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スポーツ総合スレッド

1小説吉田学校読者:2006/05/31(水) 23:09:24
雑談スレを見直してみて、芸能ネタの次に多いのがスポーツネタ。
ドイツW杯ももうすぐだし、こういうスレを立ててみました。

1939とはずがたり:2016/08/15(月) 09:59:23
東原がバカっぽかったから井上もバカかと思ってたけど男を上げましたねぇ。自分の不明を恥じねば(;´Д`)
五輪みたいな国別対抗は嫌いな俺でもやはり国技柔道で日本が強いのは別格に気持ちが良い。

井上康生監督 屈辱から立ち上がった“柔剛一体”追求実り「幸せの涙」
http://news.goo.ne.jp/article/sponichi/sports/sponichi-spngoo-20160814-0069.html
07:02スポニチアネックス

 ◇リオデジャネイロ五輪柔道(2016年8月12日)

 大会を終えた井上監督はコーチだった4年前と同じように涙を流した。

 しかしその意味は全く違った。「4年前は屈辱というか自分の力のなさに悔しい思いをした。今回は素晴らしい選手、スタッフと精いっぱい戦えたことへの幸せの涙」と万感があふれた。史上初の金メダルなしに終わったロンドン五輪後に篠原信一監督の後を受けて歴代最年少で就任。柔道界の旧来の枠組みを取り払って代表に新しい風を吹き込んだ。

 「昔までは柔よく剛を制すという言葉があった。今はそんなことはできない」と“柔よく剛を制す”ではなく“柔剛一体”を追求した。ボディービルダーや栄養士を代表スタッフに迎え入れ、本格的なウエートトレーニングを導入。細かな状況設定をした部分稽古や一本稽古など練習は量だけでなく質を求め、移動時のスーツ着用など生活面の規律も徹底した。外国人選手の映像研究にも積極的に着手し男女合わせて4年間で8000試合以上のデータも蓄積した。

 「五輪は特別。想定外のことは必ず起こる。だからありとあらゆることを想定しておかないといけない」と1年前にはブラジル合宿を行い、今年に入ると候補選手に五輪までの日程表を渡して「自分自身でスケジュールを考えておけ」と指示した。今回のリオ入りも選手の希望に応じて現地入りの日を分け、心身ともに最善の準備を整えさせた。結果として男子は金2銀1銅4と7階級全てでメダルを獲得し、過去最多のメダル数を記録。「選手たちは歴史に名を刻んだ7人になった。7人7様で素晴らしい。非常に誇りに思う」と何よりもまず選手たちをねぎらった。

男子柔道、復権の全階級メダル獲得。井上康生監督が変えた代表の空気。
http://news.goo.ne.jp/article/numberweb/sports/numberweb-826282.html
08月13日 21:00Number Web

 涙が止まらなかった。

「終わったな、と。自分自身をコントロールできなくなっているところが正直あります。今日においては、すばらしい選手たちと、すばらしいスタッフと、最高の環境で精一杯戦えたことの幸せの涙というか、またたくさんの方たちから応援していただいて、柔道を支えてくれた方たちへの感謝の涙なのかなと思います」

 柔道男子日本代表監督の井上康生はしっかりと話しながらも、うつむき加減となって涙を止めることができなかった。

 8月12日、柔道の最終日、100kg超級で原沢久喜が銀メダルを獲得した。男子は金2、銀1、銅4と1964年の東京五輪以来、52年ぶりとなる全階級でのメダルを達成した。

 ただ前回の東京五輪当時は4階級しかなく、7階級となってからは初となる。しかも海外で柔道が広く普及した現状を考えれば、その価値はなおさら大きい。

「4年前は屈辱というか自分自身の無力さ、力のなさに悔しい思いをして涙したことを昨日のことのように覚えています」

高藤、海老沼、羽賀の銅メダルをねぎらう言葉の数々。
 コーチとして参加したロンドン五輪では銀2、銅2にとどまり、「惨敗」「不振」と報じられた。

 その後、井上は監督に就任し、再建を託された。今回の日本柔道の復活、躍進ともいえる成績を残せた理由はどこにあったのか。

 その手がかりは、五輪期間中の言葉にある。

 振り返れば大会初日から、どのような結果が出ても、選手の戦いぶりを語る井上の言葉は一貫していた。初日は金メダルの期待もあった60kg級の高藤直寿、2日目には66kg級の海老沼匡がともに銅メダルに終わった後、井上はそれぞれ以下の言葉を残した。

1940とはずがたり:2016/08/15(月) 09:59:38

「負けた後はショックや怖さ、いろいろな葛藤がありますが、高藤は、銅メダルに向けて自分自身を奮い立たせていました」

「海老沼は最高のプレーヤーです。4年間、いろいろな苦労や困難と戦ってきたので、苦しみながら葛藤と戦い、よくここまでやってくれました」

 そして、重量級金メダルの期待を背負っていた100kg級の羽賀龍之介の銅メダルの後もこう語った。

「羽賀は苦しみながら葛藤と戦い、よくここまでやってくれました」

「メダルをあまり気にしていない部分はあった」
 全日程を終えて振り返る中では、こう語っている。

「メダルという目標はありますが、自分たちがやってきたことを精一杯出して戦ってほしいという思いで試合に送り出していました。だからメダルをあまり気にしていない部分はありました」

 以前の代表は、このような雰囲気で臨んでいなかった。

 金メダルを目標に掲げ、それに達しなければ選手への批判が飛び出した。また、ほとんどけなしているかのようにも感じられる言葉も少なくはなかった。

 その根底には、反骨心を促そうと発奮させる意図があっただろう。ただ、それを伝え聞く選手たちは、ときに萎縮することもあったし、決して前向きに受け止めていないこともあった。

 井上の数々の言葉は、以前とは真逆のスタンスだったことがうかがえる。

過去に処分を受けた高藤をとことん信じぬいた。
 同時に井上は「選手をとことん信じる」スタイルも崩さなかった。

 それはリオでの大会期間中に限った話ではない。監督就任後、その姿勢を貫いてきた。選手に寄り添おうとした。

 象徴は2014年の世界選手権、高藤が規律違反から処分を受けたときのことだ。井上は「指導力の不足で、自分が情けないです」と頭を丸刈りにして、まずは自らを罰してみせた。

 そんな井上の行動に、当事者の高藤も深く感じることがあったのは確か。その後、本人も取り組みや柔道に取り組む姿勢をあらためていった。

「いろいろな、素晴らしい子どもたちがいました」
 井上の選手への心情は、大会を総括する囲み取材の中で、何度か繰り返された言葉にもあった。

「いろいろな子どもたちがいました」

「素晴らしい子どもたちでした」

 選手との年齢差を考えれば、井上はどちらかと言えば、親というよりも兄貴分にあたるだろう。また、監督となって以降の取り組みとして、ときに「選手と対等な関係での会話」がクローズアップされたこともあった。

 そんな報道とは少し異なる趣の「子どもたち」という言葉は、井上の選手への思いの根っこを示していた。
 
 厳しい練習をくぐりぬけ、一定以上の力を持つからこそ、プライドも内包する日本代表選手たちの力を引き出したのは、鞭を振るうことではなかった。

 わが子に接するような深い愛情とあたたかさを含んだ、心からの信頼だった。

文=松原孝臣

1941とはずがたり:2016/08/15(月) 09:59:58
>>1939-1941

日本柔道復活の裏に井上康生監督が進めた「勝利の改革」
http://news.goo.ne.jp/article/thepage/sports/thepage-20160813-00000005-wordleafs.html?page=1
08月13日 18:34THE PAGE

 柔道の全日本男子・井上康生監督は号泣した。

 「選手を誇りに思う」

 金メダルは、73kg級の大野と、90kg級のベイカーの2つだったが、男子は1964年の東京五輪以来となる全階級メダル獲得の偉業を成し遂げた。ソウル五輪以降、7階級になってからは初の快挙だ。日本柔道の象徴ともいえる最重量級の100kg超級では原沢が銀メダルに終わったが、6年間無敗の絶対王者、リメールを追い詰めて、会場からは逃げるリメールにブーイングが起きた。16年間、メダルから遠のいていた100kg級も羽賀がモチベーションを切らさず敗者復活戦から銅メダルを獲得した。

 山下泰裕強化委員長は、大会の総括会見で「日本柔道が完全に復活したと、世界が見てる。これは亡くなった斉藤仁強化委員長、井上監督、共に頑張ったコーチや所属のコーチ、みんなの力がある。女子も、いろんな問題が起きた中、7階級で5階級でメダルを取り、南條監督もよく頑張ってくれた」と断言した。

 日本男子柔道は確かに復活した。
 
 この4年間、井上監督が推し進めてきた数々の改革が実を結んだ瞬間だった。勝利の改革である。

 ロンドン五輪で史上初の金メダルなしの屈辱にまみれた日本男子柔道は、当初、篠原前監督の続投の方針でいた。だが、篠原前監督を推挙していた強化委員長の吉村氏が助成金の問題で体制から外れると、篠原氏が辞任の方向を固め、責任者がロス、ソウル五輪の95kg超級の金メダリスト、故・斉藤仁強化委員長に変わり、34歳だった井上監督に再建を託す方向性が決まった。
 ロンドン五輪には強化コーチで参加していた井上監督は、2012年11月の就任会見で「いかにして組んで一本を取りに行く過程をつくるか。それを考える。そのためにスポーツ科学も利用する。どうすれば、効率よく勝てるか考えた上でトレーニングをして総合力で戦う」と所信表明をした。

 井上監督は、その言葉通り、まず稽古の中身を見直した。量より質。体育会系のランニング、寝技、乱取りで汗を流すだけの練習内容を見直して、ボディビルの専門家を招き、筋力、持久力の科学的トレーニングを取り入れたのだ。また栄養学の専門家にも相談、トレーニング、食事、休養のバランスを考えてスケジュールを組んだ。また試合の対策も、今までのように、ただビデオを見てあれこれ策を練るだけでなく、対戦相手の傾向や選手、自らの長所、短所、フィジカルなどをデータ化して示した。
「世界の柔道に対応するためには、対戦相手のルーツを知ること」と、ブラリアン柔術、サンボ、モンゴル相撲、沖縄角力といわれる沖縄相撲まで選手に体験させた。ジョージアの躍進が民族格闘技の「チダバオ」にあるとも言われていて、まるで武士道の基本、敵を知ることから始めたのである。

 その一方で、精神論にも力を入れた。

 科学と非科学の融合である。

 代表争いでは、最後の最後まで競争をあおり、2年前には賛否に耳を貸さずに100キロ級で世界選手権へ代表を送らなかった。非科学の部分では、柔道3連覇の野村忠宏を合宿に招き、体験談を語ってもらう。野村は「五輪は特別な力がないと勝てない」と、勝者にしか語れないメンタリティを代表選手に伝えている。

 リオ五輪前には、選手に「おれが金メダルを取る!と豪語しろ!」と命令した。有言実行論である。
 実際、大野は「最低でも金」といい続け、「井上監督からは、もっとも金メダルに近い男とプレッシャーをかけ続けられたが、その期待に答えられて良かった」と、金メダル獲得後に語り、井上監督から「よく耐えた」と言葉をもらうと、涙を流した。 

 井上監督は「組織」の変革にも手を打った。軽、中、重の担当コーチ制を復活、重量級は、アテネ五輪100kg超級の金メダリスト、鈴木桂治が担当した。師弟のつながり、チームのまとまりが、目に見えない力を日本選手団全員に与えることを、井上監督は自らの体験から熟知していたのである。

 3連覇の野村忠宏は、「井上康生が監督にとなって改革に取り組み本当に強くなった。篠原先輩がダメと言っているわけではなく、いいものを引き継ぎ、そして悪いものを改革するというやり方をしている」と、大会前から、井上路線を高く評価していたが、代表の空気も選手の勝利に対する意識も大きく変化していた。

 東京五輪への期待が高まるが、その一方で、原沢がリネールに勝てなかった試合が示すように勝負に徹しきる「JUDO」への対応は、まだ不完全である。だが、井上監督は、さらなる強化プランを暖めているという。


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