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日本の少年売春2・・江戸の陰間茶屋

1名無しさん:2008/05/29(木) 20:12:55
日本でもかって少年売春があった。
江戸時代は陰間茶屋といって、美童を買って一時の夜を自分のものとして遊ぶ
のである。ほとんどが人身売買によって親方に、8歳くらいで買われ、いろいろ訓練して
12,3になると客席に出されて弄ばれた。
歌舞伎の役者でもあって、歌舞伎の起源でもあった。

まだ、児童福祉法もない時代、貧しい時代だった。武士の家に生まれても、いい思いをできるのは
長男だけだった。次三男は、手習いということで、10歳前に寺に預けられた。名目は手習いだが、本当は食いっプチを自分でかせぐためである。

だが、手習いは表向きで、実は女のいない寺で、坊主の性の欲望を満たすためなのです。
これが、「寺小姓」です。

武士さえそうだから、貧乏商人とか一般の貧しい親の息子は、陰間宿に売られたのだ。
こうして日本も、今のアジア諸国や各国で存在する少年売春が行われていた。

2名無しさん:2008/05/29(木) 20:13:46
江戸のかげま茶屋

花咲一男著
■定価 2940円(税込) ■ISBN4-89522-470-8
陰間をかかえて売色渡世をした「陰間茶屋」を主題として、明和・安永・天明時代の男色風俗を当時の貴重な図版を豊富に取り入れて探る。B6判上製函入・242頁。
ttp://www.mikipress.com/archives/2006/03/post_124.html

3名無しさん:2008/05/29(木) 20:15:00
衆道(男色)   
 衆道(男色)とは、少年愛のこと。僧院での「稚児」の時代から、江戸時代の「小姓」、同売色の「陰間」、寺に売られた武士の次三男の『寺小姓』、いろいろあるが、
 共通してることは、まだほんの12,3〜4の少年であって、今のようなゲイとは違う。しかも小姓であれ、陰間であれ、寺小姓であれ、待遇は格段の違いがあるが、
 されることはいずれも同じだった。「契り」と言う肉体交合(鶏姦)だった。
 稚児の時代から女色と同じ口淫を含め48体位あったというが、よくでてくるのは名はちがうが・・場所も違うが、ほとんど男女間のそれと同じだった。

・揚げ雲雀(あげひばり)(後背位)?
 是は雲雀のくわんげんをいふて、空に揚がる如く、自然と入る痛まぬ仕様なり。?

・脚立(きゃたつ)返し(屈曲位) 
 是は児の二足を我肩の上に引かけ、前より突くなり。脚立とは食卓のこと。

・鵯越(ひよどりごえ)(後背位・バック)

・逆落し
 『背骨の方からそろりと落とし入れる』もの。 座位?

・夏掘り
 『水の中に尻をひたして、痛くさせない方法』・・どんな体位か??

・から込み
 『つばを使って自然に入れる方法で、かなり痛い』という

・破穴
 これはずばり『無理やり強引に入れる』力攻め、どんな風なのか?


 ttp://www.cablenet.ne.jp/~h-mkkn/niho-kanwa5-2.html

口淫
・鶯の谷渡り(全身口淫)    横になった美童の全身に舌を回す。
・鵯越の逆落し(蟻の門渡り(肛門と陰嚢の間) ) ...

なお、美童のものを吹くのを『一節切』(ひとよぎり)といった。(フェラチオ)
『一節切』とは、間に一節の尺八(二節)のような一回り小さい楽器、つまり少年の一回り小さいものが、それでも棒のようになっている状態。
   ttp://members.jcom.home.ne.jp/aqua-kei/48/48-index.html

   ttp://www.cyoki.com/night/nightlife/48/


なお、これとはちがうが、Jr.でも最初にされるらしい。

4名無しさん:2008/05/30(金) 20:19:38
京の美童は、物腰が柔らかいとして「蔭間」の供給源で、上玉とされ高価で仕入れる女衒がいたそうです。8歳位で買われ、訓練させられ、12,3に成ると客席にだされ>>153のように自由に弄ばれます。やられる事は、「小姓」も、「蔭間」も同じで、当然素っ裸にされて体中に口ずけされたりもするのだろう。小姓は「生童」である事が要求されで、多少しつこく嫌らしくても、誰も入れない「閨房」で「寵童」として殿様に至上に可愛がられる。他の男には抱かせないのはもちろん、手を触れる事も許さない専用の寵童。

これに対し、「蔭間」は同じ年頃だが、客に体を売るのが勤め(少年売春)で、まだ児童福祉法とてない時代、一日に何人もの男、・・たとえどんなにいやらしくとも、乱暴でも、太くても、時には女でも自分で客を選別する事はゆるされない。客が付けば客席に出て行かなければならないのだ。何人もの手で好きなように汚されてしまう。客席というのはいわば、今で言う強制わいせつされる場でもあり、美童好きな客の待つ、そこに体を売るために少年が一人ででるのだから、時には無理やり犯される事もある。
このあたりの事、南條範夫[五代将軍]に良く描かれている。

5名無しさん:2008/05/30(金) 22:08:18
花咲一男「江戸の陰間茶屋」という本すごく参考になります。絵もたくさんでてます。

「柳腰」なんていうのも、「陰間」とかいろいろ今で言えば児童虐待の歴史の産物ですね。
『柳腰』というのも、女のでかい腰(尻)のことではなく、尻に入れる時の12,3の少年のそれこそ
柳のように細くしなやかな裸の腰(尻)を想像すればなるほどと思うでしょうね>

6名無しさん:2008/05/30(金) 22:10:29
小姓で一番出世した見本と言うべき、柳沢吉保のこと・・

[もう遠い昔のことだ」
[上様とのこと、詳しいことをお話くださいませ・」
「仕様のないやつじゃのー」
保明(吉保)は、視線を天井に向けた。
[よし話して聞かせよう。わしが上様に始めてお目通りしたのは、寛文五年十二月十八日、満七歳の誕生日だったな。父上に伴われて四谷門外堀端横丁の屋敷から、神田のお館に参上した。当時上様は、満十九歳三位中将右馬頭であられた、なぜかひどくわしが気に入ったらしい。御自らわしの手を取ってまだ木の香りの高い新築の御殿の中をあちこちとつれ歩いて下された。父上がこの新築の御殿造営の奉行であったからかも知れぬ。寛文九年十一月、満十二歳の時、御殿に召しだされ上様の御側にお仕えうることになった。そして、まもなく御座直しとなった。

[御座直しと申しますのは?」
[夜のお伽を仰せつかることだ。」
[その夜のことを詳しく」
「埒(らち)もないことをいう。いい加減にせい。」
[でも殿方が殿方をどのようにして可愛がられるのやら。」
「馬鹿なことを申すと」
[男も女子も。代わりは無い。心からいとしいと思うときはな。

[わしが十六歳になって、前髪を剃り落とそうとしたとき、上様はひどく惜しがって、もう少し伸ばせとおおせられたが父上のご命令ゆえ剃り落とした。だが、その後もお伽の役は仰せつかっていた。前髪を落としたものとしては異例のことかも知れぬ。」
 (南條範夫[元禄太平記]前編(徳間文庫))

柳沢吉保が、五代将軍となる綱吉の寵童となり[お伽]を仰せつかったのが、満十二歳、このとき綱吉は二十四歳。いわば大学でたての青年が、小学六年生をあてがわれて囲う。そして、初夜に結婚式と同じように「契り」(肛門姦)を結ぶこと。そして、十六歳位まで閨房に迎える生活を送る、これが男色(美童愛)で、ごく一般的なことだった。こんなことばかりに耽って、子どもができないで周囲を心配させるのが普通。美童とも、契りと言う点では女色と同じだが、美童(男の子)とはいくら交わっても子どもはできない。

7名無しさん:2008/05/30(金) 22:14:40
次は、小姓から「蔭間」に身を落とした弥之介・・水弥・・の話を上記「五代将軍」から・・今までと違って殿様から独占的に愛されるのでなく、金で買われ強姦される、それも昔の下僕に・・

「あ!」振り向いた男の顔を見て、頬から血が引き裾を押さえて、ニ三尺離れようとするのを、相手はしかと弥之介の手首を掴んで引き寄せた・。
「水弥!」と低く太い声で言ったのは神奈川の宿で弥之介の脚の甲に口付けし綿をけられて姿を消した近衛家の下僕重助だった。
「重助」と唇が震えた。
「わしは重助ではない、倉橋屋の重衛門じゃ。お前も伊丹弥之介ではな居。わしに買われ他尾上水弥じゃ。」
「あでやかな色子になったのう!、。なぜさっきのように優しく、わしの肩に手を触れぬ。なぜ、衣の裾をそのようにあわせる。」
「私は帰ります・」
「ならぬ1わしはお前の今宵の代価として三両支払った。金剛にも一朱の付けをやってある・むざとはは返さぬ・」
「私は・・」
「お前は色を売る蔭間じゃ、ここでは昔の身分なんて塵ほどの値打ちも無い。銭がものを言うのだ、わしは金を払う客だ。お前の体は存分にする。」
弥之介を引瑕って、足先でふすまを開き、奥の間の床の上につれてった。
「着替えをするがいい」
重助の動作にも生々しい欲情と鬱積した憎悪が感じられた。・・

弥之介の帯を解き放つと、「水弥!、以前わしは、この白い脚に口ずけを許されれば満足するつもりであった。
だが、今はそれでは満足せぬ。お前の体中に口ずけしてやろう。そして、お前にもそのとおりさせてやろう。わしは、お前に
優しい言葉のひとつも掛けてもらえば、肝のつぶれるほど悦んだ。だが、今はお前のからだを思ううさま弄んでやらねば気が済まぬ。
声は荒々しく、動作は益々あらくなった。・・

8名無しさん:2008/05/30(金) 22:15:38
「わしはお前の草履の紐を解くとき嬉しさに震えた、お前の汗にまみれた肌着をゆすぐ時それを顔に押し当て気の遠くなる思いがした。だが見ろ、
今そのわしが、近衛家の一下僕が、関白家の寵童を、牧野 備後の守の色小姓を、これこのように思う存分汚しているのだ。えい!、思い知ったか、愛しいやつ、にくいやつ。」
残忍な欲情を遂げた重助は夜明けを待たず帰りしたくを整えた。床の上にうなだれてぐったりと座っている弥之介に
水弥、顔を上げるがよい。「またあおう水弥」

重助こと倉橋屋重衛門の再度の招きがあったとき弥之介はその座敷に行くことを拒んだ、さすがにあの屈辱を二度と味わう気はしなかった。
でもそれは許されなかった。「わがままは許さぬ、お前は色子として勤めるしか能の無い身じゃ」と跳躍された。


裾をあわせて抵抗する、元小姓の身。昔の身は露ほど役に立たないといわれて、細腕を掴まれて床のあるほうに連れて行かれて、
これから脱がす褥着に着替えさせられる美童。そしていよいよ帯を解かれるそしていやな男に体中口ずけしてやるといわれる、もちろん一節切もされてしまうのだろう、夜が明けるまでだ。
とてもそんなことたえられないだろう。しかし買われた身、抵抗できない。さらにおなじことをさせてやるという、それは苦痛でしかないだろう。昔の下僕の排泄口をなめさせらる、たぶん
いやがるのを頭を抑えられて押し込まれるのだろう。
その上、下僕にすべてを奪われてしまうのだ。

さらに再度も同じめにあっていく・・。



野成貞が弥之介を探したのは事実である。・・・
他の小姓を抱いて見ても、それに没入できず弥之介を憶い出した。
弥之介の美舌が己の舌に絡みつくときの、えもいえぬ柔らかい感触や、
うつむいて膝を立てる時の微かに恥ずかし気なおののきが、まざまざと憶いおこされた。
(「五代将軍」)

・・うつむいて膝を立てる時の・・契りの体位ーワンワンスタイル

桐の間御番の御小姓の多くが、綱吉の閨房に侍したことは明白である。元禄4年、綱吉は珍妙な計画を立てた。
桐の間御番の美童のうち、衆童の契りを結んだ一括して収容する寄宿舎を作ってこれを一般の目から隔絶しよう
とかんげたのである。
桐御殿ーとその宿舎の名をつけたが、この御殿は、ほかならぬ柳沢吉保の邸内に置かれたのだ。
桐御殿は、その一ツ橋御門内の新邸の中に設けられたのである。
桐御殿に入るのを「御座直し」という。元禄四年から十年にいたる間に、御座直しとなったもの、数十名、その中には、大名の若君、
公卿の子も交わってる。

いつ将軍からお召しがあるかわからぬので、夕方になると美しく化粧して待機している。そのさま、まったく将軍の愛寵を受ける大奥の女と変わらぬじょうたいだった。

(「五代将軍」)










綱吉は、右衛門佐を以前にも増して愛した。と言っても、彼の男色壁がまったく消滅してしまったわけではない。依然として次々に美童をも愛した。小川松栄という男が、美童蒐集係りを命じられ、旗本の子弟の中からしかるべきものを物色した。美貌の少年を見つけると、切の間番として召しだし、綱吉の能楽の対手をさせられる。綱吉の気に入れば、「御座直し」ーと言うことになる。閨房に侍する寵童になるという意味である。数においては、寵愛した女の何倍もの美童を愛したであろう。・・

柳沢主税房安ー後に吉保として知られる少年である。百六十万石の刑部佐衛門安忠の倅だが、端正な美童であった、綱吉より一回り年少である。

初めて、臥床の中で房安の帯を解いた時、[そちも余と同じ戌年だの]と綱吉は嬉しそうに言った。
(南條範夫[元禄絵巻](光文社文庫))

9名無しさん:2008/05/31(土) 13:49:29
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991


 南條範男 「五代将軍」 (双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
 南條範夫 [元禄絵巻]  (光文社文庫)
 南條範夫 [元禄太平記 前・後編](徳間文庫)
 南條範夫 [被虐の系譜] (講談社文庫)

10名無しさん:2008/06/03(火) 20:34:55
「伊丹弥之介、召しつれましてございます。」
[近こう・固くなるには及ばぬ」
備後の守成定貞が、声を掛けたとき、成貞のそばに居流れた人々がふうっとほのかな吐息を漏らした。
弥之介はやさしい衣擦れの音をさせて膝行し。改めて一礼してから顔を上げた。・・
「心憎いまでに美しいの」成貞は満足して呻いた。
[何歳に相成る」
[十四歳になりまする」
微風に鳴る鈴よりも涼しい声で答えると、稚無さを残した小さな唇の間に白い歯が星のように光った。
[喜作、よいか。今宵から」
成貞が、眦を笑わせて言うと、喜作は「もとより」
と頭を下げ、[いかがいたしましょうか。色は]と露骨なことを口にした。
[薄紫はどうじゃな」
「御意、手前もさようにぞんじてました。」大丈夫、生童で通る・と喜作は安堵した。

夜の勤めは、それ自体では関白家におけるものと本質的には違いはなかった。
ただ違ったところは、成貞の愛撫が近衛基照のそれに比べて、著しく執拗でその上、強烈に嫉妬を伴ったことである。
嫉妬を享楽してるようであった。
[余の他の男に許すな]としつこく念を押し誓約を繰り返す。
青山の下屋敷で能楽の会を催した夜、弥之介はまったく無実の罪で、手ひどく苛められた。

床の中で、弥之介を引き寄せた成貞が呼吸を荒らげて言ったのだ。
「弥之、余を裏切り居ったな」弥之介はあきれ。成貞の目つきの鋭さに怯えた。

「殿様、私は決してそんなこと致しませぬ。」
「言うな、覚えがあろう。菊之めと余の目を盗んでいたずらをしおったであろう。」
菊之という侍女が下屋敷に居ることは知っていた、いやその日に知ったのである。下屋敷で一番美しい娘だとうわさしている。・・・
「偽りを申すな「、そちは菊之の肩を抱いて、口を寄せておった、そうであろう。
「とんでもないことでございます。初めてすれ違った女子に何とてそのようなみだらなことを」

成貞はや弥之介の腕(かいな)をつかんだ。「お許しくださいませ、殿様、私は夢サラ覚えのないことでございます。
「まことに覚えはないか」「はい」
「神名に誓うか」「これこのように、菊之めに肌を引き寄せられたことは無いか」
「はい」
「このように、この美しい唇を吸わせたことは無いか」
「決して」
「えい!、まことのことを言え、これこのように菊之めにこの帯を解かせたことはないか」
「まことのことを正直に申せば許す、えい、言え、このようなことを菊之といたしたであろうが」と
行為の一つ一つに、それを菊之と二人で経験したではないかと攻め立て、瑕のつくほど強く掴み、つねり睨んだ。
愛の行為が終わったとき。成貞の異常な興奮は納まった。
「弥之、ゆめゆめ女子と交わってはならぬぞ、いかに内緒にしたとて一度でも女子(おなご)と交わればすぐわかる。女子の匂いは消えついて消えぬものじゃ」

「殿様、。私は殿様のお情けを受け、それを命の頼りにして生きております身、そのようなお疑いを受けては、悲しゅうございます。」
くたくたになった弥之介がそういうと、成貞はようやく満足したらしく、優しく弥之介を引き寄せ、「女子ばかりではない。男も同じじゃ、構えて余の他の男と契るなよ」と呻き、
「弥之、痛かったか。許せ、おお。汗ばんでおるの、よい、余が拭ってつかわそう」と体を起こした。

男色ってすごいこと。また、まず「契り」は最重要なことで、初夜と同じで最初の夜からすぐに行う。この記述はは「契り」をしてるとこだろうか。契りは絶対他の男もちろん女としてはいけないご法度だったのは確か!!。

11名無しさん:2008/06/03(火) 21:09:20
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_bd73.html

12名無しさん:2008/06/06(金) 20:22:52
陰間じゃなくて、12,3の丁稚小僧のうち美貌な子は、番頭さんに男色の可愛がられた。番頭さんは陰間買いしなくても、丁稚小僧を自分の寝屋に招きいれるだけでよかった。もちろん小僧さんは拒否できない、男色の契りをすれば、ずっと可愛がられいい目にある。

13名無しさん:2008/06/08(日) 08:04:04
陰間茶屋のあった場所として、本郷の湯島天神門前町、日本橋の芳町などが有名でした。湯島は上野寛永寺の所轄の土地であり、土地柄から寛永寺の僧侶たちがなじみの客となっていました。日本橋芳町の方は、最盛期には150人以上の男娼がいたといわれています。こちらは、日本橋に中村座,市村座などの芝居小屋が多かったためでしょう。大坂の陰間茶屋は道頓堀が中心でした。

 陰間として男に色を売る盛りは短く、25歳でもう陰間としての価値は終わりだとされていたようです。「男色実語教」(元禄13年)には、衆道における春は、11歳より14歳までは「蕾める花」であり、15歳から18歳までは「盛りの花」であり、19歳から22歳までは「散る花」だとされています。
 通常、陰間は13、4歳から客を取り始め、20歳前後には男の客の相手をすることは引退します。20歳過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするように転向するわけです。陰間は男の客に抱かれるばかりではなく、女の客も相手にしたわけです。

 女の客は、後家と御殿女中が双璧と言われます。

 ttp://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi21.html


いまでいえば、ほんの中学生になるかならないか位の、Jr.位の美童が、これから
美童の体を求める客の前に・・

14名無しさん:2008/06/08(日) 08:18:12
ttp://www.fsinet.or.jp/~h-arita/sharaku4/shiryo/chizu.html
この界隈は子供屋・または陰間茶屋といわれる男娼街もあり、当時の江戸では吉原と並ぶ一大歓楽街を形成していた。  (元和年間・幕府の命により奉行所は、江戸の各地域に散在していた遊女屋を、葭の群生していたこの地を開拓して住まわせ、葭の生える河原であったところから、葭の原が吉原と呼ばれるようになった。 その後、明暦の大火で全焼した遊女屋を他の地に移して新吉原とし、この地に歌舞伎芝居やあやつり芝居・子供屋などを集め、風俗業の囲い込みを行った。 また、歌や芝居で有名な切られの与三郎とお富の話にある源治店(げんやだな)もこの界隈にあり、ここには特に芝居の関係者が多く暮していた。) (一丁は約109メートル強)

15名無しさん:2008/06/08(日) 08:25:49
くすり

ttp://kobe.cool.ne.jp/rasya/kusuri.htm

16名無しさん:2008/06/09(月) 20:36:56
蔭間
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/Japanindex.htm
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/Japanindex.htm

相手は女のようです、この子はちょうどJr.の男の子位の年齢のはずです。(12,3〜4)陰間でしょうか?。これから何をされるんでしょうね?。「振袖」ですが、これは女の子のまねをしてるのではなく、こうした風俗から女の子の服になったといわれます。その細い腰つき(尻つき)から『柳腰』という言葉が生まれたという。「陰間」は、男だけではなく、御殿女中や、金持ちの商家の後家さんなど、性欲に餓えた女にも買われたという。御殿女中は門限があり、後家さんは性欲に餓え、ともに激しかったという・。陰間は相手が誰でもこ拒んだりできない。
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/Toyonobu/booklet.html
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/threesome.htm
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_bd73.html
ttp://www.androphile.org/preview/Museum/Japan/shudo_b.htm

稚児の草子
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/10/post_c7a1.html

17名無しさん:2008/06/10(火) 21:16:47
人形佐七捕物帳全集 8
横溝 正史 著「三人色若衆 他9話」(春陽堂文庫)
・定価 610 円 (本体581円+税)
・ISBN4-394-10608-7

佐七の幼友達の植木職巳之介が性倒錯者。巳之介をめぐる稚児万菊と鶴姫。彼がひかれる怪人物大日坊のお小姓銀弥。その大日坊が秘戯百態図の密房で毒殺され、銀弥の首なし死体が。(第八話・三人色若衆)――全10話収録。

18名無しさん:2011/06/23(木) 08:19:49
いまの女の「振袖」とか「柳腰」とかは蔭間から来た言葉で、例えば振袖というのは江戸時代蔭間などという少年売色が起源。
振袖は女の衣装ではなく、美童が夜、お客の前にでていく衣装です。

「柳腰」というのも、少年売色や小姓など12,3−4の美童の細くてしなやかな腰付き(尻)から来た言葉です。
柳腰とは女の腰(尻)のことにあらずして、男色に於いて交わる男の子の細い尻のことです

19名無しさん:2011/06/23(木) 11:11:34
・【体位】少年とつながる時の体位【48手】
  
 ttp://bbs.pinkybbs.net/test/read.cgi/bl/1234682525/l50

20名無しさん:2011/08/21(日) 21:39:51
蔭間

ttp://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi21.html

21kokoro:2011/09/05(月) 08:02:48
不景気だと騒がれていますが・・・(#^^)b☆ ttp://tinyurl.k2i.me/Afjh

22名無しさん:2013/02/23(土) 16:05:20
ここで書いてあること、
ツタヤで借りたdvd「武士道残酷物語」
の何話めかでありました。
殿様が、美童を責めなぶる箇所なんて、まんまそのとおり。
確か原作者が南條さんだったわ。

にしても、、、昔の時代劇って過激すぎるw

23名無しさん:2013/04/13(土) 10:08:05
(参考)国会図書館蔵

新聞記事に見る杉並の少年通り魔事件と、戦後少年愛事件史
蔭間と少年性愛の系譜 : 日本における少年愛と少年売春の歴史
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜

24名無しさん:2013/04/19(金) 22:30:43
陰間茶屋繁昌記・・[國文學](学燈社) 1975.02
宿場のかげま茶屋・・「犯罪科学」1932.04

花ざかり昭和元禄「陰間茶屋」東京にコールボーイの組織が20も確立している・・「週刊読売」1972.04.15

25名無しさん:2014/08/14(木) 20:27:31
(参考)

木谷俊男編著「蔭間と少年性愛の系譜 : 日本における少年愛と少年売春の歴史」(国会図書館蔵000004016420)

26名無しさん:2014/08/18(月) 14:24:17
江戸の陰間茶屋でのまぐわいの例
h ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Suzuki_Harunobu_Shunga.jpg

少年は無毛ですね
一方、客の男は血管が浮き出てるw
江戸の時代からおっ立ったイチモツには血管を描いてたんですね

27名無しさん:2014/08/18(月) 14:47:24
江戸の陰間茶屋では色白で物腰や口調の柔らかい、育ちの良い京都の子が人気あったらしいね。
そういう子を狙って8歳位で買ったり誘拐して江戸で陰間宿に売ったり、無理やり性接待させてた業者もいたらしいね.

28名無しさん:2017/10/13(金) 00:15:10

まだ、児童福祉法もない時代、貧しい時代だった。武士の家に生まれても、いい思いをできるのは
長男だけだった。次三男は、手習いということで、10歳前に寺に預けられた。名目は手習いだが、本当は食いっプチを自分でかせぐためである。

だが、手習いは表向きで、実は女のいない寺で、坊主の性の欲望を満たすためなのです。
これが、「寺小姓」です。

武士さえそうだから、貧乏商人とか一般の貧しい親の息子は、陰間宿に売られたのだ。
こうして日本も、今のアジア諸国や各国で存在する少年売春が行われていた。


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