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聖典紹介板

10「訊け」管理人:2013/11/14(木) 13:56:41

『すべてを癒す道』86頁より謹写――

<神以外のものは何もない>

 救いの根本は、神を著わす以外にありません。生長の家の御教えの基本となり、根本となるものは数多くの神示であり、聖経であります。谷口雅春先生がおかき下さった『生命の實相』全巻はもちろん、神様の声なき声(真理)を私どもにわかるようにお示し頂いたものでありますが、とくに神示として御発表頂いたものや、御聖経(詩の形式)となったものは神霊のひびきそのものであり、神直々のおとことばであります。その聖経『甘露の法雨』の中には、いろいろの真理が示されてあり、いずれも尊いものばかりでありますが、とくに「神」の項に、

 「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。存在するものにして神によって造られざるものなし」

 とあります。このこと一つが魂の底から納得せられ、自覚出来れば万事解決するのであります。人間が悩むとか苦しむとかいうのは、このお言葉を単なる文章としてだけ受けとめ、生命として受けとめていない証拠であります。神以外の自分があり、神以外の人間があり、神以外のものがあり、神以外の出来事があると思い違いしているからであります。神一元に徹し、すべてを神に帰一したとき、一切の悪は、完全に消滅するのであります。このことは『甘露の法雨』では、

 「神があらわるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」

 とお示しくださっております。
ここにお示し頂いたように、救いが現われないで、悩んだり苦しんだりするということは、とりもなおさず、神を押し込めてしまって現さないようにしているということであります。電燈にカバーをかけて、部屋を暗くしているようなものであり、それでは救われようがないのであります。救われるとは、あるかの如く現れている悪いものを、何らかの方法でなくすることではなく、本来無い悪をもとの善なる姿にすることであります。それはないものをないと否定する以外にはありません。

 信仰とは虚のもの(現象)の否定の連続であり、否定し切ったとき實相の完全さのみが現われるのであります。
 谷口雅春先生は、神とは自己否定の極致であり、實相とは現象否定の極致であるとお説き下さいます。ここが最も大切なところであります。ここのところをぬきにして、救われようと願うことは、電源にスイッチを入れないで電燈を明るくしようと願っているようなものであります。電球の力でともるのではなく、電源から供給される電力によってともっているように、自分の力で生きているのでも自分の努力でしているのでもなかった。すべて神様からの恵みによるものであったと全面的に神に帰依し、投げ出すとき救いは成就するのであります。


(つづく)


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