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聖典紹介板

1「訊け」管理人:2013/08/17(土) 07:53:15

 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。


 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

2「訊け」管理人:2013/08/30(金) 07:12:19


 いやホント、「これです」よね。これが、〝生長の家〟ですよね。これだから、スゴイのですよね。



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 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。

『神癒の展開としての人類光明化運動』(榎本惠吾著)より――

全文:
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65747173.html

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 もう、「自分のチカラは要らない」のです。これが、雅春先生のお悟りで御座いました。自分(=我)のチカラを加えなければ支えられない、そんな完全円満があるでしょうか・・・・・答えは「ナイ」のです。我のチカラに支えられて、ようやく立っているようなモノ、そんなモノは「神とは呼べない」わけです。

 ・・・・・いやホント、「これです」よね。これが、〝生長の家〟ですよね。これだから、スゴイのですよね。ご紹介くださった「復興G」さまに、感謝です。



3「訊け」管理人:2013/08/31(土) 08:57:24

『孟子日訓』(谷口雅春著書)51頁より謹写――


「孟子曰く、万物皆我に備わる。身に反して誠なれば楽しみこれより大なるはなし。強恕して行なう、仁を求むるこれより近きはなし。」

(谷口雅春師意訳)

 孟子は被仰った。「万物は皆自分のうちに備わっているのである。外にあると思っているのは間違いである。外にあると思えばこそ他人のものが欲しくなったり、他人が自分を害すると思ったりするのであるが、外にあると思へているものは本当は自分の内に備わっているのである。自分の身を振り返って見て、誠すなわち実相を見ると、もう既に救われている自分、もう既に一切の宝が満ち備わっている自分である事がわかるのである。身を振り返って見て実相即ち本当の相を見いだすことが大切である。すべて偉い人は自分のうちに無限力が宿っていると知って、それを掘り出すようにしたから偉くなったのである。

 自分のうちに宿っている無限力を招び出すほど楽しいことはないのである。だから偉い人は自分はよく勉強して、自分の中の無限力を掘り出そうとつとめるが、人に対しては、もし間違いがあっても、彼の実相はあんな醜い姿ではない、本当は立派な神の子だと許して、寛大とした心で物事をやるから、仁すなわち自他一体の愛の道を行なうことが容易く出来るようになるのである。

4「訊け」管理人:2013/08/31(土) 09:05:40

『幸福を招く365章』110頁より謹写――

 多くの人たちは、自分の祈りが成就しないのが当たり前であると云うような前提的観念のもとに祈っているのではないでしょうか。だから此等(これら)の人たちは、祈りが成就したならば、それを驚くべき奇蹟であるかのように驚くのであります。有り得べからざることがあったので、「有りがたい事」だなどと云うのであります。こんなことでは可けません。自分の祈りが成就するなどと云うことは有り難いことだと考えずに、かかる希望を私に起せたまうのは既にそれが当然成就すべきものであるがゆえに、かかる希望を起さしめ給うたのであるとこそ考うべきであります。更に進んでは、その事は実相に於いては既に成就しておればこそ、その投影としてかかる希望を抱かしめ給うたのだと信ずべきであります。

5「訊け」管理人:2013/09/12(木) 16:19:50

『古事記と日本国の世界的使命』159頁より謹写――

 吾等は新日本の前途に就いて毫(ごう)も不安を感じることは要らないのであります。若し憂慮すべしとするならば、三界は唯心所現でありますから、この新日本の実相を信じないで、我国の前途に就て、不安憂慮の声を洩らし、国民の意気を沮喪(そそう)せしめ、国論の団結を破壊してしまう種類の人であって、かかる人は『憂国の人』のように見えましょうとも国民の一致団結を破り、日本の実相の顕現の日を遅らせる働(はたらき)をする人ですから注意せねばなりません。

6「訊け」管理人:2013/09/14(土) 03:39:02

近江商人の商売十訓

①商売は世の為、人の為の奉仕にして、利益はその当然の報酬なり

②店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何

③売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる

④資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし

⑤無理に売るな、客の好むものも売るな、客の為になるものを売れ

⑥良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり

⑦紙一枚でも景品はお客を喜ばせる、つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ

⑧正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ

⑨今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ

⑩商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

7「訊け」管理人:2013/10/17(木) 07:14:58


『生命の實相』38巻「幸福篇下」10月17日頁より謹写――


自己を深く掘り下げよ!

 ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも土壌を深耕しなければならない。深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば必ず予想外の尊いものが発見される。
 ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。人間もまたかくのごときものである。

 表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが必ず発見されることだけは信じてよい。なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。


<了>

8「訊け」管理人:2013/11/14(木) 06:04:54

『神と偕に生きる真理365章』51頁より謹写――


 神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべて一つの神の示現であり、従って「一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界」である。すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって、辛(や)っと築き上げた如き自力の世界ではないのである。すべてが神の示現であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。

 随って、人間的なはからいによって、「この善」「この幸福」を求めることは不要である。ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。まことにも「叩けよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。「先ず神の国と神の義(ただしき)をと求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」とはよく言われたものである。

9「訊け」管理人:2013/11/14(木) 06:06:21

『幸福を招く365章』64頁より謹写――


 与えると受けるとは、両方とも神の出入り口である。与えるは父性愛であり、受けるは母性愛である。

 両方とも感謝が伴うとき其処に天国が誕生するのである。今まで受けて来たもの、今、受けつつあるもの、未来に受けんとしつつあるもの一切に対して感謝せよ。「有りがとうございます」は母性原理の表現、受ける感謝の表現である。しかし受ける感謝ばかりでは足りないのである。受けるは消極的である。与えるは積極的である。それは「与える祝福」(吾れ汝に幸福を与う)の父性原理に一段と飛躍するとき、消極と積極と、受動と能動とが整備して人生に本当の天国が生れるのである。

10「訊け」管理人:2013/11/14(木) 13:56:41

『すべてを癒す道』86頁より謹写――

<神以外のものは何もない>

 救いの根本は、神を著わす以外にありません。生長の家の御教えの基本となり、根本となるものは数多くの神示であり、聖経であります。谷口雅春先生がおかき下さった『生命の實相』全巻はもちろん、神様の声なき声(真理)を私どもにわかるようにお示し頂いたものでありますが、とくに神示として御発表頂いたものや、御聖経(詩の形式)となったものは神霊のひびきそのものであり、神直々のおとことばであります。その聖経『甘露の法雨』の中には、いろいろの真理が示されてあり、いずれも尊いものばかりでありますが、とくに「神」の項に、

 「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。存在するものにして神によって造られざるものなし」

 とあります。このこと一つが魂の底から納得せられ、自覚出来れば万事解決するのであります。人間が悩むとか苦しむとかいうのは、このお言葉を単なる文章としてだけ受けとめ、生命として受けとめていない証拠であります。神以外の自分があり、神以外の人間があり、神以外のものがあり、神以外の出来事があると思い違いしているからであります。神一元に徹し、すべてを神に帰一したとき、一切の悪は、完全に消滅するのであります。このことは『甘露の法雨』では、

 「神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」

 とお示しくださっております。
ここにお示し頂いたように、救いが現われないで、悩んだり苦しんだりするということは、とりもなおさず、神を押し込めてしまって現さないようにしているということであります。電燈にカバーをかけて、部屋を暗くしているようなものであり、それでは救われようがないのであります。救われるとは、あるかの如く現れている悪いものを、何らかの方法でなくすることではなく、本来無い悪をもとの善なる姿にすることであります。それはないものをないと否定する以外にはありません。

 信仰とは虚のもの(現象)の否定の連続であり、否定し切ったとき實相の完全さのみが現われるのであります。
 谷口雅春先生は、神とは自己否定の極致であり、實相とは現象否定の極致であるとお説き下さいます。ここが最も大切なところであります。ここのところをぬきにして、救われようと願うことは、電源にスイッチを入れないで電燈を明るくしようと願っているようなものであります。電球の力でともるのではなく、電源から供給される電力によってともっているように、自分の力で生きているのでも自分の努力でしているのでもなかった。すべて神様からの恵みによるものであったと全面的に神に帰依し、投げ出すとき救いは成就するのであります。


(つづく)

11「訊け」管理人:2013/11/14(木) 13:57:12

(つづき)

<「わかる」より「信じて行ずる」>

 私どものところに、「どうじてもわかりませんが、どうしたらわかるでしょうか?」とききにこられる方や、また、「長い間生長の家で本も沢山よみ、お話も何べんもきいて、何もかもよくわかっているのですが、少しも善くならないのはなぜか?」とたずねに来られる方がよくあります。
 こんな方に私は、「わかってどうされるのですか?宗教学者になられるのですか?それとも評論家になられるのですか?」とおたずねします。「宗教は覚えることでも識ることでもありませんよ。信ずることですよ。生活することですよ」と申します。宗教の根本は信であり、信とは実感であって、味のようなものであります。味というものは他人の説明や話では絶対にわかるものではありません。自ら食し、自ら体験する以外に方法はありません。身体で行じ、実践する以外にありません。声なき声をきき、姿なき姿をみるのでありますから、他人から教えられただけで体得することは出来ません。お話や文書は、参考にはなりますが、直接の救いとはなりません。真理は絶対でありますから、表現できるものではないのです。表現したものはすべて方便であります。真理は表現出来ないから教えることも出来ません。結局は自得する以外にありません。味を覚えるのは食べる以外に方法がないのと同じであります。

 求道においてもっとも大切なのは、礼拝行であり、拝み切ることであります。神に見えるまで拝み切る行であります。真剣に命がけで拝み切ったとき、拝むことさえ出来ない自分を発見します。その絶対絶命の境地の中から、神をみることが出来るのです。生長の家はただ合掌し、ただ感謝する教えであります。拝まなければならないのではなく、拝まずにいられなくなる教えであります。それは人間なるものの正体が明らかになり、本当の自分を発見するからであります。まことの我れを発見し自覚するとき、拝まずにはいられなくなり、拝まずにはいられなくなったとき、腹の底から満足感が湧き、喜びがうまれるのであります。そこが天国であり、極楽であります。救われることを願う必要さえなくなるのであります。
 
 人間は本来神の子であり、神でありますから、願う自由は与えられているのであります。悪や不完全なものから逃れて、完全な姿にかえりたいと願う心が起るのは、自我や欲望ではなく、内在の神性が顕現しようとする働きでありまして、この願いがそのまま尊いのであります。私たちは常に神想観を怠らず、素直にその内なる願いに耳を傾け、その声に従うことが大切であります。自我から出発したものは、欲望であり、要求でありますから、必ず苦痛を伴います。苦痛を伴うものは、無明でありますから、そのようなものは極力否定し、相手にならないように努め、常に真実の願いに向かって前進することか肝腎であります。苦痛や後悔を伴うことは、無明でありますから、断じて妥協してはなりません。真剣な願いは神意の顕現でありますから、例えどのような結果になっても後悔などありません。一時わるい結果があらわれたように見えても、それはより完全へ進む過程でありますから、そんなものに動揺せず、確固不動の信念をもって一途に邁進すればよろしいのであります。

<了>

13商人:2013/11/15(金) 06:53:33
生命の實相  智慧の言葉より

苦しくても逃げ出そうと思うな、自己が置かれている境遇が、自己のたましいの生長に最も好い栄養であるのである。
たましいがその境遇から得られるあらゆる栄養を吸いとつたとき、別の境遇がおのづから開けてくる。

15「訊け」管理人:2013/11/15(金) 14:48:59

『生活と人間の再建』第11章 「信仰生活の種々相」より謹写――

<解決を神の方法に委せ切れ>

 もし吾々があらゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現れたとしたならば、吾々は喜ばなければならないのである。それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。

 地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。またその地面を平かにしようと鍬や鋤を加えてはならない。吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。吾々は神に全托しなければならない。神は「神の方法によって」吾が祈りにこたえ給うのである。自分の我の心で「神の方法」を批判してはならない。かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、

 「神よ、あなたの無限の智慧を以って吾を導き給え。神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えてわが魂の発達致しますように」

 というようでなければならないのである。

16商人:2013/11/16(土) 07:04:41
生命の實相  智慧の言葉より

自分は商人になるのだから、商売のほか何も知らないで可い訳のものではない。時々の流行の
潮流に、押流されて浮沈する画家や商売人なら、それでも可いかも知れない。併し、時の試練
に耐え、凡ゆる人々の評価に耐え、凡ての時代を通じて不滅のものを作り出すには、画家でも
商売人でも『全ての人の心』をば摑まねばならぬ。『すべての人の心』を摑むのは、自分が先づ『全人』になることである。
自分が先づ『全人』になって『全ての人の心』を摑む藝術が出来、自分が先づ全人になって『すべての人の心』を摑む大事業が出来るのである。

17榎本先生ファン:2013/11/16(土) 09:04:34
榎本恵吾記念館「葩さんさん」より

 生長の家では、恨み心や憎み心、赦せない心があると完全な實相が出てくることを邪魔をしてしまって出て来れなくしている、と仮にそういう表現をするときもありますが、その恨みや憎みや赦せない心も神様が取り去ってくださるのであるというのが本当の教えなのです。なぜなら「神の国は汝らの内にあり」であり、神の国、即ちはじめのはじめからそのままで善いという實相はいつも私達の内に厳然とあり続けているのであり、私たちは常に神に愛され、生かされ、赦され続けているからです。神はいつもこちら側にいてくださるのが大前提であればこそ、懺悔さえも神様に任せることができるのです。憎みや恨みや赦せないという心が現実にあって、その向こうに神を追いやってしまってはいけないのです。全托するということも全托できるのでなければまことの全托とは言えないのです。こちらの力は何も要らないのであり、神と一度も離れたことのない、晴れ渡って、澄み切って、神と一つである姿が先であって、それは永遠の昔から、今も、久遠の先の先まで変わることのない實在の實相であるというところに全托という雰囲気が生まれるのであります。

18「訊け」管理人:2013/11/16(土) 18:19:04

『靜思集』19頁より謹写――

 あなたは此頃(このごろ)生活に悦びが感じられなくなったと被仰(おっしゃ)いますが、それは「私」と云うものが次第にまた頭を擡(もた)げて来たからではございませんか。「個我」(わたくし)と云うものは本来無いものでございますから「個我」と云うものの悦びなどは本来無いのでございます。本来無い「個我」を養い育てて本来無い個私の悦びを味わおうと思っていらっしゃいましたのが貴方の迷いでございました。貴方は個我さえ伸ばしたら自由が得られて幸福だと思って分裂相克を進んで選ばれたのでした。貴方は伸びて行くように見えていますけれども、それは形の上で伸びて往っているだけで魂の方では退歩しているのでございます。だから其の分裂相克からは決して本当の「悦び」は得られるものではありません。

 日比野友子さんが或る年の九月、北海道の諸地方に巡講にいらっしゃいました。日比野さんは、「感謝」の生活を強調してお話しになりました。講演後の誌友会で、ある傍聴者が日比野さんに食ってかかりました。「あなたは感謝の生活を強調なさいますが、感謝の生活だけでは消極的だと思います」「それではもっと積極的なものとは何ですか」「〝よろこび〟です」と其の傍聴者は昂然として言いました。「それでは其のよろこびを得るにはそうして得るのですか」その人は回答しませんでした。日比野さんは被仰(おっしゃ)いました。

 「感謝したとき本当によろこびが得られるのではありませんか。感謝のないよろこびは根のない浮草のようなものです」

 まことにその通りでございます。感謝の伴ったよろこびでなければ本物ではありません。


 前進は時として後退によって起るものでございます。老子は『枉(まが)れば則ち直し』と申しましたが尺取虫は枉(まが)ることによって前進しますし、人と人との交渉は、先ず最初に譲って相手の悦びそうな一語を与えて置いて、相手の気をよくして置いてからこちらが欲するところを主張すれば、相手は容易にこちらの望むところを容れて呉れるものだと云うことであります。無闇に突っ張るばかりが打勝つ所以ではないのでございます。巨大な魚を釣り上げるのは、無理に頑張って糸を引張ることではないのであります。無理に引張れば糸が切れます。魚が引けば糸を延ばし、魚が抵抗をやめたとき糸を手繰る ―― 糸を延ばすときは魚に負けたかのように見えましょうとも、それは魚に負けたのではないのであります。前進は後退によって獲得することがあると云うのは、この事でございます。我を張れば互いに傷つく。野球のボールは手前に引くように掌を後退せしめて受ければ、掌が痛むと云うことはないのであります。

 叩かれて黙っている者は時として一大偉人であります。「汝の右の頬を打つ者あらば、左の頬をも旋(めぐ)らしてこれを打たせよ。上衣を奪う者には下着をも与えよ。十里の公役を強いる者あらば二十里を行け」これはただ後退の教でも無抵抗の教でもない、「我れ地に穏かを出ださんが為に来れるに非ず、剣を出ださんが為に来れるなり」其処に必勝剣が蔵されているのでございます。


<了>

19月のひめ:2014/02/25(火) 21:27:10
合掌ありがとうございます。
前からこのスレッドはチラチラ覗いていたのですが今回、1から通して読ませていただきました。
訊け管理人様の7で勇気をもらい、
訊けさまの10で、「神とは自己否定の極致であり、實相とは現象否定の極致であり」に感じ入りました。
訊けさんの11の「(分かる)より(信じて行ずる)」でずっとつかめなかった信仰の信ずるということが少しわかりました。実行あるのみですね。「求道においてもっとも大切なのは礼拝行であり」は、そのあとは難しすぎて分からないのですがいつか分かりたいです。拝まずにいられなくなるとは、拝むこと自体が幸せな気持ちなのですね。
15の訊けさんの祈りの言葉はありがたかったです。さっそく祈ってみました。ありがとう^_^
17の榎本先生ファン様のきっと榎本先生のご文章には自分が澄み切ってきた気がしました。今までとは全く違った角度からの全托の説明ありがとうございます。ご文書を読み澄み切った心持ちの安心感になりました。
スレッドの終わりにいくにつれどんどん引き込まれて清まったようです。
明るく努力いたします。
再拝

20「訊け」管理人:2014/02/26(水) 09:33:19

>>月のひめ様

 ありがとうございます。ここの聖典板は〝その時々に、私を励ましてくれたご文章〟を掲載しております。その時々に ―― 持っている悩みによって ―― 印章が違うものですよね、雅春先生のお言葉は。後日読むと感銘を受けたりすることが、多々あります。それ以前は、たいして感動していなかったとしても・・・・その意味でここの板に掲載しているご文章は、「私の悩み遍歴・確認所」でもあるんです(笑)ああ、あの時期はあんな悩みがあったなあ・・・とか。

 ・・・・・・順を追って読まれたご様子ですね。私同様のお悩みを、かかえておられるのかもしれませんね、感銘をお受けになられたご様子ですので。



追伸

 しかしながら雅春先生ですが、「どうしてこんなにも偉大なのでしょう」かね。大熊事務所の新年会でも、この話題で盛り上がりましたが、どうしてこんなにも、「ご文章だけで問題解決してくださる」のでしょう。また、藤原敏之先生や榎本恵吾先生など、ご高弟も尋常のレベルでは、ありません。

 ・・・・・本当にこの御教えに触れて、幸せですね、我々は。

21月のひめ:2014/02/26(水) 12:04:18
訊けさま、谷口雅春先生の教えに触れることができたのは、幸せなことです。そうですね。

22月のひめ:2014/02/26(水) 12:04:29
訊けさま、谷口雅春先生の教えに触れることができたのは、幸せなことです。そうですね(^人^)

23さくら:2014/03/30(日) 23:46:54

「 心臓は修行によって動いたのではないのである。
 決意によって動いたのでもなければ、
 説教を受けてから動いたのでもなく、お経を誦げてから動いたのでもなく、
 お祈りをしてから動いたのでもないのである。

 そのような一切の条件を越えて、まずこのいのちがいきていたのである。
 宗教にふれてからではないのである。
 宗教はそのいのちを讃えるためにあるのであって、宗教によっていのちをあらしめられるのではないのである。

 赤ん坊が生まれて、その赤ん坊が可愛くて、このいのちを祝して、喜ばしい名前をつけるのである。
 名前をつけてから赤ん坊が生まれるのではないのである。

 宗教によって救われるのではないのである。
 救われている尊いいのちが先ず先にあって、それを拝むのが宗教である。

 「私は一度も救ったことはない。すでに救われ済みのすべてを拝むだけである。」という宗教家が最も美しい宗教家であると言わなければならないのである。


 諸君は、このような宗教または宗教家がいるのかどうかと問うであろう。そしてそれを示して見よ、というかもしれない。
しかしそれは自分で探さなければならない。神が無神である限りにおいて、宗教または宗教家はそのようなあり方でなければならないのである。


 くりかえすが、そのような教えがこの地上にあるかどうか。
それは諸君自身が自分自身で探さなければならない。
それはこれこれであると私が言ったとき、すでにそれは私の示唆に従えと言ったことになってしまうからである。
それは私の感じ取ったことであって、諸君になんらかの限定を加えてしまえば、この書は失敗であることになるのである。
私にゆるされていることは、ただただ、そのままで諸君を礼拝することだけ、讃えることだけ、感謝することだけである。
それ故、このことは外に向かって探すのではなく、それを自分の内に探すべきものではなかろうか。
そして、内にとは既にあったという方向にそれは発見されるはづなのである、という意味を含んでいるのである。」

榎本恵吾先生『無神』より

24志恩:2014/03/31(月) 09:08:26
榎本恵吾先生のことは、私も大変尊敬している先生のおひとりです。
数冊ある榎本先生の著書も、私は、全部、拝読しております。

先生が、ここまでの宇宙を突き抜けられたようなお悟りと感性に達せられたのは、
元々、先生は、生まれながらの 宗教的天才 でいらしたからだだと存じます。

(榎本恵吾先生)
>>「 心臓は修行によって動いたのではないのである。
 決意によって動いたのでもなければ、
 説教を受けてから動いたのでもなく、お経を誦げてから動いたのでもなく、
 お祈りをしてから動いたのでもないのである。<<

このお言葉は、榎本先生が、生長の家で、人並み以上の修行をされたのちに、
おっしゃったお言葉だそうです。

神想観もなにもせず、悟られたお言葉ではないのです。

宗教的天才でいらした榎本恵吾先生が、
雅春先生の「生命の實相」に触れられたことが切っ掛けで、
天才である天分が 開花されたのです。


榎本恵吾先生・著「弟子像」は、自費出版なのですが、
(「光ある内に」もそうですが)
私は、運良く手に入れて、拝読することが出来ました。

まるで、「生命の實相」の解説書のような内容の濃いご本です。

信徒の皆様が読めるように、生長の家から、是非、出版して頂きたいご本です。

25さくら:2014/03/31(月) 13:26:07
>>このお言葉は、榎本先生が、生長の家で、人並み以上の修行をされたのちに、おっしゃったお言葉だそうです。

神想観もなにもせず、悟られたお言葉ではないのです。

宗教的天才でいらした榎本恵吾先生が、
雅春先生の「生命の實相」に触れられたことが切っ掛けで、
天才である天分が 開花されたのです。<<

その通りだと思います。

榎本先生のこのご文章を拝読しましたら、
中島敦『名人伝』という、短編を思い出しました。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/hon5/29.html
全文
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html



志恩様、お元気で。

ありがとうございました。

26訊商業:2014/04/01(火) 07:44:22
>>さくら

 「名人伝」だが、初めて読んだ。いや、スゴイ話しだなあ・・・・・そしてこれ、オレと雅春先生の関係にも当てはまる気がしたわ。今までの人生を振り返るに、「飛衛」のような師は、けっこういた。で、オレは飛衛さんトコで修行をしたけども、それでも「苦労が絶えなかった」わけよ・・・・・・・そして約8年前、オレも「甘よう老師」に出会う。これが、雅春先生なんだな。



追伸

 本文最後の方の「悟りの領域」だけど、さすがに現在のオレには、わからない。わからないけど、凄味を感じるね。素晴らしい話しを紹介してくれて、ありがとう。

27さくら:2014/04/09(水) 21:38:00


「神は天地を創造し給うても、どこにもその記念碑のようなものは立てられていないのである。何年何月自分は宇宙を創造したのであるなどという神みづから造った顕彰の碑があるとしたら、そのようなものは神と言うに値しないのである。天地萬物を創造されながら神は完全に自分を消しておられるのである。
それどころかご自分で生み出された人間に神は無いと言えるようにしておられるのである。
そしてまた、もしも、誰かが神に向って神は無いと言ったらまことにその通りです。私は無いのであります。私はないのでございますと言われるであろう。そしてあなたが神でいらっしゃいます。あなたがすべてのすべてでありますといって拝まれるのである。そこには無我、無神の偉大なる輝きがあるばかりである。無神論者が神は無いと言えば言うほど、それにもかかわらず生かしている神の無我の愛の輝きをそこに実証しているのである。

『生命の實相』もこれと同じ無我の愛の聖なる輝きをしているのである。
「物質なし」と『生命の實相』自身が無我に消えて、萬物を礼拝しているのである。
そして、尊師は私は未だかつて一度も人間を救ったことはないと言っておられるのである。自分が眼を開いてみると萬物が神のいのちに輝いていた。私はそれを拝んで礼拝しただけであり、気がついたてみると私も拝まれていのであると言っておられるのである。
萬物に感謝するとは萬物が自分を愛し、生かして下さっていることを感ずることであったのである。『生命の実相』は自ら死に切り、そこに 無我の聖なる愛の輝きを放っていて、これを聖典と拝ませていただくのである。
総説篇「七つの光明宣言の解説」の第一行の冒頭は「生命の實相の自性円満…」という書き出しになっている。「自性円満」という文字にはふりがなが「そのままでえんまんなこと」となっている。そのままでえんまんとは『生命の實相』という本を読む以前から円満である、ということである。この本が”私があなたを完全にさせるのではないんですよ’’ということが宣言されているのである。
『生命の實相』も、この「生命の實相の自性円満を自覚すれば…」の一句以後の言葉のすべては、読者を讃え給う神の愛のみことばの輝きなのである。
「自性円満」だけですべてのすべてが決定され、説法は完成されているのである。それ故、「完成の教え」なのである。完成なる生命の實相の自性円満を讃えているのが聖典『生命の實相』なのである。完成なる聖なる姿を相手として聖なるものが拝んでいるからである。
もしも、完成していないものを完成させるためのものとして『生命の實相』があるのであれば、不完全なるものと波長のあうものは聖であるとは言えないのである。
聖使命菩薩も、もしも悟っていない不完全なものに相対するのであれば聖なる文字を冠することはできないのである。
人類光明化運動も暗に対する運動であればそれをやる人に聖使命会員という名前をつけることは出来ないのである。」

榎本惠吾先生「弟子像」より

28訊商業:2014/04/11(金) 12:29:34

○榎本恵吾「無神」
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65608006.html

30さくら:2014/04/15(火) 07:16:40

「さて、實相には人間の心の努力なくして、自ら顕現する力がそなわっているのである。
實相は心のレンズを磨くことによってのみ顕われるとすれば、實相はそれのみでは絶対でなく、心の力をかりなければ出て来ない不完全なものと言わなければならないのである。
完全とはその中にすべてが満たされており、生長も展開もその中に自らそなわっているものなのである。
自分では出て来れない不自由きわまりないような實相はないのであり、それは現象にすぎないのである。

神、絶対、實相、幸福はそれ自身で展開するものであり、自分で顕われて来る力をそなえているのである。
そのはたらきを人格的に表現したのが住吉の大神、創造の神である。
そして中心なることを表現したのが天照大御神である。

實相には、幸福には、自ら顕われる力があることの直感から発想されて来ているのが、おそらく「自発的活動態勢の自覚」ということなのである。
龍宮住吉本宮を建立されるときに尊師が「最早や人間の力では及ばす、神様に直接お出ましいただく」と言われたのは、「最早や人間の心のレンズを磨いてからでは、磨き切れない、磨くことは現象にすぎないから、それ(心のレンズ)は無であるから、實相、神には自ら出て来る力のあることを祝福する」という意味があったのではなかろうか。

それは生長の家の根本精神である。

「吾が生くるは吾が力ならす、天地を貫きて生くる祖神の生命」という教えの源に還ることを意味しているのであろう。」

榎本惠吾先生「弟子像」より

31さくら:2014/04/16(水) 07:17:11
 
『ただ生きると云うこと。
 無心に生きると云うこと。

 無心と云えば心が無いと云う意味でもある。
 成心がないのである。
 ただ生きるのである。
 しかしそれは全然心がないのかと云えば心がある。
 死んでしまっているのでも、放心状態でもないのである。

 どんな心があるのかと云えば、『無』の心がある。
 何んにもないのではなくて、『無』の心があるのである。 『無』の心と云うと、『無い心』 と云う意味ではない。
 宮本武蔵の所謂る無構えの心である。
 天地八方が見え透いて、人時処に随って千変万化する透明な心である。
 無一物中無尽蔵の心である。
 無尽蔵を中に包有しない『無』は死灰の『無』である。 

 真の日本精神は内に蔵する『無心』である。

 間違って力(りき)みのある日本精神は国を潰したが、『無心』の日本精神は国を興すのである。
 凡そ『道』と名のつくほどのものは『無心』の展開でなければならない。
 剣道、書道、茶道、花道……すべて無心になったとき、天地に満つる道と一致する。

 ある茶道の先生が進駐軍に茶を淹れて見せてその茶巾の穢さに進駐軍を驚かしめたと云う話が新聞に見えていたが相手に随って相手相応のものを出し得ない其麼(そんな)『茶』は茶汲みであって茶道ではない。』

昭和21年1月号 『白鳩』誌

32さくら:2014/04/16(水) 07:17:34
監督。
空手の女子、美しいですね、

しなやかなつよさ、というのは、いいですね。

ずっと武道を学びたかったので、刺激になり、やっと始めようかと思いました。


旅行に行ってきますね。

お世話さまでした。

37さくら:2014/05/11(日) 13:51:49

「さらに、尊師谷口雅春先生は、仮に教団を組織されているが、
これは、『聖使命菩薩讃偈』にもある通り、「応化して仮に聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う」であって、
あくまで仮の応化が生長の家であると言われている。

即ち、教団も組織も仮の姿即ち現象として否定されているのである。
教団を組織されても、光明化運動をされていてもその中には居給わないのである。

尊師は教団もなく、組織もなく、光明化運動もないそのままで救われたのである。たった一人で救われたのである。
教団によって救われ給うたのでもなければ、組織愛行によって救われたのでもないのである。救われ給うてからこれらをつくられたのである。

これらのことについては、尊師はどこにも書いておられないが、それは尊師にとって至極当然のことでありすぎるからなのである。

教団、組織、愛行によってどころか、感謝によってでもなかったのである。
『大調和の神示』は、一番最初にかかげられてはいるが、尊師が受けられた啓示は、汝ら天地一切のものと和解せよではなかったのである。

むしろ、すべては心の影だと、解ってはいたが、その心が支配出来なくて、感謝出来なくて自分の心というものにあいそがついた時に、
感謝してからでなく、心を直してからでなく、先づ光であり、先づ実在であり、先づ神である實相を讃える神の声を聴かれたのである。

そして立ち上がって光明化運動をはじめられたのである。」

榎本惠吾先生「弟子像」より

38訊商業:2014/06/23(月) 09:21:08

二十三日の経言――

◆ 一念不動の言葉

 吾れはいま信仰によって不安なき平和のなかに静坐している。吾れは恐れない。吾がうちには無限の愛と信仰とが宿っているからである。此のやすらかさ!此のやすらかさ!此のやすらかさ!今、今、今、此のやすらかさ!吾れはやすらかなり!吾れは肉体的にもやすらかなり!吾れは精神的にもやすらかなり。

 吾れと神とは一体なるが故に、無限の霊的平和のうちに坐するのである。如何なる時にも神の子には一つの安き所が残されているのである。吾れは意識の無限伸展を感ずる。われはいま無限の生命と融会している―― それ故に、吾れは何事についても常に神に導かれるのである。
 吾れは小さき自我ではないのである。より大(おおい)なる真の自我である。何故なら吾れは無限の生命及び無限の智慧と一体であるからである。吾れは此の静かなる心境に於て、吾れを導き吾れを鼓舞したまう無限の智慧と信仰との光をたづさえて、現実の仕事に帰り行くのである。

 無限の智慧と信仰とを与えたまえる御親の神に感謝致します。

『日々読誦三十章経』より謹写――


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