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聖典紹介板

11「訊け」管理人:2013/11/14(木) 13:57:12

(つづき)

<「わかる」より「信じて行ずる」>

 私どものところに、「どうじてもわかりませんが、どうしたらわかるでしょうか?」とききにこられる方や、また、「長い間生長の家で本も沢山よみ、お話も何べんもきいて、何もかもよくわかっているのですが、少しも善くならないのはなぜか?」とたずねに来られる方がよくあります。
 こんな方に私は、「わかってどうされるのですか?宗教学者になられるのですか?それとも評論家になられるのですか?」とおたずねします。「宗教は覚えることでも識ることでもありませんよ。信ずることですよ。生活することですよ」と申します。宗教の根本は信であり、信とは実感であって、味のようなものであります。味というものは他人の説明や話では絶対にわかるものではありません。自ら食し、自ら体験する以外に方法はありません。身体で行じ、実践する以外にありません。声なき声をきき、姿なき姿をみるのでありますから、他人から教えられただけで体得することは出来ません。お話や文書は、参考にはなりますが、直接の救いとはなりません。真理は絶対でありますから、表現できるものではないのです。表現したものはすべて方便であります。真理は表現出来ないから教えることも出来ません。結局は自得する以外にありません。味を覚えるのは食べる以外に方法がないのと同じであります。

 求道においてもっとも大切なのは、礼拝行であり、拝み切ることであります。神に見えるまで拝み切る行であります。真剣に命がけで拝み切ったとき、拝むことさえ出来ない自分を発見します。その絶対絶命の境地の中から、神をみることが出来るのです。生長の家はただ合掌し、ただ感謝する教えであります。拝まなければならないのではなく、拝まずにいられなくなる教えであります。それは人間なるものの正体が明らかになり、本当の自分を発見するからであります。まことの我れを発見し自覚するとき、拝まずにはいられなくなり、拝まずにはいられなくなったとき、腹の底から満足感が湧き、喜びがうまれるのであります。そこが天国であり、極楽であります。救われることを願う必要さえなくなるのであります。
 
 人間は本来神の子であり、神でありますから、願う自由は与えられているのであります。悪や不完全なものから逃れて、完全な姿にかえりたいと願う心が起るのは、自我や欲望ではなく、内在の神性が顕現しようとする働きでありまして、この願いがそのまま尊いのであります。私たちは常に神想観を怠らず、素直にその内なる願いに耳を傾け、その声に従うことが大切であります。自我から出発したものは、欲望であり、要求でありますから、必ず苦痛を伴います。苦痛を伴うものは、無明でありますから、そのようなものは極力否定し、相手にならないように努め、常に真実の願いに向かって前進することか肝腎であります。苦痛や後悔を伴うことは、無明でありますから、断じて妥協してはなりません。真剣な願いは神意の顕現でありますから、例えどのような結果になっても後悔などありません。一時わるい結果があらわれたように見えても、それはより完全へ進む過程でありますから、そんなものに動揺せず、確固不動の信念をもって一途に邁進すればよろしいのであります。

<了>


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