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聖典紹介板
23
:
さくら
:2014/03/30(日) 23:46:54
「 心臓は修行によって動いたのではないのである。
決意によって動いたのでもなければ、
説教を受けてから動いたのでもなく、お経を誦げてから動いたのでもなく、
お祈りをしてから動いたのでもないのである。
そのような一切の条件を越えて、まずこのいのちがいきていたのである。
宗教にふれてからではないのである。
宗教はそのいのちを讃えるためにあるのであって、宗教によっていのちをあらしめられるのではないのである。
赤ん坊が生まれて、その赤ん坊が可愛くて、このいのちを祝して、喜ばしい名前をつけるのである。
名前をつけてから赤ん坊が生まれるのではないのである。
宗教によって救われるのではないのである。
救われている尊いいのちが先ず先にあって、それを拝むのが宗教である。
「私は一度も救ったことはない。すでに救われ済みのすべてを拝むだけである。」という宗教家が最も美しい宗教家であると言わなければならないのである。
諸君は、このような宗教または宗教家がいるのかどうかと問うであろう。そしてそれを示して見よ、というかもしれない。
しかしそれは自分で探さなければならない。神が無神である限りにおいて、宗教または宗教家はそのようなあり方でなければならないのである。
くりかえすが、そのような教えがこの地上にあるかどうか。
それは諸君自身が自分自身で探さなければならない。
それはこれこれであると私が言ったとき、すでにそれは私の示唆に従えと言ったことになってしまうからである。
それは私の感じ取ったことであって、諸君になんらかの限定を加えてしまえば、この書は失敗であることになるのである。
私にゆるされていることは、ただただ、そのままで諸君を礼拝することだけ、讃えることだけ、感謝することだけである。
それ故、このことは外に向かって探すのではなく、それを自分の内に探すべきものではなかろうか。
そして、内にとは既にあったという方向にそれは発見されるはづなのである、という意味を含んでいるのである。」
榎本恵吾先生『無神』より
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