したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

日本の少年売春2・・江戸の陰間茶屋

6名無しさん:2008/05/30(金) 22:10:29
小姓で一番出世した見本と言うべき、柳沢吉保のこと・・

[もう遠い昔のことだ」
[上様とのこと、詳しいことをお話くださいませ・」
「仕様のないやつじゃのー」
保明(吉保)は、視線を天井に向けた。
[よし話して聞かせよう。わしが上様に始めてお目通りしたのは、寛文五年十二月十八日、満七歳の誕生日だったな。父上に伴われて四谷門外堀端横丁の屋敷から、神田のお館に参上した。当時上様は、満十九歳三位中将右馬頭であられた、なぜかひどくわしが気に入ったらしい。御自らわしの手を取ってまだ木の香りの高い新築の御殿の中をあちこちとつれ歩いて下された。父上がこの新築の御殿造営の奉行であったからかも知れぬ。寛文九年十一月、満十二歳の時、御殿に召しだされ上様の御側にお仕えうることになった。そして、まもなく御座直しとなった。

[御座直しと申しますのは?」
[夜のお伽を仰せつかることだ。」
[その夜のことを詳しく」
「埒(らち)もないことをいう。いい加減にせい。」
[でも殿方が殿方をどのようにして可愛がられるのやら。」
「馬鹿なことを申すと」
[男も女子も。代わりは無い。心からいとしいと思うときはな。

[わしが十六歳になって、前髪を剃り落とそうとしたとき、上様はひどく惜しがって、もう少し伸ばせとおおせられたが父上のご命令ゆえ剃り落とした。だが、その後もお伽の役は仰せつかっていた。前髪を落としたものとしては異例のことかも知れぬ。」
 (南條範夫[元禄太平記]前編(徳間文庫))

柳沢吉保が、五代将軍となる綱吉の寵童となり[お伽]を仰せつかったのが、満十二歳、このとき綱吉は二十四歳。いわば大学でたての青年が、小学六年生をあてがわれて囲う。そして、初夜に結婚式と同じように「契り」(肛門姦)を結ぶこと。そして、十六歳位まで閨房に迎える生活を送る、これが男色(美童愛)で、ごく一般的なことだった。こんなことばかりに耽って、子どもができないで周囲を心配させるのが普通。美童とも、契りと言う点では女色と同じだが、美童(男の子)とはいくら交わっても子どもはできない。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板