したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

大東亜戦争(太平洋戦争)の真実

18凡人:2011/12/10(土) 07:12:57
家奪われ、飛行場になった 高知龍馬空港=南国市下島
2011年12月09日朝日

1941年まで自宅があった辺りを指さす吉井武雄さん。後方は高知龍馬空港=南国市下島

1940年に撮影された旧三島村下島地区住民の集合写真。翌年、散り散りになった=吉井武雄さん提供

 日米開戦から8日で70年を迎えた。開戦11カ月前の1941年1月、旧海軍航空隊の飛行場建設を理由に、旧三島村(現在の南国市南東部)の住民は立ち退きを強いられた。当時を知る数少ない元住民の一人、吉井武雄さん(84)を南国市に訪ねた。

 高知龍馬空港から旅客機が飛び立つ。吉井さんは轟(ごう)音に顔をしかめながら、滑走路の南側を流れる新秋田川沿いの一帯を指さした。そこは旧三島村の下島地区で、吉井さんが27年に生まれてから住んでいた木造平屋の自宅があった。

 郷土史を研究する南国史談会や「高知空港史」などによると、旧三島村は物部、下島、久枝の3地区からなり、東側に物部川が流れる水田地帯だった。

 41年1月、旧海軍航空隊の偵察隊の訓練飛行場を村中央部に建設するため、村の7割
が軍の立ち退き命令で強制収用された。263戸の約1500人が約2年半で県内外へ散り、村は翌年に合併して旧日章村となって消えた。

 吉井さんは立ち退き当時、尋常高等小学校に通う13歳だった。下島地区は「ぐずぐずしていると『国賊』にされるぞ」と移転先探しで騒然とした。

 吉井さんの両親もすぐに自宅を解体し始めた。長男だった吉井さんも5人の弟や妹たちと朝から晩まで屋根瓦をはがし、瓦や柱をたわしで洗う作業を繰り返した。両親は飛行場近くに土地を見つけ、解体した建材をリヤカーに載せて馬と牛に引かせて何往復もした。

 40アールの水田も失い、大工だった父親は高知市内の造船工場へ働きに出た。吉井さんは広島県の広海軍工廠(こう・しょう)に入り、44年には台湾へ渡って海軍航空隊の練習機の整備を担った。しかし戦況が悪化するにつれ、練習機も特攻機に動員された。「生きて帰れた私は幸せ。死んだ者が一番哀れだ」と特攻隊員をしのぶ。

 終戦翌年に帰国すると、吉井さんの実家はさらに北、現在の南国市田村に移転させられていた。働く場もなく、飛行場周辺を水田に戻す開墾作業に出た。一帯は戦闘機を隠すためにつくられた約40基の掩体(えん・たい)や誘導路で寸断・破壊され、「おもちゃのように馬力がない」トラクターで土を起こすのに何年もかかった。

 吉井さんは「戦争がなければ、家の移転や田を開墾し直す苦労も特攻隊もなかった。どうもこうもなく、戦争はいかん」と話した。(滝沢卓)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板