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国際関係・安全保障論

1■とはずがたり:2003/01/22(水) 12:15
経済畑出身の私の鬼門,外交・安全保障を考える。
適宜,憲法談義・世界経済等もこちらで。

442とはずがたり:2004/04/05(月) 20:52
ベルギー介入前まではフツ族もツチ族も仲良く暮らしていたのだそうな。
言葉も習慣も同じとか聞いたが,じゃあ一体何が違うのだ?
また国連軍は何故撤退したのだ?何のためにいたのん?

<ルワンダ>国際社会の関心の低さ非難 カガメ大統領
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040405-00001013-mai-int

94年の大虐殺から10年を迎えた東アフリカのルワンダで4日、カガメ大統領は政府職員を前に「虐殺は国際社会の失策の象徴」と演説し、当時、平和維持活動のため駐留していた国連軍2500人が虐殺を止めなかったことへの怒りをあらわにした。ルワンダ政府は7日の追悼式典の招待状を各国に発送したが、西側首脳で出席するのは旧宗主国ベルギーのフェルホフスタット首相だけ。10年たっても変わらぬ国際社会の関心の低さに大統領が不満を爆発させたようだ。

 大統領は演説で「国益や戦略的観点から物事を考える人々によって、なぜ無数のルワンダ人の命が粗末に扱われるのか」と述べ、資源のない小国ルワンダへの国際社会の関心の低さを非難した。

 ルワンダでは94年4月から7月にかけて、政府軍やフツ系民兵がツチ系住民ら約80万人を虐殺したが、駐留中の国連軍は介入せず撤退した。このため同国では国際社会への不信感が根強く、虐殺発生時に国連の平和維持活動担当事務次長だったアナン現事務総長が98年に同国を訪問した際には、大統領が歓迎晩さん会を欠席する外交儀礼としては異例の対応を取ったこともある。(毎日新聞)
[4月5日10時36分更新]

443とはずがたり:2004/04/05(月) 21:00
http://www.kobe-c.ac.jp/~a-kawamu/pages/seminar/seminar2001/houkoku8.html
なぜ、フツとツチは争うのか
ドイツとベルギーの植民地時代に築かれた<ツチがフツを支配する>という社会構造
・ すべての人をツチ・フツ・トワのいずれかに区分し、それを身分証明書に記載した
・ 少数のヨーロッパ人植民地官僚をトップとする集権的な行政機構を全土に張り込ませ、
 その主要なポストをツチに独占させた。
・ ツチは庶民(この中にはトワやフツのみならずツチもいた)と直接対峙して徴税、強制
 労働、強制栽培などの植民地政策を実行した。    庶民から憎まれる立場
・ フツと定義された者たちは、権力からの疎外という共通の経験を通じて対自己集団へと
 自己形成を遂げる。

http://www.wakachiai.com/kibondo/2000/rekishi.htm
ブルンジは、ルワンダと同じく、一時期ドイツの支配を受けた後は1962年に独立するまでベルギーの植民地であった。ベルギーによる植民地支配と、カトリックは、ブルンジの文化に様々な影響を残している。

ブルンジでは母国語たるキルンディ語が話されるが、教育・政治はフランス語で行なわれ、ブルンジはアフリカの中の、フランス語圏に属する国のひとつといえる。英語については
高校卒業以上の教育を受けたものは解することができる。他、東アフリカで広く話されているスワヒリ語を解する者も英語より多くの割合で存する。


ブルンジはルワンダと双子のような国家であり、同じベルギーの植民地であっただけでなく、民族構成もほとんど同じである。すなわち、人口の圧倒的多数はフツ族(約85%)であり、少数派のツチ族がおり(14%)、さらにごく少数派のトゥワ族(1%)からなる。これらの民族は、昔から同じ地域に入り交じって居住し、平和に暮らしていたとされる。

歴史的には少数派のツチ族がブルンジ・ルワンダの政治や軍事などを担当してきた。これはツチ族が支配者として権勢をふるっていたというよりは、もともとブルンジの伝統的な社会そのものが兵士や軍人に重きをおく「武断政治」のような形態をとっていたからにすぎない。

これに対し、ドイツとベルギーは、この少数派のツチ族による支配を利用・強化し、近代以降ツチ族とフツ族とを、支配者層・被支配者層に分化・固定してしまった。ツチ族はエリートであり、留学をするなどしていわゆる知識人が多かったのに対し、フツ族の知識人は少なく、多くが農民であった。
■独立後の小史■

独立後、多数派のフツ族が支配権を握ったルワンダと異なり、ブルンジでは30年間にわたる抗争の末、少数のツチ族エリートが政治と軍の実権を握った。1960年代と70年代には、ツチ族とフツ族との衝突が何度か起こり、フツ族住民が何10万人も殺されている。
やがてフツ族の不満の高まりと、国際的な圧力により、選挙によって大統領を選ぶことが認められ、1993年、初のフツ族の大統領としてンダダイエ大統領が民主的選挙によって選出された。これに対し、権力を手放すまいとするツチ族の強硬派は8月20日に大統領を暗殺。この暗殺をきっかけに、60年代、70年代の虐殺の再来を恐れるフツ族がツチ族に対し大規模に反乱すると、ツチ族主体の軍隊はこれに反撃した。フツ族はFDDやFNLといったゲリラを組織して対抗し、何10万もの人々がブルンジ国内外のキャンプに逃れ難民となり、30万人から50万人が虐殺されたといわれる内戦が始まった。

さらに1996年には軍部がクーデターを起こし、ツチ族のピエール=ブヨヤ将軍が大統領となった。ブヨヤ大統領は軍隊を増強し、経済制裁を受けているにもかかわらず軍事費を増やしたため国家は疲弊。フツ族のゲリラはウガンダやコンゴ民主共和国(旧ザイール)に拠点をおいてこれらの国の支援を受けているといわれ、ブルンジにたびたび侵攻し、ツチ族主体の軍とフツ族主体のゲリラによる内戦が現在でも続いている。特に近時は、ゲリラがタンザニア国内の難民キャンプを拠点にしているとブルンジ政府は非難している。

また、ゲリラがフツ族住民が多く住み、首都に近いブジュンブラ=ルーラル地区を中心に活動するようになったため、ブヨヤ大統領は、ゲリラと、これを支援するフツ族住民とを分離させるべく、80万人もの人々を強制的にregroupment camp に移住させた。このキャンプは1998年には閉鎖されたとブルンジ政府は主張している。

444とはずがたり:2004/04/05(月) 21:01

http://c-cross.cside2.com/html/bp0ri001.htm

 94年4月6日、フツ族のルワンダ大統領ハビャリマナを乗せた飛行機が何者かに撃墜され、フツ族によるツチ族の大量虐殺が始まった。海外のメディアはそれを長年に渡る民族対立の結果と報じた。 本書の著者は、アフリカでは大量の死者が出ると世界のメディアが集まり、報道が加熱するが、新鮮味が薄れるとすぐに下火になり、 強烈なイメージだけが人々の記憶に残るだけで、その意味が理解されることがないという。

  実はこの大量虐殺は何年も前から計画されていた。フツ族の支配層は新聞やラジオ、街頭演説などを通して反ツチ族の洗脳キャンペーンを繰り返し、フツ族の"十戒"を作って、 ツチ族と結婚したり、ツチ族を雇う者に裏切り者のレッテルを貼り、フツ族過激派を集めて組織的な訓練を行っていた。

 しかしこの計画的な大量虐殺には歴史的な背景がある。ツチ族とフツ族はもともと言語も同じで、遊牧民族である前者と農耕民族である後者の違いが、貧富の差を生み、階層を作っていたにすぎなかった。 ツチ族の所有する牛は豊かな階層のシンボルとなっていたが、フツ族でも豊かになって牛を手に入れればツチ族とみなされたということだ。

 ところがそこに植民地支配者がやってきて神話を広めた。その神話では、ツチ族は北のエチオピアからやって来た黒いアーリア人であり、よりヨーロッパ人に近い高貴な民族であるのに対し、 フツ族は下等な野蛮人とみなされた。ルワンダは独立に至るまでにドイツ、ベルギーの統治下にあったが、そのあいだにこの神話が強化されていく。 民族を証明するカードの所持が義務づけられ、高貴とされたツチ族は権力をほしいままにし、フツ族は永遠にフツ族として生きていくしかなくなったのだ。

 このツチ族とフツ族の立場は独立をめぐって逆転する。ツチ族の支配者たちはベルギーと距離を置いて権力を維持しようとしたのに対し、ベルギーはフツ族支援にまわり、 フツ族によるツチ族の大量虐殺が行われ、ツチ族は周辺諸国に流出していった。一方、隣国ブルンディではベルギーからの独立に際して逆にツチ族が権力の掌握に成功し、 92年に行われたフツ族の弾圧で生まれた難民がルワンダに流れ込み、このフツ族難民たちが94年の大量虐殺のときに大きな役割を果たしたという。

 さらにルワンダ国内のフツ族も決して一枚岩ではなかった。大統領を取り巻く北部のフツ族エリートたちが利権を独占したために、もう一方にたくさんの貧しいフツ族農民が存在していた。 政府は彼らが貧しい原因をツチ族のせいにし、彼らの不満がツチ族に向かうように仕向けた。また、アフリカにおけるフランス語圏を守ろうとするフランスがこのフツ族政権を支援しているという背景もあった。

 しかし93年、ハビャリマナ大統領は、亡命ツチ族からなるルワンダ愛国戦線の軍事的な圧力と民主化を求める国際的な世論に抵抗できなくなり、一党支配に終止符を打つ和平協定に調印する。 しかしこれまで一党支配で利権を独占してきたフツ族支配層が簡単にそれを放棄することはできない。そんな状況のなかで大統領が何者かに暗殺され、ツチ族の大量虐殺が始まる。 それを単に民族紛争の結果というわけにはいなかいだろう。

445とはずがたり(1/2):2004/04/05(月) 21:04

http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000025.html
□大虐殺事件の概要

  ルワンダは、1960年に独立し、1973年の無血クーデター以降、フツ族のハビャリマナ政権が長期にわたって独裁体制を敷いてきた。1990年9月、独立後のフツ族によるツチ族の迫害でルワンダの北側にあるウガンダに移動していたツチ族らによる組織・ルワンダ愛国戦線がルワンダに侵攻して北部を制圧した。政府軍と愛国戦線が衝突を繰り返す中、1992年7月に停戦に調印されたが、翌2月には戦闘が再開され、同年8月には和平協定が調印された。

  この包括的和平協定により、新政府に全権を委譲することになっていたハビャリマナ大統領は、94年1月に大統領再選を勝手に宣言した。そして、4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのヌタリャミラ大統領が乗った飛行機が、ルワンダの首都キガリ空港近くで撃墜され、両大統領とも死亡、この事件をきっかけとして政府軍と愛国戦線による対立が再燃した。フツ族系住民によるツチ族系の大虐殺は、これをツチ族の責任だとして発生した。

  国連安保理の介入などもあり、事態は収拾し、7月19日、愛国戦線主導の新政権が誕生した。こうした動きに対して、報復を恐れるフツ族系住民が大量に難民化して周辺各国へ流出した。新政権は、難民を食い止めるためにフツ族も多数含まれ、少数派民族による支配は行わない姿勢を見せた。

□ツチ族とフツ族の対立の背景

  前述したように、ルワンダ独立後、フツ族によるツチ族の弾圧があったとされているが、その背景には、植民地時代のヨーロッパによる間接統治がある。ヨーロッパのアフリカ進出以前には、ツチ族とフツ族は、ツチ族を主とするゆるやかな主従関係が築かれていた。これに対して、ヨーロッパ諸国は、アフリカを統治するために、民族の対立を和えて人工的に作り出し、例えばルワンダのような場合は、ツチ族にフツ族を支配させて統治したわけである。ヨーロッパの奴隷に対する扱いは、ツチ族とフツ族の主従関係とは異なり、いわば飼い主と家畜の関係であった。

  ヨーロッパとアフリカの関係については、当初は対等な貿易相手であったが、奴隷貿易、そして武力によるアフリカの分割に至り、アフリカ人は非人間的な扱いを受けた。そうしてつくられた歪みが、ルワンダのみならず、アフリカでの紛争の一因となっている。

446とはずがたり(2/2):2004/04/05(月) 21:04

□ハビャリマナ政権

  ハビャリマナ政権は、1973年に当時国防相だったハビャリマナ氏が無血クーデターで軍事独裁政権を敷いたところからスタートし、1978年の国民投票で新憲法を採択し、同氏が大統領に就任した。同政権は、フツ族ばかりでなく、ツチ族からも少なからず支持を受け、ルワンダの繁栄に務めてきた。しかし、1980年代半ば以降、経済情勢が悪化し、同時に一党独裁への批判が高まっていった。

  経済危機に陥った原因はいくつかあるが、スズの国際価格の下落、主要な輸出商品であるコーヒーの国際価格の下落、そして、1980年代後半から1990年代初めの干ばつ、これに人口の増加による土地の不足などの要因も絡み経済は大きく後退した。こうした中、ルワンダ愛国戦線による北部の制圧があり、また、独裁の結果として横行した汚職への非難が高まり、こうした諸々の点でハビャリマナ政権は大きく揺らいだ。

  1991年6月、国内外からの圧力によりついに一党制が廃止され、翌1992年4月、主要野党を含む政権が誕生したが、大統領はハビャリマナであり、愛国戦線は含まれていなかった。首相に就任したンセンギヤレムエは、愛国戦線側との平和交渉に望もうとしたが、大統領らによる妨害にあった。
 同年7月には、愛国戦線の軍事的優位のもとで政府軍との停戦が調印されたが、1993年2月には戦闘が再開され、同年8月にはハビャリマナ大統領が政府に全権を委譲することを取り決めた包括的和平協定が結ばれた。しかし、翌年1月にハビャリマナは大統領再任を宣言した。

  こうした流れの中で、1994年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのヌタリャミラ大統領を乗せたルワンダ大統領機がキガリ空港付近で撃墜され、両大統領とも死亡した。

□大虐殺と愛国戦線による報復

  フツ族によるツチ族の虐殺は、こうした閉塞状態の中で発生した。愛国戦線による力が拡大していくと、フツ族過激派によるツチ族は危険だというプロパガンダが、メディア等を通して広がり始めた。そして、ツチ族の虐殺を呼びかけるラジオ放送をきっかけに、大虐殺が始まり、 100万人とも言われる犠牲者を出して世界を震撼させた。

  単一民族によるルワンダの支配を目論んだフツ族系過激派は、一度は首都キガリを制圧したが、ウガンダで体勢を立て直した愛国戦線が再びルワンダに戻り、逆に首都キガリを制圧した。この衝突により、多くの国民が難民となり、隣国に流出した。

  1994年7月、愛国戦線主導の新政権が発足し、フツ族系のビジムング氏が大統領に就任した。また、暫定首相となったトワギラムング氏もフツ族出身であった。一方、軍部はツチ族が中心となっているが、全体としては民族色を排除した政権となった。

  しかし、今まで共存してきたとは言え、一度殺し合った民族同士が再び共存しようとすることには大きな障害があるだろう。多くの難民はルワンダに戻ったと言われるが、隣国ブルンジやコンゴ民主共和国も含めて、ツチ族とフツ族の衝突は続いている。

447とはずがたり:2004/04/05(月) 21:08
>>442-447
【ルワンダ・ブルンジのフツ族・ツチ族の対立まとめ】
・フツ族とツチ族は「(固有の習慣や身体的特徴などを共有)民族」ではなく貧富の格差に過ぎなかった。
・フツ族とツチ族を対立を激化させた原因には植民地政策があるが,独立後の経済不振を民族対立で誤魔化そうとした為政者側にも大いに問題がある。

結局,経済問題に帰着されるのでは。


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