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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

706来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:00 ID:wvXD0MO.0
 
だから、私は赦さない。


私の命の在りようを。
来栖川綾香の闘争を。
よくできましたと、笑むのなら。
これでいいのと、強いるなら。
私はそれを、赦さない。

生きて、果て往くそのときを、姉が、世界が、穢すなら。
私はそこで、終わらない。

来栖川綾香は屈しない。
そう決めた。そう定めた。
ならば、敗北を以てこの生は、終わらない。
死を超えて、私の生は勝利する。

来栖川芹香に。
私を濁らせるすべてに。
それが望むすべてに。
続き続けることが、勝利だと。
姉が、世界が、望むなら。
私はそれを、蹂躙する。
私の生を、輝かせる。

たとえば、拳を振るうこと。
たとえば、力を振るうこと。
たとえば、私が来栖川であること。
たとえば、私が来栖川綾香であること。
私の生は、輝いている。

空を見て、星はなく。
夜明け前の、藍色の空が好きだった。
私の生は、輝いている。


私の生は、輝いている。

707来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:16 ID:wvXD0MO.0
 
目の前には、世界の中心。
来栖川芹香の望み。
澱みを齎すもの。

拳を握り、腕を上げ。
顎を引いて、力を込める。
心臓から流れ出し、全身を駆け巡る血の一滴までを感じる。
澄み渡る、来栖川綾香の生の、そのすべてを込めて、走り出す。

走り出し、


走り出そうと、


走り出そうとして、


足が進まないことに、気づく。
目を落とせば、そこに。
私の足に縋りつく、亡者がいた。



***

708来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:45 ID:wvXD0MO.0
***

 
 
来栖川綾香の目に映っていたのは、少女である。
どこか困ったように眉尻を下げて笑う、小柄な少女。
奇妙に張り付いたような表情を浮かべたそれが、綾香を見上げていた。
その少女の名を、綾香は知っている。
小牧愛佳と呼ばれていた、それは死者だ。
この島で命を落とし、強化兵に回収された遺骸と同じ顔が、綾香の左の足首にしがみついている。
ぱっくりと裂けていた首の傷は、見当たらない。
どこから現れたのか。
なぜ死者がここにいるのか。
理由は。原理は。原因は。目的は。
その一切を、綾香は考えなかった。
挽肉同然にされた来栖川芹香が、眼前に現れたのだ。
今更死者が彷徨い出たところで、驚くには値しなかった。
だから綾香は、ただ空いた右の脚を小さく引き、無感情に振り下ろす。
困ったような笑みを浮かべた少女の貌が、困ったような笑みを浮かべたまま、中心から窪んだ。
鼻骨が折れ、鼻梁が粉砕され、しかし血が噴き出すことはなかった。
顔面を砕かれた少女は、笑みを歪めたままゆっくりとその輪郭を薄れさせ、消えていく。
小さく息を吐いて、綾香が正面に向き直る。
下らない抵抗だと、考えていた。
文字通りの、無意味な足止め。
来栖川芹香か、他の誰かか。
いずれ生きて濁り、死して屈した何者かの、精一杯の抵抗であったものか。
疾走の再開までは、ほんの一瞬。
踏み出した足が、しかし、ぐらりと揺れた。

709来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:05 ID:wvXD0MO.0
「―――!?」

傾いた視界に、綾香がたたらを踏んで体勢を立て直す。
何が起きたのか、分からなかった。
踏み込んだ左足の、地を踏みしめるはずの足の、感覚がなかった。
ただ底無しの沼に沈み込むように、体全体が左へと傾いていた。
睨むように見やった、綾香の目が大きく見開かれる。
左足。小牧愛佳のしがみついていた、左足の、足首。
その後ろ半分が、ぱっくりと、割れ裂けて傷口を覗かせていた。
否、それは傷ではない。
そこに血は流れていない。
じくじくと痛むこともない。
ただその部分で、皮と肉と骨とが途切れ、中身を曝しているに過ぎない。
裂傷ではなく、創傷でもあり得ず、それは純粋な、喪失であった。

「―――」

小牧愛佳と共に消えてしまったようなそれを、綾香はほんの一瞬だけ凝視し、すぐに向き直る。
手をついて、右に体重を乗せた膝立ちになる。
使い物にならない左足を無視した、疾走の態勢であった。

「 の一本で、止められるか―――」

鼓舞するように声を出して、しかし、綾香は己の言葉に眉根を寄せる。

710来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:27 ID:wvXD0MO.0
今、何を言おうとした。
否、何を、言った。
一瞬前の、記憶の空白。
一本、と。
確かにそう言った。
しかし、それは何だ。
何のことだ。
何を、一本。
何が、一本。
何のことを、言っている。
己が内に湧き出した空白に、綾香の心中がざわめいていく。
一本。そうだ。それは、この左足の、喪失だ。
それを、言った。言おうとした。そのはずだった。
喪失とは、何だ。
論理が、破綻している。
左足の喪失。喪失とは、何だ。
左足は、左足だ。何も喪われてなど、いないはずだった。
見やる。そこには、足がある。
右の脚に、目を移す。
そこには腿があり、膝があり、脛があり。
踝があって、踵があって、腱があり、甲があり、指があり、ならば左にも、同じものがあるはずなのに。
同じものとは、何だ。
左の脚にも、腿がある。
膝があり、脛があり、踝があって、甲があって、指があった。
それが、左足の全部で、何一つ、喪われてなど、いないように思えた。
分からない。
ならば、自分は今、何を言おうとしていたのか。
分からない。
それではまるで、左の足には、今はない何かが、あったようでは、ないか。
そんなものは最初から、ありはしないというのに。

711来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:51 ID:wvXD0MO.0
じわりと、何かが皮膚に染み込んでくるような感覚を、綾香は覚えていた。
戦慄に似た、恐怖に近い、しかしそれとも違う何か。
打ち払うように首を振り、片足だけで立ち上がる。
力を込めた、その右足に触れるものが、あった。

「―――!」

長い黒髪の、穏やかな笑みを浮かべた少女。
その少女の名を、綾香は知らない。
仁科りえと呼ばれていたことを知らぬまま、綾香は少女に拳を振り下ろす。
手応えがあり、少女が歪み、ゆっくりと消えていく。
そうして綾香が、大地に倒れ伏した。
右足の、甲から先が、消えていた。
地を踏みしめることもできず、膝をついて眼前を睨む綾香は、もう足に目をやりは、しなかった。
そういうものだと、理解していた。
走ることも、歩むことさえもできず、しかし綾香は、前に進もうとする。
両の手を地について四つ足となり、恥辱すら覚えず、ただ屈さざるべき世界の中心、銀髪の少年の元へと
猛然と進もうとするその足を、押さえる腕があった。

「―――」

振り返れば、それが己が手にかけた少女であったと知っただろう。
しかし綾香は目をやらない。
言葉もなく、空いた方の足で後ろを蹴りつける。
沢渡真琴と呼ばれていた少女が、消えていく。
消えながら、少女の最後に触れていた綾香の左の足指のその全部が、一度になくなった。

712来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:34:26 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――たとえ明日死んだって、今日負けるのは、いやだ。



右の足にしがみつく、女の名前を綾香は知らない。
河島はるかという名を知らぬまま、綾香は女を蹴りつける。
女は綾香の右の踵に最後に触れて、そしてそこには、もう何もない。

左の足にすがりつく、少女の名前を綾香は知らない。
藍原瑞穂という名を知らぬまま、綾香は少女に拳を振るう。
少女は綾香の左の足を最後に抱いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚をがしりと押さえた、少年の名を綾香は知らない。
那須宗一という名を知らぬまま、綾香は少年を引き倒す。
少年は綾香の右の脹脛を最後に撫でて、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に乗りかかる、少女の名前を知っている。
雛山理緒という少女の名を、しかし思い出さぬまま、綾香は少女を踏みつける。
少女は綾香の左の臑を恨みがましく最後に掻いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚に手をかけた、少女の名前を知っている。
上月澪という少女の名を、やはり思い出さぬまま、綾香は少女を薙ぎ払う。
少女は綾香の右臑を最後に小さく二度叩き、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に手を乗せる、老爺の名前を知っている。
幸村俊夫という老爺の名を、しかし考えることもなく、綾香は老爺を蹴り上げた。
老爺は綾香の左の脹脛を微かにさすり、そしてそこには、もう何もない。

右の脚を踏み躙る、女の名前を知っている。
篠塚弥生という女の名を、もはや浮かべることもなく、綾香は女を振り払う。
女は綾香の右膝を冷たいその手で一つ撫で、そしてそこには、もう何もない。

左の膝を捻じ上げる、少女の名前を知っている。
坂上智代と思い出し、しかしそこには感慨もなく、綾香は智代に拳を放つ。
智代は綾香の左の膝を無理やり捻って捩じ切って、そしてそこには、もう何もない。

713来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:34:45 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしの世界、あたしの手が届く場所、あたしの指で触れるもの。



河野貴明がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の右腿が毟られて、そしてそこには、もう何もない。

篁がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の左腿が抉られて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、脚はない。
 両の脚の全部が、既に喪われていた。
 倒れ伏し、しかし腕で地を掻いて、綾香は前へと、進んでいる。


醍醐がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の股関節が撃ち抜かれ、そしてそこには、もう何もない。

草壁優季がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の女性に口づけられて、そしてそこには、もう何もない。

月宮あゆがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尻が剥がされて、そしてそこには、もう何もない。

緒方理奈がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の子宮に指が這い、そしてそこには、もう何もない。

伏見ゆかりがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尾骨が抜き去られ、そしてそこには、もう何もない。

柚原このみがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の直腸が掴み取られて、そしてそこには、もう何もない。

714来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:04 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――世界って、そんだけだよ。そん中に、お前も入ってる。



霧島佳乃がいた。
振り払われて、綾香の卵巣をそっと撫で、そしてそこには、もう何もない。

姫百合珊瑚がいた。
振り払われて、綾香の寛骨を摘み上げ、そしてそこには、もう何もない。

姫百合瑠璃がいた。
振り払われて、綾香の仙骨を割り砕き、そしてそこには、もう何もない。

向坂雄二がいた。
振り払われて、綾香の大腸を引き摺って、そしてそこには、もう何もない。

新城沙織がいた。
振り払われて、綾香の虫垂を毟り取り、そしてそこには、もう何もない。

朝霧麻亜子がいた。
振り払われて、綾香の小腸を弄び、そしてそこには、もう何もない。

椎名繭がいた。
振り払われて、綾香の下大静脈にじゃれついて、そしてそこには、もう何もない。

梶原夕菜がいた。
振り払われて、綾香の腹大動脈を撫で下ろし、そしてそこには、もう何もない。

春原芽衣がいた。
振り払われて、綾香の右の腎臓に手を伸ばし、そしてそこには、もう何もない。

緒方英二がいた。
振り払われて、綾香の左の腎臓を見下ろして、そしてそこには、もう何もない。

715来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:23 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――そんで、なんだ? 勝ちと負けを決めるのはなんだ? あたしらを分けるのはなんだ?



佐藤雅史がいた。
振り払われて、綾香の膵臓を掻き毟り、そしてそこには、もう何もない。

伊吹公子がいた。
振り払われて、綾香の脾臓を抱きしめて、そしてそこには、もう何もない。

柏木梓がいた。
振り払われて、綾香の腰椎を折り取って、そしてそこには、もう何もない。

長森瑞佳がいた。
振り払われて、綾香の胆嚢を捧げ持ち、そしてそこには、もう何もない。

柚木詩子がいた。
振り払われて、綾香の十二指腸を小突き回し、そしてそこには、もう何もない。

宮沢有紀寧がいた。
振り払われて、綾香の胃を突き破り、そしてそこには、もう何もない。

山田ミチルがいた。
振り払われて、綾香の広背筋を細く裂き、そしてそこには、もう何もない。

美坂栞がいた。
振り払われて、綾香の腹直筋をぺたりと叩き、そしてそこには、もう何もない。

柏木初音がいた。
振り払われて、綾香の肝臓を貫いて、そしてそこには、もう何もない。

長瀬祐介がいた。
振り払われて、綾香の副腎を侵食し、そしてそこには、もう何もない。

716来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:43 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――テンカウントか? レフェリーのジェスチャーか? それともジャッジの採点か?
      そういうんじゃない。そういうんじゃないだろ。



立田七海がいた。
振り払われて、綾香の横隔膜に爪を立て、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、腹はない。
 頭と首と、腕と胸だけが残されて、そこから下には何もない。
 それでも手指は地を穿ち、綾香は前に進んでいる。


宮内レミィがいた。
振り払われて、綾香の胸椎を射貫き、そしてそこには、もう何もない。

巳間良祐がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の下半分を握り締め、そしてそこには、もう何もない。

北川潤がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の残りの全部を手に取って、そしてそこには、もう何もない。

柊勝平がいた。
振り払われて、綾香の肩甲骨を丁寧に外し、そしてそこには、もう何もない。

岡崎直幸がいた。
振り払われて、綾香の食道をぼんやりと眺め、そしてそこには、もう何もない。

吉岡チエがいた。
振り払われて、綾香の気道を取り上げて、そしてそこには、もう何もない。

小牧郁乃がいた。
振り払われて、綾香の肺の右のひとつを手で握り、そしてそこには、もう何もない。

向坂環がいた。
振り払われて、綾香の肺の左のひとつを解きほぐし、そしてそこには、もう何もない。

澤倉美咲がいた。
振り払われて、綾香の左心室を切り分けて、そしてそこには、もう何もない。

717来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:02 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――そこで尻尾を巻いたらあたしの負けだ。その時にこそ、あたしは死ぬ。
      人はそこで本当に死ぬんだよ。



名倉由依がいた。
振り払われて、綾香の右心室に縋り寄り、そしてそこには、もう何もない。

リサ=ヴィクセンがいた。
振り払われて、綾香の左心房を刺し穿ち、そしてそこには、もう何もない。

美坂香里がいた。
振り払われて、綾香の右心房を引き剥がし、そしてそこには、もう何もない。

名倉友里がいた。
振り払われて、綾香の肺動脈を引き破り、そしてそこには、もう何もない。

エディがいた。
振り払われて、綾香の肺静脈を解体し、そしてそこには、もう何もない。

藤林杏がいた。
振り払われて、綾香の大動脈を轢き潰し、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、臓器はない。
 呼吸器と循環器と消化器と、その全部を奪われて酸素も血流もなく、
 しかし綾香は、ただ一点を見据えながら前に進んでいる。


神岸あかりがいた。
振り払われて、綾香の僧帽筋を断ち切って、そしてそこには、もう何もない。

森川由綺がいた。
振り払われて、綾香の乳房の右のひとつに力を込めて、そしてそこには、もう何もない。

ルーシー・マリア・ミソラがいた。
振り払われて、綾香の乳房の残りのひとつを両手で抱え、そしてそこには、もう何もない。

住井護がいた。
振り払われて、綾香の鎖骨を取り外し、そしてそこには、もう何もない。

718来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:26 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしら、笑えないからさ。
      頑張ったとか、精一杯やったとか、そういうので笑えないからさ。



姫川琴音がいた。
振り払われて、綾香の右手の指の全部を押し潰し、そしてそこには、もう何もない。

月島拓也がいた。
振り払われて、綾香の右手を撫でさすり、そしてそこには、もう何もない。

保科智子がいた。
振り払われて、綾香の左の指に溜息をついて、そしてそこには、もう何もない。

柏木耕一がいた。
振り払われて、綾香の白い右腕を千切り取り、そしてそこには、もう何もない。

スフィーがいた。
振り払われて、綾香の右の肘を小突き、そしてそこには、もう何もない。

広瀬真希がいた。
振り払われて、綾香の右の肩を捻じ曲げて、そしてそこには、もう何もない。

遠野美凪がいた。
振り払われて、綾香の左手をぺちりと打って、そしてそこには、もう何もない。

橘敬介がいた。
振り払われて、綾香の左腕を踏みつけて、そしてそこには、もう何もない。

芳野祐介がいた。
振り払われて、綾香の左肩に首を振り、そしてそこには、もう何もない。

岡崎朋也がいた。
振り払われて、綾香の頚椎を放り捨て、そしてそこには、もう何もない。

719来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:43 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしは、ずっと、世界の真ん中に。



伊吹風子がいた。
振り払われて、綾香の咽頭に指を入れ、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、体はない。
 それは地に転がる、一個の首でしかない。
 大地に歯を立てながら前に進む、一個の首でしか、なかった。


古河秋生がいた。
綾香の下顎を割り取って、そしてそこには、もう何もない。

長瀬源蔵がいた。
綾香の耳を両手で覆い、そしてそこには、もう何もない。

相楽美佐枝がいた。
綾香の鼻をつねり上げ、そしてそこには、もう何もない。

七瀬留美がいた。
綾香の頬を引っ叩き、そしてそこには、もう何もない。

藤井冬弥がいた。
綾香の髪を手で漉いて、そしてそこには、もう何もない。

月島瑠璃子がいた。
綾香の舌を引き抜いて、そしてそこには、もう何もない。

高槻がいた。
綾香の上顎を砕き去り、そしてそこには、もう何もない。

七瀬彰がいた。
綾香の右目を抉り取り、そしてそこには、もう何もない。

久瀬がいた。
綾香の左目を静かに見つめ、そしてそこには、もう何もない。

720来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:37:13 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――美しく。



湯浅皐月がいた。
綾香の頭蓋を切り割って、そしてそこには、もう何もない。

巳間晴香がいた。
綾香の脊髄を吸い出して、そしてそこには、もう何もない。

霧島聖がいた。
綾香の延髄をぶち撒けて、そしてそこには、もう何もない。

深山雪見がいた。
綾香の小脳を掻き乱し、そしてそこには、もう何もない。

柏木楓がいた。
綾香の間脳を切り裂いて、そしてそこには、もう何もない。

柏木千鶴がいた。
綾香の大脳を見下ろし、爪を差し入れて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香には、何もない。
 もう、何もない。
 それでも、前に進む。進もうと、していた。


松原葵がいた。
ファイティングポーズを取っていた。
口も、頬も、瞳もないまま、綾香が笑う。
拳も腕も、脚も身体もないまま構えを返し、拳の先をこつんと当てて、綾香は前に進む。


セリオがいた。
無表情に立ち尽くすセリオに苦笑して、綾香がその頭をひとつ撫で、それきり振り返らずに進む。
どうか、あなたの行く先が美しくありますように、と。
背後から聞こえた声に、手を振った。


そうして、長い道のりの、その最後に。
静かに笑んだ来栖川芹香が、いた。

721来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:37:54 ID:wvXD0MO.0
そっと手を伸ばし、もう何もない綾香を抱いて、芹香が囁く。
―――これでいいの、と。


これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憤激を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の慨嘆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憂愁を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の決意を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の栄貴を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の光輝を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の気勢を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の心胆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の反骨を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の我欲を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の願望を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の妄執を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の拘泥を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の迷妄を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の篤信を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の耽溺を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の過去を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の明日を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の名を融かして、そしてそこには、もう何もない。


そしてそこには、もう何もない。

722来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:38:12 ID:wvXD0MO.0
 
何も、残らなかった。

身体を喪い、心を奪われ、その名をすら既に持たず、

来栖川綾香は、

故に存在することもできず。

来栖川綾香は、

故に存在せぬこともできず。

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

故に、

もう、どこにもいない。

723来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:38:49 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意地という、そのただひとつを、除いては。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
.

724来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:09 ID:wvXD0MO.0
それは、終焉となるはずの、一瞬だった。
最早何者でもないそれを抱いた来栖川芹香が、微かに笑んだまま、口を開いていた。
声が、発せられようとしていた。
よくできました、というその言葉が響くことは、なかった。

来栖川芹香を覆い尽くしたのは、     である。
かつて来栖川綾香であった何か。
もう何者でも何物でもないそれが、刹那の内に来栖川芹香を包み、覆い、圧し潰して、呑み込んでいた。

血もなく肉もなく、
光もなく音もなく、
声もなく涙もなく、
ただ来栖川芹香を消し去って、それは在った。


在って、在り続け、それは、     は、前へと、進み始める。

725来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:22 ID:wvXD0MO.0
 
それは、生きて、生きて、生き果てた、もう何者でもない、何か。
それは、ただ生き、在ることを誹る者だけが悪と呼ぶ、そういうものである。

726来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:37 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】


     
 【状態:―――】


→796 890 947 950 955 968 1014 1051 1096 1123 ルートD-5

727名無しさん:2010/03/02(火) 13:43:42 ID:wvXD0MO.0
本作の収録タイトルは

『<i><ruby><rb>     </rb><rp>(</rp><rt>クルスガワアヤカ</rt><rp>)</rp></ruby></i>』

とさせて下さい。
次回がルートD-5の最終話になります。

728/生:2010/03/04(木) 17:58:32 ID:RRWdl1IA0
 
どくり、どくりと。
音が響く。

そのもやもやとした、もう何者でもないものが這いずるように近づいてくるのを、
少年は呆然と眺めている。

それは、恐怖だ。
それは、命であったものだ。
それは、生きていたものが、その最後まで生きた、結末だ。

そうしてそれは、道だった。
暗がりに隠されて見えなかった、細い細い、分かれ道。
生まれると、在り続けると、その二股しかありはしないと思っていた、しかし終わりへと繋がる、それは道。
どこかでそれを望んでいた、はずだった。
幸福を保障されない世界なら、腐り果てゆく苦界なら、生きたくはないと。
さりとて長い長い滅びへの日々を、眺めて過ごしたくもないと。
二つの絶望に挟まれて、第三の選択肢は、魅力に溢れている、はずだった。
しかし。

「……何を迷ってる!」
「呑まれれば、きっと何もかもが終われるでしょう、ですが……!」
「あんなのと一緒になりたいか!?」

天沢郁未の、鹿沼葉子の声が聞こえる。
差し伸べる手は、きっとまだそこにある。
こちらへ来いと、命を選べと誘う手。
その道は、まだそこにある。

迫るのは、終焉だ。
その、色もなく音もなく、ただもやもやとしたものは、何もかもを終わらせながら近づいてくる。
踏み躙られた大地が、侵された大気が、取り込まれた夜が、穢された空が、終わっていく。
終わったすべてがそれの一部となって、それは今や、空を覆うまでに拡がりながら這いずってくる。
どくりどくりと響く鼓動は、だから空に反響して何もかもを圧し潰すように響いていた。
白い花に覆われていた大地は、最早見る影もない。
枯れ果てた草の風に吹かれて転がる、赤茶けた土の半分は既に終わっている。
夜空を統べていたはずの赤い月も、ただ迫る終焉を甘受するように痩せこけた光だけを振りまいて、
どくりどくりと響く音に掻き消されるように力なく明滅を繰り返していた。

そうして少年は、ぼんやりと思う。

―――ああ。
終焉に、侵されるまでもなく。
楽園は、とうの昔に壊れていた、と。

音が、やまない。



******

729/生:2010/03/04(木) 17:58:47 ID:RRWdl1IA0
******

 
 
ア、という音では、既にない。
ガ、とグァ、とが混じり合ったような、乾いて潰れた、からからと、がらがらとした音。
それが、春原陽平の喉から漏れる、音だった。

噛まされた布は滲んだ血で赤く染まっている。
暴れた拍子に歯で切った、ズタズタに裂けた舌と口腔からじくじくと滲み出す血が喉を塞いで、
だから定期的に布を外して喉に水を流し込んで血ごと吐かせるそのときに、春原が叫びとも嗚咽ともつかない
奇妙な音を漏らすのだ。

何重にもきつく縛られた手足は擦れて皮が破れ、春原が苦痛に呻いて身をよじる度に、
四肢から新たな激痛を供給していた。
その痛みに暴れればまた手足を寝台に括りつける布がぎちぎちと擦れ、傷を深めていく。
苦痛の螺旋が、春原を取り巻いていた。

存在しないはずの膣口は既に限界まで伸びきって開きながら更なる伸張を皮膚に要求し、
会陰部に小さな裂傷を作って新たに血を流している。
傷は産道が呼吸と共に縮み、拡がるのに合わせて次第に裂け目を広げ、膣内へとその版図を伸ばしていく。
その、流れだす血で人の体の正中に境界線を引くような傷の伸びる先に、ぬるぬると絖る、桃色の肉がある。
児頭だった。



******

730/生:2010/03/04(木) 17:59:10 ID:RRWdl1IA0
******



どくりどくりと響く音の中で、少年は立ち尽くしている。

「僕は―――」

呟いて見上げた夜空の半分は、既に終わりに侵されている。
視線を下ろせば、迫るのは生まれて生きて、踏み躙られたもの。
生まれていれば、自分がそうなっていたかもしれないもの。
恐れていた結末の、具現。
それ自体のありようが、これまでの選択を、ただひたすらに幸福に満たされた世界を探し求め、
久遠に等しい時間を待ち続けた自身の道程を肯定しているかのように、少年には思えた。
行き詰まった道なら、その果ての具現に呑まれるのも、悪くはないような気がした。

「目ぇ開けろ! 意気地なし!」

そんな、微睡みのような夢想を真正面から打ち砕いたのは、叩きつけるような声である。
空を包む鼓動にも負けぬ、天沢郁未の、声だった。

「目の前に何がある! そこに何がいる!?」
「……見てるさ。だけど、」
「見えてない!」

小さく首を振った少年の言葉を、天沢郁未は両断する。

「何も見えてない! 見ようとしてない! ちゃんと見据えろ! そいつを! あんたを!
 考えろ! 覚悟しろ! それで、選ぶんだよ! 流されずに、あんたの答えを!」
「僕、は……」

響く鼓動の音の中、少年は一歩も動けない。
前から躙り寄るのは、何者でもないもの。
後ろに下がれば、やがて天沢郁未に触れるだろう。
動けばそれは、どちらかを選ぶということに他ならなかった。
前にも進めず下がることも許されず、凍りついたように足を止めたまま、少年が眼前のそれを目に映す。
郁未の言葉に押されるように、道ではなく、選択肢ではなく、ただ迫るものとしての、それを。

731/生:2010/03/04(木) 17:59:46 ID:RRWdl1IA0
 
それは、姿のないものだ。
さわさわと震える、人と花と獣とを磨り潰して陽炎に溶かしたような、名状しがたい何かだ。
それは、名前のないものだ。
ゆらゆらと揺らめく、何かであることを拒み、何かであることを否定された、そういうものだ。
それはたぶん、憎悪と嫌悪の塊だ。
何かに憤り、何かを嘆き、何かに唾し何かをぶち撒け何かを咀嚼し嘔吐するような、そういうものだった。

醜悪だと、感じた。
じわりと浮かんだ汗に滑ったように、ほんの半歩、更にその半分を、下がる。
待っていたように、背後から声がする。

「これは勝負だ、あんたと、そいつの。もしかしたら、あんたと、私の。
 或いは、あんたと、それ以外の全部との、勝負なんだよ」

静かに響くその声は、奇妙なことに、空を圧し潰す鼓動の音よりも大きく、少年に聞こえていた。

「選ぶときだ。あんたは負けて終わるのか、生まれて私らと出会うのか」

とくり、とくりと鼓動の音が。
郁未の声に融けるように、届く。

「あんたの半分は、もうとっくに選んでる。あとは、あんただ。それで、決まりだ」
「半分……?」

郁未の言葉を、少年が反芻する。

「半分て、何さ……僕は、僕だ。僕でしかない。まだ、何も選んでない……」
「いいや」

戸惑ったように首を振る少年に、郁未の声が染み渡る。

「この音が、答えさ」
「音……?」

732/生:2010/03/04(木) 18:00:05 ID:RRWdl1IA0
声と、音。
郁未の声に、融けるように。或いは郁未の声を、溶かすように。
とくり、とくりと音がする。
どくり、どくりと音がする。
鼓動の音だ。
星のない夜空に反響し、花のない大地に跳ね返って世界を覆う、それは音だ。

「これは……この音は、だって……」

うぞうぞと躙り寄る、何者でもないもの。
それが人のかたちをしていた時の、更にその前、この大地にどこからともなく現れた、その時から響いている音だ。
だから、それは既に何者でもないそれの、鼓動であり、咆哮であり、悲鳴であり、絶叫である、はずだった。

「……よく見てください」

第二の声が、聞こえる。
鹿沼葉子の、声だ。
淡々とした声が、ただ事実だけを述べるように、続ける。

「あれはもう、人ではない。姿も、実体もありはしない。……心臓など、存在しません」
「だから、音も聞こえない。聞こえるはずがない」

輪唱するように、郁未が続ける。
振り返らぬまま、しかし激しく首を打ち振るって、少年が叫ぶように言い返す。

「だけど、聞こえてる! 僕にはずっと聞こえてる! なら、何だ?
 あいつの鼓動じゃないなら、いま聞こえてるこの音は何だっていうんだい!?」

何者でもなくなったものを指さして言い放ち、荒い息をつく少年に、郁未の声が谺する。

「そんなの、決まってる」

夜に響く、鼓動に詠うように。

「あんたの音だよ」

告げる。

「あんたの中の、命の音だ」



******

733/生:2010/03/04(木) 18:00:23 ID:RRWdl1IA0
******



流れだす血は止まらない。
母体も寝台も赤褐色に染め上げられている。
ぬるりと額に浮かんだ汗を拭う古河早苗もまた、その全身を血に濡らしていた。

状態は最悪に近い。
陣痛は明らかに過剰で母体の身体と精神とを限界を超えて痛めつけている。
会陰部の裂傷は広がり続け、既に肛門近くまで達しようとしていた。
母体が暴れるのは収まりつつあったが、多量の出血で昏睡に陥りかけているに過ぎなかった。

この場に医療関係者はいない。
いるのは一人の経産婦と二人の少女。
投薬もできない。切開も縫合もできない。
鉗子も使えない吸引の仕方もわからない。
死に近づいていく母体と胎児とを前にして、それは無力に限りなく近い。
しかし、それでも、まだ無力と等しくは、なかった。
三人は、女性だった。
生まれ出ようとする生命を前に、血に怯えることはなかった。
誕生の無惨に、怖気づくことだけは、なかった。
それだけが、二つの生命を支えていた。
長い分娩の終わりは、ゆっくりと、しかし確実に近づきつつ、あった。

血の河となった産道の奥に児頭の見えたとき、古河早苗が漏らしたのは安堵の息である。
あとは時間との戦いになる、はずだった。
母体が出血に耐えられるかどうかだけが分かれ目だと、そう思った。
一度、二度の陣痛に収縮した子宮が、児頭を押し出そうとする。
見え隠れしていた児頭が、見えたままになり、しかし、早苗の表情が凍りつく。

おかしい。
向きが、おかしい。
母体は、春原陽平は、寝台に仰向けになっている。
ならば、出てこようとする胎児の頭は、下を向いている、はずだった。
見えている児頭は、明らかに、横を向いていた。

びくりと痙攣するように、母体が震える。
陣痛に押されるように子宮が縮み、しかし、児頭は、出てこない。
出て、こられない。
妊婦の頃を、思い出す。
読み耽った本を思い出す。
目の前の状況の、切迫を、理解する。

縦に長い産道を、縦に長い胎児の頭は、だから回転して縦向きに潜り抜けようとする。
もしも胎児が回転をしなければ。
児頭は、産道を通り抜けることができない。
低在横定位。
そんな、異常分娩の一例が。
目の前に、あった。

出てこない。出られない。
強かったはずの陣痛が、次第に間隔を空けていく。
母体も、限界を超えていた。

ほんの数センチの壁の向こうに、命が消えていこうと、していた。



******

734/生:2010/03/04(木) 18:00:45 ID:RRWdl1IA0
******



とくり、とくりと命が響く。
もう、その半分以上が終わってしまった空に満ちるように。

どくりどくりと、鼓動が響く。
枯れ果て、眠りについた大地を、揺り起こすように。

凛と光る、それは音だ。
地の底の岩屋に響いた、それは聲だ。


   ―――ねえ、世界って―――


鼓動に揺れる少年の、呆然と両手を当てた胸の、その奥から響く、それは問いだった。
それは、記憶ではない。体験でもない。
ただ、確かにそれを発したことがあると、それだけを少年は感じるような、問いだ。
覚えている。
記憶でもなく、経験でもなく、ただ、覚えている。
問いと、応えを覚えている。


   ―――んなこと、ねえよ―――たまにかったりいけど、な―――


 ―――わかんないけど……少なくとも、退屈はしてない……かな―――


   ―――私には、好きな人がいるんだ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。それが―――


 ―――いいえ、いいえ。確かにままならず、確かに愚かしく、確かに脆弱で、取るに足らず―――
    

覚えている。


     ―――それでも、素晴らしいものも、ほんの少しだけ、ありました―――


返る応えの、輝きを。


  ―――そう―――


そうして決めた、その道を。


  ―――なら、僕は―――


少年は、


  ―――生まれたいと、思う―――


覚えている。

735/生:2010/03/04(木) 18:01:01 ID:RRWdl1IA0
 
「生ま、れる……」

どくり、どくりと。
響く鼓動が、覚えている。

「僕は、生まれるのか……?」

それは、半分。
答えの半分。

「……ああ」

もう半分を、求めるように。

「あんたは、こんなにも、生まれたがってる」

天沢郁未の、声がする。
今やはっきりと己の内側から響いてくる、鼓動に背中を押されるように、少年がおずおずと口を開く。

「僕は……僕は、生まれさせられるのか……?」
「違う」

否定は、鋭く。

「お前が、選ぶんだ」

続く言葉は、やわらかく。

「そう、か……」

鼓動が、苦しい。
大きく、息を吸う。
吸い込んだ夜の大気にも鼓動が染み付いていて、それはひどく重苦しい。

「そうだ……」

目の前には、ふるふると揺れる、何者でもない終わりの具現。
幸福を保証されない世界の、生の果て。

「僕は……」

見据えて、思う。
これまでの久遠を。
無限の試行と、失敗を。
思って、口を、開く。

「僕は、生まれたかった―――」

答えの全部を、口にして。
少年が、走り出す。



******

736/生:2010/03/04(木) 18:01:14 ID:RRWdl1IA0
******



それは、だから、ほんの小さな、奇跡ともいえないような、一瞬だ。

どくり、と。
胎児が、小さく震えたその瞬間。
母体の収縮に、合わせるように。
くるりと、児頭が回っていた。

それはまるで、誕生までの数センチを躊躇っていた命が、微かに頷いたように。
生まれてこようと、するように。



******

737/生:2010/03/04(木) 18:01:40 ID:RRWdl1IA0
******



振り返れば、そこには手。
差し伸べられる、手があった。

「―――来い!」

走り出して、辿り着くまで。
ただの、一歩。
ほんの、一歩だった。

「―――」

天沢郁未と、鹿沼葉子の伸ばした手に、少年がそっと、手を重ねる。
どくりと鼓動が、重なった。
見上げて、尋ねる。

「待ってて、くれる……?」

見つめる瞳は、すぐ近く。
怯えたようなその声に、郁未は眉を顰ませて、

「待つか、馬鹿」

言い放つ。
びくりと強張った少年の手が、しかし次の瞬間、強く握られる。
温もりの先に、悪戯っぽい瞳が、あった。

「走りなよ、頭と身体使ってさ!」

言った郁未が、

「誰だって、そうやって、追いついてくる」
「……、うん」
「ちょっとくらいは、寄り道しててやるかもね」
「……すぐ、追い抜くさ」
「よく言った」

頷いた少年と、傍らに立つ鹿沼葉子に、深く笑む。
重ねたその手に、力が込められた。

738/生:2010/03/04(木) 18:01:57 ID:RRWdl1IA0
 
「なら、天沢郁未と―――」

背後には終焉。
空は終わり大地は終わり、しかし跳ね除けるように、声は響く。

「鹿沼葉子は―――」

重なる声が、光を生み出す。
それは、力。
不可視と呼ばれた、祈りの力。
かつて少年が人に預けた、可能性。

「その誕生を―――」

ほんの僅か、残された空に。
赤い月が、浮かんでいる。
痩せこけて、しかし輝く、赤い月。
小さな小さな夜を統べる、その星に向かって。

「祝福する―――!」

光の道が、開く。



******

739/生:2010/03/04(木) 18:02:31 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
******

740/生:2010/03/04(木) 18:02:55 ID:RRWdl1IA0
******



海原に、陽が昇る。
ちゃぷちゃぷと、白い羊の波を掻き分ける音だけが響く水平線に、夜明けの緋色が満ちていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

夕暮れの街に、夜が来る。
喧騒もなく、ただ色とりどりのネオンサインが煌く街を、夜闇がそっと覆っていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

麦畑に、雨が降る。
さわさわと、風に実りを謳う穂に、恵みの雨が染みていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

蒼穹に、虹が立つ。
吹く風に、雨上がりの涼しさと空の高さを含ませて、彩りが蒼の一色に滲んでいく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

雪山に、星が瞬く。
空いっぱいの煌めきが、新雪に残る足跡ひとつを、幻想色のオーロラと共に照らしている。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

最果ての、夜が明ける。
星はなく、月もなく、花もなく、何もなく。
そうしてそこには、もう、誰も、誰もいない。

741/生:2010/03/04(木) 18:03:43 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
小さな島の、陽が沈む。

その片隅の、夜に抗う、産声の中。

空に向けて咲く花のような、その小さな手のひらが掴むものを、未来という。
 
 
 
 
 
.

742/生:2010/03/04(木) 18:04:08 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
 

【葉鍵ロワイアル3 ルートD-5 完】





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743名無しさん:2010/03/04(木) 18:07:51 ID:RRWdl1IA0
以上をもちまして、ルートD-5の物語は完結となります。
長らくお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

それではまた、どこかでお目にかかれることを祈りつつ。

744エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:45:17 ID:.B1J6ho60
 いざ目の当たりにしてみれば、それは人とは明らかに異なる姿だった。

 にこりともしない無表情に、そよとも靡かないプラチナブロンドの長髪。
 一見華奢に見えるものの、所々浮き出ている骨格のようなものは、明らかに女性のものではない。
 今までに見てきたメイドロボとは、何もかもが違う。
 あくまでも人間に近づけ、人間のためにを設計思想として開発されたそれと違い、
 目の前のロボットはあくまでも人を殺すように開発されている。

 本当に進化したロボットは、人と見分けがつかなくなるという。
 その意味では、これは退化している。誰の目にも分かる禍々しさを漂わせているロボットが、人間に近しいはずがない。
 メイドロボにだって劣る。そう結論した朝霧麻亜子は、いつもの調子で黒いコートを纏う修道女に話しかけた。

「ちょい待ちなよ。このままあたしらを銃撃してもいいのかな」

 P−90の銃口は全くブレず、現在は芳野祐介にポイントされている。
 逃げ場のないエレベータだ。このまま乱戦になれば、少なからぬ犠牲が出ることは目に見えている。
 エレベータが降りきるまで時間を稼げればよし。銃撃戦にならなければさらによし。
 口八丁手八丁は麻亜子の得意技だった。自分が、役に立てるのはここしかない。

「あちきら爆弾持ってるのよねえ。下手に撃てば……ドッカーン! なんだけど、さ」

 嘘ではない。流れ弾が台車の爆弾に命中でもすれば、アハトノインも自分達も粉微塵に吹き飛ぶ。
 加えて、建物自体に甚大な被害が及ぶことであろう。
 仮にもロボットならばそれくらい考える頭はあるはずだと期待しての言葉だった。
 ロボットの――アハトノインの目が麻亜子の方に向いた。
 単に音声と認識したのか、それとも内容の不味さを聞き取ったのかはまるで判断がつかない。

「ご心配には及びません」

745エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:45:41 ID:.B1J6ho60
 赤子をあやすかのような声で、アハトノインが言った。
 無表情と相反するような清らかな声質に、麻亜子はいっそ笑い出したくなった。ここまでちぐはぐだと笑うしかない。

「我が高天原は、どのような悪魔の業火にも耐え得る、唯一の安住の地なのです。
 恐れることはありません。怖がることはありません。ここは、母なる大地の御加護によって守られているのですから」

 何の根拠もない、神がここにいるから大丈夫なのだという、愚直なまでの敬虔さで語る修道女に、全員が声を失った。
 これはそもそもロボットですらないのか。考え、認識するという機能さえ持ち合わせていない、ただの機械。
 馬鹿野郎、と麻亜子は叫びたくなった。目の前の盲目な修道女に対してではなく、これを作り上げた人物に、だ。

「ですから」

 アハトノインが唇の端を吊り上げた。初めて笑う彼女の顔は、不出来な人形のようだった。

「あなたを、赦しましょう」

 麻亜子は既に走っていた。言葉に耳を傾ける暇も、意味もないと悟ったからだった。
 先ほどまでいた場所に銃弾の雨が叩き付けられ、火花が散る。
 さらにこちらに伸びてこようとする火線を、他の三人が遮りにかかる。

「囲めっ! 対角線にならないように囲んで撃て!」
「む、難しいこと言わないでくださいよ!」
「ユウスケさんはいつもそうです!」

 芳野がウージーを、藤林杏が89式小銃SMGⅡを、伊吹風子がSMGⅡを抱えて走る。
 中央にいたアハトノインは敏感に状況を察知したのか、一旦銃撃を停止し、取り囲むこちらの状況を窺った。

「おっと、あたしも頭数に入ってること忘れないでくれよっと!」

746エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:03 ID:.B1J6ho60
 チャンスと判断し、麻亜子が反撃のイングラムを撃つ。
 だが動きながらの射撃は精度が低すぎるらしく、軽くステップして避けられる。
 ならばと陣取りを終えた三人がそれぞれ射撃を開始する。
 咄嗟に顔を覆うようにガードしたアハトノインに無数の銃弾が突き刺さる。
 普通の人間ならば既に致命傷だが、この人ならざる修道女に常識は通用しないことを知っている。
 漆黒色のコートは防弾コートであり、自分達の持つサブマシンガン程度では貫通すら不可能だ。
 現にアハトノインは少したたらを踏んだだけで、まるでダメージなど受けていないようであった。

「くっそ、やっぱこんな武器じゃダメか……」

 杏が弱気の音を吐くのを「そうでもない」と冷静な芳野の声が遮る。

「藤林の小銃は、通っているようだぞ」

 ガードを解いた修道女の太腿に、赤い線が垂れる。血液かと思ったが、そうではない。
 人を殺したことのある麻亜子はすぐに分かった。血と同じ赤色ではあるが、どろりとしていない。
 つまりはほぼ粘着性がないということだ。自分の知っている血というものは、もっと汚いものだ。
 そう思っている自分に気付き、やだな、と麻亜子は思った。汚いという発想に至っている自分が嫌になった。
 人間はそんなものじゃないってわかっているのに――

「まーりゃんっ!」

 誰かの叫び声で意識を沈思させていることに気付いたときには、既にアハトノインが眼前に迫っていた。
 全身に力を総動員させ、しゃがんで刃物を回避する。
 振り下ろしてくるとは考えなかった、いやその考えは捨てていた。
 曲がりくねった刀身を見た直後、首を狩ってくるという発想に至ったからだ。
 結果として勘は当たったものの、肝が冷える思いを味わった。

 こんなときに物思いになんか耽ってるんじゃないよ、あたし! まーりゃんだろ!

747エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:21 ID:.B1J6ho60
 自身に活を入れ、反撃に移る。
 ボウガンの矢を取り出し、渾身の気合と共にアハトノインの足に突き刺す。
 それは奇しくも以前篠塚弥生が行った、鬼となった柏木耕一を足止めするときに行ったものと同一の手法だった。
 そのまま前転してアハトノインから離れる。反転して追撃しようとした修道女は、
 しかしバランスが悪いと感じたのか一旦矢を引き抜く作業に入った。

 それを他の三人が見逃すはずがない。
 一斉射。エレベータの端に追い詰められていたために、そのまま直撃すれば落下も考えられた位置ではあった。
 ところがアハトノインは軽い調子で、だが人間には考えられないほどの跳躍力で飛んで避け、
 壁際にあった梯子を掴むという離れ業をやってのけた。

「なんなのよ、あいつ!」

 マガジンを交換しながら杏が苛立たしげに叫ぶ。
 気持ちは分かる。麻亜子ですらこれで決まりだと思っていたからだ。
 源義経よろしく八双飛びされるとは考えてもみなかった。

「まあまあ。あんまり怒ると傷に響くぞ?」

 熱くなってはいけないと思い、親切心からそう言ってみたのだが、返ってきたのはギロリと睨む視線だった。

「あんたね、さっき死にそうになっといて何言ってんのよ」
「や、あれは敵に隙を作るための孔明の罠」
「嘘です。風子には分かります。ぼーっとしてました。ダメダメです。ぷーです」

 横槍を入れられ、なにを、とすまし顔の風子に言い返そうとしたが、事実であるだけに言葉が出てこなかった。

「ったく、一瞬寿命が縮んだわ。何考えてたか知らないけど、しっかりしてよ」
「そうですそうです。そんなんだからチビなんです」
「おい関係ないだろそれー!」
「来るぞ!」

748エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:38 ID:.B1J6ho60
 大体チビはお前もじゃないか、と言うのを遮ってくれたのは芳野だった。
 空気読めてないと文句の一つでも垂れたくなったが、敵もまた空気は読めていないらしい。
 梯子から落下するようにしてアハトノインが舞い戻ってくる。
 最初の襲撃のときより高度があったためか、今度の着地では麻亜子達にも振動が伝わってくるほどの揺れが生じた。
 あの重量でなんであんなに飛べるんだ。以前戦った鬼にも勝るとも劣らない無茶苦茶ぶりに舌打ちをしたところで、
 場違いな警報とアナウンスが流れる。

『安全のためにエレベータを一時停止します。繰り返します、安全のためにエレベータを一時停止します』

「……さっきのどすこい! のお陰で止まっちゃったみたい」
「最悪です」
「おいこっち見んな」
「ってことはなに? 足止め……ってこと!?」
「そのようだな」
「最悪……」
「最悪だな」
「だー! 皆してこっち見んなー!」

 本心から麻亜子のせいにしているわけではないのは分かるが、ついついノリで返してしまう。
 とはいえ、本当に状況は悪い。
 少し戦っただけでも分かるが、アハトノインの戦闘力は尋常ではない。
 このまま缶詰にされていては無事では済まない。
 冗談抜きに、さっき麻亜子も死に掛けたのだから。

 一応倒す手段もないではない。
 エレベータから突き落とすなどすればこの局面は切り抜けられる。
 けれどもそれが難しいのはあの回避力を見れば明らかである。
 接近戦など持っての他。偶然回避できたから良かったようなものの、あの剣戟は見切れるものではない。
 つまるところ、遠距離でも近距離でも不利。そして今は逃げる手段さえない。

749エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:56 ID:.B1J6ho60
 どうすればいい、と内心に冷や汗を垂らしながら思う。
 切欠は自分だ。なら自分がどうにかしなければならない。
 せっかく生き長らえた命だ。ここで使ってみるのも悪くはないかもしれない、と麻亜子は思った。
 捨てるための命ではなく、使うことに意義を見い出せる命。
 一度は失ってしまった、命を賭けてでも守りたいと思えるなにか。
 捨て鉢のつもりはない。自分で選んで、それに納得のできる選択なら、大丈夫。

「あのさ」
「却下」
「却下です」
「……何も言ってないんだけど」

 言わなくても分かる、というように、却下と言い放った杏と風子が大袈裟に溜息をついた。

「別にそんなの、求めてないですし」
「そうそう。そんなの見せ付けられてもねえ」
「いや、何をするか言ってもない……」

 その先は二人に睨まれて続けることが出来なかった。みなまで言わせるなと言いたいらしい。
 どうやら提案することさえ許されていないらしい己が身を自覚して、麻亜子は「じゃあどうすんだよ」と半ば喧嘩腰で言い返した。

「やれやれです。目まで節穴になりましたか」
「あー!? ……っと!」

 風子に言い返そうとしたあたりで、アハトノインが地面を蹴って突っ込んでくる。
 戦術は以前と変わらず。懐に飛び込む利を覚え、金髪を靡かせながら接近してくる。
 固まっていては斬撃の餌食になるだけだ。素早く散開して銃撃を展開する。
 だがやはりサブマシンガン程度では効き目がない。唯一効力のあるライフル弾も決定的なダメージにならず、
 そもそもライフル弾だけは避けてくるので実質無傷だ。
 誰かが動きを止めなければならないのだ。倒すならば。

750エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:20 ID:.B1J6ho60
「で、目が節穴って何だよ! 事と次第によっちゃチビ太郎に格下げすっぞ!」

 逃げ回りながら、麻亜子は風子に問いかけた。
 目の前に迫ってくる絶望から目を逸らしたかったからなのか、それとも恐怖を感じていたくなかったからなのか。
 ……或いは、いつもの自分でいたかったのか。
 それってなんだろうね、と自身に問いかけて、よく分からないという返事だけがあった。

「ふーっ! 風子男の子じゃないですっ! そんなことはどうでもいいから上見なさい上をっ!」
「うえー!?」

 くいくいと指差す風子に応じて顎を上げる。
 エレベーターに動きはない。まさか梯子を伝って逃げろという馬鹿な発想ではなかろうかとも思ったが、
 すぐにそれが思い違いであることを知らされる。

「あるでしょ、穴が!」

 杏の呼びかけに、麻亜子は少し遅れて頷いた。存在に気付かず、一瞬呆然としていたからだ。
 そう、人一人がどうにか通れそうなくらいの穴が壁に空いていたのだ。
 通風孔かなにかだろうか。或いは非常用の通路なのか。
 とにかく、さあ使ってくれと言わんばかりにあった穴を見過ごしていたことに麻亜子は呆れ、腹を立てた。
 なるほど節穴か。言い得て妙な例え方に今度は可笑しくなり、それ以上己の迂闊さを責め立てるのは一時やめにすることにした。

「ああ、あるねっ!」
「そっから逃げればいい!」
「足止めはどうすんのさっ! こいつ、ただで逃がしてくれるほど気前がいいと思えないぞっ!」

751エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:37 ID:.B1J6ho60
 アハトノインは風子を狙い撃ちしていたが、斬撃するタイミングで杏が頭部を射撃しようと試みてくるために手が出せないでいた。
 ならばと目標を変更しようとすれば、今度は芳野と麻亜子で足を狙う。
 距離が離れていればそこにポイントできる程度の隙はあった。
 足はむき出しであるため、直接ダメージを与えられる数少ない部位であり、
 さらにアハトノインが人間型のロボットであるために衝撃でバランスも崩しやすいという理由もあった。

 結果として四方八方から射撃される羽目になったアハトノインは回避に専念せざるを得ず、今のところは五分五分の状況だ。
 ただし、それは常に距離を取っていればの話であり、一旦追い詰められれば不利なのは火を見るより明らか。
 五分五分と言っても、限りなく危うい五分なのだ。

「足止めなら俺がやる! 後藤林、お前も援護しろ!」
「了解っ!」
「待て待て待ちなよ! 足止めって簡単に言うけどさ!」
「お前ら両方チビだからあそこも通りやすいだろ!? そういうことだ!」
「がーっ! なんじゃそりゃー!」
「ユウスケさん……いいんですか」

 風子もチビというワードに反応するかと思えば、案外冷静な反応だった。
 そういえば、と麻亜子は思い出す。言葉こそ少ないが、あの二人は互いを気遣っているような見えない何かがあった。
 いや、特別な関係であるからこそ言葉がなくとも通じ合っていたのかもしれない。
 国崎往人と川澄舞がそうであるように。とはいっても、彼らのような男女の関係とはとても思えなかったが。

「構わんさ」

 簡潔に過ぎる一言。麻亜子などではその真意など推し量れようもない短い言葉だったが、風子は全てを汲んだらしい。
 分かりました、といういつもの硬い言葉を残して、風子は芳野とすれ違うように走る。
 逃がすまい、とアハトノインも追う。

 金属の床を叩く、ハンマーに似た音が猛獣のように迫る。
 その真正面から芳野がウージーを乱射する。顔面を狙ったものだったが、器用に首を逸らされて当たらない。
 ひゅっ、と風を切ってグルカ刀が構えられる。そこで芳野の弾も尽きた。
 まずい――! 走っていた麻亜子は援護に駆け寄ろうとしたが、狙いの安定しないイングラムでは巻き込む可能性があった。

752エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:55 ID:.B1J6ho60
「まーりゃんは……今は逃げるだけ考えてればいいのよ!」

 だが芳野の真後ろから続け様に射撃が行われる。
 半ば芳野を盾にしたような形だったが、アハトノインには想定外だったらしい。
 腰のあたりを撃ち抜かれ、ガクンと体勢が崩れる。
 その隙を見逃す芳野ではなかった。いや、最初からそもそもこれを想定していたのかもしれない。
 手早くデザートイーグル44マグナムを取り出すと、一つの無駄もない動作で引き金を絞った。

 拳銃弾とは比べ物にもならない重低音と共にアハトノインの上半身が揺れ、続けて放たれた第二射が右腕を砕いた。
 関節部の脆い箇所にでも当たったのだろう。
 空気の詰まった袋が弾けたように、金属片が飛び散った。
 腕が床に落ちたのと、風子が穴に入ったのは同時だった。
 アハトノインは肩の付け根から血飛沫を、いや正確には血とよく似た色の液体をスプリンクラーのように撒き散らしていて、
 当の彼女もそれを不思議そうに眺めていた。このような場面に突き当たったことはないらしい。
 それにしても悲鳴のひとつも上げず、首を捻りながらなくなった腕を見つめていることには不気味さすら覚える。
 映画に出てきた殺戮ロボットもこんな感じだった。そんなことを思っていると、急に工学樹脂の瞳がこちらへと向けられた。

「主よ、どうか愚かなるわたくしどもをお赦し下さい」

 手に持っていたグルカ刀を放り捨て、腰からP−90を抜き放つ。
 射撃してくるのかと身構えたが、銃口はあらぬ方向へと向けられていた。
 先ほどの言葉と合わせ、電子頭脳でも狂ったかと考えたが、すぐにその意図に気付いた。

「あいつっ、自爆する気だ!」

 P−90の先にあるのは置き去りにしたままの爆弾。
 死なば諸共。右腕がなくなった不利から計算して自爆するのが最も有効な戦術だと踏んだのだ。
 信心深いにも程がある。なにをどうしたら自爆なんて選択肢を選ばせることになるのか。
 麻亜子はイングラムを構え、引き金を絞ったが弾が出て来ない。弾切れ――!
 なんでこんなときにっ! この状況すらアハトノインの計算に入っているのではとさえ思い、ふざけるなという感想だけが残った。

753エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:11 ID:.B1J6ho60
 誰でもいい、なんとかしてくれっ!

 偶然でもご都合でもいい。ここまで散々苦しめておいてまた見捨てるなんて許せない。
 自分がこの状況を招いたというのなら、もっと不幸にしてくれても構わない。
 だからあのロボットを、誰か……!

「うおりゃあああぁぁああぁぁああぁっ!」

 二度とするまいと思っていた神頼みに応えてくれたのは偶然でも何でもない、杏の裂帛の気合だった。
 3キログラム超はある89式小銃が、ぶおんと音を立てて飛んでゆく。
 凄まじいスピードと回転だった。女の膂力ではとても考えられないものだったが、火事場の馬鹿力がそうさせたのだろうか。
 唸りを上げて迫ってきた89式小銃の投擲は、
 アハトノインの常識では考えられないものだったらしく、避ける動作さえさせずに激突した。
 P−90が零れ落ち、更に走っていた杏が飛び蹴りで転ばせる。
 怪我が完治していない杏は衝撃から来る苦痛に顔を歪ませたが、すぐに熱の籠もった顔に戻った。

「今の内に! 昇れまーりゃんっ! ってか早くしろ!」

 杏の動きに見惚れ、棒立ちになっていた麻亜子は「わ、分かってるよ!」と返して穴に潜り込んだ。
 風子は既に向こう側へと移動したのか、姿は見えない。
 そんなに長い穴でもなさそうだと判断して先に進もうとしたところで、忘れていた一つの疑問が浮かび上がる。

「爆弾どーすんの!?」

 狭い穴の中で何とか身を捩って、麻亜子は背後にあるエレベータに向きながら問いかける。
 そう、ここから逃げるのであれば必然、爆弾は置き去りにすることになる。

「後で取りに来ればいい」
「でもさっき自爆しようと……」

754エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:28 ID:.B1J6ho60
 いいかけて、自爆が目的ではないということに麻亜子は思い至る。
 あくまでも自分達を倒すことがアハトノインにとっての優先事項で、爆弾自体は問題ではない。
 全員がここから逃げれば、爆弾の存在は放置して追跡にかかることは十分に考えられる。
 無論自爆しない可能性はないが、メリットが特にない以上、ロジックにがんじがらめの連中には考えにくい。

「命あっての物種だからな」

 普段なら三流であるはずのその台詞も、今の自分達にとってお似合いだと麻亜子は思った。
 生きてさえいれば。どんなに僅かでも可能性はある。
 分かったと頷いてまた身を捩らせようとしたところで、再び警告音が鳴り響いた。

『エレベータ再起動。運転を開始します』

「げっ!?」

 なんてタイミングだ、と思った。早くしなければエレベータが下降してしまい、この穴に入れなくなる。
 電気系統が動き出す低音が聞こえ始め、早くしないとという麻亜子の焦りを強くする。

「と、取り合えずこっちに昇って! エレベータが下がればあいつだって追えないんだからさ!」

 身を捻るタイミングはないと結論した麻亜子はずりずりと後ろに下がりながら芳野と杏を手招きする。
 とにかくこちら側まで来させることが優先事項だった。
 既にアハトノインは立ち上がっているものの、銃も刀も手放して空手の彼女に追撃する手段はない。
 片腕も失ってバランスも悪くなっている以上、走ったって追いつけない。
 それは二人も先刻承知のようで、距離があることを一瞥して確認し、一緒に走り出す。

755エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:48 ID:.B1J6ho60
 間に合うはずだ……そう確信し、ほっと安堵の溜息をつく。
 爆弾を置いてくるのは痛手だが、とにもかくにも全員が無事であって良かった。
 移動した後はまず爆弾の回収を優先するか、それとも脱出に向けて何かを探すか――
 そんな麻亜子の思考は、視界に写ったアハトノインによって中断された。
 え? と思わず声に出してしまっていた。何もなかったはずの、空手だったはずの彼女の左手には、
 小型のナイフが、握られていた。

 やめろ――! そう叫ぶ前にはもう、アハトノインがナイフを投擲していた。
 狙いは当然、距離的に近かった杏だった。
 全く想像外の一撃に、杏は驚愕と苦悶をない交ぜにした表情を浮かばせて崩れ落ちる。
 同時、エレベータが動き出した。じりじりと下がってゆく足場に、麻亜子は間に合わないと直感した。
 それは目を合わせた芳野も同じだったようで、杏と麻亜子を交互に見返す。

 何を言えばいい、と飽和する頭で思った。
 杏か、自分達か。そんな冷酷すぎる選択肢を突きつけられるはずがない。
 なんでだよ、と麻亜子はありったけの怒りを含ませて呟いた。

 ふざけるな。このまま杏を見殺しにしてたまるか。

 エレベータに降りようとした麻亜子に「来るなっ!」と叫んだのは芳野だった。
 鬼の形相で睨まれ、びくりと身を竦ませた麻亜子に、今度は打って変わって微笑を浮かばせた芳野が言う。

「先に行ってろ。俺はもう少しこいつと遊んでから行くさ」

 じりじりと杏に迫るアハトノインを指差す芳野に、麻亜子は呆れとも怒りともつかぬ感情を抱いた。

「カッコつけんな! あたしに、何もするなって言うのかよ!」

 感情の矛先は自分だった。まだ何もやっていない。こういう損をする役回りは本来自分の役目ではなかったのか。
 何のためにここまで、泥を啜ってまで生き延びてきたのか。分からないじゃないか。
 自分にはやるなと言った癖に? 無茶苦茶だ。そんなものがまかり通るものか。

756エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:03 ID:.B1J6ho60
「ガキが出しゃばるんじゃない」

 身を乗り出し、援護に行こうとした麻亜子の意志を打ち砕いたのは芳野の冷徹な声だった。
 既に芳野はウージーの弾倉を交換し、杏の盾になるように移動していた。
 エレベータは止まらない。徐々に小さくなってゆく芳野の姿とは対照的に、声はどこまでも大きく響いた。

「今出てきても狙い撃ちだ。感情に任せて自分のやるべきことを見失うんじゃない。来るな。これは大人としての命令だ」

 やるべきこと? なんだよ、それ。
 それをあんたがやろうとしているんじゃないかと言い返そうとした麻亜子に、一際大きな声で芳野が言った。

「妹を守れるのはお前だけだ。妹を……風子を、頼む」

 声を大きくしたのは、麻亜子の後ろにいる風子に対して言ったものなのかもしれなかった。
 その意図を、その言葉を聞いてしまえば、これ以上我を押し通すことなど出来ようはずもなかった。
 狡い。一番大切な人を任されて、言い返せるはずがない。
 かつて河野貴明に対して、ささらを頼むと言ったときのことを思い出し、
 自分はこんなにも過酷なことを押し付けていたのかと麻亜子は後悔した。
 握る拳が震え、折れそうなほど歯を食い縛る。
 言葉を失った麻亜子を置いて、エレベータは下がってゆく。

 ――なら、だったら。

 貴明はささらを守りきれなかった。それでも、最後の最後まで守ろうとした。
 それで舞の命は救われ、舞が自分の命も救った。

 ――自分は……誰かを救えるのだろうか?

     *     *     *

757エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:19 ID:.B1J6ho60
 ここにきて、無理が祟ってきたらしい。
 ナイフが突き刺さった場所から、波が伝播してゆくように全身に熱が走り、感覚を灼く。
 意識が朦朧とする。力が入らない。頭がちりちりする。吐きそうだ。
 全身がぷつぷつと切れてゆくような、自分をつなぎ止めているものが切れそうな感じは、きっと気のせいではないのだろう。
 傷が開きかけていることを半ば確信しながら、杏は背中に突き刺さったナイフを乱暴に引き抜いた。
 ぬるりとした感触が嫌で、即座にナイフは投げ捨てた。
 刃の半分以上が血で汚れていたことから考えると、
 きっと大怪我なのだろうなと他人事のように思いながら、杏はニューナンブを引き抜いた。

 倒れたままの姿勢で二発、三発と引き金を絞る。
 いつの間に拾い直したのか、P−90を構えていたアハトノインが下がる。
 いきなり下がったアハトノインに、ぎょっとした芳野が杏の方を向きかけたが、「よそ見しない!」と一喝すると、
 すぐに追撃を開始した。
 だが右腕がないにも関わらず、アハトノインは必要最低限の回避動作をするだけで応える様子もなかった。
 全く忌々しい。ナイフを隠し持っていたことといい、底意地の悪さが見て取れようというものだ。

 舌打ちしながら、改めて状況を確認する。
 エレベータは既に動き始めており、ここには杏と芳野、そしてアハトノインしかいない。
 残りの二人は無事逃げおおせたということだ。
 安心する一方で、こちらは絶体絶命の状況に追い込まれたことも理解して、杏は乾いた笑いを上げた。

「置いてかれちゃいましたね」
「そうだな」

 淡々とした返事。だが弱さもなく、黙って盾になってくれた芳野に対して杏が思ったのは、頼りになるなという感想だった。
 言葉にしなければ伝わらないこともあるが、言葉にしなくても伝わることもある。
 男だけにしか分からないものなのかと思っていたそれが、今ようやく理解出来たような気がして杏は少し嬉しくなった。

「で、どうします? もう逃げられませんけど」
「一応……考えてはいる」

758エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:35 ID:.B1J6ho60
 少し間を置いたのは、逡巡しているということなのだろう。
 つまり、それは――

「いいですよ、やっちゃってください」

 考える前に、杏は言い切った。
 考えてしまえば腹を括れるはずもないと思ったのがひとつ。
 それと時間がないと思ったのがひとつだった。

「でも一つだけ聞きますよ」
「なんだ」
「最初からこのつもりじゃなかったんですよね」
「当たり前だ」

 間をおかず、芳野は即答してくれた。
 期待通りの返事にホッとする。けれども、だからこそ、あの一瞬の逡巡がどれだけの苦悩に満ちていたのか想像するのも難く、
 ヘマやっちゃったなぁという後悔が浮かんできた。
 この過失が誰のせいでもないということは分かっている。この負債を誰が背負うのかということも答えられるはずがない。
 そういうとき……いつも黙って請け負ってくれるのが大人だった。
 結局最後の最後まで借りを返すことは出来なかったと思いを結んで、だったらと杏は自身の弱気の虫に言い返した。
 ガキんちょは我侭言ってやろうじゃないの、と。

「何かできることあります?」
「好きにしろ。ただ、自爆はしてくれるなよ」

 ああ、そういう作戦かと杏は納得した。あくまで勝つため、か。
 どうやらしぶとく生き残るつもりであるらしい芳野に応えるように、杏はなにくそと体に鞭打って足を立たせる。
 ほら、立てた。まだ生きれるじゃないの、あたし。
 口内にへばりついていた血を床に吐き捨て、杏は不敵な目で眼前の敵を見据えた。

759エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:52 ID:.B1J6ho60
 こうして見てみれば、状況は決して不利なばかりではない。
 アハトノインは片手を失い、かつ空手。
 先程のようにナイフを隠し持っていることも考えられるが、いつまでも続くわけがない。
 どだい、逃げようとしていた以前とは違い、こちらは背水の陣で覚悟を決めている。
 本当に持っていたとしても不覚は取らない自信があった。

 芳野がウージーを構えながら突進する。
 その選択は正しい。敵に行動させる暇は与えない。活路は前にある。
 地を蹴って芳野から離れようとするところに、杏が日本刀を持って迫る。
 狙うは首一つ。ロボットと言えど、頭部を破壊されては無事ではいられないはず。
 渾身の力を込めて白刃を横に薙ぐ。人間の皮膚程度なら紙でも裂くように斬る刃は、しかし咄嗟のガードによって阻まれる。
 空いた左腕で受け止めたのだ。怪我など考える必要のないアハトノインならではの防御だった。

 だが、これは布石。
 近接武器の役割は力で抑え込むこと。即ち、動けなくさせること。
 芳野は銃を撃ちに行ったのではない。
 拾いに行ったのだ。

「退けっ!」

 バックステップした瞬間、凄まじい銃弾の雨がアハトノインを撃ち貫き、ビクンと体を跳ねさせる。
 P−90の5.56mm弾が防弾コートごと貫通し、皮膚の内面で回転して衝撃を伝えた結果だった。
 よろめき、赤い液体を吹き散らす修道女。更にP−90の銃口を引き絞った芳野だったが、
 今度は垂直に飛んで避けられる。
 もはや反撃など考えない、必死の回避。

 ――しかし、これも布石。
 どんなに人離れした運動が可能とはいっても、それは地に足が着いていればの話だ。
 空中にいるアハトノインに、もういかなる攻撃も回避する術はない。
 そう、最初から狙いは一つ。

760エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:50:13 ID:.B1J6ho60
 杏は床に落ちたグルカ刀を拾い――
 目的は頭部の破壊。それだけだ。
 ――思い切り投擲した。

 ぐるぐると、さながらブーメランのように回転するグルカ刀は、反応を遅らせたアハトノインの眉間に刺さり、
 カクンと頭を傾けさせた。杏の投擲能力があればこその芸当。
 芳野はどう考えていたかは知らない。本当にP−90でトドメを刺すつもりだったのかもしれない。
 杏は杏で、自分でも確実にトドメを刺せる方法を考え、可能な限り実行しようと思っただけだ。
 別に意志の疎通をしていたわけではない。
 それでもこうして見事に連携させられたのだから、人の適応力は恐ろしいものだと杏は思った。

 これでひとまず安心ですね。
 そう言おうとした杏の肩に、重たい感触が走った。
 だが重たさを感じたのはほんの一瞬だけで、そこから先は灼けた鉄の棒を無理矢理体に押し込められた感覚だった。
 喉になにかが込み上げ、耐えられずにゴホッと吐き出す。口から飛び出たモノの色は赤かった。
 何だろうこれはと思う間もなく、激痛に支配された体が倒れ伏す。
 辛うじて動かせたのは目だけだった。動かした視線の先では芳野が何事かを叫んでいる。
 激痛は耳をバカにしてしまうらしい。耳鳴りが激しい。なんだ。一体、これは?

 疑問に答えたのは自身の上を通り過ぎた影だった。
 ゆらり、ゆらりと。
 墓から這い出たゾンビのように、覚束ない足取りで芳野に迫る影は……
 間違いなく、先程眉間に刃を突き刺したアハトノインだった。
 は、と杏は夢でも見ているかのような気分になった。

 頭を狙っても死なない? 冗談でしょ?

761エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:50:46 ID:.B1J6ho60
 何度倒しても蘇る、死の世界の住人。
 この島の怨念を取り込み、動力としていると言われても納得してしまいそうなほど、
 目の前のアハトノインは現実離れした存在だった。
 勝てるわけがない。人間風情がこんな化物を倒そうと思ったのがそもそもの間違いだった。
 自分自身の命も、もう残り僅かしかないのが分かる。
 そんな状況で何ができる? たかが一回の女子高生でしかない自分が、あんな化物相手にどうにもできるはずがない。

 もういい。痛いのも辛い。早く、誰か、あたしを楽にしてよ……!

 じりじりと追い詰められてゆく芳野を見るのを苦痛に思われ、杏は目を閉じる。
 一度遮ってしまえば、そこはもう何も無い世界だった。
 嫌なことも、辛いことも感じずに済む、虚無の世界。
 最後に辿り着いたのがここかと感想を結ぼうとした杏の脳裏に、せせら笑う声が聞こえた。

 ――僕よりヘタレじゃんかよ?

 聞き間違えるはずもない。それは春原陽平の声だった。
 結局この島では再会することすら叶わず、放送でしか死を確認できなかった腐れ縁の友人。

 ――らしくねぇよ。お前、エキストラか何かじゃないのか?

 春原と一緒に、挑発するように笑うのは岡崎朋也だった。
 好きだった人。会うことも、思いを伝えることすらできずに彼岸へ旅立ってしまった人。

 ――根性ないなおい。俺の苦労返してくれよ?

 茶々を入れるような軽い声は折原浩平のものだった。
 身勝手に、自分を置いたままやりたいことだけやって死んだ、馬鹿な男の子だった。

 ――お姉ちゃん。その、格好悪いよ……

 普段絶対言わないようなことを言ってきたのは妹の藤林椋だった。
 死んで欲しくなかった。どんな形でもいいから、生きていて欲しかった。

 ――あはは。しょうがないよ。だってこの人。案外ヘタレなんだ。

 屈託のない笑顔でとんでもないことを言ったのは柊勝平だった。
 人殺しをしようとして、自分が殺してしまった人。
 好き勝手なことを言う周りの面々に対して、杏が抱いたのは逃避したい気持ちではなく、
 お前らが言うなという怒りにも似た気持ちだった。
 大体、どいつもこいつも勝手なことばかりして死んでいった連中ばかりじゃないか。

762エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:00 ID:.B1J6ho60
 陽平は惚れた女の子を残して死んじゃうし!

 朋也は風子ちゃん残して死んじゃうし!

 折原は何も言わずに行っちゃったし!

 椋も勝平さんもたくさんの人に迷惑をかけたし!

 ……でも、それでも。
 例えたくさんの人を殺し、間違いを犯してきたのだとしても……
 守るためには仕方のなかったことなのだとしても……
 生きていて欲しかったのに。
 死ぬのは、誰かを置いて行ってしまうのは、とても寂しい。
 そうさせたくないし、したくない。

 ――死にたくない。

 どんなに情けなくて、みじめでも。

 ――あたしは、皆と、生きていたい!

 目は、もう閉じていなかった。

     *     *     *

763エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:19 ID:.B1J6ho60
 そこから先は十秒にも満たない時間の中での出来事だった。
 芳野はP−90を構えようとしたが、それより先に懐に飛び込んだアハトノインに銃を弾き飛ばされた。
 腕が浮き上がったところをグルカ刀で腕ごと叩き切られ、芳野が絶叫する。
 更に返す刀で腹部を斬られ、芳野は戦闘能力の殆どを奪われた。

 しかし、それでも戦いを諦めたわけではなかった。
 絶叫したのは痛みを忘れるため。銃を握り続けるため。
 残った方の手は、しっかりとデザートイーグル・44マグナムを握り締めていた。
 生きているのなら、まだ戦えるしどんなことだってできる。
 芳野がこの島で唯一得た、価値のある宝物だった。

 生きてさえいれば。

 時間をかけて罪滅ぼしの方法を考えることだってできる。
 自分の生きる意味を考える時間だってできる。
 だから絶対に諦めない。自分が、人としていられるために。
 残った腕に、戦うための力を全てつぎ込んで、芳野は発砲を続けた。
 P−90でボロボロになり、防弾コートが半ば役立たずになっていたアハトノインは衝撃をモロに受け、
 一発受けるたびに一歩ずつ後ろに下がってゆく。

 このままエレベータから突き落としてやる。芳野の頭に残っていたのはもはやそれだけだった。
 右足。左足。一歩ずつ後ろに下がっていったアハトノインに、もう後はなかった。
 更にもう一発。下がれる場所のないアハトノインの体がぐらりと傾き、バランスを崩す。
 残り一発。その体に撃ち込めば、エレベータから落ちる。

764エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:37 ID:.B1J6ho60
「喰らえ……化物……!」

 言葉に力を込め、弾丸に乗せようとした芳野の執念は――しかし、カチリという弾切れの音に遮られた。

「たま……切れ……くそ……!」

 手から力がすっぽ抜け、甲高い音を立ててデザートイーグルが床に落ちた。
 それと同時、全身を支える力もなくなり、ずるずると芳野の体も崩れ落ちる。
 辛うじてエレベータの柵を掴んで押し留めたものの、片腕のない芳野にできることはもうなかった。

 視線の先では、ゆっくりとのけぞりから元の姿勢に戻ったアハトノインがコキリと首を傾げる。
 頭部を攻撃されて多少なりともコンピュータが狂ったのか。
 それとも、肝心なところで一歩届かせることもできない自分を嘲笑ったのか。
 何も映さず、虚無のみをたたえた工学樹脂の瞳を睨みつけながら、芳野は「機械風情が余裕面するな」と唸った。
 アハトノインは何も言わなかった。いや正確には、彼女自身は喋っているつもりだったようだ。
 口が開いているところを見ると喋ってはいるらしいのだが、発声機能がおかしくなっているらしい。
 芳野は笑った。こんなときですらありがたい教えの時間か。
 自らを絶対の優位者と恥じない傲慢ぶりには恐れ入る。
 だから、と芳野は柵を握ったままの手から指を一本、天へと向けた。

「――人間を」
「舐めるなぁぁああぁぁああぁっ!」

 それは宣戦布告などではなく、合図だった。
 やれ。やってしまえという芳野の合図。
 サインを受けて、倒れて戦闘不能になっていたはずの……
 血の海に倒れていたはずの杏が、駆けた。

765エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:53 ID:.B1J6ho60
 アハトノインは一瞬、それを認識できないようだった。
 日本刀を持った杏の姿をぽかんと見つめていた。まるで幽霊でも見るかのような目で。
 傑作だな、と芳野は破顔した。ゾンビが幽霊に殺される、か。
 杏は真っ直ぐに日本刀を突き出し、アハトノインの腹部を刺し貫いた。
 か、と口を開いて、修道女の体がくの字に折れる。
 そこを見逃さず、杏は前蹴りで体を突き飛ばす。
 後ろには何もない。頭から真っ逆さまに、アハトノインは奈落の底へと落ちていった。

 今度こそ終わった。その実感が芳野の中を巡り、緊張の糸が切れた。
 もう握る力さえなくなった手が柵から離れ、そのままずるずるともたれかかるようにして座り込む。
 煙草を無性に吸いたい気分だった。それだけ心地良かった。
 ポケットの中に入っていたらいいのにと思い、まさぐろうとしてみたが、片腕ではもう一方のポケットを探れない。
 やれやれだと嘆息していると、同じように疲れきった表情の杏が隣にやってきて、倒れこむようにして座った。
 袈裟に斬られた体は半分以上が真っ赤で、生きているのが不思議なくらいだった。
 いやそれは自分も同じようなものかと思い直して、「お疲れさん」と一言労う。

「どーも」

 気だるげにしながらもニッと笑った杏に、芳野は素直に可愛いなと思った。
 普通に生活を送っていたなら、きっと彼氏の一人はいただろう。

「……あー、疲れましたね、なんか」
「ああ……」

 エレベータはまだ降りきらない。どれだけ長いのかと思ったが、実際には戦っていた時間が短かっただけなのかもしれない。

「ねえ、暇ですよね」
「暇だな」

 これからやらなければならないことは山ほどあったが、今現在が暇であることは否定しない。
 ただ待つだけの時間になってみるとやたら長く感じられるのだからおかしなものだった。

766エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:13 ID:.B1J6ho60
「あたしね、保母さんになりたいんですよ」
「ほう」
「なんというか、結構人の世話焼くのが好きなんですよ。……芳野さん、どんな職でしたっけ?」
「電気工だが」
「どうして電気工に?」
「色々あったから……と言いたいところだが、特別サービスだ。教えてやる」

 どうせまだ時間はある。つっけんどんに終わらせてしまうのは勿体無いと思って芳野は話すことにした。
 隠し続けるようなものでもない、と吹っ切れたのかもしれない。
 わくわくしているのを隠しきれていない杏の顔を見れば理由付けなどどうでも良くなったというのもあった。

「まあ、そうだな。俺は元々歌手だった。夢のロックスターとやらだったんだ」
「へぇ……実はあたし、あんま音楽聴かないんですよね」
「割と国民的に人気だったんだがな。知らなかったか」

 はい、と素直に頷く杏にまた可笑しくなり、くくっと笑いながら話を続ける。

「全盛期はすごいもんだった。毎日ファンからレターが届くような感じさ。それこそ老若男女問わずにな。
 そう、どんな奴も俺を応援してくれていた。俺の歌に希望を持ってくれていた。
 次の曲にも期待しています、頑張ってください。そんなコメントと一緒にな。
 中には俺の歌のお陰で生きる希望を取り戻したなんて奴もいた」
「凄いですね……」
「それだけ聞けばな。だが、当時の俺は気が気でなかった。
 なにせ誰かを救うだなんて考えたこともない。好き勝手に曲を作って、好き勝手に歌ってただけなんだからな。
 次の曲も希望を与えなきゃいけないって脅迫されているような気分になった。
 元々考えるのが苦手な俺だった。すぐに曲作りに行き詰った。
 フレーズが浮かばなくて、メロディが浮かばなくて、それなのにファンの期待は止まらない。
 俺の歌は迷走を始めた。末期には今までの俺そのものを否定するような歌を作ってたくらいさ。
 その挙句に、俺はヤクに手を出した」
「麻薬……ですか?」
「そうだ。それで拘置所行き。出所したときには、もう何も残っちゃいなかった。
 ファンも、金も、名声も、歌も、何もかも。
 俺は虚ろな目をしたまま元いた町に帰った。なんのことはない、そこしか行く場所がなかったからだ。
 もう世界に、俺の居場所なんてなかったんだ」

767エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:36 ID:.B1J6ho60
 芳野はそこで一旦言葉を区切った。
 改めて口にしていると、なんとまあ波乱万丈な人生だったと呆れる。
 やりたいことをやって頂点まで上り、そのまま転げ落ちていった哀れな男。
 だが、今も底辺をさまよっているとは思わなかった。

「だけどな、そんな俺を待っててくれた人がいるんだ。
 伊吹公子さん……今となっちゃ元婚約者だが、笑って俺を出迎えてくれたんだ。
 おかえりなさい、ってな」

 故郷には、待っていてくれる人がいた。
 世界から見放されても、決して居場所を失ってしまったわけではなかった。
 この島で公子を失ってしまったが、それでも自分を支えてくれる人はたくさんいた。
 居場所は誰にでもある。その気になりさえすれば、またやり直すことが出来るのだと知った。

「……そっか、それで妹さん、か」
「隠すつもりはなかったが……悪いな」
「ま、そんな経緯があるんじゃしょうがないですよ」

 重たすぎる昔話を、杏は笑って受け流してくれた。
 案外こういうものなのかもしれないと思い、芳野は昔を嫌悪していたことが可笑しくなった。
 心のどこかではまだやさぐれていて、同情されるだけだと思い込んでいたのだろう。

「歌手だったんですよね」
「ああ」
「じゃ、一曲歌ってくださいよ。どうせ、暇なんですから」

 エレベータはまだ降りきらない。
 ならそれも悪くないかもしれないと思い、芳野は「特別だぞ」と言った。

「何がいい。あまり最近の歌は知らないんだが……」
「大丈夫です。あたし、超メジャーな曲しか知らないんですよね」

 元歌手と、その知り合いのする会話ではないと思い、二人で笑う。
 こんな時間を過ごせるのだから、あんな過去でも捨てたものでもない。
 いつかこうして笑える機会が来る。こうして、生きてさえいれば。

768エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:51 ID:.B1J6ho60
「あー、そうですね……じゃあ、あの歌で」
「なんだ」
「あれですよ……ちょっと昔に流行った、そう……メグメルって歌」

 ああ、と芳野は頷いた。
 他人の曲だが、芳野も知っている。
 よろこびのしま、という意味の、やさしい旋律の歌。

 一度思い出すとするすると歌詞が思い出されてくる。
 全て思い出してみればここで歌うにしては中々にいい曲だなと思った。

 ふ、と一瞬口元を緩ませてから、芳野は歌を口ずさみ始めた。


 その顔は全てを赦し、また赦された人間の顔だった。


 歌声が、静かに、ただ静かに、響いていた。

769エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:53:05 ID:.B1J6ho60


















【芳野祐介 死亡】
【藤林杏 死亡】

770エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:53:44 ID:.B1J6ho60
芳野、杏周辺
装備:デザートイーグル44マグナム、ニューナンブ、ウージー、89式、ボウガン、注射器×3(黄)、グルカ刀、P−90
【銃器は全て残弾0】
【エレベータ内に爆弾があります】

麻亜子、風子
装備:デザートイーグル50AE、イングラム、SMGⅡ、サブマシンガンカートリッジ×3、S&W M29&nbsp;5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、ボウガン、宝石、三角帽子


朝霧麻亜子
【状態:あたしに誰かを救えるの?】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

伊吹風子
【状態:泣かない。みんなで帰りたい】

→B-10

771凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:08 ID:.g4VCraU0
せんせい。せんせい。
ずっと傍にいてくれた先生。
私の話を信用してくれたせんせい。
先生。せんせい。

せんせいがくれた安心が、嬉しかったの。
先生が教えてくれた命の大切さを、大事にしようと思ったの。

先生。せんせい。
せんせいが私を守ってくれたの。
先生が私を守ってくれたの。

私も、せんせいの助けになりたかったの。
なりたいと思ったの。


せんせい。

せんせい。何処へ行くの?



     ※     ※     ※



「……どうして、こんなことを?」

772凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:25 ID:.g4VCraU0
ふわりと。
羽根のような軽さで、少女は静かに立ち上がった。
頬には、痛々しい焼けた痕が一筋。そこから流れる血液は、少女の顎に向かって一直線に伸びている。
顔の汚れを気にする素振りを一切見せず、少女、遠野美凪はそのまま歩を進めた。

彼女の目には、正面にいる男しか映っていない。
少年。
今ここで絶対の力を持っている、危害をぶつけてくる人物である。

美凪の一歩一歩は、とても小さな動きだった。
まるで夢の中を彷徨っているかのような緩慢さに、彼女の混乱している様が垣間見えるだろう。
悲しみに細められた美凪の瞳、その色は他者の心に容易く罪悪感を植えつけることも可能だと断定できるくらい、どこまでも昏い。

「君達は、何のために自分達が連れて来られたのかをきちんと理解していないようだね」

美凪の哀願を湛えていた眼差しすらも、彼は一刀で軽々と裂いた。
少年の声色はいたって冷静であり、彼の漂わせる張り詰めた空気もどっしりとしたその様子を物語っている。
ゆっくりではあったが確実に縮まっていたはずの美凪と少年の距離が、そこで一度停滞した。
当てられた不安要素に自然と両の手を胸元に当てると、美凪はそのまま黙って立ち竦む。
対し、かけた圧迫の手応えを感じたからか、少年はどこか満足そうだった。
びくつきながらも決して引こうとはしない美凪を上から下まで見渡した所で、少年はまるで幼子に物を教えるように言葉を紡ぐ。

「君達は、殺し合いをするためにここにいるんだよ」

少年の下す、きっちりと断定された決定事項。
頭の悪い稚児にしっかりと言い含むような強さがある台詞に、美凪だけではなく一同が呆然となる。
今ここで少年と対峙している面々、その誰もが彼に言い返そうとしなかった。
困ったように八の字の如く寄せられている美凪の眉、その表情は諦めか。
ただただ困ったようにも見える透明感、納得は決していかぬだろうが美凪の様子はとにかく「静か」であった。

773凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:48 ID:.g4VCraU0
それは、彼女の性格だからかもしれない。
ゆったりとした美凪の気質が、影響しているのかもしれない。
……ならば、彼女と正反対の激情家であるもう一人の少女は、どうなる。

「馬鹿にするんじゃ、ないわよ……っ!」

わなわなと震えながら、少女は握る拳の力を怒りでさらに倍増させた。
彼女も立ち上がっていた。いつの間にか、立ち上がっていた。
折れそうになっていた戸惑う気持ちを胸の奥に押し込めた状態で、広瀬真希はしっかりと自分の両足で立ち上がっていた。

「そんなの勝手でしょ、あたし達が望んだことじゃない!」

真希が味わった恐怖の種は、この瞬間全て吹き飛んでいた。
非日常的残虐な光景に、真希の心は何度も悲鳴を上げている。
慣れることなんて、できやしなかった。
もう、全てから逃げ出したいとさえ、真希は思っていた。
こんな怖い世界から、いなくなりたいと願った。

「あんた何様よ、決め付けるなんて信じらんないっ!」

つかつかと、怒鳴りながら少年と美凪の間に割って入っていく真希には、今やそんな後ろ向きな姿勢の片鱗は一寸も無い。
強い意志を湛えた眼で、真希は少年を睨み付けている。

「真希さん……」

庇われる形で真希の背後に追いやられていた美凪が、真希の羽織っている割烹着の端を恐る恐る引く。
挑発的とも思える度を越えた真希の行動に、さすがの美凪もどう対処すればいいか分からなくなっているらしい。
軽く振り返り美凪と目を合わせると、真希は大きく一度だけ頷いた。
大丈夫だという意志をしっかり込めながら、真希は美凪へとアイコンタクトを送る。
安心の裏づけ等、決してない。
それでも美凪が大人しく引き下がるくらいの力が、真希の瞳の中で盛っていた。

774凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:10 ID:.g4VCraU0
真希の心は、いくつもの恐怖でぐにゃぐにゃに歪められている。
そこであげた悲鳴の数なんて、彼女自身一々覚えてなどいられない。
そんな、逃げたいと真希が叫ぼうとする瞬間いつも目にするのは、誰よりも彼女の近くにいたこの大人しい少女だった。
美凪は気づいていないが、真希がこうして奮い立てたのは彼女の影響である。
美凪は強い。
暴力的な意味ではなく、美凪はとてもしっかりとした少女だ。

例えば、怪我を負った相沢祐一を真希と美凪の二人で発見した時。
夥しい血の量に目を白黒させるだけだった真希に対し、美凪は行動は素早かった。
今真希の目の前にいる、この少年とのいざこざでもそうだろう。
一度目は保健室、二度目は先程の不意打ち。
美凪がいなければ、真希は彼の放つ銃撃の餌食になっていたはずだ。

真希は知っていた。
普段ぽややんとしている美凪が、本当は自分よりもずっと強い少女であるということを。
自分よりもずっと落ち着いた状態で、きちんと事の判断ができる人間だということを。

そんな美凪が、今、こんなにも無防備な姿を晒している。
異常の度合いは大きい。
この意味で目の前の少年の異質さは、最早真希の想定の範囲を優に超えるものになっていた。

「あんたの道楽に、こっちまで巻き込んでんじゃないわよ!!!」

少年と違い、自身に人を殺める力がないことを真希は理解している。
それ以上に、人を傷つけるという行為を彼女は想定できていない。
それでも、真希は周りの人間を守る側に居たかった。

『でも、だからと言って先生やことみが見殺しになっちゃうかもっていうこの状態は、耐えられないから。無理、絶対無理』

775凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:27 ID:.g4VCraU0
向坂環の前で放った言葉、それが真希の全てである。
自分の目の前で、自分の大切な仲間を傷つけられるのを見逃してたまるかという、ただそれだけの意地。
肩から提げていたデイバッグの中を探り、取り出した斧を片手に真希は少年と対峙した。
この斧で人を切りつける想像は、勿論真希の中ではできていない。
しかし、もうそんな初歩的なことすらも関係ない域に真希は来てしまっている。

誰も止められない。
人一倍意地っ張りな彼女を止められる人間なんて、ここには一人もいない。

「君は馬鹿だね」

真希の暴走を冷静に流す少年の表情は、呆れの一色に染まっている。
すたすたと、今度は少年が一気に真希達との間合いを詰めた。
美凪の表情に焦りが混じる。
手にしていた真希の割烹着を美凪は幾度も引いてみたが、真希が彼女と再びコミュニケーションを図ることはなかった。
何か策があるのか。ないのか。
それこそ周囲の人間、見届けることしかできていない者達も真希の狙いを見極めることは全くできていない。

「果敢と無謀の意味を履き違えると、痛い目を見るよ」

ついには手を伸ばせば触れられるくらい、両者の距離は近くなった。
真希は少年が迫ってくるまでの間も、今も、ずっと逸らすことなく彼の目を刺すように射っている。
真希が引く様子は、やはり皆無だ。

「僕が怖くないの?」
「……」
「そっか」

776凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:45 ID:.g4VCraU0
一言。
対話は、それで終了となる。
問答に応じない真希を少年が見切ったのは、一分にも満たないその一瞬だった。

「きゃああっ!」

さすがに、ここまで手が早いとは真希も考えていなかったのだろう。
飛んできた少年の裏拳で、真希の体は軽々と吹っ飛んでいた。
握られていた真希の斧も、衝撃で彼女手の中からすっぽ抜けるとそのまま明後日の方向へと転がり落ちていく。
美凪の視界で景色が揺れる。
殴りかかるために手放したあの大振りの盾、少年の手から解放されたそれと真希の体が地に沈むのが、正に同時だった。

「真希さんっ」

真希の体が叩きつけられた音で、美凪もはっとなる。
しかしすぐ様駆け寄ろうとする美凪に対し、少年がそんな愚行を許容する訳もない。
すかさず美凪の腕を掴み、ぎりぎりと捻り上げることで少年は彼女の行動を制限した。
たまらず苦悶の声を零す美凪、強すぎる少年の力が彼女の額にぶわっと脂汗を浮かび上がらせる。

「美凪に……さわんじゃないわよおぉぉぉ!!!!」

がなったのは、真希の咆哮だった。
ふらつきながらも起き上がり、殴られたことで切れた口元の痛みも気にすることなく真希は少年へと突進した。
片手に拳銃、もう片方の手には美凪を捕らえた状態の少年は、余裕の表情にて低姿勢で迫ってきた真希を蹴り返す。
再び、真希は地面にダイブする。
それでもよろよろと起き上がり、真希は諦めることなく少年へと駆け出した。

土埃でドロドロになっていく真希の割烹着、克明に記し付けられた蹴られた跡も痛々しい。
顔中が腫れ上がっていっても、真希は決して引こうとしなかった。
止まらぬ真希の勢いに、少年の無表情が崩れていく。
少年は、手を使わずに足技だけで真希を凪ぎ払っていた。
その様子、まるで遊戯である。

777凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:05 ID:.g4VCraU0
いや、遊びだった。
遊びだから、少年は真希に止めを刺していなかった。それだけだ。

「あの子、一体何考えてんのよ……っ」

傍観者が口を開く。
環の表情には、どうすることもできない現状に対する苛立ちが詰まっていた。
彼女も銃と言う名の凶器を手にしていたが、真希達の様子を見る限りこうも折り重なるようにされてしまうと、簡単に引き金を引くこともできない。
それは、環と同じく立ち尽くすしかない相沢祐一も同じだった。

二人とも、既に銃を撃つという行為には抵抗がない域まで行っている。
しかし、射撃の腕はそれとは別だ。
万が一真希と美凪にでも被弾してしまったらと考えてしまうと、環も祐一も身動きが取れなくなってしまう。

「……撃って。あの二人なら大丈夫。割烹着に当たれば、大きな怪我になることはないと思うの」

環と祐一、二人の視線が集中する。
その先には、環の腕の中で守られていた少女の姿があった。
小さな体に、幼さが強調される愛らしい髪飾り。
か弱い外見の一ノ瀬ことみの口から、そのような獰猛な台詞が発せられるとは二人とも予想できていなかった。
環の腕を解きながら、ことみは淡々と言葉を続ける。

「あの二人が着ているのは、防弾性なの。多少は耐えられるから」

直接的な打撃をボディにあれだけ受けながら真希が食らいついていけているのも、きっとその恩恵だろう。
彼女の装備を知らない環や祐一からすれば、寝耳に水の情報だった。
そうして、しっかりと自身の足で立ち上がったことみは、一瞬だけ作られたばかりの赤い水溜りに目をやる。
沈んでいる霧島聖の遺体に眉を寄せるものの、ことみが気持ちを切り替えるのは早かった。

「怖いなら貸して。気がこっちに向かない内に、嗾けなくちゃ意味ないの」

778凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:22 ID:.g4VCraU0
暴力的な強要に、ことみと触れ合う時間がほぼ皆無であった二人は、かなり驚いているようだった。
しかしことみは全てを無視する。
二人に質問をする間すら与えない。
非情な面を見せることみだが、彼女もすぐ気持ちを落ち着かせることができた訳では、決してなかった。





美凪が動いたことで真希が少年に喧嘩を売るような形になってしまったその時、ことみは一人大人しくしていた。
その身は未だ、環の内に抱えられている。
環の温もりの中、ことみは真希達の姿を眺めていた。眺めているうように、見えた。

(せんせ、せんせ、せんせ)

ぱくぱくと、声にならない言葉を紡ぐ。
ことみは必死に話しかけていた。
既に絶命している聖に向かって、声をかけていた。

(せんせ、せんせ、せんせ)

聖は答えない。答えられる訳もない。
ことみにとっての一番の理解者に成り得たはずの大人の女性は、ここで欠けてしまった。
聖と二人でこの島から脱出を誓った夜が、ことみの中で走馬灯のような幻影として蘇る。

(せんせ、せんせ、せんせ)

ぱくぱくぱく。
ことみの乾いた唇は、それでも無言を唱え続けていた。
締め付けられた胸の痛みに、ことみははらはらと涙を流す。

779凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:39 ID:.g4VCraU0
ことみは決して、強靭な精神を持ち合わせた人間ではない。
冷静にものを考えることができ、頭の回転も早い有能な人種ではあるだろう。
しかし彼女の能力が発揮できるのは、ことみ自身の心にある程度の余裕がある場合に限る。
このような非日常、体も心も磨耗していくしかない世界に放り込まれ、彼女のバランスが崩れない訳はない。

保健室の一件で不安定になったことみの心、何とか無事に生還できたがその直後に与えられたのがこの仕打ちである。
揺らいでいたことみの波、甘い作りの防波堤には既にいくつものヒビが入っていた。
信じられない、信じたくないといったお決まりの嘆きを、ことみはひたすら零す。
空虚を作りたくない。
思考に間を作ってしまったら闇が全てを飲み込んできそうで、ことみは自身を止めることができなかった。

……ふと。
そんな彼女の脳裏に、数時間前の出来事が甦る。

ことみは、キーボードを打っていた。
カタカタと、無心で作業をしていた。
鎌石小学校の、パソコンルーム。そこにことみは聖といる。
まだ直接的な死とは無縁にあったあの頃、ことみも聖も近しい人間を失ったことを知った。

『もう誰も、死なせたくないの』
『私だって、そう思うさ』

ぽつりと、自然に漏れたことみの言葉。
聖のレスポンスは早かった。

780凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:56 ID:.g4VCraU0
誰も死なせたくないという思い。
悲しいという思い。
心が涙を流すのは、強制的に無に返されるという痛ましさに対してだった。
命を奪われるという行為が、恐怖ではなく悲愴であったあの頃。
その延長。
ことみは、ことみ達は、ずっとそんな感覚を持っていたはずだ。

何故少年を追い詰めた時、彼の命を奪わなかったのか。
奪おうとしなかったのか。
簡単だった。
死なないために殺すという選択肢を、ことみだけではない……彼女達、皆持ち合わせていなかったからだ。

(せんせ。私達は、間違っていたの?)

ぽつりと、自然に出たことみの疑問。
聖から返ってくるものはない。

誰も傷つけたくない、死なせたくない。
その直情が間違いだなんてことみは決して思わない、しかし。
目に映ったもので、ことみは理解した。
すぐに理解した。

無謀な形で少年に歯向かう真希の姿は、事情を知らない人間からすれば滑稽なものだろう。
信じられないだろう。
ことみだけが、真希の心理を明確に感じ取っていた。
死なないために殺すという選択肢を持たないことみだからこそ、周りの人間をただ守りたいだけなんだという真希の無垢さに気づいた。

何であれ、このまま真希が無駄死にしてしまう可能性は非常に高い。
絶対の確立を持っているくらいだ。
美凪を取り押さえるのに例の大盾を手放しているものの、少年はまだ銃をその手に握ったままだ。
今はまだ真希を甚振っているだけだが、少年の気さえ変わればいつでもその命を奪える立場に彼はいる。

781凡人表明:2010/04/21(水) 12:15:14 ID:.g4VCraU0
「撃って。あの二人なら大丈夫。割烹着に当たれば、大きな怪我になることはないと思うの」

ことみの切り替えは、早かった。
涙の筋はまだ頬に残っている。
それでもよろめくこと等なく、ことみは庇われていた安全な場所から抜け出した。
美凪を捕らえ、真希に一方的な暴力を振るう少年をことみはじっと見据えている。

大盾という少年を守る壁がない今も、またと言えない機会だった。
直接の力の差は、自覚するしかない。
そこを埋めるチャンスの一つ一つを見逃さないことが重要だと言うことを、ことみは痛いほど学んでいた。
あとは、行動に出るだけである。
その踏ん切りを、ことみはつけている。

「あの二人が着ているのは、防弾性なの。多少は耐えられるから」

しっかりと自身の足で立ち上がったことみが、一瞬だけ作られたばかりの赤い水溜りに目をやる。
沈んでいる聖の遺体に眉を寄せるものの、ことみが気持ちを切り替えるのは早かった。

「怖いなら貸して。気がこっちに向かない内に、嗾けなくちゃ意味ないの」

冷静にものを考えることができ、頭の回転も早い有能な人種が行動に出ようとする。
欠けていた心の脆弱さを意識し直したこの瞬間、彼女は誰よりもこの島で生き残れる可能性のある強みを手に入れていた。

782凡人表明:2010/04/21(水) 12:15:36 ID:.g4VCraU0







ただ、それは。


「……ひっ!」


少しだけ。


「?! 止め、止めてください、お願っ」


遅かった。








「真希さあああああああぁぁぁぁぁぁんんんっ!!!!!!!!!!」

大人しい、いつもぼそぼそとした声でしかしゃべることのなかった遠野美凪という少女が、今まで上げたこともないであろう大きな悲鳴を声にした。
美凪の嘆きと、一発の銃声が重なり合う。
そこにいる者全ての鼓膜を突き破らんかという勢い、音が止んだ後もその緊張はしばらく続いた。

783凡人表明:2010/04/21(水) 12:16:00 ID:.g4VCraU0
「で、何?」

真希の額に突きつけたその引き金を、何の躊躇もなく少年は引いていた。
くたっとなる真希の肢体が、彼女の絶命を物語っている。
飄々とした態度のまま、少年は泣き崩れる美凪の腕を尚も掴んだ状態で視線をことみ達三人に向けた。
硬直する彼等を見据え、返答が与えられなくとも気にすることなど全くせず、少年は一人口を開く。

「喧しい蝿がいたからよくは聞き取れなかったけど、何の相談?」

あまりにも軽い、その言い分。
ぎりっと強く唇をかみ締めながら、環が低い唸りを上げる。
怒りで寄せられた環の眉が、深い彫りを作ることで彼女の激情を静かに表した。

「悪いけど、逃げ場なんてないよ。君達はここで処分するから」
「……随分な言い草ね」
「今更じゃない? いい加減にしてくれないと、僕も疲れてしまうよ」

一ミリの疲労感が見えていない少年の軽口に、ますます環の頭が熱くなっていく。
ただただ状況だけは最悪で、その横で祐一も押し黙るだけだった。
ことみは。

「……」

天才少女で名を馳せる、一ノ瀬ことみは。
冷静にものを考えることができ、頭の回転も早いことみは。ことみも。

「…………」

祐一と同じように、押し黙るしか、なかった。

784凡人表明:2010/04/21(水) 12:16:45 ID:.g4VCraU0
【時間:2日目午前8時10分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ(吹き矢使用済み)、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:無言】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(14/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、予備弾丸12発】
【状況:ことみ、環、祐一、美凪と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:15)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:無言】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:無言・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:死亡】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:泣き崩れている、右頬出血】


(関連・1124)(B−4ルート)

消防斧は校庭に放置

785エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:13 ID:NGfemGc.0
 一歩大きく踏み込み、袈裟に刀を振り下ろす。
 剣筋が線として捉えられる位の高速の太刀筋は、しかしあっさりと弾き返される。
 敵――アハトノインは下から打ち上げるようにして弾く。
 刀を上段に持ち上げさせ、バランスを崩す戦法だ。

 それが分かっていない川澄舞ではなかった。
 無理に踏ん張らず、力を逃すようにして後方に退避。
 着地時につま先に思い切り腰を落とし、詰め寄る間を与えずに再度肉薄する。
 今度は弾かせる暇はなかった。金属同士がぶつかり合う甲高い音と共に、舞とアハトノインの顔も切迫する。

 銃撃により、顔の半分が潰れ、骨格の一部や回線のいくつかがむき出しになっている。
 一方で人間の形を残している部分は平時とまるで変わらない。
 色艶の良い唇。決して揺らぐことのない、感情を持たぬ瞳。筋肉も血も通ってないのに、見た目だけはふっくらとした頬。
 ほしのゆめみとは違う。あまり深い付き合いではないとはいえ、舞は何の抵抗もなくそう思った。
 だから遠慮なく戦える。倒すべき敵だと分かるから、守るべきものが分かっているから。

 柄を握る手に力を込め、舞は刀を押し込む。
 すかさず反発する力が強くなった。一瞬押せるかと考えた舞は読みが浅かったと内心で舌打ちした。
 片腕だけとはいえ、単純な膂力で言えば人間を遥かに陵駕するらしい。
 それならそれでやりようはある。今度は逆に力を緩めた。
 急に相対する力を失い、アハトノインが前傾に体勢を崩す。
 刀を下方に逸らし、そのまま弾いて横に回る。受け流し、横を取った形だ。
 いけると確信した舞は今度こそと脚部へと目標を定め、一閃。

 アハトノインは驚異的な反応速度で回避に移っていたが、舞の一撃を避けきれるものではなかった。
 脚部から赤色の冷却液が噴き出し、僅かによろめく。
 冷却液はオーバーヒートしないようにするだけではなく、
 身体のバランス調整も行っているために僅かながらに動きが止まったのだった。
 そこで舞は一歩引く。追撃はしなかった。
 そうするまでもない。自分が距離を詰めるよりも早く、攻撃してくれる頼もしいパートナーがいる。

786エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:37 ID:NGfemGc.0
 国崎往人だった。P−90の火線が遠慮なくアハトノインへと殺到する。
 サブマシンガンの一種でありながら、5.7×28mm弾を用いたP−90は、
 威力こそライフル弾には劣るものの貫通力は拳銃弾の比ではない。
 アハトノインの着用していた防弾コートはこの弾丸の前には紙切れ同然だった。
 ボトルネック構造……つまり、弾頭が尖った形状となっている5.7×28mm弾はあっけなくコートを貫通し、
 勢いを保ったまま人工皮膚部を直撃した。

 軟体に着弾した弾丸は、内部で乱回転して運動エネルギーを拡散させ、アハトノインに奇妙なダンスを踊らせた。
 対テロ用に開発されたP−90は人間に対して有り余るほどの殺傷力を備える。
 それは人間とは大きく異なる、戦闘用にチューニングされたロボットに対しても変わらなかった。
 多数の銃弾を受け、内部からも衝撃を与えられたことによりアハトノインの運動系統を司るCPUが一時混乱を起こした結果、
 無様に仰向けに倒れる羽目になった。

 倒れた隙を見逃さず、舞が接近する。
 だが既にコントロールを取り戻したアハトノインは倒れていながらも器用に足を振り回し、舞の足を取った。
 想像外の一撃に、今度は舞が倒れることになった。咄嗟に受け身は取ったもののアハトノインは立ち上がっており、
 形勢は一変。今度は圧倒的有利を取られた。

 一つだけとなったカメラアイを動かして、アハトノインがこちらを見下ろし、睥睨してくる。
 獲物を見定めた目だった。その口元が微妙に歪んだのを、舞は見逃さなかった。
 刀を一文字に構えて受けの体勢を取るが、防ぎきれる確証はなかった。
 しかしグルカ刀が一閃することはなかった。寸前、往人が連射したP−90を回避するために距離を取ったのだった。
 機を逃さず、素早く立ち上がって往人の元まで撤退する。

「……ごめんなさい」
「気にするな。死ななきゃいい」

 そっけなく返して、往人はいつでも発砲できる体勢を取る。
 今の舞にはそれがありがたかった。

787エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:54 ID:NGfemGc.0
「とは言うものの、あそこから反撃されるとはな」

 助けられた手前、態度にこそ出さなかったが舞も同様の感想を抱いていた。
 油断していたわけではない。寧ろ、勝機を掴んだと確信したからこその接近だった。
 それを足一本でひっくり返す適応力の高さ。あれだけ戦力を削いだにも関わらず、
 有利どころか五分にすら辿り着いていないのだということを思い知らされたような気分だった。

「頭ぶっ壊しても死なない。撃っても止まらん。だったら」
「逃げるか」
「切り刻むしかないな」

 そして前者の選択肢はない。コンテナが密集するこの場所では隠れることはできるだろうが、逃げ切ることは難しい。
 何よりこのロボットを放置しておくことの危険性が高すぎる。
 五分とまではいかなくても、僅かにでも勝機があるのならばやるしかないのが今の状況だった。
 それは往人も理解していたらしく、ふっと短く溜息をついた。

「貧乏くじだったかな」
「ここに来た時点で、すごい貧乏くじ引かされてる」
「違いない」

 言葉は笑っていたが、顔は笑っていなかった。
 ここに至って、まだ自分達はこの島の鎖にがんじがらめにされたままだ。
 殺し合いの中で倒れることを強いる鎖を、未だ外せていない。

「そろそろ、ツキをこっちに持ってくるか」

 往人の言葉に、舞は力強く頷いた。
 一人では外せない、どうしようもないものも、誰かがいれば外せる可能性はある。
 たとえそれがどんなに儚い希望だったとしても……
 往人の顔をもう一度見て、決心を胸の中に仕舞いこむ。
 絶対に大丈夫と信じて、舞は走った。

788エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:09 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 思えば、結局誰一人として知り合いに会うことはできなかった。
 一番に探し求めていた神尾親子とは会えず。
 みちるは出会う前に殺され。
 遠野美凪、霧島姉妹。誰かと一緒にいたと聞いて、その誰かのために死んでいったと聞いた。

 詳しく聞くつもりはなかった。
 そういう生き方を選んだのだと納得した。
 国崎往人にはそれが羨ましかった。
 胸を張って命を賭けられるなにか。
 彼女達は見つけることが出来、全てを注いできたのだろう。
 生死はその結果でしかなく、残された方にも残したものがあった。

 痛み、悲しみ、苦しみ。
 そういったものはあったのかもしれない。
 けれども、乗り越えるだけのものもまた渡した。
 それは希望であったり、未来であったり、或いは願いであったりするのかもしれない。
 自分にはなかった。自分を託すことが出来るなにかが見つからなかった。
 旅をする目的はあった。しかし目的というだけで、元の願いからは離れたものになっていた。
 翼を持つ子を喜ばせれば、自分の願いも見つかるかもしれない。
 そんな漠然とした思いだった。笑わせたいという思いは確かにあったが、
 それが本当の目的、願いかと聞かれれば答えに窮した。
 いや違う。笑わせた先、目的を達成した先の自分が想像できないのだ。

 終えてしまった先に希望はなく、
 終えてしまった先の未来は見えず、
 終えてしまった先の願いもない。

789エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:26 ID:NGfemGc.0
 だから考えないようにしてきた。今自分の為すべきことだけに目を向け、自らの人生については目を背けてきた。
 殺し合いという現実に対処しなければならない。それを言い訳にして。
 故に戸惑った。川澄舞に対する気持ちを再確認したとき、湯船の中で背中越しに語り合ったとき。
 戸惑いながらも、未来を必死に考えようとする自分が生まれた。

 これからの生活のため。そんなしがない理由ではあるのかもしれない。
 それでも、大切な人ができたという事実以上に重たいものなどなかった。
 格好悪いからと目を背けられるはずなどなかった。
 どんなに無様でもいい。一緒にいられるなら、と往人は『生きる』ことを考えるようになった。
 人間とはそういうものなのかもしれない。

 自分のような男女の関係だけに留まらず、友人のため、家族のため……いや見知らぬ誰かに対してでさえ、
 人のことを考えて行動するようになったとき、『希望』や『未来』が生まれ、豊かさが育まれてゆくものなのだろう。
 舞を守りたい。一緒にいたい。
 ただそれだけの気持ちが、こんなにも自分を奮い立たせる。
 恋に狂った馬鹿野郎でも構わない。
 それでもいいと感じている自分がいるのだから――!

「頼むぞ……!」

 先駆けて走る舞を援護するように、往人はP−90に引き金に思いを乗せ、引き絞る。
 フルオートで連射せず、三点バーストで射撃した。
 舞に誤射しないためというのがひとつ。弾数が少なく、無駄撃ちを避けたいと思ったのがひとつだった。
 アハトノインは律儀に全弾回避し、迫る舞に先制の攻撃を許すことになった。
 所詮相手はロボット。人間のような柔軟な思考を持たないことがこちらとの決定的な違いであり、付け入る隙だった。

 右手側に回り込むようにして舞が側面から日本刀で斬りつける。
 先の頭部を破壊したときの攻防で、アハトノインは右手も失っていたためだった。
 必然大振りにならざるを得ない攻撃を舞が回避するのは容易く、空振りしたところに次々と斬撃を加えてゆく。
 一体どんな経験をしてきたのかは検討もつかないが、舞はかなりの技量を誇る剣士であることが分かる。
 それなりの重量があるはずの日本刀をまるで木の棒でも振るかのように扱い、一閃するたびにアハトノインに傷が増えてゆく。
 先の失敗から回避に重点を置いた舞の立ち回りにアハトノインは対応できず、攻撃は空振りを繰り返すだけだった。
 往人は万が一のときに備え、いつでも射撃できるようにP−90を構えている。
 仮に超人染みた反応で舞が不利になってもこちらから援護すれば攻撃を阻止できる。

790エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:46 ID:NGfemGc.0
 一片の隙もない、二段構え。後は自分達の集中力の問題だった。
 もはや人間の体を為さず、あちこち切り裂かれて金属骨格むき出しのアハトノインは動くのもやっとの様子だった。
 舞は猛攻を止めない。アハトノインが一歩後退したのをきっかけにして詰め寄ってゆく。
 必然、アハトノインは後ろへ追いやられ、致命傷となる一撃は回避しながらもじりじりと下がっていった。
 剣を振るう舞の顔からも玉のような汗が飛んでいる。息も弾んでいる。いくら凄腕の剣士とはいっても女であることには違いなく、
 スタミナを消費しているのが目に見て取れる。

 焦るな。お前がトドメを刺す必要はないんだ……!

 往人の動く気配に舞も気付いたらしく、長髪が縦に揺れた。
 よし。冷静さを失わない舞を頼もしいと思いながら、往人が牽制のP−90を向ける。
 剣を腕でガードした直後、隙を窺っていたアハトノインは鋭敏に往人の挙動を察知し、また一歩退いた。
 が、下がらせることこそ往人の狙いであり、舞の狙いでもあった。
 ガツンという音が空間に響き渡る。アハトノインがコンテナに背をぶつけたのだ。

 左手からは舞、右手には往人。囲んだ形。敵に逃げ場はない。回避さえもできない状況で、為す術はない。
 気付かなかったとでもいうように首を振り向かせたアハトノインの隙を見逃すほど舞は甘くない。
 一瞬の間隙を突き、日本刀を真っ直ぐ、突きの形にして走った。
 頭部を破壊しても尚倒れないというのならば、他の動力源……つまり、駆動部を狙うしかない。
 腹部か、或いは胸部。防弾コートの厚い壁で守られているそこに弱点はあるに違いなかった。

 舞が狙ったのは胸部だった。その選択は理に叶っている。突き刺した後に切り下げれば、腹部も攻撃できるからだ。
 連携できるこちらの勝利だ――確信し、P−90を下ろし掛けた往人の思考が吹き散らされたのは次の瞬間だった。
 普通は、例え追い詰められようとも避ける素振りはする。それが戦闘に臨む者の思考であり、生き延びるための思考だ。
 しかしアハトノインは逃げも隠れも、防御さえしなかった。
 コンテナを背にした彼女がやったことはそのいずれでもなく……全力でコンテナ群を殴るという行為だった。

「なんのつもり……」

 呟いた往人の頭が真っ白になるまでに、それほどの時間はかからなかった。
 コンテナ群の上部が揺れ、ぶるりと生物のように身を震わせたかのようにして――直後、落下した。
 冗談だろ!? このような反撃など全く想像の外であっただけに、往人はP−90を構えることも忘れ、舞に叫んでいた。

791エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:06 ID:NGfemGc.0
「逃げろ! 潰されるぞ!」

 今まさに突きを繰り出そうとしていた舞の動きがピタリと止まり、弾かれたかのように後ろに跳躍した。
 本人も精一杯というような反応は、しかし間に合ったようで、体ひとつ分の距離を置いてコンテナが落下した。
 凄まじい量の埃が舞い上がり、往人と舞を覆い尽くす。
 煙幕を張られた格好にもなり、ゴホゴホと咳き込みながら、まずいなと舌打ちした。
 一瞬とはいえ分断された。ここは一度離れて体勢を立て直すしかない……

 もうもうと視界を覆う埃から逃げるように移動しようとした往人に、焼けるような痛みが走ったのはその直後だった。
 ぐっ、と苦痛の呻き声を上げた往人の頭に浮かんだのは、撃たれたという理解だった。
 バカな。その一語が駆け抜ける。撃ってきたのはアハトノインに違いないが、一体どうやって?
 銃器はどこから? どうやってこちらを補足した?

 それらの疑問は、反撃しようと振り向いたときに解決した。
 赤く光るカメラアイと、手に収まった小型拳銃。
 なんのことはない。最初からそのような装備があっただけという納得が広がり、往人は苦笑とも怒りともつかぬ表情を浮かべた。
 追い詰めてなどいなかった。敵は最初から、分断する腹積もりで戦っていた。それだけのことだった。

 クソッタレと吐き捨て、反撃を試みた往人が引き金を絞ることはなかった。
 腕を立て続けに撃ち抜かれ、力の抜けた手からP−90がすっぽ抜ける。
 さらにもう一発、腹部を撃たれた往人が自らの血に沈んだのは僅か数秒と経たない間だった。

「往人に……手を出すなっ!」

 銃声を聞きつけたのか、決死の形相を浮かべて舞が突進してくる。
 恐らくは、自分が撃たれた様子も見たのだろうと思った往人は、しかし遅すぎると判断していた。
 アハトノインの銃口は、既に舞へと向けられている。

「ダメだ! 逃げ――」

 叫びが届くことはなかった。
 自分を撃ったときと同じく、ひどく軽い発砲音が誇りまみれの空間に響き、川澄舞の体を崩れさせた。
 胸、下腹部……その他諸々を撃たれた彼女は恐らく、即死だった。

792エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:24 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 ――もういいかい?

 元気のいい、幼い女の子の声が聞こえる。
 この声を、自分は知っている。
 川澄舞はぽつねんとある場所に立ち尽くしていた。

 黄金色の稲穂が無限に広がり、夕日が世界の果てまで伸び、どこからともなく現れては過ぎ去る風がある場所。
 名前などあるはずがない場所。
 しかし、そこは確かに存在していた。
 遊んだ記憶があり、始まったところであり、終わらせたところでもある。
 風がやってくるたびに稲穂が揺れ、こっちへおいでと手招きしているようであった。

 ここは死後の世界なのだろうか、と舞はぼんやりと想像した。
 自らの心象が作り上げた、自分だけの黄泉……そこまで考え、死を抵抗なく受け入れようとしていた自分に気付かされた舞は、
 自らの諦めの良さに慄然とする思いを味わった。
 そうさせてしまうだけの強烈な力がそこにあった。
 人から意志の全てを奪い、諦観だけで満たしてしまう力――

「それは違うよ。諦めてきたのは、あなた」

 背後に発した子供の声が舞の思考を遮った。
 いつの間に、と思う間もなく、子供が舞の目の前に現れる。
 それは紛れもなく……子供の頃の自分そのものだった。

「嘘が本当にならないから、諦めてわたしを捨てたのが、あなた」

793エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:40 ID:NGfemGc.0
 忘れたと思っていたのに、一目見るだけでこうも鮮明に思い出せるものなのか。
 今よりも少し短い、しかし当時から長かった黒髪。
 外で遊ぶときにはいつも着ていた、山吹色の少し丈の短いドレス。

 この姿を見るだけで全てが思い出せる。
 ここがどんな場所だったか思い出せる。

 自分の居場所だったところで、自分の全てだったところ。
 風が吹きさらす夕焼け空は夜の気配を伝えながらも、決してそこからは動かない。
 時を止めてしまったまま、未来永劫変わることのない閉ざされた記憶の降り積もった世界だ。

「ねえ、聞いてる?」

 意識を外されていたのが気に入らなかったのか、少女は頬を膨らませ、不満を滲ませた声で言う。
 今と全く変わらない、しかしまだ何も知らなかった頃の瞳を見返した舞は無言で頷いた。
 だとするなら、この子も自分の記憶なのだろうか。
 置き去りにしてきた自分。忘れてしまっていた自分に仕返しするために、この世界に呼び込んだのか。
 想像を働かせる舞に、「それは違うな」とまたも心を読んだかのように少女が言った。

「わたしはわたし。わたしはあなたで、あなたもわたし。仕返しなんて、するはずないよ」

 穏やかな微笑を浮かべつつ言う様子は、まるで親しい友達にでも話しかけるようだった。
 ああ、そうだったと舞は思った。
 この少女と自分は不可分な存在であったことも、忘れていた。
 ここも、この少女も単なる思い出ではない。
 昔から自分に内在していた『力』。自らの思考を具現化する『力』そのものだった。

「思い出した?」

794エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:56 ID:NGfemGc.0
 はしゃぐように問いかける少女に、舞はこくりと頷く。
 始まりは母の病気からだった。
 一向に良くならない母の体調。どんなに医者が手を尽くしても良くなることのなかった母。
 日に日にやつれてゆく母の姿を見ながら、舞はそれでも一生懸命快復を願った。

 自分には母しかいなかったから。
 父の存在を知らず、親類とも縁遠かった自分はいつだって一人ぼっちだったから。
 家もあまり裕福ではなく、母だけが唯一の心の拠り所だと感じていた舞に、
 いなくなってしまうかもしれないという恐怖はあまりにも大きすぎた。

 願った。願って、願って、願い続けた。
 神様。神様。神様。
 自分の言葉などちっぽけでしかなく、何の意味も持たないと半ば理解しながらも、それでも舞は祈り続けた。
 一人になってしまうのは嫌だから。このぬくもりを失ってしまうことがあまりにも怖かったから。
 お願いします。何だってします。絶対に嘘もつきません。いい子になりますから……
 ありとあらゆる言葉を並べ立てた。弱々しい力で頭を撫でてくれる母の手を感じながら、
 痩せ細ってゆく母の手をぎゅっと握りながら、精一杯の笑顔を向けながら、舞は願った。

 奇跡が起こったのは、ある日の朝だった。
 それまで悪化の一途を辿っていた母の体調が、突然快復の兆しを見せ始めたのだ。
 夜通し手を握り、夢の中でも祈り続けていたあの日からだったと記憶している。
 快復の原因は全く分からず、医者でさえも信じられないといった様子だったが、何が原因かなんて舞にはどうでもよかった。
 母がいなくならずに済むと分かって、ただそれだけが嬉しかった。
 もっと早く良くなればいい。良くなって、また自分と遊んでくれるようになれれば、それで良かった。

 母が退院できるまでに良くなったのは、それから一年と経たない時間だった。
 尋常ではない快復ぶりだったらしい。人体の奇跡とでも表現するしかなく、
 ここまで来れば医者も困惑よりも素直に感心するほかなかったようだ。
 苦笑交じりに送り出してくれた医者や看護士の顔を見ながら、舞と母は元の生活に戻っていった。

795エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:13 ID:NGfemGc.0
 家は相変わらず裕福ではなかったが、生活に困ることは全くなかった。
 困っていれば誰かが助けてくれたし、図ったかのようなタイミングで幸運が舞い降りてくる。
 その時はいつだって舞が「そうなればいいのに」と思ったときだった。
 『力』を薄ぼんやりとだが自覚し始めたのはこの頃だったかもしれない。
 思ったことが、現実になる。自分の思い通りに現実が変わってゆく。

 しかし舞自身はそれを積極的に使おうという気は起こらなかった。
 興味がなかったというのもある。今のままで十分だという気持ちもあった。
 優しく、いつだって自分といてくれる母さえいてくれれば。
 だがその『願い』は長続きしなかった。膨大すぎる人の前には『力』も意味を為さなかった。
 『力』が知られ始めたのは、恐らくふとしたきっかけ――怪我をした動物に『力』を働かせたときから――だった。

 何も道具を持たず、何も行わず、まるで手品か魔法のように現実を塗り替えてしまう『力』に賞賛の言葉はなかった。
 人は普通ではないものを忌み嫌う。正体不明のものを恐れる。子供心にも人がその習性を持つことは気付いていた。
 だから、自分達親子が排訴されるのも予想はしていた。
 小学校の時分でさえ、少し見た目が違うだけでからかわれる題材にされる。まして大人であれば……
 予想はしていたものの、やはり辛いものがあった。
 自分がとやかく言われるより、何の関係もない母が心無い言葉を浴びせられるのを見ているのが辛かった。

 なぜ。どうして自分だけを責めないのか。
 子供でしかなかった舞にこの事態はどうすることもできず、それどころか母に守られるだけの日々が続いた。
 陰口を浴び続け、疲れた表情になりながらも、母は決して舞を責めることはしなかった。
 母も気付いていた。舞に、特別ななにかがあることに。
 それでも庇ってくれるのは、どうして。尋ねたとき、苦笑の皺を刻んだ母の表情は、一方でどんな人よりも毅然としていた。

 自分の娘を守らない母親がどこにいるのか。

 全く当たり前の言葉で、しかしどんな偉人の言葉よりも重みのあるものだった。
 人としての強さ、女としての強さを見せ付けられ、舞は人が肉体や健康の状態だけで強さが決まるのではないと知った。
 だからこそ守りたいと思った。父親がいなくとも悲観的になることなく、逃げることもしなかった母を大切にしたいと思った。
 そのために耐える日々を選んだ。大きくなるまで。その一語だけを胸に刻んで、各地を転々とする日々を続けた。

796エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:29 ID:NGfemGc.0
 『力』は好きにはなれなかった。疎まれることには慣れたとはいえ、
 友達のいない生活、孤独な日常は子供だった舞にとっては『力』など不要なものでしかなかった。
 精々他人に悟られないよう、人と距離を置くくらいしか対処する術を知らず、
 家族と一緒にいるのとは別の寂しさを抱え込む日が続いた。

 文句を言うつもりはなかったし、言える立場でもなかった。自分自身理解もしていた。
 それでも感情を完全に紛らわせることなどできなかった。
 『力』があっても舞は人間でしかなく、ただの少女でしかなかった。
 我慢はできたが、内奥で膨らんでゆく思いはどうしようもなかった。

 そんなときに現れたのが『彼』だった。
 記憶は曖昧で、名前もよく思い出せない。ただ、『彼』は別だった。
 偶然の出会いだったように思う。一人で遊んでいたところに、急に声をかけられた。
 少し話して、少し遊んで、その次の日にまた出会って、もう少し話して、もう少し遊んだ。
 そうしてゆくうちに、話す時間も遊ぶ時間も増えていった。

 舞は『彼』のことが嫌いではなかった。
 ふとしたはずみで『力』を発現させてしまったときも『彼』は何も言うことはなかった。
 取り繕うような態度も、恐れ慄く態度も、忌避の態度も見せなかった。
 それが自然だというような振る舞いと、屈託のない笑顔。嘘偽りの感じられない姿に、次第に惹かれていったのかもしれない。
 今までは、異物を見るような目。疎外し、排除する目でしか見られていなかったから……

 『力』のことについても少しずつ打ち明けるようになった。
 半ば相談、半ば愚痴を漏らすような形ではあったが、『彼』は丁寧に聞いてくれていた。
 人々に忌み嫌われ、自分でさえ持て余してしまう力。
 生かす手段も見つからず、捨て去る方法も分からないこの力を、自分はどうすればいいのか。

797エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:46 ID:NGfemGc.0
 実際はもっと拙く、子供らしい感情に任せた言い方だった。
 嫌い、とまでは言わないまでも好きじゃないと言っていたことは覚えている。
 母を救ったかもしれない力であるから、嫌いにもなりきれない。
 けれども自分を一人にさせてしまっている力だから、好きにもなれない。
 己の中で複雑化し、好きと嫌いの根を張っている『力』に対処するにはどうしたらいいのか。

 これから先、大きくなって母に支えられることなく生きてゆけるようになっても絶えず向き合わなければならないであろう問題に対して、
 『彼』は別に今のままでいいんじゃないかと言った。
 最初は所詮他人事、どうでもいいのかと落胆しかけたが、続く『彼』の言葉でその気持ちは吹き飛んだ。

 そんなことを気にしなくても、理解してくれる人はきっといる。
 オレみたいにさ、と言った『彼』の笑った顔を見たとき、舞は何かしら胸のつかえが取れたような気分だった。
 舞も久しぶりに笑った。母の前で見せる、強くなるための笑いではなく、自然と零れ出た笑いだった。
 『力』をどうこうする必要なんてない。舞は舞らしくいてくれればいいと言った『彼』の言葉が嬉しかった。

 何の根拠もない、儚い希望ではあったのかもしれない。
 それでも昨日より良い明日を信じようとする考えは、舞にとって好意的に受け入れられるものだったのだ。
 きっと母が良くなると信じ続け、願いが現実になったあの時のように。
 舞は『彼』ともっといたいと思うようになった。この人の近くにいれば、きっと理解してくれる人も増えるだろうから。

 だが、そう思っていた矢先に『彼』はいなくなってしまった。
 正確には帰るのだと言っていた。帰るから、もうここには来れない、と。
 初めて言葉を聞かされたときは絶句していた。まだこれから、という時に、なぜ。
 帰らないで。やっとの思いで吐き出した舞の言葉に『彼』は首を振った。仕方がないことなんだと言った。

 裏切られたとは思わなかった。どこか歯切れの悪い様子は『彼』自身の言葉ではないとすぐに分かった。
 そして瞬時に、こう予想した。
 理解してくれる人もいれば、そうでない人も大勢いる。自分たちを忌み嫌い、遠ざけてきた連中がいるように。
 『彼』は自分と遊んでいることを知られて、引き離されたのだ。
 子供でしかない『彼』は従うしかなかった。何もできなかった自分同様に……

798エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:02 ID:NGfemGc.0
 子供であることの小ささ、無力さが絶望となって圧し掛かってきていた。
 自分には何も力がないから、やっとできた友達一人だって守れない。
 その事実をいつものように納得する自分がいる一方で、諦めたくないと叫ぶ自分がいた。
 『彼』から教えられた希望を信じ、明日が良くなると信じて笑った自分。
 ここで何もしなければ、今度こそ自分は自分のことを嫌いになってしまうだろうという、確信にも似た気持ちがあった。

 けれども、十年一日耐え忍ぶことしかしてこなかった舞にはどうすれば『彼』を引き止められるのかが分からなかった。
 どうすれば希望の在り処を取り戻せるのかが分からなかった。
 だから舞は嘘をついた。

「魔物が来るの!」

 もう少し年を経ていれば、もっと違う言葉を絞り出せたのかもしれない。
 だが舞にはこうするしかなかった。
 明確な敵を作り、一緒に対処していこうと、そんな言い方しか出来なかった。

 『彼』はやってくることはなかった。
 嘘だと見抜かれたのだろうか。いや違う、そうではない。『魔物』が邪魔をしたのだ。
 舞との仲を引き裂くために、『魔物』が言葉を届けられなくした。
 そうと信じるしかなかった。
 信じなければ、自分は諦めてしまったということになるのだから。
 自分を一人にしようとする『魔物』がいる。

 ならば、討たねばならない。

 一つの結論を見い出したとき、外から獣のような咆哮が聞こえた。
 すぐさまその正体を理解した。間違いない。あれが諸悪の根源……『魔物』なのだと。
 舞は棒切れを持って飛び出した。外で暴れ回る『魔物』を一生懸命に追い払った。
 倒すことこそ出来なかったが、『魔物』はいずこともなく消えていった。
 『魔物』と戦い、疲労した舞の胸中にあったのは、明確な悪の存在を見い出した昂揚だった。

799エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:21 ID:NGfemGc.0
 あれさえやっつければ。『彼』だってきっと戻ってきてくれる。
 だが、『魔物』は強大だった。あれだけ懸命に戦ったのに、傷一つついていなかった。
 自分一人ではどうにもならないくらいの実力差があった。

 ――ならば、倒すまで鍛えればいい。

 薙ぎ払い、打ち倒し、その存在を抹消できるまでに己を高めればいい。
 今はまだ敵わなくとも、いずれ絶対倒してみせる。
 守れないのではない。守ろうともしない諦め、無関心こそが悪い結果を引き起こすのだと断じて、舞は戦おうと決めた。

 即ち、自分たちをどうしても理解しようとしないモノと。『魔物』と。

「嘘を嘘で塗り固めたのは、あなた」

 幼い自分の声が聞こえた。
 淡々としていても、明らかに自分を責める調子があった。

「諦められないって言いながら、実際はその場しのぎの嘘をついて、上手く行かなかったからって現実にしようとしたのがあなた」

「そんな自分に疑問も持たず、子供のころの思い付きを頑なに信じて変わることすらしなくなったのがあなた」

「そうして何かあれば自分さえ傷つけばいいと思うようになって、自分を傷つけるのは魔物だからとしか考えなくなったのがあなた」

「結局のところ、あなたはそんなのだから一人なの。いくら経っても、全然成長なんてしてない」

 重ねられる言葉に、舞は反論することが出来なかった。
 確かに、そうだ。あの日から、些細な嘘を真実だと思い込み、
 ありもしない『魔物』を退治しようと躍起になっていた自分は愚か以外の何物でもない。
 明日はきっと良くなる。『彼』の語ろうとしていたことの本質も捉えず、
 思考を停止させて盲目的に『魔物を倒す』以外の目的を持てなくなってしまった哀れな女。
 それが川澄舞という人間の生きてきた、無駄とも言える半生だ。

800エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:37 ID:NGfemGc.0
「今度だってそう」

「逃げて、逃げて、逃げた末に、あなたは国崎往人に居場所を求めた」

「守る人がいなくなったから。自分に罪を与えるための依代として」

 そうなのかもしれない、と舞は思った。
 好きになったのも、一緒にいたいと思ったのも、結局は自分に罰を与えるため。
 嘘をつき、拠り所を失った女が新たに求めた依存先。

 川澄舞は、嘘つきの悪い子で、
 約束も果たせない悪い子で、
 なにひとつ守れない、弱すぎる女だ。

 そんな自分が生きていてはいけない。
 だから己を傷つけることで罪を清算しようとした。
 ただの自己満足なのだと、分かっていたにも関わらず。

「分かった? どこまで行っても、あなたは一人なの。それが『力』の代償なんだから」

 目の前の幼い少女は自分であり、かつて嘘をついた結果生まれた魔物だ。
 一見何の悪意もなさそうな、屈託のない笑みが舞へと向けられた。

 しかし、舞は知っている。
 この笑みは、自分を慰めるためだけの笑み。
 何かあれば自分を傷つけることで己を満足させてきた、手前勝手な笑みだ。
 疑いようもない我が身の姿だ。
 だが認める一方で、これは過去でしかないと、胸の奥底で語りかける自分がいた。

801エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:56 ID:NGfemGc.0
「分かったなら、もう一度力を貸してあげる。あなたの望むことを現実にする力。
 でも代わりに、またあなたは一人になる。誰からも認められず、理解もされない。
 あなたが生きてゆくのは一人ぼっちの世界――」

「――それは、違う」

 沸き立つ気持ちに押し出された言葉は、湿った空気を吹き散らして少女へと届けられた。
 途中で遮られ、呆気に取られた表情で見てくる少女に、舞は強い確信を含んだ視線を返した。
 込み上げてくる熱が抑えられない。冷静でありながら、熱くなってゆく自分を感じる。
 今の自分を、過去の己に示すために、舞ははっきりと口に出して伝えた。

「私は、一人じゃない」

 口に出す間際、強く吹いた風にもかき消されることはなく、言葉が世界を震わせた。
 確かに、様々な間違いを犯してきた。
 けれどもやり直してゆこうという意志もまた、今の自分にはある。
 今はまだ間違っていても明日という一日で少しは良くなるかもしれないから。
 一日で無理なら、さらに時間をかけてでも良くしてゆこうという気持ちが、自分にはある。

 理解してくれる人がいるから。一緒に逃げてやってもいいと言ってくれた人がいるから。
 同じ湯船に浸かったときの温もり。少しごつごつしていて、けれども確かな暖かさがあった人の温もりが自分にはある。
 だから一人じゃない。生身の自分を受け入れてくれた人がいるから、もう諦めない。

「私は、信じてる。
 どんなに儚くても、遠い道のりでも、
 気持ちの持ちようひとつで明日を変えてゆける可能性があるんだってこと。
 今度こそ言い訳はしない。それが大人になるってことで、昔の私への責任の取り方だって思ってるから。
 だから――あなたも見守って欲しい。私の、人生を」

802エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:15 ID:NGfemGc.0
 最後に語ったのは拒絶ではなく、受け入れる意志だった。
 否定などしない。出来るはずがない。間違いを犯してきた自分も、大切な自分の一部だと分かっているからだ。
 受け入れてみせると言い切る舞の凛とした視線を受け止めた少女は、やがて仕方がないという風に苦笑を刻んだ。
 何の含みもない、もうこうなってはどうする術もないというある種の諦めだった。

「『力』のことも話さなきゃいけない。この時点で、あなたは拒絶される可能性がある」
「その時は、その時。……私、少しは諦めが悪くなったから」
「……強くなったんだね、あなたは」
「好きな人が、できたから」

 言ってしまったところで、恥ずかしい台詞なのかもしれないと思ったが、どうせ自分に対してだ。何も憚ることはない。
 少女が白い歯を見せた。舞も頬を緩めた。
 お互いがお互いを受け入れ、何年と溜まっていたしこりの全てを洗い流した瞬間だった。

「じゃあ、助けなきゃね。その、好きな人」
「うん、助ける。だから……力を貸して」
「分かってる。目を閉じて。わたしの声に、応えて」

 舞は目を閉じた。
 穏やかに流れる風の声。稲穂のざわめき。
 握られる舞の手。てのひらから伝わってくるのは、やさしい温もり。

 ――もういいかい?

 世界が、終わる。

 ――もう、いいよ。

803エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:32 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 どうしたらいい。
 繰り出されるアハトノインの剣戟を頼りないナイフで受け止める往人の頭にあったのはその一語だった。
 舞が死んだという絶望でもなく、命の危機に対しての焦りでもない。
 ただどうしたらいいという言葉のみが支配し、一切の思考を奪っていた。

 たったひとつのカラクリも見抜けなかったばかりに。
 しかも全く予測できなかった事項であり、理不尽だという言葉すら浮かび上がる。
 最初からこうなる運命だったのだろうか。

 ナイフの一本を叩き折られる。元々が投げナイフであり、打ち合うことを想定していない武器なのだから当然だった。
 柄だけになったナイフを投げ捨て、次のナイフで斬撃を受け流す。
 一体どこにこんな力が残っているのかと我ながらに感心する。
 生きるために戦ってきた、この島での習い性がそうさせているのだとしたら全く大したものだと思う。
 何も考えられなくても、体は勝手に生きようとする。最後まで諦めまいとする。
 厄介なものだと呆れる一方で、ここまで生に執着していただろうかと自らの変化にも驚いている。

 当てなんてない人生だった。
 曖昧な目的のために年月を過ごし、その日の日銭にも困るような時間の連続。
 生き甲斐なんてなかった。命を懸けられるようななにかもなかった。
 ふらふらとさまよい続け、自分の代で法術も途絶えてしまうのだろうというぼんやりとした意識だけがあった。
 挙句、いつの間にか手にしていた大切なものでさえ気付かないままに過ごしていた。
 国崎往人の人生は、無意識のうちに積み上げては崩し、積み上げては崩してきた、無駄の連続だった。
 食い潰してきたと言ってもいい。

 この島の、殺し合いに参加させられた人間の中でどれだけの生きる価値があったのだろう。
 自分などよりももっと有意義に生きてきた人間などたくさんいるはずだった。
 なのに自分は生きている。
 佳乃を犠牲にし、美凪を犠牲にし、観鈴を犠牲にし、様々な人の死の上に、そして舞の屍の上に、自分は成り立っている。
 それだけの価値がある人間なのだろうか。
 どうして、自分が先に死なないのだろうか。

804エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:49 ID:NGfemGc.0
 ナイフの二本目が叩き折られる。正確には、折られた瞬間ナイフが弾き飛ばされた。
 踏み込んできたアハトノインの突きを紙一重で避け、足で蹴り飛ばす。
 三本目を取り出しつつ距離を取る。残りはこれを含めて、二本。銃を構えさせてくれる隙があるとは思えなかった。
 明らかな劣勢。銃撃された部分の痛みは増し、熱を帯び、体から力を奪ってゆく。
 徐々に死へと追い込まれていっている。なのに抵抗しようとする体。
 生きることにこんなにも疑問を持っているにも関わらず、だ。

 蹴り飛ばされ、転がっていたアハトノインが復帰し、さらに斬りかかってくる。
 袈裟の一撃を、往人は死角に回り込むようにして回避する。
 曲がりなりにも戦えているのは、顔の半分を破壊され、視界が激減したアハトノインであるからなのかもしれない。
 往人から一撃を叩き込もうと試みたが、所詮は投げナイフだった。
 刺す以前に繰り出された後ろ回し蹴りのカウンターを貰い、無様に地面に転がる。
 ナイフはどこかに飛び、転がった拍子にいくつかの武器が零れ落ちた。

 確認する。手持ちはナイフ一本と、最も役に立たない拳銃であろう、フェイファーツェリスカだった。
 反動の大きすぎるこの銃は片手では撃ちようがない。鈍器としての用法しか見い出せないくらい役立たずの代物だ。
 最悪の状況だった。出血は大して酷くはない。血が足りず、目が眩んでいることもない。
 それどころか、まだまだ戦えると言っているように、臓腑の全てが脈動し、全身の隅々にまで力を行き渡らせている。
 単純な一対一では絶対アハトノインには敵わないというのに。

 分かりきっている理性に反発するように、右手が素早く動いてナイフを取り出す。左手で反吐を拭う。
 足に力が入り、すっくと立ち上がる。ただの本能で行っているにしては、随分と整然とした行動だった。
 生きろと体が命じているのではなく、自らがそうしたいと言っているかのような挙動だった。

 俺は、生きたいのか? この期に及んで?

 全く自分勝手だと思ったが、間違いなく自らの内に潜む意志はそうしたいと告げている。
 寧ろ、自らの人生に疑問を抱いていることこそが偽物のようにさえ思える。
 今まではロクなことをしてこなかった人生。時間を食い潰すだけの人生を送っていたはずの自分が、なぜ……

805エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:27:07 ID:NGfemGc.0
「……ああ、そういうことか」

 ふと一つの考えを発見した往人は、素直にその考えに納得していた。
 今までは、今まででしかない。
 現在を生きる自分は違う。
 生き甲斐を考え、命を懸けられるものを見つけ出すことが出来るようになった、人並みの人間だ。
 だから生きていられる。生きようとする。
 価値のない人間なんかじゃない。

 自分自身が認め、認めてくれる誰かがいたからこそ、往人は自身の考えを肯定することができた。
 もっとも、一番理解してくれていたひとは既にここにはいないのだが……
 それでも確かにいたのだという事実を、知っているから。

「諦められないよな」

 ナイフを構え、来いというように眼前のアハトノインを睨みつける。
 元来目つきの悪い自分のことだ、さぞ怖い顔になっているだろうと往人は内心で苦笑した。
 とはいっても目の前のロボットに、こんなものは通用しないだろうが。

 往人はコンテナを背にするようにじりじりと下がる。
 普通の攻撃が通じない以上、直接頭の中にナイフを突き刺すくらいしか対処法が思い浮かばない。
 だが回避するだけの立ち回りではとてもではないがそんな隙など見当たらない。

 そこで考え付いたのが、刀をコンテナに引っ掛けるという方法だった。
 突きを繰り出させ、コンテナで弾いたところに必殺の一撃を叩き込む。
 子供でも引っかかりそうにない単純すぎる方法であるうえ、そもそもそれだけの隙があるのかとも思ったが、
 さして頭の良くない往人にはこんな策しか思いつかないのが現状だった。
 それでも、やらないよりはやる方がいい。
 どんなに少ない可能性でも追っていけるのが自分達、人間なのだから。


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