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Game全般

663とはずがたり:2018/08/06(月) 21:00:09
ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」
横井 軍平 2018/05/05
source : 文藝春秋 1996年11月号
http://bunshun.jp/articles/-/6659

 さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。

…私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。

 前々から、55歳になったら、独立したいと考えていました。…世間の人々が任天堂と私のどの部分に興味を持たれているかもわかってきたような気がします。

・一体、任天堂成功の秘密は何なのか?

・これからも、あのサクセスストーリーは続くのか?

・会社が大きくなるといろんな歪みがでてくるのではないか?



 初めに申し上げておきたいのですが、私が辞めた瞬間、「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」ととる人が大勢いました。しかし、私は任天堂がここまで大きくなったのは、実はワンマン体制のおかげだと思っています。

山内社長のワンマン体制が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を生んだ

 ワンマン体制=悪という感覚でとらえる人は多いのですが、商品開発の場合そうともいえません。

 例えば任天堂の転機となった、「ゲーム・アンド・ウォッチ」。これは私が開発したものですが、ワンマン体制だからこそ生まれた商品だといえるのです。

 あれは私が、38歳の時でした。電卓タイプのゲームで、大人向けの手の中に隠れるような薄っぺらいものを作りたいという提案をしたのですが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートしました。

 しかし社内の声は冷たいものでした。営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という否定的な意見なのです。

 つまり、普通の会社組織のように私が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を提案し、営業会議で検討して、重役会に諮ってという手続きを経ていたら、必ずどこかで潰されていた商品だったのです。

 ところが社長がやれと言っているものだから、誰も反対できない。

 私は財務面のことはよく知らないのですが、「ゲーム・アンド・ウォッチ」の発売前、任天堂は70億とも80億とも言われる借金があったそうです。それが「ゲーム・アンド・ウォッチ」を売り出して1年後には借金を全部返済し、40億ぐらいの銀行預金ができました。発売前は開発者の私ですら10万個売れたら多少は会社の足しになるかなという程度の考えだったものが、結果的には5000万個近く売れてしまった。

 ところが、社長はこのわずかに溜まったプラス分をファミコンにドーンと投資した。それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。

 つまり、馬券を1枚買ったらわずかに儲かった。それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。

任天堂入社のきっかけとは
 その間、私にとっても、一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続きました。

 なにしろ、私自身が社長の直接の部下という気持ちだったのです。組織的には、私のいた開発部は製造本部の1部門で、私と社長の間には製造本部長である常務が1人います。けれども実際は、社長は直接私に開発の話をするし、私は私の直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だったのです。


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