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2資料管理請負人:2014/02/26(水) 23:33:28
転々流々
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                転々流々




 いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアッ
クな記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かっ
たまでである。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なか
ったからではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。まし
てや孟母三遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でも
さらさらない。

 樋口一葉は24年という短い人生の間に、15回もの引っ越しをしている。 平均すれば
2年に1回となるが、彼女の生活の困難さがそうさせたようだ。その15回の引っ越しの
内訳は千代田区、港区、文京区、台東区といった、ほとんど東京の中心部に近い範囲で
ある。私はその点もう少し広い範囲で暮らした。
 葛飾北斎は卒寿(90歳)で昇天、改号すること30回、転居すること93回とされ、その
多さもまた有名である。1日に3回引っ越したこともあるという。これは、彼自身と、絵
を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからであ
る。料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住
んだときは、3食とも店からデリバリーさせていた。だから家に食器一つなく、器に移
し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ごみをそのまま放置した。土瓶
と茶碗2、3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた女性であ
る娘のお栄(葛飾応為)も入れない。 客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して
「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。といった具合で北斎は絵を描くこと
一筋で、相当の奇人・変人だったらしい。
 私も学生時代は身の回りの荷物は少なく、数冊の本を小脇に抱え布団は簀巻きにして
紐をつけたすき掛けに背負い、山手線や私鉄沿線を走り回っていた。そのようにおそら
く北斎も家財道具もほとんど持たない身軽さで江戸の町を放浪していたのだろう。

 私自身は今まで28回という転居をかなり多いと心の中で得意になっていたが、北斎に
は負ける。たとえ私が90歳まで、すなわち後20年生きるとして、どんなに努力してもせ
いぜい40回がいいところで、もし樋口一葉が長生きしたとしたら、彼女の50回にも超さ
れそうだし、とても北斎の93回には届きそうもない。私も1年間に5回の転居をしたこと
があるが、これもまた北斎の1日に3回引っ越しには脱帽するのである。世の中にはとて
つもない記録保持者がいるものだ。だからといって葛飾北斎の93を記録更新のためには、
私の2年半に一回の引っ越し係数でいけば2.5×94=235歳になるまで生きなければなら
ない。いくら長寿が尊ばれてもごめん被りたい。

 そんな転居好きの私でも、間違えて或いはぼんやり考え事をしていて、前の住まいに
うっかり戻りそうだがそんなことは今まで一度もなかった。転居するということが私に
とって、過去を清算したいためなのかそれとも未来に夢を託すためなのか、はっきりと
意識したことはない。そのどちらも時によってあるだろうが、しかし一度そこを離れた
ら何が何でも前に向かって進むという心境になることは確かで、長きに渡ってそんな生
活をしていると、あまり過去には振り返らない性格に出来上がってしまったようだ。昔
住んだところを懐かしむ感情は全くないとは言えないが、そんな恋々といつまでも執着
することはない。長年のそんな習慣が帰属意識をも薄くするのだろうか。それともあま
りにもあちこち引っ越すものだから、故郷というものがどこなのか判然としないためな
のだろうか。

 学校を卒業してすぐは長崎の会社に就職した。そこでは4年間で3回転居した。その後
首都圏に住まうようになった最初の住居は、横浜の保土ヶ谷区にあった会社の社宅であ
った。それからすぐに近くの戸塚のアパートへ引っ越した。そして六本木にあった会社
への通勤を楽にするために、一年もせずに大田区の田園調布本町へと移った。その3年
後会社を辞めて独立し、小岩に移った。そして江東区の東陽町へ。バブル崩壊で東京の
事務所や住宅を処分して郷里へ、半年後また上京文京区本郷へ転居現在に至る。暇に任
せてその軌跡を追うと、左巻きの螺旋となり今に江戸城に入城しかねない。
 そうだ本籍は日本のどこでも登録できるらしいから、 東京都千代田区千代田1番1号
(皇居)(郵便番号は100-0001)に、斃る前に一度移してみたいと考えている。

註:樋口一葉および葛飾北斎における資料はWikipedia による

斜光16号

3α編集部:2014/02/27(木) 20:25:12
本音と建前の狭間で
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          本音と建前の狭間で




 山路を登りながら、かう考えた。

 智に働けば角が立つ。
 情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。
 兎角に人の世は住みにくい。

これは明治39年夏目漱石著の「草枕」の冒頭に出てくる有名な文章である。
人々はその昔より思ったことを率直に吐露すべきか、世間の習慣や常識や相手
の立場を考えて自分の意思を控えるべきか、という判断の狭間で随分割り切れ
ぬ思いを抱きながら世の中を渡らねばならなかったと見える。
 書物や学説から得た知識や理屈で押し通し、相手を言い負かすとすれば角が
立つし、また情に共感すれば思わぬ方向へ押し流され抜き差しならない関係で
喘ぐことになる。理屈にあわず情にもほだされず自分の意地や虚勢を張り通す
と、途中で自分の非を認めたり正しい考えに方向を修正するという自由を自ら
の手で縛ってしまうことになる。兎に角人と人との関係は微妙で気を使うし窮
屈で難しいと嘆いているのである。そこに人々は立場立場によって本音を求め
たり、建前に分があったりすることに気付くのであるが・・・。

 交通量の多い交差点では赤信号は守った方が安全で、建前という遵法の精神
を満足させるものであるが、人も車もめったに見かけないひなびた田舎道で何
かの故障で青に変わらない赤信号の交差点ではそう単純ではなかろう。馬鹿正
直に延々と待つか、交通法規を無視し周りを確認して渡るか。このことは心の
中で本音と建前の狭間で葛藤をよぎなくされることではあるが、そのような極
端な例や判
断に窮しない単純な問題では普通の生活の知恵で考えれば答えは自ずと決まる
し、頑なに建前を守るほど重要な問題でもない。しかし、抜き差しならない問
題では本音と建前の関係の判断基準が時代や場所や文化の違いでどのようにも
変化する故に却って厄介である。
 では本音とは何か、建前とは何か。本音とは率直に表に現すことのできない
事情の中での、 「実は本当の自分の考えはこうなんだ、こうしたいのだ。」
という秘めたる思いで、赤提灯で焼酎を呷りながら同僚に愚痴る情景が似つか
わしく、むしろ常識や世間の慣例、規則などという建前に対立するものが多い
のではないかと思われ、「物事はそのような正論で解決できるほど単純ではな
いし、人の心をそのような一刀両断のやり方で割り切られるのはご免被りたい
」と反発したくなるのである。

 法には「自然法」と「法定法」の二種類がある。それ自体が反社会的、反道
徳的である犯罪になるもの、強姦、強盗、放火、殺人など人の根源に関する犯
罪を対象とするものが「自然法」であり、その対をなすものとして最大多数の
最大幸福的な決まり、即ち多数の人々の利益を守るための秩序を目的とした規
則で、それ自体は反社会的、反道徳的という価値の基準の対象ではない「法定
法」である。
民法第210条の「袋地所有者の囲繞地通行権」である―或土地カ他ノ土地ニ
囲繞セラレテ公路ニ通セサルトキハ其土地所有者ハ公路ニ至ル為ニ囲繞地ヲ通
行スルコトヲ得―や第233条の「竹木の剪除載取権」―隣地ノ竹木根カ彊界
線ヲ踰ユルトキハ其竹木ノ所有者ヲシテ其枝ヲ剪除セシムルコトヲ得―や第2
34条の「境界線附近の建築制限」の―建物ヲ築造スルニハ彊界線ヨリ五十セ
ンチメートル以上ノ距離ヲ存スルコトヲ要ス、又第236条の「前二条に関す
る慣習」―前二条ノ規定ニ異ナリタル慣習アルトキハ其慣習ニ従フ―などは例
えその数値や定めが違ったものであっても一向にかまわず、それ自体が生命や
活き方に決定的な意味を含んでいるものではなく、ただ何らかの決まりがある
ほうが問題を解決しやすいからであろう。


そのように普通使われる建前という言葉のなかには、その「法定法」に規定さ
れる、交通法規、民法上の問題はいうまでも無いが、もっと軽微な公序良俗的
な判断分野、慣例や常識、掟、エチケットなどの社会生活上身の回りに発生す
る諸々の状況のなかで生じる過半数が納得する一般的な考え方を指すのではあ
るまいか。個人が本音か建前かの葛藤を覚えるのはこのような立場においてで
あろう。
これらの規範はほとんどが個人の良識に託された価値判断で、普通の場合は何
事もなく受け入れられるが、個人的に特殊な場合はその価値基準は実情に合わ
ず、その人に不満足な感覚を残してしまうのである。「規則は少ないがドイツ
人はよくそれを守り、沢山作るフランス人はそれを守らない」と国民性の違い
を面白く揶揄した小話でよく聞くが、ドイツ人は建前の世界が合っているのか、
フランス人は本音でしか物事を考えないのか。兎に角どちらにも徹し切れない
人々は後ろめたさの感情のなかで時々信号無視、花盗、無賃乗車など些細な違
反をするのだが、まともに罰せられたという話はあまり聞かないし、人格を全
面的に否定されるほどのこともない。しかし現代もなお人々は日々の生活にお
いて真っ向から本音を表明することに躊躇せざるをえないことが多すぎて、勢
い建前の世界の包囲のなかで己の真の意思を引っ込めざるをえなかった屈辱と
束縛とに苦悩するのである。またそれだけに建前の世界は安易に体制を守るた
めだけの論理となりやすく、庶民生活のなかで変化する価値基準に追いつけず
必ずしもその全部が庶民の利便を代表するものではない状態が生じることとな
り、なんとも窮屈で実情に合わない規制が多すぎると感じるのである。本音と
はその閉塞感を打ち破るための個人の密かな反撃と秘めたる藻掻きに似ていて、
建前との間で終わることのない戦いに悩まされることになる。

 数年前の歳の暮れに我がマンションの目の前の公園に「巾60?高さ15?の
下水道の工事基地を造りシールド工事を始めるように決定しましたので協力く
ださい」と東京都の下水道局の課長以下施工業者共々藪から棒に挨拶に来た。
我々住民はあまりの予期せぬ出来事に判断に窮するなか、このような決定が住
民の知らないところでなされてよいものか、またその工事の内容や期間、当マ
ンションの住民に対する影響はどのようなものか等の調査や考察がなされてい
るかの疑問を提示した。日時を替えて説明会を開催するように要求してその日
は引き取ってもらった訳だが、この事件が住民の要望(本音)と行政の方針建
前)との熱き戦いの始まりで2年の長きに渡るとは誰も予想しなかった。
 説明会に提示された工事の資料は、法律、手続き、「住民のための施設」と
いう錦の御旗などの建前も十分揃っていて何の支障を来すものではなかった。
しかしその内容は我々の生活環境に与える影響を無視した非常識な計画であっ
たのである。工事による騒音や粉塵、振動、通行等の沢山の問題点があったな
かで、誰が考えても受忍の限度を遥かに越えていたのは日影問題であった。当
マンションの南面バルコニーの5?先に 15?に及ぶ5階建てに等しい高さの
建物の工事基地を建設し、その期間は5年という乱暴な計画であった。この条
件でビルを建てると通常は日影規制に抵触し違法の建築物になるのだがと疑問
に思い、難解で悪名高い建築基準法を紐解いて見た。法85条4項に「特定行
政庁は、仮設興行場、博覧会建築物、仮設店舗その他これらに類する仮設建築
物について安全上、防火上及び衛生上支障がないと認められる場合においては、
年以内の期間(建築物の工事を施工するための工事期間中当該従前の建築に
替えて必要となる仮設店舗その他の仮設建築物については、特定行政庁が当該
工事の施工上必要と認める期間)を定めてその建築を許可することができる。
この場合においては、第21条第1項及び第2項、第12条から第72条まで、
第13条、第34条第3項、第35条の2並びに第35条の3の規定並びに第
3章(第6節を除く)の規定は、適用しない」と有った。建築の専門家でさえ
半日かけなければ解読できない代物で、まして一般の人が理解することにおい
ては絶望的な文章である。ここまで真面目に読んでくれた読者にはその努力に
敬意を惜しまないが、いかに我々が日ごろこの建前を代表する法律の悪文に悩
まされているか、お分かりであろう。早い話が「工事用の仮設建築物は基本的
な建築基準法の規制を免除し、たとえ民家が数年におよんで日が全く射さない
状況に陥ろうとかまわない」という緩和規定である。だから我々住民の希望な
ど正当性がなく、多くの人達の幸せのためなら少々の忍従は止むを得ないとい
う意図が見え隠れしていた。この役所対住民のぶつかり合いは正に建前と本音
のぶつかりあいで、なかなか同じ土俵の上で正面からお互いにハッシと受け止
めて立ち会う状況に至らなかった。住民の要求する資料や結論がスムーズに提
出されず、いたずらに建前論を説明することで時間を浪費したのである。これ
が民間のプロジェクトであれば年の歳月が十分の一で解決したであろう。国
民から絶え間無く供給される税をもとに成立つ公的事業と違い、採算を第一と
する民間の事業者としては短期間のうちに解決出来なければ会社の存亡に関わ
る事態になるであろう。それゆえ、問題が生じると正に本音と本音のぶつかり
合いで、迅速にかつ真剣に問題解決に取り組み、住民も休めないくらい事情説
明のための説得攻勢をかけられたと思う。役所との永きに渡る折衝の結果、幸
いにも我々の希望にそった結論を得、工事上の監視と住民の要望の調整を取り
持つ機関である「下水道対策委員会」なるものを設置し、最初の接触から工事
完成まで7年という長い役目となったのである。
そして草の根運動を通して得たものは 「住民運動には『女、子供』を含めた
種々雑多な能力を集めることが成功の秘訣である」と悟ったことである。差別
の謗りを免れないこの表現の「女、子供」の強さは、建前の社会で飼育された
男性達の、相手方による「建前論」に感服すれば簡単に説き伏せられるという
弱点を補うことに十分に力を発揮したことである。建前の前に危うく陥落しそ
うになった男共を尻目に、一度は納得しても次の日には「やっぱりその論理に
は納得できない。白紙に戻すことを要求する」となかなかの粘り腰で、容易に
白旗をあげることはなかったものである。論に強い者は論に弱く、情に強い者
は情に脆い。

 さてそこで我が身の周りを眺めまわすと二通りの困った人達がいるのに最近
気付いた。一つは建前の世界に染まった人、もう一つは本音だけで勝負する人
である。公的社会活動のような場合には建前が正面に出てくることは止むを得
ないことではあるが、私的な付き合いのなかでも腹を割った話に参加すること
なく建前論しか表明できない人達がいる。彼らとの付き合いの難しさ、もどか
しさは議論がなかなか噛み合わず現実の解決すべき問題の議論が前に進まない
ことである。彼等は会社や役所での長い勤めにおいて、建前の論理のなかに埋
没する毎日で、知らず知らずのうちに本音の声が聞こえないように努力し又本
音を心の片隅に押し込める努力を余儀なくするうちに、建前のみの意見しか表
明できなくなってしまったものと思えるのである。常識や多数者の意見から逸
脱したり、間違いを指摘されることを恐れ、本音を表明できないのである。そ
のような人達は、どこそこのお菓子は有名であるとか、あそこの品物は権威が
あるとか、ここが日本一絶品の料理を食わせてくれるレストランだとかの肩書
きを信用し、豪も疑うことをしない人達であるような気がする。己の目や耳や
舌による感性を信じようとしないし、本当の味や美しさや良さなどを自分の判
断ですることを停止し、噂や看板や効能書を信じて自分の能力を開発し高めよ
うとしない。
 一人の人間としての感情や思いやりや美しいものに対する感性を無くし、或
いは内に秘めたる人はいるかもしれないが周りの人との関係を面倒くさがり、
深くつきあうことを嫌い、関わることを避ける人がいる。
 そういう人は意見を問われると建前論しか言わず、汗をかいて問題解決に努
力することは滅多になく、人々がうまい具合に解決の方法を見つけていざ纏め
ようとするときに必ず些細な建前や屁理屈を盾に壊しにかかるのである。そし
て纏まった意見に問題が生じると、自分の建前論の正しさを強調し、積極的に
物事を解決しょうとする意欲が見られない。そのような人はどのような結果に
なろうとも正論を吐いている限り決して傷つくことがなく、常に勝者側にいる
と思っているのである。そして本音で問題解決に奔走し汗を掻く人達のように
苦労多く下積みではあるが、仲間達に胸襟を開き、共感を分かち合い、響き合
う喜びを知ることはない。

 しかしまた、本音で凝り固まった人も困り者である。独断と偏見をものとせ
ず声高で押し付けがましく、人の気持ちを考えずに自分の感じたままを吐露す
るのである。そのような人は組織のなかで実力と実績を認めざるを得ない人の
なかに多く、生きる自信と物事を推し進める迫力を身につけていて有能ではあ
るが、周りへの心遣いに欠け、視野は狭く、今の価値観と彼の習得した時代の
それが変化しているのも理解しない。そして大した価値もない理屈を振り回し、
事実誤認をものともせず白を黒と言い包め、無理やり自分の主張を押し通すの
である。
 下腹は弛んで醜い体を曝しているにも係わらず、自分は堂々としていて威厳
があり皆が畏敬の念を抱いているだろうと思い込んで、出物腫れ物所嫌わずと
いった感覚で自己満足に甘んじている裸の王様よろしく、迷惑で煩わしく疎ま
しく生理的に嫌悪を感じる人達である。

 そしてまた、私は己の意識の中でも本音と建前の葛藤があることに気付く。
電車やバスの中で子供を抱いた婦人や、初老の人達に席を譲る時抱く複雑な思
いは何なのか?心から譲りたいと思っているのか、そうすべきという義務感な
のか、建前だからそうしているのではないか。心から発する自然な感情なしに
する行為は偽善ではないかというもう一人の本音の自分に責めさいなまれ、そ
の行為に嫌悪を感じることがある。人種偏見や学歴や職種によって人を評価し
てはいけないと頭の中では思っていても、はたして最後の判断までそれを貫き
徹すことのできる自分かどうか、確たる自信はないのである。そのような既成
の思想や宗教や道徳の中にも偽善を嗅ぎ取る私は、自分のなかの本音と建前の
狭間で揺れ動き、かつ悩み苦しむ
己を見出す。

4号 1999年10月



4α編集部:2014/02/27(木) 21:05:05
都市と田舎の狭間で
.
          都市と田舎の狭間で



お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。


プロローグ

三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなった。それはドフトエフス
キーの 「スチェパンチコブォ村とその住人」 にでてくるフォーマー・フォミッチを巡る
人々のごとく、価値観の微妙なずれによるさまざまなトラブルを発生させた。私はそこで
都会生活では考えたこともない悩ましい環境に陥ってしまった。


パンドラの箱その?

大都会を離れたことを都落ちと考えるか、自ら都心の窮屈な生活から脱出したのだと考え
るかは個人の感じ方次第であろう。とは言え、若い頃は知的で洒落た都市の生活に憧れて
田舎から出て来た訳だから、どの時点ではっきりと「田舎に帰っても良いかな」という心
の変化を覚えたかは定かでない。兎に角バブル崩壊が大きな要因に間違いなさそうである。
その不況の結果とんでもない会社に就職してしまい、その労務のはちゃめちゃぶりに辟易
し、また新宿西口の朝の殺気だった出勤風景に嫌気がさしたのが決定的であった。オーナ
ーと呼ばれるヤクザまがいの風貌と前近代的な思考の輩に支配されることは長年自由業で
過ごした私には耐えがたいものであった。 しかし、私が「今の勤めは地獄のようなもの
だ」と嘆いても、友人達は「地獄の苦しみはそんなもんじゃない。その程度の環境はサラ
リーマンなら殆どの人が経験するもので、あんたは甘い。地獄とはもっと過酷でずっと先
にあるものだ」といって、一向に同情してくれなかった。
それにしても朝八時半から夜十一時までの拘束時間、休日も日曜だけなのに突然の召集命
令でどこにいようとも駆けつけなければならず、まさにやくざの世界であった。私的時間
まで拘束されるより飢えても自由が欲しいと思っていた丁度その時、脱税で一年十ヶ月程
の実刑を受けまもなく収監されるオーナーとの幹部会でのやりとりで、「歳ばかりとって
いて何もできないなら辞めてしまえ」という売り言葉に「じゃあ辞めましょう」の買い言
葉の結果、その日のうちに三ヶ月間勤めた会社を辞めてしまった。社員を殴る蹴るの暴力
が日常茶飯事の彼のその言葉は口癖だったし、いままでそれで辞めた社員はいなかったの
で、まさか私がそのような行動に出るとは夢にも思わなかったにちがいない。それでも二
百人近い社員を擁し、人権無視の労働で膨大な利益を確保した結果、近い将来上場を目指
す会社なのである。その会社の常識であれば、残務整理や、引継ぎに数ヶ月は引き止めら
れることは確実であるが、あまりにも酷い組織の正体が判明するにつれて、そうでなくと
も切れかかっていた私の側にとってきっぱり辞める口実を作ってもらったという有難いチ
ャンスに他ならなかった。途中で仕事を投げ出すのはいかがなものかという幹部の説得と
も叱責ともつかない話し合いはあったが、「辞めさせたのはそちらで、私は明日から路頭
に迷う覚悟でそういう行動をとったのだからその責は拒否できる」と主張した。

                  *

もうひとつ私に決断させたことは朝夕の出勤退社時のあの風景である。それまで私は幸い
なことにそのような殺人的混雑の出勤とは縁がなかった。どの首都圏の主な駅も同じ光景
ではあるが、特に新宿西口の地下通路の殺伐とした雰囲気は、慣れない人にとっては異様
で寒気を生じるほど殺気だっていた。例えば、うら若き女性といえども例外なく、目的地
に向かってあらゆる方向に一直線に通り抜ける人のその速さと強引さは、少しでも心に余
裕をと考える人、やさしく道を譲る生き方をしている人には耐えがたい情景である。最早
気合の勝負で、少しでも怯(ひる)んだほうが負けで道を譲るはめになるのだ。
その空間のすべての人々が自分の目的のために周りの人のことも切り捨てて行動できるに
到った経緯はなんであろうか。そして子供や老人のいないその時空間の異常さは、それが
都会の現実とはいえ、そのような環境にたいする慣れや割り切り方を私はとてもできない
と思った。その決断の結果、遂に次の日からまた私は浪々の身となってしまったのである。
そしてその時私は田舎の八十四歳になる一人暮らしの母と同居することを決断したのだっ
た。

                  *

私はそれまで都市生活者として、大都市の便利な交通システムを満喫し、全国のあらゆる
食品や品物を選択し、自分にあった職業に従事し、最先端の学問や文化を享受出来ること
に満足していた。たとえ午前様になっても公共の乗り物で安全に家にたどり着くことがで
きることに快適さを覚え、不思議なことに生産地よりも安く新鮮な一級の食材を求められ、
会社勤めをしないフリーターとよばれる若者達も食べるには困らない社会、世界の一流の
芸術に毎日接することのできる生活環境があった。しかし最近私の意識のなかに影のよう
に潜むものに気づいた。それは髪は白く、足は遅く、肩は痛く、物忘れに閉口する自分を
叱咤してこの都会生活を楽しむというメリットに疑問を抱くようになっていた。それまで
はたしかに些細なこととして敢えて無視してきたか、あるいは気づかなかった大都会のデ
メリットにたいする意識が密かに私の頭の隅に巣を作り始めていた。人口集中による交通
の渋滞、空気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、人々の心の
荒廃などである。 私は二度と郷里には戻らないと親に息巻いていた自分の考えを翻し、
希望をもって田舎暮らしをしてみようという心境が、例えやくざのような会社からの離脱
という契機があったとしても、知らないうちに出来上がっていたのだった。

                  *

パンドラの箱その?

そこは肥前風土記逸文にも記してあり、また和泉式部の生誕地といわれるある山の麓の町、
行政上では町ではあるがむしろ昔風に村落という方が理にかなっている。山と川に挟まれ、
堤防や道路の拡張で平地の水田はほとんどなくなってしまってはいるが、何十年も前から
変わらない家々が散らばって建つ、いわゆる里山とよばれる風景である。
同居する母の土地は山が四町、裏山の段々畑が千坪ほどである。その山のほとんどを生産
性のない雑木が占めるなか一部梅の木が二十本ばかりある。一方畑地は四十坪の家に隣接
して梅およびみかんが数十本、柿、すももその他の野菜が育てられている。私がその箱を
開けてしまったのはこのような環境のもとでである。
私はまず、都会の三LDKのマンションに収まっていた家財道具をこの家に押し込めなけ
ればならないという困難にぶつかってしまった。八帖と六帖の二間続きの座敷と二十帖の
LDK、六帖の母の寝室、そして六帖の私達の寝室と十六帖の土間。広い家とはいえ、そ
れらの品物を納める場所はそう多くは無いということが判った。私は親兄弟に指示される
まま、それらの家財道具の全部を一時別の家すなわち甥の広い家に預けることにした。

そして徐々に母の家を整理しながら運び込む目論見であったが、田舎の家の押入れや、納
屋に詰まっている品物がいかに不合理な代物であるかということが段々分かってきた。ま
ずお中元、お歳暮、冠婚葬祭の引き出物の氾濫に驚くとともに、いかに日本の社会経済が
虚礼の集積で成り立っていることかと思った。本人が夢みる、自分の好みに合ったものに
囲まれた趣味の生活が、溢れ返っている贈答品や引き出物でどのくらい損なわれているか
一度考え直して見る必要がある。私はだから人からものを貰うことが厭だし、また好みの
わからないまま人にものを贈ることも憚るのである。
そのような中、二ヶ月かけてやっとそれらの数十年に積もり積もった不要なものを焼却し
たりゴミとして処分した後出来た空間に家財道具をなんとか持ち込んだ。しかしこの「も
の」を処分するという行為は物の無い時代を生き抜き、人様から頂いた物を無下には出来
ないという母の生き方や好みに大いに反することであったとみえて、整理のための廃棄の
決断を促すときにはいつも「捨てろ」「捨てない」の鬩ぎあいを繰り返すのであった。



都会に住む人達が想像もつかないことが田舎にはある。着いたその日、白い子猫が庭先に
こちらを向いて座っていた。一点の斑毛もなく全身真っ白でいかにも優雅で愛らしかった。
しかし初めて見る人間に逃げようと後ろを向いたその瞬間、私はなんと形容してよいか戸
惑う姿を見てしまった。それは「因幡の白兎」よろしく腰から下の皮膚がべろりと剥げて
いるのだ。母にその経緯を聞くと、生死の瀬戸際だったので犬猫病院に二月ほど入院させ
て戻ってきたばかりだという。犬でも猫でも噛み付いてもそこまではダメージを与えない
のにと考えていると、獣医さんがいうには「たぶん狐か狸のような野生の動物に噛まれた
のでしょう」との説明であったとか。
新月の真夜中は墨を流したような闇夜で、寝室の裏山に面した窓から得体の知れない鳥な
のか動物なのかはたまたこの世のものでないものか、陰陰とした鳴き声が聞こえてくる。
今は簡易水洗便所でほっとするが、小さいころは床の穴の下は奈落に通じているかもしれ
ないほど暗く、散々お化けの話を聞かされた夜の便所へ行く恐怖は計り知れないものだっ
た。幸い今は改良されて奈落と魑魅魍魎の恐ろしさから開放されているが、猫の一件はま
さにこれからの私の田舎ライフを暗示するにふさわしい出来事であった。

                  *

梅ちぎりの作業をしていると毛虫や蜂や蚊に刺され、免疫のない私にはつらい環境である。
引越してきたばかりのある夜中、寝ている私の髪の上でもそもそとしたものがいた。思わ
ず手で払いそうになったのを制止したのは、夢心地のわが脳の正しき判断であった。飛び
起きて明かりを点けて枕を見ると二十?もある巨大なムカデで、その体の黒さはいかにも
毒の強さを表すものであった。噛まれたら手が二倍に腫れたという人を知っている。この
時首筋を這って行ったのだから、頚動脈でも食らわれたらこの物語も書けず、今ごろはベ
ッドの上で生死の狭間でさ迷っていたにちがいない。
 また、昼間入り込んだ親指大の蜂に気づかず、夕方の暗がりのなか広縁のカーテンを勢
いよく閉めたその瞬間右手中指の第一関節の甲にナイフでスパリと斬られた感触を覚える
ほど痛い蜂の一刺しを食らった。幸いそんなに腫れるほどでもなかったが、一晩中その痛
さに悩まされたのである。ムカデといい蜂といい油断できない現実の自然を都会生活で誰
が予想したか。優雅な田舎の暮らしなどという軟弱な雑誌の特集をみていると、あれは田
舎に持ち込まれた都会の暮らしで、冗談もほどほどにしろ生死の瀬戸際の格闘があること
を知るべきだと反駁したくなるのである。編集者に蝿、蜘蛛、蜂、蚋(ぶよ)、毛虫、ムカ
デ、マムシのいる中での生活を一度体験させてみたい。 それでもなお「田舎暮らし」は
素晴らしいと絶賛すれば本物である。

                  *

私はちょうどその時、そうとは知らないまま運悪く一年中で一番忙しい時期に引っ越して
きたのであった。梅の採取の作業である。それで生計を立てている訳ではないが、亡くな
った父が趣味として丹精したもので、毎年お世話になった人に差し上げたり、一部青果市
場に出荷したりして楽しみに育てたものである。数十本ある中から出来具合を判定しその
日のうちに採取するわけだが、種類も多くちぎるに適した日もまちまちで、しかも成熟し
た果実は一日として延ばせないのでやたらに忙しい。成熟してくると産毛のある細長い形
から艶のある丸い実に変化する。それらを午前中に採取し、午後に選別して次の日の朝早
く市場に出すという一工程の作業がある。ジャンボ高田とか青軸とか白加賀とか南高梅、
小田原梅などいままで私の想像だにしなかった世界である。競走馬などその道でない人に
はなんだか変に聞こえる名前のように、最初は私にはどれがどれなのかさっぱりわからな
かった。加賀とか南高、小田原などの品種を聞くと生産地の名前なのかと思うが、これか
ら私も毎年従事することから逃れられないとすれば、その謂(いわ)れぐらい知る必要を
迫られるに違いない。
しかし、そのような収穫物を百?や二百?市場に出してもたいした収入にはならない。こ
れで生活費を賄うとすれば、今までの都市生活からは想像も出来ないくらいの労力を必要
とし、知識も体力も忍耐も足りない軟弱な私ではとても持ちこたえることは不可能だと悟
った。実際毎日そのような作業を続けている八十四歳の母のほうが私より持久力において
は優れているのである。男一人のここでは、母にそのような農作業にこき使われ、疲れで
ダウン寸前までいったことがある。なにせ毎日の重労働で筋肉痛が治るひまもないのだ。
本当の親子かどうか一度DNA鑑定をしてもらうべきではなかろうか、しかしもし親子で
なかったと判明したらこの三倍は酷使されるかもしれないリスクを覚悟しなければならな
いと思ったりした。

                  *

この時期はお金よりもむしろ梅の実が労働の代価となる。円という貨幣の呼称よりむしろ
一?梅(ばい)という単位の通貨が似つかわしく、お手伝いに来る近所の人にはその日の
労働のお礼として市場に出荷しないものの中から何キロという梅を持って帰ってもらう習
慣なのである。そして、私は一?の梅が行商のオバアサンの魚の干物と交換されたり、進
呈した何がしかのそれが苺やケーキや田舎饅頭に化けたりする物々交換の時代が未だに存
在しているのを見たのである。この時期は実の出来具合や自分の漬けた梅干しの自慢の話
題で沸き返っていて、この集落は興奮状態であり、いままでその喜びを知らない私達はた
だその迫力に見入るばかりである。

                  *

村舅(むらじゅと)という言葉をご存知であろうか。これは辞書には載っていない言葉で
はあるが、字面らや意味がぴったりの誰からともなく聞かされる造語である。私は都会で
は既に失われた人情や環境が、田舎ではまだ充分に残っていると期待していた。静かで、
空気は清く、素朴ないい人に囲まれて平和で、命が延びる生活ができると思い喜んでいた
のだが、いざそこで暮らしてみるとそう単純ではないことを思い知らされた。確かに田舎
の家は玄関のみならず、広縁や勝手口や土間からの出入りは自由であるが、どの部屋であ
ろうと近所のおばさんの侵入攻撃を受けるのである。おまけに食べ物の味付けに口を出す
し、プライバシーのなさと、声の大きさと、まだ残る因習に悩まされている。そこでの生
活習慣をまったく知らない私達が犯した村のルールを即座に指摘するのが村舅である。彼
らにとっては無知な私達を好意で修正してやるという思いがあろう。しかし私達にとって
それはたいした支障でもないと考えている者なので、私達は「余計なことを」と、片方は
「礼儀知らず、世間知らず」という思いの違いが生じてくるわけである。
財産をめぐる長子制度による兄弟の確執や、日々の行動を規制する迷信、しきたりといっ
た都会生活で忘れ去られていたものが、真夜中の裏山の藪の中だけでなく現実の日々暮ら
しの中に出没する魑魅魍魎の世界に私はついに足を踏み入れてしまった。田舎の人は素朴
で、人が良くて、大人しくシャイであると相場は決まっているはずなのに、声高に早口で
喋り、ちらりと皮肉を言い放って去り行き、したたかで繊細さに欠ける人達がいる。それ
も人に危害を加えたり、良心に付込んで財産を奪ったりするような悪ではなく、好意的に
考えて「裏返せば親しさの現れかもしれない」と思わぬでもないが、私達が大事に守って
きたテリトリーの中に平気で踏み込まれるという不快さがあるのである。
また、鶏の飼料の生臭い匂い、何かの食べ物の腐った匂い、家に染み付いた説明のつかな
い不快な匂いの数々。一日中うんうん唸っている冷蔵庫の音、数匹飼われている近所の犬
によるリズムも音程もめちゃくちゃな暁の大合唱、地鳴りのような耳の底に残る虫の鳴き
声。ヘビ、アブ、蚊、蚋(ぶよ)、蜂、ハエ、毛虫、ムカデ、ヤスデ、なめくじ、くも、
道路の向こうの偏狭で強欲で粗野な鼻つまみ老人、白の餌をぬすみに来るふてぶてしい黒
斑のオスの野良猫、そしてこのすべてを焼きつくような高温多湿の今日このごろ、そして
一番の問題は「金も力もなかりけり」の甲斐性なしの己の存在である。


エピローグ

あまりにも清潔に、あまりにも繊細に、あまりにも個人主義的な都市の暮らしが、この田
舎の荒削りのしぶとい生き方に翻弄されてその脆弱性を露呈したことを認めずにはいられ
ない。しかし私は自ら望んでここを選んだのだからそれらの攻撃にいかに対処するか、排
除するのかあるいは受け入れるのか、感覚を鈍化させて慣れてしまうのか、この田舎ライ
フを続けていくためはケリをつけなければならない大問題の狭間で私は苦悩しているので
ある。

5号 2000年7月

5α編集部:2014/02/27(木) 22:38:53
(無題)
.


          続・都市と田舎の狭間で 前編




(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)



プロローグ

 三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなったが、周りを親類・縁者で
取り囲まれた環境の中で、価値観の微妙なずれによるさまざまなカルチャー戦争に敗北した私
は住み始めて半年で再びそこを去ることを決意した。


パンドラの箱その?

――小さい頃の思い出――

 自らの決断で、都心の窮屈な生活から脱出し、田舎での静かな楽しい時間を期待して戻って
来たのだが、人生の半分以上を大都市の中で生きてきた私にとっては辛い体験をすることにな
ろうとは、思いもよらなかった。しかしもともとその田舎の生活は両親の里であり、本家の一
歳年上の従兄とは仲がよく、折にふれて町の方から泊まりに通ったものだから、どのような田
舎の暮らしかは承知していたつもりであった。私は小学生の頃私の住んでいる町の生活環境と
田舎のそれとはずいぶん違うものだと感じていた。その頃は何がどう違うのか言葉で表現する
能力もなかったのであるが、長じてその頃のこの郷里での生活を考えることが時々あった。親
と子の関係において、親しく子供に声をかけたり、子供が親に甘えたりといった、町ではよく
見かける家族の深い絆が感じられないのである。私の両親は子供に無関心では中ったが、ここ
では仕事の手伝いでうまく行かない子供の行動を叱責することのみが多かった。趣味や遊びに
ついても親は無関心で、ただ農作業の進み具合ばかりが気になるようだった。そのことはただ
本家だけの環境かというとそうではなく、この村のほとんどの家庭がそのように私には感じら
れたものだ。古い習慣や生き方や価値観をひきずっていて、夫婦や子や男や女といった人間関
係において町とそれと微妙に違うことが幼い私にも感じられた。

 しかし、私はとって大きな川に東側を抉られるように迫る山の麓にある本家の暮らしは、町
中では味わえない違った体験のできる場所であった。まだ小さい体の従兄と私達二人は親の指
示のもと、朝食がすむと小屋から農耕用の牛を出し、手綱を引いて餌場に出掛けて行った。多
分小学校に通っていたので、この子達の作業は日曜か祭日の時だけだったかもしれない。私が
学校の休みに訪れると必ず従兄の仕事になっていたが、牛の使役がおこなわれる農繁期や雨の
日を除いた毎日の大人の仕事であったろう。それとも餌場からの連れ戻しの仕事は学校を終え
た従兄の夕方の日課だったかも知れない。
 元来農耕用の雄牛はおとなしくするために去勢する慣わしであったが、ほんのまだ十歳に満
たない子供が五百?の重さを越える巨体の牛を連れて歩くのだから、今では考えられない情景
であった。目的地の餌場に行くまでのろのろ歩き、傍の草を食もうとするのを促しながら嫌が
るその背中に乗ってみたり、まつげの長い大きな目を覗きこんだりして数十分かけるのである。
川の土手の斜面に一本の杭を打ち紐を結んで、その周りの茅や酸模(すかんぽ)や虎杖(いた
どり)を食べて一日過ごさせるのだが、私達は次の農作業の手伝いを言い渡されているにも拘
わらず、川の側まで降りていって、次の日曜には手長海老(だくまえび)を釣ろうとか、上海
蟹に似た津蟹はもう取れるだろうかと相談しながら、未だ葉の中に隠れている茅萱(ちがや)
の柔らかい甘い穂を摘みチューインガムのように噛みながら、家に帰れば遅いと叱責されるこ
とを知りながらしばらくその辺で道草を食うのが常だった。
 時には、今思うと国有林であったのであろう、官山と呼ばれている山頂ちかくまで作業のた
め登らされることがあった。どのような農作業であったか思い出せないが、小半時かかって登
りつめると芋畑か茶畑があった。官山と畑地は山道で分れていて、官山は頂上に向かって檜が
整然と植林されていた。開墾された下の畑地はその先が断崖になっていて、長い間干拓埋立用
の石を調達する石切り場になっていた。この頃はもうその作業に携わる威勢のいい男達や飯場
を受け持つ女性達の喧騒もなくなりただ切り立った岩の壁だけがその面影を残していた。私達
が就学する前は、石を切り崩す発破の音が響き渡り、舗装されていない村道にはトラックが土
煙をあげて走り回り、採石場から船着場までは石を積んだトロッコが駆け下り、川縁には大き
な石積み船が盛んに行き来して、辺りは荒荒しい活気がみなぎっていた。いつ閉鎖されたか私
の記憶に残っていないが、干拓工事が縮小されたか終了したのか、石切場も村いつの間にかも
めっきり静かになっていた。
 山そのものはそんなに高くはなかったが、椎やブナなどの落葉樹、粗樫(あらかし)や椨(た
ぶ)の木など照葉樹に覆われた山の道は日光を遮り暗く、一?にも満たない通路は岩の間をよ
じ登っていくような沢道で、雨でも降れば一気に水が駆け下りる険しい場所もいたるところに
あった。低学年の二人がよくそのような人にもめったに出会わない山中を駆け巡って
いたことを今思うと、自分の子供達なら決してさせたりしないだろうと思うが、その頃の田舎
の子供達はそのようにして山の中で遊んでいたものである。どんぐりの中でもこれは食べられ
る実であるとかそうでないとか、この洞穴にはおおきな蝦蟇がいるとか、ここに木苺が実る場
所とか、いろいろと従兄に教わった。山鳥やウサギを捕るのだといい、作業場に行く途中細い
潅木の枝を曲げ、凧糸を三角に張って二本の棒に結びつけて動物が挟まるようにした構造の罠
をよく作ったものだ。鳥の羽根の数片の散乱は餌の米麦や青木や藪こうじの実を食みに来た形
跡であると認めるのだが、現実に獲物を見た経験は私にはない。ただ従兄の自慢話の中に罠に
かかった鳥やウサギを捕獲する情景を思い浮かべ、憧れとときめきを感じたのだった。その頃
山野で遊ぶ子供達の常備品は、物を切ったり結わえたりするための肥後守と呼んでいたホール
ディングナイフや凧糸、冬であれば鳥餅などであった。
 父もまたこの山で育った。寡黙な父は厳格そうであったが、それは己に対してだけであり、
私達には何事も強制はしなかった。私は甘えん坊で、貧しかった家の手伝いなど思っても見ず、
ただ頼りきっていて自分のことしか考えなかったが、父の意に添わぬことをしても、父は激昂
して体罰を与えるということは一度もなかった。しかしそのようなごつくて堅物の姿からは考
えられない趣味を父は持っていた。それは、小さな鋳物工場を経営し終戦後のまだ生活も苦し
い時期であったが、もあの優雅で美しい姿の目白や鶯を飼うことであった。常時六羽くらいは
育てていた。夜は山から切り出した竹でせっせと籤(ひご)を削り出しては小鳥籠をいくつも
作っていた。そして時には私を連れて厳寒の山に小鳥を取りに出かけて行った。野生の目白の
取り方は幾通りかあって、目指す鳥によって方法は違ってくることを私は身をもって教えられ
た。まず目指す鳥とは何か、目白の愛好家の間では一定の時期を設けて美しい鳴き声を競う遊
びがあり、優秀な鳥とは―高音を張る―すなわち高く鋭く鳴き相手を威嚇し屈服させることの
出来る鳥のことである。即ち餌場の縄張りを独り占めに出来る強い個体であることである。一
般に子供や初心者は雌や雛や未だ独り立ちしていない雄達からなる弱くて群をなす目白を取る
ことから始める。それには適当な藪椿などの餌場の小枝に鳥餅を塗っておく。鳥餅は餅の木の
樹皮から作り、鶯色で目立たないものである。気温の低い冬場は硬いので、仕掛ける前にチュ
ーインガムのように口の中で噛み解し、柔らかく粘りが出るようにしてくのである。
 父は、強い目白が独り占めしている甘い樹液の出る樫の木とか藪椿の大木がこの山のどこに
あるかを熟知していた。父が使う捕獲の方法は、縄張りを持つ強い目白に対して、手持ちの最
高に強い鳥を選んでわざと縄張りの木に掛け、戦いにきた野生の賢くて一筋縄ではいかないた
くましい鳥を捕獲しょうというもであった。それは囮籠といって、家で飼っている目白を囮と
して下の段に入れ、上部は落とし籠になっている。縄張りを守ろうとする野生の目白が、自分
のテリトリーを侵すものに戦いを挑んで上から攻撃しかけて来てその中に入り、入り口の扉が
閉まるという訳である。子供の頃庭で遊び半分に竹籠につっかい棒をつけて雀を獲った要領で
ある。しかしこれは運と偶然に支配されると言った捕獲方法で、群目白ならともかく個体数の
少ない強い鳥を得るには確率が悪く、父と私はちらちら降る雪の中一時間でも二時間でも藪に
隠れ潜んでいたこともあった。その豊かな餌場の縄張りを支配する鳥は用心深い知恵と勇気に
満ちた雄鳥で、捕獲するのは難しかった。そして父と私は薄暗くなってきた山を下り、手ぶら
で町へ戻る日も多かった。

 従兄とは近くに住むようになった今時々は会って話をする機会もあるが、まったく違う道を
数十年歩いてきた私達に共通する話題は、天気のことやこれらの幼い頃の思い出ばかりで、ご
く限られたものになってしまった。



―離れの家―

 郷里へ戻れば早速母屋の横に離れを作れるという望みがあり、これを私は喜んだ。なにせ人
様の家を設計する職業に就いていながら、自分のための家を創る夢を一生実現できないのでは
ないかと思われた。医者の不養生、紺屋の白袴の譬を地で行きはしないかと半分諦めていたか
らである。
 生を受けて以来今まで三十回近く転居した私には、棲家という定着目的の器を創ることにお
いて、まことに不適当な職業を選んでしまったのかもしれないと思うこともあった。転居の意
味を「いたる処の良い点と不便な環境をつぶさに体験し、どの部分が不都合かどうすれば住み
よくなるかを研究してきた」と強弁することもできるだろう。
 ともかく自分なりの理想の住居は常に頭の中にあり、研鑚も計画も怠らなかったものの、已
む無く他の人が造った西洋長屋に屈辱の三十五年間を過ごしてきたのが実情だった。そして遂
にそれを清算し小さいとは言え、自分の考えだけを尊重した自前の家を実現できる時がやって
来たのだ。
 工事費の問題はあったにしろ、お手のものの設計は希望の光に満たされて楽しくかつ迅速に
進んだ。設計行為自体は一銭のカネもかからず、ここまでは実にスムーズにことが運んだもの
だ。
 母屋から半間のところ、二十数羽の鶏とその小屋を裏の畑に移転し、百坪の花畑に向かって
八坪ばかりのワンルームをとの計画である。ラスコーリニコフやファルスタッフ、エルキュー
ル・ポアロ、アン・シャーリー、ジュリアン・ソレル、ペーター・カーメンチント、ジャック
・チボーらの住んでいる本棚と、アキュフェーズのアンプ、ダイアトーンHR2000のスピ
ーカーのオーディオセットとが、十分効果を発揮する居場所を確保することをめざして、リビ
ング兼寝室を計画した。見晴らしのきく景色の良い高台で、そして花に囲まれたテラスでお茶
を飲む幸せな時間を思い浮かべて・・・。
 今まで私は自分の家に対して抱く思いが人と私のものとでは少し違うことを感じていた。建
物が出来終わった時「この家は最上のもので未来永劫変ることなく自分に満足を与えてくれる」
と人々は思っているが「完成した時がすべての出発点である」と私は考えているのだ。結婚が
その人達の最終点ではなく、お互いがそれまで背負ってきた習慣や考え方の違いの中で、未来
により良く生きるための絶え間ない工夫と努力が必要であるのと同じく、家も住む人が空間を
加えたり除いたりの繰り返しを十年、二十年しながら自分の好みに合わせ快適な家に仕立てあ
げるものではないであろうか。
 そのように私は「住居とは条件の変化で時と共に変わるべき物」と考えているので、竣工時
の完成度の高さは私には馴染まないものと言える。それはその質の高さゆえ変化させる自由を
奪われてしまうことが問題であり、私の家は贅沢な建材や完成時点の立派さや見てくれのよさ
を排し、最小限の機能とフレキシブルなシンプルな空間があれば良いとしたい。実際家に対す
る用途はその人の人生の時々によって違うものであり、家の大きさや仕上げ材や色合いや好み
も自ずと変化する。親から離れ独り立ちした時は六帖一間でもやっていけるし、結婚して二人
になれば二LDK程度あればよい。そのうち子供も増え個室が要求され、親も同居するとなれ
ば勢い大きな家が必要になる。そして子供達も独立して行き、親もいなくなるとその用途は単
純なものに戻っていくのである。もちろんそれぞれの時期でも用途の膨張や収縮に対応できる
のであるから、初めから広い方が理に叶っているのだが、工事費の問題で財布と相談するが大
抵はうまくいかないものである。
 そこで、我が離れ家はというと、安価に建てるため構造材として間伐材や民家の廃材を求め、
内壁・外壁の縦羽目板は製材のままの引き割り材とし、節や色むら有りでもかまわないことに
する、塗装は自ら暇に任せて完成後ぼちぼち急がず慌てず行い、坪二十万円くらいで建てる計
画をした。そして私の頭の中でこの計画も完璧に仕上がり、後は現実にこの夢を叶えるべく着
手さえすれば憧れの自分の家が手の届くところまで来ていると考えた。しかし、その計画の挫
折は意外に早くやってきて脆くも崩れ去って行ったのである。
 「今年あなたが家を建てたら親が死んでしまう」という御宣託が占い師によってもたらされ
たのである。私自身はたとえ野垂れ死しようと、人の指図に自分の人生を左右されることを好
しとしない性格であるのでそのような誹謗に怯む訳はなかった。方角が悪く行動を制限される
場合、どうしても行わなければならないならその時の方便があって、方違(かたが)いといっ
て一度別の土地に行き目的地への悪い方角を避ければすむ。私はそのような迷信や占いは当然
歯牙にもかけなかった。しかし土地は私のものではなく、帰ってくる時「都会生活の私達が田
舎の住環境に馴染まないだろうから離れを作ってもよい」という話があったが、現実になると
「その金は誰が出すのだろうか」という言を聞くに至り、いよいよ私達がここにいる根拠や正
統性に問題があることが露呈してしまった。これは郷里に戻ると決断した経緯の中にすでに萌
芽していたにも関わらず私が軽視したものだった。
 そんな訳で医者の不養生、紺屋の白袴、建築家の間借人生は当分続く見こみであり、ただ夢
の「離れ家」の図面のみが実現されることなく虚しく手元に残った。




―お中元戦争―

 ある時、私には考えもつかない種類のお中元をもらった。正確にいえば私にではなく母に頂
いたものだが、常識的に贈り贈られるものとして砂糖、サラダオイル等の料理に使用する調味
料 梨、葡萄、リンゴ等の果物、ビール、ジュース等の飲み物と相場は決まっている。しかし
贈られて来たものはダンボール箱一杯の生乾きの煮干である。それもビニールの袋に入れるで
もなく剥き出しのなので家中にその生臭さが広がり、べとりと身に纏わりつく湿気に満たされ
た空気の不快さと相まって、冷凍庫に封じ込める作業を終わるまで気分が優れなかった。世の
中にはこの匂いをこよなく愛する猫みたいな人も居るのかも知れないが、私は相手がその品物
を贈ることに何らかの隠された意図を含んでいるのではないかと深読みもしたくなった。そし
て貰った方はあまりにも想像を越えた質と量の品物にどう自分の頭を納得させればよいか、ま
たどう処置すればよいのか戸惑ったことである。
 贈り手が一年間でも使い切れないほどの大量の品物を贈る意図に、贈られた方がはたして率
直に感謝の気持ちを持つべきか。長い期間この生臭い匂いと収納場所に困り果てることは必定
で、むしろ嫌がらせかも知れない、そうではないとすればなんと無神経であることか。
 母は、そのものが何であれ、例え毒入りチョコレートや危険なキノコであろうとも、「贈り
手の好意なのだと納得して感謝しなさい」という。しかし私は贈り手が贈る相手に対しての感
謝の気持ち―あるとすればの話だが―もっと相手のことも深く思いやって、その人の好みや食
べる量などを密かに探り当てるべきであり、さすがあの人は趣味の良い人だと思われるほど見
事に遣り通す器量が欲しい。ダシの沢山必要なラーメン屋を営んで居る訳でもあるまいし、有
り難いと感謝するより却って不快さの方がより強く返って逆効果であろう。最早どこの社会で
もお中元やお歳暮などの贈答は、「相手が好もうと困ろうと贈っておけば義理は果たした」と
いうただ単にシキタリとしての形式を整えた安心を得るだけものに成り下がった感がある。受
け取る方もまた意に添わないものだらけか、または消化出来ない量に戸惑う結果、盥回しや百
貨店に引き取らせるなど、機械的に処理する形骸化した悪弊となってしまった感がある。
 そこで、なんとも悩ましい問題を提供されたお返しにブラックユーモアよろしく、そちらが
うならこちらも一つ想像もつかないお中元を考えてやろうという悪戯心を起したのである。そ
して、実現する訳にもいかないからせめて想像の世界の中においてだけでもその仇をしっかり
討ち、飲を下げたいと考えた。
 さて、それには三つの条件が満たされる物でなくてはならないと規定した。例えば、大根を
トラック一杯、トイレットペーパーを山ほど、ユニクロのバーゲンTシャツをごまんと贈ると
か、少しはあってもいいが好みもサイズもまちまちで収納や処理に困る量であることは必定で
ある。

一つ目は量の問題、考えもつかないほどの量。
二つ目は想像だにしない物。
三つ目は金の掛からないもの。
 この空想は当分暇つぶしの宿題にしておこう。



―イングリッシュガーデンー

 離れ家の挫折に懲りずにまた暇にまかせて、百坪の花畑をイングリッシュガーデンに改造し
ようとして、あれやこれやと考え始めた。郷里に帰って数ヶ月、友人やら親類やら知人の紹介
で色々の会社や工務店、設計事務所を営業して歩いたが、好意的な返事は至るところで貰った
ものの、この地方の仕事量の少なさは驚くべきもので、如何ともし難いものだった。その中で
唯一の仕事が、ある首都圏の県営団地の基本計画コンペティションを、某設計事務所から成功
報酬でよければ頼むということだった。それは裏返せば当選しなければ報酬無しということで
あったが、それでもこの耐えがたい湿度とクソ暑さに脳みそをいたずらに腐るままに放置する
よりましだと考えた。毎朝田舎道を四十分、県庁所在地の事務所まで車で通う日々、百十五戸
敷地三千坪というかなりの団地計画も、の大きさの図面一枚に纏めるのには一カ月という期
間があり、時間は有り余るほどあった。
 母が管理するその花畑は、花園というよりやはり畑感覚のものであった。これも個人個人の
好みの問題と言い切ってしまえばそれはそれで良いのだが、それでもいくつかの根本的な問題
があった。碁盤の目のように植えられたバラや菊やボタンは整然としていて、市場に出荷する
畑の花を思わせるのであった。種々の花がお互いに干渉し合わない配置の妙だとか、季節によ
って咲く花とそうでない緑の葉との関係、高木と低木、地被類とのバランスなどが考えられて
いないのだ。たしかに丹精して咲かせた花はテーブルやちょっとした空間に置かれた単体は素
晴らしいものであるが、ところ狭しと種々雑多な花の氾濫は決して印象には残らない。私は花
の種類と量や数がバランス好く計算された庭を求めて本を買い、資料を集めて動きだした。
 花壇と歩道の境界はオーストラリア産の鉄道の中古の枕木を、そして歩道にはこの近くのず
いぶん前に使用されなくなった久間焼きの釜に使われていた耐火煉瓦を求めた。それは帰郷し
てまもなく見学に行った時目に付けていたものだったが、しかしそれはすでに町に寄付したも
のであるからということで、手に入れることは出来なかった。それならとそのような古色蒼然
とした風合を持つナチュラルレンガに決めた。そして家族が団欒できるスペースを中心にする
ことを意図し、精神的な求心力を創り出すため、シンボルツリーを中央に二組のベンチをその
周りに配置した。私はそのシンボルツリーを胡桃の大木でないといけないと決めていた。この
木には小さい頃からの憧れの生活を象徴していて、何十年もの間理屈ぬきの思いとなっていた。
 胡桃の木は小学校に通う道沿いのとある病院の庭にあった。道路より一段高い石垣の端にあ
り、数十メートルの大木の姿は富と文化の象徴に見えた。秋になると私達子供は登下校の際、
時々胡桃が実っている空を見上げては、果実を落とすために石をなげたり、またすでに落下し
たものを探したりした。運良く手にすると宝物のように大事に家へ持ち帰ったものである。私
は、この山里の雪の降る夜、だるまストーブを囲みながら、自分の庭で採取した沢山の硬い殻
を割りながら食べている団欒を夢見ていた。
 しかし、私の設計事務所としての仕事がうまく稼働しないこと。郷里に戻り父の意思を果し
母親の面倒を見るという目的に反し、都市での生き方がここでのそれと歯車が合わないこと。
それらの問題が自分も回りの人達も不幸にしているのではないかと言う思いに行き当たった。
私はこの状態が続けば徹底的に衝突することが予感され、いづれ何らかの決心をしなければな
らないだろうと思われた。
 そしてまたイングリッシュガーデンの計画も実現の日を見ることなく虚しく図面だけが残っ
た。



6号 2001年8月

http://

6α編集部:2014/02/27(木) 23:48:59
続・都市と田舎の狭間で 後編
.

          続・都市と田舎の狭間で 後編




(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)


―朝帰りー

 ある梅雨明けの早朝、事務所に出勤する時の出来事である。車で家から一分も走らないなだ
らかなカーブの舗装された道路上に、見事な直線で直角に過ぎる何か判断のつかない物が目に
入った。右手に民家と山を左手に水田を控えた場所での出来事である。そのまま踏みつけて走
り抜けようと思ったが、いつも何かを踏んだ時車輪から伝わる衝撃に気味悪さと後悔の念が苦
い味となって残るものだ。私は一瞬のうちにそのことを思い出し、間髪を入れず急ブレーキを
掛けた。その一本の「縄」かと思えた物体はもんどり打って二つに折れたように見えた。そし
てすぐさまうねりながら水田の方に向かって逃げて行った。その時はじめて蛇であることが判
り、踏まなくてよかったと安堵した。事態に驚き悲劇に終わらなくてよかったと、そうお互い
に思っているようで、なんだか友人になったような心の通いを感じた。
 そういえば山側の部分は頭で太く水田側の部分は尾で細かったことを、いかにもその一瞬判
っていたような錯覚をしていたが、実は通り過ぎてから納得したものだった。そういうことは
よくあることで、蛇という頭の中の概念で細部を補って認識したのであろう。
 涼しい朝方、水田で捕獲した獲物の蛙でも得て満腹し、冷えたアスファルトの心地よさにつ
いうとうととしたか、二?を越えると思しき見事な巨体であった。爬虫類は死ぬまで成長し続
けると聞くが、そこまでなるには相当の年月を、人間からの危害や鷲や鷹の襲撃、交通事故か
ら首尾よく逃れる知恵をもった尊敬に値する個体だと思った。そして私は民家の納屋に主とし
て棲みついている朝帰りの青大将であろうと勝手に想像し、何時の日か再び見えんことを期待
するのであった。



―囚われの身―

 我が家には農薬を混ぜるコンクリート製の水槽が、裏山の始まる屋敷の北側に一基造り付け
てあった。柿の木の下にあるそれは、手前が水槽の底と地盤が同じ高さで、反対側の土地は水
槽の上の部分と同じ高さになっていて、ポンプや溶液の攪拌機の納められている小屋が隣接し
ているという、段々畑の一角にあった。横二?奥行一?深さ一?半で、中心に仕切りを持つ二
つの槽に分かれていて、まるで木製の角風呂を二つ合わせたようなものだった。それは、父が
亡くなってからはもう殆ど使用されず、一つの槽は空で、他の槽は排水口でも詰まっているの
か、底から三十?くらいまで雨水が溜っていて水は淀んでいた。
 これらの工作物は、みかんや梅の木を消毒する際薬品と水をかき混ぜて薄める施設であった
が、役目を放棄されてからずいぶん日が経っていた。その理由はもっぱら働き手としての父が
居なくなったからなのか、それとも時代とともに消毒作業のやり方に変化があったのか、転居
して間もない私には、その理由を判断することができなかった。とにかく、この家に出入りす
る人達はみな水槽に関心を寄せることを既に止め、その中を覗くという行為をするのは、私み
たいに何にでも好奇心を示めす新参者だけであった。
 ある時私は手持ち無沙汰のまま何の意図もなくひょいと右側の水の溜まった水槽を覗いて見
たのである。その水槽は下から五分の一ほどまで雨水で満たされていて、五十?ばかりの細い
棒切れが二つ三っつ浮いていた。そこには白い腹を上に向けた少し大きめの蛇の死体が一つあ
った。そして三十?に満たない生き絶え絶えの―私にはそう見えた―別の蛇が三匹それぞれの
木切れにしがみ付いていた。死体が母親なのか、ほかの三匹がその子供なのか私には判断がつ
かなかった。それ以上に、異常な光景と爬虫類独特の無気味さに圧倒されて、助け出そうかと
いう気持ちが一瞬頭をかすめたが、そのまま私はそこを立ち去り、母にそのことを告げた後は
敢えて思い出そうとはしなかった。
 助けるか死に至らしめるままに放置するかを迷ったのは、それが毒蛇ではないかという懸念
があったからであった。マムシの形状や色合いを聞いたり本で調べたりしたことがあるが、実
際に見た経験がないから決定的にそれがその蛇であると言い切る自信はなかった。見るという
行為も漠然と印象だけを記憶することでは、後で書物でそれを調べ比較するにも大した手助け
にはならなかった。
 その蛇は細長く黒い中に赤い斑点があった。確信はないが、とにかく後日調べた書物による
と、どうもヤマカガシらしかった。二、三日を経たある日、「まだ二匹が生きている」と母が
言ってきた。「助けようか」「毒蛇のマムシではないようだ」などと二人で思案した結果、助
け出すことに意見が一致した。田舎では、鼠など穀物を食い荒らす小動物を駆除するものとし
て、ヘビが必ずしも忌み嫌われるものではないし、なるべく不必要な殺生はしたくなかったた
めである。
 しかし、その後調べた詳しい資料には「ヤマカガシは毒を持ち攻撃的である」と記してあっ
た。その水槽の際の湿った石垣に逃がしたのだから、そしてもともと水槽に一家で入り込むの
だから、ずいぶん以前から住み着いていたに違いないことも知り、助けられたことを覚えてい
てくれればよいがと、変に恩着せがましいことを思いながら、今後草取りをする時は用心しな
ければならないと考えた。
 そして話はここで終わらず、数日後癖になってしまった覗きの結果、褐色のヘビが一匹木片
にしがみついているのが再び見えた。そして図鑑を片手にまた悩み始めたのである。今度のは
地が褐色で黒いひし形の模様が見られ、こんどこそどうもマムシではないかと思われた。しか
し前の判断の迷いと同じく、確信がもてない。母との協議で「マムシみたいだからしばらくそ
のままにしておこう」ということになり、一週間ほど経過した。
 なぜそのような深くて脱出不可能な水槽に飛び込むのか、それもたまたま間違えてドジな一
匹が入ったとも思われず、数匹の蛇が何回も飛び込むことには何かの正当な理由があるのだろ
う。隣の蛇の入っていない水槽を覗くと土色をした三?ばかりの蛙が四、五匹常時侵入してい
る。このことから推量するに、彼らはその蛙を狙って飛び込むのではないか。そして一度は入
ったらよほどの大雨で水槽から水が溢れないかぎり脱出できないにもかかわらず、上から飛び
込む蛙を待ってさえいれば、労することなく生き長らえることは可能であり、水槽の外で必死
で捕食する努力するよりも楽であるかも知れないのだ。
 私達がその水槽の中の生き物のことを忘れかけた頃、突然予想だにしない結末がやって来た。
訪問客と交わしたその話を誰かに伝えたらしく、村はずれの人が「マムシ酒にするから下さい」
といって捕獲し、貰い受けて行ったのである。私達は自ら難題を解決する手間が省けてほっと
安堵した訳だが、その一方直接害を与えられた訳でもないのだから逃がしてやってもよかった
のではないかと思い、可哀想なことをしたという思いも密かに残った。



―遊びー

 野生の動物に背中から尻にかけてパクリと齧(かじ)られた生まれて数ヶ月の子猫が引っ越
してきた家にすでにいた。生命は取り止めてはいたものの、長い尻尾は食い千切られ肛門の括
約筋も傷つけられ、糞をうまく処理できない状態であった。獣医からも、背中の深い傷よりも
むしろ排便をうまく出来るようになるかが生死のわかれめだ、とのことであった。背中の傷を
除けば真っ白で優雅な姿と鳴きき声のその猫を私達は可愛がった。病院から貰ってきた消毒剤
を塗るのだが、皮の剥けた赤みの肉を見るたびにこの子猫が生き延びれるか危ぶまれた。そう
いうことがあったためか、白猫は新参者の私にはなかなか気を許す気配がなかった。それでも
日を経るにつれ、畑に行くときは遠巻きにしてついてくるし、梅をちぎる作業が始まり、私が
梅の木の高い実をとっていると納屋の屋根の同じ高さに駆け登ってきたりして、付かず離れず
遊ぶようになっていた。なかなか抱かれるのは嫌がったが、朝夕の餌をねだる時は、足に擦り
寄ってくるようになってきた。
 部屋には上げず土間で寝起きさせていたのだが、筋肉の感覚をまだ取り戻せなくて糞を所か
まわず出してしまうので、母が怒って戸締りする夜は外に出すようになった。よく出窓に上が
って部屋に入りたそうにするので、母が寝室にこもった後時々私はこっそり部屋に入れた。望
みが叶った喜びに興奮したのだろうか、テーブルクロスや椅子の陰にかくれたり、走り回った
りして遊ぶのだった。
 朝土間の戸を開けると何所からともなく飛びこんできて餌をねだり、また家の外に出ていっ
てしばらくは姿を見せない。昼間そこを覗くと椅子に寝そべっていたり、母が収穫した小豆や
胡麻の入っている竹籠の中に眠っていたりして、母から怒られ追い出されたりしていた。夜よ
く浴室の窓の外にある洗濯機の上で寝ているのを入浴する時見かけたが、そこにいない日はど
こで寝ているのだろうか。
 休みの日曜などに家にいて観察してみると、餌を食べる以外はほとんど外で過ごしているよ
うで、西側の洗面室から格子窓ごしに白がみえた。蝶々やトンボや蛙をを狙って草むらの中に
身を伏せている姿で、それらの小さな生物が近づくと飛びあがって捕獲しようと試みていた。
 日を経ているうちに、白の行動パッターンがだいたい分かるようになった。括約筋も少しづ
つ感覚が戻り、意志どおり糞を処理できるようになると、朝食を済ますと坂を下りていって屋
敷の前の隣の人の畑に糞をし、しばらくその畑を一巡りしながら遊んでいる。私達が事務所に
出勤する時はいつも花畑の入口の箒草の蔭で私を待っているし、帰って来た時もどこからとも
なく近寄って来てその箒草の所で出迎えてくれる。私達が郷里にいる間中この白猫は一日中前
の畑や西の草むらや屋敷の裏の段々畑で一心不乱によくひとりで遊んだ。それは待遇や身の不
遇を嘆きもせず見事に生きている姿だった。私達夫婦はしっくりいかない人間関係の中で、こ
の白猫からのみ慰めと安らぎを与えてもらったように思う。背中の赤剥けの皮膚もすっかり真
白い毛にふさふさと覆われ、秋まで持たないのではと思われた華奢な体も豊かに肥えて、近所
の飼い猫や野良猫の間でも際立った優雅さの「白猫」と成長した。そして母に「もう外もだん
だん冷え込んでくるからこの猫を夜だけは土間にいれてやってくれ」と頼んで私はこの故郷を
あとにした。



―ある友人への手紙―

 拝啓 ついに二十一世紀の夜明けを迎えました。個人的には還暦と歴史的には百年のみなら
ず千年単位の新しい物事の始まりという実に記念すべき時の重なりは、私にとって幸運な星の
巡り合わせとしか言いようがなく、変化の多い近年の中でも今年は記憶すべき年になりそうで
す。小さい頃はこの世界を覗くことすら及ばないような遥かな遠い未来でしたが、現実になっ
てみて「よくぞここまで来たものだ」という感慨が沸いてきます。そしてもうそろそろこの十
年の不遇を逆転させてくれる幸運の女神に会えるような気もします。たとえそうでなくても、
若くしてこの世を去って逝った友人や、親類、親しかった人達のことを思うと、この歳まで生
き長らえて来た己の人生は満足すべきものであり、充分帳尻があっているなどと考えたりして、
自分なりに納得しています。

 さて、貴君に出した最後の便りはいつの頃だったか、手帳を調べてみて昨年八月以来の随分
の無沙汰を決め込んでいた自分にあきれました。いくら環境に馴染まず落ち着かない悶々とし
た日々を過ごしていたからとは言え、許されざることと反省しています。それでも過ぎ去った
それらの長い月日の間中頭の奥の暗がりには足の裏に刺さった刺のように、たとえ見えなくて
も折に触れて気になる痛みを発し、良心の呵責を覚えさせていたことは事実です。
 その便りの途絶えた間にも私の身の周りには色々の変化がありました。むしろ変化があった
からこそそのような雑事や煩悩に時を奪われて、便りを出すエネルギーが枯渇したと言えるで
しょう。

 ご存知のとおり去年の五月上旬に郷里の母の里、杵島山の麓の町に戻りました。そして、私
の少年の頃育った土地、現在兄が経営する四十六室を持つ三階建学生マンションの一室に設計
事務所を構え、山里から三十?の道程を車で四十分駆けて妻と共にそこへ通いました。母の面
倒をけなげにみるといってくれたものの、彼女に今まで経験したことのない閉鎖的で因習のい
まだに残る荒々しい環境に一人残して来るのが可哀想であったからです。
 そして私は毎日、友人や親戚の紹介や口利きのもとに建設関係や設計事務所、役所などに営
業に出かけ、例年になく記録的な猛暑の中六ケ月余り自分なりに頑張りました。努力がまだま
だ足りないとか才能がないとか、人から見ればその原因は本人より明かに解明できるかもしれ
ません。また他の人であれば成功を手中に収めることができる状況があったのかも知れません。
しかしその結果は一つも実らず、期待は敗れ去り、終に私は「この時、この地では身を立てる
ことは難しい」と判断せざるを得なかったのでした。時が悪いのか、場所が悪いのか、能力が
欠けているのか、多分三つとも当たっているのでしょう。
そのような状況を打開すべくいろいろの方法を思案している丁度その時、都会の知り合いから
仕事の依頼がありました。継続性のある受注が望めるかどうかを確認しに十月中旬出かけた結
果、経済上考えていたよりもひどい冷え込みのこの地方より大都市の方が活路を見出せると思
い、戻る決心をしました。そして半年前に盛大な送別会をしてもらって出てきたこの大都会へ
再びやって来た次第です。

 そしていま考えるに、郷里に移り住むということに対して抱いていた、親兄弟そして私達の
それぞれの間の「思惑」に、微妙な違いが存在していたことが、徐々に明らかになりました。
 第一は 兄夫婦がなぜ私達の帰郷を強く望んだか?
       昨年の春突然電話があり、「亡くなった父がこの屋敷や山を住宅地として開発
      することを望んでいる。また学生マンションも計画道路実施による建て替えもす
      ぐに発生するから、都会で苦労するより見切りをつけて早く帰って来るように。
      そしてそちらの住居を引き払うなら住まいに困るだろうから母と同居すればよ
      い」とのことでした。
      数年前から東京での仕事がうまく見つからない理由を常々報告していたからかも
      知れないし、又親兄弟の情で少しでも面倒を見なければという義務観念上のこと
      だったかもしれません。母、兄夫婦、そして彼等が日頃の色々な悩み事を相談し
      ている女性の占い師が同席しての結論だったようです。
      しかし、亡き父の声を聞き取る力を持っていると言われるその女性のような者を
      信じる環境が私の周りに今でもあることに驚くとともに、根拠もない他人の意見
      で自分の行動が左右されるような生きかたが私達に押し付けられることを私は恐
      れました。書物や人の考えや生き方を学び悩み抜き、己の力で解明する努力こそ
      がものごとの真実に近づく道であり、他力ではなく自力本願の生き方を目指す私
      達とそれとは真っ向から対立するものでした。恨みや不満や不浄のごとき人間の
      煩悩に倦み疲れた人達に取り入るり、さも本当の原因を見つけたと称して実はそ
      れ等を捏造し、祓い清めることを生業とする人達に違いありません。元来自分で
      物事を解決しようと努力する人にはこの手の商売は成り立たず、人の心の弱さに
      付け入りその隙間でしか生れないものだと思います。そしてそのような不幸にな
      る因果を見つけだす占師と、不浄を清める祈祷師が対になり、役割分担し心弱い
      迷える子羊を救っているのです。その程度で心の重荷を下ろすことの出来る人達
      もいることは事実であり、またそのような人が却って自然体に近く楽な生き方を
      しているのではないかと思う時もありますが・・・。
      今まで母が元気であるという一事で別居して済ませていた兄夫婦は、母のもとか
      ら県庁所在地の店まで私達がしたように毎日通えない訳はなく、それにも拘わら
      ず八十四歳という高齢者を一人山里に住まわせる、このことに多少の後ろめたさ
      があったはずです。私達は自分達のことを決してそうとは考えないのですが、都
      落ちした私達のために住まいを提供し母の面倒を見させ、山や畑や屋敷を管理さ
      せることは兄夫婦にとっては願ってもない一石三鳥の効果を期待できたのではな
      いか。私達を熱心に呼び寄せたその真意ははたしてなんであったか、私達には判
      りません。

 第二は 母が私達に望んだものはなにか?
未だ元気な母は毎日裏の千坪の畑に折々の作物を作り、二十羽の鶏を飼い、お
花や習字や踊りの稽古で忙しく、近所の訪問者も沢山でさびしい思いはしていま
せん。だから私達が同居することは、自分で作るのが面倒になった食事や苦手な
家の中の管理を代わってしてくれることは嬉しいのだが、一方愛想のない気難し
い息子達が近所の人達との楽しい付き合いに水をさすのではないかという不安と
不満を感じているようなのです。
また、親の面倒も見ず自分の意志で家を出て行き、突然帰ってきては田畑を守る
苦労をしている後継ぎから財産の分け前を要求するという、田舎ではよく耳にす
る話で、昔で言えば戯けも野「田分け者」といって蛇蠍のごとく嫌われたもので
す。長子制度の時代に育った高齢の母はそのような話を私達に当てはめているの
ではないかとも思えました。

 第三は 私達が郷里に望んだものはなにか
 私達が郷里に帰ろうと決心した理由はいくつかありました。
まずバブル崩壊に伴い収入が落ち込んだこと。子供の学費を作るため住んでいる
マンションを処分しなければならなかったこと。借家でそのまま頑張る手もなく
はなかったが、約二年毎に転居して来た私にとって、二十年の同じ場所の都会生
活にいささか飽きてきたこと。 『夢と現の狭間で』に書いたごとく、それまで
の二十六回の転居が示すようにその性癖は既に現れていました。
これは、途中の努力や忍耐を跳び越えて未知なる物や場所に憧憬を抱く分裂症的
私の性格であると言えます。そして計画通り郷里でうまくいくとは限らないと考
えたものの、現状からの脱出の期待と何か飛躍できそうな気分になったのです。
そこに地道な調査と検証があった訳ではなく、兄の示した宅地開発と学生マンシ
ョンの建て替えという仕事に託しました。その後裏山の宅地開発については母が
「そんな話は兄から聞いていないし売りもしない」といい、「離れ家」云々につ
いても承知していず、学生マンションの建替え計画に至っては、私達が帰って間
もない頃「補償金を貰っても建物を建てずに現金で持っていた方がよい」と兄は
言ったこと。縦今すぐ仕事があろうと無なかろうと一年くらいは無収入でも頑張
ってみようと思っていたのに、頼りにしていた事への目論見を一つ一つ潰された
という思いで、夢破れた訳です。

 しかし、 去年春以来かくの如き冴えない結末であった当の本人は、周りの人達から見ると
「さぞ悲痛な面持ちで見るに耐えなく落ち込んでいる」と心配されるかもしれませんが、さほ
どのことはなくむしろ自我を押し込めたり、偽りの関係を強制される窮屈な環境から脱出でき
ることが嬉しいのです。たとえ貧しくても、意思と感性と行動が自由に発揮できる状況が私達
には必要でした。

 三十数年という空白はたとえ親兄弟といえども簡単に感覚の違いや生き方を埋めるというこ
とは難しく、郷里だからすべてを受け入れてくれることはないことを実感しました。私達はあ
まりにも自己意識の強い都会生活に馴染んだせいか、親類縁者のもとの生活はかえって窮屈で
むしろ他人の中での暮らしが望ましいと悟りました。先の水槽の中の蛇達のように、ある種類
の不自由さを我慢し耐え忍べば安穏で平和な生活が保証されるかも知れません。だからこちら
の人達は郷里を捨てるほど激しく自由を渇望する私達のこの思いを決して理解できないだろう
と思いました。私達は、ことある毎に微妙な行き方の違いの中で、親子兄弟がこれ以上抜き差
しならない関係に陥り憎しみ合うようになる前に離れるべきだと考え、見事につらい傷を負い
ながらなにものにも捕らわれず自由に遊び楽しむ、あの「白猫」のように生きたいと思います。
 そして河口湖のほとり富士山を望みながらデッキで朝食をとることを夢みて、いつの日か終
の棲家を実現するために建築家の間借人生を卒業すべく努力したいと思います。
                                       敬具



エピローグ


 私には「この家に反逆をする者としての卦が出ていると」数十年前件の占い師が家族に告げ
たことを思い出した。そのご宣託だけは見事に当ったようで、突然やって来て静かに暮らす田
舎の人達の中に別の価値観を持ち込もうと試みたのである。辻褄の合わないことに反論し、自
分の趣味や生きかたを押し付けたことは、長い時を経て培われたこの土地の慣習に対してとう
ろう蟷螂の斧を振りかざしたに過ぎないことを私は悟らざるをえなかった。
「お前が帰って来ることを望んでいる」というその言葉を信じ郷里に戻って来たのだが、亡き
父の声はついに私には聞こえてこなかった。そして当時死の床に間に合わなかった私は葬儀の
あと見つからなかった父の遺書を郷里に戻って時真剣に探したものだった。あれほど生前その
必要性を説いてきちんと〔けじめ〕をつけていた父が自らのものを残さなかったとはとうてい
考えられず、私には今でもそれに納得がいかないのである。遺産などという現実的な問題では
なく、父が私をどう捉えていたか、私に対する最期のメッセージは何であったかを私は聞きた
かったのである。もはや亡くなって五年経つがその当時はさほどでもなかったものの、「都市
と田舎の狭間」で揺れた今、出来るのであればもう一度父に会いたいという感情が切ないほど
強くなった。

   

6号 2001年8月

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7α編集部:2014/02/28(金) 01:22:02
α編集部
.
            男と女の狭間で 




 この歳になって男と女の問題を考えるに、もはや遅きに失する感がり、また小さい頃
体験した祭につきものの恐ろしいお化け屋敷に踏みいる思いもある。このテーマを取り上
げるにいたった我が「細君」との闘争を返り見るに、いかに私が性差に無頓着なため人知
れず無駄な労力を払って来たのかが判明した。アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ夫妻の
共著「話を聞かない男、地図の読めない女」を読んで、男と女の間の会話が双曲線を画い
ていてかなり接近するもの、まるで犬語と猫語で会話していたごとく交点の望めないもの
であったのか・・・。

                   *

 その本の題名は以前から知ってはいたものの、どうせ興味本位の軽い読み物だろうと考
えていて敢えて挑戦をしなかった。しかし私が「男と女の狭間で」というテーマの標題を
パソコンの二〇〇一年の日記に記録してから何も書かないまま四年も経っていた。今回還
暦もすでに過ぎ去り、昨日まで元気だった友人が突然逝ってしまう現実をみると、いつお
迎えが来ても驚かない年齢になったので総括の意味で思い切ってこの重いテーマをものに
しようと思った訳だ。そしてT女史に何か「ジェンダーに関する良いテキスト」があれば
紹介してよと相談したら、返ってきた答えがこの本だった。

                   *

 たしかに、私が運転をするとき助手席の「細君」にナビゲーターを頼むのだが、今ど
こを走っているのかも判らないほど的確に地図を読めずに、ちっとも頼りなならない。そ
のうち急に曲がれといったり、通り過ぎてから指示したりの迷走で必ず旅の終わりはお互
いに気まずい思いを抱きながら家路につくのである。そして性懲りもなく二・三カ月を過
ぎると再び同じ役割でドライブに出掛けたものだ。

 そのような時薄々感じてはいたものの、どちらが優れている劣っているという観点で
はなく、確かに男と女の性差はあるものだという事が判った。男と女の考え方や行動の違
いは男に有利な社会制度や親の育て方のせいではなく、遙か遠い昔の原始の時代から遺伝
子に組み込まれた脳の働きの差異によるものらしい。だから一方の性による考え方の基準
で他方の性の思いを理解することにおいては微妙な食い違いを生じ、長い歴史の中で様々
な行き違いや戸惑いや誤解のドラマが演じられてきた。
 そう考えると、男に優れた分野の能力と女に優れた分野の能力がそれぞれあるというこ
とで、同じ土俵で競い合うこと自体が間違っているか、お互いの認識しているルールの違
いがあるかである。だからいくら違う土俵に乗っているもの同志が競い合っても、いくら
同じテーマで論じあってもすっきりした答えはお互いに得られないもどかしさがある。

                   *

 昔「細君」が子供のことや貧乏生活などの不安をよくぶつけて来ていたが、いま思うと
男の私はそのような重い話にうんざりしながらそれに対する解決方法を真剣に考え込んで
いると、私の話はちっとも聞いていないなどと怒り出し、私は私で遂に「これでも一生懸
命まじめに努力をしているのに判らないか」などという科白を吐いて、最期は言い争にな
ってしまうのが落ちだった。男は問題提起されたときそれを解決することを本命と考必死
で回答を得ようとするが、女はただ話に乗ってくれて、「かわいそうだね」「苦しかった
ろう」などと優しく同情してくれればいいと思っているらしい。このようなことは冷静に
なったとき実際「細君」から「私も現状の把握はできているが、ただ滅入った気分を晴ら
したがっただけなのに、男は理屈で自分の立場を守ろうとばかりしている」などと、散々
私の対応のまずさを指摘されてきたのではあるが・・・。
 テレビをみたり新聞を読んでいる最中に細君が世間話をしてくることがあった。男は一
つのことしかできないが、女性は料理をしながら電話をかけたり、子供をあやしたりする
ことができる。だから何かに熱中している男は他の話題には上の空で、細君は「私の話を
全く聞いてくれない、私を馬鹿にしているのでしょう」などと拗ねられる。いえいえ決し
てそうではありません、これは男の能力がないせいでありますと釈明するほかはないので
ある。

                   *

 男と女の生物学的差異については多田富雄著「生命の意味論」によれば、女の染色体
はXX、男の染色体はXYであるが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、
人間はもともと女になるべく設計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝
子で、血液凝固・色覚・免疫細胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に
男をつくるためだけの遺伝子らしく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫
で長持ちするようにできているのである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男
でも女でもない状態であり、基本型がきまってから「夏目漱石曰く『でも・しか』すなわ
ち男にでもなるか、男にしかなれない」などといった程度のもので、Y遺伝子のためにむ
りやり女の体を加工して男にさせられた結果だという。だからアダムの肋骨からイブが作
られたのではなくイブ(女)からアダム(男)が作られたということである。

                   *

 さて、私は小さかったころ家の前に住んでいた踊りのお師匠さんのところへ母とよく
出入りしていて、踊りを習っていたようであった。ようであったというのももはや半世紀
前のことで、いまでは着物を着せられて踊っている断片的な場面しか思い出せない。どう
もそのころの私は性格がおとなしく体も華奢で、外で相撲や野球などのスポーツをして活
発に遊ぶより母親の周りで編み物や踊りといった女の子の興味をもつものに接していたよ
うで、人に与えていた印象は女の子ようなものだったのかも知れない。そう言われるのが
嫌で真剣に男の子らしくなろうと努力したのであるが、中学生になっても近所の随分年下
の女の子から「おばさんところのお兄ちゃんはベルのように優しかね」と云われたと母は
笑っていた。その「ベル」とは代々私の育った屋敷に住み着いた野良犬で、先代の犬が居
なくなると別の野良犬が入り込んできて「ベル」という名を引き続き与えられた、大抵は
茶色のおとなしい柴犬であった。

                   *

 とにかく今までの長い間男の私と関わったおおくの違った能力を持つ女におおい惹か
れるのは、男の世界に飽き飽きしたのか、未知への野次馬的好奇心からくるものなのか、
怖いもの見たさの感はあるがその違う世界を一度覗いてみたいと思った。そしてできるこ
となら来世は女性に生まれ変わって、三四郎に出てくる美弥子の[unconscious hypocrisy]
を駆使して男共をおおいに誑(たぶら)かし手玉にとってきりきり舞いをさせてみたいと
思わぬでもない。そして最期に、両方の性を体験した結果どらが良いかを判断しもう一度
生まれ変わる許可を神様に願い出るというのは、いかにも虫がよすぎる話であろうか??


10号 2001年10月

8α編集部:2014/02/28(金) 02:06:42
目の再生工場からの帰還
.
          目の再生工場からの帰還 




◆経緯
昨年の秋頃から白内障がひどくなり、右目は殆ど霞みの中のように白濁して、物の形も見
えなくなった。辛うじて左目で行動していたが、車の運転も出来なくなり、大きなルーペ
を使っても本が読めない。今年の8月に主治医に右目の手術をお願いしたら、先生は糖尿
病による網膜症の悪化あるいは、その症状が変化していないかを判断しながら、やっと手
術することを決断してくれた。それには右目のひどい白内障の為に眼球奥の網膜症の判定
ができないという理由もあったからだ。この手術は結構患者数が多いのだろう、「急ぐよ
うでしたら外の病院でどうぞ」という主治医の言葉に、私は設備の整ったこの病院でお願
いしますと言って、やむなく長い時間を待つことに承知した。日取りは2ヶ月後の10月
後半ということになった。


◆入院期間及び経費
入院は10月26日朝の9時半。東大病院入院棟A7階732-1号室、このフロアー全部が
眼科らしい。 当初私は知り合いが手術してその日に家に帰ったことを聞いていたので、
精々1日の入院で手術したらすぐにでも帰れるものとばかり思い込んでいた。しかし主治
医と手術の手順や経過措置について話し合うなかで、4日ほど入院しなければならなかっ
た。手術後の経過を見ないと入院期間も決められないだろうなとなんとなく判っていたが、
その様なことが生じることを真剣に考えなかったものだから、2日の休みでという思惑で
決めた仕事の手配が気になった。
幸いなことに丁度うまく暇になったし、多少の打ち合わせには経過が良好であれば外出し
てもよいということになった。だから手術した日は一日中ベッドに大人しく寝ていた。
次の日は主治医の外出許可を得て。飯田氏と打ち合わせのために事務所に行く。帰りに家
から細君のノート型パソコンを借り出し、病室で仕事をした。
私は民間の医療保険には入っていないので、この費用は国民健康保険のみの費用である。
総医療費----保険:254,760、保険(食事):5,928、保険外負担:11,200
患者負担額--保険:76,430 、保険(食事):2,080、保険外負担:11,200
患者負担額合計---89,710円

◆同室の人(柴山さん)との交流
入院したその日は手術の為の準備として、さまざまな検査があった。それが一段落して病
室に戻ってから同じ部屋の人に挨拶をした。最初はこちらも余り見えないから、はっきり
その人の様子は判らなかったが、柴山さん(本当はどういう漢字を当てるのか判らない)
が「私は実は全盲なんです。10年ほど前から近くの病院で治療していたのですが、眼圧
が正常であったために医者が緑内障の詳しい検査をしなかったために、手遅れになってし
まい視力を失いました。いまは30センチ先の自分の手も見えません。全て霞のような世
界で、ただ光を感じるだけです。この病院で処置をしなかったら、真っ黒な闇の世界に行
くところでした。だから光を感じる機能だけでも残ってよかった」といわれた。

そしてそんな障害を持ちながら明るく話す屈託のなさに、なんといって慰めればいいかと
まどっている私は、救われたような気がした。私達は色々のことを沢山話した。目が不自
由になって引退するまでは、彼はNECに勤めていたが独立してコンピュータのソフト開
発の会社を作り、100名ほどの社員を抱えていたとのことである。
退院するときに「古賀さんと話すことができてよかった。新しいものに挑戦する意欲が湧
いてきました」という言葉を貰った。

◆手術
27日の朝8時の手術のために7時45分にナースステーションに行く。左手に化膿止め
の点滴をしながら、車椅子に乗せられて4階の手術室へと移動する。昨夜の主治医との相
談の時に、しっかりと右目の上に丸印をマジックで書いてあるにも拘わらず、いたるとこ
ろで名前と生年月日と手術するのはどちらの目かと10度ほど誰何される。どうも患者を
間違えたり、必要でない部分を処置したというケースがあったらしい。私が間違えて、或
いは意地悪に左と右とを逆に答えたらどうするだろうか、と冗談半分に思わぬでもない。

手術室は天井は高さ4メートル、巾4メートルの広い廊下が3・40メートルほどの長さで真っ直ぐに
続いている。両側には灰緑色のパーティションで仕切られた手術用のブースがいくつもあ
るようだ。まるで手術という生き物の生き死にに関係するような感情とは全く無縁の、機
械の組み立て工場のような感じがした。ああここでは目の再生を担った医者達にとっては、
私は一塊の物体にすぎないのだという感慨を持った。ある意味では、シリアスな場面では
感情や情緒に左右されてはいけないのだろう。むしろその方が冷静かつ的確な判断による
処置が出来るに違いないとも思った。

いよいよ手術室にはいると、一度に5人程の患者が平行して手術ができる広さで、床屋に
あるようなすべての部分を丸みをつけて柔らかそうな感じに作られた椅子があった。患者
にとってはこれから戦場に赴くようなシリアスな情況のなかで、はでなラベンダー色の椅
子は似つかわしくないような、浮いたものを私は感じた。それともラベンダーには鎮痛や
精神安定、防虫、殺菌などに効果があるとされるされていることのゆえなのか、それにし
てもちょっとキッチュではないだろうかと私は思った。

その陳腐な代物に私は有無を言わさず座らされて、左手には点滴と人差し指に心臓の脈拍
センサー、右手にはある一定の時間に自動的に腕を圧縮する血圧計をとりつけて、仰向け
に椅子が倒される。4・5人のスタッフは私が恐怖や不安を感じる間もないほど、主治医
の命令に沿って実に迅速に的確に持ち場の作業を進めていく。
私はされるがままにじっと上を向いて目を開けている。主治医は私の右目の廻りを洗浄液
やら麻酔液やら判らないが、とにかく乱暴と思えるくらいにかなり強く、大量の液体で流
し洗いをする。

その後寒冷紗のような目の粗い布を顔一面に被せ、右目のところだけは穴が開いているの
だろう、上瞼と下瞼を粘着テープで強く引っ張り、瞬き出来ないように押し開いた。目尻
が引っ張られて痛い。手術は何の痛みもなかったが、結局このテープの引っ張りが一番痛
かったと感じた。
そして間髪を入れずドリルのようなものが上から降りてきて、蒸留水みたいな液体をザー
ザー右目を狙って落ちてくる。主治医がスタッフに「もう少し遅く、タッタタ、タタッタ
くらいの速度にするように」と指示している。タッタタの感覚は私には1秒間隔に聞こえ
た。「数値を32に設定して」とか、よく耳元でサブの女医と話している内容が聞こえる。

そのうち、「少し目尻に圧迫感がありますけど心配ありません」という声とともに、右目
に視野のなかにモノクロームの図柄が見えてきた。
ジョルジュ・ブラックの抽象画で見たような、カトレアの縮れながら開いた花瓣に似た形
状の黒と灰色の模様が、円筒形の内壁にベッタリと現れ、奥の方へパースペクティブに細
りながら黒い穴に向かって、緩やかに回転ながら落ちていくのが見えた。主治医が「耳の
近くでジーという音がしますよ」と声を掛けた。歯の治療で虫歯を削るドリルの音に似て
いる。暫くすると目の前が一面真っ白くなり形状は何も見えない。上瞼にそって細い針金
の先でジジー、ジジーと何かを削りとる感じがした。

昨日手術について主治医と話し合ったときに聞いた目の構造とその処置についての説明を
思い出した。今回の手術は濁った水晶体を取りだして透明な新しいものに替えるというこ
とらしい。私は今まで水晶体はドロッとした粘性のある液体と思っていたが、どうもそん
なではないらしい。白内障はある種のタンパク質が綺麗に整列していなければならないの
だが、加齢によってその配列が乱れてきて光を乱反射させるから、まともな像を網膜に送
ることが出来ないということらしい。それを超音波で粉々に砕き、掻きだして除去すると
いう。

「痛くはありませんか」という主治医の声は、これから水晶体を砕きますよという意味だ
ろうか。患者を安心させるためにだろうか、よく声を掛けてくれる。私は体が反り返るほ
ど緊張はしていたが、猛烈な痛さや手術の失敗やその他の不祥事が起きるのではないかと
いう不安は不思議に最後までなかった。
それから再びその模様が今度は黒と白の反転して、穴に落ちていったり、真っ白な光に何
も見えない現象を繰り返す。「はい終わりました」という主治医の言葉を聞いた。どこで
新しい水晶体を入れ替えたのか私には判らなかった。準備から終るまで30分くらいだっ
たろうか、兎も角大した痛みも不安も抱かず、何事も起こらず無事終了したようだ。左目
の眼帯をとって、その視力回復を確かめるのは明日の朝の検診まで待たねばならない。

◆主治医のひととなり
主治医は考えられないほど忙しい人のように見える。家に毎日帰っているのだろうか。そ
れとも近くに住んでいるのだろうか。朝早くから執刀して、夕方の7時に検診に来た。そ
の間は一日中外来の患者を診察している。今日の眼帯をとるのも外来の患者を診る前に早
朝やって来て診察してくれた。「水晶体を押さえる部分の筋肉が弱くて、それを処置する
までに普通より時間が掛かりましたが、うまく納まっているようです」と知らせてくれた。

実は主治医のことについて以前、インターネットで調べたことがある。ラサールから東大
の医学部へ、学生時代は野球部に入り選手として六大学の試合に出ていたようだが、体躯
は小さい方でしかもかなりハードな勉強をしなければならない医学生であったろうから、
あまり打率はいいほうではなかったようだ。その情報についてはまだ本人に質だしたこと
はない。これからも親しく歓談することは多分なく、医師と患者の関係のまま当分続くだ
ろう。口数はすくないが、別の用事で待っている待合室で、たまたま邂逅しても必ず声を
掛けてくれる実に誠実な人だ。つっけんどんな言い方をする、常にプライドを身につけて
いるといった可愛くないサブの女医とは大違いだ。
このことは同室の柴山さんも「古賀さんあのお医者さんが主治医でよかったですね」と羨
ましげに言ってくれた。

◆開眼の結果は
さて眼帯を外した世界はどう見えたか。
一つ目は、こんなにもこの世の中のものが白黒がはっきりした明確な世界だったのか。先
ず自分の顔を見たとき、こんなに眉が濃かったのかと思った。
二つ目は、色彩の鮮やかなこと。赤や青が輝くような彩度を放つ。これまでは信号の赤・
青・黄がはっきり見えず、細君に判断してもらわなければ車の運転をするのに危なくて仕
方がなかった。細君は私の目がそれほど悪いとは考えていないようで、もっとも見える人
にはどのくらい見えないのかをいくら説明してもわからないのかもしれない。食べ物をよ
く落とすとか、落とした物をなかなか見つけられないとか、健常者の無理解というか、よ
くぶつぶつと文句をつけてくる。私も全盲の人がどのように眼前のものが見えるか、自分
の目が悪くなるまで理解できなかった。

ある段階はあるだろうが、白い杖をつきながらでも一人で歩ける人はたぶん物の形はみえ
ているのだろう。私のベッドの隣の芝山さんは、真っ白な世界でかすかな明かりの変化に
より眼前の物体は感じるが、それ以上の視覚は望めないということで、奥さんの肩に掴ま
って歩いていた。もっと悪化すると光も感じることができない闇の世界だそうである。右
目がよくなってみると、いままでかろうじて見えていた左目が無性に悪くなったような気
がした。だからどうもバランスの悪さは依然と同じようなものだ。しかし確実に本の文字
は読めるようになったので助かる。

最後に、手術前の夜主治医による目の部分説明のとき、外界の像はピンホール・カメラと
同じく人間の網膜に写る像も逆さまであることを確かめた。「そうだ」という回答だった。
その像を脳の或部分で情報の処理をして正常に認識するということである。しかし私はも
う一つ聞きたいことがあったが、そのときは思いもつかなかった。その網膜の像を正常に
補正する能力のない患者の例はあるのか、その場合その人はすべての外界が逆さに見えて
いるのかという疑問である。このように野次馬的好奇心のおかげで不安や恐怖心を感じる
ことなく再生工場から無事帰還したことである。右目が見えるようになって、それまでが
んばっていた左目が安心したのか急に白内障が進んで見えなくなった。だから今年の秋は
また左目の手術をしなければならないだろうと思っている。

15号 2010年9年10月

9α編集部:2014/02/28(金) 02:20:58
人は死して何を残すのか 
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          人は死して何を残すのか 




「豹死留皮、人死留名」すなわち、虎は死して皮を留め、人は死して名を残すと言った西
暦十世紀、梁の国の王彦章(おうげんしょう)の言葉があるが、はたして人は何のために
名を残そうとするのか。
生前身近に接する人達に、その人なりの会話や姿や匂いや癖などの印象を残すことはある。
しかしそれも受け手の死によってその影響は終わってしまうのである。その一方願望とし
て肉体は死んでも魂は存在し続けるという考えはあるが、神への信仰という次元の違う世
界に飛躍できない私には、俄に信じ難いことである。だからこのまま人間関係の悩みや、
生への不安、病の苦しみ、死の恐怖などに脅えながら、命の消え去るまで生きながらえる
であろうことは覚悟している。魂が未来永劫この世に存在出来ないとすれば、己がこの世
の中に確かに存在したという証を、何らかの方法で残す必要があると考えた。これは単な
る自己顕示欲による悪あがきで個人差の問題かもしれない。

シャーリー・マクレーンの著書「OUT ON A LIMB」には肉体は死んでも、それが分解され
て原子に戻りこの世に残る。決して無になることはない。悠久の年月の中でそれを植物や
動物が吸収して、再びこの世に生まれ変わると言う考えもまた理屈は通る。だから彼女は
輪廻転生を信じるとその本には書いてあるが、だからといって肉体を離れた魂がそのまま
永遠にこの世に存在するということとは違い、やはり人間は肉体の死とともに精神として
の心や魂も消滅するものと私は考える。

だからこの世を去る前にどのような方法を人間はとってきたか。先ず考えられるのは遺伝
子による方法であるが、これは子孫をつくらなければならない。しかし世代が遠くなるに
ついて、或いは他人には本人という記録は見分けられない。
ではカエサルやナポレオン一世、伊達政宗、二宮尊徳、クラーク、西郷隆盛などの銅像は
どうか。イーリアスやオデッセイ、カレワラ、古事記などの元となった口伝伝承はどうか。
これらの銅像は初めて見る人には誰だか判らないし、音声による伝達は身近な限られた時
間と人達の間しか聞くことは出来ない。だから文字としての碑文や記録がないところには、
長い年月の伝承には耐えられないだろう。

  はじめに言葉があり        in the beginning was word,
  言葉は神とともにあり       and the word was with God,
  言葉は神である          and the word was God

と新約聖書、ヨハネによる第一章第一節にあるように、人間だけしか理解出来ない言葉を
文字としての記録なしには、己の存在を長く人の魂に留めておくことはできないだろう。
まさに文字の記録は人々の情念と知恵へのエネルギー発生器なのだ。
動物は事象に対して本能に従って機械的に反応するだけであって、懐かしさや感動や親し
みなどの感情を長くかみしめることは出来ない。それに反して人はどんなに時代が隔てい
ても、どんな環境や条件の違いがあっても、その記録を読むことによって、感動を覚えた
り、懐かしく思ったり、身近に感じる感性と知性を持っている。
その現象は、肉体は死んでも魂は生き続けると思えることもあり、またそうあって欲しい
という願望もあるが、他の人間にその人を想起させるエネルギーはその人の魂そのもので
はない。ただ記録の受け手の側の感性にあるのである。

さて表題に「人は死して何を残すのか」などという我ながら恐ろしい命題を掲げたが、私
の今までの生き様は実に平凡で記録に残すような足跡は、思想的にも政治的にも文学的に
も、精巧な虫眼鏡で探してもまったく見当たらない。しかし私という生き物はこの世に一
回切り、しかも誰にも代わることの出来ない唯一の存在であることには間違いない。それ
故、あるかないか判らないあの世への存在を夢見るよりも、この世に確かになにがしとし
てこのような生き物が生きたという証が望まれるのである。
それをいま実現するために、実に自己満足的ではあるが、己の思想や感情を文字としてせ
っせと記録することしかないのである。たとえその記録が「折たく柴の記」のごとく薪ス
トーブを燃やす粗朶の焚きつけとなり消えてなくなろうとも・・・。

15号 2012年年4月


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