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左翼・革新・護憲 斗争スレ

873チバQ:2020/08/18(火) 17:29:35
「剛腕」による混乱

自民党の河野洋平総裁(左から2人目)、森喜朗幹事長(左側)と会談に臨む細川護熙首相(左から3人目)、新生党の小沢一郎代表幹事=1994年1月28日、東京・国会
 小沢は93年6月に自民党を離党し、「非自民」勢力による細川連立政権の樹立を主導した。そして、自民党の政治腐敗を批判していた社会党も、これに参画することとなったのである。「自社対立」という建前からすれば、「非自民」勢力への参加は当然の決断だった。しかし、ここから、戦後リベラルの迷走が始まることとなる。

 小選挙区制の導入と、国連決議に従って自衛隊を海外に派遣できる「普通の国」になろうという小沢の改革論は、多くの国民に熱狂的に支持された。具体策をまとめた「日本改造計画」はベストセラーになったほどだ。

 小沢は、その国民的な支持を追い風に、遺憾なく「剛腕」を振るった。社会党からの造反によって参議院で否決となった政治改革関連法を、自民党が求める修正に応じて、当時の細川護煕首相と河野洋平自民党総裁との党首会談で成立させた。小選挙区の議席配分を250に抑えたい社会党は、300に増やす妥協を余儀なくされた。また、消費税率を当時の3%から7%に引き上げ、福祉目的税化する国民福祉税構想を主導した。さらに閣僚人事へも介入した。

 そのたびに、社会党は大混乱だった。党の最高意思決定機関である中央執行委員会、いわゆる「中執」での議論は長時間に及んだ。党本部4階の会議室で中執が始まると、周辺は立ち入り禁止となるため我々担当記者は、手前の階段踊り場にたむろして、何時間も待ち続けたものだ。

 やっと方針を決めて当時の村山富市委員長ら幹部が出て来ると、4階から1階に下りてマイクを向ける。その結論を受けて連立与党との会議が始まると、記者たちは梨木坂を駆け上がって国会に向かう。また決裂して本部に戻る。また長い会議が始まる。

 この繰り返しに記者たちも疲労困憊だった。党本部のコンクリートの階段で尻を冷やしながら、うとうと居眠りもした。三宅坂の社会党本部と梨木坂には、毎日のように記者が行き交い、カメラが群がっていた。


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