したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

1尾崎清之輔:2007/11/04(日) 22:20:25
まず、はじめに、このスレッドのタイトルを付けるにあたって、数日ほど悩んでしまった。

当初は、秋という季節にちなんで『芸術と読書と食について』というような名称にして、そこから徐々にリベラルアーツへ展開していくことを目論もうと考えたが、『食』については長い間このテーマを文明論的な視座で捉えられている素晴らしい塾生の方がいらっしゃるし、読書については既に『戦後日本の十大名著とは』と『最近読んで印象的だった本』の2つのスレッドが存在しているため、残りは『芸術』ということになるが、これも既にフィボナッチ数列やラチオについて語られているスレッドが存在していること、芸術のサブセットである音楽ひとつとっても、たかが1000枚程度のクラシックCDやDVDの所有と、実際の鑑賞に出向いた数が100回にも満たないくらいではこのようなテーマを専門にして語ることは誠に恐れ多い。
更に「秋という季節にちなんで」という考え方では、一過性もしくはそのシーズンにならないと盛り上がらなくなってしまいかねない危険性がある。
よって、このようなタイトルを付けさせて頂くに至ったが、良く考えてみたら(…というより実は考えるまでもなく)最も大層なタイトルを付けてしまったため、提唱者である私にとっては文字通り『無謀な挑戦』となること必定であろうが、このテーマを出来るだけ長期に亘り続けていくことで、藤原さんの近著(KZPやJZP)で触れられていたリベラルアーツに少しでも近付くことができるよう、私自身、修養を重ねていきたいと思うが、実際のところ本場のリベラルアーツである「自由七科」を学んだわけではないので、教養(リベラルアーツ)とカッコ付きにさせて頂いたことをご了承願いたい。

もう1つのテーマである場創り(共創)については、これまでも何度か取り上げられてきた内容ではあるが、本来あるべき姿としての「場」は広がりを持つ系であり、私が「場」と言われて出向いたその多くについては、残念ながら閉じた系である「空気」でしかなかったことだ。
従って、これも前者の教養や修養と密接に関わりを持つことで、開いた系としての「場創り」に向けられるのではないかと考えたことから、この2つのテーマを一緒にさせて頂くことにした。

さて、前置きが長くなり過ぎて辟易としたでしょうから、そろそろ本論(まずは序文)に向かいたいと思う。
「共創」と言えば同音異義語に「競争」があるが、これは、いみじくも正慶孝さんが自著で看破されていた、現代のIT社会を司る「Communication」「Control」「Computation」といった3つの「C」に対して、私からもう1つ「Covetous(貪欲な)」を加えさせて頂くと、たちまちにして「賤民資本主義(パリア・キャピタリズム)」という人造ダイヤの4℃を構成することになってしまい、これが現代における「競争」の本質を示しているのではないかと考える。
日本におけるマックスウェーバー研究の泰斗である中村勝巳慶大名誉教授が20年前から仰せのように、まともな躾を受けぬまま「カバレリア・ルスティカーナ」の限りを尽くし続けてきたことが、最近のクライシスの根底にあると私も考えているが、これは亡国云々以前に、人間のあり方そのものの問題として捉えられるべきではないかという意味で、中村博士の意見に共鳴を覚える。
尚、蛇足だが、今夏来日したパレルモ・マッシモ劇場の「カバレリア・ルスティカーナ」を観て、これまで何度も同じ作品を観たにも関わらず、中村博士の仰った意味が漸く正しく理解できた気がする。
場創り(共創)に向けては、同じ「Communication」という言葉であっても、「通信(としての手段)」ではなく「人間同士の意思の疎通」が肝要であり、これに「Confidence(信頼、信用)」「Conscience(良心、分別)」「Coexistence(共存)」または「Covivence(共生。但しsymbioticという意味とは関係ない)」を加えて磨き続けることによって、自然が創り出した原石である天然ダイヤに4℃の輝きが増していくのではないかと思っている次第だ。

※上記の「ダイヤ」はメタファーとして使わせて頂いた。

2尾崎清之輔:2007/11/06(火) 00:19:20
1ヶ月半近く前のことになりますが、スタジオ・ジブリの絵職人として知られる男鹿和雄さんの展示会を鑑賞された方より、その作品群のアニメとは思えない美しさや繊細さについて高い評価をされていたことから、その後、所用で近くへ出向いた際に、折角の機会なので、近代美術館へ立ち寄ってみることにしました。

アニメ(ジブリ作品をアニメという括りにして良いかどうかは別として)には全く縁の無い私ではあるものの、数年前に行われた脱藩会の後、藤原さんを含む数名で二次会と称して他の店に移った際に、様々な話題に花が咲きましたが、その席上で、藤原さんとは非常に長いお付き合いのある方より、宮崎駿さんの作品群の話題が出ていたことを思い出したことも、このたび出向いた理由の一つでした。
また、男鹿さんご自身は分かりませんが、宮崎駿さんに関しては八切止夫史観に相当影響を受けていると伺ったことがあるので、それが男鹿さんを通じて実際の絵画にどのような影響を与えているかについても少々興味があったからです。
(ちなみに宮崎駿さんの作品群と八切止夫史観の関係性については、いずれ古史古伝大系を論ずる際に項を改めて行いたいと思います)

しかし、残念なことに連休中に出向いてしまったことから、チケット購入と入場までに90分待ちとなっていたため諦めることにしましたが、隣で「磯辺行久展」なるものが開催されており、空いていたのでこちらを鑑賞することにしました。

この美術家&環境計画家の磯辺行久さんは、御年72歳ながら、非常にユニーク且つ強烈なメッセージを、その作品群を通じて提示されてきている方であり、1950年代の抽象画から始まり、60年代にはワッペン型のモチーフを反復させたような作品群を数多く発表しており、そのワッペンの中には多くのシンボル(国旗、欧州の貴族の紋章、日本の家紋、企業体や各種組織体のマーク、王冠、ラベルなど)が、さながらミランダのオンパレードの如く大小取り入れられた作品もあったので、これはこれで大変興味を引きました。

その後60年代半ば頃の渡米により、二十世紀のダビンチと呼ばれた、科学者、哲学者、美術家の顔を持つ天才バックミンスター・フラーとの出会いにより大きな影響を受けた彼は、造形的な実験を通じて、より大きな枠組み、つまり自然環境を視座に置いた作品活動に従事することになったようです。

「ランドスケープ」と呼ばれることになるこれらの作品群は、70年の第1回アースディにおいてはエア・ドームという名称の作品を発表しておりますが、このドームの中では、船の帆の形をした非常に低消費エネルギーのスピーカーがあり、このスピーカーから流れる自然の音色がエア・ドームの中全体に渡って何とも言えない優しさを奏でておりました。

その後も数々のランドスケープ作品を制作してきた彼ですが、何と言っても圧巻であると感じたのは、2000年頃に発表された「イル・ド・フランス」作品であり、これはパリとその周辺地域を記した大きな地図(十畳か十二畳くらいの大きさ)の上に、生態系に影響を与える各種施設や汚染など(原発やBiohazard Facilitiesのある場所、強い電磁波の流れる場所、SO2やNO2が空気に乗った流れなど)の情報を重ねた形で表していたことから、その場に座り込んで暫く凝視してしまったと申し上げておきましょう。

今世紀に入ってからの磯辺さんの活動主体は、自然環境のあり方そのものに対するメッセージを強める方に向かわれているようで、自然体系に対してテクノロジーで挑戦し続けようとする人知の愚かさを、信濃川において元々あった川の流れを治水という名目で強引に変えたことに対する痛烈な批判を「川はどこへ行った」などの作品を通じて行っているようです。

それにしても出会いというものは不思議なもので、このジブリを見に行くことが無かったならば、磯辺行久という一人の個性的な芸術家のメッセージを知ることなく終わっていたでしょうから、全くの偶然とはいえ、私にあの「場」へ出向く切っ掛けを示して頂いた方に対して、ここで改めて感謝の意を表したいと思います。

3尾崎清之輔:2007/11/08(木) 01:20:19
『経済的合理性を超えて』(みすず書房)において、『日本人の考えている「経済的合理主義」に対して対抗原理として働く要因として、芸術ないし美という領域ないし観点があります』と喝破された中村勝巳博士は、その一例として、企業の社名や製品名を知らせるために多額の広告費を使い、ビルの屋上に巨大な広告塔を設置し、夜になるとネオンだらけになってしまう都市の夜景や、電車の中刷りや新聞の中にある広告だらけの状況に対し、果たして世界中を見渡してこのような行為が可能な社会は一体どこの地域に限られているかを考えてみる必要があるのではないかと述べており、そのような経済至上主義的な要求を抑える対抗軸として、芸術や美的な要求、また市民自治の伝統への誇りといったことが、欧州社会の根底に存在していることの重要性を語っております。

これは『人は何で生きるか、人は何のために生きるか、人はいかに生くべきか、社会や国家はいかにあるべきか、という究極の価値基準から一貫した組織的生活態度をとって生きようとする要求』であり、『人として倫理的命令に絶対に服しようという生活態度こそ、「経済的合理性」に真正面から対立』できるものであるとしております。

この緊張関係とバランスのとり方が肝要であり、「して良いこと、してはいけないこと」の判断基準になるはずですが、(特に昭和初期から現在に至るまで)日本はこのような形による社会の発展がされてこなかった(というより最初から対抗原理自体が欠けたまま経済的合理性の支配と貫徹が為されてきてしまった)ため、手段の目的化のみならず、行き着くところまで行ってしまい、結果、社会の分裂と内部崩壊により、その歴史的役割を終えて滅んでしまいかねない危険性を説いております。

但し、『健全な人間精神をもった人々がここで深い学問、高貴な芸術、すぐれた哲学と高い宗教を生み出し、広く国境と時代をこえて人類に貢献する途と可能性』は残されているとも指摘しており、そのためには永い眼(少なくとも100年きざみ)で見て、世紀単位で考えていけるような大戦略が必要ということになりますが、これは欧州社会が辿ってきた長い歴史にその範を求めることで何らかの道筋が見えてくるのではないかと考えます。

さて、そうは言っても、いきなり100年単位で考えていくことは、余程の訓練と冴えた目を持つ者でなければ、なかなか到達できる次元ではないでしょうから、一介の凡夫としては、そのようなことを頭の片隅に置きつつも、日々の生活に決して埋没されることのない自分、つまり藤井尚治博士が仰った『自由とは「Free from」ではなく「Free to」である』という言葉の重みを十分に感じつつ、平たく言えば『自由気ままに生きて』いけるだけの心の余裕は常に持っていたいものです。
正しく「忙しい」という言葉が「心が無くなる=心の余裕が無くなる」ことを防ぐ意味でも。。

このような心の余裕の持ち方こそが、自分の仕事とは全く関係の無いもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことに繋がり、延いては、専門バカという病弊に侵されないための知恵ではないでしょうか。
そして、このもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことが、より大きな枠組みの中で認められ、更に人類の共通言語や共通財産に繋がるような普遍的な妥当性にまで至ることによって、その人間の懐の深さや嘘・偽りのない衷心を示すことが可能となり、尚且つ人類の普遍的課題を自らの課題と同じくすることの出来る、本当の意味でグローバルに通用する人間へと育つことは間違いないのではとも考えます。

そのための第一歩として、余分な周りの状況から離れて音楽に親しんだり、無心・虚心になって絵を描いてみたり、自然の美を楽しんでみたりすることから始めてみるのも良い切っ掛けになると思います。

4牧野:2007/11/08(木) 13:10:13
久しぶりの読み応えのある記事に拍手喝采です。忙しいというのは心が亡びることを文字が示していますが、貧すればドンするというように余裕がなくなるとドンするわけです。今の日本人がそんな感じでして、国も個人も本当のゆとりがなくなったために、まともなことが考えられなくなったのでしょう。
中村先生もピューリタンについて書いていて、高利貸し、投機、売春などのようなハイエナのビジネスが、いかに人間の貧しさを現しているかを論じています。日本ほど大きな町の駅前にサラ金という高利貸しの看板が並んでいて、それを放置しているというのは情けない限りですね。

5尾崎清之輔:2007/11/09(金) 01:02:52
牧野様。過分なるお褒めの言葉を頂きまして、誠に有難うございます。
また、「忙しい」を「心が無くなること」から「心が亡びること」へ修正して頂いたことにつきましても、感謝申し上げます。

尚、牧野様が仰せの「読み応えのある記事」として成立できましたのは、決して私の筆力によるものではなく、中村博士の著書がそれだけ優れていたことの証左でしょうし、私は多くを引用させて頂いたに過ぎません。
このような名著が絶版になって久しく、再販の目途さえ立っていないことは賤民化の現れと考えますが、巷間では相変わらず「表紙付き紙屑」の大量生産が続けられておりますので、正に貧すれば鈍するが如きといったところでしょうか。

さて、中村博士の著書から引用を続けさせて頂きたいと思いますが、西洋文化を解くマスターキーとして、

◆「ヨーロッパとは何かときかれた時、ぼくはキリスト教と数学と音楽と答える。音楽はヨーロッパ理解の手掛かりなんです。」(矢野暢「朝日新聞」1987年5月14日、夕刊)と指摘されていますが、ヨーロッパ文化はマックス・ヴェーバー的な意味で「合理主義文化(ラチオナリスムス)」だと言い換えることもできるでしょう。一つの文化を解くには、マスター・キーというものがあるのです。「音楽家」でない人がバッハとモーツァルトとベートーヴェンを愛するというだけでたちまち人間として信頼をうることができるのは、鍵があうからです。

からはじまり、続いてその意味するところを詳細に渡って述べておりますが、このような考え方をヨーロッパ中心志向と批判する方々に対しては、

◆不満があるのならば、日本の在来文化の中から人類の共通財産になりうるものを、共通の述語を通して掘り起し、持ち出せばよいのです。そういう普遍的座標軸の批判に堪えるものを産み出すことができるならば、ヨーロッパ以外にも普遍妥当性をもつ文化があるということですから、喜ばしいことであるわけです。

と正鵠を射た指摘をしております。

また、音楽がヨーロッパ社会に与えてきた影響を、そこに生きる人々おいては全存在がかかっている場合もあり、音程の高い低いという次元の問題ではないとも喝破しております。

これはヨーロッパの音楽が、そこに生きる人々の精神生活に対する不可欠な要素を為していて、若い人のみならず、中高年や老年の方々に至るまで、見識を備えるための「場」として存在していることが、何よりの証拠であるからと考えます。

そういう意味で日本を捉え直しますと、昨年夏頃まで長期間に渡り位人臣を極めた男は、トップとしての責任感は全くなく、国内外の様々な危機的状況への対処より、オペラ観劇を優先されていたと見え、その様子は幇間的なマスメディアを通じて、日本版ポピュリズムとしてのプロパガンダによく利用されていたようです。

嘗てはカール・ベームやカルロス・クライバー、最近ではリッカルド・ムーティーやワレリー・ゲルギエフ等(記憶違いの可能性もありそのような発言をしていない方もいたかもしれませんが)といった方々から、日本人の鑑賞や観劇に伴う行儀の良さを高く評価されておりましたが、私の知る限り、ただ一度だけ「ブーイングの嵐」に見舞われたのが、この現代版パヴァリアの狂王(こんなことでルートヴィヒ二世と比較したらあの世からルートヴィヒ二世にお叱りを受けそうであるが「狂王」という言葉については適切と考えるのであえてそうさせて頂きます)でした。

このボローニャ歌劇場の来日公演(昨年6月)に現れた際の演目は、その男の好むワーグナーではなく、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」というフランス革命前後の実在の人物(実名はアンドレ・シェニエ)をベースに少しフィクション化したオペラでしたが、ミーハーなこの男がどうして「アンドレア・シェニエ」のような演目を観劇しにきたのか、その時は不思議に思いつつもプロパガンダの一環くらいにしか思っていなかったのですが、この件を古くからの最も信頼できる方へ話したところ、『多くの国民を断頭台へ導くことに成功したことに対して優越感や恍惚感を抱いていたのでは』という大変貴重なコメントを頂いております。

最後に余談ではございますが、この「アンドレア・シェニエ」の内容を存じ上げていない方は以下のサイト等でご確認願えれば幸いです。

◆アンドレア・シェニエ(ウィキペディア(Wikipedia)より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%A8

6尾崎清之輔:2007/11/10(土) 02:07:07
先の投稿でルートヴィヒ二世やワーグナーに触れてしまった以上、何かしら続きを書く必要性を感じておりますが、実は三十代後半になるまで、ワーグナーの持つ毒にやられないようにするため、意識的に出来るだけ聞かないよう観ないようにしてきました。
特に例の「無限旋律」を聞くと、いつまで経っても解決の付かない抜けられない状況に陥ったような感じが何とも言えず、余程優れた演奏家や演出でもない限り、逃げ出したくなる気持ちがあったからです。

四十代になってから普通に観劇・鑑賞できるようになりましたが、その理由の一つとしては『丸山眞男 音楽の対話』中野雄(著)(文春新書)との出会いが大きいと思います。

それにしても、ワーグナーの超大作『指輪(リング)』四部作が、作品完成までに四半世紀を費やしたことは余りにも有名ですが、その間に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『トリスタンとイゾルデ』という、これまた4時間強に渡る大作を2本も作り上げているのですから、これはもう驚愕を禁じえません。

これらの作品群とそこから得た感想については別の機会にさせて頂きますが、先に述べた『丸山眞男 音楽の対話』も教養と創造に値する素晴らしい書籍の一つと考えており、この本を通して丸山博士の思想と音楽、特にワーグナーやベートーヴェン、そしてフルトヴェングラーについて語りつつ、芸術から政治へと展開したいと思っておりますものの、丸山思想について云々申し上げるには、私にはまだまだ時間が必要と感じておりますので、まずは序章として、この書籍で私が線を引いた部分から2点ほど以下にご紹介させて頂きます。

◆本当に身につく教育はやはり1対1.それも学ぶ方が積極的に吸収する資質がなければダメです

◆何事によらず、自分がこれと思った人に徹底的に喰らいついて、何から何までわがものにする−、これが結果的にはいちばん効率的な勉強法です。しかし、喰らいつく相手は必ず当代一流であること。喰い尽くしたら、独自性は自然に出てくる。それが本当の『創造行為』です。

7尾崎清之輔:2007/11/11(日) 22:32:53
『投機』という言葉は、一般的には賤民資本主義社会を構成する「金銭またはそれに準ずる取引における短期的な利鞘の獲得行為」として捉えられておりますが、その語源が禅語であったことは、『New Learder』10月号の編集後記で初めて知りました。
(尚、編集後記者ご自身も芥川賞作家の玄侑宗久氏に会って初めて知ったとのことです)

その編集後記から該当する箇所を以下にご紹介させて頂きます。

◆本来、投機とは「機に投ず」と読み、修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す言葉だった。それがいつのまにか商取引の世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になった。本当の投機とは、身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る勇気のことだという。

玄侑宗久氏も自らのエッセイにて、『いつのまに、どうして商取引などという概念だらけの世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になってしまったんだろう。』と仰っておりますが、ちょっと歴史を振り返れば、マネーが価値交換媒体としての役割以上の存在になってしまってから、非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。
しかも、マネーは今やほぼ完全に電子化されてしまったため、本当に文字通りの単なる概念でしかなくなくなってしまい、その概念があたかも実体の如く振る舞ってやりたい放題、といったところですが、申し上げるまでもなく、このような状況はオイルピークや食糧ピークなどの実状と併せて間もなく大崩壊するでしょうし、その前の残飯あさりの加速度がますます上がることは必定ですが、そのような中でもパニックに陥ることなく、クライシス後の秩序構築へ向けた準備を怠らないよう日々努めたいと思います。

◆『日本人の新しい「気概」の創造―戦後の腑抜け日本人を蘇生させるのは老荘思想だ』日下藤吾(著)(日新報道)

著者の日下藤吾さんは、今年5月に100歳を目前にして大往生されましたが、あの中野正剛の弟子であり、中野正剛、廣田弘毅、緒方竹虎などを輩出した修猷館の出身で、戦時中は企画院の調査官を、戦後は専修大、拓殖大、青山学院大の教授ならびに名誉教授を努められており、坂口三郎さんと同じタイプの毒を持つ個性的なご老人という印象がございますが、書籍の説明文に『「正義」と「恥」が失われた日本に未来はあるのか。暗黒の中から抜け出て、新しい光を得るべく、中国の老子、荘子の思想を語る。』とございますように、老荘思想(著書で触れられているのは主に荘子)を通じて、現代の暗黒と間近に控えたクライシスからの脱却を図るための良書の一つと考えております。

また、この本では「捉われ」や「こだわり」を捨て去るべく、禅の教えについても幾つか散りばめられておりましたが、一読して、『正法眼蔵』における雪峰義存と庵主の話を思い出し、『道得』という難解な世界へ至るにはまだまだ多くの時と修養が必要であると、改めて考えさせられました。

8尾崎清之輔:2007/11/13(火) 00:18:02
昨夜の私の文章に余りにも飛躍し過ぎて分かりにい部分がございましたので、追記させて頂きます。

『投機』という言葉の語源が、禅語で「修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す」ことや、「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る勇気のこと」であったにも関わらず、『いつのまにか商取引などという概念だらけの世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になってしまったのはどうしてなのだろうか』、と玄侑宗久氏が仰ったことに対して、私の昨夜の文章では、

>ちょっと歴史を振り返れば、マネーが価値交換媒体としての役割以上の存在になってしまってから、非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。

に続く形で、

>しかも、マネーは今やほぼ完全に電子化されてしまったため、本当に文字通りの単なる概念でしかなくなくなってしまい、

となっており、これでは肝心な説明(私見)が全く為されていないことに、恥ずかしながら読み返してみて気が付きました。

この『非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。』の文章の後に、

◆本来の『投機』を意味する「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る」ための一環としては、自ら築き上げてきた「財」を捨て去ることも含まれており、これは元来「浄財」と呼ばれ、「布施」とか「喜捨」と同様の意味を持つ、愛他的精神に結び付いた、公共や公益また慈善事業に使われるお金のことを示すはずであると思いますが、この「浄財」という言葉さえも、今や横文字にすると文字通りの「マネー・ロンダリング」になってしまい、本来の「浄財」が持つ意味とは大きく懸け離れてしまっていることから、嘗て藤原さんが自著で喝破した「革命」という言葉と同様に、「浄財」も矮小化されてしまったのではないかという私見を持っております。従いまして、『機に投ず』が、短期決戦的な即時的満足(つまり市場原理主義社会や賤民資本主義社会においてはマネーないしそれに準ずる存在)という意味に捉えられてしまうようになったのではないかと思う次第です。

という一文を付け加えさせて頂きます。

9尾崎清之輔:2007/11/13(火) 00:50:38
話題はガラリと変わりますが、本日は『場創り』に関連して、身近な話から少し述べさせて頂くことをご了承願えますと幸いです。

以前から『社会への恩返しのすすめ』のスレッドでも触れさせて頂いておりますが、日常の狭い範囲や枠組みに囚われることなく、様々な「場」への単独行を通じて、素敵な出会いを多く持つことができるよう、ここ数年そのように努めてきた中で、若手フォトジャーナリストの方々、場の研究の一環である「勧の目と行の目」から野たる現場へ「行」として赴くことを選んだ方、最近ではとても秘めたる輝きを持つ表現者の方などに邂逅する機会に恵まれてきました。

そのような邂逅は、彼ら彼女らの作り上げた作品群から気が付くこともあれば、対話を通じて気付くこともあり、最初お会いした際は分からなかったものの、2度目には片鱗に気が付き、3度目にはやや確かさを感じつつ、4度目になって確信へと至る、といったケースもございます。

これらの方々は、世界を舞台に活躍し始めている方、これから飛躍しようとしている方、既に一定のポジションを築き上げつつも、より広い世界や高みへと自らを見出そうとしている方など様々ですが、いずれにしても、彼ら彼女らには「共通する一種のエネルギーやポテンシャル」を感じます。

私はそれをあえて「才能」とは呼ばずに「資質」と呼びたいと思っており、それは一般的に言われる「才能」という響きに『世間にスグ役立つ「モノ」としての能力』といった意味合いが込められているようで、『無用の用』の重要性を考える私にとっては、どうしても違和感を覚えてしまうからです。

また、彼ら彼女らは、自らが活躍している「場」を通じて、「場」を構成する各要素が互いに自発的な活動を起こすことによって、新たなる創造へと至ることが出来るような『リアルタイムの創出知』と呼ばれる優れた面を見せることの出来る可能性を感じさせることも間々あり、私は、このような方々との出会いを通じて、お互いを大切にできる関係性へ発展させていくことの肝要さを痛切に感じております。

このことは、私にとっても、時には自らのパフォーマンスやポテンシャルをアップさせたり、時には自然の中での平穏や安らぎに近いものを覚えたりもしますが、それは先に述べた、『共通する一種のエネルギーやポテンシャル』が互いの中で増幅し合い、それがフィードバックループすることで、「良いひとときを過ごすこと」へ至るからではないかと思っているためです。

このような素晴らしい可能性を持つ方へ、以前ご紹介した藤井尚治博士の著書から再び引用する形でご紹介させて頂きますが、『「大局観」で捉えつつ、「些細なこと」には拘らず、「一生新手」の面白さを楽しみ、そこで得られた「自分の楽しみ」と「他人に役立とう」という2つの観点を持ちつつ』人生を歩んでいきましょう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板