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70年の伝統!・陸軍幼年学校の夜

1名無しさん:2008/06/15(日) 20:55:27
「男色」とは少年愛(美童愛)のことで、日本の歴史とともに長い伝統
とひとつの文化でもあります。

武家の男色は明治以後も「陸軍幼年学校」に引き継がれ明治時代から終戦まで70年にわたって
その全寮制の寮内で深く行われていたのでした。

陸軍幼年学校とは、中学校の秀才が13歳、中学生になってすぐ、中学の1年か2年でM検まで徹底的な身体検査を受けて
入学を許され、陸軍の大将などになってるエリート集団で、3年制(3年生は今の高1か、高2)。

上級生と下級生は固い結びつきがあり、それはあの「義兄弟の契り」によって行われる。

今で言えば、中1か中2と高1か高2との硬い絆が入学後まもなく。

2名無しさん:2008/06/15(日) 21:12:26
陸軍幼年学校というのは、東京で言えば、一中とか三中とは優秀な中学校の
一番とか二番とか,二番とか優秀な生徒が、まだよくわからないうちに先生から
呼ばれて幼年学校応募を勧められ願書を出す。

そして、素っ裸の身体検査だとか思春期の男の子には残酷な検査が行われ、そして合格。
幼年学校に合格者を出すということは、その中学校の至上の栄誉だったようだ。

そして、合格して上級生と寮生活を送る。もちろん男子のみ。一年生から三年生まで
二人ずつ6人で一室で暮らし、下級生は上級生の命令は絶対服従、その中で硬い結びつきを
教えられる。

入学してしばらくすると、それは3年生によって行われるという。
そのときは、痛いというが、もちろん泣いたりしてはいけない。
声を凝らしたうめき声と、涙を流しながらも、その70年の伝統儀式に必死で耐えるという。

3名無しさん:2008/06/15(日) 21:28:38
幼年学校とは、思春期前後の男子の集団、全寮制の寮はベッドが6つある。
両脇に怖い三年生、真ん中に二年生が二人。そして、まだ毛が生えるか生えないか
位の、まだ声変わりもしないか、せいぜい声変わり途中くらいの一年坊主は、別々に
三年生と、二年生の間に寝る。

一年生を指導するのは三年生の特権。もちろん大切な男色を手取り足取り教える。
義兄弟の契りをしたものは、戦場でも深い結びつきの絆となる。

4名無しさん:2008/06/15(日) 22:05:43
幼年学校はホモの巣窟だったといわれる。

5名無しさん:2008/06/19(木) 22:42:31
>>4
加賀乙彦「帰らざる夏」(講談社文芸文庫)

6名無しさん:2008/06/21(土) 14:12:22
>>5
加賀乙彦「帰らざる夏」
ttp://homepage2.nifty.com/papaskitchen/NewFiles/shomotu10.html

7名無しさん:2009/11/04(水) 21:40:09
帝国陸軍美少年伝説(2003.11.18)
 今回は一部の女子向きの話題。
 最近、『陸大物語』(光人社NF文庫)という本を読んだ。
 題名からして帝国陸軍の指導者を育成した陸軍大学についてのノンフィクションかと思ったのだが、読んでみると陸大を卒業したエリート軍人たちの逸話集であった。昭和陸軍のマニアでないとわからん内容のうえに切り口が妙である。
 なにしろいきなり最初の章が「美少年伝説」なのだ。陸軍大学で美少年ですか。
 内容はまあ帝国陸軍の美形列伝である。しかしこれが女性にモテた将校の話だけならわかるのだが、評価の基準が同期生の回想だったりするので異様だ。例えば鈴木宗作中将がレイテ島で戦死したと報告された日、士官学校同期の参謀次長河辺虎四郎は「その昔…正に四十年の昔なり…かの自習室の一隅に座してコツコツたりし彼は文字通りの紅顔の美少年なりし。彼を追いまわしたる上級の猛者も一、二の数にはあらざりし」と日記に記している。これが戦死した旧友を悼む将軍の言葉なのであろうか。
 身も蓋もない話をすると、ボーイズラブの傾向は建軍以来滅亡に至るまで帝国陸軍将校団の文化的伝統であった。
 『陸大物語』によると「陸軍将校のほとんどが、将校生徒であった幼年学校と士官学校で、この世界を通過する」のだそうな。
 今年亡くなった評論家の村上兵衛氏の回想録『桜と剣 わが三代のグルメット』(光人社NF文庫)によれば、士官学校の生徒たちは美形を「ショーネン」と呼んで愛でていた。ドイツ語のシェーネ(美人)に「少年」をひっかけたものらしい。村上氏もこのショーネンの部類で上級生たちから目をつけられていたという。

8名無しさん:2009/11/04(水) 21:40:39
幼年学校時代の「稚児」はプラトニックな思慕の感情に留まっていたが、心身が成熟する士官学校の「ショーネン」になると、それだけでは済まない場合があった。村上氏自身、野外演習中に眠っていた親友が無意識に身をすり寄せてきた際、思わず相手の下腹部に手を伸ばして欲望を解放させてしまった顛末を淡々と記している。村上氏の筆致には、自己抑制を失い友の信頼を裏切ったことへの自己嫌悪は感じられるが、背徳感は希薄で性愛それ自体は当然の生理現象とみなしているかのようである。
 士官学校卒業後も美形趣味を続ける将校はいて、部下をショーネンで固めて自慢する参謀や、少尉に任官した村上氏をつけまわす少佐もいたという。はては新兵へのセクハラを繰り返す連隊長に抗議した少尉が、口論の挙句に軍刀を抜き合わせる騒ぎまであったという(この少尉は村上氏に犯された親友である。よほど嫌だったんだろうなあ)。
 以前に書いた古代ギリシアの神聖部隊のように、戦士集団には少なからず男色が発達する。運命を共にする戦友の絆は一般的な友情よりも濃密で、それが忠誠や友情を越えた愛情に発展することは多い。同性愛傾向が戦士集団の結束を固めるため奨励されることも珍しいことではない。
 氏家幹人氏の『武士道とエロス』(講談社現代新書)によると、日本でも戦国から近世前期にかけて男色が盛行していて、男色しない息子に説教する父親までいたというから推して知るべしである。名高い武士道書『葉隠』で説かれている主君への絶対の忠誠にも、同性愛的な感情の発露が垣間見える。平和が続き武士が戦うことのなくなった十八世紀以降、武士階級の男色文化は次第に衰えていったのだが、辺地の薩摩藩には少年愛の風習が色濃く残っていたという。
 維新後の明治政府にとって、キリスト教文明が罪とみなしてきた同性愛は、欧米に習った近代化の観点からは否定されるべき蛮習のはずで、ただでさえ衰退していた男色はここで一掃されてもおかしくなかった。ところが新政府の中核にいた薩摩武士によって、少年愛の習俗が近代化の最先端を担う軍隊や学校に持ち込まれたようなのだ。
 明治時代の書生の間では少年愛趣味が大っぴらだったし、大正時代以降も一部の学校にはその慣習が遺された。旧制高等学校の生徒だった父によると、大戦末期の旧制高校でも美貌の新入生を愛でる慣習があったという。
 戦後になってこの種の美少年趣味は急速に廃れたが、それは民主化と女性の社会進出に関係があるようだ。
 士官学校や旧制高校における美少年趣味は、一般市民社会とは切り離された場所で寝食を共にする若者の間で形成された。しかもその生徒であることが、今日では比較対象すらないほどの高い社会的ステータスとなる若者集団である。だから特権的な男の花園で育まれる思慕の関係は、「選ばれた自分」であることを確認する自己愛の匂いがしないでもない。それはカーキの詰襟や白線黒帽のマント姿だからこそ許された、特権的な少年愛だと言えるだろう。そして戦士の友愛を起源とするこの慣習は、本質的に男性優越主義の産物なのである。
 だから現代社会で同性愛が今より開放的になったとしても、こういう独特な少年愛の慣習が復活することはないだろう。
 どっちにしても小生の趣味では全然ないのですがね。
   ttp://www4.plala.or.jp/kaseiken/links/tea.htm

9名無しさん:2011/06/16(木) 09:22:56
陸軍幼年学校は、全国の優秀な思春期の少年たちがあつまってくる全寮制の軍学校で東条英機はじめ陸軍の指導層は殆どここのの出身。そして
寮生活では70年の伝統として「男色」が公然と奨励されていた。

寮生活は上級生と下級生との男色で義兄弟の契りでなりたつ。

幼年学校は思春期真っ盛り、一年生は13歳から15歳まで、一般に中一か中二で入ってきて、三年制。

だから、13歳から18歳くらいのオナニー盛りの少年たちが厳しい共同生活を強いられる。
孤独な慰めを覚える年ごろの男の子の集団。もう精液を出さないと気が狂う位の年頃。そのなかに
それをまだ知らないか、覚えたてくらいの可愛い一年生(中一か中二)が入ってくる。

三年生にはたまらない男色は自然に芽生えるだけでなく、寮生活でそれが自然になるような規律になっているのだ・

一年生は自慰行為はしてはならない。床では手は外に出しておく。

パンツを洗濯していると、そこに自慰の結果があると上級生からビンタをくらう。
一年生は厳しい寮生活で、それを覚えてもできないのだ。

でも、そこがすごい処でこれには抜けがあって、自分で出すのは禁止だが、上級生に出してもらうのは
位。寮生活は1,2,3年生が各名経6人部屋で、一年生は三年生から男色の指導を受けるのだ。
ベッドで一年生は、三年生から男色の愛撫を受ける。まだ出ないものもいるだろう、
もう最初の日からまず「義兄弟の契り」つまり肛門で上級生の体を受け上級生と一体になって、上級生の神聖な
者を体の中に受ける儀式だ。

一年生が初めての者を吹きだす頃は、もう一節切の秘儀も充分されているだろう。

なんかでそうとなると、《俺の口に出せ》と言われ口にされてしまうだろう。シーツを汚してはいけないので、

自分で出すなんていけない、上級生にさんざん出してもらい口で受けてもらっているのだから。

上級生の手の中に初めてのものを吹きだす者もいるだろう。二年生になると、二年生同子で行う、一年生に手を出すことは許されない。

三年生になって初めて可愛い一年生を自由にできるのだ。自分がかって一年生の時されたように。
可愛い一年生を自分のものにする。

そのとき、ベッドのなかからは、まだ声変りしない呻き声が聞こえるという。

晴れて三年生になって、新しい一年生を迎えた頃、隣の可愛い一年生に自分のベッドに入るよう
命ずる。これから幼年学校70年の伝統をこれから行うと伝える。

しばらく話し合った後、これから義兄弟になる可愛い一年坊主を硬く抱き締める。そして着物の上かあちこち愛撫しこれからすること
の心の準備をするだろう。そして一年生の体が愛撫に反応しだしたころ、下帯の紐に手を掛ける。

そして少年らしく逞しくなり恥ずかしがる少年のものを直接愛撫していく、まだ出ないで原に付く用意なった者に口をはわせる。
自分がされたように、羞恥に大きく身悶えする少年に淫らな愛撫が続く・・。

端の布団ではもう一年生の痛さに耐えるうめき声がする頃、契りの体位で組み敷き、木の枝のようになったそれを一年生の
排出器官に添える・・・

10名無しさん:2011/06/16(木) 09:45:09
まだ女も男も知らない穢れを知らない美童の、下帯の紐に手を掛けるのも、そして少年らしく逞しくなり恥ずかしがり悶える少年のもの、まだ出ない腹にに付く位に勃ちあがった、羞恥に大きく身悶えする少年の禁断の秘密の器官に口をはわせるのも、
口にして存分味わうのも、初めてのものを飲み込むのも、契りの体位で組み敷くのも、木の枝のようになったそれを一年生の
排出器官に添えるのも最上級生たる三年生の特権です。

それは一年生の時、それに耐え上級生に体を捧げ、夜毎体を一つにして男色の悦び、快楽に目覚め、二年生同志で深めたからです。

こうして70年の伝統が代代引き継がれていったのです。・・・

11名無しさん:2011/06/19(日) 09:00:26
陸軍幼年学校は、男子のみの全寮制の3年制で1年生の受験資格は13歳依り15歳。
一般に旧姓中学校(男子のみ、5年制)の1年又は、2年生が受ける。陸軍幼年学校は将来の大将になる
もので、受かると中学校にとっても至上の名誉となる。
中学校で優秀な生徒が先生に勧められて、よくわからないまま受験となるものが一般的。
受験すると厳しい身体検査を受ける、M検といってパンツまでとって全裸にされて性器・肛門まで検査される。

旧姓中学校には怖い上級生がいて男色の被害を受ける者もいたという。
しかし、陸軍幼年学校ほど男色(美童愛)が激しかった学校はない。
13〜17歳、旧制中学校と同じ年頃の性欲旺盛な少年たちが上下関係がまさに軍隊の
、上級生の命令は旧制中学以上に絶対的な世界で、一年生徒、二年生と、三年生が一室に
暮らすのだ。

決定的に違うのは、寮生活では男色が奨励され「義兄弟の契りという激しい行為を経て、上級生と下級生が「義兄弟」となる「男色」が日常的に
されるのだ。

何も知らないで先生に勧められ半ば強制的に幼年学校を受験して合格した全国から集まった秀才の美童達には男色の世界が待っているのだ。
よく男子が性の被害を受けるとき、一番多いのは13歳、中学Ⅰ,2年生頃、一番恥ずかしい頃なのだ。よく学校で女子には心配して早く返るようにするが男子には
心配しない、しかも男子なら性の被害を受けることはないと思ってるがまちがいだ。
男子だから、中学生だからと映画などで遅く返って、ひどい目に遭った子もいる。
男の子の場合、いたずらされると女の子以上に恥ずかしい目に遭う。

そんなエッチなことかんべんしてと必死に哀願するも・・

幼年学校の夜は昼と違う世界なのだ。

12名無しさん:2011/06/20(月) 20:54:49
・徳川時代で有名なのは徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。
・堀田正盛は少年時代に三代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り「夜伽」(よとぎ)をすることである。いわば少年花嫁として毎夜穢れなき身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で丁度旧制中学1年生と5年生の年頃当たる。
・下って五代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で直ぐに「お座直し」となる。
「お座直し」になった美童の小姓は夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために帯も下帯も解かれる。今と同じで体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして菊門に将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を菊門深く受け止めて契り合うのである。
 
・薩摩には戦国時代の島津家から続く 武士道的男色が《郷中制度》として残っていた。
藩士となる若者達は地域郷中毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。
二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。二才は稚児を指導する立場で稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性との接触は以ての外で「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのはごく当然の成り行きと云える。幕末の英雄である西郷隆盛もある僧と関係を持っていたと云う。
「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが確かに当時の薩摩は男らしかった。
「二才は稚児を指導する立場」について、これは「学問」もあったが、単なる学問ではなく、二才が稚児を愛する「男色道」であったのだ。その薩摩に負けず‥男色が一般的だったと云われるのが土佐である。武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。もし男色を拒む少年がいると年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえてその場で強引に侵したという。
それには隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬ振りをした。恐ろしい話である。
・明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ公然化したものであったようで、市井には実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が、薩摩の塾では必ず元旦には回し読みされたと、鴎外の「イタセクスアリス」にある。
内容は薩摩藩士吉田大蔵と美少年平田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。当時から異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛(美童愛)を好む生徒は硬派と云った。
入学してきた美童は早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。
 
・もう一つ男色が流行したのは軍隊であった。明治以降、昭和に入っても男色の「契り」では陸軍幼年学校が有名。陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では「70年の伝統」として男色行為が行われていた。その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。3年生は1年生を稚児とし契を結ぶ権利を持つ。2年生は2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。


【理想】犯しがいがある少年とは【妄想】
ttp://bbs.pinkybbs.net/test/read.cgi/bl/1274542132/

13名無しさん:2011/07/12(火) 14:15:32
明治になっても、男色は珍しくないものでした。陸軍士官学校は開設当時、グラウンドをはさんで陸軍幼年学校と隣り合っていましたが、士官候補生が幼年学校に「稚児狩り」と称して、男の子を襲いに行くのを止めるよう、度々通達が出ています。士官学校内では「ショーネン」という隠語があり、これは美少年の下級生を指す言葉でした。

小学校を卒業して新設の新発田中学校に入学した大杉は、ここで2年間を過ごすことになる。中学校時代は器械体操と野球に熱中し、学校を引けてからも柔道・撃剣:棒術の道場に通って、もっぱら肉体の鍛錬に明け暮れている。
昔の中学校は男だけの世界だったから、彼は小学校時代のように女の子と疑似恋愛をすることはなくなった。その代わり、彼は二年生になると、稚児さん趣味の風習に染まり、下級生の一人を「弟」にして可愛がっている。この男色趣味は陸軍幼年学校に入ってからもつづき、学校から懲罰を受けることになるのである。
陸軍幼年学校も男だけの世界だった。学校は全寮制で、日曜以外の外出は禁じられていた。授業中は手を両膝の上に置いて、微動だにしないで教官の目を睨んでいなければならなかったし、新聞の閲覧も禁じられていた。生徒たちは、外部から完全に隔離された世界で、3年間を過ごさなければならないのである。
こうしたスパルタ式の教育方針は反動を生む。各学年には、一定数の不良グループがうまれ、校則に反してひそかにタバコを吸ったり、男色を目的に下級生の寝室を襲撃したりしていた。入学早々、反逆精神旺盛な大杉は、不良グループの上級生に見込まれて、その仲間に入れて貰うことになる。

14名無しさん:2011/07/12(火) 20:43:24
>>9

でも、そこがすごい処でこれには抜けがあって、自分で出すのは禁止だが、上級生に出してもらうのは
構わない。

寮生活は一部屋に1,2,3年生が各2名、計6人部屋で、一年生は三年生から男色の指導を受けるのだ。

1年生は3年生の専属で男色の指導を受けるため、3年生のすぐ隣に別々に一人、二年生はまだい年生に手を出すことは許されず、1年生の時に三年生から指導された男色を二年生同志で行うため、間に二人が寝る。 (左から3年生、1年生、2年生、2年生、1年生、3年生という順。)

ベッドで一年生は、三年生から男色の愛撫を受ける。まだ出ないものもいるだろう、
もう最初の日からまず「義兄弟の契り」つまり肛門で上級生の体を受け上級生と一体になって、上級生の神聖な
ものを体の中に受ける儀式だ。

15名無しさん:2011/07/12(火) 21:48:09
>>9,>>10,>>11,>>14

昭和55年(1980)防衛庁スパイ事件-宮永・コズロフ事件が起こった。防衛庁の方は陸相補と部下、片方はソビエトの武官だった。陸相補と部下は、旧陸軍幼年学校出身、背後に陸軍幼年学校の男色関係があったようで、このことをこのころ「薔薇族」で小説で取り上げていた。誰か読んだ人いますか。号数を知りたい.。
二人の自衛官は、陸軍幼年学校卒業、二人は義兄弟の契りで硬く結ばれていたのだ。

また、昭和30年代に「風俗奇譚」でも、「70年の伝統」儀式(男色)というのを取り上げた小説があった。幼年学校は中1,2で受験、3年制で、全寮制で、1年から3年まで、二人ずつ6人が一室に暮らす。

16名無しさん:2011/07/13(水) 10:31:55
>>15
題名わすれたが、陸軍幼年学校の男色についての小説、昭和55〜56年頃の「薔薇族」にでているはずです。見た方は教えてください。

17saorin:2011/09/02(金) 16:24:13
不景気だと騒がれていますが・・・(;・ω・)! ttp://tinyurl.k2i.me/Afjh

18ゆき:2011/09/11(日) 22:42:09
私のおまんこが大変なんです☆
皆さん使ってください。

h ttp://0123.bz/

肉便器になりたいです(//o//)

19名無しさん:2014/08/18(月) 10:06:54
木谷俊男「賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜」(国会図書館蔵000002727681)

20名無しさん:2017/05/12(金) 22:08:18
私も農家の長男坊として、春は田植え、秋は稲刈り、冬はわらじ作りの仕事を、幼い頃から家族の一員として手伝いながら、
一方で勉学に力を入れ、周囲の者に負けるものかと頑張りました。

田舎の学校でしたが、私は常に成績は学年で「首席」を維持し、
校長先生からも毎年のように全校児童の前で表彰を受けたものでした。

私はある日担任の先生から、
「おまえは、将来兵隊さんになりたいか?」と、尋ねられました。
私が、戦争を賛美する当時の少年雑誌を好み、「兵隊ごっこ」で隊長役をして、
他の子どもたちの先導役になって遊んでいる様子を御存じだったようです。
「はい、兵隊さんになります。」
「そうか、では、幼年学校に行く気はないか?」
「えっ。」
「えらい隊長さんになって、御国の為に尽くしてみたくないか?」
私は、自分のような百姓の倅でも、学力優秀で努力さえすれば、
必ず「幼年学校」に入学できると聞かされ、その日から「目標」に向かって頑張ったのです。
父や母も先生の御言葉を聞かされ、私の「目標」実現のため協力をしてくれました。

21名無しさん:2017/05/12(金) 22:15:53
私は全国一の難関と言われた「東京陸軍幼年学校」を受験することとなりました。
終戦のニ年前のことです。
受験者は約九千人。宮家・軍人子息等の特待生を除く、一般からの合格者定員は僅か五十名程度でした。
受験は学科・面接と身体検査。冬の厳しい寒さの中で受験は実施されました。
十三歳の受験者が最年少ですが、二度目・三度目の受験者は十四・十五歳と随分大柄でした。
私は、十二月生まれでしたから十三歳になったばかりでした。

身体検査は、講堂で行われました。全員ふんどしだけ身に付けた全裸に近い格好で集合させられました。
身長・体重・視力等、順々に検査が進みます。
壇上には、日本刀を持った、立派な髭を生やされた兵隊さんが三名座って、
私たちの検査の様子を御覧になっておられたように思います。
ずっとふんどし姿で検査を続けましたが、軍医殿の「触診」の列に並んだときには、
唯一体を被っていた最後のふんどしさえも外すように命ぜられました。
外したふんどしを小脇に抱え、性器を丸出しにした状態で、「蹲踞の姿勢」で待機するように言われるのです。

受験生は、軍医殿の前に両手を後ろに組み、両足を軽く左右に開いた格好で立たされます。
皮を被ったままの者は、包皮を剥き上げられました。
できない者は、カルテに「包茎」と記されたようです。
何人もの受験者がいますから、かなり手荒く強引に剥き上げられていたようです。

「性病」の有無を調べると称し、膿が出ないかと一物をギュッ、ギュッと二、三度しごかれました。
睾丸を袋の中でぐりぐりと転がされ、これもかなり手荒く機械的に触診されていました。
包皮を剥かれ、睾丸をまさぐられ「ウッ。」とか「イテッ。」などの呻き声が、
何人もの受験生の口から漏れ出ていたのを記憶しています。

最後に「痔疾」の検査と称して、四つん這いになって、肛門の様子を検査していただくと終了。
だいたい、全国の優秀かつ真面目な志願生に「性病」検査等必要だったのかどうかはさておいて、
軍人として、兵士として、国家や上官の命令や規律の中においては、
個人の尊厳や権利等は皆無に等しいことを身を持って知らしめるための儀式であったと考えられます。

検査の様子は列の後ろに控えている受験生全てに見られているわけで、顔を真っ赤にしている初な生徒も沢山おりました。
当然のことながら自然の仕組みに逆らえず見事に「勃起」させてしまっている者もおり、
「蹲踞」の姿勢を崩し「勃起」を見られまいと、足を閉じ、見回りの検査官に指摘を受け、
無理矢理足を開かされ「勃起」を暴露され、「日本男児、何が恥ずかしいか。」と、
持っていた竹刀の先で、勃起をチョンチョンとつつかれて顔を赤らめて項垂れる生徒もおりました。

22名無しさん:2017/05/12(金) 22:23:54
恥ずかしながら、この受験のおり、
ある華族の子息と言われる受験生が格段の美少年でありまして、私の目を釘付けにしてしまいました。

ずっと、私のひとつ前に並んでおり、当然「触診」も私の目の前で行われました。
細目の体に不釣り合いな程、太くて長い一物をぶら下げておりましたが、軍医殿の手でくるくると包皮を剥き上げられ、
桃色の鮮やかな亀頭を露出させられると、肛門検査の際に振り向いた彼の一物が、
私の眼前にはっきりと焦点化され脳裏に焼き付きました。

私はどきどきと胸が高まり、ぽーっと紅潮してしまいました。
そして、自分の一物が変化し始めたことに気付き、焦りました。
自分の意志とは裏腹に抑えようのない自然の摂理を恨みながら、自分の番を迎えることになりました。
私の「勃起」を彼はチラリと覗き見た後、その場を去りました。

勃起したまま軍医殿の前に立ちますと、
「元気がよいのー。」と、微笑みながら指でぴょこんぴょこんと私の固くなった一物を弾きました。
軍医殿は次に、勃起の先端を摘むと一気に包皮をずり下げました。
すると、ピカピカの桃色亀頭のくびれのところに包皮が輪ゴムのようにきつく食い込みました。
「うーん、きつそうじゃのー。このままじゃ苦しいわな。」
軍医殿が包皮を賢明に元に戻そうと努力してくださいました。
なかなか、食い込みがきつく時間がかかりました。
やっとのことで元の皮かむりの一物に戻りましたが、勃起の度合いは、へそに付かんばかりに最高潮に達していました。

軍医殿、検査官、そして多くの受験生に恥ずかしい姿を披露し、私の受験は終了しました。
身体検査においては、「甲種合格」を頂き、「学科」「面接」も良好な成績をあげ、難関を突破し、
晴れて「星の生徒(幼年学校生徒のことを当時こう呼んだ)」の座を勝ち取ったのであります。

入学後の寮生活で、思春期の男だけの世界の中で様々な経験をすることになりました。
風呂場での一物くらべ。
部屋での相互自慰。
先輩からの無理自慰?
真面目で一途な学生生活の奥底で、教官の目を盗んで「性」のエネルギーを発散させていたのです。
私も、同じ東北出身の商家の倅である後輩の美少年を便所の中で、強制的に「射精」させたことがありました。
「自慰は未だ、経験がありません。」
という彼に、便所の個室の中で、まず自ら手本を見せ、その後、手を貸してやり、放出させてやったのであります。
「先輩」は幼年学校においては「上官」と同じで、逆らうことなど到底不可能でありました。

幼年学校入学二年後、広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本国は「ポツダム宣言」を受諾。
事実上、敗戦の経緯をたどるのであります。私たち生徒も士官学校に進む前に閉校、解散。
悔しさに豪泣しながら、郷里の東北へ汽車で戻ったのを今でも鮮明に覚えています。

その後、私は東大を卒業し、某電器メーカーに就職。
二度の海外勤務と重役経験を経て、現在は顧問としてひっそりと余生を過ごしております。
今は、パソコンをいじり、インターネットを開くのが趣味になっております。
幼年学校時代の「少年愛」の性癖は今も変わらず持ち続けておる次第であります。

23名無しさん:2020/08/18(火) 11:21:53
陸軍身体検査規則 徴兵と志願、12歳のM検
[書誌情報]

責任表示:
木谷俊男 編著
出版者:
[木谷俊男]
出版年月日:
2003.2
請求記号:
AZ-666-H3
書誌ID:
000004023794

24名無しさん:2020/10/15(木) 15:42:56
参考
h ttps://jbbs.shitaraba.net/otaku/16648/

25名無しさん:2020/10/18(日) 21:34:27
そんな人生きていたら90代以上だよ

26名無しさん:2020/11/04(水) 08:40:22
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
図書 木谷俊男 編著. [木谷俊男], 1998.10 <EF91-G289>

27名無しさん:2020/11/04(水) 09:11:08
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
図書 木谷俊男 編著. [木谷俊男], 1998.10 <EF91-G289>


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