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左翼・革新・護憲 斗争スレ
1
:
とはずがたり
:2014/01/21(火) 22:00:10
日本共産党・社会民主党・沖縄社会大衆党・新社会党・その他新左翼諸党派
社会主義思想なんかも
左翼運動の細分化に被せるように本掲示板でも分裂気味だったので思い切って統合
872
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:29:19
https://news.yahoo.co.jp/articles/95a6316d23f8245284cb1ca56faa31178913f91e
戦後保守政治の裏側6 左派リベラリズムの衰退 政治から言葉の意味が奪われた時
8/9(日) 18:06配信
三宅坂の牙城
社民党本部が入っていた「社会文化会館」の跡地=2016年7月、東京都千代田区
これは世界的潮流ともいわれて久しいが、21世紀に入ってから、日本でも「左派リベラル」勢力がすっかり衰退している。【日本テレビ政治部デスク・菊池正史】
【図解】政党支持率の推移
その栄枯盛衰を象徴している場所が、国会近くにある。国会議事堂の参議院側にある北門を出て、国会図書館の正門を左手に見ながら三宅坂へと下りる坂を梨木坂という。その突き当たりにあった地上7階、地下1階の旧社会党本部がその場所だ。
後に党名変更に伴い社民党本部となったが、2013年には老朽化などを理由に取り壊しとなった。社民党自体も弱体化し、この地に本部を維持することができず、今は、ひっそりと警視庁の分庁舎が建っている。人通りもまばらになったこの地こそが、1990年代前半まで、「左派リベラル」の牙城であり、政治の中心舞台の一つとなっていた。
社会党は、1955年に結成され、いわゆる「55年体制」において自民党の対抗勢力として国政の一翼を担った。国会では激しい論戦を繰り広げ、時には牛歩、乱闘と実力手段にも出て存在感をアピールしてきた。また労働運動や人権活動を主導し、自民党の行き過ぎた利権政治に一定の歯止めをかけてきた。89年の参議院選挙で躍進し、当時の土井たか子委員長は「山は動いた」と述べて、注目を浴びた。
一方で、「万年野党」という批判もあって退潮傾向が続き、93年の衆議院選挙で大敗を喫した。私は、ちょうどこの年の秋から2年ほど、社会党を担当した。折しも、小選挙区制導入を柱とした政治改革関連法をめぐって、国会は大揺れ、大混乱の時期だった。
政治改革と冷戦構造終結の絡み合い
テレビのインタビューにこたえる自民党の小沢一郎幹事長=1990年2月19日、東京・自民党本部
田中角栄元首相のロッキード事件に始まり、88年6月に発覚したリクルート事件に至るまで、性懲りもなく続発する「政治とカネ」の問題に対し、国民の怒りが頂点に達している時期だった。戦後の「バラマキ政治」、利権をめぐる「政官業の癒着」「派閥政治」の弊害などに批判の矛先が集中した。
そして莫大な政治資金を要する中選挙区制こそが、構造的腐敗の温床だとして、小選挙区制導入を柱とした「政治改革」を求める声が噴出していた。
この改革への動きは、国際情勢の変化もリンクして、加速度を増していった。89年に米ソ冷戦構造が終結し、91年に旧ソ連が解体。一党独裁となっていた東欧の社会主義国では民主化が進み、あらゆる領域でグローバル化が進む一方で、古い秩序の崩壊が、地域紛争と民族対立、そしてテロリズムによる混乱を誘発した。91年には湾岸戦争が勃発し、これが契機となって、日本では、新たな国際貢献の在り方が、国民レベルで議論されるようになった。
PKO(国連平和維持活動)をめぐって、自衛隊の海外派遣がテーマとなり、戦後のリベラルな防衛論が、「一国平和主義」として批判の的になり始めた。PKO協力法の成立を急ぐ勢力は、派閥間や野党との「協調政治」によって調整に時間がかかることを批判し、スピードある意思決定システムを求めるようになったのである。
この変化に機敏に反応したのが、現在、国民民主党に所属している小沢一郎衆議院議員だった。89年には、47歳の若さで自民党幹事長に就任し、強いリーダーシップを発揮して「剛腕」とも評された。湾岸戦争の際、自衛隊を派遣できなかったことに苛立ち、調整に時間をかける「協調政治」を嫌った。
小沢は小選挙区制を導入することで、政権交代可能な二大政党制の確立を目指した。この制度が象徴する多数決至上主義の精神は、決断できない「なあなあの社会」を変革し、分かりやすい政治を具現化するものだった。「選挙制度を変えることを、日本人の意識改革の第一歩にしようというのが目的だった」(「小沢一郎 政権奪取論」)と明言していた。
873
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:29:35
「剛腕」による混乱
自民党の河野洋平総裁(左から2人目)、森喜朗幹事長(左側)と会談に臨む細川護熙首相(左から3人目)、新生党の小沢一郎代表幹事=1994年1月28日、東京・国会
小沢は93年6月に自民党を離党し、「非自民」勢力による細川連立政権の樹立を主導した。そして、自民党の政治腐敗を批判していた社会党も、これに参画することとなったのである。「自社対立」という建前からすれば、「非自民」勢力への参加は当然の決断だった。しかし、ここから、戦後リベラルの迷走が始まることとなる。
小選挙区制の導入と、国連決議に従って自衛隊を海外に派遣できる「普通の国」になろうという小沢の改革論は、多くの国民に熱狂的に支持された。具体策をまとめた「日本改造計画」はベストセラーになったほどだ。
小沢は、その国民的な支持を追い風に、遺憾なく「剛腕」を振るった。社会党からの造反によって参議院で否決となった政治改革関連法を、自民党が求める修正に応じて、当時の細川護煕首相と河野洋平自民党総裁との党首会談で成立させた。小選挙区の議席配分を250に抑えたい社会党は、300に増やす妥協を余儀なくされた。また、消費税率を当時の3%から7%に引き上げ、福祉目的税化する国民福祉税構想を主導した。さらに閣僚人事へも介入した。
そのたびに、社会党は大混乱だった。党の最高意思決定機関である中央執行委員会、いわゆる「中執」での議論は長時間に及んだ。党本部4階の会議室で中執が始まると、周辺は立ち入り禁止となるため我々担当記者は、手前の階段踊り場にたむろして、何時間も待ち続けたものだ。
やっと方針を決めて当時の村山富市委員長ら幹部が出て来ると、4階から1階に下りてマイクを向ける。その結論を受けて連立与党との会議が始まると、記者たちは梨木坂を駆け上がって国会に向かう。また決裂して本部に戻る。また長い会議が始まる。
この繰り返しに記者たちも疲労困憊だった。党本部のコンクリートの階段で尻を冷やしながら、うとうと居眠りもした。三宅坂の社会党本部と梨木坂には、毎日のように記者が行き交い、カメラが群がっていた。
874
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:29:51
「平等」と「反戦」のリベラリズム
衆院本会議で牛歩戦術を取る社会党議員ら=1992年6月12日
社会党が目指してきたものとは何か。社会主義政党といっても、現実と向き合う穏健派から、革命を目指す急進派まで幅があり、発足当初から路線対立や派閥抗争も激しかった。しかし、90年代に入り、社会主義実現のためだからといって、ソ連や中国のような「一党独裁」を理想とする議員は、ほぼ皆無だったといってよい。綱領などを学問的に分析すれば、こまごま指摘はあるのだろうが、当時の所属議員への取材から最大公約数を拾うとすれば、「平等」の追求だったと思う。
この「平等主義」こそが、弱者救済、格差是正、差別撤廃の活動につながり、経済的には分配重視による資本主の修正につな、人間がった。「平等」への信仰は、米国の「リベラル」にも共通する価値観であり義の理性の力で、貧富の差や、強者の論理、因習的な差別を抑制しようとする政治だった。
さらに、この「日本版リベラリズム」の柱には、「反戦」が加わる。失敗した軍国主義への猛烈な反省に基づいたこの信念が、社会党の「非武装中立論」となり、自衛隊は違憲、「日の丸・君が代」反対、軍事同盟としての日米安保条約反対という基本政策につながった。自衛隊の海外派遣を可能とするPKO法の国会審議では、牛歩戦術を展開して徹底的に反対した。
さらに、「平等」と「反戦」を求める政治に共通するものは、偏狭なナショナリズムを否定し、国民の生活を最優先に考えることだった。それは多種多様な人々が「共存」しようとする意思であり、「協調」することを重視する精神だったと思う。だからこそ、会議は時間がかかった。結論が出ない問題は先送りされ、結論を出す場合は、足して2で割り3で割って、落としどころを探る「談合政治」となった。
「剛腕」許し難し
党首会談を前に握手する河野洋平自民党総裁(右から2人目)と村山富市社会党委員長(同3人目)=1994年6月27日、東京・国会
必然的に、強いリーダーシップを発揮する小沢の「剛腕」とは、反りが合わなくなってくる。村山は、こう述懐している。
「連立政権の運営について、トップダウン的なやり方に問題があったと思うよ。(中略)何処かでいつかはほころびがでるのではないかとみておった」(「元内閣総理大臣村山富市の証言録」)
その「ほころび」は間もなく目立つようになり、すぐに致命的となった。
94年4月に細川政権が倒れ、羽田政権が発足したが、その直後に、小沢は「非自民」勢力で統一会派「改新」の結成を図った。この時も社会党への根回しはなく、村山の不満が爆発することになる。会見で次の談話を発表した。
「政権の構成の変更については、連立与党間で協議することになっていた。こうした経過を無視して、特定の政党や個人が恣意的に枠組みを壊したことは許し難いことである」
積もり積もった不信感もあり、社会党は「非自民」連立政権から離脱した。
「小沢さんは、社会党を潰さにゃあいかんということで一貫してやってきていたね」(前出「証言録」) と、村山は後に述懐している。
そして、小沢の「剛腕」に代わり、優しく手を差し伸べてきたのが自民党だった。何と宿敵だった社会党の村山を首相に担ぎ、同じように小沢と袂を分かった新党さきがけとも連立して、94年6月に自社さ連立政権を樹立したのである。
875
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:30:44
基本政策転換の言い訳
組閣後、記念撮影する村山内閣の閣僚=1994年6月30日、東京・首相官邸
社会党は、細川政権発足の際も、自民党に対する怨念と、「政治改革」だけで結び付いた野合だと批判された。今度も、改革の路線を捨て、十分な政策協議もなく、「理念の上でも基本政策の上でも半世紀近くもの間、対立してきた自社両党が呉越同舟に踏み切った」と、村山政権発足後、最初の国会で批判された。
村山は、自衛隊違憲から合憲、「日の丸・君が代」反対から容認、日米安保反対から維持へと、基本政策を百八十度転換して自民党と足並みをそろえたのである。94年7月の国会で表明した歴史的大転換だった。
村山は94年6月29日に首班指名され、首相官邸に入った直後から基本政策転換の検討を始めたことを後に明らかにしている。わずか20日間程度で、戦後半世紀にわたって堅持してきた左翼政党としての基本理念を放棄し、ひっくり返したことになる。
これを村山は何と言い訳したか。
「何も突然変異が起こって変えるんではないんですよ。これは冷戦構造が変化していく中で社会党の党内ではずっと一貫して議論されてきているんですよ。その議論を踏まえた上で、政権にも就いたことだし、そういう立場もあって、そういう点からなされたというふうに私は思っています。従って、それは何もその公約に反したものではない」(94年10月11日・衆院予算委員会)
しかし、直前に行われた93年の衆議院選挙で基本政策の変更はしていない。一般常識からすれば、この大転換は「公約違反」である。この点を追及されると、村山はこう釈明した。
「公約がどの範囲で守られるかということについては、やはりその事態の変化に対応して選択をする幅というものは政治家に任されておるのではないか」94年10月12日・衆院予算委)
876
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:31:01
信頼喪失のルーツ
記者会見する安倍晋三首相=2016年6月1日、東京・首相官邸
基本政策の大転換を政治家が「選択をする幅」だという村山の言い訳を振り返り、私は、今の安倍晋三首相の、この言葉を思い出した。
「これまでのお約束とは異なる、新しい判断だ」
2016年6月1日の会見で、すでに法律で2017年4月に消費税率10%へのアップが決まっていたのに、2年半も延期することを表明した時のものだ。14年に1度延期し、「再び延期することはない」と明言していた。しかし、個人消費が伸び悩み、アベノミクスの限界も指摘される中での自己防衛戦略でもあった。
公約や法律を無視する権力者の「新たな判断」を許すルーツは、村山が言う「選択をする幅」にもすでに見られていたのだ。
しかし「公約」とは言葉による公的な約束だ。そして、政治とは言葉の文化であり、そこには連綿と蓄積された歴史や精神が言葉によって継承されているはずだ。そうでなければ政治から歴史が消滅する。人間はぶつ切りされた時間空間に漂う浮き草となる。そして「公約」という言葉の意味が、時々の政治家が「選択をする幅」によってゆがめられ、「新しい判断」によって変化するのであれば政治の言葉は無意味化し、信頼は失われる。
「非自民」から「自民との連立」へ。これは社会党にとって生き残りのための究極のリアリズムだったのだろう。しかし、この後、数年足らずで、社会党は消滅状態になっていく。それは決して小選挙区制の影響だけではないと私は考える。村山らが政治から言葉が持つ秩序を奪い、むしろ言葉を弄した欺瞞を政治文化に植え付けたことへの当然の報いではなかったか。
ただ一つ、党消滅という犠牲を払ってでも、社会党には守りたかったものがあるようだ。村山は「非自民」から「自民との連立」への豹変の経緯を振り返り、こう語っている。
「(細川政権の)中はバラバラで、寄せ集めだから心棒がない。どうしても一部の者が権力を握って壟断するような姿になる。それでは政権はうまくいかない。正直言って、僕は言い訳ではなく、まだ自民党の方がましだと思ったな。(中略)政権を運営する民主的なルールについて彼らはある程度心得ている」(「証言録」)
戦後の自社対立の政治は、表で闘い裏で手を握る「自社なれ合い政治」とも揶揄されてきた。村山たちは、その「なれ合い」を否定し、「権力を握って壟断」した小沢のリーダーシップに耐えかねて、「なれ合い」に戻ってきた。 しかし、建前をかなぐり捨てて、なれ合いながら守ろうとした「心棒」は、この後、10年もしないうちにメルトダウン(炉心溶融)することになる。それは、皮肉なことに「左派リベラリズム」を吸収した、「右派リベラリズム」の衰退でもあった。(敬称略)【時事通信社「地方行政」2020年7月2日号より】
菊池正史(きくち・まさし)日本テレビ政治部デスク。1968年生まれ。慶應義塾大大学院修了後、93年日本テレビ入社、 政治部に配属。旧社会党、自民党などを担当し、2005年から総理官邸クラブキャップ。11年から報道番組プロデューサー等を経て現在は政治部デスク。 「著書に「官房長官を見れば政権の実力がわかる」(PHP研究所)、「安倍晋三『保守』の 正体」(文藝春秋)などがある。
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