朝鮮人も大半が中国人と同じように働かされ、多数の死者が出た」とみている。

 石塚さんは県埋蔵文化財調査事業団の主幹兼専門員を務めた。「トンネルの内部を調査した上、入り口部分を見学できるように補強し、次世代の平和への礎にするべきだ」と強調し、最近報じられる中国や韓国との領土問題に触れ、興味深い提案をする。

 「問題の島々を関係国が協力して発掘調査してみたらどうか。島にいた人々の痕跡が学術的に判明すれば、どちらの主張に正当性があるのかを話し合う判断材料になる」

 強制連行と領土問題。日中、日韓が史実に冷静に向き合う先に、将来の友好関係が開けるのかもしれない。

  (菅原洋)

39凡人:2013/04/10(水) 19:38:58 ID:bwiS95oU0
日本帝国海軍のハワイ湾だまし奇襲攻撃の一番の被害者は日系アメリカ人。
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Terminal Island Japanese Memorial
SanPedro.com - San Pedro, California
http://www.sanpedro.com/spcom/Terminal-Island-Japanese-Memorial.htm
PICT=Japanese Americans are ready to be loaded on Pacific Electric Cars"

San Pedro has a memorial that is overlooked in many of the tourist guides. It is a Memorial to the Japanese Fishing Village on Terminal Island.

In 1941, 3,000 first and second-generation Japanese made their homes in an area of Terminal Island known as East San Pedro. The Japanese Fishing Village was next to Fish Harbor. Most of the local residents worked in the fishing industry. Approximately 250 fishing boats were owned and/or operated by the residents. Most of the local people, not working on the boats, worked in the many fish canneries that were clustered together on Terminal Island. Because Terminal Island was somewhat isolated, the Terminal Islanders developed their own culture and even their own dialect. The people called their close community village "Furusato" which translated literally means "old village". An English equivalent would be "hometown", "native place" or "home sweet home".

The village had a Fisherman's Hall where the Japanese martial arts judo and kendo were taught, a Shinto Shrine, ethnic grocery stores, candy stores and billiard parlors. The Island children attended Walizer Elementary School and took the ferry to high school at San Pedro High School in San Pedro.

Soon after the attack on Pearl Harbor, the FBI rounded up all of the adult males and jailed them. On February 19, 1942, U.S. President Franklin D. Roosevelt signed Executive Order 9066. This Executive Order sent 120,000 Japanese Americans to internment camps . Of the ethic Japanese people forced into internment camps, about 62% were Nisei and Sansei ( 2nd and 3rd generation Japanese) and were American citizens by virtue of being born in the USA. The other 38% were Issei (Japanese immigrants) who were either naturalized American citizens or resident aliens.
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40凡人:2013/04/10(水) 19:39:28 ID:bwiS95oU0
In February of 1942, Terminal Island residents were the first Japanese Americans, on the West Coast, to be forcibly removed from their homes. They were forced to evacuate their homes within 48 hours and had to leave almost of all of their possessions behind including all of their fishing boats and fishing gear. Some were able to sell their furniture, fishing gear, boats and other items. Since the residents only had 48 hours to complete the transactions, they were often forced to sell at ridiculously low prices by greedy individuals taking advantage of the desperate situation.

All of the other residents of Terminal Island were also ordered to leave. The Daily Breeze newspaper dated February 27, 1942 had an article headlined "Whites and Japs Leave Terminal Island" which reported that the United States military had taken over Terminal Island and was patrolling the deserted streets.

The Japanese Village was stripped of anything of any value and flattened by bulldozers and completely destroyed . The fishing boats were either taken by the military, repossessed, stolen, or destroyed.

On January 2, 1945, the exclusion order was rescinded. The internees were released with $25.00 and a ticket home. They returned home to find nothing. Furusato was gone without a trace. The canneries were still operating and a few people went back to work there . The rest of the former residents were scattered. The former Japanese villagers were worried the memory, culture and history of Furusato would be lost forever. They stayed in touch with each other and tried to keep the memories alive.

In 1971, they formed the Terminal Islanders Club. Since its formation, the members have been coordinating reunions, golf games, picnics and other activities. Now in their 80s, the Nisei worry about the future of the various events for the members. In 2002, the surviving second-generation citizens set up a memorial on Terminal Island to honor their Issei parents and to preserve the memory of their Furusato, their "Home Sweet Home".
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41凡人:2013/04/18(木) 09:48:14 ID:bwiS95oU0
戦時の中国人を悼む 長岡寺労働犠牲者 慰霊行事 【群馬】
2013年4月17日

 第二次世界大戦中、太田市藪塚の旧中島飛行機藪塚地下工場の建設工事で犠牲となった中国人の慰霊の集いが、同市西長岡の長岡寺であった。

 一九五四年に結成した日中友好協会県連(松永守男会長)が開き、六十一回目。長岡寺は工場現場に近いことから、戦後、労働で亡くなった中国人八十五柱の遺骨が保管されていた。現在、遺骨は中国に返され、境内には同県連が七七年に建てた慰霊碑が残る。

 この日は県連会員約四十人が出席し、読経が響く中、線香を手向けて追悼した=写真。太極拳の披露もあった。

 松永会長は「六十年にわたって続く慰霊行事は他にはない。今後も末永く語り継いでいきたい」と話していた。(美細津仁志)

42凡人:2013/06/23(日) 07:59:05 ID:bwiS95oU0
独露首脳、ソ連軍の略奪芸術品の返還めぐり“論争”
2013.6.22 20:00

会見するメルケル独首相とプーチン露大統領=21日、サンクトペテルブルク(ロイター)

 【ベルリン=宮下日出男】ロシア・サンクトペテルブルクを訪れたメルケル独首相とプーチン露大統領が21日、旧ソ連が第二次世界大戦直後にドイツから略奪したとされる芸術品をめぐり、“論争”を繰り広げる一幕があった。

 エルミタージュ美術館の青銅器時代をテーマとする特別展の開幕式に出席したメルケル首相は、展示品の一部はドイツのものであると指摘し、「ドイツに戻されるべきだ」と主張。プーチン大統領は「ベルリンだろうがサンクトペテルブルクだろうが、どこで見られるかは一般市民には重要でない」と反論し、返還要求を取り下げるよう求めた。

 独政府は旧ソ連が戦後、100万点超の芸術品などを持ち去ったとの見解で、返還問題は今もくすぶる。メルケル首相のこの日のあいさつは直前に一旦、中止となり、ロシア側がこの問題への言及を嫌がったためだと独メディアが大きく報じる騒ぎもあった。

43凡人:2013/10/16(水) 09:44:52 ID:bwiS95oU0
戦争遺跡保存 横浜市は手本を
2013.4.22 22:19

 横浜市港北区の慶応義塾日吉キャンパスを中心とした地域に残る旧日本海軍の地下壕(ごう)の一部が、宅地造成工事で破壊された。工事は合法的で、業者側の協力を得ない限り、破壊を止めることはできないという。

 市は、地下壕の歴史的価値を高く評価していた。地下壕は第2次世界大戦末期に建設され、連合艦隊司令部や航空本部をはじめとする旧日本海軍の中枢が入り、戦艦大和の沖縄特攻など多くの作戦を発動した。

 通信室では、米軍の猛攻にさらされた大和や、米艦に突入する神風特攻隊から発せられた最後の電波も受信していたとされる。「国の文化庁もAランクの評価をしている」と、市教育委員会も認めていた。

 終戦から今年で68年。戦争経験者の高齢化も進む。数十年もすれば、戦争の生々しさを残す地下壕のような遺構が、平和の尊さや戦争の教訓などを伝える重要な手がかりとなるだろう。

 しかし、戦争遺跡は比較的新しい時代に造られたこともあり、保存の動きが緩慢だ。日吉キャンパスの地下壕の場合、文化財としての法的な指定がなく、平成16年に工事の許可を出した市は「要件を満たしていた以上、許可せざるをえなかった」(宅地審査課)。

 文化財の保護を担当する市教委も、地下壕をはじめとする戦争遺跡の文化財指定について「文化庁の方針が決まっていない」と消極的だ。文化財指定により、保護のための新たな予算が必要となることも、腰を重くしている一因のようだ。

 市内に残る戦争遺跡はここだけではない。また、既に全国で同様の事例も顕在化している。保育所の待機児童解消などで全国に先駆けた市は、戦争遺跡の保存にも本腰を入れ、各地の手本となる「横浜方式」を示してはどうだろうか。(小野晋史)

44凡人:2013/11/04(月) 09:49:26 ID:bwiS95oU0
初公開のカラーフィルムだというのに興味を引かれて見てしまった。
Japan's War in Colour (Complete Documentary)
http://www.youtube.com/watch?v=LG0EkK8_qJk

内容は大日本帝国と第2次大戦の記録映画。

日本の検定教科書には自虐的という名目で、日本(天皇や日本政府)の輝かしい歴史以外は載せないだろうから、なおさら貴重なフィルムだと言えよう。

今と昔。
大戦後から半世紀以上が経ってるが、日本の社会は大きく変わったのであろうか?
そう問わずにはいられない。

日本の生き残りの旧日本兵は口を閉ざして、高齢になっても、なかなか当時の戦争中のことは語らない。だから過去の事実が彼らの死と共に失い、まったく日の目を見ないまま、闇に葬られようとしている。何を恐れているのであろうか。当時を生きなかったものには想像でしか分からない。日本に果して言論の自由があるのか。現行の明文化された憲法の権利の保障よりも、すでに古くからある不文律の法が日本人の日常生活を規制する社会にとって、今話題の憲法の改正は何を意味するのであろうか。

ついでに、こんなのも興味深くみてしまった。
Tora! Tora! Tora! - The Real Story of Pearl Harbor .
http://www.youtube.com/watch?v=10Nsnoyfn5o

45凡人:2013/11/05(火) 08:19:25 ID:bwiS95oU0
ナチスが略奪の絵画見つかる ピカソなど1千億円超相当
2013年11月4日 21時41分

 ナチス・ドイツが略奪した絵画約1500点が見つかったドイツ南部ミュンヘンのアパート=4日(ゲッティ=共同)

 【ベルリン共同】ナチス・ドイツがユダヤ人らから略奪した絵画約1500点が南部ミュンヘンで見つかり、ピカソやマチス、シャガールの作品が含まれていることが分かった。週刊誌フォークスが4日までに報じた。同誌によると、総額約10億ユーロ(約1300億円)の価値があるという。

 絵画は、50年以上も薄暗い部屋に隠してあったが2011年、脱税事件の捜査過程で税務当局が、80歳代の男性が所有するアパートで発見した。最近になってピカソら世界的な画家の作品が多数含まれていることが判明したという。

46凡人:2013/11/05(火) 11:13:09 ID:bwiS95oU0
Nazi Plunder: 1,500 Modern Artworks Found in Munich Flat

The spectacular discovery of modernist masterpieces in a squalid Munich apartment is the latest twist in a story that began almost 80 years ago. Many of the works appear to be among those confiscated by the Nazis as "degenerate art," and it remains unclear what will become of them.

The scene sounds like something out of a crime novel. Surrounded by piles of rotten food stacked up on homemade furniture, missing art works worth around €1 billion ($1.35 billion) have been discovered in a grubby Munich apartment. And it appears that the story, broken by German news magazine Focus on Sunday, has only just begun.

The suspect in the bizarre case is an 80-year-old man who Focus reports first caught the attention of law enforcement in 2010, when customs officials searched his bags on the border between Germany and Switzerland to find €9,000 ($12,200) in cash.

Even though the man was not legally required to declare it and did not behave suspiciously, police opted to keep him under surveillance. In the spring of 2011, a court granted investigators permission to search his apartment.

What they found was extreme squalor, according to Focus. But nestled between dirty plates and cans of food with sell-by dates from the last century were some 1,500 paintings, drawings and etchings by famous artists including Pablo Picasso, Emil Nolde, Carl Spitzweg and Henri Matisse.

>>Nazi Theft

Focus reports that the man's father was a well-known art dealer active prior to World War II. After the Nazis seized power, he was hounded out of his position as director of the Hamburg Art Association, apparently because he had Jewish roots. But thanks to his excellent contacts in the art scene, he was tasked with selling art works to overseas buyers that had featured in the landmark "Entartete Kunst" exhibition of 1937. Organized by the Nazis, it presented 650 works of art deemed "degenerate" that had been confiscated from German museums and effectively stolen from Jewish families.

After the war, he maintained that the work had all gone up in flames when his home was destroyed in the Dresden firebombing of February 13, 1945. He died in a traffic accident in 1956.

It has now become clear that his extraordinary collection was probably bequeathed to his son, who over the last few decades has allegedly sold an unspecified number of artworks in Germany and Switzerland.

Focus reports that the after the raid on the Munich apartment, the collection has been stored under lock and key at the customs office in Garching. An art historian told SPIEGEL ONLINE that she was hired 18 months ago to provide an expert assessment. On Monday, Chancellor Angela Merkel's spokesman Steffen Seibert confirmed that the German government had been informed of the matter several months ago, adding that public prosecutors in Augsburg had taken on the investigation.

If the provenance of the art works cannot be established, Focus writes that they might still be returned to the suspect, because even the legal ownership of work known to have featured in the "Entartete Kunst" exhibition is unclear. For the time being, the man is only being investigated for tax evasion.
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47凡人:2013/11/05(火) 11:14:50 ID:bwiS95oU0
>>False Statement?

But a statement once given by the art dealer's widow could prove crucial to the case.

In the 1960s, she informed the authorities that all of her husband's treasures had been destroyed in the Allied firebombing of Dresden. She was specifically asked about the whereabouts of several paintings formerly owned by the Jewish collector Henri Hinrichsen, including one work by Carl Spitzweg. Precisely this painting, and other documents related to it, popped up in the trash-filled Munich apartment.

Given proof of a false statement, a legal case could now be used to forfeit the 80-year-old's ownership rights over the works. If the authorities succeed in doing that, the treasures would then be handed over to the state, or, more specifically, to the Federal Minister of Finance.

But the future of the art treasures aside, a number of unanswered questions remain -- such as whether the man still has more paintings hidden away. And why did the authorities keep the case secret? The public prosecutor's office in Augsburg could have the answers, but isn't commenting on the case. A spokesperson there told SPIEGEL ONLINE he could not provide information about ongoing proceedings, adding that this would likely remain the case "for a long time."
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48凡人:2013/12/25(水) 08:27:12 ID:bwiS95oU0
WWII code breaker Alan Turing gets royal pardon for gay conviction
The mathematician helped crack the Nazi’s Enigma Code used by German U-boats. The discovery is credited with shortening the war.
Tuesday, December 24, 2013, 2:46 PM REUTERS

Alan Turing cracked a Nazi code that won the war but he was then arrested for being gay.=PIC

Mathematician Alan Turing, who helped Britain win World War Two by cracking Nazi Germany's "unbreakable" Enigma code, was granted a rare royal pardon on Tuesday for a criminal conviction for homosexuality that led to his suicide.

Turing's electromechanical machine, a forerunner of modern computers, unraveled the code used by German U-boats in the Atlantic. His work at Bletchley Park, Britain's wartime codebreaking centre, was credited with shortening the war.

However, he was stripped of his job and chemically castrated with injections of female hormones after being convicted of gross indecency in 1952 for having sex with a man. Homosexual sex was illegal in Britain until 1967.

Turing killed himself in 1954, aged 41, with cyanide.

Justice Minister Chris Grayling said the pardon from Queen Elizabeth would come into effect immediately and was a fitting tribute to "an exceptional man with a brilliant mind".

"His brilliance was put into practice at Bletchley Park during the Second World War where he was pivotal to breaking the 'Enigma' code, helping to end the war and save thousands of lives," Grayling said in a statement.

"His later life was overshadowed by his conviction for homosexual activity, a sentence we would now consider unjust and discriminatory and which has now been repealed," he said.

Only four royal pardons had been granted since the end of World War Two, a spokeswoman for Grayling said.

Cosmologist Stephen Hawking and 10 other eminent scientists had campaigned for years for "one of the most brilliant mathematicians of the modern era" to be pardoned.

One of those scientists, Paul Nurse, President of the Royal Society, said, "The persecution of this great British scientist over his sexuality was tragic and I'm delighted that we can now focus solely on celebrating his legacy."

In 2009, then Prime Minister Gordon Brown publicly apologized on behalf of the government for "the appalling way" Turing was treated but campaigners called for a full pardon.

In May 2012, a private member's bill was put before the House of Lords in the British parliament to grant Turing a statutory pardon and in July it gained government support.

Cameron on Tuesday described Turing as "a remarkable man who played a key role in saving this country in World War Two".

"His action saved countless lives. He also left a remarkable national legacy through his substantial scientific achievements, often being referred to as the father of modern computing," Cameron said in a statement.

The work at Bletchley Park, a secluded country house north of London, only became public knowledge in the 1970s when its role in the war and that played by Turing was revealed.

The cryptographers who worked there are credited with helping to shorten World War Two by up to two years and they deciphered around 3,000 German military messages a day.

Turing's team cracked the Enigma code, which the Germans regarded as unbreakable, as well as designing and developing Colossus, one of the first programmable computers.

But after the war, Prime Minister Winston Churchill ordered the Colossus computers and 200 "Turing bombe" machines be destroyed to keep them secret from the Soviet Union.

49凡人:2014/01/28(火) 08:41:56 ID:bwiS95oU0
前橋空襲90歳つづる
(2014年1月28日 読売新聞)

自著が並ぶ特集コーナーで談笑する大野英子さん(埼玉県上里町のくまざわ書店上里店で)

埼玉県本庄市の元小学校教員大野英子さん(91)が戦時下の教育や高崎市などでの勤労動員、前橋空襲の記憶を物語風のエッセーと短歌でつづった「九十歳のつぶやき」(駒草出版)が刊行された。来年は戦後70年。「あの時代の証言記録を残したい」という強い思いが伝わってくる。

 大野さんは1970年代から小学校の障害児学級担任として児童詩教育に力を入れ、77年に北原白秋賞(日本作文の会)を受賞した。80歳代で始めた短歌と山野草のスケッチを収めて90歳で自費出版した2冊を、全6章の1冊に再編集した。

 僧侶で日露戦争に出征した父との思い出や郷里の牧歌的な暮らしを描いた後、後半は戦時体制に向かう。

 1941年(昭和16年)、埼玉県の旧制児玉高等女学校を卒業後、教員養成所をへて地元の国民学校(小学校)教員に。日中戦争が泥沼化し、同12月の真珠湾攻撃による日米開戦で戦時色が一層強まった。多くの男性教師が出征していった。

 〈学校工場マイカを剥がす五年生どの子の指も血のにじみいて〉

 マイカは鉱物の一種とみられる。「児童は勉強より工員として教室で働かされた。マイカは軍の秘密。部品を何に使うか問えばスパイ扱いされた」。嫌気がさして教員を2年で辞め、勤労動員で倉賀野駅(高崎市)近くの軍需工場へ通った。その後、前橋市の寺に住み込み、旋盤工として働く。

 〈気をこめて我が削りだす撃針の人殺戮(さつりく)の兵器と思わず〉

 45年8月1日正午、さく裂音の後に空から米軍の宣伝ビラが落ちてきた。拾いたくなるように、裏は当時の日本円紙幣の図柄だった。

 〈憲兵の目を恐れつつ読むビラは日本良い国灰の国〉

 それは大空襲の予告だった。前橋空襲の8月5日深夜。「すべてが破壊と炎と屍(しかばね)でした」と振り返る。

 〈今踏みしは人の屍か空襲の火に追われつつ瞬時息呑(の)む〉

 〈「父ちゃんと兄ちゃんだよ」と屍指す女果てし児(こ)背より離さず〉

 敗戦の日。「今夜から灯火管制しなくてもよろしい」。言い継ぎが回ってきた。回覧板に使う紙さえなかった。

 「重くつらい現実を伝えられる人が少なくなった」と大野さん。飼い猫たちにも語りかける。

 〈子猫らにどう伝えるか吾(わ)れ何時(いつ)か逝きて帰らぬ日のあることを〉

 A5判の192ページ。1600円(税別)。問い合わせは駒草出版(03・3834・9087)。

50凡人:2014/03/11(火) 07:51:55 ID:bwiS95oU0
東京大空襲69年、遺族ら追悼法要「戦争はみんなを不幸に」
2014/3/10 12:37 Nikkei

 太平洋戦争末期に約10万人が命を落としたとされる東京大空襲から69年を迎えた10日、犠牲者らの遺骨が安置されている東京都慰霊堂(東京・墨田)で犠牲者を追悼する法要が営まれた。遺族ら約320人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。

 法要は都慰霊協会の主催。舛添要一知事は「戦争の悲惨さと震災の脅威を語り継ぎ、平和な社会を財産として引き継いでいくと誓う」と追悼の辞を述べた。秋篠宮ご夫妻も出席し、焼香された。

 参列した植木正雄さん(84)は墨田区の自宅で空襲に遭い、当時20歳だった長兄を失った。「猛烈な熱さの中で道路に火の粉が川のように流れていたのを今も思い出す。戦争はみんなを不幸にする」と唇をかみしめた。

 埼玉県桶川市の有山方子さん(70)は祖父母が墨田区で空襲の犠牲に。「死んだ人も残されたものも本当に大変な思いをした。同じ過ちは二度と起こしてはいけない」と涙ぐんだ。

 東京大空襲は1945年3月10日未明、300機を超える米軍機B29が焼夷(しょうい)弾で大規模な空爆を行い、下町を中心に大きな被害が出た。

 都によると、昨年1年間で新たに209人の犠牲者の氏名が判明。都が作成し、慰霊堂近くの祈念碑の内部に保管している犠牲者名簿の人数は計8万150人になった。慰霊堂には関東大震災の犠牲者の遺骨も納められ、毎年3月10日と9月1日に慰霊の法要が営まれる。

51凡人:2014/04/29(火) 09:35:57 ID:IIRobKk20
Adolf Hitler's maid reveals details about life at his Berghof retreat
Elisabeth Kalhammer, 89, started working in 1943 at the home that Hitler and Eva Braun often visited. The former maid said she was not permitted to speak to the dictator, though Braun was nice to the female employees.
BY Joel Landau / NEW YORK DAILY NEWS / Monday, April 28, 2014, 2:11 PMA.

The fuhrer had the late-night munchies.

A former maid at a secluded retreat for Adolf Hitler has revealed a few personal details about the infamous dictator, including his taste for lukewarm water and late-night snacks of caked filled with apple slices, nuts and raisins.

Elisabeth Kalhammer, 89, of Austria, revealed inside details of the home of Hitler and his partner Eva Braun, their Bavarian retreat called the Berghof, to the German newspaper Salzburger Nachrichten.

Kalhammer was one of 22 girls on staff at the vacation home the fuhrer often frequented, but the staff was not permitted to speak to Hitler, she said, adding to the newspaper she never met him.

The staff was also not allowed to discuss anything that happened inside the house.

But Braun created a good environment for the maids, and Kalhammer said the lovely and elegant woman was always wearing clothing of the latest fashions.

The staff would welcome her with a salute of "Hail gracious lady," according to the article.

Hitler was known to have a very strict diet and a personal chef prepared his food. But he was often up late at night and would sneak into the kitchen where a type of sheet cake with apples, nuts and raisins were prepared for him, she said.

Hitler only drank lukewarm water, she revealed.

Kalhammer was given the job at the residence in 1943 and said she felt queasy, but pretended to be grateful about the assignment, the newspaper reported.

The house was guarded by SS officers and she would clean, sew and do laundry, she said. Her uniform included white aprons with diagonal buttons.

She also had to take special care of the house porcelain china and the staff would be punished with an early curfew if anything broke, she said.

The mood in the house, which had plenty of food, was much nicer than the rest of the region as many people faced rough conditions and food shortages, she said. There were other advantages including free passes to a local movie theater and being allowed to knit wool socks for family members at Christmas, she said.

But the atmosphere at the house became much more tense after the failed July 20, 1944 assassination attempt, the newspaper reported.

52凡人:2014/05/28(水) 04:12:37 ID:bwiS95oU0
Audi exploited Nazi slave labor during World War II: report
A report commissioned by Audi found that its predecessor Auto Union is morally responsible for the deaths of 4,500 slaves who were forced to work in its factories. Audi is now rethinking the legacy of famed founder Dr. Richard Bruhn, who had close ties with the Nazi party.
BY Carol Kuruvilla / NEW YORK DAILY NEWS / Tuesday, May 27, 2014, 1:59 PMA.

CHRISTOF STACHE/AFP/Getty Images=Audi’s predecessor ‘Auto Union’ reportedly used Nazi slave labor during World War II.

Audi has revealed the truth about its engineering.

The German car manufacturer is attempting to come to terms with its dark dealings with the Nazi party during World War II — and its role in the deaths of over 4,500 slave laborers.

A new historical report commissioned by the company shows that the trouble can be traced straight to the top — to Dr. Richard Bruhn, one of the company’s cherished and celebrated founders.

Bruhn led Audi back when it was “Auto Union,” according to The Local. Audi’s English websites still praise him for his negotiating skills and his “high reputation”— both of which allowed him to re-establish the Auto Union after the war. He was given West Germany’s Grand Cross of Merit in 1953 before he died in 1964.

But Bruhn’s shining successes have now been marred by his involvement with the Nazi party. A study by historians Martin Kukowski and Rudolf Boch found that Bruhn was personally responsible for Auto Union’s use of slave labor.

The report found that Auto Union had “moral responsibility” for the deaths of 4,500 slaves imprisoned in the Flossenburg concentration camp in Bavaria. These men and women died while being forced to work at an Auto Union labor camp in nearby Leitmeritz.

The company had also reportedly built seven forced labor camps that were run by SS soldiers. The firm used 3,700 slaves in those camps to do hard labor. Around a quarter were imprisoned Jews.

In addition to the specially built camps, the study suggests that Auto Union used another 16,500 laborers in factories in Zwickau and Chemnitz, in Saxony. These workers weren’t forced to live on labor camps, but they were forced to work for the company.

AP=Jewish slave workers in striped uniforms in a Nazi ammunition factory near the Dachau concentration camp during World War II.

The investigative report from Audi follows a precedent set by other German car makers after the war. Volkswagen, Daimler and BMW have all commissioned similar studies.

Auto Union changed its name to Audi after a merger in 1985. The company has said that it will examine ways to compensate any former laborers who are still alive.

Audi works council head Peter Mosch said he was blown away by the grim findings.

"I'm very shocked by the scale of the involvement of the former Auto Union leadership in the system of forced and slave labour," Audi works council head Peter Mosch told Wirtschaftswoche, a German news magazine. "I was not aware of the extent [of this involvement]," he added.

Audi is considering taking Bruhn’s name out of initiatives, such as pension plans. It is also asking its websites around the world to edit the pages dedicated to entrepreneur.

Ingolstadt, the Bavarian city where Audi is headquartered, is considering renaming streets that were named after Bruhn, the Telegraph reports.

53凡人:2014/05/29(木) 12:29:11 ID:bwiS95oU0
横浜大空襲 煙る街 神奈川区の航空写真発見 【神奈川】
2014年5月24日Tokyochunichi

爆撃を受ける横浜市神奈川区の航空写真(同市史資料室提供)

 1945年5月29日の横浜大空襲で被害を受けた横浜市神奈川区の航空写真が、横浜市史資料室(横浜市西区)に寄贈された資料から初めて見つかった。かつて横浜に窯があり、空襲をきっかけに途絶えた「眞葛(まくず)焼」の研究家が、米国から入手した。7月まで資料室に展示されている。 (杉原麻央)

 焼夷(しょうい)弾が落とされた街から、煙が上がる。航空写真は、横浜の中心市街地に出撃した米軍爆撃機「B29」五百十七機のうち、東神奈川駅を攻撃目標とした機体に搭乗した元中尉が残した。写真右上に、横浜港の瑞穂埠頭(ふとう)と山内埠頭が確認できる。

 横浜で制作された眞葛焼の収集、研究をしている横浜市内の洋菓子メーカー社長山本博士さん(44)が昨年、米国のインターネットオークションで写真を入手した。空襲による眞葛窯の被害を調べる目的で元中尉に関する資料を落札したものの、「個人では生かしきれない」と寄贈した。

 横浜の眞葛焼は、一八七一年、京都の陶工・宮川香山(こうざん)が輸出向けの陶磁器を作るため、横浜市南区の敷地に窯を築いたのが始まり。精巧な装飾が特徴の作品は、外国で高評価を受けた。その後、横浜大空襲で三代目が死亡し、窯は損壊。多くの資料が失われた。

 三代目の孫にあたる会社員宮川眞(まこと)さん(50)=横浜市泉区=は「高校に通っていて無事だった父は空襲後、焼死した家族の骨を拾い集めた。職人も含め三十人くらいが亡くなった。当時の技術は伝承されなかった」と話す。

 山本さんは横浜駅近くで資料館「眞葛ミュージアム」を開いている。「眞葛焼は横浜が誇る焼き物。横浜大空襲で文化もなくなった」と残念がり、「寄贈した資料を見て空襲をリアルに感じ、戦争を考えるきっかけにしてほしい」と期待した。

 市史資料室が開催している企画展「B29搭乗員の資料から見た空襲」で、山本さんの寄贈資料が展示されている。七月中旬まで。

54凡人:2014/06/20(金) 03:39:24 ID:bwiS95oU0
アウシュビッツ元看守逮捕、米東部の89歳 独が逮捕状
2014.6.19 20:34 産経

 米司法当局は18日までに、第2次大戦でナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の舞台となったアウシュビッツ強制収容所の看守だったヨハン・ブライヤー容疑者(89)を、東部ペンシルベニア州の自宅近くで逮捕した。AP通信が伝えた。

 ブライヤー容疑者は、1944年5〜10月にユダヤ人計21万6千人の殺害をほう助した疑いでドイツの裁判所から逮捕状が出ていた。認知症を患っているが、ドイツへの移送の可否を決める8月の審理まで拘束される。

 ブライヤー容疑者は母親が米国人。欧州で生まれ、未成年の頃にナチスの親衛隊(SS)に入隊した。逮捕前のAPの取材に対し、収容所の外部で任務に就いていたため、殺害には関わっていないと主張していたという。(共同)

55凡人:2014/07/01(火) 18:11:34 ID:bwiS95oU0
陸軍前橋飛行場伝える 71人の体験と共に
2014年07月01日 Yomiuri

陸軍前橋飛行場をめぐる体験記を自費出版した鈴木さん

 戦時中に特攻隊の訓練も行われた陸軍前橋飛行場(高崎市棟高町など)をめぐる71人の体験記を収めた書籍が、考古博物館「かみつけの里博物館」(同市)前館長の鈴木越夫さん(69)の編著で自費出版された。建設経緯や空襲被害のほか、コメの配給状況など貴重な記録も収録されている。

 出版されたのは、「陸軍前橋(堤ヶ岡)飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記」(A5判490ページ)。旧堤ヶ岡村などにまたがる前橋飛行場は地元で「堤ヶ岡飛行場」と呼ばれ、航空要員の教育用として、1944年8月に完成し、特攻隊の訓練も行われた。

 鈴木さんは飛行場の兵舎を利用した中学校に通った経験があり、かみつけの里博物館長に就任した8年前、同飛行場の規模などを調査。投下された焼夷(しょうい)弾や、空襲などを予告した宣伝ビラ「伝単」の収集を進めた。

 本を刊行したきっかけは、昨年6月に同博物館で開いた郷土史講座。鈴木さんが同飛行場と伝単をテーマに講演すると、聴講者から「戦時下の体験を次の世代に語り残すことが大事」との意見が寄せられた。以来、住民に聞き取りをしたり、県内外の関係者に体験談の執筆を依頼したりした。

 書籍は資料編と体験記編の2部からなる。資料編には同飛行場の概要のほか、空襲の模様を伝える堤ヶ岡国民学校(現堤ヶ岡小学校)の当直日誌も掲載した。体験記を寄せているのは、米軍機の機銃掃射で頭に被弾しながら一命を取り留めた男性や、勤労動員で風船爆弾の気球の紙作りをした女性など様々。格納庫などを示す飛行場見取り図もある。

 鈴木さんは「単なる昔話として読むのでなく、場面状況や当時の空気、願いも読み取っていただきたい」と話している。

 2300円(税込み)。問い合わせは鈴木さん(027・373・2777)へ。

56凡人:2014/07/31(木) 11:35:16 ID:bwiS95oU0
伝承は生き残った者の義務…長岡空襲、8月1日で69年 新潟
2014.7.31 04:10 Sankei

 米軍による長岡空襲(長岡市)から8月1日で丸69年を迎える。死者約1500人など大きな犠牲の様子は、生き残った市民のまぶたに今も焼き付いている。来年の終戦70周年を前に、体験者に空襲当時を振り返ってもらった。記憶をたどるまなざしからは、次世代へと語り継ぐ使命感がうかがえた。

市街地8割焼失

 市などによると、長岡空襲は昭和20年8月1日午後10時半から翌日午前0時10分まで続いた。125機の米爆撃機B29によって16万3千発を超す焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の8割が焼け野原になり、1万1986戸が焼失した。

 市は空襲の犠牲者を「殉難者」と呼び、この1年で1人を新たに認定し、7月25日現在、1485人となった。今年も8月1日、投下開始時刻に合わせて慰霊の花火「白菊」を上げる。

 長岡空襲時の遺品などが展示されている長岡戦災資料館(同市城内町)には、平成15年の開館以来、年間2万人前後が訪れる。

 運営ボランティアの山谷(やまや)恒雄さん(82)は空襲時13歳で、県立長岡工業学校(長岡工高の前身)の1年生だった。東弓町(当時)の自宅で期末試験の勉強中にB29の轟音(ごうおん)がし、外に出ると南方の宮内駅方面が真っ赤に燃えていた。

 「ザーッと夕立のような音が聞こえた。全部自分に降りかかってくる感じで、恐怖に襲われ家に駆け戻った」と山谷さん。焼夷弾の音だった。きょうだい4人で近くの防空壕(ごう)へ避難したが、30分もたたずに煙が漂い、防空壕を出て家の向かい側に移動した。午後11時半すぎ、家に焼夷弾が直撃、燃えるのを呆然(ぼうぜん)と見つめた。

伝え方模索

 山谷さんや長岡戦災資料館の初代館長、古田島吉輝(こだじま・よしき)さん(78)らは現在、市内外の小中学生や教職員らに体験談を聞かせている。25日も平和教育研修で資料館を訪れた県教職員組合の各支部書記長らに語った。受講した8人は30、40代で、数年後には再び教育現場に戻る。山谷さんは「空襲の悲惨さや平和の大切さを語り継ぐのが使命」として空襲の詳細を丁寧に伝えていた。

 古田島さんは9歳だった自身の体験談以外にも、16歳の少年が家族6人の遺体を荼毘(だび)に付した話をした。「話す相手が例えば小学6年生だったら、どの教材を取り上げ、子供たちに印象を残すのは何かと今も模索している」という。

 長岡空襲殉難者遺族会会長の新井淳夫さん(80)は千手国民学校6年生だった。郵便局長をしていた父、乕男(とらお)さん=当時(55)=と姉の羊子(ようこ)さん=同(13)=を空襲で亡くし、生き残った母と一緒に2人の遺体を運んだ。

 「『淳夫は足を持て』といわれた。父ちゃんや羊ちゃんの遺体を持つことで重さが分かる。そうすることで今までの生活はないと体感させたかったのかな」

 新井さんは父と同じ郵便局長を68歳まで務めた。以前は空襲について話してほしいと依頼されても「思い出すのもつらい」と断っていた。だが、60歳になり、「生き残った者の義務だ」と悟ったという。

 資料館では殉難者のうち313人(25日現在)の遺影が展示されている。空襲で焼失した建物を赤色で示すなど色分けした「住宅焼失地図展」も開催している。両展とも8月31日まで。問い合わせは(電)0258・36・3269。

57凡人:2014/10/25(土) 06:19:05 ID:ve6M5DlE0
特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー
2014年10月24日 Mainichi

インタビューに答える評論家の保阪正康さん=東京都千代田区で2014年10月15日、内藤絵美撮影

特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵=撮影場所不詳、1945(昭和20)年4月、早川弘本社特派員撮影

 特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

       ◇        ◇

 ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

 高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」

 高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。

 兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。

 特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。

 「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。

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58凡人:2014/10/25(土) 06:21:07 ID:ve6M5DlE0
 クラウゼビッツ(プロイセンの軍事学者)は戦争を「他の手段をもってする政治の延長」と位置付けました。本来は政治こそが、軍事の上になければならなかった。日本が陥った軍部独裁は政治家たちだけの責任でもありません。国民も軍をもてはやし、甘やかした。勝つことこそが軍の目的ですから、負けると分かっても戦争をやめることなどできなかった。行き着いた先が特攻です。

 特攻について、時に涙が止まらなくなるほどの感傷を持っています。それとともにわき上がるのは軍への怒りです。この二つがあってこそ、特攻に向き合えるのではないでしょうか。どちらかに傾いてもいけない。特攻は時代を測るメルクマールだと思っています。いたずらに美化することは非常に怖いことです。集団的自衛権によって、自衛隊が海外派兵される可能性が高まっています。良くも悪くも、軍隊というものには国民性が表れます。今こそ、旧軍について、十分に検証すべきです。それが無くては、特攻というシステムを採用するような組織が再び、生まれてしまうかもしれません。

 ◇ほさか・まさやす
 1939年、札幌市生まれ。74歳。同志社大文学部卒。出版社勤務を経て、著述活動に入る。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。長年の昭和史研究で2004年に菊池寛賞を受賞した。

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60凡人:2014/12/11(木) 00:58:00 ID:da95RwFo0
この映画は主人公の本人が存命中に、しかも制作に直接参加して生まれた。アンジェリーナ・ジョリーはアメリカ人はもとより世界の間で女優などの映画人と同時に人道家として広く知られている。アジア系や黒人系の孤児を養子に取り、旦那のブラット・ピットと共に、わが子として育てていることも事実である。この映画を「だだの作り話」とまったく否定している日本人の厚顔さや醜さ。日本人の発言がいかに信憑性がないか、世界に宣伝しているようなもの。ドイツと違い、太平洋戦争を美化や浄化に必死になっている日本人の姿が、ここでも浮かび上がっていて面白い。
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'Unbroken' causes outrage in Japan as right-wing ultra-nationalists label Angelina Jolie a racist
Calling the biopic of American Olympic runner Louis Zamperini, who spent two years in Japanese POW camp, 'a pure fabrication,' nationalists say that the war hero's account of torture at the hands of his captor has never been verified.
Tuesday, December 9, 2014, 12:39 PM BY Ethan Sacks
NEW YORK DAILY NEWS

Universal Pictures Japanese right-wing nationalists are up in arms over depictions of torture in the Angelina Jolie-directed biopic, ‘Unbroken.’

Angelina Jolie’s WWII drama “Unbroken” has drawn fire from the Japanese.

Right-wing nationalist groups in the Asian country have slammed the upcoming biopic of Olympic runner Louis Zamperini over its depiction of the torture he endured during his time in a Japanese prison camp ― and labeled Jolie, the film's director, a racist.

At the center of controversy are the sequences in “Unbroken” of Zamperini’s beatings at the hands of an Imperial officer named Mutsuhiro Watanabe ― played by Japanese pop star Miyavi. The emotionally tough scenes are taken straight out of Laura Hillenbrand’s biography of the same name and based on Zamperini’s own account.

“It's pure fabrication," Hiromichi Moteki, the secretary general of the Society for the Dissemination of Historical Fact, told London’s Telegraph.

"If there is no verification of the things he said, then anyone can make such claims," he added. "This movie has no credibility and is immoral."
The movie is based on the biography of the same name about real-life Olympian and war hero, Louis Zamperini, who was tortured by Japanese officers during a two-year ordeal in a POW camp. Universal Pictures The movie is based on the biography of the same name about real-life Olympian and war hero, Louis Zamperini, who was tortured by Japanese officers during a two-year ordeal in a POW camp.

Commentors on social media have called for the government to ban Jolie from entering the country in the future.

Zamperini, who died in July, was a crewmember on a warplane that crashed in the Pacific in May 1943 and drifted in a raft for 47 days with one other survivor before being intercepted by a Japanese warship.

His hellish ordeal as a POW lasted until V-J Day in August 1945.

Miyavi himself has was devastated by the experience of filming the infamous camp scenes.

"It was awful torture for me to hate the other actors," he told Vanity Fair. "I had to have hatred for them. When I had to beat them, I had to think about protecting my family.

"At the same time, I didn't want to be just a bad guy. I wanted to put humanity in this role. (Mutushiro) was both crazy and sadistic, but also weak and traumatized."

61凡人:2014/12/12(金) 12:05:57 ID:ve6M5DlE0
ビジュアルアートや映画に興味がある凡人にとって、表現に極度の限界のある俳句の世界には興味が沸かないが、金子氏の言葉にある、太平洋戦争当時の日本人がとった行動への意見にとても興味をもった。
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【終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう】
<戦前の空気に抗って>
2014年8月15日 東京中日

 69回目の終戦の日にあわせ、俳人の金子兜太(とうた)さん(94)=写真(左)=と作家のいとうせいこうさん(53)=同(右)=が対談した。海軍主計大尉としてトラック島で敗戦を迎えた金子さんと、東日本大震災を題材とした小説「想像ラジオ」が大きな共感を広げたいとうさん。俳句をテーマにした共著もある旧知の二人に、5・7・5の17文字がつくりだす小宇宙を手掛かりに、戦争と平和、社会を覆う空気などを縦横無尽に語り合ってもらった。

権力に 寄り添う構図 繰り返し

 ともに伊藤園の新俳句大賞の選考委員を務めた縁で、俳句の新潮流について語り合った対談本「他流試合」(二〇〇一年)がある二人。再会のあいさつもそこそこに、金子さんは、さいたま市の公民館が九条を詠んだ市民の俳句を掲載拒否した問題についておもむろに切り込んだ。

 →九条俳句掲載拒否 月報に俳句を載せなかった三橋公民館は「世論を二分するテーマはそぐわない」。

◆自由を毛嫌い

 金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。

 いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

 金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

 いとう 國分功一郎さんという若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

 →國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 哲学者、高崎経済大学准教授。著書に「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社)など。

 金子 戦前、新興俳句運動っていうのがあったんです。渡辺白泉の<戦争が廊下の奥に立つてゐた>は今でも有名です。その連中が、日華事変開始の三年後に、かなり勾留されるんですよ。司直の手に挙げられるわけです。その火つけ役がね、今ちょうどあんたが言ったようにね、(俳壇内部から)新興俳句運動なんてやつはうるせえと、いい機会だから追っ払っちまえと動いた者がいたと聞いています。「京大俳句」なんかは十五人も捕まったわけです。風潮を利用するという傾向が今また出てきているわけですな。

 →新興俳句運動 高浜虚子が言う花鳥諷詠(かちょうふうえい)だけでなく、社会の現実をとらえようという革新の動き。

 →渡辺白泉(はくせん) 京大俳句事件で摘発され、執筆禁止。その後、俳壇との交流を断った。

 いとう 一気呵成(かせい)にここまでオセロのようにひっくり返っていくかというような感じがしています。もちろんそれに抵抗する人たちも必ずきちんといる。前回の戦争の教訓が生きていると信じたいので、あるとは思いますけど、ちょっと目立たないというか。僕はメディアの中にいる者としては心掛けてはいるんですけれども。でも、やっぱり兜太さんとかが、この光景は実際にもう見たよという方が一番説得力がある。

 金子 十五年戦争で拝見済みということで。それはね、私はこれから大いに言おうと思っているんです。
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62凡人:2014/12/12(金) 12:11:21 ID:da95RwFo0
 いとう 十五年戦争の場合は、そういう雰囲気になってから、ほんの数年で戦争になった?

 金子 そうです。俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ。「京大俳句」に続く新興俳人の拘引、これを俳句事件と呼んでいるんだが、私の属していた「土上(どじょう)」という俳句雑誌があったのですが、主宰の嶋田青峰先生なんかも獄につながれるわけです。ところが尋問中に喀血(かっけつ)しましてね。家に戻されてた時期があって、ちょうどそのときの青峰先生に会っているんです。その後間もなく他界しましたがね。この人がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。

 いとう 特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。デモなどでもそこまで勾留するに値するかなと思われるような人が、いなくなったまま、まだ勾留されていたりとかですね。先ほどの下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないであろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている。

 金子 そうそうそう、誇り顔をしてね。

 いとう 十五年戦争の前に、個人的な誇りが持てないような時代が来てたわけですか。何か違う形で取り戻そうとするような形でそんなことが起こったという感じなんですか?

 金子 そうですねえ。私の狭い田舎の例で言うんですけどもね、秩父という所に育ちまして。山国なもんですから、繭が命の中心だったんですね。ところが繭の値が下がってましてね。世界恐慌の影響でもってね。ちょうど満州事変が始まったばかりでしたけど、戦争に勝てばね、楽になるんだということをしきりに言ってましたよ、みんな。私はちょうど中学生で、戦争に行く時は勝って、この人たちを楽にしたいと、そんな気持ちでいたわけですよ。国のために戦え、国もおまえも楽になるというご託宣がひどく影響力を持つわけです。そうすると学校の先生の中などにも、得意になってそういうことを言うのが出てくるわけですな。一種の便乗派というか、そういうものが露骨だったのを今でも覚えていますよ。

 →世界恐慌 1929年発生。高関税など自国産業保護の経済政策が広がり、第2次大戦の一因となった。

◆論理 粗雑すぎ

 いとう それで自己満足していく。

 金子 中学の終わりの時に二・二六事件が起こりまして、中学生はかなり肯定的に受け取った。若い軍人がよくやったという気持ちで受け取らされた。ああいうのが怖いですな。やっぱり、分かる人はちゃんとこれは駄目なんだと言わないといけない。

 →二・二六事件 1936年2月26日、陸軍青年将校が首相官邸などを襲撃し、要人を殺害した。

 いとう 思い付く限りの言葉はなるべく言い、伝えるようにはしていますけど、非常にこう有効な、つまり、一番ここを突けばいいだろうという言葉がなかなか見つからない。なぜかというと、起きていることがあまりに非論理的だからですね。内閣だけで憲法の実質的な変更を決めてしまうことも、法の論理として見てみると非常に粗雑ですよね。

 金子 粗雑です、粗雑です。
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63凡人:2014/12/12(金) 12:13:28 ID:da95RwFo0
 いとう 法を扱う人たちの論の立て方ではない。でも、知性というものが世の中を駄目にしている、というような不満がある人たちの気持ちを利用しているので、理性でそれを批判しても嘲笑で終わらされてしまう。上手に言うことができない。もちろんそこでより有効な言葉を探すのが、文学者の仕事なのですが。

 金子 せいこうさんの小説「想像ラジオ」を読んで、今の話とかかわってくる印象を持ったんですがね。東日本大震災だけに問題を限定しているのではなくて、それを含むもっと大きな現実の中で生きている一人の人間として、いとうせいこうは戦っていると。散文詩としての美しさがあって、一気に読んだ。

 いとう 宇宙的な何かとか、歴史的な何かとか、大きなものとつながるようなフィクション(虚構)を有効に使わなければならないと考えた。最近「三田文学」というところに百枚ぐらいの短編を載せているんですが、伯父のような人と主人公の関係なんです。先ほどの金子さんとの話と重なり不思議だと思ったんですが、両親が信州の人間という設定なんで、繭の問題が出てくる。繭で日本が豊かになったけれども、世界恐慌で一気に不況になった。日本全国で一番の輸出産業だったわけですから、これがなくなったことから戦争に進む雰囲気になったと語る伯母のシーンがある。そこから飛んで二十世紀末ですけど、ガザ空爆の問題が出てきて、やっぱりここにも、経済と大きな権力のようなものというか、軍産複合体のようなきな臭い問題があって、でもその下に生きている人がいる。今の日本の感じを前にあったことと重なり合わせて、もう一回それぞれが考えなければならないと無意識的に思った時に、僕にとって象徴的な何かとして繭や蚕糸が出てきてた。

 金子 長野とか埼玉・秩父は繭の大産地でしたからね。


死の現場 知らぬ政治家 得意顔

◆戦争詠む必要

 いとう 僕がまだ伊藤園の新俳句大賞の選考委員だった時に湾岸戦争が起きて、戦時下の俳句をあえて採りたいと言ったら兜太さんが一番共鳴してくれた。社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある。そうなるとまさに「梅雨空に九条…」のようなものがあってしかるべきだし、そこが一番の表現の自由の最前線のつばぜり合いだと思う。ただ、名もない表現者の句がそのような象徴となるのは、自分がある程度のプロとして、フィクションのことを考えている人間としては、恥ずかしいですね。文学者がそこを打破しなきゃいけないんじゃないかと。ここで何でもないものをただ書いていて戦争になったら、戦後恥をかくよと。「戦後」と言うと戦争があるということを含み込んでしまっていて良くないが、でも今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです。そのことが前回の戦争の大きな教訓なので、沈黙しているわけにはいかないと。未来の人から見られていると思って、僕は物を書いています。

 金子 あまり生なリアリズムじゃなくて、現実と泥まみれになっている叙事詩というか、薫り豊かな、しかも現実に対して厳しい矢を射ている、そういう小説が出たら素晴らしいと思って、せいこうさんのふんどしに期待している。

 いとう 兜太さんの俳句、もちろん過去の戦争を描いたものもそうですし、今はセシウムが出てきたり、それが日本の深層にある風景として、季節として描かれていることが大きい。詩人や俳人の、特に短詩形であるところの刺さり方の強さがある。長編小説を書いていると三年も四年もかかっちゃう。その間に社会がどんどん違ってきてしまう。人間というか社会を、今という季節を、断面を見せてくれるという意味で、俳句のような動きをやらなきゃいけないというふうに読ませてもらってます。

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64凡人:2014/12/12(金) 12:16:14 ID:da95RwFo0
◆一句の説得力

 金子 一人の俳句作家がいとうせいこうのようにというのは無理ですね。十人なら十人、その人が生み出す五百句なら五百句の総合力ですよ。今日も見てもらおうと思って、最近拾った俳句を書いてきた。先ほどの<梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これ、本当に優しい日常句ですけどね。それと中村晋という福島県の高校の先生ですが、この人は福島原発事故の重圧をまともに取り上げた。というのは奥さんがセシウムを心配して、子どもと一緒に山形県に入っちゃって。<春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した>などいろいろ句を作っている。同じ福島の人で坂本豊という人の句もある。<ものの芽をみな攫(さら)いけり除染という>。3・11の直後に出てきて俳句だけじゃなく、エッセーでも有名になった人で照井翠(みどり)さんの句も<螢(ほうたる)や握りしめゐ(い)て喪(うしな)ふ手>。手を失う思いがあるという。それから蛇笏(だこつ)賞をもらった高野ムツオの句、これは<四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と>とその時の映像だけを書いてある。それから私の句でも3・11では<津波のあと老女生きてあり死なぬ>。福島の被ばくの句では<被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり>。十五年戦争で誰の記憶にも残っているのは、先ほどの渡辺白泉の句がありますが。川柳の鶴彬の<手と足をもいだ丸太にしてかへし>、これも著名で一句で結構な説得力を持つわけです。

 →鶴彬(つる・あきら) 反戦川柳作家。新興俳句より早い1937年に摘発され、留置中に死亡。

 いとう 国民運動ではありませんが、そういうものがネットワークされないといけないなと。例えばこうしたものが一万句あることが力になると思う。僕も一緒に何かできるといいと思います。それと一緒に小説もあるという形で。今はインターネットの時代になって、例えばツイッターとか百四十字しか書けないような、そんな場所で情報はたくさん発信されている。まさにツイッターに出てくるような俳句を募集してそれを新聞に出すとか。放送に出すとか。連動して少しでもやらないと、歴史が全く凡庸な反復になってしまう。

◆過半は餓死者

 いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の「野火」を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

 →大岡昇平 小説家、評論家。「野火」は、自身の戦争体験を基にした戦争文学の代表作。

 金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

 →トラック島 ミクロネシアの島。日本海軍の拠点が置かれ、1944年2月に米軍の猛空襲に遭った。

 いとう 今、イスラエルがガザに対してやっていることも、僕はすぐ東京大空襲のことを思った。下町に育ちましたから。いろんな種類の爆弾が使われて火の海にされて、民間人がやられていく。政治家は、このことを日本の問題として考えてないんですね。国連決議も棄権したりして。ついわれわれが何十年か前に首都でやられたことをやられているという、そこが結び付かないのが僕には信じられない。そういう人たちが世の中を動かすようになってしまった。過去と、今起きていることはつながっているし、われわれの問題でもある。それを喚起するには言葉が問われていると思います。おじいちゃんおばあちゃん、兜太さんの話も聞いてきた人間としてつなげていかなければと思う。

65凡人:2014/12/12(金) 12:17:00 ID:da95RwFo0
僕たち選者で「戦後俳句」選ばせて

 金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>と詠んだ。自分は一度死んだようなもの。生きて帰るのだから、これからは戦争のない世の中のためにできるだけのことをしようと決意した。

◆戦争への自虐

<『想像ラジオ』(左)> 2013年、河出書房新社刊。いとうせいこう氏の16年ぶりの小説。生者と死者の新たな関係を描く。
<『他流試合』(右)> 2001年、新潮社刊(絶版)。金子兜太、いとうせいこうの両氏が、俳句の新潮流を語り合う

 金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

 いとう 東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません。僕たち選者になって、戦争体験のことも、体験していないけれど自分たちは戦争体験をどういうふうに考えるかということも俳句にしてもらって選んで、ばあーっと載せたらいいじゃないですか。それで大賞、準大賞があって、その中から時代の代表作が生まれてくるってことが文学とかジャーナリズムを含めた、やっぱり言葉の力だから。

 金子 二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。

    ◇
【対談後記】「戦後」を続けていく決意 社会部長・瀬口晴義

 仲間内の句会で時々駄句をひねる。東日本大震災の取材経験からこんな句もつくった。<春泥にまみれし母子のフォトグラフ><こどもの日鯉(こい)の泳がぬ浜通り><秋風や倒れたままの忠魂碑>。俳句は見たままを詠めばよい。挑戦したことがないのは戦争をテーマにした句だ。観念的になりそうだからだ。

 多くの軍属が餓死したトラック島を去る時、金子さんは彼らの死に報いることを誓う。復職した日本銀行では出世を求めず、俳句一筋の人生を送った俳壇の重鎮は「体験を語ることが最後の仕事だと思っている」と旧知のいとうさんとの対談を快く引き受けてくださった。

 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>の句が、さいたま市の公民館の月報に掲載されなかった問題は、戦前の新興俳句運動の弾圧の歴史と重なることが金子さんの話で理解できた。共通する時代の空気は「自粛」だろうか。どきりとしたのは「今の自分を支えているのは、戦後恥ずかしくないように発言していなければならないという思いです」という、いとうさんの言葉だ。いつまでも「戦後」を続けることがジャーナリズムの使命と私は考えているが、いとうさんはその先まで射程に入れていた。

 金子さんから<原爆忌被曝(ひばく)福島よ生きよ>の句が届いた。「戦後俳句」を募集したらどうか、という宿題もお二人からいただいている。「戦後」をいつまでも続けてゆくという決意と願いのこもった句。私も挑戦してみたい。
5-5

66凡人:2015/03/22(日) 09:35:13 ID:da95RwFo0
【戦後70年】
B29の2倍、幻の航空機「富嶽」模型あすから展示 群馬県太田市
2015.3.21 12:00更新 産経

幻の航空機「富嶽」模型(「富嶽を飛ばそう会」提供)

 太田市押切町の市文化財「中島知久平(ちくへい)邸」で、22日から第二次大戦中に構想された幻の爆撃機「富嶽(ふがく)」を起源とする旅客機のラジコン模型が展示される。模型は「富嶽を飛ばそう会」(正田雅造代表)が手作りした。期間中は会員による解説説明も行われる。(平田浩一)

 「富嶽」は富士重工業の前身の軍用機メーカー、中島飛行機の創設者である中島知久平(1884〜1949年)が第二次大戦中に米軍のB29の2倍の大きさの超大型爆撃機として構想した。大戦末期、6発の大型爆弾を搭載し米国本土の直接爆撃を目的として極秘に設計が進められたものの、戦局悪化により製造されるまでには至らなかったという。

 同会によると、「富嶽」は爆撃機、旅客機、輸送機の計3種類あった。いずれも構想段階で製造されずに終わったが、今回、展示されるのは旅客機「富嶽」の模型。太田市尾島町で毎年開かれている「RC(ラジコン)航空ページェント」でも、ダイナミックな飛行を披露している。

 模型は、実物の12分の1の大きさ。胴体部分は約3メートル、両翼約4・5メートル。会員13人が1年半かけて作成した。東毛地区工業界の先駆者である知久平の偉業を広く地域の人たちに知ってもらうのと、小中学生に物作りの楽しさを教えることを展示の目的としているという。

 正田代表は「軍用機メーカーということで中島飛行機には戦争に直結するイメージがあるが、図面を見てみると、戦後日本の航空機の民需にまで貢献していることが分かる。そういうところを見ていただければ」と話している。

 展示期間は29日まで(午前10〜午後4時)。解説・説明は午前10時半からで、1時間おきに約10分間行われる。

67凡人:2015/03/22(日) 09:37:59 ID:ve6M5DlE0
ともに弔い、絆 墜落死米兵の日米合同追悼式【群馬】
2015年3月22日東京中日

慰霊碑に献花し、70年前に亡くなった米兵を悼む参列者=邑楽町で

 太平洋戦争末期、邑楽町と栃木県足利市で墜落死した米兵を弔う日米合同の追悼式が二十一日、同町秋妻の清岩寺で営まれた。米軍横田基地の兵士四十四人や、ケネディ元米大統領のおいで作家マクスウェル・ケネディさん(50)、二百人超の地元関係者が参列。かつては敵同士だった両国の関係者が七十年の時を経てともに死者を悼み、両国が戦後築き上げた絆を確かめた。 (川田篤志)

 一九四五年二月十日、太田市にあった戦闘機製造工場へ飛来したB29爆撃機二機が空中で接触し、邑楽町の田んぼに墜落して乗員二十三人全員が死亡。同月十六日には、日本軍の高射砲により米軍機グラマンが邑楽町の墜落現場から約五キロ離れた足利市に墜落し、米兵三人が命を落とした。

 追悼式は、二年ぶり二回目。国内で墜落死した米兵の遺族捜しをしている横浜市の新井勲さん(80)と、B29の墜落を少年時代に目撃した寺の木崎伸雄住職(82)が「戦後七十年の節目に改めて追悼式を開き、平和を祈ろう」と準備してきた。今回は、足利市での米軍機墜落にも触れた日米大戦の著書があるケネディさんを招待。これに合わせ、二年前に寺に建立したB29乗員の慰霊碑の隣に、新たにグラマン機乗員の慰霊碑を建て、この日披露された。

 新たな慰霊碑には「異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。“人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”」と、古代ギリシャの詩人の言葉も引用したケネディさんの碑文が刻まれている。ケネディさんは「石碑は千年以上この地に立ち続ける」と、世界平和への祈りのバトンが将来世代につながるよう期待した。

 追悼式では、米軍のダグラス・デラマター大佐が「きょうは平和へ向かう力の種が植えられた瞬間だ」と感謝。新井さんは「追悼式が日米の強い絆をつくる一本の糸になれば」と力を込めた。米軍音楽隊が、日米両国の国歌を演奏。米国の参列者は献花、日本側は焼香し、死者を悼んだ。

 式典後、ケネディさんは「七十年前の戦士たちが、敵同士だった両国が合同追悼式をやっていると聞いたらびっくりするだろう。当時の憎しみを乗り越えた結晶だ」と感慨に浸っていた。

68凡人:2015/03/22(日) 09:39:54 ID:ve6M5DlE0
[戦後70年]日米合同追悼式 平和祈る…邑楽
2015年03月22日Yomiuri

鎮魂碑の除幕を行った後、拍手するケネディ氏(右)と娘のノアさん

 太平洋戦争末期に邑楽町内外で墜落死した米爆撃機の搭乗員を哀悼する「戦後70周年記念日米合同追悼式」が21日、邑楽町秋妻の清岩寺で開かれ、米軍横田基地の司令官ら約45人を含む400人ほどが犠牲者の冥福を祈り、日米友好を誓い合った。

 式では、主催の木崎伸雄住職(82)が「未来永劫(えいごう)の平和を一緒に祈念したい」と参列者に謝意を述べた後、1945年2月16日に栃木県足利市で墜落したグラマン社製爆撃機の米兵を悼む「鎮魂碑」の除幕が行われた。ケネディ元米大統領のおいで、作家兼研究者のマクスウェル・ケネディ氏(50)らが白いひもを引くと、黒御影石製の鎮魂碑が現れ、拍手が巻き起こった。

 鎮魂碑建立のきっかけは、ケネディ氏が特攻隊に関する著書で足利の墜落機に言及したことで、同氏は「心に響く儀式だ。元敵国同士が憎しみを乗りこえ、世界平和を目指して友情を築いたことは素晴らしい」と笑顔を見せた。

 同基地の音楽隊が日米国歌を演奏し、米兵たちが鎮魂碑や、同寺近くで同月10日に墜落死したB29の乗員23人を哀悼する「慰霊碑」に献花と献酒を行った後、木崎住職らの読経や焼香が行われ、日米それぞれの儀式で弔った。

 米空母バンカーヒルに突撃して死亡した特攻隊員小川清さんの遺族で高崎市在住の小川愛之さん(61)夫妻らも、ケネディ氏の取材を受けた縁で出席。「足利で命を落とした米兵は同じ空母から発進し、奇縁を感じる。犠牲者に思いをはせれば、私たちにとっての戦争はまだ終わっていない」と感慨深げ。同基地司令官のダグラス・デラマター大佐は「追悼式は、日本人の高い品位を示したものだ。碑は日米の絆の象徴となった」と語った。

69凡人:2015/03/26(木) 08:57:04 ID:ve6M5DlE0
千玄室さん 保存訴え 笠間の海軍航空隊旧司令部庁舎【茨城】
2015年3月26日tokyo chunichi

写真:慰霊台へ献茶をする千玄室さん=笠間市で

 戦時中に特攻隊員だった茶道裏千家の前家元で大宗匠(だいそうしょう)の千玄室(げんしつ)さん(91)が二十五日、多くの特攻隊員を送り出した笠間市の「筑波海軍航空隊」旧司令部庁舎前で、慰霊の献茶式を開いた。千玄室さんは、取り壊される方針の建物の保存を訴え、橋本昌知事は「戦争を風化させない意味がある」と、解体方針を変える考えを示した。 (宮本隆康)

 旧司令部庁舎は戦後、県立病院の管理棟として使われた。老朽化で二〇一一年から空き家になり、県は取り壊しを決めた。しかし、一二年に特攻隊員を描いた映画「永遠の0」のロケ地になり、地元で保存運動が起きている。

 千玄室さんは、一九四三年に学徒出陣で海軍入り。県内にあった土浦海軍航空隊で訓練を受けた。特攻隊員になり、三回の出撃志願をしたが、待機中に終戦を迎えた。戦後は、国内各地や五十カ国以上で平和を祈る献茶をしている。

 建物を借り受け、期間限定で公開している地域振興団体のメンバーが昨年、千玄室さんに「一度見に来てほしい」との手紙を書いた。筑波海軍航空隊には、同期の飛行専修予備学生が多く所属した。今年一月に「仲間のために一碗(わん)を献じたい」と返事が来た。

 献茶式は旧司令部庁舎前の広場で開かれ、橋本知事や元隊員、遺族、裏千家の地元関係者ら約七百人が参加した。千玄室さんは出席者が見守る中、お点前を披露して慰霊台に献茶した。

 千玄室さんはあいさつで「私たち生き残りは、戦争が二度と起きないよう祈願しなきゃならないが、いくばくも命はない。大きな遺産として、平和のための語り草として(旧司令部庁舎を)保存してもらえたらありがたい」と訴えた。続いて橋本知事があいさつし、「どう活用するか、戦争を風化させない意味があるのかなと思う」と述べた。

71凡人:2015/03/29(日) 16:09:18 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(1) 身に染みた戦時のつらさ 市内の大塚房子さん(89)【栃木】
2015年3月24日東京中日

写真:「ウーッ、ウーッと言いながら、B29が次から次へと来た」と宇都宮空襲を振り返る大塚さん=宇都宮市で

 古びたコンクリートの敷地に、高さ三十センチほどの切り株のような柱の跡が並んでいる。今は住宅街が広がる宇都宮市清原地区に七十年前、鉄道のプラットホームがあった。市中心部から来る汽車が、陸軍の飛行機を修理する「航空廠(しょう)」で働く人たちを運んでいた。

 市内に住む大塚房子(ふさこ)さん(89)は、県立宇都宮第一高等女学校(現宇都宮女子高校)を卒業した一九四四年から、航空廠で事務員として働いた。上司の指示で、軍事通達など指令文面を印刷し、航空廠内の部長など幹部に通達する仕事だった。

 「一般の汽車だったから(満員の時は)乗れなくて(次の汽車を)待っているのがつらかった。冬なんか寒いときに駅の吹きさらしのところで。帰りは暗くなっちゃうんですよ」

 自宅から鉄道で通い、午後六時まで仕事。冬の帰路は寒さが苦痛でもあった。目が回るほどの忙しさで、つらさを感じるのも、ほっとひと息つけるのもこの場所だった。

 十八歳から二十歳まで、多感な青春時代を過ごした場所でもある。友人もできたが、仕事中は余計なことは話せない。帰り道におしゃべりをするのが楽しみだった。医者の娘という友人は、見習士官として大阪から来ていた男性に恋をした。「私は独身。そういうこともなかった」とほほ笑む。

 職場で大きな危険には遭わなかったが、四五年七月の「宇都宮空襲」では九死に一生を得た。

 現在のJR宇都宮駅前に住んでいた大塚さんは、あの日、風邪をひいて鼻詰まりで眠れず、航空廠の制服を着たまま、いすに腰掛けていた。「敵機数十機、鹿島灘上空より侵入。西方に向かって進行中」。午後十一時すぎ。ラジオの音声が聞こえたとたん、外が真昼のように明るくなった。

 家族を起こし、自宅庭の防空壕(ごう)にいったん入ったが、身の危険を感じて外へ出た。道路に出ると、ぼんぼんと炎があちこちで上がっていた。道路はふさがり、よその家の中を通過して東へ。川の中に逃げ、朝まで過ごした。

 翌日、黒く焦げた女性二人の遺体を見た。近くのトタン屋根の下には、中学生になったばかりの近所の男の子が、妹二人を抱えて死んでいた。

 戦時の記憶、そして七十年後の今。特定秘密保護法制定の動きを見ると、航空廠で働いていたときの「軍事機密は他言無用」という規律を思い出す。

 「(内部で)やっていることは、ほとんどよそでしゃべっては駄目だった。それが当たり前だと思ってやっていた」。それに比べ、今の世の中はいいと思っていたが、何となく昔に返っていきそうな気配がなくもない。「今の人は怖さを実際に知らない」

 大塚さんは戦後、保育士になり、市内の保育園で園長をした。幼児教育に携わる傍ら、戦争体験の語り部を務める。空襲警報のラジオの音、上官の部屋に入る時にしたあいさつ。今も鮮明に覚えている。 (後藤慎一)

   ×  ×

 第二次世界大戦中に軍需工場が並び、「軍都」ともいわれた宇都宮市には、戦時の記憶を伝える跡が今も残る。戦後七十年。市内各地の戦跡を訪ね、そこにまつわる人から話を聞き、平和への思いを未来へどう伝えるかを考える。

 <宇都宮空襲> 1945年7月12日深夜から翌日未明にかけ、米軍が宇都宮市中心部を標的に行った爆撃。市街地の約半分を焼失し、少なくとも620人が犠牲になった。焼夷(しょうい)弾の直撃や焼死、避難していた防空壕(ごう)での窒息死など、多くの子どもや女性も被害を受けた。宇都宮への空襲は軍需工場や鉄道関連施設が多かったが、この日はB29爆撃機約120機が市街地を襲った。

72凡人:2015/03/29(日) 16:09:46 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(2) 市役所近くの大イチョウ 中学教諭の田崎透さん(54)【栃木】
2015年3月25日 東京中日

写真:隣のビルの屋上まで枝が伸びた大イチョウ=宇都宮市中央で

 宇都宮市役所から県庁へつながる一本道。その四つ角の一つに、高さ三十メートルを超える巨木が隣のビルと競うようにそびえ立つ。市の天然記念物にもなっている大イチョウ。樹齢約四百年という戦後復興のシンボルは、息絶えることなく、移りゆく時を見つめてきた。

 大イチョウから五百メートルほど東にある市立旭中学校で理科を教える田崎透教諭(54)は、前任の一条中学校にいた二〇〇九年、この木が落としたギンナンを拾い、新たなイチョウを育てる「大イチョウプロジェクト」を始めた。

 一条中の当時の校長から促され、平和教育の一環としてシンボルになるものが必要だと考えた。それがあの大イチョウだった。

 顧問をしていた科学部の生徒とギンナンを拾いに行き、校庭の凍った土の中に植え、温度を下げたまま育てた。植木鉢に入れた苗木を間違って誰かに捨てられてしまった思い出もある。苗木は近くの中学校やホテルに配った。

 自らも本を何冊も読み調べてみると、大イチョウの歴史が分かった。

 一九四五年七月の宇都宮空襲で米軍のB29爆撃機の焼夷(しょうい)弾を受け、枝のほとんどが焼け落ち、表皮が炭化した。しかし、強い生命力で次の春には新しい芽を吹かせたという。戦時の記憶を呼び起こす存在。生徒たちが生まれる何十年も前の出来事に理解を深めるのに、大イチョウは大きく役立った。

 田崎教諭自身も、父母が宇都宮空襲を体験し、その記憶を聞いて育った。市内の母の実家には、低空飛行でやってきた米軍機の銃弾の跡があった。平和への思いに目覚め、大学卒業後は教職に就いた。

 理科の教諭らしく、事実確認にこだわった。戦争体験者に直接聞いたり、インターネットを使って、宇都宮空襲に参加した米軍の部隊関係者にも接触を試みたりしたこともある。

 「自分で調べて、それを包み隠さず生徒に伝え、判断させる。結論を求めるのではなく、生徒に考えさせるという方法で取り組んできた」

 大イチョウプロジェクトは一条中で二年、その後、転任した旭中でも四年続けてきた。そして迎えた戦後七十年。今年一月、市内の神社で行われた成人式で、プロジェクトの一期生に当たる一条中の卒業生たちと久しぶりに再会した。

 「大イチョウは空襲を受けたのに残った。生命力の強さを分からせてくれた。私も教員になって、中学生に戦争の事実を伝えていければと思う」。リーダー役だった東京都狛江市の大学生、根本友希恵(ゆきえ)さんはそう話した。戦時を耐えたイチョウと、現代の平和。長い時間のつながりをかみしめる。

 成人式会場であいさつに立った田崎教諭は、二十歳になった教え子たちに「今年は戦後七十年という節目の年。平和について、もう少し考えてほしい」と控えめに語りかけると、拍手が起こった。

 一本のイチョウから始まった平和への思いは、若い世代に受け継がれ、枝葉を大きく伸ばしている。 (後藤慎一)

73凡人:2015/03/29(日) 16:10:18 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(3) 二荒山神社脇の防空壕跡 絵本作家の大門高子さん(69)【栃木】
2015年3月26日東京中日

写真:かつていくつもの防空壕があった場所。今は駐車場の裏になっている=宇都宮市で

 今は立体駐車場になり、正確な位置は分からない。でも、ビル街の一角に風情はある。宇都宮市中心部の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の脇には十数年前まで、防空壕(ごう)がいくつも残っていた。一つで四十人ほど入れる大きな穴。近くの住民らが戦火から逃れるために掘った。

 東京都北区に住む元小学校教諭で、現在は絵本作家兼作詞家として活動する大門(おおかど)高子さん(69)は、宇都宮空襲があった当時、生後わずか十日目の乳飲み子だった。

 一九四五年七月十二日午後十一時すぎ。二荒山の近くに住んでいた家族は必死で逃げていた。自宅から二百メートルの防空壕へ、母親が兄の手を引いて走った。途中、衣服に火が付き、泣き叫ぶ人たちがいた。生まれたばかりの大門さんは毛布にくるまれ、母の腕の中にいた。

 防空壕にたどり着くと、母親が抱えていたはずの赤ちゃんがいない。逃げるのに夢中で、途中で落としてしまったことに気づかなかった。取り乱して自宅へ戻る。二十分ほどで見つけ、大門さんは奇跡的に助かった。そう何度も兄から聞いてきた。

 「私は戦争の『落とし子』なんです。記憶のない生後十日目の空襲体験が、自分にとっては生きる原点になっている」

 十二歳のころ、子どものいなかった都内に住む叔父の元に養子に入り、生まれ故郷の宇都宮を離れた。大学を卒業し、教師になってから千葉県や都内で暮らしたが、生後間もない戦争体験によって「大事な子どもたちを戦場には送りたくない」との思いに突き動かされてきた。

 宇都宮空襲では、女性や子どもなど多くの弱い命が奪われた。小学校や地域で平和教育を進める中、そこに人を追い立てた戦争への憎しみが強まった。

 五十四歳で教師を辞めてからは、都内で空襲体験を聞く講座を催したり、公害反対や平和運動に取り組んだりした。近年は終戦後、大陸から日本軍兵士が持ち帰った「むらさき花だいこん」という花を題材にした絵本を書き、合唱曲にもしてきた。その縁で中国を何度も訪問した。

 平和運動を通じて、輪は広がった。戦時下の動物の受難を描いた絵本の名作「ぞうれっしゃがやってきた」を基に、合唱曲を作曲した藤村記一郎さんとも一緒に平和の曲を作った。子どもたちに絵本を読んだり、都内でミュージカルのプロデュースや作詞をしたり。合唱で平和への思いをつなげる全国運動にも携わる。一行の歌詞を書くために何冊も本を読み、事実に向き合う。

 終戦の年に生まれ、今も平和運動に心血を注ぐ大門さん。多忙ながら、宇都宮で戦争体験をした友人をテーマにミュージカルを作る約束もしている。

 「原点は宇都宮の空襲にあるから」。六月にある小学校のクラス会を心待ちにしつつ、自分で決めた大きな宿題に取り組む。(後藤慎一)

74凡人:2015/03/29(日) 16:11:00 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(4)当たり前の平和に感謝 宇都宮中央女子高の「赤れんが」 【栃木】
2015年3月28日東京中日

写真:現在は多目的ホールとして使われている建物。平屋の造りだが存在感がある=いずれも宇都宮市の宇都宮中央女子高校で

 赤いれんが造りの建物が、花でいっぱいの校内に映える。宇都宮市の宇都宮中央女子高校にある陸軍関連の元施設は、姿を変えて「現役」を続ける。美しく積まれたれんが、室内にめぐらされた梁(はり)、アーチ形をした窓。今は多目的ホールとなり、生徒たちの楽しそうな声が響いている。

 明治後期の一九〇八年ごろ、当時の陸軍省が設計し、軍隊の第一線に立つ若い兵士が多くを占めた「歩兵第六六連隊」の厨房(ちゅうぼう)として建設された。室内にある板の間の下には、排水口などが当時のまま残る。

 宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物。時折訪れる見学者のため、生徒が案内用の音声を録音し、見学の際、希望者に貸し出している。教職員が案内することもある。

 終戦を経て、栃木師範学校の理科実習室、宇都宮中央女子高の倉庫へと役目は変わり、二〇〇〇年に国の登録有形文化財になった。「生徒が使えるように」と校長らが奔走し、多目的ホールに改修されたのが〇一年。それまでの卒業生にとっては「ごみ焼却場の横にあった倉庫」という思い出しかなかった建物がよみがえった。

 吹奏楽部の部員たちは、土日も含めて多目的ホールを毎日使う。部員は三十三人。部長の窪田紗弥(さや)さん(17)はチューバ、副部長の山口怜泉(れいみ)さん(17)はトロンボーンを担当する。

 「響きもいいし、すごく使いやすい場所」と窪田さんが話せば、山口さんも「演奏会と同じような環境で(練習)できる」と喜ぶ。「赤れんが」と親しみを込めて呼ぶ活動拠点は、かつては戦時中の建物だった。「知ってしまうと立つのが怖いな」と、言葉にしにくい感覚を持つ。

 両親は昭和四十年代生まれ。祖父母も七十代という二人は、戦争体験はほとんど聞いたことがなかった。昨年秋、修学旅行で訪れた広島で「宇都宮も空襲があったんですよ」と教えてもらい、考えるきっかけになった。

 広島平和記念資料館では、皮膚がただれた人の模型を見て鳥肌が立ち、背筋が凍った。その感覚は忘れることができない。日本人として見ておくべきこと、目に焼き付けておくべきことだと感じた。

 「自分たちにとって、平和って普通のことのように感じている。ここで音楽ができているのも、ありがたみを感じながら使っていきたいなと感じる」。窪田さんは言う。

 山口さんも続ける。「平和は当たり前じゃない。昔の人の経験があって、その復興があったからこその平和。戦争中に使っていたところがきれいになって、何も不自由なく使えているのは幸せだし、感謝しなければいけない」

 百年以上前にできた厨房では、どんな人たちが、どんな料理を作っていたのだろう。今となっては知るすべもないが、今を生きる女子高生たちは「赤れんが」の下で、平和について思いをめぐらせる。(後藤慎一)

75凡人:2015/03/29(日) 16:11:38 ID:da95RwFo0
「軍都」の記憶 宇都宮・戦後70年(5)平和への思い 未来につなぐ 八幡山の地下司令部跡 【栃木】
2015年3月29日東京中日

写真:八幡山の一角にある地下司令部跡。扉の外から中をのぞくとトンネルの入り口が見える=宇都宮市で

 JR宇都宮駅から北西へ約一・五キロ、県庁に程近い宇都宮市の八幡山公園。花見の季節は桜をめで、散歩を楽しむ多くの人でにぎわう。その一角の小山に、高さ二メートルほどの穴がある。今は金網で封鎖されたこの場所の周りだけは、静かな時間が流れているようでもある。

 「本道(の長さ)は三百七十メートル。実は地下の軍事司令部を造るために掘った穴だったんだ」

 宇都宮市に住むグラフィックデザイナーで「宇都宮平和祈念館をつくる会」の事務局長を務める佐藤信明さん(70)は毎年初夏、市内の史跡を巡り、平和について考える「ピースバス」のツアー参加者を案内している。八幡山に残る穴も見学先の一つになっている。

 ピースバスが始まった一九八五年から九年間は「防空壕(ごう)」として紹介していた。ところが、九五年の戦後五十年を機に、市があらためて調査した結果、司令部跡だったことが判明した。

 市教育委員会が二〇〇一年に編さんした「うつのみやの空襲」によると、第二次世界大戦末期、本土決戦に備え、現在の国立病院機構栃木医療センター(宇都宮市中戸祭)の位置にあった「宇都宮師管区司令部」の地下移設が検討された。北関東を管轄し、動員、教育、警備などを任務とする組織だった。

 地下道は四五年五月から掘られ始めたが、完成を見ずに終戦を迎えた。だが、終戦後も「米軍が進駐してきた時に笑われる、このままでは日本軍の名折れである」と、東西と南北に掘られた九本の穴の貫通まで作業は続けられたという。

 今は入り口からのぞけるだけになっている。中に電球をともすための線を引いた形跡はなく、地面にコンクリートを張った跡もない。佐藤さんには、使われることのないこの戦争の遺物は「ひたすら穴を開けただけ」に思える。

 こうした戦跡は多くの人の目に触れることなく埋もれているが、歴史を身近にし、直視することのできる貴重な遺産だと佐藤さんは言う。それは、次世代に平和を考えてもらう材料にもなる。

 福島県相馬市出身の佐藤さんは、小学生のときに丸木位里(いり)・俊(とし)作の「原爆の図」を見て衝撃を受けた。「あの絵の怖さが原点。話を聞いて、原爆によって人が人でなくなるような状況を描いた絵だと分かった」

 大学に進学し、ベトナム戦争が泥沼化する中、戦争とは何かを深く考えた。宇都宮に移り住み、友人の誘いをきっかけに、平和祈念館を造るための運動に長く携わっている。

 平和祈念館をつくる会では、設立当初から集め、市内に保管している戦時中の釜や衣服を年に一度、宇都宮空襲展で公開している。その資料を受け継ぎ、常時保管できる祈念館を造り、未来に平和の思いをつなぐことを思い描く。

 「司令部跡は児童公園の下。こういうところに、祈念館ができればいいと話し合っていたんだ」。市街地の真ん中に、平和の砦(とりで)ができる日を願う。 (後藤慎一) =おわり

76凡人:2015/04/09(木) 10:47:11 ID:da95RwFo0
戦艦大和:総員死ニ方用意…1945年4月6日最後の出撃
毎日新聞 2015年04月05日 21時50分(最終更新 04月07日 10時20分)

大和の元乗組員の畦地さん:写真

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。
1-2

77凡人:2015/04/09(木) 10:47:57 ID:da95RwFo0
    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」
 ◇戦艦大和

 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。
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78凡人:2015/04/13(月) 10:06:48 ID:ve6M5DlE0
【特攻70年(上)】
23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」無念と絶望…母は「戦争協力者」と貶められ 
2014.10.23 11:00更新

飛行服に身を包み、出撃前の打ち合わせをする特攻隊員ら=昭和19(1944)年12月

 旧日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めての攻撃を実行してから、10月25日で70年を迎える。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は6418人。彼らは何を思い、その後の日本人に何を託したのか-? 元特攻隊員の言葉などから英霊の思いに迫る。(編集委員 宮本雅史)


 毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で、「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれ、今年で40回を数える。

 敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=を指揮官に5人で編成。25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど戦果を挙げた。

 当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。

 関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、報道班員だった同盟通信の小野田政特派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。


 「関は腹立たしげにこういった。『報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』」

 関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。

×   ×

 特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。

 ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。

 関大尉の母、サカエさんも、「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。

 訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月、還暦を前に亡くなる。

 意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を引きとったという。

 サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。

79凡人:2015/04/13(月) 10:08:52 ID:ve6M5DlE0
【特攻70年(下)】
特攻隊員は今の日本を望んだか…「あの人たちは何のために死んだのか。可哀想で」元婚約者の慟哭
2014.10.24 11:00sankei

飛び立つ特攻機。隊員らの目に今の日本人はどう映るだろうか=pic

 フィリピン・レイテ沖海戦で昭和19年10月25日、関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=率いる旧日本海軍の「神風特攻敷島隊」が初めての攻撃を実行してから、70年となる。

 自身も海軍特攻隊員で、出撃前に終戦を迎えた「敷島隊5軍神 愛媛特攻戦没者奉賛会」会長の寺田幸男さん(88)は、英霊への感謝の気持ちを奪った当時のメディアとそれに醸成された世論は戦後の日本の姿をゆがめたという。「成人式が済んでいないような若者がにっこり笑って死んどるじゃろ。そんなのは日本しかない。日本人は誇りに思わにゃあいかん。それを教えないから、今の子供はのうのうとしている」

   ×   ×

 特攻作戦はその後も、陸、海軍が沖縄戦などで大規模に展開した。

 沖縄に向けての出撃前に終戦を迎えた元陸軍特攻隊員で第194振武(しんぶ)隊長だった堀山久生さん(91)=陸軍士官学校57期=は「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」と振り返る。

 沖縄への出撃後に機体の故障などで帰投した元陸軍特攻隊員で、知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長、板津忠正さん(89)も「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」と語る。

 戦局悪化の中、軍上層部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろうか。

 人間魚雷・回天を考案した黒木博司大尉=当時(22)、殉職後に少佐=は戦友に「中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり」と軍上層部への怒りに似た思いを打ち明けている。

   ×   ×

 戦後70年近くたった日本の姿にいらだちを感じる関係者も多い。鹿児島・知覧飛行場から沖縄に出撃して散華した元陸軍特攻隊長の婚約者だった女性(95)=岐阜県=は最近、「あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを日本人は忘れてしまったのかしら。今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない」と涙を流す。

 鹿児島・万世飛行場から沖縄に出撃して散華した陸軍特攻隊員の実兄は「隊員の多くは、子供たちに古事記を読ませるように言い残すなど教育の大切さを説いた。戦後、わが国は経済面で世界の牽引(けんいん)国に成長したが、何か、大切なものを忘れてしまった」という。

 戦後70年を経た日本人がこれから、どのような日本国を構築するのか-。英霊は現代の日本人にそう問いかけている気がする。(編集委員 宮本雅史)

80凡人:2015/04/13(月) 10:11:36 ID:ve6M5DlE0
【記憶の風景-戦後70年】
「ワレ イマヨリ ジバクスル」…特攻の無線響いた地下要塞 横浜・日吉、連合艦隊司令部
2015.2.8 09:59更新sankei

連合艦隊司令部地下壕の内部。画面手前が電信室だった。当時としては珍しい蛍光灯で照らされ、短波受信機約30台が並んでいたという=横浜市港北区

 「ワレ イマヨリ ジバクスル」。太平洋戦争末期、旧日本海軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵艦船に体当たりする神風特別攻撃隊(特攻隊)を編成した。生きて帰れない任務。連合艦隊司令部の電信兵だった大島久直さん(85)=茨城県下妻市=は、若い命がついえる瞬間の信号音を何度も受けた。

 特攻は信号を送信状態のままにして行う。電文受信後に流れる「ツー」という長音が最後になった。「信号音の消えたときが敵艦に突入したか撃墜されたとき…。10秒ほどが本当に長く感じた」。大島さんの記憶は鮮明だ。

 大島さんが昭和20年2月に配属された連合艦隊司令部は、本来、艦隊の旗艦に置かれていたが、この時は地下にあった。慶応大学日吉キャンパス(横浜市港北区)に掘られた日吉台地下壕(ごう)。19年3月、海軍は慶応から敷地や建物を借り移転を開始、本土決戦に備え巨大な地下施設を造り、中枢機能の多くを移転させた。

 レイテ沖海戦をはじめ硫黄島や沖縄の戦いなど、戦争末期の作戦はここで指揮が執られた。20年の4月7日には、戦艦大和が米軍機の攻撃で沈没する様子も刻々と入電、電信兵は涙ながらに信号を受け続けたという。

 鉄製の扉を開けるとコンクリートに覆われた通路が伸び、懐中電灯を頼りに進む。総延長約5キロの地下壕内部は迷路のよう。司令長官室や作戦室、大島さんが所属した電信室も残る。定期的に見学会が実施されており、参加者は年間2千人以上にのぼる。「日吉台地下壕保存の会」会長で慶応高校教諭の大西章さん(63)は「“かわいそう”だけではいけない。遺産を残すことで戦争を考えるスタートにしたい」と、保存の意義を訴える。

 大島さんも昨年秋、約70年ぶりに地下壕を訪れた。電信室に入ると、言葉に言い表せない記憶が蘇(よみがえ)った。(写真報道局 奈須稔)

81凡人:2015/04/13(月) 12:26:56 ID:da95RwFo0
戦艦大和:沈没70年 呉で追悼式 戦死3千人の冥福祈る
毎日新聞 2015年04月07日 11時30分(最終更新 04月07日 13時51分)

「戦艦大和戦死者之碑」の前で執り行われた追悼式=広島県呉市で2015年4月7日午前10時半、大西岳彦撮影

 旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没してから丸70年となった7日、大和が建造された広島県呉市にある旧海軍墓地で追悼式が営まれ、遺族や海上自衛隊関係者ら約300人が黙とうをささげた。参列者は、特攻として出撃し海に沈んだ戦艦の非業の最期に思いをはせ、戦死した約3000人の乗組員の冥福とともに、平和への誓いを新たにした。

 大和は呉の海軍工廠(こうしょう)で建造され、1941年12月に就役した。戦艦としては世界最大級の全長263メートル、最大射程約42キロに及ぶ46センチ口径の主砲3基を搭載していた。だが45年4月6日、米軍が上陸した沖縄に向かう水上特攻作戦のため停泊地の徳山(現山口県周南市)沖を出撃し、翌7日に鹿児島県沖で米軍機の猛攻を受けて沈没。乗組員3332人のうち9割以上が亡くなった。

 追悼式は乗組員の遺族や市民らでつくる「戦艦大和会」が主催。高齢化などで生存者が年々減り、会主催の追悼式は2005年以来。会長の広一志さん(91)=呉市=は、41年8月から2年間、信号兵として大和に乗船した。

 「若い世代は(日米開戦の)12月8日を知らない人もいる。大和を通じて、若い人にも戦争を知ってほしい」と話した広さんは、「失った大和の友人たちにも夢があり、生きていれば家庭も持ったはず。彼らの犠牲のおかげで今の平和がある。だからこそ、平和を大切にしていきたい」と話した。【石川裕士】

82凡人:2015/04/14(火) 20:32:21 ID:da95RwFo0
第二次大戦で一番とばっちりをうけたのはアメリカにいる日系移民や日系アメリカ人。こういうのを読むと、アメリカ政府が戦争当時とった日系人への人種差別行為が正当化されそうだ。アメリカでは当時日系人というだけで、大戦中ある日突然、数日後に自宅からの退去命令。家族全員が着の身着のまま、スーツケースだけを抱えて、ユタ等の内陸部僻地にいくつか新設された強制収容所へ強制入所させられた。そこは刑務所のように有刺鉄線のフェンスで囲まれて、銃を抱えた兵士が常駐する監視塔つきであった。現在あるロスの市役所の近くには、かつては日系アメリカ人がかなりの土地を所有して農業を営んでいたが、その集団疎開で二束三文で売り払い、土地や家財を失ったと聞く。これでかなり大もうけした白人がいたという。戦時中は同盟国のドイツ系やイタリア系アメリカ人は、まったくそんな待遇は受けなかった。どんなときも戦争は悲劇である。その後だいぶたってロナルドレーガンが大統領の時に、当時のアメリカ政府の誤りをみとめ、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償されたのは1988年。
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【戦後70年】
マレー作戦「日本、完璧な諜報」 英秘密文書「最悪の降伏」分析
2015.3.1 09:11産経

英国防諜機関のシンガポール支部の1940年7月の報告書の抜粋 (英国立公文書館所蔵)

 第二次大戦で「東洋のジブラルタル」といわれたシンガポールが日本軍によって陥落して73年。チャーチル英首相が「英国史上最悪の降伏」と嘆いた作戦の背景に、「第五列」など「完璧な諜報活動」があったと、英国側が分析、評価していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。事前に地理や軍事力の情報を収集し、植民地支配から現地人を独立させるため、支援して協力させていた。戦前の日本のインテリジェンス(諜報)能力が高かったことが改めて浮き彫りとなった。

 「マレーにおける日本のインテリジェンス活動」(KV3/426)によると、英国の防諜機関のシンガポール支部は、日本が情報収集活動を本格化させた1940年7月に報告書で「日本はマレー半島、とりわけシンガポールで完璧な諜報活動を展開している。精巧な組織が存在しているとは聞かないが、国を挙げてかなり発達した諜報組織を持っている」と警戒していた。

 さらに41年4月、「日本の諜報活動は、スパイとして生まれてきたような日本人全てが関わり、彼らがこの国にいる限り続くだろう」と在留邦人が総出で情報収集していることを指摘。「あらゆる日本人を捕虜にし、国外追放する方法を検討すべきだ」と結論づけた。

 実際に同年12月8日に開戦すると、在留邦人約3千人がインドのプラナキラ収容所に抑留された。

 「英国史上最悪の降伏」について、42年6月2日付の報告書で陥落時のシンガポール防諜機関の責任者は、「少なくとも6人の内通者が日本の侵攻を手引きした」と指摘、さらに同7月23日付で「MI6」高官がMI5海外担当責任者にあてた書簡で、「ここ数年日本は想定を超えて驚くべき『第五列』活動を毎日のように行った」と指摘して現地人を味方につけた「第五列」を「敗因」とした。

 そして、マレーでは、全てのマレー人が積極的か潜在的に「第五列」に参加しているとの見方が広がるほど、日本が活動を活発化させたにもかかわらず、「英国側が重大に受け止めず官僚的態度に終始し、英将校らが不用意に重要事項を公然にしたことが悔やまれる」(42年7月30日、MI5幹部報告書)としている。

 日本の「第五列」活動が成功したことに関連して、「アジアを通じて日本の仏教の僧侶たちが頻繁に情報収集しながら、反キリスト教の汎アジア主義を訴えた」(42年6月6日報告書)と、欧米白人の植民地支配からの解放を訴えたことを記している。 (編集委員 岡部伸)

【用語解説】マレー作戦 日本軍は1940(昭和15)年夏ごろから軍、外務省、民間企業や台湾総督府、南方協会などが協力してマレー半島からシンガポールに至る地理や英軍の軍事状況、衛生防疫などを徹底調査し、海南島で上陸訓練まで行った。真珠湾攻撃の数時間前にマレー半島北端に上陸した日本軍は、55日間で1100キロを進撃し、42年2月8日、ジョホール海峡を渡ってシンガポール島へ上陸し、15日に英軍が降伏した。


【用語解説】第五列(fifth columnあるいはQuislings)

 自国の中に存在する仮想敵国および敵国に味方する勢力、裏切り者、スパイ、反逆者。有事の際は敵国に呼応して自国で破壊工作、情報詐取、攪乱(かくらん)、世論醸成、文化侵略などを行う。スペイン内戦で4個部隊を率いてマドリードを攻めたフランコ派のモラ将軍が市内にも呼応して蜂起する5番目の部隊(第五列)がいると言ったことが起源。

83凡人:2015/04/15(水) 20:12:16 ID:ve6M5DlE0
戦艦大和:総員死ニ方用意…1945年4月6日最後の出撃
毎日新聞 2015年04月05日 21時50分(最終更新 04月07日 10時20分)

大和の元乗組員の畦地さん=写真

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。
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 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」

 ◇戦艦大和
 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。

84凡人:2015/04/20(月) 14:02:21 ID:da95RwFo0
【戦後70年】
「作戦室が被弾し、一挙に57人が戦死」「主砲が火を噴くと米軍機に大穴」深海に眠る戦艦「武蔵」と「大和」について語る…戦艦大和会顧問の相原謙次氏 2015.4.20 11:00 産経ニュース

最高速度で進む戦艦大和(大和ミュージアム提供)

 戦後70年の特別企画として3月27日に大阪市内で開催された「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)が講演、今年3月、フィリピン沖で発見された戦艦「武蔵」と、現在も長崎県男女群島沖に眠る戦艦「大和」について語った。

 《フィリピンのシブヤン海で3月、発見された戦艦大和の姉妹艦、武蔵。レイテ湾に出撃する艦隊や沈没時の写真などを示しながら、発見者のポール・アレン氏が公開した映像を分析した結果などを報告》

 武蔵の最後は昭和19(1944)年10月、フィリピンを奪還しようとレイテ湾の島に上陸したアメリカ軍を撃退するため、ほぼ航空部隊はなくなっていたのだが、主力の水上部隊で殴り込みをかけに行った。武蔵は、途中のシブヤン海でアメリカの機動部隊の猛攻撃を受けて沈没した。なんと受けた魚雷は20本以上、爆弾は17つ以上。列国の戦艦であれば魚雷4本で沈むところ、10時間以上かけてようやく沈んだ。当時の乗組員たちが耐えて耐えて耐え抜いたが、ついに10月24日午後7時35分沈没した。

 護衛していた駆逐艦「磯風」の艦橋から武蔵を撮影した写真がある。写真では大きく左前側に傾斜しているのが分かる。海底の武蔵の写真では、左側の錨(いかり)がなかった。左側に傾いたために傾斜を復元しようと、15トンある主錨を切り落としたためだ。

 一番主砲塔が抜けた穴の直径は12メートル。艦橋、煙突が映っていた。艦橋では航海中は上層部が指示を出すが、戦闘配置につくと、艦長や砲術長らは防空指揮所に上がる。屋根がないので、艦長はヘルメットに防弾チョッキを着て羅針盤の前で指揮をした。当時の武蔵の猪口敏平艦長もそう。海底の武蔵は第一艦橋の右側に大きな破口があった。これは相手の爆弾が防空指揮所に命中し、第一艦橋を貫いて、その下の作戦室で爆発したため。艦の上層部が一挙に57人戦死した。戦闘詳報をつけている係員も全員戦死し、猪口艦長は右肩に重傷を負いながらも第二艦橋に移り最期まで指揮した。海底の武蔵には、この大破口があり、15メートル測距儀の右側が取れて無くなっていた。ちなみに戦艦大和の測距儀は、艦首の下敷きになっていた。しかし、測距儀の両端のレンズはまだキラリと光っていた。

 武蔵の沈没場所(フィリピン中部コブラドール島北東)については、戦闘詳報に記録されていたものより、大きく流されていたようだ。

 武蔵には車台に水上飛行機を乗せて火薬の力で発進させる機械「カタパルト」があり、これも写っていた。このカタパルトの車台の車輪を開発した技術者が戦後国鉄の技術研究所に入った。高速でも脱線せず安定して走る、新幹線の車輪を開発する技術に生かされた。

 ちなみに、これが平成11(1999)年に撮影した大和の菊の御紋です。(直径)1・5メートル。アレン氏の映像にはチーク材とあったが、ケヤキ材です。ケヤキを彫刻して漆をかけて金メッキを施しています。海底の大和の菊の紋はまだ金色に輝いていた。
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85凡人:2015/04/20(月) 14:03:14 ID:da95RwFo0
 《相原氏は、大和沈没までの歴戦について、当時の写真や資料を紹介する》

 大和の最初の作戦はミッドウェー海戦。ミッドウェーではなぜか、空母の後ろ300海里(555・6キロメートル)について行ったので交戦はしていない。マリアナ沖海戦では機動部隊の随伴で大和も出撃したが、練度が低く空母や航空部隊がほぼ全滅してしまう。そしてレイテ沖海戦。武蔵など多くの艦艇を失いながら、もう少しでレイテ湾というところで謎の反転をしている。このとき大和はアメリカの機動部隊の集中攻撃を受けた。一番主砲塔などに爆弾が命中したが、かすり傷程度だった。

 昭和20年3月19日の呉の初空襲では、大和の上空で、三四三航空隊が激しい大反撃をした。アメリカ海軍が本土空襲で一番損害を受けたのがこのとき。呉は(第二次大戦中)14回空襲を受け、うち6回が大空襲だった。全国で11番目に多い、市民2千人が犠牲になった。大阪は4番目に多く、1万人超の市民が犠牲になっている。

 ちなみに大和が最後の主砲を放ったのはこの時だ。沖縄特攻作戦では一発も撃っていない。このとき江本義男測的長が「弾込め」の命令を出したらしい。有賀幸作艦長は「なぜそんな命令を出した」とすごい怒った。大和の主砲は遠距離を撃つためにあり、撃つ際には外の配置の乗組員は中に入らねばならない。敵は中距離近距離に来ているのに、高角砲などが反撃できなくなる。対空弾を撃つので、市街地に破片が落ちる危険もあった。しかし、一度弾を込めると発射しない限り取り出すことができない仕組みになっていたため、仕方なく6門発射した。

 アメリカ軍のパイロットによると、大和が火を噴いたら飛行機の横に大穴が開いたらしい。戦後その話を聞いて江本さんは「おお、当たったか」と話していた。江本さんは一年半前に亡くなられた。

 アメリカ軍は、呉港沖合にいた大和を狙って呉周辺に機雷を仕掛けたが、大和は19日の前の晩に呉を脱出していて助かった。その後、沖縄の人を守るため水上特攻をかけることになった。昭和20年4月6日午後4時に出港。大和は佐世保に向かうふりをして沖縄に突っ込み、アメリカ軍の基地がある岸壁に乗り上げ、大砲を撃ち、弾がなくなれば生き残った兵は艦を捨て、陸戦部隊と合流せよ、というのが作戦だった。最初からやられるのは分かっていた。

 のの字運動をしながら爆弾魚雷を回避する大和だったが、第一次攻撃隊の爆弾が後部艦橋に命中し、この火は最後まで消えなかった。魚雷10本と爆弾多数を受け、左側に大きく傾き横転、沈没。その後、二番主砲塔と三番主砲塔の火薬庫が誘爆した。

 《相原氏は、沈没した大和の潜水調査についても、生存者や元乗組員らの証言とともに紹介した》

 戦闘詳報の場所に大和は沈んでいなかった。終戦直後から大和の遺族、元乗組員の生活の面倒を見ていた、生存者で戦艦大和会初代会長の石田恒夫さん(故人)が、昭和55年から会の有志と私財をなげうって沈没場所を慰霊のために探し始めた。ちなみに会は生存者が亡くなって休止状態だったが、昨年に元乗組員、広一志さんを会長に再結成している。

 55年の調査でソナーに大和らしきものが映った。56年は台風で中止になり、57年の探索で大和を発見した。60年の調査では菊の紋章を発見した。
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86凡人:2015/04/20(月) 14:03:55 ID:da95RwFo0
 《平成11年8月の調査について言及》

 大和は大陸棚の端に引っかかっていた。海底の大和は、菊の紋章のあるところから一番主砲塔と二番主砲塔の間で真っ二つ。その折れた二番主砲塔から艦尾までがその前部にひっくり返った状態だった。三番主砲塔は火薬庫が誘爆したので大きな破口が空き、大きく九の字に曲がっている。一〜三番主砲塔はひっくり返った状態。艦橋の上部はバルバスバウ(球状船首)の下敷きになっていた。マストは一番主砲塔の抜けた穴の横に引っかかっていた。スクリューも右端の一つが飛んで海底に突き刺さっていた。

 《大和に結集された技術の戦後の活躍について、映像とともに紹介》

 日本は昭和31年に造船業で世界一となり、現在まで造船大国として栄えてきた。背景には、大和に注ぎ込まれた高度な技術や人材があった。効率的な生産管理システムのほか、薄くて速く造れる装甲板の技術は製鋼業に、高い精度を誇った世界最大の測距儀は、その後のカメラ技術に生かされた。

 戦艦大和は3332名中3056名の方と九州南西沖水深350メートルのところに沈んでいる。大和は当時日本の科学技術とものづくりの結晶として生まれた。しかし、遺憾なくその性能を発揮する機会はあまりなかったが、その技術が花開いたのはむしろ、戦後だ。

 志を持って日本を守ろうとした乗組員、生存者、遺族、大和の建造に一生懸命頑張ってきた科学技術者、ものづくりの職人たち。こういう人たちの思いを消し去ることなく後世まで伝えていけば、先人たちが喜んでくれると思う。


 あいはら・けんじ 今年4月から、戦艦大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問。呉市顧問。講演当時は、大和ミュージアム統括。呉市史や日本海軍史など近現代史研究や歴史を生かしたまちづくりに取り組み、全国で講演を行う。大和ミュージアム建設事業にも携わり、平成11年には大和の潜水調査も行った。
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87凡人:2015/05/01(金) 05:28:30 ID:ve6M5DlE0
抑留死名簿新たに1万人、シベリア外2130人
2015年05月01日 02時09分Yomiuri

厚労省が公表した旧ソ連による抑留中に死亡した人のロシア語で書かれた名簿=写真

 厚生労働省は30日、第2次世界大戦後に旧ソ連が設置した収容所などで死亡した日本人抑留者のべ1万723人の名簿を新たに公表した。

 このうち、現在の北朝鮮や南樺太(現サハリン)など、シベリア以外の抑留死亡者は2130人。厚労省はこれまでシベリア以外での死亡者の名簿を公表していなかったが、戦後70年となり、遺族への情報開示を進めるため、保有資料をすべて公表することにした。

 名簿は、旧ソ連が作成し、ロシアの国立軍事古文書館や国防省などが開示した死亡者名簿などを基に、厚労省がまとめた。カタカナ氏名と死亡日、埋葬地を明らかにし、日本側資料との照合で身元が特定できた2660人については、漢字氏名と出身地も併記した。

 地域別では、シベリア抑留(ナホトカなど沿海地方を含む)の死亡者が8593人。残る2130人はシベリア以外で、内訳は、▽朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)興南地区1853人、元山地区11人▽中国・大連178人▽南樺太・千島列島88人――だった。

 名簿はおおむね、抑留先の収容所や病院、強制労働を目的に振り分けられた「労働大隊」などの単位で作成されている。今回の公表で、南樺太・千島列島の死亡者のうち30人以上が労働大隊に所属していたことが判明。抑留に詳しい研究者は「シベリア以外でも強制労働があったことが裏付けられた」と指摘した。

 ただ、抑留中に死亡したのに名簿に氏名がない人もおり、厚労省はロシア側の資料をすべて取得できたわけではないと思われる。同一人物が重複して名簿に掲載されているケースもあるとみられ、厚労省は精査を進める。

 抑留死亡者の調査を巡っては、1991年に来日した当時のゴルバチョフ大統領からシベリアでの死亡者名簿(約3万7000人分)が提供されたのを機に、旧厚生省が本格着手。原則、身元を確認して公表してきた。シベリア以外の死亡者名簿も、2000年以降に入手していたが、シベリアの調査を優先して公表はしていなかった。

88凡人:2015/05/15(金) 17:44:21 ID:da95RwFo0
大学のシンボルである直属応援団が愛する高崎にあった陸軍歩兵第十五連隊。先に秩父事件の鎮圧出動したことに触れた。日本のために戦い玉砕していった第十五連隊を糾弾するつもりは毛頭ない。彼らは彼らの当時の義務をまっとうしたに過ぎない。彼らはいわば戦争の犠牲者。その勇敢さに畏敬の念は起こるものの、だからといって、盲目に崇拝することはできない。政治家を中心に、戦争美化、日本の歴史浄化を企てる動きがとても気になる戦後70年を迎えた今。太平洋戦争の風化が甚だしい。これから生まれてくる子供たちのためにも、真実を明らかにすることが益々重要性と緊急性を帯びている。真実を次の世代に残すことは我々の義務と確信する。それを知ることにより初めて、同じ不幸が起こらないような対策が一緒になって考えられるからである。間違いは間違いとはっきり言える勇気。そういった勇気もが、同じように尊敬される社会に生きたいものだ。
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Mar.2007
BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件
―裁かれた高崎215連隊―
岩根 承成

http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/iwane.pdf

事件の概要について。アジア太平洋戦争末期の1945年7月上旬、群馬県高崎の連隊歩兵第215連隊第3大隊による、タイ国境近くのビルマ東南部モールメン地方のインド人部落カラゴン村殲滅作戦が強行された。その結果、少なくとも女、子供を含む600人以上の住民が虐殺され、約10人の若い女性住民が拉致され、その後村が焼き払われた。

(1)「戦争犯罪者を裁く軍事法廷」
1)被告一覧
「 全員 日本帝国陸軍第33師団第215連隊第3大隊 1から8
 全員  憲兵隊 9から14」

9)被告の個人別の抗弁・弁明
被告1(市川清義・大隊長) 少佐 イチカワ セイギ
彼は上官からの命令を受け、それを実行する他はなかった。虐殺は拒否されることなく、迅速か
つ人間的に実行された。いかなる村民も拷問を受けず、子供は世話をする人がいなくなれば孤児
として後に残されるので、それを避けるために殺す必要があった。彼は10人の女性を拉致した
ことを認めたが、村長の妻は虐殺されたと述べた。女性たちは日本軍のスパイとして働くために、
自らの自由意志で来たのだと。

被告4(柳沢泉)、5(緑川寿)、7(田島一郎)
これら被告は、実際の虐殺を実行した中隊長であった。彼らは、村民を駆り集めたこと、銃剣で
突き刺すことを指揮したことは認めた。それは自分たちが受けていた命令に基づいてなされたも
のであり、自分たちには命令に従う義務があり、行為は迅速かつ人間的になされたと述べた。彼
らは、殺害に先立ついかなる村民への虐待も否定し、逃れた村民が事件全体の話を歪曲、誇張し
ているのだと述べた。
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89凡人:2015/05/15(金) 17:49:03 ID:da95RwFo0
(2)村民の法廷証言
事件に遭遇しながら、生き延びられた村民が、次々と法廷で証言した。ここでは2人の村民の法廷証言を抜粋して「 」内に示し(一部要約)、考察を加える。Aが証言者である。

○カラゴン村長(37歳) Mohd Usoofの証言
Q 日本兵は村人をどこに集めたのですか。
A 男はモスク、女は近くの聖職者の施設(zayato)に集められるのを見ました。
Q 集められた村人は、何人でしたか。
A 600 人以上。
Q 集められた村人は、日本兵にどのような扱いを受けましたか。
A 両手を背中で縛り、長いロープで一人ずつ繋ぎ、10〜15人ずつの固まりとなって、ちょっと
離れた井戸まで連れて行かれるのを見ました。それから悲鳴を聞いたのです。
Q 彼らが井戸に着いて、そこで何が起こったか見ましたか。
A 引きずられ、目隠しされ銃剣で突き刺され、井戸に投げ込まれるのを見ました。
Q 銃剣で刺すのはどのくらい続きましたか。
A 3時から6時半までです。暗くなった後、子供や女が悲鳴を上げるのを聞きました。
Q あなたが12日にカラゴンへ戻った時の村は、どのような状態だったのですか。
A 家はすべて焼け落ち、井戸は死体だらけでした。
Q カラゴンでは何人が殺されたか分かりますか。
A 600人以上だと思います。
Q 何人が行方不明でしたか。またその男、女、子供の内訳も教えてください。
A 637人。男が174人、女が195か196人、子供が266か267人です
Q 女性や子供たちが日本軍に逆らって行動していると、あなたは本当に思っていたのですか。
A はい。
Q 幼い子供たちを殺したことを、どのように弁明しますか。
A 子供たちに対してとるべき他の方法がありませんでした。
Q それをもう少し詳しく説明してください。
A 第一に、私が受けた命令には、子供たちを殺すことも含まれていました。もし、子供たちの命を助けたら、彼らは孤児になり、生きていくこともできないでしょう。時間を節約し、私の任務を遂行するため、彼らを殺さざるを得ませんでした。
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90凡人:2015/05/15(金) 17:51:15 ID:da95RwFo0
次に、「10〜15人ずつの固まりで井戸まで連れて行かれ」、そこで「銃剣で突き刺され、井戸に投げ込まれた」など、殺害されるまでの日本軍による村民の扱いと殺害状況が、生々しく証言されている。この「固まり」は「20〜30集団」とも述べており、この地獄が3時間以上にわたったとも証言している。

なお、井戸の数について、別の証人Supe An(男性35歳・農業)は「死体の入っていた井戸はいくつありましたか」の質問に、「22のすべての井戸です」と答えている。また、Abudul Rashid(男性24歳)は実際に調べた結果を、「死体が投げ込まれたのは22の井戸でした」と、証言している。

さらに、女性拉致については、12人が連れ去られ2人が逃げ帰ったと証言した。逃げ帰った1人Haki (Haky)Janは、この時証言者として法廷に出廷していることが確認された。残りの女性については、後に日本軍の手で殺害された8)。

④ 戦時国際法・ハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」への認識
「Q 1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ協定・条約を聞いたことがありますか。
A その協定という言葉は聞いたことがありますが、詳細は知りません。
Q 日本がこのハーグ協定の加盟国であることに気づいていましたか。
A 忘れていました。
Q 日本軍が戦争における国際ルールを守る義務があることに気づいていましたか。
A はい、知っています。
Q 占領軍は占領地の住民に対してある義務があることに気づいていましたか。
A いくつかあるかもしれません。
Q 大多数のカラゴン村民が、確かにスパイとして働いたと見なしましたか。
A はい。
Q スパイを、適切な裁判なしに処刑できないことを知っていましたか。
A それは知りません。
Q もし、あなたがイギリスのスパイであるゲリラを捕まえたら、その場で処刑はしないですね。
A はい。しかし村民らは敵と協力していたため、彼らを敵と見なしました。 」

以上、戦争法であるハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」について、大隊長であり少佐の地位にある市川が十分な認識を持っていなかったこと。裁判なしに捕虜やスパイを処刑できないという規則さえ、「知りません」と答えるなど、日本の軍隊内では戦争法がいかに軽い存在であったかが分かる。

付記) 筆者のカラゴン村事件研究への取り組みは、1998年刊『新編高崎市史 資料編10』編さんの仕事に始まり、その後、前掲3本の拙稿の執筆、2001年度前橋国際大学公開講座、2006年第10回戦争遺跡保存全国シンポジウムにおける報告の機会を経て、本稿の執筆に至った。この間、多くの方々からのご教示、ご協力を頂いた。記して感謝したい
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91凡人:2015/06/25(木) 01:29:39 ID:da95RwFo0
「ひめゆり」涙で校歌 慰霊祭に元学徒や遺族ら400人参列
2015/6/24 1:58 Nikkei

 沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」を迎えた沖縄県は、23日午後も各地で冥福を祈る式典が営まれた。傷病兵の看護のために動員された「ひめゆり学徒隊」の慰霊祭も開かれ、元学徒や遺族ら約400人が参列した。

 同学徒隊は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校で編成。生徒222人が動員され、123人が犠牲になった。同窓生は慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市)での式で両校の校歌を涙ながらに歌唱。元学徒で、ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長(87)は「ひめゆりの塔も資料館も平和の砦(とりで)になってほしい」と取材に答えた。

 学徒だった姉を亡くした富田静子さん(82)は「憧れの存在で、教師になって頑張るつもりだったはずの姉。戦争に巻き込まれて悔しいという思いは今も変わらない」と悲痛な表情を浮かべた。

 また県教育委員会は23日午前、糸満市内の小学校から最後の激戦地、摩文仁(まぶに)まで歩き、沖縄戦への理解を深めてもらう「ピースウオーク」を初めて実施。県内の高校生約150人が参加した。県立真和志高校3年、酒井弘輝さん(17)は「きょうの自分たちには飲み物もあるし帽子もあったが、当時は何もなく、はだしで歩いたと聞いた。当時の人たちのつらさを感じた」と汗を拭っていた。

92凡人:2015/08/01(土) 11:25:36 ID:da95RwFo0
「加害の歴史」にも力 前橋で戦争写真展、300点展示【群馬】
2015年8月1日東京中日

中国人強制連行の関連写真を見学する市民=前橋市で

 終戦の日を前に、「2015平和のための戦争写真展」が三十一日、前橋市本町の前橋プラザ元気21で始まった。今年は戦後七十年に合わせ、最終日の二日に特別講演会を開く。

 戦後五十年から毎年開かれており、県平和委員会など六つの市民団体が主催。主催団体に日中友好協会前橋支部と日朝協会群馬支部が参加し、日本が中国や朝鮮半島に侵略した「加害の歴史」にも力を入れている。

 写真展は入場無料で、約三百点を展示。多数の中国人が県内に強制連行された「藪(やぶ)塚(太田市)・月夜野(みなかみ町)事件」に関連する写真、中国・南京の虐殺現場とされる写真が並ぶ。

 展示には、高崎にあった陸軍歩兵第一五連隊がパラオで多くの戦死者を出した様子や、前橋空襲、広島と長崎の原爆、沖縄戦などの写真もある。

 会場で、日中友好協会県連合会の山本健二理事長(74)は「前橋空襲を経験し、市民が次々と犠牲になる姿を目撃したのが私の原点。日中戦争への反省から、日中友好に関わってきた。中国・南京などの現地を見学したが、何らかの虐殺行為があったのは史実と実感した」と指摘した。

 二日は午後一時半から、慶応大の大西広教授(中国・アジア経済論)が、「知らないですまない戦後七十年-どうする隣国関係」と題して前橋プラザ元気21で講演する。

 資料代三百円。事前予約は必要ない。問い合わせは、山本理事長=電027(251)0466=へ。 (菅原洋)

93凡人:2015/08/08(土) 01:43:00 ID:da95RwFo0
広島への原爆投下を伝えるアメリカの1945年8月7日付けの当時の新聞記事。
(Originally published by the Daily News on August 7, 1945. This story was written by Jack Doherty.)
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http://www.nydailynews.com/news/world/u-s-drops-atomic-bomb-hiroshima-1945-article-1.2286808

U.S. drops the atomic bomb on Hiroshima in 1945
NEW YORK DAILY NEWS
Wednesday, August 5, 2015, 12:00 PM

THE PHOTO PROVIDED BY U.S. ARMY VIA HIROSHIMA PEACE MEMORIAL MUSEUM, NO SALES, CREDIT MANDATORY AP provides access to this publicly distributed HANDOUT photo to be used only to illustrate news reporting or commentary on the facts or events depicted in this image. AP
A mushroom cloud billows about one hour after a nuclear bomb was detonated above Hiroshima, Japan on Aug. 6, 1945.

WASHINGTON, D.C., Aug. 6 - The most terrible weapon in history - an atomic bomb with more explosive power than 20,000 tons of TNT - was dropped on Japan last night, it was disclosed today as President Truman hurled a new ultimatum at the [Japanese], warning them to surrender or be wiped out.

In revealing the most closely guarded secret of World War II, the President announced in a dramatic statement issued through the White House:

“Sixteen hours ago (7 P.M. Sunday, New York time) an American airplane dropped one bomb on Hiroshima, an important Japanese army base. The bomb had more power than 20,000 tons of TNT. It had more power than 2,000 times the blast power of British ‘Grand Slam,' which is the largest bomb ever yet used in the history of warfare… it is an atomic bomb. It is a harnessing of the basic power of the universe. The force from which the sun draws its power has been loosed against those who brought war to the Far East.”

ATOMIC BOMB DROPPED ON NAGASAKI IN 1945

The extent of damage from superbomb No. 1 was not immediately learned. A War Department statement said that “reconnaissance planes state that an impenetrable cloud of dust and smoke covered the target area.”

“As soon as accurate details of the result of the bombing become available, they will be released by the Secretary of War,” it added.
Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.
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Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945. Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.

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New York Daily News
Atomic bomb was dropped on Japan, published August 7, 1945.

(The Associated Press pointed out that the one atomic bomb dropped on Japan carried a wallop more violent than 2,000 B-29 superfortress normally could hand a city, using the old type TNT bombs. One B-29 ordinarily can deliver about 10 tons of TNT bombs to a target.)

Last night’s bomb hit Hiroshima, on the Inland Sea, on the southeast coast of the main [Japanese] home island of Honshu. Truman warned that others would strike if the [Japanese] did not surrender immediately.

“It was to spare the Japanese people from utter destruction,” the President said, “that the ultimatum of July 26 was issued at Potsdam. Their leaders promptly rejected that ultimatum. If they do not now accept our terms, they may expect a rain of ruin from the air, the like of which has never been seen on this earth. Behind this air attack will follow sea and land forces in which numbers and power as they have not yet seen and with the fighting skill of which they are already aware.”
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94凡人:2015/08/08(土) 02:06:42 ID:da95RwFo0
Even Deadlier Ones Coming.

War Secretary Stimson revealed that even deadlier atomic bombs will soon be made. “Improvements,” he said, “will be forthcoming shortly which will increase by several fold the present effectiveness” of the terror weapon.

Stimson flatly declared that “we are convinced that Japan will not be in a position to use an atomic bomb in this war,” and added that “it is abundantly clear that the possession of this weapon by the U.S. even in its present form, should prove tremendous aid in the shortening of the war against Japan.”

Here, superimposed on an aerial photo of Manhattan and Long Island City, are the boundaries of Hiroshima (broken white line) first city to feel the effects of the atomic bomb.

New York Daily News
Here, superimposed on an aerial photo of Manhattan and Long Island City, are the boundaries of Hiroshima (broken white line) first city to feel the effects of the atomic bomb.

The use in combat of the single atomic bomb was the culmination of three years of effort by science, industry, and the Army. So closely guarded was the secret of the new weapon that 125,000 workers at three hush-hush plants in Richland, Wash.; Oak Ridge, near Knoxville, Tenn., and near Santa Fe., N.M., never knew what they were producing, in more than two and one-half years.

On the super weapon, which works on an entirely new theory, the U.S., in cooperation with the British, gambled $2,000,000,000 that scientists could smash the atom, thus releasing the deadliest source of power ever discovered. Truman said that “we have spent $2,000,000,000 on the greatest scientific gamble in history and - won.”

The atomic bomb uses uranium as the essential ore in its production. War Secretary Stimson said that “steps have been taken and will continue to be taken to insure adequate supplies of this mineral.”

Race of Scientific Minds.

President Truman’s statement revealed that the bomb, despite its imagination-staggering deadliness, has an “exceedingly small” physical size, which confounded workers at the three atomic bomb plants. “They see great quantities of material going in and they see nothing coming out of these plants,” he said, “for the physical size of the explosive charge is exceedingly small.”

The history of the atomic bomb is also the history of feverish race among Germany’s scientific minds, and the combined scientific minds of the U.S. and Great Britain. The Battle of the Laboratories,” as President Truman called it, “held fateful risks for us as well as the battles of the air, land and sea, and we have now won the battle of the laboratories as we have won the other battles.”

YOTSUGI KAWAHARA/AP
Nuclear bomb victims are sheltered at the Hiroshima Second Military Hospital's tent relief center at the banks of the Ota River in Hiroshima, Japan, one day after the world's first nuclear bombing.

Prior to 1939, it was an accepted scientific belief that, theoretically, the atom could be smashed to release atomic energy. No one, however, knew any practical method of doing it. By 1942, the Germans, President Truman said, were working 24 hours a day to find a way “to add atomic energy to the other engines of war with which they hoped to enslave the world. But they failed.”

“Beginning in 1940, before Pearl Harbor, scientific knowledge useful in war was pooled between the U.S. and Great Britain, and many priceless helps to our victories have come from that arrangement,” he continued. "Under that general policy the research on the atomic bomb was begun. With American and British scientists working together, we entered the race of discovery against the Germans.”
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95凡人:2015/08/08(土) 02:07:57 ID:da95RwFo0
Experiments Conducted Here.

The late President Roosevelt and former Prime Minister Churchill, Truman said, agreed that experiments should be conducted in this country, free from bombing attack and threat of invasion.

Highly praising the resultant success of the combined Anglo-American efforts, the President commented: “What has been done is the greatest achievement of organized science in history. It was done under high pressure and without failure.”

With use of the shattering new weapon, he added, “we are now prepared to obliterate more rapidly and completely every productive enterprise the Japanese have above ground in any city. We shall destroy their docks, their factories, and their communications. Let there be no mistake; we shall completely destroy Japan’s power to make war.”

END OF THE WAR/HIROSHIMA PHOTO PACKAGE(FILES) This file photo dated 10 August 1945 shows two brothers who survived the atomic bombing of Hiroshima four days earlier. Around 140,000 people, or more than half of Hiroshima's population at the time, died in the first atomic bombing 06 August 1945, with another 70,000 people perishing in the bomb dropped over Nagasaki 09 August 1945. Following the bombings, Japan surrendered 02 September 1945 to Allied forces, officially ending World War II, bringing down the curtain on the costliest conflict in history. The 60th anniversary of the bombing of Hiroshima will take place with ceremonies in the Japanese city on 06 August 2005. AFP PHOTO/HO/FILES

AFP/AFP/Getty Images
This file photo shows smoke billowing 20,000 feet above Hiroshima, Japan while smoke from the burst of the first atomic bomb spread over 10,000 feet on the target at the base of the rising column.

Truman said he would recommend to Congress establishment of a commission to control production and use of atomic power in the U.S., and that he would “give further consideration and make further recommendations” to Congress as to how atomic power can become a “powerful and forceful influence towards the maintenance of world peace.”

Stimson announced that the man who directed the Army’s $2,000,000,000 job of discovering and perfecting atom-smashing was Major Gen. Leslie R. Groves, formerly of Pasadena, Calif., who now lives here. Groves, for the past three years, has held the title of commanding officer of the “Manhattan Engineering District,” the phony name given the hush-hush project to fool spies.

Many Plants Played Part.

A partial list of industrial firms which contributed “so signally” to the atomic bomb, as given out by Stimson, included:

Du Pont de Nemours & Co., which designed and constructed the mammoth Hanford installations in the State of Washington; a special subsidiary of the M.W. Kellogg Co., of N.Y., which designed one of the plants at Clinton, Tenn.; The J.A. Jones Co., which built the Clinton plant, and the Union Carbide and Carbon Co., which operates it. Other firms listed were the Stone & Webster Engineering Corp., Allis-Chalmers, Westinghouse, Chrysler, General Electric and Tennessee Eastman Corp.

Stimson also named a policy committee, with Truman’s approval, to formulate recommendations for postwar organization of atomic power development.

On the committee are Stimson, as chairman; and State Secretary Byrnes; former Undersecretary of the Navy Ralph A. Bard; Assistant Secretary of State Will Clayton Harvard President Dr. James Conant; M.I.T. President Dr. Karl T. Compton; and George L. Harrison, president of the New York Life Insurance Co., who is now a special consultant to Stimson. He was named alternate chairman of the committee.

Stimson also revealed that a combined policy committee, set up in August, 1943, to expedite production, was staffed by Stimson, Bush and Conant for the U.S.; Field Marshal Sir John Dill and Col. J.J. Llewellin for the United Kingdom; and C.D. Howe, for Canada.
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96凡人:2015/08/13(木) 03:12:52 ID:da95RwFo0
前橋の女高生が爆弾製造 戦後70年「その時、子どもたちは」戦時下の教育
2015年08月12日高崎前橋経済新聞

群馬県立前橋高女(現在の前橋女子高校)の女高生らが作っていた「風船爆弾」の傘の部分のレプリカ(縮小版)

 戦後70年、学校教育を通して戦争の悲惨さを訴える「戦時下の学校教育展 その時子どもたちは」が8月10日、「前橋市総合教育プラザ」(前橋市岩上3、TEL 027-230-9095)で始まった。

【写真】風船爆弾の製造の様子(前橋市立高等女学校)

 1931(昭和6)年の満州事変から日中戦争、太平洋戦争と戦火が拡大するに伴い、勤労奉仕や勤労動員など教育現場も戦争の色が濃くなる。

 戦争末期には、群馬県立前橋高女(現在の前橋女子高校)、前橋市立前橋高女(現在の市立前橋)、共愛女学校(現在の共愛学園高校)、久留万国民学校(現在の中央小)の生徒が、日本軍が計画した秘密兵器「風船爆弾」関連の作業に携わっている。

 戦争に染められていく教育現場。1945(昭和20)年8月5日、後に前橋大空襲と呼ばれるようになる空爆が襲う。この空爆により市街地にあった国民学校(現在の小学校)3校、共愛女学校、県立前橋高女、前橋工業学校(現在の前橋工業高校)、平方実業女子校が焼失した。

 同展では資料、写真など約200点の展示を通して、恒久平和を訴える。

 開館時間は9時〜17時。入館無料。9月30日まで。日祝、第2第4土曜休館。

97凡人:2015/08/20(木) 10:45:13 ID:da95RwFo0
【北関東の戦争遺跡】
旧中島飛行機地下工場(群馬県太田市)
2015.8.20 07:04 Sankei

 ■特攻機製造拠点 未完のまま終戦

 太田市。北関東随一の工業都市であるこの街には、飛躍的な発展を遂げた富士重工業がある。同社の前身は、終戦まで高い技術力を備え、日本の航空機やエンジンメーカーとして東洋最大、そして世界有数の航空機メーカーの中島飛行機製作所だった。元海軍機関将校の中島知久平が大正6年12月に飛行機報国を念じて創設した。

 創業以来終戦までに製作した機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。工場は分散され、太田工場では陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を生産したとされている。

 なかでも、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」は、陸軍を代表する戦闘機の主力機として使用された。だが、数々の偉業を成し遂げた中島飛行機は、米軍の戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、B29による爆撃で太田工場は徹底的に破壊された。

 米軍の空襲を避けるため建設を進めた旧中島飛行機太田地下工場は、広大な太田市八王子山公園墓地(西長岡町)の奥にある樹木に覆われた人目に付きにくい丘陵地に残る。戦局が悪化し、本土決戦に備えて昭和20年1月に建設を開始。特攻機の製造を目指したが建設途中に終戦となったという。

 地下工場の建設作業に携わったのは1500人とされ、10時間交代の突貫工事だったといわれている。計画では1トン爆弾に耐え、工場の規模は約2ヘクタール、操業開始は20年11月としていた。

 「旧中島飛行機太田地下工場を保存する会」の代表で、戦争遺物に詳しい石塚久則さん(68)は、「戦後、米国の調査団が入ったときには、工場につながる地下道は崩壊していた」という。

 太田市史によると、「終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われたが、調査に訪れた20年11月13日には、既にすべての入り口が崩れ落ちていたため、工場の地下道の調査は不可能であった。幅13フィート、高さ11フィートの地下道30本は完全に掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。工場内には工作機械は設備されず、運び込まれてさえもいなかった。たった1本のかろうじて小型四輪駆動車が通行できるような非常に狭い道を通って、工場跡地までたどり着いた」としている。

 石塚さんは、「地下道の入り口は土が柔らかく、崩落の危険性があり中には入れない。ただ昔、村の子供が入り込み迷子になったという話は聞いている。未完成だったが、とても広かったのではないか」と話す。

 地下道は今、金属の円筒で補強され、入り口前には「立ち入り禁止」の看板と柵が設置されているだけである。(前橋支局 平田浩一)

98凡人:2015/08/29(土) 11:11:51 ID:da95RwFo0
太田の戦争遺跡「地下工場」知って きょう、あす「戦争記録展」米軍調査の図面など【群馬】
2015年8月29日 東京中日

現存する地下工場跡の入り口=太田市の八王子公園墓地で

 太平洋戦争末期、中島飛行機が太田市の八王子丘陵に地下工場の建設を進めていた。地下工場跡の保存や研究に取り組む「中島飛行機太田地下工場跡を保存する会(トンネルの会)」は二十九日と三十日に、同市菅塩町の強戸行政センターで「太田戦争記録展2015」を開く。米軍が調査した地下工場の図面など、東毛地域の戦争遺跡の資料を展示する。

 地下工場は米軍の空襲を避けるため、一九四五(昭和二十)年一月に建設を開始。約二ヘクタールの敷地に碁盤の目のようにトンネルを通す計画だったが、完成前に終戦を迎えた。完成していれば特攻機を製造する予定だった。

 約三千人が十時間交代制で働き、強制労働させられた中国人も命を落としたとされる。終戦時点で計画の半分にあたる範囲に幅四メートル、高さ三、四メートルのトンネルが三十本掘り抜かれ、木材の支柱が立てられていた。十一月に米軍の調査団が訪れた時には既に全ての入り口で崩落が始まっていたという。

 現在はトンネルの入り口の一つが、西長岡町の八王子公園墓地の斜面に残るのみだ。入り口近くに由来を解説する市教委の看板が立っている。内部へは立ち入り禁止になっている。

 トンネルの会は地域の戦争の歴史を伝えようと地元の有志が結成。二十三年前から毎年、地下工場近くで記録展を開いている。石塚久則会長(68)は「始めた当初は『トンネルを掘ったことがある』とか『働いていた中国人を見た』という人もいたが、今ではほとんどいなくなった。地元の人にこそ地元の戦争とはどんなものだったか理解してほしい」と話している。

 展示は午前九時〜午後四時で、入場無料。 (原田晋也)

99凡人:2015/09/10(木) 09:51:05 ID:da95RwFo0
言論抑圧の時代知って 我孫子で「アサヒグラフ」から見る戦時報道展【千葉】
2015年9月9日 東京中日

戦況を勇ましく伝える「アサヒグラフ」=我孫子市の杉村楚人冠記念館で

 雑誌「アサヒグラフ」から、戦時中のメディアの報道姿勢を紹介する企画展が、我孫子市の杉村楚人冠(そじんかん)記念館で開かれている。紙面からは、戦意高揚が強調された時代の空気が伝わってくる。 (三輪喜人)

 戦後七十年と市の平和都市宣言三十年の記念事業。杉村楚人冠は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストで、記念館によると、アサヒグラフが一九二三年に創刊されるときの編集責任者だった。

 会場には、戦況が悪化した四四年十月〜四五年三月までの同誌十二点を展示。B4判の週刊誌で、誌面には勇ましい言葉で日本を美化する記事が並ぶ。

 特攻隊の出撃ルポでは、見出しや文章で「神」の言葉を使い、特攻隊員を神格化。自爆攻撃を「敵艦に突撃する神鷲」と表現した。

 働き手を戦場に取られ、苦しいはずの農村でも、紙面に登場する人たちの表情は晴れやか。写真には「あなたの汗が手不足も肥料不足をも征服した」との説明が添えられ、明るく闘う農民を印象づける。

 劇場を工場に変えたり、大阪の中心部で畑作が行われていることを報じたときは、「国民の士気は下がるどころか、尻上がりである。決戦の十九年を送り、決勝の二十年を迎えようという東京、大阪の街頭風景には悲壮感などみじんもない」と伝えている。

 担当した同館の高木大祐さんは「暗い部分を一切出さず、真剣な表情か笑顔で埋め尽くし、日常生活の記事が戦意高揚に組み込まれている。軍の検閲もあり、言論が抑圧されていた」と指摘。「暮らしが悪くなる中で、これを読んでいた当時の人の気持ちを想像してみてほしい」と話した。

 杉村楚人冠は当時、同誌に随筆を連載し、絶筆となった号も並ぶ。十月四日まで。月曜休館。

100凡人:2015/11/17(火) 15:44:37 ID:da95RwFo0
「知らぬ間に戦争に巻き込まれた」。知っていた筈である。ところがあっという間。日本の場合は核融合と同じで、権力が決めたことがいったん運動として始まると止まることが難しくなり、益々加速する。みな右に盲目に従う。物事を考える筈の教授たちや学生たちは学んだことはかき捨てて、いつの間にか戦争遂行の歯車に化す。アメリカの警告に従って中国侵略を止めていたら、この時点で未曾有の日本人犠牲者や国土の破壊は防げた筈である。また戦争を当時真っ向から公然と反対した人物たちが、日本の真のヒーローとして戦後崇めなければいけないだろう。ところが彼らは闇に葬られたまま。なんと戦争拡大をしアメリカを戦争に巻き込んで、日本を滅亡一歩手前まで持っていった軍人たちが英霊として祭られる日本。理屈では理解できない宗教国日本の一面を覗かせている。
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法大、学徒出陣2500人の記録 平和祈念碑建立20年を記念【東京】
2015年11月17日

写真=「戦争は自分たちと無関係、と考える学生に先輩の無念を伝えたい」と語る加藤さん=町田市の法政大多摩キャンパスで

 太平洋戦争中、法政大学から、学徒出陣で約二千五百人が動員された。その学生たちの遺品などを集めた学徒出陣資料展が十六日、町田市相原町の法政大多摩キャンパスで始まった。学内に学徒出陣の記憶を回顧する平和祈念碑を建立して二十年になることを記念した展示で、二十一日まで。 (栗原淳)

 動員された学生たちは、繰り上げで卒業するなどして学舎に別れを告げ、出陣した学生のうち約二百人が戦死した。大学では学徒出陣の証言や資料を収集しており、その一部が公開されている。会場のエッグドーム二階には、学生を写真付きで紹介するパネル、当時の戦況を伝える新聞など約三十点が並ぶ。

 野球部のエースで東京六大学野球で活躍した坪谷幸一さんは、特攻隊として沖縄方面に出撃し、帰らぬ人になった。坪谷さんの遺影や出身高校の恩師にあてた遺書も展示されている。

 主催した法政大経済学部同窓会は、学部OBで学徒出陣を経験した俳優の故根上淳さんが中心となり一九九五年、学部がある多摩キャンパスに祈念碑を建てた。副会長の加藤毅さん(78)は「当時の学生は、まさか自分が前線に行くとは思っていなかっただろう。知らぬ間に戦争に巻き込まれた。政治や社会の動きには常に敏感になって」と後輩に呼び掛けた。

 午前九時〜午後五時。無料。二十一日は午前十時半から、記念講演などで構成する「戦争と平和を共に考える集い」があり、根上さんの夫人で歌手のペギー葉山さんもあいさつする。問い合わせは同窓会=電042(783)2550=へ。

101凡人:2016/01/11(月) 13:06:49 ID:da95RwFo0
東京外大80年越し むのさんらに卒業証書【社会】
2015年11月1日 朝刊

卒業証書を手渡され、笑顔で掲げるジャーナリストむのたけじさん=31日、東京都府中市で

 東京外国語大(東京都府中市)は三十一日、戦争の混乱などが理由で卒業式に出られなかった十四人に卒業証書を授与した。授与式には本人四人と一人の遺族に加え、一九三六年に卒業した百歳のジャーナリストむのたけじさんも出席し、学徒出陣を経験した後輩たちと共に証書を受け取った。

 大学によると、記録がなく詳細は不明だが、三六年は同年二月に起きた「二・二六事件」の影響で卒業式ができなかった可能性がある。戦時中もできない年があったほか、終戦前後は式に出席できない学生も多くいた。

 戦後七十年に当たり、証書を受け取っていない可能性のある当時の卒業生らに呼び掛けたところ、むのさんのほか四一〜四六年に卒業した十三人が受け取っていないと判明。うち三人は亡くなっており、遺族が受け取りを希望した。

 むのさんは三二年、前身の東京外国語学校に入学した。卒業試験と二・二六事件が重なり、当時皇居の近くにあった学校は包囲されて近づけなかったという。その後に卒業式があったのかどうか、記憶ははっきりしない。

 証書を受け取ったむのさんは、あいさつで「個人の運命が軍国主義の波にもてあそばれる時代。惨めな状況だった」と振り返り「感謝と尊敬を母なる学校にささげたい」と力強く語った。

 東京都江戸川区の堀川敏雄さん(92)も授与式に出席。四二年に入学し、翌年、学徒出陣で召集された。語学力を買われて海軍の情報士官に。広島への原爆投下の米国側発表もいち早く知ったという。

 卒業後は通信社の特派員として海外で活躍し「大学で培った語学力が人生を助けてくれた」。式の後、証書をじっと見つめながら「ようやく一つ、けりをつけられた」と感慨深げだった。

102凡人:2016/02/26(金) 10:07:51 ID:VlxKdLtM0
二・二六事件から80年 「血染めの芝生」警護の誇り今に伝える
2016.2.26 07:44 Sankei

殉職した清水与四郎巡査が倒れたとされる「血染めの芝生」に水をやる警視庁警備部の関岡明警護課長(後方の写真は殉職した警察官に遺影)=2月25日午後、東京・霞が関の警視庁(宮川浩和撮影)

 陸軍の青年将校らが軍事クーデターを狙った昭和11年の「二・二六事件」は、26日で80年となる。政府要人が殺傷され、首相官邸など日本の中枢が占拠された大事件。警視庁も応戦したが強力な武装と兵力に圧倒され警察官5人が殉職した。東京・桜田門の警視庁本部には当時をしのぶ“遺品”が引き継がれ、首都の治安を担う誇りを今に伝えている。

 警視庁本部16階。警護課の窓辺に置かれたプランターに芝生が茂っている。首相官邸で襲われた岡田啓介首相(当時)を警護中に殉職した清水与四郎巡査=当時(29)=が倒れ、鮮血で染まった庭の芝生を移植したものだ。

 「命がけで警護する。同じ任務を持つ先人の誇り、気概を感じる」と警護課の関岡明課長は語る。同課には、首相や外国元首ら要人を守るSP(セキュリティーポリス)が所属する。

 警視庁史などによると、清水巡査は官邸の裏門に近づく部隊に気付き、岡田首相に危険を伝えた。直後、侵入した兵士と銃撃戦になり、十数発を被弾。事件当日は大雪で、鮮血は積雪を溶かし芝生に染みた。この間に、岡田首相は身を隠して、九死に一生を得た。

 事件後、岡田首相は東京都葛飾区の浄心寺に清水巡査の墓を建立。「清水与四郎君の殉(たお)れた場所の芝草」と記した碑の前に芝生も移植された。同課は参拝を続けてきたが、事件を後進に伝えようと平成9年末、寺に依頼してプランター1鉢分を譲り受けた。毎日、課員が水やりを欠かさず、大切に手入れされている。

 首相官邸は14年に新築。警視庁もテロなどに対処する総理大臣官邸警備隊を新たに発足した。同隊は警護課に置かれ、約100人が勤務している。

 海外で過激組織などのテロが相次ぎ、日本でも緊張感が高まる中、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)が5月に迫る。「サミットはもちろん、日々一つ一つの警護全てが重要だ。先輩方の心構えをかみしめつつ、任務に当たりたい」。関岡課長は力を込めた。

 二・二六事件 昭和11年2月26日、陸軍の青年将校が1483人の兵を率い起こしたクーデター。天皇親政を唱えて高橋是清蔵相、斎藤実内大臣ら政府要人を殺害、永田町一帯を占拠した。29日までに鎮圧され将校らは処刑。犬養毅首相が暗殺された7年の五・一五事件に続き、軍部が影響力を増す契機となった。

103凡人:2016/12/05(月) 02:45:14 ID:/9hL6NYE0
真珠湾関連の無線日誌発見 送信所、2カ月前から緊迫
2016年12月4日(日) PM 04:52 Jomo

 日米開戦の口火を切った真珠湾攻撃で、旧日本海軍が潜水艦に向け、軍事情報の無線送信に使ったとされる「依佐美送信所」(愛知県刈谷市)の当時の稼働状況が記された業務日誌が見つかった。具体的な内容は分からないものの、攻撃2カ月前の1941年10月中旬からほぼ連日稼働し、事態が緊迫していく様子が読み取れる。共同通信が刈谷市に情報公開請求し、4日までに確認した。

 真珠湾攻撃から8日(日本時間)で75年。国家機密だった戦時の軍事通信に関する情報はほとんど残っていない。開戦に向かう旧日本軍の足取りを検証する上で日誌は貴重な史料だ。

 Pic=依佐美送信所の真珠湾攻撃当日の業務日誌記録(愛知県刈谷市提供)

104凡人:2016/12/10(土) 23:42:22 ID:/9hL6NYE0
「軍神」遺族 真珠湾に思い
2016年12月09日 Yomiuri

◆前橋の岩佐さん 「戦争は過ち」

 旧日本軍による真珠湾攻撃で戦死し、「軍神」とあがめられた海軍士官が前橋市にいた。日米開戦から8日(日本時間)で75年。今月下旬には、安倍首相が現職首相として初めて、真珠湾の追悼施設を訪れる。「軍神」のおいで、同市在住の岩佐直衞さん(90)は「ようやくこの日が来る。戦争をしたのは過ちだった」と、日米の和解を静かに喜ぶ。

 直衞さんの叔父、岩佐直治さんは1941年、10人の特殊潜航艇乗組員の1人として真珠湾攻撃に加わった。2人ずつ乗った5隻で湾内に進入したが、駆逐艦などに撃沈され、直治さんを含む9人が命を落とした。直治さんは大尉から中佐へ2階級特進。軍部は9人を「九軍神」とたたえた。軍歌も作られた。

 直衞さんの兄と直治さんは年があまり違わず、直衞さんにとっては、剣道が強く成績も良い「兄」が2人いるようだった。

 最後に直治さんに会ったのは41年の秋、直治さんが休暇で帰宅した時だった。海軍の白い軍服を身に着け、恩師や友人を訪ね歩いていた。決死の作戦を控えているそぶりは、まったく見せなかった。「今考えると、福々しい顔が少しやせていた。訓練が厳しかったのだろう」と振り返る。

 42年春に軍部が直治さんらの戦死を発表すると、自宅には、子供から大人まで「軍神詣で」の人が次々と訪ねてきた。直衞さんの母親や姉は、お茶を出すなどの対応でせわしなくなった。「中佐殿を手本として皇国のために働く」などと書かれた手紙が、県内外から「読み切れないほど」届いた。

 直衞さんは「自分も、一日も早く軍人になろう」と志願して、44年に海軍甲種飛行予科練習生となった。だが、訓練機の調達もままならず、空を飛ぶ機会もなく石川県で終戦を迎えた。19歳だった。復員して前橋市の実家に戻ると、手入れがおろそかになった田んぼが、雑草で覆われていた。陸軍に徴兵された兄は、南太平洋のパラオ・ペリリュー島で玉砕していた。

 戦後、直衞さんは農業を営み、妻や子供と穏やかに暮らしてきた。その傍ら、直治さんが訓練のため滞在した三机湾(愛媛県伊方町)での「九軍神」追悼式に出席したり、前橋市内で直治さんの法要を行ったりした。特殊潜航艇乗組員のうち唯一捕虜として生き残った酒巻和男さんらとも交流を図った。妻や友人とハワイを旅した際は真珠湾を訪れ、追悼施設「アリゾナ記念館」の様子を目に焼き付けた。

 安倍首相がオバマ米大統領と同館を訪問することについて、「良いことだ」と歓迎する一方、「12月8日の方が、戦死者へ気持ちが伝わって、意義が深かったはず」とも思う。

 訪問当日は、自宅でニュースを見守るつもりだ。「戦争は過ちだった。戦死した人も命を落とす必要はなかった」との思いは、これからも変わらない。

<真珠湾攻撃>
 1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、旧日本海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲攻撃。米海軍戦艦「アリゾナ」などを撃沈した。戦死者は日本側が特殊潜航艇乗組員ら約60人だったのに対し、米側は約2400人に上った。同戦艦の上には、追悼施設「アリゾナ記念館」が設けられている。

105凡人:2017/06/29(木) 07:35:37 ID:tAhv4idc0
学徒出陣70年
「人間魚雷」 暗闇の恐怖
2013年08月16日 00時57分Yomiuri

元県柔道連盟会長 石岡 貢さん91=人間魚雷「回天」での訓練の様子を語る石岡さん=周南市回天記念館前には回天の模型が展示されている(山口県周南市大津島で、同市提供)

 「次か、遅くとも次の次が自分の番だな」。元県柔道連盟会長の石岡貢さん(91)(弘前市松森町)は1945年、瀬戸内海の基地で出撃を待っていた。所属は「回天」部隊。海軍の特攻兵器で、別名「人間魚雷」だ。

 弘前市出身で、旧制弘前中で柔道を覚えた。内またと足払いが得意で頭角を現し、日本大学時代、都内の大会で優勝した。将来は指導者になりたいと考えていたが、戦況の悪化に巻き込まれていく。在学中に徴兵された。

 長崎県の魚雷艇部隊を経て、回天部隊に配属された。魚雷艇の装備や燃料が不足していくにつれ、回天部隊に行く人も多くなった。

 基地には、10代〜20代の隊員40〜50人がいた。海中での訓練は少なかったが、魚雷艇とは全く違った。魚雷を改造し、1人がぎりぎり乗り込めるだけの空間。潜望鏡で外を見る以外は真っ暗闇だった。記憶から捨て去りたい光景だ。

 回天は操縦が難しく、訓練中の事故が頻発した。石岡さんも終戦間近の訓練で死を垣間見た。あぐらをかいて操縦していたところ、岩に衝突。「沈む」と感じたが、後続の船の誘導で救出された。この時、左膝を強打して骨がずれた。ある日、年下の隊員が事故死した。引き揚げると、機内には妹の写真が何枚も貼ってあった。「哀れでならなかった」と振り返る。周南市回天記念館(山口県)によると、15人が訓練中の事故で死亡した。

 回天を搭載する潜水艦は1回の航海で数週間、戦地を巡った。部隊が敵艦を撃沈すれば、士気が上がったが、次々と隊員が出撃していき、「じわりじわりと死の恐怖を感じていた」。

 出撃は、入隊時期が古い順に命じられていたようだった。1回の出撃は6人ずつ。自然と順番が計算できた。終戦直前、自分より少し前に入隊した隊員が出撃し、覚悟を決めたところで戦争が終わった。隊員は30人ほどに減っていた。左膝は曲がらないほど悪化していた。「この足では柔道は続けられない」と弘前に戻り、家業の布団店を継いだ。

 柔道はもうできないと諦めていたが、高校や警察署からの依頼を受けて道場に出向くと有段者を投げ飛ばすことが出来た。一度は消えた柔道への思いに火が付いた。失った時間を取り戻すように指導に没頭した。

 今でも海中に散った戦友の顔と名前は忘れていない。「入隊時期がもう少し早ければ、間違いなく死んでいた。狭い船内で1人死んでいくことはどれほどさみしかったか。多くの若い人が、特攻で夢を絶たれたんだ」
(小池和樹)

<回天> 日本海軍の特攻兵器。魚雷を改造し、搭乗員が操縦して敵艦にぶつかる。全長14.75メートル、全重量は8.3トンで1人乗り。搭乗員は潜水艦から乗り込み、機内は直径1メートルで身動きがほとんど取れない狭さだった。山口県の大津島などに基地が作られ、計145人が命を落とした。


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