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PC関連スレ

1■とはずがたり:2002/11/04(月) 22:01
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2038とはずがたり:2017/02/06(月) 17:25:46
知らなかった。。AMDとIntelが最初盟友関係だったとわ。

【連載】
巨人Intelに挑め! - 80286からAm486まで
[1] AMDとIntelの確執の起源
http://news.mynavi.jp/series/amd_80286/001/?lead
吉川明日論
[2015/05/11]

さて、第1シリーズで書いたK7 Athlon 1GHzの発表から一気に時代を25年さかのぼる。 と言うことは現在から40年も前の話だ。…ちょっとした歴史的な背景説明をしたほうがわかりやすいと思い、この第2シリーズを書くことにした。

それは、当時毎日のように「SanJose Mercury News(シリコンバレーのコミュニティー紙ともいうべき地方新聞)」のトップニュースを飾ったAMDとIntelの競争の歴史であり、PCの頭脳と言われるCPUの発展の歴史であり、ちょっと大げさかしれないけれど、日々競争に明け暮れ切磋琢磨してきたシリコンバレーの歴史そのものであると思う。

そこには、シリコンバレーのパワーの源であるエンジニアたちの飽くなき熱意があり、ビジネスを突き動かすための経営者たちのいくつもの勇敢な決断があった。そしてなにより、隆盛してゆく産業の得体のしれないパワーがあったし、そこに従事している者たちで共有していた興奮があった。今から思うと、何かわからない熱病にかかっていたような気がする。そんな気持ちを持つのは多分私だけではないだろう。

Intelが4ビットのCPU4004を発表したのは1971年である。4004の誕生についてはいろいろな記事があり、Intelがこのプロセッサを日本の計算機会社のために開発したのだということについてもいろいろな記述がある。その当時汎用CPU、いわゆる同一ハードウェアで幾多の用途に応じたアプリケーションソフトが動くという考え方は存在していなかったし、このプロセッサがさらに発展し、今ではクラウドコンピューティングを支えるサーバーのエンジンになるなどとは40年前に誰が想像しただろうか(そもそもInternetと言う概念がなかった時代である)。

私はAMDに勤務した人間であり、最初にIntelが開発したx86 CPUの起源を語る資格もないし、するつもりもない。 AMDに勤務していた時は、Intelは常に圧倒的な力を持った競合であり(その強大さは時にはため息が出るほどであった…)、追いつき追い越すための大きな目標であった。と同時に、私は常々Intel社に対してはシリコンバレーの中心企業として、また驚異的なコンピューター技術革新を常にリードした業界の推進力として大きな敬意を抱いていた(この私のIntelへの敬意は、その後AMDがK7/8で技術的にIntelを追い抜いた事態が起こった時Intelが独占的地位の乱用という行動をとったことで崩れ去ったのだが…これについては機会があれば後述したい)。

Intelの成功の裏にAMD有り

私がAMDの社員であったことで誇れることは、AMDのCEOであったJerry Sandersが常々言っていた"競争のみが革新を生む"という言葉のように、AMDとIntelが常に競合していたために、両社の技術革新が加速され、結果的には顧客に対し大きな価値を生んだという点である。

前置きが長くなったが、Intelの4004発表後、CPUは8ビットの8080の時代となり、これが16ビットの8088(外部バスは8ビット)、8086と発展していった。 当時、PCと言う概念はなく、IBMがPersonal Computer(いわゆるパソコン)と言う製品を発表し、それが爆発的な発展を遂げるまではAMDもIntelも汎用メモリ、汎用ロジックなどの製品が主体のビジネスであった。

当時のコンピューター産業の中心はメインフレームのIBM、DECとその互換のBUNCH(Burroughs、UNIVAC、NCR、Control Data Corporation、Honeywellの頭文字)、などの米国東海岸の企業が中心であり、シリコンバレーの半導体会社はあくまでもベンチャー系の亜流であった。このようなコンピューター会社は、それぞれが自分のシステムに使用する半導体パーツを自身で製造していた。特にコンピューターの頭脳であるCPU(Central Processing Unit)は自社設計のものを自社のコンピューターに使用するというのが常識であった。要するに今ではスーパーコンピュータにも使われるのが当たり前である汎用CPUなどというものは存在しなかった。

そこに、IBMからIntelへ8088を最新製品に採用したいという話が入った。IBMが8088を採用した製品は、1つはDisplaywriter(いわゆる初期のワードプロセッサ)とIBM PCであった。

最近、その時代のシリコンバレーの話がよく書かれている本に出会った。National SemiconductorのCEOを務めた Charlie Sporck 氏の回顧録「Spinoff」と言う本をである(Saranac Lake Publishing, New York刊)。残念ながら既に絶版らしいし、日本語訳されていないので、今では読まれる機会がほとんどないと思われるが、私としては実に面白い読み物である。

2039とはずがたり:2017/02/06(月) 17:26:06

この本によるとIBMからIntelにこの話が来た時、Intelは大いに期待したことが書かれている。その当時シリコンバレーのベンチャー企業であったIntelと同じく、この話に狂喜したもう1つの企業があった、そしてその企業はIntelとともに、その後のIT業界を牛耳る巨大企業になった。

マイクロソフトである。 この話は、いろいろな本が既に書かれていて、当事者でもない私が語るものは何もない。 ここで私が語りたいのは、このIntel:x86 CPU+マイクロソフトと言う不動の独占ビジネスモデルの構築に、実はAMDが大きく貢献していたという事実である。

IBMはこのPC(いろいろな話を読むとIBM自身も、このPC:Personal Computer:個人で持つコンピューターと言う概念については社内でかなり懐疑的にみられていたらしい…)のメインCPUについては社内で作られているメインフレーム用のCPUは使いようもなく、CPUもソフトも外部から調達するという点で、当時はこの製品はIBMの主流から外れたかなり得体の知れないプロジェクトであったことがうかがえる。

ただし、さすがはIBM。調達部門はCPUは必ず2次ソース(とは註:なんだ,2次ソースって?互換の製品を供給出来る会社みたいだ。)があることと言う条件を付けていた。ソフトについてはハードのおまけくらいにしか考えていなかったのだろう、マイクロソフト1社に任せた(これがその後大きな付けとなって回ってくるなどとは想像もしなかっただろう)。IBMのビジネスにテンションが上がったIntelだが、2次ソースを探さねばならない。そこで、IntelのCEO Robert Noyce(マイクロプロセッサの生みの親と言われる)が真っ先にコンタクトしたのが、National SemiconductorのCharlie Sporckである。

筆者は最近この連載の執筆にあたりCharlie Sporckの手記、「Spin-Off」を読むまでは、IntelはAMDにコンタクトしたのだと思っていたのだが、最初のコンタクトはNationalであったことが判明した。

Charlie Sporckの手記には、"ある時、家族とスキーに行っていたらIntelのRobert Noyceから電話がかかってきた。一緒にIBMに納めるマイクロプロセッサをやらないか? と言う話であったが、そんなもの(マイクロプロセッサ)ビジネスになると思わなかったので即断った。今から思ってみれば、あれは間違いだった。"と言う記述がある。

しかし、Nationalは、その後Chiarlie Sporckの下でアナログ、ディスクリート製品にフォーカスして大きく成長し、最後にはスピンアウトした母体であったFairchildを買収することになった。シリコンバレーの老舗企業たちの生い立ちについては、番外編で書くつもりである。

IBMが新製品PCにIntelのCPU採用を決定する際に、2次ソースを見つけることを条件にし、IntelはNationalのCharlie Sporckにコンタクトしたが断られたことは前述した。

そこで、IntelのNoyceはAMDのJerry Sandersにコンタクトした(Noyce、Spork、Sandersは皆かつてはFairchildで一緒に働いた同僚である)。

AMDは当時CPUとしてはIntelの競合で8ビットの世代では確実に成長しつつあったZilogのZ80(8ビットCPUアーキテクチャの傑作と言われている)を2次ソースメーカーとしてサポートしていたが、IBMのPCの話を聞くと、Sandersはそのビジネス感覚でもって、あっさりとNoyceの協力要請を受け入れた。

かくして、後に源平合戦を繰り広げることになるAMDとIntelは最初は盟友として、もう一つのCPUのアーキテクチャの雄、Motorolaの68000に対抗すべく共同戦線を張ることになる。 そのころのAMDとIntelの"Partner Chip"(パートナーシップのしゃれ)と題した共同広告を見つけたので掲載する。その後の両社が親の敵と言うほどにいがみ合ったことを考えると、信じられない話である。

http://tohazugatali.web.fc2.com/PC/001.jpg
AMDとIntelはかつて共同戦線を張っていた (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」)

PC市場の急速な拡大 - 2次ソースとしてのAMD

このIBM PCへのCPU・OSの採用によって、結局マイクロソフトのOSを使用したPC系はAMDとIntelのx86、片やMotorolaは産業用の埋め込みアプリケーションという風にすみわけが決まってしまった。その後Motorolaの68000はAppleが採用し大流行となるMacintoshのCPUとなったが(今は亡き天才Steve Jobsの最初の傑作Macは1984年1月に発表された)、後にWintelといわれるようになった派手なCPUの世界規模の競争からは締め出されてしまったわけだ。

IBMのPCが次第にその価値を認められ、IBM・PCのクローンが市場に出現し、瞬く間に巨大な市場になってゆく(そういえば、クローンなどという言葉もこのころ初めて聞いたのだと思う…)。そうなるといよいよ2次供給者が重要になってくる。というのも、急速に成長する市場のからの需要にIntelだけでは対応しきれないし、各PCメーカーも一番重要な部品であるCPUを1社から購入するのも不安であるからだ。

2040とはずがたり:2017/02/06(月) 17:26:56
そんな中、1982年の2月にIntelはそれまでの8086をさらに強化した80286を発表する。80286は16ビットのCPUの第2世代という位置づけで、このビジネスでの圧倒的な地位を決定づけた傑作製品である。

そのころまでに、AMDはIntelのCPU製品の2次ソースとして、1976年のクロスライセンス契約(お互いの特許を持ち合う契約‐この契約に書かれていたある条項が後に大きな禍根を残すことになるのだが…)に次いで、1981年にはこの契約を更新し、Intel製品の2次ソース会社としてx86マイクロプロセッサーの本格的な生産を開始する。どういうことかというと、Intelが8086、80286などのプロセッサの技術情報をAMDに開示し、AMDはその情報に基づき製品の製造を行う。そして、AMDはIntelのx86アーキテクチャに競合関係になる製品は開発せずに、Intelと協力しながらこのアーキテクチャを広めていくというものである。

基本アーキテクチャは同一であるが、製品性能の改善に関しては両社は競合することになる。完全に互換性のあるCPUが2社から、しかも常に性能改善がされながら提供されるのであるから、急成長するPC市場においてユーザーとしてのPCメーカー各社にとっては、Intel、AMDを両てんびんにかけながらできるだけ有利な条件で、PCの頭脳であるCPUを確保することが非常に重要な要件となる。

この頃から、x86アーキテクチャがMotorolaの68000などの他のアーキテクチャと競合していた状態が、PCの爆発的な普及により次第に変わってきていた。すなわちx86はPC業界の唯一の標準となり(de-facto standardと言う)、PC各社は標準にのっとったPCを大量生産することとなり、勝敗を分けるのは、どのPCメーカーがより高速なCPUとより容量の大きいメモリ(DRAM)を積んで、より安く提供するかが勝負となる。

もっとも、この時代にはまだPCの形状などで差別化を図れることができたので、Display一体型デスクトップ、白黒DisplayでなくカラーDisplay, ラップトップ(ノートブックではなく)など各社工夫を凝らしたPCが出現した。それでもやはり、重要なのはコンピューターの頭脳と言われるCPUである。当時のWindowsベースのアプリケーションはまだ高速のハードを必要としていたので、CPUが高速であるほど、またメモリ容量が大きければ全体の処理能力は高くなる。CPUが同一アーキテクチャであれば、性能を決定付けるのは動作周波数(クロックスピード)と消費電力である。より高い周波数で、消費電力を抑えたCPUがより高い価値があることになる。

PCが急速に普及し始め、かつては職場でしか目にしなかったコンピューターが個人の持ち物になり始めると、Intelは従来の技術主導のエンジニア集団という会社から、半導体市場には当時まだ存在していなかったブランドマーケティングを持ち込み始めた。高い周波数であるほど価値が高いという大変に解かりやすいメッセージで瞬く間に市場で受け入れられていった。

AMDも負けてはいなかった。Intelの80286が周波数12MHz(ギガヘルツではなくメガヘルツです…)であったところに16MHzを投入、しかもPCの小型化がはかれるプラスティックのパッケージを使用するなどいろいろな改良でIntelを猛追し、次第に市場シェアを広げていった。しかし、この数年前からIntelは既に16ビットの80286の次期製品である32ビットの80386の開発を進めていた。16ビットから32ビットへの進化はPCの性能向上においてメジャーなイベントであった。32ビットコンピューティングはその後PCの世界では20年以上続くことになる。

80386はAMDにはライセンスしない

80286プロセッサ(x86)とマイクロソフトのDOS(まだWindowsではなかった)との組み合わせで、その後Wintel(この表現は後になって主にプレスが使ったのであって、面白いことに筆者はIntelもマイクロソフトもこの言葉を積極的に使っていたのを聞いたことがない…)という無敵のビジネスモデルを打ち立てたIntelは、次期プロセッサ製品80386を開発するにあたってAMDとの関係において社内で密かに決定していたことがあった。要約すれば下記の3つの事項である。

80386はAMDにはライセンスしない。
しかしそのことはAMDにはすぐには伝えない(ぎりぎりまでAMDをIntelアーキテクチャのサポート側につけておく)
80386発表後は80286からの切り替えをできるだけ早く行いAMDを振り切る。

2041とはずがたり:2017/02/06(月) 17:27:51
誤解のないように記しておくが、これらのことをIntelが密かに決めていたと言う事実は筆者が憶測で言っているのではない。AMDはいくら待っても、Intelが80386の二次供給ライセンスの話に乗ってこないので、1982年のライセンス契約に基づいてIntelに対し調停訴訟を提起した。それを見たIntelは、すぐさまAMDに80386のライセンスをしないと宣言した。調停訴訟というのは、ハイテクノロジーの業界ではよく出てくる話で、長期にわたり、しかも金がかかる法廷闘争の代わりに、両社の合意のもとに選出された調停人(ほとんどの場合引退した裁判官、判事など法律のプロが選ばれる)に依頼してスピーディーに解決を図る略式訴訟のようなものである。

しかし、実際にはこの調停はもめにもめて、結果的にはAMDの主張がおおかた認められる形で終了することになる。先に述べたIntelがAMDとの関係において秘密裏に決定していた3つの重要な事項は何万ページにわたる双方の内部文書を精査して、多分5年近くはかかったであろうこの調停訴訟の結論として、調停人元判事のバートン・フェルプス氏がまとめた調停文書で発表したものにはっきり述べられている事実認定である。

その後も、AMDとIntelはいくつかの大掛かりな訴訟合戦を繰り返すが、これについては別の機会を得て記述したいと思う。

PCがITのプラットフォームとして爆発的に成長する中、Intelはそれまでの16ビットの80286プロセッサの次期製品、32ビットの80386の開発を終え、1985年10月に16MHz版の最初の製品を正式にリリースした。

一方のAMDはそのころ80286の16MHz版を市場投入していた。当時のアプリケーションには32ビットのビット幅に対応するものは少なく、性能が高く安価なAMDの80286-16MHzは市場でかなり健闘した。その当時の私が手掛けた広告が残っているので掲載しておく。

http://tohazugatali.web.fc2.com/PC/001l.jpg
80286-16MHzの広告

前述の通り、当初はIntelとAMDはx86アーキテクチャの普及で協業したわけだが、80286の普及によりx86アーキテクチャが業界標準となった時点で、IntelにはもはやAMDは邪魔者でしかなかった。そこでIntelは有名な"286X キャンペーン"を大々的に開始する。新製品80386をライセンスしないことでAMDを32ビット製品から締め出すことに加えて、自らが生んだ既存製品80286を否定することによって、AMDを一緒に葬り去ろうという強烈なものであった。286と書いた上に大きく赤のXを付けて、"これからは32ビットの80386の時代です"と書いてある。後にIntel Insideというキャンペーンに発展したものである。

AMDにあって、Intelとの市場での競争に明け暮れた私にとって、Intelは常に大きな脅威であったが、このキャンペーンを初めて目にしたときには本当に驚いた。自らの市場での優位性を維持するために自らが生んだアーキテクチャを殺しにかかる、まるでギリシャ神話にでも出てくるようなテーマに、Intelという会社の徹底ぶりにショックを受けたのを覚えている。

当時のIntelのCEOであったAndy Groveは後にリーダーシップに関する本を書いたが、そのタイトルは"Only the Paranoid Survive(偏執狂だけが生き残る)"であったことを考えるとうなずける点もある。

独自開発に着手 ? コードネームは「Longhorn」

Intelからの80386のライセンスを断念せざるを得なかったAMDは独自開発の80386互換のプロセッサの開発に着手する。テキサスの開発チームに因んで開発コードネームは"Longhorn"と決まった。リーダーは当時まだ30代のBen Oliver、Oliverを支えるのはAMDプロセッサ設計部隊から選ばれた血気盛んな精鋭チームであった。ただし、いくら能力があっても一つだけユニークな条件が付いていた、"Intel社に勤務する親類縁者がいないこと"。

AMDは80386の互換製品独自開発について"リバースエンジニアリング (Reverse Engineering)"の手法を用いた。クリーンルーム版と別名されるこの手法を辞書で調べると、"Reverse engineeringとは、機械を分解したり、製品の動作を観察したり、ソフトウェアの動作を解析するなどして、製品の構造を分析し、そこから製造方法や動作原理、設計図、ソースコードなどを調査する事である"とある。クリーンルーム版と言う意味は、設計エンジニアたちは設計室に入る時と退出する時に身体検査をされ、何も持ち込まない、何も持ち出さないということを徹底することである。

つまり、普通のものづくりの方法は、まず設計図があり、それに基づいて製品を作っていくのであるが、この場合はまず製品(30386)があり、それがどういう設計で作られたのかの情報なしに、公開された情報だけをもとにその当該製品と同じものを作ることである。AMDが与えられた公開された情報で一番有力なものは2つである。

1. 80386のデータシート、ユーザーマニュアルなどの資料
2. 80386そのもの

2042とはずがたり:2017/02/06(月) 17:28:15
データシート、ユーザーマニュアルは、80386の内部の機能ブロック図、どのピンがらどんな信号が入ればどんな信号を吐き出すのか、といったCPUを使ってPCを開発するハード、ソフトの設計エンジニアたちに必要な基本情報が書いてある公開文書である。

さて、80386そのものであるが、資料によると最終的なAMDの互換製品Am386は27万5千トランジスタであった。と言うことは、Intelの80386も大体同じくらいの数のトランジスタの組み合わせで設計されていたのであろうと思われる。

半導体のリバースエンジニアリングは、経済性を度外視すれば比較的に容易にできる。しかし、チップサイズ(プロセスルールが同じならばトランジスタ数)に制約がある場合には難易度は大きく違う。チップサイズが小さければ小さいほど同じウェハから生産できるチップが多くなるので有利である。しかも、当時のPC市場は、IntelがAMDの80286を殺しにかかり、どんどん386に移行してゆく、その間にもIntelはDXに続きSXと言う廉価版まで出してくるという状況であった。Ben Oliverの設計チームに掛けられた期待、大きなプレッシャーは想像に難くない。彼に与えられたミッションは次の3つだった。

公開された情報のみに基づいてIntel386と全く同じ動作をするCPUを独自設計で開発する。
故に、Intel製品とハードウェア的にも、ソフトウェア的にも完全互換であること(簡単に言えば、PCボードのソケットからIntel386を引き抜き、AMD386を代わりに入れてもすべての周辺機器と一緒に、すべてのソフトウェアが問題なく動くということである)。
市場投入された時点で、先行するIntel386と互角、あるいはそれを凌ぐ性能、経済性を持つこと。
まさにMission Impossibleである。

目にしたのはあまりに異様な光景

Oliverのチームが真っ先に行ったことは80386を買ってきて、何層にも作りこまれたプロセッサチップに刷り込まれたマスクパターンから論理情報を解明するため、チップの拡大写真を解析することであった。私は、当時テキサスに出張した時にデザインチームに近しい人間がいたのでそっと見せてもらった憶えがかすかにある。

体育館のような広い部屋の床いっぱいにチップの拡大写真が敷き詰めてある。その上を何人かのデザインエンジニアたちが下を向いて無言で歩いている。何をやっているのかと聞いたら「彼らは、チップの拡大写真からプロセッサのロジック設計を読み込んでいるんだ」という答えだった。あまりにも異様な光景だったので、本当に自分で見たのかどうか記憶を疑っていたが、最近、この記事を書くにあたってAMDの社史を調べていたらその写真が載っていた。

当時、AMDの設計チームがいたテキサスのAustinでは、「AMDは半導体ビジネスがIntelにやられて左前になったので、半導体から写真ビジネスかなんかに商売替えするらしい」という噂が飛び交っていた。と言うのも、Austin市中の写真館にAMDから訳の分からないパターンが写っている拡大写真の大量注文が何カ月も続いたらしい。当時は写真と言えば完全アナログであったのであるから、どれくらいのものであったかは今では考えられないことである。

確かに、プロセッサのトランジスタ数が100万以下の古き良き時代でのみ可能であったことであり、今のようにトランジスタ数が億単位の時代では考えられないことである。今の時代のCPUの拡大写真を一平面に目視できる状態で表示するとしたら多分東京ドームの何個分という規模になると思う。



Benのリバースエンジニアリングの仕事は奇跡的な結果を生み大成功であったが、CEOとしてのSandersの仕事はこれからだった。何しろ、今までのように固定したデザインを製造部門に回してチューニングをするのとは違い、まだ流したことがないデザインを市場投入時に競争力のある性能で(クロック周波数)、儲けられる形で(ダイサイズ、製造コスト)製造しなければならない。

しかも、市場はIntelがAMDに80386をライセンスせず、AMDは386を独自開発しなければならなかった事をよく知っている、AMDの386がリリースされる時期になっても前述した調停訴訟の結果は出ていない(AMDはシリコンデザインのハードウェアは独自開発したが、プロセッサに格納されたマイクロコードは1976年のクロスライセンス契約でAMDに使用権があるという立場で、そのまま使用していた ― この件については後程機会があったら説明します)。その状態ではたして、市場はAMDの独自開発品を受け入れるだろうか? さらに、Intelは80386の次期製品80486の開発に余念がない。80486が出てくれば、IntelはせっかくBenが開発したAMDの386を殺しにかかる。まさに時間との戦いだった。

BenのLonghornチームが開発を終えてからの製造部門の頑張りについては、私はよく知らない。ただ、日本の営業、Marketing部門の人間として私が憶えているのは、「80286はもう終わりだ、早く386を投入しないと売り上げが立たない、早く386を!!」ということだった。

2043とはずがたり:2017/02/06(月) 17:28:27

果たして、AMDが総力を結集して開発した80386互換プロセッサは、それまでのAMDの製品番号の伝統に従ってAm386として1990年11月に正式リリースされた。Intelの386の発表に遅れること5年であった。

PCメーカーであるカスタマたちは既にIntelの独占状態になっていた386市場にAMDが戻ってきたことを歓迎した。しかし、保守的なカスタマも多かった。"本当に完全互換なのか?"、"ハードは独自だが、Intelのマイクロコードを使っているそうじゃないか、AMDの製品を使ったことによって、Intelが我々を訴えたらAMDは補償してくれるのか?"などなど。

私も、AMDから買いたいのはやまやまだけど、法律問題があって踏み込めないというカスタマにAMD本社から法務部門の人間を呼んで顧客を訪問しまくった。やはり、そのころからIntelの市場独占が始まっていたのであって、Intelはその独占ゆえにますます強大になっていったのは明らかであった。

ある日本のお客に行ったとき、"君、Intel製品に完全互換と言うことは、Intelの386のバグ(不具合)も起こるということだよね、それを保証できるの?Intel製品で起こることはすべて再現してもらえる互換品でないと我々は使えない"と言われて絶句したのを憶えている。市場独占というのはそういうことなのだという実感が身に染みてわいてきたのを今でもはっきり思い出す。その後、AMDはIntel互換と言う考え方を捨てて、ソフトウェア互換という考え方に舵を切ったが、それは当然と言えば当然の帰結であった。

しかし、PC市場は成長に次ぐ成長、新たなPC・AT互換機メーカーが参入し、しのぎを削っていた時代なので、時間とともにAm386は次第に市場に受け入れられ、AMDの屋台骨を支える存在となった。

AMDはAm386の投入によって息を吹き返したが、既に次の製品の独自開発に着手していた。Intel80486互換のAm486である。トランジスタ数が120万と言うことはAm386の4倍以上である。その開発については、営業に忙しかった私にとってはAm386の時ほどドラマチックではなかったので(と言っても、設計エンジニアたちはさぞかし大変だったろうに…)、私自身はよく憶えていないが、1993年の4月にAm486が正式リリースされた。386の時にはIntelから5年遅れだったものを、4年遅れに縮めたわけである。

Am386の販売の際に経験した"本当に互換なのか"というカスタマらの反応にAMDは非常に明確な形で答えた。Am486ではCPUのパッケージにWindowsロゴをあしらったのである。これはAMDが勝手にやるわけではないので、当然Microsoftが承認したわけである。

このころから、AMDの中ではいよいよIntel互換路線を捨てるという方向性がはっきりしてきたのであると思う。それと同時に、Wintelと言われた無敵のビジネスモデルにも変化がでてきたのが読み取れる。MicrosoftにとってはPCがより売れるのがいいのであって、その中に使われるCPUはIntelでもAMDでもどちらでもよいということである。この考えはIntel側も同じであったであろう。

つまり、Intelのハードであればマイクロソフトでも、Linuxでも、そのずっと後にスマートフォンのOSとして市場を席巻するGoogleのAndroidでも何でもいいということである。時代はいよいよ次の段階に入っていった。



元々は小さなベンチャーの集まり

せっかくAMDの話を書く機会を得たので、どうせなら、AMDを育てたシリコンバレーの簡単な歴史、またそれを築き上げたレジェンドたちの話も書いておこうと思う。

この辺の話をすると、私的にはここに出てくる人物たちの名前を聞くだけである種の興奮を覚えるのだが、一般の読者にはなじみがないと思うので背景説明を記しておく。今は大企業となったけれど、当時は小さなベンチャーの集まりだったシリコンバレー企業の系譜である。

それまではサクランボなどの果物の生産地でしかなかったカリフォルニアのサンタクララ周辺が、シリコンバレーと呼ばれる世界中のハイテクの中心地となった起源は、トランジスタの発明で知られるウィリアム ショックレーが開設したショックレー半導体研究所にある(ショックレーはベル研究所でトランジスタを開発した他の2人の科学者とともにノーベル賞を受賞した)。ショックレー半導体研究所は半導体製品を開発しビジネスにする目的で設立されたが、ショックレー自身は優れた科学者であったがビジネスマンではなかったらしい。

2044とはずがたり:2017/02/06(月) 17:28:53
>>2038-2044

そのうち、造反組8人がスピンアウトして作った会社がフェアチャイルド セミコンダクターである。半導体ビジネスの起源と言う意味では、このフェアチャイルドが本格的な起源と言えるかもしれない。かくしてフェアチャイルドはアメリカ全土から当時としては新興ビジネスであった半導体に惹かれる若い優れたエンジニア、マーケッターたちをシリコンバレーに結集させ、成長させる学校のようなものになった。

これらの優れたタレントは、急速に成長する半導体産業で自分自身の夢を実現するべく、次々にフェアチャイルドを出て自身の会社を設立していった。その中でも、Intel、AMD、National、LSI Logicはその後も成長を続け大企業となり、シリコンバレーの老舗として数々の会社を増殖させていった。フェアチャイルドのチャイルド(子供)に掛けてこの4社がフェアチルドレン(子供の複数形)と言われる所以である。

シリコンバレー企業の系譜

半導体業界にはこれらのシリコンバレーの新興企業がのし上がってくる以前から既に確立されていたテキサス州ダラスの雄・Texas Instruments(TI)、アリゾナ州フェニックスのMotorolaなどがあったが、シリコンバレーの企業はカリフォルニアの開放的な企業風土と言う意味ではかなり特殊なものであったと思う。

強烈な個性のぶつかり合いが原動力に

いかにも個性の強い役者たちが揃っていた。私は、AMD入社当時から日米の半導体企業が日米政府レベルの貿易摩擦の話題の中心になった1986年頃から(この件については後程述べる)PRの担当として関わったので、幸い図に示した創業者たち(ショックレーを除いて)に実際会っている(会っているといっても、同じ部屋にいて彼らのやり取りを聞いている立場にあっただけの話だが…)のでこれらの名前を聞くだけで未だにちょっとした興奮を覚えるのである。

あのころのシリコンバレーの名だたる会社のExecutive達がなんと格好良かったことか!!すべてのExecutiveが非常に個性的で、しかも自信に満ちていた。お互いライバル同士であっても共通の目的については非常にオープンに、しかもカジュアルに話し合っていた。私のその時の印象は、その後のこれら伝説的人物の記述の通りである。天才的で親分肌のNoyce、学者のようなMoore(あのMooreの法則で有名な)、製造プロのSporck、イギリス紳士のCorrigan、そして、根っからのセールスマンの伊達男、我ら愛すべき"Jerry" Sanders。

これらの強烈な個性が、あるときには協力し合い、ある時はぶつかり合い、切磋琢磨してシリコンバレーの原動力を生み出していた。私は日本の半導体業界もある程度知っているが、シリコンバレーの会社と決定的に違うのはこの業界内のコミュニケーションのダイナミックさだと思っている。そして、それが両国の半導体業界の競争力に大きく影響したと思う。

シリコンバレーのレストランでは隣のテーブルで、結構知られた人たちが、競合同士なのにビジネスの話を結構オープンに話しているのを見かけたことがよくあるし、技術者同士が素晴らしい半導体回路のアイディアをレストランのナプキンに書き記しているのをみたこともある。ある時、ふらっと立ち寄ったパロアルトのハロウィーン衣装の店で、突然Steve Jobsが娘に衣装を買っているところに出くわした時はさすがに驚いた…

知らない人同士でも、目があえばにこっとしたり、ウインクしたりするあの雰囲気は、実際はしのぎを削り合い、ストレスいっぱいの仕事生活に身を置く人たちであるのに、人生を楽しむ余裕が感じられ、独特のものがある。


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