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1
:
とはずがたり
:2008/03/24(月) 21:48:24
Lv:36
しょくぎょう:かんりにん
663
:
とはずがたり
:2018/08/06(月) 21:00:09
ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」
横井 軍平 2018/05/05
source : 文藝春秋 1996年11月号
http://bunshun.jp/articles/-/6659
さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。
…私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。
前々から、55歳になったら、独立したいと考えていました。…世間の人々が任天堂と私のどの部分に興味を持たれているかもわかってきたような気がします。
・一体、任天堂成功の秘密は何なのか?
・これからも、あのサクセスストーリーは続くのか?
・会社が大きくなるといろんな歪みがでてくるのではないか?
…
初めに申し上げておきたいのですが、私が辞めた瞬間、「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」ととる人が大勢いました。しかし、私は任天堂がここまで大きくなったのは、実はワンマン体制のおかげだと思っています。
山内社長のワンマン体制が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を生んだ
ワンマン体制=悪という感覚でとらえる人は多いのですが、商品開発の場合そうともいえません。
例えば任天堂の転機となった、「ゲーム・アンド・ウォッチ」。これは私が開発したものですが、ワンマン体制だからこそ生まれた商品だといえるのです。
あれは私が、38歳の時でした。電卓タイプのゲームで、大人向けの手の中に隠れるような薄っぺらいものを作りたいという提案をしたのですが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートしました。
しかし社内の声は冷たいものでした。営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という否定的な意見なのです。
つまり、普通の会社組織のように私が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を提案し、営業会議で検討して、重役会に諮ってという手続きを経ていたら、必ずどこかで潰されていた商品だったのです。
ところが社長がやれと言っているものだから、誰も反対できない。
私は財務面のことはよく知らないのですが、「ゲーム・アンド・ウォッチ」の発売前、任天堂は70億とも80億とも言われる借金があったそうです。それが「ゲーム・アンド・ウォッチ」を売り出して1年後には借金を全部返済し、40億ぐらいの銀行預金ができました。発売前は開発者の私ですら10万個売れたら多少は会社の足しになるかなという程度の考えだったものが、結果的には5000万個近く売れてしまった。
ところが、社長はこのわずかに溜まったプラス分をファミコンにドーンと投資した。それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。
つまり、馬券を1枚買ったらわずかに儲かった。それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。
任天堂入社のきっかけとは
その間、私にとっても、一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続きました。
なにしろ、私自身が社長の直接の部下という気持ちだったのです。組織的には、私のいた開発部は製造本部の1部門で、私と社長の間には製造本部長である常務が1人います。けれども実際は、社長は直接私に開発の話をするし、私は私の直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だったのです。
664
:
とはずがたり
:2018/08/06(月) 21:00:19
私の意見が役員を通り越して社長に直接に?がりますから、ナンバーツーのような感覚を持つときもありました。これは私だけのことではなく、社員みんなが持っている感覚だったと思います。
大体、私が任天堂に入社したこと自体が、いい加減な動機からでした。
私は昭和40年に任天堂に入社したのですが、同志社大学の電気工学科を卒業したものの、恥ずかしながら成績は下から数えたほうが早いぐらい。就職活動をしても悉く落とされてしまった。
そこでたまたまみつけたのが、任天堂からの電気工学科生の募集です。任天堂というとトランプや花札を作っている会社なのに、何で電気工学科の人間が必要なんだろうという疑問も感じましたが、ともかく京都にあって家から通えるというところが気に入って受けたら、採用通知がきました。
退屈しのぎに玩具づくり
出社してみると、部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをやる仕事です。当時、新しい法律ができて、30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならないことになったそうなのですが、どうも、そのために採用されたようです。
ところが、電気管理というのは退屈で仕方がない。もともと私は物作りが好きだったのですが、会社には立派な旋盤とか彫刻機といった機械が揃っている。そこで退屈凌ぎにいろんな玩具をつくって遊んでいたのです。
ある時、社長が私の作った玩具を見て「お前、それを持ってちょっと役員室へ来い」と言う。てっきり怒られると思ってついて行ったら、いきなり社長に「それを商品化して売りたい」と言われました。
今、考えてみると、それが私の人生のはじまりであり、ある意味では、「トランプ、花札の任天堂」が「世界の任天堂」に変わる最初の一歩だったかもしれません。
入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない私が、見よう見真似で、金型の設計からどこで成形して組み立てるかということまでやった。
それが『ウルトラハンド』という名前の商品になりました。
いわゆるマジックハンドですが、当時東京オリンピックの名残りでウルトラCという言葉が流行っていたので、社長が『ウルトラハンド』という名前を考えたのです。
これが当たりました。なんと140万個も売れたのです。玩具は10万個売れたら大ヒットだと言われていた時代ですから、どれほどのヒットかおわかりいただけるでしょう。
たった2人でスタートした開発課
そこで社長が、私のために開発課というのを作ってくれました。ところが私はまだ入社2年目の単なる開発課員。技術者も私1人。しかし、課ができれば経理関係のことも見なきゃならない、というわけでつけてくれたのがいまの広報室長で取締役の今西氏です。
たった2人でスタートした開発課ですが、あの頃を楽しく思い出します。
ピンポン玉を放り出してバッティングセンターのようにバットで打つ「ウルトラマシン」を開発したり、光線銃を作ったり。
たった2人の開発課が「トランプの任天堂」を変えてゆくことになりました。
基本的には、その後の「奇跡」も同じ構造から生まれています。
大ヒットした「ゲームボーイ」はもちろんのこと、「バーチャルボーイ」の開発の時もそうでした。最初は立体映像のゲームが作れないかというアイデアだけがあったのです。立体で見えるディスプレイをもう少し工夫したら何かできるんじゃないかという、非常に曖昧なアイデアでした。その実験をするには5,600万円のお金がいるので社長のところへ行ったのです。
ところが社長はせっかちで、どんなものがいくらでできるのかまで聞いてくる。
慌てて、閃くままにこうなってああなってと説明したら、社長が乗り気になって、600万円では足りないだろう、そのディスプレイを作ってるやつの権利も買い取れということになり、その場で600万円の予算案が一気に2億円になってしまいました。
665
:
とはずがたり
:2018/08/06(月) 21:00:31
そんなことを続けて30年が経ちました。30年前の任天堂に比べると、変わってきたものも感じます。
それは、いわゆる「大企業病」というべきものかもしれません。新しく入ってくる若い人に昔のことを話してもみんなびっくりします。
任天堂は「すきま」産業
たしかに、彼らにとってみれば「世界の任天堂」に入社してきたのでしょうが、私達にとっては、京都の小さな企画会社。いまでも規模はそれ程大きくありません。自分で物を作っているわけでもなく、企画を考えて外注しているだけです。
そういう意味では、「すきま産業」でこまわりをきかせて頑張ってきたのですが、ここにきて、そうもいかなくなってきました。私が55歳になったら独立しようと漠然と考えていたのも、そんなことが原因かもしれません。
例えば、最近の任天堂では、新しい商品は年商1000億以上売れる可能性のあるものでなければだめだということを1つの基準にしています。1000億以上売れないものはやっても無駄だという発想なのです。
なぜなら「スーパーファミコン」も、「ゲームボーイ」もそれぐらい売れています。そこで新しい商品を開発、販売、宣伝しようとすると、いまある柱のどれかをやめなければならないということになるのです。
…
「大企業病」とは何を指すのか
さて、もう1度、任天堂「すきま産業説」に戻りましょう。
私の開発哲学は、とにかく世界にないものを作るということでした。世界にない商品を作れば、それによって新しい独占市場を手にすることができます。似たような商品をつくれば競合して、シェア争いになる。そんなシェア争いをするなら、新しいシェアを作ったほうが手っ取り早いというのが私の考え方です。
独占商品ならば1円高かろうが安かろうが関係ない。ある商品を作るうえで、10円高い商品でも売れるアイデアだったら、1円商品が高くなっても関係ないわけですから、アイデアこそ一番重要で、それをどこでいかに安く作るかはあとの問題になります。任天堂も中国への工場移転が話題になりましたが、私は国内生産でも、会社が十分潤うだけのアイデアでなければ、優秀なアイデアとはいえないと思っています。
ただし、間違えてもらっては困るのは、世界にない商品を作るということは、世界の最先端をゆく、世界にまだない技術を使おうということではありません。
「最先端」にこだわり、「不要」なものをたくさんつけて「高価」な玩具を作るとしたら、それこそ「大企業病」であり、「すきま」精神を忘れた行為だと思うのです。
例えば、ファミコンの外側は「とにかく値段を1万円以下にしたい」という精神のもと、私が指示して作ったものですが、今、常識のようになっている「十字キー」と呼ばれるコントローラーがあります。
あれはいかにしてコントローラーを安く作るかということから出てきたアイデアでした。当時のコントローラーはいわゆるジョイスティックというもので、大変コストがかかるものでした。どうしたら安くなるかというので思い出したのが『ゲーム・アンド・ウォッチ』の『ドンキーコング』という商品につけた十字スイッチでした。
このときはいかに薄くしてジョイスティックの機能を実現するかということで考えたアイデアでしたが、結果的にそれが非常に安くできたという経験があったので、そのままファミコンに利用することにしたのです。
『ゲーム・アンド・ウォッチ』誕生秘話
『ゲーム・アンド・ウォッチ』を開発した時にも、私はいかに小さくするか、つまり画面サイズをどこまで小さくできるかということに悩み抜きました。
そんな時、週刊誌を見ていると、女性が本を抱えている写真が掲載されていた。ところが、写真の中の女性が抱えている本の写真の絵柄がはっきりわかるんです。その本は切手ぐらいの大ききで写っていたんですが、これを見て、切手ぐらいの大きさでもはっきり確認できるんだから、画面も切手の大きさで十分だということがわかりました。
666
:
とはずがたり
:2018/08/06(月) 21:00:52
>>663-666
ところが最初に私のアイデアを製品化しようとした人間は、ゲームをやるのなら画面は最低5センチ角は必要だという固定観念から離れられず、それを一生懸命追いかけてしまっていたんです。5センチ角ではどうしても値段が3万円、4万円の機械になってしまう。だから行き詰まって、「そんなもの誰が買うんだ」ということになっていました。
私が、画面は切手大でいい、それでゲームはできるという話をしたらみんな信じてくれません。そこで週刊誌の写真を見せた。これは5センチ角ぐらいに感じるけれども、実際は2センチ角で、なおかつ十分見えるという説明をしたら納得してくれました。
実はこういうところに開発のポイントがあります。
もう一つ大事なことがあります。私の所属する開発第1部は、ハードもソフトも扱っていました。普通、大メーカーの開発部門は、ハードを作っています、ソフトは別部門が開発します。しかし、これは実に無駄なことを生じるのです。
つまり、ハード屋はソフト屋のどんな注文にも応じられる機械をつくれば、いい機械ということになってしまうからです。
となると実際にその製品が世に出た時に、ソフト屋が使わない部分がいっぱいついた製品が出てくることになりまず。さらにこれが贅肉となって、製品の価格を押し上げることにもなります。
…
《解説》横井氏が任天堂に残した、玩具メーカーならではのDNA
任天堂アーカイブプロジェクト代表・山崎功
横井軍平氏が「伝説の開発者」と呼ばれ注目されるのは、ごく普通の会社員なのに数々のヒット商品を生み出し、「世界の任天堂」へと大躍進させたのはもちろん、彼の残した「枯れた技術の水平思考」という考えが、日本のモノづくりの原点を示しているからだ。
メイド・イン・ジャパンは、かつて高機能と高品質でグローバル競争にも勝ち残れると自負してきたが、今ではそれが揺らぐ状況が起きていることは誰もが感じているだろう。
『ファミコン』で急成長した任天堂も、1990年代半ばにはソニーやセガとの熾烈なゲーム機販売競争を繰り広げ、成長の踊り場にいた。ゲームは驚異的なスピードで進化し、メーカーはゲーム好きな人たちの声に応えようと、高性能・大容量化の道を突き進んだ。その結果、複雑化するゲームについていけない人たちのゲーム離れが起き、ゲーム市場は縮小。
そんな中、任天堂は10年ほど競った末にスペック競争から離脱し、もう一度遊びの原点に立ち返ることで、誰もが楽しめるゲームを目指した。『ニンテンドーDS』や『Wii』はこうして生まれ、幅広い年齢層の支持をうけ、任天堂を再びトップカンパニーへと導いた。元社長だった故・岩田聡(さとる)氏はその時の成功の秘訣を「枯れた技術の水平思考」であると明言している。
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