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避難用作品投下スレ5

1管理人★:2009/05/28(木) 12:49:59 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

63来客予報:2009/06/14(日) 00:31:21 ID:Sd7UWGMg0
『―― 少し、外に出るね。外の空気が吸いたいんだ。大丈夫、すぐ戻ってくるから……』

放送が終わってから、少し経ってからのことだった。
初音の願いを止める者は、ここにはいない。
孤立することが危険なことに変わりないが、彼女の心情を思えば了承する以外の選択肢は存在しない。
誰もが初音を労わっていた。
……少なくとも、祐介はそう思っていた。

「そうですね、確かに心配です。でも……わたしは、柏木さんがすぐに戻られなくてよかったです。
 わたし自身が、この時間で落ち着くことが出来ましたから」
「有紀寧さん……もう、いいの?」
「はい。ご心配、おかけしました」

力ない足取りでダイニングであるこの部屋に現れたのは、暗い面持ちを保つ宮沢有紀寧だった。
初音がこの民家を出た後、気分が悪いと言った彼女は寝室で休んでいた……ことに、なっている。
祐介の手前上傷ついた素振りで自身のか弱さを演出する必要があったのと、例の書き込みをした掲示板のことが有紀寧は気になって仕方なかった。
今のところ、有紀寧の書き込みに対するレスはついていない。
有紀寧が想像していたよりも、この掲示板の存在を知っている参加者はもしかしたら少ないのかもしれなかった。

(まぁ、あくまでこれは余興ですし)

反応がないのもそれはそれで物悲しいものであるが、結局はそこだ。
一つため息をつくと、有紀寧はこっそり寝室に持ち込んだノートパソコンのディスプレイを伏せる。
気分を切り替え戻ったダイニング、落ち着きのない祐介の様子に思わず浮かんだ苦笑いを即座に隠し、有紀寧はそっと彼の隣に座った。

「きっと、柏木さんは目を真っ赤にして戻ってくると思います。
 わたし達の前で見せなかった分、一人でたくさん泣いているでしょう」

64来客予報:2009/06/14(日) 00:31:46 ID:Sd7UWGMg0
痛ましげに顔を歪める有紀寧につられるよう、祐介も表情を落ち込ませた。
こういう純朴な祐介の姿は、有紀寧からすれば滑稽にしか映らない。
優しい性格ではあるが、どうにも存在自体が心もとないというのが、有紀寧の持つ祐介に対する印象である。

今や有紀寧にとって、祐介と初音の存在は枷以外の何物でもなかった。
柏木の姉妹達は消え、残る柏木性は一人となる。
初音曰く頼りになる存在と有紀寧も聞いているが、あの子のことだ。
祐介のことを持ち上げる態度を見る限り、初音にとっては誰もが尊敬に値する人物に当てはまるのではないだろうか。
人を疑わない優しい素直さは、確かに初音の持ち味だ。しかし、それが通じる世界にここは値しない。
初音も、祐介も。
有紀寧の駒とし利用するには、あまりにも役不足である。
それではどこで、手を切るか。有紀寧は考えていた。

(かと言って、いきなり一人になるのは危険にも程がありますし。どうしましょうか……)

どうするも何も、自分から積極的に動くことが今有紀寧はできない身である。
とりあえずは、初音の帰りを待つしかないのだ。
ちらりと視線を動かせば、部屋の隅にまとめられている自分達の支給品等が入ったデイバッグが有紀寧の目に入った。
初音が散歩に出かけた際護身用で自身のバッグを持って行ったため、今そこにあるのは二つだけである。
有紀寧のものであるバッグは、容易く見分けがついた。
不格好な形でゴルフバックがはみ出ているバッグ、そこには本来の彼女の支給品であるリモコンは入っていない。
いざという時のためと、有紀寧は常にスカートのポケットにリモコンを隠し持っている。

祐介と二人無言で座るだけの、有紀寧にとっては退屈としか思えない時間は着々と積もっていく。
有紀寧が自分の身を持て余した頃だった。……それは、彼女も予想だにしなかった幸運。

「……二人、か。黙って手を上げろ、敵意はない」
「な、那須さんそれでは駄目です。そんな言い方では、怖がらせてしまいます」

65来客予報:2009/06/14(日) 00:32:13 ID:Sd7UWGMg0
声は、二人の背後である部屋の入り口が発信源であった。
一人は男性のもの。もう一人は女性。
この民家に他者が侵入してきたことすら、有紀寧も祐介も気づいていなかった。

突然の来客に二人して固まる。手を上げるも何も、あまりの驚きで二人の動作は激しく鈍くなっている。
ただひたすら、初音のことを心配していた祐介。
自分のこれからを、どうするか考えていた有紀寧。
不足の事態に対し、二人はあまりにも無力だった。
しかし。
天は二人を、見放さなかった。

「あ、あの……驚かせてしまって、すみません。
 あなた達が話されているの、少しだけ聞かせていただきました。
 よろしければ、あの。少し、わたし達ともお話していただけませんか?」

丁寧な口調で、どこかおどおどしたようなしゃべりをする少女の声に、祐介はゆっくりと首を重点に動かし声の主を確認しようとした。

「っ!」

と、少し身を捻った所で凄まじい殺気が祐介の姿を射抜いてくる。
走る緊張に胃が焼ける思いが沸き上がり、祐介は中途半端な位置で身を止めた。
それはどこか、毒電波を浴びせられた感覚によく似ているかもしれない。

「……那須さん?」
「悪い、クセなんだ」

どうやらそれは、少女の隣にいた男性に関係していたようである。
少女が嗜めるように男性の名前と思われる固有名詞を口にすると、祐介が受けていた圧迫感はするっと消えた。

66来客予報:2009/06/14(日) 00:32:40 ID:Sd7UWGMg0
「あ、あなた達、一体……」

問いかけたのは、有紀寧だった。
見ると、祐介よりも先に体勢を整えた彼女は視線をしっかりと来訪者に合わせているのが、祐介も確認できる。
相手の相貌を拝もうと、慌てて振り向いた祐介の視界にも来訪者の姿が映る。
驚愕。
目に入った人物二人に対する素直な感嘆を、祐介は表情にそのまま出す。
来客者達は、どこからどう見ても祐介と同年代である、少年少女であった。





晒された視線に、古河渚は小さく自身の肩を震わせた。
強張っていく表情を自覚するものの、渚自身ではどうすることもできない。

「大丈夫だ、普通の奴等だと思うぜ。いざという時は俺もいる」
「あ……」

小さな耳打ちが優しげに、渚の鼓膜を振動させる。
それは硬くなった渚の筋肉すらも、和らげる効果があったのかもしれない。
隣を見れば、優しく微笑む頼もしい少年の姿があり、渚も小さく頷き彼の気遣いにそっと答えた。
ぎゅっとデイバッグの肩掛け部分を握り締め、渚は少しだけ目を瞑る。

(お父さん、お母さん……)

渚のデイバッグには、彼女の両親に支給された物が形見のような形で入っていた。
母とじゃれた、ハリセン。
父が守ってくれた、拳銃。宗一に確信してもらった所、込められている弾数は四発で断層の残りも見当たらないとのことだった。
しかし、渚はそれを人に向けることだけは絶対にしないと心に決めている。

67来客予報:2009/06/14(日) 00:33:08 ID:Sd7UWGMg0
人を傷つける行為。
誰かが悲しむことが分かりきっている結末を、渚は望まない。
それを回避するためにも。

「……あんぱんっ!」

渚は心強いパートナーと共に、目的の第一歩へと歩みを進めた。





【時間:2日目午前7時30分頃】
【場所:I−6上部・民家】


長瀬祐介
【持ち物:無し】
【状態:驚愕・初音を待つ】

宮沢有紀寧
【持ち物:リモコン(5/6)】
【状態:前腕に軽症(治療済み)・強い駒を隷属させる】

以下の荷物は部屋の隅に放置
【持ち物:鋸・支給品一式】
【持ち物:ゴルフクラブ・支給品一式】

古河渚
【持ち物:支給品一式(支給武器は未だ不明)・早苗のハリセン・S&W M29(残弾4発)】
【状態:宗一と行動・殺し合いを止める】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾20/20)、支給品一式】
【状態:渚に協力】


鉈を除いた葉子の支給品一式は、病院に放置

(関連・485b・553)(B−4ルート)

68まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:19:27 ID:SytagYXA0
細い雨がしとしとと振り続ける静かな夜。
全てが終わった氷川村でただ雨が降っていた。
散っていった命を鎮める様に。
そして生き残った者達を優しく祝福するように。
しとしとと振り続けていた。

生き残ったのはたった三名。
藤田浩之、姫百合瑠璃、リサ・ヴィクセン。

数々の想いの果てにそれでも生き残った者達。
失ってしまった大切な人達の分まで生きようとする者達だった。

「さてと……こんな物でいいかしら」
「ああ……沢山死んだん……だよな」
「浩之……」

その3名は一度情報交換、手に入れた武器の確認、休憩を行う為にある民家に居た。
共に戦い抜いた仲間だったのもあり、スムーズに行う事が出来た。
そして今に至るのだが……

「本当に……沢山死んだ」

怨敵、藤林椋が死にその前にも珊瑚が死に……この短い間でまた沢山人が死んでいる。
その事に浩之は何か憑き物を落ちたようにそう重く呟いていた。
その隣に瑠璃が不安そうに浩之の手を握っている。
頼るのはもう浩之しか居ないと思っているように。

「……可笑しいよな、人殺しなのに」

浩之は自嘲しながらそう呟く。
椋や初音を殺す切っ掛けを作ったのは間違いなく浩之だろう。
そして殺す為に動いたのもまた浩之なのだ。
これで良かったんだという思いと何処か釈然とない思いが浩之の心の中で廻っていた。
瑠璃は哀しそうにでも何を言えばいいか思いつかず押し留まっているだけ。
それでもこの繋いだ手は絶対に離しやしないと強く握って。
リサは少し思案しながらやがて優しい瞳を浩之に向けながら口を開く。

69まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:21:29 ID:SytagYXA0

「いえ……可笑しくはないわ。人が死んだ事を悔やんだり、祷りを捧げる事は……誰もが持っている権利よ」

優しくまるで栞に話したように浩之にそう言った。
浩之はその言葉にまるで救われたような表情を浮かべリサを見ていた。
その浩之の表情を見ながらリサは安心したように立ち上がる。

「今はゆっくり考え休んでなさい……私はちょっと出るわ」
「何処に……?」
「叶わなかったデートの誘いを受けるのよ。直ぐそこだから大丈夫よ」
「解りました……」
「一応、回収した銃を置いておくけど……私も傍にいるから……まあ気休め程度よ」

リサはそれを伝え民家を出て行った。
用事もあったのだろうが浩之と瑠璃を2人にしたかったのだろう。
浩之はそんな事を薄々感付きながら心の中で感謝していた。
そして残されたのは瑠璃と浩之だけ。

二人は言葉は発せずただ繋いだ手を強く握るだけ。
何を話していいのかさえ戸惑ってしまう。
互いが互いを必要としているのは確かなのに。
それでも想いだけはこの手を通じて届けといいたい様に握り合う。
やがて瑠璃が震えながら口を開く。

「ひろゆき……」
「何だ?」
「ウチら……さんちゃんの仇とったんや……」
「……そうだな」

珊瑚の命を奪った悪魔、藤林椋は爆炎に飲まれ遂に死んだ。
珊瑚、環、みさき、観鈴の仇を遂にとったのだ。
やっと、やっと。
それなのに、瑠璃は体の振るえが止まらない。
繋いでない片方の手が震えるのを見ながら言う。

70まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:22:56 ID:SytagYXA0
「せやなのに……せやのに……なんでこんなに心が晴れんのやろ」
「瑠璃……」
「仇とったんや……憎いのに……憎いのに……震えがとまらへんよ……」

震えている瑠璃を思わず浩之は後ろから抱きしめる。
何も言わずに瑠璃を強く、強く。
瑠璃があの時の様に消えてしまいそうに見えたから。
瑠璃は抱きしめている浩之の腕を握りながら言葉を続けた。

「だって……誰も戻ってこうへん……さんちゃんは戻ってこうへんよ」
「瑠璃……いいから!……喋らなくていいから!」
「さんちゃん……いないんやっ……もういないんやっ……」

瑠璃は箍が外れたかのように喋り続ける。
また溢れ出した涙と一緒に、沢山、沢山の言葉を。
浩之はただ抱きしめるしかできなくて。

「ウチ……独りになってしもうた……」

その瑠璃の呟きが余りに哀しくて。寂しくて。
瑠璃にとって珊瑚はどれだけ大切なものだったかを認識せざるおえなかった。
瑠璃は言葉を吐き続ける。
珊瑚への想いを。

「さんちゃん……さんちゃん……ウチ大好きやったんよ……さんちゃんが……」
「瑠璃……」
「仇とったのに……さんちゃん戻ってこうへんのや……哀しくて……空しくてしょうないんよ」

瑠璃は想う。
哀しい、空しいと。
仇をとっても珊瑚は永久に戻ってこない。
あの二人で居た時間も二人で居た場所も戻ってこないのだ。
仇を取った達成感が過ぎ去ればただの哀しみと空しさだけ。
瑠璃にとって珊瑚居ない……そんな寂しさしかないのだ。
それは半身をもぎ取られたと言っても等しい喪失の痛み。
瑠璃はそれに涙するしかなくて。

「さんちゃん…………さんちゃん……」

ボロボロと大粒の涙を流す。
今まで抑えていた珊瑚への想いと喪失の哀しみを。
一度に吐き出していた。
それはとまる事が無くただ流れるだけ。

71まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:23:51 ID:SytagYXA0

珊瑚は戻ってこない。
瑠璃は独りなのかもしれない。

でも。

それでも新たなに手に入れた温もりがあるから。


「瑠璃……瑠璃は独りじゃない。おれがいる。おれがずっといる。何処にも居なくならないからっ……」

そう、それは同じく全てを失った藤田浩之。
浩之は大切な瑠璃を抱きしめる。
全てを失ってもまだ大切したいと思えるもの、瑠璃が居るから。
だから浩之は前に進めた。
だからこそ瑠璃を強く抱きしめる。
独りなんていって欲しくないから。
この温もりを二度と失いたくなんてないから。
ぎゅっとぎゅっと。
瑠璃はここにいるよ、おれはここにいるよと瑠璃自身に確かめさせるように。

「ひろゆき……ウチな、さっきから想ってたん……」
「何だ……?」
「ウチ……嫌な子や……」
「……え?」
「ひろゆきを大切やと思ってるのに……一瞬、一瞬やけど……さんちゃんの代わりと想ったんやよ……最悪や……ホンマ最悪やっ……」

瑠璃の嗚咽が響く。
浩之の事を大切だと思っていたのに。
それなのに珊瑚の代わりと思ってしまった。
依存できる代わりの存在して。
互いが生き抜くために依存の代わりの存在と想ってしまった。
それを再自覚した瑠璃はその自身にショックを受け哀しみに咽び泣いていた。

それは否定できないと浩之自身も思ってしまう。
全てを失い瑠璃しかいない自分。
そしてその瑠璃に依存してまっている自分がいる。
それは紛れも無い事実。
だけど、それでも浩之は思い誓う。
あの時と気持ちは変らない。
だから、それを瑠璃に伝える。
想いを言葉に代えて。

72まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:24:37 ID:SytagYXA0
「最悪なんかじゃない……おれもそう想っていたのもある」
「ひろゆき……」
「でもっ」
「でも……?」
「今は……代わりでもいい。依存できるかわりでもいい」
「……せやけど……それは」

瑠璃が哀しげに口篭る。
誰かの代わりの依存はただの停滞でしかない。
想いはその代わりになどなくただの縋り合いでしかにから。
そして何時か破滅するしかないのだ。
そんな哀しいもの。
でも、浩之の言葉には続きがあった。

「それでもおれは瑠璃が大好きなんだ、これは変らない」
「……ひろゆき」
「瑠璃もそうなんだろう?」
「……せや。ウチも浩之が大好き」

互いが本当に大好きという気持ちがあるなら。
あるというのなら。

もう、大丈夫。

「なら……生きようぜ。その依存が、代わりが、明日には、未来にはかけがえないただの一つの想いになるように」
「ひろゆき……!」
「俺達は――――生きてる。まだ生きているんだ。明日を未来を………………生きれる!」

生きているんだから。
色々な人の想いを沢山背負って。
今は二人の関係はただの依存かもしれない。ただの縋り合いかもしれない。
それでも……彼らは生きている。
明日を、未来を生き抜く事ができるのだ。
生きている限り、ずっとずっとその先まで見る事ができるのだから。
だからこそその依存の関係を変える事が出来る。
未来には互いを代わりじゃない唯一つの関係になれるように。

この大好きという気持ちと。
ずっと生きるという心持さえあれば。

明日には。
未来には。


変える事が出来る。

きっと、きっと。

そう思えるから。

73まだ見ぬ明日へ:2009/06/16(火) 07:27:18 ID:SytagYXA0
だから

「瑠璃……大好きだ……一緒にずっと未来まで生きよう」
「ひろゆき……大好き……一緒にずっと未来まで生きような」


生きよう。


二人はそっと唇を重なる。

この想いをそっと伝えて。

ずっとずっと生きる為に。


さあ―――行こう。


―――まだ見ぬ明日へ。


【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×5:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。英二の元へ。全身に爪傷、疲労大】

姫百合瑠璃
【所持品2:デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。るりとずっといきる。守腹部に数度に渡る重大な打撲(手当て済み)】


→B-10 1044

74第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:09:36 ID:mI8fKiE60
「……面白くないですね」

 例のモニターを眺めながら、デイビッド・サリンジャーはさも不快そうに息を吐き出す。
 それもそのはず、殺し合いを煽るはずだった放送はまるで意味を為さず、それどころか積極的殺人肯定派は全員が死亡。
 現状は15人。しかもやたらとグループを作り、あまつさえ連携まで取れだしている。

 サリンジャーは殺し合いが進まなかったことに腹を立てているのではない。自らの思い通りにいかなかった事実が腹立たしかった。
 神の掌で弄んでいるはずが、こちらを見据えて刃を突きたてようと目論んでいる。そのように思えたのだ。
 黄色い猿め、と内心に罵る。いつも自分を阻害し、否定しようとしてくる。

 だが奴らは現状、こちらに対する対抗手段を持ち合わせてはいない。アハトノインが損傷したことには内心焦りを覚えたが、
 右手が喪失しただけに過ぎず、相手側は寧ろ船という脱出手段を失ったのだ。
 これで首輪が解除できようができまいが、絶海に包囲され、身動きできなくなったも同然。
 もはやこちら側がじっくりと料理すればいいだけの話なのだ。

 アハトノインに損傷を負わせた事実は寧ろ褒め称えてやってもいい。人間のしぶとさを多少見誤っていた。
 いいデータが取れた、とこれだけに関してはサリンジャーも満足だった。
 02は現在帰還して損傷した箇所の修理にあたっている。
 ただ一朝一夕にパーツの交換が行えるはずもなく、整備には朝までかかりそうだというのが現状だった。

 朝か、とサリンジャーは蛍光色で光を帯びた腕時計を見る。デジタル式のそれはここに来てから三日が経ったことを告げている。
 日本政府、米国はそろそろ異常に気付いたころなのだろうか。日本各地で突如として起こった拉致事件。
 そして出現した謎の島。全てを繋ぎ合わせるには到底至っていないだろうが、そう悠長にできるほど余裕があるわけでもない。
 セレモニーはこちらから派手に行う必要があるからだ。神の軍隊による世界への宣戦布告を。

「とりあえず、今日中には決着をつけたほうが良さそうですね……楽しくなくなってきましたし」

 しかしこちらの思い通りにいかないというのはどうにもサリンジャーには癪だった。
 黄色い猿風情に噛み付かれたという事実そのものが嫌悪感を催すのだ。

75第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:09:49 ID:mI8fKiE60
 サリンジャーは決してシオニスト(差別主義者)ではない。
 あくまでも己が理論を否定し、断固として受け入れようとしない姿勢が気に入らないのだ。
 サリンジャーには自らが優秀だという自負がある。誰もが開発できなかった戦闘用ロボットを作り上げたという事実がある。
 にもかかわらず日本人は、いや世界は優秀であることを受け入れず寧ろ疎んじさえした。
 その結果がしがない会社の平プログラマーであり、ロボットは兵器であるべしという論文を真っ向から否定されたということだった。

 能力のある者が省みられないという現実。それがただ許せず、復讐の機会を目論んでいた。
 間違っているのは自分ではない、能力を疎んじた世界の方なのだと。

「時間だ。放送しろ」

 粘りつくような憎悪を含ませながら、サリンジャーはマイクの前に立っていたアハトノインに伝えた。
 怨恨によって研がれ、冷たく輝く瞳はモニターを凝視したままだった。

     *     *     *

「皆様、いかがお過ごしでしょうか。日付も変わりましたので、定時放送を行いたいと思います。
 親しい方や、大切な方を亡くされた方も大勢いらっしゃることでしょう。
 ですがくじけないでください。あなた方はここまで生きてこられたのです。
 終わりはすぐ、そこまで来ているのです。ですからどうか、光輝を目指して、諦めないでください。
 ――それでは、名前を発表致します。

76第四回定時放送:2009/06/17(水) 00:10:10 ID:mI8fKiE60
4 天沢郁未
14 緒方英二 
21 柏木初音 
24 神尾晴子 
32 霧島聖
39 向坂環 
45 小牧愛佳 
48 笹森花梨 
54 篠塚弥生 
69 遠野美凪 
70 十波由真 
78 七瀬彰 
79 七瀬留美 
85 姫百合珊瑚 
91 藤林椋 
100 美坂栞 
104 水瀬名雪 
108 宮沢有紀寧
111 柳川祐也 

 以上、19名となります。次回の放送は朝とさせていただきます。
 それでは皆様、ごきげんよう。
 そして、神のご加護があらんことを」






【場所:高天原内部】
【時間:三日目:00:00】

デイビッド・サリンジャー
【状態:朝まで待機】

→B-10

77it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:18:06 ID:qsNVNyN.0
 
「……ねえ、ところでさあ」
「何だ」

まるで一ミリたりとも視線を動かすまいと固く神に誓ってでもいるかのようにじっと『それ』を
見つめながら問いかける志保に、どんよりとした表情で国崎が答える。

「まさかとは思うけど……あれがパンっていうんじゃないわよね……」
「俺に聞くな……」

言いながら脂汗を拭った国崎の視線もまた、志保と同じくその物体に吸い寄せられている。
興味や好奇心を掴んで離さない、というわけでは決してない。
むしろ直視する時間に反比例して精神の許容量が音を立てて削られている気すらする。
だが、目を逸らすわけにはいかない。
本能が命じていた。
絶対に気を緩めるな、油断すれば待つのは一片の情け容赦もない無惨な未来。
ここは野生の戦場だ、敵は眼前、我らは哀れな被捕食者だ。
目を逸らさず、刺激せず、一歩づつ、否、半歩づつ距離を取れ。
音を立てるな立てれば死ぬぞ。
牙を剥き飛びかかってこられたら我らに抵抗の術はない。
背を向けるな、しかし戦うな、我らの為すべきはこの場を生き延びてあれという存在の危険性を
叩き込んだ遺伝子を子々孫々に残すことだ。

そんなはずはない、と。
理性の一部は告げている。
うららかな午後のリビングはいつから戦場になったのだ。
野生などどこに存在する。
目の前にあるのはパンだ。小麦粉を主原料とした食物の一種だ。
少なくとも制作者はそう呼称している代物だ。
目を逸らしても牙は剥かない襲い掛からない。
逃げ出す必要がどこにある。
そう告げてはいるが、その声はひどく弱々しい。
思考の国会議事堂に逃げ込んだ理性の保守本流が拡声器で告げる声は遠く掠れて聞き取りづらい。
残りの理性はといえば、中道右派から改革派まで大連立を組んでシュプレヒコールを上げている。
馬鹿にするな、我らは理性だ。
目の前の事実を認めろ現実認識を歪めるな。
パンという存在は、とりあえず食物に分類されるパンというものは、ふしゅるふしゅると音を立てたりしない。
ぶよぶよと不定形に揺れ、あるいは時折どろりと何かの汁をこぼしながらぐねぐねと皿の上を這い回らない。
青く、黒く、赤く白く桃色であったり紫色をしていたり、それらの混じり合った玉虫色の内部から
自ら淡く光を放っていたりはしない。
牙はない触手もないぎょろりぎょろりと辺りを見回す大きな濁った一つ目など存在しない。
そういう怖気の立つような様々な属性がくっ付いている代物を、我らは決してパンと呼ばない。
などと肩を組んで大合唱する過半数の理性たちは、よく見ればしかし手に手に酒瓶を持っている。
顔を赤らめアルコールに逃避しながらアナーキズムに酔う理性は、自らの存在意義を半ばから放棄している。
常識の枠外からの侵略者に対して、理性は実に無力であった。

78it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:18:33 ID:qsNVNyN.0
「くそ……なんで俺がこんな目に……」
「あのさ……」

そんな内心の葛藤に頭を抱えながら、国崎は『それ』をどんよりと睨んでいる。
くい、と国崎のシャツの裾を引く志保の指先もじっとりと嫌な汗で湿っていた。

「もし、もしかしたらの話よ」
「何だ」
「まだ目を覚ましてなかったら、あたしもアレを……」

ごくり、と恐怖に染まった表情で唾を飲み込む志保。

「……ちっ、その手があったか」
「殺す気!?」
「生き返らせるんだろう」
「できるかっ!」
「ぐぁっ!? 俺が言ったわけじゃ―――」
「……できますよ、きっと」

すぱん、と叩かれた頭を抑えながら言い返そうとした国崎の言葉を、穏やかな声が遮る。
振り返ればそこにはいつの間に戻ってきたのか、古河渚の姿があった。
その手には大きな紙袋を持っている。

「見たことも聞いたこともないようなもの、皆さんが頑張って探し出して、それを舞さんが持って帰ってきて。
 そうやってできたパンですから。たくさんの気持ちとか、願いとか、そういうの、きっと篭ってます。
 なら、起きてほしいなって思いませんか。魔法みたいなこと」

訥々と告げるその顔には、静かな笑みが浮かんでいる。
それは眼前の気弱で小柄な少女が、しかし確かに古河早苗の血を引いていると思わせる、穏やかな静謐である。

「……」
「……」
「わ、わたし、もしかして何か、すごく偉そうなことを言っちゃいましたか……!?」

気圧されるように言葉を失った国崎と志保を前に、少女が急に頬を紅潮させる。
慌てたように手を振って、言葉を継ぐ。

79it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:19:14 ID:qsNVNyN.0
「そ、それに、お母さん言ってました!」
「早苗さんが……?」

手にした紙袋が、がさがさと音を立てる。

「わたしたちは、食べるためにパンを焼くんだって! えっと……だ、だから!
 もし何も起きなくたって、そのときはわたしたちで食べちゃえばいいんです! これ!」

びし、と指さした先に、うぞうぞと蠢くこの世の怪奇。

「……」
「……」
「あ、そうでした。何をしに来たんだか、すっかり忘れてました」

文字通りの意味で絶句し、蒼白な顔で己を見つめる二人の様子には気付くこともなく、
渚がぽんと小さな手を打つ。

「これ、いつまでも出しっ放しにしておいたらダメなんだそうです。乾いちゃいます」

ひょい、と無造作に手を伸ばし、きしゃあと奇妙な威嚇音を立てるのを無視して
充血した一つ目の辺りをがしりと掴む。

「ひ……!」
「お、おい……」

持ち上げた拍子に、自動車から漏れた油のように七色に光を反射する黒い汁が垂れる。
ずるりと暴れる触手が指に巻きつくのをまるで意に介さず、渚が表情も変えずにそのおぞましい物体を
紙袋に放り込み、口を閉じた。

「……? どうかしましたか?」
「お前……いや、何でもない……」
「い、意外と根性あるわね……」

がさがさと不気味な音を立てる紙袋を手にしながら首を傾げる渚。

「お母さんの準備が終わるまで、くつろいでて下さいね」
「あ、ああ……」
「うん……」

かける言葉を見失った二人が、沈黙のままにその背を見送る。
扉の閉まる音と同時、顔を見合わせると、ほぼ同時に深い溜息をつき、
疲れきったように椅子に座り込んだ。

80it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:19:52 ID:qsNVNyN.0
「しかし……」
「ねえ……」
「あれが何であるかはさておくとして」

肩をすくめた国崎が、テーブルの端に置かれていたカップを手に取って呟く。

「死人が生き返るだの、んな非常識なことが―――」

つい今しがたまで悪夢の産物に支配されていたテーブルの中央には、いやらしく粘つく黒い汁が
点々と飛び散っている。
それに眉を顰めながら冷めた紅茶を啜った、その瞬間。

「ぐああぁぁぁっ!?」
「な、何よ、また!? 今度はどうしたってのよ!?」

突然奇声を上げて椅子から転げ落ちた国崎が、そのままゴロゴロと床をのた打ち回る。
取り落とされたカップが床に落ち、重い音を立てた。

「うぉぉーっ! 口が! 俺の口が!」
「く、口が!?」
「口の中が!」
「口の中が……!?」
「か、痒い! 熱い! かゆ熱ぃー!」
「……。微妙な症状ね……」

びたんびたんと水揚げされた魚のようにのたうつ国崎が酸素を求めるように突き出した舌は
しかし明らかに赤く腫れている。

「何だ、何を入れやがった!? 毒か! 毒なのかっ!?」
「ちょ、あんた、毒って……ああ、これっ!」

言われ、国崎の取り落としたカップに目をやった志保が表情を凍らせる。
中身はすっかり床の上にぶち撒けられていたが、陶器のカップ自体は小さく欠けただけで
粉々に割れることもなく転がっている。
恐る恐る拾い上げた志保がたった今、目にしたものを確かめるように中を覗き込む。

81it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:20:14 ID:qsNVNyN.0
「……やっぱり」
「な、何だ!? やはり、毒だったのか……!?」
「いいえ、違うわ。……自分で見てみなさいよ」

床に倒れたまま腫れ上がった舌を突き出し、息も絶え絶えといった風情の国崎の鼻先に
志保がカップを差し出した。
それを目にして、国崎が思わず呻き声を漏らす。

「……! 何……だと……」
「理解したようね……」

悲しげに首を振る志保が、手にしたカップにもう一度目をやる。
その小さく欠けた飲み口にはくっきりと、どす黒く、しかし不気味な七色に照り輝く痕が付着していた。

「アレの……汁が……」
「そう、一滴……紅茶の中に撥ねてたのよ……」
「くそ……そうとも知らず、俺は……」
「可哀相だけどあんた、もう助からないかもね……」

目を伏せた志保が、

「……ん?」

ちょいちょい、と奇妙な感触に振り返る。
視界を埋めていたのは見事な白銀の体毛である。

「あら、あんた……えーと、カワ……川なんとか」
「……川澄舞」

ぼそりと答えた白銀の主が、志保の制服の裾を摘んでいた。

82it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:20:44 ID:qsNVNyN.0
「そうそう、川澄。川澄さんね。で、その川澄さんが何か志保ちゃんにご用?」
「……」
「ちょ、ちょっと……?」

ずい、と志保を押し退けるようにして身を乗り出した舞が、無言のまま蒼い顔の国崎を見下ろす。

「というか、お前ずっといたのか……」
「……」
「まるで気付かなかっ……もがッ!?」

国崎の言葉を遮ったのは、物理的な障害である。
舞がその手を、否、その手に握り締めた何かを国崎の赤く腫れた口腔へと捻じ込んでいた。

「あんた、何を……!」
「……」

慌てて止めに入った志保が舞の腕を掴むが、時既に遅し。
その手にしていた何かは、国崎の力なく開かれた口の中へと放り込まれている。
ただ、ぱらぱらと白い粉のような何かが、舞の手から零れ落ちるだけだった。

「な、何だこりゃ―――ぐおおおっ!」
「……! ど、どうしたの!? まさか……更に毒を……!?」

途端、口元を押さえて突っ伏した国崎を見て志保が戦慄する。
横目で睨んだ舞の表情は変わらない。
白銀の長髪の向こうに見える瞳の涼やかさは、いまや冷徹に実験動物を見つめる
厳格な研究者のそれであるかのように志保の目に映る。

「あ、あんた……!」

言いかけたときである。

「……、」
「何!? 何が言いたいの!?」

痙攣する身体を抱き締めるように蹲った国崎が、何事かを呟いたように聞こえて、
志保が耳を寄せる。

83it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:21:19 ID:qsNVNyN.0
「……、し……」
「し……?」
「……し……!」
「うん、うん、それから!?」

一言一句を聞き漏らすまいと、志保が精神を研ぎ澄ませる。

「し、し……」
「……」
「……しょっぺえええっ!」
「紛らわしいわっ!」

思わず全力で引っぱたいた。

「うっさいのよあんた! もう静かに死になさいよ!」
「お前、大概ムチャクチャ言うな!」
「うわ、汚なっ」

叫び返した国崎の口から、何かが吹き出す。
舞に捻じ込まれた、それは白い粉のようなもの。

「これ……もしかして、塩?」

頬に飛んだそれを指先に取り、しげしげと眺める。
舐めてみる蛮勇はない。
しかしそれは、普段から食卓の上で見慣れた結晶……食塩のそれであるように、志保には思えた。

「ああ……だからそう言ってるだろ……」
「あんたねえ……!」
「畜生……口の中がかゆ熱しょっぺえ……ん?」

84it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:21:36 ID:qsNVNyN.0
もう一発いってみようか、と憤りに任せて平手を振り上げた志保の前で、
国崎が目をしばたたかせる。

「死ぬほど塩辛いが……痒くも、熱くもない……?」
「え……?」

目の端に涙が滲んだままの国崎を見れば、果たして真っ赤に膨れていたはずの唇からも
その腫れが引きつつあるように感じられる。

「どうして……」

呟いた志保の背後に、静かな気配。
向ける視線の先に、白銀の少女が立っている。
その手には澄んだ水をなみなみと湛えたグラス。
す、とグラスを国崎に差し出した舞の表情には、ある種の確信が浮かんでいた。

「あんた、あの塩……もしかして」
「……消毒」

こくりと頷く。

「そういうことは、まず口で言えっ!」

塩を吐き出し、瞬く間に水を飲み干した国崎が舞に食って掛かろうとする。
リビングに穏やかな声が届いたのは、まさにその瞬間であった。

「皆さーん、準備が終わりましたよー」

古河早苗の声が、奇跡の開幕を告げていた。


***

85it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:13 ID:qsNVNyN.0
 
「しかし、ただの一滴であの惨劇だぞ……本当に食べさせていいのか……?」
「被害者が言うと説得力が違うわね……」

遮光性のカーテンを閉め切った薄暗い診察室の中に、ぼそぼそと囁き声が響く。
白いパイプベッドを囲む影は五つ。
いまだ目を覚まさぬ春原陽平を除く、沖木島診療所に集った全ての人間が一同に会していた。
中心にいるのは古河早苗である。
その手にした紙袋からは時折がさごそと不気味な音が聞こえてくる。

「そもそも食べさせるったって……なあ」
「そうね……相手があれじゃあ、ねえ」

彼らの囲むベッドの上には、横たわる一つの躯がある。
川澄舞の持ち込んだ、その少女の名を吉岡チエという。
失血死とみられるその死に貌は暗い室内にぼんやりと浮き上がるように白い。
苦痛に歪むことのない、眠るように目を閉じた無表情がひどく、冷たかった。

「ただ寝てるのとはワケが違うぞ……」
「しっ、……始まります」

尚もこぼす国崎の言葉を遮ったのは古河渚である。
がさり、と音がした。
早苗が、口を開いた紙袋に手を入れていた。
ぽう、と淡い光が漏れる。
早苗の手に掴まれ、引きずり出された怪奇の結晶がほんのりと光を放ち、薄暗い室内を照らしていた。

「ん……?」

何かに気付いたように国崎が声を漏らす。

「この光の、色……」

先刻、陽光の下で見たそれは白く輝いているように思えた。
しかし闇の中、それの放つ光だけを見れば、そこにあるのは白の一色ではない。
限りなく澄んだ純白の海の中に、ただ一滴の異彩が混じっている。
それは、淡い淡い、空の青。

86it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:28 ID:qsNVNyN.0
「これ……」
「……」

呟いた志保と、ほんの僅か表情を険しくした舞が見つめる、その目の前で、
ぞろぞろと蠢くそれが、少しづつ、少しづつ光を強めていく。
澄み渡る白から、透き通るような青へ。
輝きを増すにつれ、その光は彩を変えていく。

「この……、感じ……?」

煌く青い光が、小さな世界を、包み込んでいく。
それは吉岡チエを照らし、古河早苗と古河渚を包み、川澄舞の白銀の毛皮を輝かせる。
国崎往人が目を覆い、そして長岡志保は一つの記憶を呼び起こす。

「あの時と……同じ……!」

神塚山の麓、小さな社の境内で。
弾けた青が、世界を割り裂き、長岡志保に、流し込む。
痛みと、混乱と、そうして届けた小さな祈りの、記憶。

「また、何か……、拡が、って……!」

ぬめりと歪んだ視界が、意識を刈り取ろうとする。
強くあろうと、その先にある願いを、祈りを、意思を届けようと、決意したはずだった。
しかし、踏ん張ろうとした足に力が、入らない。
膝が、震えていた。
心が克服したはずの恐怖を、身体が揺り起こそうとしていた。
視界は歪む。
力が抜ける。
身体が、どこにあるのか曖昧になっていく。
心が、何を支えればいいのか分からなくなっていく。
揺らぐ記憶が、次第に黒く、腐って糸を引く絵の具で塗り替えられていく。
長い、絶望的に長い悪夢だけが、そこにあったように、感じられた。
正気と狂気の狭間を遥かに飛び越えた、息もできない無間の地獄。
そんなものに、もう一度浸らねばならないのか。
癒えきらぬ疲労と苦痛への恐怖とが志保の足元を掬い、抵抗する力を奪っていく。
ぐらり、と。
ついに重力に逆らえず上体が傾ぐのを、志保はどこか、他人事のように感じていた。
倒れる、と。
支えきれない、と。
諦念が意思を塗り潰そうとした、その小さな体を、

「―――」

がしりと掴む、手があった。
思わず目をやり、歪む視界は影しか映さず、しかし、声は聞こえた。

「今度は、支えてやる」

国崎往人の、声だった。


刹那。
世界が、変わる。



******

87it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:22:51 ID:qsNVNyN.0
 
 
そこには何も、残らない。


それは、ただの一言、ただ一つの想いを伝えるだけの、束の間の夢物語だ。


それを奇跡と、人は呼ぶ。



***

88it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:23:29 ID:qsNVNyN.0
 
 
古河渚が目にしたのは、笑顔である。
光の中だった。
薄暗い診察室はどこにも見えない。
小さな瓶の沢山置かれた薬棚も、乱雑に書類や本の散らばったデスクも、
銀色の舌圧子が幾つも立てられたグラスも、光の中に溶けたように見当たらない。

ふわふわと、浮き上がるような感覚が足元から伝わってくる。
光の海にたゆたうように立つ渚は、しかしそんな情景を気にかけることもない。
ただ、目の前に突然現れた影に心を奪われ、言葉もなく立ち尽くしている。

「―――」

影が、笑う。
慣れ親しんだ笑みに、その力強さに浮かぶ涙を抑えきれぬまま、その名を呼んだ。

「お父さん……!」

古河秋生。
渚が父と呼んだその影は、言葉を返すこともなく、ただ静かに笑んでいる。
その目に浮かぶ儚い色に、古河渚は気付かない。
ただ父に、我と我が身と、そして家族とを護るその広い胸に飛び込まんと、駆け出そうとする。

「お父さん、お父さん、お父さ……!」

足元がふわふわとして走りづらい。
躓きそうになりながら歩を踏み出す渚の、今まさに駆け出そうとしたその腕が、

「え……!?」

ぐ、と引き寄せられていた。
強い、力。
思わずバランスを崩し、光の海に転びそうになる渚を、やわらかいものが受け止める。

89it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:23:54 ID:qsNVNyN.0
「……お母さん……?」

見上げれば、古河早苗がそこにいた。
渚を抱きしめるように腕の中に包んだ早苗が、無言のまま、首を振る。

「お母さん! お父さんが来てくれましたっ! これで皆でお家に帰れますっ!」
「……」

言葉はない。
渚を包む腕に、ほんの僅か、力が込められる。

「お母さん! ほら、お父さんですっ! お帰りなさいをしないと!」
「……」
「お母、さん……?」

間近に見上げた母の瞳は、しかしその奥に秘めた色を垣間見せることもなく、
薄暮の静謐だけを浮かべている。
じっと、光の中に立つ秋生だけを真っ直ぐに見つめながら、早苗はただそっと、
渚を抱きしめて立っている。

「―――」

母の瞳が意味するところを、古河渚は理解できずにいた。
その腕に抱きしめられたまま、ただ温もりとやわらかさだけを感じながら、
言葉を差し挟むこともできず、ぼんやりと眼前に立つ父を見つめていた。
眠りに落ちる寸前のような心地よさが、渚の全身に行き渡っていく。

「……」

次第に薄れていく光が、落ちかけた瞼の重さによるものか、それとも光そのものが
本当に小さく消えていくものなのか。
微睡みが、思考と弛緩との境界をかき消していく。

消えていく。
淡い光が、
浮き上がるような感覚が、
そうして最後に父の笑顔が、
消えていく。

最後まで、最後まで。
古河秋生は静かに、しかし力強く、笑っていた。



***

90it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:24:30 ID:qsNVNyN.0
 
 
光の中に、立っていた。

「 く に さ き ゆ き と ー ! 」
「うぉっ!?」

背後から響く元気のいい声に、反射的に身を躱しながら振り返る。
捻った身体のすぐ脇を、鉄砲玉のように駆け抜けていく姿は―――そこにない。
代わりに佇むのは、どこか困ったような、ばつの悪そうな苦笑いを浮かべた少女である。

「久しぶり」
「みち、る……?」

見上げてくる少女には、顔をくしゅりと歪めるような満面の笑みも、或いは稚気に満ちた怒りも、
常に浮かんでいたはずのそのどちらの表情もない。
咎めるような、それでいながらどこか甘えるような苦笑は幼い少女には不釣合いで、
しかし国崎は違和感を無視して少女に駆け寄る。

「お前、今までどこに……いやそんなことはいい、無事だったんだな!
 遠野は、遠野は一緒じゃないのか!?」
「……ここまで、残ったんだねえ」

手を体の後ろで組んだまま、くるりと少女が踵を返す。
苦笑が隠れ、黄昏色の声音だけが残った。

「みちる……?」
「どうしよっかなー。こんなやつ、たよりにならないしなー」
「おい……!」

見えない石を蹴るように足をぶらぶらさせながら、組んだ手の指をせわしなく動かしながら、
少女は国崎を無視するように何事かを呟いている。
その声が何故か、幼子が震える口元を引き結んで張り詰めた心の糸の上を歩いているように、
今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えているように聞こえて、国崎が少女へ手を伸ばす。

「おい、みち―――」
「うんっ!」

振り向かせようと、肩に手を掛けようとした瞬間、少女が大きく頷く。
思わず、手を引いた。

「いいよ、って。きっと、ゆってもいいよって。美凪はきっと、ゆるしてくれるから。
 だから、国崎往人に、おねがいしようかな。……うん、そうしよう」
「お前、何を言って―――、」

91it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:06 ID:qsNVNyN.0
何度も何度も、誰かに言い聞かせるように頷いた少女が、くるりと身体ごと振り向く。
泣き顔の形に歪んだ目の端に浮かんだ涙を勢いよく拭って、無理やりに笑うまで、ほんの一瞬。
言葉を失った国崎に、少女がびしり、と指を突きつける。

「―――ここまで来い、国崎往人っ!」

高らかに言い放つそれは、命令のかたちをした、願いである。

「わたしのところまで! 今すぐ! 十数えるうちに来なかったら承知しないぞ!」

笑みに隠した懇願と、涙に融かした哀願と、声音に秘めた切願と。

「わかったか、へんたい誘拐魔!」

だから、国崎往人はそういうものを受け止めて、取り落とさぬよう顔を顰めて。
いつも通りの仏頂面で、難儀そうに天を仰いで、深い溜息をついて、

「……気が向いたらな」

それだけを、返す。

「うん」

ひどい面倒事を押し付けられたような、ぶっきらぼうに響く国崎の声音にも、
少女は怒ることも、落胆することもなく、ただ頷く。
無理やりに作られた仮面の笑みの中、ほんの僅か滲んだのは、少女の年相応の、
本当の笑顔だっただろうか。
くるりと再び踵を返したその表情は、もう見えない。

「……きっと、きっとだからね」
「……」

小さく手を振ったその後ろ姿が、次第に薄れて消えていく。

「じゃね。ばいばい」

その声を最後に。
少女の姿は、もう見えない。

92it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:30 ID:qsNVNyN.0
「―――」

小さく、細く、疲れたように息をついた国崎が、身を屈める。
光の中、少女の消えた場所に落ちているもの。

「……お前、もう動かないんじゃなかったのか」

それは掌に収まるほどの、みすぼらしく薄汚れた何か。
国崎往人と共に長い旅を終えたはずの、小さな相棒。

「―――」

それは、言葉を話さない。
縫い付けられた口は開かない。
汚れて黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの布切れと、ボタンや毛糸の顔立ちと。
そういうもので、できている。

「……ああ、分かってる」

人形の指さす先には、窓がある。
光の中に浮かんだ窓は、診察室のものによく似ている。
似ているが、違った。

「あれ、か……」

窓の外には、森の緑と蒼穹と、そうしてそれらを繋ぐ、黒い糸が見えている。
診療所まで歩く最中、嫌でも目に付いたそれは島の南東端に突如現れた、異様な建造物だった。
北向きの窓から見えるはずのないそれを指さす人形は、つまりそういうことなのだろうと頷く。

「あれ登らなきゃならんのか……面倒だな。やめちまうか」
「―――」

人形は言葉を話さない。
しかし黒いボタンの瞳はじっと、国崎を見つめている。

「……」
「―――」
「……冗談だ」

何度目かも分からない深い溜息をついて、国崎が肩をすくめる。

「行ってやるさ。それがこの旅の、本当の終わりならな」

言って頷いた、その途端。
それを聞いて、まるで安心したかのように。
ぱたり、と小さな音がした。

「……」

手を、伸ばす。
拾い上げて、埃を払った。
黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの小さな相棒は、もう動かない。
もう二度と、動くことはなかった。


「……長い間、ご苦労さん」



***

93it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:25:52 ID:qsNVNyN.0
 
 
どこまでも拡がる暗闇の中に、一筋の光が射している。
浮き上がるように照らし出されているのは白く簡素なベッドである。
小さな寝台の他には何もない、書き割りの空間。
そんな子供だましの舞台装置のようなベッドの傍らに、川澄舞は立っていた。
舞の覗き込む、どこからか射す光に照らされて目映いほどの白さを際立たせる寝台の上には、
一つの骸が横たわっている。

それがたとえ、二度と開かぬはずの眼をゆっくりと瞬かせ、やがてしっかりと見開いたとして、
散大しきった瞳孔のどんよりとした昏さは黄泉路にある者のそれである。
或いは血の通わぬ青黒い唇を震わせるようにして何事かを囁いたとして、
それは冥府に惑う亡者のおぞましい聲である。
蘇る、ということの醜悪さを前にして、しかし川澄舞は表情を変えない。
静かに、ただじっとその瞳を見返し、囁きを聞き届けようと耳を澄ましていた。

「……とび、ら……、」

眼前に横たわるそれは、決して生者ではない。
その手を取り、彼岸からの帰還を喜び合う道理もない。
だが、と。
川澄舞は、思考にすら届かぬ、その在り方を以て断言する。
それが、なんだ。
生者とは死んでいないものだ。
死者とは生きていないものだ。
ただ、それだけのものだ。
喪われたことを悔やむなら、抗えばいい。
生死の境とはこの世の理の根幹であり、ただそれだけのものだ。
この世すべてに抗うならば覆る、その程度の境でしかない。
それをして川澄舞を押し留めることなどかなわない。

「……せ……り、か……ひら……く……」

94it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:03 ID:qsNVNyN.0
故に眼前の生にも死にも意味はなく、吉岡チエという命が喪われたことを、川澄舞は悔やまない。
それは自信の取り戻すべき力ではなく、護るべき、奪還すべき約束の地ではなく、
ならばそこにあるのはただ、果たすべき約定の果たされた、その結果でしかない。
吉岡チエという骸を見つめる舞の瞳は、だから何も映していないかのように揺ぎ無く冷ややかで、
その思考、その在り方が既に此岸に生きるもののそれではないことを自覚しないまま、
川澄舞という異形はじっと亡者の聲を聞いている。

「……あり……が……と……」

砂埃を散らしながら乾いた荒野を吹き抜ける風のように掠れた聲が最後にそう呟き、
やがて震える口を閉じ、どろりと重い瞼を閉じて、前触れもなく光が消えても、
川澄舞はただゆっくりと一つ、瞬きをしただけだった。
その瞳が見つめる先には、真黒い闇だけが残っている。
その先にあったはずの白い寝台は、もう見えない。



***

95it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:18 ID:qsNVNyN.0
 
 
そうして、夢は醒める。


ただの一言、ただの一つ、想いを伝えて、束の間の奇跡は、その幕を下ろす。


残されたものを、人という。



******

96it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:26:54 ID:qsNVNyN.0
 
 
光が消え、目を開ければそこは、薄暗い診察室の中だった。
時が止まったかのような静けさが、そこにあった。
五人の囲んだ白い寝台の上には、目を閉じた吉岡チエの骸が、変わらず横たわっている。
青白い瞼を開けることもなく、起き上がることも、止まった心臓が再び鼓動を刻み出して
その全身に熱い血潮を送り込むことも、なかった。
骸は骸として、そこにある。
それは光の弾ける前と、何一つとして変わらない光景のように、見えた。
ただ古河早苗の手から落ちたらしき怪奇の産物が、居心地悪そうにもぞもぞと床の上を
這い回ろうとしているのだけが、幾ばくかの時間の経過を示しているようだった。

「今の……は……」

ぼんやりと重い頭を振って呟いた、長岡志保の言葉がきっかけであったかのように、
時計の針が動き出す。
弾かれたように振り向いたのは古河渚である。

「お母さん! 今の……!」
「夢……だったんでしょうか……」

珍しく噛みつかんばかりの勢いで迫る渚に、しかし早苗の反応は冴えない。
こめかみを押さえながら歯切れの悪い答えを返す母に渚が食ってかかる。

「そんなことないです! お父さん、いました! だけど消えちゃって……!
 あれ、どういうことでしょうっ!?」
「ごめんなさい、渚……私にも、よく分かりません……」

嘘だ、とそのやり取りを眺めていた志保は直感する。
古河親子が何を見たのかは分からない。
結局のところ、志保には声や想いや、自身を通り抜けていくそういうものが何であるのか、
どういったものであるのかを理解することはできなかった。
それは色であり、音であり、光であり、それらすべての断片だった。
砂粒ほどのピースを繋ぎ合わせて意味を見出すことなどかなわない。
乱れる鼓動も、いまだ収まらぬ荒い呼吸も、胃が引っくり返りそうな嘔吐感も、
それを解明する鍵にはならなかった。
しかしそれでも、と志保は思う。
その何かを受け取った者たちを眺めるだけで分かることも、中にはある。
伏せた視線を落ち着かない様子で細かく動かしながら言いよどむ早苗の挙動不審は一目瞭然であった。
あれ程に分かりやすい嘘はそうあるまい。
渚が見たという父の姿、それをはぐらかしているのはつまり、その男について早苗は
何かを知っているということだ。
或いは、その身に何が起こったのかを。

97it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:27:31 ID:qsNVNyN.0
「お母さん、あれはきっと夢なんかじゃありませんっ」
「……」

それを隠す理由は、分からない。
だが察することは、できた。
それはきっと、知ってしまえば渚自身が深く傷つく、そういうことだ。

「ねえ、ちょっとあんた……」

困り果てた様子の早苗に助け舟を出そうとした、そのときである。
きい、と。
錆びた蝶番の立てる軋んだ音が、薄暗い診察室に響いていた。

「なあ、誰かいるの……?」

続いて聞こえてきたのはどこか間の抜けた、眠たげな声。
もうすっかり耳に馴染んだ、その脱力感に満ちた声に、志保が思わず振り向く。

「……! あんた……!?」
「あれ、長岡……? 国崎さんも……」

ぼりぼりとその乱れた金髪を掻き毟り、大きなあくび交じりに自らを指さすその少年に、
駆け寄った志保が挨拶代わりに平手を入れようとして、その身に巻きつけたシーツの下で
まるで膨らみを隠せていない腹が目に入り、咄嗟に手を止める。
代わりに、その名を呼んだ。

「バカ春原……!」
「いきなりご挨拶ですねえっ!」

98it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:28:20 ID:qsNVNyN.0
春原陽平。
希代の神秘をその身に宿した、傷だらけの少年が、そこにいた。

「バカで済ませてやったんだから感謝しなさいバカ!」
「はあ? ムチャクチャ言うなよ、おまえっ」
「散々心配させて……!」
「……」

テンポよく続く罵声に何かを言い返そうとした春原が、言葉を止めた。
志保の表情に、紛れもない安堵の色があるのを見て取ったからだろうか。
悪態の代わりに、辺りを見回して不審そうに尋ねる。

「……なあ、それよりここ、どこ? あの人たちは……?
 っていうか、僕ぁ一体……」
「ああ、えーっと、話せば長くなるような、そうでもないような感じなんだけど―――」
「何だ、目を覚ましたのか春原。なら、丁度いいな」
「そうだ、あんたからもこのバカに説明を……、って何で荷造りしてんのよあんた!?」

振り返った志保が思わず声のトーンを上げる。
その視線の先では、屈み込んだ国崎が自らのデイパックをごそごそと弄りながら
必要なものとそうでないものを選別し、中身を入れ替えようとしていた。

「何って、外に出るからに決まっているだろう」
「そういうことを聞いてるんじゃないっ!」
「痛ッ!? いきなり蹴りを入れるな!」

荷を詰め終わったのか、デイパックの口をしっかりと閉めた国崎が立ち上がり、
蹴られた背中をぱたぱたとはたいてから荷物を背負う。

「ったく……。すぐに戻る、そう心配するな」
「心配なんかしてないわよ! 説明しなさいって言ってるの!」

答えず、国崎が顔を向けたのは古河早苗である。

「なあ、あんた……」
「はい、何でしょう?」
「志保ちゃんを無視するなぁーっ!」

志保の大声に片耳を塞いで、国崎が軽く早苗に頭を下げる。

99it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:28:55 ID:qsNVNyN.0
「悪いが、俺が戻るまでこいつらを頼めるか」
「ええ、それは構いませんが……」
「ちょっと、あんたねえ……!」
「ぼ、僕も状況についていけてないんですけどっ!?」
「やかましいっ!」
「ひぃぃっ!?」
「あ、あの皆さん、落ち着いてくださいっ……」
「……」

背後の喧騒を完全に無視して戸口へと歩き出した国崎に、早苗が声をかける。

「そういえば、どちらへ?」

振り返らずドアノブに手を掛けた国崎が、肩で扉を押し開けた。
開いた扉の隙間から差し込む光は逆光になり、国崎のシルエットだけを映している。
影になった国崎が、片手を挙げて答えた。

「ちょっとそこまで、迷子のガキを迎えにな」

きい、と閉まる扉の向こうにその姿が消えるまで、ほんの数秒もかからない。
止める声も、なかった。

「いってらっしゃい。……あら」

ふとした気配に横を見れば、そこには輝く銀の毛皮。
いつからだろうか、川澄舞が立っていた。
片手には部屋の隅に転がしていたはずの抜き身の一刀を提げている。

「舞さんも、お出かけですか?」

こくりと頷いた拍子に、白銀の長髪がさらさらと流れた。

「これ……」

ぼそりと呟いて掲げた手に、もぞもぞと蠢くもの。
朽ちた自動車から垂れ落ちる廃棄油のような、不気味に照り輝く玉虫色の何か。
至宝の結晶、怪奇の根源をむんずと握り締め、舞が尋ねる。

「もらっても、いい?」
「ええ、構いませんよ」

即答に、思わず外野が反応を返す。

「いいの早苗さんそんな簡単に!?」
「ええ、元々は舞さんが材料を揃えてきたものですし……」
「うわ何あれ怖っ!?」
「あんたはちょっと黙ってなさい」

それらの声を聞いているのかいないのか、ぼたぼたと垂れるおぞましい汁で
美しい毛皮に覆われた足をべったりと汚しながら、舞が僅かに表情を変える。

「……ありがとう」

ほんの幽か。
春の風に滲む花の香りのような微笑に、早苗が満面の笑みを返して、頷いた。

100it's all we could do Ⅲ/ Ein Sof Ohr:2009/06/22(月) 23:30:13 ID:qsNVNyN.0
 
  
【時間:2日目 午後2時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:健康】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠】


国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:法力喪失】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:健康、白髪、ムティカパ、エルクゥ】

→1076 ルートD-5

101名無しさん:2009/07/01(水) 14:41:40 ID:YqzPWL2M0
『Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' /或いは永遠に羽ばたかぬ蛹の美しさを』


 
降りていく。
暗い、暗い地の底へ、どこまでも降りていく。

射していた光も、もう届かない。



***

102名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:03 ID:YqzPWL2M0
 
 
冥府までも続くような深い闇の中を、来栖川綾香は下っている。
それは地割れでできた断崖であったはずだった。
しかし今、綾香の踏み締めるは剥き出しの岩くれではない。
切り出され、敷き詰められた明らかに人工の石材である。
断崖を下れば下るほどに足場が良くなっていくという怪奇が、綾香の行く手にあった。
怪奇の萌芽は下るのに都合良く突き出した石であり、窪みである。
いつしかそれらは積み重なって断崖に刻まれた険しい道へと姿を変え、
道はやがてなだらかな段差を形作り、足元からは泥や岩が消えていき、
ついに現れたのはぐるぐると果てしなく延びる、石造りの螺旋階段である。

ぺたり、ぺたり、かつり。
裸足の足音が、塵一つない階段を一歩づつ下っていく。
時折響く硬い音は、綾香の鍛えられた足裏にできた胼胝が床を叩いて鳴るものである。
ぐるぐると、どこまでも螺旋が続く。
あり得ぬことであった。
地割れによって生じた断崖の奥に、このような階段など存在する筈もない。
如何なる手管、如何なる外連の為せる業か。
闇の中に生じた怪奇は既にうつし世を離れ、常世じみた魔境へと往く者を誘うかのようでもあった。
灯り一つない闇の中、血の色の瞳を爛々と、鬼火のように揺らめかせながら、しかし綾香は足を止めない。
歩を止めず、ぐるりぐるりと螺旋を下りながら、来栖川綾香は哂っていた。
何となれば、下る先から漂う微かな風である。
ねっとりと粘つくように吹くそれは、紛れもない悪意と憎悪とを存分に孕んで生温い。
出来すぎた舞台装置を用意した何者かの、この先に待つという証であった。
従者を迎えるその足が、討ち果たすべき何者かへの歩みともなる。
それをして己が道、己が生であると、来栖川綾香は哂っている。

ぐるぐると、ぐるぐると。
螺旋の階段は闇の中、どこまでも続いている。



***

103名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:18 ID:YqzPWL2M0
 
 
広い、広い空間である。
射していた光が消え、周囲が闇に包まれるや否やのことだった。
柏木楓が数歩を踏み出せば、目の前にはいつの間にか広大な空間が拡がっていた。

「……」

それは、地下に生じた巨大な空洞のようだった。
振り返れば岩盤を剥き出した壁面は左右遥かに続いて僅かな弧を描き、対面の果ては微かに紛れてよく見えない。
列を成した星のように見えるのは、壁面に等間隔に設えられた蜀台に揺らめく灯火であろうか。
見上げれば天井もまたどこまでも高く、まるで巨大な鳥篭に迷い込んだような錯覚を覚えさせられる。
奇妙、不可解を通り越したその空間の異質に、柏木楓が小さな溜息をつく。
それほどに下った覚えはなく、それほどに歩んだ記憶もない。
このように巨大な空間が神塚山頂の直下、せいぜい数十メートルに存在できよう筈がなかった。

「……」

声を上げるのも、その名を呼ぶのも嫌だった。
だから代わりに、柏木楓はその白い手指を振り上げる。
刹那、細くしなやかな指が、変成していく。
白から黒へ。
たおやかな手指が、禍々しい骨と罅割れた皮膚とで構成された無骨なそれへ。
鬼と呼ばれる、黒い腕。
そして、鮮血を垂らしてかき混ぜた月のような、赤い、赤い爪。
長く、美しく、そしておぞましい刃が、灯火揺らめく薄闇を切り裂くように、弧を描いた。
果たして、

「―――お帰りなさい、楓」

じわり、と。
闇の向こうから滲み出すように姿を現したのは、一人の女。
柏木楓の奉ずる嫌悪を、捏ねて固めて練り上げたような、その女の名を、柏木千鶴という。

104名無しさん:2009/07/01(水) 14:42:37 ID:YqzPWL2M0
「……」

予想はしていた。
覚悟もしていたはずだった。
だが、それでも。
ざわざわと、灰色をした足の多い虫が這い回るような悪寒が、楓の臓腑を掻き乱す。
虫は胃の腑を食い荒らし、ぽろぽろと零れ落ちながら背筋を駆け上って脊髄をかりかりと擦る。
頬の隅にできた吹き出物のような、潰して抉って綺麗な水で肉ごと洗い流したくなるような、
圧倒的な嘔吐感が、楓の三半規管を締め上げる。
今すぐに反吐を吐き散らして、熱いシャワーを浴びて白くてゆったりした服に着替えられたら、
どんなにか素敵だろう。
そんな益体もない空想に縋って、柏木楓はそれが視界に映るという不快に耐えている。

「どうしたの、楓。こっちにいらっしゃい」

紅を塗った唇が、弓形に歪んでいる。
それは、笑顔のつもりなのだろうか。
男に売る媚ばかりを仕舞った倉庫には、きっとそれ以外のものはただの一欠けらも入っていないのだ。
濡れたような唇の隙間からは、くらくらするような極彩色の毒気が漏れ出している。

「もう何も心配は要らないわ。私がずっと守ってあげる」

夜の色の髪がさらさらと、閨の衣擦れのような音を立てて癇に障る。
同じ色をしたこの髪を、この瞳を、毎夜鏡を見るたびに引き裂いてやりたくなる衝動に駆られていた。
どうして、と楓は叫ぶような切実さをもって思う。
どうして私は私でいたいだけなのに、それだけであんなものと似てしまうのだろう。
違うと泣いても。
そんなことないと、首を振っても。
どれだけ否定したって、よく似てきたね、と。
おぞましい呪いの言葉は、私に付きまとう。
その度に、私は私を切り裂いて。
流れる血に、嫌なものが脂のように浮いて流れていってしまうように祈って。
そうして何も、変わらない。

105名無しさん:2009/07/01(水) 14:43:20 ID:YqzPWL2M0
「もうすぐ終わる世界を、二人で越えましょう」

身体に混ざる、どろどろとした、舐めると甘い汁のようなものが、厭わしかった。
そういうものが、澄みきっていたはずの身体を濁らせていくと、柏木楓は信じていた。
日ごと夜ごとに作り変えられていく身体が、疎ましかった。
太く。醜く。弱く。
そういうものになっていくのが、堪えられなかった。

「神様の死んだ、この場所で」

吐いても、吐いても。
切っても、切っても。
自分が、女になっていく。
汚いものに、なっていく。
じくじくと腐って、柏木楓が死んでいく。
喉も嗄れよと叫んでも。
時計の針は止まらない。

「私たちは、家族なのだから」

つう、とこの頬を伝う涙はきっと、身体を満たした嫌な気持ちと汚い汁と、
そういうものに押し出されてきた、私の欠片だ。
口の端に溜まる雫を嘗め取って、舌先に広がる微かな塩辛さに、柏木楓は息を吐く。
一息ごとに朽ちていく、柏木楓であるはずのものが、なくなってしまう前に。
嫌な気持ちの全部と、じゅくじゅくと泡立つ、汚らしいファンデーションの臭いのする汁の全部を、
その大元を、消してしまわなければ。
それが、それだけが、時計の針を止める、たった一つの方法。

106名無しさん:2009/07/01(水) 14:43:47 ID:YqzPWL2M0
「これからも、ずっと」

言葉の端々に混じる吐息が、ひどく不快で。
隙のない口紅から揮発する臭いが、色のない糸を引くようで。
息が、詰まる。
胸を掻き毟りたくなるような猫撫で声が、視界にばらばらと細かい灰のようなノイズを振り撒いていく。
それはどこまでも無為で、限りなく無駄で、果てしなく無益だった時間のリフレイン。
どこもかしこも薄く黄ばんだあの古ぼけた家の、化粧の臭いが充満していたリビングの、
端から何もかもを引っ繰り返して滅茶苦茶にしてやりたくなる衝動と必死に戦っていた時間の、
それは悪質な再現だった。
だから柏木楓は、害と断ずるその声に、

「―――煩い」

と、それだけを、返す。
死ねとは、言わなかった。
消えろとも、言わなかった。
あれは、あってはならないものだ。
あれは、あれば害を為すものだ。
怖気の立つような声と、気持ちの悪い仕草と、吐き気のするような服と化粧と香水と、
そういうもので、たいせつなものを汚してしまう害悪だ。
だからそれは死ぬべきで、消えるべきで、柏木楓が命じる必要などなくただ世の理に従って
あるべき姿に還ればいい。
あんなものがなければ、柏木楓の世界は今よりずっと美しくなる。
今よりずっと綺麗な空気と、今よりずっとたいせつなものだけが光り輝く、そういう場所になる。
あってはならないものがあるという、そのことだけが間違いなのだ。
だから、言葉など必要ない。
ただ爪を、血の色の爪を長く伸ばして、その刃を向ければ、それでいい。

107名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:02 ID:YqzPWL2M0
「……楓」

嫌な臭いを吸わないように、息を止めて切り刻もう。
着いた血を、いい香りのするボディソープで洗い流そう。
さらさらとした肌触りの白いワンピースを着て、あの縁側で風を感じよう。
夏が終わるまで、次の夏がやってくるまで。

「駄目よ……やめなさい」

綺麗なものだけを、素敵なものだけを部屋に並べよう。
リビングの家具も、ぜんぶ取り替えよう。
静かで、清潔で、やさしい家にしよう。
ずっとずっと、穏やかな空気だけが流れるような。
そんな家に、しよう。

「……殺せないわ、楓。私には、最後の家族を殺したりできない」

深紅の爪が、刃となって。
嫌悪という毒を、塗り込んで。
ちかちかするように瞬く視界の中で。
ただの一歩、踏み込む。
跳躍にも似た、加速。

「―――!」

柏木楓が、世界をあるべき姿に戻す刃を。
一直線に、振るう。


***

108名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:25 ID:YqzPWL2M0
 
ぼとり、と。
水の詰まった袋が地に落ちるような、重い音がした。
だらり、だらりと。
零れ落ちる何かが薄闇の中、ねっとりと黒い水溜りを拡げていく。

「―――」

ゆらりゆらりと灯火の揺らめきが光と影との端境を曖昧にぼやかして、
ざらざらとまとわりつくように暗がりが染み渡る。
ゆらり、
ゆらり、だらり、
だらり、ぐらり、ぐらり。
光と影とが入れ替わり、つられて上と下とが曖昧にでもなってしまったかのように。
世界が、歪む。

頬に感じる感触は、いったい何だろう。
ひんやりと冷たくて、ごつごつと硬くて、岩のようだ。
これではまるで、気付かない内に倒れ伏して、地面に横たわっているみたいじゃないか。
分からない。
どうしてこうなったのか、分からない。
何が起きているのか、まるで理解できない。
振るった刃が風を裂き、ぼとりと落ちたものがあった。
それは勝利を、世界があるべき姿を取り戻したという、そのことを意味していたはずだ。

ならばどうして、倒れている。
ならばどうして、起き上がれない。
ならば、だらりだらりと黒い水溜りを広げていく、あれは一体、何だというのだ。

109名無しさん:2009/07/01(水) 14:44:45 ID:YqzPWL2M0
―――ああ、ああ。

ようやく、分かった。
目を凝らしてみて、やっと理解が追いついた。
倒れている。横たわっている。起き上がれずにいる。
その全部が、繋がった。
成る程、それなら仕方がない。
だって、ぼとりと落ちて、だらりだらりと黒を撒き散らすそれは。

―――柏木楓の、右腕だ。

刹那、悲鳴が迸る。
痛みはない。
ただ、生命という単位の危急に際して打ち鳴らされる警告が、少女の全身を激しく殴打していた。
狩猟者の遺伝子が生存を最優先に緊急活動を開始する。
切断面の筋肉が収縮し血管を結紮し再生を加速する。
それは生命の設計図に刻まれた本能であり、本人の意思が介在する余地はない。
脳の演算機能のすべてが応急と再生とに費やされ、精神を保護するためのフィルタが取り払われる。
最初に感じたのは熱である。
貫かれ、修復の途上にあった左眼の奥。
眼窩の底で繋がりかけていた神経の修復が中断され寸断され轢断され、それに対する猛烈な抗議が脳髄へと、
あらゆる緩衝を受けずダイレクトに伝えられていた。
熱い、と感じたのは一瞬。
寸秒を経て、それは衝撃へと変容する。
抉り出された眼球の裏を丹念に炎で炙られるような、地獄の責め苦。
衝撃は、止まらぬ。
燎原の火の如く、それは拡がっていく。
鬼と呼ばれる血に潜む驚異的な再生機能。
その恩恵に与っていた全身の傷、そのすべてが眼窩と同様の、或いはそれ以上の衝撃を以て、
少女という個体を責め苛んでいた。
脚が、胸が、腹が首が肩が腿が指が骨が肉が、歪み、軋み、引き裂かれ捻じ切られ、
また無造作に貼りつけられて捏ね回される。
脳髄という城砦は今やその将兵のすべてが右腕の戦場に出払い、防衛力として機能していない。
ぎ、と獣じみた悲鳴を上げた拍子に噛んだ舌先が千切れ、需要過多の血液を無益に消費する。
びくりびくりと痙攣する全身は残る左腕を抑えきれず、変生した黒腕と紅爪が岩盤を抉って辺りに散らした。
生きようとする本能が、柏木楓を挽き潰していく。


***

110名無しさん:2009/07/01(水) 14:45:01 ID:YqzPWL2M0
 
「―――殺せないわ、楓。私には、殺せない」

響く声など、少女に届く由もない。
それでも、のたうつ少女を見下ろして、その白くたおやかな指の先からぽたりぽたりと真っ赤な雫を
垂れ落としながら、女は言葉を続ける。

「あなたは大切な家族ですもの」

血溜まりの中、呼吸と悲鳴との入り混じった声を漏らす実妹を見下ろす、その瞳に宿る光はひどく冷たい。
夜空に青白く輝く星の、数万度の冷厳を湛えて、柏木千鶴が薄く笑む。

「私には、殺せない」

紡がれた声音の意味を理解する余裕は、少女にない。
殺せないと呟いた、息の根は止めぬ、ただそれだけと見下ろした、慈愛と酷薄とが矛盾なく混じり合う
その笑みを、地獄の責め苦に苛まれる柏木楓は見ていない。
見えぬことを、聞こえぬことを知りながら紡がれた千鶴の、その言葉と笑みとは、故にその実、
少女に向けられたものではない。
聞く者は、他にいた。

「―――」

ゆっくりと振り向いたその先に、降り立つ一つの影がある。
薄暗がりに裸身を晒す、それは女の影だった。

「……結構な姉妹愛だな、化け物」

呆れたように肩をすくめる影を真っ直ぐに見据え、深く笑んだ柏木千鶴の双眸は、
足元に流れ出す妹の血を呑んだように紅く、どこまでも昏い。

111名無しさん:2009/07/01(水) 14:45:25 ID:YqzPWL2M0
 
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

柏木楓
 【状態:エルクゥ、重体(右腕喪失、全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

→973 1071 ルートD-5

112Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:20:42 ID:baxXJd5E0
 リサ=ヴィクセンの目の前では一人の男が横たわっている。
 手首を失くし、体中を打ち抜かれ、眼鏡はその衝撃で壊れている。
 先ほどの戦闘の煽りもあったのだろう、スーツは爆風の余波を受け、見るも無残に汚れていた。

 けれども、それはみじめなようには思えなかった。
 ほっとしたように全身の力を抜き、安心しきった表情で瞳を閉じている緒方英二の姿を見れば、そうとしか思えなかった。
 愚直に過ぎた。大人でありすぎたのだ。
 年長であるがゆえに責務を果たそうと欲し、私情を置き去りにして彼岸の向こうへ旅立ってしまった。

 それでも、生きていて欲しかったのに。
 切なる願いが胸の底から押し上げ、涙の形になって流れ落ちる。
 ひどく情けないと思ったが誰も見てはいないし、見られたところで雨が誤魔化してくれる。

 ――だが。

 このままでいいのか。自分もまた大人としての責務に縛られ、気持ちを押し殺したままにしておくのか。
 辛いことや苦しいこと。それを我慢したままで、溜め込んでしまっていいのだろうか。
 英二は考える暇も悩む暇もなく、やれることをやって死ぬしかなかった。
 結局気付いたのは最後の最後でしかなく……

「夢が、あったのよ」

 涙を拭った。雨に紛れさせ、誤魔化すことなく、体から溢れる温かさの欠片を受け止めた。
 みっともなかった。代わりに自分はまだ人間なのだとも思った。

「栞と、英二と、私で一緒に過ごしてみるって、そんな夢物語」

 夢物語と言ったのは、叶うはずがないと考えていたからではなかった。
 ずっと一緒にいられるわけはない。リサは仕事柄そういうわけにはいかないし、英二と栞にはそれぞれ親だっている。
 精々数日かそこら。それでもいい、互いに笑い合って共有する時間を過ごしたかったのだ。
 今まではそんな想像をすることさえ怖く、自分にそれだけの価値があるのかとも疑問に感じていた。

113Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:03 ID:baxXJd5E0
 しかし実はそうではなく、奥底からこうなって欲しいと願っていた。
 本当はずっと寂しく、ずっと孤独に震え、ずっと希望を見出そうともしなかった。
 手に入れられるとは思わず、ただ失っていくだけなのだと思い込んでいた。

 そうじゃない。考えて、考えて、考え抜いて、時には躊躇って、でも最後には勇気を出して行動が出来るのならば。
 きっと、手に入れることが出来たはずなのに。
 私はまた青い鳥を逃がしてしまったのだ。

「……家族がいなくて、ひとりなのが耐えられなかった。
 でも大人になってしまって、意地ばかりが凝り固まって、言いたいことも言えなくなった。
 そんな丈夫な人間でもないくせに、ね」

 ひとりは寂しい。そんな当たり前のことさえ口に出せなくなった大人。
 悲しみに暮れているのは敗北だと断じ、復讐に縋って目を逸らすことしか出来ず、どうしようもなく無力になってしまった大人。
 それが自分だ。
 もっとやりたいことがあった。もっと普通の、当たり前の生活がしたかった。
 もし、もっと昔に気付いていれば……

「マリアって言うの。……私の、本当の名前」

 愛称はマーシャよ、と微笑しながら付け加える。殆ど誰にも明かさなかった名前を口にしてみたが、思ったほどの開放感はなかった。
 それほどの意味を持ち得ないということなのだろう。当然のことを、当然のように行っただけだ。

 特別でも何でもない。やはり恐れていただけだった。交わりを作り、関係を持つのが怖かった。
 臆病に過ぎただけで、名前をひた隠しにしていたことにどんな理由もない。
 或いはそれが分かっただけでも上等なのかもしれなかった。

「Спасибо」

114Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:22 ID:baxXJd5E0
 ありがとう。そしておやすみなさい。それらの意味を含んだ母国の言葉を最後に、マーシャはリサに戻った。
 やはり自分は大人でしかいられない。少女の心に戻るにはいささか物事を知りすぎた。

 しかし、だからと言って捨て鉢になり生きることそのものを諦めたつもりはない。
 大人だからこそ守っていけるものがある。伝えるべきものがある。
 それがリサが見出した生きる価値で、生きていく意味だった。

 涙と共に己の弱さ一切を洗い流したリサの目は疲れきった女の目ではなく、鋭さを取り戻した猛獣の目だった。
 雌狐は誰よりも誇り高く、獰猛さを兼ね備えていた。

     *     *     *

 今にして思えば、なんとまあ恥ずかしいことを言ってしまったのだろうと、藤田浩之は思っていた。
 感情が昂ぶると直情怪行になるきらいでもあるのだろうか。

 好き好き大好きおまけにキス。しかもこのやりとりは二度目だ。
 おまけに今度は野外である。リサが戻ってきていたら……どうなっていたのであろうか。
 やんわりと微笑を浮かべ、あらあらうふふとでも言うか、それともふっと溜息のひとつでも零されるか。
 何にせよ見つからなくて良かったと思う。無論自分のやったこと自体は間違っていないと言える自信はある。
 それでも、まあ、TPOを弁えなければならないことというものはあるもので……

 ぐだぐだ考え込んでしまっている自分の姿を眺め、浩之はやめようと思った。
 堂々としていればいい。見つからなかったのでした、めでたしめでたしでいいではないか。

 それでいいんだと半ば強引に納得させ、浩之はぴったりと寄り添っている姫百合瑠璃の表情を窺う。
 同じことを考えていたのか唇を堅く結んでいたが、紅潮した頬は抑えきれない嬉しさのようなものがあった。
 ひょっとしたら自分もそうなのかもしれない。これが恋人というものか。
 やはり皆には見せられないと浩之は内心に固く誓うのであった。

「ん……?」

115Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:21:40 ID:baxXJd5E0
 視線に気付いたのか、瑠璃が上目遣いにこちらを見る。
 生きたいという気持ちと一緒にいたいという気持ちが瞳を通して伝えられる。
 己の中を占めていたはずの空虚がふっと消え、「おれ」が一瞬、「俺」に戻った気がした。

 命なんてどうでもいいと思っている部分。心の片隅に潜み、何をやっても無駄だと囁いてきた暗黒が霧散し、
 曇りきりの空を晴らしてくれるような、そんな感触があった。
 みさきを始めとして知人を失うたびに感じてきた未知の物質。
 それを抱えて暮らしていくしかないものだと思っていたものが、実はその気になれさえすればどうとでもなるのではないか。

 死者が急き立てたことによって生み出された思考ではなく、自分自身が考えて生み出した思考に浩之は驚きを覚えた。
 もしかすると、こうして自分で考えることこそ彼ら、或いは彼女らが望んでいたことではなかったか。
 しがらみに囚われず、やりたいことをやればいい。
 頑張ってという言葉は責任を取れという意味ではなく、望むように生きてみろという意味ではないのか。

 浮かんだ思考が弾け、浩之はガツンと頭を殴られたような気分になった。
 そういうことなのか? 思いながらも、まだ確信は持てなかった。

 しかし新しく生まれたその考えは、頑張れという言葉に合致するように思えたのだ。
 自分たちは孤独だ。孤独であるからこそ寄り集まろうとし、時として依存や執着しようともする。
 だがそんなものは甘えでしかなく、助け合うということにはならない。互いを食いつぶしていくことにしかならない。
 だから手を取り合いつつも守るべき自分は自分で何とかする。

 自分を守れるようになって、ほんの少しだけできた余裕で誰かに手を伸ばす。
 それが協力、協調という言葉の意味ではないのか。みさきたちは既にして分かっていたのではないのか。
 ただ、その結果があまりに大きすぎたというだけで……

 馬鹿だ。自分にも、死んでいった彼らにも対して浩之は言った。
 何故今まで気付かなかった。何故黙っていたままなんだ。今さら気付くなんてあんまりじゃないか。
 ぶつけようのない思い、感極まった思いが喉元に込み上げ、浩之はいてもたってもいられないような気持ちになった。

116Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:22:00 ID:baxXJd5E0
「……いつまでも、じっとしていられない」

 二人だけの環に納まったままではいけない。やり場のない感情は行動にして発散させるしかなかった。
 ちくしょう、こんなのってないだろう。
 悔しさ、感謝、或いは喜び、或いは憤懣。ありとあらゆる感情がない交ぜになり、無性に行動を起こしたくなったのだ。
 不思議と悲しくはなかった。こんなところで燻っていてはいけないという使命感のようなものだけが突き上げてきた。
 それは瑠璃も一緒でなくてはならなかった。

「行こう。確か表には車があったはずだ。使えるかどうか調べるんだ」
「浩之……?」
「とにかく行動しないと、何も始まらない。……生きるって、そういうことじゃないかって思うんだ」

 既に十分、自分たちは守れている。ならば手を伸ばさなければならない。
 二人だけ孤独でいるわけにはいかないのだ。
 瑠璃も表情を真剣なものに変えて、浩之の言葉を受け取った。
 浩之が行くからというわけではなく、生きるという言葉の意味をもう一度噛み砕いて自分なりに理解したようだった。

「うん。でも二人で行く必要はないと思う。少し、周りに何かないか探してみる。……宮沢有紀寧の動向も気になるところやし」
「大丈夫か?」

 瑠璃は頷いた。「もう、大丈夫」という言葉がやけに頼もしく思えた。
 そうか、と微笑を返して、浩之はデイパックを持ち先行していく。
 瑠璃もその後に続く気配があった。
 玄関をくぐった先では、雨が止んでいた。

     *     *     *

117Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:22:23 ID:baxXJd5E0
 ああは言ってはみたものの、喪失の痛みは依然として与え続けられている。
 体からぽっかりと抜け落ちた感触。記憶の中にしか声を思い出せない不確かさが余計に空しさを駆り立てる。

 忘れるわけにもいかず、後を追うこともできず、苦しみだけを抱えてのた打ち回っていることしか出来ないのだと思っていた。
 それを慰めるために無意識のうちに浩之を利用しようとしていた現実。
 どうしようもないやるせなさと忌々しさが瑠璃の中に渦巻いていた。

 甘えきっている。珊瑚に縋り、イルファに縋り、今もこうして浩之に縋ろうとしていた。
 何かにしがみついていなければ自らの存在意義さえ見出せない愚かな女。
 だからいてはいけない、と思うのではなく、だから変わらなければならないと思った。

 変わりたいと願っていたにも関わらず、時間も猶予もなく、
 やるだけのことをやって死ぬしかなかった珊瑚の姿が痛烈な衝撃となって思い起こされる。
 二人は変わらなければならなかったのだ。姉妹という間柄の中だけを取り巻く環を壊し、手を伸ばさなければならなかった。
 怖いから閉じこもっているのではなく、怖いからこそ覚悟を持って踏み出していかなければならない。

 無論脅威と遭遇することはあるだろう。手を下さなければならないときだってあるかもしれない。
 だが二人だけの環では二人以外をどうすることも出来はしない。
 根拠のない平和を信じ、嫌なものを見ないようにして誤魔化すことに何の意味があるというのか。

 躊躇ってもいい、逆に自分たちが失われてしまうと恐れてもいい。
 だからこそ脅威と対峙する意味を理解し、本当に守るべきものを見据えていくことが出来るのではないか。
 珊瑚はそれが出来なくなってしまった。向坂環を見殺しにした自分たちに、ツケを支払ってまでゼロに引き戻してくれた。

 最期に薄く笑ったのはそういうことではなかったか。
 思い出した。珊瑚はあのとき口を開いていたのだ。

『やり直しやね』

 あの時は理解できず、恐怖と絶望に呑まれて底に沈んでいた言葉の意味が今さらながらに浮かび上がり、瑠璃は強烈な悔悟を覚えた。

118Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:22:39 ID:baxXJd5E0
 なぜ、忘れていた。

 すぐに思い出しさえしていれば浩之に依存することはなかった。
 珊瑚があれだけしてくれたにも関わらず、自分はもう一度ツケを抱えてしまったのだ。
 それが姫百合瑠璃の愚かさというのなら、そうなのだろう。
 あまりにも不甲斐なさ過ぎる。あまりにもみじめだ。

 だがこういう考え方もある。自分が支払い損ねたツケを返す機会が巡ってきたとも考えることができる。
 たとえどれだけの時間がかかろうとも、今度は自分の力でそれが行える。
 珊瑚に甘えず、イルファに甘えず、一人の人間として借りを返すことができる。

 今度は恐れない。
 手を自分から伸ばすのだ。
 それがやり直しという言葉の中身なのだから。

 湧き上がる思いを体に染み込ませ、瑠璃は上がった雨の中を歩き続けた。
 宮沢有紀寧は完全に逃げてしまったのか。
 リサの知人を死に追いやり、一人で生き残ることを企んでいる人間。
 絶対に許してはならない人間がいまも同じ場所にいる。

 家を出る直前浩之が貸してくれたクルツを握り締める。
 命の重みを吸った銃。この重さに負けるまいと思いながら歩を進めていくと、道端の木の陰に誰かが転がっているのが見えた。
 奇しくもその人物の服装は、探し求めている宮沢有紀寧のものと同一のものだった。
 死んでいるのか……? いてもたってもいられず、瑠璃は一直線にそこへと走り寄っていった。

「ちょ、ちょっと、大丈夫なん……?」

 近づいてみて、更にぎょっとする。
 木にもたれかかるようにして倒れていた女は左目が完全に潰れていて、
 見るだけで吐き気を催しそうなくらいにひどい有様だった。

119Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:22:58 ID:baxXJd5E0
 それだけではない、服は汚れきっていて、破けた部分には血が滲んでおり、
 元は綺麗で傷ひとつなかったのだろう足も裂傷が多く見られた。
 長く整えられた髪、端正な唇、清潔な爪などから見るに元来は美人でもおかしくない容姿であっただろうに、
 今の彼女は一見して死んでいるように見えた。それくらいひどい傷だった。

 女の周囲には持ち物だったのだろう、様々な荷物が点在していた。
 一人では到底ここまで持ってこられなさそうな量であるうえ、この有様だ。
 力尽きてしまったのかもしれない。一体誰がこんなひどいことを、と思ったとき、呻き声が上がった。

「うう……」
「生きてる! あんた、しっかりしてや!」

 苦悶の声を上げ、身じろぎする彼女は相当弱っていると瑠璃に認識させるには十分だった。
 誰かを呼んでこなければならない。リサと浩之の姿を浮かべた瑠璃は呼んでこようと立ち上がりかけた。

「瑠璃……? こんなところで何を?」

 噂をすればなんとやら。戻ってきていたのだろう、リサの声が後ろからかかった。
 偶然に感謝しつつ、瑠璃は現在の状況を話した。

「……それは良くないわね。一旦この子をどこかに運ばないと。ここじゃ何も出来ない」
「荷物はどうするんです?」
「置いてくしかないでしょう? 後で回収すればいいし、命が優先よ」

 瑠璃は頷いた。その通りだ。宮沢有紀寧がこの荷物を見つけたら、という思いはないではなかったが、
 それよりも絶対に優先すべきものが目の前にある。苦しげに呻いている女の顔を見れば尚更だった。

「担架がないからちょっと危ないけど……他にどうしようもない。一気に運ぶわよ」

120Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:23:16 ID:baxXJd5E0
 言うが早いか、リサは一気に体を担ぎ上げて走り出した。
 どこにあんな体力が、と驚き半分呆れ半分で瑠璃はその後に続くのだった。

     *     *     *

「なんか、都合よくものが揃ってたわね……」

 眠ったままの少女に毛布を被せ、リサはひとつ息をつく。ちなみに毛布の下はほぼ全裸である。
 正確には上半身ほぼ裸なのだが。制服は窓の近くにあるハンガーにかけてある。
 戻ってきた浩之は瑠璃共々荷物の回収に行かせた。

 見た目は酷いものだったが、怪我自体はそこまでのものではなく、リサの治療でもどうにかなるレベルだった。
 しかも救急箱に麻酔つきである。これでメスでもあれば完璧だっただろう。
 そういえば自分もあちこち擦りむいていたことを今さらのように思い出して、リサは苦笑を浮かべた。

 手近にあったタオルで汚れた部分を拭き取り、消毒してからガーゼや絆創膏を貼り付けていく。
 自身を治療しながら、リサはどうしてあんな怪我をしていて、あの大量の荷物を引っ張ってきていたのかと考えを巡らせる。

 戦闘になっていたのは間違いない。だとするなら相手は宮沢有紀寧である可能性も高いが、
 彼女ならばなるべく傷つけず手駒に引き込もうとするに違いない。
 直接相対したことはなかったが、柳川に仕組んだ手口から見て可能性は高かった。

 ならばまだこの島には殺戮を望む者がいるということだろうか。
 あれだけ犠牲を払ったにも関わらず、参加者同士の戦いはまだ終結していないということなのか。
 早いところ、脱出に向けて動きたいところなのに……

 暗澹たる気持ちになりかけ、だがそれは仮定の上での話に過ぎないと断じる。
 真実はこの少女が目覚めて、話を聞いてみなければ分からない。
 どうも物事を悪い方向に見る癖は健在であるらしいという結論に辿り着く。

121Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:23:30 ID:baxXJd5E0
 相変わらずだと思うが、それでいい。問題なのはそうした想定を踏まえ、対策を立てることだ。
 それを行うのが軍人の仕事であり、大人の仕事だ。

 最悪の事態を考え、リサはM4カービンを手元に手繰り寄せた。
 栞の遺品。最後まで節を通し、彼女が生き抜こうとした証。
 銃把を握るだけで栞とのやりとり、俄仕込みの訓練の様子が克明に描き出される。

 無駄にはしなかった。ひとつひとつを糧にして栞は這い上がろうとしていた。
 終わらせるために。この島から悲鳴を無くし、ひとりでも生きて帰れるように、少女は手を伸ばして銃を取ったのだ。
 それは誰かを憎んでのことではない。恐怖に駆られてのことでもない。
 痛みを知り、弱くてもやれることはあると覚悟して力を掴んだのだ。

 本当の意味での『守る』とはそういうことなのだろう。
 故にリサもそれに従おうと思った。
 狭い考えに身を押し込めず、人間としてやれることをやろう。

 リサは椅子に腰を落として、二人が帰ってくるのを待つことにした。
 とりあえず今できることは、それだった。

122Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:23:45 ID:baxXJd5E0
【時間:2日目午後22時00分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動…したいけど待つ。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる。守腹部に打撲(手当て済み)】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)。麻酔により睡眠中】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

【その他:上記のことみの荷物はH-7付近。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】

123Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:24:28 ID:baxXJd5E0
【時間:2日目午後23時30分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動…したいけど待つ。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる。守腹部に打撲(手当て済み)】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)。麻酔により睡眠中】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

【その他:上記のことみの荷物はH-7付近。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】
→B-10

済みません、こちらが正しい表記です

124Beyond the Bounds:2009/07/02(木) 02:37:37 ID:baxXJd5E0
さ、再訂正…

【時間:2日目午後23時30分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【所持品3:何種類かの薬、ベレッタM92(10/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:宗一の言葉に従い分校跡に移動…したいけど待つ。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる。守腹部に打撲(手当て済み)】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)。麻酔により睡眠中】
【目的:爆弾の材料を探す。生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

【その他:上記のことみの荷物はH-7付近。二人乗り用の自転車は工場の近く。ゴルフクラブ、日本酒(空)は放置。】

125(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:47:53 ID:XQXXsGks0
 四回目の放送があった。
 既にこれだけの回数を聞いていると聞こえる声も受け流すことができるようになってきた。
 寧ろ耳を傾けたくなかった。この期に及んで殺し合いを進め、
 勧めようとする主催者達の神経が分からなかったし、分かりたくもない。

 その一方で読み上げられる名前だけは確実に胸に刻まれていた。もう百人以上もの人間が命を落とした。
 満足に生きられもせず、やりたいことだってやれなくて死んでいった人達。
 まだまだ人生はこれからだと思っていた矢先、理不尽にもこんなことに巻き込まれ、
 わけも分からずそれでも突き進むしかなかった人達。

 それを立派だとも、愚かだとも思わない。怒りや悲しみはもう受け止めきっている。
 ただ、確かにその人達はここにいたのだという事実を覚えておこうと思った。

 牛丼に釣られ、友情を分かち合いながらも疑心暗鬼に駆られ、仲間うちで殺しあってしまったこと、
 我が身の不実に絶望し、何もかもを放棄して生きることさえ諦めかけたこと、
 それでも新しい希望を見つけようとパートナーと共に歩み始めたこと、
 思いを分かり合える人と出会えたこと、
 逆に分かり合えず、意思をぶつけ合い、その果てに散っていった女がいたこと。

 これら全てを覚えていようと思った。
 自分は自分だけの上に成り立っているのではなく、様々な人との出会いによって構成されているのだということを。
 それが川澄舞の、百人の死者に対する誓いの言葉であった。

「藤林椋は死んだのか……結局、確かめられなかったな」

 国崎往人の呟きを、舞は軽く頷いて受け止めた。
 惨劇の証人だったもう一人の生き残り。
 今にして思えば椋が犯人だった、という可能性も出てくる。

126(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:48:15 ID:XQXXsGks0
 恐怖したのかもしれない。仲間同士で殺しあう凄惨な光景に人間不信となり、戻ってこられなかったのだと思っていた。
 だがそれは椋が殺し合いに乗っていなかったらの話だ。
 もしもあの時既に椋は殺す側へと回っており、こちらの殲滅を狙って毒を入れていたのだとすれば……
 舞は軽く首を振った。詮無いことだった。

 今さら、もう確かめることなんて出来はしない。したところで、もう何も変えられはしない。
 ただ……椋が姉と出会えて死ねたのか。本望を達成することができたのかということだけが気になった。
 誰とも会えないまま、ひとりで死んでいくなんて寂しすぎるから。
 短い黙祷を胸の奥で捧げ、舞は改めて横を歩く往人の姿を眺めた。

 自分と同じく、表情を無の形に保ったままで、唇を若干のへの字に曲げている往人は、しかし多くの思いを内実に秘めている。
 誰だってそうだ。何も考えず機械のように生きられる人間なんてどこを探したっていない。
 表情に出るかどうかは微妙な差異でしかない。往人は滅多に表情に出さない人間だ。

 それは彼の強さなのだと舞は思う。自分は違う。感情を表に出せなくなったのは怖いからだ。
 記憶の奥底にある、苦い過去が痛みを味わうまいとして作り上げた檻の中に閉じ込め、出られなくなった自分。
 人と関わることを遠ざけ、辛くもなくなった代わりに喜びも忘れてしまった事実がそこにあった。

 生きていこうと決意し、こうして人と一緒にいてもなお、自分の中にわだかまった膿を取り除けないでいる。
 弱いままだと思い、だからこそ往人に対する感情を確定させられないでいるのかもしれないとも思った。

 思慕だと評していながら果たして本当にそうなのかと自答してもいる。
 恋だと断ぜられる自信はなく、寧ろ認めることではなく、
 断じた先にあるものが怖いがあまりに受け入れずにいるのではないかとすら感じた。

 話せば分かることなのだろう。ただ、そこに踏み込むには度胸が足りなかった。
 利害関係の一致で一緒にいることはできても人と人、一対一の関係を保って一緒にいることは途轍もなく難しいことのように思えた。
 要するにどう言葉をかけていいのか分からなかったし、距離を推し量ることもできなかった。

 対人関係について必要ないと捨ててきた結果がこれなのかもしれない。ツケは大き過ぎた。
 こんなことを相談できる相手もいない。一番近しいひとと距離も埋められていないのに、
 それより浅い付き合いの人間とどう話していいのか分かるはずもない。

127(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:48:35 ID:XQXXsGks0
 そもそも直接話したことのある人間が少なすぎる。往人以外では朝霧麻亜子、そして今しがた会話していた古河渚しかいない。
 伊吹風子や那須宗一とは話を聞くばかりでこちらから話すことをしていない。
 いや、麻亜子や渚とでさえ話しかけられてようやく答えるばかりだ。自分から話しかけたことはただの一度だってない。
 草葉の陰で倉田佐祐理が、相沢祐一が泣いているような気がした。そんな光景が浮かんだのだった。

「……どうした?」

 かけられた往人の声に、舞は思わず身を硬くした。
 ずっと往人の方を見ていたのだと気付いたのは、訝しげな視線を往人が含ませていたからだった。
 いや、と目を逸らし、恥じ入るような思いで舞は顔を俯けた。

 何をぼーっとしているのだろう。放送が終わったこの状況で聞くべきことはいくらでもあったはずなのに。
 そう考えると、顔を背けた自分にますます情けなくなる。
 助けを求めようにも唯一この手の話を振れる麻亜子は何故か渚や宗一と話しこんでいて、
 介入する余地はなさそうだったし、そんな度胸はやはり浮かんではこなかった。
 仕方なくそのまま黙ったままにしておくしかなかった。軽く苦笑する声が聞こえた。

「済まない。また心配させたか」

 え、と当惑の声を出す暇もなく、「もう大丈夫だ。決着はつけた」と発した往人の声は穏やかなものだった。
 勘違いしている。私は自分のことしか考えていなかった。
 言いかけようとして、しかしそれを言ってしまっていいのかと頭が静止をかけた。

 失望させたくないという思い。何が大丈夫なのかと尋ねたい気持ちがない交ぜになり、口だけが開いては閉じた。
 またもや舞は無言を貫くしかなく、どうしたらいいのだろうと白痴のように繰り返すしかなかった。
 どうにかしなければならないとは思いつつも、紙は真っ白でどんなアイデアだって思いつかない。

 思いだけが募り、焦りと苛立ちの両方を含んだ感情を持て余すしかなく、そのまま顔を俯けたままだった。
 往人はそれを肯定と受け取ったのか、それ以上何も言うことはなかった。

128(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:48:52 ID:XQXXsGks0
 ひどくみじめだと考える一方、こんなことを感じている自分は、思慕以上のものを持ち始めているのだろうかとも思った。
 明らかに意識している。もうそれはどんなに意思しても御しきれるものではなくなりつつあった。

 ――それを恋というのだよ、舞君。

 つけひげをつけた麻亜子が偉そうに語りかけていたが、振り向いても麻亜子は渚と何かお喋りをしていた。
 距離を埋めたいと思うことを、恋というのなら。
 きっと、そうなのかもしれなかった。

     *     *     *

「あー、えーっと、それで、ルーシーさん……じゃなくて、るーちゃん……でいいのかな……
 あーええと、とにかくそれから無我夢中で宗一さんを助けようと、ここまで……」
「ほうほう、愛の為せる技ですな」
「愛だろうな」
「まーさんっ、宗一さんも……!」
「ごめんごめん、まあそういうことなんだね」
「……そういうことです」

 どこか不機嫌に、というよりどうにでもなってしまえという風に息を吐き出した渚に、
 宗一共々苦笑して麻亜子は頭の中で情報を整理していた。
 ちなみに舞と往人は呼ばなかった。既にある程度情報は共有していたし、何より舞に往人と接する機会を与えたつもりだった。

 ちょっとしたお節介。ささらと貴明を思い出してしまうのだ、あの二人には。
 二人の後背を少し眺めてから、麻亜子は視線を虚空に移す。

 放送が終わり、生き残りは既に二割にも満たない。環や珊瑚の死も確認した。
 またしても元いた日常の欠片が崩れていくのを感じた一方で、
 だからこそ新しい道を探すためにも考えを連ねていかなければならないのだと認識していた。

129(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:49:10 ID:XQXXsGks0
 今の自分には往人や舞、更には渚や宗一もいる。
 これまでのいきさつを話そうというのは山を下っているときに麻亜子から切り出したものだった。
 無論恨まれる覚悟も許されない覚悟、そういうものを持って話しかけたはずだったのだが、
 拍子抜けするほどあっさりと受け入れてくれた。往人と舞のときのように。
 何も知らない俺達が無責任に糾弾できるほど綺麗な人間じゃないんだ、とは宗一の弁だった。
 渚も宗一の言葉に頷いて何も語ろうとはしなかった。

 きっとここにいる全員は同じような立場なのだろうと思う。
 時には誤った判断で誰かを失い、時には殺人に手を貸す、或いは直接手を下し、
 罪を罪と馬鹿正直に糾弾出来なくなってしまった人間。

 だからといって驕るつもりもない。同じ穴の狢だろうが自分は元殺人者である事実は厳然としてそこにある。
 安心していい権利なんてなにひとつ持ち合わせてはいないのだ。
 殴られろと言われれば殴られてやるし、一生奉仕して償えと言われたらそうする。

 けれども死ねと言われたらそれだけは拒むつもりでいた。命が惜しい、そんな次元の話ではない。
 命乞いをしてでも守るべき過去があり、また未来を見据えていかなければならない自分がいる。
 だから生きていたい。それだけのことだ。

 とにかく、と横道に逸れた己の思考を元に戻して麻亜子は考えを再開した。
 残った人間を考える限り危険人物は少ない。もしくはほぼゼロに近いと考えていい。
 ここにいる連中は全面的に信用できるし、渚の話によれば待っているらしいルーシー・マリア・ミソラも志は同じなのだという。
 伊吹風子も同じだろう。渚は早く会いたいと言っていた。ちょっと嫉妬。

 ここで十五人から七人を引いて残りは八人。そのうちリサ=ヴィクセンなる人物は宗一の同業者で信用もあるとのこと。
 麻亜子自身が遭遇した高槻もあの様子では多分こちらと同じ立場だろう。
 ……自分がどうなるか、というのは蚊帳の外に置いておくことにした。

130(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:49:32 ID:XQXXsGks0
 一ノ瀬ことみ、藤林杏に関しては渚の友人だという。
 杏については「妹さんが呼ばれていたのでちょっと……いや、かなり不安なので早く会ってあげたいです」と言っていた。
 姫百合瑠璃は生きている。珊瑚が死んでしまったのでどうなっているのかは知り得ない。渚同様の不安があった。

 渚の抱える不安は分かる。いや、ささらを失った自分だからよく分かる。
 願わくば舞と往人のように、支えとなってくれる人間がいればいいのだが、
 と祈るように思ってからそんなことを考えている自分を変わったなと自覚する。

 正確には変わりつつある。本当の人の想いに触れ、夕焼けの中で確かめた生徒会の二人の姿に触れ、
 朝霧麻亜子という素の存在が現れまーりゃんという面子を保ち続けてきた仮面を剥ぎ取ろうとしている。
 しこりはまだ自分の中に残りながらも。これでいいんだと思い、麻亜子は思考を更に進めた。

 これで残すは二人だ。芳野祐介なる人物と藤田浩之なる人物。
 この二人がどんな人間なのかさえ分かれば島からは殺人鬼は一掃されたことになる。
 先はまだ想像がつかなかったが、とにかくまずは目指すべき状況に入りかけている。
 ならば自分がすべきことは生き続けることだ。

 そうでしょ、たまちゃん?

 少し泣きたくなった気持ちを堪えて、最後まで決着をつけられず言葉も交わせなかった友人へと向けて、
 麻亜子は自分のやるべきことを確かめたのだった。

「……あの、言いそびれてました。遠野さんのことですけど……」
「いい。こうなるかもしれないって覚悟してた……ルー公が生きてただけでも俺は嬉しい」
「……はい」
「済みません、は無しだ」
「……はい」

 などと考えている間に、渚と宗一はいつの間にやらいい雰囲気に。弔いなのだろうが、麻亜子が入れる雰囲気ではない。

 てゆーか、宗一っつぁん渚ちんの肩抱いてるし! 頭も撫でてるし! 渚ちんも手ぇ握ってるし!

131(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:49:48 ID:XQXXsGks0
 とても直視できる状況ではなかった。前方では歩く往人とぴったりと並ぶようにして舞が歩いている。ガードは完璧だった。
 独り身なのは自分だけか。衝動的に彼氏が欲しいなぁという情動が込み上げ、
 けれどもどうしようもあるはずもなく、麻亜子は内心に呪詛の言葉を吐きつつ塗り込められた漆黒に目を移すしかなかった。

 バカップルばかりだよ、ここは。

 麻亜子たちが麓にある民家へと辿り着いたのは、それから数十分後のことだった。
 その時間が麻亜子にとって針のムシロだったことは言うまでもない。

132(ユケ!ヤレ!マーチ)/Prepare To Take The Field:2009/07/06(月) 23:50:12 ID:XQXXsGks0
【時間:3日目午前00時30分頃】
【場所:F−3】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、投げナイフ1本、鉈、H&K SMGⅡ(30/30)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(6/6)とその予備弾丸9発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る】 

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

→B-10

133ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:37:05 ID:VjZ7PxFU0
片付けられたテーブルの上に、少女が食べ残したパンはない。
柏木初音が朝食を摂るのに使っていた席には、今別の少女が座っている。

「あの、初めまして。古河渚と言います」

ぺこりとおじぎをした渚と名乗る少女は、丁寧にも机に当たるかどうかのすれすれな位置まで頭を下げていた。
そんなおっとりとした雰囲気を保つ渚の隣には、彼女と対極とも思えるしっかりした表情の少年が佇んでいる。

「那須宗一だ。よろしくな」

愛想は決して悪くない。
しかしどこか油断できない空気を彼は常に保っているように、長瀬祐介は感じていた。
横目でちらちらと宗一の様子を窺っている祐介には、先ほどの彼から受けた精神的な攻撃に怯えている節がある。
ある種の感受性が強い祐介だから、敏感になっている所もあるだろう。
得体が知れないという意味では、祐介自身も『能力者』だ。
それに似た何かを、彼も持っているのではないだろうか。
本当に宗一が信用に当たる人物ならば、話す機会も必要だろうと祐介が考えていた時である。

「宮沢有紀寧です。こちらは長瀬祐介さん。
 もう一人柏木初音さんという女の子もいるのですけれど、今は少し出ています」
「な、長瀬です。どうも」

落ち着いた様子で怯みを見せない連れの宮沢有紀寧に比べ、挙動不審気味になってしまっている自分が恥ずかしくなり、祐介はそっと顔を俯かせた。
凛とした態度で二人と対峙する有紀寧の存在は、祐介にとってさぞや頼もしいものだろう。
最初は有紀寧も戸惑っていたようだったが、こうして対峙している今彼女はしっかりと話し合いに応じようとしている。
男である自分が盾にならねばという思いが、祐介にない訳ではない。
しかしこうして有紀寧から積極的に動いてくれるならと、ここで祐介は敢えて自分から出しゃばるような真似をする気がなかった。

134ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:37:48 ID:VjZ7PxFU0
他人任せにしている意識が皆無らしい祐介は、渚達に経緯を説明してくれている有紀寧を尻目に一人考え事に耽りだす。
彼の頭を占めているのは、勿論初音のことである。
一時間以上経っているものの、初音はいまだ戻ってくる形跡がなかった。
何か彼女にあったのか。放送を聞く限り、人を殺す覚悟ができている人間は決して少なくないのである。
愛しい姉達を一気に失った初音の悲しみ、それを取り除く手伝いを少しでもできればと祐介はそればかり考えていた。

(初音ちゃんは、ここまで僕を元気付けてくれたんだ。その恩を、返したい。絶対)

祐介のそれは、決して下心から産まれた気持ちではない。
聖人君主のような純粋な思いというものも当てはまらない。
祐介は気づいていない。彼が、初音を『彼女達』の代わりとして見ている面があることを。
祐介が失った愛しい少女達の代わりとして、心の糧に初音を当てはめている部分があることを。

「……さん。長瀬さん? 聞いていますか」
「え、ぁ……っ!」

とんとんと肩を叩かれ、思わず祐介は驚きを口に出してしまう。
有紀寧に話しかけられていたということ、祐介はそれに全く気づいていなかった。
視線をやると、渚も宗一も不思議そうに祐介のことを見やっている。
不味い。話し合いの場で上の空だったことが周知となり、祐介の胸に居た堪れなさが広がっていく。
隣の有紀寧は呆れたように一つ溜息を吐く。
気まずさでびくつく体に渇を入れ、祐介は恐る恐る有紀寧の方へと顔を向けた。

「長瀬さん。わたし達の話、聞いていませんでしたよね」

じとっと、上目使いのまま責められる言葉を口にされ、祐介は慌てたように方を竦ませる。
不満そうな有紀寧の表情、明らかに自分が悪いことも分かっていたので祐介は素直な謝りを入れる。

135ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:38:26 ID:VjZ7PxFU0
「あ、あの。その。……ご、ごめん」
「考え事ですか?」
「え?」

そのままなじられる覚悟があった祐介からすると、この有紀寧の問いかけは予想外のものだった。
自然に漏れた呟きを零しながら祐介が、改めて有紀寧と視線を合わせる。
有紀寧は、心配そうな眼差しを祐介に対し送っていた。

「柏木さんのことですよね。分かっています、わたしも心配していますから」
「あ……」

祐介の考えは、有紀寧にお見通しだったのだ。
目を見開き、驚愕をストレートに表情に出す祐介の様子を内心で滑稽だと笑いながらも、有紀寧は尚優しい声色で祐介を誘導にかかる。

「古河さんと那須さんのこと、長瀬さんはどう思われますか? わたしは、信用に値すると思ってます」
「え、えっと……」
「下手な争いは、わたしも避けたいですから。お二人の理念に賛同します」

きっぱりと。有紀寧は一端祐介から視線を外し、そのまま渚と宗一を交互に見つめながら二人の考えを肯定する言葉を口にした。
ぱぁっと、花のような笑みを渚が浮かべる。
心から嬉しいといった渚の表情に、宗一も満足そうだった。

「長瀬さんはどうですか?」
「ぼ、僕も、その。……有紀寧さんが、そこまで言うなら……」

しどろもどろで答える祐介の様子を、有紀寧は満足そうに横目で確認する。
あまりの扱いやすさで思わず頬が緩むが、それも祐介からすれば渚の浮かべる真っ直ぐな表情と同じものに見えてしまうのかもしれない。

「よかったです。祐介さんが嫌がるようでしたら、わたしもこの件からは手を引こうと思ってましたから」
「有紀寧さん……」

136ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:39:03 ID:VjZ7PxFU0
自身が取る上辺だけの優しい態度に感動する祐介の姿が、有紀寧自身は面白くて仕方なかった。
祐介の意思を優先させているように見えるだけで、有紀寧はこうなることが分かりきっているような言い回ししかしなかった。
渚や宗一との話を一切聞いていなかったようにも思える祐介に、彼等の印象を問いかける意味はない。
予め自分が否定の色を消し去った意見を出せば、それに祐介がつられるであろうことは有紀寧自身容易く予測がついていたのだ。

「長瀬さん。それで、柏木さんの件なんですけれど」
「う、うん」
「捜索を開始したいと思います。柏木さんが出て行ってから、かなりの時間も経過していますし」

それは、祐介にとっても願ったり叶ったりな提案だった。
むしろ動けないでいたことの方が、祐介にはフラストレーションになっていた部分がある。

「古河さんも那須さんも、柏木さんのことはご存知ないそうです。
 柏木さんの容姿が直接的に分かるのは、わたしと長瀬さんだけということになります」
「今そのことで、外を見回って探すのと、この家で待つ二組に分かれようかという話をしていました。
 入れ違いになる可能性もありますし、この家を空にしてしまうのはよくないと思うんです」

有紀寧に続く形で説明をする渚の提案に、祐介はこくこくと、声には出さずに仕草で納得している旨を伝えた。

「……ありがたいですよね、長瀬さん。こういう時、人手があるって助かります」
「そうだね。確かに、そうだ」

そう考えると、ここで渚と宗一という仲間ができたことが本当に幸運なことなんだと祐介は実感する。
二人とも、人が良さそうな人物だった。
宗一に関しては祐介の中に燻るものがあったけれど、朗らかな印象が強い渚の優しそうな表情に嫌悪が浮かぶことは一切ないだろう。
少しおっとりとした物腰は、どこか初音を彷彿させるものがある。
そんな渚を支えるようにして横に位置する宗一のポジションは、祐介が妄想する初音と並んだ時の理想形に他ならない。

「そういえば、ここの水道って使えるか? ここに来るまでで、ペットボトル開けちまったんだ」
「あ、それなら……」

137ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:39:41 ID:VjZ7PxFU0
デイバッグから空のペットボトルを提示する宗一に、キッチンがある場所を有紀寧が指差した。
ちょっとした食料があったこと等も告げると、渚も宗一も大いに驚いた。
二人曰く、彼女達が居た診療所や他の参加者がいるか探るために入った民家は、水道は通っていたとしてもそのようなサービスは一切見当たらなかったらしい。

「それならこの家は、当たりだったんですね」

クスクスと笑う有紀寧に同調するよう、祐介も頬を緩ませる。
彼女が昨晩用意してくれたピラフの味がかなり良かったことは、祐介の頭にもしっかり記憶されている。
初音も料理が得意だと言っていた。
女の子の手作りの料理が食べられる機会というのが決して多くない祐介にして見たら、殺し合わなければいけないというこの現実さえ見なければ心から喜べるシチュエーションとなるだろう。

「あ、僕も結構飲んじゃってたんで。一緒に行きますよ」
「おう。案内してくれ」

自然と口に運んでいたらしい、半分程減ったペットボトルを片手に祐介も立ち上がる。
先導するようにすぐそこのキッチンへと、祐介は宗一と共に消えていった。





二人の姿が見えなくなった所で、有紀寧は祐介と宗一を見送るために逸らしていた背中を、ゆっくりと元の位置に戻した。
有紀寧の斜め前に座っている渚は、まだ慎ましやかにも小さく手を振り続けている。
律儀な少女だ。
目が合い、有紀寧は渚が頬を緩ませるだろうそのタイミングに合わせ、自然に見える笑顔を彼女に向ける。

「えへへ」

138ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:40:21 ID:VjZ7PxFU0
二人してほぼ同時に浮かべた笑み、有紀寧とは違い渚のそれには一切の邪気は含まれていない。
彼女の醸し出す空気はぽやぽやとしていて、この殺伐とした世界に決して似合うものではないだろう。
渚の経緯を聞かなければ、有紀寧は彼女を砂糖水の中で泳ぎ続ける能天気な弱者と決め付けたかもしれなかった。
祐介はきちんと聞いていなかったであろう彼女の身に降り注いだ昨日の出来事は、あまりにも悲惨だった。

実の両親を手に掛けられ、その死体と共に渚は一人残された。
それも一晩。
普通の人間であれば、発狂してもおかしくないシチュエーションである。
それを乗り越え、しかも復讐への道を選ばなかった彼女の精神は見かけ以上にタフだった。
隷属させるのにも、精神的に脆い人間では扱いが厄介になるかもしれない。
それプラス、渚の場合彼女自身の力は脆弱であろうとも、実力が定かではないが那須宗一というパートナーが今は付いている。
有紀寧にとって揃った条件は、正に最高のものだった。

「宮沢さん?」

有紀寧自身が自覚せずに浮かべてしまった含み笑いに、不思議そうに首を傾げる渚が疑問をぶつける形でその名を呼ぶ。
表に出かかった内心を隠しつつ、有紀寧はその場を繋ぐための世間話を口にして、自分の態度をごまかそうとした。

「すみません、何でもないです。そう言えば古河さんは、三年生なんですね」

お互い顔見知りではなかったが、有紀寧と渚は同じ学園に所属しているというのが一目で窺えた。
身に着けている制服が、同じものなのである。
渚の制服に付けられているワッペンの色は、青。
彼女が三年生として在学していることが、有紀寧にもすぐ理解できた。

「わたしはこの通り、二年生です。先輩と、お呼びした方がよろしいでしょうか」
「い、いえ! あの、気にしませんから」

139ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:41:42 ID:VjZ7PxFU0
慌てたように両手を顔の前で振る渚は、何処までも謙虚な少女だった。
常に一生懸命にも見える渚の動作一つ一つ、それは全て微笑ましい類に値するだろう。
有紀寧もだった。こんな場所でなくきっと学園で知り合えたとしたら、渚とは仲良くなれたような気すら彼女はしていた。
この不思議な親近感の理由に、有紀寧の心当たりはない。

有紀寧は彼女に好感を持っていた。
精神的な強さを見せつけられたとは言え、自分よりも年上であるにも関わらずどこか儚くも思える渚の存在が、有紀寧の心を揺さぶりにかける。
血が騒ぐ。一言で表すと、そのような激情にも似た不明瞭な欲求が有紀寧の中ではいつの間にか生まれていた。

ふと。有紀寧の脳裏で、一つの憶測が閃く。
きっと有紀寧は、比べていたのだ。
刃を取ることを決意し自分だけが生き残る道を選んだ自身と、産みの親を殺されても他者が傷つかない方法を探ろうとする渚のことを。
有紀寧も渚も、どこにでもいるごくごく普通の女の子だ。
力だって特別強い訳ではない。むしろ脆弱な部類に値する。
二人とも、スタートラインは同じだった。それなのに、進んだ方向は全く別のものとなっている。
それはどこか、可笑しい。

(後悔なんて。するはずが、ないじゃないですか)

生き残るための最善を選択を、有紀寧はしたつもりだ。
その言葉に嘘偽りは全くない。
彼女の意志は澱みなく、こうして渚と自分を比較しても軸がぶれることは一切ない。
羨望の色が皆無であるとは断言することが不可能であっても、有紀寧は自分が取った行動に誇りすら持つ勢いがあった。
何が何でも生き延びてやるという、有紀寧自身の生への執着はとてつもなく強い。
故に。腕っ節はからっきしであったとしても、有紀寧はこの島で限りなく強い部類に入る少女となる。
ただし。
―― その異常さが、本能であるのか植え付けられたものなのか。
有紀寧がそこまで考えるに至ることは、なかった。

140ベラドンナ:2009/07/15(水) 23:43:36 ID:VjZ7PxFU0
そんな有紀寧の意識は今、斜め前に座っている渚に向かって伸びている。
渚についての考えがまとまっていた所で、有紀寧はそれ以上自分の世界に居座ろうとはしなかった。
否。できなかった。
渚のことを思う度に、嫌らしいくらいの心地よさが有紀寧の背中を這っていき、彼女の理性を溶かし切ろうとする。
高まり続ける情念を幾度も幾度も擦り付けられ、滾るせつなさに有紀寧は震えそうになる体を抑えられなくなってきていた。

それは、実の両親を殺害されても崩れなかった少女を屈服させたいという、ストレートなサディスティックさだったかもしれない。
自身の性癖など考えたこともない有紀寧からすれば、想像だにできない可能性だろう。
渚は今も、呑気にぽやぽやと微笑んだままである。
有紀寧が凶行に出るなど、思ってもみていないに違いない。
そんな彼女を。有紀寧は。

そっと。スカートのポケットに伸びた手が、有紀寧の切り札であるリモコンへと自然と伸びる。掴む。
荒くなりかけた息を抑えながら、有紀寧は充血しかかった両の眼でじっと渚に視線を送った。




【時間:2日目午前8時頃】
【場所:I−6上部・民家】


長瀬祐介
【持ち物:無し】
【状態:水を汲みにいく・初音を待つ】

宮沢有紀寧
【持ち物:リモコン(5/6)】
【状態:渚と対峙・前腕に軽症(治療済み)・強い駒を隷属させる】

古河渚
【持ち物:支給品一式(支給武器は未だ不明)・早苗のハリセン・S&W M29(残弾4発)】
【状態:有紀寧と対峙・宗一と行動・殺し合いを止める】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾20/20)、支給品一式】
【状態:水を汲みにいく・渚に協力】

以下の荷物は部屋の隅に放置
【持ち物:鋸・支給品一式】
【持ち物:ゴルフクラブ・支給品一式】

(関連・1077)(B−4ルート)

141ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:27:06 ID:z5jnCwq20
「ご苦労様」

 へとへとになって戻ってきた藤田浩之と姫百合珊瑚の二人が、
 部屋の隅に荷物を置いたのを確認してリサ=ヴィクセンはゆっくりと微笑を浮かべた。
 僅か一回でこれだけの荷物を運びきれたことに感心する。

 そしてそれ以上に一人で荷物をどこかに持っていこうとしていた一ノ瀬ことみの根性にも呆れる。
 彼女は既に目覚め、ベッドの上で半身を起こしていた。麻酔の効き目が薄かったのか、耐性があったのかは分からない。
 体の半分は包帯にくるまれ、塞がりきっていない傷口からは黄ばんだ体液が染み付いているのが確認できる。
 しかしボロボロの様相を呈している彼女からは、無表情の中にも決然とした意思を秘め、常に先を見通しているかのような透明さがあった。
 この瞳から窺える真っ直ぐさは、節を貫き通そうとした英二や栞に似ている。

 放送では宮沢有紀寧の名前があった。逃げた後、ことみと遭遇して彼女の仲間を道連れに死んでいったのだという。
 一度も遭遇したことも会話したことさえなかったが、何故だか納得するものがあった。
 きっとそれは藤林椋のこと、柳川祐也のことがあるからなのかもしれない。
 悲しみを撒き散らすだけ散らして、自分勝手に死んでいった人間。

 自分勝手という面ではリサだって責めることはできなかった。
 それでも、なぜという思いが込み上げてきてやるせない気分になることを抑えることはできなかった。
 だが顔にだけは出さなかった。ことみが淡々と語るのに、そうするわけにもいかなかった。
 内面は察するに余りある。ことみは感情を発露させるよりも内面に押し込め、また別の方向へと向ける結論を選んだようだった。

 いいとも、悪いとも断じない。ことみの結論に自分も従おうとだけ思った。
 そう考えている間に、今まで生硬かったことみの表情が変わった。

「ありがとう。運んでくれて」

 床に腰を下ろし、弛緩している二人にことみが声をかけた。おう、と軽く手を上げて浩之が応じ、続いて瑠璃も一礼した。

「自己紹介でもしたら?」

142ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:27:29 ID:z5jnCwq20
 リサの言葉に頷いて、ことみ達がそれぞれ自己紹介をし合う。リサは起きたときにやっているので加わることはしない。
 一ノ瀬ことみ。脱出計画を企てている人物で、自らの立てたプランに沿って行動を続けている少女。
 自分でさえ具体的な行動は何もしてこなかったというのに、ことみはやるべきことを見出し、行動を続けていた。

 そんな自分を情けないと思う一方、彼女の持つ希望の火が己を照らし、導いてくれる感触もあった。
 生きて帰って、医者になりたい。そう言った彼女の顔からは澱むことのない意思、未来を信じられる力強さがあった。
 リサはそれに応えたいと思った。今一度、一人の人間として、恥じることのないように行動したいと思いを定めた。
 義務ではなく、自らが望む、自らの願いとして。

 自分のやりたいこと。それがようやく理解できて、己の内奥に染み渡ってゆく感覚が嬉しかった。
 今度は失くさない。
 新しい自分がようやく歩き出したのを知覚しながら、リサは三人の交わす会話に耳を傾けた。

「それで、一ノ瀬さん、怪我は平気なん?」
「痛いけど、多分大丈夫なの。ひどいのは見た目だけだから」
「でも、その、完全に目が……」

 瑠璃は先を続けるのを躊躇った。リサも現場にいたので、ことみの左目がどうなっているのかは知悉している。
 鋭利な物体が突き刺さっていたと思われる眼球は潰れ、二度と物を見ることが出来なくなっているのは明らかだった。
 包帯が取れても、きっと直視できるようなものではないに違いない。ことみが抱える傷は深い。女であるならば、尚更。

「どっこい、生きてる」

 けれどもことみは笑った。生きてさえいるなら、どんなことだって苦にならない。
 そう思わせるような柔らかい笑みに、リサは余計な心配だったかと考えを改めた。
 この少女はそれだけのものを潜り抜けている。
 絶望を知りながらも、絶望を乗り越える術を身につけた人間の顔を、ただ素敵だとリサは思った。

「目が潰れてても医者にはなれるの。厳しい道かもしれない。けど、そんなこと分からないの。
 やりたいことをやりたい。……それが今の、私だから」
「……やりたいこと」

143ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:27:47 ID:z5jnCwq20
 ことみの言ったことを確かめるように瑠璃は反芻した。
 真剣な表情になった彼女は、内面に何かしらの化学変化を起こさせたようだった。

「そうだ、横からで悪いがリサさんに報告だ。あの車、まだ使えるみたいだぜ。バンパーボコボコだけど」

 ああ、とリサは思い出したように言った。ことみに関心が向いていたのでそちらのことはすっかり蚊帳の外だった。
 あの時瑠璃と一緒にいなかったのはそれを調査していたからなのか、と思い、リサは内心に苦笑した。
 やるべきことを自ら見出していたのは浩之と瑠璃もだったらしい。

 負けてはいられないと負けん気を覚えながら、「それはいい知らせね」と応じる。
 実際車の一台があるだけで移動は相当に楽だ。荷物を運ぶにもこれ以上の代物はない。
 こちらには怪我人もいるから、いっそうありがたい。

「ことみ、体は動かせる?」
「根性でなんとか」
「いい答えね」
「どこかに行くの?」
「まあ、待ち合わせしててね。大遅刻して怒られそうなんだけど」

 肩を竦めつつそう答える。実際は遅刻どころの話ではないのだが、連絡がつけようもない以上どうしようもなかった。
 ことみは少し考える素振りを見せ、「そこって、電話が通じる?」と尋ねた。
 リサが頷くと、ことみは「だったら」と言って続けた。

「私、携帯電話持ってるの。島の中だけにしか通じないけど、主要施設の番号は登録してあるから、いつでも連絡できる」
「……そんな便利なものが?」
「うん。支給品。だからそれで連絡してくれて構わないの。ううん、寧ろ連絡して欲しい。それでこちらからもお願いがあるの」
「お願い?」
「待ち合わせの場所がどこか知らないけど、行く場所を学校……鎌石村小学校にして欲しいの」

144ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:28:06 ID:z5jnCwq20
 リサは目を細める。要はことみをそちらに運んで欲しいということだったが、何故そこに向かうのか。
 聞いてみたが、ことみはそっちに用事を残している、というだけで深くを伝えようとしない。
 浩之と瑠璃もよく分からないというように首を傾けている。

「うーん、できるなら待ち合わせしてる人も小学校まで来て欲しいところなの」

 言葉は柔らかいものだったが、表情からは譲れない決意が見える。恐らく、こちらが納得するまで説得を続ける気だろう。
 それだけ重要なものが鎌石村小学校にはあるということなのだろうか。ことみが答えようとしない以上、想像するしかない。

「ひとつ聞きたいんだけど」
「なに?」
「ことみはどこから来たの?」
「鎌石村小学校」

 浩之と瑠璃はますますわけが分からないというように顔を見合わせた。リサは腕を組んでその真意を探ろうとする。
 ことみが言っていることが正しいなら、わざわざこちらに足を運んで、それからまた戻ろうとしていたことになる。
 あれだけの大荷物を抱えて、あの酷い怪我で。

 ……つまり、それは。
 ことみの荷物の中に極めて重要なものがあるということだ。
 そしてそれを使うためには小学校に戻らなくてはならない。或いは、それを使える者が学校で待っている。
 口外しようとしないのはこちらを疑ってのことではない。知られてまずいことが含まれているからだ。
 そう。ことみは、既に脱出の鍵を握っている。

 脱出のために動いているとは言ったが、まさかそこまでとは。
 慎重でありながらここまで事を進められた大胆さには流石のリサも舌を巻いた。そんな表現を使ったのは那須宗一と出会って以来だ。
 ならばそこから先は自分の仕事だ。活路を切り拓いてくれたであろう彼女に対してリサが思ったのは、
 借りは返すというアメリカ的な思想の入り混じった感情だった。

145ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:28:37 ID:z5jnCwq20
 申し訳ないと思うのではなく、よくやった、先は任せろという同調する意思を見せるべきなのであり、
 またそうすることこそが信頼を築き上げるために必要なものだった。
 何をしてきたか、ではなくこれから何が出来るか。
 無力を嘆じて思考を放棄するのではなく、愚直でだって構わない。力を使えるのならば使うという考えがあった。

 ただし、力を用いるにはまた考えることが必要なのも分かっている。
 意思のない力。目的を達するためだけに為される力にも、また意味はない。
 痛いほどの経験を通して自分が学んできたことだ。その自覚を胸に染み渡らせたリサは、浩之たちが持ってきた荷物の側まで歩いてゆく。

「とにかく、連絡してみるわ。もし繋がればあなたの言うとおりにする」
「繋がらなかったら?」
「悪いけど、探しに行かさせてもらうわ。約束した時間なのにそこにいなかったら、何かあったってことでしょう?
 それを見過ごせるほど私は薄情じゃない。いいかしら?」

 リサが出した結論がそれだった。力を用いるには、人の存在も必要なのだ。
 切り捨てて行動できるほどリサは任務遂行の機械にはなりきれないし、人間としての今を知っているから、尚更だった。

「うん、そっちの方がいいと思う。私も、誰にもいなくなって欲しくないから……」

 ことみの言葉には痛みを知った、臆病なまでに優しいひとの心があった。
 それは恐らく、ことみの怪我に起因しているのだろう。自分たちと同じく……
 誰も彼もが深い傷を負っている。この傷は、いつか癒える日が来るのだろうか。

 そんな疑問を持ちながら、リサは探し当てた携帯電話を取り出し、施設の番号を確認する。
 ことみの言葉通り、電話帳には殆ど全ての施設の番号が記録されていた。
 宗一と待ち合わせを予定していた廃校の番号を選択し、ゆっくりとプッシュする。
 無機質な電子音が一定の間隔を刻みながら流れる。十秒ほどが経過したが、繋がる気配はない。
 まさか、という想像が浮かんだその瞬間、『よう』と息せき切った気配と一緒に懐かしく思える声が届けられた。

146ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:28:53 ID:z5jnCwq20
『悪いな、遅刻した』
「遅いわよ。……三時間の遅刻」
『そっちは』
「三時間の遅刻」

 くくっ、と向こう側から含んだ笑い声が聞こえてきた。さらにその遠くでは何やら宗一を揶揄するような声も聞こえる。
 どうやら宗一もひとりではないらしい。この数時間の間にたくさんのことが変わった。
 きっと全員がそうなのだろうという殆ど予感に近い確信を抱いて、リサは話を続ける。

「悪いわね、そっちにいけなくて」
『いや、こっちこそ。それで、どうして電話なんか? 今どこだ?』
「氷川村。だけど、これから鎌石村にある小学校に向かうところ。車でね」

 鎌石村、と聞き返す声が聞こえ、仲間に確認を取っている様子が伝わる。数秒の後、どこか理解した宗一が『それで』と先を促す。

「宗一たちもそっちに来て欲しいのだけど」
『おいおい、随分遠くないか』
「いいものがあるのよ。奇跡のマジックショーを見せてあげる」
『へえ、なにか、イリュージョンでも見せてくれるのかよ』

 失笑交じりの声は実に演技臭い。減点一だという思いを口の中で溶かしつつ、実直な同業者に「ええ」と言い返した。

「とにかく早くに来て欲しいのよ。お願いね」

 電話の内容は主催者に聞き取られている可能性も考慮して、リサはわざと焦りを含ませた声を出す。
 下手に冷静でいると何かを企んだのではないかと気取られる恐れもあったからだ。そういう意味では宗一の落第点な演技にも意味はある。
 幸いにして人の真意を汲み取ることには長けている宗一だ。言葉を額面通りに受け取るはずはないだろう。
 人を上手くコントロールして自分の望む方向に持って行くのは交渉の極意でもある。

 他者を屈服させるための技術を会得することを強いられた、その事実はこんな状況でもその力を発揮している。
 結局は人を支配するための術に取り付かれている我が身を眺めてリサは恥じ入るような気持ちになるが、宗一の声がそれを霧散させた。

147ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:29:13 ID:z5jnCwq20
『……いい声だ。ちょっと、変わったみたいだな』
「え?」

 予想外の言葉が頭を突き、思わず声を出してしまったリサの声を最後に通話は途切れた。
 ぽかんとしたままの頭が宗一の言葉を飲み込むまでにいくらかの時間を要し、やがて理解したらしい脳から可笑しさが込み上げ、
 そのまま温かな波紋となって体に染み渡ってゆく。気がつけば、リサは携帯を抱えたまま笑っていた。
 ことみや浩之、瑠璃がお互いに顔を見合わせ、怪訝な表情になっているのも気に咎めず、ひたすら笑っていた。
 きっと、自分の顔は間抜け面なのだろうとリサは思った。

     *     *     *

 はいどうも皆さんお久しぶりです。伊吹風子です。ちょっぴり大人になりました。
 無論風子は肉体的に大人です。ですが心の方はまだまだ甘えがあると気付かされたのでランクダウンです。

 そういうことで風子たちは今学校にいます。深夜の学校は暗くて不気味です。
 別に怖くなんてないんですが、渚さんが不安なので側についててあげることにしました。
 ……それに、久しぶりに会ったような気がしますし。

 渚さんの喜びようは尋常じゃなかったです。風子を見るなり抱きついてきましたから。
 それに泣いてました。泣くほど嬉しかったのでしょうか。無力じゃなくても、弱いままの風子でも、
 そんなことをされると切なくて、けどあったかくなります。やっぱり渚さんは渚さんだって思いました。

 違っている部分もあります。失礼な話ですが、会ったばかりのときはもっとおどおどとしてて、自信なさげでした。
 今は、うーん、謙虚になったと言いましょうか、後ろめたさがなくなったというか……明るくなった気がします。
 はっ。風子、なんか偉そうです。こういうのを慢心っていうのですよね。いけません。謙虚になるべきは風子です。
 でもグラマラスなのは譲りません。風子はせくしぃなナイスバディなのです。

148ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:29:30 ID:z5jnCwq20
 ところで風子と愉快な仲間たちは全部で七人です。大所帯です。
 えーっと、まず風子です。
 それから電話でなんやかんやとヘンなことを話しているのが那須宗一って人です。
 その那須さんに横から茶々を入れているのがまーりゃんって人だそうです。風子のこともチビ助とか呼びやがりました。最悪です。
 教室の窓から外をぼんやりと眺めているのがルーシーさんです。どことなく居辛そうです。
 ぼーっとした顔の人が川澄舞さんです。隣で腕を組んでいるのが最悪に目が怖い国崎往人さんです。
 そして渚さん。これで七人です。七って数はちょっと縁起がいいです。

 ああ、そうです。なんでこんなところにいるかというと、ぶっちゃけた話那須さんの意向です。
 ルーシーさん曰く「渚に合わせる」
 国崎さん&川澄さん曰く「那須に合わせる」
 まーりゃんさん曰く「上に同じく」

 なんて自主性のない意見でしょうか。
 もっとあれです、ヒトデ祭りをしたいとかヒトデ音頭をしたいとか、そういう建設的な意見はないのでしょうか。
 風子ですか? ……ノーコメントです。

 ま、まあそういうことで那須さんがまだ用事があるみたいだったので、しぶしぶついてきたってことです。
 そしたら丁度いい具合に職員室に電話がかかってきて、それで今に至っているというわけです。
 もっとも、那須さんが電話が鳴っていたのをダッシュで取りに行っていたのですが風子たちは悠々自適。
 のんびりと歩いてきましたので電話が終わるちょっと前くらいに着きました。

 まーりゃんさんだけは那須さんにくっついていったようですけど、単に冷やかしたかっただけでしょう。
 まーりゃんさんはよく分かりません。時々すごく寂しそうな顔をしているかと思えば、こうしてけらけら笑ってたりします。
 躁鬱の激しい人です。まあ嫌いではありませんが。

 別に「チビ助はちっちゃくてかわええのう」とか言われたことが嬉しかったわけじゃないです。
 というか、ほっぺた引っ張られました。ぷち最悪です。

「そういうわけで、予定変更だ。俺達はこれから鎌石村にある学校に行くことになった」
「はいはいー、場所はここねー、よく覚えておくんだぞー」

149ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:29:47 ID:z5jnCwq20
 などと考えている間に那須さんのブリーフィングが始まりました。まーりゃんさんが勝手にアシスタントしてます。
 散り散りになっていた皆はいつの間にか集まってきていました。

 寄り合い所帯に近い風子たちですけど、こうして協調するべきときは協調するのを見るとそうでもないように思えるから不思議です。
 お互いにバラバラでも、こうして一つに固まれる共通意識がある。そう思いました。
 そのあたりは渚さんやまーりゃんさんがパイプ役になっているようでもありますけど。

 渚さんが「るーちゃん、行きましょう」と声をかけていましたし、
 まーりゃんさんが「おら集まれいそこな美女と野獣」って言ってましたし。
 ちなみにまーりゃんさんの頭にたんこぶができているのは言うまでもありません。
 涙目になっていました。ぷちかわいそうでした。

「質問がある」

 手を上げたのはルーシーさんでした。「発言を許可しよう」とまーりゃんさんが何故か偉そうに言っているのを受け流しつつ、
 ルーシーさんは那須さんへと続けます。

「移動手段はどうする。歩いていくにはいささか遠いぞ」
「確かにな。……正直に言うと、俺も舞も……いや、全員が疲れてる」

 同調するように国崎さんが言います。話に聞く限りでも皆が連戦で限界にきているようなのは事実みたいです。
 まあ風子もヘトヘトです。ぷはーっとジュースの一杯でも飲んでベッドに潜り込みたい気分ではあります。
 川澄さんが頷くのに合わせて風子も頷きました。那須さんも「それは承知だ」と返します。

「だから別の移動手段が欲しいところだ。車かバイクか……探せばあるはずだと思う。それを使って向こうまで行く」
「あるという保障はあるのか」
「リサ……電話してた仲間も車があるそうだ。だからあるはずだ。キーはなくてもなんとかなる」
「なるんですか?」
「ふっふっふ、世界一のエージェントを舐めてもらっては困るぜ」

150ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:30:05 ID:z5jnCwq20
 渚さんとルーシーさんの疑問に対して自信満々に答えます。那須さんは世界一だとか。なんだか信じられない話です。
 岡崎さんがヒトデ祭りでヒャッホゥと言うくらいに信じられません。
 ですがあまりにも自信満々なので渚さんもルーシーさんも顔を見合わせて納得するしかなかったようです。
 ここで風子が尋ねてみました。

「車、運転できる人はいるんですか?」
「俺はできるぞ。他には?」

 真っ先に那須さんは返してくれましたが、他の皆さんは無言です。どうやら免許を持っていないようです。
 渚さんとか風子はともかくとして、意外な話でした。
 流石に七人もいて免許所持者が一人というのは情けない話です。あれ、そういえば那須さんは風子より年下な気がするのですが。
 ……気にしないことにしましょう。渚さんより学年が下でも気にしません。

「……国崎さん、免許くらい取っとけよ」
「やかましい。住民票も身分証も金もないんだよちくしょう」
「よく逮捕されずに済んだよね……」

 まーりゃんさんが呆れて言っていましたが「お前だって高校は卒業してるだろ」と国崎さんは返します。
 む、と頬を膨らませたまーりゃんさんは「あちきだってバイクくらい乗れるわいっ!」と吼えていました。
 でも風子は聞きました。川澄さんがぼそっと「……私もバイクの免許はある」と言っているのを。

「舞さん、すごいです」
「学校を出たら働こうと思ってたから……本当は車の免許が欲しかったけど」

 渚さんの賛辞に顔を赤くして答えている一方で、まーりゃんさんと那須さんが国崎さんに「やーいプータロー」とか野次っていました。
 国崎さんは「俺だって好きでプータローになったんじゃないやいっ!」と涙目になっていました。自覚はあるようです。
 司会の二人が揃って脱線していたので、風子がぱんぱんと手を叩いて路線を戻すことにしました。やれやれです。

「とにかく、車が運転できるのが一人で、バイクに乗れるのが二人ですよね。何とかなるんじゃないでしょうか」
「そうだな。都合よくそれらが転がってるかは別にして……五人なら軽でも余裕か」
「おや、バイクは二人乗りと相場が決まっているものですぜ。とりあえずあたしがまいまいの後ろに乗っておっぱ」

151ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:30:20 ID:z5jnCwq20
 ぶん、と投げられた空のペットボトルが頭に当たり、「むぎょ!」とヘンな声を上げていました。
 流石の風子もセクハラが過ぎると思います。というか、オヤジですかこの人は。ぷち最悪です。
 さらに言うなら、バイクに乗るはずのまーりゃんさんが後ろに乗ってどうするんだという極めてまともな突っ込みが浮かびましたが、
 あえて言わないことにしました。多分思いつきでしょうから。

「ちぇーちぇー。どーせまいまいの後ろには往人ちんが乗り込んでおっぱいを独せ」

 がんっ! 今度は中身入りのペットボトルが顔面を直撃していました。自業自得です。
 当の川澄さん本人は涼しい顔でしたが、視線は国崎さんに向かっていました。
 そこにどんな意図があるのかまでは分かりませんでしたが。
 国崎さんの方はちょっと目をいからせてまーりゃんさんを睨んでいました。

「……なぜそうなる」
「な、投げる前に言ってよ……」

 鼻っ柱に直撃したらしいまーりゃんさんはうずくまって涙目でした。なんだか涙目になってる人が多い気がします。
 かわいそうだと思いましたが、口は災いの元です。ルーシーさんと一緒にさもありなんという風に頷いておくことにしました。
 渚さんだけは「だ、大丈夫ですかっ」と救急箱を持って駆け寄っていました。天使です。ここに天使がいますっ。

「うう、渚ちんは優しいなあ……でも大丈夫。あたしのセクハラ魂は永久に不滅なのだよ」

 自覚してたようです。「どうしようもないな……」とルーシーさんが言うのに頷いておきました。
 反省の二文字は辞書にないらしいです。ついでに自重という言葉もあるかどうか怪しいです。

「あ、あの、わたしも、そういうのはあまりよくないんじゃないかと……」
「うおぅっ! 辛辣な言葉がっ!」

152ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:30:32 ID:z5jnCwq20
 渚さんの正直かつ真っ当な言葉にまーりゃんさんはダメージを受けているようでした。
 もっとも、すぐに回復すると思いますけど。本当にこの人は分かりません。一番ヘンな人です。
 完璧に話が脱線していました。コホン、と大きく咳き込んだ那須さんが話題を元に戻します。

「あ、あー。とにかくだ。車さえあれば移動についての問題は解決だ。異論はあるか?」

 ですが崩れてしまった場の空気は変わりようがなく、
 ぎゃーぎゃーと罵り合っている国崎さんとまーりゃんさんを中心に渚さんと川澄さんが必死になだめ、
 ルーシーさんは仕方ないなという風に、でも面白そうにその光景を眺めています。
 はぁ、と大きく嘆息していた那須さんの肩を叩いて、風子は言ってあげました。

「心中お察しします」
「へっ、小学校の担任になった気持ちだぜ……」

 やさぐれた表情になって、ふっ、と那須さんは笑いました。
 でも、と風子は思います。きっと皆さんは分かっていて、その上でこうしているんじゃないかって。
 まるで今まで欠けていたものをひとつひとつ埋めてゆくように。

 きっと、それは。
 風子たちの願いの欠片なのだと、そう思ったんです。

153ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:30:43 ID:z5jnCwq20
【時間:3日目午前1時30分頃】
【場所:I-6】

リサ=ヴィクセン
【所持品:M4カービン(残弾15/30、予備マガジン×3)、鉄芯入りウッドトンファー、ワルサーP5(2/8)、コルト・ディテクティブスペシャル(0/6)、支給品一式】
【所持品2:ベネリM3(0/7)、100円ライター、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、フラッシュメモリ(パスワード解除)、支給品一式(食料と水三日分。佐祐理のものを足した)、救急箱、二連式デリンジャー(残弾1発)、吹き矢セット(青×4:麻酔薬、黄×3:効能不明)】
【所持品3:何種類かの薬、ベレッタM92(10/15)・予備弾倉(15発)・煙草・支給品一式】
【状態:鎌石村の学校に移動。どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

姫百合瑠璃
【所持品:MP5K(18/30、予備マガジン×8)、デイパック、水、食料、レーダー、携帯型レーザー式誘導装置 弾数2、包丁、救急箱、診療所のメモ、支給品一式、缶詰など】
【状態:浩之と絶対に離れない。浩之とずっと生きる。珊瑚の血が服に付着している】
【備考:HDD内にはワームと説明書(txt)、選択して情報を送れるプログラムがある】

藤田浩之
【所持品:珊瑚メモ、包丁、レミントン(M700)装弾数(3/5)・予備弾丸(7/15)、HDD、工具箱】
【所持品2:フライパン、懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手、折りたたみ傘、鋸、支給品一式】
【状態:絶望、でも進む。瑠璃とずっと生きる。守腹部に打撲(手当て済み)】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:H&K PSG−1(残り0発。6倍スコープ付き)、暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、ポリタンクの中に入った灯油】
【持ち物2:要塞開錠用IDカード、武器庫用鍵、要塞見取り図、フラッシュメモリ】
【持ち物3:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式(保健室でいくらか補給)、乾パン、カロリーメイト数個、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)】
【持ち物4:コルト・パイソン(6/6)、予備弾×13、包帯、消毒液、スイッチ(0/6)、ノートパソコン、風邪薬、胃腸薬、支給品一式】
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)。麻酔により睡眠中】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

【その他:外にある車は使用可能なようです】

154ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:31:01 ID:z5jnCwq20
【時間:3日目午前1時30分頃】
【場所:F−3】

川澄舞
【所持品:日本刀・投げナイフ(残:2本)・支給品一式】
【状態:同志を探す。往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。額から出血。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)、肩に浅い切り傷】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】
その他:舞の持ち物(支給品に携帯食が十数個追加されています。)

朝霧麻亜子
【所持品1:デザート・イーグル .50AE(1/7)、ボウガン(32/36)、バタフライナイフ、支給品一式】
【所持品2:芳野の支給品一式(パンと水を消費)】
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。軽い打ち身。往人・舞に同行】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 4/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(コルトガバメントカスタム)(残弾4/10) 予備弾薬35発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で誰かを笑わせてあげたいと考えている。全身にかすり傷。椋の捜索をする】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている(本人に自覚なし)】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数0/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、投げナイフ1本、鉈、H&K SMGⅡ(30/30)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【所持品2:S&W M1076 残弾数(6/6)とその予備弾丸9発・トカレフ(TT30)銃弾数(0/8)、デザートイーグル(.44マグナム版・残弾4/8)、デザートイーグルの予備マガジン(.44マグナム弾8発入り)×1、S&W、M10(4インチモデル)5/6】
【持ち物3:ノートパソコン×2、支給品一式×3(水は全て空)、腕時計、ただの双眼鏡、カップめんいくつか、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、何かの充電機】
【状態:全身にかすり傷】
【目的:渚を何が何でも守る。鎌石村小学校に移動し、脱出の計画を練る】 

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 1/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:心機一転。健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。最優先目標は宗一を手伝う事】

→B-10

155ほほえんでいこ:2009/07/21(火) 00:38:39 ID:z5jnCwq20
伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】
支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。民家に残る】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:とりあえず渚にくっついていく】 

すみません、こちらの状態表も追加で…

156この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:25:42 ID:fpOY18Yg0
 
「家庭の問題です。口を挟まないでいただけるかしら」

ぽたり、ぽたりと。
実妹の肉片のこびり付いた深紅の爪から粘りつくような血を垂らしながら、
柏木千鶴が薄く笑う。
足元、切り落とされてなおびくびくと蠢く黒腕とその主には目もくれない。
血の海にもがく妹の、声にならぬ悲鳴が広い洞内を反響するのも聞こえぬように、
優雅とすら映る仕草で胸元から白いハンカチを取り出すと、濡れた爪を拭い出した。
純白を彩る精緻な刺繍が、瞬く間に鉄錆の赤黒さに侵されていく。

「まあ、興味はないね」

来栖川綾香が肩をすくめれば、鋼線に薄い脂を巻き付けたような裸身が焔に揺らめいて艶かしい。
ひたり、と歩を進める。
素足が赤黒く滑る水溜りに踏み込んで、粘ついた音を立てた。

「それより……家の人間がこっちに顔、出さなかったかな」

生温い血が、ねっとりと糸を引くように足裏に絡みつく。
気にした風もなく、切り出した。

「お宅の方、ですか。……さあ、存じませんが」

貼り付けたような笑みを浮かべたまま、ほんの僅か虚空を眺めるようにして、千鶴が答える。
一呼吸、二呼吸。
垂れ落ちる鮮血を指先で掬って、互いの気管に塗り込め合うような沈黙の後。

「―――ああ、もしかして」

157この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:26:06 ID:fpOY18Yg0
弓形に歪んだ深紅の瞳に、瑞々しい侮蔑と匂い立つような嘲りとを浮かべて、
千鶴が糊の効いた、真新しい濃紺のスーツの懐に手を差し入れる。
仕立てのいい上質の布が、さらさらと耳を楽しませる衣擦れの音を立てた。
その長い手指が、ゆっくりと懐から掴み出したのは、

「これの、ことかしら」

はらはらと。
はらはらと、音もなく舞い散る、絹糸のような何か。
揺らめく焔の光を拒むような漆黒。
力なく横たわる蛇の亡骸の如く地に落ちて広がる、それは。

「―――」

長く、美しい、女の黒髪。
切られたものではない。
断たれたものではない。
その片端に、白い毛根と脂とをこびり付かせたそれは、刃によって裁断されたものでは、あり得ない。
薄桃色に見えるのは皮膚組織とその下の、血に塗れた小さな欠片だろうか。

「残りは……ほら」

五指に纏わり付く黒髪を払った千鶴が、周囲を睥睨するようにその両手を広げる。
ゆらゆらと、蜀台の炎に薄暗がりが照らされて、岩場の陰影を際立たせる。
つられるように、綾香がゆっくりと視線を向けた、その先に。

「その辺りに、散らばっているわ」

158この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:26:36 ID:fpOY18Yg0
ゆらゆらと揺れる影と、ひたひたと拡がる血溜まりと、はらはらと舞う黒髪と。
悶える少女と、起伏の激しい剥き出しの岩場を彩る、もう一つ。
千切り取られたような、掌に収まるほどの、何かが一つ。

「―――」

ポタージュに浮かぶ、小さなクルトンのような。
血溜まりに落ちた、塊がある。
白と、赤と、薄黄色と桃色と。
およそ、人の皮を剥いた下にある、色の全部が、そこにある。
ゆらゆらと、揺らめく光に照らされて。
ゆらゆらと、血の池に浮かんでいる。
骨ごと削り取られた、肉と脂と皮と、人体がそこに、浮かんでいる。

目で追えば、もう一つ。
その向こうに、更に一つ。
ああ、言われてみれば。
バケツに一杯のペンキを、辺り構わず何度もぶち撒けたような。
一面に拡がる鮮血は、今し方に切り落とされた腕一本から流れ出るには、多すぎる。

「―――」

ぬるりと。
意識をすれば、吸い込む大気に甘い香りの混じっているような錯覚を覚える。
取り込んだ肺の内側、小さな胞の一つづつを染め上げる、潰えた命の香り。
挽き潰された香辛料のような、爪の先の血管まで染み渡る、濃密で鮮烈な刺激。
それは途絶えた命の、途絶えさせられた命の、殻の中の甘い実の立てる、悲鳴だ。

159この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:27:03 ID:fpOY18Yg0
「―――」

岩場に転がる小さな塊が、揺らめく焔を照り返す。
染み出た脂が包むのは、胃の腑の欠片だろうか。
あちらに見えるは腹の肉。
丁寧に臍の周りを丸く抉り取っているから判じ易い。
そら、よく見ればあれは足先だ。
剥がされた爪がほんの少しの肉片をこびり付かせて並べられている。
してみれば、その向こうに乱雑に放り出されているのは手指の成れの果てだろうか。
或いは捻じ曲げられ、或いは細切れにされ、或いは踏み躙られたものだろうか、
幼子が飽きた玩具を放り捨てるようにばらばらに散らばっている。
ふるふると震える、薄黄色い葡萄の房のようなものは何だろう。
大きさからすれば乳房の中身かもしれない。
腕は何処だ。肩は何処だ。肺腑は何処だ。肝臓はあそこにあった腎臓は向こうに見える。
脾臓は何処だ膵臓は何処だ腸は何処だ子宮は何処だ骨盤は何処だ性器は何処だ掌は何処だ。
脚は何処だ腿は何処だ膝は何処だ脹脛は何処だ踝は何処だ足は何処だ。
肋骨と腰椎と脊椎と延髄と脳髄と眼窩と眼球と鼻腔と口唇と頬と眉と顎と耳と、
犬歯と臼歯と切歯と内舌筋と外舌筋と喉頭と声帯とは何処にある。

ああ、ああ。
集めればそれは、人体と呼べるものに、なるのだろうか。
掬い上げて、練り合わせて、再び人と呼べるもののかたちに、戻るだろうか。
それほどに、散らばったものは数多く、乱雑で、複雑で、猥雑で、そして、醜い。

それは、かつてそれが人であったことに思いを馳せるにはあまりに遠く。
それが、かつて来栖川芹香と呼ばれていたことを思い出すにはあまりに脆く。
しかし。

「……ああ、そっちのつもりじゃあ、なかったんだが」

だから、ではなく。
故に、でもなく。
ただ、表情を変えずに、来栖川綾香は、小さく呟いた。

「まあ、いいさ」

そこに情はなく。
そこに色はなく。
水底に沈む神代の宮殿のような、透明の静謐を以て来栖川綾香は、その惨劇を首肯する。

160この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:27:38 ID:fpOY18Yg0
「姉が世話になった」

細く呟く、その瞳は奇妙に凪いでいる。
来栖川芹香であった肉の欠片たちを見下ろしてなお、その瞳は揺らがない。
冬の夕暮れ時の、雨にも雪にもならぬ薄曇りのどこか霞がかったような昏さだけが、そこにある。

「いいえ、とんでもない。退屈しのぎには充分でした」

可笑しくて仕方がない、というように笑む柏木千鶴にも、綾香は感情を返さない。

「何よりだ。連れ帰ってもいいかな」
「どうぞ、ご随意に」

す、と。
深く笑んで頷いた、柏木千鶴が優美な仕草で歩を踏み出す。
高いヒールが、かつりと音を立てた。
踏み出したその細い足が、文字通り間髪を入れず捻られる。
ぐり、ざら、と、嫌な音を立てて踏み躙られるのは、地に落ちて広がる長い黒髪の束。
来栖川芹香の、遺髪だった。

「……」
「どうか、されましたか」

蹂躙される黒髪が焔の影に煽られて、乱れた繻子のようにその綾を変えていく。
がり、と音がする度に、長く美しかった髪が傷つき、千切れる。
その暴虐を、しかし無感情に見返して、綾香が口を開いた。

「別に。……本題に入ってもいいかな」
「何でしょう」

襟足で短く切り揃えられた髪をかき上げながら、綾香が瞼を閉じ、開く。
光届かぬ高い天井の、黒々とした闇を一瞬だけ見上げて、視線を下ろした。

「家の使用人は見てないかな。元々、捜してたのはそっちの方でね」
「使用人、と仰ると」
「メイドロボ。特注の一品物でね」

綾香の口元が、微かに緩む。
それが笑みの萌芽とでも呼ぶべき表情であると、綾香自身も気付いていたかどうか定かではない。
しかしそこには、確かな温度があった。
姉の身の無惨をして無色透明を貫いた女の顔に浮かぶ、それは感情の欠片だった。

161この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:28:09 ID:fpOY18Yg0
「……さあ、存じません」

その微笑を見返して、こちらは笑顔という面の形に練り上げられたような柏木千鶴の、
深紅の瞳が冷ややかに細められていく。

「妙な鉄屑なら、あちらの方に落ちてきたように思いますが」

目線だけを動かした、その先には闇が広がっている。
血溜まりは見えない。
浮かぶ塊は見えない。
暗闇に飲まれて、そこには何も見えない。
しかし、赤い瞳の鬼は笑みを深めていく。
熱という熱を奪い去るような、暗く深い、冷笑。

「ただ何しろ我楽多のこと、ガタガタとやかましくて敵いませんでしたので―――」

色と音とを喪って、透き通る氷の華が鋭い棘を伸ばすように。
鬼が、嗤う。

「―――螺子の一本に至るまで、つい」

くつくつ、くつくつと。
言葉を切って、肩を震わせる。

「そういえば」

くつくつと。
声を漏らして、忍び嗤う。

「お姉様は随分と礼儀正しくていらっしゃるのね」

くつくつと。
本当に、心の底から嬉しそうに。

「五体くまなく切り刻まれているのに、悲鳴の一つも上げないなんて」

くつくつと。
歓喜と法悦とに、突き上げられるように。

「はしたなく泣き叫んでくれれば、もう少し楽しかったのだけれど」

くつくつ、くつくつと。
腐った傷から、膿が垂れて流れるように。

「あなたにも見せてあげたかった。とても残念だわ」

ぐつぐつ、ぐつぐつと。
嗤う。

162この物語の最後の戦い:2009/07/26(日) 18:28:54 ID:fpOY18Yg0
「―――そうかい」

膿を掬って鍋に集めて、火にくべて煮込むような音の中。
噴いた灰汁の泡立ってぶつぶつと潰れるような笑みの中。
その悪意を凝集し憎悪を結晶させたような湯気の立つ中に、来栖川綾香は霞んでいる。
霞んでしかし、立っている。

「厳しい家訓が我が家の売りでね」

立って返した、言葉の色は白。
降り積もる雪の、どこか青みがかったような深い白。

「……ああ、それと」

浮かべた笑みの色は群青。
明けゆく夜に名残を惜しむような、淡い星に彩られた群青。

「―――化け物が、人間面して礼儀を語るなよ。気分が悪い」

吐息に混じる色は緋。
紅蓮を燃え盛る焔の纏う衣に宿る、灼業の嚆矢たる緋。

「……これは、申し訳ありません」

ちろちろと、己を舐める炎に炙られて柏木千鶴が笑みを収める。
代わりに浮かぶのは、混じり気のない侮蔑。

「成り上がってたかだか百年程度のお家柄に、作法のお話は難しすぎましたか」

ひと吸いで人の善意を侵し尽くすような汚辱。

「道を空けろ、売女」

べっとりと肺の内側に貼り付くように濃厚な嘲弄。

「力ずくでどうぞ、河原者のお嬢様」

軽侮と憎悪と怨嗟と恩讐とを捏ねて焼き上げた器を、地面に叩きつけて割るような。

「そうするさ」

言葉が、途絶える。



***


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