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70年の伝統!・陸軍幼年学校の夜

12名無しさん:2011/06/20(月) 20:54:49
・徳川時代で有名なのは徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。
・堀田正盛は少年時代に三代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り「夜伽」(よとぎ)をすることである。いわば少年花嫁として毎夜穢れなき身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で丁度旧制中学1年生と5年生の年頃当たる。
・下って五代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で直ぐに「お座直し」となる。
「お座直し」になった美童の小姓は夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために帯も下帯も解かれる。今と同じで体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして菊門に将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を菊門深く受け止めて契り合うのである。
 
・薩摩には戦国時代の島津家から続く 武士道的男色が《郷中制度》として残っていた。
藩士となる若者達は地域郷中毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。
二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。二才は稚児を指導する立場で稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性との接触は以ての外で「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのはごく当然の成り行きと云える。幕末の英雄である西郷隆盛もある僧と関係を持っていたと云う。
「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが確かに当時の薩摩は男らしかった。
「二才は稚児を指導する立場」について、これは「学問」もあったが、単なる学問ではなく、二才が稚児を愛する「男色道」であったのだ。その薩摩に負けず‥男色が一般的だったと云われるのが土佐である。武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。もし男色を拒む少年がいると年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえてその場で強引に侵したという。
それには隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬ振りをした。恐ろしい話である。
・明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ公然化したものであったようで、市井には実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が、薩摩の塾では必ず元旦には回し読みされたと、鴎外の「イタセクスアリス」にある。
内容は薩摩藩士吉田大蔵と美少年平田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。当時から異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛(美童愛)を好む生徒は硬派と云った。
入学してきた美童は早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。
 
・もう一つ男色が流行したのは軍隊であった。明治以降、昭和に入っても男色の「契り」では陸軍幼年学校が有名。陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では「70年の伝統」として男色行為が行われていた。その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。3年生は1年生を稚児とし契を結ぶ権利を持つ。2年生は2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。


【理想】犯しがいがある少年とは【妄想】
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