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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

947よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 09:29:55 ID:H39u3WeU0
>>946

◇先人の思い継ぎ防災誓う 大地震両川口津浪記

 4月の初回で掲載した「大地震両川口津浪(つなみ)記」(大阪市浪速区幸町)については、元中学校教諭の長尾武さん(64)(同市阿倍野区)からメールを受け取った。〈語りかけるような碑文に背中を押された〉

 約30年前、西区の中学で教諭をしていた時にこの石碑を知ったが、立ち止まることはなかった。だが、2004年のインドネシア・スマトラ島沖地震で津波の恐ろしさを痛感。碑文を詳しく調べた。

 江戸末期に建てられた石碑には、一帯を襲った津波の被害とともに、今後も起こりうるから、毎年碑文に墨を入れるように、と刻まれていた。大阪の津波被害について古文書を調査し、今はセミナーなどで心構えの大切さを説く。

 碑文の言葉を守り、今年も8月下旬、地元住民らが墨を入れ、慰霊祭を営んだ。長尾さんも足を運んだ。「石碑は、昔の人の願いを、今を生きる人に伝える『使者』。その思いをくみ、力を尽くしたい」

◇「訪ねたい」声も

 「連載で取り上げてほしい」という取材依頼も数多く寄せられているほか、「行ってみたいので、これまでに掲載された石碑の場所を教えて」との声も届く。

 森安江さん(66)(同市住吉区)は結婚後、夫の仕事の都合で、約40年間東京で過ごし、数年前に古里・大阪に戻った。4月掲載の「芭蕉終焉(しゅうえん)の地」(同市中央区)や、8月掲載の「食野宅趾(めしのたくあと)」(泉佐野市)などについて、「大阪にこんなにも知らない歴史があったことが新鮮。大阪を離れていたからこそ、その良さをしみじみ感じる。やっと夫と2人でゆっくりと過ごせるようになったので、一緒に訪ねたい」と話した。

 (11回目は10月上旬に掲載します)

(2012年9月30日 読売新聞)

>大阪を離れていたからこそ、その良さをしみじみ感じる。

 私は東京の生まれですが、大阪という存在を知り、大阪を知ろうとすればするほどに、その良さに気がつきます。

948よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 09:31:19 ID:H39u3WeU0
勇壮宮入り ふとん太鼓 堺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120930-OYT8T00105.htm

 堺市北区百舌鳥赤畑町、百舌鳥八幡宮で29日、秋祭りが開かれた。周辺9町から、太鼓台の上部に朱色の座布団を重ねたようなふとん太鼓9基が次々に宮入りした。

 ふとん太鼓は高さ約4メートルで、約3トン。金色の太縄や大小の白い房で飾り付けられている。そろいの法被姿の約70人が担ぎ上げ、「ベーラベーラ、ベラショッショイ」とかけ声を響かせながら境内を練り歩いた。

 祭りは、旧暦8月15日(今年は9月30日)頃に開催。豊作祈願と中秋の名月を祝う風習にちなむとされ、300年以上の歴史があるという。

(2012年9月30日 読売新聞)

949よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 09:50:17 ID:H39u3WeU0
ヤマト王権と地方豪族展
http://www.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/4065335801.html

奈良県を中心とした古墳時代の国家「ヤマト王権」と山口県などで勢力を築いていた「地方豪族」との関わりを紹介する展示会が、下関市で開かれています。
この展示会は、下関市立考古博物館が開いたもので、会場には山口県や奈良県などの古墳時代の遺跡から発掘された武具や装飾品などおよそ280点が並べられています。
このうち、奈良県の遺跡から発掘された「銅製の鏡」は、馬車が描かれた装飾が特徴です。
中国製とみられ、ヤマト王権が積極的に海外に進出していたことがうかがえます。
山口市吉敷で発掘された「よろい」は、ヤマト王権の所領地で生産されていたもので、ヤマト王権から地方に配布されていたと考えられ、その深い関わりが感じられます。下関市立考古博物館の学芸員、松永博明さんは、「近畿地方や中国地方、北部九州の重要な古墳の出土品を一堂に集めています。細かな装飾の違いなど中央と地方の違いを見比べてもらいたいです」と話しています。
この展示会は、11月25日まで開かれています。

09月29日 12時29分

950よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 10:08:07 ID:H39u3WeU0
橋下市長と文楽技芸員、来月3日討論会 文楽協会も同意
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201209290013.html

 人形浄瑠璃文楽の保存、普及に取り組む文楽協会は28日、技芸員(演者)とともに橋下徹大阪市長との公開討論に応じることを決め、市側に伝えた。市は同日、討論会を10月3日夕に市役所で開くと発表した。

 橋下市長は就任後、文楽協会の運営方法を疑問視し、補助金を削減。技芸員らとの公開討論も申し入れ、「応じなければ今年度分の補助金3900万円を交付しない」としていた。

 橋下氏は28日夕、「とてもうれしい。技芸員の方とは直接話す機会がなかったので、率直に意見交換したい」と報道陣に語った。
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951よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 12:56:03 ID:H39u3WeU0
まなびやの宝:大阪市立愛珠幼稚園 ビル屋上の田んぼや演奏会 /大阪
毎日新聞 2012年09月29日 地方版
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120929ddlk27070405000c.html

◇地域の支えで環境充実

 大阪市中央区のオフィスビル街にひっそりとたたずむ市立愛珠(あいしゅ)幼稚園。武家屋敷風の正門をくぐると、子どもたちの元気な笑い声が響く。創立は1880年(明治13年)。21年後に建てられた現在の園舎は、現存する最古の幼稚園で、国の重要文化財に指定されている。

 北船場の住民や商人らの寄付金で建てられ、太平洋戦争の空襲時にはバケツリレーで園舎を守ったと伝えられる。地域の情熱が教育環境の充実に注がれてきた。

 玄関に上がり、黒光りする廊下を抜けると高い天井を備える遊戯室が現れる。合唱やダンスで使用するグランドピアノは、100年以上前に作られたドイツの「イルムラー」製。バイオリンの名器「ストラディバリウス」と共に、地元の有力者から贈られたものだ。毎月プロの演奏家が訪れ、コンサートを開いている。

 園児と保護者が月1回お茶遊びを楽しむ和室を備える一方、園庭が狭いのが悩みの種。だが数年前に隣接するビルの所有者が、園児だけのために屋上に田んぼを設置。春の田植え、秋の稲刈りが新たな恒例行事になっている。

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952よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/09/30(日) 19:48:11 ID:OxptyLss0
南九州とヤマト関連探る 近つ飛鳥博物館 特別展開幕 
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120930-OYT8T00115.htm

 府立近つ飛鳥博物館(河南町)で29日開幕した秋季特別展「南九州とヤマト王権―日向・大隅の古墳」(読売新聞社など主催)では、近年発掘調査が進む宮崎や鹿児島の古墳に関する最新の成果が紹介されている。同館は「ヤマト王権との密接なつながりがうかがえる」としている。12月2日まで。

 約430点を展示。神領古墳群(鹿児島県大崎町)から出土した「盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)」は、顔のリアルな表現が特徴的で、目と口をくりぬき、口の中には上下に歯を差し込む溝もある。大阪や愛媛から運び込まれた須恵器や、朝鮮半島から入手したとみられる鉄製品も並ぶ。

 前方後円墳8基、円墳43基が確認されている生目(いきめ)古墳群(宮崎市)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)と似た形や、九州で3番目に大きい全長143メートルの古墳も含まれる。白石太一郎館長は「なぜ南九州であれだけ大きな古墳が築かれたのか考えるきっかけにしてほしい」と話している。

 10月14日、28日、11月23日の午後1時30分からは、博物館地階ホールで、南九州の政治環境や古墳についての講演会が開かれる。定員は各回200人。問い合わせは同館(0721・93・8321)。

(2012年9月30日 読売新聞)

953よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/03(水) 00:36:14 ID:4YzLmL9s0
文楽技芸員約50人が出席 午後6時からエンドレス? 橋下市長と公開面談
2012.10.2 13:09 [文楽]
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121002/wlf12100213160011-n1.htm

 財団法人・文楽協会への補助金削減をめぐり、今月3日に行われる大阪市の橋下徹市長と文楽の技芸員(演者)との初の公開面談に、全技芸員82人のうち約50人が出席することが分かった。半数以上が参加する“異例”の面談になる予定で、文楽関係者は「技芸員の一人一人が正直にありのままの思いを伝えたいと言っている。時間が許す限り、橋下市長と話したい」としている。

 公開面談は大阪市役所で行われ、市側からは橋下市長をはじめ、担当部局のゆとりとみどり振興局が出席。文楽側からは、文楽協会の事務局長ら2人、技芸員からは、病気療養中の文楽三味線の人間国宝、鶴澤清治さん(66)をはじめ、ベテランの太夫、豊竹咲大夫さん(68)ら太夫、三味線、人形遣いの約50人が出席する予定。午後6時から始まり、現在のところ制限時間は設けられていないという。

 文楽協会への補助金削減をめぐっては、公開での面談を求める橋下市長と、非公開を主張する文楽側との間で調整が難航。橋下市長は先月4日に、10月中旬までに公開面談に応じない限り、今年度の予算3900万円を執行しないと「最後通告」。

 これを受けて、先月18日に技芸員側が緊急総会を開き、公開での面談を決断していた。

 参加する技芸員の一人は「文楽は大阪の誇るべき芸能だと自負している。先人たちが築いてくださった350年の歴史や伝統を次代につないでいくためにもしっかりと説明し、市民のみなさんの理解を得たい」と話している。

954よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/03(水) 21:45:36 ID:sUvg66Kg0
公開面談詳報(1)“文楽四十七士”、紋付き袴姿で市長と対面
2012.10.3 19:55
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100319570020-n1.htm

  《財団法人・文楽協会への大阪市の補助金支出問題で、橋下徹市長が求め続けてきた文楽側との公開面談が3日午後6時から、大阪市役所で行われる》

 《協会への補助金をめぐり、橋下市長は昨年度比で25%削減を決めた上で、技芸員との意見交換を公開で行うよう要請。これに対し協会側は再三にわたり非公開での面談を要望し、議論は平行線をたどっていた。ところが一転、技芸員らは9月18日の臨時総会で公開面談に応じる方針を決定、この日の面談が実現した》

 《市役所地下1階の第11共通会議室。この日の面談には、太夫や三味線、人形遣いら82人の技芸員のうち47人が出席。いずれも紋付き袴姿で、5列に並んで座り、橋下市長を待つ。定刻の午後6時ちょうど、ジャケットなしのクールビズで、橋下市長が到着。まず技芸員側を代表して、豊竹咲大夫さんがあいさつに立った》

 豊竹さん「文楽劇場では11月3日から、仮名手本忠臣蔵を上演する予定になっております。きょうは偶然でございますけれども、47名が参加しておりますが、決して討ち入りに参ったわけではございませんので」

 《赤穂浪士四十七士にちなんだ軽い冗談のあと、豊竹さんは切実な思いを訴えた》

 豊竹さん「技芸員は一日も早く、この問題を解決して舞台に専念したいと思っております。なにぶん皆、個人事業者ですので意見もばらばらかと思いますが、よろしくお願いいたします」

955よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/03(水) 21:47:52 ID:sUvg66Kg0
>>954

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100319570020-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100319570020-n3.htm

 《続いて対面の橋下市長が立ち上がり、右手にマイクを持って話し始める》

 橋下市長「けいこなどでたいへんお忙しい中、大阪市役所まで来ていただきまして、ありがとうございます。きょうは皆さんと忌憚のない意見交換をさせていただきたいと思っております」

 《前置きを終えた橋下市長が本題に入る》

 橋下市長「僕の問題意識の第一ですが、補助金は税ですから、使い方についても受け取り方についても、透明化、いわば『見える化』をしなければなりません。大阪市長になって、市の補助金すべてに見直しをかけました。市民の皆さんには見えない形で支出されているものがたくさんありました。本当に財政的に支援が必要なのであれば、きちんと見える形で支援をすべきだという方針で、見直しを進めていこうと思っています」

 橋下市長「たとえば文楽劇場の場合は、土地の貸付料の半額を援助しています。大阪市の税金から約9千万円が文楽劇場を支えるために使われているということを、ほとんどの方が知らない。そうではなくて、文楽を守っていくために、現在の苦しい状況の中で、一定の経費をしっかりと助成していくんだということであれば、市民の皆さんにも納得はしてもらえると思います」

  《橋下市長に向かって右手には、カメラが一列に並ぶ。橋下市長の額にもうっすらと汗がにじむ》

 橋下市長「今までの役所の助成金は、一定額が毎年毎年、固定費のように支出されるものが多かったんですが、毎年どんぶりでお渡しするのではなく、こういう事業について、この金額をこういう根拠でお出しする、ということを明確化する方針です。その枠組みの中で文楽協会への補助金を判断したときにどうなるかを、皆さんのご意見を聞きながら考えたいと思います。文化に対して補助・助成が必要なことは承知しています。ただし、そこは見える化をする、条件を明確化することが必要です」

 橋下市長「互いの意見がすれ違いのままにならないように、技芸員の皆さんに文楽協会の皆さん、そして大阪市のほうで、また僕のほうで、コミュニケーションをしっかりとりながら、補助金のあり方のルールも皆さんにご理解いただいて、どういう形で文化を支えていくか、意見をいただきたいと思います」

 《冒頭の橋下市長のあいさつは約15分にわたった。続いて技芸員らが交代で意見を述べていくことになる》

956よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/03(水) 21:52:18 ID:sUvg66Kg0
公開面談詳報(2)「食べられるのは50歳になってから」「1億の税を入れている」おカネをめぐるシビアなやりとり続く
2012.10.3 20:58
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100320590021-n1.htm

 司会「それでは自由にご発言をお願いします」

 《橋下市長のあいさつが一区切りついたところで、いったん司会が技芸員に発言をうながすが、補助金の支出のあり方をめぐる市長の説明は、さらに続く》

 橋下市長「大阪市の補助金の支出はすべてオープンに示し、『こういう事業をやるから、こういう金額になる』という枠組みをつくります。アーツカウンシルという芸術を評価する機関を設けて審査します」

 《マイクをしっかりと握りしめ会場いっぱいに行き渡る声で話す橋下市長。その一方で、マイクに不慣れなうえ声が小さく技芸員の声はほとんど聞き取れない》

 橋下市長「もう一つは、若手の技芸員の養成事業の助成金。若手の技芸員の収入が不安定で、伝統芸能を守るためには、『こういう部分でお金がかかるので補助を』と言っていただければ、補助の対象になります」

 《橋下市長の問題提起を受けて、人形遣いの吉田玉也さんが口火を切った》

 吉田さん「予算の『見える化』について、しなければいけないとは思うが、どう技芸員が関わっていけばいいのか、すぐにいい案が浮かびません」

957よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/03(水) 21:56:10 ID:sUvg66Kg0
>>956

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100320590021-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121003/waf12100320590021-n3.htm

 橋下市長「僕が問題意識を持っているのは、文楽協会の『見える化』が不十分だということです。大阪市では、経済的に苦しいご家庭がたくさんいらっしゃっる。子供たちの助成金、補助金の新しい制度をたくさん作っています。しかし給食や塾も、個人が受け取る場合は、所得要件が必ずつきます。それが本来の補助金のルールです。相当な補助金の申請書とかもあります。そこまでを技芸員の皆さんに当てはめるかは別にして、その辺をしっかり審査させていただかないと」

 《橋下市長の発言に、「その話は今、初めて聞いた」「(今まで)漠然ともらってきた」という技芸員も。一方で別の技芸員が「われわれの世界で、平均的にご飯を食べられるようになるのは50歳」と芸の世界の厳しさを訴えると、橋下市長が何度もうなずく場面も》

 竹本津駒大夫さん「事業補助に関してお話ししたい。文楽という芸能の世界は、8月にアフリカのアルジェリアまで行って高い評価をいただいたが、大阪に限った事業とは限りません。大阪市からの補助金が大阪に限って出されるということをされると、非常に動きにくいという実情もあります」

 橋下市長「文楽のPRということを考えれば、上演する場所は大阪市に限らないと思っています」

 《こう答えた橋下市長は、表情を引き締め、言葉を続けた》

  橋下市長「本当は芸をされる皆さんにここまで細かな話をするのは失礼なんですが、なかなかこういう機会はないので、すべてお話しさせていただきたい」

 《この後、橋下市長は文楽に対する税金は、文楽劇場の土地の使用料などが9千万円で、それから府が2千万円、市が4千万円、事業委託費が1200万円であることを説明。文楽と交響楽団については、億を超える金額が入っていることを強調したうえで、こう続けた》

 橋下市長「もちろん文楽を守る、伝統芸能を守るということは承知していますが、子供たちに対する助成一つとってもぎりぎりのところで、文楽に1億円を超えるお金が出ているということも、ご理解いただきたい」

958名無しさん:2012/10/04(木) 09:58:44 ID:ZKAndj8E0
文楽の補助金、凍結を解除 公開面談終え橋下市長「事業ごと支援に変える」
2012.10.4
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100406300000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100406300000-n2.htm
 財団法人・文楽協会への大阪市の補助金支給問題で、橋下徹市長と文楽協会側の公開面談が3日市役所で開かれ、協会幹部のほか、技芸員47人が出席。橋下市長は、保存よりも振興を重視するよう意識改革を求め、協会側も応じる意向を示した。公開面談の終了後、橋下市長は「多くの人に文楽を楽しんでもらいたい」と述べ、支給対象となる事業の明確化などを条件に、今年度分の補助金3900万円の支給を認める方針を明らかにした。

「外部資金獲得の努力を」

 話し合いの中で橋下市長は、1〜2年の移行期間を設けた上で、補助金の支給目的を協会の運営資金への支援から、個別の事業(公演)ごとの支援へと切り替える方針を説明。来年度以降の支給額がどうなるかは未定だが、協会側はおおむね賛意を示した。

 文楽協会の三田進一事務局長は「市長の意向を踏まえ、改革を検討したい」と安堵(あんど)の表情を浮かべ、技芸員と今後の対応を協議する考えを明らかにした。

 公開面談で、橋下市長は「補助金の支給目的や効果を市民から見て分かりやすい形に変える」と説明。協会と技芸員が連携して特別公演などの新規事業を企画し、来年度新設する有識者による芸術評価機関「アーツカウンシル」で認められれば、協会の運営資金を含めた事業費として今後も補助金を支給する−とした。

 協会幹部は、文楽の普及・保存を目的に協会が昭和38(1963)年に設立された経緯を説明し譲歩を求めたが、橋下市長は「時代は変わる。新規事業にチャレンジして外部資金を獲得する努力をしてほしい」と一蹴した。

 また補助金の一部が養成費の名目で技芸員の収入になっていることについて、活動費の支給は領収書の添付を求めた上で認めるとも説明。技芸員の生活保障については「税でサポートするなら審査基準が必要」として来年度に制度設計する方針を示す一方、積極的に新規事業を立案し、収入を増やす努力を求めた。

959名無しさん:2012/10/04(木) 18:09:19 ID:o7IIq3aw0
文楽補助 大阪府も凍結解除…松井知事が方針
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121004-OYO1T00843.htm?from=newslist

 文楽協会(大阪市)への補助金凍結問題で、大阪府の松井一郎知事は4日、橋下徹大阪市長が技芸員(演者)との意見交換後に市の補助金の凍結解除を表明したことを受け、府の補助金も解除する方針を示した。府庁で記者団の質問に答えた。

 大阪府は2012年度当初予算で2070万円を計上していたが、市に歩調を合わせ執行を凍結していた。松井知事は「(技芸員との)話し合いがついたので、文化を守る予算は執行する」と語った。

 同協会への補助金について、府は橋下市長が知事時代の08年度に前年度の3600万円から2500万円に減額し、以後も徐々に削減。大阪市も橋下市長が今年度予算で前年度の5200万円から3900万円に減額していた。

(2012年10月4日 読売新聞)

960よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/04(木) 21:39:56 ID:XvFDycuk0
文楽はパ優勝の日ハムに学べ ピンチはチャンス
2012.10.4 16:30
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100416300011-n1.htm

 阪神タイガースのファンなのだが、北海道で生まれ育ったので、北海道日本ハムファイターズのパ・リーグ優勝を喜んでいる。

 かつて北海道は巨人ファンが圧倒的だった。テレビのプロ野球中継は巨人戦ばかりだから無理もない。そのなかでタイガースを応援していると変人扱いされた。

 ナマでプロ野球の試合が観戦できる機会はめったになかった。子供の頃、夏休みに父に札幌の円山球場へ連れて行ってもらった。ナイター設備がないので、デーゲームでそれも日没で試合終了となる。確か巨人戦で、満員だった。

 野球シーズンは短く、高校野球も北国のハンディで甲子園では弱かった。そんな“不毛の地”に日本ハムがフランチャイズを移すと聞いて、はたして根付くのかといぶかったのだが、結果は大成功である。

                                  ◇

 成功の一因は「北海道」と冠したことではないかと思う。もちろん本拠地である「札幌」でもいいのだが、北海道は広い。札幌は道都だが、東京の出先のイメージがあって、道民には「北海道」と名付けたほうが「おらが球団」の親しみが生まれる。

 加えて、徹底した「地域密着」と「ファンサービス」が道産子のハートをつかんだ。その陣頭指揮をしたのが、サッカーJリーグのセレッソ大阪の社長だった藤井純一さんである。

 藤井さんは赤字だったセレッソ大阪の経営を立て直した手腕を買われて、ファイターズに迎えられた。

961よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/04(木) 21:42:13 ID:XvFDycuk0
>>960

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100416300011-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100416300011-n3.htm

 まずは球場に足を運んでもらわないといけない。札幌ドームは、サッカーのコンサドーレ札幌と共用の多目的スタジアムで、シーズン初めはまだ外は雪が残っているが、ドームの中は暖かい。そこで、午前中から札幌ドームを開放し、さまざまなイベントやアトラクションを行った。野外での娯楽が少ない北海道で一日、家族で楽しんでもらおうという狙いだ。

 さらに曜日ごとに「レディースデー」「メンズデー」「シニア&学生デー」などを設け、対象者のチケットを半額にする。ナイターでは試合途中の午後7時半(現在は7時15分)からの入場を半額にした。

 ファンクラブの拡充にも力を入れた。ちなみに僕の甥(おい)はファイターズ・ファンクラブの会員になったのが縁で結婚した。

 巨人ファンから乗り換えて、いまでは北海道ではファイターズファンが圧倒的に多い。

                    ◇

 最大のファンサービスは勝つことである。北海道に移転して以来、リーグ優勝4回、日本一1回の成績は文句のつけようがない。とくに今年は、ダルビッシュ有投手が抜けて低かった下馬評をひっくり返したのは見事だ。

 阪神タイガースも見習ってほしいと思うのだが、ここでは触れない。ファイターズの経営を見習うべきは文楽協会である。

 大阪市が補助金を打ち切るかどうかでスッタモンダしたが、どうも文楽協会の体質がプロ野球の球団と似ているように感じるのである。

 黒字経営の球団は一部の人気球団を除いてほとんどない。経営改善の努力もあまりせず、親会社の宣伝費名目で赤字を補填(ほてん)してもらっているのが実情である。

 文楽協会も伝統芸能の保存のためと、市からの補助金を当然のようにあてにしてきた。公演の収入だけでは技芸員の生活は成り立たず、芸の伝承が途切れてしまう、と。

 ところが、大阪市の財政は火の車である。橋下徹市長がストップをかけたのも理解できる。ルネサンスのメディチ家のように、金は出すが口は出さないパトロンなど、もはや望むべくもない。

                 ◇

 技芸員との公開面談の結果、今年度の補助金支給は認める方向だが、橋下市長は「税金の支出には領収書が必要」と釘を刺し、協会には「新規事業にチャレンジして外部資金を獲得する努力をしてほしい」と要望した。

 さあ文楽協会はどうする。

 ピンチはチャンスである。少なくとも、これほど文楽がニュースで取り上げられ、話題になったことはない。この機を逃さず、劇場に足を運んでもらう策は。

 スポーツと芸能の違いはあるが、ファイターズといういいお手本がある。まずは“お試し”の割引チケットから始めてはどうか。

962よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/04(木) 21:51:23 ID:XvFDycuk0
文楽の補助金、凍結を解除 公開面談終え橋下市長「事業ごと支援に変える」
2012.10.4 06:30
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100406300000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100406300000-n2.htm

 財団法人・文楽協会への大阪市の補助金支給問題で、橋下徹市長と文楽協会側の公開面談が3日市役所で開かれ、協会幹部のほか、技芸員47人が出席。橋下市長は、保存よりも振興を重視するよう意識改革を求め、協会側も応じる意向を示した。公開面談の終了後、橋下市長は「多くの人に文楽を楽しんでもらいたい」と述べ、支給対象となる事業の明確化などを条件に、今年度分の補助金3900万円の支給を認める方針を明らかにした。

「外部資金獲得の努力を」

 話し合いの中で橋下市長は、1〜2年の移行期間を設けた上で、補助金の支給目的を協会の運営資金への支援から、個別の事業(公演)ごとの支援へと切り替える方針を説明。来年度以降の支給額がどうなるかは未定だが、協会側はおおむね賛意を示した。

 文楽協会の三田進一事務局長は「市長の意向を踏まえ、改革を検討したい」と安堵(あんど)の表情を浮かべ、技芸員と今後の対応を協議する考えを明らかにした。

 公開面談で、橋下市長は「補助金の支給目的や効果を市民から見て分かりやすい形に変える」と説明。協会と技芸員が連携して特別公演などの新規事業を企画し、来年度新設する有識者による芸術評価機関「アーツカウンシル」で認められれば、協会の運営資金を含めた事業費として今後も補助金を支給する−とした。

 協会幹部は、文楽の普及・保存を目的に協会が昭和38(1963)年に設立された経緯を説明し譲歩を求めたが、橋下市長は「時代は変わる。新規事業にチャレンジして外部資金を獲得する努力をしてほしい」と一蹴した。

 また補助金の一部が養成費の名目で技芸員の収入になっていることについて、活動費の支給は領収書の添付を求めた上で認めるとも説明。技芸員の生活保障については「税でサポートするなら審査基準が必要」として来年度に制度設計する方針を示す一方、積極的に新規事業を立案し、収入を増やす努力を求めた。

963よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/04(木) 21:55:09 ID:XvFDycuk0
武士も見た目が肝心!? 大阪の佐賀藩蔵屋敷跡から江戸時代の入れ歯
2012.10.4 08:48
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100408500002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121004/wlf12100408500002-n2.htm

食事には使えない

 武士にとっても「歯は命」!? 大阪市北区西天満の佐賀藩蔵屋敷跡で、江戸時代後期(18世紀末)の入れ歯が、市博物館協会・大阪文化財研究所の発掘で見つかっていたことが分かった。当時、絵図などに「入れ歯師」という職人が記されるなど、入れ歯は比較的普及していたとみられるが、発掘で見つかるのは珍しいという。また現在と違って食べるためではなく、藩士が見栄えを気にして装着していたとみられることも分かった。

 同研究所によると、出土したのは、上の前歯5本分の部分入れ歯(幅3センチ、高さ1・3センチ)で、完全な状態だった。滑石を加工し、入れ歯の側面には穴が開けられ、糸を通して隣の歯に結びつける形で固定したらしい。糸だけではぐらついて滑石自体も柔らかいため、実際に噛むのは困難とみられ、食べるときには外し、外出時などに装着していたとみている。

 調査担当の市川創学芸員は「武芸の稽古などで前歯を欠損した武士が、入れ歯を着けたのかもしれない。実用性より、見た目を気にしていたようだ」と話している。

 入れ歯は平安時代末ごろから作られ、現存する最古のものは、和歌山市内の寺院に伝わる室町時代末(16世紀前半)の尼僧の入れ歯といわれる。江戸時代に普及し、歯茎の部分を木、歯は木や滑石、骨などを加工。古事記研究で知られる国学者の本居宣長(もとおりのりなが、1730〜1801年)も愛用し、知人への手紙で「入れ歯致し申候。口中心持わろくもなき」と、着け心地がよかった様子を記している。

 これまでは、東京都内の武家の墓などから数十例程度、三重県四日市市の代官所跡などで出土している程度で、市川さんは「入れ歯は普及していたはずだが、発掘では意外に見つからないのが不思議だ」と話している。出土した入れ歯は、大阪市中央区の大阪歴史博物館「なにわの考古学2012」で展示中(22日まで)。

964よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/05(金) 05:38:20 ID:CAPItSPA0
秋の和泉市を散策 ツーデーウオーク開催
2012年10月04日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001210040002

 第14回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク(和泉市、日本ウオーキング協会、和泉商工会議所、朝日新聞社など主催)が13、14の両日、大阪府和泉市内で開かれる。平安期の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明ゆかりの神社など歴史や自然が豊かな地域を巡る5〜40キロの計8コース。当日参加も受け付ける。

 今年は、気軽に秋の和泉路を散策してもらえるよう、両日とも新たに5キロコースが新設された。スタート、ゴール地点はいずれも和泉市いぶき野5丁目のエコール・いずみ内アムゼ広場(泉北高速鉄道和泉中央駅から徒歩2分)。

 13日は市南部を歩く。槙尾山施福寺で約650段の石段を登る「西国めぐり槙尾山大自然コース」(40キロ、午前7時半出発)▽「いずみの国光明皇后伝説コース」(20キロ、同9時)▽「歩いて広がる和泉の『わ(和・輪)』コース」(10キロ、同10時)▽タレント・森脇健児さんも参加する「気軽に和泉市お散歩コース」(5キロ、同11時)の4コース。

 14日は市北部をめぐる。安倍晴明ゆかりの信太森葛葉(しのだのもりくずのは)稲荷神社や弥生時代最大規模の建物跡を復元した「いずみの高殿」がある池上曽根史跡公園などを通る「弥生ロマン・葛葉(くずのは)伝説たんのうコース」(25キロ、午前8時出発)▽「弥生時代から現在へ 歴史探索コース」(20キロ、同9時)▽「和泉の歴史にふれあうコース」(10キロ、同10時)▽「秋風さわやかお散歩コース」(5キロ、同11時)の4コース。

 当日参加は出発時間の1時間前から受け付ける。当日参加費は2千円で、1日参加、両日参加とも同額。5キロコースだけは1日500円。中学生以下は無料。雨天決行。問い合わせは実行委員会事務局(0725・44・2882、平日午前10時〜午後4時)。
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965よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/05(金) 23:16:40 ID:73biaJp20
大阪城天守閣で6〜8日、千貫櫓など国重文3棟を特別公開
2012.10.5 10:33
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121005/wlf12100511230008-n1.htm

 大阪城公園(大阪市中央区)内にある国重要文化財の建造物3棟が6〜8日、特別公開される。公開を手がける大阪城天守閣は「普段は外側からしか見ることのできない貴重な建造物の内部見学を楽しんで」とPRしている。

 公開されるのは、千貫櫓(せんがんやぐら)と多聞櫓、金蔵(きんぞう)。千貫櫓は、さまざまな建築や造園を手がけた茶人の小堀遠州が元和6(1620)年に設計監督して創建された2層2階の隅櫓。多聞櫓は、嘉永元(1848)年の再建で、大手口の石垣の上に建つ。金蔵は、宝暦元(1751)年の築造で幕府の金庫の役割を果たした。

 期間中、幕末の解体修理の際に出土した瓦や大阪城の石垣を構成する石にある刻印の拓本などを多聞櫓内で展示する。

 公開は午前10時〜午後4時半。3棟分の入場券は200円、天守閣とのセット券は700円。中学生以下無料。問い合わせは大阪城天守閣(電話06・6941・3044)。

966よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/06(土) 05:46:22 ID:73biaJp20
大阪ロマン紀行

信長も恐れた蘇鉄の勇姿

今回の案内人 亀井澄夫 (日本妖怪研究所所長)
2012年10月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/121005/20121005034.html

堺市堺区材木町東「妙國寺」

 室町時代の終わり頃のこと、織田信長は堺に鉄砲の買い付けに来ていた。当時の大名は宿泊所として寺を選ぶことが多く、その日は妙國(みょうこく)寺に泊まることにした。寺の庭には、かねてよりうわさに聞こえし見事な蘇鉄(そてつ)が植わっており、その雄大さ、美しさに信長は大いに感心し、天正4(1576)年にできたばかりの安土城に強引に植え替えさせた。

 しかし、安土城に移したその日から、夜な夜な「妙國寺に帰りたい」「堺に帰りたい」と、すすり泣くような声が聞こえる。声の出所は、なんと植えたばかりの蘇鉄である。

 怒った信長は家来に切り倒すよう命じたが、切り口から鮮血のような液体がほとばしり、大きな蘇鉄が大蛇のように身をくねらせてもだえ始めたので、さすがの信長も手に負えず妙國寺へと返した。

 この話は江戸の中頃に書かれた『絵本太閤記』に記されている。

 実際にお寺の縁側から蘇鉄を見せていただいたが、枯山水の見事な庭園で、樹齢千百年あまり、国の天然記念物に指定され、とにかく貫禄ある美しさである。

 他に妙國寺にまつわる話としては、有名な「堺事件」がある。幕末の頃、フランス人の上陸をめぐって土佐の藩士が発砲し、フランス人11人を死亡させた。

 後に土佐藩士に切腹の命が下るのだが、その切腹した場所が、ここ妙國寺である。

 この事件は、森鴎外の小説『堺事件』や司馬遼太郎の『俄(にわか)』にも書かれているので、ご存じの方も多いことだろう。変わったところでは、講談の『鮮血妙國寺』もある。

 妙國寺には、その土佐藩士たちを描いた掛け軸や、髪の毛、刀、血のりのついた三方(さんぽう)(刀を置く台)など、貴重な資料が残されている。

 当初は20人の切腹を命じたそうだが、11人で止められた。これは死亡したフランス人の数に合わせたらしい。そのへんの事情は小説などとは異なる。次は自分の番と思っていた12番目の藩士は、死ねなかったことが、さぞ無念に思ったことだろう。

 お話をお聞きし、改めて枯山水の庭に向かうと、あの信長でも言うことを聞かなかった蘇鉄の力強さと美しさが、土佐藩士のいさぎよさと重なって、凛(りん)とした気分にさせてくれる。

 また、今年の「境文化財特別公開」は10月29日から11月4日まで行われ、妙國寺はおすすめコースにも入っている。11月2、3日は午後8時まで庭園がライトアップされる予定。くわしくは「堺文化財特別公開」で検索を。見る価値ありの蘇鉄群である。

967よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/07(日) 07:37:53 ID:JR61FtFA0
ずらり40万冊 古書ファン真剣 四天王寺で秋の大古本祭り
2012.10.6 22:39
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121006/wlf12100622430022-n1.htm

 大阪市天王寺区の四天王寺で、約40万冊の古本を販売する「秋の大古本祭り」が開かれ、多くの古書ファンでにぎわっている。9日まで。

 近畿の書店でつくる「関西古書研究会」が主催し、今年で12回目。五重の塔をのぞむ境内に、約30店が文学や歴史など多分野の古書を出品している。

 お目当ての一冊を捜そうと来場者は真剣な表情。両手に約10冊の本を抱えた同市の女性は、「これだけたくさん本があると目移りして困っちゃう」。

968よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/07(日) 07:45:59 ID:JR61FtFA0
大阪城のやぐらを特別公開
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005459881.html?t=1349562430781

国の重要文化財に指定されている大阪城のやぐらの特別公開が、6日から始まりました。
大阪城のやぐらの特別公開は、秋の観光シーズンにあわせて毎年、行われています。
やぐらは、城の周辺に設けられた、敵からの攻撃を防ぐための詰め所です。
城の西側にある「多聞櫓」は、長さ40メートル余りの渡り廊下のような「続櫓」と、門の上に位置する「渡櫓」の2つで構成されています。
侵入してくる敵を鉄砲で撃つための小窓や、敵の頭上から槍などを落として攻撃する「槍落し」が設けられています。
また「千貫櫓」は、江戸時代初期につくられ、敵が攻め入る南と西の方角にだけ窓が設けられているのが特徴です。
大阪城天守閣の松尾信裕館長は、「城を守るための機能がふんだんに盛り込まれている。ぜひ足を運んで見ていただきたいです」と話していました。
大阪城のやぐらの特別公開は8日まで行われています。

10月07日 02時04分

969よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/07(日) 09:29:15 ID:JR61FtFA0
竹内街道 灯籠で彩り 7、13日催し
2012年10月06日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001210060003

 2013年に敷設1400年を迎え、日本最古の国道とされる「竹内(たけのうち)街道」を灯籠(とうろう)で照らすイベントが今月、沿道の羽曳野市と太子町で相次いで開かれる。

 竹内街道は堺市から、松原市や羽曳野市、太子町を通り、奈良県葛城市に至る約30キロの道。起源とされるのは、飛鳥時代の推古天皇21(613)年に大陸との玄関口だった難波と、飛鳥の都を結ぶ日本最古の国道として整備された「大道」。竹内街道は大道の一部で、ルートがほぼ重なっていることから、日本最古の国道と呼ばれている。

 7日には、羽曳野市の近鉄南大阪線駒ケ谷駅と上ノ太子駅周辺の沿道計約1キロで、灯籠(とうろう)約500個が並ぶ。ちょうちん行列なども催される。

 太子町は13日、太子町春日西交差点〜道の駅「近つ飛鳥の里・太子」間の約2キロの区間で、約2千個の灯籠(とうろう)で街道を照らす。古民家で二胡(にこ)の演奏などもある。

 問い合わせは羽曳野市(072・958・1111)、太子町(0721・98・5521)。
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970よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/07(日) 15:27:27 ID:2ngqw9aE0
能面制作の奥深さ実感 豊中不動尊で講座 大阪
2012.10.7 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121007/osk12100702040001-n1.htm

 春の「島熊山桜能」で知られる豊中市の豊中不動尊で6日、能面制作実演講座が開かれ、参加者たちは、能面ができあがっていく工程に興味深そうに見入っていた。

 同不動尊の「お能ってなあ〜に?おもしろ講座」の秋講座の第1弾。

 豊中市の能面師、鳥畑英之さん(66)が、ヒノキから型紙で面の材料を切り出す「木取り」から、大まかな顔を掘り出す「荒取り」、「仕上げ」などを実演。老若、男女による顔の形の違いなどを説明した。

 さらに、彫り上がった面の下塗りや彩色工程を実演、色出しの難しさを解説した。趣味で能面彫りをしている参加者もおり、熱心に質問する人も。

 「お能ってなあ〜に?実行委員会」の能楽観世流シテ方、山本博通さんは「能面は奥が深く、ひとりの能面師が納得できる面を彫れるのは一生に1面くらいといいます」と解説していた。

971よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/08(月) 20:06:06 ID:JgPIc0qo0
豊臣家ゆかりの茶会を再現
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005487161.html?t=1349692250125

豊臣秀頼と母親の淀殿が開いたと伝えられている茶会を再現した催しが大阪市の神社で開かれました。豊臣秀頼と母親の淀殿は大坂城の鎮守の神として信仰されていた大阪・中央区の「玉造稲荷神社」の境内で茶会を開きお茶とだんごでもてなしていたと言い伝えられています。
茶会は豊臣家をしのぼうと毎年、この時期に行われ、きょうは去年建立された豊臣秀頼の銅像の前で行われました。
きょうの大阪市はさわやかな秋晴れとなり、参加した人たちは秀頼公の銅像の下で、「裏千家」の人たちがたてたお茶やだんごを味わっていました。
2人の子供を連れた38歳の女性は「おいしくいただきました。ふだんは子育てに追われていますが、風情があって、落ち着いた気持ちになれました」と話していました。

10月08日 15時02分

972よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/09(火) 06:03:09 ID:JgPIc0qo0
[碑にきく]論争呼んだ 真っすぐな思い
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121008-OYT8T01164.htm

.◆与謝野晶子詩碑(堺市堺区)

 中世の自治都市・堺を守った濠(ほり)の上に、今は阪神高速堺線がそびえる。その西側の旧市街地にある府立泉陽(せんよう)高校の中庭に、石碑「与謝野晶子詩碑」が立つ。

 〈あゝをとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや〉

 近くの和菓子の商家で生まれ育った与謝野晶子(1878〜1942)は、泉陽高校の前身・堺女学校で学んだ。卒業後、短歌の投稿をするようになり、1901年に22歳で上京。3年後、日露戦争に出征した2歳下の弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)に呼びかける、この詩を発表した。戦争で死ぬのが潔いとされた時代。論争を巻き起こした。

 晶子は以後も、短歌や詩、源氏物語の現代語訳、社会評論などを多数発表し続けた。私生活では歌人で、浪漫主義雑誌「明星」創刊者の鉄幹と結婚し、11人の子を育てた。東京を拠点に忙しい生活を送りながら、母校に関する作品も残した。

 〈殿馬場(とのばば)の 柳二本(ふたもと) 三本(みもと)なほ ありつるころの わが女学校〉(殿馬場に柳が2、3本あった頃の私の通った女学校よ)

 堺女学校は1888年に創設され、晶子は同年、入学した。補習科の3年も含めて6年間学んだ。一帯は江戸時代に幕府の役所があったことから殿馬場と呼ばれ、現在でも中学校名として残る。1926年に47歳で発表した短歌には、母校を懐かしむ気持ちが表現されている。

 一方で、随筆「光る雲」(1928年)では、「世間で云(い)う高等教育を学校で受ける機会を持たなかつた」と嘆いた。晶子は当時、仲間とともに東京で専門学校を創設し、教壇に立っていた。泉陽高校の千木良(ちぎら)孝志校長(59)は「女学校は裁縫が中心だった。晶子は『女子も高等教育を受けて社会に出るべきだ』と思い、その志を実践したのでしょう」と推し量る。

 堺女学校は1900年に堺高等女学校となり、48年、共学の泉陽高校になった。石碑は、同窓会や教諭らが71年に建立。寄付を募る活動に協力した堺高等女学校の卒業生、横木妙子さん(81)(堺市北区)は「在学中は晶子が授業で扱われず、卒業後、今の時代に通じる作品の多さを知った。社会に目を開いていた姿勢や先見性はもっと評価されていい」と語る。

 「晶子を象徴する」として選ばれた碑文は、命の尊さを訴える。家族への真っすぐな思いが込められた詩は、未来ある高校生たちに、これからの人生で大切にすべきものを示している。(中筋夏樹)

973よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/09(火) 06:04:04 ID:JgPIc0qo0
>>972

◆静かで美しい晩年の歌 歌人道浦母都子さん65

 早大の学生の時に体験した学生運動。そして恋愛。揺れ動く思いを三十一文字に託した歌集「無援の抒情(じょじょう)」(1980年)で有名になった。晶子も、鉄幹への情熱的な恋を詠んだ第1歌集「みだれ髪」(1901年)で注目を集めた。だが、現代を代表する歌人は、晶子の一番好きな歌として、死後発行された遺歌集「白桜集」の一首を挙げる。

 〈木の間なる 染井吉野の 白ほどの はかなき命 抱く春かな〉(木の間から見えるソメイヨシノの白い花のように、私の命ははかない。そんな命を抱いて過ごす春よ)

 添い遂げた夫の鉄幹はすでに亡く、病に伏せがちだった晩年の歌。「死期が近いのをわかった上で一生を振り返った。静かで美しい」

 晶子は63年の生涯に短歌を数万首作った。「呼吸するのと同じように歌が出てきた」。一方で、詩は「主張したいものがあるときに用いた」。「君死にたまふことなかれ」の詩は「戦争への疑問とともに家族愛を訴えたかったのでしょう」。

 4年前、約2700首を選んで「新選 与謝野晶子歌集」にまとめた。今後は評伝を書きたいという。「一生かかってもわかりきれない偉大な女性。歌人として彼女の生き方に迫りたい」

 (2012年10月9日 読売新聞)

974よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/10(水) 22:17:23 ID:jw3jTqbs0
伝統職人の技さえる 住吉大社で「全国サミット」
2012年10月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121010/20121010017.html

 神社仏閣の建築をはじめ日本の伝統文化を支えてきた職人の文化を紹介する「全国伝統職人サミットin住吉大社」が9日、大阪市住吉区の住吉大社で始まった。職人が手掛ける彫刻作品の展示や実演で来場者らを楽しませている。10日まで。

 伝統職人技術文化研究会と住吉大社が主催する。大阪、京都をはじめ2府8県の木彫刻、石工など18職種の職人がブースを設ける。

 南部白雲木彫刻工房(富山県)が手掛け、立て替え中で間もなく竣工(しゅんこう)を迎える住吉大社の種貸社で使われる神鏡台など、職人が丹精を込めて制作した作品が並ぶ。カンナがけなど職人の仕事を体験できるコーナーも設けられている。

 同研究会事務局の南部白雲事務局長は「普段、職人が一般の人と接する機会は少ない。この機会に職人の文化に触れていただければ」と話している。

975よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/11(木) 06:28:12 ID:2sJePcJY0
利休の茶室「待庵」再現 堺市計画の文化観光施設
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121011-OYT8T00156.htm
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 堺市の竹山修身市長は10日、定例記者会見で、2014年度末のオープンを目指して堺区宿院の旧市立堺病院跡地に建設する、千利休と茶の湯、与謝野晶子をテーマにした「(仮称)文化観光拠点施設」の完成予想図を発表した。利休の茶室で唯一、現存する国宝「待庵(たいあん)」(京都府大山崎町)の再現を目玉に、年間15万〜20万人の利用を見込んでいる。

 鉄筋3階建て延べ約3500平方メートルで、総事業費は25億円。着工は13年度。

 1階は、「茶の湯体験ゾーン」で、再現した「待庵」のほか、畳敷きの茶室を配置。周辺には山里をイメージした茶庭を整え、「市中の山居」とも表現される佗茶(わびちゃ)の世界を体験してもらう。

 2階では晶子を紹介し、市立文化館(堺区田出井町)から直筆の短冊や、愛用の家具など関連の展示品を移して展示。図書・情報スペースも設け、業績などを発信する。市は、予定通りの利用者がいた場合、経済効果を年間10億円とみており、竹山市長は「市内各地を巡る起点となるような施設にしたい」と期待している。

(2012年10月11日 読売新聞)

976よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/11(木) 21:41:19 ID:8Luck7ws0
魔法瓶が大阪で誕生して100年 意外と知られていない歴史 大阪で特別展
2012.10.11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/121011/wec12101120010002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/121011/wec12101120010002-n2.htm

 日本で初めて魔法瓶が大阪で作られて今年で100年。発祥の地、大阪には今も魔法瓶メーカーが多くあるが、象印マホービンは大阪発の日本の魔法瓶の歴史を知ってもらうため、同社が運営する「まほうびん記念館」(大阪市北区)で特別展を開いている。来年1月31日まで。

 特別展「日本のまほうびん生誕100年」では、日本での魔法瓶の歴史を年表でまとめたほか、同社だけでなく、ライバルメーカーの製品や、魔法瓶にまつわるエピソードを紹介している。

 底に回転台をつけることでさまざまな向きに給湯できる回転式をはじめ、お湯をくみ上げる構造のレバー式やエアー式などを展示。昭和40年代に大流行した花柄などの魔法瓶が並ぶコーナーでは1世紀にわたる魔法瓶の進化が分かる。

 また、32年に南極観測船「宗谷」に積み込まれて乗組員に愛用された魔法瓶や、女子マラソンの野口みずき選手が、金メダルを獲得したアテネ五輪で使用したステンレスボトルなどはエピソードとともに展示されている。このほかリンゴ型や急須型などユニークな形の魔法瓶など、館内には200点以上が集められている。

 日本で初めて魔法瓶が大阪で作られたのは、明治45(1912)年。もともと輸入品だった魔法瓶は二重構造で、内側のガラス製中瓶の製造には高度な技術が必要だったため、当時のガラス工業の中心だった大阪で多くの魔法瓶製造業者が誕生した。

 その後、東南アジアへの輸出などで売り上げを伸ばし、戦後の最盛期には年間3200万本、540億円近い出荷額を誇る世界規模の産業に成長した。一方、機械化などの進展でメーカーは最盛期の約50社から、現在の全国魔法瓶工業組合の会員社は13社まで減少。今でもこのうち11社は大阪に本社を構えている。

 同館の山口己年男館長は「意外と知られていない、大阪から牽引してきた魔法瓶業界の歴史に親しんでもらえれば」と話す。

 開館時間は午前10時〜正午▽午後1時〜4時。入館無料だが、事前の予約が必要。

977よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/12(金) 06:01:08 ID:NXZp3UyY0
死者2856人通説の10倍 江戸中期・大坂の大火「妙知焼」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121012-OYT8T00135.htm

 江戸中期の1724年(享保9年)に大坂の街の大半を焼き尽くした大火「妙知焼(みょうちやけ)」による死者数について、通説の293人の10倍近い2856人に達していたとする文書が、東京の古書店で見つかった。大坂の豪商らが建てた学問所「懐徳堂」で、初代学主を務めた儒者・三宅石庵(みやけせきあん)(1665〜1730)が大火から約1か月後に記した書簡。研究者は「現場にいた確かな人物が記した文書で、史料としての価値が高い」と話している。(安田弘司)

 大阪商業大商業史博物館(東大阪市)の学芸員らが6月、東京の古書目録に掲載された書簡を発見。幅約16センチ、長さ約76センチの書簡が2分割され、江戸時代の表具に貼られた姿に加工されていた。署名と花押から筆者は石庵と確認され、1724年4月17日付で、龍野(兵庫県)に住む知人とみられる「間宮新四郎」という人物に送られたとわかった。

 江戸時代の大坂を襲った火災の中で、妙知焼は最も大規模とされる。石庵の書簡は、〈大坂三月廿一日二日之大火(大坂で3月21、22日にあった大火)〉で始まり、火の手から逃れようとした町人らの様子がつづられている。〈或(あるいは)ふまれ或やけ(中略)渡し舟にて打ちかえり死たるも夥敷候(おびただしくそうろう)(踏まれたり、焼けたりした。逃げようとして乗った渡し船は転覆し、多数の死者が出た)〉

 さらに、町奉行所がまとめた293人の死者数は〈公儀(公職関係者)〉で、実際は〈焼死人弐千八百五十六人まどひ人千八十弐人(焼死者2856人、行方不明者1082人)〉と明記。川で溺れるなどして遺体の見つかっていない人もおり、〈四千余もあやまちいたし申候也(もうしそうろうなり)(4000人余りが亡くなった)〉。

 石庵は当時、出火場所から1里(約4キロ)離れた場所で私塾を営み、延焼に気付いたのは午後2時頃で、自らも焼け出されたと記述。その後、平野郷(大阪市平野区)に身を寄せ、避難先に京都の医学者後藤艮山(こんざん)が見舞いに訪れたとする。また、石庵の弟子で2代目学主となる中井甃庵(しゅうあん)の居宅は被害を免れたと書いている。

 一方で、死者や行方不明者数の根拠については触れていない。近世の庶民文化に詳しい山中浩之・府立大名誉教授は「石庵が詳細な数字をどう入手したのか、書簡からは不明だが、通説の死者数は火災の規模からすれば少ない。大火から間もない時期に克明に記された文書であり、数字にもリアルさがある。妙知焼の直接史料は極めて少なく、貴重だ」と評価している。

978よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/12(金) 06:01:55 ID:NXZp3UyY0
>>977

書簡は15日〜12月1日(日曜祝日休館)、同博物館で開かれる企画展「商都大阪の文化力・近世浪華の町人と文人趣味」で、一般公開される。10月20日のシンポジウムでは、書簡や文人画など展示作品の解説もある。入館、シンポとも無料。シンポは申し込みが必要。問い合わせは、同博物館(06・6785・6139)へ。

◆妙知焼 大阪編年史(1969年、大阪市立中央図書館発行)収録の古文書によると、「享保の大火」とも呼ばれ、1724年3月21日正午頃、南堀江(現在の大阪市西区)で発生。西南の大風にあおられ、当時の市街地「大坂三郷」の3分の2にあたる408町に火が回り、約1万1700棟を焼失、翌22日夕方まで燃え続けた。死者数は、複数の古文書が293人とし、通説となっている。ただ「7000人余」「1182人」などとするものもある。

◆懐徳堂 大火の約半年後の1724年11月、5人の豪商が私財を投じてつくった町人の学問所。現在の大阪市中央区今橋にあった。自由な学風で知られ、いち早く地動説を唱えた山片蟠桃(やまがた・ばんとう)ら、ユニークな町人学者を数多く輩出した。明治期に閉校となるが、1916年に再建。第2次世界大戦の空襲で焼失するまで続いた。大阪大学のルーツの一つ。

(2012年10月12日 読売新聞)

979名無しさん:2012/10/12(金) 09:53:57 ID:ZKAndj8E0
ピースおおさか、大阪空襲展示に特化…府市方針
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121012-OYO1T00290.htm?from=main2
 大阪府と大阪市は、戦争と平和に関する展示追悼施設「大阪国際平和センター」(ピースおおさか、大阪市中央区)について、満州事変(1931年)以降の昭和戦争などの展示を大幅に削り、戦争末期の大阪空襲に特化する方針を固めた。ほかのテーマは、橋下徹市長が設置に意欲を見せる、日本の近現代史を学ぶ新施設に集約する。91年の開館以来初の大幅な展示替えで、来年度にも着手する。

 同館は府市が100%出資する財団法人が運営し、経費の大半を府市の補助金で賄う。「大阪空襲と人々の生活」「15年戦争(昭和戦争)」「平和の希求」の三つの柱で構成されているが、南京大虐殺の展示内容などを巡り、府市の一部議員から「自虐的」と批判する声が出ていた。

 橋下市長は2015年度までに、日本と近隣諸国で歴史認識が分かれる近現代史のテーマについて両論併記で展示・解説する施設を整備する方針を表明。このため同館は、大阪空襲を中心に、子供が現行の学習指導要領通りに学ぶ施設に見直すことにした。
(2012年10月12日 読売新聞)

980よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/14(日) 08:40:27 ID:Wf8h57/k0
旭堂南陽のブラリ講談 歴史あるき

「楠木正成」学問の地・河内長野市
2012年10月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/rekiwalk/121013/20121013056.html

目を引く馬上の正成像

 前回、楠木正成は毘沙門天にちなんで「幼年時代は多聞丸と呼ばれていた」と書きました。しかし、「少し字が違うんではないか?」とも言われております。楠木家は武家で多くの者を抱えている身。そこで多くの武門を従える者ということで「多門丸だった」という説も存在します。皆さんはどちらが正しいと思いますか。正成の前半生というのは特によく分かっておりません。よって余計に想像が膨らみ、話が作りやすい。いよいよ講談師の登場となる訳です。

 さて、千早赤阪村から少し南へ下ったところにあるのが、河内長野市の檜尾山観心寺。ここは「修験道の開祖・役小角によって開かれた」と言われております。後には弘法大師空海も訪れました。空海が訪れたときに北斗七星を勧請(かんじょう)したそうです。日本では北斗七星を祀(まつ)るのはここだけです。今でも星塚があります。

 そんな観心寺で学んだのが多聞丸こと楠木正成。8歳から15歳までの7年間ここでしっかり勉強しました。「どれくらい勉強したか?」というと、物凄(すご)く一生懸命学びに学び、これからの事を考えに考えたそうです。そこでまわりの者が皆、「あぁ〜、多聞丸さまは本当に感心児だ」と言ったとか。

 かくいう私も河内長野で高校時代を過ごした身。ただ「勉学にすべてを傾けたか?」というとそうではなく、海外留学のために味方につけなければならない英語の先生の歓心を買うために文化祭の役員を引き受け、スウェーデンへの留学が決まってからは北欧への関心ばかりが高まって、全く勉強に身が入らなかった非感心児でした。もちろん観心寺にも行ったことがなく、今回の取材が初めてでした。

 しかし、行って大正解。駐車場にいきなり現れるのは馬上豊かに跨(またが)る楠木正成像。馬が本当によく似合う。そして少し行くと表門。そこから見える石段が山の斜面をはうようにずっと上まで続き、一番上に見えるのが国宝の金堂。「ええなぁ」を連発しながら、ふっと左手をみると小さな日本家屋。「楠公学問書 中院」と書かれていました。「のちに負け必死の大軍を翻弄(ほんろう)する知略はここで磨かれたのか!」と思わず興奮してしまいました。

 さぁ、観心寺で学問を学んだ楠木正成、いよいよ出陣の機会が訪れます。それは来週のお楽しみ。

 (大阪講談協会所属)

 旭堂南陽の公演情報=20日午前10時〜午後5時、「東谷ズム」。川西市郷土館(能勢電鉄山下駅より徒歩12分)。信長・秀吉と地域や能勢電鉄などにまつわる講談など、随時開催。参加無料。問い合わせは川西市郷土館、電話072(794)3354。

981よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/14(日) 08:57:07 ID:Wf8h57/k0
千里ニュータウン歩み一目 吹田「半世紀展」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121014-OYT8T00118.htm

. 千里ニュータウン(吹田市、豊中市)の50年の歴史を振り返る「ニュータウン半世紀展」が13日、吹田市岸部北の市立博物館で始まった。11月25日まで。

 同博物館と市民らでつくる実行委員会が企画。ニュータウンの計画図や、約50年前に団地で使用されていた牛乳瓶入れなど、計約100点が紹介されている。

 1962年に同市佐竹台に建てられた公社団地の間取りを再現したミニチュアの模型も展示。神戸女子大(神戸市)の学生がたんすやちゃぶ台なども含めて、約1か月かけて手作りした。貝塚市脇浜、会社員宮本洋樹さん(38)は「今の暮らしほど物はないけれど、生活が充実していたことがわかる」と話していた。

 月曜休館。問い合わせは、同博物館(06・6338・5500)へ。

◇情報募集しています

 読売新聞大阪版では、千里ニュータウンの50年をたどる連載を予定しています。次の6項目に関する思い出や情報をお寄せいただけませんか。〈1〉簡易型ユニットバス「バスオール」〈2〉日本初の自動改札機〈3〉竹見台小学校と南竹見台小学校〈4〉近隣センター〈5〉老朽化住宅の建て替え〈6〉その他。〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社社会部大阪版担当へ郵送か、ファクス(06・6361・3001)、メール(o‐naniwa@yomiuri.com)でお願いします。

(2012年10月14日 読売新聞)

982よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/14(日) 19:46:02 ID:72PFOaIc0
会員は男性限定「大阪最古の社交クラブ」をのぞいてみた
2012/10/13 6:30
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO47093790Q2A011C1AA2P00/

大阪・淀屋橋のオフィス街を歩いていると、れんが造りのクラシカルな洋風建築を見つけた。扉を開けると「いらっしゃいませ」と、白シャツにグレーのベストをまとった受付嬢の上品な声。面食らう記者に「ここは大阪最古の社交クラブ、『大阪倶楽部(くらぶ)』です」。一体、どんな場所なのだろうか。


 実はこのクラブ、会員は男性のみ。案内冊子には「社員(会員)2名の推薦」との記載だが、男性しか受け入れていない。入会金は10万円、社費(会費)は月8000円だ。

 事務局に問い合わせると「毎週水曜日の昼に開く『午餐会(ごさんかい)』という講演会が大きな特徴です」とのこと。女性の記者は特別に見学させてもらうことになった。

              ◇            ◇

 天井にシャンデリア、床は市松模様の大理石という装いのロビーは、オフィスビルと違う厳かな雰囲気。午後0時半の講演開始に合わせて、ジャケット姿が決まった白髪の男性が次々と入っていく。ジャケット、ネクタイ、紳士靴の着用が規則だ。

 午餐会には毎回、350人ほどが集まる。この日は西上雅章・通天閣観光社長が講演。熱心にメモをとる人も少なくない。その後は喫茶・バーでくつろいだり、ビリヤード(撞球)をしたり。1階の囲碁室は24面の碁盤全てが埋まり、真剣勝負の最中だった。

 現在の会員数は約1200人で平均年齢は73歳。大企業のOBや弁護士、医者らが多い。囲碁や謡曲など21の同好会がある。「今の自分に満足していない。新しいことを知りたくてね」。会員歴20年以上で週3回通う土橋幸雄さん(88)は元気はつらつ。「それにここは、男だけの気楽さがある」

983よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/14(日) 19:47:19 ID:72PFOaIc0
>>982

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO47093790Q2A011C1AA2P00/?df=2

 「西洋で生まれた社交クラブは、もともと紳士のためのもの」と岸本晴夫事務局長。大阪には他に日本綿業倶楽部(中央区)、清交社(北区)、中央電気倶楽部(同)があるが、これらは女性会員も認めている。「大阪最古の社交クラブということもあって、伝統を守ってきました」。ピークの1995年ころから会員数が400人ほど減り、女性の受け入れも検討されているが、「雰囲気が変わる」との反対意見が根強いという。

 設立は1912年。住友家の総理事だった鈴木馬左也らが立ち上げた。1880年に福沢諭吉が東京・銀座に日本で最初の社交クラブ「交詢社」を創ると、東京に同様のクラブが次々と誕生。大阪にもお茶屋や料亭以外の「純然たる社交の場を」との機運が盛り上がった。大阪ガスビルの設計で知られる安井武雄の手による4階建てのクラシカルな建物は、国の登録有形文化財、大阪市指定文化財だ。

              ◇            ◇

 せっかくの歴史的建造物。会員以外でも雰囲気を楽しむ方法はないのだろうか。3階の会議室、4階のホールは会員以外にも有料で貸し出す。調べてみると、クラシックコンサートが頻繁に開かれていることがわかった。

 ここを活動の拠点にしているのが日本テレマン協会。月に1度、クラシックの演奏会を開く。「バッハやモーツァルトの時代、音楽はサロン、つまり貴族の社交場で楽しむものだった。ここの雰囲気は演奏会にぴったり」と、同協会の音楽監督で指揮者の延原武春さん。文化財の中で聴けたら、と何だかわくわくする。

 大阪倶楽部は多くの人に親しんでもらおうと、2カ月に1度、見学会を実施。今年は設立100年を記念して19〜29日、会員による絵画や書道の作品展を開く。普段は会員しか入れない2階談話室が会場。紳士の社交場に足を運ぶ絶好の機会だ。

(大阪文化担当 佐々木宇蘭)

984よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/14(日) 20:36:19 ID:72PFOaIc0
【仏国ブログ】華麗で力強い大阪城、一見の価値がある日本の城
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=1012&f=national_1012_015.shtml

  日本に在住しているフランス人のブログ「Horizons du Japon」では、大阪城を紹介している。

  筆者はまず、日本には多くの観光名所があるが、モニュメントと呼べるものはないのではないかと述べている。これは、エジプトのピラミッドやイタリアのコロッセオなど、その国を代表するような大型の歴史的建造物を指しているようだ。

  しかし、日本各地にある城は仏教寺院の塔を思い起こさせ、モニュメントと呼べるかもしれないと述べている。特に筆者の住む地域にある大阪城について、その美しさをたたえながら、関西圏のモニュメントといえると伝えている。

  当時の将軍だった豊臣秀吉の命で建築された大阪城は、城を守る金の虎など野心的な要素があちこちに見られると指摘。力強いとりでとしての男性的な性質がある一方で、屋根の形などいたるところに女性的な曲線が使われている。しかし、全体としては空に向かって雄々しくそびえ立ち、華麗で力強さがあると絶賛している。

  このような日本の城を観光していると、結婚式を挙げている日本人カップルを見ることがあると伝えている。これも、日本人にとっては大阪城が、その地を代表する存在だからだろうと述べている。

  最後に筆者は、日本に旅行するフランス人が大阪を訪れることは比較的少ないようだが、大阪城は素晴らしく一見の価値があるため、ぜひ訪れてほしいと述べている。(編集担当:山下千名美・山口幸治)

985名無しさん:2012/10/14(日) 22:01:46 ID:CG58C08k0
嬉しいこと言ってくれてるけど、それ太閤さん関係ないねん…
市民の寄付(600億)で建てたってのは誇れるし
まぁ、歴代大阪城で一番長い間存続してるから歴史的価値も出てるけど

986よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/18(木) 07:26:45 ID:9BWyy.3o0
弥生時代の環濠集落 調査70年、ベール脱ぐ 大阪
2012.10.18 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121018/osk12101802070002-n1.htm

■「腕輪」出土の瓜破遺跡

 弥生時代の腕輪とみられる木製品が出土した大阪市平野区瓜破(うりわり)西の瓜破遺跡。弥生時代前期末(約2400年前)の大規模な溝や建物跡も同時に見つかり、集落が環濠(かんごう)で囲まれていた可能性が高まった。同時期の環濠集落跡は高槻市の安満遺跡などにみられるが、大阪市内では初めての出土。瓜破遺跡は昭和15年に調査が始まって以来、集落の具体的な状況が不明で、70年あまり経てようやく一端が浮かび上がった。

 溝は幅3・5メートル、深さ2メートル、長さ7メートル分が検出され、両側にさらに延びていた。溝の東側には住居跡とみられる柱穴が多数確認され、環濠によって集落の内外を明確に区画していた。

 環濠集落は弥生時代前期から西日本を中心にみられ、一辺100〜150メートル規模のものが多い。今回も、周辺の地形などから100メートル程度とみられるという。溝からは数千点の土器の破片が出土し、多くの人たちが暮らしていたという。環濠は、他の勢力から集落を守る堀の役割があるとされるが、今回の溝は傾斜がなだらかで、防御用ではなく集落の区画や排水用などと考えられる。

 瓜破遺跡は、戦前から断続的に調査が行われ、大規模な弥生時代の集落跡として知られているが、住宅開発などに伴う小規模な発掘が多く全容がつかめていなかった。

987よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/19(金) 06:08:53 ID:YiHki5Ng0
「三好一族と堺町衆」 来月10日公開学習会 大阪
2012.10.19 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121019/osk12101902010002-n1.htm

 堺市の市民団体「堺・ちくちく会」は、公開学習会「三好一族と堺町衆〜蘇れ・堺商人」(産経新聞社後援)を11月10日に堺区の堺市博物館で開催する。

 同会は堺区の大道筋(紀州街道)やその周辺の歴史文化遺産を生かしたまちづくりを進めようと活動。その一環で、堺ゆかりの戦国武将、三好長慶(1522〜64年)を顕彰しようと、長慶の座像を堺区の南宗寺(なんしゅうじ)に建立するための募金活動も展開している。

 公開学習会の開催は3回目。今回は長慶ら三好一族と堺の商人たちとの関わりについて、郷土史家の桧本多加三さんが講演する。当日は午後2時から。参加費は500円(入館料、資料代含む)。申し込みはファクス(072・261・7781)か往復はがき(〒590−0078堺市堺区南瓦町2の1堺市総合福祉会館、市民サポートセンター私書箱49)で。郵便番号、住所、氏名を記載して送る。先着100人。締め切りは今月末(必着)。問い合わせは同会の崎田公明さん((電)090・5246・6384)。

988よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/20(土) 03:31:37 ID:c6.eZ2mQ0
稚児は人身御供!? 頭の輪っかは「サンドラ」… 吹田・吉志部神社でどんじ祭り
2012.10.19 17:47
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121019/wlf12101917490023-n1.htm

 大阪府吹田市岸部北の「吉志部(きしべ)神社」で、地元に古くから伝わる「どんじ祭り」が開かれ、氏子らが供え物の奉納や練り歩きを行って収穫の秋を祝った。

 同神社本殿は国の重要文化財に指定されていたが、平成20年の火災で全焼し指定解除となり、昨年5月に再建された。祭りは市の無形民俗文化財で、握り飯をさす「屯食(とんじき)」がなまったといわれている。

 朝から近隣の南地区、小路地区、東地区の氏子らが神社を訪れ、神前に供え物を奉納。小路地区では氏子らが供え物を唐櫃(からびつ)と呼ばれる木の箱に詰めて神社までの約2キロを練り歩いた。

 また、人身御供の名残と伝えられる4人の稚児が別れの食事をとった後、木綿の着物にしめ縄の帯、サンドラと呼ばれる輪を頭に乗せた姿で行列に加わった。

989よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/20(土) 04:05:54 ID:c6.eZ2mQ0
大阪ロマン紀行

挨拶する神社のある風景
今回の案内人 亀井澄夫(日本妖怪研究所所長)

2012年10月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/121019/20121019031.html

大阪市浪速区日本橋西「廣田神社」

 神社には、神の使いとしてさまざまな動物が祀(まつ)られている。ポピュラーなところでは、お稲荷(いなり)さん。狐(きつね)がある。他にウサギや獅子、犬、牛、猿、ねずみなど、いろいろとあるが、主に陸の動物が多い。ちょっと変わったところではウナギや蛙(かえる)など、水や海に関するものもある。そんな中で今回お話を伺ったのは、赤エイ。浪速区にある廣田(ひろた)神社である。廣田神社の赤エイは「アカエ」と関西風の呼び名で親しまれ、悪疫退散、無病息災、痔(じ)や難病治癒に効能がある。

 どうして、アカエかというと、エイの尾にはとがった鋭いトゲがあり、ノコギリ状の歯が逆向きに並んでいて、図鑑を見ているだけでも痛そうである。しかもトゲには毒があり、グサリとやられると傷口が荒れて、ものすごく痛い。

 だから漁師はアカエをつかまえると、尾の付け根からぶっつりと切り落とす。アカエのトゲを絶つことから、痛みを絶つこととなり、病魔を絶つことにつながった。漁師に痔が多かったことや、エイが漢方薬としても珍重されていたことも関係があるだろう。

 廣田神社の近くは、木津の魚市場があるように、昔は漁師町として栄えた場所。神社の境内を掘っていくと、きれいな砂が出てくると言われている。

 廣田神社のパンフレットに「わがまち、わがやしろ」というフレーズが入っている。まさにわが町の神社にふさわしい。

 取材中も、ご近所の人が町内の行事の出欠届けを持ってきたり、子どもの宮参りに来られたり、自転車で来てちょっと寄っていったり、出掛ける前に寄りましたっていう感じの人がいたり、ごく日常的な感じで気軽に拝んで帰っていく。取り立てて大きな願い事をする様子もなく、家の行き帰りにちょっと寄って、あいさつしに来ましたっていう感じなのだ。

 津江正暉宮司に、ここの神様はどのような神様ですか、とお聞きしたら「土地の氏神です」という答え。そうか、みんな氏神さんにお参りというより、あいさつに来てたのか、と納得した。

 このような「暮らしの中に生きる神社」という存在は、大げさなものではないだけに、かえって重要な気がする。みんな行き帰りに、土地の神様に頭を下げてあいさつをしていくという風景は、都市の中の神社として実に美しい。自分と住んでいる場所への思いを、さりげなく、何げなく受け止めて、廣田神社は街角に、これからもずっとたたずんでいるのだと思う。

990よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/21(日) 18:25:05 ID:w4CjuCC.0
[あの日にタイムスリップ]簡易内風呂で「快適生活」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121021-OYT8T00105.htm
.
 街開きから今年で50年を迎える千里ニュータウン(吹田、豊中両市)。高度経済成長期に誕生した全国初の大規模住宅群は、常に社会の流行や世相を先取りしてきた。みんなで一緒に追いかけた夢、振り返ればあの頃の悩みも今では笑い話……。思い出の中にある、あの時代に戻ってみよう。

 広々とした洋間、ステンレス製の流し台、水洗トイレ、ベランダ……。1962年10月29日。宮崎満智子さん(77)は、結婚式を挙げたその日に、同い年の会社員の夫・圭正(よしまさ)さんと、吹田市の府営千里佐竹台住宅に入居した。約1か月半前、千里ニュータウンで最初に完成した団地には、大阪市内の実家にないものがそろっていた。

 周囲も新婚や若い家族が多かった。「新しい生活が始まる」。だが、甘くはなかった。

 道路は未舗装で、むきだしの土の上をレインシューズで歩いた。丘陵地は冷たい風が吹き抜け、ベランダに洗濯物を干す手が凍えた。「なんでこんな所に来たのかしら」。夫が出勤した後、一人で家事をしながら悔いることもあった。

 府営住宅には内風呂がなく、商店などが集まる「近隣センター」の公衆浴場「菩提(ぼだい)湯」に通った。午後3時の開店に合わせて、子どもを連れた主婦らが押し寄せた。脱衣場にずらりと並んだベビーベッドは赤ん坊であふれ、行列ができていた。宮崎さんも結婚2年後に生まれた長女を抱え、順番を待った。

 「部屋に置けるお風呂があるらしい」。その頃、主婦たちの間で話題になったのが、ガス湯沸かし器と浴槽、シャワーが一体になった簡易型ユニットバス「バスオール」だった。

 63年に水戸市の会社が国際見本市に出品したものが前身で、同年、札幌市のガス製造販売会社が発売。半畳のスペースに設置でき、ふたを兼ねた折りたたみ式の洗い台に乗って体を洗い、ふたをはずして浴槽につかる。内壁には鏡やタオル掛けもあり、1台で風呂のすべてがそろうことから名付けられた。

 「お風呂が〈家具〉になりました」「お宅の幸せをもう一つ!」。当時のチラシには胸躍るような宣伝文句が並ぶ。価格は、サラリーマンの給料1か月分に相当する約6万円。冷蔵庫、扇風機など家電製品を少しずつそろえていた宮崎さんは、思い切って月賦で買い、台所に置いた。

 「部屋は狭くなるし、床をはう排水ホースもじゃまだったはずだけど、うれしかったんでしょうね。全然、気にならなかった」。68年には長男も生まれ、「とても重宝した」。

 洗い場付きのタイプも発売され、ベランダに置く家庭も。瞬く間に千里ニュータウンの府営住宅1万戸の約3分の2に広まった。吹田市立博物館の五月女賢司学芸員は「狭い空間に様々な機能をまとめなければならない団地住民に大ヒットした。家庭用ユニットバスの先駆けといえる」。バスオールを扱う会社は複数回変わり、6年前に生産が終了した。

 宮崎さんは、増築で浴室が設けられるまでの約20年間、バスオールを1度買い替え、使い続けた。仕事で遅くに帰宅し、小さな浴槽で気持ち良さそうに汗を流していた圭正さんは、今年6月、亡くなった。子どもたちはすでに独立した。

 「家族のかけがえのない思い出が、ここには詰まってる」。半世紀守ってきた我が家を、いとおしそうに見つめた。(渡辺彩香)

(この連載は毎週日曜日に掲載します)

991よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/21(日) 18:26:00 ID:w4CjuCC.0
◇読者から 上階から水漏れたびたび

 吹田市青山台の府営住宅に住む今岡紀美恵さん(70)から、バスオールにまつわるお手紙を頂いた。〈上に住む人に何度も水漏れを起こされました。懐かしい思い出です〉

 今岡さんは65年5月に夫と入居し、2人の子どもを授かった。バスオールを購入した1階上の人が、ベランダの排水溝にホースを差し込むのをよく忘れ、そのたびに天井や押し入れ、ベランダから水が落ちてきた。「水、漏れてるよ〜」と叫びながら、慌ててあちこちを拭いたり、布団を干したりした。

 団地の中はいつも子供の声があふれ、近所で協力して育てた。〈住民は高齢化し、建物も老朽化しているが、若い人にも魅力ある街になるのを望んでいます〉

 千里ニュータウンに関する思い出や情報をお寄せ下さい。▽日本初の自動改札機▽竹見台小学校と南竹見台小学校▽近隣センター▽老朽化住宅の建て替え――など。〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社社会部大阪版担当へ郵送か、ファクス(06・6361・3001)、メール(o‐naniwa@yomiuri.com)で。

992よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/21(日) 18:26:49 ID:w4CjuCC.0
◇スクラップ 「東洋一」熱気あふれ

 1962年に街開きが行われた千里ニュータウンは、その後6年かけて整備され、69年には、人口10万人を突破した。読売新聞の記事から60年代の千里ニュータウンの変化をたどる。

一番乗りは3人家族 (62年9月15日夕刊〈1〉)

 最初に完成した吹田市C住区(現在の佐竹台)の第1期1010戸への入居が始まった。家族3人で引っ越してきた一番乗りの会社員男性(34)は「これでやっと小さなアパート生活から解放された。ここは周囲が丘陵ですばらしい環境です」。

式典に知事ら800人 (62年11月2日夕刊〈2〉)

 開発主体の府が「町びらき」の式典を開催。府知事や吹田、豊中両市長ら800人が出席した。病院、商店、学校などの施設を完備した12の住区を建設する計画で、「東洋一のマンモス団地」と呼ばれていた。

都知事も視察 (65年2月10日朝刊〈3〉)

 全国に先駆けた大規模住宅群は、深刻な住宅不足に悩む東京の手本にもなった。多摩ニュータウンの用地買収を進めていた東京都の東龍太郎知事が視察に訪れ、「千里の住宅、緑地の配置や交通機関の乗り入れ計画はとくに参考になり、われわれの計画を成功させる自信がついた」と評価。府幹部は、ニュータウン東側が万博候補地になっていることを説明し、「大阪の北の副都心」と胸を張った。

住民増え電柱林立 (68年6月27日朝刊〈4〉)

 住民が増えるにつれ、課題も浮上した。無電柱のモデル地区にあった豊中市の府営住宅では、電話を設置する住民が予想以上に多く、木製電柱が林立した。

 新しい街が広がり、新たな暮らしがここから始まる――。記事からはそんな熱気が伝わってくる。(井口馨)

 大阪読売サービスでは、思い出の紙面や写真を販売しています。電話(06・6364・9085、平日午前9時半〜午後5時半)、ホームページ(http://www.oys.co.jp/service/04/kinen.html)。

(2012年10月21日 読売新聞)

993よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/21(日) 18:42:03 ID:w4CjuCC.0
武士の魂「楠木正成」合戦の地・赤坂の巻
2012年10月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/rekiwalk/121020/20121020052.html

城に篭って、次の一手

 楠木正成のイメージといえば知略、軍略、知謀。「とにかく頭がいい」という印象があります。赤坂城合戦、千早城合戦、そして洛中奪還。全ての戦いで今までの常識では考えられない戦い方を実践しました。過去に学び、良い戦法はさらに向上させ、敵を翻弄(ほんろう)。ではなぜ楠木正成は戦いを始めたのでしょうか?

 時は武家の世、鎌倉時代。平家との戦いに勝った源氏が、武家として初めてつくった幕府が鎌倉幕府。ところが、統治というのはなかなか難しい。こちらを立てれば、あちらが立たず。体制を維持するために税金の搾取も増えてくる。すると、だんだんと幕府に不満を持つ者が増えて参ります。それを敏感に感じ取ったのは後醍醐天皇。「鎌倉幕府はもうダメだ。もう一度天皇を中心とした世の中にするぞ」と笠置山で挙兵をしました。

 この一報を聞いて楠木正成は大喜び。河内国をはじめ関西全域にその力を広げ始めた楠木正成にとって関東流の統治は水に合わない。すぐに笠置山に駆けつけました。ところが、笠置山の周りはすでに幕府軍だらけの陥落必死。この中にあって正成、後醍醐天皇の前に進み出で、「お上、この正成に幕府討伐をお命じ下さい。必ず勝ちまする。天に隠れ、地に潜って、最後の勝ちを収めてご覧にいれまする」と申すと後醍醐天皇は喜びました。正成はすぐに赤坂に帰り、来たるべき合戦に備えました。

 その赤坂城趾碑は現在、村立中学のすぐ横の高台に立っています。そこからは棚田百選に選ばれた景色を見渡す事ができ、正成はそこで城下に何万と群がる敵・幕府軍を迎え撃ったと想像すると、ドキドキしてきました。現場でしか味わえない緊張感。

 笠置山が落ち、後醍醐天皇の身柄は拘束され、関東からやってきた何万という幕府軍は恩賞の種を正成と定め、「相手はわずかな小勢。一気に攻め落としてしまえ」。

 誰もが「落城必至」と思われたこの中で正成だけは悠然と構えていました。勢いに任せて攻めてくる幕府軍。ところが、城壁によじ登ってみると、その壁が倒れる。上から石が落ちてくる。「そんなのアリか、今までそんな事したヤツはおらんがな。戦いというのはなぁ…」と文句を言っているうちにバタバタと倒れる幕府軍。「くそっ、悪党めが」と思うが手が指せない。

 ところが、1カ月もすると何と楠木正成自らの手で赤坂城を焼いてしまった。それからはようとして行方知らず。さぁ、正成の次の一手は、また来週のお楽しみ。

 (大阪講談協会所属)

 ◇旭堂南陽の公演「日本一亭 南陵会」は26日午後7時、ワッハ上方(難波千日前、YES・NAMBAビル)4階小演芸場。千円。問い合わせはワッハ上方、電話06(6631)0884。

994名無しさん:2012/10/21(日) 21:52:32 ID:XDL5GIng0
幕府軍が近畿の言葉なのが残念だと思った
関東の言葉にすると何らかの支障があるのかも知れんけど

995よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/23(火) 06:21:42 ID:cSeEqlF.0
[碑(いしぶみ)にきく]街道のにぎわい願う 
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121023-OYT8T00166.htm
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◆覚峰(かくほう)の歌碑(羽曳野市)

代々守り伝えてきた 金剛山地の麓に、ブドウ畑が点在する。羽曳野市駒ヶ谷。古くから竹内(たけのうち)街道と呼ばれてきた国道166号周辺に、江戸時代後期に建てられた歌碑2基がある。

 一つは大和川水系の飛鳥川のほとりに立ち、鎌倉時代初期の新古今和歌集に収録された和歌が刻まれている。

 〈あすか河 もみち葉なかる 葛城の 山のあき風 吹そしぬらし〉(飛鳥川に紅葉が流れている。きっと葛城山の秋風がひまなく吹いているのであろう)

 もう一つは、北に約500メートルの府道脇にある。歌には、約1600年前、履中(りちゅう)天皇が謀反に遭い、難波宮(なにわのみや)を脱出した場面が詠まれている。

 〈大坂に遇うや少女を道問へば 直には告(の)らず当岐麻道(たぎまち)を告(の)る〉(大坂山口まで来た時、出会った少女から直進せずに当岐麻道を越えるように言われ、難を逃れた)

 いずれも、高さ約2メートルの石碑で、側面に文化2年(1805年)の建立とある。建てたのは、当時近くにあった金剛輪寺の住職・覚峰(かくほう)(1729〜1815)。30歳で住職になり、200年近く前に焼失したままだった本堂をわずか4年で再建した。国学や和歌にも秀でていたと伝わる。

 その覚峰が二つの歌碑を建てた理由を、上野勝己・元竹内街道歴史資料館長(太子町)は「駒ヶ谷に名所を作り、旅人を集めようとしたため」と推測する。

 竹内街道は、日本書紀の613年に「難波(大坂)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された日本最古の官道で、堺市から奈良県葛城市までの26キロを結ぶ。だが、江戸時代後期には、南西を迂回(うかい)するルートの往来が増え、街道は寂れつつあった。「覚峰は、再び人の流れを竹内街道や駒ヶ谷に戻そうとした。いわば観光振興」

 覚峰の“宣伝”には異論もある。「あすか河」は、河内の飛鳥川ではなく、奈良を流れる飛鳥川を指すとの説がある。「当岐麻道」は後の研究で、さらに東にあったと考えられている。

 金剛輪寺は明治初期の廃仏毀釈(きしゃく)で廃寺になったが、歌碑は地元の人に守られてきた。「ここで歴史のロマンが繰り広げられたと思うと、誇らしい」と平山昌男さん(71)。住民たちは二つの歌の舞台を駒ヶ谷だと信じてきた。

 竹内街道が整備されて1400年の来年に向け、沿道では様々なイベントが企画されている。街道を中心に村おこしを進めた覚峰の願いは、現代に受け継がれている。(岡田英也)

◆交通手段 

「あすか河の歌碑」は、近鉄南大阪線駒ヶ谷駅から南東に約400メートル。「当岐麻道越の歌碑」は同駅から北東に約500メートル。

996よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/23(火) 06:23:07 ID:cSeEqlF.0
>>995

◆親しまれた多才な僧侶 関西大学文学部教授藪田貫さん64

 近世の大坂を専門にし、住民への聞き取りの際に、「覚峰さん」と呼ばれる僧侶を知った。今も親しまれていることに興味を持ち、詳しく調べた。

 大坂で生まれた覚峰は、19歳で出家。金剛輪寺の住職に就いてからは、地元の庄屋・真銅(しんどう)家と書状を交わすなど、村人と交流した。「地域から信頼されて支援を得たことで、住職になって4年で伽藍(がらん)を再建できた。村人と積極的に関わった、庶民的な人物像が浮かぶ」

 河内の古墳や和歌を論考した著書も残した。作家で俳人の秋里籬島(りとう)が描いた「河内名所図会(ずえ)」(1801年発刊)には、覚峰から多くの情報を提供してもらったと記されている。「地域の歴史に精通した郷土史家のような存在だった」とみる。

 文化や芸術にも造詣が深かった。平安時代に大陸から伝わり、江戸時代後期には断絶状態だった楽器「一弦琴」の再興に尽力。当時、金剛輪寺と同じ場所にあった杜本(もりもと)神社では、今も時折、奉納演奏が行われている。「僧侶の枠に収まらない人だったからこそ、歌碑建立も思いついた。根底には、地域に伝わるものを大切にし、発展させようとする精神があったのでしょう」

 
 やぶた・ゆたか 1948年、松原市生まれ。島本町在住。日本近世史。「武士の町 大坂」など著書多数。文学博士。

(2012年10月23日 読売新聞)

997よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/23(火) 23:18:23 ID:8qIHhB/U0
「文楽に来てね」中堅・若手技芸員らがJR大阪駅でキャンペーン
2012.10.23 21:10
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121023/wlf12102321140016-n1.htm

 国立文楽劇場(大阪市中央区)で来月行われる公演「仮名手本忠臣蔵」をPRしようと、文楽の中堅・若手の技芸員らが23日、JR大阪駅の「時空(とき)の広場」でキャンペーンを展開。文楽の実演や解説が行われた。

 橋下徹市長が打ち出した補助金削減問題で揺れた文楽。市が今年度分の補助金3900万円を文楽協会に支給することで決着したが、自分たちの手でも文楽の魅力を発信していこうと、大がかりな宣伝活動を行うことにした。

 この日は協会の呼びかけに賛同した太夫、三味線、人形遣いの技芸員20人が参加。義太夫節や人形の動かし方などの解説のほか、公演の一場面「裏門の段」を披露した。また、忠臣蔵の舞台となる兵庫県赤穂市から観光マスコットキャラクター「陣たくん」や「義士娘」も登場。訪れた人たちに公演のチラシなどを配り、アピールした。

 「これからも積極的に発信したい」と解説を手がけた豊竹咲甫大夫さん。義士娘の井口恵理華さん(24)は「公演とともに自然と歴史が豊かな赤穂にも遊びに来て」と呼びかけた。

 公演は11月3日〜25日。PRイベントは11月2日、地下鉄長堀鶴見緑地線「心斎橋駅」でも実施する。

998よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/25(木) 18:11:35 ID:NaHaJVd60
仁徳陵墳丘に無数の地割れ 巨大地震で繰り返し被災か
2012.10.25 11:28
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121025/wlf12102511320010-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121025/wlf12102511320010-n2.htm

 宮内庁が仁徳天皇陵として管理する堺市堺区の大山古墳(5世紀中ごろ、前方後円墳)に、巨大地震でできた無数の地割れや地滑り跡があることが、墳丘の航空レーザー測量図を調べた産業技術総合研究所の寒川旭(さんがわ・あきら)客員研究員(地震考古学)の指摘で25日、分かった。

 東海・東南海・南海地震がほぼ同時に発生したとされる684年の白鳳地震をはじめ、巨大地震の被害を繰り返し受けた可能性があるという。

 墳丘が崩れていることは平成7年の宮内庁の調査で判明しており、学界には未完成説、中世の山城改変説、暴風雨説などもあったが、地震説が決定的になった。

 測量図は、大阪府や堺市などから成る百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議が作り、今年9月に公表。等高線が10〜20センチ間隔と宮内庁が公表している1メートル(一部25センチ)間隔の図より精密で、墳丘の長軸に沿って、これまで判別できなかった地割れの痕跡などが次々見つかった。

 寒川客員研究員は「地割れの向きや形状から、墳丘が左右(短軸方向)にすさまじい力で揺れたことが分かる。マグニチュード(M)8級の巨大地震でしか説明がつかない」と指摘。

 地割れ跡が複雑に入り組み、重なっていることから「築造間もなく起きたM8級の白鳳地震や、豊臣秀吉の伏見城を崩壊させた慶長伏見地震(1596年、推定M7・5以上)などで何度も被害を受け、拡大したのだろう。古墳は通常、丘陵などを土台に築くため崩れにくいが、大山古墳は大半が盛り土かもしれない。次の南海地震でも崩れるだろう」と話す。

 地滑り跡も多く、後円部の2カ所では盛り土が大きくえぐれて崩落していた。

999よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/25(木) 18:16:35 ID:NaHaJVd60
〈二河原辺〉郷土の誇りは「楠公さん」
2012.10.25 11:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121025/wlf12102511010007-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121025/wlf12102511010007-n2.htm

 大阪府で唯一の村、千早赤阪村に「二河原辺」という40戸ほどの集落がある。府内最高峰の金剛山のふもとの農村で、「にがらべ」と読む。地元の“英雄”で南北朝時代の武将、楠木正成のゆかりの地として、週末には歴史ファンらが訪れるという。(勝田康三)

 ■川に挟まれた土地

 秋も深まりつつある日の夕方、二河原辺の集落を歩くと、自然の豊かさに圧倒される。山の木々は色づき、段々畑には黄金色の稲穂が頭を垂れていた。昔ながらのホッとする光景だ。

 畑仕事に精を出す男性に地名の由来を聞いてみると、「北側に水越川、南側は足谷川が流れ、その間にある原というので付けられた名前のはず。昔から“にがらべ”と言うとるらしい」と教えてくれた。

 2つの川に挟まれた土地だから…。地名の由来については何となく納得したが、村に尋ねても、なぜ「にがらべ」と呼ばれるようになったかは、結局よく分からない。

 ただ、外部の人のほとんどが漢字表記を見て「にかわらべ」や「にかわはらべ」と読んでしまう。集落名を示した標識には「nigarabe」とアルファベットでも表記している。

 ■楠公記念塔

 「楠公さん」。地元の人たちは正成への親しみを込めて、こう呼ぶ。周辺には正成ゆかりの上赤坂城跡や下赤坂城跡のほか、楠公生誕地、建(たけ)水(みく)分(まり)神社などがあり、週末には歴史巡りやハイキングを楽しむ人たちが訪れる。

 二河原辺にも、晴れた日には大阪市内の高層ビル群を一望できる丘に、正成没後600年を記念した「奉建塔」(楠公六百年祭記念塔)がそびえる。

 現場の案内文によると、塔の高さは43尺(約13メートル)。正成が43歳で自害した年齢にちなんで建てられたという。昭和10年11月に着工、15年5月に完成した。

 楠公史跡保存会の解説文には「(正成の)霊を弔う鎮魂碑であると共に国民精神昂揚の一大金字塔としたい」とある。

 塔柱には、正成が旗に示したという「非(ひ)理(り)法(ほう)権(けん)天(てん)」の5文字が刻まれ、「非は理に、理は法に、法は権に、権は天に勝たず」、つまり、「人事は天の命のまま動くもの」という意味らしい。

 85歳になるという男性は農作業の手を休め、「二河原辺は楠公さんの…」と、誇らしげに二河原辺と正成のことを語ってくれた。

 正成の死から680年近く経過しても、敬慕の念を持ち続ける住民。日暮れ時で吹き抜ける風はひんやりしたが、住民の心は温かく感じた。

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1003よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/26(金) 21:35:49 ID:VjLMhW/g0
かっこいい!! 大阪天満宮で流鏑馬神事
2012年10月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121026/20121026027.html

 大阪天満宮の流鏑馬(やぶさめ)神事が25日、大阪市北区の同宮周辺で開かれた。街中で行うため矢を使わず、弓で的を打ち破る独特のスタイルで行われ、大きな破裂音とともに的が粉々になると、見物客からは歓声が起こっていた。

 戦国時代には流鏑馬が行われていた同宮。江戸時代初期には一時中断されたが、復興後は浪速の秋の風物詩として随筆や絵画の題材になってきたという。

 当初は馬上から矢で的を射ていたが、江戸時代後期には周りに家が立ち並ぶようになって安全面を考慮。通常の弓より短い半弓で的を打ちたたく今のスタイルになったという。

 同神事では、最初に神職が騎乗し、表門から折り返し地点までの道を清めるおはらいをすると、室町時代の狩り装束を着た「本駆者」と呼ばれる乗り手が登場。折り返し地点までを3往復しながら、3カ所の的を次々と打ち破り、沿道に詰めかけた見物客から大きな歓声と拍手が起こった。

 的の破片は縁起物になるとされ、多くの見物客が持ち帰り、家族連れで訪れていた西川花音さん(6)=同区=は「(音に)びっくりしたけど面白かった」と喜んでいた。

1004よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/26(金) 21:44:15 ID:VjLMhW/g0
とこしえ(永遠)の舟お目見え 高津宮で初の「秋まつり」
2012年10月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121026/20121026031.html

 28日に高津宮(大阪市中央区高津1丁目、小谷真功宮司)で命の尊さを訴える「とこしえ秋祭り」が開かれるのに合わせ、同宮の表参道に2万年前の地層から出土した神代杉を使った巨大芸術作品「とこしえの舟」がお目見えする。かつてうつ病を患い、命と向き合った経験を持つ芸術家の伊原セイチさん(52)が制作を手掛け、芸術を通して命の大切さを訴える。

 同宮は凶悪な事件などが全国で相次ぐ中、「食」や「芸術」などを通して生きる喜びを感じてもらおうと、ことし初めてとこしえ秋祭りを企画した。とこしえの舟は、小谷宮司(53)がかねて親交のあった伊原さんに制作を依頼した。

 全長約5メートル。樹齢約500年といわれるケヤキが使われるほか、上部に2万年前の地層から出土した神代杉を載せ、「時空を進む“動力”」として、永遠=とこしえ=に向かってこぎ出す様子を表現している。併せて表参道に奈良県天川村から切り出された杉などを使い、長さ25メートルの“桟橋”を出現させる。

 28日夕方から、小谷宮司による御魂入れ神事が執り行われるほか、音楽家の松尾泰伸さんのシンセサイザーによる奉納演奏などがある。また当日は、同宮の氏子衆らによるアーモンドを使った菓子を販売する「氏子菓子祭り」なども開かれる。

 小谷宮司は「祭りが現代社会にどう貢献していくかの試み」。かつて、うつ病で命がなくなるのを実感したという伊原さんは「芸術という手法で、命の大切さを具体的に提示するのが役目だと思っている。とこしえの舟を見て元気になってもらえれば」と話している。

1005よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/27(土) 07:05:44 ID:XYpu6bcA0
百舌鳥古墳群で堺工科生が水質調査
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121027-OYT8T00105.htm
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 府立堺工科高校(堺市堺区)の生徒たちが、世界文化遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市古墳群(堺市、羽曳野市、藤井寺市)の一つ「いたすけ古墳」(北区百舌鳥本町)の濠(ほり)の水質を調べる取り組みを進めている。ボートに乗って毎月1回、濠の水を採取し汚れ具合を調査。古墳の水質浄化は登録に向けたポイントの一つであるとされ、生徒らは「僕たちの取り組みが、世界遺産登録につながればうれしい」と意気込んでいる。(中筋夏樹)

 いたすけ古墳(全長約146メートル)は5世紀中頃にできたと考えられる前方後円墳で、百舌鳥古墳群では8番目の大きさ。昭和30年代初めに宅地造成の計画が浮上したが、住民運動で工事を食い止めた経緯があり、出土した埴輪(はにわ)は、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。

 堺市によると、いたすけ古墳の濠は夏場を中心にアオコが発生して水面が緑色に覆われ、悪臭が気になることがあるという。市は同じような状況の周辺の古墳とともに、昨年から水質調査に乗り出している。

 今年はこのうち、いたすけ古墳について、環境化学システム系がある近くの堺工科高校に調査を依頼。希望した1、2年生の7人がチームを組んだ。

 救命胴衣を着けてゴムボートに乗り、決められた4地点で、水面と水深約40〜70センチの水を採取して水素イオン指数(pH)や水温を調べ、学校に持ち帰って有機物を検査して水の汚れを分析する。

 1回約2時間、ボートをこいで大きな古墳の濠を静かに揺られながら、ポイントへと移動する。古墳はタヌキが棲(す)みついていることで知られ、工事が計画された際に架けられ、今は崩れた橋の上にひょっこり顔を出す場面に遭遇することも。

 メンバーや指導する教諭らは集めたデータを基に、水質改善にも貢献したい考えだ。

 2年山野美勝(よしかつ)さん(16)は「定期的に訪れると臭いが気になる日があり、データでも夏場は汚いことがわかる。世界遺産を目指す古墳を僕らの力できれいにしたい」と話している。

(2012年10月27日 読売新聞)

1006よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/27(土) 20:13:03 ID:rBrqbB4o0
「プチレトロ」ビルが人気 重文近代建築よりも新築物件よりも魅力的な理由
2012.10.27 17:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n2.htm

 戦後の高度経済成長期に商都・大阪を支えた築50年程度の「プチレトロ」なビルが今、見直されている。都心部に残る昭和初期の重厚な近代建築や、利便性の良い新築ビルなどに比べて家賃が安い「お得感」のほか、室内を改修したり、少しだけレトロな雰囲気を楽しんだり。デザイン事務所などのオフィスや店舗として活用する若い世代の事業主から人気を集めているという。また、不動産業者による「古ビル再生イベント」なども開催。街の発展を見守り、いったんはその役目を終えた“夢の跡”で、新たな夢を育む動きが広がっている。

“古さ”が新鮮

 ビニール素材の床に、壁紙ではなく吹きつけ塗装の壁、長年磨かれてきた手すり、むき出しの蛍光灯…。幅の狭い廊下の両側に部屋のドアが並ぶ。何となく、昭和の小学校にトリップしたような雰囲気が漂う。

 昭和31年、大阪市中央区久太郎町に建てられたOSKビル(元大阪繊維共同販売所)。かつて、大阪・船場の繁栄を支えた繊維関係の企業が林立した一帯にあり、現在は「丼池(どぶいけ)ストリート」と呼ばれる一角に建つ。ビルには繊維問屋が所狭しと入居していたが、次第に空き部屋が目立つように。古いビルの魅力を知ってもらい、にぎわいを取り戻そうと、内覧会を兼ねたイベント「古ビル再生博覧会」が現在開かれている。

 外見はごく一般的な5階建てのビル。しかし、エレベーターなどの設備はなく、狭いらせん階段がレトロな空間を醸し出す。1部屋あたり16平方メートル程度に小さく区割りされ、小窓にはビンテージ感のあるすりガラス。天井は3・5メートルと現在の建築物よりも1メートル近く高い。繊維問屋がうずたかく反物を積み上げていた名残が感じられる。

 「当時の姿を残したままのビルの内装や、修理を重ねながら長く使用されてきた建具は、かえって新鮮で魅力的に感じるのでは」と、主催する大阪市中央区の不動産業者「みんなの不動産」代表、末村巧さん(47)。部屋の活用方法を具体的に提案するコーナーを設置した。

 例えば3階の1室は、オフィスに改装。ビルの中に残されていた椅子やテーブルやキャビネットなど古い家具を塗装するなどして配置し、レトロ感を強調した。

 また、プロのデザイナー20人がリノベーション(改修)を手がけたショールームも。昭和ノスタルジーを意識し、座卓を取り入れたオフィスや、床に鏡を敷き詰めたり、壁をオレンジなど強い色に塗り替えたりした斬新なオフィスが登場した。

 末村さんは「ビルの持つ昭和の雰囲気と現代のアートな感覚は意外と調和します。思い思いの活用法でビルに愛着を持って楽しく仕事に取り組めるオフィスを」と提案する。

1007よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/27(土) 20:14:47 ID:rBrqbB4o0
>>1006

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n4.htm

気軽に「自分の城」

 大阪市内には、イギリスの建築様式に基づいた大阪農林会館(中央区)や、ルネサンス風の建築で国重要文化財の綿業会館(同区)など格式のある近代建築が多数残る。

 現在は、賃貸オフィスや店舗として貸し出され、昭和初期の歴史的建造物として圧倒的な人気を誇る。「空き物件が出れば、すぐに埋まる状態」と末村さん。

 そうした状況に“変化”が訪れたのは、ここ2年ほど。末村さんは「近代建築よりも歴史は浅いが、ちょっとレトロな雰囲気と味のある昭和30年前後の物件にも目が向けられてきた。問い合わせが増えていますね」。

 同条件の立地にある重厚な近代建築や新築ビルと比較すると、家賃が月に3割ほど安いケースも。新しいビルとは違って、内装の改修に自由がきき、10平方メートルなど狭い部屋が多い。少人数の事業所や「自分だけの城」を作るには最適な環境が受けているようだ。

 OSKビルのように、戦後の復興途上で建てられたビルは多い。その後、バブルの崩壊直前をピークに、市内に拠点を置く事業所数は年々減少傾向。近代建築のような脚光を浴びることのないまま残され、事業所が抜けて空室が目立つ物件が多いこともあり、末村さんも積極的に仲介に携わるようになった。

 問い合わせはおもに30代の若い事業主。おしゃれに敏感なデザイン事務所やアパレル関連、ベンチャー企業のオフィスとして人気で、店舗としても活用するケースが急増しているという。

 例えば今年6月、地下鉄西梅田駅近くの堂島英和ビル(北区)の2階に入居した古本店「本は人生のおやつです!!」。昭和30年代に建てられたビルは、当時としては窓が大きく、「ハイカラでおしゃれなビル」として知られたらしい。

 経営者の坂上友紀さん(33)は「『ここだ!』と一目ぼれしました。周辺の都会の風景に取り残されたようなレトロな空間が懐かしいし、かわいらしい」と話す。一部の壁をピンクに塗り、天井から柱を通して一面を本棚に改修。「ちょっと床が傾いているんですが…。長く愛されてきたあたたかみを感じる場所で私の歴史も刻んでいきたい」とほほえむ。

1008よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/27(土) 20:17:29 ID:rBrqbB4o0
>>1006>>1007

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n5.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121027/wlf12102717000019-n6.htm

“まちづくり”に直結

 古いビルが再生することは、まちの活性化やイメージチェンジにもつながるという。

 建築家、村野藤吾が設計した昭和27年の「フジカワビル」(中央区)。画廊のために建てられ、壁一面にガラスブロックが張り詰められた外観とあめ色に輝く流線形の階段手すりなどが特徴の戦後のビンテージビルとして有名だ。グラフィックデザインや不動産会社などが入居しているが、1年半前、屋上に美容室がオープンした。

 屋上に置かれた小さな小屋のような空間に、浅い緑を基調した調度品を備えた都会のオアシスのような空間。ファッションやおしゃれに敏感な若い女性がビルに出入りするようになったという。

 末村さんは「堺筋に面したビジネス街の一角が、華やかになった。もともと美術の最先端だったビルの歴史を考えると、周辺の雰囲気はより“らしく”なったのかも」。

 ビルが持つ歴史とストーリー性を考えると楽しい。OSKビルでのイベントでは、大学生ら約20人が参加して地域の魅力をリサーチするワークショップを開催。繊維街にちなんで「布地」をキーワードに議論し、11月4日には地元の関係者も交えてビルの再生と街の活性化についてシンポジウムを開くという。

 ワークショップを取りまとめる1級建築士、河田剛さん(35)は「古いビルの魅力は、地域の歴史の中にあってこそ。若い世代が入居することで、街全体が元気になれば」と話す。

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1011よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/28(日) 05:40:58 ID:wAe3wtnM0
秀吉邸宅のびょうぶ 江戸時代の制作か
10月28日 5時7分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121028/t10013067531000.html

新潟県上越市の博物館が保管している、豊臣秀吉の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」を描いたびょうぶが、秀吉が死去して半世紀ほどたった江戸時代の17世紀中ごろに制作された可能性が高いことが分かり、専門家は、徳川の時代になっても秀吉をしのぶ風潮が残っていたことをうかがわせる興味深い資料だとしています。

「御所参内(ごしょさんだい)・聚楽第行幸図屏風(じゅらくだいぎょうこうずびょうぶ)」には、豊臣秀吉が京都に建てた「聚楽第」に向かう後陽成(ごようぜい)天皇と、それを出迎える秀吉が描かれています。
保管する上越市立総合博物館の調査委員会が調べた結果が、27日に開かれたシンポジウムで発表されました。
それによりますと、絵の描き方から、聚楽第があった当時に描かれた絵を、秀吉が死去して半世紀ほどたった江戸時代の17世紀中ごろに、別の絵師がびょうぶに写し描いた可能性が高いことが分かったということです。
また、後陽成天皇と秀吉が対称に描かれている構図から、秀吉の政治的な力を強調して描かれたとみられ、徳川の時代になっても秀吉をしのぶ風潮が残っていたことをうかがわせる興味深い資料だとしています。
調査委員会の上越教育大学大学院の川村知行教授は、「徳川の政権になって豊臣の文化はすべて捨て去られたと思われているが、そうではないことがうかがえる」と話していました。
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1012よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 12:49:38 ID:xqSAix/E0
切手「悠久の古墳」 世界遺産目指し大阪の有志が商品化
2012.10.28 18:48
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121028/wlf12102818500016-n1.htm

 世界遺産登録を目指す大阪府東南部の古市古墳群を知ってもらおうと、同府松原市の写真家保田紀元さん(72)や地元郵便局長らがオリジナルフレーム切手「悠久の古墳」を商品化した。

 保田さんが知人のエッセイスト川上恵さん(65)から5年前に「登録に向け、できることをしよう」と呼び掛けられたのがきっかけ。同古墳群を撮影した4千点の写真から11点を選んだ。「地域の歴史や素晴らしさが伝わればうれしい」と切手の効果に期待している。

 切手シートは今月25日から大阪府藤井寺市など9市町村65郵便局で計千枚が販売されている。1シートは80円切手が10枚だが、値段は1200円。

1013よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 13:10:31 ID:xqSAix/E0
「大坂の陣」400年で企画 3日に道明寺合戦まつり
2012年10月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121028/20121028022.html

 大阪はもとより日本の歴史の大きな転機となった「大坂の陣」(1614〜15年)からまもなく400年を迎える。大きな節目を前に「夏の陣」合戦場の一つ、大阪府藤井寺市道明寺の商店主らが主体となって11月3日に地元で「道明寺合戦まつり」を企画した。歴史の舞台・道明寺の知名度アップと地域おこしを目指そうと準備に追われている。

 道明寺合戦は15(慶長20)年5月に徳川軍と豊臣軍が河内国道明寺村で激突。徳川側の伊達政宗と豊臣側の真田幸村という二大武将が唯一対峙(たいじ)した戦いでも知られる。

 まつりの発起人は地元在住でNPO法人「大阪城甲冑(かっちゅう)隊」創設者の河井計実さん(50)。真田幸村を筆頭に「大坂の陣や大坂を守ろうとして散った人々の顕彰」を信条に、甲冑姿で多彩な歴史イベントや奉仕活動を展開しており、約10年前から「大坂の陣400年祭」の草案を練ってきた。戦いのあった各地で行政や市民が連携する、地域おこしのイベントを仕掛けるプロジェクトだ。

 今回のまつりは400年祭の重要なプレイベントという位置付けで、今春に実行委を設置。道明寺商店街有志や阪南大学などの多くの協力者と協議を重ねて、ようやく開催の運びとなった。

 まつり当日は午前9時に近鉄阿部野橋駅発で道明寺駅まで甲冑隊員が乗り込む臨時列車の運行で幕開け。道明寺商店街一帯ではスタンプラリー、古戦場をめぐるフリーハイキング、合戦の模様を彫刻しただんじりの展示、甲冑試着体験など趣向を凝らしたプログラムが予定されている。

 商店街や道明寺天満宮、道明寺の周辺では順次のぼり旗の取り付け作業が行われ、商店会理事で実行委員長の森田剛浩さん(50)は「400年という節目をうまく地元活性化に生かしたい」と期待を込め仲間と準備に汗を流す。河井さんは「藤井寺一帯は現在も大坂の陣当時の風景が残っている貴重な地域。『古墳群のまち』だけではなく、戦国時代の重要な舞台であったことも全国に広く発信したい。400年祭では慰霊のほかに石川河川敷で数千人規模の合戦を再現できれば」と壮大なプランを練る。

1014よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 13:20:50 ID:xqSAix/E0
安倍晴明ゆかりの望遠鏡など 沢田さんが所蔵品公開
2012年10月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121029/20121029030.html

 大阪市に住む男性が、平安中期に活躍した“陰陽師(おんみょうじ)”として知られる安倍晴明にまつわる科学作品をコレクションしている。その子孫は天文時計などを発明しており、「江戸時代にこれだけ優秀な技術があり、ハイテク国家の基礎があった」と話している。

 和科学学会会員などを務め、テレビの鑑定番組にも出演する沢田平さん(77)=東成区=は、江戸期に製作された天体望遠鏡や“正密”時計など千点を超す作品を所有する。晴明の命日とされる9月26日には、ゆかりの深い阿倍王子神社(阿倍野区阿倍野元町)でコレクションのうち約20点を公開した。

 晴明は、暦をつかさどる家柄で明治期まで続いた土御門家の祖とされる。沢田さんは「安倍晴明公は科学者だった」と題した講演で「天候や豊凶作を占うには天体の変化を察知しなければならない。魔術師ではなく科学者だった」と説明した。

 江戸時代には、授時簡(じゅじかん)(天体観測用和時計)や当時の宇宙観を表した須弥山儀(しゅみせんぎ)などが発明され、正密時計は今に直して1日当たりの誤差が2、3秒、月差は15秒ほどだったという。「世界と比べても優れた技術。阿倍野区に住むみなさんにとっても誇りに思ってほしい」と話した。

1015よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/10/29(月) 21:29:43 ID:cgNEt0TQ0
旭堂南陽のブラリ講談 歴史あるき

武士の魂「楠木正成」桜井の別れ・島本町の巻
2012年10月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/rekiwalk/121027/20121027055.html

ここがそうだと知ってました?

 昔は多くの人が歌ったと言われる唱歌「楠公の歌」。最も有名なのは「青葉茂れる桜井の」からはじまり、6番まで続く「桜井の決別」の場面を歌ったところです。死にゆく父、父の思いを受け継ぐ子、故郷で待っている母。昔なら何ともなかったと思うのですが、今では僕も息子のいる身。思わず、涙に誘われます。

 さて、桜井の別れの地は現在、島本町にあります。JR京都線島本駅前ロータリーの横に広がるのが桜井駅跡。そこには楠木親子がその下で別れたと言われる老松の一部や明治維新時に日本で大活躍した外国人パークス英国公使の楠木親子を讃(たた)える碑、そして滅私奉公という字が書かれた台座にのる子別れの石像などがあります。

 赤坂城の合戦後、行方をくらました正成。しかし、隠れた身の上で金剛山の一角に千早城をつくり、戦に備えた正成は赤坂城跡地にできていた幕府駐屯地を襲撃。威風堂々、奇略、計略により幕府軍を打ち破った。時同じくして後醍醐天皇も隠岐を脱出。足利尊氏が京都六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻略。こうして鎌倉幕府が滅亡しました。

 ところが、後醍醐天皇がこの後おこなったのが建武の新政。鎌倉幕府をつぶすためにまとまった武士たちでしたが、新しい政府に対しての思いはバラバラ。何か今の政治を見ているような気がします。こんな状況では何をしてもどこかに不満が残る。そんな中、足利尊氏が挙兵したのでした。不満武士たちが一同に尊氏の味方をする。楠木正成と足利尊氏がいよいよ京都で激突します。正成の知略は尊氏の大軍をもろともせず、見事尊氏を追い払うことに成功したのはさすがです。

 ところが、時代の流れは足利尊氏に向いていた。正成は再び立ち上がった尊氏の大軍との最後の決戦に向けて兵庫に向かいますが、その途中桜井の地で息子、正行に「2千人の兵と共に故郷に帰るように」と後を託すのでありました。あと見送った正成、わずか700人の兵を引き連れて兵庫に向かった。この続きは来週のお楽しみ。

(大阪講談協会所属)
 ◇旭堂南陽の公演情報 「大河ドラマ講談 平清盛を語る」=11月4日午後2時、同4時開演、神戸・元町プラネットアース、1500円(1ドリンク付き)。問い合わせは「元町で講談会」事務局、電話0798(49)6004。

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1019名無しさん:2012/10/30(火) 15:16:36 ID:ZKAndj8E0
文楽の魅力を多くの人に
http://www3.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005550661.html?t=1351577669940
大阪の伝統芸能、文楽の魅力を多くの人に知ってもらおうという催しが、きのう大阪で開かれました。この催しは、大阪市や市内の商店街などが上方文化の再生を通じてまちの活性化をはかろうと開き、大阪・中央区のホールには100人余りが集まりました。
文楽の実演では、太夫の豊竹呂勢大夫さんによる語りと鶴澤燕三さんの奏でる三味線にあわせて、3人の人形遣いが巧みな技を披露しました。
人形遣いの桐竹勘十郎さんらがあやつる女性の人形の優美な動きに、集まった人たちが見入っていました。
技芸員の座談会では文楽の世界の裏話が披露され、三味線で同じ節を繰り返し演奏したり、人形遣いが床を踏んで何度も音をたてるのは、観客に拍手を求める合図であることが紹介されました。
関東出身の技芸員は、大阪発祥の文楽にふさわしい語り口を身につけようと、ふだんの生活でも大阪弁を使っているということです。京都から訪れた女性は「実演を見ることができただけでなく、文楽の裏話も聞けてとても面白かったです」と話していました。

10月30日 08時34分

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1025よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/01(木) 21:24:40 ID:jfzkFJc.0
健やか成長願い 住吉大社で七五三準備ピーク
2012年11月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121101/20121101031.html

 11月にシーズン本番を迎える「七五三まいり」を前に、住吉大社(大阪市住吉区、真弓常忠宮司)で31日、参拝客に配布する撒下品(お下がり)を袋詰めする作業が大詰めを迎えた。この日までに計6千セットを準備し、本番に備える。

 境内にある連歌所では、髪に挿頭(かざし)と呼ばれる飾りをつけた神楽女(かぐらめ)(巫女(みこ))たちが千歳飴(ちとせあめ)や鉛筆、折り紙などの縁起物を袋詰め。黙々と、手際よく作業を進めた。

 同社によると、近年では祝祭の15日周辺にこだわらずに前倒しでの参拝も多いそうで、10月末時点で既に800組が参拝している。11月にはさらに約5千組を見込んでおり、大安の土曜日に当たる10日がピークと予想している。

 この日は6人の職員が袋詰めに参加。神楽女の一人(21)は「お子さまが元気で成長していただきたいと願い作業した。ご家族の笑顔が見られれば」と話した。

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1028よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/03(土) 23:04:41 ID:f9eap8vw0
環濠集落の跡地、石垣残る 2012年11月2日桑津コース
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/asobo/121102/20121102033.html

 いよいよ大阪あそ歩'12秋がスタートした。今回はJR大和路線東部市場駅前をスタートし、桑津環濠(かんごう)集落の跡地や作家の故開高健さんゆかりの地を巡り、近鉄南大阪線「北田辺駅」を目指すコースに参加した。

 ガイドを務めるのは、コースのある東住吉区出身で、地元のなにわの伝統野菜「田辺大根」の普及活動などに取り組む吉村直樹さん(66)。参加者の方とともに出発した。

 吉村さんはこの辺りについて「昔は百済郡といわれ、朝鮮半島から人・文化などいろいろと先進の文化が伝わった所」と教えてくれた。

 駅を出てほどなく歩くと杭全交差点に到着した。杭全は大阪の中でも難読地名の一つに数えられる。「杭(くい)を打ち尽くした」など、地名の由来の諸説について解説してくれたが、実際はどれが正解なのかは分からないという。市内でも交通量が激しく珍しい五差路の交差点で、横断歩道がないため五角形の歩道橋が架けられている。

 その後、住宅街の川沿いを歩くと、「五輪橋」に着いた。近くに五輪塔があることが由来だそうだ。大坂夏の陣では、この辺りは戦場となり、豊臣方の柴田権十郎正俊と徳川方の蜂須賀九郎右衛門が死闘を繰り広げたという。結局、柴田権十郎正俊が蜂須賀九郎右衛門の首を討ち取るも、自ら命を落とした。住民らが供養のため二つの五輪塔を建立したが、現在は柴田権十郎正俊の五輪塔が残るのみだ。

 閑静な住宅街を行くと、一帯は桑津環濠集落跡だ。戦乱が多かった中世以降、村などは周囲に水濠などを巡らして自衛したそうで、道に沿うように石垣が残っていた。吉村さんは「石垣は昔の環濠の名残で、地元の人でも知らない」と教えてくれた。

 仁徳天皇の后(きさき)・髪長媛(かみながひめ)の伝説が残る桑津天神社を経て、桑津小学校に着いた。小学校の前には桑津遺跡を知らせる石碑が建っていた。1929年に弥生時代の土器などが出土し、桑津には約1万年以上前から人々が住み始めたことが判明したという。

 ゴールの北田辺駅近くにはかつて芥川賞などを受賞した作家、故開高健さんが少年・青年期を過ごした家があった。現在は当時の建物は取り壊され、真新しい住居が建っていた。北田辺駅に到着すると、開高さんがこの地で過ごしたことを今に知らせる文学碑がまち歩きの一行を迎え、今日のコースを終えた。

 兵庫県宝塚市から参加していた北山茂さんは「環濠集落跡など、街の歴史が感じられた」と話していた。

 ○…吉村さんのガイドで大阪でも最も古い歴史を持つとされる桑津のまち歩きを堪能した。環濠集落の名残など、地元の人も知らないような場所を巡り、貴重な体験ができた2時間余りだった。

1029よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:37:23 ID:f9eap8vw0
与謝野晶子歌碑 大和川にも 寄付募る
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121103-OYT8T00103.htm

 堺の生んだ女流歌人・与謝野晶子(1878〜1942)が短歌に詠んだ大和川で、晶子ファンや大和川の研究者らが、晶子の歌碑を建立する計画を進めている。全額を寄付で賄う予定で、10日には協力を呼びかけるイベントを開催する。来年9月の除幕を目指しており、関係者は「晶子の歌碑で関心を集め、多くの人が大和川に親しむようになってほしい」と話している。(中筋夏樹)

 大和川にまつわる活動をする団体・個人でつくる「大和川市民ネットワーク」で、「晶子の歌碑があれば、川に人が集うのでは」との声が上がり、5月の総会で歌碑建立を決めた。晶子の研究者らでつくる「与謝野晶子倶楽部(くらぶ)」(堺区)によると、堺市内に晶子の歌碑は23基あるが、大和川沿いにはないという。

 8月には、晶子ファンの講談師・旭堂南陵さんや作家・田辺聖子さんらが呼びかけ人となり、「大和川に与謝野晶子の歌碑をたてる会」が発足。堺区香ヶ丘町の川べりに歌碑を建てることにし、イメージ図=写真=も作った。

 晶子は幼少時、自宅の大人が蚊帳を洗うために、水のきれいな大和川まで荷車で運ぶ際、一緒に乗って行って川遊びを楽しんだ、とのエピソードを自身の随筆に書いているという。

 大和川を詠んだ歌は「大和川 砂にわたせる板橋を 遠くおもへと 月見草咲く」「沙(すな)白き 新大和川 我が町に さかひ少女(おとめ)の 浄(きよ)かれと添ふ」「橋一つ 越え大阪に 続くより 近きこころに 作れ都も」の三つが知られ、この中から碑文を選ぶ。

 制作費の80万円については、1口1000円で寄付を募る。同会などはPRイベントとして、晶子と大和川を題材にした南陵さんの講談を、10日午後2時から堺市堺区のサンスクエア堺で開催する。入場無料。

 寄付は郵便振替(00940・4・288826、大和川に与謝野晶子の歌碑をたてる会)で受け付ける。問い合わせは「たてる会」の小松清生(すがお)事務局長(080・2444・2098)へ。

(2012年11月3日 読売新聞)

1030よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:42:53 ID:f9eap8vw0
屈指の人気作に酔う 国立文楽劇場で公演初日
2012.11.3 22:37
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121103/waf12110322430012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121103/waf12110322430012-n2.htm
 
 国立文楽劇場(大阪市中央区)で3日、赤穂浪士のあだ討ちを題材にした文楽屈指の人気作「仮名手本忠臣蔵」の公演が初日を迎え、太夫、三味線、人形遣いの三業が一体となって繰り広げる忠義と情のドラマに満員の観客が酔いしれた。

 今回の公演は、1日がかりで上演する本格的な“通し狂言”で、大阪では平成16年以来、8年ぶり。

 この日、初日を待ちかねたファンが劇場に詰めかけ、昼の部、夜の部ともにほぼ満員。初めて文楽を見に来たという大阪府大東市の郡(こおり)睦美さん(60)は「人形の繊細な動きに驚いた。日本の文化はすごい。また見に来たい」と感激冷めやらぬ様子だった。

 文楽は今年、文楽協会への補助金削減をめぐって大阪市の橋下徹市長と対立。先月、橋下市長と“和解”し、補助金が支給されることは決まったが、集客努力など改革を迫られている。公演は25日まで。

1031よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 05:50:06 ID:f9eap8vw0
豊臣時代の大阪城石垣遺構 特別公開始まる
2012年11月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121102/20121102022.html

 大阪城天守閣前の本丸広場にある豊臣時代の大阪城の石垣遺構の特別公開が1日、現地で始まった。付近では豊臣時代の大阪城を25分の1のスケールで再現する砂像の作製が最終段階を迎えており、多くの歴史ファンらが訪れている。

 大阪市は大阪城の観光拠点化の一環として、大坂夏の陣から400年にあたる2015年度をめどに、豊臣時代の石垣の一般公開を計画している。今回の特別公開は豊臣時代の石垣復興の機運を高めようと、秋の観光シーズンに合わせて企画された。

 特別公開されている石垣遺構は1959年に「大阪城総合学術調査団」によって発見された。地下約7・5メートルに位置し、地上から金属製の格子越しにライトアップされた石垣を見ることができる。

 門真市から訪れていた調理師、和多美智夫さん(53)は「歴史を感じる。当時の大阪城をイメージすることができた」と話していた。

 石垣遺構の特別公開と、敷地内にある普段は非公開の旧第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館)などもボランティアが案内するガイドツアーは11日まで。4日には砂像の完成イベントも予定されている。

1032よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 06:00:57 ID:f9eap8vw0
獅子舞や曲芸優雅に 生國魂神社で神話と神楽のイベント 大阪
2012.11.3 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121103/osk12110302060003-n1.htm

 国重要無形民俗文化財の伊勢大神楽を鑑賞する「神々の世界への誘(いざな)い」(産経新聞社主催)が2日、大阪市天王寺区の生國魂(いくくにたま)神社で開かれた。獅子舞や曲芸の披露、神楽をテーマにした対談などが行われ、訪れた人たちは多彩な伝統芸を楽しんだ。

 伊勢大神楽は、伊勢神宮(三重県伊勢市)への信仰を広めるため江戸時代から各地を巡り、芸能を披露したり神札を配ったりしてきた。現在は6組の社中が主に西日本を回っている。境内の会場では、神話や神楽に詳しい大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんが現代語訳した神話を、元OSK日本歌劇団の美砂(みさご)まりさんが朗読し、同神社の神職と巫女(みこ)が新作神楽を披露。対談では、北川さんと伊勢大神楽の加藤菊太夫さんが「日本の大多数の獅子舞が、伊勢大神楽に学んだ」などと話した。

 このあと公演が行われ、優雅な獅子舞や刀を使ったスリル満点の技などが披露された。獅子が花魁(おいらん)に扮(ふん)して練り歩く場面もあり、多彩な芸に盛んな拍手が送られた。

1033よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/04(日) 22:26:37 ID:E8/7is2.0
暗越奈良街道 再認識を イベント通じ発信
2012年11月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121104/20121104025.html

 大阪市東成区内を横断する暗越(くらがりごえ)奈良街道を区民に重要な歴史的資源と再認識してもらい、街への愛着を深めてもらおうとするイベント「ひがしなり街道玉手箱」(同実行委員会主催)が3日、玉造や深江、東成しんみちロード商店街の各会場で昔懐かしい写真の展示やフォークソングライブ、落語寄席などが行われた。4日まで。

 前身の東成新道・暗越奈良街道フォーラムから数えて、ことしで6回目。2日間で35の団体や企業が、公園や神社、空き店舗などでイベントを実施する。

 この日商店街では、突然音楽が鳴りだし、踊りだす人が出現する「フラッシュモブ」が行われた。通行人は、突然始まったダンスパフォーマンスに足を止めて眺めていた。

 子どもとめいを連れ、イベントに参加した同区の古庄千波さん(41)は「東成区は、お年寄りが多い街。子どもから大人まで楽しめるイベントはいいと思う」と話していた。

 4日も各所でイベントを行う。約4キロの街道パレードは、午前11時に東小橋北公園を出発し、午後3時半の西深江公園の到着を予定している。

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1036よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/06(火) 08:17:30 ID:MUJk4M3c0
楠木正成ゆかりの重文・建掛塔 「頭」すっきり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20121106-OYT8T00085.htm
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 河内長野市の古刹(こさつ)・観心寺で、室町時代前期の武将、楠木正成(1294〜1336年)ゆかりの重要文化財「建掛塔(たてかけのとう)」(高さ10メートル80)の修復が完了した=写真=。

 同寺は楠木家の菩提(ぼだい)寺。正成は子どもの頃に同寺で修行に励んだとされる。鎌倉幕府倒幕後に正成は三重塔を建立しようとしたが、途中で足利尊氏軍に敗れて戦死したため、2層目以上は完成せずに初層(1階)だけの珍しい様式で残ったとされる。

 市教委によると、現在の建掛塔は、1503年に再建された。茅(かや)の劣化が進み、1984年以来の修復を6月から実施。同市内で採れた茅17トンで屋根全面をふき替え、塔を覆っていた足場も撤去した。

 同寺の永島弘教寺務長は「紅葉シーズン前に修復が終わり、美しくなった塔を参拝者に見てもらいたい」と話していた。

(2012年11月6日 読売新聞)

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1038よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/06(火) 19:41:17 ID:tuw4enxc0
「永遠」表現の舟も 高津宮命の尊さ訴え秋まつり
2012年11月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/121106/20121106027.html

 「芸術」や「食」などを通し、命の尊さについて考えてもらう「とこしえ秋まつり」が10月28日、大阪市中央区高津1丁目の高津宮(小谷真功宮司)で開かれた。2万年前の地層から出土した神代杉を使った巨大芸術作品「とこしえの舟」が同宮の参道にお目見えしたほか、境内ではうどんなどを味わえる屋台が並び、多くの人らでにぎわった。

 同まつりは命の尊さを訴える新たな秋祭りとして、同宮が初めて企画した。

 参道にお目見えしたとこしえの舟は、小谷宮司の依頼で芸術家の伊原セイチさんが手掛けた。全長約5メートル。上部の神代杉を「時空を進む“動力”」として、永遠=とこしえ=に向かう姿を表している。参道にはとこしえの舟とともに奈良県天川村から切り出した杉を使った長さ約25メートルの“桟橋”も登場。この日、朝から雨模様の天候ながら、傘を差した参拝者の目を引いていた。

 境内では「氏子グルメ屋台」として「道頓堀今井」がうどんなどを販売。手作りの工芸品などを扱うブースなども人気を集めていた。

1039名無しさん:2012/11/07(水) 17:38:32 ID:DkYwJ.mU0
都市改良と遷都 大阪時事新報 1919.1.6(大正8)
名古屋高等工業学校長 工学博士 武田五一氏談

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00747189&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
西隣支那大陸との交通、台湾、朝鮮等の新領土の編入其他戦後に於ける南洋発展の計を
想わば日本の首府の永久に東京に存在する事は稍々東方に僻在する事となり早晩或は大阪
に遷都を見るやも計られず実に大阪市は将来日本の経済上の中心点たらざる可からざると同時
に又政治上の中心となる可き可能性を有するものにして新日本の中心地は大阪市を以て最理想の処

大阪の地たる上古浪花の都と称し仁徳帝の天下を統御し給いし以来我が国中世に於ける
交通政治の中心となり来り彼の豊太閤の雄闘を抱いて茲に築城したるより考うるも覇を東洋の
天地に唱えんとする雄大なる帝国の使命を果さんとせば実に海陸の便四通八達なる我が大阪
に首府を移すべきことは蓋し当然なり

摂河泉の広大なる大平原を控え海波静かに打寄する大阪湾頭新になれる一大首都「大大阪」
の都を想見せよ帝国の首府として決して不適当にあらずして否寧ろ日本の首都として最適恰の
土地たる事を失わず

1040よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:29:20 ID:WWMHs/sg0
旧居留地は神戸だけ? 新島襄といえば京都? 大阪の幻の外国人居留地が存在感アピール
2012.11.11 21:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n2.htm

 レトロな洋館に異国情緒あふれるガス灯…。関西で外国人の旧居留地といえば、だれもが思い浮かべるのが神戸市だ。しかし、大阪市にもかつて居留地があったことはあまり知られていない。大阪港にも近い西区にあった旧川口居留地には、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する新島襄(1843〜90年)も、京都で現在の同志社大学を創立する直前の一時期、滞在。地元では、「来年の大河ドラマを機に、そして6年後の大阪港開港150年に向けて、大阪にも居留地があったことを広く知ってもらいたい」という声が高まっている。

(袖中陽一)

西洋料理も散髪も…文明開化の発信地

 川口居留地があったのは、現在の住所でいえば、大阪市西区川口1丁目付近。ともに大阪港に注ぐ安治川と木津川が分岐するあたりだ。

 外国人居留地は日米修好通商条約など幕末に外国と結ばれた条約により、横浜、神戸、長崎、築地(東京)、大阪、函館、新潟の7カ所に設けられることになった。川口居留地は慶応4(1868)年、大阪港の開港とほぼ同時期に開かれた。

 「当時の欧米から見ても、大阪は日本の経済の中心。大阪にも当然居留地が欲しいし、その近くの港ということで神戸も、という流れで場所は決まったのでしょう」。大阪市史編纂(へんさん)所所長の堀田暁生さんはこう推測する。

 川口居留地の広さは約1万坪で、当時の記録によると、明治21(1888)年で欧米人157人が住んでいたという。住人にはビジネスマンが多かったらしく、神戸市にある国の重要文化財、旧ハンター住宅で知られる英国人実業家のエドワード・ハンター(1843〜1917年)も、ここに家を持っていたという記録がある。

 居留地内は欧米風のモダンな街並み。洋服や西洋料理、近代的な散髪など、さまざまな文物・風俗が、この町から大阪に広まっていったという。

 川口居留地に遅れること6年、木津川の対岸、江之子島には明治7(1874)年に大阪府庁が建設された。さらに明治22(1889)年に大阪市が誕生すると、市役所は当初、府庁内に、そして10年後の明治32(1899)年には府庁の北向かいに置かれた。当時、この一帯はまぎれもなく大阪の中心地だったのだ。

浅い水深がネック、神戸に奪われた貿易港の座

 その川口居留地が、なぜその後は発展しなかったのか。

1041よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:31:11 ID:WWMHs/sg0
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n4.htm

 ネックとなったのが、水深の浅さだ。水運に使っていた安治川が浅く大型船の航行には不向きだったため、外国船の多くは神戸港を使うようになった。そのため川口居留地に住んでいた外国人たちも、次第に神戸へ移っていったようだ。

 「その跡地に教会、学校、病院などができ、後のプール学院、桃山学院などミッション系の学校の発祥の地になったのです」と堀田さん。だが、それらもその後、川口の地を離れていった。

 居留地そのものも条約改正により明治32(1899)年に廃止。現在の旧居留地でわずかに往時をしのぶことができるのが、明治14(1881)年に設立された川口基督(キリスト)教会だ。現在残る礼拝堂は大正9(1920)年に再建されたもので、居留地時代のものではないが、国の登録有形文化財に指定されており、旧居留地らしい雰囲気を醸し出している。

同志社は大阪に出来ていたはず?!

 「旧川口居留地は大阪におけるテニス発祥の地でもあったんです」と話すのは、旧居留地近くでお好み焼き店を経営する北村一男さん(67)だ。

 生まれ育った場所に居留地があったことは知っていたが、その価値に気づいたのは、6年ほど前。趣味のテニスについて調べるうちに、自宅近くの旧居留地にテニスコートがあり、そこからテニスが大阪に広まっていったことを知った。4年前、「川沿いを歩ける町づくりの会」を結成し、旧居留地をめぐる地図を作るなど活動を続けている。

 北村さんは来年のNHK大河ドラマの主人公が、同志社大学を創立した新島襄の妻、八重であることに注目。「ほとんど知られていないが、新島は一時期、大阪の居留地付近に逗留(とうりゅう)し、この土地で学校を作ろうとしたんです」と話す。

 明治8(1875)年1月、横浜から大阪を訪れた新島は、川口居留地近くの宣教師宅に居住。大阪で学校を開こうとするが、大阪府知事の賛同が得られなかったため断念した。その後、4月に京都府幹部と面会して学校の誘致を受け、それが京都での開校につながったとされる。

 北村さんは「新島が住んだのは短い期間だが、大河ドラマを機に新島ゆかりの地を訪れるツアーを企画して、川口の旧居留地を盛り上げたい」と意気込みをみせる。

1042よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:32:40 ID:WWMHs/sg0
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n5.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121111/wlf12111121000018-n6.htm

少ない観光資源…ぜひ記念館を

 旧居留地近くに住む大阪芸術大学短期大学部ビジネス学科長の谷口靖弘さん(67)=観光学=は、川口や九条など安治川と木津川にはさまれた西区の下町を紹介する「大阪・九条下町ツアー」を主宰し、この十数年で延べ1000人を案内してきた。「ここはガイドにとってやりがいのある土地」と強調する。

 案内といっても、旧居留地にある観光資源は極めて少ない。しかし谷口さんは「私がいつも心に置いているのが、『ハードよりハートでご案内』という言葉。ハード(施設)を見てもらうのではなく、心で見てもらうガイド。小さなものでも観光資源にはなりうるのです」。

 例えば、現在の川口聖マリア幼稚園の近くにはかつて立派な教会があったが、先の大戦で焼けてしまい、今はレンガの土台が約30センチの高さで残っているだけだ。「それだけのものといえばそれまでですが、そこから想像力をふくらませてもらうのが効果があるようです」。ツアーの参加者からは「明治時代や大大阪のころの大阪を想像して振り返るのが楽しかった」という感想が多いという。

 「ハードよりハート」という谷口さんだが、「それでもやはり居留地の記念館のようなハードがあれば…」と残念そう。堀田さんも、「川口の旧居留地は大阪の近代文化発祥の地。記念館や資料館のようなものを作ってもらいたい。そして、大勢の人にこの土地の歴史を知ってほしい」と話している。

1043よっさん ◆XxkTNAUYOc:2012/11/11(日) 21:34:37 ID:WWMHs/sg0
国史跡「郡山宿本陣」 秋の特別公開始まる 大阪
2012.11.11 02:34
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121111/osk12111102340001-n1.htm

 江戸時代、「忠臣蔵」で知られる赤穂藩主、浅野内匠頭(たくみのかみ)をはじめ参勤交代の大名が泊まったという茨木市宿川原町の国史跡「郡山宿本陣」で10日、秋の特別公開が始まった。

 同本陣は京都〜西宮(兵庫県)を結ぶ西国街道の中間にあり、正面入り口の門に大きなツバキがあったことから「椿の本陣」とも呼ばれている。浅野内匠頭が数回宿泊したほか、幕末維新期には薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)の関係者が頻繁に訪れており、宿帳などが残されている。

 特別公開では、こうした資料や大名が泊まった部屋「上段の間」、米蔵、茶室などを見ることができる。また、納屋では企画展「旅する小物〜江戸時代の旅じたく」を開催している。

 17代目当主の梶洸(かじ・たけし)さんは「日本地図を作製した伊能忠敬(ただたか)も泊まっていますが、測量の際は地元の人を大勢雇うなど地域振興にも貢献しました」などと、宿帳を示しながら見学客たちに説明していた。

 18日まで。入館無料。問い合わせは、茨木市教委地域教育振興課((電)072・620・1686)。

1044名無しさん:2012/11/12(月) 02:43:08 ID:8RYs5C0U0
>>1041
安治川に限らず、川に土砂が堆積して大阪平野ができたのは、奈良京都での環境破壊のせいというかおかげ
上流での土木開発で木を切り倒したため、下流にそうした土石が流れ込んだ

神戸の上流にはそうしたものがなかったちめ、神戸の港の水深は浅くならずに済んだ

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