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ヤンデレの小説を書こう!@避難所 Part07

578『彼女にNOと言わせる方法』:2019/06/02(日) 20:53:38 ID:Tydw7VIs
「野良犬や野良猫にはエサをあげない主義なんです」
 それでもワーワー喚き続けていると、
「……わかりましたよ」
 根負けし、弁当のフタを皿がわりにして唐揚げをひとつ乗せてくれた。それと、アルミホイルで包まれたおにぎりもひとつ。なんだかんだでいいヤツだった。
 一連のやり取りを気にもせず、サユリは淡々とブロック食品をかじっていた。
「クラス委員長は昼食を恵んでくれたってのに、女王さまは何もくれないのかね。民草に下賜してこその上流階級だろう。あれだよ、のぶりす? おぶ、りーじゅ? だっけか。つまり、そういうこったよ」
 皮肉たっぷりに言ってやると、彼女は二、三回瞬きをし、膝の上に乗せている栄養食品の箱に目をやった。
「あげる」
 箱ごと僕に差し出す。反射的に受け取ると、次にペットボトルも差し出してきたのでそれも受け取る。
「え、あ、でも、お腹減ってないの? まだ、かなり残っているよ」
 見れば、栄養食品もまだ七割程度残っている。しかし、彼女は何も言わず、ぼんやりと僕の顔を眺めていた。
 またしてもくれてしまった。
 なんだか、今日だけで色々もらっている気がする。サユリからすれば、僕は恵まれない子どもにでも見えるのかしら。ギブミーチョコレートとでも言えばいいのかな?
 ……なんかどこまでくれるか気になってきたな。小脇においてある、あの小さくて高そうな黒バッグとかおねだりしてみようかな。いや、値段を考えるとさすがに無理か……? だけど、ワンチャンあるか……?
 ってなクズ思考は一旦保留してだ。本当にもらってしまっていいのだろうか。ねだっておいてなんだが、ちょっと悪い気がする。もともと小食なのかもしれんが、それならそれでしっかり食べなきゃいかんだろう。僕がこれをもらったら彼女が栄養不足となって、少女の健全な成長を阻害するんじゃないか。
 が、健康優良男児の胃袋ってのは非常に欲望に弱く、近藤くんからもらったおにぎりと唐揚げを一瞬で平らげると、続けてサユリの栄養食品も瞬殺してしまった。今の僕の懊悩はなんだったのか……。
 この手の栄養食品というのはやたらと喉が渇くもので、もらった水のペットボトルも一気に飲み干してしまった。砂漠にオアシスが与えられ、ふぅと一息つく。
 と、空になったペットボトルを潰している途中で気づいてしまった。キャップを開ける際に抵抗がなかったことに。
 あれ? これって、間接キスじゃね?
 ギギギ、とぎこちなく首を回すと、弁当をつついてる近藤くんの顔があった。
 ま、ままま、ま、マズイぞ。これはマズイ。キング・オブ・無反応の氷の女王さまは置いといてだ、近藤くんに見られてしまったのはマズイ。女子との間接キスだなんて、男子にとってはあるまじき行為だ。情報が伝播し、クラスの男子連中に知られたら一生からかわれることになる。い、いや、でも氷の女王が相手だしそれはないか? みんなビビッて何も言わない可能性がある……でも、陰でしっかりおちょくられそうだしとにかくヤバい。
 口封じのために、ここで一発脅しでもかけておくか? メガネでもへし折っておくか? なんて最低なことを考えていると、
「回し飲みは不衛生だから止めといたほうがいいですよ」
 近藤くんが冷静に注意した。
 ……うん。安心した。近藤くんはやっぱり近藤くんだった。
 彼の生真面目さに乾杯しよう。かんぱーい。

579『彼女にNOと言わせる方法』:2019/06/02(日) 20:53:59 ID:Tydw7VIs
「たっだいまー」
 勢いよく玄関のドアを開け、靴下を脱ぎながらリビングへ入ると、ソファでテレビを観ていた母さんが振り返った。
「ずいぶん、遅かったわね。どこいってたの」
「夏期講習だよ、母さん!」
 冷蔵庫から麦茶を取り出しつつ、胸を張って言った。
「ドラ息子も遂に勉学に目覚めたってわけさ。夏休み返上で勉強だなんて優等生だろう」
 意気揚々と報告するが、母さんは「ふぅん」と興味なさげに相槌を打っただけで、すぐにサスペンスドラマの視聴に戻った。
 暖簾に腕を押したような感覚に鼻白む。
 まだ、朝の一件を引きずっているのか。もうそろそろ雪解けしたっていいだろうに。僕の方は雪なんかとっくに溶けて、しかも水に流しているというのに、母さんはまだまだ子どもだなぁ。
「ずいぶん、機嫌がよくなったのね」
 大人な対応をするつもりだったが、今のはカチンときた。
 んだよ、僕が楽しくしてちゃいけないのか。実の息子に対して、幸福よりも不幸を願うだなんて母親失格ではないのか。
 糾弾する気持ちがないでもなかったが、ぐっと堪え、麦茶をコップに注ぐ。
「明日から夏季講習に通うから、弁当の用意よろしく」
 頼み事はちゃっかり頼む。それが僕のジャスティス。ただ、感情をこめずに事務的に伝えたのは、せめてもの不服申し立てだった。
 母さんは僕の頼みを拒否することはなかったが、一言だけ付け加えた。
「やるべきことは、しっかりとやっておきなさいよ」
 それは、何に対しての言葉であったのか。
 僕は何かを考える前に、麦茶を飲んで、全てを胃に流しこんだ。

580 ◆lSx6T.AFVo:2019/06/02(日) 20:54:26 ID:Tydw7VIs
投稿終わります。

581雌豚のにおい@774人目:2019/06/02(日) 22:58:23 ID:HeBUzZHk
>>580
更新おつかれさまです
相変わらず良い雰囲気
この変わり者な主人公と無口ヒロイン(ヤンデレ予備軍?)の関係が少女Aにどんな影響を与えるのか楽しみ
もうひとつの作品も楽しみにしてます

582雌豚のにおい@774人目:2019/06/08(土) 09:07:13 ID:NfflP/2M
10年振りに保管所とか色々見て回ってきた過疎りすぎだろ
注意していた奴らも荒らし扱いして追い出して、1人消えたところで何ともないからとか言っていた時が嘘のようだわ

まあ頑張れ、気まぐれで来ただけだけど一応応援しとくよ

583雌豚のにおい@774人目:2019/06/10(月) 21:21:20 ID:H7sVyZLM
今やなろうとかで漁っております

584雌豚のにおい@774人目:2019/06/23(日) 20:42:07 ID:qULE9GTQ
>>579
久しぶりに覗いてみたら、
気になっていた作品の続きが読めて凄く嬉しい
またぜひ投稿して欲しいです!

585雌豚のにおい@774人目:2019/08/14(水) 22:52:10 ID:QhAfZNOs
保守

586雌豚のにおい@774人目:2019/10/20(日) 03:13:19 ID:R5yAn/9c
あげ

587 ◆lSx6T.AFVo:2019/11/20(水) 22:06:21 ID:SPiaZ2nU
お久しぶりです。
『彼女にNOと言わせる方法』第五話を投稿します。

588『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:07:07 ID:SPiaZ2nU
 夏期講習、二日目。
 くうぁ、と空に向かって奇妙なあくびをひとつ。
 夏休みの間だけは早起きになる僕だけど、今日に限っては寝覚めが良くなかった。
 未だ抜けきらない眠気が、ずるずると後ろ髪を引っ張っているせいで、妙に足元がふらつくし、それに頭もボーっとした。熱中症という単語が予測変換されるが、この不健全な気だるさを考えるとおそらく誤変換だろう。
 通学路はガラガラの貸し切り状態だった。
 横断歩道の横に立っている、旗を持った大人もいないし、朝の通学路を彩る赤、黒、黄の三原色も見当たらなかった。日常の光景に非日常な要素が入り込み、間違い探しをしているようなヘンテコさを感じた。
 今は、夏休み真っ只中。日常に戻るには、まだまだ早いということか。
 現に、僕が被っているのは黄色の学生帽ではなくて贔屓球団の野球帽だったし、背負っているのは黒のランドセルじゃなくてスポーツ用のリュックサックだった。
 まるで遠足に行くような装いだけど、待っているのはレジャーじゃなくてお勉強だから、どうもテンションが上がらない。
 睡眠成分が過剰に分泌されているのも、おそらくそのせいだろう。学校のある日とない日では、布団から起き上がる感慨が全く異なるのは、誰もが理解しているところだ。
 眠気を追い出すために、もう一度あくびをする。もし、道路の真ん中にお布団がしいてあったら、間違いなくダイビングしてスヤスヤモードに移行するんだろな。
 だけど、こうやって朝っぱらからお勉強のために行動していると、まるでお受験戦争に参戦中のお坊ちゃんのような気がしてくる。
 ……まあ、間違いなく気のせいなんだけどね。戦争のための武器どころか、着る服さえ持っていないんだけどね。仮に入隊を志願したところで、訓練の初日に鬼コーチから除隊通知を受け取ってサヨナラバイバイ確定コース。
 そもそも、僕みたいな凡人の進路は決まっている。地元の学校に進学。それで終わり。一部のエリートくんたちを除けば、本格的に枝分かれし始めるのはまだまだ先のことであり、しばらくはローカル感あふれる学生生活が続くだろう。
 でも。
 僕にとっては疎遠な『将来』というものを意識したせいか、思索の枝が未来に向かって伸びていく。

589『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:08:27 ID:SPiaZ2nU
 僕たちは、着実に大人になりつつあった。
 ちょっと前までは、「野球選手になりたい」とか「宇宙飛行士になりたい」とか無邪気に将来の夢を語っていた。しかし、背丈が大きくなるにつれて、徐々に口が重たくなってきた。
 現実の輪郭が見え始めたからだ。
 キラキラした夢は下方修正され、今では「将来の夢は、公務員になることです」なんて真顔で言うクラスメイトも出てきていた。
 さすがの大人たちも「バカ言いなさんね!」と説教するかと思いきや、実際はお堅い夢を語る子どもを迎合し、手を叩いて称賛を送っていた。
 数年前に語ったような夢を今も語っていれば、渋面をつくって、「いい加減、現実を見たらどう?」だなんて優しく諭してくるだろう。はて? あの日、「大きな夢を持ちなさい」と背中を押してくれた大人たちはどこへ行ったのかしらん。
 変化は、日常にも及んでいた。
 まず、みんな昔ほど無茶な遊びをしなくなった。外の遊びにあまり興味を示さなくなった。泥だらけになって遊ぶのは小さな子どもがやることであり、大きな子どもはもっとスマートに遊ぶべきだといわんばかりだった。今では、服が汚れるのを母親よりも嫌がっている。
 もし今、自転車のサドルに乗って坂道を下るという度胸だめしを提案したら、一笑に付されて終わるだろう。「無茶なことはやめておこうぜ。ケガするよ」なんて、ありがたいアドバイスもくれるかもしれない。
 何より顕著なのは、女子だった。
 鬼ごっこでも缶蹴りでもドッヂボールでも、前はなんでも男女一緒にやっていた。一応、両者の区別はあったが、かかとで削って引いたコートの線みたいなもので、非常に曖昧なものだった。
 なのに、正確な時期は不明だが、ぱたりとグラウンドに来なくなってしまった。男はあっちで、女子はこっち。より見えやすいように、新たに石灰の白線を引いたみたいだった。
 業間休みの間も、昼休みの間も、教室の中で過ごしていて、昨日観た恋愛ドラマの話だったり、アイドルグループの話をしていた。そして、男子を見る目にはある種の軽蔑が含まれ始め、大声でバカ騒ぎをしている時なんかは、冷たい視線を遠慮なくぶつけながらヒソヒソ話をしていた。その目まぐるしい変わりようのせいで、今では全く違う生き物に見える。
 単純だった世界が、複雑になっていた。
 目に見えぬ壁、いや、階層のようなものができていて、同じクラスの仲間だというのに、誰とでも自由に話せなくなった。クラスメイトたちの振る舞いから推理すると、どうやら同じ階層の住人としか離しちゃいけないみたいで、他の階層の人と関わってしまうと格が落ちてしまうらしい。
 格ってなんだ? 誰が格付けしたんだ? いたら質問責めにしてやりたかったが、どうやら主導者はいないみたい。じゃあ、誰が? なんのために? 疑問は尽きない。

590『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:10:09 ID:SPiaZ2nU
 僕の知らないところで勝手に協定が結ばれ、勝手に運用されていた。テーブルマナーを教えられていないのに、無理やり高級フレンチに連れていかれたようで、とても居心地が悪い。
 そこでフィンガーボールの水を飲むような愚行を犯せればかえって爽快かもしれなかったけど、実際の僕はみみっちく、まわりの人の作法を盗み見ながら、なんとかその席に馴染もうとしているのだった。心では雄弁に語っているくせに、テーブルをひっくり返すような勇気を、持っていなかったのだ。
 それが大人になるということはわかっていたが、内心ではちっとも納得していない。
「大人になんか、なりたくねえな」
 たぶん、今が一番幸福な時間なのだ。大人になって、「あの頃は良かったなぁ」と思い返す時間の中に、僕はいるのだ。
 人肌で温めたベッドのような時間の中、永遠にまどろんでいたい気がする。
 だけど、成長する身体がそれを許さない。
 卵の中にいる雛鳥が「ずっとこの中にいたい!」と願ったって、身体が成長すれば嫌でも殻を突き破ってしまう。人間もそれと同じで、身体が大きくなれば子どもでいることを許さない。許してくれない。
 成長した精神は、今よりもずっと多くのものを捉え、シンプルだった世界を一変させる。まるで、こんがらがったゲームのコードみたいだが、ゲームと違ってACアダプターを引き抜いても終わらないから、たちが悪い。
「世知辛ぇー」
 その通り! きっと世界は世知辛いのだ。でも、そんな世知辛い世界を愛せる日がくるのかもしれない、なんて自分をなぐさめる。
 将来に向かって続く道は長く、そして険しい。
 僕は僕らしく、抜け道を見つけて楽をしようと思っているが、それが後ろ指をさされかねない行為だってこともわかっている。
 だけど、誰が好き好んでわざわざ大変な道を選ぶのだろうか。みんな、ハッピーに生きたいはずだ。面倒事はゴメンなはずだ。それなのになぜ、大人たちはを許してくれないのだろうか。
 あ? いつまでもおしゃぶりをしゃぶっていないで、さっさと大人になれだって? 若い時の苦労は買ってもせよだって? なんだとコンチクショウ! そんなゴミみたいなもんが欲しいならすぐにでも転売してやるぜ。もちろん手数料込みでな!
 だからこそ、鼻息を荒くして叫んでやる。
 このまま、ずっと、僕も、みんなも、変わらなければいいのに!
 彼とも、彼女とも、同じ関係性のまま、続いていけたらいいのに!
 ……そんなことは不可能だって、わかっているけど。

591『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:10:45 ID:SPiaZ2nU
 ってな調子で、アンニュイな気分に浸っていると、
「ん?」
 校門で見知った影を見つけ、自然と口角があがる。
 小気味よく駆け出し、
「雨は降ってないぜ、女王さま」
 一定の速度で歩いていたサユリの手から、黒い日傘を奪い取る。
 そしてサーカスの曲芸みたいに人差し指で柄を支えてバランスをとり、
「へっへーん。悔しかったら取り返してみろ」
 と、挑発してみる。
 日傘を奪われた彼女は手をあげた姿勢のまま、激しい太陽光の下に肌を晒すこととなった。サユリの肌は病的なほどに白いので、白日の下ではさらに白く見えた。
 反応はなかった。
 日傘を取り返そうともせず、上げていた腕をだらりと下げて、そのまま突っ立っていた。ジリジリと肌を焦がす太陽光を厭うでもなく、日に焼けようと焼けまいとどっちでもいい、みたいな態度で停止している。
 ……なんのために日傘をさしていたんだコイツ。
 僕は人差し指に乗せていた日傘を左手に持ち替え、避暑地の令嬢のように両手でさしてみた。あら、意外と涼しいじゃないのよ。
「十秒以内に取り返さないと、これは僕のものになるからな」
 リミットを設けてみるが、変わりなし。
 ここで「男子ってほんとおバカさんね」とプリプリ怒ってくれれば可愛げがあるのだが、彼女にそれを期待するのは無駄かもしれない。
 十秒経過。
 サユリは、昇降口に向かって歩き出してしまった。
「え」
 どうやら、日傘は僕にくれてしまうらしい。
 マジで? この日傘、めっちゃ高そうなのに。母さんが普段使っているような二束三文の品とは明らかに質が違うのに。
「ちょっと待ちなされよ」
 と、去りゆく背中に呼びかけると、足を止めて振り返る。
 ……こういうところは妙に素直なんだよな。
 日傘をくるくると回しながら、相手の出方を待つが動きはなく、ただ時間だけが消費されていく。
 次第に、ガマンならなくなってきた。
 こうして太陽光にさらされているサユリを見ていると、背負っている薪に火がついたような、ジリジリとした焦燥感にかられた。
 たとえるなら、夏空のもとに雪だるまをさらすようなハラハラ感とでもいいましょうか。溶けちゃう、溶けちゃう! って思わず叫びたくなるみたいな……。

592『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:11:13 ID:SPiaZ2nU
 なので、おとなしく返すことにした。
 奪ったものを素直にリターンしてしまうのは悪童の名折れのような気がしないでもなかったが、悪事をすぐに正せるのは、とても勇気のいることだと思わないかい?
 たぶん、サユリの中での僕に対する好感度は爆上がり中だろう。おお、自分で火をつけて、消火をするとは。マッチポンプ、マッチポンプ。
「それにしても、相変わらず暑苦しい恰好をしているな」
 彼女の姿を見て、思わずそんな呟きが漏れる。
 黒い薄手のブラウスに、黒のロングスカート。ついでに返却した日傘も黒。すべてが黒だった。着用している服自体は夏仕様だが、いかんせん色合いが悪い。
「この前、理科の授業でやったろ? 黒い紙に向かって、虫メガネで光を集めるとどうなった?」
 頭上を指さし、
「あの燦燦と輝く太陽を見てみんさい。そんな服着てると、お前さんも黒焦げにされちまうぜ」
 サユリはいつも黒い服を着ていた。春夏秋冬、季節を問わずぜーんぶ黒。オシャレなのか、オシャレじゃないのか、それすらわからなくなってくる。
「宗教上の理由とかじゃないってんなら、たまには違う色の服でも着てみたらどうだ。夏に合う、爽やかな色のやつとか。そっちの方が、見てる側としては涼しくていいんだがな」
 サユリは黒のブラウスに視線を落とし、胸のあたりを指で摘まんでいた。
 そして、こちらを見た。返事はなかった。
 どうやら、僕の提案は響かなかったらしい。
 ショートボブの銀髪を揺らし、昇降口に向かって歩き始めた。
 黒い日傘をさして、黒い衣服を身にまとって、白い太陽のもとで。

593『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:11:54 ID:SPiaZ2nU
「避けられているよなぁ……」
 教壇に上半身をだらーっと乗せ、ポツリと呟く。
 一番前の席を陣取り、予習をしていた近藤くんが微かに顎を上げる。
 彼の長い身体には下級生の机はやや窮屈みたいで、ヒザをぴったりとくっつけているから内股気味になっていた。
「まあ、避けられもするでしょう。朱に交われば赤くなるという言葉があるように、阿呆に交われば阿呆になりかねませんからね。みんな、その点をよく理解しているのでしょう」
「いや、僕のことじゃなくてね」
 ていうか、僕への言い草が酷すぎる。
「アイツだよ、アイツ。教室の隅っこで孤島を形成しているアイツだよ」
 顎を振って指し示すと、彼はわずかに首を後方へ傾けた。
 孤島という比喩は的確だと思う。
 サユリの周囲には、誰も座っていなかった。なるべく前方の席に座るように、という夏期講習のルールも手伝っているのだろうが、廊下側の後方の席はちらほら埋まっているところを見ると、おそらくそれだけが原因じゃない。
 みんな、氷の女王が恐ろしいのだ。
 彼女にまつわる噂は、学校中に広まっている。
 ――いわく、氷の女王の御眼鏡に適わなかった生徒は、学校を退学となり、一族郎党が生涯路頭に迷う。
 第三者が聞いたら噴飯モノの、学校の七不思議レベルに信憑性の無い噂だけど、実際にサユリという人物に会ってみれば、その笑顔も凍り付き、考えを改めるだろう。
 彼女のまとうミステリアスなオーラ、それに地元の名士の娘というバックボーン。
 この二つを考慮に入れると、あながちただの噂と切り捨てられないものがある。僕だって、一時期は本当のことだと思ってガタガタ震えていたしね。
 なら、関わりのない生徒がどう思うかだなんて明白なわけで。
 ほら、教室内の様子を見てごらんなさい。
 隠れ蓑をつくる術を十分に身に付けていない低学年の子たちは、特に露骨だった。足音を聞くだけで蜘蛛の子を散らすように逃げ出すし、そばを通れば小動物のように身を寄せ合ってガタガタと震えている。
 一見すると、和気あいあいとした雰囲気であるが、その端々にひりつくような緊張感があった。
「その辺、どう考えますかクラス委員長」
 若干の皮肉を交えて訊いてみるが、近藤くんはノートに数式を書き付けながら「別に、いいんじゃないですか」と短く述べた。
 意外な回答に、虚を突かれる。
 僕は教壇から上半身を上げ、アシカのような姿勢になって訊く。
「驚いた。近藤くんがそんなことを言うだなんて。自由・平等・博愛の委員長魂は失ってしまったのかい?」
 失ってませんよ、としっかり否定してから、
「だって、彼女は望んで独りになっているじゃないですか」
 至極、当然のように断言した。

594『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/20(水) 22:12:21 ID:SPiaZ2nU
 咄嗟に何か言い返そうとしたが、うまく言葉がでてこなくて、息を吐くだけで終える。
 ジャージ先生が到着しない教室は、ワイワイガヤガヤと騒がしく、僕らの話に耳を傾けている者はいなかった。しかし、近藤くんはわずかに声を落とし、
「○○くんだって、わかっているでしょう? 彼女が誰とも関わろうとしないのは」
「……どうでっしゃろ」
 ここで肯定してしまえば話が終わるので、反論をひとつ挟む。
「内心は違うのかも」
「つまり、本当はみんなと仲良くなりたいと思っているけれど、単にその一歩を踏み出すことができない。そういうことですか」
 首肯する。
「それはありえませんよ」
 近藤くんは容赦なく一蹴した。
「仮に、〇〇くんが言ったことが事実だとしたら、少なくとも態度には出ているはずでしょう。クラスメイトの交わす会話を羨まし気に見たりとか、輪の中に入ろうとするも後ずさったりとか。でも、彼女にそんな素振りは一切ない。むしろ、独りでいることが好ましいようです」
「僕らが気づかないだけかも。なんせ、あのポーカーフェイスだぜ。中がグツグツ煮えたぎっていても、蓋がしっかり閉まってちゃわからない」
「だったら理解してもらえるように努力すべきですよ」
 熱が入ってきたのか、声のボリュームが一目盛増える。
「ツバメの子のように、ただ口さえ開けて待っていればエサが降ってくるとでも? それは虫が良すぎますよ。周囲の人にわかってもらえないのなら、わかってもらうように努力すべきなんです。たとえ不格好であっても、みじめであっても、こちらに歩み寄る姿勢さえ見せてくれるのなら、違った結果が生まれるかもしれない」
 ついに机の上にペンを置いて、教師のような瞳をして僕を見る。
「でも、彼女は何もしない。誰とも関わろうともしない。つまり、独りでいたいってことなんです。単に孤独が好きなのか、それとも他人が嫌いなのか、それはわかりませんが、今の状況が、彼女にとって最も望ましいということだけは確かです。そんな人を、無理やり集団の中に引っ張り込むだなんて真似は、暴力と変わらない。違いますか?」
 やや乱れた呼吸を一度整えて、眼鏡のうえにかかった前髪を払った。妙に静かな感情を瞳にたずさえ、ノートに視線を落としている。
 近藤くんの言うことは正論だった。
 歯に衣着せぬ冷たい物言いだったが、サユリのことを気づかっての発言であることはよくわかった。だからこそ、ベトベトした嫌みな感じはなく、正しい説教を受けた時のような心地よい爽快感があった。
 だけど、僕は。
「〇〇くんが何を考えているのか大体わかりますが、あまりオススメはしませんよ。下手すれば、今後百年、恨まれるかもしれない」
「百年は嫌だなぁ」
 せめて、一ヶ月くらいにしてもらいたい。
 近藤くんは勉強を再開させた。
 僕も席に戻った。
 隣の席のサユリは、今日も窓の外を見ていた。教室の様子にも、夏期講習に参加している生徒のことにも、全く興味がないようだった。
 僕は、そんな彼女の横顔を見て、ため息をつくのであった。

595 ◆lSx6T.AFVo:2019/11/20(水) 22:14:45 ID:SPiaZ2nU
投稿終わります。
第六話はそう時間がかからずに投稿できると思いますので、よろしくお願いします。

596 ◆lSx6T.AFVo:2019/11/25(月) 17:18:49 ID:OOhfG3XA
『彼女にNOと言わせる方法』第六話を投稿します。

597『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:19:14 ID:OOhfG3XA
 どうするべきなのか。
 窓側の長いカーテンにくるくるとくるまりながら考える。
 余計なおせっかいは慎んだ方がよい、という近藤くんのアドバイスに従えば、僕は何もしない方がいいらしい。
 現に、今も独りで黙々と勉強しているサユリを見ていると、このままそっとしておいた方がベストなのかも、とも思ってしまう。
 が、僕の心は「解せないぜ!」と声を上げているから、ややこしい。
 独りよがりのエゴイズムだと言われちゃ、まさにその通りなので何も言えないが、
「むむむむ」
 さらに身体を回転させ、カーテンの中にすっぽり身を包む。
 教室のカーテンは、家のよりも長くて素敵だ。こうしてくるまっていると、とても落ち着く。視聴覚室にある、暗幕のように分厚くて黒いカーテンはもっと素敵だ。ちょっとほこりっぽくて、くしゃみが出るが、それも味があっていいだろう。
 ただ、夏場とは相性が悪い。
 すぐに蒸し暑くなって、ぷはっと顔だけを出す。
 カーテンのミノムシになったまま、サユリの席にまで近づき、机の上に広げてあるテキストをのぞき込む。
 どうやら算数をやっているらしいが、どの学年の範囲をやっているのかはわからなかった。グラフやら図形やらがあるのはわかるが、すぐに頭が痛くなってきた。算数によるPTSDは重いみたいだ……。
 サユリ、と声をかけると、鉛筆を動かす手が止まった。銀色のショートボブを揺らし、僕を見上げる。
「お前さんもさ、内心では、みんなと仲良くなりたいって思ってたりする?」
 面倒なので、直接訊くことにした。これでYESと言えば動くし、NOと言えば動かない。単純明快な解決方法であった。
 でも、返答がないケースについては想定していなかった。
「おい、無視するなって」
 カーテンから抜け出して、テキストとノートを取り上げる。
 やるべきことを失ったサユリは、電源を落とされたロボットみたいに停止した。
 奪われたノートとテキストに向かって、指先を伸ばすことすらなかった。それどころか、略奪者である僕にも興味を示さず、挙げ句の果てには窓の外に目を向けてしまった。
 無関心を示すことで無言の非難を表明しているのではなく、単に全てがどうでもよくなったみたいに。
 その態度に、途方もない危惧を感じる。
 サユリは、間違った方向に完成されつつあるのではないか。
 以前は、もうちょっと感情が豊かだった。注視しなければ捉えられない、微細な感情ではあったけど、日常の端々で時折、発露する時があった。
 でも、今はその断片すら確認できない。
 まるで熱を感じない。
 氷。
 存在感は有り余るほどあるのに、中身が比例していない。スカスカだ。感情を虫に食われたせいで、穴ぼこだらけになっているみたいだ。
 装着している鉄仮面の下に、本音が隠されているならまだいい。でも、その下に何もなかったら、奈落のような暗い空洞しかなかったら。

598『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:20:16 ID:OOhfG3XA
 生唾を飲み込む。
 なんでもいいからアクションを起こして、関心を注ごうと思った。
 彼女の視界の中に入り込むため、立ち位置をずらす。
 そして、整った顔の中にある双眸、艶消しを施したかのように色彩を失っている瞳を見て――天啓を得たかのように、理解した。
 サユリは、何事にも無関心なのだ。
 今日の朝、日傘を奪った時もそうだ。今まさに、テキストとノートを奪った時もそうだ。
 普通、自分の所有物が誰かによって奪われたのなら、怒る。
 当然だ。
 そもそも所有しているということは、自分にとってそれが価値のあるものだからだ。反して、たとえば道端に転がっている石が側溝に落ちてしまっても何も感じないだろう。だって、その辺の石ころなんて何の価値もないし、たまたまそれを所有していて、失ったとしても、何の痛痒も感じない。
 だって、どうでもいいから。
 が、それはあくまでモノの話だ。意思も感情もない、物体の話だ。それならまだ、ギリギリ理解できる。
 けど、仮に、それ以上の存在になってくるならば、僕はもう理解ができない。理解できたとしても恐怖しか抱けない。
 銀色の少女が、急に遠くなる。
 彼岸に立つ彼女が、光の速さで遠ざかっていくような錯覚に襲われる。
 僕はずっと、サユリを無欲の人だと思っていた。
 彼女の達観した態度も、寛容な施しも、その欲の無さから生じるものだと思っていた。しかし、壮大な勘違いをしていた。話はもっと、甚大だったのだ。
 解決すべきなのは、もっと根本的なものではないのか。
 再考する。
 が、どこから手をつけていいのか皆目見当がつかない。取り扱う問題が膨大すぎて道筋すら立てられない。
 いや、解決の方法自体はわかっているのだ。
 サユリを変える方法は、たったひとつしかない。
 これだけは譲れない、絶対に譲ってたまるか。そう思えるものを、たったひとつでも見つけることができたのならば、彼女は劇的に変化する。
 断言してもいい。何かに対する執着心さえ復活すれば、彼女の中で、火山が噴火するような莫大なエネルギーが生じるはずだ。
 けれど、
 ――無理だ。
 瞬時に悟る。
 ――それは無理だ。
 選択肢としてあがってくることすらない。人形に命の灯をともすようなものだ。無論、サユリは人形じゃない。それは、僕が一番よく知っている。だけど、
 ――それでも無理だ。
「コラ、〇〇! イタズラをするんじゃない!」
 ジャージ先生の注意で我にかえる。
 ノートとテキストを返すと、緩慢な動きで勉強を再開させた。まるで、背中のネジを回して動き始めるカラクリ人形のようだった。
 僕は、苦々しく下唇を噛んで、それを見ていた。

599『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:21:19 ID:OOhfG3XA
「いい感じですね」
 採点を終えると、近藤くんは満足そうにうなずいた。
「思いのほか、順調なペースで進んでいるじゃないですか。この調子を保てるのなら、夏期講習の終盤には高学年向けのプリントにまで辿り着けるでしょう」
 ふふん、と僕は誇らしげに鼻を鳴らす。
「ま、僕が本気を出せばこんなもんですよ。能ある鷹は爪を隠すっていうでしょ?」
「爪を隠す意味が、一ミクロンも理解できない」
「……眠れる獅子が目覚めたってことにしておいてくれ」
 とまあ、軽口でサラッと流しはしたが、達成感で気が昂っているのは事実だった。
 低学年向けのプリントなので、ある程度はクリアして当然なんだけれど、それでもやっぱり『できる』というのは嬉しかった。この『できる』という感覚を、僕は久しく忘れていた気がする。
「その感覚を、忘れないでいてくださいね」
 優しく微笑んだ近藤くんを見て、彼の意図を全て悟った。
 できない子にまず成功体験させるのは、教育の王道である。
 ……なーる。僕の反対を押し切って、一年生用のプリントからやらせたのはそういうことか。
 釈迦の掌の上を飛び回る孫悟空のような気がして、ちょっとだけ気分が良くなかったけど、それ以上に、クラス委員長らしい心意気に感謝する気持ちが勝っていた。
 やっぱり、いいヤツなんだなぁ近藤くん。
 あと、二億光年ぶりくらいに笑顔を向けられたからマジで驚いた。いつもマイナスの感情ばっかりぶつけられていたから、警戒心がマシマシになっちまったぜ。ふぅ、幸運を呼ぶ壺のセールストークとか始まらなくてよかった。
 なんて会話をしている間に、結構いい時間になってしまった。昼休みは、もう半分に差し掛かっている。
「もう中庭に行くのは難しいかなぁ」
「今度からは一人で行ってくださいよ。わざわざ中庭まで行くのは移動時間がもったいない」
「そう言いなさんなよぉ。明日からもしっかり付き合っておくれよぉ」
「お断りします。それに……先ほども述べたように、あまり彼女に関わるべきじゃないですよ。ぼ……おれたちが勝手に同席したら、貴重な昼休みに水を差すことになりますし」
 口ではそう言っているが、結果として仲間はずれにしている後ろめたさがあるのか、どうも歯切れが悪かった。
 ……というか、そろそろツッコミしていい頃だよな。
「あのさ、近藤くん」
「はい」
「ずっと前から指摘しようと思っていたけどさ、その無理に『おれ』っていうのやめた方がいいと思うよ」

600『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:22:19 ID:OOhfG3XA
 固まった。
 額から、急に滝のような汗が流れ始めた。
 ずれていないメガネを何度も直し始めた。
「なななななな、なにを言っているんですか〇〇くん、ぼ、お、おれは前からおれを、おれのことをおれって呼んでいましたよ」
「おれがゲシュタルト崩壊を起こしている……いやいやいや、春ごろまでは一人称『ぼく』だったじゃん。いきなりおれなんて自称し始めたから違和感すごかったよ。それに、近藤くんのいう『おれ』って『れ』の部分が半音上がっているから、言い慣れてない感がバリバリ出てるんだよね。バニラオレのオレみたいな発音になっててさ」
「ほ、本当ですか……」
 もうほとんど尻尾を出してしまっているが、あえて踏まずにいてやろう。
「なぜに、一人称を変えだしたのよ。ぼくでもいいじゃん。僕なんかいっつも僕って呼んでるぜ」
「〇〇くんは、いいじゃないですか。一人称が僕でも、周りから低く見られたりしませんし……」
「低く? 低くって、何がさ」
「男として、ですよ」
 場所を変えたがっているような様子を見せたので、互いに弁当袋を持って、隣の空き教室に移動した。
 そして椅子に座ると、就職面接のような佇まいで、きっちりと背筋を伸ばし、ヒザの上に拳を乗せた。
「クラスの皆さん……特に男子の皆さんがそうですが、おれのことを勉強しかできない、もやしっ子みたいに見ているじゃないですか」
「見ているも何も、実際にその通りじゃない。夏休み前の五十メートル走でも散々だったろう? 両手両足を一緒に出しながら走る人なんて初めて見たよ。人型ロボットの方が、もうちょっとスマートに走――」
「五十メートル走の話はやめてください!」
 七三の髪を振り乱し、僕の口を塞ごうと飛びかかってきたが、蝶のようにひらりと避ける。
 体勢を崩した近藤くんは、後ろ足で盛大に椅子を蹴り上げて、床に落ちていった。あわれなり。
「走る速さなんか気にするなって。それに近藤くんって背も高いし足も長いんだからさ、練習すればタイムも良くなるって」
「……足の速さだけが問題じゃないんですよ」
 近藤くんは四つん這いになったまま、床に向かって呟いた。
「重要なのは、男らしいかどうかなんです」
「男らしい?」
 何を言っているんだ、こやつは。
「別に、男らしくなくたっていいじゃないか。つーかさ、男らしいっていう考え自体がもう時代錯誤だよ。ほら、前に道徳の授業でやったでしょう? えーと、あれだよ、BBQ? だっけか」
「もしかしてLGBTのことを言っていますか」
「そうそうそれだよ。BLT。つまりさ、今の時代、男らしいとか女らしいとかって考え方はナンセンスなのさ。僕ら若い世代は、性的な役割に押しとどめようとする社会そのものを否定していかなくちゃ」
「どうして、こういう時に限って正論を言うのですか……」
 困り果ててしまったようで、力なくうなだれる。そのまま床に突っ伏しそうな勢いだった。
 僕は椅子から離れ、彼の肩をポンと優しく叩き、
「どうして、男らしくなりたいんだい」
 優しい声色で訊いてみる。
 一瞬で、彼の瞳が恥辱に燃え上がる。「殺すぞ……」とか呟いているのが聞こえたけど、品行方正なクラス委員長が剣呑なことを言うはずないから、おそらく空耳だろう。
 しかし、猛り狂った炎もすぐに鎮火し、あとは頼りなげな煙が燻っていた。

601『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:22:46 ID:OOhfG3XA
 近藤くんらしくない態度に、ちょっとだけ面食らう。
 彼は表立って喧伝することはないが、いつも静かな自信に満ちあふれていて、堂々と構えているのが常だった。どんな状況であっても取り乱すことなく冷静に対処し、必要とあらば教師とも敵対する勇気を兼ね備えている。
 それが、今はこんなにも頼りない。
 ……うーむ。
 どう助言したものか悩み、椅子に座りなおして、両腕を組んでうんうん唸っていると、
「……わかっていますよ、おれの考えが古臭いのも、的外れなことを言っているのも」
 片膝をつき、ゆっくりと身体を起こす。少しだけ、視線が高くなる。
「でも、おれは、男らしくないといけないんです」
「どうして」
「頼られたいんです。クラス委員長だから」
 激しく揺れ続けていた瞳が、すっと定まる。階段を数段飛ばしで駆け上ったかのように、急に大人びた雰囲気になった。
 その変わりようにあてられてか、今度は僕が姿勢を正す番になった。
 近藤くんに限らず、男子なら誰だって見下されるのは嫌だ。
 だからこそ、多かれ少なかれ自分を大きく見せようとするし、都合の悪い弱さには土をかけて見えにくくする。
 実際に、夏休み前の五十メートル走でタイムが芳しくなかった男子は口をそろえて不調の原因を吹聴した。
 昨日、下校中に転んでできた捻挫が治っていなかったせいだ、とか、お腹の調子が悪くて集中できなかったせいだ、とか、誰もかれもが、訊いてもいないのにペラペラと懇切丁寧に、上位に食い込めなかった裏話を打ち明けてくれた。
 別に、それが悪いことだとは思わない。
 世を渡り歩く技術としてはありふれたものだし、特に、最近は教室内を支配しつつある例の階層のせいで、下層者のレッテルを貼られまいと自らを誇示する必要に迫られている。僕だって、その点についてはクラスメイトたちと変わらなかった。
 そのような背景の中、近藤くんのタイムは惨憺たるものだった。
 自分より下を見つけて安堵した男子は嬉々として野次を飛ばしたし、女子も口に手を当てて「ダサいよね」と笑っていた。
 さすがの近藤くんも堪えたらしく、羞恥で頬を赤く染め、授業が終了した後もなかなか教室に帰らず、水道場の水でしばらく手を洗っていた。
 その時、僕は冷やかしのひとつでもしてやろうと、彼の背後にそろそろと近づいていたのだが、声をかける直前に、
「これが、おれの実力です」
 と呟いていたのが、やたらと印象に残っていた。
 あの五十メートル走で、自分の失態を誤魔化さずに、ありのままの真実として生身で受け止めたのは、おそらく近藤くんしかいなかった。
 でも、それは道理にかなっていたのだ。
 近藤くんが男らしくなりたいのは、僕たちのように虚栄心に基づくものではなく、みんなから頼られたいという異質な動機からであり、根底からして違っているのだから。
 だからこそ、カッコよかった。
 これが目指すべき大人の、ひとつの在り方なのかもしれない。
 なんて考えちゃうくらいにはカッコよかった。

602『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:23:46 ID:OOhfG3XA
「協力しようじゃないか」
 僕は椅子から立ち上がると、彼に向って手を差し伸べる。
「僕が、近藤くんを男にしてやる。男の中の男にしてやる。なあに、安心したまえ。僕の手にかかれば軟弱男子も益荒男に早変わりさ」
 もしジャージ先生がこの場にいたら、友情マックスなシーンに号泣して、ジャージの袖を涙で濡らしているところだろう。
 けども、
「えぇ……」
 近藤くんはマジで嫌そうにしていた。泣いて喜ばれるかと思っていたのに、ゴミ当番変わってくんない? って願い出された時くらいに嫌そうにしていた。
「か、考えてみなさいよ、近藤くん! 歴史を紐解いてみれば一目瞭然だけど、師なくして成り上がれた偉人はいるかね。未開拓の地をひとりで切り開くのと、巨人の肩に乗って進むのと、どっちが簡単に目的まで到達できるのかね」
「……たしかに効率的ではありますが」
 歯ぎしりをしながら、そして舌打ちを交えながら、顎に手を添えて思案し始める。
 ここまで熟考するとは……親と恋人でも人質にとられたわけでもあるまいに。
「真の男になりたければ、悪魔に魂を売れってことですね……」
「悪魔じゃないよ。クラスメイトだよ」
 僕のことをなんだと思っているんだ……。
 ダークヒーローアニメの第一話みたいになっている近藤くんは置いといて、
「あとさ、交換条件ってわけじゃないけど、僕にも協力してくれないかな」
「今朝、言っていたことですか」
「うん」
「オススメはしませんよ。それに、どうしてそう彼女にかまうのですか」
「僕さ、トマトが嫌いなんだよね」
「急になんですか」
「加工してあるケチャップとかは平気なんだけどさ、野菜の方はもう無理。赤くて丸い外見がおどろおどろしいし、変に酸っぱいし、中はグチュッとしてて食感が悪いしで、おもっきしダメなんだよね。たまに給食でもプチトマトが出るけどさ、いつも残しているんだ」
 ベーっとベロを出してみせる。
「でも、この前、家族でファミレスに行った時に、セットで頼んだハンバーグにサラダがついてて、その中にトマトがあったんだ。フォークでよけようとしたらさ、母さんにめちゃくちゃ煽られて、ついカッとなって食べてみたのよ。そしたらさ……意外と悪くなかったんだよね。そりゃ美味しくはなかったけどさ、添え物とかに出されたら食べてもいいかなと思えるくらいには悪くなかった。あんなに嫌いだったのに、どうしてだろうね」
 うまいことを言おうとしていたはずなのに、喋っているうちに道を見失ってしまった。僕は、このたとえ話に、何の意味を込めようとしていたのか。
「つまり、そういうことさ」
「どういうことですか」
 強引に話を打ち切ったせいで、うまく伝わらなかったみたい。

603『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:24:08 ID:OOhfG3XA
 だけど、まあいいや。
 とにかく、事実としてハッキリしているのは、僕が大した人間じゃないってこと。
 スーパーマンじゃないし、まして白馬の王子さまでもない、ただの悪ガキだってこと。
 元々、スタート地点を間違えていたのだ。
 身の丈に合ったことをすべきだったのに、サユリの人生そのものにまで関与しようとしたから、途中でボタンをかけ違えたのだ。
 まだ親に扶養されている子どもが、誰かさんの人生に頭を悩ますだなんて、笑えるくらい大層な話じゃないか。恥ずかしい限りだぜ。身の程を知れってもんだ。
 僕は、サユリを変えることはできない。
 されど、彼女にとって心地のいい環境をつくることはできるかもしれない。
 何も、サユリがみんなと仲良しこよしになって欲しいのではない。今よりも、ちょっとだけ彼女を見る目が優しくなればいいだけだ。ひいては、過度に疎外される現況がなくなれば、もっといい。
 彼女の孤高の純度を保っていられるような環境は、きっと誰にとっても素晴らしいものなのだ。
 それに、彼女は決して雲の上の人ではなく、平凡な点もたくさんある。苗字とかスゴイ平凡だしな。ついでに、サユリという名前も平凡だしな。あと平凡なところは……あれ? ない? ま、まあ、平凡という共通項さえあれば、あとはどうにでもなるだろう。うん。
 近藤くんは、ゆっくりと立ち上がった。僕の手を握ることはなく、自力で立ち上がった。
「先ほども言いましたが。おれは賛成しません」
 キッパリと宣言した。
「ですが、反対もしません」
 最終的に下した結論は、実に彼らしいものだった。
 頭のいい人ほど、自分の正しさに自信を持てない傾向にある。近藤くんも、サユリを遠巻きにしている現状を心の底からは肯定しきれないみたいだ。消極的な賛成には違いなかったが、これで十分だろう。
 紆余曲折あったが、遂に合意に達することができた。
 熱いシェイクハンドを交わすために、再度、ぐっと手を突き出すが、
「昼休みが終わってしまいますから」
 と淡々と述べ、転がっている椅子を戻して着席し、弁当袋の封を開け始めた。
 僕も向かいの席に座って、弁当袋の封を開け始めた。
「……近藤くんが優しいのか優しくないのか、どっちなのかわからなくなるよ」
 こちらを一瞥し、彼にしては珍しいタイプの笑みを浮かべて、一言だけ述べた。
「優しいのではなく、厳しいだけですよ。少なくとも、〇〇くんに対してはね」

604『彼女にNOと言わせる方法』:2019/11/25(月) 17:24:49 ID:OOhfG3XA
投稿終わります。

605雌豚のにおい@774人目:2019/12/01(日) 16:36:37 ID:7wmIWH7o
>>604
投稿ありがとうございます!
続きが気になりますね(´∀`)
またぜひ投稿して欲しいです!

606雌豚のにおい@774人目:2020/01/04(土) 15:17:44 ID:aKFulWyM
テスト

607高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:24:32 ID:aKFulWyM
第9話

秒針が時を刻む音、筆が文字を刻む音、それとしばしば震える携帯電話の着信音が僕の部屋で静かに奏でている。

正確には奏でているのを聞いてしまっている、集中していない証拠だ。

ここ最近では文化祭もいよいよ間近となり
放課後には非日常の賑わいで溢れてきている。

僕自身も看板製作をしていることもあり放課後の学校での執筆ができず少々おろそかになっていた。

だから「自分の中で溜まった不満を発散するように書きなぐる」という自分を遠くから予測する自分がいたのだが実のところそれほど不満も溜まっていなければ発散したいとも思ってはいなかった。

単なるモチベーションの低下なのかどうかは分かりかねるがおそらくそれも違うような気がする。

「…ふぅ」

ため息をひとつ吐いて筆を置きそろそろ彼女の相手をしようかと携帯電話に手を伸ばした時、来客の知らせが部屋に静かに届いた。

控えめなノック、珍しい来客だ。

「入ってもいい?」

「どうぞ」

お盆を片手にした義母がゆっくりと部屋に入ってきた。

「お隣さんからね、美味しいくず餅をいただいたの。お茶も入れてきたからどうぞ」

「ありがとう義母さん。ちょうど一息入れようと思っていたところなんだ」

「そう、ならよかったわ」

義母からお盆ごとお茶とくず餅を受け取る。

その間にも僕の携帯が震える。

「随分とひっきりなしに連絡が来るわね。時期が時期だから文化祭の連絡か何かかしら?」

その通りだ、と誤魔化すことも考えたがわざわざ隠す意味も必要もないと思ったので僕は素直に彼女について話すことにした。

「義母さん」

「ん?」

「僕、その…彼女ができたんだ」

たったそれだけのことを伝えるだけなのに気恥ずかしさで体温が上昇するのがわかる。

「あら!もしかしてこの前に言ってた子?」

「うん…高嶺 華っていう子なんだ」

すると義母さんは目を見開いて両の手の指先を合わせ歓喜とも呼べる感情を表現した。

「おめでとう、遍くん!どっちから告白したの?」

「えっと…一応向こうからかな」

告白と呼ぶにはあまりにも激しいものではあったのだが。

「そう良かったわね…もし機会があったら会ってみたいな。それじゃあもしかしてさっきから連絡来てるのは華ちゃんからかな?」

「多分、というよりかは間違いなくそうだと思う」

「随分頻繁に連絡きて…愛されてるわねぇ」

茶化すような口調で僕をからかう。

「からかうのはよしておくれよ。かなり今羞恥で頭がいっぱいいっぱいなんだ」

「あら恥ずかしがることなんてないのに。でもごめんなさい、つい嬉しくなってね」

「僕に彼女が出来て嬉しいのかい?」

「嬉しいに決まってるじゃない。子供に恋人が出来て喜ばない親なんていないわ」

608高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:25:31 ID:aKFulWyM
それにしても、と義母は付け足す。

「そんなに頻繁に連絡するのであればメールじゃ少し不便じゃないかしら。そろそろ遍くんもガラケーからスマホに変えてラインとか始めてみたらどう?」

ライン。

知らないだけで驚くほど驚かれたもの。

どうやら連絡手段の一つであることは分かったのだが。

「そう…かな。ラインってそんなに便利なものかな?」

「えぇ、そんなにメッセージが来るなら尚更よ。その携帯も使い始めて長いことだしそろそろ変えてきなさいな」

「義母さんがそう言うのであれば変えてみようかな。次の日曜日に一緒に買いに行くような感じでいいかな?」

義母は小さく笑った後、人差し指で僕の額を一度つつく。

「ダメよ遍くん。そういうのは私じゃなくて他に言う人がいるんじゃないの?」

「他の人?」

「ふふ鈍いわねぇ、彼女をデートに誘いなさいって私は言ったのよ」

「あっ…」

「お金なら心配しなくていいわ、後で渡してあげるから」

余分にね、と最後に加えながら義母は言った。


「さて、そろそろ私は出ましょうかね。遍くんが彼女の相手しないと向こうもいつ愛想つかすか分からないもの」

「ははは、ありがとう義母さん」

「いいのよ、ってそうだ。忘れるところだったわ」

急に何かを思い出したかのように一枚の用紙を僕に手渡してきた。

「なんだいこれは?」

「八文社がね、小説の公募をしてたから一応遍くんにも教えてあげようと思ってね」

内容を見てみると「ジャンルは問わない短編小説を募集」との旨の公募が書かれていた。

「八分社のホームページに載っていたんだけどね、遍くんインターネットとか疎いからもしかしたらこういうのも知らないんじゃないのかなーって思ってね」

なるほど確かにそうだ。

今はもう情報社会、文学の公募だってインターネットで行われるであろう。

義母の指摘通り、自分自身そういったインターネット等の類は苦手としていたからこのような公募を見落としていたわけだ。

「遍くん、もし本気で小説家への道を考えているんだったらまずはこういったことから挑戦していくべきなんじゃないかしら?…なんてお節介が過ぎたかな」

自嘲気味に笑みを浮かべる。

「ううん、助かったよ。義母さんの言う通りどうも僕はこういった情報収集が苦手だったからね」

「あまり苦手なことは咎めないけれどインターネット社会になってきてるから苦手が苦手なままだとこれから少し苦労すると思うわよ」

「…そうだね、克服の第一歩としてまずは華と携帯を買ってくるよ」

「そうね、それがいいと思うわ。じゃあ遍くん、頑張ってね」

「ありがとう、義母さん」

義母が部屋からでると僕はたった今まで書いていたノートを閉じ、机の中から原稿用紙を取り出した。

八文社の短編小説の公募。

一つ大きな目標ができた僕は先程まで燻っていたやる気が焚き火のように燃え上がるような感覚が湧いてきた。

「…よし」

結局その日彼女の連絡の返事を疎かにしてまでできた結果は8つほど丸められた原稿用紙だけだった。

609高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:27:39 ID:aKFulWyM
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「はいっ、あ〜〜ん」

「あ、あーん…」

甘い。

そう、甘い。so sweet

甘すぎる。

甘ったるいのが口の中に入れられたケーキなのかはたまた可憐な少女が僕の口の中にケーキを入れるという行為なのかは分かりかねる。

あるいは両方なのかもしれない。

「あなたたち、この間とは随分と変わった関係になったんじゃない?」
カタリ、と陽子さんは横から珈琲を机の上に乗せた。

いよいよ文化祭が1週間後に迫るという週末に僕と華は『歩絵夢』に訪れていた。

「えへへ、やっぱり分かっちゃうかなぁ」

「分かっちゃうもなにもバレバレよ。しかし随分小さい頃から華ちゃんを見てきてどんな男の子が恋人になるかと思ってたけど不知火くんみたいな男の子だとはねぇ」

「…ははは、僕なんかで恐縮です」

なんとも言えない居心地の悪さに乾いた笑いをすると、華からデコピンが飛んできた。

額に鈍痛が走る。

「またそーやって、自分のこと悪くゆうー」

「いたた、僕そんなこと言ったかい?」

「ゆったよ!『僕なんか』って」

「そういうつもりではなかったのだけれど無意識に出てしまったから性分ということで許してはくれないかな」

「いやよ。いくら遍でも私の好きな人の悪口は許さないんだから」

「あーあ見せつけてくれちゃって」

少々呆れたような表情で陽子さんはこちらを眺める。

「この子絶対モテるくせに男の影1つも見せないんだから。正直この間不知火くんを連れてくるまでレズかもしれないと思ってたくらいよ」

「え?僕が初めての男子だったんですか?」

「そうよ。だから私華ちゃんが男の子を連れてきたから嬉しかったのよ?」

「い、意外ですねぇ」

男子で初めて連れてこれたことが分かり口角が上がりそうになるのを珈琲を口にして抑える。

「なぁーに?不知火くんまだ私のこと尻軽女だと思ってるの?」

「ご、誤解だ。それは誤解だってば。そんなことは寸分にも思っていないさ」

「つまりあの時から脈アリだったってワケね」

「よ、陽子さんは小さい頃から華を幼い頃から知っていると言ってましたけどお二人はどのくらいのお付き合いをしてるんですか?」

なんとも居心地の悪い空気になり始めたので話題を変えなくてはと意識を働かせる。

「んー、元々この子の両親が常連さんでね。初めて来たときはこの子が小学生高学年くらいだったかな。中学生になる頃にはもう一人でよく来てたわ」

「凄いですね。僕が中学生の頃はただただ本を読んでただけですよ」

「凄い…ね。でも遍くん、女子中学生が一人で喫茶店に通うのは凄いっていうんじゃなくてませてるっていうのよ」

すると華はまるで心外だと言わんばかりに目を見開いた。

「ひっどーい陽子さん!そんなこと思ってたの!?」

そんな様子の華を陽子さんは余裕の笑みで返す。

「ふふん、確かにあなたは可愛いけど私から見たらまだまだ子供ってことなのよ。これからもどんどん自分磨かないと遍くん目移りしちゃうかもよ?」

その余裕の笑みはどうやら僕にも向けられ始めたらしい。

「いやいやまさか、むしろ愛想尽かされるのは僕の方…」

口に出してからしまったと思った。

再三注意されているのにも関わらずもはや癖となってしまっている自虐はどうにも無意識のうちに出てしまった。

これはまた咎められると恐る恐る華の様子を見る。

「…さない」

「え?」

「遍は渡さない、そう言ったのよ。誰だろうと関係ないよ」

瞬間やや驚いたような表情を浮かべた陽子さんだったが一旦目を伏せ、ため息を一つ吐いた。

「…いい華ちゃん?遍くんも。あのね、束縛っていうのはしすぎてもしなさすぎてもどちらとも問題なものなのよ。さっきから薄々感じてたけど華ちゃんは前者だし遍くんは後者。良い塩梅っていうのがあるんだからお互い直していきなさいよ。これはあなたたち二人のためを思っていっているんだからね」

610高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:28:38 ID:aKFulWyM
後は二人で話してみなさいと残し陽子さんは踵を翻し厨房へと戻っていった。

「…遍は私のことどう思ってるの?」

それは勿論

「好きだよ」

自分が思っているよりもすんなりと口から出たその言葉に自分自身が驚いた。

「私もね…遍が好き。でもきっと私の好きと遍の好きは違う」

彼女は僕ではないどこかを空虚な目で見つめながら僕へと告げてゆく。

「遍に触れたい。遍を抱きたい、抱きしめたい。遍とキスしたいし、その先だってそう。ううん、もういっそのこと遍を食べたいし、遍をこ…」

彼女は何かを言いかけた口を一旦閉じてまた開き直した。

「…とにかくそれぐらい好きなの、愛してるの。もうどうにかなっちゃいそう」

彼女はほんの少し寂しそうな笑いをしてもう一度僕に問うた。

「ねぇ、遍。私のこと"好き"?」

そして僕は同じ言葉をもう一度すんなり出すことはできなかった。

「…華はさ、どうして僕のことを好きになったんだい?君は以前言っていたよね、優しい人、かっこいい人はいくらでもいる、と。確かに僕よりかっこいい人はもとより僕より優しい人だっている。僕が特段優しい人間だと自負するつもりはないんだけどね。彼らではなく僕である理由がわからないんだ」

「…何度も何度も伝えてるつもりなんだけどなぁ。遍は私から愛されてる理由が欲しいんだね」

「理由…か。結局僕の人生で積み上げて来たものに自信がないんだろうね。だからこうして理由を求めているのかもしれない。不知火遍ってそういう弱い男なんだ」

なんとも情けない笑みを浮かべるしかない。

「じゃあはっきりと答えてあげる。私が遍を愛してる理由なんてないよ」

どうやら僕は求めていた答えにたどり着けないみたいだ。

喉から伸ばした手を舌の根に引っ込める僕を見て彼女はクスリと笑った。

「…遍、余計に私が分からなくなったって顔してるね。そうだよ、愛してる理由なんてない。ううん、理由がないから愛してるんだよ。好きな所を言えって言われたらいくらでも言ってあげるけど好きな所がなんで好きなのって聞くのってすごく野暮じゃない?だって好きなんだもの。これは頭で考えることじゃなくて思いがあふれるものなんだから」

彼女は一旦紅茶に口をつける。

「じゃあ聞いてあげる。遍はなんで本が好きなの?」

思ってもみない質問だった。

「えっ…と、本を読むことで小説の中の世界を体感できるから、か…な」

「小説の中の世界が体感できるから本が好きになったの?」

そう言われると違うような気もする。

「遍それはね、遍にとって本の好きなところの一つであって遍が本が好きな理由ではないんだよ」

「そういうことに…なるのかな」

「ふふ、ほら、理由なんていらないじゃない。好きなものがなぜ好きかなんて。だって好きなんだもの。心がそう想っているの。遍を愛してるっていう気持ちはもう私の本能だよ」

「きっと遍は私のことを好きなところをいちいち理由をつけてるんだよ。アハハ、いいの大丈夫」

彼女はそっと席を立ち上がりそのまま僕の隣へと座りこう囁いた。

「理屈じゃない、本能で好きになるってこと、これからたっぷりと時間をかけて教えてあげる」

背筋を貫かれる、普段の明るい彼女からは想像も出来ないその底冷えするその声に。

「さっ、ケータイショップに行こっか。遍がガラケーからスマホに変えてくれるんだもんねっ。ラインの使い方とか教えたいし、せっかくのデートだもん。行きたいとこ山ほどあるんだから」

611高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:29:44 ID:aKFulWyM
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「すごいや。僕のこの手には人類が積み重ねてきた研鑽の賜物が握り締められているんだね」

「あはは、大袈裟だなぁ遍は、ただのスマホだよ?」

「いやいや、いざ手にしてみると人類の進歩というのが文字通り肌から感じるよ」

「ああもう、いちいち反応が愛おしいなぁ」

「…あまりそうやって直情的に想いを伝えられると歯が浮くような気分になるなぁ」

「だって遍、こうやって伝えないとまだまだ分かってくれないみたいだからね、私の気持ち」

「…僕も努力するよ、華に愛想を尽かされてしまわないようにね」

「はいダメ〜。私が愛想尽かすことがありうるって考えてる時点ダメだよ、遍。うんでもいいの、今は。そういうのは愛する妻…じゃなくて恋人である私が教えて、支えて、染めてあげる」

腕を後ろで組み、余裕のある笑みでそう宣言される。

「さ、まだお昼すぎだもんね。どこ行こっか?」

「さっき行きたいところは山ほどあるって行ってたよね。華はどこか行きたいところがあるんじゃあないのかい?」

「私?私は遍と一緒ならどこでもいいよ。たしかに色んなところに行きたいんだけど遍と一緒ならどこでもいいかなぁって思っちゃうんだよね、えへへ」

まいったな、そう思わざるを得ない。

義母に言われた通りに華をデートに誘うまでは良かったが、肝心の何をするかをあまり考えていなかった。

己の計画性のなさを少々呪ってしまう。

「ごめんね、せっかく華を誘ったのに考え無しだった」

「んーん。いいの遍と一緒に居られるだけで私は幸せだから。遍はどこか行きたい場所とかある?」

行きたい場所というと本屋だが、デートに行くしてはいかがなものかと考えてしまう。

公募の短編小説の参考にするために、様々な文学に触れておきたいのだが、きっと僕は一人で読み更けてしまうし彼女は待ちぼうけてしまうだろう。

「…行きたい所…あっ…」

あるではないか、文学も学べてかつデートにも最適な場所が。

「どっか思い当たった?」

「華、映画に行こうか」

「わぁ…映画かぁ…いいねぇ。デートみたい!」

「…みたいというか僕はもとよりそのつもりなんだけどな…」

少々照れ臭くなり、頰を二、三度掻いてしまう。

「ふふ、そーでしたっ。それじゃあ映画館にいこっか」

「提案しておいて申し訳ないんだけれども、僕あんまり映画館とか行かないから場所が分からないんだ」

「もう、しょうがないなぁ〜」

絹のように柔らかな肌触りが指先に伝わる。

彼女の右手と僕の左手が重なり、そして熱を帯びていく。

「私が連れて行ってあげる。まかせて、場所わかるから」

「あ…うん」

どうしても彼女と結ばれた先が気になってしまい情けない返事しかできなかった。

「そうと決まれば善は急げだね。早く着けば見れる映画の種類が増えるかもしれないしね」

彼女が思いを馳せるように映画館へと駆けていく。

そしてそれに釣られれるように僕の左手から自然と駆け足になる。

少しずつ、少しずつ。彼女と並行するように歩みを進める。

やがて並行となった僕らは銀杏が香るイチョウ並木と残暑が過ぎ去りすっかり秋となった空気を通り抜けて行く。

木々を抜け、道を抜け、街を抜け。

そうやって僕らが映画館に着く頃には季節外れの汗にまみれ、秋風がひやりと首筋を撫でていく。

612高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:30:53 ID:aKFulWyM
「はぁ…はぁ…ふぅ、さて。今は何が上映中かなぁ」

息を整え、映画館の中へと踏み入れていく。

「普段僕は映画なんて見ないからどんなのをやってるかわかんないや」

「んー、友達とかから評判良かったのが確か2つくらいあった気がするん…ああー!!!」

突然、華が大きな声を出してしまったがために僕はびっくりしてしまった。

「わ、どうしたんだい」

「その2つともちょうど10分前に始まっちゃってるよぉ」

「それは…、」

なんとも悲運。

かえって走ってきた分、余計に損した気分になってしまう。

「どうしよう〜、冒頭見逃しちゃったけどまだ見れるかな。それとも別のやつを見る?」

「冒頭を逃してしまうとどうにも世界観に入り込み辛いよね。いまから見れそうなのは他に何があるかな?」

「あれとあれだね」

彼女は館内にある電光掲示板を指を指す。

ひとつは邦画、もうひとつはどうやら洋画のようだ。

「遍はどっちが見たい?」

「僕は…」

邦画の題名にちらと目をやる。

『夢少女』

見覚えのある題名だった。

「そうだ、池田秋信の原作の映画だ」

「池田秋信?」

「そっか、本の虫以外にはあまり知られない名前かもね。僕の好きな作家なんだ」

「ふぅん、他にはどんな本を書いているの」

「『王殺し』とか『顔が消えた世界で』とか書いてる人なんだけど、たぶん知らないよね」

「わかんないや、ごめんね…。んーっと、それじゃああの『夢少女』を見る?あ、それともひょっとして遍は原作読んでたりする?」

「いや好きな作家とか言っておいて恥ずかしいんだけれどもまだいくつか見てない作品があるんだ。『夢少女』もそのひとつだよ」

「じゃあそれ見よっか!」

「いいのかい?僕がいうのもあれだけど原作者は少し癖があると思うよ」

「いいの!遍が好きなものを私見てみたい!」

「それじゃあ、『夢少女』を見ようか」

僕ら二人で券売機の前まで行き、扱いがわかっていない僕に華が一つ一つ買い方を教えてくれる。

(映画館なんて久しぶりだなぁ)

綾音と出かける時もあまり映画館に来た覚えはないように思える。

きっとこの可憐な少女に出会わなければ今頃、部屋に篭っては駄文を書き続けていただろうな。

ふと目を離した隙に、華はなにやら抱えていた。

「えへへ、ポップコーン買ってきちゃった!一緒に食べよ?」

「あはは、買いすぎだよ華」

「いやいや、絶対二人なら食べきれるよ!」

原作者が僕の好きな作家だからか、久方ぶり映画だからか、それとも彼女と観る映画だからか。

僕はワクワクしながら上映ルームへと足を運ばせていった。

…。
………。
……………。

「あはは、最後泣いちゃった」

「僕も泣きそうだったなぁ」

『夢少女』を見終わった僕らは黄昏に包まれた街の中で帰路についていた。

『夢少女』

ある日からとある一人の少女の夢を見始める男の物語。

毎晩眠りにつくたびに会える彼女に心惹かれていく主人公は、募りに募った想いを少女に打ち明けると次の日から夢を見なくなる。

やがて現実が夢だと思い込むようになり自暴自棄に堕ちていく主人公だが、もう一度だけ見た少女の夢により厳しい現実を乗り越えていく物語だった。

「ね…遍」

「ん?どうしたんだい」

「私たちは…夢じゃないよね?」

不安そうな表情で僕の頰に触れる彼女も、たったそれだけのことで頰を紅潮させる僕も、きっと

「夢じゃないよ」

「嬉しい。あのね遍、私幸せなんだ。好きだよ」

僕もだ、と返そうと開いた口は不意に近づいた彼女の唇によって塞がれた。

「えへへ、付き合ってからはじめてのキスだね」

告白の時のあの乱暴な接吻は彼女の中での「付き合ってから」の期間の中には含まれていないのだろうか。

少しそんな野暮な考えが浮かぶが、僕の目の前に居たのはあの時の暴力的な感じの彼女ではなく、間違いなく僕が以前から惹かれていた夕日に美しく可憐な彼女だった。

613高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:33:15 ID:aKFulWyM
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日々の学業に勤しみながら、否。

学業が疎かになっても仕方がない、そんな雰囲気があるのはあと三日で文化祭が始まるという差し迫った状況からだろう。

かく言う僕ら看板製作組もそんな慌ただしさを掻き立てる一員となっていた。

「ったくよぉ、チンタラやってたあいつらが悪いのに何で俺らが小物製作も分担しないといけないんだよ」

「ははは、仕方がないさ。メインの看板は大方終わりかけているし手伝ってあげれるのならそれに越したことはないさ」

「そうだよ〜。それに喫茶店はクラス全員の出し物だからね〜。わたしたちの仕事はみんなの仕事、みんなの仕事はわたしたちの仕事だよ〜」

「おまえら本当にいい子かよ。わーったよ、やるよやるさ!やりゃいいんだろ!」

文句こそ垂れど結局一番作業に力を入れてるのは桐生くんであり、彼こそ『いい子』に相当するだろうと考えると、なんだか滑稽に思えて来てしまう。

とはいえ少々憤慨しているのも事実らしく、養生テープを剥がす音がやけにけたたましく聞こえる。



「あー、このペースだとテープ無くなりそうだなぁ」

「確か用務員室に予備のテープがまだあったはずだけど」

「そっか。んじゃ俺、用務員室行ってくるから二人ともよろしくな」

「は〜い」

桐生くんがその場を離れると残された僕らふたりの間を沈黙が支配した。

それもそうだろう、僕はあまり積極的に話しかける性分でもないし、小岩井さんもどちらかといえばその通りだろう。

「不知火くん〜、ちょっとい〜い?」

「どうしたんだい小岩井さん?」

「不知火くんは文化祭誰と回るの〜?」

思っても見なかった質問だった。

看板製作の仲間として関わり始めてから今まで僕と小岩井さんの二人で他愛のない会話をした記憶がなかったのだ。

「僕か、あんまり考えてなかったなぁ。恐らく今年は妹と一緒に回ることになるんじゃあないかとは思っているんだけれどもね」

「じゃあ一緒に回ろ〜」

いつもと変わらない小岩井さんを象徴するかのようなのんびりとした言い方で、そんな穏やかで優しい言い方で。

「一緒にって僕とかい?」

「うん、そうだよ〜」

ああなんだ、看板製作を共にした誼みで僕を誘っているのか。

ならばと

「じゃあ、桐生くんは僕から誘おうか」

「ん〜ん、違うの。私二人で周りたいの」

文化祭まであと三日だ。

文化祭まで差し迫った状況だ。

「不知火くん、あのね」

だからいつもの放課後とは違う、クラスメイトたちの活気が溢れているこの教室で。

どうしてこうも喧騒から逃れたように彼女の声がはっきり聞こえるのだろうか。

「私、不知火くんのこと好きなんだぁ」

614高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:34:35 ID:aKFulWyM
いつものように間延びしたような口調でそう告げた。

潤んだ瞳、いつもと異なる口調、震えている指先。

そのどれもが彼女の緊張を僕に伝えるには十分なものだった。

いつも僕に付き纏うあの疑問が喉から這いずり出そうになるがそれよりも先に僕は伝えなければならないことがある。

僕の口はそれを一番よくわかっていた。

「ごめん。小岩井さん、僕にはそれができない、交際をしている女性がいるんだ。だから、ごめんなさい」

「…。そうなんだ〜。あはは、ごめんねぇ、ちょっとトイレに行ってくるね」

反射的に僕も立ち上がり付いていこうとするが他でもない僕自身が地面に足を縫い付けている。

彼女が用を足しにこの場を去ったわけではないということぐらい、さすがに僕でも分かる。

追う資格なんてないのに、付いて行ったってなにもできやしないのに。

許しを乞うてしまいたい。僕なんかを好きになってくれてありがとう。僕なんかが想いを断ってごめん。

あぁ、華はいったいどうやって彼らの想いを受け止めていたのだろうか。

この背負いきれない想いを。


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「なんでかなぁ、ふふ、あはは、なんでかなぁ」

目を覚ますと後頭部に激しい痛み、脳が揺れる感覚、血脈が流れる鼓動を強く感じる。

吐き気もする。心も痛い。心身ともに衰弱しきっている。

自分が今どういう状況に陥ってるのかすら把握していない。

最早、夢か現実かも定かではなかった。

615高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:35:18 ID:aKFulWyM
「あ、やっと目を覚ましたんだね、奏波」


(そうだ、私は不知火くんにフラれたんだ)

「ねぇ…知ってた?社会科教室って鍵は開きっぱなしだし放課後は全然人こないんだよ。告白に御誂え向きな場所だからよく呼ばれるんだぁ、ここ。アハッ、御誂え向きだなんて難しい言葉、遍の言葉遣いが移っちゃったかなぁ」

にわかには信じがたい様子のおかしい親友の姿も、今ここが現実であること認識することを難しくしていた。

夢を、悪夢を見ているのではないか。

そう思ってしまう。

「ねぇ奏波?なんで遍を好きになったのかな?ありえないよね?だって私と遍は運命の赤い糸で結ばれているんだもの。他人共が入る余地なんてない、そうよね?お姫様と王子様、二人は末永く愛し合いましたとさめでたしめでたし、物語はそこで終わるの、それ以上先に登場人物なんていらないし、増してやそれを邪魔するなんてありえないの。…まぁそれに関してはあなただけに限った話ではないんだけどね」

「文化祭かなんだか知らないけど浮かれた奴らが…いえ、そもそも登場なんてあってはいけない奴らが一人また一人と私に告白してくるのよ。私はもうすでに一人に愛を、人生を 、全てを!…捧げると誓った身なのに、その誓いをあいつらは破ろうとやってくるのよ?そうね、少し前までは煩わしいとくらいにしか思わなかったけれども今ではもう憎しみとも言える感情が湧いてくるのよ。腑が煮えくり返るとはよく言ったものね、今にも底から溢れる憎悪で内臓が爛れそうよ」

「遍がダメって言うから我慢してたけど…。…まだ私に来る分にはいいや…いいけどさ!!!遍にまで幸せをぶち壊す悪魔が忍び寄って来るのなら、あはは、もう我慢の限界だよ!!!!おかしいよ、おかしいよね?なんでわざわざ私達の愛を隠さないといけないのよ!!!」

遍といえば、確か想いを寄せた男子生徒の名がそれだった。

「じゃあ…」

「ん?」

「じゃあ不知火くんが言ってた恋人って…」

「そうよ?私よ、他に誰がいるのよ。いるわけがないでしょ。私と不知火遍は出会うべくしてこの世に生を授かって17年という時の障害を越えてやっと出会った真実の愛を誓い合う運命の恋人なんだから」

「そんな…私知ってたらちゃんと引いてたのに…」

こんな想いにならなかったのに。

同時にそう思う。

「だから言ってるじゃない、遍に口止めされているのよ。まぁ良き妻としては夫の望みをなんでも叶えてあげたいと思うけど、どうしたものかしら」

不知火くんはどうして交際を隠したがったんだろう。

いくつもわからない疑問が浮かんでくる。

しかしそのひとつひとつを解決する間も与えないように親友は続けた。

「ねぇ…奏波。あなた一体幾つの罪を犯したか自分で分かってる?」

「つ…み?」

いつもと違う様子の友人はいつもと変わらない笑みを浮かべる。

「遍と目を合わせた回数117回、遍と会話をした回数52回、遍に触れた回数12回、遍に告白した回数1回。これがあなたの罪の数よ、奏波。人はね、罪の数だけ罰を受けなきゃいけないの。だからね…」

歪なのにどこか美しさを感じるその笑みを浮かべる彼女は

「頑張ってね、かなみ?」

私には悪魔に見えた。

616高嶺の花と放課後 第9話:2020/01/04(土) 15:54:24 ID:aKFulWyM
以上で投下終了です。
あけましておめでとうございます、そして相当お久しぶりです。生きてました。
前話を投下してからもう1年半経ってました、いやぁ時が流れるって早いですね()
平成終わる前に投下するとか令和になったら投下するとかほざいてましたが全然投下できませんでしたね、本当にごめんなさい。
今回投下した9話なんですけど実は8割くらいはもう一年以上前に出来てました。
個人的に長く続けばいいなと思い、物語をどうすれば引き延ばせるだとかどうでもいい描写を細かく書いて引き延ばそうかとかそんなこと考えてるうちに書きたくないものを書いている気分になりモチベーションが底辺に落ちてました。
その後当たり前なことに気がついたんですけど面白い長編作品ってあんまり無駄なパートは入らず物語の本質を動かすストーリーをだけを書いていった結果、設定や世界観の深さゆえに長くなってるんだなぁと。
結局長くすることを目的に物語をやっていたら書きたくないことまで書いてて作者がつまんないと思いながら書いてるものを果たして他の人が面白いと思えるかと考えていました。
そんなこんながあって1年半という期間が空いてしまいしまいましたがこれからはマイペースで書きたいものを書き、結果的に長くなるのだったら御の字という気持ちでやっていきたいと思ってます。
長くなりましたが、今年もよろしくお願いします

617雌豚のにおい@774人目:2020/01/07(火) 11:17:27 ID:dKFcbCpY
生きとったんかいワレえ!乙です!
ゆっくりでええんやで、貴方の書くヤンデレが好きなのでいつまでも待ちます

618罰印ペケ:2020/01/08(水) 03:19:41 ID:P3CwXFaU
>>617
ほんとにお待たせしました、というよりほんの少しでも待っていてくださってありがとうございます!そう言った書き込みを見ると凄く嬉しくなって励みになります!

あと少しだけ宣伝というか報告です。一年半も投稿に期間が空いてしまい物語ももう覚えてない人もあると思ったので過去の話も見やすいようにカクヨムというサイトで罰印ペケというペンネームで『高嶺の花と放課後』1話〜9話を再掲しました。良かったら読んでやってください。ただ僕自身、小説書き始めたのが、昔お世話になったこのスレを少しでも盛り上げることに貢献できたらなと思って書き始めたので、引き続きスレにはいち早く物語を投下できたらなと思います。では10話でお会いしましょう

619雌豚のにおい@774人目:2020/01/08(水) 15:08:00 ID:Czj38jBs
更新乙です!
10話も楽しみにしてます!

620高嶺の花と放課後:2020/01/11(土) 05:01:53 ID:6R2YzN9.
高校2年 10月下旬

「結局、今日も小岩井来なかったな」

「…そうだね」

完成した模擬店の看板を僕と桐生くんはただ眺めていた。

あれから、小岩井さんの想いを僕が断ったあの日から四日の日々が過ぎ、文化祭を目前に控えた金曜日の放課後に至るまで僕はおろか誰も小岩井さんの姿を見ていなかった。

出来ることならば小岩井さんと桐生くんの三人でこの完成した看板を飾り付ける場面を迎えたかったが、それは僕のわがままなのだろうか。

担任の太田先生からは体調不良だという風に伝えられている。

彼女が学校に来なくなってから初日は太田先生の言葉を鵜呑みにし、二日目は彼女の体調を心配し、三日目から彼女が学校に来なくなったのは自分のせいなのではないかという考えが浮かぶようになり、時が経つにつれ随分と勝手な責任感を感じ始めていた。

否、彼女が学校に来れないのはたまたま体調不良だからだ、そんな考えは自惚れだ。

そう考えてはまた自惚れて責任を感じ。

結局、教室の入り口に模擬店の看板を立て掛けるこの時まで彼女は姿を表すことはなかった。

「こんなときに風邪を引くなんて小岩井もついてないよなぁ、不知火」

「…え?あぁうん。そうだね」

桐生くんは他愛のない会話のつもりで話しかけてきたのだろうけど、不器用な僕は生返事しかできなかった。

「あー!看板できてる!」

「いいじゃんこれ。なんか本物の喫茶店みたいで」

手が空いたのかクラスメイトの女子生徒たちが教室の外まで来て、完成した看板を見に来た。

「へへ、いいだろこれ。文化祭で普段使う一枚板の看板じゃなくて立体的に作ってそれっぽくしてんだよね。俺ら看板制作班の自慢の出来よ」

それに対して桐生くんは誇らしげに看板を紹介している。

「本当に本物の喫茶店みたい!わたし喫茶店いったことないんだけどね、あはは」

「あはは、なんだそれ。あっ、華も来なってすごいのできてるよ」

女子生徒の一人がよく知った名前を呼ぶ。

これまた不器用な僕は一瞬表情が固まってしまう。

「ん?どれどれー?あっ、凄いお洒落な看板出来てるね!」

以前桐生くんに指摘されて以来、華との関係を公にしたくないがために癖になってしまった彼女から意識を逸らす行為をしてしまう。

「でしょー!明日のやる気がみなぎってきちゃった」

「俺らはここまで頑張ったんだからお前ら当日頑張れよ?」

「まっかせてよ!なんてったって初日のトップバッターを我がクラスが誇る1000年に1人の美少女、高嶺 華が務めるんだから!」

「ちょっと恵ー、そんな大げさな表現やめてよー」

「大げさなもんですか!文化祭間近になってめちゃめちゃ男子に告白されてるでしょ〜。しかも文化祭の準備がままならないくらい」

「冗談抜きでうちの学年全員華に告ってんじゃない?こうなったらもはや全員コンプリートしたいよな」

「おっ、ちょうどいいところに男子二人いるじゃん。お二人はこの娘に告白したことは?」

あまりにも突飛な話になっている。

だがいつもであればこんな突拍子も無い会話の流れをどうすれば変えられるかと思案してみたり、あるいはただただ狼狽えるだけかもしれない。

しかしここ数日、小岩井さんの事で思い悩みできたた身としては、告白という言葉を聞くだけで少々憂鬱な気持ちになってしまう。

「いや、ねーけど」

「……。僕もないや」

「じゃあテキトーでいいからふたりとも華に告白してみてよ」

「は?いやいや意味わからんて。大体高嶺が仮に全員に告られたとしてそれがなんの意味があんだよ」

「いやいや全員に告られたらレジェンドになるじゃん、きっと将来同窓会とかやったらめっちゃ盛り上がる話題になるよ」

「だとしてもだろ。こうまでして茶化すことじゃなくね?」

「そんなマジになんなくていいからさ〜。ネタだと思って軽くやってみてよ」

「ったく。高嶺さんー好きですー付き合ってくださいー。これでいいかよ」

「うっわ、めっちゃ棒読み。あはは、まぁいいやおっけー。じゃあ次不知火くん」

621高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:04:28 ID:6R2YzN9.
意識が僕へと向けられる。

「おい、俺まだいいけど、不知火にまで強制させんなよ」

「まーまー。不知火くんも本当にテキトーでいいからね」

悪意はないのだろうけど、いや悪意がないからこそ厄介なのかもしれない。

逸らしていた意識を華へと向ける。

困惑、期待、緊張、あるいは歓喜。

僕には目の前の『高嶺の花』はそんな表情を咲かせていたように見えた。

もし僕が華に告白されていなければ、こうして僕から想いを伝えていたのだろうか。

臆病者な僕は胸に想いを秘めるだけかもしれないし

「高嶺さん、僕と付き合ってください」

想いが溢れてフラれることも承知の上で告白していかもしれない。

交際の申し出を口に出してからしまったと思った。

もし彼女がいまこの告白を受け入れたら?

僕と彼女が公に交際を行うことになる。

今まで秘密裏に交際をしていたのは全て、目立たないため、やっかみを受けないため、そして綾音に伝わらないようにするためだ。

公に交際を知られれば、きっと学年が違う綾音の元にも噂が伝播することだろう。

なにせ入学から今に至るまで数多の生徒の想いを受け入れなかった『高嶺の花』が、こんな何の特徴もない一男子生徒と交際を始めるなんて誰しもが驚嘆する事実だろう。

否、事件だ。

綾音には華のことを時期を見て、自分の口から伝えたいのだ。

こんな事件を噂で聞いた綾音は、祝福してくれるのだろうか。

悲しむのだろうか、怒るのだろうか。

分からない。

「ありがと、不知火くん。てことで次は華の番ね」

「…へ?」

「へ?じゃなくて。ほらいつもみたいにごめんなさいって」

なんなんだろうかこの女子生徒は。

何を考えているのだろうか。

人の気持ちを弄んで何が楽しいのだろうか。

それともこれはただの遊戯にしか過ぎないというのだろうか。

苛立ちが募る。

華は僕の告白を受け入れるのだろうか。

それともこんなのは茶番だと断ってくれるだろうか。

分からない。

分からない。

しかしいくら待っても華からの返事はなかった。

「…華?」

少し不審に思った女子生徒は華に声を掛ける。

僕も様子が気になり、彼女へと視線を向ける。

動揺。

先程の感情とはうって変わり、ただ一つの感情が今彼女を支配しているように思えた。

祭りを前日に控え、学生たちの喧騒で賑わう中、異様な沈黙が僕らを包み込む。

数秒にも数分にも感じる沈黙を破ったのは桐生くんだった。

「…ほら飯島いい加減にしろって。高嶺も困ってんだろ」

「ははは…確かにそーかも。ごめんね!大地くん、不知火くん、華」

「てかこっちに油売りに来てる暇あんのか?」

「それがねー聞いてよ!こっちでさぁ…」

異様な沈黙は何処へやら。

桐生くんと女子生徒は雑談に花を咲かせ始めた。

とりあえず杞憂に終わったのかと安堵しているともう一人の女子生徒に肩を叩かれる。

「ごめんな不知火。なんか変なことに巻き込んじゃって」

「あぁ、僕は気にしてないから大丈夫だよ」

その娘は僕の肩に腕を乗せると、体を前にと体重を乗せる。

自然と彼女と僕は前のめりな姿勢になり顔が近づき、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

華と綾音以外の女子とここまで近づいたことはないので、急な接触に心臓が高鳴った。

622高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:05:38 ID:6R2YzN9.
「恵…あぁ飯島な。桐生のやつに気があって、ちょっと調査つーかリサーチみたいな。ほら桐生と高嶺ってよく噂になるだろ」

僕にしか聞こえない声量で耳打ちをしてきた。

そうか、あの女子生徒は飯島 恵(いいじま めぐみ)というのか。

などと場違いな感想を抱きつつ、どこか落胆した感情が心の奥から滲み出る。

色のある話だったがそれが僕に向けられたものではなかったからか?

やはり誰もが華にふさわしいの桐生くんと思ってるからか?

その両方なんだろうな。

「あぁまぁ…華が、高嶺があんな反応すると思ってなかったけどやっぱり桐生に気があんのかな」

「え?」

「いや、ほらなんとも本当におもってないんだったらあんなに間が空くことがあるのかなってさ」

まるで最初から僕が可能性がないという風な言い草に子供染みた反抗心が芽生える。

「…高嶺さんがどう思ってるのかは分からないけど、桐生くんは彼女がいるって言ってたよ」

「え?まじか。それって高嶺じゃなくて?」

「そうだね」

こんなことでしか反抗できない自分が情けない。

この様子じゃ僕が華の恋人だと主張したって信じない人が何人いるか分かったものではない。

「…そっかぁ。悪いな、変なことに巻き込んだ上にそんな情報教えてもらって」

「本当に僕は気にしていないから、平気だよ」

僕は嘘つきの笑みを顔に貼り付ける。

「いい奴だな、不知火。もしかしたら高嶺は桐生じゃなくて不知火のこと気にしてるのかもな」

「へ?」

彼女はそう告げると前方にかけていた体重を解くと僕の肩に乗せていた腕も下ろした。

「助かったよ、ありがとな不知火」

桐生くん、飯島さん、華の意識が僕らの方へ向いていることに気がつく。

「紗凪ー、不知火くんと何話してるのー?」

「んあ、なんでもねーよ」

彼女はぶっきらぼうに答えると僕の元を離れていった。

「こらー!三人ともサボってないで中に戻ってこい!まだ作業残ってるんだよ!」

これまた別の女子生徒が三人を教室の中に押し入れるよう戻しにきた。

全員渋々と言った表情で教室へと戻っていく。

華も教室へと戻っていくーーー

ーーー廊下と教室の境界に踏み入れる。

華が教室に入る寸前ーーー

ーーー刹那と呼べる間。

その色の無い黒い瞳がーーー

ーーー僕を射抜いた。

623高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:06:26 ID:6R2YzN9.
今まで感じたことのない暗く冷たい眼に僕の心臓を凍りつく。

「なぁ、不知火。萩原と何話してたんだ?」

「……。…え、っとごめん。聞いてなかった」

「いや、荻原と何コソコソ話してたのかなつてさ」

そうかあの女子生徒は萩原 紗凪(おぎわら さな)というのかなどと再び場違いな思考が浮かぶ。

「…桐生くん。僕って案外薄情な奴かもしれないや」

「ん?どうした急に」

「今、桐生くんから萩原さんの名前を聞くまで顔と名前が一致しなかったんだ。飯島さんにしてもそうだ」

「それは不知火があんまりあいつらと関わりがなかったからとかじゃないか?他にも人の名前と顔を覚えるのが苦手っていう人もいるし不知火もそれとかな。薄情とは違う気がするわ」

「そういうものなのかな」

「って話変えんなよ。荻原と何話してたんだよ、看板製作係のよしみだろ。教えろよ」

「桐生くんはなんで僕が話を変えたかはわかるかい?」

「…おまえやっぱり薄情なやつかも」

桐生くんの拗ねた声がなんだか可笑しくて、先ほど凍てついた心臓が解けていくのを感じる。

安堵の笑みが自然と湧いてくる。

「ははは、そうかもね」

「…まぁ不知火が平気そうならいっか」

なんのことだろうか、と思案する。

もしかして、僕が華に雑な告白を強要させられたことを気にしていたのだろうか。

否、考えすぎか。

でも、もし。

もしそうであるのならば、桐生くんは本当に気が効く人だ。

最初も僕が華を意識していることに気がついていた。

そこまで考えて、別の思考が過ぎる。

桐生くんは小岩井さんのこと気がついていたのだろうか。

ーーーこんな時に風邪引くなんて小岩井もついてないよなぁ、不知火

もし小岩井さんのことに気がついていて。

もし僕がそのことを気にしていることに気がついていたとして。

桐生くんは僕にあまり気負わないように気をつかったのだろうか。

そこまで考えて。

そんな馬鹿なと、僕は迷宮に足を踏み入れかけた思案を胸の奥へと閉まった。

624高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:08:16 ID:6R2YzN9.
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夏至を迎えたのはとうの昔。

秋分すら過ぎ去り一年の短さを寒さと共に肌から感じていた。

夕刻と呼ばれる時刻でも辺りは暗く包まれ、月明かりと街灯が道を照らしている。

その中を少し駆けては、疲労を感じ足を止め、また道を駆け足で抜けていく。

ラインで手短に送られてきた「二人で話したい」というメッセージ。

文化祭の前日ということもあり、校内に残る生徒が大勢いるという予測の元、僕は校舎の中ではなく高校から少し離れた羽紅公園を逢瀬の場所として指定した。

結局あの後、小道具製作を担当している太一からトラブルが起きたと相談を受け、僕は小道具製作の手伝いをすることなった。

問題が解決する頃には、既に日は沈みきっており華も学校を出ていたようだった。

想定していた以上に時間が過ぎていたことに気がついた僕は、太一と別れの挨拶も早々に駆け足でここまでやってきた。

日頃の運動不足が祟ったのか、いくら気持ちで急いでも身体がついてきてはくれなかった。

この冷え切った空気の中で待たせているのが申し訳なくなり、息も絶え絶えになりながら約束の場所へと足を急かす。

夜道を走り、住宅街を歩きながら息を整え、階段を駆け上がる。

やがて羽紅公園が見えてきた。

ラストスパートだと、そこまで足を止めることなく走り抜く。

羽紅公園にたどり着いたときは、息が乱れに乱れ、秋の凍てついた空気で肺に痛みすら感じていた。

「…おそかったね」

息が整う前に背後から声をかけられた。

「はぁ…はぁ…ごめん、はぁ。華。太一たちの手伝いを…はぁ…していたらこんな時間になってしまった」

突然、胸倉を掴まれる。

「おかしくなぁい?私、遍の彼女だよね。どうして私よりそんな有象無象が優先されてるの?」

必死に息を整えようとした呼吸すら止まる。

すっかり暗くなった羽紅公園では、彼女の表情の半分も分かりはしなかった。

「た、確かにこんな時間まで待たせたのは申し訳なかったけど、太一たちをそんな有象無象だなんて」

そこまで僕が口にすると

ーーーーーーーパンッ

乾いた音が公園中に鳴り響いた。

急速に熱が帯びてく頰。

数巡遅れて僕が頰を叩かれたということに気がついた。

「"有象無象"だよ。私と遍以外全員そう」

あまりの突然の出来事で理解が追いつかない僕の頰に彼女の冷えた手が添えられる。

その冷たさが、一体彼女をいくらの時間待たせたのか、一体彼女がどれくらい憤怒しているのかを伝えてきた。

「ごめんね?痛かったよね?でもね、これは必要なことだと思うの。間違ってことは間違ってるって。恋人の私があなたにちゃぁんと教えてあげないといけないと思うの。うん、私いままで遍を少し甘やかしていたかもしれないね」

625高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:09:47 ID:6R2YzN9.
闇夜に目が慣れてくると彼女の顔が段々と分かってきた。

先ほど僕を射抜いたあの色のない黒い瞳で、

今、

僕を、

確実に、

捉えている。

「私と遍は運命の恋人なんだから、お互いの一番がお互いじゃなきゃあだめでしょう?私いっぱい、いーっぱいライン送ったのに遍、全然気付いてくれないし」

確かに手伝いを始めてからここに来るまで携帯を一度も見ていなかった。

「別にね、長く待たされたことを怒ってるわけじゃないんだよ?私より"有象無象"が優先されたっていうのが何よりも耐え難いの」

今ここで彼女の怒りを鎮めるには一旦、願いを聞き入れるしかないと思った。

「もう…」

「もう?」

「もう華を何より優先するから、今回は許してはくれまいか?」

僕のその言葉を聞き入れると、黒い瞳で僕を射抜きながら笑みを浮かべる。

「うん、うん。許してあげる。私は遍が間違っていたら叱ってあげるって決めたけど、どんなに間違いを犯しても"決して"見限ったりしないからね」

一先ず安堵した僕だったが、解放されない胸倉に疑問と焦燥が浮かび上がる。

「華?」

「次」

再び公園に乾いた音が鳴り響く。

二度目の張り手は、一度目よりはっきり認知でき、強く痛みが走った。

「どうして私以外の女に触れたのかな?」

彼女が何を言っているか分からなかった。

「私あんまり束縛が激しい女になりたくないから本当は嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌でも、私以外の女と会話することだけは百歩譲って許してるけど、触れるのはもう…もう我慢ができないよ」

女子に触れた覚えなどないと反論しようとした僕の鼻腔に爽やかな香りが蘇る。

もしかして萩原さんとのことを言っているのだろうか。

「もちろん触れに行った女が何よりも罪深いけど、遍にも責任があるんだよ?だからこれは罪に対する罰なの」

再び黒い瞳で僕を射抜きながら笑みを浮かべる。

「さぁ誓って。二度と私以外の女に触れないと。母だって妹だって例外は無しだよ」

いつもであれば無茶な願いだと反抗するかもしれない。

しかし胸倉を掴まれていることが、頰を二度叩かれたことが、僕を射抜く黒い瞳が、抵抗する気力を一切失わせていた。

「誓う、誓うから。許して欲しい」

「うん、うん。ありがとう遍」

今度は先程とは違い、掴まれていた胸倉は解かれた。

「でもやっぱり私って恋人に甘いっていうか遍に甘いっていうか。このくらいの罰で許しちゃうんだから、惚れた弱みってやつかなぁ」

二度にわたる張り手が甘い罰なのだろうか。

彼女の中での厳しい罰がどのようなものかと考えるだけで戦慄する。

626高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:11:08 ID:6R2YzN9.
「遍だって私に関係を公にしないって酷い約束してるんだから私だって他の女に触れない、誰よりも私を優先するって約束ぐらいしたっていいと思わない?」

関係を公にしないことがそんなに酷い約束事なのだろうか。

「遍は私のモノって、私は遍のモノって宣言したいのを必死に我慢してるんだからね私!今日だって、えへへへ、遍が私に告白してくれた時だって、えへへ。だめ、思い出しただけでニヤけちゃう」

華は両手で緩みきった頬を抑える。

「あの時、受け入れて公の関係にしたって良かったんだからね!でも何よりも愛しい遍のお願いだから我慢してたんだよ。それが…何?断る?遍の告白を?ふざけているのかしら。馬鹿にしているのかしら。遍の告白を断るなんて想像しただけで身が裂けそうになるわよ。ありえない…ありえない!!!」

綻んだ表情から一転、感情が高まったのか怒号を飛ばす。

「落ち着いて華。彼女たちは桐生くんと華が想い合っているんじゃないかと思ってあんなことをしたんだ」

「…なんで桐生くんがでてくるのよ」

「よく聞く噂だよ、桐生くんと華は美男美女でお似合いだって、裏で付き合ってるんじゃあないかって」

「下らない。顔しか見てないのね、だから有象無象なのよ。そんな奴らが真実の愛に気づくことなんて一生無いんだろうね。可哀想に。大体、仮に、本当に仮の仮の仮に、私と桐生くんが付き合ってたとしてなんの関係があるっていうの?」

「飯島さんが桐生くんのことを好いているらしいんだ。だから桐生くんの好きな人が華なのか、華が好きな人が桐生くんなのか、あるいは二人は付き合っているのだろうか知りたかったんだと思う」

「ふぅん。どうせ薄っぺらい恋愛なんでしょうけど精々頑張ればいいんじゃない?まぁ遍を私に告白させた点だけは褒めてもいいけど」

心底興味がなさそうにそう答える。

「…そうだ!遍。今から私に告白してみてよ」

「え、こ、告白って今から?」

「そうだよ今から。せっかくだしさっきの告白をちゃんと仕切り直そうよ!そーだなぁ、シチュエーションとしては文化祭を目前に控えた今日に想いを抑えきれず私を公園に呼び出して告白して文化祭一緒に回ってください!って感じかなぁ。…いいよね?」

突然の提案にただただ受け入れることしかできなかった。

「遍がまずここに待ってて、私が入り口から入ってくるから」

有無を言わせず、華は公園の入り口へと向かっていった。

まさか僕が華に告白するなんて思っても見なかった。

いや、思ってもみなかったと言えば嘘になるだろう。

もしかしたら違った未来では、こういうこともありえたかもしれない。

彼女と出会ってからのことを思い返し、さまざまなあり得た過去、あり得る未来の考える。

これからやることはそのうちの一つだと言い聞かせる。

不意に肩が叩かれる。

「ごめんね、待ったかな不知火くん」

今では最早、違和感すら感じるその呼び名に僕は応える。

「こちらこそごめんね高嶺さん、急に呼び出して」

「ううんいいの。気にしないで」

こんなやり取りを他の男子生徒たちもやっていたのだろうか。

「高嶺さんを呼んだのは、どうしても伝えたいことがあるからなんだ」

自分の大根芝居ぶりがなんとも情けなく感じてくる。

「伝えたいこと…?聞かせて、不知火くん」

きっといつかの自分が伝えたかったことを、伝えたかった気持ちを思い出し言葉にする。

「高嶺さん、あなたの事が好きです。できれば明日からの文化祭を僕と一緒に回って欲しい。よろしくお願いします」

片手を差し出し、深く頭を下げる。

彼女からの返事を待っていると差し出した右手が強く引っ張られる。

そのまま彼女に抱き寄せられ、後頭部に手を回されると彼女の唇と僕の唇が重なり合った。

「んっ…ちゅ…。もう遍ってばズルい。そんなかわいい告白してきて」

かわいいとは僕の大根芝居のことを指しているのだろうか。

何度も、何度も唇が重なり合う。

その間も強く抱きしめられる。

華の柔らかい四肢が、甘い香りが僕の情欲を駆り立て思考を奪ってゆく。

他の人に見られやしないだろうかなどと考えながら随分と長い間、接吻は続いた。

どれくらいの時が経ったか定かではないが車が一台、公園の隣を横切った時を合図に華は腕を緩め、唇を離した。

627高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:11:52 ID:6R2YzN9.
「幸せだなぁ…あぁ幸せだなぁ」

本当に幸せなのか、恍惚な表情を浮かべる。

そんな表情を見て安堵したのか、足の疲労感が徐々に思い出されてくる。

「華、あそこのベンチに座っていかないかい?」

「うん、そうしよっか」

そう言って彼女はさりげない仕草で僕の腕を絡め取る。

ベンチを目の前にするとさっさと座ってしまいたい思いでいっぱいになり、少々乱暴に座り込んでしまう。

二人してベンチに座ると今度は組まれた腕の方の肩に重みを感じた。

「ありがとうね、遍。これで明日明後日は我慢できそう」

再び甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「我慢?」

「だって、遍との約束だから。関係をみんなにバラさないって。だから文化祭を一緒に回るのは我慢する」

もしかして僕は彼女に無茶な約束を強いているのではないか。

今日一日でそう思うようになってきた。

関係を秘密にすることがそこまで彼女に苦悩を与えるのであれば、反故すべきかもしれない。

でも僕らの関係が皆に知れ渡った時のことを考えると、簡単に反故することはできない。

「だから遍も守ってね?私以外の女に触れないこと、私を一番に優先すること」

「約束するよ、絶対に守る」

「えへへ、大好き」

それでもいつかは関係を明かすべきなのではないか。

その時までに覚悟を決め、綾音に伝え、華の隣を胸を張って歩ける男にならなくちゃいけない。

一つずつ前に進もう。

628高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:12:44 ID:6R2YzN9.
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「ただいま」

「おかえりなさい。随分遅かったわね」

羽紅公園にたどり着いたときには既に日は沈んでおり、太陽が時間のあてにならなかったため、時刻を把握していなかったが、僕が家に帰る頃には二十時を過ぎていた。

「明日は文化祭だからね。最後の仕上げに少し時間がかかってしまったよ」

「そう。あら遍くん、ほっぺどうしたの?」

「頰、ああ頰ね。あはは、今日作業してるときに顔にぶつけちゃってね、多分その時のやつなんじゃあないかな」

さすがに彼女に叩かれたとは言えまい。

三文芝居でやり過ごそうとする。

「大丈夫かしら、冷えピタ持ってこようか?」

僕の頰に義母が触れようとしてきた時、華との約束が鮮明に蘇り、咄嗟に避けてしまう。

「大丈夫だよ、見た目はひどいかもしれないけどそこまで痛くはないんだ」

「…。ならいいんだけど、痛むようだったら言ってね」

「ありがとう。僕は部屋に戻って着替えてくるよ」

避ける動作。

それが生んだ気まずい空気から逃れるように自室へ向かう。

ガチャリと扉を開けると僕の部屋でくつろぐ綾音の姿が見えた。

最早、見慣れた光景だ。

「おかえりっ。おにーちゃん!ってどうしたのそのほっぺ!」

綾音からの指摘も免れなかった。

よほどひどいのだろうか。

後で鏡で確認してみることにしよう。

「ああこれ、明日の準備でちょっとぶつけてしまっただけだよ」

「それにしては誰かに打たれたような…」

「ま、まぁまぁ僕は大丈夫だから。とりあえず着替えたいし出ていってもらえるかな?」

「え〜、めんどくさ〜い。兄妹なんだし、気にしない!気にしない!」

「綾音」

「ぶー。着替え終わったら言ってね」

綾音は少しだけ不貞腐れながら部屋の外へと出ていった。

「ふぅ…」

今日の疲れを一つ一つ脱いでいく。

今まであまり考えてこなかったけど、華のことを綾音になんて伝えようか。

高校生にもなって兄の部屋に入り浸る妹に彼女ができたと伝えたらはたして穏便に済むのだろうか。

そんなことを考えているうちに着替えが済んだため、綾音を呼ぶことにする。

「綾音、終わったよ」

「はーい」

扉を隔てて直ぐそこに居たのか、三秒も待たずに部屋に戻ってきた。

629高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:13:48 ID:6R2YzN9.
「お兄ちゃん」

「ん?」

「羽紅高校の文化祭ってさ、初日の午前午後、二日目の午前午後で担当が分かれているでしょ?お兄ちゃんはどこの担当になってるの?」

「あれ?言わなかったかい?僕の担当は二日目の午後だよ。とは言ってもね、僕は看板製作とか内装製作をしていたから接客はしないんだ。ただの店番さ」

「そーなんだぁ。確か喫茶店だよね、お兄ちゃんのクラス。あたしはねー、初日の午後なんだぁ」

「そうか、なら一緒に回れるのは初日、二日目のどちらかの午前中だね」

「どっちも一緒じゃダメなの?」

「駄目じゃあないけれども綾音だって一緒に回りたい人いるんじゃないのかい?ほら久美ちゃんとか」

「それだったら別に久美ちゃんたちと回るのはお兄ちゃんが店番する二日目の午後にするよ」

「でも二日目の午後って売り切れがいろんなとこで出ちゃうかもよ?」

「別にお兄ちゃんと回れればそんなの気にしないけど…。あれお兄ちゃんもしかして他の人と回る予定とかあったりするの?」

「そ、そうなんだよ。今年は珍しく友達に誘われててさ、ははは」

「友達?ならいーよ!」

駄々をこねられるかと思ったらあっさりと引き下がった。

それこそ珍しいことがあったものだ。

「どうしたのお兄ちゃん。鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

「いや、綾音のことだからてっきり二日とも一緒じゃなきゃ嫌だと言うかと思って」

「えーー!!あたしそんなに子供じゃないよーだ!それともなに?お兄ちゃんのほうこそあたしと回りたかったんじゃないの?このシスコン」

「シ、シスコンだなんて人聞きが悪い」

「いーや。お兄ちゃんはシスコンだね。ブラコンのあたしが言うんだもん、間違いない」

まさかブラザーコンプレックスの自覚があったなんて驚いた。

「じゃあいいんだね、半日だけで」

「うん!友達付き合いも大事だもんね。久美ちゃんたちとは二日目まとめて回ることにするから初日の午前中に一緒に回ろーね」

「じゃあ明日の午前中は一緒回ろうか」

「うん!あっ、そーだお兄ちゃん!」

「ん?どうしたんだい?」

「その友達って男だよね?」

実際のところ一緒に回る約束をした友人はいないのだが、ふと頭に浮かぶ友人たちを思い出す。

太一に、桐生くん。どちらも男だ。

「うんあぁそうだね。それがどうしたんだい?」

「え?どうしたもなにも、もし女友達ましてや彼女なんて言い出したらそいつ捕まえてお兄ちゃんと縁切らせないとって思って」

音が。

日常がひび割れていく音が聞こえる。

「綾音?」

630高嶺の花と放課後 第10話:2020/01/11(土) 05:14:38 ID:6R2YzN9.
「お兄ちゃんさ。最近親しくなった女、いるよね?あたしに隠しているつもりなのかもしれないけど、もうとっくに知ってるよ?いつもいい匂いするお兄ちゃんの服からくっさい女の匂いしてるもん。最初何かの間違いかなーとか思ってたけど何度も同じ臭い匂いつけて帰って来ればさすがに鈍いあたしでも気がつくよ」

義妹から今までに感じたことのない異質な雰囲気を感じる。

「何度かその女を捕まえようと休み時間にお兄ちゃんのクラスに行ってみたけど、お兄ちゃん相変わらず本読んでるし、匂いも不定期についてくるから偶々かと思ってたんだけど、ここ最近は特に多いんだよね、匂いをつけてくる頻度が」

家族になって十年経つ義妹は、僕が十年間一度も見たことのない表情を浮かべていた。

「ねぇお兄ちゃん?まさかお兄ちゃん、彼女。できたりしてないよね?」

義妹から放たれる気迫は、首を縦に振ることを許さなかった。

「そーだよねぇ!じゃあそいつ女友達?名前は?どんなやつ?教えてよお兄ちゃん」

だからといってすんなりと華の名前を口に出すこともできなかった。

「黙ってたらわかんないよ。教えて、お兄ちゃん」

なんて答えれば良いのだろうか。

いくら考えても答えは出てきやしない。

「…まぁいいや。親しい女がいるってこと確かみたいだね。あとはあたしがその女を見つけて腑掻っ捌いてお兄ちゃんに近づいたこと後悔させてあげる」

「さてとあたしはお風呂に入ろうかな。お兄ちゃんもご飯食べてきなよ。今日はカレーだよ」

それだけ言い残すと綾音は部屋を出ていった。

僕の認識が甘かったのか?

確かに綾音はブラザーコンプレックスだと思っていたし、実際にそうだった。

しかしここまでものだとは考えてもみなかった。

やはり認識が甘かったと言わざるを得ない。

「…困ったな」

昨日までの自分をここまで自由だったと思ったことはない。

明日からのことを考えると窮屈で仕方がなかった。

結局、僕は夕食を食べず、現実から逃げるように眠りへと落ちていった。

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ーーー


「お兄ちゃん。あたし覚えてるからね。子供のときにした、お兄ちゃんがあたしと結婚してくれるって約束」

631罰印ペケ:2020/01/11(土) 05:19:12 ID:6R2YzN9.
以上で投下終了します。
最初に投下宣言抜けてたり、10話つけ忘れたりとなかなかガバガバでしたが、なんとか10話書けました。今回の話に関しては個人的に書きやすかったのでもう勢いのまま書いたって感じです。そしたらこんな時間です。ということでおやすみなさい、11話で会いましょう

632雌豚のにおい@774人目:2020/01/13(月) 11:44:45 ID:FccPSN8Y
待ってた!乙です!
逃げて主人公逃げて(逃げられない)

633雌豚のにおい@774人目:2020/01/13(月) 22:35:16 ID:Va.11Nyw
更新ペースが早くて嬉しいです!
続き楽しみにしています!

634高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:50:14 ID:QPsp6JPc
投下します

635高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:50:36 ID:QPsp6JPc
第11話

カーテンの隙間から溢れる光で目を覚ます。

部屋にかけられた時計で時刻を確認すると、丁度六時を過ぎた頃だった。

冬に向けて日に日に、日の出の時刻が遅くなっていくの感じる。

寝ぼけた頭を掻くと、頭髪に脂がかったものを感じ、昨晩入浴も疎かにして眠りに堕ちたことを思い出す。

「…シャワーでも浴びようかな」

起床時刻が日の出に左右される体質の身としては、秋から冬にかけての朝は余裕のないものに感じてしまう。

慣れない手つきでスマートフォンのロックを解除、ラインのアイコン上には軽く三桁を超える数値が表示されており、内容の確認を躊躇ってしまう。

再びロックをかけ、ベッドへと携帯を放り投げ、部屋を後にする。

フローリングの床が、階段が足裏を冷ましていく。

リビングへ足を踏み入れたとき、既に落胆していた気分は、さらに底へと向かっていった。

「…おはよう」

「ああ」

父だ。

老眼鏡をかけ、新聞を読み耽る姿がそこにあった。

「遍」

「はい」

「まだ…、小説家になることを目指しているのか?」

僕の将来について何度目のやり取りだろうか。

「気持ちは変わらないよ。僕は小説家になる、本気だ」

ありのままの本心を伝える。

どうせ反対されるのだろうと身構える。

が、待てど暮らせど父からの異論は飛んでこなかった。

「物書きで食える奴なんて一握りだ」とか「簡単に目指せるような甘い道じゃない」だとか否定の言葉ばかり聞いてきたが、黙られるなんて反応は初めてのことだった。

これを是と捉えて良いのか非と捉えるべきなのか。

結局、父はそれ以上口を開くことはなかったので、踵を返し脱衣所へと向かった。

636高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:51:19 ID:QPsp6JPc
部屋着を脱ぎ、洗濯物籠に衣服を入れ、浴室に入り、蛇口を捻る。

冷たい水が、神経に鋭く刺さる。

寝惚けていた意識が、はっきりと覚醒していくのを感じる。

やがて夜明けの空気で冷えた水道水は、徐々に温もりを取り戻していき、緊張した筋肉、神経が解れていく。

ーーー有象無象だよ。私と遍以外全員そう。

髪を濡らし、シャンプーを泡立てる。

ーーーお兄ちゃんさ。最近親しくなった女、いるよね?

汚れが落ちるように入念に強く洗う。

ーーーさぁ誓って。二度と私以外の女に触れないと。母だって妹だって例外は無しだよ

湯を被り、頭皮についた泡を洗い流す。

ーーーなら、あたしがその女を見つけて腑掻っ捌いてお兄ちゃんに近づいたことを後悔させてあげる

泡が残らないように入念に洗い流す。

昨日から理解のできないことばかりの連続だ。

理解しているもつもりだった。

結局何にも分かっていなかったのだ、想いが通じ合っていたと思っていた恋人のことも、十年も時を共に過ごした義妹のことも。

嫉妬、執着、独占欲。

そんな感情が自分に向けられるなんて思ってもみなかった。

いや、違う。

思うことはあったじゃないか。

だけれども、頭の片隅に浮かぶ度に「自惚れるなだ」とか、「自分なんかが」がと劣等感が否定の言葉を囁き、それを受け入れる。

それが楽だから。

本当に鈍い。

だが、自分より自分を愛している人間のことを理解することなんて出来ようか。

嗚呼、いや。僕の鈍さのことはいい。

己の不甲斐なさを嘆くことは、いつでも出来る。

問題は二人の事だ。

華は綾音のことを知っているが、綾音はまだ華のことを知らない。

綾音が華に気付いた時、何をするか想像が出来ない。

しかし二人が邂逅した時、間違いなくよからぬ事が起こるだろう。

綾音の昨晩の台詞から、流血沙汰がどうしても脳裏をよぎる。

綾音はいい子だ、そんなことしないと信じたい。

でもいつもそうやって自分の気持ちや判断を押し殺してた結果がこのザマじゃないか。

何でもいい、間に合う内に手を打とう。

そうだ、取り越し苦労だったらそれでいいじゃないか。

僕が一人ピエロになるだけだ。

そこまで考えて思考が詰む。

その後、いくら考えても二人を会わせないという其の場凌ぎしか思いつかない。

「後は…」

もう一つ。

もう一つだけ、出来ることであれば避けたい方法がある。

高嶺 華と別れる。

今ならまだ華と他人に戻れるが、綾音と縁を切ることは難しい。

というより家族なんだから不可能だ。

ならば一度、華との関係を白紙に戻した後、綾音とゆっくり話し合う。

637高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:52:15 ID:QPsp6JPc
問題は二つ。

一つ目は綾音が説得に応じてくれるか。

二つ目はそもそも華が僕と別れてくれるのか。

華と交際を始めてまだ一月も経っていない。

彼女に話し始めたのは六月の梅雨の時期だったが、毎日言葉を交わすわけでもなければ偶の放課後に少し関わる程度。

高嶺の華だと、遠くに咲き誇るものだと眺めていだ時間の方がよっぽど長い気がする。

未だ、彼女のことを分かっちゃいない、これからもっと知らなければならない。

彼女にふさわしい男にならなくちゃいけない。

ただ、彼女と別れれば

ーーー楽になるのかな

そう考えてしまった。

溢れかけた思考を閉じるように僕は、シャワーの蛇口を捻る。

「ははは…情けないな僕」

浴室の曇った鏡は、今自分がどんな顔をしているかも写しはしない。

湯冷めしない内にと脱衣所に戻り、早々に体を拭く。

もう少し、肯定的な思考になろう。

きっともっといい方法がある。

破局は本当に最後の手段として取るべきだし、同時にあってはならない手段だ。

自室へと戻り、制服へと着替えていく。

ワイシャツの袖を通した時に、ベッドへと放り投げた携帯を思い出し、それを手に取りロックを解除する。

百は超えた連絡を最初から遡り、確認していく。

『家に着いた?』

『着いたら連絡、欲しいな』

『まだスマホ見てないの?』

『どうしたの?』

『心配なの』

『すき』

『もう家に着いたんでしょ?』

『わたしわかるよ』

『無視しないで』

『ねぇ』

『連絡ちょうだい』

『不在着信』

『不在着信』

『不在着信』

『不在着信』

『不在着信』

連絡の大半は、僕に対する返信の催促や不在着信の知らせるメッセージだった。

それらのメッセージは日付が変わるまで延々と続いていた。

彼女からの最後のメッセージは

『起きたら電話して』

こう綴ってあった。

時刻はもう直ぐ六時半を迎えようとしている。

秋の日の出をとうに過ぎだ時刻ではあるが、電話をかけるには少々迷惑だと思える時刻だ。

それも承知の上で、連絡を送ってきたのだとは思うのだが。

結局、綾音が起きたら電話もままならのではないかと考えた僕は、彼女の数多の連絡に気が付かず寝ていたという罪悪感もあり、鼻に電話をかけてみることにする。

まだ朝早いし、無理に起こしてはいけないだろうから、五秒かけて出なかったら電話を切ろうか。

そこまで考えたあと、すぐに繋がった。

638高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:53:00 ID:QPsp6JPc
『もしもし…』

寝起きの彼女の声に、場違いな感情が湧いてくる。

「おはよう。ごめんね、無理に起こしちゃったかな」

『んーん。それはいいの、私がお願いしたことだから。それよりも遍、なんで昨日お返事くれなかったの?』

「それもごめん。昨日、なんだか疲れてたみたいで帰ってすぐに寝ちゃったんだ」

『お家帰るまで一度もケータイ見ないで?』

「ごめん、あんまり携帯を見る習慣がなくて気が付かなかったんだ。謝ってばかりだね」

『遍はもっとケータイ見て。もっと私と繋がって。私、遍と離れただけで胸が苦しくて苦しくてたまらないの』

「ごめん、これからもっとこまめに返信するよ」

『ほんと?ちゃんとお返事してね。やくそくだよ』

「うん約束する」

また一つ、約束ができる。

『…ねぇ、今日文化祭だね』

「ああ、そうだね」

『…本当はいろんな出店に遍と見て回りたかった。いろんな遍の顔を見てみたかった』

申し訳なさで僕は、言葉を返せなかった。

『でも今日は我慢する。明日も我慢する。だからさ、来週はデート…しようよ』

「でも…来週は確か中間考査の直前のはずだよ」

『むぅ…。じゃあお家デートしようよお家デート。イチャイチャしながら、私が勉強教えてあげる…ね?』

「あ…それはいいんだけど僕の家はちょっと…」

そんな綾音と華を鉢合わせるような真似はできない。

なんとかして回避する案を模索する。

『ん?いいよ、私の家でやろ。うちの親は土日が逆に仕事あって基本いないんだぁ』

どうやら下手な言い訳を探さないで済みそうだ。

「そうしたら土曜日と日曜日どちらにしようか」

『え?土曜日も日曜日もどっちもでしょ?何を言っているの遍?』

まただ。

また彼女と僕の思想がズレている。

『二日も文化祭一緒回れないんだから二日デートしなきゃ割りに合わないよ。ううんむしろ足りないくらい。あ!そうだ、遍うち泊まっていく?』

「え?」

『そうだよ、それがいいよ。そしたらいっぱいいっぱい一緒にいられるし、ね?』

「外泊はどうだろう…。ほ、ほら華の両親は仕事って言ってたけど夜は帰ってくるのだろう?やはり迷惑がかかるんじゃあないかな」

『ううん、迷惑なんてかかんないよ。それに夜もうちにいないことの方が多いし』

嗚呼、駄目だ。

断る理由が、不自然なものしか見当たらない。

まるで泊まりたくないと言ってるみたいに。

「うん、分かった。来週末、華の家にお邪魔させていただくよ」

『うんうん。じゃあ詳しいことはまたあとでライン、するね?』

強調された語尾は、先ほどの約束を彷彿とさせる。

『じゃあ私もそろそろ支度しなくちゃ。じゃあまた学校でね、愛してる』

「…僕もだよ」

僕の返答に満足したのか、通話はそこで切られる。

右耳にかけていたスマートフォンを下ろす。

恋は難しいって誰かが言ってた。

でもそれは叶える前と叶えた後、はたしてどちらのことを言っていたのだろう。

639高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:54:38 ID:QPsp6JPc
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憂鬱な気持ちとは対照に、見事な秋晴が広がっている。

それもそうだと思う。

僕一人の気持ちを毎日空が表すわけがないし、なんなら今日、羽紅高校の生徒に限ってはこの晴れ晴れとした空と同じ気持ちの者の方が多いことだろう。

今日は一年に一度の祭典なのだから。

「どうしたのお兄ちゃん?そんなに空見てぼけ〜ってして」

「え?はは…ああ、そうだね。ただ単に見事なまでな快晴だと思ってね」

「確かに雲ひとつないね。こういう空ってお兄ちゃんなんて言うの?」

「なんて言う?ああ、そうだね。菊日和とか言うんじゃあないかな」

「え〜、違う違う。小説だったらどんな表現するのってこと」

「小説だったら?うーん、『空さへもなんだかがらんとして』とかかな」

「今度は急に分かんなくなったよぉ…」

「あれ?知らない?宮沢賢治の『ひかりの素足』」

「んー!それも違うってば!お兄ちゃんだったらどう表現するのってこと!」

成る程、そういうことか。

はて、僕だったらどう表現するんだろう…。

「そうだね…、何一つ穢れのない鮮やかな青藍、でどうかな?」

「わぁ、なんだか素敵な表現みたい…。いいねぇ、穢れのないってところが特に」

学舎へと向かう二人の歩調が同調する。

僕の右腕から、温もりと重みが絡みつくのを感じる。

「綾音?」

「ん?なーに?」

「ああ、いや。何でもないや」

「変なお兄ちゃん」

片腕から感じる柔らかな感覚。

いつか感じた寒気にも似た感覚。

今ならはっきりと知覚できる。

いや、まだ決まったわけじゃない。

これも、昨日の歪な想いもブラザーコンプレックスの延長戦にあるだけかもしれない。

少し行き過ぎた兄妹愛。

男女愛と決めつけるのはまだ早い。

違う、そうやっていつも鈍い方へと思考を偏らせるじゃないか。

さっき反省したばかりじゃないか。

歩みながら戒める。

「あれ?不知火じゃん」

不意に女子生徒の声がする。

まさか通学中に声をかけられるとは思ってもみなかったため、先程までの思考が白紙に戻りそうになる。

ああでも、綾音も不知火だ。

綾音の知人が声をかけたのかもしれない。

その考えが間違ってたことは女子生徒の顔を見ればすぐに分かった。

「やあ、荻原さん。おはよう」

「よっ」

まさか昨日の今日で名前を忘れたりはしない。

荻原 紗凪。

女子生徒の名を思い出すと突如に右腕から痺れ、軋みを感じる。

「ところで、そっちはもしかして不知火の彼女か?」

640高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:55:16 ID:QPsp6JPc
「え?…いや、綾音は」

「はいそうです、おはようございます、先輩。いつも遍がお世話になってます」

綾音は笑みを浮かべて答える。

僕が一度だって見たことのない笑みで。

「先輩って…。年下か?その娘。案外やることやってんな不知火」

「いや、待ってくれ荻原さん。綾音は」

そこまで言いかけた時、右腕の痺れと軋みがより一層激しくなった。

言葉が続かなくなり、綾音へと視線を移す。

綾音はただ無言で僕を見ていた。

その眼はひどく暗く深い、昨晩に見た己が彼女の瞳と似ている。

「隅に置けないとか言うんだっけ?こういうの。いやしかし、彼女がいるなら尚更昨日は悪かったな」

「…昨日?昨日なにがあったんですか?」

「まぁちょっと複雑なんだけどよ、結論から言うと不知火に擬似的な告白をしてもらったんだよ」

綾音の笑みに亀裂が走る。

「流れっていうか、本当はその場にいた桐生っていう別の男子に告白してもらいたかったんだけどな」

「話がよく見えてこないんですけどなんでわざわざそんな嘘の告白したんですか?」

「んー告白させた相手が…知ってるかな、高嶺 華ってやつなんだけどそいつと桐生が付き合ってんじゃねーかって噂が前からあってな。そんで桐生に気がある、恵っていうあたしの友達が噂が本当かどうか調べたくてやった茶番なんだ」

「高嶺 華って…ああ、あの」

心臓が息をひそめる。

綾音の口ぶりだと華のことをすでに認知しているようだった。

「ま、結果は桐生に別の彼女がいたって、なんとも残酷な結果だったんだけどな」

「で」

「ん?」

「で、結果はどうだったんですか?」

「いや、だから桐生には彼女が…」

「そっちじゃないです」

「…あー、あはは…。そうだよな、彼女としてはこっちが気になるよな」

こっち、と口にした時に僕と目があったのは言うまでもないことだろう。

「それがさ、よくわかんなかったんだよな。ほとんど二人同時に告白したような感すじだけど華のやつ、返事もせず固まってただけだっんだ」

「固まってただけ?よく分からないですね、その手のことに及んでは百戦錬磨のような方が固まってただけなんて」

「…まー、あんなよく分からないカタチで告られたのは流石に初めてだったんじゃないかな。つーか、やっぱ華のこと一年も知ってるんだな」

「はい、よく噂は聞きますよ。誰も手が届かない高嶺の花が二年生に咲いてると」

「流石だなぁ。…っとまぁお二人仲良く学校向かってるところ邪魔して悪かったな。あたしは先に学校に向かうことにするわ。また後でな、不知火」

「あの…ああ、うん。また後で」

結局、誤解は解けずに荻原さんは強い歩調で僕らの先を向かっていった。

641高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:56:29 ID:QPsp6JPc
「…うーん、アイツじゃなかったな。少し匂いが違う。それにあんなガサツそうな女がお兄ちゃんに合うわけがない」

「あ、綾音。少し腕を緩めてはくれないか?指先が痺れてきたんだ」

しかし、僕の願いは聞き入れられるどころか、寧ろさらに強く右腕が締め付けれられていく。


「…お兄ちゃん、告白したんだ。ふぅん。しかもよりにもよってあんな碌でもなさそうな女に」

「い、痛いよ綾音」

「どうせ顔がいいだけの売女でしょ。色んな男に寄って集られていい気分になって」

「あ、綾音。幾ら何でも人のことそんな風に悪く言っちゃ駄目だ」

どんなに情けなくても僕は高嶺 華の彼氏だ。

彼女の悪口を黙って聞き流すことはしてはならないと静止する。

「なに?お兄ちゃんもあの女を庇うの?顔がいいから?むかつく……むかつく…むかつく、むかつく!むかつく!!!!お兄ちゃんからの告白なんてどうせなんとも思ってないんだよあいつ!ああもう!!あたしが欲しくて欲しくて堪らないものなのに!どうせあいつには数ある一つでしかないんだよ!むかつく!!!!!」

澄み切った秋の朝に怒号が響く。

綾音の怒りの止め方がわからない。

しかしこのまま黙っていられるほど、僕の腕に余裕はなかった。

「…綾音!いい加減にしなさい!朝なんだからそんなに叫んだら近所迷惑になるし、そもそも会ったこともない人の悪口も良くない!それに僕の腕も千切れそうだ」

口にしておいて随分とまぁ、ちぐはぐな説教だなと思う。

それもそうだ、綾音に怒鳴るなんてもう記憶にないくらい昔のことだからだ。

「…あっ、ごめんなさい…」

先程の憤怒はどこへやら。

随分と久しく怒鳴られた綾音は、その瞳を震わせながら腕を解いた。

指先に血が巡るのを感じる。

今周りに人がいないのが幸いだ。

少々風変わりな兄妹喧嘩を見られないで済んだ。

「…おに……んに……れた…。…いつ…せいだ。…かつく、む…つ…」

右腕に血を与える代償に、今度は俯いたまま、独り言を唱えるようになってしまった。

それにしても、会ったわけでも話したわけでもないのにあの有様。

恋人だと紹介した暁には、どうなるか分かったものではない。

楽天的な性分ではない故、あまりあてにしてはなかった解決案である『義妹と彼女の和解』というのはどうやら無理そうだ。

綾音も歩みを止めたわけではないので、そのまま学舎へと向かう。

先程まで同調していた歩調は今では不協和音を奏でている始末。

全て何事も穏便に済ませる方法はないのだろうか。

何とも居心地の悪くなってしまった通学路を歩く。

642高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:57:10 ID:QPsp6JPc
歩く。

止まる。

歩く。

その繰り返し。

結局そのまま綾音と僕が言葉を交わすことなく羽紅高校へ辿り着いた。

普段の登校時刻よりかは幾分か遅い時間なのだが、それでも一般的な登校時刻よりは随分と早い。

それだというのに生徒たちの賑わいがちらほらと聞こえてくるのは今日が祭りの日だという証拠であった。

流石にここまで辿り着いたからか、綾音の独り言はすっかり止んだようだった。

相変わらず俯いていることには変わりないのだが。

「綾音」

俯きながら歩いていた綾音はピクリと止まる。

僕はそっと綾音の頭に手を乗せる。

「さっきは僕も言い過ぎたよ。ごめんね」

先程から悔いていた気持ちを口にする。

「おにい…ちゃん」

ぎこちない手つきで綾音の頭を撫でる。

これもまた最後にしたのがいつだったのか覚えていない行動であった。

俯いていた綾音の顔が、瞳が徐々に上へ、僕へ向けられる。

「…。…い、いつまで頭撫でてるの!あたしもう子供じゃないんだよ!」

少し頰を紅潮させ僕の手を振り払う。

「あれ、駄目だったかい?昔はよく綾音にやってたような気がしてたんだけど」

「だから昔は昔でしょ!もう子供扱いはやめてよね!それにお兄ちゃん最近全然撫でてくれなかったから下手になりすぎ!」

撫でないで欲しいのか撫でて欲しくないのか。

本音がよく分からないことを言う。

何にしても、いつもの綾音に戻ったような気がして僕も安堵の気持ちが芽生える。

「はぁ、せっかくの文化祭なんだしイライラしてもしょうがないよね。…それじゃあお兄ちゃん、朝の出欠確認終わったら校門で集合ね」

「分かったよ。迷子にならないようにね」

「あー!また子供扱いしてる!」

「ははは、ごめんごめん」

懐いてくれる義妹を可愛らしく思う。

そんな関係が心地よくて僕は十年も兄を演じてきた。

演じてきたつもりだった。

確かに兄妹になった時、綾音は確か六歳だったか。

出会った時の小さな綾音を僕よりひととせしか変わらないというのに幼く感じすぎていたのかもしれない。

僕を"義兄"としては受け入れることができても"兄"としては受け入れるにはもう難しい年頃だったのではないか。

僕は綾音を本当の妹のように思ってきた。

綾音も僕のことを本当の兄だと思っているのではないかと思い込んでいた。

でも綾音が僕を義兄として見るか、異性として見るかは綾音が決めることだ。

もしかすると僕らが兄妹になるには僅かに遅かったのかもしれない。

かと言って誰かがどうこうできたわけでなければ、誰も悪くはない。

少なくても僕は綾音をずっと妹だと思ってきた。

今更、一人の女の子として見るのは無理だ。

だから、やはり、もし、綾音が僕のことを一人の異性として見てるなら、その想いを受け入れることはできないし、その気持ちを諦めるように説得するべきなのだろう。

どうかただの僕の自惚れであってほしい。

643高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:57:50 ID:QPsp6JPc
「じゃあまた後でね」

「うん、また」

再会の約束をしたのち下駄箱にて僕らは別れる。

自分の下駄箱へと向かい小さな扉を開けるとなにやらビニール袋に包まれたものがそこにあった。

「…なんだろう」

何重にも包まれたものビニール袋を一つずつ外していく。

四枚ほど外した時に一体何が包まれていたのかが分かるようになった。

「これは…」

弁当箱だ。

重さといい温もりといい中身が入っていることは明白だった。

見た目は薄いピンク色の弁当箱で、一体全体何故こんなものが入っているのか分からなかった。

「サプラーイズ」

僕の左耳に誰かが囁いた。

驚いた僕はその誰かから離れるように振り向いた。

「ひどいなぁ…。そんな顔しないでよ。あなたの彼女だよ?」

「お、驚かさないでよ、華」

華、と口にしてから慌てて周りの様子を伺う。

こんなところを誰かに、特に綾音に見られたりしたらどうなってしまうのか分かったものではない。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。誰かが来てもただのクラスメイトの会話ってことにすればいいんだから」

それよりも、と彼女は続ける。

「それね、私の手作りお弁当なんだぁ」

僕の右手に握られているのが得体の知れないものから彼女のお手製弁当へと様変わりした。

「そうなのかい?ありがとうすごく嬉しいよ。…でもどうして?」

「どうしてって、遍今日出店の食べ物とか食べるでしょ?もしかしたら何処ぞの女が作ったかも分からないものを食べるかもしれないし、そんなもの食べたら遍の体が穢れてしまうし、だから私の愛が詰まったお弁当で遍の穢れを浄化しなきゃ」

「穢れってそんな…」

そんな言い方はないのではないか?

そう言おうと思ったが言えなかった。

綾音には言えたのに華には言えなかった。

「まぁそもそも、遍に私のお弁当食べさせたいってずっと思ってたし。いいよね?これからは毎日、遍のお弁当私が作って」

「気持ちは嬉しいだけれども、毎日は流石に大変なんじゃあないかい?」

「ううん、大変じゃないよ。むしろ私が作りたいの。毎日毎日毎日、愛を、愛情を込めて作った弁当を遍が食べてくれたら、私の愛が遍の体内に入っていくってことでしょ?そんなの…、素敵すぎて言葉にならないよ」

紅潮させた両頬に手を当てる華。

644高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 18:58:21 ID:QPsp6JPc
まただ。

理由のある愛を求める僕と理由のない愛を与えてくる彼女。

僕の自己肯定の弱さと彼女の愛情の強さが噛み合わない歯車となって僕の心を歪めていく。

「じゃあ華が作ってくれるなら、僕はそれを毎日楽しみにした方がいいかな」

「うん!楽しみにしてて!ほんとに料理には自信あるし、冷凍食品なんて愛のないものは入れないからね!」

「あ、はは。華の愛なら解凍してしまいかねないよね。楽しみしてるよ、じゃあそろそろ」

いつ誰に見られるか分かった状況ではないため、早々に切り上げたい僕は、やや不自然な会話の切り方をし、踵を返す。

「まって」

その言葉が聞こえた時と僕の左腕を引かれたのは同時のことだった。

そして彼女の唇と僕の唇が触れ合ったのは、それより少し後のことだった。

「…ッ。愛してるよ遍」

僕の瞳を覗きながらまた囁く。

キスをされたことに気づいた時、僕は慌てて周りの様子を伺う。

誰かに見られた様子はなさそうだが、保証はない。

「…話が違うじゃないか」

「約束は守ってるよ。誰にも私たちのこと言ってない。それに…誰も見てないよ」

確証がないのになぜそんなにも自信に溢れているのか、自信のない僕にはわからない。

もう一度、強引に踵を返す。

「今回は見られてないかもしれないけど、いつ誰が見るか分からないから、今後はこういうことは控えてほしいんだ。約束…だから」

「はーいっ。ごめんね、遍。次から気をつけるからっ」

強引に会話を切り上げた僕の背中から聴こえてきたのは、いつかの日に聞いた穢れのない無邪気な少女の声だった。

645高嶺の花と放課後 第11話:2020/01/27(月) 19:01:33 ID:QPsp6JPc
以上で投下終了します。
ざっと最終話までのプロットくんで大体残り8話くらいの計算になったんですが、文化祭の1日目で1話使おうと思ったら1日目の朝で終わりました。プロットはあんまりあてにならないですね←
なのでもう少しだけお付き合いください。また12話でお会いしましょう

646雌豚のにおい@774人目:2020/01/29(水) 19:16:12 ID:wxI/KO7I
乙です
すごく良い

647雌豚のにおい@774人目:2020/01/30(木) 07:56:38 ID:yPtrlXQk
乙ですやったヤンデレ2人分読めたぞ
2人を会わせたらとにかくまずいしどっちも引く気はないしで読んでてハラハラする

648 ◆ZUNa78GuQc:2020/02/11(火) 13:28:38 ID:/Ln2JSgo
テスト

649 ◆lSx6T.AFVo:2020/02/11(火) 13:32:07 ID:/Ln2JSgo
お久しぶりです。
『彼女にNOと言わせる方法』の番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編)を投稿します。

650番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:32:48 ID:/Ln2JSgo
「なぁ、せっくすって知っているか」
 放課後、後ろの棚からランドセルを取り出していると、横から急に声をかけられた。
 見上げると、立っているのは横にも縦にも巨大な男子であった。身に着けている迷彩柄のタンクトップはパツンパツンに張りつめて悲鳴を上げ、偉そうに組まれた腕は樽のように太い。
 訳知り顔で見下ろしてはいるが、瞳には知性の欠片もなく、ハリボテの城、という言葉が頭に浮かぶ。
「入るクラスを間違えているぞ、エリィ。もう秋になるんだから、いい加減に自分のクラスくらい覚えろ。ここは三組、そしてお前さんは四組。あんだーすたんど?」
「クラスは間違えてねえよ! あと、そのエリィって呼び方はやめろって前から言っているだろ」
 と言って、彼はその妙に長い襟足を左右に揺らした。キューティクルがベストコンディションなのが最高に腹立つ。たぶん『襟足・長い』で画像検索したらトップにコイツが出てくる。これ以上、検索エンジンを汚すのはやめろ。
「なんかあれだよな、日曜日にスウェットで出歩いているだらしない両親に挟まれた息子って感じの髪型だよな、それ」
「俺の両親に謝れ!」
 本当にその通りだったみたいなので、なんともコメントしづらい。
「ぼ、僕は、わ、悪くないと思うよ、ほら、人の目を気にしない唯我独尊の人って感じがしてさ……」
「へたくそなフォローはやめろ。目元が大爆笑してるぞ、口元がひくついてんぞ」
「で、なにしにきたのよ。もう帰るところなんだけど」
「お前に会いに来たんだよ」
 言葉だけを切り取れば情熱的なセリフだが、むさ苦しいヤンキー予備軍の男子に言われても殺意しかわかない。
 エリィは小憎らしい笑みを浮かべ、
「んで、話を戻すが、さっきの質問の答えは?」
「耳にしたことはある」
 嘘だった。知らない言葉だった。いや、どっかで耳にしたことはある気がするが、それが何の意味を持つのかはさっぱりだった。だけど、正直に申述して目の前の阿呆男子に無知をさらすのはなんとなく悔しくて、曖昧な回答で誤魔化す。
「へっへーん。ま、おバカの〇〇にはわからんだろうよ」
「底辺同士が知識量で争うのは虚しくならんかね」
 僕の苦言は耳に入っていないようで、エリィは得意げに鼻をこすっている。さすが問題児、人の話を聞かない。
 やれやれと肩をすくめる。

651番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:33:17 ID:/Ln2JSgo
 このはた迷惑な巨漢の名前はエリィという。
 隣のクラスの悪童で、時折、彼の悪行が風の噂で流れてくるから、学内の知名度はそこそこあるだろう。
 ま、悪行つっても、どれもこれもしょーもないイタズラばかりだ。
 カツラ疑惑のあった一組の担任教師に黒板消し落としトラップを仕組んだり、学校のマドンナに恋をするピュア男子相手にニセのラブレターを送ったりとかそんなん。
 ちなみに、一組の担任は本当にカツラだったし、校舎裏に呼び出された男子は背後から現れたエリィを見て号泣したらしい。やっぱ悪童だな、コイツ。
 そして、問題児同士ってのは何かと顔を合わせやすい。
 ガミガミ説教されている最中に、ふと横を見ると、同じくガミガミ説教されているエリィがいる。そんな場面が何度もあった。
 その度に、まーたアイツか。若い時分からあんな頻度でやらかしているなんて。きっとロクな大人にならないんだろうな、とか思っていた。
「〇〇にだけは言われたくねえよ」
 その遭遇率も手伝ってか、今まで一度も同じクラスになったことないのに、エリィとは自然と知己を得ることとなり、今のような奇妙な関係を築いてしまったというわけだ。たぶん、こんな繋がりはさっさと切り捨ててしまった方が僕のためになるのだろう。
「よく言うぜ。絡んでくるのは、いつもそっちからだろう」
 ご明察。
 生憎と小生、奇人変人が大好きなのだから仕方がないでござろう。
「〇〇、放課後は暇だろう」
「暇じゃないよ。これから河川敷に草野球をしにいくんだ。最近は、隣町の学校のやつも参加してくれているから、ついに外野を配置できるようになったんだぜ。良かったらエリィも来いよ」
「野球はまた今度だ」
「なら、サヨナラだ」
 と、ランドセルを背負って帰ろうとすると、ロックし忘れてだらしなく垂れていたカブセを掴まれた。
「やめい、教科書が落ちるだろう」
「お前のランドセルに教科書が入っているわけないだろう。始業式の時からずっと置き勉だろうが」
「あ? さっきからなんだお前その態度は。僕に対してこれ以上、無礼な行いを続けるのならば、氷の女王にお願いして学校から追放させっかんなマジで。なんせ、俺と女王はマブだからよぉ……」
「脅し方が生々しいな。そして、あくまで他力本願的で自分の手を汚さないところが実に〇〇らしい……」
 同じ穴のムジナにまで引かれてしまった。心外である。
 ま、そもそも僕と氷の女王さまの間に、関係らしい関係はない。強いて言えば無関係。たぶん、僕のことを路傍の石程度にしか認識していないだろう。

652番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:33:45 ID:/Ln2JSgo
「わかった、降参。その、桃の節句? だっけか。僕にはわからんよ、答えを教えてくれ」
「どうして、ひな祭りになるんだよ。せっく、じゃなくて、せっくすだよ」
「どっちでもいいわい。んで、意味は?」
「俺もよく知らない」
「おい」
「だから、その正体を確認しようってわけよ」
 彼が浮かべる下卑た笑みを見て、「あ、ろくなことじゃないんだな」と一瞬で理解できた。こやつはきっと、不健全極まりないことを仕出かそうとしている。僕を悪の道に引き込もうとしている。
「元から悪だろうよ」
 勘弁してほしい。模範的な健全ボーイの僕にはそんな道は相応しくない。不埒で爛れた放課後よりも、汗水垂らして白球を追いかけている爽やかな放課後が似合うに決まっている。
「ありもしない虚像をつくりあげるな」
 といって、太い腕を僕の首に絡ませてくる。
「いつも死んだ魚みたいな目をしているくせに、何が爽やかな放課後だ。今さら、健全な道を歩もうたって、そうはいかんぞ」
「失礼極まりないな。そもそも僕の目をパクっているのは魚さんサイドであって、なんならライセンス使用料を徴取したいくらいだよ」
 ギブギブ、と彼の腕をタップしながら考える。
 ……そうだなぁ。
 たまにはエリィと遊んでやるのもいいかもしれない。最近はかまってあげられなかったし。飼い犬だって、しばらく散歩しないでいるとストレスがたまって反抗的になるっていうしな。ここらでガス抜きしておかないと。
「誰が飼い犬じゃい」
 と、腕の力がぐっと強くなる。
 僕はわあわあ叫びながら、タップする手を速めたのだった。

 学校から商店街の方へ向かう道すがら、ちょっとした大きさの公園がある。
 いかにも寂れた感じの公園で、まともな遊具はひとつもなく、公園らしい要素といえばすみっこに設けられた砂場くらいだった。
 だが、その砂場でさえも、長らく遊び手を失っているせいで砂がカチカチに固まっており、雑草まで生えている始末。
 ベンチも木目が荒くて肌をチクチク刺すので、ご年配の方の憩いの場としてさえ機能していない。子どもにも大人にも見放された、ヒューっと木枯らしが吹く様がよく似合う、まさに場末といった公園であった。
 その入り口付近に、ふたりの男子が立っていた。
 両者とも鼻が低い、のっぺりとした顔立ちをしていて、黒目がやたらと大きく、黒豆を想起させるような、つぶらな瞳が印象的だった。いわゆるおぼっちゃん刈りと呼ばれるその髪型は、近所の床屋で整えてもらったものだろう。

653番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:34:12 ID:/Ln2JSgo
 見覚えがあった。たしか、同じ学年の生徒だ。エリィと同じ隣のクラスの……。
「名前はなんだっけな……喉のあたりまで出かかっているんだけどな……たしか双子の……」
「「双子じゃないから」」
 ハモって否定された。どうやら双子じゃないらしい。
 ……え? マジで? こんなに似ているのに? もはやクローンってレベルで同じなのに?
「……わ、悪い悪い。顔立ちも似ているし、勘違いしていたよ。僕は〇〇っていうんだ。おふたりさんの名前は」
「荻野だよ」
「萩野だよ」
「やっぱり双子じゃないか」
「「双子じゃないから!」」
 ハモって否定された。どうやら双子じゃないらしい。
 ……え? マジで? こんなに息ぴったりなのに? 数年後くらいに、ふたりは実は幼い時に生き別れた双子の兄弟だったという驚愕の事実が判明しそうな気がするけど割とどうでもいいし全然興味が持てないし誰も得しなさそうなので終わりにしようそうしよう。
「今日は、この四人で作戦を決行する」
「作戦ってほど、たいそうなものでもないけどね」
 萩野くん(荻野くんかもしれない)が冷静に指摘する。
 僕は帰りたい気持ちを必死に押さえつけて訊く。
「エリィ、これから何をするのか端的に話せ。くれぐれも作戦名とか、うざったい要素は付け加えるなよ」
「わかったわかった」
 質問を受けて、エリィは空っぽのランドセルから、一枚の円盤を取り出した。西日を反射して目にまぶしかったので、射光を手で遮る。
「せっくすの秘密は、これをみれば判明する」
 彼は、ふふんと鼻を鳴らし、得意げに話し始めた。
 事の顛末はこうだ。
 ある日の放課後、エリィ少年はトボトボと帰り道を歩いていた。たくましい身体を猫背にして終始ため息を吐きながら、何やら憂鬱なご様子。
 なぜなら、返却された算数のテストが二十二点と惨憺たる結果であったからだ(ちなみに僕は十八点だった)。
 エリィの両親は、お世辞にも頭がよろしいとは言い難かったが、子の勉強面に関するしつけはやたらと厳しかった。
 勉学では堕落していたであろう自身の少年少女期のことはすっかりとわきに追いやって子を責め立てるのはいかがなものか、というエリィ少年の至極真っ当な指摘には耳を貸さないだろうし、仮に口にしたらチョークスリーパーを決められることは明らかであった。
 途方に暮れていた彼は、自宅への近道である住宅街裏の空き地を歩いている途中に、悪魔のささやきを聞く。

654番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:34:38 ID:/Ln2JSgo
 ——この残念テストを捨ててしまえばいい。
 悪童という生き物はとかく悪の道に堕ちやすく、エリィ少年は即座に助言に従い、ランドセルからテストを抜き出すと、くしゃくしゃに丸めて草むらに投げてしまった。
 満足感を胸に立ち去ろうとしたが、この少年、妙に律儀なところがあり、「でもポイ捨てするのは良くないよな」と思い立ち、捨てたテストを回収しに草むらに分け入っていった。
 そして、つま先に何かを小突く感触。
 視線を下げると、幾多の雨に曝され日焼けを繰り返した、カピカピに干からびた成人誌があった。表紙の色は薄れ、文字は輪郭を失い、ページは反り返っているうえに所々くっついてしまっていた。
 まともに読むことができなさそうな一品であったが、羞恥心の入り混じった好奇心からそれを蹴り上げてみると、表紙がめくれ、一枚の円盤がフリスビーのように地面を滑空した。
「それがこれってわけよ」
 穴の部分に指を差し込み、見せびらかすように僕らに見せた。
「ってことは、それはつまりエロエロな代物ってことかい」
 荻野くん(萩野くんかもしれない)が顔を赤らめて、わなわなと震えている。どうやら事前に聞かされていなかったらしい。同じく初耳だった僕も無言で抗議の視線をよこすが、問題児はどこ吹く風で、
「おうよ。ま、俺らも高学年になるし、そろそろ大人の秘密も知っておくべきだろ」
「でも、こういうのはよくないって先生が」
「先公がなんだよ。もしかして萩野、ビビッてんのか」
「び、ビビッてはないさ。あと、ぼくは萩野じゃなくて荻野なんだけど……」
 相変わらず紛らわしいな、とボヤキながら荻野くんじゃない方に目をやり、
「ところで萩野、例のブツは持ってきたか」
「一応」
「よし、それじゃあ場所を変えよう」
 公園の中心に、ボーリング球を半分に切って、ところどころに大小の穴を開けたような謎のオブジェがある。
 僕たち四人はその中に入り、円形になって座った。
 秋になったとはいえ、まだまだ夏のしっぽが飛び出ているような時期である。オブジェの中はムッとした空気に包まれていて、男子四人が密集するのには精神衛生上よろしくない環境だった。
「今日は一日中ヒヤヒヤしていたよ。見つかったら没収だしね」
 そう言いながら萩野くんがランドセルから取り出したのは、二つ折りのポータブルDVDプレイヤーだった。一目で安物とわかるプラスチック製のそれは、かなり傷んでいるように見える。
「兄貴の部屋から持ってきたんだ。古いけど、電池も取り換えておいたし、問題なく起動できるよ」
 セッティングを始める萩野くんを一瞥してから、僕は横に座る荻野くんをじっと見つめる。

655番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:35:08 ID:/Ln2JSgo
「な……なんだい、〇〇くん。ぼくのことを凝視して」
「いや、それで荻野くんは何を持ってきたのかなって」
「いや、ぼくは別に何も……」
「は? じゃあ、何しに来たのキミは。そこはお菓子やらジュースやらを出す場面じゃないの? 無いなら、すぐに買ってきてよ」
「何も持ってきてないのはキミも一緒だろう!」
 うむ、これで覚えた。萩野くんは有能で、荻野くんは無能。よっし、ようやくふたりの区別がついたぞ。
「あ、なんかディスクが入っている。多分、兄貴のかな」
 口が開いたプレイヤーの中には、別のソフトが入っていた。
 萩野くんは元から入っていた円盤を慎重に取り出し、ランドセルの上に置いてから、エリィの円盤をセットする。
「そもそもこれ、再生できるのかな。捨てられてから大分経っているんでしょ?」
「さあ、まだ再生していないからわかんねぇや。もしかしたら映らないかも」
「計画性皆無だなおい。せめて再生できるかくらいはチェックしなかったのか」
「う、うるせえよ。家のテレビじゃこんなもん観れないだろう」
 意外とチキンだなコイツ。いや、エリィの両親がおっかなすぎるだけなのか。
「それじゃあ始めるからね」
 と、萩野くんが再生ボタンを押す。
 モノがチープなせいか、光度をマックスにしてもやたらと薄暗く、僕ら四人は身を寄せ合って画面を注視する必要があった。
 しかし、
「始まらないね……」
 ▷マークを連打してみるが、画面は一向に変わらず。
 悪い予感が当たってしまった。
 僕は真横にいるエリィを素早く羽交い締めにした。
「よし、極刑。今から、そのうざったい襟足の断髪式を行う」
「なんでだよ、おい、離せ離せ!」
「僕の貴重な放課後を潰した罪は重いのだ」
「ハサミならあるよ」
「よくやった荻野くん。茶菓子を持ってこなかった非礼はこれでチャラにしよう。よし、エリィ。辞世の句を読め」
「だああぁ! やめろ! 他はどこ切ってもいいから襟足だけはやめろ! 襟足だけはっ!」
 体格差があるのでホールドするのにも難儀する。「どうどう」と暴れ馬をなだめる武士の気持ちがわかるぜ。

656番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:35:56 ID:/Ln2JSgo
 狭苦しい屋内闘技場で死闘を繰り広げていると、
「ねぇ、これって、せっくすって読むんじゃないの」
 萩野くんが、元々プレイヤーの中に入っていたDVDの印刷面を僕らに見せる。過激でよく意味のわからない文章の中に『S』と『E』と『X』の三つのローマ字があった。しかし、悲しい哉、三人どころか四人もいるのに文殊の知恵は発動せず、低偏差値の頭は英語の読みに今いち確信が持てなかった。
「とりあえず、再生してみる?」
 僕がそう提案すると、三つの頭が上下した。その肯定は知的探求心から来るものではなく、単にこのままお開きになるのは味気ないという消極的な理由からだった。特に、自身の落ち度を追及されたくないエリィはぶんぶんと頭を振っていた。
 プレイヤーにDVDをセットし、蓋を閉じる。続けて電源ボタンを押すと、画面に淡い光が灯った。
 後は、再生ボタンを押すだけになった。
「最後くらいは主催者に華を持たせてやるよ」
 そう言って、エリィの方へプレイヤーを寄せる。
 ゴクリ、と生唾を飲み込む音とともに、彼の喉仏が波打つように隆起する。
「それじゃあ……いくぞ」
 爆破スイッチを押すみたいなテンションでの物言いであったので、なんとも奇妙な緊張感に包まれる。
 そして震える指先が再生ボタンに触れる瞬間、
「ちょっと待ってほしい」
 と、制止の声が上がった。
 発言者は意外なことに萩野くんだった。彼は複雑な表情をしながら、歯切れの悪い口調で続ける。
「もしも……もしもの話なんだけどさ、これがエロエロな代物だったら、ぼくの兄貴もエロエロな人ということになるのかな」
「まあ、なるだろうな」
「ぼくの兄貴は、いつも大人しくてマジメで勉強もできて誰からも尊敬されていて、そんなエロエロな代物を持つような人じゃないんだ」
「ニュース番組のインタビューに出てくる、容疑者についての印象を話すご近所さんみたいな感じになるな。もう最後まで突き進むって決めてるんだ。水を差すんじゃない」
 自分の失態をうやむやにしたいエリィは冷淡にあしらい、ボタンを押そうとすると、萩野くんがひしと腕に抱きつく。
「や、やっぱり無理だ。どうか、ご勘弁を。もし自分の兄貴がエロエロだと知ったら、今後、どんな風に接していけばいいのかわからない」
「うるせえ、引っ付くんじゃねえよ」
 まとわりつく腕を振り払うと、萩野君は「よよよ」としくしく泣き出してしまった。
 さすがのエリィは同情する様子を見せ、彼の肩を優しく叩く。
「安心しろ、萩野。もしお前の兄貴がエロエロな野郎だとしても、少なくともここにいる〇〇よりはマシなのは間違いない」
「こんな人間のクズと比べられたって、なんの慰みにもならないよ」
「おい、言ったな萩野くん、言ってしまったな」

657番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(前編):2020/02/11(火) 13:36:34 ID:/Ln2JSgo
 そこから、さらにひと悶着。
 結局、初めの状態に戻るまでかなりの時間を要した。
 十二回の延長戦まで続いた野球の試合後のように疲弊しきる中、僕は最終的な決断を下した。
「……とりあえず、見るだけ見よう。エロエロじゃない可能性もあるわけだし」
 疲れ切った顔で、皆が同意する。
 そして再度、四人はDVDプレイヤーに向き合うこととなった。
「それじゃあ、今度こそいくぞ」
 隣であぐらをかくエリィが物々しく言った。
 表情が硬いのは、禁止されているルールを破る抵抗感からだろう。
 真の悪党ならば、こういう局面でも躊躇わないのだろうけど、僕やエリィみたいな小悪党には荷が重い。十八禁のアイコンを見ると、二の足を踏んでしまう。誰に迷惑をかけているわけではないのに、不安になる。
「一蓮托生だかんな」
 慣れない四字熟語を使って、エリィが再生ボタンを押す。
 よし、これで何かあった時はコイツに全責任を押し付けられるな。いつだって、計画を実行したヤツが一番の責任を負うのだ。ふっはっは。
 何はともあれ、ようやく破廉恥な上映会の幕が上がった。
 ……上がらない方が良かった気がする。

658 ◆lSx6T.AFVo:2020/02/11(火) 13:38:08 ID:/Ln2JSgo
投稿終わります。

659雌豚のにおい@774人目:2020/02/13(木) 23:07:05 ID:GD3OkbGo
乙乙!

660高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:01:40 ID:FtphCcUY
投下します

661高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:02:10 ID:FtphCcUY

僕らのクラスの喫茶店というアイデアが採用されたのは生徒会へ出す模擬店の申請期限間際のことだった。

当然クラスTシャツだとか衣裳なんてものを用意する時間はなく、それぞれの家庭からエプロンを持ってこようということになっていた。

とはいってもそのエプロンを付けるのも初日の午前を担当する生徒だけで、おおよそクラスの四半分だ。

それでも、普段とは異なるエプロンという家庭的な風貌に浮き足立つ雰囲気を感じる。

こと高嶺の花に至っては。

「やば、高嶺。マジで何着ても似合うな」

「あいつのことだし、絶対料理とか得意そうだよな」

「それありえるな。いやー食ってみてぇなー」

クラスの男子たちの会話を聞き耳立てて盗むと、この様子だ。

改めて彼女の人気の高さが伺える。

「うちの高校の家庭科、調理実習がねぇからなぁ…。調理実習さえあれば一回は食える機会ありそうなのになー」

「ははは、お前じゃ無理無理」

「んだとー!」

彼らが食したいと望むそれは、僕の鞄の中にある。

みっともない、ちっぽけな優越感が生まれてしまう。

器が小さいと己を戒める。

662高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:03:35 ID:Wa88zeS6
「おーっす、遍っち」

背後から太一の声がした。

「おはよう、太一。遅かったじゃないか、遅刻ギリギリだよ」

「いんやぁさ、今日土曜じゃん?おれっち、目覚ましかけるの忘れちゃってさぁ…」

「つまり寝坊したということだね」

「…まぁそんなとこだ、あはは」

「まだ出欠取ってないけどほんとに時間ギリギリだよ。明日は気をつけなよ?」

「任しとけって!」

自信満々の返答に返って不安を覚え、苦笑してしまう。

太一がやってきてからすぐに担任の太田先生が締め切りだと言わんばかりに、教室へ入ってきた。

「みんな、おはよう」

太田先生の挨拶に、皆バラバラの挨拶を返していく。

「えーっと、今日は待ちに待った文化祭だけど羽目を外しすぎて、怪我をしたり、暴れたりしないようにな」

「先生ー!さすがに暴れるはないでしょー!」

どこからか茶化す声が聞こえる。

「分からんぞ?どこぞの阿呆が暴れるかもしれんからなぁ。その時は文化祭は先生が付きっきりになるからな」

「えー!!!」

クラスから笑い声が漏れる。

太田先生の台詞をどうやら冗談だと捉えたものが多いようだ。

太田先生は普段厳格でありユーモアに欠けるため、時折のそういった戯け話が嘘か真か判断が難しい。

「そうならんように最低限の秩序をもって今日と明日を過ごしなさいということだ。ほら、文化祭とはいえ立派な学校の行事だ。出欠を取るぞ、飯島」

クラスメイトたちの名前の読み上げが始まった。

あ行の名前が呼ばれて、その中で出席を確認し終えると次はか行の名前が呼ばれていく。

一人、また一人と出席していることを各々の返事で伝えていく。

そしてさ行に差し掛かる直前、か行の最後の名前が読み上げられる。

「小岩井。小岩井は今日来てるか?」

一人の女子生徒の名前。

それを読み上げられた時、浮き足立っていたクラスの雰囲気は一度、地に足をつける。

不自然な静寂が訪れる。

彼女が学校に来なくなってからもう五日経つ。

彼女の欠席が異常なものだと感じ始めてきた、そんな雰囲気を感じる。

「…まぁ、体調も万全に回復していないのかもなぁ。心配だな」

おそらく太田先生もこの雰囲気もこの雰囲気の原因も気がついているだろう。

「季節の変わり目で体調も崩しやすい時期だから、皆も体調管理しっかりするようにな。じゃあ佐藤」

小岩井さんを欠席とみなし、太一の名前が読み上げられる。

「はい」

太一の名前が読み上げられるということは、すなわち次に読み上げられるのが僕の名前だということだ。

「不知火ー」

「はい」

彼女の欠席について異常だと思っている者のうち、責任感を感じているのは僕だけだろう。

僕が彼女の想いを受け入れられなかったから。

いつもなら自惚れるなと己を戒め、それを簡単に受け入れるくせに、こういった都合が悪くなる場合だと、戒めの言葉を受け入れ難くなっている自分がいる。

どうしてこんなにも被虐的な思想に偏るのだろう。

自分の幸せを自分が一番望んでいないかのように。

663高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:04:38 ID:FtphCcUY

「…。…じゃあ最後、吉田」

「はい」

次から次へと呼ばれていった生徒の名前は、ついに最後の名前まで辿り着く。

結局このクラスにおいて、欠席はただ一人ということとなった。

「小岩井は残念だが、他の者は来れて良かった。じゃあテストも近いが今日は数少ない行事の内の一つだからしっかり楽しむようにな。それじゃあ十六時にまた教室に集まっているように、解散」

その一言を待ってましたと言わんばかりに、クラスの空気が弾けるのを感じる。

「うへぇ、テストの話は余計だよなぁ〜」

太一はすっかりテストの一言を聞くだけで、苦虫を噛み潰したような顔している。

「きっとメリハリをしっかりしろってことだよ。勉強する時はする、遊ぶ時は遊ぶ。今日明日は後者ってことさ」

「んなこたぁ、分かってるんだけどさー、やーっぱ、勉強はどうもやりたくないんだよなぁー」

「ははは、そうだね。ほらでも今日は楽しもうよ」

「そうだなぁ。遍っちどっか行きたいことあるか?」

太一にそう聞かれてからしまったと思った。

「あ…ごめん。初日の午前中は綾音と周ろうって約束してて」

苦虫を噛み潰したような表情から剣呑を孕んだ表情へ変わりゆく。

「おい!こら!このシスコン!友達よりも妹か!?というか文化祭まで仲良しこよしか!?」

割と大きな声で僕を責め立てて行く。

「ちょ、ちょっと落ち着いて。別にいいじゃないか、兄妹同じ学校だしちょっとくらい一緒に回ったって」

「いいや、普通じゃないね!文化祭を一緒見て回る兄妹は普通じゃない!」

勢いこそまくし立ててはいるが、雰囲気からは全くもって怒りを感じず、半分本心半分冗談として捉えるべきなのだろう。

けれど、太一の言う普通じゃない、という言葉を割れたガラスの破片の様になって、僕の胸に突き刺さる。

心臓が悲鳴をあげ、反論の句が告げられない。

その間も太一は大きな声を僕に浴びせていく。

徐々にクラスメイトたちの視線と注目が集まるのを感じる。

「みんなも見てるし落ち着いて太一。ならさ、太一も一緒に回ろうよ、綾音とさ」

クラス全体とは言わないが、すで周囲の生徒たちが、僕たちに注目をしているため、なんとか太一の勢いを制止しようとする。

自分で言ってから気がつく。

そうだ、別に綾音と二人っきりで回る必要はないのだと。

「…綾音ちゃんと?ふむ…よかろう」

よかった、太一の勢いにもブレーキがかかった様だ。

注目していた生徒たちも学友達の戯れと分かるや否や、既に各々の興味を文化祭へと向けていた。

幸い、周囲の生徒達以外はあまり見ていなかった様だと、一通り確認をする。

確認し終え、大丈夫そうだなと、安堵の気持ちが湧く。

が確認の時に感じた、一つの違和感。

もうすぐで安堵の気持ちで満たされるところを、一つの違和感がそれを食い止める。

もう一度、もう一度だけ、違和感の元へ、『高嶺の花』へと向ける。

「…っ」

やはりだ。

見ている。

あの黒い瞳で。

数秒かあるいは刹那とも呼べる間、僕と目を合わせた後、彼女は手元にあるスマホへと視線を下ろした。

その動作で、今朝方交わした約束を、脳裡から引きずり出される。

僕のスマートフォンが仕舞われている制服の右ポケットへ、正確には右膝へと神経を集中させる。

覚悟していた感覚は、ものの数秒で訪れた。

知らせの振動。

「…じゃあ綾音に一回連絡取ってみるよ」

小さな嘘をつき、僕はポケットからスマートフォンを取り出す。

ラインと書かれたアイコンを恐る恐る開く。

664高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:05:35 ID:FtphCcUY

『妹ってなに?』

そう一言書かれていた。

返答に困る。

哲学にも似たその質問の、彼女が満足を得られる様な回答を、僕は思いつかなかった。

指が固まっている僕へ、またメッセージが送られてくる。

『まさか私とは回らないとか言っておきながらあの義妹さんと回るとか言わないよね?』

嗚呼、やっぱりだ。

きっと華は綾音を嫉んでいる、妬んでいる。

華の嫉妬の対象は、恐らく家族だろうと関係ない。

いや、華以外の女性を優先するなと、母も妹も含め優先するなと、確かにそう言っていた。

血縁が無ければ尚更のことだろう。

僕にその気があろうとなかろうと関係がない。

『約束したよね?』

僕が固まっている間にも、彼女の追及は止まらない。

『ここで』

『今』

『言ってもいいんだよ?』

何を言うかなんて想像するまでもない。

やめて欲しいと言うのは易いが、どんな無茶なものでも約束は約束だと、それを破った僕にやめて欲しいなどと口にする資格がないと、僕が自分自身を縫い付けている。

『ねぇ』

『何か言ってよ』

『簡単な話だよ』

『私が今、あなたの約束を破るか、それともお仕置きか』

『選んで』

与えられた二択。

クラスメイトや、綾音に知られる覚悟と準備ができていない臆病者は、後者を選ばざるを得なかった。

『ごめん。どうであれ約束を破った僕が悪いんだ。後者でお願いします』

『お仕置きね。分かった言い訳は後で聞くから』

メッセージはそこで止まる。

華の様子を視界の隅で確認すると、どうやら荻原さんに話しかけられている様で、スマートフォンは仕舞われていた。

665高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:06:31 ID:FtphCcUY

「で、綾音ちゃんなんだって?」

「え?」

「え?じゃなくって。どういうことだ?今連絡してたんじゃないの?」

太一に話しかけられて漸く、現実に戻った様な感覚を覚える。

「…ああ、ごめん。今丁度別の要件で立て込んでて」

「なんだそりゃ」

これには太一も呆れた様子を隠せない。

「あはは…ごめんね。とりあえず校門へ行こう。そこで綾音は待っているはずだ」

もう一度、華を確認する。

彼女は僕に視線を向けてはいなかった。

一刻も早く、教室を出てしまいたい。

そんな焦燥が僕を支配する。

「なんか今日の遍っち変だぞ?」

「あはは…僕も変だと思う」

「その返事がすでに変だな」

この問答すら、もどかしく感じる。

僕は半ば強引に、教室への外へと歩みを進める素振りを見せる。

「あ、待てって遍っち」

「僕が変だってことは、歩きながら幾らでも聞いてあげるからさ、行こうよ」

僕は教室と廊下の境目に、一歩踏み入れる。

現実逃避するように、一歩踏み出す。

一先ずは義妹と学友、綾音と太一とこの祭りを楽しんでも良いではないか。

後のことは後で考えよう。

そう考えていた。

「あ゛遍ぇ!!!!!!!!!」

一輪の華の怒号を聞くまでは。

浮き足立っていた教室が再び静まり返る。

そして誰もがその怒号の元へと視線を向けていた。

叫ばれたのは僕の名前だけれど、きっと僕の下の名前を知っているものなど片手で数えられるくらいしかいないだろう。

それ故、怒号から間をおいて、片手で数えられる程度の視線が僕へと向けられる。

瞳孔を開いた彼女はそのまま、僕をしかと捉えながら、こちらへと向かってくる。

クラスメイト達の視線も自ずと、それを追っていく。

まさか。

そんな。

いや確かに、僕は仕置きを選んだはずだ。

僕の脳みそが徐々に固まっていく。

だけど、彼女は止まることなく、間違いなく、こちらと向かってくる。

何故?

分からない。

どうして?

クラスメイト達の視線が僕という点で交わると、彼女は僕の左手首を引っ手繰り、僕と目を合わせずに、僕より先へ。

分からない行き先へ連れていかれる。

只、連れて行かれるしか無かった。

ーーーーーーーーー
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ーーーーー
ーーー


666高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:07:37 ID:FtphCcUY

混乱した思考を整えるのに、注力していた僕は、抜けていく人々の、怪奇な視線を気にしている余裕なんてものは無かった。

けれども、混乱している僕をどこか冷静に捉えている僕もいた。

殊の外、人は想定外の出来事が起きると、かえって冷静になる様だった。

起こってしまったことは仕方がない、これからどうすれば良いか、そんな風に思考が働く。

人々の賑わいを突き破り、さらにその奥へ。

行く手を阻む『立ち入り禁止』の札も突き破り、その先の階段へ。

上へ、上へ。

辿り着くは、屋上。

華は乱暴に、屋上の戸を開く。

引かれるがまま僕は、そのまま屋上へと踏み入れると、秋の風が僕ら二人の間を吹き抜ける。

無機質に広がるアスファルトは秋の朝日に照らされ、相変わらず雲一つない青藍はただただ美しいだけだった。

そんな美しい天と無機質な地が突如として、反転する。

背中から伝わる痛み。

日向から伝わる温もり。

そして日陰から伝わる冷たさ。

投げ…られた?

667高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:08:55 ID:FtphCcUY

我が身に起きたことを理解すると、今度は四肢に強い圧力を感じる。

目の前に広がっていた青藍を高嶺の花が覆う。

彼女の長い髪が雨の如く降り注ぎ、僕の頰を掠める。

「ね…ぇ…」

余りにも震えた声が、手が、いかに切迫した感情を抱いているのかを想像するのは容易かった。

「遍、貴方…今朝、何処で…誰と…何をしていたの?」

震えた手が僕の頰に添えられる。

昨日とは比べ物にならない程、その手は酷く冷えていた。

「あり…えない、ありえないあり得ない有り得ないアリエナイ…私と遍は、運命の恋人なんだ…赤い糸で繋がっているんだ…なのに、それなのに…うっ」

突如として華は、頰に添えていた酷く冷えた手を離し、自らの手にあてがうと、そのまま屋上の物陰へと向かっていった。

「ぅッッ…ぉぇ…ぇぇぇぇぇ…ッ」

嗚咽。

跳ねる水音。

嘔吐していた。

「気持ち悪い…気持ちワルイ気持ち悪いキモチワルイ。私と遍の世界が穢れた…。最悪…最ッッ低…、どうしてそんなことするの?どうしたらそんな非道いことができるの?ねぇ…聞ィいてるの!?遍!!!!」

「ま、待っておくれ。一体全体何をそんなに怒っているんだい?!」

上体を起こし、何について咎められているのかを問う。

それが火に油を注いだのか、華は僕の胸倉を掴み、起こしたばかりの上体を再びアスファルトに叩きつける。

「惚けないでよッッッ。貴方が今朝、何処の馬の骨とも知らない女と、腕を組んでいたそうね!しかもその女、貴方の『彼女』だそうね?おかしいなぁ…おかしいなぁ!!!!私、貴方と今朝腕を組んだ覚えなんて無いんだけどなぁ!!!!」

ここに来て、この事態を想定をしていなかった己を呪う。

間違いない、荻原さんだ。

彼女がきっと、今朝の出来事を華に伝えたんだ。

「誰よそいつ、どんな奴なのよ。一体どういうつもりなの?貴方、まさか私達の関係を知られたくないって、その女がいるからなの?ぁぁぁ…ぁあああ!!憎い…憎い。腑が煮え繰り返りそうよ!!!」

「ち、違うんだ。聞いておくれ華!今朝、荻原さんが見たのは妹の綾音のことだ」

「…妹?嗚呼……。あの…ッ」

歯軋りが鳴る。

「遍、貴方昨日約束したばかりだというのにこんなにも簡単に約束を破るの?言ったよね、妹も含めて私以外の女に触れないこと、何よりも私を優先すること。なのに破っちゃうんだ…ふぅん。…そういえば夏休みの時もそうだよね、遍はいつも私との約束を破る。やっぱり昨日のお仕置きが甘過ぎたのかな?」

仕置きが甘い、その一言で頰の痛みが蘇る。

「違うんだ!僕はなるべく触れないように努めたし、華の優先度を蔑ろにしたつもりもないんだ!」

「違う?何も違わないよ遍。約束を守るってことは貴方は私以外の有象無象に拒絶をしなければならないんだよ。だけど貴方はそれをしなかった。私ね、遍のどんな所も好きだけれども、すぐ約束を破るところと私以外を拒絶しないところが許せない。あはっ、でも安心して。昨日も言った通り、貴方を見限ることは絶対にしない。絶対に離さない。昨日のお仕置きじゃ足りないならもっときついお仕置きをしてあげる。それでも駄目ならそれよりもっときついお仕置きを。そう、何度も何度だって。私達は運命の赤い糸で繋がれた番いなの。私達の幸せの未来のためなら何度だって、繰り返してあげる」

668高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:10:01 ID:FtphCcUY

運命の赤い糸。

今、この時ほど、僕らの関係に疑問を覚えたことはない。

ーーーーーーーー何故、僕は高嶺の花と交際しているんだろうか?

この一つの問いが頭に浮かんだ瞬間、堰を切ったように、今まで押し殺していた答えが溢れてきた。

「は、華。…落ち着いて、聞いて欲しい」

一度息を整える。

返事はなく、ただ先程と同じように黒い瞳で僕を捉え続けていた。

それを肯定の意として捉えた僕は、答え合わせを続ける。

「僕は…。僕は僕のことがそれほど好きではない。だから僕のことが好きと言う君の気持ちが理解できない。僕は僕が他の人より秀でたものがあると自負したことがない。だから僕を唯一という君の言葉が理解できない。僕はいつも君と釣り合わないと思っていた。だから僕らが運命の恋人だと君のように思ったことはない」

「何を…言っているの…遍…?」

真っ直ぐ僕を捉えていた眼は左右に揺れ始め、僕の胸倉を掴む手は緩くなる。

「いつか君が言っていた運命の人というのは、きっと僕じゃない。僕らはまだ交際を始めて一月も経っちゃいない。なのに僕は君をこうして何度も怒らせる始末さ。衝突が全くないカップルが理想とは必ずしも言えないと思うけれども、少なくともこうして何度も君を怒らせた僕は運命の恋人なんかじゃないんだよ」

心の奥底では気づいていたことを、次々と告げてゆく。

一度、箍が外れればもう止まることはない。

「華…、…別れよう。僕らは本来交わるべきではなかったんだよ」

言ってしまった。

あれだけ悩んでいたことが、言葉に乗ってスルリと蛇のように己の体から逃げ出した。

ただ一つだけ、最も大切なことを残して。

「嘘…だよね?じょ、冗談だよね?遍?」

激昂に染まっていた瞳が、動揺へと塗り替えられる。

「これは嘘でも冗談でもないよ。僕は君に相応しくない」

「相応しくないって何?ふ…相応しいとか相応しくないとか、そ、そんなの関係ないでしょう…私は、私はこんなにも貴方のことが、好きなのに…愛してるのに!!」

「ごめんもっと早く気付くべきだったんだ。でも華…いや、高嶺さん、君ならもっと、もっといい人を見つけられる」

そう、早く気付くべきだったんだ、薄れてしまった初恋に。

敬称に決別の意を込める。

669高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:10:52 ID:FtphCcUY

「嫌…やめて…そんな呼び方、しないで…」

激昂していた高嶺の花が徐々に、徐々に萎れていく。

「…本当は僕なんかが別れを切り出すなんて身の程も知れないことだと思う。高嶺さん、まだ焦っちゃ駄目だ。絶対に、絶対に君の本当の運命の人は現れる。そしてそれが君の本当の幸せだと思うし、僕もそれを望んでいる」

「………」

花はとうとう枯れてしまった。

徐々に緩んでいた彼女の手は、遂に胸倉を掴むことができなくなるまで緩み、解放感を感じる。

分かってくれたのだろうか、はたまた呆れ果てたのだろうか。

どちらにせよ、これで僕達の関係は終いなんだ。

「…高嶺さーー」

「そう。…分かった」

これで最後だと、今までの感謝の気持ちなどを告げようとしたが、彼女のその一言で遮られた。

僕の破談を受け入れたのだろうか、すっかり俯いて見えなくなった表情の様子を伺う。

「…っ!」

ぞっ、とした。

先程まで僕を捉えていた瞳は光を失い、虚ろとしたものとなっていた。

それは可憐な少女のものだったとは思えない、酷く歪んだ姿だった。

その姿に、僕は何も言えずにいた。

そんな僕に馬乗りになっていた彼女はそっと立ち上がる。

「…」

一度僕を見下ろすと、そのまま無言で踵を返す。

ひた、ひた、ひた。

静かな歩みが、やけに煩く聞こえる。

屋上の出入り口のドアに手をかけ、ぎぃと錆びついた音を鳴らし、戸を開ける。

もう一度、錆びついたが鳴ると同時に、彼女の後ろ姿が扉で見えなくなっていく。

がしゃん。

少し大きな音で扉は閉まり、完全に後ろ姿が見えなくなる。

呆気ない、あまりにも呆気ない結末だ。

これで終わったのだ、高嶺華との交際が。

今更になって、鼓動が強く早く脈打つ。

僕を包んでいた夢見心地は、少しずつ失い、現実という棘が、一本ずつ僕の皮膚を刺していく。

僕自身が一番信じられなかったのだ、自ら別れ話を切り出すなんて。

だからこそ、非現実感が僕を麻薬のように酔わせていた。

しかし、酩酊はいずれ覚めるもの。

鼓動は耳鳴りがするほど煩く、全身には鋭い痛みが走り、ひゅるりと秋風が吹き付ける。

「…ぁあ。何をしているんだ僕は」

みっともなく惨めに蹲る。

下らない涙が情けなく溢れてくる。

潜在的に思っていたことであれ、ひと時の感情に任せて、無様に吐き捨てた。

取り返しのつかないことだ。

けれど後悔はしていないつもりだ。

それなのに何故、涙が出てくるのか。

鈍い僕は、自分自身の気持ちさえ、分からなかった。

670高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:13:42 ID:FtphCcUY

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ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー


「遅い!何してたのお兄ちゃん!!」

「あ、はは。ごめん。少しトラブルが起きてね」

結局、綾音と合流したのは僕らのホームルームが終わってから一時間以上経ってからのことだった。

「トラブルって何?!どんだけ心配したと思ってるの!?何度も連絡しても返事来ないし、本当に心配したんだよ!?」

「ごめん…」

言い訳をする気力も無くなった僕は一言謝ることしか出来なかった。

その様子を見た綾音は、様子が異常だと悟ったのか、急に鞘を収める。

「どうしたの…お兄ちゃん?元気無いよ…。それによく見たら顔もなんだか窶れてるように見えるよ?」

流石は十年妹をやってきたことはある。

僕の様子の異変など直ぐに察知していた。

「あ、はは…。いや…」

癖になってしまった空笑いと誤魔化しが出てしまったが、今更もう隠す意味もないのでは無いかと、やけくそにも似た感情が湧いてくる。

「…綾音。ごめん、僕は一つ大きな嘘をついていたんだ」

「…どういうこと?」

こうなってしまってはもう、引き下がることも出来ない。

己の心を崖の上から突き落とす。

「昨日、言ったよね?僕は昨日綾音に彼女がいないと」

皆まで言わずとも察したのか、心配の表情から一転、剣呑な様子へと様変わりする。

「どういうこと!?まさかいるの!?彼女とか抜かす女が!」

これで胸倉を掴まれるのは今日だけでも二回目の事だ。

「いたよ。でも別れた」

『いた』で強く歪んだ表情になり、『別れた』で、拍子抜けた表情へと移る。

「本当の本当にどういうことかなぁお兄ちゃん。聞きたいことが多過ぎてあたし訳分からなくなりそうだよ」

「…そうだろうね。僕も自分で何をしているんだろうって、そう思ってる」

「……。…まず彼女ってなに?昨日聞いたよね?なのに嘘ついて、あたしに黙ってた訳?」

「そうだね、…ごめん」

「いや、ごめんじゃなくて。ねぇ?なんであたしに黙ってたの?嘘、ついたの?」

「綾音はさ、もし僕が昨日彼女がいるって言っていたらどうするつもりだったんだい?」

「………」

返答は得られない。

分かってたはずだ。

671高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:14:35 ID:FtphCcUY

「綾音、僕のことをどう思ってる?何故、僕が彼女を隠していたことに憤りを覚えたんだい?僕に彼女がいて綾音に何か不都合でもあったのかい?」

矢継ぎ早に質問を重ねていく。

心の中に黒が溢れていく。

自分が自分じゃなくなっていくみたいだ。

「ど、どうしたのお兄ちゃん?」

「…綾音。綾音がもし、もしもだ。そんなのは有り得ないと笑い飛ばしてくれたって構いやしないだけれどもさ…」

臆病者の僕がやめろと叫んでいる。

それでも自棄になった僕は耳を塞いで戯言を吐く。

「…僕のことを好いているのかい?兄としてではなく一人の異性として」

なんとも気障な台詞を言う。

綾音は揺れる瞳の中で、答えを探している。

けれども、綾音が何と言おうとも僕の中で答えは決まっている。

「綾音。もしそうであるのならば、…そうであるのならば僕は君の気持ちには答えられない。綾音は僕にとって大切な妹だ。今更、一人の異性として見れないんだ」

緩みきっていた綾音の手に、再び力が込められる。

「…う、嘘つき…。嘘つき…、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!!!!!」

綾音が僕の胸ぐらを掴むという姿は、既に周囲の人たちの好奇心を煽るような痴態だったが、綾音のこの怒号が更に多くの人々の関心を引きつけた。

「あたしのことお嫁さんにしてくれるって言ったのに!!大きくなったら結婚してくれるって!!!約束したのに…、約束してたのにお兄ちゃんの嘘つき!!!」

そんな約束した覚えはないと、言い返すことはできなかった。

いつの日かに言った気もするし言ってない気もするからだ。

「綾音、僕たちは兄妹だ。血は繋がってないかもしれないけど、本物の家族と思ってる。だから性愛することを望んでないんだ」

「家族ってなによ…、兄妹ってなによ!?あたしとお兄ちゃんは血が繋がってないでしょ!?あたしたちは家族である前に、一人の男と一人の女なんだよ、そこから目を背けないでよ!いいよ…あたしのことを女の子として見れないならこれから幾らでも教えてあげるわよ!!」

胸倉から手を離すと同時に、僕の顔を鷲掴みし、強引な接吻を行う。

驚きはない。

動揺もない。

けれど、悲しさが胸を締め付けていた。

「…ッ。…ははっ、ほらお兄ちゃん。キスしちゃったよ、これで分かった?あたしが一人の女の子だって、ねぇ?」

歪んだ表情で、僕に微笑みかける。

大切な義妹の、異常なその姿に、性的な興奮を覚える訳もなく、後悔と悲哀が胸中に押し寄せる。

綾音は、そんな僕の表情を読み取ったのか、歪んだ口角が落ちる。

「ファーストキスはあたしのものだから」

「…綾音、僕はもうーーー」

「"カゾク"って便利だね」

僕の初めての接吻は既に元カノと済ませてしまっている。

そう答えようとしたが綾音によって遮られる。

672高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:15:15 ID:FtphCcUY

「…どういうことだい?」

「あたしが、そんな他所の女にお兄ちゃんのファーストキスを、奪われるような真似をすると思う?もう何年も前からキス、してるんだよお兄ちゃん。お兄ちゃんは寝てたから気がつかなかったかもしれないけどさぁ」

聞くときに聞けば、酷くショックな事実かもしれないのに、もう僕の心と頭は理解をしようとすらしない。

「…綾音。どうしても僕じゃなきゃ駄目なのかい?一体何が綾音にそこまでのことをさせたんだい?」

「お兄ちゃん…、愛に理由が必要?」

義妹の姿と元恋人の姿が重なる。

「…僕は必要だと思う。愛も好意も全て人の感情だ。そして感情には必ず、抱く理由がある。理由が無い感情は、それはまるで病じゃないか」

「だったら、その病に罹らせたのはお兄ちゃんだよ。責任…取ってよ」

「…。…責任、そうか…分かった」

「やったぁ!それじゃあ、結婚…してくれるんだよね?」

「綾音、最初にも言ったけれども僕は綾音の気持ちに応えるつもりはないよ。この気持ちは変わらない」

これだけは譲れない想いと主張する。

「ッッ、だったら!あたしもお兄ちゃんを諦めないからね!」

「僕が綾音に応えたくないという気持ちも、綾音も諦めないって気持ちも、どちらも人の感情だ。簡単に変えられるものではない。だから僕はこれからどれだけ時間をかけてでも説得する覚悟だ」

「だったら…さぁ!わかるよね!?あたしが絶対に諦める訳がないってことがぁ!?ねぇねぇねぇ、早く取ってよ、責任。あたしを狂わせた責任を!」

「もちろん全うするつもりだ。綾音がいつの日かちゃんと他の人を好きになるまでは、僕は二度と恋人を作らない。これが僕の責任だ」

「あは、何それお兄ちゃん?それがあたし狂わせたことに対する責任だっていうの?」

「そうだ」

「あははははははははははは」

ケタケタケタと壊れた人形のように笑う。

「意味が分かんないよ。いいよ、お兄ちゃんの気が済むまでそうしたら?あたしは絶対に諦めないし、むしろ変な虫が寄り付かなくて済むからね。好都合よ」

責任なんて格好つけて言ったが、これは責任というより、己にそんなことをする資格がないという、戒めに近いものだった。

「じゃあお兄ちゃん?あたし、ちゃんと一人の女の子だってこと。今からたっぷりと刻み込んであげる」

行こうよ、そう言って綾音は僕の腕に、腕だけではなく指を絡めてきた。

「…そうだね」

もう後戻りはできない。

今日とは言わない、明日とは言わない。

いつの日かでいい。

綾音が僕以外の人の隣に立って、その幸せを兄としての喜びとちょっとばかりの嫉妬で、迎えられる日が訪れて欲しい。

もう後戻りはできない。

やるしかないのだ。

673高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:16:37 ID:FtphCcUY

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午前中、綾音はあの手この手と僕を籠絡させようと試みていたが、実のところ今までとそう大差ないと感じるものであった。

しかしそれは、裏を返せば如何に僕が過ごしてきた日常が、酷く歪なものであったかを如実に語っていた。

綾音もあまり手応えを感じなかったのか、最後に別れる際には、不満げな表情を浮かべていた。

あれだけ意を決したことだったのに、僕が思う通りにも綾音の思う通りにも、お互いの気持ちの変化はあまり起こらなかった。

改めて感情というものの難しさを知った。

綾音と別れてからは一度教室へと戻ろうかとも思ったのだが、今朝の出来事による気まずさで、どうにも戻る気になれなかった。

どこを回ることもなく、ただ人気のない場所で、本当にこれで良かったのかと、何度も思考を繰り返していた。

さらには太一との約束も無碍にしたこともある。

成り行き上、仕方がなかったとはいえ、連絡を取るなりすれば良かったものなのに、乱れに乱れた僕の心に、友人との約束を思い出す余裕が生まれたのが、文化祭の初日が終わろうとした時であった。

友人にも、元恋人にも合わせる顔がない。

教室へ戻りたくない気持ちが強かったが、点呼を取らなければならない以上、そうも言ってはいられなかった。

気持ちが後ろを向いていようと歩いていれば、いつかは辿り着く。

やがて三人で作った思い出の看板が見える。

高嶺華のことは気にするな、太一にしっかりと事情を話して謝ろう。

意を決して教室へと踏み入れる。

入り口のすぐそばに太一がいた。

「ああ、太一。ごめんね…置いていくようなことをしてしまって。実はね…」

「遍っち、お前…どこにいたんだよ」

太一の視線に違和感を感じる。

やはり怒っているのであろうか。

けれどその瞳は怒りと呼ぶべきではないようなものにも思える。

否、太一だけではなかった。

クラス全員の視線が僕へと向けられていた。

教室へと踏み入れたときに感じた賑わいも、気がつけば不自然なまでに静かなものになっていた。

程度に差はあれど、誰しもが僕に対して負の感情を抱いている、そんな目で僕を見ていた。

あまりにも酷く居心地の悪い空間。

逃げ出してしまいたい気持ちに駆られる。

いや、そもそも何故こんなことになっているのか。

脈拍が異常なほどまで上昇する。

ドッ、ドッ、ドッ、ドッ

分からない、どうして皆は僕を見ているのか。

674高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:17:05 ID:FtphCcUY

「あ!遍。おかえりっ!もーっ、何処行ってたのー?心配したんだからね?」

不自然な静寂を打ち破るは、一輪の花。

黙って僕を見るクラスメイトも、この静寂に包まれたクラスも、僕に話しかける高嶺の花も全て、異常だ。

全てがおかしい、全てが非日常だ。

今朝と同じように高嶺の花は僕に近づくと、僕の腕を撮り、腕を絡める。

「皆、さっきも言った通り、私高嶺華と不知火遍は実は正式なお付き合いをしています!」

え?

何を言っているんだこの人は?

高らかな宣言の後、クラスはもう一度賑わいを取り戻した。

「へー、おめでとう!!」

「やるじゃん不知火!」

「華ー!お幸せにー!」

ピー、ピーと指笛が鳴り響く。

クラスメイトたちが、それぞれの反応をする。

大半がお祝いや肯定的な言葉を僕にかける一方、相変わらず僕に対する敵意とも呼べる視線はなんら変わっちゃいない。

歓迎なんぞされていないことは、肌からひしひしと伝わってきた。

そもそも、何故こんなことになってしまったのか。

高嶺華は、僕らが交際していると宣言した。

それは間違いだ、誤りだ。

違う、僕は確かにさっき別れ話をしたはずだ。

そしてそれは相手も受け入れたはずなんだ。

何故?

何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故

…なぜ?

「…言ったでしょう。"絶対に離さない"、って」

彼女の笑顔は変わらない。

変わらない笑顔のまま、小さく僕にしか聞こえない声で、底冷えした声で呟いた。

675高嶺の花と放課後 第12話『イエローローズ』:2020/02/27(木) 17:36:19 ID:FtphCcUY
以上で投下終了します。今更ですが1話ごとにタイトルをつけることにしました。今回の『イエローローズ』、つまり黄色い薔薇の花言葉は、「嫉妬」「愛情の薄らぎ」「友情」です。多分それらを意味するような内容の話だったと思います。
これは自論なんですが、ヤンデレは主人公とただ結ばれる物語では活きないと思っています。作者は拗らせてるので、ヤンデレには嫉妬して苦しんで欲しいです。そうなると今度は、主人公側に問題がでてきて、ちょっと無理のある描写が出ちゃったかなと反省してます。それでも書きたいことは書けてきてるのでちゃんと完結できるよう頑張ります。それではまた13話で。

676雌豚のにおい@774人目:2020/02/27(木) 20:32:42 ID:FfBP9nW6
乙です!毎回楽しみにしてる
ヤンデレには苦しんでほしいのすっっっっっっごくわかるから握手したい

677雌豚のにおい@774人目:2020/02/28(金) 22:50:49 ID:6wCYkwtM
ktkr!
この流れすこ

678雌豚のにおい@774人目:2020/03/20(金) 08:34:14 ID:ic0wPrO6
久しぶりの投稿お疲れ様でした
はよ続きがみたい

679雌豚のにおい@774人目:2020/03/20(金) 19:32:42 ID:pvXP6RT.
ヒロインに刺される等の暴行を受けても「こんなに愛してくれてありがとう」といったふうにヤンデレを受け入れるセリフを言う主人公いたら教えて。寝取られ要素皆無な作品で。

680罰印ペケ:2020/03/22(日) 21:50:31 ID:gB/0iUQo
>>676-678
感想ありがとうございます、励みになります。

進捗報告ですが『高嶺の花と放課後』13話は今日か明日投下できると思います。続くエピソードも実は並行して書いているので、それも直に投下できると思います。もうしばらくお待ち下さいm(__)m

681高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:09:33 ID:UGcGjuLg
投下します

682高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:10:29 ID:UGcGjuLg
第13話
「皆、さっきも言った通り、私高嶺華と不知火遍は実は正式なお付き合いをしています!」

違う

「へー、おめでとう!!」

「やるじゃん不知火!」

「華ー!お幸せにー!」

誰も彼も同じ目だ。

誰一人歓迎していない。

ーーーなんであいつが?

ーーー相応しくない

ーーー見る目がない

やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。

そんなことは僕が一番分かっている。

そうだ。

太一。

太一だけには分かってほしい、誤解なんだ。

多くの人に誤解されたままでいい、たった一人の理解者がいればいい、僕は親しい友へ救いを求める。

「遍っち、お前…どこにいたんだよ」

助けを求めた友人の目は、裏切り物を見る目だった。

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「っ…」

夜明けも迎えずに目が覚める。

昨日の朝が最悪の目覚めだと思っていたのに、たった今いとも簡単に更新された。

隣に目を向ければ、ややはだけた姿の義妹が、すぅすぅと寝息を立ててきた。

今のところ起きる様子もない。

綾音の寝付きの良さに関して、今ばかりはありがたいものだった。

誰かと話す気分ではない。

それにしても、ここまで現実に起きたことと酷似した夢を見ると、如何に自分にとってあの出来事が衝撃的なものであったか嫌でも分らされる。

深い眠りについているだろう綾音を起こさないように、ゆっくりとベッドから抜け出す。

少しずれてしまった布団を、綾音に掛け直し、既に宵闇になれた目で、部屋の時計を確認する。

時刻は深夜三時を過ぎたあたりだった。

起床時間にはあまりにも早いと呼べる時刻ではあったが、二度寝する気分には到底なれなかった。

机の位置まで移動し、椅子へと腰を下ろす。

机の上には、ここ数日で書き溜めた原稿用紙が束になって置かれている。

何もせずに夜明けを待つわけにもいかないと、物語を書き進めようかと筆を取る。

しかしどうにも筆を進める気分にはなれない僕は、五秒にも満たない内に手に取った筆を机に置く。

「…本でも読もうかな」

本棚にある本は認識できるが、タイトルまでは見えないため、適当に選んだ本を取り出す。

このままでは本のタイトルどころか本文すら見えないため、卓上のデスクライトを付ける。

あまり強い燈ではないが、それでも宵闇に慣れた瞳では一瞬眩んでしまう。

…。

何の因果なのであろうか。

明順応を終えた瞳で、手に取った小説を確認すると、『夢少女』と書かれた本であった。

先日のデートをきっかけに購入したものだ。

夢でみた少女のことを忘れたいがために、手に取った本の題目が『夢少女』であり、さらには彼女の思い出が強く染み付いたその本が今僕の手にあるのは、皮肉以外何物でもない。

読書する気すら萎えてしまった僕は、本すらも机の上に置いてしまった。

「…はぁ」

溜息を一つ吐き、天を仰ぐ。

こうなると何もする気が起きないが、何もしなければただただ昨日のことを思い出してしまう。

さらに気分が萎えて、思い出さないように他のことに没頭する気も起きなくなる。

悪循環だ。

目蓋の裏には、昨日の出来事が焼き付いている。

683高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:11:44 ID:UGcGjuLg

そもそも何故あんなことになったのか。

僕は高嶺華に別れを切り出した。

そして彼女は言った。

"そう。…分かった"

今になって思い返してみれば、彼女の"分かった"という一言は、きっと僕の別れ話に対してではなかったのだろう。

あの後、一体全体何故皆に関係を公にしたのか、いやそもそも僕は別れたはずだと問い詰めると彼女は答えた。

「私はあなたの別れ話なんて戯言、受け入れた覚えなんてないわよ。それに遍、あなたは私との約束を破った。その上、別れようなんてふざけたことを言った。それなのに私だけ、律儀に"約束"を守るなんて不公平だとは思わない?」

それにね、と彼女は続けた。

「私がここで貴方と交際をしていると宣言すれば、きっと有象無象供はそれを強く認識する。貴方がいくら別れたなんて口にしても、私が、そして周りが交際していると強く認識さえしていれば、貴方が私と別れるなんてありえもしない事実を作ることは不可能なのよ」

とはいえ、とさらに彼女は続けた。

「遍、貴方が口にした事は、到底赦される
ものではないわ。私の心も相当痛むのだけれどこれに関してはかなり厳しいお仕置きが必要ね。貴方が愛し愛され合うべき相手を骨の髄まで分らせないとね」

「い、いい加減にしておくれよ!一体僕の何が君をそこまで執着させているんだ!?」

我慢ならず、叫ぶ。

「何が?執着?分かってないね、分かってないよ遍。私と遍は運命の赤い糸で結ばれているの。ほら見えない?私には見えてるよ、私の心臓と貴方の心臓を結んでいる赤くて紅くて緋くて赫い、その血脈にも似た糸が。だからね、私達が結ばれるのは運命なの、定めなの、絶対なの。これほどまでに美しい愛に逆らうなんてもってのほかだよ」

恐ろしいことを言う。

「…例えばだ。君が何かに襲われているとしてそれを僕が助けた、君が何かに絶望しているとしてそれを僕が救った、君と僕が昔からの知り合いだとしてずっと一緒に育ってきた。僕らの出会いがこれらのようであれば確かに納得はするかもしれない。だけど違うじゃないか!!僕が小説を書いていて、君が偶々それを読んだ。僕らの始まりのそんな色気のないものだったじゃないか!そう、運命と呼ぶには程遠い…」

「偶々じゃないよ」

「またお決まりの運命ってやつかい?何度も返す言葉で申し訳ないけども僕にはそれが運命とは思えない」

「ああ…そっか。うん、そういうことか。何で気がつかなかったんだろう。そういえば話したことがなかったね、私と貴方が運命で結ばれているって根拠」

「聞いたところで僕と君との価値観は違う。僕が納得のいく回答は得られないと思うよ」

「それは聞いてからの話にしようよ。そもそも私たちの物語の始まりはあの日だと、遍は思っているのでしょう?それが間違いなんだよ」

あの日がどの日のなのかは、もはや説明不要だったが。

「間違い?何を言っているんだい?僕はあの日初めて君と言葉を交わしたし、それ以前に君に関わったこともないし、そもそもの話クラスも異なっていた」

「まだ気付かない?遍、小説家なんだからそろそろ気付いて欲しいんだけどなぁ…」

「僕はまだ小説家ではないし、それとこれとは関係のない話だろう」

「私が言いたいのはどんな物語も"プロローグ"が存在するってことなのよ」

「…プロローグ?」

「ほら聞かせてあげる。まずは私の事から話さなきゃね。あれはーーーーー」

684高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:12:51 ID:UGcGjuLg
そこから彼女から次々と告げられる信じられない事実の数々。

僕は目の前の女の子の恐ろしさを理解した。

彼女が話終えると、僕は言葉を失い彼女は満足そうな笑みを浮かべた。

「だから貴方と私は運命の赤い糸で結ばれていたの。それがやっと今、結ばれたのに離れ離れになるなんて死んでも嫌だよ」

「…華、違うよ。違うんだよ。君が思っているほど周りの人たちは、悪い人ばかりじゃあない。世界はそこまで悪意に満ちてなんかいないんだよ」

「嬉しい」

「…何がだい?」

「また" 華"って、私の名前を呼んでくれた。それが堪らなく嬉しいの」

「…兎に角、僕が言いたいのは君はもう少し他人を赦してあげるべきだ」

「赦す?何を?私怒ってなんかないよ?」

僕の言っていることがまるで分からないと、そんな表情を浮かべる。

「いや心の底では、君はまだ怒っているんだ。だからそんなにも他人に対して関心も価値も見出してないんだよ。本当に君と過ごしてきた友人や君に想いを伝えてきた人たちはそんなに悪い人たちなのかい?」

「ええ、まぁ、…そうね。心底どうでもいいとは思うわ」

「…小岩井さんとか、あんなに仲良さそうにしていたじゃあないか。今、こんなにも学校を休んでて心配だとか思わないのかい?」

「…私の前で、他の女の名前を出さないでくれるかなぁ?…本当に殺したくなる」

蛇に睨まれた蛙。

蛇は華、蛙は僕。

殺したくなるという言葉が嘘でも、冗談でも、聞き間違いでもないことを、気迫が語っている。

嗚呼、この女の子は本当に誰にも心を開いてなんかなかったのだ。

「華、君はおかしいよ、狂ってると言ってもいい。結局君だって、僕じゃなきゃ駄目な答えを持ち合わせてはいないじゃないか」

「…どういうこと?」

「君の興味を引く出会い方であれば、別に何でもよかったんだろ?僕が放課後、小説を書いていたのが気になったからという出会い方は、その内の一例でしかないんだよ」

「でも出会った。これを運命と呼ばず何て呼ぶのかな?」

「僕が言いたいのは、君にとって唯一になり得る存在は僕以外にもいるってことだ。運命とかそういう話をしているんじゃあないんだよ」

「うん、確かにこの世界のどこかにはいるかもね。でも保証は?」

「え?」

「その人に会えるっていう保証は?遍、私の話ちゃんと聞いてた?私はこの世界にいる運命の相手と出会うために学校なんてものに通っているのよ?そして私と貴方は出会った。だから貴方は、私の唯一なのよ」

話が平行線を辿り、一向に交わらない。

水掛け論。

「遍、私今日ね、結構傷付いたんだよ?愛する人から別れ話なんてもの聞かされて。心臓が引き裂かれそうな思いだったんだぁ。私は愛し愛され合いたいだけなのに、私の想いだけが一方通行。だからね、私頑張ろうと思うの」

「頑張るってなにをさ…」

「どんな手段を使ってでも、遍に私を愛させる。身体に、頭に、心に、貴方が愛するべき人間が誰なのか、徹底的に刻み込んであげる」

冷や汗が止まらない。

彼女の両腕が、喉元まで迫る。

これは知らない記憶だ。

なんだこれは。

「…っはぁ…っ」

また悪夢を見ていた。

記憶の復習とも言い換えてもよい。

気が付かない間に、昏睡の浅瀬に迷い込んでいたみたいだ。

時刻は五時四十六分。

夜の帳は、青白く染まり始めている。

それを眺めると、最低な夜でも明けないものはないと、少し救われた気分になる。

昨日は少し色々なことが起きすぎた。

それでも、昨日の今と比べれば、悩みは随分と単純明快なものになったのではないか。

途方も無い、答えもない、悩みに頭を抱えていた時よりも、道筋がはっきりした方が幾分か気分がマシだ。

高嶺華と別れる。

綾音を諦めさせる。

どちらも簡単なことには思えないけど、ふと気がつくことがある。

委細抜きにして考えてみると、三人の女性から想いを寄せられて、それらを全て押し除けた。

恋愛小説が好きな癖に、恋愛をしようとしない。

現実よりも空想が好きな奴。

この果ては何だ?

685高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:15:28 ID:UGcGjuLg

「…また難しい事考えてるか、その時はその時。今は今だ」

「なにがぁ〜?」

背後から腕が伸びてくる。

「綾音…」

「おはよぅ、おにいちゃん」

「おはよう。少しくっつき過ぎだと思うよ、綾音」

「ん〜?」

聞こえないフリをしつつ、腕を僕の前で組みより身体を密着させる。

「綾音」

名前を口にするだけだが、言霊に僕の想いを乗せる。

すると耳たぶから鋭い痛みが走る。

「痛っ」

「おにいちゃんの意地悪。あたしがおにいちゃんをどう想ってるか、もう知らない分からないとは言わせないよ」

吐息まで伝わる距離で囁かれる。

「嗚呼、知りたくなかったさ、分かりたくもなかったさ。綾音、どうしたら僕らは普通の兄妹になれるんだい?」

「それをあたしに聞いてどうするの?答えが得られるとでも思ってるの?逆に教えてよ、おにいちゃん。どうしたらあたしたち、普通の夫婦になれるの?」

綾音も同じだ、話し合いの着地点が見えない。

もどかしさに苛立ちを覚えそうだ。

「昨日でも分かったと思うけど、僕は綾音をそういう対象に見れないんだよ、大事な妹なんだ」

「あたしこそ、お兄ちゃんを"兄"だと思ったことなんてない。あたしはずっとお兄ちゃんを"そういう目"で見てきた」

686高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:16:20 ID:UGcGjuLg

確かに生まれながらの兄妹ではなかった。

だからこそ、僕は他の誰よりも"兄"になろうと努めていた。

なのにその結果が、無意味だったとそう言われたのが非道く哀しい。

どうしてこんなにも想いがすれ違うのだろう。

「…それに昨日上手くいかなかったのは、結局今まで通りだったから。だから今までとは違うことをすればいいだけ」

僕の前で組まれていた腕を解くと、喉、胸、臍と、一つずつ順番に撫でていく。

そしてその手は、さらに下へ…

「っ!綾音!」

不意な感覚に、思わず身を引く。

「クス、逃げないでよお兄ちゃん」

「こんなの兄妹でやることじゃない!」

「そうだよ、だからやるんだよ。兄妹を辞めたいから。気持ち良かった?」

とんでもない。

その逆だ、悍ましさしか感じない。

「…うーん、そうでもないみたいだね。ごめんねお兄ちゃん、あたしお兄ちゃん以外でこういうことしたことないからさ、下手くそだったよね」

「下手だとかそういう話じゃない。兄妹でこういうことやるのがおかしいって言っているんだよ」

「おかしくなんてないってば。おかしいのはお兄ちゃんの方だよ。あたしたち血、繋がってないんだよ?根本的な雄と雌であることから目逸らしすぎだよ」

「僕らは本能で生きる動物とは違う。理性のある人間だ。こんなことをするのはおかしいし、僕はしたくない」

「…ふふ、あはは」

「何がおかしいんだい?…」

「…お兄ちゃん、キスとか胸当てとかは反応しない癖に、少し触っただけでこんなにも性を意識してるんだもん。これでも反応しなければ流石に困ってたけど、思ってた以上の反応だったからお兄ちゃんの倫理観を壊せそうで嬉しいんだぁ」

僕に対して優位に立ったと言わんばかりに、綾音は余裕の笑みを浮かべる。

「僕の倫理観を壊す…だって…?綾音、自分で言っていることの意味が分かってるのかい…?」

「分かってるよ。お兄ちゃんの倫理観をドロドロに溶かして、グチャグチャにかき混ぜて、メチャクチャに仕立て上げて、あたしっていう存在を妹から恋人に上書きしてあげる」

溜息すら出ない。

息が詰まりそうだ。

辛抱強く説得を続けさえすれば、いつかいつの日か、分かってくれると覚悟をしていたつもりだった。

けれども所詮それは、今ここにいない僕が明日の僕に無責任に押し付けているだけ、格好つけて誓った張りぼての覚悟なんてものは甘ったれた戯言だということを、愚かな僕は漸く理解した。

そうだ。

結局僕は明日の自分を他人と決めつけ、面倒事を押しつけて、現実から目を逸らしていただけじゃあないか。

でもじゃあ、どうしたらいいっていうんだよ。

「…もしそれで僕が綾音を異性として見るようになっても、決してその想いは受け入れないからな」

これが僕にできる精一杯の抵抗。

他人である未来の僕に、無責任に責任を押し付けるだけ。

「そんな怖い顔しないでよお兄ちゃん。別に今すぐ襲おうなんて思ってないよ。お兄ちゃんに嫌われるのは本意じゃないしね」

僕だって本当であれば嫌いになんてなりたくない。

ただ仲の良い兄妹になりたいだけなのに、どうして。

「あーあ。珍しく早起きしたしシャワーでも浴びて来ようかな」

綾音は一つ伸びをすると、僕の背後にある部屋の扉へと歩き始める。

綾音が僕の隣を通り過ぎる。

頬に触れる柔らかな温もり。

「クス」

何が起きたか分からない僕を横目に、綾音は部屋を後にした。

「…嗚呼、そうか…」

頬に触れた感触を理解した途端、そこから急激に体温が奪われていく。

今はただ己の悲劇を嘆くしかなかった。

687高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:18:03 ID:UGcGjuLg

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文化祭二日目。

昨日と変わらず、否、昨日よりも学校へと行きたくないという気持ちが強まっていた。

しかしそれと同様に家に居たくない気持ちも強くなっていた。

居場所がない。

「行ってきます」

「行ってきまーす」

今日は日曜日だ。

本来ならば学校へ行かず、家で本を読むか小説を書くか、あるいは出掛けるか。

嗚呼、行きたくない。

「兄妹で朝から一緒に登校なんて随分と仲がいいのねぇ…?遍」

「…!」

重い気分により頭が自然と俯いて家を出た僕の頭先から、声がかかる。

そんな、まさか。

「おはよう」

彼女は静かに、綺麗な笑みを浮かべ朝の挨拶を掛けた。

僕は彼女に挨拶を返す前に、共に家を出た綾音の方へと視線を向ける。

「…なんであんたが?」

決して大きな声ではなく、ただの呟きなのにやけに鮮明に聞こえた。

加えて状況が理解できていない様な表情を浮かべる。

余裕、焦燥、当惑。

三者それぞれの感情が交錯する。

一秒にも一分にも思える沈黙の後、雁渡しが余裕な彼女から吹き抜ける。

酷く冷え込んだ風が肌身に染みる。

綾音はスンと一度鼻を強く鳴らす。

すると当惑して表情は、見る見るうちに憤怒、あるいは憎悪といった表情へと移り変わる。

「…ぁあ、ああ…。そうか…、そうか。お前だったんだ、お前だったんだ…お前が、お前がッッッ!」

「おはよう、はじめまして。妹ちゃん。私は貴女のお兄さんとお付き合いしている高嶺華っていうの、よろしくね」

出来過ぎた笑みを貼り付け、軽快に自己紹介をする。

信じられないと言った表情で今度は、僕に迫る。

「…どういうこと?…ねぇ、お兄ちゃん?別れたんじゃないの?別れたって、言ったよね?ねぇ!どういうことッッッ!!!?」

どういうことと言われても僕にも、理解し難い。

そもそもこんな強引な行動を取ってくるなんて思いもしなかったのだ。

こんな状況だ、いつかは僕の口からではなくて誰かの口から綾音に伝わるのは時間だと覚悟はしていたつもりだ。

しかしこんなにも早くそれが訪れるとは思ってもみなかった。

どうしてそんな油断をしていたのだろうか。

後悔が津波の様に押し寄せる。

「まぁまぁ、遍を責めないであげて、妹ちゃん」

昨日の余裕のない表情や、本音を吐露する時の表情とは違う、高嶺の花の高嶺華がそう応える。

「ふざけんな、お兄ちゃんの彼女面すんじゃねーよ、ブス」

綾音の煽りなんてまるで効いていないのか、よく出来た仮面には罅はおろか、傷一つさえ付いていないように見える。

「あはは、すごい嫌われちゃってるみたいだねぇ。多分昨日は喧嘩しちゃったから遍も別れたなんて誤解を生むような言い方を妹ちゃんにしちゃったんだね。でも無事仲直りしたし別れてなんかないよ」

「お前なんかには聞いてねぇよッッッ!…ねぇお兄ちゃん、嘘だよね?昨日別れたってそう言ったもんね?」

確かにそう言った。

それは事実だし、彼女の嘘なんて到底受け入れ難い。

しかし今朝の出来事が、今一番鮮明に脳裏に焼き付いていた僕は、高嶺華よりも先に綾音を諦めさせる方が容易なのではないかと、天秤が傾いた。

「ごめん綾音…昨日はそう言ったんだけど、あの後すぐに復縁…したんだ」

朝日が照らす高嶺華の影が、酷く歪に嗤ったような気がした。

688高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:18:56 ID:UGcGjuLg

これで、いい。

十年も可愛がってきた妹だ。

どちらが大切か比べるまでもない。

まずは適切に、綾音の気持ちにけじめをつけさせるのが先決だ。

「…嘘だよね…?お兄ちゃん…。違う…違う…お兄ちゃんはあたしに嘘なんかつかない…絶対あの女に脅されてるか…騙されてるんだよね?タチの悪いストーカー女なんだよね…そうだ、そうに決まってる…」

「酷いなぁ、そんな悪いことなんてするわけないじゃない。正真正銘、彼氏彼女の間柄なんだよ?」

「黙れッ!大体なんでお前がよりにもよってお兄ちゃんと付き合ってんだよ!?幾らでもそこら辺の男が寄って集ってきてんでしょ?!そいつらと付き合えばいいじゃないクソビッチ!!」

「わぁ…本当に酷い言葉使い。お兄さんとは似ても似つかないね。…まぁ、血が繋がってないみたいだしそれもそうかな」

火に油を注ぐ様をこれ以上見てられない。

「華。話は後で幾らでも聞くから、それ以上綾音を煽るのはやめてはくれないか?」

根本的な話、この状況を招いたのは華だ。

少し問い詰めたい気分にもなる。

「ごめんね!別に煽るつもりもなかったんだけど、そう捉えちゃったとしたら私が悪いね、あはは…」

余裕のある笑みから少し困ったような笑みへと変える華。

しかしそれも違和感のある仮面にしか、今は感じない。

「でも彼女としては、彼氏の妹ちゃんにもちゃんと認められて祝福されたいしさ。…だって私たち、結婚を前提にお付き合いしてるもんね?」

チキ、チキ、チキ。

何の音だ?

「…しね」

綾音は一歩ずつ前に出る。

一歩足を出すごとに次の一歩を踏み出すまでの間隔が早くなる。

加速度的に華へと近づく。

僕の背後から通り抜け、綾音を司会に捉えた時、先の音の正体を知った。

まずいっ!

689高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:20:04 ID:UGcGjuLg

「よせ!綾音!」

それを持つ右手を、正確には右手首を僕は素早く捕らえる。

さらに持ち替える手を塞ぐ為に左手首も捕らえる。

「離して!お兄ちゃんンッ!!こいつを殺すからさぁ!!!」

「そんなことさせられるわけないだろう!?」

「きゃあ!怖いよ、どうしてカッターなんて持ってるの?!妹ちゃん!」

「おまえみたいな泥棒猫を殺す為に決まってるでしょ!?こっちこいよ!!その喉笛切り裂いてやるッッッ!」

「わー怖い。まるで仔猫がにゃあにゃあ鳴いてるみたい…。…ふ、ふふふ、あはははははははははははははは」

ついに仮面が剥がれる音がした。

華の様子が変わるのを見ると、綾音の瞳孔はさらに強く広がる。

「駄目ね、駄目だ。やっぱり駄目だ。ずっと前から貴女のことは目につけてたけど、駄目ね。こんな害虫が何年も何年も遍の側に居たなんて考えるだけで吐きそう。殺す?あは、それはこっちの台詞よ。仲良くしたいだなんて一ミリも思ってないよ。むしろ大ッ嫌い」

より一層、綾音に力が入る。

普段運動していないとはいえ、歳の差がある、男女が差がある、なのにあと少しで抑えきれないほどの力があった。

「あんまり認めたくはないけどこれが同族嫌悪ってやつなのかな。好きな人を奪う存在がいれば躊躇うことなく殺せるところ。脅しでもなんでもない本当の殺意ってやつ。なおさら遍の側には置いておけないなぁ」

「お前とあたしがおんなじな訳ないだろッッ!クソッ死ねッッ!」

綾音は抑えてた手首のスナップを利かせ、カッターを華へと投擲した。

まずい!

決して速くはないが危険であることは変わりない。

しかし華は冷静に反応し、鞄で投擲されたカッターを防いだ。

勢いを失ったカッターは、鞄に刺さることなく、華の目の前へ落ちた。

「死ね?殺す?思い上がらないでよ。貴女だけが殺意を抱いてるなんて思わない事ね。逆に…」

目の前に落ちたカッターを、革靴の踵で踏み付ける。

パキッと破損音が鳴り、そのまま華はカッターを踏みにじる。

690高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:20:50 ID:UGcGjuLg

「殺される覚悟、あるの?」

暗く深い瞳で、綾音の激昂した瞳孔を覗き込む。

その殺意は、直接向けられていない僕にも鋭く伝わり、冷や汗が止まらない。

けれど綾音は決して怯んでる様子はなく、今もなお両腕には力が込められている。

「…ふぅん。分かったよ。私は別に今すぐ衝動に身を任せる程、愚かでもないし…、かといっていつまでもこの気持ちを抑えられるほど私の殺意も易くはないから。もう一つ然るべき準備しなきゃね」

華は脚を上げると、カッターだった二つの破片をつま先で弾いた。

「もし仮にただの妹だったのなら表面上だけは仲良くしてあげてもいいかなって思ってたけど、全然駄目。ある程度予想はしてたけど、反吐が出そう」

「そんなのこっちから願い下げだ!二度とお兄ちゃんに近づくな売女!!」

「煩いなぁ、思っていたよりずっと酷いね。まぁいいや。じゃあ遍、私やることあるから先に学校に行くね。また、後で」

いつになれば終わるのかと思っていた問答は、想定よりずっと早く終わるようだ。

華はもう一度出来過ぎた笑みを浮かべると、そのままスカートを翻し、僕らに背を向け遠ざかる。

それでも綾音の力は抜けることなく、未だ緊張感が抜けない状況だった。

「くそっ、クソッ、糞ッッッ!!」

想いの海に溺れていたところを、なんの考えもなしに目の前の舟に乗ったが、これが吉と出るか凶と出るか。

やがて華の姿が見えなくなるが、それでもまだ綾音は力は抜けなかった。

けれど華の姿が見えなくなって安堵したのは僕の方で、綾音を抑えることを続けられなくなってしまった。

「…はぁ、はぁ、はぁ。…ねぇお兄ちゃん。一つだけ聞かせて。お兄ちゃんにとってあの女は、…何?」

もう一度だけ、天秤にかけて考える。

やはり傾く方は同じだ。

「…彼女だ」

「…」

綾音はうんともすんとも返事はしない。

変わりに頬に一筋の涙がつたう。

「…赦さない」

それは華に向けた言葉なのか、あるいは僕に向けた言葉なのか。

昨日の晴天とは違う曇天の空模様は、今にも雨が溢れそうなほど、厚く暗く空を覆っていた。

691高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:22:44 ID:UGcGjuLg

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無言のまま、彩音と共に朝の通学路を歩く。

空模様と同じく、お互いの口は重く閉ざしたままだ。

さらには学舎に近づくにつれて足取りが重くなっていくのを感じる。

僕の学生生活には、もう平穏は訪れないのだろうか。

どうしたって悪いイメージが付き纏う。

僕はいつもの通り、あの教室に入れるのだろうか?

永遠に辿り着かなければいいのにと祈れば祈るほど、学舎はさらに早く近づいてくる。

いつもはあんなにも退屈な道のりだというのに。

嗚呼、どうしてこんなにも早く辿り着くのだろう。

足取りはいつもより遅いはずなのに、体感時間で言えばいつもの半分にも満たない時間で学舎の入口まで辿り着いてしまった。

僕の胸中など知らない綾音は、そのまま決して早くはない足取りを続ける。

一瞬躊躇ってしまった僕は、それに半歩遅れる形で付いていく。

お互いの最後の別れ道である下駄箱まで辿り着いても、結局綾音は一言も喋ることはなく、僕の傍を離れていった。

形だけ開いた僕の口からは、何も声などでなかった。

少しでも気持ちが軽くなるように、鬱を溜息に乗せて吐き出し、己の下駄箱へと向かう。

もう慣れた仕草で、己の下駄箱から上履きを取り出そうとする。

「痛っ…」

指先から不意な痛みを感じる。

手を返して、痛みの原因を見てみる。

痛みを感じる指先には赤い斑点がいくつかできている。

次はさらにその原因を見るために、下駄箱へと視線を向ける。

「…嗚呼、"もう"なのか…?」

僕の上履きには、踵部分に画鋲が丁寧に貼り付けられていた。

あれだけ大勢の想いを退けてきた高嶺の花の、こんな奴が彼氏だなんてよく思わない人もいるとは思っていた。

いずれかはどこかの誰かがやるんじゃあないかと思っていた。

けれどこんなにも早いなんて思いもしなかった。

僕は今度こそ、注意しながら上履きを取り出して、丁寧に画鋲を一つずつ剥がしていく。

ちゃんと靴の中まで細工が施されていないか確認して、もう一度確認して、さらにもう一度確認してから履く。

流石に、画鋲以外の細工は施されていないようだった。

安堵と悔しさが込み上げる。

「調子乗んなよ、隠キャ」

俯いた頭先からまた声が掛かる。

けれどさっきとは違う声、聞いたこともない声だった。

ゆっくりと、頭と視線を上げていく。

視界に映ったのは一人の男子生徒の姿だったが、すぐに曲がり角に消えていった。

誰かも分からない。

画鋲を仕掛けた犯人なのだろうか。

そんなことは最早どちらでも良いことだった。

「…ははは、情けないぞ」

目には見えない敵に、挑発をかます。

692高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:23:38 ID:UGcGjuLg

けれど本当に情けないのは僕の方だ。

彼女の隣に相応しくないから。

分かってるさ、自分でも分かっている。

周りもそう思っている。

指先に滲む血が、その証拠だ。

なのに

なのに何故、高嶺華は僕に執着するんだ。

起きてしまった事実は、鬱と不安を痛みと恐怖に変える。

教室に行くのがこんなにも怖いと思ったことはない。

教室へ向かう階段の一段一段踏み締めるたび、帰ってしまいたいと心が叫びを上げる。

それでもここで逃げ出したら、奴らの思い通りだろうと、逆の足を踏み出す。

その繰り返し。

心臓は早く脈打ち、過呼吸に近づいていく。

それでも何とか教室の前まで辿り着く。

教室の扉に手を触れる、手が震える。

「開けないの?」

不意な声に、心臓を撃ち抜かれる。

「…華」

「おはよう遍、ってさっきも挨拶したばっかだったね、えへへ。…入ろうよ、教室」

また悪い方向に話が進んでいく。

そんな二人して同時に教室に入れば、僕のことをよく思わない連中の目にどう写るのか。

そんなの考えるまでもなかった。

「行こうよ」

僕の判断が下されるのを待たずに、華は教室の扉を開ける。

僕らに視線が集まる。

祭り気分で賑やかになっていたクラスは、確かに一瞬凍りついた。

しかしそれはあくまで一瞬だけの話。

教室は直ぐに喧騒を取り戻す。

けれど空気と共に凍りついた僕の心臓は、未だ解けずにいた。

「ほら、行こうよ」

今度は静かに僕にそう囁く。

脅されるように教室を見渡すと、昨日とは異なり既に学校に来ていた太一を見つけた。

背後に退路はない、僕は太一の元へ行くことにした。

クラスメイトたちの間をすり抜けていく。

その間にも感じる意識的な無関心、誰も僕の様子を気にする様子はない、不自然なまでに。

空気がへばりつくようだ。

693高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:24:56 ID:UGcGjuLg

「おはよう、太一」

空気に釣られて僕の挨拶も不自然なものになる。

「…ああ」

太一は返事は、明らかに素っ気ないものだった。

危惧していたことが、夢に見ていたことが、現実に起こり得そうな予感。

「…あはは、今日はあんまり元気ないね。具合でも悪いのかい?」

「…別に。普通だよ」

「ど、どうしたの太一?今日は変だよ?」

「そっちこそ変だと思わないのかよ。ずっと俺っちに黙っててさ。俺っちが高嶺さんの話をするとき、どういうつもりで話聞いてたんだよ」

心がどんどん衰弱していく。

たった一人の親友すら、僕は今失いかけている。

「…ち、違う。そういうつもりじゃあなかったんだ。太一、僕の話を聞いてほしい」

「悪いけど多分今は遍っちの話聞いても信じられないわ。日を改めてくれ」

「たい…ち…。ごめん…」

太一の瞳が、あの日の小岩井さんの瞳と重なる。

ああ、そうか。

そうだったのか。

僕は親友の気持ちにさえ気がつかない、愚か者だったんだ。

そして漸く理解した、僕が孤立してしまったことを。

希望の見えない絶望の淵に今僕は立たされている。

高嶺の花との関係を公になった今の気分は、想像よりも遥かに最低なものだった。

帰ってしまいたい。

否、此処じゃないどこかであれば、何処でもいい。

さっさといなくなってしまいたい。

「…い、…らぬい、不知火!」

「は、はい!」

「いるならちゃんと返事しなさい。次、須佐島」

いつの間にか、担任による点呼が取られていた。

そんなことも気が付かないほど今は視野は狭く、声が遠く聞こえる。

五感が正常に働かない。

何も聞こえない、何も見えない、何も感じない。

自分が集中している時とは、似て非なる状況に陥っていた。

戻りたくても元に戻らない。

溺れそうだ。

694高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:25:36 ID:UGcGjuLg

「遍」

藁をもすがる思いで、その声を曖昧な感覚で拾い上げる。

「遍、大丈夫?」

「…え、ああ。大丈夫だよ」

もう彼女は僕に話しかけるのに躊躇いもない。

「遍、昨日は一緒に回れなかったからさ。今日は一緒に回りたいんだけど、いい?」

こんなものはお願いではなかった。

「…いいよ」

「やった。じゃあ点呼も終わったし行こっ!」

しなやかな手で僕の手を取り、先導していく。

どこへ向かってるのか、問うてみようかと思ったが、行き先がどこでも構わない今の自分であれば、それは愚問だと気づく。

黙って連れていかれるがまま。

やがて立ち入り禁止という札を掲げられたビニールテープで繋がれた三角コーナーを踏み越えていく。

昨日とは違う、屋上ではない。

そもそもどこへ連れていかれているのだ?

頭が段々と冷静さを取り戻していく。

「華、一体どこに向かってるんだい?」

「…」

先ほどまで愚問だと決め付けていた質問に、答えることはなかった。

足が止まる。

「…社会科教室?」

「入って」

「いや、でも」

「入って」

有無も言わせない迫力がある。

そもそも立ち入り禁止の教室に何の用があるのだというのか。

鍵すら開いてないだろうという予想は、すぐに間違ってたと知る。

扉を開けば、今日が祭りの日であることを忘れるような静寂が広がっている。

695高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:26:27 ID:UGcGjuLg

「ここになにがあるって…ッ!?」

突如として頸筋に形容し難い痛みがはしる。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い

「ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!!!!!!!!!!!!!」

なにがおきたの

わからない

いたい

いたいよ

「…フィクションにあるような簡単に人を気絶させる手段って現実的じゃないらしいよ。クロロホルムとか、コレとか」

これってなに?

わからない

まえがみえない

いきがくるしい

「スタンガンで気絶させるには高い電圧で長時間やんないとダメみたい。でも痛みと感電でしばらくは動けないでしょ。それで充分。それに気絶させたところで人一人運ぶのだって簡単じゃないし、ここまで来てくれないと」

どっちがうえ

どっちがした

どっちがみぎ

どっちがひだり

「こっちの方はもう準備できてるから安心して。あとは遍がこの椅子に座るだけ」

いきがつまりそう

いたい

たえられない

くるしい

「って言っても、まだ立てそうもないね。いいよ、私が座らせてあげる」

なにを

なにをされているのだ

これからなにをされるのだ

「んっ…しょ。確かに重たいけど持てないほどじゃないかも。遍はちょっと痩せすぎかな。よいしょっ…と」

あれ

ぼくはなにをされているんだ

いきをととのえろ

ととのえろ

「あとは手足に手錠するだけでよしっと。うん、これで動けないよね」

めのまえがみえてくる

はいにくうきがいってくる

いたみもすこしずつひいてきた

「おーい、遍。大丈夫?」

めのまえでてをふっている

痛みもひいてきた

状況がわかってきた

いや違う、なんだこの状況は

696高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:27:14 ID:UGcGjuLg

「少しずつ感覚取り戻してきたみたいね。別にこれはお仕置きでもなんでもないんだからこんなのでギブアップなんてやめてよね」

「…お仕置き?…ギブアップ?」

何を言っているんだ?

「なんで分からないみたいな顔してるの?言ったでしょ、昨日。厳しいお仕置きが必要だって。遍は今すごく痛そうにしてるけど、私が昨日負った心の痛みはそんなものじゃないからね。そんなのはお仕置きですらないから」

先ほどの痛みがまるで大したことのないと言った口振りだ。

とんでもない。

少なくても今のは今まで生きてきた中で最も痛かった記憶だ。

「さて、これから遍にはこれから幾つか罰を与えるから。ちゃんと、罪を、償ってね。それと同時に、またちゃんと私の事を"心の底の底"から愛せるよう更生させてあげる」

「い、一体、何をするつもりなんだ」

「まぁ折角の社会科教室だし、歴史の勉強しようか遍」

「歴史…?」

「そう歴史。それもかつて人間たちが発明してきた拷問の歴史」

「拷問だって…?正気か!?」

「正気だよ。まぁ続けるとね、人類の拷問の歴史は紀元前六世紀、古代ギリシャ時代から始まってるのよ。その人類最古の拷問器具とも呼ばれてるのが『ファラリスの牛』よ。これはね、牛を模した空洞の青銅の像の中に人を入れて、火で炙りつつけるんだって。これの恐ろしいところは熱を伝えやすい青銅による灼熱地獄と、空洞の中にいるから拷問を受けた人は煙による一酸化炭素中毒で楽に死ぬことも許されない」

恐怖が少しずつ体を支配する。

漸く、己が拘束され動けないとの恐ろしさを理解し始めた。

「…まぁ、ここにはその像もないし、火も起こせないんだけどね。拷問ってさ色々種類があって、有名なやつだと『鉄の処女』、あるいは『アイアンメイデン』なんかがあるよね。他にも痛いもの、苦しいもの、精神的におかしくなるもの。それらって本当に残酷で、残虐なものばかりだし、拷問後に身体が欠損するようなものも少なくないんだよね」

今朝とは違う、歪な笑顔を浮かべる。

「だから安心して。そういうのは模倣して拷問したりしないから。専用の道具もないしね」

「…じゃ、じゃあ一体どうするつもりなんだ」

「拷問自体は真似しないけど、エッセンスは取り入れる。『ファラリスの牛』だったら、火傷。『アイアンメイデン』だったら串刺し」

華はそう言うと、やおら何かを取り出す。

「それは…?」

「理科の授業で使ったでしょ?アルコールランプ。これでこの金属の棒を熱して、貴方の背中に焼印を押していく」

「なっ!?」

「この棒もそんなに太くないから、一点一点、何度も何度も、焼き付けていく。更生は後回しにするとして、先ずは謝罪からだよ。ごめんなさいって、二度と別れようなんて言いませんって、そう謝って。私は心の底からそう言ってると判断するまで繰り返すから」

にわかには信じ難いことを説明している間にも、アルコールランプには火が灯され、金属棒を熱していく。

「本当に正気じゃないぞ!?こんなのは犯罪だ!!」

「煩い。そんなことを言うなら、貴方こそ犯罪者だよ。私の心をズタズタに引き裂いてさ」

華は熱した金属棒を持って、動けない僕の背後へ回る。

そして僕の制服をたくし上げる。

「嘘だろ?!こんなのは狂気の沙汰だ!おかしいよ!!」

「…これはまだ始まりに過ぎないから。いっぱい、いっぱい謝ってね。それじゃあ始めるよ」

「ッッ!!ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああかああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!!」



ーーーここは




ーーーココハ















地獄だ

697高嶺の花と放課後 第13話『タンジー』:2020/03/23(月) 20:34:17 ID:UGcGjuLg
以上で投下終了します。
前回の投稿から一ヶ月経ちました。疲れましたw
大したエピソードにするつもりはなかったんですけど、書きたいところまで書いたら文字数最多になってました。タンジーの花言葉は「抵抗」「敵意」「あなたとの戦いを宣言する」とかです。昨日も少し言ったんですけど、もう一話並行して書いてたんで遅くなりました。なので多分次は多分早いと多分思います、多分。また次もよろしくお願いします

698雌豚のにおい@774人目:2020/03/24(火) 16:02:00 ID:okt9oCy2
乙です。面白いね

699雌豚のにおい@774人目:2020/03/28(土) 00:01:24 ID:qDRUD3B.
乙乙。盛り上がって参りました()

700雌豚のにおい@774人目:2020/03/31(火) 01:58:06 ID:muNCiKro
>>699

701高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:46:05 ID:eeQ7Fw8c
投下します

702高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:47:03 ID:eeQ7Fw8c
「以前から好きでした!付き合ってください!」

一体いつから私の事が好きだったの?具体的に言ってみなよ

「絶対に幸せにしてみせます!だから僕と付き合ってください!」

私の幸せが何だか分かっていっているの?

「高嶺さんは可愛いのはもちろんなんだけど、周りに気を配れて優しくて、その上明るい人で、高嶺さんのそういうところに惹かれました!俺とお付き合いしてくれませんか?」

気を配れて明るい人なんて他にもいるじゃない、何でその人じゃないの?

分かっている。

どうせ私の顔なんでしょ。

だから嫌いだ。

顔しか見てない薄っぺらい男達も。

『高嶺の花』と呼ばれるこの名前も容姿も。

全部嫌いだ。

昔からよく周りから可愛いと言われていた。

よく男子にちょっかいを出されていた。

よく女子に嫌がらせを受けていた。

今になれば分かるが、男子のは下らない照れ隠しであり、女子のは下らないやっかみであった。

幼い頃の私は、兎に角周りの同年代の人間が嫌いで嫌いで仕方がなかった。

だから、悪循環のように周りと私との溝は深まり、私は孤立していった。

だけど私だって、一人の人間だ、女の子だ。

孤立を何とも思わなかったなんて言わない、言えるわけがない。

苦しかった。

辛かった。

寂しかった。

周りとの溝が深まるたびに、私の心は愛に植えていた。

そんな孤独の穴を埋めるのは一人でもできる読書と両親の存在だけだった。

読書を繰り返す日々を過ごしていたある日、私は美しい物語を目にした。

とても尊い愛の物語。

真実の愛。

運命の赤い糸。

永遠の誓い。

いいな。

欲しい。

周りの人間なんてどうでもいい。

私のことを愛してくれて私が愛してあげる、愛と愛で結ばれた、決して切れない絆。

私ともう一人で完成する世界。

いいなぁ。

孤独や迫害を感じるたびに、私の心の中にある器にいつも黒くてドロドロしたものが注がれて溜まっていた。

その物語を見た時、私の中にある器から黒くドロドロしたソレが溢れて止まらなかった。

やがて私がこんなにも苦しい思いをしているのは、いつか出会う私だけの王子様に会うための試練なんだと、そう思うようになっていた。

703高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:47:44 ID:eeQ7Fw8c

そんな日々が続いていたある日、迫害を受ける私を助けるヒーローのような男の子がいた。

私はその時、疑いもせず、ソイツが運命の人だと思ってしまった。

けれど騙されても仕方がなかったと今では思う。

なにしろ、私の周りの人々全員に敵に回し、私の味方をしたからだ。

嬉しかった思いをしたのは覚えている。

私にとって初めての味方。

その時に思った、来た、と。

待っていた甲斐があった、と。

私はすぐにソイツに心を開いてしまった。

程なくしてソイツは、私に「好きだ」と言ってきた。

騙されていた私は、まんまとそれを喜んで受け入れた。

私は興奮しながら私のどこが好きなのかと聞いた。

するとソイツはこう答えた。

「か、可愛いところ」

そっぽを向きながら照れ臭そうに答えていた。

あの時の、興奮が急速に冷めていく感覚は忘れない。

可愛かったら誰でもいいの?

じゃあ私が可愛くなかったら助けなかったの?

違う

違う

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う

そんなのは真実の愛とは言わない。

そんなものは運命の赤い糸とは言わない。

違うでしょ?

君が答えなければならないのは、世界中の人間から私を選ぶ唯一の答えなんだよ。

オマエは私の待ち望んでいた王子様ではない。

「嘘つき」

私は、偽者にそう言い残し、その日を境に小学校へ行くのをやめた。

704高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:48:46 ID:eeQ7Fw8c

学校へ通うのが辛かったことを素直に親に打ち明けると、「無理して行かなくていい。それよりもよく打ち明けてくれたね。よく頑張ったね」と頭を撫でてくれた。

すると私は涙が溢れて止まらなかった。

両親の愛、愛の尊さを更に感じることとなった。

対人恐怖症になったのではないかと恐れた両親は、家庭教師を雇わず私にパソコンを買い与え、自宅でも学習できることできる体制を整えた。

私は親に与えられた愛を無駄しないように勉強にそれからの日々を費やした。

それから一年と数ヶ月後。

周りは中学生になろうという時期になっても私は、学校というものへ通う気は起きず、勉強をするか自宅または幼い頃からよく両親へ連れていかれた喫茶店『歩絵夢』で読書をしていた。

「陽子さん、こんにちは」

「あらこんにちは、華ちゃん」

八千代 陽子さん。

私が唯一、好意的に思っている他人。

学校へと通っていない私になんの偏見もなく接してくれていた。

紅茶を頼むときに少し、紅茶を持ってきてもらう時に少し、紅茶のおかわりをお願いするときも少し。

その少しずつの会話を積み重ね、今の関係ができている。

「たまには紅茶じゃなくて、コーヒー飲んでみない?」

「いやですよう、苦いですもんあれ」

「やれやれ、まだ華ちゃんはおこちゃま舌かぁ〜」

「ひっどーい!紅茶美味しいんだからいいでしょ!」

「本当は紅茶おかわり無料じゃないんだからね?もう華ちゃんは子供なのに常連だからマスターも可愛がっちゃってさ。…まぁ最初に頼んだのは私なんだけどさぁー」

「ありがとう!陽子さん、大好き!」

これは本当の気持ちだ。

陽子さんがいるから私はまだ他人との接し方を忘れずにいられる。

「おーい、マスターは?」

陽子さんに咎められる。

「マスターも大好きだよ!」

寡黙な初老のマスターは、一つ笑顔を浮かべるだけでそれ以上は何も言わない。

「ったく、調子いいんだから。JKになったらおかわり有料にするからね」

「…いいよ、どうせ学校なんて行かないし」

「…まぁ学校行くのが必ずしも正しいとは言わないけどさ。JKってだけで得することもあるよ?」

「はぁ…」

学校に行くことになんの意味があるのだろうか。

どうせ下らない連中しかいない。

勉強ならちゃんとやっている。

大好きな人の言葉といえど、私の心を説得するには些か不足だ。

そうして日々をまた積み重ねること数ヶ月。

今度は思春期と呼ばれる時期に差し掛かり始める。

身体つきが丸みを帯びたものになり、第二次性徴と呼ばれるものが次々と身体中に見られるようになっていく。

身体に変化が起きれば、心にも変化が起きる。

この頃になると、私は焦っていた。

他人嫌いを拗らせ、人と関わりを持つ事を拒み続ける生活で、いつになったら私の運命の相手に出会うのだろうか。

単純な話、出会う人の数が少なければその分、機会損失をしていることとなる。

運命の相手はきっとこの世界のどこかにいる。

けれどそれは出会わなければ意味がない。

未だ見ぬ愛しき人もきっと私のことを待っているはずだ。

灰色の日々を積み重ねていく中で、私は学校というものに再び足を運ぶ気持ちが芽生え始めていた。

単純な話、人と多く出会える環境がそこにはあるからだ。

あんなにも行きたくもなかった場所なのに、今では焦燥感に負けてしまっている。

再び学校に通う決心がついてから羽紅高校に合格をしたのは、数ヶ月後のことだった。

殊の外嬉しかったのか両親は涙し、陽子さんにも伝えにいくと

「華ちゃんもこれでJKか。これで紅茶のおかわり無料はお終いね」

そんな意地悪なお祝いをしてくれた。

705高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:50:10 ID:eeQ7Fw8c

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入学して一ヶ月が過ぎようとした頃。

最初、どのように振る舞うか、その選択肢が私には二つあった。

一つは前と同じように極力他人と関わらないこと。

もう一つは嘘の仮面を貼り付けた生活を送ること。

初めは前者を想定していたが、そもそも入学した動機が変化を求めてのことだったため、振る舞い方にも変化が必要だと思った私は、後者の生活を選んだ。

なるべく明るく、なるべく優しく、なるべく気を遣う。

誰も彼も絵空事に思い描く良い子を演じる。

心底どうでもいいと思う有象無象共にも、わざわざ丁寧に対応する。

するとどうだ。

「…なにこれ」

いつものように下駄箱を開ければ、一通の手紙が入っていた。

いちいち細かい内容なんて覚えてなんかいないが、放課後に屋上に来いとのことだった。

仕方ないと、指定通りに屋上へ向かうことにする。

「あ、良かった!高嶺さん来てくれたんだ」

邂逅してようやく、差出人の名前と顔が一致した。

同じクラスの男子生徒だった。

「どうしたの吉原くん?話があるって」

白々しい質問だ。

こんなところに呼び出す用件を想像できないほど、私は鈍くない。

「単刀直入に言います。高嶺さん、あなたに一目惚れしました、付き合ってください」

男子生徒は手を前で組み、そう言ってのけた。

その瞬間、背筋に嫌悪感が走った。

気持ち悪い。

「…あはは、ごめんね。吉原くんのことはかっこいいとは思うけど私は吉原くんのことよく分からないし…」

当たり障りのない言葉で断ろうとする。

「だったら、友達からでもいい!俺のことが分かってくれたらその時に返事をしていいから!」

しまった。

当たり障りのない言葉を選んでしまったがために、断る理由が弱いものとなってしまい、相手が食い下がる。

一目惚れ、なんて気持ちの悪い理由で、告白するような男が運命の相手な訳がない。

そんな奴と、演技でも仲良くするには無理がある。

なんとかして断りたいという気持ちでいっぱいになる。

心が先走り、理性が働かない。

「…あの、それもごめんなさい。今はその、誰とも付き合う気がないの」

相手がこれ以上、食い下がる前に私は踵を返し、その場を後にする。

相手から見えなくなった事を確認すると、私は女子トイレに駆け込んだ。

「…ぅっ、ぇぇぇ…」

凄まじい嫌悪感は、吐き気を催した。

やっぱり嫌いだ。

学校も有象無象も。

挫けそうになる。

だけどもしかしたら、この学校にいるかもしれないのだ。

私の運命の相手が。

また不登校になるわけにはいかない。

気を強く持ち直し、仮面を付け直す。

そこから一年近くは、精神的に堪える日々が続いた。

最初の嫌悪感が凄まじい告白は、始まりの合図でしかなったのだ。

告白される。

嫌悪感が走る。

断る。

嘔吐する。

その繰り返しだ。

身も心もどんどんすり減っていく。

そうやって雨と紫陽花を疎ましく思いながら、蝉の音を聞き過ごし、落ち葉を踏みつけ、降り積もった雪を踏み越えていく。

もうこの頃になると、一日の中で何度も学校辞めようという考えが浮かんでいた。

ここまで過ごしてきて分かったが、長期休み前に告白する人が多いという事だ。

春休みを目前にした今、おのずと告白される頻度も増えていた。

辟易とする。

706高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:51:01 ID:eeQ7Fw8c

胃液で焼きついた胸をさすりながら、さっさと帰ろうと廊下を歩いている時だった。

忘れもしない。

この時、二月二十九日、四年に一度の閏日。

私と愛する貴方の運命が交わり始めたんだ。

閑散とした教室に一人、机にしがみ付いてひたすら筆を動かす貴方がいた。

初めは勉強をしているのかとでも思い、そのまま通り過ぎようとするが、一つの疑問が後ろ髪を引く。

机にあるのはどうみてもノートと筆だけ。

そしてただただ凄まじい集中力で勢いよく、筆が走る。

果たして本当に勉強しているのか?

勉強しているのであれば、教科書あるいはプリントも、机の上にあってもよいのではないか?

気になる。

何故こんなにも疑問と好奇心が浮かぶのか。

この時は分からなかったが、今になって思えばこれも運命だとしか説明のつけようがなかった。

私は自分の心に従い、入ったことも無い教室へと踏み入れる。

その様子にも気づくことはなく、相変わらず筆を走らせてる。

そして息を殺して覗き込む。

すぐに分かった。

小説だ。

彼は小説を書いている。

物凄い勢いで綴られていく物語を追っていく。

否、物語に惹き込まれる。

背筋に何かが走る。

嫌悪感ではない。

ーーーーーーーーゾクゾクゾク

走り去った何かの感覚を追いかけるように鳥肌が走る。

こんなに美しい物語を見たのは二度目だ。

その筆先で語られた物語は、尊いそれはもう尊い愛の物語だった。

この人は私と同じ"愛"の価値観持っている。

価値観は重要なことだ。

何者だろうか、この男の子は。

私が男子に興味を持ったのは、生まれて初めての事だった。

私がその物語から動けないでいると貴方はいきなり筆を止め、一つため息を吐いた。

私はその時、まずいと思って、固まってしまう。

覗き見した言い訳が一切思いつかなかった。

緊張感が血液を加速させ、灼けた喉の不快感がさらに増していく。

けれどいつまでも背後にいる私に気付く様子はなく、もう一度筆を取り、再び物語を綴り始めた。

すっかり萎縮した私は、彼の集中力が続いているうちにその場を後にした。

その後。

帰り道をふらふら、ふらふらと歩く。

あの人はいつもあそこで書いているのだろうか?

本当に私に気がつかなかったのだろうか?

愛についてどう考えているのか?

あの物語の結末はどうなるのだろうか?

溢れ出す疑問が止まらない。

波のように押し寄せる疑問が、好奇心となって押し返される。

けれど翌日から始まる学年末試験によるものか、その日以降姿を見る事なく、結局春休みが始まってしまった。

これらの問いの答えは一切分からずじまいだった。

707高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:52:16 ID:eeQ7Fw8c

学年を跨ぐ春休みの間、私は悶々とした日々を送っていた。

分かっているのは彼の顔と同学年ということだけ。

あまりにも不足した情報。

知りたい。

好奇心が日に日に増していく。

終いには、早く登校を再開したいと思うまでになっていた。

今までの積み重ねきた日々より、一日一日が長い。

早く学校始まらないかな。

…。

やがて春休みが終わると、私は気持ちが急いてしまい、いつもの登校時間より遥かに早い時間に辿り着いてしまった。

温暖化の影響からか、すでに桜は散り始めている。

校舎へ足を踏み入れれば、掲示板に『新クラス分け』と書かれた用紙が何枚も貼られていた。

自分の名前を探す。

「…あった。A組、ね」

クラス分けも重要なことだ。

もし彼と同じクラスになれれば、それだけ彼のことを調べやすくなる。

けれども、彼の名前を分からない私は、今それを調べる術は持ち合わせていなかった。

A組からE組まであるので単純な話で言えば、五分の一の確率で同じクラスになるという計算になる。

正直、確率としては低い方だろう。

あまり期待を持たないほうがいいのかもしれない。

同じクラスになることも、そもそも彼が特別な存在になりうることも。

あれだけ好奇心に急かされていたことが、嘘みたいに冷めていく。

仕方ない、早く着き過ぎた分は読書で潰すことにしよう。

そう思い、新しい教室の扉を開ける。

その瞬間、目に入ってきた光景に心臓が掴まれる。

彼だ。

彼がいた。

同じクラスメイトだったんだ。

この間とは違い、彼はただ静かに読書していた。

しかし集中力は相変わらずのようで、教室へ入ってきた私に気が付かない様子だった。

私は黒板に貼られている新しいクラスでの、席順を確認する。

私の席を確認するのもそうだが、彼の名前が知れる。

やっとだ。

不知火 遍。

これが彼の名前。

頭の上で、運命という文字が踊る。

高鳴る気持ちを抑えつつ、自分の席に着き、私も読書をすることにした。

二人だけの教室。

同じことをする。

感覚が繋がっていくような、そんな感覚。

心地良くも感じるその時間は、永遠に続くわけなく、あっという間に次々と現れるクラスメイトたちによって終わってしまった。

苛立ちを感じざるを得ない。

良い子を演じるため、クラスメイトと談笑しているうちに、全校集会の時間が訪れる。

彼をちらと確認すると一人の男子生徒と会話をしているようだった。

話し相手の男子に特段興味は湧かないが、彼は別だ。

不知火くん。

君のことが知りたい。

愛についてどう思う?どう考えているの?

あの物語の続きが知りたい。

教えてほしい。

そんなことばかり考えてしまい、朝礼の言葉など入ってきやしない。

長くも短くも感じる全校集会が解散し、教室へ戻る。

そして担任となる太田先生が教室へと入ってきて手短に話を終えると、その流れで自己紹介をすることになった。

心底どうでもいいと思える自己紹介を、幾つも幾つも聞き流し、ただその時を待つ。

まだかな。

まだかな。

きた。

708高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:54:49 ID:eeQ7Fw8c

「えっ…と不知火 遍です。好きなことは読書です。よろしくお願いします」

間違いない。

彼は不知火 遍。

もう忘れない。

…。

それからの日々は私にとって初めて満たされた学生生活だった。

あれだけ気持ちの悪かった告白も、今では何とも感じなくなっていた。

それどころか、放課後に告白をされた後、教室へと戻れば、いつも物語を書いている君がいる。

私は静かにそれを眺める。

貴方は集中力が凄いから私に気づかない。

でもそれでいい。

完成された心地の良い世界を享受する。

不知火くんの指先から紡がれる物語はなんて美しいのだろう。

まるで読んでいる私が、物語の中の恋をしているような、そんな錯覚に陥る。

私も毎日放課後に残るわけでもないから、物語は私の中で断片的なものになっている。

けれど、自然と私の中で補完できてしまう。

同じ"愛"の価値観を持っているから。

分かる不知火くん?

私たち、繋がっているんだよ?

しばらくは、その心安らぐような放課後を積み重ねることで満足していた。

けれど、私も貪欲な生き物なんだろう。

もっと先へ関係を進めたい。

不知火くんの為人を知りたい。

価値観が同じなのは重要なことだけれど、それだけが全てではない。

最も大事なのは相性だ。

私の心に空いた穴を塞ぐほどの相性の良さであれば、不知火くんは私の運命の人かもしれない。

どうすればいい?

どうすれば自然に私たち"知り合える"かな?

私に気付いて。

お願い。

そんな欲望が積もり、もはや唇が触れ合いそうになる距離まで顔が自然に近づいてしまう。

ドキドキする。

こんな気持ちは初めてだ。

胸の高鳴りを必死に抑えようとしていると、また不知火くんは溜息を吐く。

これが何を意味をするのか、今の私なら分かる。

彼の集中力が切れたのだ。

すると彼は何気ない視線の移動で私の両眼に合う。

709高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:55:38 ID:eeQ7Fw8c

「わぁぁ!!!」

「きゃっ」

彼はとても驚いたようで、私の想像を超えるような声を上げた。

「あ、あ、ご、ごめんなさい高嶺さん。驚かしてしまって」

けれど、彼はすぐに私を気遣った素振りを見せる。

「ううん、ごめんね不知火くん?私の方こそ驚かしちゃったよね?」

癖になってしまった良い子の仮面が勝手に喋る。

「えええと、どうしたの?」

彼が精神的に乱れているのはあからさまだった。

「えーっと私、自分で言うのも恥ずかしいんだけど今日、告白のために呼び出されていて教室にかばん置いたまま校舎裏で受けてそれが終わって教室に戻ってきたら不知火くんがいて、勉強してるのかなー偉いなーっと思って近くまで寄って後ろから覗き込んでたらこうなっちゃった」

我ながら良くもここまで簡単に嘘をつけるなと感心してしまう。

「あのさ、高嶺さん。見た?」

やはり彼にとってあまり見られたくないものらしいのか、そんなことを聞いてくる。

「うん。あっ、もしかして…」

ごめんね不知火くん。

本当はもっと前から君の小説を、君のことを見ていたんだよ。

「うん、そのもしかして」

「ご、ごめんね?そんなつもりはなかったんだ!なんの勉強してるか気になっただけで…!」

初めはそうだったかもしれないけど、今日は違う。

私は確信犯。

「えっともういいんだよ。見られちゃったものは仕方ないし」

「ごめん…」

「確かにさ、あんまり見られたくないものだったけどいつかは人に見せないといけなかったしいいきっかけになったと思うよ、うん」

「見せないといけないって、不知火くんもしかして…」

「うん、そのもしかして」

思わず笑みが溢れる。

なんだか同じやりとりの繰り返しが面白かったのだけれど、彼はどうやら彼の夢を私が笑ったと捉えたのか、不快感を示すような顔をする。

「あ、違うの!その夢がおかしいんじゃなくて同じ会話繰り返してなんだか面白くておかしいなっておもっただけで…!」

貴方の夢を笑ったりするわけない。

「確かにそうだったね」

彼は私の意図を汲み取ったのか、愛想笑いを浮かべる。

「それにしても私のクラスに作家さん志望がいたんだねぇ」

「意外だったかい?」

「なんていうか不思議。あの作家さんと同じクラスだったんだよーって将来起こるってことでしょ?」

「いやいやいや、僕がまだ作家として売れるとは限らないし…」

いいえ。

あんな美しい物語が書けるのであれば、小説家として大成するのは間違いないよ。

「ううん、私はそう思う。だって私普段あまり本は読まないけど今の不知火くんの文章はすごくひきこまれたもん!」

「世辞でも嬉しいよ。ありがとう高嶺さん」

世辞だと思われないように半分嘘をついたのだが、逆効果のようだった。

「あ!信じてないなぁ?」

「いやいや、信じてるよ」

「ならよろしい。じゃ、せっかくのところ邪魔してごめんね?私はもう帰るから」

「またね高嶺さん」

またね。

再会の挨拶をかけられたのが嬉しくて

「またね!不知火くん!」

思わず大きな声で返事をしてしまった。

恥ずかしさを誤魔化すように教室から急いで出る。

胸がきゅぅぅと締め付けられる。

またね。

これはきっと不知火くんは、私と仲良くなりたいって捉えていいんだよね?

彼から話してくれるのを待ってもいいんだよね?

期待の蕾が、今か今かと花開くのを待つのを感じる。

今は六月。

あと一月程で向日葵が咲く時期だった。

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710高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:56:14 ID:eeQ7Fw8c

高校二年七月初旬。

苛立ちが募っていた。

待てど暮らせど件の彼、不知火遍からの接触はなく、話しかける気配すら感じなかった。

加えて、初夏と梅雨の暑さと湿気が苛立ちを助長している。

いつになれば彼は私に話しかけてくれるのだろうか。

またね。

あの言葉は、どういうつもりで言ったのか。

色々と問い詰めたい気持ちはあるのだが、こちらから話しかける勇気を持ち合わせていなかった。

拒絶されたらどうしよう、そんなことばかりを考えて一月の間、動けないでいた。

臆病者だ、私は。

どうでもいい奴らとは簡単に表向きの関係を築けるのに、たった一人の気になる人とは関係を築けない。

もどかしい。

そう一ヶ月が経ったのだ。

我慢の限界だった。

だから私はもう一度、同じやり方で彼に接触をすることを図った。

今度は気づきやすいようにあえて彼の正面で待つ。

「終わったぁ」

彼はおもむろに筆を置き伸びをする。

「おつかれさま。その顔を見るとどうやらやっぱり私に気づいてなかったんだね」

「た、高嶺さん、どうして…」

「先月と同じ理由だよ」

「そっ、か。なんていうか久しぶりだね」

「うん!久しぶり、って同じクラスなんだけどね」

いざ話始めれば思わず笑みが溢れる。

嘘偽りのない笑みが。

「そうだよね、変だよね」

そして彼も釣られて笑う。

「本当は仲良くなりたかったんだけど…ほら、急に不知火くんと仲良くなったら不知火くんの本のことみんなにバレちゃうかもしれないしなんていうか話しかけづらかったんだよね」

嘘をつく、臆病者。

「…そっか、僕も同じ理由だよ」

「でも1ヶ月で書き上げちゃうんだね。すごいな不知火くんって」

「いやいやノート1冊分くらいの短編小説だしプロの人たちに比べたらまだまだだよ」

「ね!」

「?」

「読んでいい?」

実の所、要所要所で覗きはしているのだが、彼に正式に見せてもらうということに意味がある。

「駄文だけど読んでくれるかい?」

「やったぁ」

彼の承諾が得られる。

彼から世界史と書かれたノートを手渡される。

思わず息を呑み込む。

彼が紡ぎ出した美し世界が、今まさに私の掌にある。

勿論、断片的となった物語を完璧に補完できる。

そのことに喜びを覚えるが、もっと喜ばしいのが彼に拒絶されなかったこと。

それだけで、この一月で溜まっていった嘘だったかのようにストレスが一気に消え去っていく。

物語を追っていく。

ここはもう知っている。

ここは知らない。

嗚呼、こういう風に物語が綴られていくのか。

答え合わせのように、私の妄想と不知火くんの物語を照らし合わせる。

711高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:56:55 ID:eeQ7Fw8c

暫く物語に夢中になっていた私だが、不知火くんの様子が気になって、ふと視線を移す。

すると彼は本を読んで集中しているようだった。

…面白くない。

自意識過剰なのは分かっているが、もっと物語を読んでいる私に興味を持って欲しかった。

私じゃなくて本に夢中になってる彼を見て、不快感が増していく。

「不知火くん」

少し刺のある言い方で呼びかけてしまう。

しまったと思ったが、それでも彼は私に気がつかずにそのまま読書を続けてる。

面白くない。

面白くない面白くない面白くない。

「不知火くん、不知火くん」

もっと私に興味を持ってよ。

なんでどうでもいい奴らからは散々言い寄られて、距離を縮めたいと思ってる人に限って、こうも関心を持たれないのか。

私を見てよ。

「不知火くん、不知火くん、不知火くん!」

呼びかけでは、まるで反応しない彼に苛立ち、とうとう手を出して揺さぶる。

「うわ!」

すると、彼はとても驚いたように本の世界から、こちらの世界へ戻ってくる。

「ごめんね、何度呼んでも反応しないからさ」

ごめんね、でも何度も呼びかけてるのに気付かない貴方が悪いんだよ?

「いやいやこちらこそ気がつかなくてごめん」

彼は申し訳なさそうに私に謝る。

そして今一度、姿勢を立て直し私に尋ねてきた。

「それで、読み終わったかい?」

「ううん」

完全には読み終わってないのは事実だが、あと10分もあれば読了を終えるのも事実だった。

「だからね、これ持って帰ってもいい?」

しかし、その事実を伝えはしない。

「え?」

「だめかな?」

彼との接点を手放さない、話しかけるきっかけになる。

「いやだめじゃないけど…」

「やった。じゃあもう暗くなって来たし帰ろうよ」

「え?」

私が帰路を共にすることを誘うと、そんな返事がきた。

「僕は羽紅駅とは逆の方だけど、高嶺さんは?」

「私も途中まで一緒だから、ね?いこ?」

違う。

私は本当は駅の方、電車で通学している。

けれど私は今、好奇心が絶頂に達しているのだ。

この機会を逃すわけがない。

712高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:57:18 ID:eeQ7Fw8c

その帰り、私はひとつひとつ質問を重ねていくことにする。

彼のことをひとつひとつ理解する為に。

私は、彼の好物がきんぴらだということ、妹がいること、そして毎日放課後に残って書いているということを聞いた。

前者ふたつは初めて知ったことだが、最後に問うた質問に関しては、正直半分わかってた上で聞いた。

理由は明日彼に会うための口実作り。

「分かった!じゃあまたね不知火くん」

「うん、またね」

再び交わす別れの挨拶。

けれど前回の形だけの再会の約束とは違う。

私には今、彼と"小説"という繋がりがある。

口実もある、繋がりもある。

私は翌日の放課後、すぐに彼に会いに行った。

まだ彼のことを知らない、分からない。

だから彼と言葉を交わし、勉強を教えるという名目で、次の約束を取り付ける。

そうやって会うたびに次の約束を取り付け、初めの失敗を繰り返さないようにする。

何日も話をするうちに、すっかり私は彼に夢中になってしまった。

彼は少し変わった人だ。

喋り方も独特だ。

でもその個性が私を魅了してやまない。

楽しい。

彼に勉強を教える日々を過ごすうちに、頭の片隅で思ってきた疑問と不安が徐々に大きくなるのを感じた。

彼は一体私のことをどう思っているのか。

もし。

もしも。

彼が私のことをただの高嶺の花としか思っていないのであれば。

忘れられないあの、心の燈が消えて急速に冷えていく感覚が、全身を恐怖で包む。

不知火くんも偽物なの?

教えて欲しい。

応えて欲しい。

そんな思いが、彼のために作っていた模擬問題に、一つの問いを加えた。


『問24 あなたは高嶺 華に対してどのような印象もしくは高嶺 華がどういう人間だと思うか。答えよ』

仮にこの問いに有象無象たちと同じ答えをするのであれば、私と不知火くんの関係はそこまで。

けれど…それ以外の答えであれば。

「…ねぇ、不知火くんはどっち?」

713高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』:2020/03/31(火) 14:58:46 ID:eeQ7Fw8c
以上で高嶺の花と放課後プロローグ『アネモネ』の投下を終了します。『アネモネ』の花言葉は『君を愛す』『真実』『期待』等です。13話書いてる途中で思い付いたのでこういう形でプロローグを書くことにしました。そろそろ佳境に入っていきます。実を言うと最終話が8割方書き終わってます。あとはゴールに向かって書いていきます。それではまた第14話で

714雌豚のにおい@774人目:2020/04/01(水) 22:09:03 ID:oCGexBFI
結構前から存在を知っていたのね。納得。

また続き楽しみにしてます。

715高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:25:22 ID:PT2Ypp.E
投下します。

716高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:25:40 ID:PT2Ypp.E
高校2年 11月上旬

誰よりも早く学校に来る。

誰よりも早く教室に入る。

誰よりも早く入った教室で本を読む。

以前から繰り返していた特に意味を持たなかった習慣は、今や他人から悪意を受け取らないための防衛策となっていた。

授業と授業の間も、本を読む。

周りの声を無視することが、今僕にできる唯一の心の救済だった。

けれど流石に昼休みになれば、1人の無視できない存在がこちらへ向かってくる。

「遍。今日もお弁当作ってきたから一緒に食べよ?」

「…うん」

この瞬間だけは、周りの声も視線も無視できない。

嫌なものを見る目で僕を見る。

ふたりきりになりたいと、彼女は屋上へ行くことを望む。

僕も同じく、ふたりきりになりたかった。

「んー!いい天気だね遍!」

「うん、そうだね」

空を見上げれば見事な秋晴れが広がっていた。

風が少し冷たいが、その分日差しが心地よく感じる。

「でもちょっと風が冷たいし、日差しで食べよっか」

彼女も同じことを考えていたようだ。

「そうしよう」

僕が同意したのを見ると、彼女は布に包まれた二組の弁当箱を取り出し、中身を僕に見せるように開ける。

「じゃーん。今日は遍の好きなきんぴら作ってきたの!」

そのまま箸を取り出し、きんぴらを掬い上げる。

「はい、あーん」

僕は言われるがまま、雛鳥のように口を開き、好物を口に含む。

「…どう…かな?」

少々不安げな表情を浮かべる。

「うん、美味しいよ」

少し塩辛い気もするが十分美味しいと言えるものだった。

僕がそう答えると、彼女は不安げな表情から嬉しそうな表情へと綻んでいく、

「えへへ、良かった。遍の好きなものなのに口に合わなかったらどうしようって不安だったんだぁ。愛情もたっぷり詰まってるからいっぱい食べてね」

咀嚼が止まる。

順調に回していた歯車が、ギシギシと音を立て、途端に噛み合わなくなる。

「…どうしたの?」

再び不安げな表情で僕に尋ねる彼女。

しかし先とは違う、味に関する不安ではない。

きっと彼女の望む日常が壊れてしまうのではないかという恐れからの、不安。

その表情が、その目が、全身の痛みを思い出させる。

「い、いやなんでもないよ?」

歯車をすぐに修繕して、日常をまた回し始める。

全身がズキズキと痛む。

もう五日も前のことなのに、生傷のように痛みが走る。

余計なことを考えるな。

彼女が望む生活を営む。

もう、足掻くのは無駄なことだと充分、理解した。

それに彼女の愛を受け入れることに、なんの問題があるのだろうか。

…ない。

問題など無い。

考えるな、考えるな。

余計なことを考えれば、痛みが全身を苦しめる。

彼女の愛を素直に受け入れれば、痛くも無いし幸せじゃあないか。

余計なことを考えるな。

さっきは悪意から必死に守っていた心を、今度は声を上げなくなるように殴り続ける。

本心が分からなくなるまで殴り続ける。

もう本音なんて喋る必要はない。

人にも、己にも。

「ごちそうさまでした」

僕は高嶺華と日常を過ごす。

それだけだ。

717高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:50:27 ID:BHazLbKo
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「ただいま」

前回の期末考査と同じく、放課後ふたりきりの教室で勉強をし、帰宅する頃にはすっかり夕飯の時刻となっていた。

革靴を脱ぎ、廊下に足を乗せたところでリビングから義母が顔を出してきた。

「おかえり、遍くん」

「…綾音は?」

「…」

義母は口を閉ざし、静かに首を横に振る。

今日で五日目。

あの日以来綾音は、部屋に篭っていた。

最早、生きているか定かではない状況だが、どうやら食事だけはちゃんと取っているらしい。

「…あの子本当にどうしちゃったのかしら」

義母はまだ事の顛末を知らない。

言うべきか言わないべきか正直分からなかった。

否、本当は言うべきなのかもしれない。

母親として娘を案ずる気持ちはよく分かるのだが、然りとて面と向かって「貴方の娘は近親愛願望の持ち主でした」と言える勇気はとてもじゃないけど持ち合わせてはいなかった。

それに僕も日常を維持するのにいっぱいいっぱいになってる。

やっとの思いで均衡を保っている。

自分以外に気を使う余裕を持ち合わせてはいない。

「…先にお風呂に入ってくるよ。夕飯は先に食べてて」

そんな器の小さい自分が情けなくて、家族とすら顔を合わせたくなくなる。

「…待ちなさい、遍くん。綾音も確かに心配だけど、あなたも最近少しおかしいわよ」

何日も連続して、夕飯を共にすることを避けてれば、あまりに不自然なのは少し考えれば分かることだった。

「…僕?僕は大丈夫だよ?」

嘘つきの笑顔を浮かべる。

けれど義母はただ悲しい顔をするだけだった。

「…遍くん。私そんなに頼りないかな。確かに私達は血の繋がりがないけど、私はあなたのことを本当の息子だ思ってる。遍くんは私のことを本当の母親のように信頼するのは難しい?」

「まさか。そんなこと…」

「…じゃあどうしてそんな、誤魔化したような笑いをするの?」

二の句が告げられなくなる。

義母は泣いていた。

例え家族だとしても、その笑顔が本物か偽物かなんて、判断をつけるのは難しいはず。

それなのに、僕の笑顔が嘘だと気付き、それを悲しんでいる。

きっと義母は本当の母親になろうと、相当な努力をしてきたのだろう。

「…ごめんなさい。先に夕飯を食べることにするよ。話はそこでもいいかい?」

「…分かったわ」

「荷物、置いてくるよ」

罪悪感に髪を引かれながら、自室のある二階へと登る。

階段を登りきってまず目に入ったのは、彩音の部屋の前の廊下に置かれているお盆と食器だった。

けれど僕は足を止めずにそのまま、自室へ入る。

「…なにしているんだろう」

自分でもおかしいのはわかる。

いつもの自分であれば、妹の異変の心配をし、荷物を置くより先に綾音の部屋に様子を伺いに行くというのに。

「駄目じゃない…、綾音ちゃんの心配しちゃあ」

「!?」

華が耳元で囁く。

慌てて振り返る。

けれど華の姿はどこにもなく、自室の扉がそこにあるだけだった。

718高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:52:37 ID:BHazLbKo

「…はぁ」

あの"教育"以来、時折こうして華の幻が僕に警告してくる。

「分かっているさ…。君以外は愛さない」

そこに華はいないのに、僕は華に誓いの言葉を捧げる。

華も言っていた。

中途半端な愛情を注ぐから彩音も苦しむのだと。

綾音を真っ当な道に戻すなら綾音が諦めるまで徹底的に距離を置くべきと。

初めは納得できなかったが、今ではそれが本当に正しいやり方なのではないかと思い始めている。

近過ぎず遠過ぎないから近づきたくなる、近づけるかもしれないと思わせないほど遠くなればきっと綾音も…。

制服から部屋着へと着替え、自室を後にする。

今度は部屋から出る時は、一度も綾音の部屋を見ずに階段を降りた。

意図的に見なかった。

リビングへ足を運ぶと机の上には、煮物や焼魚といった二人分の食事が置いてあった。

家族は四人いるのに、その半数しかない。

「父さんは?」

「剛さん、仕事で遅くなるんですって」

ということは、恐らく僕の分と義母の分なのだろう。

綾音の分は、と聞くのは余りにも野暮というものだ。

「じゃあ食べようか…」

四人分の座席、誰がいつ決めたかも分からない決められたいつもの席に座る。

「いただきます」

「…いただきます」

いつもの半数の食卓は、いつもの半分以上に静寂なものだ。

否、ここに父がいても変わることはない。

不在が存在を強く認識させる。

綾音がどれだけ不知火家に必要か、今ならよく分かる。

義母も口を開かない。

これは元よりそうだということではなく、あくまで僕が口を開くのを待っている、そんな状態のように思える。

では話すと言っても、僕が一体なにを話せるというのだろうか。

義妹が、貴女の娘が僕を恋慕の対象として見てました。

或いは。

彼女が、交際相手が僕を…僕を。

僕を?



アイシテクレマシタ



悪寒が全身を包む。

719高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:53:27 ID:BHazLbKo

少しでも彼女の事を悪く思えば、思考が固まり、その先が考えられなくなる。

心が悲鳴を上げているのは分かっている。

風でも吹けば、すぐに崩れてしまいそうなほど危険で歪な精神のバランス。

「遍くん…顔色悪いわよ…」

今にも心が壊れてしまいそうな最低な気分は、義母の口を開かせるほどの表情を写し出してしまった。

話せない。

話せるわけがない。

自分自身の心にさえ、話せないのに。

「その…さ。綾音が…」

そう考えていたら、口が勝手に言葉を選び始めた。

「どうやら僕の事を、好いていた…みたいなんだ。兄としてじゃなくて…その…」

ここから先は流石に言いにくいと口にブレーキがかかる。

それでも義母は察したようで、目を少し開いた後、空気が漏れるようなため息を吐いた。

「そっ…か。そっか。…そうだったのね。そう…なっちゃったのね」

義母としても複雑な心境なのだろう。

上手く言葉が見つからないと言った様子だった。

「僕が言ったのは、到底綾音の想いは受け入れられないといった旨だよ…」

「それっていつの話?」

「五日前、文化祭二日目の朝だ」

「…」

言葉を見つけるのが容易ではない、そういった様子だった。

当たり前の話だ。

義母の思いも、綾音の想いも、僕の憶いも、簡単なものじゃない。

僕らは皆、一言で表せられるような、そんな単純なものを、心の内に飼っていない。

何が正解で、何が間違いなのか。

そもそも正解も間違いもあるのか。

分かるはずもない。

「僕としては受け入れられないと綾音に伝えたんだ。元よりそんな気は持ち合わせてはいなかったし、僕には今…彼女が居るから」

「…そうよね。遍くんは何も悪くない、ただ…当たり前の事を言っただけ」

無理な笑みを浮かべる。

それだけで義母の胸中にどれだけ複雑なものが渦巻いているのかが分かる。

「…いつか私にも紹介してね、遍くんの彼女」

「うん…」

何の気兼ねもなく華を家に連れて来れる日がやってくるのだろうか。

何の希望も見出せない中で食べる夕食は、酷く薄味なものだった。

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ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー


いつもの通学路を歩き、いつも通っている羽紅高校に着く。

けれど今日はいつも通う学舎が目的地ではなく、その先。

羽紅駅での待ち合わせ。

歩くたびに駅の姿が大きくなり、間もなく到着する頃には待ち人を視認できる距離だった。

720高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:54:04 ID:BHazLbKo

待ち人はどうやら誰かと話していたようだった。

その誰かも分からない男の人が去るまで待とうかと思ったが、あいにく集合時間を過ぎようとしていた。

仕方無しに僕は彼女に挨拶をすることにする。

「お待たせ、華」

「…ほらね」

彼女は一度僕を見ると、直ぐに話していた人に冷たい視線を向ける。

「…ちぇ、本当にいたのかよ。しかも…。見る目ないんだな」

男は明らかに悪意を僕らに向け、そのまま立ち去っていく。

「…知り合いかい?」

明らかに違うことはわかり切っているのに、そんな野暮な質問をする。

「違うよ、ナンパ」

つまらなさそうに吐き捨てる。

そのまま華は溜息を一つ吐いて、僕に体を向け直す。

「遅いよ遍。時間ギリギリに来るから貴方の愛する彼女がナンパされるんだよ?」

「ごめんよ、思ったより支度に手間がかかってしまってね」

途端に彼女が抱きついてくる。

「会いたかった」

熱の帯びた囁きが、肩を湿らす。

「…昨日別れてからまだ半日しか経ってないよ」

「半日"も"離れてたのよ?遍に会えない時間は1分でも1秒でも苦痛なのに、半日も会えないなんて気が狂いそう」

彼女の強い想いに僕は返す言葉を出せないでいた。

「ねぇ」

「?」

「嫉妬、…した?」

先程とはうって変わって酷く冷めた声で、囁く。

間違いない。

間違えてはいけない。

僕は"正解"を答えなければならない。

「…うん。華は誰の目から見ても魅力的だから、仕方ないとは思うけど」

「あいつらから魅力的に見えるかなんてどうでもいいの。…遍から見て私は魅力的?」

「うん。僕には勿体無いほどの自慢の彼女だよ」

「…もう。そうやって直ぐ自分のことを物差しで測るんだから」

華は少しだけ体を離して、薄桃色の唇を僕の唇に合わせる。

「…その癖、治してね」

大丈夫、しくじってない。

どうやら僕の回答は及第点のようだ。

「じゃーあ。早く行こっ。早くお家デートしよ!」

「今日はお家デートじゃなくて勉強会だからね」

「今日だけじゃなくて明日も!もう遍ったら。どうしてそんな色気の無いこと言うのっ?」

「ははは、明後日からテストだし、流石に無視できないよ」

「今週凄い勉強したし、今の遍なら今日明日やんなくても絶対いい点数とれるよ」

「流石にそれは過信しすぎだよ」

「むぅ、遍のいけず」

「…別に一日中、勉強だけするわけでもないんだろう?」

華は一度目を大きく開くと、向日葵のような笑顔を咲かせる。

「うん!早く行こう!」

僕はあまり慣れない仕草で券売機を操作する。

721高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:54:58 ID:BHazLbKo

「華の家の最寄駅ってどこなんだい?」

「二つ隣の夜鳥町(よるとりまち)ってところ」

言われるがまま、二番目に安い切符を買う。

「そもそも、華の家は僕の家とは同じ方向どころか反対側、しかも電車を使うじゃあないか」

「あはは…。どうしても遍と一緒に帰りたかったから嘘ついちゃった。ごめんね?」

「いや、怒ってはないんだけれども…」

怒ってはない。

怒ってはないがそもそも出会いの時点からそんなにも想い寄られてるにも関わらず、その気配を一寸も感じ取れなかった己の鈍さに、呆れてものも言えない。

「最近は遍にお弁当作ってるから、どうしても朝早く出る遍に間に合わないんだよねぇ…」

不満が漏れる。

券売機からも切符が漏れる。

「ま、でもいいんだ。もう遍は四六時中私のモノだもんね」

「…そうだね」

改札機に切符を喰わせる。

別の口から不味いと吐き出される。

電車なんてものに乗るのは随分と久しい。

電光掲示板で次にやってくる電車の時刻を確認しようと上を眺めていると、左腕にスルリと蛇のように華の腕が絡みつく。

「なぁに?」

無意識の内に左にいる華を見やると、そんなことを聞いてくる。

出来れば人の目につく時はやめて欲しいと言おうとしたが、上手く言葉が舌に乗らない。

「…今日も可愛いなと思っただけさ。ナンパする彼の気持ちもよく分かるよ」

代わりに出てきたのは気障ったらしい台詞だった。

「えへへ、嬉しい。…私ね、実はあんまり人から可愛いとか言われるの好きじゃなかったんだ。昔からみんなそう言うの。まるで私の存在意義が可愛く在り続けることだけのように。私は人形なんかじゃない。…いつも思ってたの。もし私が可愛くなければ、この人達は同じ様に接していたのだろうかって、ね。私が思うに、答えはノーよ」

「…容姿抜きで接し方を決めるなんてことは無理な話だとは思うさ。容姿はその人の魅力の内の一つなのだから」

「それは付加価値であるべきであって、存在価値を決定付けるものであってはいけないの。けど残念ながら心の底で、そういったふざけた考えを持ってる人間が殆ど。本当に嫌になるよ、人は心が一番大事なのにね。そういう意味でも本当に世の中、下らない人間が多すぎる」

感情が昂ったのか蛇の様に絡んでいた腕があっという間に解かれる。

「だから私に"可愛い"とか言ってくる人間は、『嗚呼、この人は私の心より容姿を見てるんだな』って、凄く嫌悪感が湧いてくるの」

「…もしかして、僕がさっき言ったこと気に障ったかい?」

「ううん、違う違う。遍は特別。そもそも遍が私のことを可愛いって言ってくれたのは付き合い始めてからだし、私のことちゃんと見てくれてるってことも知ってる。それにやっぱり好きな人に可愛いって言ってもらえるのは、本当に嬉しくなるんだね」

華が頬が紅色に染まる。

「好きだよ、遍」

心の底から笑っている様な、そんな幸福に包まれた表情を浮かべる。

それを見て僕は僅かに、ほんの僅かに、心の内にも幸福が芽生えるのを感じる。

これは僕の中の誰の感情なんだ?

戸惑いを感じざるを得ない。

722高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:55:31 ID:BHazLbKo

「?どうしたの遍」

僕の戸惑いが華にも伝わったのか、そんなことを聞いてくる。

この気持ちを素直に伝えるのは悪いことでないのではないか。

そう思い、言葉に表そうとする。

「華、僕ーーーーー」

しかしその声は、突如やってきた通過列車のけたたましい音に遮られる。

列車が通過するまで一度口を閉じる。

十秒もすれば、電車は通り過ぎていった。

「ごめん遍。なんて言ったの?」

もう一度面と向かって、言うには少し恥ずかしい台詞だ。

「僕、華と付き合えて良かったよ」

確かに苦しいこと、辛いことがあった。

随分と非道いこともされた。

けれどそれも全て彼女の想いの強さ故。

この一週間は本当に孤独と悪意が強く僕の心を折ろうとしていた。

それでも折れないでいたのは、少なくても僕の隣で、花が咲いたように笑う可憐な少女が居たから。

そもそも孤独になった原因は彼女なのだが、その原因の原因を作り出したのは僕だ。

ちょっと嫉妬心が強いだけ、ちょっと独占欲が強いだけ。

そこに目を瞑れば、見る人を魅了してやまない美しい少女。

僕の初恋だった相手。

人は誰しも短所の一つや二つはある。

もうどうしようもないのであれば、せめて肯定的に受け入れよう。

「ぁぁぁ…ああ…嗚呼!嬉しい…、嬉しい!!」

華は目を大きく開き、恍惚とした表情を浮かべる。

でも僕はこのまま、彼女に依存してしまって良いのだろうか?

もし彼女が僕に愛想を尽かしたら?

支えを失った心はどうなってしまうのか。

文字通り、身体に刻まれるほど彼女の愛を教えられたというのに、まだそれを信じ切れてない。

愚か過ぎて言葉が浮かばない。

ーーーーまもなく一番線に電車が到着いたします。

自己嫌悪に浸っている僕を、構内アナウンスが引き上げる。

「あっ…これに乗って二駅で着くからね」

「さっき言ってたばかりだから忘れるわけないだろう」

「えー?どうかな。遍、おっちょこちょいなところあるからなぁー?」

「そんな、…心外だ」

「そういうところも含めて、好きだから安心してね」

可憐な笑顔を浮かべる。

嗚呼、彼女はなんで美しいのだろうか。

彼女が僕にしてきた仕打ちなど、帳消しするほどに。

しかしその考えは、彼女の嫌う有象無象の考え方。

もしこれが彼女にバレてしまったら?

忍び寄る恐怖の程が、知らず知らずのうちに僕が彼女にどれだけ依存し始めているか、その様子を無様にも写し出していた。

723高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:56:08 ID:BHazLbKo

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他所の家に上がるのは、初めてではないのだが、それでも片手で数える程度の回数の上、随分と久しい出来事だった。

「どうぞ」

どんな家なのか色々と想像はしてみたが、豪邸でも何でもなく団地の一角の部屋だった。

少し古めかしい玄関の扉を開けば、清潔な廊下が真っ直ぐと奥の部屋まで伸びていた。

「…他人の家の匂いだ」

思わずそんな感想を零すと、彼女はクスリと笑った。

「一番最初の感想がそれ?」

「嗚呼、いやごめん。凄く綺麗なお家だね」

「一応、彼氏が来るんだもん。頑張って掃除したんだよ?あっ、コレ使って」

そう言って彼女は、下駄箱にあったスリッパを僕に渡してくる。

「ありがとう」

先にスリッパに履き替えた家主の娘は、奥の部屋に先導するように歩き始めた。

廊下には多くの写真が飾られていた。

「これ全部、華?」

「そうだよー。うちは両親が溺愛しててね、よく記念に写真撮っては飾ってるの。ちょっと恥ずかしいな、えへへ…。ここがリビングだよ」

廊下を抜けると、他所の暮らしがそこに広がっていた。

「荷物はソファに置いていいよ。遍、まだお昼ご飯食べてない?」

「朝ご飯は食べたけれども、お昼ご飯はまだ食べていないよ」

「じゃあ先にお昼ご飯作ってあげるね!適当にくつろいでて!」

「適当に…か」

適当にと言われても、一体全体どう過ごせばいいのか、不器用な僕は思いつかない。

生憎、本当に勉強する気で来ているため、文庫本などは持ち合わせていない。

仕方なしにと、鞄の中で着替えなどに埋もれている参考書を手に取る。

「もうっ、くつろいでてって言ったのに」

少し僕を咎めるような口調で現れてきたのは、エプロン姿の華だった。

「くつろいでてって言われても、何をしたらいいのか分からないんだ」

自嘲気味に笑う。

「遍、本は?」

「持ってきてないさ。だって勉強するつもりで来たんだから」

「もー、変なところで真面目なんだから」

そう言うと、彼女は廊下の方へ歩いて行き、何処かの部屋に入ると直ぐに出てくる。

「いいよ、私がご飯作ってる間好きなの読んでて」

部屋から戻ってきた彼女が持ってきたのは、数冊の文庫本だった。

「これ華のかい?」

「ん?そうだけどどうしたの?」

渡された本はどれも、映画化やドラマ化して世間で話題になったようなものではなく、本屋を数時間散策して漸く見つけるようなものばかりだった。

「華、あんまり本読まないって言ってなかったかい?」

「んー?そんなこと言ったっけなぁ」

彼女は僕に背を向けたまま、そんな事を言う。

まぁさして気にするような事でもないかと、思い直し渡された本をいくつか吟味する。

正直どれも見たことない題名、作者の本だ。

『コウノトリの子供達』

『鵺の式神』

『esper』

取り敢えず、気になったものを手に取り、僕はそれを読むことにした。

目次を開くうちに聞こえてくるのは、コンロに火がつく音。

僕も何度も聞いている音なのに、随分と新鮮に感じる。

続けて、包丁が小気味よく何かを切る音が聞こえる。

それだけで彼女がどれだけ手馴れているのかが分かる。

僕もその音を背景に、読書を始めることにする。

二人だけしかいない空間で始める読書は、すんなりと集中の海へと潜り込んでいった。

724高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:56:43 ID:BHazLbKo

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「ご馳走様でした。凄く美味しかったよ」

腹八分目ならぬ腹十分目に達し、これ以上食べられないと判断した。

「お粗末様でした。えへへお口にあってよかった」

少々味付けが濃かった気もする。

彼女は濃い味が好みなのだろうか。

僕が読書に夢中になっている間に、作られてきたのは、これでもかという程の種類の料理だった。

肉じゃが、角煮、おひたし、きんぴら、炊き込みご飯。

普段料理をしている僕は、否、普段料理していなくても大変手間のかかっているものというのは一目瞭然だった。

どう考えても僕の読書の時間で出来上がる程度のものじゃあない。

事前に準備してあったのは明らかだ。

「遍は、もう少し食べてくれると嬉しいんだけどなぁ」

当然食べきれない量の食事だったため、華は口を尖らせながら残った分をラップに包んでいた。

「確かに僕は少食なのかもしれないけれどもさ、それでもこれは中々普通の人でも食べきれないと思うんだけどなぁ」

「うーん、張り切り過ぎちゃって作り過ぎたのは認めるけど、少食すぎると心配になっちゃうよ」

「そんなに心配になる程、少食だって自覚は無かったなぁ」

「これから体力使うんだし、ちゃんと食べないとね」

体力を使うとは勉強のことを指しているのだろうか?

それならば彼女の意識も、先程とは打って変わって本格的に中間考査に向けられたことになる。

「あんまり食後の余韻に浸っていると日が暮れてしまいそうだ。勉強はここでやるのかい?」

ここ、とはリビングを指して訪ねたものだ。

「んーん。私の部屋でやろうよ」

頭の片隅で予測はしていたことだが、いざ年頃の女性の部屋へと招かれると、多少なりとも高揚するものを感じる。

ほんの少しだけ下半身に血流が加速するのを感じて、己のはしたなさを感じる。

幾らなんでもそれは節操がないと、羞恥心と困惑が入り乱れる。

何を考えているんだ僕は。

高揚した心は直ぐに冷静さを取り戻したが、身の方は落ち着きが戻らない。

次第に戸惑いの気持ちが強くなる。

「そ、そういえばご両親は居ないんだね」

今更聞く質問でもなければ、今の心境で聞く質問でもない。

自分の中で"それ"を強く意識してしまっている。

分かっているのに無理に意識を逸らそうとして、意識的な質問をしてしまった。

「だーかーらー、今日はお父さんもお母さんも仕事だって、先週言ったじゃない。夜まで帰ってこないよっ」

対する彼女の方はというと、期待に胸が膨らむといった様子。

それ程までに勉強会を楽しみにしているということになる。

「そ、そっか。夜になったらきちんと挨拶しなきゃね」

「私からはもう話してあるんだけどね、でもやっぱりそういうしっかりしてるとこも好きだよ」

725高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:57:59 ID:BHazLbKo

好き。

付き合い始めてから幾度も伝えられてきた言葉だが、付き合い始めてから最も胸が高鳴るのを感じた。

否、出逢ってから最も、だ。

先程から、一度火がついた感情はより大きく燃え上がり、鎮火する様子がまるで無い。

「あー…、僕も好き…だ…よ」

好意を伝えるのに何故こんなにも照れ臭い感情が湧いてくるのか。

自分らしくない。

なんだこれは?

「…嬉しい。じゃあ荷物持って部屋…行こっか」

彼女の様子もなんだかおかしく見えてくる。

美しい花で魅了する何時もの彼女とは違う、花の奥、蜜の匂いで誘うような妖艶な気配。

彼女がおかしいのか?

「…うん」

違う、おかしいのは僕の方だ。

「じゃあ荷物持って、…こっちきて」

自らの異変を理解してても、僕は蜜蜂のように花へと誘われてしまう。

玄関からリビングを結ぶ廊下、その途中にある扉、そこまで歩いて華は止まる。

「ここが私の部屋だよ」

部屋の主が扉を開く。

再び気持ちが、大きく高揚する。

最早、冷静ではなくなってしまった頭では、ぬいぐるみが置いてある可愛らしい部屋などを妄想してしまう。

しかし目に飛び込んできたのは、シンプルという一言に尽きる部屋だった。

白い壁紙に黒い家具がある部屋。

モノクロな印象を与えられる部屋。

無機質な部屋とも言い換えて良いものだった。

内装を見て、僕の先程までの妄想が、如何に気色の悪いものだったかを理解し、自己嫌悪に陥る。

再び先ほどの高揚した気持ちは沈められる。

感情の山と谷が繰り返される。

726高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:58:28 ID:BHazLbKo

「取り敢えず、荷物はそこに置いてベッドに腰掛けていいよ」

「え?いや僕は立ったままで良いというか…」

今こんな状態で彼女のベッドに座ったら恥ずかしさと罪悪感に押し潰されてしまいそうな気がする。

「言い訳ないでしょう、いいから座って。ね?」

「な、なんなら床で僕は大丈夫だからっ」

「く、ふふふ」

問答をしてる最中だというのに、突如として彼女は笑い出した。

「ど、どうしたの?」

「ふふ、ねぇ遍。今どんな気持ちかな?」

「ど…んな気持ちと、言われても…」

もう先程から感じている違和感は、身体にも明らかに影響が出ていた。

心拍数は異常なまでに高まり、呼吸は荒く、視界が狭い。

正直考えたくないが、僕の陰茎ももう肥大してしまっている。

答えに詰まっている僕の様子を見て、華は僕に対して距離を詰めてくる。

彼女から発せられる蜜の匂いが、今はひどく辛い。

彼女はそのままそっと耳元まで口を寄せる。

「興奮…してきた?」

残り僅かな理性が、必死に状況を理解しようとする。

この身体の異変と彼女は関係しているのか?

駄目だ、蜜の匂いに酔ってしまいそこから先が考えられない。

そんな僕の様子を満足気に眺めると、彼女は頰に手を寄せ、そのまま待ち合わせの時と同じように僕と唇を合わせにいく。

いつもと同じ柔らかな感触、いつもと違う気持ちの高揚、いつもと違うのはそれだけじゃなかった。

突如として、生暖かい呼気が流し込まれる。

突然の事に驚いた僕の後頭部をすかさず抑え、今度はドロッとした唾液が流し込まれる。

彼女の舌が触手のように口腔内で暴れまわり、僕の舌を捉えると執拗なまでに絡みつく。

その間にも何処かへと誘導するように彼女の柔らかな身体を強く押しつけてくる。

僕はそれを受け止めきれず、徐々に徐々に後退していく。

一歩、二歩、三歩。

やがて踵は何かに躓き、そこを支点にして彼女が僕に全体重を押し付けてくる。

支えきれない僕はそのまま後方へ倒れ込むと、背中に柔らかな衝撃が広がる。

727高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:59:18 ID:BHazLbKo

彼女が上。

僕が下。

彼女から大量の唾液がもう一度、流し込まれる。

これでもかと流し込まれる。

終わりがない。

溺れてしまう。

堪えきれず、僕は彼女の唾液を嚥下する。

その様子を見て、目を細めた彼女は、舌を引っ込め唇を離す。

何本もの銀色の糸がひかれる。

「くふふ、くふふふ。しちゃったね、ディープキス」

「けほっ、けほっ、けほっ」

酸欠となり、呼気を多く取り入れようとした時、口の中に残っていた唾液が気管に入り込み、むせ込んでしまう。

ベッドに倒れ込んでいる僕に彼女は馬乗りの姿勢になる。

「ねぇ遍。この一週間どうだった?」

「けほっ、けほっ」

「辛かった?寂しかった?私が今までフってきた男たちに嫌がらせをされた?」

「けほっ…、はぁっはぁっ」

「周りの有象無象たちが貴方に悪意を向けているのは分かっていた。でも私はそれを分かってて止めようとしなかった。何故だかわかる?」

「はぁっ…はぁっ」

先程からの身体の異変に加え、酸欠によって、思考がまともにまとまらない。

「貴方に有象無象が如何に最低で汚い生き物かってことを教えてあげるため。私の気持ちを理解してもらうため」

僕の両腕は、彼女の両腕に強く抑えられる。

「正直に言うとね、私。今遍がクラスから孤立して凄く嬉しいんだぁ。私も昔、孤立してたって話はしたよね?だから孤独の辛さは私もよく知っている。そして孤独が愛に飢えを与えることもよく知っている」

獲物がかかった、そんな蜘蛛のような捕食者の目を僕に向ける。

「そしてついに孤独が私達を強く愛で結びつけた!心が繋がった!こんなに幸せなことってあるのかなぁ?こんなに心が満たされることがあっていいのかなぁ?!もう幸せ過ぎて怖いよ、あはははは!」

恐怖を感じるまでに美しい笑顔を浮かべる。

「それにもう遍が他の女に関わることもない。ふふ、あはは。心が繋がった。魂が繋がった、運命が繋がった!遍、あと私たちに足りない繋がりが何か分かる?」

「つな…がり?」

「肉体と血、だよ。この繋がりさえあれば私たちは完璧な存在になれる。共依存の番いになれる」

彼女は再び上体を倒し込み、僕の耳にそっと囁く。

「赤ちゃん、つくろっか」

馬鹿な僕は漸く、彼女がしようとしてることを理解した。

「あ、赤ちゃんってまさか本当にそんなことをするのか!?」

「するよ、セックス。そのためにご飯に精力剤とか興奮剤とか混ぜたんだから。遍もシたくて堪らないんじゃない?」

身体の異変の原因をさらっと述べられたが、それよりももっと重要なことがある。

728高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 13:59:58 ID:BHazLbKo

「ま、待っておくれ!百歩譲って今性行為に及ぶとして、避妊はしなきゃ駄目だ!まだ高校生の僕にそんな責任負えない!」

「お金の心配なら必要ないよ。出産一時金っていう補償制度もあるみたいだし、本当にお金が足りなくなったら、私は学校辞めて働くよ」

「お金の話もそうだけど、このまま生まれてきた命が健やかに育つ環境を僕らまだ持ってないじゃあないか!そもそも付き合ってからまだ一ヶ月だ!」

「付き合い始めてからの日数なんて関係ないよ。大事なのはどれだけお互いがお互いを愛しているか、でしょ。それに一ヶ月で肉体関係持つのは妥当だよ」

彼女は僕の両腕と上半身から離れると、自らのセーターを脱ぎ去る。

季節に対して、薄着な格好になったがそれでも彼女は、それだけでなくその薄着な格好も脱ぎ去る。

彼女の上半身に残っている衣は、もはや下着のみになっていた。

彼女は僕の手を取ると、上体を引き起こすように引っ張る。

半ば無理矢理起こされる形になり、僕らは向かい合うような姿勢になる。

「最後は遍が外して」

そのまま僕の手を背中へと回す。

「お願いだ、華。避妊だけはしよう、僕は君を愛してる、逃げも隠れもしないから、それだけは…」

「大丈夫。子供ができればきっと遍も受け入れる。私たちは幸せな家族になれるよ」

傀儡人形のように僕の手を操り、彼女は下着のホックを外す。

重力に負けてそのまま下着が落ちていく。

初めて見る、女性のあられもない姿。

人生を左右しかねない状況だというのに、気持ちの昂りが抑えられない。

これも薬の影響だというのか。

「どうかな、私の身体。今まであんまり気にしなかったけど遍に出逢ってからは少しずつ気を使うようにはしてたんだよ?」

「凄く綺麗だと思うけど…けど」

「嬉しい…。じゃあ遍も脱ごっか。私だけだと恥ずかしいもん」

もう僕の主張は聞かないと言わんばかりに、彼女は僕の洋服のボタンを一つ一つ外していく。

「ほら、脱いで」

なんとか抗いたいというのに、彼女の言葉がどうしても簡単に頭に染み込んでしまう。

自分の気持ちをコントロール出来ていない。

理性が崩れていく音がする。

729高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 14:00:32 ID:BHazLbKo

「こういうのは段階を踏んでやるものだよ…僕たちには早すぎる」

もはやこの台詞に中身などない。

覚えている知識を吐いているだけ。

しかしそれが彼女の逆鱗に触れてしまった。

「煩いなぁ…また"お仕置き"して欲しいの?」

僕の反抗の意志はここで失う。

嗚呼、逆らえない。

「ごめんなさい」

謝罪と共に、脱衣を済ませる。

残すはお互いの、下半身の衣類のみとなった。

「ほらやっぱり。肋骨が浮き出てるじゃない。痩せすぎも良くないよ」

僕の肋骨を一本一本確かめるように、脇腹を撫でていく。

そのまま臍を辿り、僕に残された最後の衣服にも手をかける。

「こっちも脱ごっか」

僕は彼女の言葉に従うしかない。

黙って脱ぐ僕の姿を見ると、彼女もそれに合わせるように残ったスカート、下着を脱ぐ。

これでお互い一糸纏わぬ姿になってしまった。

「ふふ、遍はもう準備万端だね。安心して私ももう大丈夫だから」

相手を気にする余裕がなかったからなのか、今になって漸く、彼女の頰や瞳が赤くなっている事に気がついた。

「まさか、華も…」

「うん、飲んでるよ興奮剤。お互い初めてだしなるべく気持ちを高めた方が失敗しないと思ってね」

華は腰を浮かし、僕の陰茎に手をかけると、彼女への入り口に先端を当てがう。

「ぁぁあ…やっと繋がるんだッ、やっと…やっと!」

背筋が凍るほどの笑顔を浮かべている。

駄目だもう後に引けない。

彼女はゆっくりと腰を下ろし始める。

「痛ッッッ」

「うっ…」

薬の影響で陰茎への血流が加速しているため、初めて感じる感触がより敏感に知覚される。

先端から根元へゆっくりと、ゆっくりと彼女が覆っていく。

快楽が背筋を貫く。

彼女と僕が完全に繋がるまでそう時間はかからなかった。

730高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 14:01:18 ID:BHazLbKo

「これで…これ…で、私たちは肉体の繋がりが出来た。後は…血の繋がりだけ…」

血、と言われたからなのか鼻腔に錆びた鉄の臭いが届く。

気のせいかと思ったが、彼女の苦痛に歪む表情を見てから、結合部へと視線を移すと、それが気のせいでもなんでもなく、本当に流血していることに気付く。

噂では聞いたことがあるけれど、実際に目の当たりにすると自らがとんでもないことをしてしまった気分になる。

「…華、大丈夫かい?」

「うぅ…ごめん。思ったより痛くて暫く動けそうにないや。痛い…痛い!」

「そんなに無理しなくてもいいじゃないのか…日を改めよう」

「馬鹿な事を言わないで!ここまでしておいて日を改めるなんて有り得ない!あと少しだから…あと少しで動けるからッ…」

その言葉通りとは思えない様子で、僕を掴んでいる彼女の手は力み、痛みが伝播する。

そうして一分、二分、或いは五分かもしれない時間、お互いは動かず痛みに耐える時を過ごした。

痛みはまだ治らないといった様子だが、僕の腰にかかっている体重が少しずつ軽くなっていくのを感じる。

「…ごめん、待ったよね。今からッ…動くから…」

敏感になっている陰茎で感じる膣内の摩擦は、ほんの少しの動きだけで強烈な快楽をもたらしてきた。

今にも果ててしまいそうな程に。

それでも自分の中に僅かに生き残っている責任能力がそれを堰き止めている。

数センチ彼女が腰浮かせたところでピタリと止まり、再び重力の通りにゆっくりと腰を下ろし始める。

血が滲むほど爪が食い込んでしまった肩からはもう痛みなど感じず、ただただ一点から感じる快楽が脳を麻痺させていく。

彼女は腰を下ろし終わると間髪入れずに、腰を上げるしなやかな腰使いで、膣を上に擦り上げていく。

そのまま僕の陰茎が抜けてしまうのではないかというまでに引き上げると、今度は強く一度腰を下ろした。

パンッ

互いの肉体がシンバルのようにぶつかり合う音が、無機質な音に響き渡る。

「痛ッ…たい…」

苦痛に歪む彼女の顔は相変わらずで、目頭には涙すら浮かんでいる。

731高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 14:01:54 ID:BHazLbKo

それでも彼女は腰を止める事なく、またしなやかな腰使いで、膣を引き上げる。

そして落とす。

パンッ

再び無機質な部屋に、淫らな音が響き渡る。

間髪入れず腰を引き上げる。

降ろす。

パンッ

淫らな音が鳴る。

引き上げる。

落とす。

パンッ

音が鳴るたびに快楽が、全身に衝撃となって駆け抜ける。

引き上げる。

落とす。

パンッ

引き上げる。

降ろす。

パンッ

引き上げる。

落とす。

パンッ

引き上げる。

落とす。

引き上げる。

落とす。

引き上げる。

落とす。

パンッ、パンッ、パンッ

三度続けて、淫らな音を響かせる。

732高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 14:03:38 ID:BHazLbKo
視界は点滅し始め、今にも決壊してしまいそうなものを、上っ面だけの責任という防波堤で抑えるには限界が、近づいてきた。

引き上げる。

落とす

引き上げる。

落とす。

引き上げる。

落とす。

パンッ、パンッ、パンッ。

津波のように何度も何度も、快楽が押し寄せる。

丹田に力を込めて、果てまいと我慢するにも、限界がすぐそこまで来ていた。

「んッ!?」

丹田に力を入れることに注力していた僕はもう余裕がなく、彼女に唇を奪われたことに気付くのに数秒の時間を要した。

「ン…チュ…ッ…ハァ、ハァ。ン…ンンッ」

痛みに耐える中、必死に快楽を得ようと僕の口の中を貪欲に貪っていく。

腰の動きは止まらない。

苦痛と緊張でこれでもかと固く締まられた膣内を、愛液と血液が潤滑油となって、暴力的な快楽になる。

彼女の獣のような粗い呼吸が、僕の肺を激しく襲う。

息もできない。

苦しい。

気持ちがいい。

助けて。

もう我慢できない。

無責任。

パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ

何度も何度も、互いの性器が擦り合う。

もう駄目だ。

理性が殺される。

出るッッ

「ンンッッ!」

視界が飛ぶ。

弾ける。

目眩がする。

ホワイトアウト。

気持ちがいい。

多幸感が全身を包む。

嗚呼…やってしまった…

性欲を彼女の中に吐き出してしまった。

眠気が襲い掛かる。

嫌だ。

そんな責任僕には負えない。

でも気持ち良かった。

嗚呼、彼女はなんて、素敵なのだろう。

脳味噌が焼き切れる程の絶頂を迎え、同時にあってはならないことを起こしてしまった重責がのしかかり、僕は現実逃避するように、夢の世界へと身を投じた。

733高嶺の花と放課後 第14話『スグリ』:2020/04/12(日) 14:22:33 ID:BHazLbKo
以上で投下終了します。いつもスマホで小説書いてるんですがスマホでコピペして投稿するのは少し面倒だったのでパソコンから投下することにしました。IDが変わっているのはそういうことです。第14話『スグリ』の花言葉は「あなたの不機嫌が私を苦しめる」「私はあなたを喜ばせる」など…です。
まああれです。よくあるえっちなやつです。正直こういう描写書くかは迷いました。僕はヤンデレ=セックスみたいな安直な方程式があんまり好きじゃないんですが、まあ華がヤりたいって言ってたので書きました()
その代わり、初体験はくそ痛くしてあげたのでお相子です。ではまた第15話で

734雌豚のにおい@774人目:2020/04/13(月) 22:10:30 ID:FJ8bZSR2
乙。綾音がどう出てくるかwktk

735高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:53:47 ID:iWJxOaSw
テスト投下します

736高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:55:05 ID:iWJxOaSw
目を覚ますと、カーテンの隙間から刺す茜色の光が波打っていた。

「おはよう」

僕のすぐ隣には、優しい笑みを浮かべる彼女が居た。

布団の隙間から見える彼女の裸体、そして肌から感じる肌の感覚で、己の置かれた状況を改めて理解した。

「!」

そうだ、僕は…。

結局、責任から逃れたいと寝てしまっても、逃げる事など叶うはずもない。

色々と思うところもあるが、まずは彼女の心配が先に浮かんだ。

「華…その、大丈夫かい?」

「ん…何が?」

「ほら…血が…さ、かなり出てたように見えたんだけれど」

「心配してくれてるの?嬉しいなぁ…。大丈夫、って言いたいところなんだけど、動くとまだ少し痛いかな」

嘘偽りなど感じない、優しい声色。

過ぎたことは戻せないのだから、一々頭を悩ませてても仕方がない。

まずは自分の落ち着きを取り戻そう。

少しだけ頭痛がするが、薬の症状はかなり緩和されているように思える。

「…シャワー浴びる?」

「そうさせてもらおうかな…」

ベットは乾いた精液と血液の匂いで、微かな不快な感覚が嗅覚を擽る。

「お風呂は廊下に出て左前の扉の先あるからシャワー浴びてていいよ。私は少し後始末するからさ」

「僕も手伝うよ」

「大丈夫よ、こういうのは家主の方に任せて」

確かに部外者の僕が手伝っても、かえって邪魔になることもあるかもしれない。

「ごめん、ありがとう」

素直に言葉に甘えることにして、申し訳なさと感謝の気持ちを口にする。

「いいのいいの。夜にはお父さんとお母さんも帰ってくるからそれまでに清潔にしとかないとね」

「ああ…そうだね。じゃあシャワーお借りします」

「はーい」

華の部屋をそのまま離れるが、疑問が幾つか引っ掛かった。

そういえば、当たり前の話だけれど華のご両親は当然いるわけで、夜に帰ってくるのも当然の話である。

それまでに帰れば、鉢合うこともないだろうが、既に宿泊するという約束をしているし、そのための荷物は持ってきている。

そもそも華のご両親は、僕が今日来ることを知っているんだろうか。

言われた通りに廊下を出て左前の扉を開くと、目の前に洗面台が高嶺家の生活を映していた。

洗濯機、洗濯籠、体重計、バスマット、半透明の扉。

その扉の先に浴室があるの想像に難くない。

服を脱ごうと思ったが、そもそも脱ぐ服がないことに気がつき、己の間抜けさに呆れてしまった。

半透明の扉を開き、浴槽への足を踏み入れる。

「他人の家で、シャワーを浴びるなんて初めてだな」

下らない感想が漏れる。

今は何も考えずに体に付き纏う汚れを落とす。

全身の汚れを落としたら、早々に浴室を出る。

737高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:57:39 ID:iWJxOaSw

「あっ…」

目の前には丁度、華がバスタオルを抱えていた。

「あの…これ使ってね」

「ありがとう」

華からバスタオルを受け取ると、濡れた全身を拭く。

その間も華はそこを離れず、僕の体をじっと見ている。

「えっ…とそんなに見られると恥ずかしいかもしれない」

「へ?ああごめん」

謝りつつも決して目を逸らすことなく、寧ろ僕に触れてくる始末。

「華…?」

「嗚呼、この。私が付けた愛の印」

目を細め、恍惚とした表情で、僕の"傷跡"をなぞる。

「遍は私だけのもの。誰にも渡さない」

「…僕はどこにも行かないよ」

「うんうん。それでいいんだよ」

僕の返事に満足気な笑顔を浮かべる。

その後。

僕と入れ替わるように華はシャワーを浴びて、何事もなかったかのように本来の目的である勉強会を2時間ほど行った。

窓から見える景色はすっかり暗くなり、腹の虫も鳴きそうな頃に、玄関がガチャリという施錠の音が鳴る。

誰かの来訪、否、帰宅に少し緊張が走る。

もう一度、ガチャリと施錠の音を響かせると一歩また一歩と廊下を踏みしめる音がする。

そして音が最も大きくなったところで、二回部屋の扉がノックされる。

「ただいま、っと。嗚呼君が娘の彼氏かな?」

ワックスで髪を固めた紳士服の男性だった。

あまり華とは顔つきは似ていないように思えるが娘と言ったあたりこの人が華の父親で間違いないだろう。

「あの…お邪魔しています。華さんとお付き合いをさせて頂いている不知火遍と申します」

「娘からは話を聞いてるよ。よく来てくれたね、歓迎するよ」

右手を差し伸べられたのでそれに応じるように僕は握手をした。

「小説家になるのが夢なんだってね」

「あの…はい」

「今日は遍くんの書いた小説は持ってきているのかい?」

「すみません、その明後日から中間考査なので勉強道具しか持ってきていなくて」

「あっはははは。真面目だね遍くん。それは残念だけれど、今度私にも読ませてほしいな」

「そんな、こちらこそお願いしたいくらいです」

「娘から聞いていた通り、随分と好青年のようだ」

ちらりと背後に目を向けると誇らしげに、華は笑みを浮かべる。

「そうだ、遍くん。一つだけどうしても聞きたい事があるんだ」

「はい、何ですか?」

「君は、他人を虐めたことはあるかい?」

不気味な笑顔を浮かべる。

「い…じめ?」

「娘はね、昔虐めにあっててね。そういった連中が私は心底嫌いなんだ。子供の頃だろうが関係ない、一度でもそういったことをした事があれば私は君を認めるわけにはいかないんだよ」

嗚呼、この人は間違いなく華の父親なんだと強く認識させられる。

この黒い瞳に覚えがある。

「その…、僕は昔から本の虫でした。友達と遊ぶよりも読書するのが好きでした。だから一人でいることも多く、どちらかといえばいじめられる側にいたと思います。はっきりとしたいじめというものにはあった覚えはありませんが、そんな僕が他人を虐めた記憶はありません」

「それは良かった。せっかく娘が惚れ込んだ男なのに私が認めないわけにもいかないからねぇ」

満足げな笑顔を浮かべ、顎に手を当てる。

「それに君は虐げられる側の気持ちがわかる良い青年の様だ。これからも娘を宜しく頼むよ」

「…はい」

「さあ夕飯を食べよう。話したい事が山積みだ。改めて遍くんを心から歓迎するよ」

この時になってようやく気付いた。

最初は僕のことを歓迎なんてしていなかったことを。

738高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:58:10 ID:iWJxOaSw

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「はい、試験終了。筆記用具を机の上に置いておくように」

「えー中間考査お疲れ様。このままホームルームして解散をしようと思うんだが、一つみんなにやってもらいたいことがある」

「これだ。一回目の進路調査を行う」

これ、と言って太田先生が取り出したのは小さな用紙だった。

「君たちの高校生活はもう折り返し始めている。正直まだ入学してから間もない気分でいる者も居ると思うが、もうそんな時期に入っているんだ」

「君たちは永遠に高校生ではいられない。必ず将来の別々の道を歩む事になる。その歩む道を今の内から少しずつ一人一人が考えなくちゃならない」

「大学へ進学する者、就職する者、色んな人が居ると思う。高校を卒業して進む先によって人生が決まるとはそんな大袈裟なことは言わない。人はいつだって人生を変えられる」

「ただし、今この瞬間が大きな転換点を迎えていることをよく覚えておいてくれ。今一度、小学生の頃の夢、中学生の頃の憧れ、そして今の自分のやりたい事。それらよく考え思い出し、自分の道を決めてもらいたい」

手元に配られてきた用紙には、上から第一希望、第二希望、第三希望と書かれており、それぞれの隣は空白の欄となっていた。

決してそう書いてあるわけではないのだが、まるで大学へ行く事が当然であるかのようなレイアウト。

如何に僕が異端な存在かを、まざまざと表している。

太田先生の言う通り、まだ入学してから間もない気分でいて、自分が物書きを目指す未来を、どこか遠いものだと眺めていた。

けれど、趣味が小説の高校生で居られるのよも、もう半分しかない。

「まだ一回目の調査だから漠然としたもので良いんだが、それすらも考えていなかった者は、一旦うちに帰って改めて考えても良い。また、これはプライバシーに関することでもある為、直接私に提出して欲しい」

それなのに、未だ作品の一つも公募に出さず、なんの実績もない今のままで、果たして僕は小説家になれるのか?

今更になって、己の怠惰している現状に気付く。

739高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:58:43 ID:iWJxOaSw
「あーまねっ」

ホームルームが終わり放課後になれば、一目散に彼女は僕の元へやってくる。

僕らの関係が公になってから十日ほどが経とうとしていたが、僕に向けられる悪意は徐々にではあるが減りつつあった。

中間考査があったというのもあるとは思えるが、恐らく暖簾に腕押し、糠に釘、打っても打っても響かない僕に対して悪意を向けるのが、段々面倒になってきたというところだろうか。

とはいえ、まだまだ気が済まない連中は多く、今朝一人でいるところにつけられた、至るところの青痣が痛む。

「どうしたんだい?そんな嬉しそうな顔をして」

「んー?どうしようかなぁー、言っちゃおうっかなぁ〜」

対する彼女は、何やら嬉しい事でもあったのか何か言いたげな様子だった。

ここで聞かなければ、意地が悪いとでも言うだろう。

「何か嬉しいことがあったら、是非とも聞かせて欲しいな」

「もーしょうがないなぁ〜。そこまで言うなら…」

「高嶺さん!」

僕も気になり始めたその内容は、突然クラスに響く華の姓を呼ぶ声で、途切れてしまった。

声がした方を向けば、見慣れない一人の男子生徒が教室の出口に立っていた。

クラス中の注目が彼へと集まる。

彼もそれをプレッシャーに感じつつも、気合と覚悟を持ってこのクラスの中を突き進む。

確かな歩みを進めながら、やがて僕らの元へと辿り着く。

「…。…なに?」

今の今までの声とは違う酷く冷めた声で睨め付ける。

御機嫌だった彼女は、一気に不機嫌へと様変わりした。

男子生徒は異常とも呼べるその様子に一瞬怖気付くも、直ぐに己の芯を立て直したように見える。

「なにって、昨日も、一昨日も、その前の日だって!呼び出しの手紙を下駄箱に入れておいたのに、一度だって来てくれないじゃないか!」

呼び出しの手紙、の一言で彼が一体何者なのか、大体見当がついた。

「嗚呼、その事。どうせ告白でしょう?私この通り、彼氏が居るから受ける必要なんてないわよ」

この通り、と言って彼女は僕の背後から、首の前で両腕を組む。

その様子を見て、彼は如何にも納得いかないといった様子で僕を見る。

「彼氏が居たっていい!一度で良いからこの気持ちを伝えたかった!」

「じゃあ何で今更、伝えようと思ったのかしら?同じクラスだった時にでも告白すればよかったじゃない」

同じクラス、ということは彼は一年生の頃のクラスメイトだったのだろうか。

「正直、誰とも付き合わない様子の君を見て玉砕する覚悟が出来ないでいた。どこか高嶺の花の君を、皆んなで眺めることに満足してしまっていた」

華から発せられる空気が、明らかに一段階尖ったものへと変わる。

きっとこの男子生徒は気付いていないのであろうが、『高嶺の花』の一言が彼女の機嫌をさらに悪くした。

「ああそう。じゃあ遠くから眺めてるだけで良かったじゃない。今更何の用よ」

「だけど、けど…。未だに納得できない!多くの人たちが君に想いを伝えてきたというのに、君が選んだ人が"コイツ"だってことが!俺だけじゃない!皆んなそう思ってる!」

『嗚呼、随分と失礼な奴だな』と思いつつも、そう思う彼の気持ちも分からないでもない。

けれど流石にここまでハッキリ言われると、内心辛いものが込み上げる。

「遍を"コイツ"ですって?本当にむかつくなぁ、お前」

僕を"コイツ"呼ばわりした彼は遂に、華の逆鱗に触れてしまったようだ。

「…どうしたんだよ高嶺さん。君はそんな言葉使いする人じゃなかっただろう…?明るくて優しくて天真爛漫な君が…どうして…?」

漸く敵意が向けられていることに気が付いた彼は、動揺が隠せないと言った様子。

ざまあみろ

僕はそれを見て、遂思ってしまった。

もう僕には、態々悪意を向けてくる"有象無象"を気遣う余裕なんてものはなく、華がこうして僕のことを守り、支えて、愛してくれることだけを頼りにしている。

「天真爛漫…?高嶺の花…?笑わせないでよ。そんな外面しか見てないから本当の私に気が付かないんでしょう。挙げ句の果てに私の愛する人を"コイツ"呼ばわり。よっぽど死にたいのかしら」

「死にたい…って、そんな…」

「…目障りだからさっさと消えてくれるかな?二度と私たちの前に現れないでね。残念だけどお前らが見てた"高嶺の花"は、有りもしない空想なの。分かったらさっさと消えて、これ以上私を怒らせると何するか分かんないよ?」

その場に似つかない笑顔を浮かべる。

それを向けられていない僕にも、恐怖が伝わるほど、悍しく美しい笑顔だった。

「…君は変わったよ」

最後に僕のせいだと、言わんばかりにこちらを睨み、踵を返す。

そのまま彼はこちらを一度も見ることなく教室を出ていく。

740高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 16:59:04 ID:iWJxOaSw

「…非道い」

「なにもあそこまで、言わなくても…」

「…本当に最近変わったよね、あの子」

クラスの端々から漏れる不満。

そう、これが僕に向けられる悪意が徐々に減っている理由でもあった。

"高嶺の花"の変貌。

最初は誰しもが戸惑いを感じていた。

僕に洗脳されているなんて噂さえ立っていた。

誰しもが思い描く、優しく明るい美しい少女という像とは、あまりにかけ離れた姿。

その姿は、僕に対する嫉みや妬みといった類のものを、鞘に収めるには充分過ぎるものだった。

このクラスの中においてはもう殆どがこう認識している。

『僕らの知っている高嶺華は死んだ』

華の豹変をそのまま受け止めた奴らは、僕に対する悪意を引っ込め、僕が洗脳したなんて馬鹿げた噂を本気で信じてる奴は、より過激に悪意を向けるようになった。

簡単に言えば嫌がらせの量は減ったが、質が悪くなった。

それを知って華もより周りとの溝を深める。

そしてより一層、僕に愛を向ける。

僕ももう覚悟は出来ている。

この孤独な世界を二人で生きていく覚悟を。

「…それで話って?」

これ以上機嫌の悪い彼女を見てられないと、先程機嫌が良かった理由を聞き出す。

「…うーん」

彼女はその黒い瞳で周囲を見渡す。

「ここじゃあ、少し煩いから場所を変えよっか」

彼女は周囲の人が鬱陶しいとでも言いたげな様子で、そんな提案をしてくる。

「…分かった」

正直、僕もこんな注目を浴びた状況は、好ましくないから賛成する。

お互いに荷物をまとめて教室を出る準備をする。

「あ…」

「…」

教室を出る際にすれ違った太一が、何か言いたげな顔をしていたが、敢えてそれを聞き出すことはしない。

もう"有象無象"と関わる日々には戻らないと決めたのだから。

741高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:00:15 ID:iWJxOaSw

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場所を移そうと言われて、僕らがやってきたのは中庭だった。

教室から離れるたびに、彼女の機嫌は取り戻され、中庭に着く頃には先程の機嫌通りになっていた。

「…ラブレター貰ってたんだね」

対する僕は、先程の彼に与えられた胸のモヤモヤから、そんな彼女の機嫌を損ねてしまうような質問をしてしまう。

きっとこれが嫉妬と呼ばれる感情なのだろう。

「え、いやっ!貰ってたっていうか…。私はいらないのに勝手に下駄箱に入れられてて…。勿論、中身なんて見ないで捨てたから安心して」

先程の冷酷な笑顔とは違う、暖かなダンデライオンのような笑顔。

胸のモヤモヤが晴れていくような感覚。

不安が取り除かれていく。

「ははは…、ごめん似合わない嫉妬なんてしてしまった」

嫉妬する男なんて、情けない。

ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「…私こそ不安にさせてごめんね。でも私が愛するのはこの先どんなことがあっても遍、貴方だけだよ」

彼女の温もりに包まれる。

中間考査終わりの放課後、閑静とした屋上とは違い、多少の人目がつく中庭だが、それでも彼女の抱擁を享受する。

「嗚呼…、僕もだ」

彼女の愛が沁み渡る。

心臓が脈打つ。

左胸だけじゃない、右胸からも鼓動を感じる。

両胸で感じる鼓動が、僕は一人じゃないと教えてくれる。

暫くの間、人目を憚らずに抱き合っていたが、時間と共に幸福よりも羞恥心が勝り始める。

抱擁の手を緩めると彼女も抱擁の手を緩め、少し照れたような笑顔を浮かべる。

「えへへ、なんだか照れてきちゃった」

「あはは、僕もだ。…そういえば話って?」

「ん?ああそうだったね。あのね遍、お父さんとお母さんが、遍が18歳になったら結婚して良いって言ってくれたの」

「結…婚?」

「そう結婚!もうこの間のことでお父さんもお母さんも遍のこと気に入っちゃって、法律が許す年齢になれば直ぐにでも結婚していいよって!私嬉しくって!やっぱり親が理解あると幸せなんだねぇ」

今の今まで同じ感覚、同じ気持ちを共有していたと思っていたのに、あっという間に彼女は次の段階に、想いを進めている。

彼女は未来を見ている。

僕は今しか見ていない。

だからこそ僕は進路調査を直ぐに提出することが出来なかった。

「…どうしたの遍?」

「いや…、僕は正直、今を生きるだけでいっぱいいっぱいになってしまっててね。結婚なんて未来の話、考えてなかったんだ。僕らの将来だけじゃない、自分の将来も考えきれていなかった。だから進路調査も僕は直ぐに提出できなんだ。そんな僕が君を幸せに出来るのかなって心配してしまったんだ」

「…なんだそんなこと。大丈夫、私は今充分幸せだよ。幸せすぎて壊れちゃいそうなくらい。…って遍、進路調査出してないの?」

「うん、そうだけどそれがどうかしたのかい?」

「遍のことだから"小説家"って書いてもう提出してるもんだと思ってた」

「いや、僕もそう書こうとしたんだけどね、未だに父親の賛同を得られていないことと、公募に作品を出せていないことを考えると、直ぐにはそうは書けなかった」

「そっか。でも私は誰がなんて言おうと遍の夢を応援してる。もっと自信持って。私を信じて。最期まで支えてあげる」

「ありがとう。君が理解して応援してくれるから僕は救われてる」

それに、と僕は付け足す。

「華が最初の読者で良かった」

僕がそう言うと、華は満足そうに笑う。

「私ちょっと御手洗行ってくるね」

「ここで待ってるよ」

中庭から校舎を姿を消すと、寂しさが身に染みる。

742高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:01:42 ID:iWJxOaSw
「お兄さん」

女子生徒の声が聞こえた。

「あの、綾音ちゃんのお兄さん」

綾音、の一言で背後からかかった声は僕に対するものだということを理解した。

「君たちは確か…」

「お久しぶりです。綾音ちゃんの友達の鈴木久美です」

「瀬戸真理亜です」

振り返れば見覚えのある二人の女子生徒が、そこに立っていた。

「やあ久しぶりだね。夏休み以来かな」

友人の兄に話かけるということで、どうやら二人は緊張しているようにも見えた。

少なくても夏休み、綾音がいた時のような喋り方ではない。

当たり前だ、仲良くもない上級生相手にそんな普段の様子を出すことはしないだろう。

「あの…あやねん、綾音ちゃんはどうしたんですか?」

どうやら綾音は友達想いの友人を持ったらしい。

「二人とも綾音の心配をしてくれてるんだね。ありがとう。正直に言うとね、僕もあまり詳しい様子は分かっていないんだ。部屋に篭りっぱなしで様子を伺うこともできない、そんな状況だ」

「その…なんでそうなっちゃったかはお兄さんは分かってますか?」

気のせいだろうか。

きっとこの子は僕に『何故そうなったか』という事態の原因を聞いているはずなのに、『自分がしたことを理解しているのか』という罪の意識を問うものに聞こえてしまう。

「うん、分かっているよ」

真意を聞くことを恐れた僕は、どちらの答えにもなる曖昧な返事をする。

「…そう、ですか」

僕の曖昧な返事と同じく、彼女の反応もまた曖昧なものであった。

「綾音が元の生活に戻れるように手は尽くしてみるからさ、もしまた戻ってきたら綾音と友達のままでいてくれるかい?」

「はい…」

「当たり前です。そもそも友達ってこんなことで縁が切れるほど安いはないです」

素直に返事をする久美ちゃんとは違い、真理亜ちゃんの方は、随分と耳の痛いことを言ってきた。

やはり僕は責められているのだろうか。

「ははは、そうだよね。僕友達居ないからさ、ちょっとわからなかったよ」

返す刀のつもりで吐いた自虐は、彼女たちの中の感情に憐みと気まずさを生み出しただけだった。

「あ…はは。ごめん、今のは忘れておくれ。変なことを言った。それよりも綾…」

「…ねぇ」

その瞬間、息が、全身の筋肉が硬直する。

これ以上言葉が発せられるなくなる。

743高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:02:08 ID:iWJxOaSw
「なに…してるの?」

背後から底冷えするような声を震わせている。

「なにしてるのって聞ィてるの!!!!!」

怒号が火山のように爆発し、心臓が悲鳴をあげる。

恐る恐る振り返れば、激昂に染まる華が居た。

「また…約束破ったんだ…。私以外の女と関わらないでって…、さんっっっざん言ったのにまだ分からないの?ねぇ?」

「…ち、違うんだ。この子達は」

「何も違わないッ!!!例外はないと言ったはずだよ遍。ぁぁぁぁもう、貴方がそうやって私以外の女と関わるたびにイライラして、本ッ当に頭がおかしくなりそう」

「聞いてくれ華!この子達は…」

「煩い」

「痛ッ」

信じられない様な握力で僕の手首を握りしめると、久美ちゃんたちから引き剥がすように僕の腕を引っ張った。

「貴方も話したいこともあるようだし、まずは二人きりなれる場所に行かないとね。私も貴方に教え込まないといけない事がまだまだあるみたい」

そのまま連れ去られるように右腕を引っ張られるが、それを左腕を引っ張る力で抵抗する。

突然の感覚に僕も華も振り向く。

僕の左腕を掴んでいたのは真理亜ちゃんだった。

「あの…まだ話終わったないんですけど」

右手首の痛みが消える。

指先に血が巡るのを感じる。

すると華は僕の隣を通り過ぎていく。

ドンッッッ

「「!?」」

華は突如として脚を上げ、真理亜ちゃんの鳩尾へと蹴りをいれた。

僕の左腕を掴む感覚もなくなり、真理亜ちゃんは地面へと倒れ込んだ。

「かはっ、けほ、けほ」

「まりあん!」

「…遍に触るな」

手加減なんて一切ない、本気の蹴りが内臓まで響き渡っている様子だった。

「行くよ」

あまりに凄惨な光景に釘付けになってしまいそうな僕を、強引に引っ張っていく。

「遍…自分が罰に値する罪を犯したってこと分かってる?」

早歩きの中、僕に問う。

「はい」

「償ってもらうから」

「…」

この日、僕の身体には数十を超える新たな生傷が刻まれることとなった。

744高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:02:46 ID:iWJxOaSw

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幾日か経つ頃。

ここ最近は、放課後に期日が迫る公募の小説を書き進める日々が続いていた。

華も、僕の傍らでそれを見守り続ける。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、静寂な教室に響き渡っていた。

「不知火、高嶺。丁度良かった」

そんな中、そういって、僕らを呼び掛けたのは担任の太田先生だった。

「二人に少し話したいことがあるんだが、この後、時間空いてるか?」

「僕は大丈夫ですけど…」

「話って何ですか?」

少し刺のある言い方。

彼女のその徹底した、周りとの拒絶の姿勢は、時折心臓に悪い。

今がそうだ。

担任の教師に向けて、放って語気ではない。

けれどその話の内容が気になるのは、べつに華だけに限ったものではない。

そもそも僕ら二人に話って何を話すつもりなのか。

丁度良いとはどういう意味で言ったものなのか。

僕と華が丁度良いと言われれば、僕らの交際絡みの話と予測してしまうのが順当であろう。

嫌な予感がする。

「ああ、この間進路調査出してもらっただろ。まぁそれについて二人にそれぞれ話したいことがあってな」

てっきり僕らの交際が良く思われていないだとか、最悪の話別れろなんてことを言われるじゃないかと思ってたため、少々拍子抜けした。

「これはプライバシーの問題があるから一人ずつ、10分程度だけ面談のようなことがしたいんだが時間あるか?」

進路調査といえば、僕も数日前に『小説家』とだけ書いた紙を提出していた。

何事もなく、通り過ぎることを願ってはいたが、向こうも教師。

流石に夢一つ書いた紙を、おいそれと見逃してはくれなかった。

僕の夢にまた新しい壁ができてしまった気がする。

話というのも十中八九、僕の夢に関する、どちらかといえば否定的な意見を聞かされることだろう。

最悪な予感は外れたが、結局嫌な予感は外れてなかった。

745高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:03:57 ID:iWJxOaSw

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幾日か経つ頃。

ここ最近は、放課後に期日が迫る公募の小説を書き進める日々が続いていた。

華も、僕の傍らでそれを見守り続ける。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、静寂な教室に響き渡っていた。

「不知火、高嶺。丁度良かった」

そんな中、そういって、僕らを呼び掛けたのは担任の太田先生だった。

「二人に少し話したいことがあるんだが、この後、時間空いてるか?」

「僕は大丈夫ですけど…」

「話って何ですか?」

少し刺のある言い方。

彼女のその徹底した、周りとの拒絶の姿勢は、時折心臓に悪い。

今がそうだ。

担任の教師に向けて、放って語気ではない。

けれどその話の内容が気になるのは、べつに華だけに限ったものではない。

そもそも僕ら二人に話って何を話すつもりなのか。

丁度良いとはどういう意味で言ったものなのか。

僕と華が丁度良いと言われれば、僕らの交際絡みの話と予測してしまうのが順当であろう。

嫌な予感がする。

「ああ、この間進路調査出してもらっただろ。まぁそれについて二人にそれぞれ話したいことがあってな」

てっきり僕らの交際が良く思われていないだとか、最悪の話別れろなんてことを言われるじゃないかと思ってたため、少々拍子抜けした。

「これはプライバシーの問題があるから一人ずつ、10分程度だけ面談のようなことがしたいんだが時間あるか?」

進路調査といえば、僕も数日前に『小説家』とだけ書いた紙を提出していた。

何事もなく、通り過ぎることを願ってはいたが、向こうも教師。

流石に夢一つ書いた紙を、おいそれと見逃してはくれなかった。

僕の夢にまた新しい壁ができてしまった気がする。

話というのも十中八九、僕の夢に関する、どちらかといえば否定的な意見を聞かされることだろう。

最悪な予感は外れたが、結局嫌な予感は外れてなかった。

「僕は…大丈夫です。時間あります」

かといって面と向かって、逃げれるほど肝は据わっていない。

素直に面談に応じることにする。

「私も大丈夫です」

華も最悪な予感が外れたことに関して、少し苛立ちが鎮まったように見える。

そういえば、華は進路調査になんて書いたんだろう。

日々を過ごすうちに、いつの間にか聞きそびれてしまっていた。

746高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:04:27 ID:iWJxOaSw

「そうか、良かった。じゃあとりあえず不知火から始めるか?」

「はい」

これは僕の返事。

「高嶺は少し廊下で待っててくれ」

「はい」

これは華の返事。

華も特に反発することなく教室の外へと向かっていく。

あとでね

声には発せず、口の動きだけでそんなメッセージを残す。

こんなさりげないやりとり一つが、頬を緩めてしまう。

「不知火と高嶺は付き合ってるのか?」

華が教室を出たのを確認すると、太田先生はそんなことを尋ねてきた。

「えっ…、ああまぁそうです…はい」

薄々聞かれるのではないかと思ってはいたが、厳格な担任からそんなことを聞かれたため、情けない返事をしてしまう。

「そうか…。高嶺からやるべきだったかな」

「え?」

意味の分からないことを呟かれ、反射的に聞き返してしまう。

「いやなんでもない。気にするな。それより彼女は大切にしてやるんだぞ」

僕らの交際を否定的に思うどころか、そんな背中を押すようなことを言われ、先程疑ってしまったことに罪悪感が芽生える。

「さて、不知火。進路調査のことなんだが…」

太田先生はそれ以上僕らについて触れる様子はなく、抱えていた荷物の中から一枚の『僕の夢』を取り出す。

「不知火は小説家になりたいのか?」

疑うわけでもなく、馬鹿にするわけでもなく、覚悟を問うようなそんな目で、真っ直ぐ捉える。

「はい」

「本気か?」

「はい」

「何か賞は取ったことはあるか?」

「ありません、けれど今公募に出す作品を書いています」

緊張が僕の中に張り詰める。

そんな様子を見て、太田先生は少し目を細める。

「勘違いしないで欲しいんだが、俺は今日お前のその『小説家』になりたいという夢を否定しにきたわけじゃないんだ。むしろ応援している」

「え?」

思っていたこととは真逆のことを言われ、動揺が隠せない。

「こういった進路調査は大抵の奴が行きたい大学を書く。お前のような自分の夢を真っ直ぐ書く奴は珍しいんだよ。けどそれは決して悪いことじゃない」

少しずつ緊張が解れていく。

じわり、じわりと太田先生の言葉が胸に染みていく。

「それに俺も昔、目指していたからな。小説家」

「えっ…」

まさか太田先生に作家志望があったなんて、担任の知られざる過去を知り驚愕する。

「大学に通いながら小説家を目指してたんだが、単位のために取っていた教職課程が中々に面白くてな、結局教師になってしまった」

「俺は教師だ。生徒が小説家になりたいって言ってはいはいお好きにどうぞとも言えない立場なんだ、分かるな?」

「はい」

「これは適当に言うわけじゃないんだがな、不知火。お前大学に行ってみる気はないか?」

「大学…ですか?」

「ああ。大学ってのはな、自由がある。時間がある。出会いがある。その一つ一つがお前の人生に貴重な経験をもたらしてくれる」

「はあ」

「きっと今のお前は、そんなことよりも良い小説を書くための努力をした方がいいって、そう思ってるかもしれない」

僕の思ったことを見透かしているようだ。

747高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:04:53 ID:iWJxOaSw

「小説を書いてる不知火なら、分かるかもしれないが、自分が感じたことのある感情、風景を描写するときと想像だけで書く描写だと、前者の方が圧倒的に筆の説得力が違うんじゃないのか?」

思い当たる節は、…ある、

それこそ華に出逢ってから、恋愛感情の辛さ、悲しさ、喜びの繊細な表現が出来るようになっていた。

「大学生になって、様々な経験をすることで、きっと不知火はもっといい小説を書けるんじゃないのか、そう思うんだ」

小説家になるために大学に行く。

今まで考えもしなかった発想だった。

自分の中でそれぞれ分かつ道だと思っていたからだ。

「あの…先生」

「ん?」

「今までそういうこと、考えもしていなくて。正直、今すぐ大学行くとまでは考えられませんが、かといって大学に行かないという決断をするのも早計なのではないかという気もしてきました」

僕が考えを改めたのを見て、前傾姿勢だった太田先生は、椅子の背もたれへと体重をかける。

「少し考えさせてください」
 
「ああ、これはまだ一回目の進路調査だ。よく考えて自分の道を決めなさい」

話は以上だ、とだけ言うと、廊下で待っているであろう華を呼んできて欲しいと言われた。

「華、太田先生が呼んでいるよ」

「もう終わったの?10分どころか5分も経ってないじゃない」

「それだけ簡単な話だってことさ。多分華もすぐ終わるんじゃないかな」

「…。だといいんだけど」

何かに憂いているような、そんな表情だった。

僕と入れ替わるように華は教室へ入っていく。

「なんだったんだろう…」

教室の扉を閉めると、ついそんな呟きを吐いてしまう。

すぐ終わるであろうという予測の元、待ってみることにした。

1分。

2分。

3分。

5分。

10分。

長い。

既に僕の予測が間違っていたことを理解し始めている。

一体何の話をしているのだろうか。

今日は尽く予想が外れる日だ。

想定より遥かに長い時間話し合いをしているみたいだ。

そこまで話し合う、華の"夢"とはなんだろう?

『高嶺さんも将来の夢あるのかい?』

いやあったじゃないか。

一度だけ、彼女の夢を問うた時が。

『あるよ』

彼女は僕の方を真っ直ぐ見ながら、そう即答した。

彼女の中にそれは、確かに存在するもの。

待たされて蓄積された好奇心は、教室への扉に体を一歩近づける。

と同時に、突如として扉が開き、大きく心臓が跳ねた。

748高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:05:16 ID:iWJxOaSw

「不知火、ちょっと入ってきてくれ」

出てきたのは太田先生だけだった。

中の様子を伺うと、華はまだ席についており、面談は終わっていない様に思えた。

「はい」

それなのに、何故だかは分からないが、太田先生は僕を教室へと促した。

「遍…」

「何で不知火は呼ばれたかは分からないだろうが、高嶺の進路がお前にも関係するんだ」

「僕に…ですか?」

「本当はこういうのは他人に見せるべきものではないとは分かっているんだが、高嶺も不知火を交えて話したいと言ってたんだ」

そう言って、太田先生は小さな紙を、高嶺華の夢を、僕に見せてきた。

『結婚』

「他の教師は何年かに一度こういったことを書く奴がいるとは言っていたが、自分の受けもつクラスで実際に目の当たりにするのは初めてでな」

「これって…」

「高嶺はお前と"結婚"するとの一点張りだ。お前たちは若い、苦労することもあるし、そんなに急ぐ必要はないと言っているんだが」

この先は『聞く耳を持たない』と言いたげそうな様子。

「何度も言ってますけど、親の許可ならもう出ています」

「許可を得れば直ぐにしてもいいというわけではないだろう。人生は長い。高嶺も成績が良いんだから良い大学を目指せるんだぞ?」

「大学、大学って。私大学なんていくつもりありませんから」

「何故だ?」

「必要性がないからです」

「それは必要性がないと決めつけているだけだろう。大学には勉学以外にも学ぶことがたくさんできる貴重な場なんだぞ」

「別に…学ぶとかそういうのはもういいんですよ。私はもう目的を達成しましたし」

視線が隣の僕へ向けられる。

749高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』:2020/04/27(月) 17:05:37 ID:iWJxOaSw

「何を訳のわからないこと言っているんだ。そもそも結婚というのは不知火も承知の上か?」

「えっ、あの結婚については一応話は聞いてましたけど、まだ具体的に僕は考えていなかったです…」

「とのことだが?」

「遍…」

ギリッ…と歯軋りが鳴る。

「それに不知火は先程大学へ進学するか否か今一度検討するとさっき言ったばっかりだ。結婚が悪いものとは言わないが、学生生活に少なからず支障はきたす。それは不知火の将来の道を狭める結果にもなり得るんだぞ」

「遍…大学…行くの?」

信じられないものを見るような目だ。

「いやまだ考えてないというか、さっき太田先生に言われて大学に行かないという選択肢を決めつけるのは早計なんじゃないかとは思ったんだけど…」

「わかりました。もし遍が大学に行くというなら私も行きます」

「え?」

随分とあっさりと主張を変更したことに驚きが隠せない。

それでも太田先生は華のことを訝しげに見つめる。

「それはあれか?不知火と同じ大学ならということか?」

「当たり前じゃないですか」

「はぁ…」

太田先生は困ったように頭を抑える。

「分かった。一旦高嶺の進路については保留しておく。まずは不知火、お前が今後どうしたいのかよく考えてくれ」

「はい」

「…少し時間を取って済まなかったな」

それだけ言うと太田先生は荷物を片手に教室を出て行った。

「…何でわざわざ有象無象がいる所に行くの遍?」

これはきっと、僕が大学へ行くことを検討している件について咎めているのだろう。

「その…太田先生に言われたんだ。小説を書くための必要な知識を学べる場なんだって」

「それ本当?本当に必要な知識を学べるの?」

「分からない。だから一通り調べてから行くか行かないかを決めたいってそう先生に言ったんだ」

「そう…。もし大学行くって決めたらまず最初に私に言ってね」

「え、うん」

「有象無象がうじゃうじゃ居る所に、遍一人で行かせるもんですか」

言葉が見えない鎖になって僕を締め付ける。

「あと大学行ってもいいけど一つだけ条件があるから」

「…なんだい?」

「誰一人とも仲良くなるなんてことは許さないから。遍は私だけいればいいって態度で示してもらうからね」

「うん…」

太田先生が示した大学へ行くことで人と出会い、学びなるということは僕には初めから存在しないようだ。

このギリギリのバランスを保った生活はいつまで続けられるのだろうか。

もう一度、紙と筆を取り出し、公募に向けて物語を綴っていく。

遠くから届く、部活動に勤しむ者たちの小さな音が、ただただ静寂な教室に響き渡る。

何か。

何かが限界に近づいている。

華か、綾音か、僕か。

これは漠然とした感覚だ。

嫌な予感がしているだけだ。

けれど、どうしてもそう遠くない日にこの歪な生活が壊れてしまう、そんな予感がする。

いつだってそうだ。

幸福な時間は永遠に続きはしない。

この歪な生活を幸福と呼ぶのであれば、間もなくこの身に不幸が訪れるだろう。

750罰印ペケ:2020/04/27(月) 17:23:58 ID:iWJxOaSw
以上で高嶺の花と放課後 第15話『ジニア』の投下を終了します。『ジニア』の花言葉は「不在の友を思う」「注意を怠るな」「幸福」などです。
段々終わりに近づいてきてプロットも具体的に書けるようになったのであらかじめ宣言しておきます。
高嶺の花と放課後は第20話で最終回です。なので今回で3/4終わったことになります。転載しているカクヨムの方でも読んでくださる人がいて何とかモチベーション保ててます。
あとは起承転結の【結】ができるよう頑張りますのでもうしばらくお付き合いください。ではまた第16話で

751雌豚のにおい@774人目:2020/04/29(水) 00:14:49 ID:WpRin5Yg
乙乙。華の本性(?)が表に出てきて変わっていく様が良かった。

752雌豚のにおい@774人目:2020/04/29(水) 00:15:00 ID:WpRin5Yg
乙乙。華の本性(?)が表に出てきて変わっていく様が良かった。

753雌豚のにおい@774人目:2020/05/03(日) 07:11:51 ID:c1Qq02E6
数年ぶりに開いたらスレが復活していて嬉しい。
全部読ませて頂きます。

754高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 18:58:51 ID:4HTiHH1c
テスト投下します

755高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 18:59:39 ID:4HTiHH1c
高校2年11月中旬

早朝、いつも通り登校し下駄箱へ向かうと見知った顔があった。

「よう、不知火」

「…」

「ちっ、無視かよ」

この間、『他の女に関わるな』と怒られたばかりなのに、過ちを繰り返すほど愚かではないと自負しているつもりだし、華の"仕置き"も甘いものではなかった。

「遍」

「!」

「ははっ、似てんだろ。口調が似ても似つかないからあんまり指摘されねぇけど実は結構声似てんだぜ」

「…おはよう、萩原さん」

「やっと口を開いたな。単刀直入に言うが、お前に少し話があんだわ」

どうすればいいのだろう。

そもそもこんなところを華に見られたら、また僕は"罰"を受ける。

自分が取るべき行動が分からないままでいると、それを肯定だと勘違いした萩原さんは話を続ける。

「何か、色々と引っ掛かってるんだよ。こうモヤモヤするようなさぁ。いくつか聞きてぇことがあるんだけど、まず文化祭の朝の時に居た"彼女"。そして、今荒れに荒れてる高嶺の花こと高嶺華。どっちが本当の彼女だ?あるいは二股か?」

こうなってしまったら、さっさと答えてしまった方が華に見つかる心配もないと考える。

「…僕の彼女は初めから華だけだよ。萩原さんが出会った彼女を自称したのは僕の妹だ」

「なるほどな。つまりお前の妹の嘘に騙された私は、そのまま本当の"彼女"に伝えてしまって怒らせたってところか」

「…まぁ、そうだね」

「今思えばあの日から華の様子はおかしくなっていった気がするけど、お前らは一体いつから付き合ってんだ?」

「僕らが付き合い始めたのは10月初めの頃だ」

「10月初め?そうか…じゃああの時茶番を演じていたわけだ」

「あの時…?」

「お前と桐生が華に仮の告白した時だよ」

そうか、その時か。

あの時は、萩原さんの"せい"で痛い目を見たな。

頬に痛みこそは蘇らないが、熱が少し帯びる。

756高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:00:52 ID:4HTiHH1c

「ああ、そうだね。あの時はもう既に交際をしていたよ」

「じゃあなんだ。あたし達全員、一月弱の間も騙されてたってことか」

「騙すなんて人聞きが悪いなぁ。世の中、秘密裏に交際をすることはそれなりにあることなんじゃあないのかい?」

「まぁ確かに騙す…、は言い過ぎだったかもしれないな。…なんでみんなに黙ってたんだ?」

「それは、今の惨状が答えにならないかな?」

「…。くだらない嫉妬でお前に八つ当たりしてる奴は正直あたしもどうかしてると思うわ。けど、お前らが隠してる間、精一杯気持ちを伝えてた奴が居るんじゃないのか?華はもちろん、…不知火。お前にもさ」

急に頭が冴える感覚を覚える。

「…知ってたのかい?」

「あたしが今日、こんな朝早く登校してまでお前と話がしたいって言ったのは、いわばこれが本題だ。…お前、奏波に、小岩井奏波に告白されたよな?」

「…それは、間違いないよ」

「そして断った。お前には彼女がいるから」

ようやく忘れかけていた罪悪感が、また掘り起こされる。

「別にそれを責めるつもりもないし、むしろお前はある意味正しい選択肢を取ったとも言える」

「じゃあその本題ってのは、一体なんなんだい?」

「あたしが思うに、お前の彼女、高嶺華は相当嫉妬深い奴だと考えてるんだが、合ってるか?」

嫉妬深い。

それは紛れもない事実だ。

「華は、随分と嫉妬深いとは思うけれども…」

それとこれと一体何の関係があるのだろうか。

「やっぱりな。ここ最近の態度、そして最初のあたしの勘違いで怒った姿。あれはどう見てもそういう類だと思ったね」

萩原さんはもしかしてそういう類に関しては鋭い人なのだろうか。

757高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:01:29 ID:4HTiHH1c

「そこで不知火、お前に聞きたいのは嫉妬したアイツが、何をするのかということだ」

「何を…する?」

「ちょっとわかりにくい質問だったか?もっと具体的な質問にするなら、嫉妬に狂ったアイツはなにか嫌がらせや暴力のようなことをしたりしなかったか?」

なんて鋭い人なんだろう、この人は。

「…」

僕の口からは答えにくい。

制服の袖口を捲り、数多の切り傷を見せる。

それが僕からの回答だと言わんばかりに。

「…それは彼女に付けられたやつか?」

「勘違いしないで欲しいんだけど、これはあくまで嫉妬させた僕が悪いんだ。彼女は悪くない」

「彼女が彼女なら彼氏も彼氏だな。歪んでるよ、お前ら」

自分も彼女も歪んでると言われ、怒りを覚えないわけにはいかない。

「…話したいことはそれで終わりかい?」

話を区切り付けるように、目の前の萩原さんの隣を通り過ぎる。

「その傷が、自分以外に向けられた可能性を一度でも考えたことはあるか?」

思考と脚が止まる。

「僕以外に…?」

「お前に告白した奏波が、どういう目にあったか想像できないか?」

「…いや、そんな…まさか」

「私も憶測でモノを喋ってるから、あくまで可能性の一つを言ってるだけなんだけどな。奏波が学校に来れなくなったのは華のせいなんじゃないのか?」

馬鹿げた推測だと、否定することができない。

あり得る話だ。

758高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:01:56 ID:4HTiHH1c

「奏波はあたしの大事な友達なんだ。どうして学校に来れなくなったのか、知りたいんだ」

「…これ以上僕から話せることはないよ。それに…僕はあくまで高嶺華の彼氏なんだ。自分の恋人がそんな非道いことするなんて信じない」

「…自分は散々痛めつけられてるのにか?」

「…僕はいいんだよ。華は僕に強い感情をぶつけてるから僕の身体に跡として残っているだけなんだ」

「はぁぁ、どうしたらそう捻じ曲がった思考回路になるのかね」

「歪んでるとか、捻じ曲がってるとかそんなの僕には分からないよ」

「…なぁ不知火。こんなことただのクラスメイトに、ましてやあたしに言われたくないかもしれないけどさ」

「…なんだい?」

「お前の心は本当にそれで大丈夫なのか?」

急所に入れられたような錯覚が起きる。

必死に回してた歯車を回す手が止まる。

僕の心が大丈夫かだって?

そんなの…そんなの…

「ごめん、変なこと言った。忘れてくれ。聞きたかったことは聞けたしさ、…まぁ気になってるところもあるけど、答えてくれてありがとうな」

それだけ言って、萩原さんはそこから立ち去って行く。

「…分からないよ…そんなの」

苦し紛れに吐いた独白は、誰の耳にも届かなかった。

759高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:02:36 ID:4HTiHH1c

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『私はその骸を拾いあげ、咽び泣いた』

「…これで完結?」

筆を置くと、華はそんなことを尋ねてきた。

「うん」

「…」

納得いかないといった様子。

「…何かまずかったかい?」

「…ハッピーエンドじゃない」

「え?」

「ハッピーエンドじゃないよ、これ」

「まぁ、そうだね。ハッピーエンドと言える終わりじゃないけれども、僕としてはこれが一番味のある終わり方だと思ったのだけど」

凄く切迫した様で、僕を視線で射抜く。

「私たちは…、私たちはハッピーエンドになるよね?」

この場合は、僕ら二人の関係の果てについて言っているのだろうか。

「…当たり前じゃないか」

「ごめん…、不安になっちゃった」

「別に華を不安にさせるつもりはなかったんだれども。兎に角、これで何とか公募に作品を提出できそうだよ」

「うん、頑張ったね遍」

彼女は微笑みながら、僕の頭をそっと撫でる。

『お前に告白した奏波が、どういう目にあったか想像できないか?』

今朝の萩原さんの台詞が、ノイズとなって突如、脳内を掻き乱す。

「…どうしたの?」

聞けるわけがない。

聞いたところで『他の女』を心配するような真似は、間違いなく罰の対象だ。

760高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:03:15 ID:4HTiHH1c

「はは…いやなんでもない。人に撫でられるのって少し気恥ずかしいものなんだと思っただけさ」

「照れてるの?可愛い」

頬を紅に染めてる。

「…からかうのはよしておくれよ」

唇に柔らかい感触が重なる。

「からかってなんかないよ。本当に愛おしくてたまらない」

結局、僕に出来ることは自分の彼女を信じることだけ。

今となっては真相などどうでも良いのだ。

「…全く君という奴は。そういえば明後日、日曜日だろう?」

「うん…、そうだけどそれがどうしたの?」

「試験も終わったことだし、デートに行かないか?」

「え…?」

「嗚呼、勿論華の都合さえ良ければなんだけど…」

「行く!」

「はは、即答だね」

「当たり前でしょ?貴方からの誘いを断るなんて有り得ないよ。この世の何よりも貴方が大事。それに」

「それに?」

761高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:03:47 ID:4HTiHH1c

「貴方から誘ってきたことが何より嬉しい」

「…この間はテスト前でちゃんと遠出が出来なかったしね。それにいつも君が支えてくれたから作品が完成したんだ。そのお礼をしたい」

「…別にお礼なんていつでも"ここ"にしてくれたっていいのに」

ここ、と言って薄桜色の唇を指差す。

「それは…、お礼とはまたちょっと違うんじゃあないのかい?」

「もうっ、もっとキスしたいってこと。遍は奥手だから全然してくれないんだもん」

「じゃあ…」

「えっ?」

彼女の要求に応えるように、唇を重ね合わせに行く。

「これでどうかな?」

「あ…うん、えへへ」

幸福に包まれた笑顔を浮かべる。

こんな僕でも、彼女を幸せにすることができるのかもしれない。

笑顔一つでそんな自信が漲ってくる。

萩原さんの話で一々惑わされる必要なんてない。

僕は目の前にいるこの少女を幸せにすることだけを考えるべきなんだ。

「それじゃあ、あとでラインで集合場所と時間の連絡をするよ。今度こそちゃんとしたデートプラン、考えてくるから」

「うん!楽しみにしてる!」

考えろ。

考え続けろ。

どうしたら僕は高嶺華を幸せに出来るのか。

僕はこの日と翌る日を合わせて二日間、彼女を幸福にする方法を考え抜き、ある一つの"答え"を導き出した。

762高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:04:12 ID:4HTiHH1c

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約束の場所に約束の時間の、さらに1時間程前から待ち始めて5分。

僕の彼女である高嶺華はやってきた。

「待ち合わせまでまだ1時間近くあるよ」

「そっちこそ、1時間前にいるじゃない」

「ふ」

「「あははは」」

お互いに笑いが込み上げる。

「考えること一緒だね」

「きっとこうなるんじゃないかって思って少し集合時間遅めにしたんだ」

「なによそれ。じゃあ本当はもっと早く一緒にいられたってこと?」

「いやいや、そんなことを考え始めたらいたちごっこになってしまうよ。取り敢えず行こうか」

「そういえば、今日どこ行くか聞いてない」

「そりゃあ言ってないからね」

「正直、服装とか凄く迷ったんだからね?」

「はは、ごめんよ」

「それで今日どこ行くの?」

「色々…さ」

「むぅ、まだ隠すの?」

「行ってからのお楽しみってやつだよ」

…。

今日のデートのコースは全部自分で考えたものだ。

先ずは最初の目的地へと辿り着く。

目の前の長く長く続く、急な階段を見上げる。

「ここって、羽紅神社だよね。ここ登るの?」

「うん。調べたらさ、ここ縁結びの神社らしいんだ」

「へぇそうなんだ。私も知らなかったなぁ」

「今日ここにきたのは祈願したかったからなんだ」

石段を登り始める。

763高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:04:40 ID:4HTiHH1c

「二人でここに来るのは久しぶりだね」

「確か…夏休み以来の時かい?」

「そう…。あの時は二人一緒だったのは下りの時だけ。今は二人で登ってる」

「それにしても…夏祭りか。あの時は桐生君にみっともない嫉妬をしてたな」

「どういうこと?」

「ほら、華は桐生君たちと夏祭りに来てたじゃあないか。あの時はてっきり華と桐生君が交際してるんじゃないかって思ってた」

「前にもそんなこと言ってたね。お似合いだとか、不釣り合いだとか、そんなの関係ないじゃない。大事なのは今、私が貴方を愛して、貴方が私を愛する。それだけだよ」

「そう…だよね」

「それで私は凄く満たされてる。…だけどいつも不安が付き纏ってるの。私の愛が尽きることはないけど、私の遍が何処かの誰かに奪われてしまうんじゃないかって」

「ははは…物差しで測る人たちには僕はそれほど魅力的には映らないからその心配は大丈夫なんじゃないかな」

「遍がそうやって自分のことを軽く見てるから私が余計に不安になるの」

「あ…、ごめん」

「それに…されたよね?」

「されたって?」

「告白だよ」

心臓が金縛りにあう。

「隠したって無駄だよ、私知ってるから。一度でも起きてしまったことがもう二度と起こらないとどう信じればいいのかな?」

知ってた?

小岩井さんのことを?

でもあの時の告白と呼べるものは、放課後の喧騒の中で、静かにされたものだ。

近くに華がいた記憶はないし、たとえ近くにいたって分かるはずがないのに、どうして…。

「私はね、遍…貴方が他の女に奪われるのが絶対に許せないし、何よりも恐れていることなの。誰かの隣で笑う貴方を想像するだけで…、嗚呼もう…滅茶苦茶にしたくなる。私以外の女と幸せを築こうものなら絶対に壊す、壊してやる」

気がつけば石段の上で止まっていた。

今一度、覚悟を問われているように思えてくる。

この先を登って縁を結ぶか、引き返して下るか。

嗚呼でも、こんなこと考えるだけ無駄だ。

結局、引き返すことなんて出来やしないんだから。

もう壊れてしまった日常と心は帰ってきやしないのだから。

764高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:05:04 ID:4HTiHH1c

「…落ち着いて華。そんな事がないように今日はここに来たんだから。行こう」

爪先の向きは変わらず、上へ上へと登りつづける。

もう登り切る脚に迷いはない。

長い長い石段を登り終えると目前には、古びた社が建っていた。

「ここで縁結びをしよう。何があっても最後には二人でいられるように」

「うん。懐かしいねここ」

「あの時は暗くてよく見えなかったけど、今は流石によく見えるね」

「ねぇ」

「ん?」

「さっき桐生君に嫉妬した、って言ってたよね」

「うん」

「その時、遍は私の事好きだったの?」

揺れる瞳で僕に問うてきた。

今更隠したってしょうがない。

「うん、あの頃から華を…いやもっと前から好きだったよ」

「なんだ…私達、前にここに来たときには既に両想いだったんだ…」

「僕はてっきり、バレているものだと思ってたよ」

「どうだろう…。あの時の私は遍が好き過ぎて、どうしてもフラれたらどうしようとか不安で余裕がなくなってたからなぁ」

「はは…僕は"運命の相手"って思ってたんだろう?それなのにフラれると思ったのかい?」

「フラれたらどうしようというか、"運命の相手"じゃなかったらどうしようって感じかな。結果的に私たちは結ばれたけど、もし遍が拒んでたら私、何してたんだろうね?」

あんな激情を拒む方が難しいは思うのだが。

「そんな有りもしない未来を想像したって仕方がないじゃあないか」

「それもそうだね」

話しているうちに賽銭箱の前まで辿り着いていた。

765高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:06:01 ID:4HTiHH1c

「えーっと、二礼二拍手一礼、だっけ?」

「そうだね、まずはお賽銭を入れる。そしたら鐘を鳴らす。そこで二礼二拍手一礼さ」

華と僕はお賽銭を投げ入れる。

コトン

硬貨が木箱に跳ねる音がする。

次に鐘を鳴らす。

カランカラン

二礼

二拍手

そして一礼

「…。さて、参拝も済んだことだし、次は祈願しに行こうか」

「縁結びの祈願って何するの?」

「色々あるみたいだけど、絵馬が一番分かりやすくて、祈願しやすいものかもね」

「じゃあ絵馬書きに行こっか」

賽銭箱から離れ、少し歩くと御神籤や絵馬が売られている小屋が見えた。

「…。遍はここで待ってて。私が絵馬貰ってくるから」

「え?…あぁ、うん。分かったよ」

突然、よく分からないことを言われたと思ったが、なるほどそういうことか。

御神籤や絵馬を売られている所には、巫女さんがいた。

僕から女性の接点を少しでも減らしたい故だろうな。

遠くから黙って見守ってると、華が絵馬を一つ貰ってきた。

「この絵馬に二人の名前を書いて、奉納すれば縁が結ばれるんだって」

絵馬と一緒に油性ペンも貰ってきた様子。

「それじゃあ早速、名前を書こうか」

「あ、待って。ここに書くのはお互いの相手の名前みたいなの。だから私は遍を、遍は私の名前を書いて」

「へぇ、自分ではなく相手の名前か」

「そう」

華からペンと絵馬を受け取り、名を刻む。

『高嶺華』

何か誓約書を書いてるような錯覚に陥る。

「はい、次は僕の名前を書いておくれ」

書き終わった油性ペンの蓋を一旦閉じ、絵馬とペンを華へと再び返却する。

「うわぁ…遍は字が綺麗だから緊張するなぁ」

「はは、緊張することなんてないのに」

本当に緊張しているのか、そのしなやかな指先は僅かに震えてるが、それでもしっかりと丸みの帯びた文字で僕の名を刻んでいく。

『不知火遍』

「良かった、書き間違えてない」

ひとまずは安堵した様子。

766高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:06:39 ID:4HTiHH1c

「そしたら、これを奉納しよう」

「奉納したら次はどうするの?」

「とりあえず折角神社に来たんだから御神籤引いたり、一通り境内を見て周ったら、また少し移動することになるけど『歩絵夢』に行って一休みしようか」

「うん分かった。けど御神籤引くために遍を他の女とは接触させたくないなぁ…」

「無人の御神籤もあると思うからそっちに行こう」

「それなら良いね。じゃあ早く絵馬奉納しようよ」

華も縁結びに随分と乗り気な様子。

良かった。

一つ目のデートプランは上手くいったようだ。

沢山の絵馬が奉納されている場所へと向かう。

二人の名前が刻まれた絵馬を括り付ける。

「これで祈願できたのかな」

「できたと思うよ。きっと僕らの願いは届いているはずさ」

「それじゃあ御神籤を引きに行こうか」

「あそこかな?無人で御神籤引けるところ」

あそこ、と指した場所には戸棚の様なものと漆塗りの六角柱があった。

近づいてみれば、案の定御神籤であり、『一回百円』と書かれた側には硬貨を入れるであろう小さな穴があった。

「ここに100円入れればいいみたい」

「それじゃあ早速やってみよう」

チャリン

100円玉を穴に落とし、六角柱の小さな穴から棒を取り出すべく振るう。

ジャラジャラ

小さな穴から一本の棒が出てくる。

棒の先端には『八十七』という漢数字が書かれている。

「僕は八十七みたいだ」

続いて全く同じ動作を華が繰り返す。

チャリン

ジャラジャラ

「私は三十七だって」

漢数字の書かれた棒を六角形へ戻す。

視線を目の前の戸棚に移す。

小さな引き出しが幾つもあり、それぞれに漢数字が書かれている。

恐らく該当する漢数字の引き出しを開けるべきなのだろう。

僕と華は黙って、各々の引き出しを開け、紙を一枚取り出す。

767高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:07:01 ID:4HTiHH1c

「あ…」

「あっ」

お互いにそんな呟きが漏れる。

「遍、何だった?」

「あはは…、僕は凶だった」

「嘘…私も凶」

そう、引いた紙には大きく"凶"の文字が書かれていた。

しかも華の手にある紙にも同じく"凶"の文字。

お互いに違う番号なのに、二人とも"凶"を引いてしまうなんて、ある意味運が良いとも言える。

「折角のデートなのに、ショックだなぁ…」

「…まぁ考え方を変えてみようよ。今の僕らの状態を"凶"と呼ぶのであれば、これからはもっと良くなるということだよ」

「それもそうかも。うん…、そういう考え方の方が良いな」

「御神籤も引いたことだし、軽く散策したら『歩絵夢』に行こうか」

「うん!」









この時は気付きもしない。

この時の御神籤が言い得て妙だと気付くのはもっとずっと、ずっと先の話だった。

768高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:07:31 ID:4HTiHH1c

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「はい、遍くんは『マンデリン』だったわよね?」

「ありがとうございます陽子さん」

「で、華ちゃん相変わらずミルクティーっと」

「なんか、含みのある言い方だなぁ…」

「別にぃ?まぁでもあなたたちがあまりにも青春を謳歌してるから少し意地悪もしたくなるわよ」

「陽子さんって彼氏とかいないんですか?」

「女性に向かってその質問を堂々とする度胸は認めてあげよう遍くん」

「あっ…ごめんなさい」

「謝るのもまたデリカシーのない行動だよ。君は作家になるんだからデリカシーの一つや二つは学んだほうがいいよ」

「あ、いやまだ作家になるとは決まって訳じゃあ…」

「あれ?さっき言ってたじゃない公募に作品出したって」

「いや確かに出したのはそうなんですけど、当選するかどうか…」

「彼氏がこんなこと言ってるけど彼女はどう思うの?」

「遍は自信がないからこんなこと言ってるだけだよ。私は何にも心配してないよ。だって確信を持ってるからね」

「あーあー、本当にあなたたち見てると相性良く思えてきて虚しくなってきた」

「ふふん、陽子さんも早く彼氏作ったら?」

「はぁーあ、コーヒーも飲めないお子様にそんなこと言われちゃあたしももうお終いね」

「ちょっと!」

「あははは」

769高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:07:57 ID:4HTiHH1c

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「水族館?」

「まずデートというもので、パッと浮かんだのがここなんだ。…定番すぎたかな?」

「ううん、大丈夫だよ。私は遍と一緒なら何処だっていいの」

「君ならきっとそういうと思った」

「そういう遍はどうなの?」

「同じさ。実は華と一緒ならどこでもいいんだ。だからこんな定番なところしか思いつかなかった」

「定番も大事だよ。行こう、遍。私水族館初めてなの」

「えっ…そうなのかい?」

「…なんてね」

「あ!ひどいなぁ」

「ふふ」

770高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:08:19 ID:4HTiHH1c

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「見て遍、このクラゲすごく綺麗」

「本当だね。華、クラゲって漢字で書くとどう書くか知ってるかい?」

「え、どう書くんだろう…」

「ヒントは小学生で習う漢字だよ」

「え〜、それってヒントになるのかなぁ」

「海の何かと書いてクラゲと読むんだ。何に見える?」

「んー、海星?」

「惜しいなぁ。星だとヒトデって読むんだ」

「あーヒトデかぁ」

「正解は海の月と書いてクラゲと読むんだ」

「月かぁ…確かに惜しかったなぁ。悔しい」

771高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:08:38 ID:4HTiHH1c

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「楽しかったね遍」

「うん、華に楽しんでもらえて良かった」

「…すっかり夕暮れだね」

「まだ時計で言えば16時過ぎなんだけどね。冬至が近くなってきてるから日が沈むのが早いね」

「そうだね。この後は予定あるの?」

「うん、あるよ」

「え?あるんだ」

「意外だったかい?」

「意外というか今日は結構色んな計画してくれたんだね」

「少し前に情けないデートをしたからね。挽回しようって思ったんだ」

「もう、変なところで真面目なんだから。でもいいよ。今日はどこまでもついて行くよ」

「ありがとう、そこが僕が行きたい最後の場所なんだ」

「そっか。じゃあ日が沈む前に行こっ」

「うん」

772高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:09:12 ID:4HTiHH1c

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日が沈む前には辿り着きたかったのだが、辿り着いた頃にはもうほとんど日が沈んでいた。

「ここが最後に来たかった場所?」

「うん」

「遍、今日は神社行ったり、ここ…"教会
"に来たり、宗教に拘ってる人なら怒られちゃうよ?」

「あはは…どうやら僕は困ったら神頼みするタチらしいね」

教会の敷地へと足を踏み入れる。

「縁結びの神社なら分かるんだけど、今度は教会に来て何するの?もしかして遍って、キリスト教徒?」

「僕は生まれてこの方無宗教で生きてきたよ。自分にとって都合の良い神様を信じる、都合の良い奴さ」

「じゃあ…教会に来たのはどうして?」

どうしてかと問われると直ぐには答えられない。

教会の敷地から教会の中へ入る。

中では美しいステンドガラスが張り巡らされており、日が沈んで暗くなってしまった教会の中を蝋燭が小さく灯りを灯している。

「神父さんはいないみたいだね」

「うん…」

「今日ここに来たのはどうしても伝えたいことがあるからなんだ」

「伝えたいこと?」

奥に張り巡らされたステンドガラスを背に向け、華と向き合う形になる。

「僕はね…子供の頃からずっと小説家になりたかった。けれどそれは誰にも理解してもらえないものだと決め付けて自分の心の内に仕舞い込んでいた」

「小説を書く以上、読み手がいるということに目を背け、一人で毎日空想を夢見てた」

「そこに華…君が現れてくれて僕の中の物語は劇的に変化した。自分の夢の難しさ、自分の覚悟の甘さ、そういった目を逸らし続けていた大事なことを、君が気付かさせてくれた」

「君は僕の夢を笑いもせず、真剣に一人の読者として僕と向き合ってくれた。そんな放課後の毎日が僕にとって、とても素敵なものだったんだ」

「いつの日からか小説家になることだけじゃなくて、君が僕の隣で笑ってくれたらなってそんなことまで愚かにも夢を見ていた」

「二兎を追う者は一兎をも得ずだと、分不相応の恋だと、自分に無理を言い聞かせて、君への想いは秘めたものにして、小説家になることに集中しようって何度も何度もこの想いを殺してた」

「だからか僕の中で酷く歪な二律背反な感情が生まれてしまって、君が好きなのに君を嫌いになろうって、破綻にも似た感情の矛盾が生じてしまってたんだ」

「本当に自分のことを愚か者だと思う。それにこんな中途半端な気持ちが、君を苦しめてるんじゃあないかって今更気付いたんだ」

「だから愚か者の僕なりに考え抜いて、一つの答えを見出したんだ。僕はね、華…君の言う通り、金輪際君以外の女性とは触れないし、喋りもしないし、関わりのしない。君とだけ、この先の人生を永遠に歩いていきたい」

「僕にはまだ資格も指輪も無いけれど…」

覚悟を決める。

「高嶺華さん。僕と結婚してくれますか?」

773高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:09:34 ID:4HTiHH1c

「え……えっ?」

困惑の様子が隠せない様子。

それもそうだろう。

まさかこんなところで指輪も無いプロポーズをされるなんて思いもしなかっただろう。

これが僕ができる彼女への誓い。

けれどいくら気持ちがあろうとも、形になるものは必要に決まっているし、こんな指輪も渡さないプロポーズ、受け入れてくれるとは限らない。

不安になり、華の様子をもう一度伺う。

「え?…華」

困惑の表情は変わらない。

しかし、彼女の瞳からは小さな涙が、止まることなく流れ落ちる。

「嬉しい…」

その一言が僕の胸を安堵をもたらす。

「じゃあ…」

「はい!不束者ですがこれからもよろしくお願いします!」

神父のいない僕の誓いは、蝋燭だけ灯された仄暗い教会で、煌く涙を美しく彩られる可憐な花に受け入れられた。

774高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:09:59 ID:4HTiHH1c

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「また明日」

「うん、またね」

すっかり日が沈み、夜空にオリオン座が描かれている。

明日からまた月曜日が始まるのを考えると、あまり遅くならないうちに解散するのが妥当と考え解散することにした。

とはいえ冬至まであと一月程。

時計の上での時間は遅くなくとも、辺りはすっかり闇夜に包まれていた。

駅のホームで彼女が電車に乗るのを見守ると、見送るために買った入場券を改札口に喰わせてやる。

ただ寒空の下、家へ向かって歩き出す。

静かな街に静かな足音を鳴らしていく。

家へ近づくたびに、今日の疲労が脚へと溜まっていく。

やりたかったことはできたはずだ。

今日一日の出来事を噛み締めてると、自宅の影見えてくる。

そして一人の影が立っていた。

「綾音…?」

暗い玄関先で顔は見れないが、十年という時間を共にした妹の姿は何となく分かる。

「綾音!」

とはいえ、その姿を見るのは実に半月ぶりの事で、思わず声を掛けてしまう。

僕の声がかかると、僕から離れるように歩き始めた。

「…こんな時間にどこへ行くんだ?」

帰路に向かっていた脚は、目的地である家を通り過ぎ、義妹へと変わっていく。

その差を埋めるよう急ぎ足で向かうが、曲がり角でその姿を失う。

775高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:10:28 ID:4HTiHH1c

しまったと思いつつ、曲がり角までさらに駆け足で向かうとその先遠くで綾音は立ち止まっていた。

僕を視認すると綾音はまた歩き始める。

綾音の意図が掴めない。

近づけば離れていく。

けれど離れ過ぎれば僕を待つように立ち止まる。

一定の距離を保ち続ける。

気がつけば僕も無我夢中で、綾音の足跡を追っていた。

住宅街を抜け、街灯一本一本の間隔がどんどん広がっていく。

こんな闇夜の中、どこへ行こうというのか。

背後の華の幻が『行くな』と何度も警告してきても、その脚は止まらない。

そうしてひたすらに義妹の姿を追い続け、彼女に追い付いたのはとある山道への入り口でのことだった。

「…はぁ、はぁ。綾音、一体こんな時間にこんな所に来て、何をするつもりなんだい?」

「…」

返答はない。

半月ぶりに姿は見れても、声は聞けないようだ。

するとまた綾音は暗い山道へと歩き始めた。

「お、おい」

その腕を引こうと思ったが、華の"言葉"が呪いとなって、触れられない。

物理的に綾音を止めることは叶わず、ただ身を案じて付いていくことしかできない。

酷く不気味な木々と山道。

幽霊の類なんてもの信じちゃあいないが怖いものは怖い。

木々の隙間を吹き抜ける風の音がやけにうるさい。

そういえば、山道に入ってから華の幻が喋ることもなくなった。

くそ、脚が重たい。

デートの疲労がここに来て、表れてくる。

「綾音、帰ろう。獣が出るかもしれないし、危ないだろう?」

僕の声は一切届いていないかのような無反応。

綾音はただ道を進んでいく。

このまま登頂するまで止めないのか?

そんな馬鹿げた不安が過ぎると同時くらいに、道なりに歩いていた綾音は突如としてつま先の向きを変える。

その先は道なんてない森の中。

776高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』:2020/05/09(土) 19:10:47 ID:4HTiHH1c

「おい!」

綾音の意図が全く見えない。

けれどこのまま放っておいたら死んでしまうのではないか?

そんなことを考えてしまう。

でもどうしてだろう。

こんな道なき道をさも分かっているかのような足取りで木々の隙間を抜けていくのか。

適当に歩いているわけではなく、どこかを目指しているような。

雲に隠れていた月灯りが森を照らし始める。

暗順応の終えた目では、普段気にもしない月明かりですら充分な灯りだった。

紅葉の季節を超えた後の大量の落ち葉を何度も何度も踏みしめてくと、やがて少しだけ開けた場所へと辿り着く。

「家?」

開けた場所の中心には時と共に廃れてしまったであろう、古民家が一つ建っていた。

「…なんでこんなところ、…綾音?」

綾音がいない。

古民家に目をとられた一瞬で彼女の姿を見失った。

「綾音、どこーーー」

激痛が身体を貫く。

「ああぁぁぁぁぐっ」

この痛みに覚えがある。

二度目の経験だとしても、耐えることなんて容易ではなくそのまま地面へ倒れ込んでしまう。

「ゥゥゥあああああああああが」

痛みに終わりが訪れない。

気を失いたい。

いやだ、痛い。

目眩が引き起こされる、息が止まる、激痛が走る。

目の前が何も見えなくなる。

暗い。

初めての時とは違う。

長い。

長い。

終わりなんて訪れないとも思われる激痛に、身体が防衛本能を利かせる。

感覚が、意識が、遠くなっていく。

薄れゆく意識の中、一言だけ僕の耳に届いた。
 











「お兄ちゃんはあたしのものだから」

777罰印ペケ:2020/05/09(土) 19:14:40 ID:4HTiHH1c
以上で高嶺の花と放課後 第16話『ブラックローズ』の投稿を終了します。ブラックローズの花言葉は「あなたはあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛」「永遠」です。終わりに向かっていくようなそんな演出というか雰囲気を書きたかったのですが
上手く表現できてるでしょうか?あと4話頑張ります。ではまた17話で

778雌豚のにおい@774人目:2020/05/25(月) 00:08:45 ID:cbZcOXuU
久しぶりに覗いたら面白くて最新話まで読んじゃいました
続き待ってます

779罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:19:07 ID:l17.YzuE
投下します

780罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:23:32 ID:l17.YzuE

「ほら綾音。今日からお兄ちゃんになる遍くんよ。挨拶して」



初めて綾音と家族になった日は何故だか、よく覚えている。



今では僕ら二人の母親を務めてる義母の、妙子さんの後ろに隠れていた。



「もうお母さんの後ろに隠れてても仲良くなれないよ?綾音、昨日までずっとお兄ちゃんが出来るって喜んでたじゃない」



「あ…あの、あやねです。なかよく…してくださぃ」



なんとか勇気を振り絞ったというような挨拶だったが、段々と尻窄みになっていた。



「こんにちはあやねちゃん。ぼくはあまねっていうんだ。すっごくなまえにてるね」



「うん…」



なんとか歩み寄ろうとしたが、それでもなお新しい母親の影から出てこない。



これからのことが漠然と不案になったのを覚えてる。



「ごめんね遍くん。綾音ったら少し緊張してるみたい。それでも仲良くしてくれるかな?」



「はい、いいですよ」



「ごめんね、少し剛さ…パパと話すことがあるから二人で仲良くしてもらってもいいかな?」



「はい」



僕は構わないと言った心境だったが、肝心の仲良くする相手がおいそれと簡単に母親と離れるとは思えなかった。



「綾音もいい?」



「うん」



しかしその予測に反して、簡単に母親の言うことを聞いた。



この時、子供ながらに『この子は良い子だな』と単純に考えたのを覚えてる。



母親の姿が見えなくなり、さぁ困ったと思っていると、綾音は先ほどの様子とは一転、僕に近づいてこう言った。



「わたしね!あやねっていうの!おにーちゃんはあまねっていうんでしょ?あたしたちにているね!」



先程とは違う、はっきりと強い意志を持った自己紹介。



内容としてはほとんど僕の復唱に近いが、それが綾音にとっての歩み寄りの証拠なのだろう。



しかし震えてる手、身体、瞳が幼いながらに緊張感の伝わるものだった。



「うん…。よろしくねあやね」



この日から僕ら二人の兄妹が始まった。

781罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:27:40 ID:l17.YzuE
初めて出会ったことを思い出している中、ふと我に帰ると、今度は僕は読書をしていた。

「ねぇお兄ちゃん」

本を読んでいる腕の隙間から、義妹が潜り込んでくる。


「どうしたんだい、綾音。本が読めないよ」

僕は今何の本を読んでいたんだ?

作者名も、作品名も分からない。

「お兄ちゃんってば、さっきからずっと本読んでるよ」

「そんなに読んでたかなぁ」

それが気になり、読書を再開しようとする。

「って、あ!また本読もうとしてる!」

「今良いところなんだよ綾音」

「もうお兄ちゃん、あたし暇ー!」

「暇って言われてもなぁ…」

「暇ー!」

こうなってしまえば綾音を大人しくなるまで待つには、骨が折れるもこの時の僕なら既に理解していた。

「はぁしょうがないなぁ。…綾音は何がしたいんだい?」

僕は読んでいた本を閉じて、綾音に尋ねる。

「えっ…それは考えてなかった…えへへ」

「全く綾音は…。いいよ、気分転換に散歩にでも行こうか」

「なんだかんだ構ってくれるお兄ちゃん好き!」

「僕も好きだよ、綾音」

嗚呼、確かこんな風に綾音によく『好き』って言ってなぁ。

随分と懐かしい。

鮮烈な日々にいつの間にか、古びた思い出は埋没していってたんだ。

「えへへ」

僕が綾音に『好き』と言えば、こうやっていつも嬉しそうに綻んだ笑顔を浮かべるから、僕も嬉しくなって言ってたんだっけ。

「ねぇーえ、お兄ちゃん」

「ん?なんだい?」

「大人になったら綾音のことお嫁さんにしてくれる?」

「んー、そうだなぁ。綾音がもう少し野菜を食べれるようになったらいいよ」

「ええー、けち!」

「ははは」

初恋も知らない愚かな少年の『好き』と初恋の相手に向かって言う少女の『好き』は全く持って意味が違う。

782罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:28:16 ID:l17.YzuE

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長い、長い夢を見ていた。

「あ、お兄ちゃん起きた?おはよう」

目を覚ますと綾音の声がした。

状況が掴めない。

何が起きているんだ。

「少し動きづらいかもしれないけど、我慢してね」

動きづらいと言われて、漸く己の両手首に一つ、両足首に一つ、玩具の手錠のようなものが付けられていたことに気がついた。

「これは一体なんなんた…?」

「なんなんだって、手錠だよそれ。玩具だけどね」

「そういうこと言ってるんじゃあない。どうしてこんなものつけてるんだ!」

「どうして…か。それはね、お兄ちゃんをここから逃さない為だよ」

「逃さない…?」

そういえばそうだ。

ここは一体どこなんだ。

見覚えのない室内に身を置いてるのもまた、分からないものだった。

そもそも目を覚ます前、僕は何をしてたのか。

ぼやけた記憶のピントが徐々に合っていく。

そうだ、夜中出歩く綾音を追って僕は、山の中の小さな小屋のある広場まで来た。

そこまでは覚えている。

「…じゃあ、ここは」

その小屋だというのか。

「随分と昔に捨てられた民家みたい。汚いと思うかもしれないけど、これでも結構掃除した方なんだよ?」

「逃さないってなんだ。そもそもこんな所掃除したから何だって言うんだ?」

「ねぇお兄ちゃん。この数日、あたしがどんなに惨めで辛い想いをしてきたか…分かる?」

僕の話を聞いているのかいないのか、尋ねた疑問に対しての返事がない。

「あたしが準備してる間も、お兄ちゃんがあの女の隣で笑ってると考えたら、むかついてむかついて、何も知らずに毎日帰ってくるお兄ちゃんを、犯してやろうかって何度も何度も考えたよ」

それはとんでもない告白だった。

そっとしてやるのも間違いだったのか?

最初から最後まで僕は間違えてばかりだったのか?

「でも、あたしはお利口さんだから。お兄ちゃんを犯すのは、ここに監禁してからってすっごくすっっっごく我慢してた」

「監…禁…?」

「そうだよ、監禁。少しは自由を許してるから軟禁っていうのかな。まぁどっちでもいいや。大事なのはここで死ぬまでお兄ちゃんはあたしと過ごすってことだよ」

「死ぬまでここで過ごすだって?ふざけたこと言うのもいい加減にしなさい!」

「ふざけてなんかないッッッ!!!!」

耳を劈くような怒号に恐怖を覚える。

783高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:29:11 ID:l17.YzuE

「ねぇ…お兄ちゃん。ふ、ふざけてこんなことすると…思う?」

余裕のない震えた声。

声の落差が、その不安定な綾音の心の様を表しているように思える。

「あたしが、あたしが世界で一番お兄ちゃんのこと愛しているのに、あんな女にお兄ちゃんを奪われて、平常心でいられると思う?」

「別れたと言った側から復縁して、騙すような真似をしたのは悪かったと思っているさ。けどこんなこと間違ってる」

「間違ってる?間違ってるのはお兄ちゃんのほうだよ。何回も何回も結ばれていいんだって、愛し合っていいんだって言ってるのに、義理なのに"兄妹だから"とか理由になってない理由ばっかり」

「だから僕は綾音を本当の妹のように…」

「妹って何?兄妹って何?そんなのあたしには分からないよ。初めからお兄ちゃんが好きだったあたしの心はどうなるの?」

「それは気付いてあげられなかった僕が悪かった!でもっ…」

「いいよ、別に。それ以上言い訳しなくて。結局の話、あたしたちは根本から間違ってたんだよ。だから"今回は諦める"」

「諦める…?だったらッ」

「勘違いしないで。諦めるって言ったのは"今回の人生で真っ当にお兄ちゃんと結ばれる"のを諦めるって言ったの」

「何を言って…」

「お兄ちゃん。ここにはね、ある程度食料を備蓄しておいたの。けど備蓄は備蓄。いつか底を尽きる」

話が転々としすぎて全体像が読めない。

話を理解しようと努めていると、綾音は顔を突如歪ませる。

「食料が持つ間、ずっとここであたしとセックスし続けるんだよ。神様に来世はちゃんと恋人になれますように、って。生まれ変わったらちゃんと結ばれるようにお願いしながら。…そしてここであたしと二人で飢え死ぬの」

綾音の口から告げられたのは酷く悍しい計画だった。

「ま、まて!そんなの正気じゃないぞ!」

「アハハ!あたしはもうお兄ちゃんと普通の恋人になれないんだよ?!正気でいられると思うッッッ!!!?」

何がここまで綾音を狂わせたのか、いや、分かっている。

分かっているのに、こんな取り返しのつかない状況なのに、未だに認めようとしない。

僕の心はどうしようもなく愚かだ。

「綾音、…お願いだ。やめようそんなこと。今ならまだ全部無かったことにするから…」

「お兄ちゃんまだ自分が上の立場だと思ってるの?自由が効かない両手両足で何が出来るの?あのね、これはもう決めたことだし、引き返すことだってしない」

綾音の意思は揺らがない。

芋虫の様に這いずり回ることしかできない僕を、仰向けに転がす。

「抵抗しないでね。本当は拘束なんてしたくないから今は甘めにしてるけど、抵抗する様ならもっと拘束厳しくするから」

身動きの自由が効かない僕の服を一つずつ脱がしていく。

この先になにが待ち受けているかなんて容易に想像がつく。

「い、嫌だ。僕は綾音とそういうことしたくない!」

抵抗するなと脅されてもなお、僕の本心は義妹との性行為を拒んでいた。

口出してからしまったと思う。

また綾音の激情に火を付けしまうのではないか。

784高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:29:44 ID:l17.YzuE

「…ひどいよ、お兄ちゃん」

しかし予測と反して、綾音の反応は大粒の涙をポロリポロリと流していた。

「あっ、いや…」

妹の、一番見たくない顔を見せつけられて、反抗の意思があっという間に萎んでいく。

「そんなに嫌ぁ…?あたしとするの…。こんっっっなにも愛しているのに、どうしてあたしは拒絶されないといけないの?」

「綾音…違うんだっ、その…」

罪悪感が胸をこの上なく縛りつける。

「もういいよ…。分かった。どうあがいたって、あたしのこの人生は報われないんだ…。あはは…あはははははははははは!」

綾音の中で何かが壊れた。

「綾…んっ!?」

「んチュ、ンン…ンハッ…チュ」

悲哀の表情が突如として剥がれ落ち、能面の表情で僕の唇を貪る。

毒の様な唾液が止めどなく流し込まれる。

「チュ…もうあたしは、あたしがやりたいことをやる。ここでお兄ちゃんを死ぬまで犯してやる」

狂気の宣言の後、体を一旦僕から離すと、今度は綾音が服を脱ぎ始めた。

綾音の、十年間共に過ごしてきた義妹の裸体が露わになる。

けれど華の時とは違う。

情欲が一つも湧かない。

確かに華の時は、なにやら薬の影響というものはあったものの、その心の奥底で見惚れるものがあった。

それが義妹には感じない。

僕の心の底の、どうしようも変えることができない部分。

何度も伝えているのに伝わらない悲しい部分。

綾音はそっと僕の陰茎に愛撫を始める。

不快感が背筋を伝う。

いくら愛撫しても、僕の身体は心と密接に繋がっていたらしく、ピクリとも反応しない。

それは自分の中に唯一残された真っ当な人間性の証であり、砦のようなものでもあった。

幾らやっても無意味だと気付いたのか、一旦その手を止める。

しかしそれを、諦めてくれたかと安心することはできないということはもう、重々承知だった。

こんなことで止めるわけがない。

そう身構えていると、綾音は姿勢を変え、僕の下半身へと顔を近づける。

「っ…」

生暖かい感触と、気色の悪い感覚が同時に伝わる。

「ン…ンン、チュ、レロ」

嫌悪感から目を逸らしても、綾音が僕の陰茎を咥えていることは嫌でも分かった。

785高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:30:09 ID:l17.YzuE

僕の女性経験は少ない。

華と一度だけ、本番行為をしただけだ。

そんな経験の浅い僕の未知なる行為をされ、少しずつ陰茎に血と力が巡るのを感じる。

嗚呼…自分の身体が嫌いになりそうだ。

心は酷く冷めているのに、身体はその真逆とも言える生理現象を起こし始める。

「ンッ、レロ、ンアァ…ム、チュパ」

もう綾音がどんな表情してるかも見たくない。

考えたくもない。

「チュ…ジュル、ンァァ…レロレロ」

もうすっかり陰茎は肥大化してしまったが、綾音はそれでも口の動きが止まらない。

触手のような舌が何度も何度も何度も、絡みついて何度も何度も何度も、気色の悪い摩擦を繰り返す。

きっと綾音は口淫だけで、まずは一度僕を果てさせようとしている。

もうその気色の悪さに快楽を覚え始めている身体に対し、『もう勝手にしろ』と失望にも似た感情が湧く。

「チュゥ…ゥゥゥ、ジュパ、あむ」

舐めるだけでなく綾音は、肺も使って陰茎に吸引し始めている。

快楽が加速度的に溜まっていくのが分かる。

くそっ、思ったよりも遥かに早く限界が訪れそうだ。

「…っ」

「ジュルルル、ん!?ンンッッッ」

妹の口の中に精を無様に吐き出してしまう。

綾音はそれに驚きつつも、精を吐き切るまで陰茎を口に咥えたままだった。

陰茎の痙攣が治ると、ゆっくりと口を話していく。

口内から解放された陰茎は、唾液で濡れてやや冷たさを感じる。

綾音の口内にあるであろう精液を、嚥下したのか喉仏が一度大きく動く。

コク

「これが精液の味…美味しくもないし変な臭いだけど…けど…。普段じゃ絶対に味わうことのない味…今まで味わったことのない味…。ふふ、ふふふ。あたし本当にお兄ちゃんを犯してる…」

疲労感がどっと押し寄せる。

単純に絶頂に達したこともあるが、本当に血の繋がった妹とも思ってた義妹に、性的暴力をされたという事実が精神に疲労が襲う。

「もう…やめてくれ…お願いだから…」

「やめない。好き、愛してる」

綾音の愛の囁きなど、到底受け入れられない。

受け入れられないはずなのに。

なのになんで僕の身体は、綾音を女性として受け入れ始めてるのか。

今この時ほど性欲というものが、穢らわしく感じたことはない。

気がつけば僕は、一筋の涙を流していた。

レロォ

それを見た綾音は、雫を掬うように舌で涙の跡を辿る。

「これがお兄ちゃんの涙の味。ふふ、当たり前だけどしょっぱいね。ねぇお兄ちゃん、次はどんなお兄ちゃんの味をあたしに教えてくれるの?もっと知りたいなぁ」





オシエテ






悪魔の囁きと同時に、綾音は僕の上に跨り、僕の陰茎を綾音の中に沈めていく。

786高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:30:34 ID:l17.YzuE
嗚呼、妹とセックスをしてしまった。

近親相姦。

気持ち悪い。

人間性の崩壊。

頭の中で自分への罵倒が止まらない。

華の時とは違い、出血している様子もないし、それほど痛がっている様子もない。

しかしゆっくりと、ゆっくりと己の許容範囲を確かめながら綾音は着実に腰を沈めていく。

「ああっ!最高……。あたしお兄ちゃんとセックスしてる…。血の繋がった兄妹じゃしない、男と女の愛ある行為…。はぁぁぁぁぁ、たまんない!」

小さく小刻みに腰を動かし始める。

「好きだよお兄ちゃん。愛してる。来世ではちゃんと恋人になって、それから夫婦になって死ぬまで愛し合おうね。神様もきっとあたしたちのこと見てるよ。だから絶対来世はあたしたち運命の恋人になれるよ!好き、大好き。もうここから死ぬまで絶対離さないからねっ」

華の時の、僕に無理やり快楽を与えようとする動きではなく、自分が快楽を得ようとする動き。

僕を貪り、喰らう。

華…ごめん。

プロポーズまでしておいて僕は、他の女性に身体を弄ばれてる。

最低だ。

けど心だけは君の元にある。

身体はもう僕の言うことは聞かないけど、絶対に君を愛する心は折れない、折らせない。

「気持ちいい、イイッ!はぁっ、はぁっ」

こんなの愛のある行為じゃない。

一方的なレイプだ。

そう思い込み、心だけでも抵抗しろ。

本当に死ぬまでこの地獄が続くかもしれない。

けれど死ぬその最期の時に、僕は"人間だった"と尊厳を保てるように、心だけは絶対にこんな行為を受け入れちゃだめだ。

「あっ…ああっ…ううう…」

分かっている。

それはつまり、嫌悪感で永遠に心を苦しめることを意味する。

はっきり言っていつ精神が壊れてもおかしくない。

けどこれは守る戦いでもある。

人としての尊厳。

愛の誓い。

そしてもはや思い出の中にしか生きていない、僕の妹…綾音。

「イクッ、好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き、愛してるッッ…大好き!」

僕は耐えられるのだろうか。

耐えたとしてその先に何があるのだろうか。

「…はぁ、はぁっ、アハハ…。まだ…これで終わんないからね。あたしたちがまた愛で結ばれるように何度だって繰り返すから」

もはや一縷の希望も持てない脆弱な精神状態で、綾音の愛に飲み込まれていった。

787高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:31:00 ID:l17.YzuE

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来る日も来る日も綾音に犯され続ける日々。

もうここ来てから幾日経ったかも分からない。

夜が来たら寝る、朝が来たら起きる、そんな人間らしい生活など送れるはずもなく、人間性が壊れていく。

綾音に身体で抵抗できたのは所詮、最初の最初だけ。

昼夜通して行われる性行為は、綾音が僕の身体を理解するには十分すぎる時間だった。

もう僕の身体の主導権は僕にない。

綾音に愛玩具として扱われる日々。

けれど心の根っこの部分はいつまで経っても変わることはなく、どうしようもない嫌悪感が精神を蝕む。

頭がおかしくなりそうだ。

「お兄ちゃん…、今日はね。ちょっとお願いがあるんだ」

返事をしようとは思わないが、それ以前にもう声の出し方も忘れかけていた。

「あたし大事なこと忘れてた。散々お兄ちゃんの身体の一部を口にしてきたけど、まだ一つだけあたしの知らないお兄ちゃんの"味"があるの」

返事のない僕などお構いなしに僕の耳元で囁く。

「血…だよ。お兄ちゃん。あたしお兄ちゃんの血が飲みたいの」

そう言って綾音は懐から、包丁を取り出す。

対する僕は両手両足が拘束されている状態。

俎板の上の鯉。

簡単に僕を殺せそうだ。

いっそのこともう殺してくれ…。

「ちょっと痛いと思うけど、指先ちょっと切らせてもらうね」

ツゥ

火傷にも似た感覚が指先に伝わる。

その瞬間、一気にフラッシュバックした。

華、ごめん。

君を愛してる。

心は君の元にあるから。

フラッシュバックしてのは華にお仕置きされた時のこと。

記憶が鮮烈に蘇り、廃人になることを拒む。

「赤くて綺麗…いただきます…あむ」

綾音はそのまま僕の指先を加える。

「チュゥゥ…レロレロ」

頬を紅潮させ、まるでスープを飲んでいるかのように味わい嚥下している。

「どうしようッ…自分の血は舐めたことあるけどそれよりも何倍も美味しい…ううん味は間違いなく血なんだけど…でも美味しい、アハッ!」

綾音は狂気の笑みを浮かべる。

嗚呼…

このまま死ぬまで続くのだろうか。

家の隙間から山風が流れる。

鼻腔に一輪の花を彷彿とさせる匂いが届く。

なんだろうこの匂い。

何かの花の匂いの気がする。

その匂いに安心感と恐怖という矛盾した感情が湧き上がる。

「ねぇ、何してるの?お前」

こんな時にまた彼女の幻を見てるのか。

綾音もお構いなしに僕の指を舐め回す。

788高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:32:35 ID:l17.YzuE
「何を…しているの?」

いや幻なんかじゃない。

言霊に込められた負の感情が、本物の圧を生み出している。

久しぶりの登場人物に、意識が覚醒する。

「…ああもうなんで、あたしとお兄ちゃんの楽園に汚い足で踏み入れてくるかなぁ」

「ねぇ…何しているのかって聞いてるんだけど…」

「何って、来世でお兄ちゃんとあたしが結ばれるための神聖な儀式だよ。神聖な儀式…だったんだよ…。なのになんであんたがここにいるんだよ」

「なんでって愛する彼氏がこの周辺で通信が途絶えたから散々探し回ってやっと見つけたのが、ここってだけ」

「通信が途絶えた…?」

「GPSアプリ、入れてるの。遍がどこで何をしているか、分かるようにね。まさかこんな形で役に立つとは思ってなかったけどね」

華は僕と目を合わせると、その顔緩める。

「遍…助けに来たよ」

ぎりぃ

余程不愉快なのか綾音は歯軋りを鳴らす。

綾音は僕の指先を切るのに使った包丁を手に取る。

「ああ…ちょうどいいや。お兄ちゃんと一緒に死ぬ前にお前を殺してみたいと思ってたんだよ」

「遍から聞いてた話より随分と元気そうね、綾音ちゃん?」

「黙れ、あたしの名前を呼ぶな」

「随分と塞ぎ込んでたみたいじゃない。お兄ちゃんに私って言う彼女が出来て嫉妬してたもんね」

「煩い。黙れ。殺してやる」

「ねぇ綾音ちゃん」

「だからあたしの名前を呼ぶな」

「遍のこと好きなんだ?でも可哀想に。フラれたんだよね遍に」

「煩い黙れ」

「恋人になりたいって、彼女になりたいって、そう願ったんだよね?でも叶わない」

「黙れ…黙れ…」

「ねぇ綾音ちゃん。私はね、遍にプロポーズされたんだ。『結婚してください』って」

「黙れ黙れ黙れ…」

「もちろん私は受け入れたよ。日本は一夫一妻制だから遍のお嫁さんになれるのは私だけ。遍が選んだ唯一の人間が私なの。貴女じゃないのよ、綾音ちゃん。あは、残念だったね」

「煩いッッッ!!!!!!!!!!!!

綾音は手に持った包丁を握り直す。

「いいよもう。殺人とか別に躊躇する理由なんてないし。ここで罪を犯したってどうせお兄ちゃんと一緒に死ぬだけだから」

「や、やめろ!綾音!」

綾音に躊躇など切っ先を華に向け、走り始める。

止めようと反射的に身体を動かすが、拘束されている上に鈍った身体では、せいぜい芋虫のように動くのが限界だった。

そもそも丸腰の華が何故あんなにも綾音を挑発するような真似をしたのかわからない。

「華!!」

「お兄ちゃんもこんな女の名前呼ばないでッッ!!」

華に襲いかかりつつも、そんなことを口走る。

これが油断に繋がったか定かではないが、華は包丁を持って襲い掛かる綾音から素早く身を躱す。

そのまま綾音の脇腹を蹴り飛ばす。

789高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:33:45 ID:l17.YzuE
「がっ…」

手加減なんて一切感じない蹴り。

包丁ごと吹き飛ばされる。

「諦めなよ、綾音ちゃん。世の中にはもっと色んな男がいるんだからそいつと結ばれればいいんじゃあないかな?」

「こっち台詞だ。何年も何年も愛し続けてきたお兄ちゃんを横から奪い取りやがって、泥棒猫が」

一度手放した包丁を再び、握り直し立ち上がる。

「何年も側で愛し続けてるのに結ばれてないってことは、遍と綾音ちゃんには運命の赤い糸で結ばれてないってことでしょ、あははは」

「黙れッ!何も知らないくせにッ…」

「うん、確かに私は知らないね。知りたいと思わないけどね。でもこれだけは知っている。遍と私は運命の赤い糸で結ばれている。綾音ちゃん、貴女じゃない。私なんだよ」

「お前、よっぽど死にたいようだな。いいよ、今殺してやるからさぁ!」

もう一度、華に綾音が襲いかかる。

今度は刺しにいく動きではなく、斬りかかりにいく動き。

華はそれを避けるのではなく、綾音の手首を抑えて止めた。

790高嶺の花と放課後 第17話『スイセン』:2020/05/31(日) 11:34:03 ID:l17.YzuE

「死ぬのはお前のほうだよ。私の遍を拐って好き勝手してくれて。お前だけが腑煮え繰り返っていると思ったら大間違いだから」

「くそ、死ね!!!!」

見るも耐えられない緊張感が張り詰める。

お互いに力を込め合っている。

どちらかが気を抜けば大惨事になるのは間違い無い。

どうして僕は傍観者でしかいられないのか。

ドンッ

華はもう一度、脚を上げ綾音の鳩尾に蹴りを入れる。

衝撃で綾音が数歩下がるが、その手にはまだ包丁が握られたままだった。

「はぁ…はぁ…、あたしは…何年もお兄ちゃんを愛してきた。ずっと側で愛してきた。世界で一番お兄ちゃんを愛してるのはあたしだ」

「むかつくなぁ…、まるで私の遍への愛が大したことないみたい言い方だね」

「当たり前だッ…。あたしに比べたらあんたお兄ちゃんへの愛なんて塵のようなくせにッ!」

「聞き捨てならないなぁ…私の愛が塵だって?」

「っ…大体どうしてお兄ちゃんなのよ!?ずっとずっと好きだったのに、愛してたのに!なんであんたなのよ!?!!」

綾音の嫉妬には羨望の意味も含まれているようにも聞こえる。

「醜くて聞くに耐えられない。10年も側で何をしてたっていうの?ただ手元にあるだけで満足してたくせに、よく遍のこと世界で一番愛してるとか言えたね」

「嗚呼ッ…もう分かったよ…。泥棒猫として許せないだけじゃない…根本的にあんたのことが嫌いみたいだ」

「奇遇ね。私も」

綾音はまた構え直すが、既に二度躱されているためか、すぐに襲い掛かろうとはしない。

綾音は華に最大限の警戒を払いつつ、"何か"を拾い上げる。

「待っててねお兄ちゃん。今あいつ殺すから。そしたらまた愛し合おうね」

綾音は構えを解く。

華はそれを訝しげに見る。

「死ねッッッ」

突如として、綾音は包丁を華に向かって投擲をした。

手加減なんて一切ない投擲は、速さと共に殺意が篭っており、瞬間の内に華に当たると判断した。

頭の中に広がるグロテスクな場面が、反射的に目蓋を閉じさせる。

見てられない。

バリバリバリ

どこかで聞いた電撃音。

視覚の情報をシャットダウンした僕の聴覚には、ここに連れてこられる直前に聞いたスタンガンの音が響く。

綾音が拾った"何か"とはスタンガンだった。

痛々しいとはいえ包丁を投擲したぐらいでは人は死なないと思っていたが、綾音は包丁で怯んだ相手にスタンガンを当ててからとどめを刺すつもりだったらしい。

目を閉じている場合じゃあないだろ!

あらゆる恐怖を押し除けながら目蓋を開く。

既に華と綾音が密接していた。

綾音のスタンガンが華に当たっているように見える。

しかし、華はいつまで経っても倒れることはなく、代わりに綾音の手からスタンガンが零れ落ちた。

ゴトン

「えっ…?」

嗚呼、そんなッ!

嘘だ!

嘘だ嘘だ!!

そんなの何かの間違いだッ!

「前に言ったよね…、殺される覚悟ある?…って」

本来、華に刺さっているであろう包丁は、その手に握られている。

「え…あっ…う、あッ」

華の手に握られた包丁は真っ直ぐ、綾音の心臓を貫いているように見える。

いやそんなの間違ってるッ

僕が目が、頭がおかしいだけだ!

どれだけ現実を虚構と思い込もうとしても、視界の端から赤い雫が滴っていく。

嫌だッッッ

世界が…

鮮血の地獄に染まる。

「うああああああああああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!

791罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:35:59 ID:l17.YzuE
以上で17話『スイセン』の投下を終了します。続けて18話を投稿します

792高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:37:09 ID:l17.YzuE
心臓を貫く刃が勢いよく引かれる。

綾音が力無く倒れ込む。

錆びた鉄の匂いが爆ぜる。

「綾音、綾音綾音綾音綾音!!!」

クソなんで動けないんだ!

妹が死んでしまう!

「…」

華がもう一度、刃を振り上げる。

「待ってくれ!華!お願いだ!!死んじゃうよ!!!!」

僕の願いがまるで聞こえていない。

「やめてくれえええええええええええ!!!!!!!!!」

願いも虚しく、残酷にも刃が振り下ろされる。

「ぁぁぁぁぁッッッ!綾音!綾音ぇ!!」

一番見たくなかった光景が、目蓋に焼き付けられる。

綾音は静かに僕の方へ顔を向ける。

「おに……ちゃ…」

僕を呼ぶ声は最後まで続かない。

糸の切れた人形のように綾音は動かなくなる。

待っておくれッッ

こんな結末到底受け入れられない!!!

死んだ人間は何度か見たことがある。

祖父や祖母がそれにあたる。

けれど人が死ぬのは一度だって見たことはない。

こんなにもあっけなく死んでしまうのか?

いや綾音は死んでない!!!

まだ生きてるはずだ!!!

「綾音ッ、綾音!綾音………綾音ぇッッッ!!!!!」

もう死んでるよ。

煩い黙れ。

本当は分かっているんだろう?

このまま放っておけば死ぬかもしれないが、まだ助かる、僕が助ける!!!

いつまで現実を愚かに誤魔化すの?

綾音を助けられるなら、いくらでも愚か者になる!!

まだ分からないの?

黙れ!!!

君は本当に

煩い、それ以上はなにも思うな!!!




僕は本当に愚かだね。





「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」

793高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:37:37 ID:l17.YzuE
脳が焼き切れそうだ。

なんだよ…

なんなんだよ!!!

こんなのあんまりだ!!!

「遍…」

赤く染められた包丁は彼女の手からこぼれ落ちる。

その足で静かに僕に近づいてくる。

よくも…

よくも僕の妹を殺したな…

赦さない

赦せない!!!

「良かった………無事で」

「ぁ………」

腑が煮え繰り返りそうなほど、憎い相手から掛けられたのはこれ以上ない、柔らかく優しい声だった。

それだけで…

それだけで僕の初恋が蘇る。

狂わしい程に愛し愛された彼女を思い出す。

なんでこんなに、惨めな思いしなければならないんだ。

涙が溢れて止まらない。

自分の感情がもう理解できない。

「辛かったね」

そんな惨めな僕を彼女は抱き寄せ、静かに撫でる。

「これで分かったかな?私が世界で…ううん、この世で一番貴方を愛してるってこと」

「なんで…どうしてだよ………」

どうしてと問いたいのは、自分ではもう舵が効かない己の心。

どうして。

どうして世界一憎い相手を愛さなければならないんだ。

「何者にも変えがたいのよ遍は。私から遍を奪おうとするなら殺してでも取り返す。死んでも渡さない」

「ぅぅぅ…ぁぁぁ…ぁ……ぇっ」

言葉にならない感情が嗚咽になって吐き出される。

そんな僕を2、3回優しく撫でると、身体から少し離し向き合う形になる。

「…待ってて」

「………え?」

「人を殺したんだから私は捕まる。当たり前の話だよ。昔ならまだしも捜査技術が進歩した現代で一生バレずに過ごせるなんて、そんな甘ったれたこと考えてなんかない。そんな半端な覚悟で殺したわけじゃない」

何かの覚悟を決めたような表情。

「自首するわ」

「何を言って…」

思っても見なかったことを言われた。

794高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:38:16 ID:l17.YzuE
「もしかしたら私は何年も刑務所に囚われるかもしれない。そしたら何年も貴方と離れ離れになる」

どこか人ごとのように淡々と語られる。

「でも私は必ず貴方の元へ帰る。ただいまっていつの日か言う。だからそれまでさ…」

けれどそれは彼女の中に、確かにある絶対なモノ。

「絶対に、絶対に私以外の女に愛を囁かないで。愛おしそうに名を呼ばないで。私が戻ってきたときに、もしもそんな遍に愛を囁かれるような女がいたら必ずまた排除する。綾音ちゃんは正直、貴方への愛は私程でもないにしても並大抵のものじゃなかった。それは認めてあげる。だからもう殺すしかない、そう思った」

「殺すしかない、だって…?…そんなわけないじゃないか。そんな…そんなことあってたまるか!」

「じゃあ黙って指を加えてろって?言っておくけどそんなことしてたら、殺されてたのは私の方よ」

「…違う。綾音は…そんなこと…しない…。綾音は」

否定しきれないのが悔しい。

「嗚呼そう。やっぱり殺して良かった」

「…殺して良かっただと……?僕の、…僕の妹だぞ!?」

「貴方にそれだけ愛されてるのが妬ましくて、妬ましくて堪らない。それが例え家族愛だとしても。絶対にどんな形であれ、遍の愛を受けるのは私ただ一人だけ、それ以外は認めない」

彼女の嫉妬の領域はもう、狂気の域まで足を踏み入れている。

「どうしてだよ……。僕は君を愛しているのに、どうして妹を殺されなきゃいけないんだよ…。どうして君を憎まなきゃいけないんだよ!!!」

「いいよ。憎んで。貴方の感情を全て私にぶつけて。貴方の全ては私のもの…、誰にも渡さないから」

彼女の独占欲に雁字搦めになって何処にも行けやしない。

何をしても無駄だという絶望。

僕はもう、初めてこの子と交わった日から全てが狂い始めていたんだ。

不可能なのは分かっているが、半年前の自分に警鐘を鳴らすべきだったんだ。

『高嶺の花には毒がある』

一人の少女と出逢ってしまったが為に、義妹が殺された。

十年も共に人生を歩んできた義妹が。

運命が歪み始めてから気付いたってもう遅い。

既に破綻しているのに、ああすればいい、こうすればいいと、足掻いていた昨日までの自分が馬鹿みたいに思えてくる。

僕が頭を抱えていた頃にはもう、こうなることは決まっていたのだ。

残酷なカウントダウンが知らず知らずのうちに刻まれていた。

それなのに、馬鹿みたいに希望を持って、考えてるフリして何にも分かっていないで、今日この時まで悪魔の掌の上で踊っていたのだ。

795高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:38:53 ID:l17.YzuE


ーーーーーープツン


今までどうにか均衡を保ってきた糸が切れた。

全てがもう……どうでも良くなった。

「…どうして、ここが分かったの?」

意味のない質問する。

「さっきも言ったけどGPSアプリっていうのを遍のスマホに入れてあるの。遍が、…正確には遍のスマホがどこにあるのか、それを私の携帯で見ることができる」

「ははっ、便利な世の中になってるもんだね」 

何も可笑しくないのに笑いが出る。

「最初はデートで別れてから、いっぱいメッセージ送ってるのに返ってこないから凄くイライラして。でも電話をかけてみたら電波が繋がらないって。慌ててGPSを起動して遍を探したんだけどこの山に入ってしばらくしたら反応が消えちゃってさ。後悔したよね、適当なGPS入れてたから圏外の範囲行っちゃうと消えちゃうみたい。ちゃんと圏外でも見つけられるGPSにすればもっと早く見つけられたのに」

「…。僕は一体ここに何日居たんだい?」

「遍がプロポーズしてくれた日から8日が経ったよ。ずっと、ずっと探してたんだから。もう会えないんじゃないかって思ったら震えが止まらなかった。もし遍が死んでるなら私も死ぬつもりだった」

「…死ぬとか殺すとか、君の中ではそんなに簡単なことなのかい?」

「ッ…簡単なわけないでしょう?!人一人の命の重みくらい分かってる!じゃなきゃ今頃、世界中の女たちを殺してるわよ!今だって肉体に包丁が沈み込む感覚が残ってる…」

かつて刃が握られていた手が震えていた。

「じゃあなんで綾音を、僕の義妹を殺したんだよッ…」

「分からないかなぁッ…?私の中で…私の中で命が軽いんじゃない…、貴方への愛が重いんだよ?」

「…分からないよ、そんなの…」

「ッッッ!好きなの!愛してるの!今だって貴方への愛が1分1秒経つ度に、私の中の愛が重く重くなっていくの!貴方が他の女と笑う所を想像すれば、殺してやりたい…壊してやりたいって気持ちが湧いてくる!もうわたしの中にある"コレ"はどうしようもできないの…」

人を痛めつけることはあっても、殺すことは彼女の中で正真正銘、初めてのことなのだろう。

動揺が瞳から隠せない。

「きっと遍ば私のこと狂ってるって思うよね…。他でもない私自身が狂ってると思うもの。今だって自分のしでかしたことの重さを理解してるはずなのに、"私には宿らなかった貴方との新しい命"が綾音ちゃんのお腹の中いたとしたら腹を掻っ捌いて無かったことにしたいって…そう思ってる」

ああそうか。

そういえば僕はこの娘に直接…

忘れていたことが思い出される。

「ねぇ遍、もう一回子作り…する?」

馬鹿げた質問だった。

「…そんなこと、できるわけないだろう?」

「ごめん、聞いてみただけ。忘れて」

気まずい沈黙が流れる。

796高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:39:27 ID:l17.YzuE

5分かあるいは1分にも満たない静寂が続いた後、再び彼女は口を開いた。

「ねぇ…遍。キスしてもいい?」

「…それも聞いてみただけかい?」

「これはちゃんとしたお願い。多分…貴方とキスができるのはこれで最後な気がするから」

「…。いいよ、もう。好きにして」

どうせ今の僕は心も身体も身動きが取れない。

抵抗する気力なんてないし、それよりも全てがどうでも良かった。

「ありがとう…」

彼女はそっと僕の唇に重ね合わせる。

短く触れるだけのキス。

「遍、愛してる。永遠に愛してる。決して貴方への愛が消えることはない。忘れないで」

彼女は誓いとも呪いとも呼べる言葉を僕の耳に刻む。

「うん…」

返事に意味などない。

もう僕は彼女の愛からは逃れられないのだ。

嫌というほど分からされた。

「手錠を壊してあげるから山を下ろ。ここじゃ圏外だから警察に通報できないよ」

最後に彼女は寂しそうな笑顔を浮かべた。

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797高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:39:51 ID:l17.YzuE

「遍くん…」

「あ…」

あの後、電波の届く位置まで山を下るとそのまま警察に連絡し、事の顛末を説明するとあっという間にパトカーが来た。

到着した警察に小屋の位置まで案内し、綾音の死体を確認すると、その場で華は手錠をかけられ逮捕。

僕も重要参考人として警察署まで連行され、詳しい事情を根掘り葉掘り聞かれた。

何時間にも及ぶ調査を解放されると、そこにいたのは義母だった。

義母の顔を見るなり、僕の瞳からは涙が溢れて止まらなかった。

「ごめん…なさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

謝罪の言葉も同様だった。

そんな僕をそっと抱きしめてくれる。

「大変だったわね」

義母の胸中など想像するまでもない程のものだというのに、僕にはただ一言、温かい言葉をかけてくれた。

「うっ、あっ、あやっ、綾音はっ、もう…!」

嗚咽が止まらない。

「分かってる…。警察の方から少しだけ話を聞いているから」

義母にとって僕は本当の息子じゃない。

さらに言ってしまえば、唯一の血の繋がった家族"綾音"を奪った原因を作った人間だ。

恨まれたって仕方ないのに、仕方ないはずなのに。

それでも義母は温かい。

涙が溢れて止まらない。

疲弊し切ってしまって僕をそのまま車に乗せ、義母がそのまま僕を連れて帰る。

「…すん」

虚な気分で、止めどなく涙を流し続けていると、一度だけ義母が鼻を啜る音が鳴った。

罪悪感がこの上なくのしかかる。

家まで辿り着き、重い足取りで車から降りる。

「この後、病院に行って綾音の遺体を見てくるんだけど遍くんはどうする?疲れてるなら休んでていいのよ」

頭では綾音の遺体を見に行ったほうがいいとは分かってるのに、どうしようもなく無気力が体の自由を奪う。

「ごめんなさい、今は行けそうにもないや」

「そう。少しだけ冷蔵庫に食事を入れてあるからもし何か食べたくなったら食べて」

「うん…ありがとう」

「今は何も考えないで。体も心も今は安静にしなきゃ」

「はい」

何も考えるなと言われても無理な話だった。

目蓋を閉じれば、綾音が殺される場面が、何度も何度も何度も繰り返される。

終わらない責め苦。

地獄。

身体の中を駆け上がっていくような不快感が走り、慌ててトイレへ向かう。

798高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:40:33 ID:l17.YzuE

「ぅ…ぉぇええ…ぇぇぇ」

血の匂いが鼻にこびりついて取れない。

嘔吐が止まらない。

とてもじゃないが何かを口にすることなど出来ない。

嘔吐して

落ち着いて

横になって

目蓋の裏に焼き付いた光景が再生され

また嘔吐して

その繰り返しで、精神も胃もすり減っていく。

疲弊していく。

そうやって何時間も苦しんで苦しんで苦しむ。

もうどれだけ時間が経ったのかもわからない。

空腹なのに、生きる気力を失い、「このまま死んで仕舞えばいいのに」とベットに横たわっていると、トンッ、トンッ、と二度聴き慣れないノックが響き渡った。

「遍。入るぞ」

父だった。

仕方がないので無気力に倒れていた上体を起こすことにする。

「………」

口下手な親と口下手な子。

会話が弾むことは決してない。

そもそも用がないのに態々部屋に来るような人ではない。

その癖、黙ってるようじゃ何をしに来たのか分からない。

できることなら早く出て行って欲しい。

「綾音は…いつもお前と妙子に任せっきりだった。父親らしいことは何もできなかった」

そんな苛つきを察したのか、独白のように語り始めた。

「もっと言えば綾音と遍が抱えていた気持ちの葛藤すら気が付かなかった。親としてこれほど恥ずかしいものはない…済まなかった」

済まなかった。

その謝罪の一言で燃え尽きかけていた僕にもう一度、薪がくべられる。

「済まなかった?…一体何について謝ってるんだよッ…。何も出来ませんでしたの間違いだろう!?だから陳腐な謝罪の言葉を並べることしかできないんだよ!頭では謝るべきことなんて分かってないくせにさ!!!!」

八つ当たりもいいところだった。

父親に無様にぶつけたのは、全部自分自身に言いたいことだ。

最後の最後まで無様を晒しているのは僕の方だった。

「…こんなことが起きるなど夢にも思わなかった。今はそれを恥じている。遍…本当に済まなかった」

「だから謝るのをやめろよ!!!何について謝ってるのか分かってないのに赦してもらおうって気持ちだけで、上っ面だけの言葉を並べてるんだろ!!?」

「そう言われても仕方のないことだ。私は本当に最低な父親だ…。お前の目にもそう映っているのだろうな」

「…ッ、何しに来たんだよ!態々僕の部屋まで来て上っ面の謝罪と自己否定しに来たのかよ!?」

「…。そうだ」

「ッッッ!!!何か言い返せよ!!認めるなよ!!」

「遍。お前はなにも間違ってない。全て私が悪かった。何が、ではない。全て、全て私が悪かったんだ」

「ふざけるなよッ…!何が"全て"だよ。自分が何が悪かったか考えるのが面倒だからそうやって"全て"とか言って考えるのを放棄してるだけだろ?!」

「…父親失格だな私は」

それだけを言い残し、部屋を出て行こうとする。

「待てよッ…、本当にそんなことだけ言いに来たのか…?」

信じられないといった気持ちで呼び止めると、一度だけ足を止めてこう言った。

「遍…、こんなことがきっかけで言われるのは腹立たしいかもしれないが、お前が叶えたい夢を私はこれからどんなことをしても支えてあげたいと思う」

「ッッ!!今更なんなんだよ!!!出てけ!!」

まるで僕の夢を認めてもらうためだけに綾音が死んだみたいじゃないか。

ふざけるな。

こんな認められ方は望んでなんかいない。

僕の夢を馬鹿にするな。

綾音の死を愚弄するな。

…赦さない。

この日を境に僕と父の溝はもう決して埋まることのない決定的なものになってしまった。

799高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:40:55 ID:l17.YzuE

僕の中の怒りは業火となって一昼夜燃え続けたが、綾音がいない家を歩き回るたびにそれは鎮火していく。

無気力に過ごす日々はあっという間に師走を迎えた。

それでも心のどこかでは復学しなければと思うのに、学校なんてものになんの意味があるのだろうかと身体を縫い付ける。

カレンダーの日付は増えていくのに、彩音が殺されたのが毎日毎日、昨日のように思える。

いつになれば前に進めるのかな。

そうして十二月の初旬が過ぎようとした頃、事件性ゆえに直ぐには行われなかった葬式だったが、この頃になって綾音の葬式が漸く行われるになった。

何も変わらない無にも等しい非日常を繰り返してきた中で、唯一無ではない意味のある日。

黒装束に身を包み、綾音との別れを告げに行く。

棺桶の中で眠る綾音の顔は安らかとは言えないものだった。

多くの人が花を添え涙を流している中、僕一人だけ涙を流さずにぼーっとそれを眺めていた。

誰しもが涙しているというのに、一粒も涙が出てくる様子はない。

それはお経を唱えている間もそれは変わらない。

綾音が火葬場に運ばれた時でさえそうだった。

花を添え、別れを告げる。

「ごめんな…綾音」

不甲斐ない兄でごめん。

綾音の想いを受け入れることができなくてごめん。

綾音の思いに今まで気がつかなくてごめん。

一言で謝罪しても、謝りたいことは幾らでも出てくる。

これ以上ないくらい人生を悔やむ気持ちが湧いてくる。

綾音が火葬される間、別室で待機してた。

死因が死因ゆえ、あまり親族も呼ばず、本当に身内での葬式だった。

しばらくの間、待機してると綾音の遺体を焼き終わったと伝えられ、もう一度火葬場へと足を運ぶ。

ほんの数ヶ月までは隣にいて笑っていた義妹は、今じゃ骨だけになってしまった。

もう命の形ですらない。

この骸を骨壺に収める。

二人一組、箸で骨を拾い、骨壺へと入れる。

これを骨上げという。

これには故人が三途の川を渡り、無事あの世に渡れるように橋渡しをするという意味が込められているらしい。

それともう一つ。

遺された人たちが、故人が死んだとはっきりと理解し、けじめをつけるためにするのだと、葬式場の方に教わった。

僕は母と二人、綾音の骨上げをし、壺に綾音の骨を納めたとき、これまで出なかった涙が洪水のように溢れてきてしまった。

結局僕は最後の最後まで、綾音の死をどこか理解していなかったのだ。

800高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:41:15 ID:l17.YzuE


……
………


生気まで失いそうなほど泣いた後、どうでもよい問題にぶつかってしまった。

期末試験だ。

師走の半ば。

もうすぐ冬休みが訪れようとしているが、必ずその前に期末試験という関門があった。

それを受けなければ進級はできないことになっているらしい。

もう既に一月ほど学校には通っていない。

心が空っぽになった今、学校に通う意味も分からなくなっていた。

恐らくこのまま期末試験に行かなければ、二度と復学することもないだろう。

単に期末試験を受けるか受けないかということではなく、復学するかしないか、そういったどうでもよい問題なのだ。

少し考える。

惰眠を貪り、漠然と虚空を見つめ、死なない程度に胃袋に何かを詰める。

人間として死んでいるような生活。

屍は僕の方だ。

これ以上こんな生活を続けるなら死んだ方がマシだろう。

けれど僕には死ぬ勇気が無い。

ならば答えは一つだった。

実に一ヶ月ぶりに足を運んだ学舎は、期末試験初日という日を迎えていた。

教室に入れば空気が凍るのを感じる。

視線が僕を貫く。

けれどどうでもいい。

自分の席に着き、時間を待ち、テストを受け、家に帰る。

それを三回ほど繰り返せば、あっというまに冬休みだ。

また屍としての生活が始まる。

801高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:41:34 ID:l17.YzuE













聖夜が訪れる。














除夜の鐘が鳴る。














年が明ける。















間も無くしてまた学校が再開する。

再開された学校で渡されたのは赤点スレスレの紙の数々だった。

そこからはクラスの腫物として生きる日々。

まだ彼らは事態を知らない。

けれど数日不登校だったが急に復学した男子学生と突如として消えた高嶺の花と呼ばれる女子生徒。

それは彼らの好奇心を煽るものだった。

注目が絶え間ない。

どうでもいい。

どうでもいい。

…どうでもいいはずなのに、ストレスが溜まっていく。

802高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:41:53 ID:l17.YzuE

無自覚のうちに心が蝕まれていく。

遠くから

遠くから

小さく

本当に小さなものだが

何かの足音が聞こえる。

革靴でアスファルトを蹴るような音が。

訳も分からない足音が聞こえるようになった頃、高校から自宅へ帰ると、ポストに『八文社』と書かれた封筒が一通届いていた。

それを見たとき、急速に目が覚めるのを感じる。

間違いない。

選考結果だ。

ひったくるようにポストから封筒を取り出し、駆け足で自室へと向かう。

荷物を投げ捨て藁にもすがる思いで封を開ける。

何か一つで良い。

生きる理由になる何かが一つ、一つだけでもあれば。

ハサミなど使わず素手で不器用にちぎる。

「何か…僕に…ッ。………」



























しかしそこに書かれていたのは『落選』の旨を伝える文章だった。

803高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:42:11 ID:l17.YzuE

ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー


「遅いお兄ちゃん!」

「ごめんよ綾音。人混みがすごくてトイレに行くのも帰ってくるのも困難だったんだよ」

「折角お兄ちゃんと花火を観たくてお祭りに来たのに、これじゃ花火大会の意味がないよ!」

「意味がないは言い過ぎなんじゃあないかな?」

「お兄ちゃんがトイレに行ってる間に花火大会の花火が終わったんだよ?…それに何回も変な男に声かけられたし…」

「えっ?大丈夫だったかい綾音?」

「大丈夫だからここにいるの!全くそんな心配するならもっと早く帰ってきてよね」

「面目ない」



「お兄ちゃん…」

「ん?」

「来年こそ花火一緒に観ようね」

「うん、約束する」

「あ、そういえば射的の罰ゲームの内容まだ決めてなかったね」

「こらこら。最初に僕は罰ゲームは無しっていったじゃあないか」

「勝ち負けにリスクがなければ勝負なんて面白くないよ」

「はぁ…、無茶なお願いはやめてね」

「お兄ちゃん…これからもずっと傍にいてね」

「ん?それがお願い?」

「うん、そうだよ」

「なんだ…そんなこと。言われなくてもそのつもりだよ」

ずっと傍にいることなんて不可能だ。

いつかは僕らも別々の道を歩む時が来る。

ただ今は、純粋に綾音の喜ぶ顔が見たかった。

「分かってないなぁお兄ちゃん。ずっとだよずっと」

「はは、何回も言わなくても分かってるさ」

「むぅ、絶対分かってない。ずっと傍にいてってことはあたしがどんなに遠いところに行っても必ず着いてきてね。逆にお兄ちゃんはどこか遠いところに行っちゃダメだからね」

「後者はまだしも前者はありえるのかい?」

笑いながら問う。

「人生何があるか分かんないでしょ?もしかしたらあたしたちが想像もできないことが起きて離れ離れになるかもしれない」

人生何が起こるか分からない…か。

僕が高嶺さんと秘密の逢瀬をするような関係になるとは数ヶ月前の僕なら想像もできなかった。

逢瀬は少し言い過ぎかもしれない。

密会がせいぜい良いところだろう。

「今度こそ分かったよ。罰ゲームの内容はそれでいいんだね?」

「…なんか罰ゲームって言われると嫌々やらせてるみたいで嫌だなぁ」

「はは、ごめんよ。少し意地悪なことを言った。ずっと綾音の傍にいる。約束だ」

「ありがとうおにーーーーー




ーーーーーグシャリ





「え…?」

綾音の胸から刃が飛び出す。

付け根を中心にして赤が染まり、広がっていく。

「ダメじゃない。私以外の女の傍にいちゃあ…」

呪いが囁いた

804高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:42:29 ID:l17.YzuE














「ッ…はっ!!!」

硬い椅子に硬い机。

その感触に嫌というほど現実を教え込まれる。

どうやら悪夢を見ていたようだ。

いや、むしろ今の方が悪夢と言えるか。

脂汗が滲む。

ぼやけた視界を確認すると、教室には誰一人としていなかった。

「起きたか」

否、間違いだったようだ。

一人いたらしい。

背後から声がかかる。

「次の時間、移動教室だから早く移動しな。もうすぐ始まるぞ」

「ありがとう萩原さん」

久しぶりに声を出した気がする。

こうした萩原が気を利かせたときだけ僕は人と会話することができる。

そんな毎日じゃあ良くも悪くもならない、変わらない日々が続くのは当然か。

相変わらずどこからか足音が聞こえる。

コト

コト

コト

日に日に近づいてくるような大きくなるような、僅かに、ほんの僅かにだが迫りくるような感覚だった。

この足音が僕の足音と重なる日が来た時、どうなるのであろうか。

本人である僕ですら見当がつかない。

こんなことを考えても仕方ない。

荷物をまとめて移動することにする。

「あれ…。そういえば移動教室って、どこに行くんだろう」

805高嶺の花と放課後 第18話『スカビオサ』:2020/05/31(日) 11:42:47 ID:l17.YzuE

…。
……。
………。


放課後。

施錠係の義務として、最後の一人になるまで教室で残っていた。

誰もいなくなった後、重たい腕でノートと鉛筆を取り出す。

そこまでは良かった。

けれどいつまで経ってもノートを開けず、ペンすら握れない。

ボーッと机の上を眺めるだけ。

それだけで、あっという間に冬の景色は暗く闇に染まっていた。

何も考えない。

何も考えたくない。

誰かがどんなに辛いことも時間が癒してくれると言った。

そんなものは嘘だ。

日に日に苦しくなっていく。

静かな家に帰るたびに、もう妹がこの世にはいないんだと胸に強く刻まれる。

後悔で苛まれ続ける。

おまけに公募した小説も落選。

もう面白いと言ってくれる唯一の"読者"もいない。

怖くて筆が持てない。

筆が持てないなら想像すればいい。

僕の物語。

僕にしか書けない物語。

脳内には、ある一つの物語の構想が思いつく。

筆を取るのは怖いが、心を無にしてノートに世界を写しとればいい。

決心がつき、筆を取る。

「えっ…」

筆を持ちノートを開いた瞬間、頭の中の物語は白紙になった。

「まっておくれよ…今の今まであったじゃないかッ…なんで…なんでだよ!!!」

こんなことは今まで起きたことがない。

理解しかねる状況だ。

代わりにとつまらない物語を一つ想像し、書いてみようとする。

しかし筆がノートについた瞬間、つまらない物語すら

失ったものは妹だけじゃない。

恋人だけじゃない。

僕はもう…











物語を書けなくなっていたのだ。

806罰印ペケ:2020/05/31(日) 11:46:08 ID:l17.YzuE
以上で18話『スカビオサ』の投下を終了します。『スイセン』の花言葉は「もう一度愛してほしい」「私の元へ帰って」「報われぬ恋」などで、『スカビオサ』の花言葉は「不幸な愛」「私は全てを失った」などです。
カクヨムの方には17話をすでに投稿してたのですが、こちらに投稿できてませんでした。すみません。残り2話ももうじき出来上がるのでまた近いうちに投下します。

807雌豚のにおい@774人目:2020/06/02(火) 21:51:04 ID:ev..GJ7c
カクヨムで読んできました。
もうあまり活気がない中本当に「ヤンデレ」っていう言葉を濁してないような小説を投稿し続けてくれてありがとうございます。
こちらでも残りの2話、楽しみにしてます。
向こうでは書けなかったのでここで。
完結お疲れ様でした。

808罰印ペケ:2020/06/14(日) 22:09:20 ID:/peGHtq.
投下します

809罰印ペケ:2020/06/14(日) 22:10:18 ID:/peGHtq.
高校3年6月



妹が死んだ。



恋人が逮捕された。



小説が書けなくなった。



もう何もない。



僕には何もない。



けれど僕がどれだけ絶望しようと、慟哭しようと、残酷に時は進み続ける。



終わらないと思った冬は、気がつけば三寒四温に変わり、怒りを覚えそうな程美しい桜が咲き誇る。



けれどそんな桜もいつまでも咲いているわけもなく、勝手に散り落ちた花びらを踏むたびに、幾度となくざまあみろと罵った。



そんなものはただの八つ当たり。



自暴自棄。



毎日何故僕だけがのうのうと生きているのか、疑問を投げかける日々。



そうでもしないと、もう頭がおかしくなる寸前だった。



もういっそ狂ってしまいたいと、何度ものたうち回った。



時が心を癒す様子など全く見れず、寧ろ時が経つたびに、己の中の限界という足音が次第に大きくなっているのが分かっていた。



ガラス越しに世界を見下ろしても、死神には逢えやしない。



なにかきっかけを探し続ける日々を繰り返していた。



ガラスを粉々に割るきっかけを。



けれど消耗していく日々は決して劇的なものは起きず、起伏のない平原がいつまでも、地平線まで続いていた。



僕は死ぬ理由を探すために生きていた。



何か一つ、嫌なことがあれば死ぬ理由として簡単に採用する。



けれど何もないんだ。



良いことも、悪いことも。



だから筆が進まなくなった僕は、代わりに半生を振り返ることにした。



もう物語を綴れなくなってしまった僕が、最期に書く物語。



きっかけを作るための物語。



それがここまで書いてきた不知火遍の物語。



もう僕の心はこれ以上無く、傷付き、歪み、悲鳴を上げている。



憎悪と虚無と絶望と喪失と、そして愛情が、反発し合い今にも心臓が裂けそうな気分だ。

810高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:12:44 ID:/peGHtq.
最後に今の僕の無様で、酷い有様を語るとしようか。

高嶺華が殺人を犯し逮捕されたというのは、もうクラス中、否、学校中に伝わっていた。

太田先生は居なくなった高嶺華を『家庭の事情で』とはぐらかし、クラスのみんなに説明をしていたが、殺した人も殺された人もこの羽紅高校の生徒だ。

好奇心に駆り立てられた人にいつまでも隠せるわけがなかった。

『高嶺の花が下級生の女子生徒を殺害した』

馬鹿馬鹿しくも真実である噂は、あっという間に全校生徒の耳に届いた。

女子生徒、不知火綾音が誰にとは言ってはいないらしいが、殺されたというのははぐらかさず、クラスメイトに伝えられたらしい。

真実を隠すなら隠す、話すなら話す。

学校側も徹底すればいいものの、そういった曖昧な対応が、噂を生み出したと言っても過言ではない。

おまけに高嶺華は、この学校では有名人だ。

一時はその美貌と人徳で『高嶺の花』と多くの生徒から憧れられ、そして想いを寄せられていた。

それら全て押し除けて、付き合ったというのが無名の男子生徒であったことも、ある意味有名な話だろう。

高嶺の花が殺害したのはそんな無名の男子生徒の妹。

これだけでもう外野から見たら、随分と滑稽な物語に映るだろう。

兎にも角にも、この学校中にはもう事実が知れ渡っている。

誰しもが僕のことを好奇心が宿った瞳で僕を見るのをやめない。

少し前までは『高嶺の花』と交際したことによるやっかみなどの嫌がらせを受けていたが、今ではもうさっぱりだ。

きっともう関わらない方がいい奴と思われている。

そもそももう嫉妬する理由もないだろう。

どんなに美しくても人殺しになってしまえばそこでお終い。

もう誰も僕に嫉妬する理由なんてものは無かった。

高嶺華が殺人の容疑で逮捕されたのが昨年の12月のこと。

あれから数ヶ月に渡り、裁判が行われた。

高嶺華側は正当防衛の主張を行った。

正当防衛を証明するための僕は証人として裁判所に召喚された。

皮肉な話だ。

身内が殺されたというのに、殺人鬼の無実を証明するために証人として召喚されたのだから。

『良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います』

そう宣誓をさせられている手前、嘘を言うわけにも、真実を偽るわけにも、隠すわけにもいかなかった。

確かに不知火綾音は、高嶺華に襲いかかりましたと、言わざるを得なかった。

もし華が無実になったら、僕はどんな顔して彼女の前に立てばいいのだろう。

そんな不安が頭によぎった。

しかし不安が杞憂に変わったのは、検察が証人として用意してきた人物が現れてからだった。

811高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:14:20 ID:/peGHtq.
「…えっ?」

その目を一度は疑った。

しかしどんなに目を疑おうとそこにいたのは間違いなく、かつての罪悪感の中に埋もれた少女。


小岩井奏波だった。


「住所、氏名、職業、年齢は証人カードに記載された通りですね?」

「はいその通りです」

「宣誓書を朗読してださい」

「宣誓。良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」

誓いの後、彼女が証言したのは、高嶺華が己にした残虐な行為の数々、そしてその心の内にある残虐性についてだった。

そこで明らかに裁判の風向きが変わった。

もう一度、僕を証人として彼女の残虐性についての証言を求められた。

僕は極力、華と目を合わせないようにした。

でなければ真実を語れないと思ったからだ。




「判決。被告人を懲役10年に処する」




それは決して軽くはない判決だった。

その判決に彼女がどういう表現をしたのか、目を逸らし続けていた僕には分からなかった。

不服申し立てで第二審に行くこともできたこであろうが、華はそのままその罰を受け入れた。

裁判を終えたあと、数ヶ月ぶりに見る少女が外で僕を待っていた。

「あっ…不知火くん…」

「…。…やぁ小岩井さん。久しぶりだね」

再会したのちに交わされた会話は、小岩井さんが高嶺華にどの様に痛めつけられ、恐怖を与えられ、精神的に追い詰められたか、そんな話ばかりだった。

きっと共感してくれる、そういう思いで僕に話してきたのだろう。

けれど実際は僕ですら思ってもみなかった感情が湧いてきた。

僕は小岩井さんの話を聞いて、何故か苛ついてしまったのだ。

「あのね…不知火くん、今もう一度あの時と同じ想いを伝えたら、なんて答える?」

震えた瞳も声も、この時の僕を何故だか不快にさせるものだった。

「それは…ごめん。結局僕はあの時と同じ答えになるよ。恋人が殺人鬼になっても別れたわけじゃないよ」

「で、でもこんなのもう関係なんて破綻している様なものなんじゃあ…」

「…うん、これはちょっと言い訳としては意地悪すぎたかな。本音を言うと、もう疲れたんだ。誰かを愛するとか、愛されるとか」

「あっ…ごめんなさい…。こんなこと裁判の後に聞くことじゃなかったよね〜、あはは…」

「…小岩井さんならもっといい人見つかるよ」

無責任な言葉だ。

僕は知らないどこかの誰かに小岩井さんを押し付けようとしてるのだから。

最低だな。

「…。…うん」

「…萩原さんが君のこと心配してたよ。学校にまた戻りなよ」

「そう…なんだぁ。今はまだ怖くていけないんだけど、私頑張ってみるねぇ」

「きっと、僕とは違って君のことを待っている人がたくさんいるよ…」

「うん…」

また無責任な言葉で僕は、彼女を慰める。

別れ際の彼女はどこか、弱々しくも決心がついたような表情をしていた。

812高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:14:49 ID:/peGHtq.
その後、小岩井さんが復学したのは、後1日でも休めば出席日数不足になるといった瀬戸際の日だった。

結果から言って仕舞えば、小岩井さんはそのまま無遅刻無欠席で無事進学できたとさ、めでたしめでたし。

文化祭の準備期間で仲良くなった桐生大地は、結局高校3年の今に至るまで言葉を交わしていない。

同様に高嶺の花との交際で仲違いした友人の鈴木太一ともだ。

たまに萩原紗凪が一言僕に声をかけるだけ。

小岩井奏波とも話はしていない。

そもそも、誰かと話すと言うことをもうしていない。

ただの腫物に誰が近づこうか。

今では孤独を支えてくれる恋人もいない。

僕はずっと不幸の底にいる。

恋人が義妹の心臓を貫いた日から、ずっと。

そこから堕ちることはないが、這い上がる気配もない。

絶望の淵を今日まで歩いてきた。

これからもきっとそうだろう。

地獄はもう…、終わらない。








さてこれが悲劇の全容だ。

物語はもう終わる。

最後に僕の最も愚かで滑稽な告白をしようと思う。

今でも僕は高嶺華を愛している。

あんなにも苦しめられたのに、最愛の妹の命を奪っていったのに、結局思い出すのは彼女と出会ってからの良き日々なんだ。

憎くて憎くてしょうがないのに、それと同じくらい彼女のことを愛してしまった。 

鮮烈な記憶が色褪せない。

そうだな

この滑稽で惨めな物語にもタイトルは必要だろう。

僕は最後にこの物語に、ノートの表紙にこう名を授けた。



『高嶺の花と放課後』

813高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:16:20 ID:/peGHtq.
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「これでよし…」

ノートを閉ざし、そのまま机の上に置いておく。

さて

僕自身の物語を終わらせよう。

批判されても構わない。

小説家として先ずは、誰かに読まれるのが、第一歩だ。

遺書と相違ないノートを残し、教室を出る。

茜色に染まる廊下を歩けば、色々なことを思い出す。

一歩

また一歩と踏み締める。

そうやって進むと、やがて階段に辿り着く。

下へ続く道。

上へ続く道。

最早今の僕には迷いは無く、階段に足を踏み入れる。

一歩

また一歩と踏み締める。

踊場で一度振り返り、廊下を見下ろす。

上へ続く道。

これが僕が選んだ道。

後悔などない。

逆に後悔しかないのかもしれない。

それでも後戻りという選択肢はない。

もう一度、上を目指して歩みを進める。

一段一段、登る度に自分の行ってきた選択を思い返す。

もしもの世界を創造しては、破壊をするを繰り返す。

屋上への最後の踊場。

見上げれば夕陽が扉の窓から突き刺さり、眩しさに目が眩む。

それでも登る。

もう振り返ることもしない。

引き返さない。

未練なんてない。

重く固い扉を開けば、ギギィと錆びた音が響き渡る。

814高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:16:48 ID:/peGHtq.
茜色に照らされたアスファルトは眩しく、空に散りばめられた雲はそれだけで美しかった。

今となっては当たり前だった全てが、なにもかもが美しく感じる。

「綺麗だ…」

なんの皮肉もなしに心からそう想う。

屋上の端、フェンス際まで歩いていく。

運動部の掛け声がそこら中から響き渡ってくる。

彼らは…、彼女らは何か目標があるのだろうか。

勝ちたい大会があるのだろうか。

それとも負けたくないライバルがいるのだろうか。

目標はなくとも"楽しい"という気持ちが胸に部活動を励んでいるのだろうか。

「きっとそれを青春と呼ぶのだろうな…」

運動部だけじゃない。

文芸部や無所属でも放課後、仲のいい友人と遊んだり寄り道したり、あるいはアルバイトをして日々を充実させてるかもしれない。

「いいなぁ…」

妬ましい気持ちが湧いてくる。

けれど『高嶺の花』と呼ばれる美少女と二人きりで、秘密の放課後を過ごすことだって青春と呼べた日々だったのではないか。

嗚呼、紛れもなく心躍った日々だった。

瞳を閉じる。

目蓋の裏には、彼女と出会ってからの日々、彼女と出会う前の日々が焼き付いている。

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高校1年 4月

高校生になった。

羽紅高校の生徒になった。

なぜ羽紅高校の生徒になったのか。

それは家から徒歩で通える高校だったからだ。

それ以上でも、それ以下でもない。

何となくで中学を卒業し、何となくで高校を選び、何となく小説家を夢見る人生。

心の中では、そんなもの何の意味があるのだと問い続ける。

きっとこの高校生活も何となくで終わるんだろうな。

そう思っていた。

「なぁなぁ、見たかあの子」

不意に話し声が聞こえた。

「あの子って何だよ」

聞けば友人同士の会話のようだ。

入学して間もないというのに、"普通"の高校生はもう友人を作っている。

815高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:17:19 ID:/peGHtq.
「ほら、C組にいるじゃん。めちゃめちゃ可愛い子」

「あー、あの子ね。高嶺華っていうらしいよ」

「何でもう名前知ってんだよ」

「だってあの見た目で高嶺華だぜ?まじの『高嶺の花』だってもう噂になってるよ」

高嶺の花…、か。

きっと僕には縁遠い人なんだろうな。

男子生徒が挙って噂する美少女がどれほどのものか気になりはしたが、野次馬にすらなれない臆病者は、高嶺の花を見ることさえ叶わない。

路傍の石と高嶺の花。

なんだか対極にいるような存在だ。

僕が今まで歩んできた人生とその子が歩んできた人生。

どこで差がついたんだろうな。

「はは…」

こんなこと考えていたって仕方がないじゃあないか。

僕には本がある。

小説がある。

物語がある。

それはこれまでの人生を、否、これからの人生も満たしてくれるものだ。

夢に向かって夢を描いていく。

いつか小説家になる。

それだけきっと僕は生きてて良かったと思えるはずなのだから。

改めて自分の夢を見据える。

決意と志を胸に、気持ちを改める。

廊下を歩く自分の歩みはまるで、夢へと繋がっているような足取りになる。

創作意欲が掻き立てられていると、廊下を歩く僕と一人の女子生徒とすれ違った。

「!」

そんな足取りが一瞬のうちにして止まる。

夢への道に壁が立ちはだかったからではない。








ただ美しかったからだ。









刹那の間に心が惹かれてしまった。

816高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:18:00 ID:/peGHtq.
考えるまでもなく、彼女が『高嶺の花』だと理解した。

すれ違った彼女を視線で追うように振り返る。

今となっては顔を見ることは叶わないが、後ろ姿にさえ美しさを覚える。

何故だか分からない。

そうか。

そうか…。

あれが『高嶺の花』

僕には手が届くわけもない。

誰しもが彼女に瞳を奪われてる中、僕もただ瞳を奪われていた。

知らず知らずのうちに夢中になっている僕に気づく人すらいない。

まさに路傍の石と高嶺の花。

この状況がそれを言い表していた。

急に恥ずかしさが芽生えてきた。

いつまで女子生徒の後ろ姿を眺めているのだろう。

これじゃあまるで、変態だ。

煩悩を振り払うように、身体の向きを元に戻し廊下を歩む足を再開する。

彼女は確かに美しかった。

正直に言えば、妬ましいとも思った。

羨ましいとも思った。

純粋に彼女は僕よりもずっと、ずっと高い存在なのだと分からされた。

廊下ですれ違っただけなのに。

そうか。

やっと分かった。

小説家になる。

一見、明確な目標のように見える夢だが、これも曖昧なものだったと今気がついた。

僕は…

僕は人を魅了するような物語を書きたい。

彼女が容姿で人々を魅了したように、僕も小説で人々の心を動かしたい。

場所は違くても、彼女のような高い位置へ努力したい。

これ以上ないくらいに、創作意欲が爆発する。

早く書きたい。

僕の物語を。

僕だけの物語を。

何となくで高校生活を終わらせてたまるのものか。

今は人の目が気になって書くことはできないが、本を読むことならできる。

溢れる創作意欲を読書で落ち着かせようと、教室へ戻り、持ってきていた本を取り出す。

「あれ?君本読むの?奇遇だな!おれっちも本読むんだよね」

「そうなんだ。僕は不知火遍。君は?」

「おれっちは佐藤太一って言うんだ!よろしくな遍っち!」

前向きな気持ちがきっとこういう交友関係を導いてくれたのだろう。

「よろしくね、…太一」

いきなり下の名前で呼ぶのは照れ臭いが、彼も下の名前で呼んできたので、歓迎の意思を示す。

これからも、長く交友関係が続けられるように…

817高嶺の花と放課後 第19話『シオン』:2020/06/14(日) 22:18:33 ID:/peGHtq.
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初めて彼女を見た日、僕は絶対に彼女に届かないと、縁がない人間だと思った

けれどそれは本心を偽るために、格好つけて
達観した気でいただけ。

心の奥底では、ガラス越しの玩具を眺める子供のように、どこかで本当は欲しがっていたんだ。

本当に僕は何にも分かっちゃいなかったんだ。

最初から、…最期まで。

ヒュルリ

屋上に風が吹き抜ける。

気持ちがいいな。

何でもないことが美しく感じるのは、これで最後だと覚悟しているからだ。

生が本能を働かせ、未練を残そうとしている。

何もかも美しく感じる今の僕が、唯一醜く感じるもの。

意地汚さ。

腰を上げて、制服に付いた土埃を払う。

綾音は生まれ変わりを信じていたようだが、僕の方はどうだろうな。

こんな人生を繰り返すぐらいなら輪廻転生なんてしたくないし、もし"彼女"と釣り合うような人間になれるならそれも良い。
 
フェンスにしがみつき、上へ上へ、登っていく。

部活に青春を、情熱を捧げて夢中になっている人たちは、茜色で強く照らされた僕には気がつかないだろう。

フェンスを乗り越え、身体を向こう側へと運ぶ。

辛うじて足一つ分の幅の縁が、今の僕の命を繋ぎ止めている。

けれど一歩でもこの黄昏に足を踏み出せば、僕はきっと明けない夜を迎える。

それでいい。

もういいんだ。

疲れたんだ。




だから…













「さよなら」

818罰印ペケ:2020/06/14(日) 22:20:58 ID:/peGHtq.
以上で19話の投稿を終了します。続けて最終話を投下します

819高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:25:06 ID:/peGHtq.
「でさ、彼氏とはどこまでいってるの?」

昨日、高校からの友人から数年ぶりに「会って話そう」と誘われた。

お昼に待ち合わせ、軽く百貨店で買い物を楽しんだ後、休憩がてら軽食を食べるためにカフェへと寄り、ようやく腰が落ち着いたころにそんな質問が飛んできた。

「あ?なんだよ、どこまでって」

「しらばくれちゃって。そんなの決まってるじゃない、セッ……ごめん」

これ以上何も言わせまいと睨みを利かせると恵は反射的に謝罪をした。

しかし相変わらずその瞳には、好奇心が宿ったままで、答えなければ話が進まないことは見え見えだった。

「…別に、そんなのとっくの昔にやってるよ」

「えええ!そうなの?!週何っ?週何っ?」

「うっさいな…。…月一くらいだよ」

「えー!あーでもまぁ確かに世間一般からしたら少ない気もするけど、あの不知火くんと紗凪だもんねぇ。むしろ多い方と評価すべきか」

「ああ!もう、だから嫌なんだよこういう話。それより同級生の連中には言ってないよな?あたしと不知火が付き合ってんの」

「流石に言ってないけどー、紗凪?まだ不知火くんのこと苗字呼びなの?」

「…別にいいだろ、むこうも名字呼びだし…」

「うっっっわ、淡白〜」

「いいだろっ!あたしたちにはあたしたちのペースがあるんだよ!」

「ペースって言ったってあんたたちもう何年付き合ってんの?」

「えー…っと、大学4年の秋くらいだったから丸々3年くらいか…な」

「3年も付き合ってて名字呼びしてるなんてどうかしてるよ!本当に付き合ってんの!?」

「あー、煩い煩い。んだよ、じゃあ『ダーリン♡』とでも呼べばいいのか?」

我ながら気色の悪い声が出たと思う。

「ぷっ、あははははは!似合わなー!あはははははは、お腹痛い!」

「…ころす」

「ひひい、まって、謝るから!謝るから!謝…ぷっ、あはははははははは!」

「ちっ、人の事馬鹿にしやがって。そーいうお前の方は、どうなんだよ?」

「聞いてよーそれがさー、ついこないだ別れちゃってさ!」

「またかよ…あたしたちが付き合ってる間に何人取っ替え引っ替えしてんだ?」

「えーっと、まってね…たかくんでしょー?ひろくん、ふみくん、さとる…四人かな?」

「…呆れた。何となく高校の頃からそうなるとは思ってたけど男癖悪いなぁ…」

「違うんだって!こないだたかくんと別れたのだって向こうが悪いんだよ!?」

820高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:25:42 ID:/peGHtq.

「あーはいはい、どうせ『部屋でタバコを吸うのをやめてくれない』とかだろ?」

「違うもん!たかくんはタバコ吸わないし!こないだ私の誕生日だったんだけど誕生日ケーキにね?モンブラン出してきたの!!」

「だから?」

「だからじゃないよ!紗凪も知ってるでしょ!?私モンブラン嫌いなの!なのにそんなこと知らないで『ハッピーバースデー』だって!?彼女の嫌いなもの普通誕生日に出す!?」

「…もしかしてそれが別れた理由?」

「そうだよ!酷くない?」

「…ちなみに彼氏さんに教えたことあったの?モンブランが嫌いなこと」

「…ううん?でも、普通言わなくても彼女の好きなもの嫌いなもの分かってるものじゃない?」

地雷女だ。
 
十年来の親友を前にしてそんなことを思わざるを得なかった。

「…はぁ。喧嘩するならまだしも別れる必要ないだろ。いつまでもそんなことやってると婚期逃すぞ」

くだらないと言いかけた口に、珈琲を含む。

「…ぶぅ、うるさいなぁ。って、紗凪と不知火くん結婚するの?」

口に含んだ珈琲が吐き出される。

「…うわっ!紗凪汚ーい!一体何歳よ」

「っけほ。うっさい!お前と一緒の二十五歳じゃ。大体なんであたしたちが結婚する話になってんだよ」

「え?だって婚期ーなんて話し出したから、もう射程圏内なのかなって。ほら同棲もしてるんだし」

「今はまだ結婚とかそんなの考えられる状況じゃねーよ。これから作家として売れるかかかってるだから」

「あ、作家といえば、読んだよ!不知火くんの処女作。意外と面白かったし、重版も決まったみたいじゃん!」

「ありがたいことになぁ。正直贔屓目無しに編集者としてのあたしが見ても面白いと思うし、後はメディアを通してどこまで認知させるかって所が焦点だと思ってるんだよね」

「彼氏の作品を贔屓目無しに見れるの〜?」

「見れるんだよ!ったく隙あらば直ぐおちょくろうとするんだから。ホントそういうの高校生の頃から変わんねーな」

「そーだよ!」

「開き直るな」

「話変わるんだけどさ!」

本当に忙しない親友だ。

「紗凪と不知火くんって何で付き合い始めたの?」

「何でって。…まぁ、偶々研究室が同じになって、それでアイツから告白された…からかな。なんだよ!」

親友の顔が腹の立つものに変わっていく。

821高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:26:22 ID:/peGHtq.

「いやぁ、不知火くんもやりますなぁ。紗凪と付き合いたいから同じ研究室行くなんて〜」

「なっ、だからちげーって!偶々だ!偶々!…多分」

「でもなんで不知火くんは紗凪が好きになったんだろ?」

「あ?」

「わー!違う違う!紗凪を馬鹿にしたわけじゃないんだけど、ほら二人って高校の時はあんまり絡んだことないでしょ?」

「あー…まぁ。…色々あったんだよ、色々…な」

「なになになに?!同じ研究室で日々を送るうちに芽生えたラブなの?!ランデブーなの?!」

「うっさい!その馬鹿丸出しの質問やめろ」

「ねー教えてよー!教えて教えて!」

「もう小学生かよ。人様には言えない色々があったの!察せ!」

「…ふぅ〜ん」

ニヤニヤとした笑みを浮かべてる。

殴りてえ。

「…なるほどなるほど。不知火くんと紗凪はあんなことやこんなことがあったのね〜」

「それ本当に高校の奴らに言いふらしたらただじゃ置かないからな?」

「嘘嘘!言わない!言わない!ってかあの不知火くんだし、ちょっと言いづらいっていうか…何というか…」

「はぁ…そんな変な空気にすんなよ。あたしは今の関係に満足してるんだから」

「うっわラブラブかよ!リア充かよ!爆発しろ!」

「はいはい、いつか爆発してやるよ」

「あはは…。…あのさ、華ちゃんってあれからどうなったの?」

「どうなったって言われてもな…」

「ずっと気になってたんだけど分からずじまいで、当事者の不知火くんの彼女の紗凪なら何か知ってるかなって……」

「…もしかして今日呼んだ理由はそれか?」

「あーいや!そうじゃないんだけどね!あははは」

相変わらず嘘が下手な友人だ。

「正直、あたしも気を遣ってそんなに深くは聞いてないぞ。まぁポツリポツリと聞いた話だと、懲役10年だって」

「10年…」

822高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:27:30 ID:/peGHtq.

「でもまぁ模範囚とかだと大体刑期の三分の二ぐらいで仮釈放とかされるみたいだけど」

「だから、華ちゃんが模範囚だとしたら10年の三分のニだから6.666666666666……」

「だからその馬鹿丸出しの年数やめろ。普通に七年とかでいいだろ」

「七年っていうともしかして仮釈放の時期ってそろそろ?」

「…かもな」

感情を抑えきれず、どうしても雑な返事をしてしまう。

「…あー。やっぱり、紗凪的には微妙?」

流石の恵も、今の感情の昂りは察したようだ。

「…そりゃそうだろ。彼氏に一生心に遺る傷を残した上に、妹を殺されてるんだぞ。正直、模範囚だろうがなんだろうが釈放されて欲しくない。例えそれが旧友だとしてもだ」

「そっか…。正直申し訳無いけど私はまだ実感がないんだ。あの華ちゃんが人殺しなんて。何かの間違いなんじゃないかって」

ドンッ

間違いなんて聞いて、堪えきれず机を叩いてしまう。

「間違いなんかじゃねえよ!…あ、いやごめん」

「…あはは、いいのいいの。私部外者だしね…」

「間違いなんかじゃ……ないんだよ。あたしはずっとアイツがどんだけ苦しんできたか側で見てきたんだから」






そうどれだけ苦しんでるか、ずっと見てきた。





それこそ高校の頃は絶望しきって今にも折れてしまいそうな、弱りきった姿。

別にその姿に庇護欲が唆られたとかそんな事はない。

ただ…、ほっとけなかった。

時々だが一人じゃ歩けなさそうなアイツを一人で歩けるようになるまで肩で支えてやった。

少しずつだけどアイツの歩みが力を覚えて、なんとか一人で歩けるようになった頃、卒業式を迎えていた。

823高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:27:58 ID:/peGHtq.

当日の朝、無機質な白い封筒に白い手紙、そして「式の後、屋上で話したいことがある」とだけ書かれた文章。

直感でアイツと分かった。

式が終わった後、友人との別れを悲しみ再会を誓う。

そして、もう一人。

別れというより巣立ちを見守るようなそんな気分で屋上へ向かう。

扉を開けば、弱々しくも自分の力で立っているアイツが居た。

「やぁ、萩原さん」

「よう不知火」

「来てくれてありがとう。萩原さんの貴重な時間を取って、なんだか申し訳ないな」

「ああいいよ別に。気にすんな。それで?話って」

「一言だけどうしても伝えたかったんだ」

心臓が一度高鳴る。

「…なんだ?」

「ありがとう。命を救われた」

アイツはそのまま深く頭を下げた。

「…あー、いや気にすんなよ。あの日あの時のあたしの気紛れだ。恩を感じる必要なんてないよ」

何故だか分からない失望したようなそんな気持ちが湧いてきた。

アイツはもう一度顔上げて、一度も見たことない笑顔で

「ありがとう」

そう言ってきた。

「なんつーか…頑張れよ不知火」

あたしは雛鳥が巣立つ姿を見て安心し、そのまま屋上を後にした。

けれど安心したというのは自分を偽るための嘘。

本当はその場からさっさと居なくなってしまいたいと思っていた。

「…あー。そういうことか」

自分が何故失望したような気持ちを抱いたのか。

「卒業式の日に女子高生すんなよな…」

アイツを支えているうちに、いつの間にか惹かれてしまっていたことにようやく気がついた。

だけどアイツがどういう経緯で苦しんできたか、知っているからこそ打ち明けられない秘めた想いとなるはずだった。

824高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:28:38 ID:/peGHtq.
本来なら。

今生の別れとも覚悟したはずなのにまさか、一年も満たないうちに再会を果たすとは思わなかった。

まさか同じ大学の同じ学部、果てには同じ学科とはな。

「それに不知火が洗脳していた、なんて馬鹿げた噂が流れてたが、逆だ。"アイツ"が不知火を洗脳していた」

「えっ…」

「これは付き合ってから分かったことだけどな、不知火の身体は火傷の跡や切り傷の跡が大量にあったんだよ」

「それってどういう…」

「つまり、高嶺華は自分を愛してくれるように、気に入らないことが起きるたびに何度も何度も身体を痛めつけ、"高嶺華を愛さなければ痛い目に合う"ってマインドコントロールされてたんだよ」

「一番むかついたのは初めてやったセックスの時だな。『ありがとうございます』って…。いやなんでもない忘れてくれ」

しまった。

気まずそうな恵の表情を見て、余計なことを言ったと思わざるを得ない

「ったく。忘れろって言ったのにそんな表情すんな」

恵の頰をつねる。

「いひゃい、いひゃい、いひゃい!」

学生の頃によくやってたことを思い出し、思わず笑ってしまった。

「むぅ…痛いよ紗凪!」

「あはは、ごめんごめん。今のはやりすぎたな」

「不知火くんにもそーやってDVしてるんでしょ、暴力女〜」

「あいつにそんなことするわけねぇだろ」

「うわ〜、言い切るなんてやっぱ熱々なんだね紗凪と不知火くんって。3年も付き合ってしかも同棲してこれだもんなぁ〜」

「同棲は関係ないだろ」

「あるよ!大いにあるよ。やっぱ付き合いたての頃はさぁ、相手の良いところしか見えなくて好き好き好き〜ってなるけど、同棲した途端、相手の嫌なところばっかり目が付くでしょ」

「そうか?」

「分かってないのはそれだけ紗凪と不知火くんがラブラブだって証拠だよ!…はぁーあ、まさか紗凪から惚気話されるとは思わなかったなぁ」

「あ?どういう意味だ?」

「もー、そうやってすぐ怒るんだから!よーするに、お幸せにってこと」

「へ、言われなくても幸せになってやらぁ」

そう。

不幸のドン底にいたあいつを今度は幸せにしなきゃいけない。

あたしが幸せにするんだ。

825高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:28:59 ID:/peGHtq.
恋人の事を思い出すと、同時に恋人にした『夕飯までに帰る』と言った約束も思い出した。

慌てて腕時計で時刻を確認する。

「あ、もうこんな時間か。そろそろスーパー行って夕飯の買い物しないと」

「え?紗凪料理してるの!?」

信じられないものを見るような目でこちらを見る。

…むかついてきた。

「そりゃするだろ、彼女だし」

「…はぁ〜、やっぱ恋って乙女に変えるんだねぇ」

「…取り敢えず殴っていいか?」

「わー!暴力反対!」

「…はぁ、ったく。でも今日は会えて楽しかったよ恵」

「ツンデレのデレが出た」

「じゃ、伝票置いてくわー」

「ぁぁん!冗談だって冗談!って本当に行っちゃうの!?」

「あんだけおちょくったんだから珈琲ぐらい奢れ」

「う〜分かったよ。でも会計くらいちゃんと済ませてからバイバイしようよ」

「しょうがねぇなぁ」

そう言って恵は高級ブランドのバッグから高級ブランドの財布を取り出す。

一体、歴代の彼氏たちにどれだけ貢がせてきたのやら。

でもそういった身に着ける物が、身に纏う服が、身を整える化粧が、あの頃からどれだけ時が経ったかを感じさせる。

「さっ、じゃあ此処でお別れかな?」

「あぁ。本当に今日は会えて良かったよ恵」

「私こそ久々に紗凪に会えて楽しかった!」

「また暇な時にでも会おうな」

「絶対だよ!約束だからね?」

「あーはいはい、絶対絶対」

そんなに約束なんかしなくてもどうせまた会えるだろ。

そう思える友人がいることは、きっと恵まれてるんだろうな。

「バイバーイ!」

「あぁ、またな」

何だか気恥ずかしくなり、ぶっきらぼうな別れの挨拶をする。

「さて、と。夕飯なに作ろうかな」

恵が言ってたようについこないだ重版が決定した。

そのお祝いをしていないことに気がつく。

「…まぁお祝いを兼ねてハンバーグでも作るか」

826高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:29:18 ID:/peGHtq.

……。


「思ったより時間かかっちゃったな」

スーパーで買い物を終え、出てくる頃にはすっかり街は茜色に染まっていた。

挽肉やら野菜やらをビニル袋に抱えて、急ぎ足で帰宅をする。

ふと、目に入る路地。

「…遅くなっちまったし、近道していくか」

本音を言うとあんまりこの近道は好きではない。
   
辛うじて道と呼べる幅はあるが、街灯はなく、日が沈んでしまえば、深い闇包まれるからだ。

けれどここを通れば大幅に帰宅時間を短縮できる。

今は夕日が沈みかけてはいるがまだ明るい。

ギリギリの判断で近道を行くことを選ぶ。

「こういう時間帯ってなんていうんだっけな…。確か逢魔時って言ってたっけな、あいつ」

逢魔時。

昼と夜の境目、黄昏時。

読んで字の如く、魔物や妖怪に逢いそうな不吉な時間帯。

あるいは災禍が招かれる時間帯。

そんなことを言ってたような気がする。

「昔に国語の授業でそんなことも習った気がするけど、あいつと付き合ってから覚えた言葉の方が多いなぁ」

そんなことをしみじみと思う。

細い路地を突き進み、恵との会話を思い出す。

「いい加減四年目になるし、呼び方変えた方がいいのかな」

慣れてしまったから今更疑問に思わなかったが、今一度考え直すとおかしな事ということぐらいはわかる。

「あまね…いや違う。アマネ、うーん。遍…ただいま遍。…うん自然だ」

驚くかな、あいつ。

少し恥ずかしいけど、あたしだってそろそろ下の名前で呼ばれたいし。

付き合ってもう3年だ。

うんそれがいい。




パキッ




「ッ!」

背後から枝が割れる音がする。

慌てて振り返るが特に何かがいる様子はない。

けれど薄暗さと不気味さが相まって、恐怖が背筋を伝う。

「…野良猫か?」

あんまり幽霊の類いを信じちゃいないがそれでも怖いものは怖い。

刻一刻と日の入りが迫っているので、急いでこの道を抜けることにしよう。

「絶対、今日こそ言ってやる。ただいま遍って」

827高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:29:42 ID:/peGHtq.
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「遅いな荻原さん」

集中の海から上がると、もう既に日が沈んでることに気が付いた。

恋人の帰りが遅く、心配する。

一度ノートパソコンを閉じて、煙草を手に取る。

そのままベランダに出ると、随分と冷え込んだ空気に身を細める。

まだ冬と呼ぶには早いが、すっかりと紅葉に染まった季節だと、日が沈みきってしまえば空気は身に染みるほど冷たくなっていた。

恐る恐る口に加えた煙草に火を付ける。

「…ふう」

夜空をぼやかすように、煙を吐く。

寂れたこの街は、明かりが少なく夜空の星が、都会よりは綺麗に写る。

とはいえ、都会と比べればマシ、といった具合なのだが。

「…嗚呼、オリオン座だ。もうそんな季節か」

強く光る四つの星で象られた体と、それを結ぶ帯を表す三つの星。

間も無く冬の訪れる、その報せだった。

「確か荻原さんに告白したのが三年前のこんな季節だったような気がする」

あの頃。

恋人と妹を同時に失ったあの頃。

今思えば、恋慕と憎悪と悲哀の矛盾した感情で、心が歪み悲鳴を上げ、正常な判断が出来なくなっていた。

簡単にお別れを告げたこの世と僕を繋げたのは、紛れもなく萩原さんのお陰だ。

「…"萩原さん"か」

想いを告げて、交際に至ってから今日まで三年という月日が経ったのにも関わらず、未だ下の名前を呼べずにいた。

原因は分かってる。

さな と はな

その名前が"彼女"のことを強く蘇らせる。

"彼女"の言葉が、未だ呪いとなって下の名前を呼べずにいた。

今となっては触れる、抱きしめる、口付けする、そして性交渉まで行っているが、初めは紗凪に触れるのも苦労した。

そんな臆病で奥手な僕を、決して紗凪は見限らずに、「焦らなくていいよ」と優しく応えてくれた。

交際を始めてから手を繋ぐまで、一年という月日を要したというのに。

「紗凪…。…面と向かってない時は言えるんだけどな」

喉に染み付いた怯弱が、癖となってしまっている。

客観的に見て、よくもまぁこんなに交際を続けられているもんだと感心する。

ベランダの手すりにかけていた腕の先から、煙草の灰が下へと落ちていく。

828高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:30:09 ID:/peGHtq.
「行儀が悪いなぁ」

己を叱責すると同時に、灰が落ちていった地面に目を向ける。

「…こんな安アパートの二階からじゃあ、打ち所が悪くなければ自殺なんてできないな」

それなのにあの日、屋上から見下ろした校庭より随分と距離を感じる。

今となっては自殺なんて毛頭考えちゃあいないが、絶望の淵に立っていた僕は、屋上の縁に立ち、自殺をしようとした。

飛び降りることなんて怖くもなんとも思っていなかった。

寧ろ屋上から校庭の高さが五メートルにも満たないような近さに錯覚していた。











「さよなら」

そう告げて飛び降りようとした僕を止めたのは、金網の隙間を通った細い腕、紗凪の腕だった。

「なにしてんだよ!!!」

「萩原さん…」

「そんな馬鹿なことはやめて、こっちに戻ってこい!」

強くシャツが握られる。

皮膚に爪も食い込んでる。

「……痛いよ、萩原さん。少し緩めてよ」

「じゃあ一旦こっちに戻ってこい。そしたらこの手も緩めてやる」

強く握られているとは言え、金網越しに片手かつ女子の握力だ。

飛び降りようと思えば無理矢理にでも出来るだろう。

けれど僕を引き止めているのはそんな物理的な話じゃなくて、彼女の瞳に宿る強い意志だった。

僕はその強い意志に屈するように、金網をよじ登り、彼岸から此岸へ渡る。

「どうして止めたんだい?」

恨み言のようにそう呟いた。

「自殺は…するもんじゃない。生きてれば死にたくなることもあるだろうが、その逆も然りだ。この先きっと生きてて良かったと思える時が来る。けれど死にたい奴らは、どうしても目の前が暗くなっちまって、何も分からなくなる。だから誰かがこうやって止めなくちゃいけないと、そう思った」

829高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:31:03 ID:/peGHtq.
「生きてて良かったって思える…?はは…無責任なこと言わないでよ。恋人は殺人鬼、妹は殺された、そして分からないだろうけど僕の夢だってもう叶わない」

「でもお前は生きている。それに夢だって持ってるじゃないか。一度や二度、落選したからって諦めるなよ」

「…!なんでそれを…」

「知っているかだって?ほら、これ。読んだよ」

それは表紙に『高嶺の花と放課後』と書かれたノートだった。

「こんな遺書紛いなもの、机の上に置いて置くもんだからまさかと思って屋上に来てれば、案の定だったな」

「なら、分かるだろう?僕はもう物語を書くことが出来なくなってしまったんだよ。落選したことも酷く落ち込みはしたけれど、書けなくなってしまったことの方がよっぽど深刻なのさ」

「こんなことがあったらショックの一つや二つでなんらかの支障が起きたって仕方がないよ」

「分かった風に言わないでよ。何も分からないくせにさ。萩原さんみたいな人にはきっと死にたいと思う人の気持ちなんて分かりはしないさ」

「おーおー言ってくれるね。まるであたしが死にたいと思ったことがないみたいな言い方だな」

「…間違ってるかい?」

「まぁ死にたいとは思ったことはなくはないが、お前ほど深刻なものじゃないな。…けどな、死なれたことならある」

「…?」

「中学の時だ。地元の幼馴染だった女の子がいたんだ。まぁ幼馴染ってだけでそこまで仲良くはなかったんだがな。中2のある日だ。そいつは自殺したんだ。原因は単純、いじめだよ」

「…」

相槌を打つことはしない。

ただ淡々と萩原さんの過去を聞く。

「特別仲が良い友達が死んだなら、きっと深く悲しんでたんだろうけど、あたしの中に芽生えた感情は罪悪感だった。確かに仲は良いとは言えなかったけれど、あたしはその子の死を止められた可能性のある立場の人間だった。もしかしたら助けられたかもしれない。そんな自責の念で毎日押し潰されそうになった。きっとあたしには関係ない人間だって思えば楽になれたのに。今だってそうだ。止められるのに止めなければ、あたしはまた何年も罪悪感に苛まれる。だから止めた。あたしがあたしであるために。理由としては満足か?」

「…萩原さんは、とても責任感の強い人なんだね。それに…、残酷だ」

「…」

「君はまた僕に地獄を生きろと言っている。想像できるかい?夜寝るたびに華が綾音を刺し殺す場面が何度も何度も繰り返される苦しみが?」

「ごめん、そこまでは考えてなかった。責任感が強いってのは無責任の間違いだな」

「きっとここで僕の自殺を止めたって死にたいって気持ちは消えるわけじゃあない。君がいなくなった隙に、また飛び降りようとするかもしれない」

「そしたらもう…あたしにできることはないかもな…。不知火…、これはあたしの我儘なんだけどさ…」

「なんだい?」

「生きて欲しい」

乾いた大地に水が染み込む感じがした。

誰にも、自分自身でさえ、己を生きて欲しいと思わなかったのに、ただ一言。

ただ一言、そう言われただけで僕の心はどうしようもなく喜んでしまった。

「…やっぱり君は残酷だ」

止めどなく涙が溢れる。

830高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:31:32 ID:/peGHtq.
…。

それから僕はまた地獄を生きる道を選んでしまった。

死にたいという気持ちを抱える日々。

死神が誘惑してくる毎日。

それでも僕は、以前の自分ならどういう道を選ぶのか、考えに考え、その道を必死になぞっていく。

今は書けないかもしれない。

けれどいつかは書けるかもしれない。

今は夢に酔おう。

そうすれば僕はまた明日を迎えられる。

地獄の日々だった高校生活も、今振り返ってみれば長かったようで短いという、ありきたりな感想が出てしまう。

「夢を叶えたぞ…」

過去の自分が少しでも救われるように呟いた。

届くことはないのかもしれないが、それでも今に繋がっている。

それでいいんだ。

「冷えてきたな…」

室外機の上に乗せた灰皿に、煙草を押しつけ火を消す。

寒さに身を縮ませながら室内戻ると、何の気の迷いか数年ぶり書き足したノートが開かれているのが目に入る。

「こんなものまだ持ってるって荻原さんにばれたら大変だ」

事件から7年。

風化とまではいかないが、あの時の苦しかった思いは少しずつ小さくなっていた。

それもこれも、恋人である萩原紗凪のお陰だと改めて思う。

彼女はとても強い人だ。

僕にはない、とても強い芯を持った人。

憧れにも似た感情が湧くが、一番は彼女といると少しでも自分が真っ当に近づけるような、そんな気がするのだ。

卒業式の日、命の恩人だと、格好つけて礼を言ったのは良いものの、すぐに同じキャンパスで再開した時は、なんとも恥ずかしさにも似た感情が湧いた。

高校の時にポツリポツリと吐いた事情を知っていた彼女は、何かと僕のことを気にかけてくれた。

なぜ自分にそう気にかけてくれるのか、当時の僕は全く分からなかった。

あの事件で失ったもの、傷ついたもの、壊れたもの、それは決して簡単に戻るものじゃあないが、それでも前に進もうとそう思えさせてくれたのは、紛れもなく彼女のお陰だ。

高校の頃の担任の先生の言う通り、大学に入学した僕は、小説を書けなくなってはいたが、それでも何度も旅に出かけた。

美しい景色や人、出会いがたくさんあった。

心が躍るようなものもあったが、結局筆を取れば同じことだった。

「まだ書けないのか?」

「うん、いざ筆を取ると頭が真っ白になるんだ。なにも物語が浮かばない」

「そっ…か。まぁ焦ることないよ。今は心の赴くままに生きてみよう」

「心の赴くまま…」

強く寛容な彼女を見ている日々。

すると、今まで何も浮かばなかった白紙の頭に一つ、物語が思いついた。

別になんてことはない物語。

さして面白いとも思わない。

けれど、数年ぶりに物語が頭に描かれた。

彼女をモチーフにした強い女性が主人公の物語。

面白くないはずなのに、筆が止まらない。

今まで塞ぎ込んでたものが溢れるように、物語が延々と綴られていく。

気がつけば僕は、三日三晩寝食忘れて、物語を書き完結させた。

完結させた瞬間、空腹と睡眠不足で倒れたのは、今ではいい思い出だ。

開いていたノートを閉じ、幾つかの"未開封の封筒"を共に仕舞われていた箱の中に入れる。

831高嶺の花と放課後 最終話『クロユリ』:2020/06/14(日) 22:31:50 ID:/peGHtq.




ピンポーン




普段であれば受信料の徴収か、あるいは宗教の勧誘か。

生憎だが、ドアモニターのない安アパートじゃ、来訪者の顔を知ることはできない。

「…はい」

「あけて」

音質の悪いインターホンからは、聴き慣れた女性の声が聞こえた。

「…?おかしいな、萩原さん鍵忘れたのかな?」

いや、いつまでもこんな呼び方をしたらいつ愛想を尽かされるかわからない。

「紗凪。…紗凪。今日こそちゃんと言おう」

僕の心を救ってくれた恩人。

僕にもう一度愛を教えてくれた恋人。

ちゃんと気持ちを伝えよう。

感謝の気持ちを、そして愛してると。

玄関の鍵を開ける。

ガチャリ

扉がゆっくりと開かれていく。

言えるのだろうか。

違う、言わなくちゃ。

いつまでもありもしない呪いに囚われてちゃあ駄目だ。

紗凪。

君となら僕は強く生きていける。

扉が開かれる。














「ただいま、…遍」

832罰印ペケ:2020/06/14(日) 22:57:36 ID:/peGHtq.
以上で高嶺の花と放課後 第19話『シオン』そして最終話『クロユリ』の投下を終了します。これにて「高嶺の花と放課後」完結です。ここまで読んでくださった方ありがとうございました。
シオンの花言葉は「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を思う」などです。クロユリの花言葉は「恋」あるいは「呪い」です。この最終話見る人によってエンディングが分かれると思います。
というか分かれるように作りました。どちらが正解とかありません。皆さんにお任せします。書き終わった感想としては素直に疲れましたwカクヨムの方にはあとがきで書きたいことある程度書いてるので
ここでは簡潔に書きますが『高嶺の花と放課後』は言ってしまえば設定の特徴が『高嶺の花』くらいしかないんですよね。一応理由はあって、なるべく奇天烈な作品よりかは基本(?)に忠実なスタンダードヤンデレ小説
かけたらなぁって思って書き始めたのが最初です。あくまで私が思う基本ですけどね。ヤンデレって言葉は浸透してきてはいますが、「それってヤンデレじゃなくね?」と思うものや「ソフトヤンデレってヤンデレにソフトもクソも無いだろ!」
とか色々思うことがあって「じゃあ自分の思うヤンデレのスタンダードを書いてやろうじゃないか」と筆を取った次第です、はい。ヤンデレの定義は割と認知されていると思うんですけど、やっぱりヤンデレが病むほど対象を愛する理由が大事かな
と思うんです。理由はなんでもいいです。「命を救ってくれたから」とか「前世が恋人だったから(妄想)」とか。大した理由もないのに「スキスキスキメスブタコロスー」みたいのは正直ヤンデレと思えないです、サイコパスです。
本作も最初はヤンデレ描写が少ないですが、それは『ヤンデレには理由が必要』という自論に基づいたストーリー構成です。前にも言ったんですけどヤンデレが嫉妬に苦しむのが一番好きで「殺したい、でも殺人は罪、でも殺したい」
みたいな葛藤くらいはして欲しいです。ヤンデレであれば正々堂々、相手の命の重さも理解した上で己の愛の重さで天秤を傾けてほしいものです。条件反射で「ドロボウネココロス」とかやってたら正直「このヤンデレよく今まで捕まんなかったな」
と冷静になり萎えてしまいます。まぁとりあえず、自分が思うヤンデレの教科書にするつもりで『高嶺の花と放課後』を書いてきました。
途中失踪期間とかありましたがそれでも面白いや応援してますなどのレスが力となってここまで書ききれました。それともう1話だけ高嶺の花と放課後を書いてます。それはカクヨムには投稿せずこの掲示板のみの公開にするつもりです。
その時にまた少し言いたいこと書くかもしれません。ひとまずは作品としてはこれでいったん一区切りです。2年以上の間、ありがとうございました。
最後に宣伝になりますが、しばらくはカクヨムでヤンデレ小説を書いていくつもりです。気が向いた時にも読んでくだされば幸いです。では

833雌豚のにおい@774人目:2020/06/17(水) 02:53:22 ID:8RCwVXJc
完結乙です!
久しぶりにここで本格的なSSが読めました!
また次回作も期待してます!

834雌豚のにおい@774人目:2020/08/23(日) 03:24:01 ID:wRBXPod.
高嶺の花と放課後の読破記念に書き込み。
よく練られた文章で書かれた罰印ペケさんの完結までの労力は並々ならぬものだと感じました。
改めて本当にお疲れ様です。
僕もヤンデレ小説の構想が浮かぶ事があるんですが書こうとすると矛盾が生じたり、
形にした途端に自分が書いたものが茶番に見えて来たりと悪戦苦闘しています。
この作品を読んで、いつか僕も自分の理想に近いヤンデレを形にしてみたいなと思いした。

835雌豚のにおい@774人目:2021/02/21(日) 02:54:15 ID:8rUfhiyE
半年以上も何も書き込みが無いってのも寂しいね。

836高嶺の花と放課後『リンドウ』:2021/03/05(金) 10:52:37 ID:rgNZ.V2g

世の中には知らない方がいいことってのがある。

けど人間って愚かな生き物は、探求心にあらがえない。

一度知ってしまえばもう、"知らない"には戻れない。

自分が正しいと思っていたことは全て間違っていたと気付いてしまうこともある。

けれど知らなければそれは正しいのままでいられる。

これから綴られる物語も知らなければ良かったと、そう為る物語。

親切なあたしは一度だけ警告するよ。

これ以上は読まないほうがいい。

警告したからにはもう読書を中断させる義務なんてない。

知ってしまったことに対する責任なんてない。

嗚呼、きっとお前は後悔するんだろうな。

それでもいい。

だってあたしは












悲しむ君が好きだから

837高嶺の花と放課後『リンドウ』:2021/03/05(金) 10:53:51 ID:rgNZ.V2g
待ちに待った月に一度の性行為の日。

けれどあたしが一番楽しみにしてるのは性行為自体じゃなくてその後の出来事だ。

いつからだろう。

あたしの中にあるこの歪んだものに気づいたのは。

あたしの膝の上で眠る彼を見つめれば、苦悶の表情で夢を見ている。

嗚呼、きっと彼は悪夢を見ている。

忘れたくても忘れられない地獄が何度も何度も繰り返されている。

胸が締め付けられる思いになる。

初めは彼が苦しんでいる姿を憐んでいるからこんな気持ちになるのだと思っていた。

違う。

本当はそうじゃない。

彼の苦しんでる姿が堪らなく愛おしいのだ。

けれど自分がそんな歪んだ人間なんて認めたくなくて、何度も目を逸らし続けた。

彼の前で誰よりも正しく、真っ当に生きようと思った。

そうやって彼を、そして自分自身を偽ってきた。

でもどうしたって心のどこかでもう認め始めている。

不幸のどん底にいた彼に惹かれた時点で既に歪んでいたのだ。

少し考えればわかる話だ。

普通は絶望し「死にたい」が口癖の人間を好きになるなんてどうかしてる。

相談相手として話を聞いてるならこちらまで病んでしまいそうになる。

けれどあたしは彼の不幸を聞くのは何の苦でもなかった。

その頃、何も知らない女子高生のあたしはただの恋だと錯覚していた。

ただの恋だと思えたままなら、良かったのに。

己の中にある狂気なんて知りたくもなかった。

まだ彼は知りもしない。

あたしが歪んでいるなんて想像だにしていないだろう。

それが余計に彼が憐れに思えてきて、愛おしく感じてしまうのだ。

どうして彼はこんなにも歪んだ女性ばかりを引き寄せてしまうのか。

彼ほど絶望した人間がいただろうか。

彼ほど苦しんだ人間はいるのだろうか。

否、そうそういないだろう。

不幸な彼を甘い蜜のように啜るあたしはまるで害虫。

知らない顔して幸福を積み上げる。

そして積み上げた幸福をいつ壊してやろうか
、どうやって壊してやろうかと悪魔のような思考に駆られる。

彼はあたしにどんな絶望した顔を見せてくれるのか。

「やっ…ば」

行為が終わった後だというのに、急速に性的興奮が高まっていくのを感じる。

ただこれはジレンマのようなものでもある。

真実を知り、不幸になり、絶望する彼を見たいが、彼に嫌われたいわけではない。

望むのであれば不幸に堕ちつづける彼をずっと側で支えたい。

側で観ていたい。

「はぁ…はぁ…」

頻度の少ない性行為の穴を埋めるようにする自慰は、いつだって不幸な彼を妄想する。

無知な彼にはあたしを真っ当な人間かなにかと思ってる。

それが余計に哀れで愛おしい。

だからいつも思う。

私以外の誰かが彼を不幸のどん底に落とさないかな、と。

貴方のことは好きで好きで堪らないけど、多分『愛してる』という感情とは程遠いものなのかもしれない。

もしあたしがこれ以上ないくらいまで幸福を積み上げたとき、もっとも最悪な方法で壊すとするならばそれは…

「んっ…はぁぁぁッ…でも、それは、ァ…ン」

その方法で壊せば、不幸な彼を"この目で"見ることは叶わないだろう。

でも夢見てしまう。

838高嶺の花と放課後『リンドウ』:2021/03/05(金) 10:54:35 ID:rgNZ.V2g

「あたしが首吊って死んだら、どんな表情をするのかなぁ…」

口端が歪に吊り上がって行く。

正直、愛故に監禁した女より、愛故に殺人をした女より、ぶっちぎりであたしがイカれてる。

愛故に、不幸にしたい。

「嗚呼…好きだ。大好きだ」

思うに、幸せの尺度は如何に無知であるかで決まる。

ある大人が言った。

『毎日、ご飯が食べれて幸せだな。貧しい国では十分な食事にありつけるのに精一杯だというのに』

一見その貧しい国を配慮したように思えるその台詞が、実は意図的ではないにしろ心の底で馬鹿にしていることに気がついたのはごく最近のこと。

だってそうだろう?

『十分な食事にありつけなければ幸せになれない』

ある大人はそう言ってるのさ。

じゃあ貧しい国の人たちは毎日毎日幸せを感じずに生きているのか。

そんなわけがない。

私たちは毎日3食十分食べれることを、そんな当たり前な日々をもう"知ってしまった"。

食事にありつけるの大変な日々になってしまえば、それを凄く不幸に感じるだろう。

最初から飯を食うのは大変だとしか知らなければ、それほど不幸に感じることはないだろう。

けれど、隣の奴が楽して飯を食えてることを"知ってしまえば"、途端に不幸に感じるだろう。

ましてや価値観や性格の違いで各々の感じる幸福に差異があるのであれば、幸福なんてものは実体がなく想像の域を出ない。

幸福も不幸も頭の中でしか起こらないものならば、知識の量で自ずと尺度が決まる。

自分より幸せな奴なんて知らなければ、自分が世界で一番幸せになれる。

だからあたしの中の化け物を知られるわけにはいかない。

彼を世界で一番幸福にするために。

貴方がこの物語を読むときがいつになるかは分からない。

もしかしたらあたしが死んだ後かもしれないし、あたしが誰かを殺した時かもしれないし、何も知らずに幸せに浸っていた時かもしれない。

いつだって構わない。

いっそのこと、これは読まれなくたっていい。

所詮、この物語はあたしの中にある矛盾に与えられる過度なストレスの発散でしかないんだ。

あの日より不幸な、人生最悪の日を今も模索している。

そしてあたしはいつか迎えるその日まで、貴方をうんと幸せにする。

世界一の幸福を壊す時、あたしはきっと満たされる。

世界で一番幸せになれる。

「イッ……クッッッ………」

この歪な感情すら愛と呼んでもいいのなら…

「……はぁ、はぁ。…愛してるよ、アマネ」

今日もあたしは何も知らない君に愛を囁く。

839罰印ペケ:2021/03/05(金) 11:44:09 ID:CJ1dLC8I
お久しぶりです、罰印ペケです。
以前に書き込むと言った1話『リンドウ』。
花言葉は『悲しむ君が好き』
本編で使えたら使いたいなぁと思った花言葉だったんですが、ストーリーに入れる余地はありませんでした。なのでもしもう1話書くとしたらこんな話かなぁと書いた話です。ちなみに時系列がいつとかは決まってないです。多分好きなんでしょうね、読者に考察の余地を与えると言うか、解釈をぶん投げるのが。本編のエンドやこの話は『魔女の家』というフリーホラーゲームにかなり影響されてます。小説でもヤンデレでもなんでもないんですけど、人生の中で一番心に残ったストーリーでしたね。分かる人には分かるかもしれませんが「知らなきゃ良かった、知らなければ幸せでいれたのに」と思える物語です。それはこの『リンドウ』もそうです。『リンドウ』自体が「知らなきゃよかった」であり、その「知らなきゃよかった」をテーマとして書いた物語でもあります。知らぬが仏とはいったものです。余談ですが今カクヨムのほうは更新停止してます。長い間自分の中で抱えてた物語が完結して正直燃え尽きたんだなと今では思ってます。完結した直後はそれなりの人に読んでいただりイラストいただいたりで、ハイになってたのかモチベーションもあったんですけど、今は低迷してます。今でもポツリポツリと書いてはいるんですけど、あまりにペースが遅く、まともに更新できるペースじゃありません。『高嶺の花と放課後』は作品として作ったのではなく持論として作ったんだなと改めて思いました。だから言いたいことは言ったから言うことはない、それが今の状態です。あとヤンデレって麻薬みたいに感じません?摂取すれば摂取するほど次のヤンデレが欲しくなる。そして需要に対して供給が追いつかなくなる。困ったものですね()この物語はここの掲示板の作品みて育ってきた自分が書いた物語です。だから今度はこの物語を見て、新たなヤンデレ作品が生まれてくれるのが今の1番の望みですかね。あんまり他力本願なこと言っててもしょうがないので、しっかりとまたヤンデレ小説書けるように今はしっかり充電します。とりあえずこれで本当に『高嶺の花と放課後』完結です。またいつか

840 ◆ZUNa78GuQc:2021/04/13(火) 18:25:59 ID:QE9nDRzM
てすと

841 ◆lSx6T.AFVo:2021/04/13(火) 18:27:30 ID:QE9nDRzM
お久しぶりです。
新作を投稿します。3万字くらいの短編を予定しています。
タイトルは『きょうだい忌譚』です。

842はじまり:2021/04/13(火) 18:27:54 ID:QE9nDRzM
 きょうだいのあり方は千差万別だ。
 我が半身かのように切っても切れない関係性のきょうだいもいれば、互いに凶器で切りつけ合うような関係性のきょうだいもいる。目を合わせることもしないきょうだいもいれば、目を合わせることすら恐れているきょうだいもいる。
 僕はおもう。
 なぜ、こんなにもバラバラなのだろうか。
 たしかに、同じ血を分けた者同士だからといって、何から何まで同じというわけではない。いくら外側は似通っていようとも、その内側まで似通っているとは限らない。
 されど不思議なもので、内側の差異が関係性に影響を与えない場合もある。
 白と黒のように正反対の性格であっても仲のいいきょうだいはいるし、鏡を写し合わせたように相似していても仲の悪いきょうだいもいる。
 では、きょうだいの関係性を決定づける要因とは何なのか。
 僕は、あの日からずっと考えていた。
 それこそ、死ぬほどのおもいをして考え続けていた。
 今でこそ坂道を転がり落ちるような、悪化の一途をたどっているが、答えさえ見つかれば、今の状況を変えられるのかもしれないという、かすかな希望があったからだ。
 僕たちも、いつかはありふれたきょうだいになれるはず。それなりに好き合っていて、それなりに憎み合っている、ふつうのきょうだいになれるはず。
 そう信じていた。
 でも、最近は、徐々にその熱意が失われつつある。
 もっとハッキリ言ってしまえば、どうでもよくなってきている。
 なぜなら、僕はこれっぽっちも後悔していないと気付いたからだ。
 過去を振り返って、「あの時、ああしていればよかった」と悔やむことは誰にだってあるだろう。
 だけど、それは自分が違う行動をしていれば、違う結果を生むことができたと確信できている場合だ。
 たとえるなら、通り魔に恋人を殺された日を振り返って、「あの時、外へ遊びに行こうと彼女を誘わなければ」と悔やむような。
 しかし、僕の場合は違う。
 ばかげた妄想になるが、仮に、僕が神さまから、過去に戻ることができる能力を与えられたとしよう。しかもその能力は、あらゆる時間帯に、何度だって戻ることができる、とても便利なものだとする。
 そんな能力があれば、悔やむ者なら誰だって過去に戻るはずだ。
 さきほど例に上げた彼にしたって、死ぬはずだった恋人の手を握りしめて、「今日はずっと一緒にいよう」と叫ぶに違いない。
 でも、きっと僕は何もしない。
 それほどの能力を授かったとしても、きっと僕は何もしない。
 なぜなら、過去に介入できたとしても、どれほど過程をいじくれたとしても、あの結果だけは絶対に変えられなかったと確信しているからだ。
 過去に戻れたとしてもその有様なのだ。いわんや現在をどう変えようというのだ。
 ヒトは、どれほど努力しようとも空を飛ぶことはできない。そんな自明のことを悔やむ人がいないように、僕にも後悔はない。
 答えなんかあったって、たぶん、どうしようもなかったのだ。
 僕にできることは何もなかった。唯一できたのは、観客席に座って、劇の成り行きを見続けることだけ。せめてもの抵抗といえば、その劇が良作であるか駄作であるかを批評するだけ。
 ならば、やり場のない、ぬるま湯のような絶望に浸りつつ、底へ向かって沈んでいく他ないじゃないか。
 ����僕と彼女には、あのような結果しかあり得なかった。
 いつしか、そんな言い訳が唯一の慰みになるのだろう。
 己を責任の拉致外に置き、心地のよい諦念に身を委ねつつ、僕はゆっくりと絶望に沈んでいく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 沈んでいく。

843:2021/04/13(火) 18:31:40 ID:QE9nDRzM
 佳乃(よしの)は、瞳の少女だった。
「瞳のキレイな女の子ね」
 初めて佳乃と会う人は、みんな決まってこう言った。
 小さな顔の中に収まっている彼女の瞳は、いつも濡れたように黒く光っていて、人を惹き付ける怪しげな魔力を宿していた。対面すれば、花の蜜に吸い寄せられる蝶のように、自然と意識が持っていかれてしまい、瞳にとらわれすぎて会話の内容をほとんど記憶していないということすらまれにあった。
 しかし、魔力とは言っても、ミステリアスな雰囲気などは全くなくて、むしろ人懐っこさを感じさせる爛々とした光だった。
 なので、佳乃の周囲にはいつも人がいた。
 公園に遊びに行けば、いつの間にか知らない子たちと鬼ごっこをしていたし、親戚の集まりでも子どもたちの中心にいることが多かった。
 どちらかといえば内気で人見知りだった僕とは対称的に、彼女は小さな頃から、その社交的な性格を存分に発揮し、大人相手にも物怖じせず話しかけていった。愛嬌があって可愛がられやすかったので、よくお菓子などをもらっていたし、お年玉の金額も僕より高かった。
『素直で明るくて優しい子』
 それが、僕のふたつ年の離れた妹である佳乃の、子どものころから一貫して変わらない世間での評価だった。

844:2021/04/13(火) 18:32:22 ID:QE9nDRzM
 僕と佳乃の関係性はどうだったのかというと、別に悪いものではなかった。いや、むしろ良い方だったろう。少なくとも、第三者から見れば、仲良しなきょうだいに映っていたことは間違いない。
 実際、妹からは懐かれていた。
 僕はこれっぽっちも記憶していないが、母に言わせれば、「それこそ赤ん坊のころから、お母さんよりもお兄ちゃんの方が好きだった」らしい。
 佳乃がまだ自分の足で立つことすらできなかった年齢のころ、近くに僕の姿が見えないとすぐに泣き出してしまい、抱っこをしてなだめすかしても全然泣き止まず、僕の姿を認めてようやくおとなしくなったという。
「子守唄を歌ってあげるより、お兄ちゃんの隣に寝かせてあげた方がずっと効果があったわよ」
 と、母はよく笑っていた。
 たぶん、大げさに言っていたのだろう。まだ分別のつかない赤子が、兄の存在をしっかりと認識していたのかは怪しいし、仮に認識していたとしても、母親の腕の中よりも優先されるとは到底思えない。
 眉唾物だと切って捨てるべきではあるが、あながち嘘とも言いきれないものがあった。
 記憶が次第に色彩を持ち始める幼少期を振り返ってみると、たしかに、佳乃はいつも僕のそばにいた。
 遊んでいる時も、ベッドで寝る時も、ごはんを食べる時も、幼少期のどの場面を切り取っても、その絵の中には必ず佳乃の姿があった。
 幼稚園の迎えのバスに僕が乗り込む時、彼女が決まってべそをかいていたの思い返せば、母の話にもある程度は信ぴょう性があるといえよう。
 兄の目から見ても、妹は思いやりのある子に映った。
 自分の欲望を優先しがちな幼児のころから、兄にはとても尽してくれていた。
 いつもテレビのチャンネルを譲ってくれたし、午後のおやつも分けてくれたし、男の子の遊びにもつきあってくれた。

845:2021/04/13(火) 18:33:02 ID:QE9nDRzM
 僕は、佳乃に訊いたことがある。
「本当は観たい番組があるんじゃないのか、お腹がいっぱいだなんて嘘じゃないのか、ヒーローごっこよりオママゴトがしたいんじゃないか」
 佳乃は笑って、僕に答えた。
「そんなことないよ。ぜんぶね、わたしがそうしたいから、そうしているんだよ」
 彼女の声には、暗に見返りを求めるようなずる賢い響きはなかったから、僕は鵜呑みにしてしまい、「本当のことを言っているんだな」と終わりにしてしまった。
 深くは考えなかった。
 彼女がとても寛容な心の持ち主だったのはわかりきっていたから。
 佳乃の寛容さを示す、こんなエピソードがある。
 彼女が幼稚園の年長になった時だったか。
 ある日、僕は、佳乃の大切にしていたドールを誤って踏みつぶしてしまった。足の裏を通して伝わってきた確実な感触に、「ああ、やってしまったな」と苦々しく思ったのをおぼえている。プラスチック製の細い首は無残に折れてしまい、接着剤などで修復するのも困難な状態となっていた。
 当然、佳乃はわんわんと大泣きした。
 首のないドールの人形を抱え、「いたくしてごめんね」と謝り続けた。
 ひたすら悲しんだ後にやってくるのは、いつだって怒りの感情だ。そして、怒りの矛先を向けるべき相手は、大切なものをめちゃくちゃにしてしまった兄だろう。
 が、佳乃は最後まで僕を責めることはなかった。単に、ドールを失った悲しみに打ちひしがれていただけで、「お兄ちゃんのせいだ」とは一度も言わなかった。それどころか、落ち着きを取り戻すと、僕の足が傷ついていないか心配する優しさまで見せた。

846:2021/04/13(火) 18:33:36 ID:QE9nDRzM
 以上の出来事を鑑みれば、よくわかるだろう。
 佳乃は良い子だ。
 とても良い子だ。
 だから……そんな良い子をきらいだとおもうのは間違っている。
 普通、これだけ兄を慕ってくれている妹をきらうだなんてありえようか。
 いや、ありえるはずがない……。
 たしかに、冷えきった関係性のきょうだいというのは存在する。けれど、そういうきょうだいは、互いに敵対していたり、極度に無関心だったりすることが大半だ。つまり、原因となる種がなくしては、破綻には至らない。
 佳乃を嫌いになる要素なんてひとつもなかった。なら、妹とは友好的な関係性を築く他考えられない。
 なのに、なぜなのだろう。
 僕は、彼女に対して複雑な感情を抱えていた。
 強いて例えるなら……絡まりすぎてほどけなくなった電源コード、のどに刺さった骨、服の中に入り込んだ虫、気づかずに踏んだ水たまり、ぬるくなった牛乳、靴の中に入った小石。
 ……いや、そのどれもが適当な例ではない。この感情を言語化するのは到底不可能なように思えた。赤子が自身の感情を伝える手段を十分に有していないように、この感情を伝え切るには、僕はあまりに未熟なのだろう。
 だから、不本意ではあるが、『きらい』という言葉を用いるしかない。
 僕は、佳乃がきらいだった。
 太陽のように暖かな笑顔も、枝毛のない長く伸びた黒髪も、初雪をおもわせる真っ白な肌も、お兄ちゃんと呼びかける柔らかな声も。
 ぜんぶ、ぜんぶ、きらいだった。

847:2021/04/13(火) 18:34:04 ID:QE9nDRzM
 そして、何よりもあの瞳……。
 みんなが褒め称える、宝石のように輝くあの瞳が、たまらなく嫌なのだった。何度、あの眼球をくりぬきたい衝動に襲われただろう。ふと視線を感じて振り向き、そこに佳乃の形のよい瞳があった時、僕は……僕は……。
 いつからなのかはわからない。
 それこそ、佳乃が生まれてから、ずっとなのかもしれない。
 僕は生来、この説明不可能な感情に悩まされている。
 もし、このマグマのように煮えたぎる『きらい』を素直に表すことが出来たのなら、ここまで苦しまずに済んだだろう。
 だけど、僕には、兄は妹に優しくしなければならないという古風な価値観があった。
 己を犠牲にしてでも妹を助けなくてはならない、とまではさすがにいかないが、『兄らしい生き方をする』というハードルが、他のきょうだいたちよりも高かったのは間違いないだろう。
 だから、僕は内側からせりあがろうとする感情を乱暴に抑え込み、少なくとも表面上は良き兄としてふるまっていた。佳乃を怒鳴りつけたこともないし、手を上げたこともない。優しい妹にふさわしい、優しい兄としてあり続けた。
 妹がきらいだという気持ちと、妹に優しくしなければならないという気持ち。
 このせめぎあいの中で、関係性を築いていった。
 けれど、押し付けたバネが、その力の分だけ反動力を持つように、いつまでもこの関係性が継続できるとは考えていなかった。
 一度、ヒビが入ってしまえば、完全に修復することなんてできやしないのだ。

848:2021/04/13(火) 18:34:28 ID:QE9nDRzM
 僕が初めて、兄らしさを維持できなくなった出来事があった。
 詳しい日時は忘れてしまったが、佳乃が小学校に入学してまだ日が浅いころ。
 当時、彼女は日曜の朝に放映している魔法少女のアニメに夢中だった。
 そのアニメの主人公が、腰まで届く長髪だったことに影響されて、「今日から、わたしも髪をのばす」と宣言して以降、髪を伸ばし始めていた。腰までには届かないものの、十分に長いといえる黒髪は、妹なりに気に入っていたようで、髪を櫛でとかすなど、日常的に手入れすることが多くなっていた。
 跳ねっ返りのない、糸のように真っすぐな髪は、佳乃の特徴的な瞳に負けず劣らず、みんなの注目を引いた。
 人に褒められても得意げになることがない妹の、数少ない自慢の種だったらしく、よく僕にもその評価を求めてきた。
「ねぇ、お兄ちゃんは、わたしの髪、どうおもう?」
 身をよじらせながら、おずおずと訊いてくると、僕は決まって同じ笑顔をつくり、
「佳乃の髪は、きれいだよ」
 と、答えていた。
 そして、ニマニマと照れたような笑みを浮かべ、サッと自室へ戻ってしまうのがお決まりの流れだった。
 僕は良き兄だった。
「そんなの、ぜんぜん興味ないよ」
 とは、口が裂けても言わなかったからだ。
 だから、僕はこの時までは良き兄だった。

849:2021/04/13(火) 18:34:56 ID:QE9nDRzM
「お兄ちゃん!」
 お風呂上りの佳乃が、じゃれて僕の背中におぶさってきた。
 まだシャンプーの香りを残す長い黒髪が、さらりと僕の体に流れ込んでくる。
 僕は、やめろよと苦笑しつつも、兄らしく妹とのじゃれあいに付き合ってあげた。
 佳乃が、僕の耳元で、今日の学校の出来事を話し始める。
 まだ小学校に入ったばかりの妹にとっては、学生生活の全てが新鮮らしく、やや興奮したような口調だった。
 給食で好きなデザートが出たことや、ウサギ小屋のウサギに初めてエサをあげたこと、放課後、クラスメイトたちと鬼ごっこをしたことが、とても楽しかったと語った。
 いつもの僕なら、「それはよかったね」と無難に相槌を打っていたはずだった。
 けれど、それどころじゃなくなっていた。途中から、話が耳に入らなくなっていた。
 僕の首をつたって胸元にまで流れ込んでくる黒髪が、異様なほどに気になってしまった。
 まるで、その一本一本が個別的に生命を持っており、明確な意思をもって僕の首にからみついてくるような、えもいわれぬ想像に襲われた。
 バカげたイメージだとは承知していたが、一度、思ってしまうと、もうダメだった。耳元で羽音がうろついている時のように、全身が粟立つのを覚えた。
 僕の頭の中は、佳乃の髪のことでいっぱいになってしまい、あえぐような声が喉から漏れ始める。苦笑いを続けていた顔が徐々に崩れ始め、頬が痙攣を起こしたように小刻みにひきつく。

850:2021/04/13(火) 18:35:22 ID:QE9nDRzM
 何かに背中を押されるように、僕はポツリとつぶやいていた。
「その髪、ジャマじゃないのか」
 おもっていたより、冷たい声だった。
 対話する気のない、一方的にぶつけるような言葉に、佳乃は過敏に反応した。
 パッと体を離し、僕と向かい合うような位置に座ると、おびえた小動物のように上目遣いでこちらをうかがってくる。
 風呂上がりで血色の良いはずの顔は真っ青になり、落ち着きなく視線をさまよわせている。まるで、突如、異国に放り込まれてしまったような不安を感じさせる表情だった。途中、思い出したように口角を上げたが、それは笑顔と呼びうるものではなかった。
「お、お兄ちゃんは、ジャマだとおもうのかな……?」
 僕の感情を推し量るような瞳とともに問いかけてくる。
「うん。僕は、うっとうしいとおもう」
 なんの躊躇もなかった。
 するりと飛び出してきた言葉が、ナイフと化して彼女の胸に突き刺さっていくのがわかった。
 トドメを刺された佳乃が一気に転落していく様は、外見上に表れた。
 なんとか吊り上げていた口角は下がり、眉はハの字に寄り、口元がわなわなと震え始める。幼い子が泣きわめく前兆だったが、すんでのところで堪えているのはいかにも彼女らしかった。

851:2021/04/13(火) 18:35:47 ID:QE9nDRzM
 やってしまったな、とおもった。
 辛うじて保持していた兄としての矜持に傷がついてしまったのが、子ども心ながらにわかった。
 今からでも挽回する術があったかもしれないが、僕の胸は不思議なほどに凪いでおり、なんら呵責を感じていなかった。仮に佳乃が号泣していたとしても、今と変わらぬ平静さであったことは容易に予測できた。
 そして、その事実に最も狼狽していたのは自分自身だった。
 ……僕はなぜ、こんなにも冷静なんだ。
 今まで苦労して積み上げてきた『兄らしさ』をこうも簡単に突き崩しておいて、他人事のように自分を客観視していることに驚いた。
 たしかに、今まで妹に対しておもうことが何もなかったといえば嘘になる。だが、それにしたってあまりに血の通っていない態度ではないか。顔も知らない第三者と相対しているわけではなく、血の繋がったきょうだいだというのに……。
 と、足元からじわりと侵食してきた当惑に意識が向いていたせいか、いつの間にか佳乃が目の前からいなくなっていることに気づかなかった。
 どこに行ったのだろう。
 辺りを見回していると、控えめにリビングのドアが開いた。
 どうやら自室で髪型を直していたらしく、長い黒髪を器用にお団子状態にまとめあげた佳乃が現れた。

852:2021/04/13(火) 18:36:10 ID:QE9nDRzM
 不器用な笑みをつくって近くに寄ってきたが、それでも僕の表情が変わらないのが不安だったのか、泣きそうな顔をしてソワソワと体を揺らしていた。
「あら、どうしたの。その髪型」
 続けて、風呂からあがったばかりで事情を知らない母が、「かわいくなったじゃないの」と手を合わせて喜んでいたが、妹の表情は晴れなかった。
 僕は、先ほどの発言を訂正すべきだと強く感じていた。
 お前をからかっていただけだよ、と笑いかけて、すべてを冗談のカゴの中に放り込んでしまうのが正解だとおもった。
 だけど、できなかった。
 正解はわかっているのに、答案用紙に何も書き込まない。
 そんな愚行を犯しているのは嫌というほど理解しているのに、僕は動かなかった。動く気すらなかった。
 妹を傷つける言葉を吐き出したというのに、なぜ……。
 釈然としない、曖昧さからくる苛立ちで、おもわず舌打ちが飛び出そうになる。
 そして何より――その苛立ちの全てを妹に押し付けようとしている自分自身に対して、最も苛立っていたのだった。

853:2021/04/13(火) 18:36:34 ID:QE9nDRzM
 結局、すべてを先送りにしてしまった。
 就寝前、佳乃は「ごめんね、ごめんね」と何度も謝ってきたが、彼女自身、謝罪する理由は判然としていなかっただろう。
 無理もない。僕自身だってわかっていないのだ。
 だから寝たふりをして、謝罪には応えなかった。
 暗闇の中、僕の顔を覗き込もうと佳乃が体を動かすのがわかった。だが、これ以上、不機嫌にさせたくなかったのか、途中で体を横にしてしまった。
 まどろみはなかなか訪れなかった。
 なので、僕は長い間、隣で眠る妹の体温を感じながら、腑に落ちない感情と戦わざるを得なかった。

 翌日、睡眠不足による眠気で、脳内は霧がかかったようにぼやけていた。
 登校してからずっとそんな調子だったので、体調不良のまま授業を受けざるを得ず、五時間目の途中、見かねた担任の教師に保健室へ行くよう促され、僕は級友たちのせせら笑いを背に受けながら退室する羽目となった。
 足元をふらつかせながら保健室まで辿り着くと、養護教諭に「少し休めば良くなるはずです」と説明し、すぐにベッドに飛び込んだ。
 しかし、真っ白いベッドは妙に固くて寝心地が悪く、僕は半分意識を保ったまま、中途半端な眠りについていた。

854:2021/04/13(火) 18:36:58 ID:QE9nDRzM
 もし、今日がなんでもない日だったら、きっと最悪な一日だったと捉えていたかもしれない。
 けれど、昨夜の佳乃とのやり取りを一時的に忘却できる利点を考えれば、この体調不良も決して悪いものだといえない。現に、今日はほとんど妹のことを考えずに済んでいる。
 大丈夫……この後、家に帰れば、僕らはいつも通りになっている。仲の良いきょうだいに、戻っているはず……。
 そんなことを考えているうちに、まぶたは重くなり、意識は落ちていった。

 夕方、帰り道をひとりで歩く。
 道路に標示されている『スクールゾーン』の文字の上を慎重になぞりながら進んでいく。普段はこんなことはしない。なんとなく、今日はゆっくりと時間をかけて帰宅したかった。
 十分に休養をとったおかげか、気分はいくらか晴れやかになっていた。
 今なら、フラットな気持ちで佳乃と接することができるだろう。昨日のことを、すべてチャラにできる言い訳はすでに考え付いていたし、彼女もそれを受け入れることはわかっていた。

855:2021/04/13(火) 18:37:18 ID:QE9nDRzM
 つまり、すべて元通りになるのだ。
 多少、脇道に逸れたものの、本道にさえ戻れれば仔細ない。反発することなんてほとんどなかったから、お互い混乱していたに過ぎない。そもそも、ふつうのきょうだいならば、この程度のいざこざは日常茶飯事だろう。
 街灯に光が灯るころ、自宅に到着した。
 ずいぶんと遅くなってしまったな、とおもいながら、カギを開けて中に入る。
 子供部屋にランドセルを置き、乾いた喉をうるおそうとリビングへ向かう途中、
 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。
 刃物を擦り合わせるような音が、扉の向こうから聞こえてきた。
 足を止め、ドアの中部に設けられたすりガラス越しに、中の様子を確認する。
 モザイク状でわかりにくいうえに、電気がつけられていないので薄暗く、いまいち判別がつきにくい。差し込む夕陽のおかげで、ようやく小さなシルエットが認められた。
 中に誰かいるらしい。
 いや、考えるまでもなく、佳乃以外にありえない。
 それならさっさとリビングに入ればいいのに、妙な心理的抵抗がドアノブを掴むことを拒否していた。手のひらがじんわりと汗ばみ、喉がさらに水分を失っていく。

856:2021/04/13(火) 18:37:42 ID:QE9nDRzM
 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。
 どの場所よりも長く過ごした自宅だというのに、まるで知らない人の家に無断で入ってしまったかのような緊張感があった。下腹部がキュッと締まるような感覚を覚え、あわや家を飛び出る寸前だった。
 僕は、何をこわがっているのだ。
 男の子のプライドというべきものが、無言で臆病な自分をなじってくる。
 慣れ親しんだ自宅で怯えている事実が、急に気恥ずかしくなる。
 何も取って食われるわけじゃない。この先にいるのは獰猛な肉食獣などではなく、まだ幼い子どもなのだ。幼子相手に恐れる男子がどこにいる。しかも、相手は生まれてからずっと一緒にいる妹だぞ。
 決心がついた。
 ズボンで手のひらをぬぐい、ドアノブをつかみ、音を立てないように押していく。
 視界が徐々に開けていく。
 まず目に入ったのは、リビングのフローリングに放射線状に散らばる黒い糸だった。
 その中心に座る女の子は、ハサミを手に持って、自身の髪をなんでもないように淡々と切っていた。
 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。
 赤い夕陽も手伝って、まるで抽象的なアート作品のような佇まいとなっていたが、そこに込められているメッセージ性は何もない。
 女の子は鏡すら見ず、ただ己の髪を短くすることだけを目的に、ゆっくりとハサミを入れていく。

857:2021/04/13(火) 18:38:02 ID:QE9nDRzM
 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。
 ためらいは感じられない。まるで藁半紙を切り刻んでいくような、無感動な手の動きだった。切られた髪は彼女の体をすべり、フローリングをすべり、円を大きくしていく。
 こちらに背中を向けているので、彼女がどんな表情を����否、瞳をしているのかはわからない。いつものような、人を笑顔にさせる明るい光を宿しているのだろうか。それとも……。
 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。
 僕は、ドアの近くから動けないでいた。
 声すらかけられずに呆然と立ち尽くしていた。
 しばらく呼吸を忘れていたことに気づき、ヒュッと喉が開く音が、部屋の中に響く。
 それに呼応するように、ハサミを動かす手が止まった。
 女の子はハサミを置くと、ゆっくりと首と体を動かして、背後に視線を移していく。
 不揃いな前髪の中からのぞく瞳――僕を見つめる黒い瞳は、驚くくらいに普段通りだった。
 波紋ひとつない、鏡のように映る湖面を彷彿とさせる穏やかさが、容赦なく僕を包み込んでいく。
 彼女は僕に声をかける前、頬に張り付いている糸くずに気づき、人差し指で払うと、
「お兄ちゃんのいうとおり、みじかいほうがジャマじゃなくていいね」
 ようやく重い荷物をおろしたような、ホッとした表情が印象的だった。
 僕は、何も答えることができず、阿呆のように立ち尽くしていた。

858:2021/04/13(火) 18:38:30 ID:QE9nDRzM
 夜になって、パートから帰ってきた母は変貌した佳乃を見て、キャッと小さな叫び声をあげた。
 いじめを疑ったのだろう、母は執拗に髪が短くなった原因を訊ねたが、佳乃はへらりと笑い、
「髪をね、みじかくしたかったの」
 と、無邪気に答えた。
 それからすぐに、佳乃は母とともに美容室へ行って、長短の乱れた髪を整えてもらった。
 けれど、当然のことであるが、一度切られた髪は元に戻らず、快活な少年みたいな姿になって帰ってきた。
 母はしばらくの間、女の子らしさを失った佳乃の姿を嘆いていたが、肝心の本人はどこ吹く風だった。
 その後、時間が経っていく中で、男子みたいに短かった髪が、ようやく女子らしい長さを取り戻していく。
 が、それから先もずっと、佳乃はショートカットのままだった。
 みんなが褒めていたロングヘアに戻ることは、一度もなかった。

859 ◆lSx6T.AFVo:2021/04/13(火) 18:39:45 ID:QE9nDRzM
投稿終わります。
短編となりますので、あと2��3話くらいで終わりとなります。
それでは、よろしくお願いします。

860 ◆Mujm.BuIyU:2021/06/09(水) 16:34:47 ID:fDGdApDk
テスト

861 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:36:11 ID:fDGdApDk
『彼女にNOと言わせる方法』第七話、投稿します。

862 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:36:50 ID:fDGdApDk
「男らしいとは、どういうことなのか。まずは、その定義からハッキリさせようじゃないか」
 夏期講習、午前の部を終えたばかりの昼休み。
 メインで使っている四年二組の教室から、三つほど離れた埃っぽい空き教室の中、僕は授業用の指し棒を手のひらにポンポンと打ち付けながら授業を開始する。
 普段なら決して許されないであろう、教壇に立って教鞭をとるという教職者にしか許されない行為に興奮する気持ちを抑えつつ、雄弁な口調で講義を続ける。
「近藤くん、キミは男らしいとはどう心得るかね?」
 唯一の生徒である近藤くんは、筆箱とノートの配置を終えると、ゆっくりと顔を上げる。
 そうですね……と、少し思案した後、
「まず、運動神経がいいという要素は不可欠だと考えます。体育や運動会などで、八面六臂の活躍ができる男子は、間違いなく男らしいと評されるでしょう」
「ほお……鋭い。実に鋭い視点ではあるが、足りない。足りないなぁ」
 僕のもったいぶった口調に、彼の眉が怪訝そうに上がる。
「して、どういう意味でしょう?」
「考えてもみたまえ。たしかに、運動会のリレーでアンカーを走るような男子は一目置かれる。トップでゴールすれば、クラスのヒーロー待ったなしだろう。けれど、それはあくまで子どもの時だけじゃないかね。大人になった時、足が速いという要素が、果たしてどれだけの意味を持つというのだろう。いい年した大人が、俺って足が速いんだぜ! ってアピールしたところで、得られるのは尊敬ではなく、失笑ではないかね」
「た……たしかに!」
 目からウロコといった様子で、筆箱から鉛筆を取り出すと、あわただしくノートに要約を書きつけていく。さながら、宗教的指導者の語録をまとめる信者といった様子だった。もしくは今風にいえば、オンラインサロンの主催者とそのメンバーといったところか。
「では、運動神経は男らしさの必要条件ではないと」
 くるりと鉛筆を回し、嬉々とした表情で確認をとってくる。彼の残念すぎる運動神経を思えば、これほどポジティブな情報もないだろう。
「いかにも!」
 僕は指し棒を最大限まで伸ばして、近藤くんの鼻先に向かって突き出す。すると、彼はウッとのけぞり手中の鉛筆をノートの上に落とした。
「他には、何が考えられるかね」
「そうですね……」
 と、手中からこぼれた鉛筆を回収しつつ、
「ルールを守る人は男らしいと思います。周囲に車の影がないとしても、信号の色が変わるまで横断歩道を渡らずに待っているような人は、子ども大人に関わらず、尊敬の対象となるでしょう」
「……ルール」
 僕は顔をしかめる。
 チッと舌打ちまで飛び出てしまった。
「ルールを守る人は、全く男らしくないと思うね。ていうかさ、ルールを守らなくちゃいけないという社会の考え方自体がくだらないよ。たとえばさ、うちの学校って、シャープペンシル使用禁止ってルールがあるじゃん? でもさ、あれって合理的な理由何もなくない? どう考えてもシャープペンシルのが便利じゃん。鉛筆と違っていちいち削る必要もないし、芯もすぐに補充できるし。いや……百歩譲ってシャープペンシル禁止まではいいよ。でもさ、ロケット鉛筆まで禁止するってどういう了見なのよ。そんなのルールにないじゃん! ロケット鉛筆禁止なんて明言されてないじゃん! 拡大解釈が過ぎるよ! ちくしょう、僕のおニューのロケット鉛筆を没収しやがって。絶対に許さないからなっ。ということで、ルールを守る人は男らしくないです、はい」

863 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:37:27 ID:fDGdApDk
「はぁ……」
 今の話には同意できなかったのか、かえってきたのは覇気のない返事。
 徐々に尊敬の念が剥がれ落ちているのを感じ、空気を切り替えるためにゴホンと空咳をはさむ。
 このまま学級崩壊(ひとりしか生徒がいないけど)に陥ってしまったら、職員会議(僕しか先生はいないけど)になってしまうので、さっさと結論に入ることにしよう。
 僕は差し棒を教卓に立てかけると、真新しい白のチョークを手に取り、
「男らしいってのは、すなわち」
 その答えを黒板にガリガリ書きつけていく。
「友が困っている時に――迷わず手を差し伸べられることを指す」
 この時、僕的には一番の見せ場のつもりだったのだ。
 ちょっと声を低めにして重厚感を出したし、普段の悪筆を捻じ曲げて読みやすい文字を書くよう心がけた。
 だが、友が困って、のところでチョークがポキリと折れてしまった。
「…………」
 なんと言いましょうか。
 この水たまりに滑ってずぶ濡れになったようなカッコのつかなさを。
 原則として、師とは弟子の前では常にカッコよくてはならない。
 常に威厳を保ち、弟子を導く存在でなければならず、たとえ虚栄だと言われようとも、見栄を張れなくては師とは呼べないのだ。
 ほら、たとえばさ、めっちゃいかつい感じの師匠がさ、陰でこっそり女子向けのスイーツとか食べてたらさ、なんか違うなーって思っちゃうじゃん。急にゆるキャラ感が出ちゃうじゃん。単行本の巻末にあるオマケ漫画の裏設定感が出ちゃうじゃん。
 ってなことを秒で考えた後、さて、どうやって威厳を取り戻そうかなぁと近藤くんを見ると、
「…………」
 彼は、黒板の字をじっと見つめていた。
 思わし気にあごに手を添え、猫背気味の姿勢で、食い入るような瞳をして、途中までしか書かれていない不完全な文章を見つめている。
 極度に集中した生徒が見せるような、滴り落ちる知識の雫を一滴すら逃さまいとする、吝嗇さを感じさせる勉学の態度であった。
 その態度に、面食らったのは僕の方だった。
 正直、何かしらの深い意味を込めた回答ではなかったからだ。
 そもそも、これが僕自身の言葉であるかも怪しく、マンガかアニメかで取り入れた一句かもしれないし、酔った父さんが語る胡散臭い人生論が記憶の奥底に残っていたものかもしれない。
 真剣に受け止められるとは思っていなかったので、端的に言えば動揺していた。
 ……どうやって二の句を継ごうか。
 近藤くんは、校門に立つ二宮金次郎像のように全く動かず、ノート上の鉛筆を拾い上げようともしない。

864 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:37:46 ID:fDGdApDk
 この生真面目すぎる、むず痒い空気に、僕はいよいよ困り果ててしまって、
「だから近藤くん、僕が先生に怒られている時は、即座に援護射撃をするように」
 と、いつもの軽口によって、空気そのものを破壊してしまう他なかった。
 シャボン玉がはじけるように、ハッとした表情で我を取り戻した彼は、
「嫌ですよ。〇〇くんが怒られているのは、いつもあなたが悪いからでしょう。自らの悪行の報いを受けている人をフォローする術なんて知りません」
 器用に弟子の仮面を脱ぎ捨てて、いつものクラス委員長の仮面に取り替える。
 うーむ、オンオフの切り替えが素晴らしい。一瞬で、師に対する尊敬の念が消え失せてしまったぞ。社会人になったら、仕事とプライベートをキッチリ分けるタイプだな。仕事終わった後に飲み会とか誘っても絶対に来なさそう。まあ、僕も絶対に行かないだろうけど。
 なんとなく白けた雰囲気になってしまったので、黒板消しで中途半端な文字列をかき消す。
「それでは、第一回〇〇プレゼンツの漢塾は終了。各自、復習は怠らぬように」
「各自といっても、おれしか生徒はいないですけどね」
 さらっとツッコミを入れつつ、筆箱とノートをリュックにしまう。代わりに取り出したのは弁当箱で、しゅるりと包みを紐解きながら、
「それじゃあ、昼食にしましょうか。早くしないと、午後の授業が始まってしまいますし」
「そうだね。お腹ペコペコでお腹と背中がくっつきそうだよ」
 僕もさっさと師匠の仮面を脱いでしまい、近藤くんと一緒にランチタイムを開始する。
 切り替えの早い者同士なので、こうしてすぐにクラスメイトとして接することができるのは、案外ありがたいことなのかもしれない。大人ならもっと面倒なしがらみとかがたくさんあるんだろうな、とかちょっと考える。
 たとえプライベートであっても、会社の上司と部下が全くフラットな状態で接することが不可能なことは、日々の父さんの愚痴から想定できる。
 やっぱり大人って、いいところないなぁ。
 おにぎりを頬張りながら、そう素朴に思った。

865 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:38:32 ID:fDGdApDk
 とまあ、こんな形でスタートした漢塾ではあるが、なかなか好調な滑り出しだったのではないでしょうか。
 果たして、僕の益荒男論が近藤くんにどの程度の効用をもたらすのかは謎ではあるが、今のところ、興味深そうに講義を聞いてくれているので、僕としてもありがたい。冷め切った観客ばかりの音楽フェスみたいな様相を呈さなくてよかったよ……。
 今回、人生で初めて教師役を務めることとなったのは、僕としても貴重な経験だった。おかげで、いろいろと実感したことがある。
 まずひとつは、授業というのは教師と生徒の両者で成り立たせるものということだ。
 教師からの一方通行の授業がいかにつまらないものであるかは、今さら説明するまでもないだろう。一時停止のきかないムービーのように、だらだらと垂れ流されるだけの講釈は、ほとんど耳に残りやせず、終始あくびを噛み殺すハメになる。
 授業がつまらないのは、全部教師のせいだ。
 今までは純粋にそう考えていたのだが、今回でそれが浅薄な考えだと気づいた。
 我々生徒側にも反省すべき点はあったのだ。
 先ほどの近藤くんのように、積極的に授業にコミットする姿勢を見せれば、自然と教師側のやる気も湧いてくるし、眠そうな顔をしている生徒を相手にしていれば、モチベーションは下降線を辿っていく。
 つまり、授業はお互いに補っていく必要があるのだ。
 どうすればわかりやすく伝わるだろう、どうすれば興味を持ってくれるだろう。教師はそう考えなくてはならないし、生徒もどうすれば理解できるのかを必死で考えなくてはならない。
 それを実行できれば、互いの相乗効果により、授業はもっと充実したものになっていく。
 先ほどの音楽フェスの例を用いれば、ミュージシャンも観客もノリノリの方が会場全体が盛り上がるのと一緒だ。
 そして、次に気づかされたのは、近藤くんがいかに優秀な生徒であるかということだ。
 正直に告白するが、僕にとって、近藤くんのいい子ちゃんな態度が鼻につくものだった。
 教師から質問があれば、いの一番に手をあげるし、逆に教師に質問をしたりする。
 以上のような、ちゃんと授業を聞いてますよアピールは、僕をはじめとする悪ガキにとって好ましく映らないのは当然だった。
 ケッ、媚びを売りやがって。内申点稼ぎ、ご苦労様ですね!
 ってな感じで、彼に対しては斜に構えていたところがあったのだが、どうやら間違っていたのは僕の方みたいだった。
 単に、近藤くんは授業をより充実したものにしようと積極的に動いてくれていたのだ。我がクラス委員長は、僕なんかよりもずっと前に、授業の本質というものに気づいていたらしく、教室内に硬直化した空気が生まれないように、常に気を使っていたのだろう。
 流石だよなー。
 先生に可愛がられているのも、うなずける話というものだ。

866 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:39:03 ID:fDGdApDk
 ってなことを考えながら、おにぎりを食べ終えると、
「そういえば、〇〇くん。夏休みの宿題はどの程度まで進んでいますか」
「あのさぁ……食事中に夏休みの宿題の話はマナー違反だって、親に教わらなかった? ったく、これだから育ちの悪いやつは」
「どこの世界の行儀作法ですか。まあ……その様子だと全然進んでいないようですね」
「おいおい、一方的な決めつけはよくないな。クラス委員長たるもの、クラスメイトのことをもっと信用すべきではないかね?」
「信用していますよ。〇〇くんなら絶対に夏休みの宿題に手をつけていないってことを」
「マイナスの方の信頼だったかー」
 あちゃーと額に手をやると、彼は呆れたようにため息をつき、
「〇〇くん。提案なのですが、明日からは夏休みの宿題を持ってきてはどうでしょう」
「夏休みの宿題を? もしかして、夏期講習が終わった後に夏休みの宿題をやらせるような鬼畜の所業を……?」
「できれば、そうしたいところなんですけどね」
 フッと意味深な笑みを浮かべる近藤くん。マジでやりかねないから、変に行間を匂わせるのはやめて欲しい……明日から不登校になっちゃうぞ。
「やるのは放課後ではなく、夏期講習中にですよ。プリントの方も順調に進んでいますし、平行して夏休みの宿題に着手してもいい頃合いだと思いましてね」
「え、夏期講習中に夏休みの宿題をやってもいいの?」
「全く問題ないです。むしろ、夏期講習を夏休みの宿題をやる場として考えている子もいるくらいですよ。ちなみにですが、宿題をやる場合であっても、わからない点があれば挙手して訊いていただいて大丈夫です。おれと先生が教えに行きます」
「でも、二足の草鞋を履いていいのかな。夏期講習用のプリントと夏休みの宿題とじゃ混乱しちまいそうだな。どっちかに集中した方がいい気がするけど……」
「どうして、そこで謎の渋りを見せるのですか。別に、最終的には〇〇くんに任せますが……おれはもう嫌なんですよ。夏休み明けに、担任の先生と醜い攻防を繰り広げる様を見せつけられるのは」
 近藤くんとは、去年も同じクラスだったからな……九月一日が修羅場となるのをご存じらしい。なんなら、今年も夏休み前に名指しで牽制球投げられているからな。「今年こそはマジで頼むぞ」と全然笑っていない瞳で念押しされたっけか……。
 ふーむ。
 でも、これはチャンスではないか。
 どうせ、家でコツコツ夏休みの宿題をやるタイプではないのだ。この夏季講習という場の勢いを借りて、一気に終わらせてしまうのも手ではないか。
 というか、近藤くんの言う通り、これを断る理由が全然なかった。
 何も僕だって、好きで担任の先生とバトルしているわけではないのだ。僕もそろそろ中学生になるわけだし、悪童を卒業するタイミングが来たのかもしれない。
 というわけで、僕は近藤くんの提案を——
「いや、やっぱりやめとくよ」
 ——その直前で、断った。
 僕の回答を受けて、彼は露骨に顔をしかめている。またぞろ、僕が無意味な反抗をしていると思っているのだろう。
「いい加減にしてくださいよ。少なくとも〇〇くんの場合は、夏期講習用のプリントよりも夏休みの宿題の方が、断トツで優先度は高いでしょう」
「近藤くんの言っていることはわかるんだけどさ……ほら、まずは基礎をしっかりさせないと。せっかくプリントが着実に進んでいるんだから、一歩一歩、確実に階段を上がっていく必要があると思う。それにさ、僕がプリントと宿題の両方を同時にやれる器用さを持っていると思うかい?」
 自分の提案が断られて不満に感じるところはあるようだが、僕の言うことにも一理あるとは思ったのか、近藤くんは弁当箱のフタを閉めると、わかりましたと脱力してうなずく。
「〇〇くんが、そこまで言うのなら強制はしませんが……けど、宿題は家でしっかり進めておいてくださいね。アサガオの観察日記は、ちゃんとつけていますか」
「大丈夫。無駄に書かなくて済むように、もう枯らしておいたから」
 説教する気力すら失せてしまったようで、メガネの奥の瞳はひたすら軽蔑の色に染まっている。
 ……明日からの漢塾は大丈夫だよね? 師匠に対する尊敬の念は死滅してないよね? 授業をボイコットしたりしないよね?
 僕はハハハと乾いた笑みで誤魔化しながら、同じく弁当箱のフタを閉めたのだった。

867 ◆lSx6T.AFVo:2021/06/09(水) 16:41:16 ID:fDGdApDk
投稿、終わりです。
短いですが、次話はすぐに投稿できると思います。
よろしくお願いいたします。

868雌豚のにおい@774人目:2021/06/18(金) 00:44:12 ID:8yUtizzo
お二人ともGJ!

869<ヤンデレさんがお持ち帰りしました>:<ヤンデレさんがお持ち帰りしました>
<ヤンデレさんがお持ち帰りしました>

870雌豚のにおい@774人目:2022/04/25(月) 00:03:36 ID:tfFYC1Q2
せめて読んでた作品が完結するとこまで見たかったなぁ。

871Jelopve ◆y1j6jXIdjI:2023/08/08(火) 17:10:38 ID:n5qjqLs2
失礼します
初めての投稿です。

872Jelopve ◆y1j6jXIdjI:2023/08/08(火) 17:11:03 ID:n5qjqLs2
「消耗戦」


僕はジョン・ヴィレッジ。こう見えて、実はアメリカとイギリスのハーフだ。今は。小説家だ。
幼い頃はコモンウェルス・オブ・ネイションズ、通称:コモンウェルス、つまりはイギリスとかカナダとかオーストリアらへんでずっと暮らしていた。
イギリス人の母と実家で暮らしていたのだが、たまにカルフォルニアから来る父もいつも通りのお姿で安心している。

今日も良い天気だ。しかし、そこで転機が来る...ことを転記しよう、なんてね。(おもんなさの転帰がツライ)
..っと、茶番は置いておいて。あの二人が来てしまいました。そう、前者は、クルーピ・モントリオール。金髪ショートで、普段だと落ち着いているが僕と居る時だけ異常な程に性格が違う。
後者は、パース・タスマニア。黒髪ロングで、学生時代はオール5がいつも続いていた為、黒神と呼ばれたりだしていたらしい。

「慈恩寺殿。今日も御一緒に参りましょう?」
「鄭君。これで遊ぼう?」
「寺の名前で呼ばないでくれ。あと、鄭って何ですか」
「えぇ、じゃあ、ジオン君って呼んだ方が良い?」
「ジークジオン!」
こうして日常的に話をしていたのだ。

「あ、そうそう。ゲームっていうのはね、これ」
「おぉ...流石クルーピ殿でございます」
見せたのは、軍事シミュレーションゲームだった。しかも、パソコンやスマホでするあれではなく、ボードゲーム的な感じだった。
「これで、遊んでくれと言うのか?」
「そうなんだけど、ジョン君は見ててほしいの」
彼女は続く。
「これで、私とパースちゃんは勝負をするの」
「勝負か?」
「そう。どっちかが勝ったらジョン君を貰うって約束をね、してたの」
「ま、まじか。それを事前に言ってくれよ」
「でもざーんねん。手遅れです」
おいおいおいおいおいおい。正気か。

結局、僕を賭けた戦いが始まってしまったのだ。

クルーピはアメリカ側で、パースはソ連側。見た目的に冷たい戦争って感じだな。

「うーん」
「わー」
「いや、これは」
多少だが呟きっぽいものが聞こえる。

前線では、いくらクルーピは倒したとしても、パースがまた倍以上の兵士で現れてくる。これが、畑から取れるってやつか。
しかし、クルーピも技術的に有利で、奇襲や特殊部隊を敵陣地であおり散らかすこともしている。

始めからどれほどたったものだろうか。もう既に日は暮れそうにある。

「あ〜もう、動けるユニットがないわ」
「私もです」
「これは引き分けじゃないか?」
二人はそっと頷く。
「で、どうするんだ?」
「う〜ん。じゃ、ジョン君に決めてもらおうかな」
「そうですね」
ほう、来たか。ついにこの時が。
「よし、それでは誰も選ばないってことd」
「どうして?」
二人はこっちに向かって、
「「ねえどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうし(ry」」
こうしてジョンは、二人に人生を奪われるのでした。

873Jelopve ◆y1j6jXIdjI:2023/08/08(火) 17:12:36 ID:n5qjqLs2
投稿終了です。始めてですので、誤字脱字等してしまうかもしれませんがその時はお許しください。

874雌豚のにおい@774人目:2023/09/06(水) 06:53:43 ID:brNXkrr6
久しぶりに新作きててめちゃくちゃ嬉しい

875雌豚のにおい@774人目:2023/10/29(日) 10:44:06 ID:IWRV2xz2
投下します。
遅筆&別サイトでもあげてるものですが、見ていただけると嬉しいです。

876フラグを折りたい男:2023/10/29(日) 10:47:39 ID:IWRV2xz2
「私と付き合いなさい!」

「唐突すぎない?」



中学校の卒業式の帰り道、幼なじみの水瀬 優(みずせ ゆう)に告白された。



勿論、俺の返事は...「ごめ...」「いや、あのね!! あんたなら私の家の事情わかるでしょ!! その...高校生になったらお見合いしてもらう!って言われて、私も知らない人と結婚なんて嫌だからさ! その...えっと......そう! カモフラージュ! 偽の恋人役になってほしいのよ!」



俺の返事に被せて矢継ぎ早に答えた。

あぁ、そういうことか。

優の家は会社をいくつも経営しており、良家のお嬢様なのだ。

それなら、話はわかるが...。



「それなら、俺より俊とかの方が良くないか?」



俺はこの場にはいないもう1人の幼なじみ、柳瀬 俊(やなせ しゅん)の名前を出してみた。



「俊はその...イケメンだから駄目なのよ! ほら!私の周りにイケメンなんて腐るほど寄ってくるし!!」



確かに。

笑えるほど告白されたりしてるもんな。

あれ? もしかして、俺が選ばれたのって...。



「イケメンじゃないからか?」

「っ...!そっ、そうよ! だから、あんたが一番適役なのよ!!」



何とも悲しい選ばれ方だ。

確かに俺の見た目なら、優の好みがイケメンではなく、ゲテモノ好きなんだと思わせることも出来るってことか。

納得した。



「いいぞ。」

「えっ!? 本当にっ!?」

「昔馴染みのお願い事なら、なるべく叶えたいからな。」

「ありがとう! じゃあ、私達は今から恋人ね!」

「恋人の"フリ"な?」



優はうぐぅ...と顔を歪ませた。

どういう感情なんだ、それは。



「とにかく! 私達は今から彼氏彼女なんだからね! 明日から早速行動するわよ!」

「はいはい。」



私は先に帰るね!と言い、ダッシュで帰っていった。

1人取り残された俺は、優からの告白が本気のやつじゃなくて安堵した。



何故なら...俺じゃ優の恋人なんて出来ないと思ったからだ。



絵に描いたような美少女、それが水瀬 優。

対する俺は、無駄に高い身長、家業で無駄についた筋肉、柄の悪い人相...。

泣かした子供は数知れず、困っている人に声を掛けたら怖がられる始末。



優の恋人としては、余りにも不合格すぎる男、それが日生 陽(ひなせ よう)という人間だ。

この事、俊は知ってるのかな? 帰ったら聞いてみるか。

数分ほど時間が経って、俺も帰ることにした

877フラグを折りたい男:2023/10/29(日) 10:49:38 ID:IWRV2xz2
投下終了。
すいません、すごく読みにくいですね。
次気を付けます((T_T))

878フラグを折りたい男:2023/11/02(木) 17:06:44 ID:ILlYCDeU
投下します

879フラグを折りたい男:2023/11/02(木) 17:09:00 ID:ILlYCDeU
「すまん、聞きたい事があるんだが」
「なにー、どうしたー?」
帰宅してすぐに俊に電話をかけ、事の成行を話すと「あー...そうなんだ...一応は一歩前進...いや、うーん...」と何とも言えない、もやもやした気持ちを押し殺したような声が通話越しに聞こえた。
「なんだ? 何かあるのか?」
「いやー、うん...俺の口からは何とも言えないが、優が満足するまで恋人のふりをしていくのが今のところいいんじゃないかな?」
「優の話を聞いて思ったんだが、恋人のふりをするなら俊の方が適任じゃないかなと思ってるんだが」
二人とも美男美女だし、恋人同士でも周囲は疑問に思わないだろうし、俺は二人ともお似合いだと思うんだがな。
「いや...お前...それは...それ優に言ったのか?」
「ん? あぁ、言ったぞ。 俺より俊の方がお似合いだぞと伝えたな」
「.........」
絶句。
通話越しにでもそう感じるぐらい重い雰囲気と呆れたような沈黙が数秒続いた。

えっ? 俺、そんなに変なこと言ったか?
「...まぁ、経緯はどうあれ、お前も優と恋人同士になるんだろ! そのまま、平和に付き合ってくれ! 俺からは以上だ!! じゃあな!!」
「あっ...切りやがった...」
色々と相談したいこともあったのに、俊は何も取り合ってくれなかった。
面倒見が良くて優しい俊に一方的に電話を切られると、悲しい気持ちになるな...。
平和的に付き合えって言われても、優に彼氏が出来たとわかったなら瞬く間に全校生徒に話が行き渡るだろう。
しかも、付き合う相手が俺だ。

好奇の視線より、憎悪の視線が降り注ぎそうだ。
イケメンパラダイスな日常を送っている優が俺という異物と付き合うことで、様々な噂が飛び交うことになると思うが、どうなることやら...。
まぁ、俺は何言われてもそこまで気にならないし優に本当に好きな人が出来るまで恋人の振りを続けてみるか。

彼の自己評価は"大多数"の人には納得するものだろう。
だが、彼はもっと知っておくべきだったかもしれない。
自己評価が絶対的に正しくないということを。

880フラグを折りたい男:2023/11/02(木) 17:15:17 ID:ILlYCDeU
投下終了します。
前より読みやすくやっていれば嬉しいです


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