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Japanese Medieval History and Literature
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快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
今谷説と、その核心的な部分に対する小川氏の批判は既に紹介済みです。
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)〜(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52057127f53e26a9eb1704085e098c55
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ed4b667f07c50b08a053c15fdc1b58d
(その4)で紹介済みの、
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そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe
に続けて、小川氏は、
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後深草院や伏見院は石清水八幡宮にしばしば御幸しており、聖親は自然両院と接する機会が多かった。とすれば聖親はその治世に為兼とともに容喙するところがあって(あるいはみなされて)捕縛されたとするのが、現時点では最も適当かと思われる。少なくとも聖親がもし南都抗争の中心人物であるならば、為兼よりずっと早く赦免される筈がない。佐渡配流事件は為兼一人が標的であったと断じてよいのである。
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と書かれていますが(p41)、この部分、私は小川氏に全面的には賛成できません。
というのは、今谷著に、
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為兼に連座した僧二人
籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。
正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a
とあるように、「為兼に連座した僧二人」のうち、小川氏は聖親については解明されましたが、「白毫寺妙智房」については言及すらされていません。
今谷氏が言われるように、「白毫寺妙智房」が大和(奈良)の人であれば、為兼流罪と「南都擾乱」の関連の可能性が、ごく僅かであれ残されることになります。
今谷氏は永仁頃に「妙智房」が「白毫寺」に属していた根拠を示さないばかりか、
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やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、
一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
(『大乗院寺社雑事記』)
とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ec8b159a880202a90dc21956a0bfe3e
などと言われますが、「白毫寺妙智房」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後の記録は「やや後年の史料」とは言い難いところがあります。
ところで、私自身も(その5)では、
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小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe
などと書いてしまったのですが、再考の結果、私は「白毫寺」は京都の東山太子堂白毫寺(速成就院・大谷堂)の可能性が高いのではないかと考えます。
即ち、『三宝院伝法血脈』の「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」の一人に、
静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>
とあって(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』、p356)、「東山白豪院」ではあるものの「妙智房」という僧侶は実在します。
そして、実勝(1241-91)は、
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仁治(にんじ)2年生まれ。西園寺公経(きんつね)の子。真言宗。醍醐(だいご)寺にはいり,覚洞院の親快から灌頂(かんじょう)をうける。弘安(こうあん)10年(1287)醍醐寺座主(ざす)となる。正応(しょうおう)4年3月13日死去。51歳。通称は西南院法印,太政大臣法印。著作に「求聞持法」「灌頂私記」など。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%8B%9D-1080211
という人物ですから、その「附法弟子」の「妙智房」は永仁六年(1298)に登場してもおかしくありません。
「東山白豪院」は「東山白毫寺」の別表記ないし誤記でしょうね。
ということで、小川説に私見を加味すると、「為兼に連座した僧二人」はいずれも南都ではなく京の僧侶ということで、結論的には今谷説は「南都騒擾」との関係では全然駄目、ということになります。
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「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
『三宝院伝法血脈』(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』)には、「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」が、
聖雲親王<遍智殷> 聖尊親王<同>
頼瑜<甲斐法印重受。根来寺中性院。>
実紹<法印。根来寺蓮花院>
延證<アサリ。定聴甲衆末座。讃頭散花兼勤之。>
禅意<心一上人。鎌倉極楽寺真言院>
静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>
と列挙されていますが、「禅意」に何か見覚えがあるような気がしました。
そこで、微かな記憶を辿って福島金治氏の『金沢北条氏と称名寺』(吉川弘文館、1997)を見たところ、「第三章 金沢北条氏・称名寺と鎌倉極楽寺」の「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」に禅意と並んで「静基上人」の説明もありました。
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『金沢北条氏と称名寺』
金沢文庫を創設した金沢北条氏が、本拠地の武蔵国六浦に開いた称名寺。鎌倉中期成立以降の寺の推移、金沢文庫文書の管理形態を解明し、金沢氏による支配関係や寺院の組織と運営、本寺の極楽寺との関係などを考察する。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32704.html
「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」は、
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はじめに
一 禅意とその法脈
二 『宝寿抄』の伝授と内容
三 『宝寿抄』の法説とその教学
おわりに
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と構成されていますが、「一 禅意とその法脈」から少し引用します。(p252以下)
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禅意は、『宝寿抄』に「禅弁大徳<改名禅意>」とみえ前名は禅弁であった。禅意の経歴は、額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器に次のようにみえる。
奥州磐城郡東海道□□相州極楽律寺真言院住持比丘禅意正一房遺骨也、
嘉元三年<巳乙>八月三十日□ □於真言院入滅<十年>六十五歳、先師和尚之遺□
納遺骨於額安寺之墳墓□是□□□遺命也、
正一房禅意は、嘉元三年(一三〇五)、鎌倉極楽寺真言院で没、六十五歳。生年は仁治二年(一二四一)。忍性墓塔への合葬は「遺命」であり禅意の命によるものであった。嘉元元年の極楽寺の忍性骨蔵器には、住持の栄真とともに石塔の願主として禅意が連署している。忍性没後の極楽寺で、栄真とならぶ高僧であった。法流をみると、西園寺公経の息で醍醐寺覚洞院の実勝の伝法灌頂の記録「実勝授与記」に、弘安三年(一二八〇)に鎌倉甘縄無量寿院で実勝から伝授されており鎌倉極楽寺長老と見える(賜芦文庫文書、金文五八五九)。『密宗血脈抄』の勧修寺血脈次第には、禅恵として「心一上人、鎌倉極楽寺、第二祖」、『野沢大血脈』の勧修寺流血脈次第や『野沢血脈集』は「禅意 心一上人」とある。上記の禅恵は禅意のことをさしている。「心一上人」「禅恵」と誤記されたのは、「正」「意」の草書が「心」「恵」と類似することで生じた錯誤であろう。微妙なのは次のものである。
(1)実勝─┬──禅意 鎌倉極楽寺真言院
└──静基上人 重受 東山白毫院長老(『血脈私抄』)
(2)実證─┬──静基上人 重受 妙智房
└──心一上人 白毫院長老 極楽寺真言院坊主(『野沢大血脈』)
禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか。白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で、禅意と静基は兄弟弟子であった(金文五八五九)。また、禅意は『宝寿抄』巻十の金剛界の房中作法に「先師円光上人」と記し、静基は『密宗血脈抄』を編纂するとともに口伝集『秘鈔聞書表題<円光上人良含口説妙智房静基類聚>』を残し(『東寺観智院金剛蔵聖教目録』一九)、円光房良含を共通の師匠としており同様の立場の律僧の阿闍梨と判断できるので検討しておこう。(2)は『密宗血脈鈔』にもみえるが、「心一上人血脈、道教・親快ツレリ、此親快悉道教雖無受法、大概計受法歟、血脈為成近、如此連之、但不審相残レリ」と疑念を抱いている。静基は、房号が妙忍房【ママ】、正応二年(一二八九)に蓮乗院で良含から伝法され、正安四年(一三〇二)に極楽寺で華厳僧智照に伝法し極楽寺止住の経歴がある(金文六五四六・六四一五)。正和元年(一三一二)に正法蔵寺(鎌倉松谷寺)で剱阿に伝授した印信には「小僧、幸、蒙先師白毫院上人灌頂印可矣」と記し(金文六五四九)、静基の白毫院長老からの伝法は確かである。一方、禅意の住した極楽寺真言院は、永仁五年(一二九七)に忍性が草創したとされ(『性公大徳譜』)、室町前期まで灌頂堂として使用されていた(金文六六八四)。永仁五〜嘉元三年(一二九七〜一三〇五)の間、静基【ママ】は極楽寺におり、貞顕は乾元元年(一三〇二)に六波羅探題として上洛している。禅意は、この間、先述の禅意の骨蔵器の銘に「十年」と記されている点からみても、極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう。
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二箇所に【ママ】としましたが、「静基は、房号が妙忍房」の「妙忍房」は「妙智房」の単なる誤記だと思います。
また、(1)では静基が「東山白毫院長老」、(2)では「心一上人」禅意が「白毫院長老」となっていて、二人の経歴が混同されている可能性があるため、福島氏は「禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか」否かを考証された訳ですが、「額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器」の銘文から、禅意は十年(ほど)極楽寺真言院にいたことが明らかなので、「永仁五〜嘉元三年(一二九七〜一三〇五)の間、静基は極楽寺におり」では意味が通らず、ここは「静基」ではなく「禅意」の誤りだろうと思います。
ま、結論として、京都の「東山白毫院長老」は静基で間違いない訳ですね。
さて、『興福寺略年代記』に永仁六年(1298)の「正月七日、為兼中納言并に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ畢んぬ。また白毫寺妙智房同前」と記された「白毫寺妙智房」が静基上人だとすると、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」なので、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
ちなみに「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で」に付された注(14)には、
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(14)林幹弥氏「律僧と太子堂」(『太子信仰の研究』、一九八〇年)。櫛田良洪氏は静基を南都白毫院の僧とされる(「関東に於ける東密の展開」『真言密教成立過程の研究』第六章五四四頁)。『密宗血脈鈔』の基礎となった静基の『血脈鈔』は、徳治二年(一三〇九)に東山白毫院で完成とされており、南都作成とは考えられないので記しておく(小田慈舟氏解説、『仏書解説大辞典』)。良含が、東山白毫院の僧であることは、田中久夫氏「持戒清浄印明について(二)」(『金沢文庫研究』一二〇、一九六六年)紹介資料にもみえる。
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とあります。
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林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)
林幹弥氏の『太子信仰の研究』(吉川弘文館、1980)は入手できていませんが、林氏には「金沢貞顕と東山太子堂」(『金沢文庫研究』156号、1969)という論文があり、『太子信仰の研究』所収の「律宗と太子堂」と内容が重なるのではないかと思います。
そこで、「金沢貞顕と東山太子堂」を少し引用します。
この論文は、
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一、東山太子堂
二、太子堂と叡尊・忍性
三、金沢貞顕と太子堂
四、葬所と太子堂
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と構成されていますが、まずは第一節を見て行きます。(p1以下)
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一、東山太子堂
京都には古くから多くの太子堂が見られた。それらの太子堂のうちで、「東山ノ太子堂」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月四日の条)と呼ばれたものがある。この太子堂は現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─がその後身である。「京都で太子堂といえば広隆寺と白毫寺をいう」(白毫寺前住職金田元成氏談)とさえいわれるほどである。
この白毫寺に「応永頃ノ古図写」なるものが所蔵されている。この古図のなかに白毫寺の旧地が描かれている。西と南を祇園林にかこまれ、北と北東に白川およびその支流(現在の白川)が見える地域がそれである。この地域に、東山の斜面とこれに平行した道路の西側に、それぞれおよそ正方形の敷地をもつ寺院が描かれている。その東側の部分すなわち東山の斜面に敷地が描かれている部分には、「白毫寺、一名速成就院、又一名大谷堂、上東門院御墓所」と記されている。これと道路をへだてた西側の方形の部分には、その東南隅に東西に長い長方形の「親鸞上人影堂、本願寺」と記された一劃が含まれている。この西側の部分には、「太子水、太子杉、太子堂、白毫寺境内」と記されている。この道路をへだてて東西にわかれている二つの寺とも見えるものが、じつは一ヶ寺で、白毫寺と称し、また速成就院ともいい、大谷堂とも呼ばれ、太子堂とも俗称された寺である。これが天文年間あるいはそれをさかのぼることそう遠くないころの東山太子堂のすがたである。『蔭涼軒日録』に「太子堂曰速成就院」(寛正五年十月十日の条)・「東山速成就院」(長禄三年五月六日の条)などと記されているものがこれである。
【中略】
この太子堂の位置は『山城名勝志』五に、「太子堂 <号速成就院、元在知恩院中門ノ西北、浩玄院ノ後、今此地在古井、号太子水>」とあって、知恩院中門の西北浩玄院の後にあったもの、といふことになる。この浩玄院(のちに光玄院)は華頂女学校(いまの華頂学園)の一部にあたる(『知恩院史』五一二〜五一五頁)。現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある。古図に示された「太子水」の名残りであろう。当初の太子堂は、この華頂学園から北へ元本願寺の西側をさらに北に花園天皇御陵の西側あたりまでがその敷地であったものと思われる。
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「現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─」の公式サイトはリンク先です。
太子堂白毫寺
https://www.taishidoubyakugouji.jp/
なお、「現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある」に付された注(6)には、「この「太子水」の確認をお願いした滋賀大学坂本覚三助教授に深謝します」とありますが、「覚三」は「賞三」の誤植でしょうね。
広島大学名誉教授の坂本賞三氏は、若い頃に滋賀大学におられたのですね。
坂本賞三(1926-2021)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E8%B3%9E%E4%B8%89
それはともかく、第二節に入ります。(p2以下)
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二、太子堂と叡尊・忍性
太子堂の開山については、『山城名勝志』五に「開山忍性律師」と記している。しかし、『忍性菩薩略行記』など彼の伝記類には、太子堂あるいは白毫寺または速成就院に関する記事は見当らない。太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。
じじつ、この太子堂(速成就院)は、叡尊の死後も「一門諸寺」の一つに挙げられている。嘉暦三年の『興福寺某寺主記(毎日抄)』には叡尊が興した寺を挙げ、そのうち山城では速成就院は浄住寺を措いてその第一位に挙げられている(永島福太郎「中世律僧の活動」、『日本歴史』二四八所収)。これからすれば、『山城名勝志』の太子堂開山を忍性とする説よりも、むしろ、この『興福寺某寺主記』によって、太子堂の開山を叡尊と考えるほうが妥当であるかにみえる。しかし、この記のなかには、極楽寺の如くに明らかに忍性を開山とする寺や、直接叡尊と関係をもたないと思われる寺(称名寺など)まで含まれている。それ故に、名勝志よりその成立が古いからといって、この記によって、太子堂の開山を叡尊と決定することはできまい。
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いったん、ここで切ります。
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林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その2)
続きです。(p3)
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太子堂の歴代のすべてを知ることはできない。しかし、元亨四年ごろの長老静観房信昭は、「太子堂阿仁上人弟子」(『尊卑分脈』藤原氏、二条流)で、二条教良の息であり、かつ西大寺門徒である(『花園院宸記』元亨四年十一月十九日の条)。彼は貞和三年ごろは西大寺長老であったらしく、そのころ彼に具足戒・大乗戒を受けた湛睿の弟子高湛は、康応年間には速成就院に住し、のち極楽寺に住し、さらに西大寺長老となった(『不二和尚遺稿』)。降って、明応五年十月十三日に三条西実隆を訪ずれた「太子堂(恐らくは長老)」は、「故入道左府息」で「西大寺門徒」である(『実隆公記』同日の条)。また、長禄元年十一月に西大寺長老と決定したのは太子堂の明円房である(『大乗院寺社雑事記』同年十二月四日の条)。このように、太子堂と叡尊さらには西大寺とは非常に深い関係にあった。じじつ西大寺と太子堂とは本寺と末寺という関係にあった(「明徳二年九月西大寺末寺帳」、『鎌倉市史史料編』三所収)。
このような関係は、叡尊の寂後に西大寺一流すなわち真言律の指導者となった忍性にもみられる。『極楽寺文書』の永仁六年四月の「関東祈禱寺注文案」(『鎌倉市史史料編』三所収)には、西大寺以下三十四ヶ寺の関東祈禱寺が記されている。このなかに速成就院(太子堂)も含まれている。この関東祈禱寺は、忍性が「戒律之陵廃、仏法之衰微、夙夜歎存候之間、抂申行」った(永仁六年五月十一日忍性書状案」、同上所収)ものであり、ここに忍性と太子堂との関係を認めることができよう。すなわち、速成就院(太子堂)は忍性が「抂申行」った結果、鎌倉幕府によって承認された関東祈禱寺の一つであった。
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以上、長々と引用してきましたが、私の当面の関心は、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏『金沢北条氏と称名寺』、p253)であるか否かの確認と、仮にそうであれば、白毫院(寺)と金沢北条氏の関係がもう少し前、顕時の時代に遡れないか、についての確認です。
前者については、第三節において、四つの文書の分析を通じて、以下のように論じられています。(p4以下)
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三、金沢貞顕と太子堂
この太子堂の創立以後数十年を経たと思われるもので、かつ太子堂に関する文書が、金沢文庫の所蔵文書のなかに数点見えている。これを挙げると次の如くである。
(1)「金沢貞時書状」
下給候便は、兵部大輔自鎮西下向便宜候也
自太子堂寂忍御房、櫃二合自代官信重許下給候之間進之候、四五
日之程に便宜候、可有御返事候者、給候之可進之候、恐惶謹言、
四月十日 貞顕
方丈進之候
(2)「金沢貞顕書状」
去月四日・同十五日両通御返報、今月四五両日到来、委承候了、
御下向之後、無御音信候之間、不審思給候之処、無為殊悦入候、
京都当時無別子細候也、南都事先度如申候、急度御使下向候しか
は、御沙汰不可有程候歟、早々可帰参候、抑法花経・茶等事、自
太子堂送給候はゝ、可取進候也、兼又、新日吉小五月会、去月廿
九日被行候き、於南方御桟敷見物仕候了、あはれ見せまいらせ候
はやとのみ(以下欠ク)
(3)「長井貞秀書状」
以御引、法花曼陀羅誂候之処、凡以不法無極候、如何なとか
かゝ物をは引被給候けると、返々遺恨覚□〔候〕
自太子堂御返事不候之由、令申候之処、只今給候之間、取進之
候、仍仏具箱二合・両界一合・茶一合給置候、内両界箱一合・茶
一合は令進之候、仏具二合者人夫不足候之間止置候、以後日可進
之候、恐々謹言
六月七日 貞秀(花押)
明忍御房
(4)「了証書状」
しんせう房のくたりの御文、たしかに見まいらせて候、なにより
も御ひさうのものにて候けるに、わん給はりて候御事、御かたし
けなくよろこひおほえさせをはしまして候、このひんにうけ給は
りて候し、たいしたうよりくたさせ給て候なる仏くとりにまいら
せて候、はうしやうゑにのほり候人に申あつらへて候、よく/\
御したゝめわたらせをはしましし候て給はり候へく候、これはそう
しにわたらせ給候せうみちの御房と申候そうのかたへまいらせ
候、いかさまにも二くにて候けに候か、へちにしたゝめられて候
やらん、一はこに入り候やらん、もし一つにはしいれて候はゝ、
せいみちの御房と申候はなか事にて候、たとひ二候とも、二なか
らくたり候はんすらんとおほえ候、いつれもをなし人に申つけて
候時にとおほえ候、このよしを申させ給へく候、
九月四日
(切封ウハ書)
「 封
かねさわの 御方
御寺へ 明忍御房申させ給へ
三村尼寺より
了証」
-------
この後、長大な解説がありますが、省略します。
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林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その3)
四つの文書について全く説明しないのも不親切なので、林論文から少しだけ引用しておきます。
まず(1)の「金沢貞顕書状」には年次を探る手がかりがありませんが、「太子堂から贈られた二合の櫃を剱阿の返事を得て送る(恐らく金沢の称名寺へ)という意味のことを、貞顕が剱阿に申し送った書状であろうかと思われる」(p5)そうです。
次に(2)の「金沢貞顕書状」は「恐らく、称名寺剱阿にあてたもの」で、「新日吉社の小五月会はおおよそ五月九日を定日とするようであるが、貞顕の六波羅在任中にこれが五月二十九日に行われたのは嘉元二年のこと」なので、嘉元二年(1304)の文書であり、「貞顕はこの書状で、京都および南都に関する情勢の報告やそれに関する指示を与え、ついで、称名寺の請求によって、貞顕が太子堂に送付を求めたと思われる法花経や茶などについては、太子堂から貞顕のもとに送付があり次第そちらへ転送する」というものです。
そして(3)の「長井貞秀書状」と(4)の「了証書状」は内容的に関連しており、放生会に関する記述から、ともに延慶元年(1308)のものと推定され、「太子堂から称名寺へ贈られた仏具を、称名寺の寺僧ではなく常陸の僧侶が貞秀の許にとりに行く」(p6)という関係になっています。
長井貞秀は貞顕とほぼ同年齢で貞顕と極めて親しく、貞顕の六波羅探題在任中は鎌倉で剱阿の相談役のような存在であり、時にはこうした「仲介の労」を取ったりしていた訳ですね。
さて、急に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)の細かい話になってしまったので、現時点での私の問題意識を整理しておきます。
『続史愚抄』には、永仁六年(1298)正月の為兼逮捕について、
-------
○七日乙未。節会。内弁右大臣。<師教。>此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅。<○武家年代記、公卿補任、興福寺略年代記>
-------
とあって、編者である柳原紀光(1746-1800)は『武家年代記』『公卿補任』『興福寺略年代記』を参照しています。
この三つの史料の内、「石清水執行聖信等」の名前が出ているのは『興福寺略年代記』だけであり、そして『興福寺略年代記』には、
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正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a
とあって、「八幡宮執行聖親法印」を石清水八幡宮寺の執行である「聖信」としたのは柳原紀光説です。
そして、今谷氏は「『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる」と痛烈に批判し、「結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である」との斬新な新説を提示され、そのついでに「白毫寺」も奈良の寺だと主張されました。
しかし、小川剛生氏が石清水八幡宮寺に執行の聖親法印が実在することを証明され、今谷新説は根幹部分があっさり撃破されてしまいました。
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe
ただ、小川氏は「白毫寺妙智房」には言及すらされなかったのですが、私はこちらも京都の白毫寺ではなかろうかと考えてみました。
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
そして福島金治氏の「鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」という論文を見たところ、『興福寺略年代記』の「白毫寺妙智房」は「東山白毫院長老」の「静基上人」で間違いなさそうです。
「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e
ところで、福島氏が言われるように「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」だとすれば、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
というのは、金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後です。
とすると、仮に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)が貞顕の父である「金沢顕時を檀那とする律院」だとすれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が出てきます。
そこで、顕時の時代の白毫寺と金沢北条氏の関係が分かるのではないかと期待して、福島氏の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」という認識の根拠となっている林幹弥氏の「金沢貞顕と東山太子堂」を読んでみたのですが、はっきりした結論は出せないですね。
金沢北条氏とゆかりの深い寺というと、関東では称名寺、京都では常在光院ですが、この両寺の場合は建造物の新改築などを含め、ほぼ全面的に金沢北条氏の財政的負担で運営されており、金沢北条氏はまさに「檀那」と呼ぶにふさわしい存在です。
他方、林氏が挙げた四つの文書を見る限り、白毫寺は貞顕や称名寺などに依頼された物品を手配し、送付しているだけで、いわば称名寺の京都出張所程度の存在のようにも見えます。
果たして永仁六年(1298)当時、白毫寺と金沢北条氏の関係はどのようなものだったのか。
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『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)
前回投稿で白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)は「称名寺の京都出張所程度の存在」など書きましたが、福島金治氏によれば「京都東山太子堂・伊勢大日寺は称名寺の西大寺への伝達及び用途支出の窓口」(『金沢北条氏と称名寺』、p156)とのことなので、まんざら冗談でもなかったですね。
そして、こうした特別な役割を担っていた以上、金沢北条氏が白毫寺に対して相当な資金援助をしていたと考えるのが自然で、福島氏の「貞顕が檀越であった京都東山太子堂」(同、p109)という評価も適切なのだろうと思います。
ただ、そうはいっても、白毫寺の「長老」が京極為兼の一味として六波羅に逮捕・拘禁されたような場合、金沢顕時も責任を負わなければならないような関係にあったかというと、そこははっきりしないですね。
ま、私の疑問もちょっと考えすぎだったかもしれませんが、為兼流罪の翌四月一日に顕時が幕府要職を辞したことは気になります。
さて、林幹弥氏は「金沢貞顕と東山太子堂」において、
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太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9
と書かれていますが、当該記事を確認するために細川涼一氏訳注の『感身学正記2』(平凡社東洋文庫、2020)を見たところ、細川氏は些か奇妙な解説をされていました。
まず関連する部分の細川氏による読み下しを引用すると、弘安二年(1279)叡尊七十九歳のときの記事に、
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【九月】十八日、右馬権頭為衡入道観證来臨す。談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り申して曰く、「異国の用害を消さんがため、本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る。去んぬる文永十年(癸酉)の春、大般若二部を持ち、内外両宮に参詣し、おのおの一部奉納せしむるの間、十二年の春、また一部を菩提山に持参し、供養転読し、二宮の法楽に資す。その時、もし一切経を感得せば、奉納のため今一度参詣すべきの由、心中に発願し畢んぬ。然りといえども輙〔たやす〕く感得すべきにあらざるの間、空しく年□〔月〕を送るの処、近年殊に黙止し難きの子細重畳の間、素懐を果たさんと欲すといえども、渡宋本を欲するは蒙古の難によって摺写〔しっしゃ〕すること叶はず。書写致さんと欲するは、部帙〔ぶちつ〕巨多〔あまた〕にして筆功及び難し。もしくは秘計候や」と。方便を試むべしと答えて退出し了んぬ。廿一日、かの状到来するに偁〔い〕わく、「西園寺殿〔実兼〕に古書写の本一蔵有り。使者をもって拝見すべし」と云々。よって廿六日、浄住寺に著す。卅日、浄阿弥陀仏〔亀谷禅尼〕、所持の仏舎利を奉持して来たる。すなわち、開き拝見し奉る。その後、奉納し感得し奉り畢んぬ(十月十五日の相伝状、十六日に到来し了んぬ)。十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。同日、衆僧和合して去んぬる月晦日に感得せし仏舎利を供養し奉る。七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず。
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とあります。(p89以下)
そして、この「右馬権頭為衡入道観證」について、細川氏は、
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為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない。叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致するが、実時の後見観證は別の機会に述べたように、菅原(高辻)宗長に比定できるので(細川涼一訳注『関東往還記』、九〇頁)、それとは別人である。同一人物に比定する見解があるので(長谷川誠編著『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』、二六〇頁。氏がさらに叡尊弟子の比丘尼、真教房観證と同一人物に比定するのも、もとより誤りである)、失礼なことながら一言しておく。叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている。『西大寺田園目録』(『西大寺叡尊伝記集成』、所収)には、
十市郡東郷廿二三条一二三里内庄一所<号橘本庄、坪付在別>
弘安元年<戊寅>十二月廿日右馬権頭入道「為衡」〔裏書〕親證寄入之、
とあって、前年の弘安元年十二月二十日に十市郡橘本荘内の土地一所を西大寺に寄入している(西大寺側に煩いが生じたので、施主の為衡に弘安五年<一二八二>に売り戻したが、弘安九年<一二八六>五月に再び直銭百八十貫文で西大寺僧の朝粥料として買い取っている)。『西大寺田園目録』では法名を親證としている。
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と書かれていますが(p96以下)、全然駄目ですね。
西園寺家が関係する記事の中で「衡」を含む名前の人が登場しているのだから、これは西園寺家の家司として著名な三善一族の人に決まっています。
龍粛氏は「西園寺家の興隆とその財力」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957)において、「西園寺家財力の建設者」である「三善長衡の業績」と「長衡の経理の鬼才」を説明した後、「西園寺・三善両家の結合」の一内容として、
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公経の五世の孫公衡は、弘安から正和にわたっての経歴を、その日記管見記に残しているが、その自筆の原本は西園寺家に伝襲され、昭和十三年に立命館で影印に付せられた。これによれば、弘安六年に幕府から派遣された使者美濃守長景等の入洛したことを、公衡が関東申次である父の実兼に報告するために為衡法師を使としたことが管見記の七月一日の条に見え、また実兼は為衡法師の家に赴いたこと(弘安十一年正月十七日)があり、康衡の任官の執り成しをしたことがあった(弘安十一年二月二十二日)。
http://web.archive.org/web/20100911054013/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-saionjikeno-koryu.htm
という具合いに「為衡」の名前を挙げています。
「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」人物が「為衡」なのに、細川氏が三善氏を連想しないというのは私には驚きであり、「失礼なことながら一言しておく」ことにします。
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『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その2)
前回引用した『感身学正記』の弘安二年(1279)の記事、伊勢神宮に一切経を奉納する件に関して「右馬権頭為衡入道観證」が「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」話の中に別の話題も入っていたので、少し分かりにくいところがあったと思います。
同年の記事は九月から始まっていて、最初に亀谷禅尼が西大寺に一切経を納入する話が出てきます。(p88以下)
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九月二日、一切経開題供養す。鎌倉亀谷禅尼法名浄阿弥陀仏、もと将軍家〔九条頼経〕の女房、摂津前司師員〔中原〕入道法名行厳の後家、予、関東下向〔弘長二年〕の時の新清凉寺宿所の亭主、越後守実時〔金沢〕朝臣の沙汰として借用し、去らしむ。それより以来、三宝に帰向し、所領〔下野国横岡郷〕の殺生を禁断し、菩薩の禁戒を受持す。時々の音信今に絶えざるの仁なり。にわかに六十人の人夫をもって一切経を当寺〔西大寺〕に渡し奉りて、開題し奉るべきの旨、慇懃の所望有り。黙止しがたき故、百僧を勧請して首題を礼さしむるなり。法会の事終わりて後、かの禅尼来たりて曰く、「摂津前司入道〔中原師員〕仏舎利を所持す。人に付嘱せず頸に懸けながら命終わりぬ。後家たるが故、年来奉持す。当寺に安置し奉らんと欲す。後日奉持してよく参詣すべし」と云々。すなわち領状し畢んぬ。
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幕府の評定衆であった中原師員(1185-1251)の後家・亀谷禅尼は、弘長二年(1262)、叡尊(1201-90)が金沢実時(1224-76)に招かれて鎌倉を訪問した際、新清凉寺を宿所として提供して以降、熱烈な律宗の信者となり、巨額の財政的援助もするようになったパトロン的女性です。
その亀谷禅尼が西大寺に一切経を奉納した後、夫の中原師員の遺品である仏舎利を西大寺に奉納したい、後で持参する、と言うので叡尊はこれを了承します。
中原師員(1185-1251)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1
この後、前回投稿で引用した部分となり、九月十八日に「右馬権頭為衡入道観證」が来たので、叡尊は「談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り」ます。
即ち、蒙古襲来という国難に際し、「本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る」ため、文永十年(1273)の春、大般若経二部を持って伊勢内宮・外宮に参宮し、文永十二年(1275)の春、また大般若経一部を内宮近くの菩提山神宮寺に持参し、供養転読して内宮・外宮の法楽の資とした。
その時、もし一切経を得たならば、奉納のため今一度参詣したいと「心中に発願」したが、容易く得ることもできず空しく年月を送っていたところ、近年、蒙古襲来の危機が重なるにあたって「素懐を果たさんと欲するといえども」、宋から輸入する摺本は「蒙古の難」によって入手が困難で、書写しようとしても一切経は数が多いのでなかなか困難である。
ということで、叡尊が、何か良いお知恵はないだろうか、と相談したところ、「右馬権頭為衡入道観證」は、何か手立てを工夫しましょう、と答えます。
そして二十一日、「右馬権頭為衡入道観證」から書状が来て、「西園寺殿」に一切経の古写本が「一蔵」あるので、使者を派遣して、奉納に適するものか確認して頂けませんか、と言ってきます。
そこで叡尊は自らその古写本を確認することとし、二十六日に西大寺から京都の律宗の拠点・浄住寺(旧・葉室定嗣邸)に行きます。
すると三十日、亀谷禅尼が浄住寺に来て、中原師員の遺品である仏舎利を奉納します。
さて、十月三日、叡尊は「西園寺において一切経を拝見し」、「これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ」となります。
そして、「白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け」た後、「六日、一切経これを迎え奉」りますが、古写本なので「七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず」となります。
この後、亀山院と鷹司兼平も、それぞれ一切経を浄住寺に送ってくることとなり、浄住寺には都合「三蔵」の一切経が集まることになります。
即ち、
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十一月十七日、院宣によって靡殿〔なびきどの〕に参る。十八日朝より上皇〔亀山〕御前において梵網経古迹〔こしゃく〕下巻本を開講し奉る。廿四日、講じ奉り畢んぬ。深更に及び、円満院〔円助法親王〕御弟子宮、密々に入御す。すなわち宿所(本靡殿御所)において十重戒を授け奉り畢んぬ。廿五日、古迹御談義の御持仏堂において、太上天皇〔亀山上皇〕、中御門大納言経任以下公卿殿上人五十九人に(重受二人)菩薩戒を授け奉る。夜陰に臨み、仙洞〔亀山上皇〕に三衣〔さんね〕を授け奉る(自身の長衣これを進む)。廿六日、早旦、召しによって桟敷殿に参る。大神宮奉納宋本一切経の事、興隆仏法等、種々勅問す。所存の旨を奏し、罷り出で畢んぬ。中食以後、浄住寺に還る。次に殿下〔鷹司兼平〕の御請によって猪熊殿に参る。御堂において見参に入り、五戒を授け奉る(別受)。卅日、仙洞〔亀山上皇〕宋本一切経を浄住寺んじ送り奉らる。殿下〔鷹司兼平〕日本本一切経を同じく同寺に送り奉らる。十二月二日、仁和寺御室(性助法印)御出。浄住寺真言堂において、十一人(重受五人)に菩薩戒を授け奉る。四日、西大寺に還著す。十日、衆僧和合して、浄住寺において感得せし所の三千余粒の仏舎利を供養す。廿ニ日、豊浦寺(建興寺と名づく)住比丘尼證全、先祖相伝の仏舎利を当時〔西大寺〕に安置し奉る。
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という展開となります。(p90以下)
そして翌弘安三年(1280)三月、叡尊は伊勢に向かいます。
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苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)
叡尊は建仁元年(1201)生まれなので、その事蹟を年表にすると、西暦の下二桁がそのまま年齢になって便利な人ですね。
叡尊(1201-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A
『感身学正記』の弘安二年(1279)、叡尊七十九歳のときの記事を見ると、奈良西大寺にいた叡尊のもとに九月十八日に「来臨」した「右馬権頭為衡入道観證」に対し、叡尊が一切経を入手する「秘計」はありませんか、と相談したところ、為衡入道が「方便を試むべしと答えて退出」した僅か三日後、二十一日に為衡入道から、西園寺家に「古書写の本一蔵」がありますよ、と書状が来ます。
為衡入道の京都への移動と京都から派遣した使者の移動の時間を考えると、殆ど即答ですね。
為衡入道は西園寺家の一切経を叡尊に寄進できる実際上の権限を持っていて、ただ、西園寺家当主の実兼の確認を得るために京都に戻り、直ちに了解を得て叡尊に連絡している訳で、この経緯を見るだけでも為衡が西園寺家の実力者であることは明らかです。
関東申次である西園寺家が大変な政治的権力を握っていた、という龍粛以来の「西園寺家中心史観」は誤りですが、西園寺家が経済的に極めて豊かであったことは確かで、「朝廷に不動の地位を築いた同家を支える驚くべき財力がいかにして形成されたか」については網野善彦氏の詳しい研究もあります。
網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm
「右馬権頭為衡入道観證」は、いわば西園寺財閥の大番頭のような存在で、だからこそ叡尊も「よいお知恵はありませんか」と相談を持ち掛けた訳ですね。
細川涼一氏は「為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない」などとのんびりした調査をしていますが、西園寺家に関する論文を調べればよいだけの話で、そうすれば為衡が西園寺家家司の三善一族の人であることは即座に分かります。
細川氏だけでなく、『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』の編者である長谷川誠氏も「叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致する」ことから「同一人物に比定」されているそうですが、律宗の研究者は揃いも揃って何をやっておるのか、という感じがしないでもありません。
ちなみに長谷川誠氏は筑波大学名誉教授だそうですね。
長谷川誠
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901000149313263
さて、福島金治氏の論文に出て来た「東山白豪院長老妙智房」についての手がかりがないかと思って、苅米一志氏の「東山太子堂の開山は忍性か」(『鎌倉』67号、1991)を読んでみたところ、非常に緻密な論文ですが、「東山白豪院長老妙智房」への言及はありませんでした。
ただ、興味深い指摘が多々あったので、少し紹介してみます。
この論文の構成は、
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序
一、叡尊と太子堂速成就院
二、速成就院と極楽寺・称名寺
三、阿忍房頼禅の宗教活動
小結
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となっていますが、まずは「序」で苅米氏の問題意識を確認しておきます。(p11以下)
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『山城名勝志』巻五には「太子堂<号速成就院、元在知恩院中門西北浩玄院後、今此地有古井号太子水、此堂慶長年中被遷六条北万里小路東、開山忍性律師>」とあり、速成就院が当時太子堂と呼ばれ、また慶長以前には知恩院や浩玄院の存在する東山に座していたことが分かる。この寺は聖徳太子二歳像を安置して今に伝えるが、例えば、「西大寺文書」明徳二年(一三九一)西大寺末寺帳に、「速成就院」とあるように中世においては、この寺院は律院であり、かつ西大寺の末寺であった。その開山について『山城名勝志』は、忍性である、と言い切っているが、周知の通り忍性の伝記「性公大徳譜」あるいは『律苑僧宝伝』『本朝高僧伝』などにはそれに相当する事績は見当らない。既に林幹弥は「律僧らと太子堂」において、金沢氏との関連の中で太子堂を考察し、その開山を『山城名勝志』の言う通り、忍性であると推断したが、その考察には疑問ありとしなければならない。本稿は、直接的には、この寺院の開山ないし中興開山を考察するものであるが、また一方、叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧の事績の発掘をも心がけるものである。このような方法論の提言は、既に細川涼一によってなされているものの、いまだ十分にそれが吸収・受容されているとは言いがたい状況にある。我々の前には「西大寺文書」「極楽寺文書」のみならず叡尊による授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)や光明真言結縁過去帳(『西大寺関係史料』一)、そして「金沢文庫文書」という史料の宝庫が遺されており、そのことによって、中世では例外的と言ってもよいほど、一律僧の事績に即した十分な研究が可能となっている。筆者の課題は、それらの史料を活用しつつ、律宗とくに西大寺律宗が当該社会にいかなる影響を与えていったのかをトータルにとらえていくことである。
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現在は就実大学教授の苅米一志氏が、三十一年前、筑波大学大学院在籍中に書かれた若々しい論文ですが、私が関心を持っている「東山白豪院長老妙智房」も、「叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧」の一人といえそうです。
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苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その2)
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8
この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)
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一、叡尊と太子堂速成就院
「応永頃ノ古図写」(『京都の歴史』三、一四九頁)において太子堂が「白毫院」と呼ばれたことから、林幹弥は「金剛仏子叡尊感身学生記」弘安二年(一二七九)の項に見える「白毫寺」を太子堂速成就院の初見としているが、大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる。また、林は「速成就院」なる語の史料上の初見を同記・弘安七年(一二八四)正月としているが、筆者としては、次の史料をもって、その初見としたい。
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いったん、ここで切ります。
「大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる」とありますが、同年九月十八日に奈良西大寺で「右馬権頭為衡入道観證」に一切経の入手について相談した叡尊は、二十一日に「西園寺に古い写本があるので、確認に来てください」との返事をもらって二十六日に京都・浄住寺に移動し、
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十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
とのことなので、この白毫寺が京都の方の白毫寺(東山太子堂、速成就院)であることは明らかですね。
なお、「応永頃ノ古図写」はリンク先で見ることができますが、文字が小さくて読めないですね。
福原成雄氏「京都市指定名勝 知恩院方丈庭園の成立について」
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/617
さて、続きです。(p12以下)
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すなわち、金沢文庫の「結界唱相」(『金沢文庫資料全書』第五巻)には、「山城国愛宕郡速成就院結界唱相」が記載されており、その初度の年月日が文永三年(一二六六)十一月三十日となっているのである。その結界参加者は、次の通りである。
成円戒律房 善厳尊戒房
證円戒学房 禅恵本性房
賢栄円寂房 実禅尊願房
行忍禅行房 定円忍蓮房
頼禅阿忍房<比丘布薩役者>
正恵信戒房<比丘布薩并結界師>
円定房<答法> 了敏尊覚房<比丘布薩役者>
順乗理賢房<比丘布薩維那唱相>
禅信春円房<比丘布薩役者梵網維那>
信海円證房<比丘布薩役者> 已上比丘
行空円観房 隆慶寂印房<梵網役者>
已上法同沙弥
覚秀空證房<五徳梵網役者> 顕禅房<梵網役者>
已上形同
文永三年<丙寅>十一月卅日巳時初結同
十二月一日巳時解結畢
当院住持善厳
このうち、叡尊の授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)に名の見えるのは、成円戒律房・実禅尊願房・順乗理賢房であり、彼らは全て「大和国人」と言われている。つまり、彼らは叡尊の弟子であった。またこの他、善厳尊戒房は、宝治二年(一二四八)将来律三大部配分状(同前)によると、宋より将来した律部経典のうち「羯磨経疏記称一部廿一巻」を配分されており、光明真言結縁過去帳(前掲)にも「尊戒房 大谷寺」とある。大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう。彼も叡尊の弟子であって、史料に「当院住持善厳」とあることから、のちにこの寺院に住するようになった人間であると思われる。
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「大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう」に付された注(6)を見ると、
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(6)前掲結界唱相には、速成就院に続いて山城国愛宕郡白毫院、山城国愛宕郡乗台院の結界が記されている。
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とあり、東山太子堂にやたらと別名が多い理由の説明となっていますね。
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「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
三日投稿を休んでしまいましたが、この間、律宗関係で「妙智房」が出て来ないかを探っていました。
暫定的な成果として、和島芳男氏の「西大寺と東山太子堂および祇園社の関係」(『日本歴史』278号、1971)に、それらしき人物がチラッと登場していたのですが、律宗関係だけでも手一杯なのに祇園社まで広げると収拾がつかなくなりそうなので、後日の課題としたいと思います。
私の目論見は、永仁六年(1298)正月、京極為兼と「八幡宮執行聖親法印」「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)の三人が同時に六波羅に逮捕された理由については、律宗関係を調べて行くと何か手がかりが得られるのではないか、というものでした。
こう考えた理由として、
(1)今谷明氏は「白毫寺妙智房」を南都の僧とされたが、この人物は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)であり、律宗の中でも相当な有力者の可能性が高いこと。
(2)石清水八幡宮寺は正元元年(1259)八月、石清水検校の招請により叡尊が一切経を転読して以降、特に元寇を契機として律宗との関係が強まり、大乗院という律宗の拠点も存在していたこと。
(3)京極為兼の母は西園寺家の家司・三善一族の三善雅衡の娘であり、叡尊が伊勢内宮・外宮に一切経を奉納するに際して尽力した「右馬権頭為衡入道観證」と親族関係にあって、為兼自身も律宗との相当な人脈を持っていた可能性が考えられること。
(4)京都の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏)だったこと。
(5)金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは同年正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後であり、仮に白毫寺と金沢北条氏の関係が顕時の代に遡るのであれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が考えられること。
といった事情があったのですが、白毫寺(白毫院)と金沢顕時との関係を裏付ける史料はなさそうなので、(5)は考えすぎだったかなと思っています。
それと、従来は東山太子堂・速成就院・白毫寺(白毫院)は同一寺院の異なる名前と考えられていたのですが、どうも速成就院と白毫寺は別の寺院の可能性が高そうです。
この点、法政大学准教授・大塚紀弘氏は山形大学名誉教授・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法蔵館、2019)の書評(『史学雑誌』129巻6号、2020)において、
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第三章「近江国における展開」では、近江国の末寺を取り上げ、石津寺と矢橋津、阿弥陀寺と木津の関わりなどを指摘する。その中で著者は先稿と同様、京都の白毫寺を「東山太子堂のこと」とするが、『結界法則』では速成就院と白毫院が別個に扱われている。太子堂は速成就院を指し、ともに東山にあった叡尊教団の律院ではあるが、白毫寺(白毫院)とは別寺ではなかろうか。
http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/3100_1.pdf
とされており(p79)、私も大塚氏の見解が正しいように思います。
この見解が正しければ、仮に金沢顕時と速成就院(東山太子堂)との関係を史料的に裏付けることができたとしても、それと白毫寺(白毫院)は別の話、ということになります。
ということで、第一次為兼流罪の背景として律宗に関わる何らかの問題が存在した可能性は残ると思いますが、「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休むこととします。
なお、祇園社の関係で「白毫寺妙智房」らしき人物がチラリと出てくるのは、和島芳男氏の上記論文で紹介されている『祇園社記録』の「持明院殿(伏見天皇)御代の条」です。(p2)
越前国敦賀津着岸升米、為当社修造料所、限六箇年被寄附之、
但津料内野坂・経政所以両所、被寄附当社之為本地垂迹御祈、
本地方妙智上人於当社可勤行之云々、垂迹顕尊法印可勤行之云々、
共以限永代被寄之、
ま、これだけだと何が何だか分からないと思いますが、理解してもらうためには和島論文を大量に引用した上での長大な説明が必要なので、今は止めておきます。
「妙智上人」が演じているのは、幕府の庇護を受けた律宗が祇園社≒叡山の利権に食い込むための先兵のような役割かもしれません。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その15)
5月29日に、
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
を投稿して以降、「白毫寺妙智房」を検討してきましたが、小川論文に戻ります。
「五 佐渡配流事件の再検討」は(その14)で紹介した箇所の後に若干の記述がありますが、省略して第六節に入ります。(p41以下)
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六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
「事書案」には、「政道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東使沙汰之次第超過先規、已及流刑」とあり、伏見院自らが、朝廷の失政が取沙汰される時は前々から幕府の「御意見」があるもの、と認めている。つまり幕府による廷臣の処罰は、流罪は過酷であるにしても、起こり得る事態であったのである。幕府がこのような権利を有するに至ったのは承久の乱以後のことであるが、皇位継承の度に幕府が治天の君を推戴する実績が重ねられる中で生じてきた思考であろう。
【中略】
それにしても幕府は持明院統の治世に対して、厳しい注文を付けることが多かったように思う。後嵯峨院に仕えた評定衆・伝奏は亀山院政・後宇多院政でも重用され、大覚寺統はその多士済々の遺産をそっくり受け継いだのに対して、雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった。また持明院統の治世においては公卿の官位昇進が総じて速やかで、また公卿そのものの員数も急増することが指摘されている。これは政権基盤の脆弱な持明院統の露骨な人気取り政策であり、任官政策の放漫さと受け取られた。
幕府は後深草院を推戴した当初から、その統治能力に疑問を抱いていたらしい。院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあった。『公衡公記』によれば、その事書は基本的に聖断を尊重するとしながらも、
一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟、
一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟、
という項目があり、後深草院政は強く牽制されている。後条の僧侶や女房が政治に容喙してはならぬというのが、公武政権の常に掲げる題目であった。治天の君に奏事できるのは人物・識見を厳選された、主に名家出身の伝奏であり、後嵯峨院以後はとりわけその傾向を強め、制度的に僧侶・女房の口入を排除しようとしたのである。
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いったん、ここで切ります。
この時期の朝廷の実態について一番詳しいのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですが、小川氏の説明は本郷氏の見解とはかなり異なりますね。
小川氏は「雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった」と言われますが、後深草院政期には、例えば「後嵯峨・亀山上皇の第一の近臣ともいうべき人物」(本郷著、p159)である中御門経任(1233-97)が伝奏として存在しています。
経任と不仲だった弟の吉田経長(1239-1309)は経任の出処進退を厳しく非難していますが、その経長自身も「後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動して」(同、p264)います。
本郷氏によれば、後深草院政期(弘安十年〔1287〕十月二十一日〜正応三年〔1290〕二月十一日)は次のような状況です。(p159以下)
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ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。
近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親
翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。
西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経
これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごとくに伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。
まもなく起こる両統の迭立という事象を知る我々は、ともするとそれを前提として考察を進めてしまう。しかしこの時にそうしたことを想起するのは誤りである。伏見天皇が即位した時点では皇統はあげて後深草上皇の系統に移ったのであり、廷臣にしてみれば、忠臣は二君に仕えずというなら、出家して前途の望みを絶つしかない。さもなければ、後深草上皇に忠勤を励むだけである。吉田家の三兄弟、経任・経長・経頼が揃って後深草上皇に接近していったことでもよくわかるように、たとえば一家の内で兄弟が互いに反目し合っている、所領争いの危機を内包しているといっても、一方が持明院統に、他方が大覚寺統に、という選択の余地はなかった。それが後深草院政期である。
後深草上皇の側からこうした事態をみると、どのようなことがいえるか。それはやはり、上皇の周囲の人材の欠如であろう。以前から上皇に仕えていた近臣には、せいぜい平時継・忠世父子くらいしか、訴訟制の担い手となるべき人がいなかった。だから亀山上皇の近臣を用いざるをえない。
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次いで伏見親政期(永仁六年〔1298〕七月二十二日まで)に入ると、正応六年(1293)には有名な訴訟制度改革が行なわれます。
そして、本郷氏によれば、
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この改革の意義であるが、一つはいうまでもなく、庭中訴訟を重視し、雑訴と別に扱うようになったことがあげられる。雑訴の方では、評定衆・文殿衆の二つの階層の人を同じ番数に結い、同一日に出仕させ、対応させている点が注目される。いまだ両者は、身分の違いを越えて同一の場で審議を行うに至っていないが、これはその先行形態である。
組織された上・中流官人をみると、およそ亀山院政期から評定衆・伝奏・奉行として訴訟に携わっていた人が多く、伏見天皇が抜擢した人物が見あたらない。亀山上皇の伝奏は、死没した日野資宣・冷泉経頼のほかは皆選ばれていて、後深草院政に続いて重用されている。天皇はこの前年に平仲兼を参議に任じたが、周囲の強い批判にあい、任官の正当性を日記に縷々書き留めている。名家の人々を高く評価するその文言はよく知られるところだが、一人の廷臣を公卿の列に加えることが批判の対象になるのであるから、更にすすんで独自の近臣層を形成し、要職に就かせることは、一朝一夕には成し得ない非常に困難な行為だったと推測される。
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とのことです。(p165以下)
このように後深草院政・伏見親政期のいずれも、単純に人材が不足していたというようなことはなく、また、朝廷の制度史を専門としている研究者からは、伏見親政の評判はそれほど悪くない、というか結構良いのですね。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その16)
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府も一枚岩でなく、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、
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亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
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とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)
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その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
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「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。
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