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左翼・革新・護憲 斗争スレ
874
:
チバQ
:2020/08/18(火) 17:29:51
「平等」と「反戦」のリベラリズム
衆院本会議で牛歩戦術を取る社会党議員ら=1992年6月12日
社会党が目指してきたものとは何か。社会主義政党といっても、現実と向き合う穏健派から、革命を目指す急進派まで幅があり、発足当初から路線対立や派閥抗争も激しかった。しかし、90年代に入り、社会主義実現のためだからといって、ソ連や中国のような「一党独裁」を理想とする議員は、ほぼ皆無だったといってよい。綱領などを学問的に分析すれば、こまごま指摘はあるのだろうが、当時の所属議員への取材から最大公約数を拾うとすれば、「平等」の追求だったと思う。
この「平等主義」こそが、弱者救済、格差是正、差別撤廃の活動につながり、経済的には分配重視による資本主の修正につな、人間がった。「平等」への信仰は、米国の「リベラル」にも共通する価値観であり義の理性の力で、貧富の差や、強者の論理、因習的な差別を抑制しようとする政治だった。
さらに、この「日本版リベラリズム」の柱には、「反戦」が加わる。失敗した軍国主義への猛烈な反省に基づいたこの信念が、社会党の「非武装中立論」となり、自衛隊は違憲、「日の丸・君が代」反対、軍事同盟としての日米安保条約反対という基本政策につながった。自衛隊の海外派遣を可能とするPKO法の国会審議では、牛歩戦術を展開して徹底的に反対した。
さらに、「平等」と「反戦」を求める政治に共通するものは、偏狭なナショナリズムを否定し、国民の生活を最優先に考えることだった。それは多種多様な人々が「共存」しようとする意思であり、「協調」することを重視する精神だったと思う。だからこそ、会議は時間がかかった。結論が出ない問題は先送りされ、結論を出す場合は、足して2で割り3で割って、落としどころを探る「談合政治」となった。
「剛腕」許し難し
党首会談を前に握手する河野洋平自民党総裁(右から2人目)と村山富市社会党委員長(同3人目)=1994年6月27日、東京・国会
必然的に、強いリーダーシップを発揮する小沢の「剛腕」とは、反りが合わなくなってくる。村山は、こう述懐している。
「連立政権の運営について、トップダウン的なやり方に問題があったと思うよ。(中略)何処かでいつかはほころびがでるのではないかとみておった」(「元内閣総理大臣村山富市の証言録」)
その「ほころび」は間もなく目立つようになり、すぐに致命的となった。
94年4月に細川政権が倒れ、羽田政権が発足したが、その直後に、小沢は「非自民」勢力で統一会派「改新」の結成を図った。この時も社会党への根回しはなく、村山の不満が爆発することになる。会見で次の談話を発表した。
「政権の構成の変更については、連立与党間で協議することになっていた。こうした経過を無視して、特定の政党や個人が恣意的に枠組みを壊したことは許し難いことである」
積もり積もった不信感もあり、社会党は「非自民」連立政権から離脱した。
「小沢さんは、社会党を潰さにゃあいかんということで一貫してやってきていたね」(前出「証言録」) と、村山は後に述懐している。
そして、小沢の「剛腕」に代わり、優しく手を差し伸べてきたのが自民党だった。何と宿敵だった社会党の村山を首相に担ぎ、同じように小沢と袂を分かった新党さきがけとも連立して、94年6月に自社さ連立政権を樹立したのである。
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