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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

94よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/14(木) 18:48:56 ID:yv6oqQeM0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/203 天野屋利兵衛の碑 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110414ddlk27070450000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇作られた「義〓の人」 戦雲暗い1939年建立、銘は近衛文麿
 大手橋の東詰めを南へ歩くと、東横堀川沿いに茶色の巨石が鎮座している。近寄って、よくよく見ると「義〓(ぎきょう) 天野屋利兵衛之碑」と刻まれている。

 天野屋利兵衛とは、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」などでおなじみ。海産問屋を営んでいた大坂の商人で、赤穂藩に出入りしていた関係で大石内蔵助に頼まれ、討ち入りに用いるやりなどの武器を調達する。しかし、発注した鍛治屋に密告されて奉行所に捕らえられ、拷問にあうも「天野屋利兵衛は男でござる」と叫んで口を割らなかった。討ち入りが果たされると、奉行所は利兵衛の義〓心に免じて命は助け、京に追放する−−。

 ここに碑があるところをみると、利兵衛の屋敷は大手橋(思案橋)のたもとにあったのだろう。

 岡山県西粟倉村のホームページに「男でござる天野屋利兵衛」という民話が紹介されている。事業に失敗し倒産した利兵衛に赤穂藩が救いの手を差し伸べ、特産の塩を扱わせたので天野屋は再び栄えた。そして刃傷松の廊下。主君のあだ討ちを誓った大石内蔵助は、頭を下げて、討ち入り用に刀身が短く幅が広い刀の調達を利兵衛に頼む。利兵衛は「私ごときに」と涙を流して引き受ける。かつて扱った品の中に、良質の鋼があったことを思い出した。それが若杉の村。いまの西粟倉村で、湯治の名目で刀鍛治職人とともに山村に泊まり込み、刀造りを監督した−−。

 男と男の厚情、ここに極まれり、というお話だが、実はすべて後世の作り話で、利兵衛も実在の人物ではないというのが定説になっている。

 ところが、利兵衛のモデルではないかと話題になった人物の墓がある。谷町筋から一本西に入ったお寺が並ぶ中央区中寺1の薬王寺。ここは「大阪史蹟辞典」で三善貞司さんが「古墓の宝庫」と書いているように、江戸時代の名優、中村富十郎や片岡仁左衛門、岩井半四郎、嵐雛助(ひなすけ)ら、そうそうたる顔ぶれが眠っている。

 くだんの墓は天川屋(あまかわや)利兵衛なる商人のものだ。案内してくれた藤田文明住職(68)が指さしたのは、小ぶりのもので、表には「妙法宗利日貞霊」、側面には「享保三年」と没年が刻まれている。享保3(1718)年は、赤穂浪士討ち入りの16年後にあたる。「無縁仏になっていたのを、大阪赤穂義士会が見つけたんです」と住職が説明してくれる。それが昭和15(1940)年のこと。「今も子孫が京都におられ、年に1回はお参りされてます」という。

 三善さんの「大阪人物辞典」によると、天川屋は代々、町政に携わる町年寄を務めており、利兵衛は2代目の娘婿。だが義父より25年も早く亡くなっている。芝居の登場人物と音が似ており、早世だったことから尾ひれがついたのではないか、と三善さんは推測している。

 薬王寺にはもう一つ、忠臣蔵ゆかりの人物の墓がある。赤穂浪士の一人、大高源五だ。砂岩の墓はかなり崩れているが、「刃無一釼信士」と刻まれていたようだ。「大阪人物辞典」によると、この墓は天川屋利兵衛の子孫が建立した。

     ◇

 大手橋に戻る。天野屋利兵衛の石碑が建てられたのは、天川屋の墓が見つかる前年の昭和14(1939)年。銘はこの年の正月早々、首相を辞したばかりの近衛文麿の筆になる。1937年、日本は日中戦争に突入し、38年には重慶爆撃を開始。広大な大陸での戦争の泥沼にはまりこもうとしていた。さらに39年5月には、日本の生命線とされた満州の国境でソ連軍と衝突するノモンハン事件が起きている。

 戦雲が日本を包み込もうとしていた時に、利兵衛の碑が建立された。しかも、そういう国をつくったリーダーたる前首相の筆で。義〓の人というのは、きなくさい時代に愛国の象徴として利用される。この碑もその口だと考えるのが自然だろう。【松井宏員】

95よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/14(木) 19:45:36 ID:yv6oqQeM0
世界最古の企業「金剛組」、手斧始め式が文化財に 578年創業
2011.4.14 08:59
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110414/biz11041409050009-n1.htm

 西暦578年創業で「世界最古の企業」といわれる社寺専門建設会社「金剛組」(大阪市天王寺区)が仕事始めの儀式として毎年正月に行っている「四天王寺手斧(ちょんな)始め式」が、大阪市の無形文化財に指定された。

 「手斧始め式」は、1月11日に四天王寺金堂内で正大工(しょうだいく)の称号を持つ金剛家当主=現在は39代目金剛利隆相談役(86)=をはじめ社員、宮大工が古式の衣装で原木から柱を切り出す大工仕事を模した作法を行い、その年の工事の安全を祈る。一般には公開されていない。

 営業企画部の花尻千秋さんは「金剛組は、聖徳太子によって建立された四天王寺のおかげで1400年の長い歴史を歩んできました。貴重な伝統をより実りあるものとして次代に伝えるよう努力していきます」と話していた。

96よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/15(金) 06:03:46 ID:OBgSUzFc0
大阪城に大規模な鍛冶工房跡 豊臣方、夏の陣で利用か
http://www.asahi.com/national/update/0415/OSK201104140161.html

豊臣秀吉が築いた大坂城跡(大阪市中央区)の南側から、刀などの鉄製品を製造する大規模な鍛冶(かじ)工房跡が初めて見つかった。一度に6基もの鍛冶炉が出土する例は珍しい。14日、大阪市教育委員会と市博物館協会大阪文化財研究所が発表した。大坂夏の陣(1615年)を前に豊臣方が軍事的に利用した可能性もあるという。

 見つかったのは、現大阪城が立つ上町台地の東斜面にある住宅予定地で、旧大坂城三の丸南部と推定されている地域。

 豊臣時代後期(1598〜1615年)の遺構で、東西15メートル、南北4〜5メートルの敷地に三つの工房が並び、鍛冶炉が2基ずつ、計6基あった。ふいごの羽口が設置された状態の炉もあり、炉の周りには焼き入れ用とみられる長方形の水槽(長さ約1メートル)、送風管らしき竹筒なども出土した。

 市博物館協会は「豊臣方の勢力が設置した工房だろうが、城外郭の軍事的な重要地点だけに、大坂城普請のために近隣に屋敷を構えた大名が土木用のくわなどを作る工房として設置した可能性もある」としている。

 現地公開はしないが、出土品を16、17日午前9時30分〜午後4時30分、大阪市中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館(06・6946・5728)で無料公開する。(大脇和明)

97よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/15(金) 20:34:20 ID:mwAjndKk0
泥に負けずコイ掲揚 ボーイスカウト団員ら
2011年4月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110415/20110415022.html

 「御田植神事」などが行われる住吉大社(大阪市住吉区住吉2丁目)の御田で10日、近隣のボーイスカウトの団員たちがこいのぼりを揚げる作業に取り組んだ。青空の下、色とりどり約50匹のコイが揚げられ、悠々とたなびいていた。ゴールデンウイーク終わりごろまで掲揚される。

 同所で24日に開かれるイベント「レンゲdeすみ博」の一環。神社が区民から寄贈されたこいのぼりを昨年から揚げている。ボーイスカウト大阪第123団(山本哲団委員長)の団員約50人が参加し、作業に当たった。

 レンゲ畑となった田んぼの中は前日の雨でぬかるんでおり、団員たちは悪戦苦闘。春の暖かな日差しの中、泥を顔につけて走り回る子どもたちの姿も見られた。

 香山莉子さん(13)は「こいのぼりの尻尾に泥がつかないように作業するのが少し大変」、同じく谷島温音さん(12)は「レンゲがとてもきれいで春が来たという感じ。こいのぼりといっしょに楽しんで」と話していた。

98よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/16(土) 21:33:24 ID:59l4tCvI0
なるほドリ:造幣局の「桜の通り抜け」ってどんな行事? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110416ddlk27070389000c.html

 ◇大阪の風物詩、明治16年から一般に開放
 なるほドリ 造幣局の「桜の通り抜け」(14〜20日)ってどんな行事なの?

 記者 通り抜けは1883(明治16)年から始まった大阪に春の到来を告げる風物詩です。当時の造幣局長が「局員だけの観桜だけではもったいない」と一般開放を始めたそうです。局の南門から北門への約560メートルを歩き、沿道に咲く桜を楽しみます。例年70万人程度が訪れています。桜は毎年増えていて、今年は昨年より1品種増の128品種352本。静岡県の寺院名を冠した桜「伊豆最福寺枝垂(しだれ)」が加わりました。東日本大震災を受けて夜間ライトアップが中止になったので注意が必要です。平日は午前10時〜午後5時(土曜、日曜日は午前9時から)。会場には、被災地支援の募金箱も設置されます。【社会部・稲垣淳】

99よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/17(日) 02:37:52 ID:59l4tCvI0
まなびやの宝:/46 日本近代水泳発祥之地 府立茨木高校 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110416ddlk27070386000c.html

 ◇伝統と実績、今も受け継ぐ
 茨木市新庄町の府立茨木高校。阪急京都線の車窓からも見える正門を入ってすぐ左に、「日本近代水泳発祥之地」と刻まれた石碑が建つ。その名にふさわしく、公立高校では珍しい長水路(50メートル)の屋内プールがあり、伝統を受け継ぐ水泳部は、水球で全国大会にも出場する強豪だ。

 同校は1895(明治28)年、大阪府第四尋常中学校として創立。同窓会や水泳部の記念誌によると、大正天皇の即位を記念して体育強化をと、1915(大正4)年9月に水泳場の造成が始まった。ただし、生徒らの手作業。文豪、川端康成もその一人とされ、「ノーベル賞作家もプールを掘った」と逸話が残る。近くの川から水を引き込み、翌16(大正5)年2月にお目見えした。水泳部も同年発足。大正末から昭和初期には、飛び込みや水球も始める。

 戦前に五輪選手も輩出した栄光のプールは、全国初の学校プールで、学校体育で初めてクロールが教えられた場所でもあるという。この二つの「初」で85年、日本水泳連盟は碑文として「日本近代水泳発祥之地」を使うことを同窓会に認め、記念碑が建立された。

 95年に完成した現在の屋内プールは3代目。97年のなみはや国体で水球会場となった。立派な施設を独占するのはもったいないと、中学生が参加する記録会「茨木高校杯」を年2回開催しており、今春で第32回となる。

 水泳部OBで現在顧問の木場恒樹教諭(39)は「インターハイに出るだけでなく、出て勝てるように」と指導。副主将の平瀬智大君(17)は「こんなにいい環境で練習できるのも先輩方のおかげ。その伝統と実績を超えられるよう頑張りたい」と話している。【八重樫裕一】

100よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/17(日) 05:37:40 ID:59l4tCvI0
2011年4月16日
「愛染女組」7人と「愛染娘」10人募集 6月30日から愛染まつり
http://www.sankei-kansai.com/2011/04/16/20110416-051847.php

 大阪三大夏祭りの一つに数えられる愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)(大阪市天王寺区)主催の「愛染まつり」が、今年も同寺周辺で6月30日〜7月2日に開催されるのに合わせ、愛染堂では、祭りを盛り上げる「愛染娘」と「愛染女組」を募集している。

 聖徳太子ゆかりの愛染堂周辺で開かれる愛染まつりは、夏を告げる風物詩として親しまれ、愛染娘を乗せたかごが大阪のまちを練り歩く「宝恵かごパレード」は人気行事の一つ。

 愛染堂では、浴衣姿でかごに乗る愛染娘10人と、ハッピ姿でかごを担ぐ愛染女組の7人を募集(いずれも18歳以上の女性)。愛染娘は、浴衣を自分で着る、または、着付けをしてくれる人がいることが条件。

 履歴書に、いずれかの希望と必要事項、特技を明記し、顔写真と全身写真を添えて、郵便番号543―0075 大阪市天王寺区夕陽丘町5の36「愛染堂」まで郵送(5月10日消印有効)する。問い合わせは、愛染堂(電話06・6779・5800)へ。

101よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/17(日) 05:49:47 ID:59l4tCvI0
2011年4月15日
国宝特別公開巡る 無料シャトルバス 17、18日に河内長野市
http://www.sankei-kansai.com/2011/04/15/20110415-051797.php

 大阪府河内長野市は、天野山金剛寺と観心寺で17、18両日、国宝などが特別公開されるのに合わせ、両寺を巡る無料のシャトルバスを運行する。

 金剛寺では国宝の剣(平安時代)や修復中の金堂(重要文化財)の作業現場など、観心寺では、木造如意輪観音坐像(平安時代)などを特別公開する。

 シャトルバスは、午前10時半から午後4時まで、観心寺〜金剛寺〜河内長野駅を運行する。問い合わせは市観光協会事務局(電話0721・53・1111)。

102よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/17(日) 15:51:26 ID:59l4tCvI0
上方舞・山村流:芸と歴史紹介−−大阪歴史博物館 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110417ddlk27040299000c.html

 「上方舞・山村流」が大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開催されている。大阪で生まれ育った伝統の舞、山村流の豊かな芸と歴史が紹介されている。

 山村流は、上方歌舞伎の役者から振付師に転向し、名優、三代目中村歌右衛門(1778〜1838)に重用された山村友五郎(1781〜1844)が興した舞の流派。地歌のしっとりした座敷舞と、華やかな歌舞伎舞踊とが伝承されているのが大きな特長だ。

 今回の展示はいわゆる島之内家として続いてきた山村流宗家所蔵の品が中心。三代目歌右衛門の浮世絵、初代市川右団次(後の斎入(さいにゅう)、1843〜1916)が使った三ツ面など、普段は見ることのできない貴重な資料だ。三ツ面は「仕丁(じちょう)」という曲に使われる笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸の3種類の面。これを一人で使い分けて踊る。02年、この面を使って現六世宗家、山村若が約40年ぶりに復活上演した。その他計約60点を展示。

 4月23日、5月21日には山村流舞の会が開催される。大人600円。5月23日まで。同館(06・6946・5728)。【宮辻政夫】

103よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/17(日) 15:54:45 ID:59l4tCvI0
文楽:近松門左衛門の演目「女殺油地獄」解説 豊竹咲大夫さんら、本など作製 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110417ddlk27040294000c.html

 近松門左衛門の名作で文楽の人気演目「女殺油地獄」を多面的に解説した本「近松門左衛門名作文楽考(1) 女殺油地獄」が刊行された。文楽大夫、豊竹咲大夫さんの芸談「女殺油地獄考」とDVD、さらに近松と当時の大坂の風俗とを研究している合名会社「神宗(かんそう)」代表社員、尾嵜彰廣(おざきあきひろ)さんの「女殺油地獄ガイド」の3部構成。近松の世界を文章、芸、風俗などの面から立体的に鑑賞できるユニークな本だ。

 「女殺油地獄」は江戸時代の1721年に初演。油屋の息子与兵衛が、放蕩(ほうとう)の果て金に困り、世話になっている油屋仲間の豊島屋女房お吉を殺す。1962(昭和37)年、当時の名人、八世竹本綱大夫と三味線の十世竹沢弥七が復活。高い評価を得、文楽の人気演目になった。

 咲大夫さんは父綱大夫から引き継ぎ、今は自身の代表作の一つ。芸談の中で咲大夫さんは与兵衛に与えようと持ってきた金を母が落とす場面について「落ちたは何ぞ」の後、三味線が「チリチーン・シャン」と弾く手(譜)を採り上げ、実際は「滑稽な時に使う曲です」と解説するなど細かい芸の秘密を紹介。

 尾嵜さんの「女殺油地獄ガイド」は、当時(享保5年)の貨幣制度のほか株仲間や町年寄の仕組み、大坂商人の節季や風習など大阪に生まれ育った商人ならではの知識を披露している。

 DVDは昨年、咲大夫さんが自身の会で語った素浄瑠璃を収録。三味線は鶴沢燕三さん。咲大夫さんは大夫の最高位「切場語り」の一人で昨年度の国立劇場文楽大賞を受賞。24日まで国立文楽劇場で「女殺油地獄」を語っている。

 講談社刊。2940円。【宮辻政夫】

104よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/20(水) 19:17:29 ID:Esd7UjYo0
佐野の遺跡から東大寺の瓦
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005379711.html

大阪・泉佐野市の遺跡から鎌倉時代に奈良の東大寺を再建した際に使われたものと同じ瓦が見つかり東大寺の瓦の製造地だった可能性があるとみて注目されます。
瓦が見つかったのは泉佐野市の安松田遺跡です。
府営住宅の建て替えに伴って大阪府教育委員会がおととし発掘調査を行ったところ12世紀から14世紀にかけての瓦や破片が1000点以上見つかりました。
このうちの一枚は縦が約42センチ横が34センチ、重さが7.5キロと通常の瓦の2倍以上で大きさや、瓦を固定する釘穴の位置などが奈良・東大寺の旧境内から出土した瓦と一致したということです。
遺跡からは瓦の原料となる粘土を取り出した穴が100カ所以上見つかっていて、府の教育委員会では遺跡で東大寺の瓦が作られていた可能性が高いとしています。
東大寺は、西暦1180年の争乱で焼き討ちにあったあと再建されていて、今回見つかった瓦は、大仏殿や南大門など主要な建物が再建された時代と同じものだということです。
東大寺の再建には、岡山県や愛知県の瓦が使われていたことが知られていますが、大阪で確認されたのは初めてで、寺と泉州地域との関わりを研究するうえで貴重な資料として注目されます。

04月20日 07時07分

105よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/21(木) 19:04:31 ID:SAl9naS60
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/204 西町奉行所址 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110421ddlk27070367000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇大火「妙知焼」で移転 お白洲のお裁きだけじゃない、民政・消防・警察も奉行の仕事
 大手橋から、天野屋利兵衛の碑を過ぎると、左手にホテル「シティプラザ大阪」と展示場「マイドームおおさか」が現れる。ここは大阪コクサイホテルの跡地になる。

 マイドームおおさかの玄関脇の植え込みに「西町奉行所址」の碑が建っている。江戸の町奉行は南と北だが、大坂は西と東。そもそもは大坂城の京橋口に東西に並んで奉行所が設けられたからだが、1724(享保9)年の大火で焼失したため、京橋口には東町奉行所を再建。ここに西町奉行所を移転した。

 この大火は、妙知というおばあさん宅が火元だったので「妙知焼」と呼ばれ、大坂市中の3分の2が焼けた。火事場泥棒が横行したが、取り締まる側の肝心の奉行所が焼けたので、手をこまねいているしかなかったという。

 つい数年前まで、私は管轄地域によって奉行所が分かれているのだと思っていたが、さにあらず。1カ月ごとに当番が代わる月番制で、民事訴訟を受理していた。

 だいたい、町奉行というと、徳川吉宗の享保の改革を支えた大岡裁きの大岡越前守忠相や、「この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえぜ」とタンカを切る遠山の金さんこと、遠山金四郎景元ら、時代劇のスターが頭に浮かぶ。しかし、お白洲でのお裁きばかりが奉行の仕事ではない。大坂の民政や消防、警察など、いわゆる行政と司法を担っていた。今でいうなら、裁判長と府知事と府警本部長を一人で兼ねているようなものだ。

 奉行の下には与力が30騎ずつ、同心が各50人いた。大塩の乱を起こす大塩平八郎は東町奉行所の与力だったし、もっと有名どころでいえば中村主水だろうか。もっとも、こちらは故藤田まことさんの当たり役のテレビドラマ「必殺シリーズ」の与力だけれど……。

 天満の与力町、同心の地名は、ここに与力、同心が住んでいたことを示している。

    ◇

 大坂のお奉行で名奉行の誉れ高いのは、佐々木顕発(あきのぶ)だ。落語ファンには「佐々木裁き」という噺(はなし)でおなじみ。落語では西町奉行になっているが、幕末の1852(嘉永5)年から5年、東町奉行を務めた。

 「佐々木裁き」は、町中を見回っていたお奉行が、子どもたちの「お裁きごっこ」に出くわすところから始まる。奉行役の子どもが「佐々木信濃守」を名乗っているのを聞いて、部下がやめさせようとするのを押しとどめたお奉行、子どもの裁きを見守り、のちほど奉行役の四郎吉を奉行所に呼び出す。

 親や町役は震え上がるが、本人は平気でお奉行の問いに答えていく。「星の数を知っておるか」と問われ、「ほな、お白洲の砂の数を知ってはりまっか」と返し、「ついたての仙人の絵が何をしゃべっておるか、尋ねてまいれ」には「佐々木信濃守はあほやなあ言うてました」。怒ったお奉行を「絵に描いたもんがしゃべるわけないのに、聞いて来いやなんて」とやりこめる。物おじしない度胸と利口さに、お奉行はのちに四郎吉を引き取って与力に育てあげた−−。

 佐々木顕発は、下級武士の出だったが、異例の出世を遂げた人物で、「久しく司法の職にありて出色の誉れあり」と評された。そういう出自が大坂の町人の心をくすぐり、職人のせがれの四郎吉を取り立てるという噺が生まれたのだろう。

    ◇

 名奉行の誉れ高いのは1人や2人どころではないが、もう一人、1783(天明3)年から9年も東町奉行を務めた小田切直年を紹介しておこう。つい最近、講談社文庫から発刊された松井今朝子さんの「そろそろ旅に」に登場している。

 同書の主人公は「東海道中膝栗毛」を著した十返舎一九。駿府(今の静岡)の下級武士だった一九は、駿府町奉行を務めた小田切に可愛がってもらったので、小田切を頼って大坂へやって来て家来になる。物語中では、清廉潔白な小田切の人物像や、米屋の打ち壊しに手を焼くさまが描かれている。

 小田切はその後、江戸町奉行の職に18年あった。これは大岡忠相らに次いで4番目の長さで、いかに幕府の信頼が厚かったかを物語っている。【松井宏員】

106よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/23(土) 17:28:17 ID:qMbjoQpM0
江戸時代のなにわ 展示会
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005460781.html

江戸時代、天下の台所としてにぎわったなにわの祭りや庶民の娯楽を当時の風俗画などで紹介する展示会が、きょうから大阪で開かれています。
この展示会は、大阪・北区の「大阪くらしの今昔館」が開館10年を記念して開いたもので、江戸時代のなにわの様子を描いた風俗画や版画など100点が展示されています。
このうち、「十日戎群集参詣図」は日本画家、生田花朝の作品で、大阪が商業の町として発展した江戸時代に盛んになったとされる今宮戎神社の十日戎の様子を描いています。
また、「関取二代鑑」は、芸をさらに磨こうと、江戸から上方にやってきた歌舞伎役者、五代目市川海老蔵の舞台を描いた役者絵で、海老蔵は上方でも人気が高かったということです。
展示会を企画した学芸員の深田智恵子さんは、「日常の何気ない暮らしの中に楽しみを見つけて心豊かに生きた人たちの姿に思いをはせてほしい」と話していました。この展示会は、来月29日まで開かれています。

04月23日 12時45分

107よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/23(土) 23:19:06 ID:qMbjoQpM0
重要文化財の「愛珠幼稚園」一般公開

http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html#0368238

大阪市中央区では、築110年と国内で最も古く、重要文化財にも指定されている幼稚園の内部が一般公開されました。

オフィス街に位置し、屋敷や寺を思わせる建物。大阪市立愛珠幼稚園の園舎は、1901年に地元の人たちの資金で建てられ、国の重要文化財でもある国内最古のものです。天井の高い遊戯室には、シャンデリアが輝き、当時珍しかったドイツ製のピアノや110年間時を刻む時計があります。また、重要文化財の滑り台などもあり、人々の教育への心意気を伝えます。見物に来た人は「大事にいつまでも残して欲しいと思います」と話し、卒園生の男性は「わあ凄い作りやな、ここはと、きょうは思いました。小さい時はそんなこと全然気付かなかったですけど」と笑顔を見せていました。公開は、ことしの秋頃にも予定されています。

108よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/25(月) 22:20:21 ID:VdFLw80k0
野田藤ついに開花 宇和島から里帰り11年目
2011年4月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110425/20110425021.html

 太閤さんも見た野田藤が復活!−。

 「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」。鎌倉時代から和歌にその美しさを詠まれてきた玉川春日神社(福島区玉川2丁目)の野田藤。江戸時代に同神社から愛媛県宇和島市に持ち帰られた苗木が、2000年に“里帰り”して11年目の今年、初めて花を開かせた。本家・春日神社の野田藤は戦災に全焼しており、時空を超えた復活劇に地域住民は感激に浸っている。

 豊臣秀吉が千利休を連れて見物に訪れるほど栄華を誇った野田藤は、戦後ほとんど絶滅状態となった。1971年ごろから地域住民らによる接ぎ木など積極的な再生活動が展開され、現在は区内各地で花を咲かせ、区の花に認定された。

 宇和島市の「天赦園」から里帰りした苗木は、住民グループ「のだふじの会」幹事の広岡忠雄さん(72)を中心に丹精込めて育ててきた。

 神社はマンションに囲まれ、日照時間は短い。広岡さんは専門書を読み、地道に剪定作業を続けてきた。開花しているのを見つけた瞬間、「感激して涙が出た」と振り返る。

 野田藤は連日の気温の低さもあり、現在は3〜5分咲き。今週末には見頃を迎える予想で、満開時には70〜80センチの長さになる見込み。玉川春日神社総代の藤三郎さん(72)は「条件が悪い中で咲かすのは大変だった。今後は野田阪神駅前など公共性の高い場所の藤棚を咲かせていきたい」と話している。

109よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/27(水) 03:17:42 ID:9voTZc1M0
情報プラザ:大阪城天守閣復興80周年記念 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110426ddlk27040418000c.html

 ◇大阪城天守閣復興80周年記念「大阪城ファミリーフェスティバル2011〜奏でよう!踊ろう!日本を元気に!〜」
 5月3日(火・祝)〜5日(木・祝)11〜17時、大阪城天守閣前本丸広場特設ステージ(地下鉄谷町四丁目駅・JR大阪城公園駅徒歩15分)。高校生による和太鼓や吹奏楽、大道芸、よさこい踊り、歴史トーク&クイズなど。雨天中止。参加無料(天守閣入館は有料)。同天守閣(06・6941・3044)。

110よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/27(水) 03:36:58 ID:9voTZc1M0
■東大寺の瓦は「泉佐野産」
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110426114800451364.shtml

大阪府泉佐野市の遺跡から鎌倉時代の東大寺再建に使われたものと形や素材が同じ瓦が出土し、26日から府立狭山池博物館で特別展示されています。

 大阪府立狭山池博物館で26日から公開されている瓦は、縦42センチ、横34センチ、重さ7.5キロの巨大瓦です。

 府の教育委員会がおととし、泉佐野市東羽倉崎町の安松田遺跡を発掘調査した際に見つかったもので、大きさや瓦を固定する釘穴の位置、粘土の成分などが東大寺の境内から出土した瓦と一致したということです。

 「(瓦の)粘土の中に含まれている好物が一致したことがわかった。安松田遺跡で東大寺の瓦を焼いていた可能性が非常に高まった」(大阪府文化財保護課 三木弘主査)

 東大寺は、源平の合戦で1180年に焼き討ちにあい、その後再建されていてその際に岡山県や愛知県で作られていたことは知られていましたが、大阪で確認されたのは初めてだということです。
(04/26 12:35)

111よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/28(木) 00:55:06 ID:6i7wjvx20
河内長野「ふるさと学」スタート
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110427-OYT8T00061.htm

 河内長野市の小中学校で今年度から、子どもたちに郷土史を学んでもらう「ふるさと学」の授業が始まる。教諭らが教材として使うオリジナルの教科書「かわちながの物語」を作成。大化の改新後の国づくりに貢献し、同市出身とされる遣隋使・高向玄理(たかむこのくろまろ)など、歴史の節目ごとに、市ゆかりの人物やエピソードを取り上げており、市教委は「河内長野から見た歴史を子どもたちに伝えたい」と話している。

 授業は、小学5年生から中学1年生まで、3年間で計18時間を設定。これまでも郷土の産業や簡単な歴史を学ぶ授業はあったが、市内には国宝6点と重文77点があるほか、南北朝時代には一時期、同市に皇居があったことなどから、市教委は、さらに一歩踏み込んだ郷土の姿を知ってもらおうと「ふるさと学」を企画した。

 教科書はA4判、60ページ、オールカラーで、小中学校の教諭らが昨年4月から10か月間かけて作成。旧石器時代から現代まで4章19項目で構成し、写真やイラストをふんだんに使い、中学生の「ヒロトくん」と「ユウナちゃん」のキャラクターも登場してわかりやすく解説する。

 各章には「(幕末に尊王攘夷(じょうい)を唱えた志士らが集まった)天誅(てんちゅう)組も立ち寄った市内の宿場は?(答え・三日市宿)」「河内長野と弘法大師を結ぶキーワードは?(同・薬)」――などのクイズ集も設けた。巻末には簡単な日本史、世界史と比較した同市の年表も掲載している。

 市教委は「時代ごとの古里を知ることで、より歴史が身近に感じられるはず。子どもたちが、誇りと愛着を持つきっかけになれば」としている。

 1冊800円(税込み)。市役所や市内の主な書店でも販売する。問い合わせは同市教委(0721・53・1111)。

(2011年4月27日 読売新聞)

112よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/04/28(木) 19:52:58 ID:6HHEJf0.0
大阪城で「戦跡ウオーク」−園内に残る工廠・弾痕跡など巡る
http://kyobashi.keizai.biz/headline/914/

大阪城公園(大阪市中央区大阪城1)で4月23日、園内に残る戦跡などを巡るウオークイベント「戦跡ウオーク」が開催された。主催は日本セカンドライフ協会。

 現役を退いたサラリーマンらの「生きがい」づくりを支援するため、企業・団体を越えて発足した同協会。講演会や工場施設見学、旅行・散策などさまざまなイベントを企画している。

 今回は、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点だった大阪城近辺に残る戦跡を巡るツアーで、同協会関西地区運営委員の國司保夫さんと「ピースおおさか」(大阪城2)の常本さんらが企画した。講師に高校社会科教員の塚崎昌之さんを招き、砲兵工廠(こうしょう)跡碑や砲兵工廠化学分析場、中国製こま犬、弾痕の跡などを巡る。

 塚崎さんは、1905(明治38)年〜1945(昭和20)年の40年間に発行された新聞3紙を読破した知識を生かして、年70回ほどウオークイベントの講師役を務めているという。当日は雨が降る中約20人が参加し、第四師団司令部庁舎だった戦争史跡の下には太平洋戦争時に地下通路が掘られた、などの塚崎さんの説明に聞き入っていた。その後、参加者らは「ピースおおさか」で戦争展示物を見学した。

 参加者の坂本重貞さん(84)は「過去を振り返るのはちょっと抵抗があったが、進むにつれて懐かしく思った。ええ懐かしさではないけど…」と話す。「年とともに世間も狭くなってくる。現役時代は畑の違う人との付き合いはなかったから、元銀行勤めや製薬会社の人らと話すのは新鮮。これからも人間付き合いを大切にしたい」とも。

113名無しさん:2011/04/28(木) 20:37:45 ID:GVcGWAmQ0
旧第四師団司令部庁舎は、1931年に建てられました。
昭和天皇の御大典(御即位)記念として、大阪城天守閣復興が企図され、市民から
集まった寄付金(当時の金額で150万円)から、關一市長が80万円を使って司令部
庁舎を建設しました(大阪城天守閣復興費用は47万円)。これは、關一市長の英断
です。なぜならば、当時の大阪城の域は軍用地であり、一般市民は立ち入り禁止
だったからです。そこで、關一市長は司令部庁舎を建設して陸軍に供用する代わり
に、大阪城の域を市民に開放し、現在の大阪城公園の元を造ったのです。

戦後、GHQの指令を受けて、1948年に第四師団司令部庁舎は大阪市警視庁となり、
1954年にこれが廃止された後は大阪市警察本部が置かれましたが、1年後の1955年
に大阪府警察本部に吸収されて廃止されました。その後、この建物は大阪市立博物館
として、1960年〜2001年まで使われました。

東宝映画『ゴジラの逆襲』では、大阪市警時代のこの建物でロケが行われました。

114よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/01(日) 13:40:53 ID:KPBw2Ya60
まなびやの宝:/48 考古資料 府立泉大津高校 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110430ddlk27070239000c.html

 ◇OBら収集、地歴部の誇り
 府立泉大津高校(泉大津市)の考古資料室には、古墳時代の大型の船形埴輪(はにわ)(菩提池西遺跡)や珍しいひれ付き円筒埴輪(摩湯山古墳)など、同校OBらが収集した考古資料約100点が展示されている。イイダコ用のタコ壺(つぼ)(池上曽根遺跡)などユニークな遺物も。学校も七ノ坪遺跡という遺跡の上に建つ。

 所蔵資料は、展示されている他にコンテナ300箱以上があり、同校地歴部が整理を進めている。地歴部は、1948年に創部。50〜60年代にかけて、信太千塚古墳群や学校近くに広がる弥生時代の環濠集落、池上曽根遺跡などの発掘調査に参加。同遺跡の保存運動にもかかわるなど、地域の文化財調査や保存に大きな足跡を残してきた。

 現在は、発掘調査は行っていないが、学校のグラウンドで土器の野焼きを体験したり、京都や奈良へのフィールドワークを実施。府立弥生文化博物館と連携して、展示に参加するなど積極的に活動している。

 同部2年の財部真里那さん(16)は「すごい遺物がたくさんあるのは、自慢。今後は発掘体験もしてみたい」。日向将希君(16)は「土器の模様や形を眺めていると、昔の人がどうやって作ったのか興味がわいてくる」と語る。顧問の平島将史教諭(51)は「今後は、OBや地域の方々との交流を通して、さらに活動を深めていければ」。

 考古資料室は、予約制で一般公開している他、同校ホームページでは、所蔵資料の一部を紹介している。詳細は、同校(0725・32・2876)。【林由紀子】

115よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/03(火) 02:14:27 ID:mV2ssRAI0
2011年5月 2日
菩薩25体絢爛に「万部おねり」平野の大念佛寺
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/02/20110502-052376.php

 大阪の春の風物詩「万部(まんぶ)おねり」が1日、大阪市平野区の融通念佛宗総本山大念佛寺で始まった=写真。5日までの毎日、阿弥陀経の流れるなか、観世音菩薩はじめ25体の菩薩による絢爛(けんらん)豪華なおねりが繰り広げられる。

 「万部おねり」は、600年以上の歴史をもつという同寺の伝統行事で、大阪市指定無形民俗文化財。今年は例年の先祖供養や平和祈願などとともに、東日本大震災の物故者追善供養と復興祈願も行われている。

 この日は雨天となり、特設のおねり回廊でなく、本堂の廊下での開催となったが、観世音菩薩を先頭に、普賢菩薩など金色に輝く25体の菩薩が次々と姿を現すと、その壮麗さに参詣者から歓声があがった。

116よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/03(火) 02:37:08 ID:mV2ssRAI0
GWに「大阪城ファミリーフェス」−映画「プリンセス トヨトミ」パネル展も
http://kyobashi.keizai.biz/headline/916/

 大阪城天守閣前本丸広場(大阪市中央区大阪城1)で5月3日〜5日、「大阪城ファミリーフェスティバル2011」が開催される。

 今年で7回目となる同イベントは毎年ゴールデンウイークに開催。例年ジャグリングやけん玉などの大道芸や高校生らの和太鼓、吹奏楽、さまざまなチームが参加するエネルギッシュな「よさこい踊り」などが行われる。

 今年は大阪城復興80周年を祝うイベントとして「大阪城を知ってもらおう」と大阪城の歴史にまつわるトークショーやクイズなどを用意し、大阪市中央区のキャラクター「ゆめまるくん」も登場する予定。天守閣では5月28日公開の大阪を舞台にした映画「プリンセス トヨトミ」のロケ風景や映画のシーンなど収めた写真パネルも展示する。

 今回は、東日本大震災を受けた支援活動を行う内容に変更。在阪民放4局のアナウンサーらが垣根を越えて募金活動を行うほか、関西演芸協会による義援金活動、演芸イベントなども予定する。

 開催時間は11時〜17時。映画「プリンセス トヨトミ」ロケ写真パネル展は6月30日まで。

117名無しさん:2011/05/03(火) 13:52:47 ID:B2uRLrUQ0
大阪史の本は少ないというのが現状です。もっと書かれ、出版されるべきです。
特に中世大阪史(中世というヨーロッパ史の区分を日本史に使うのは誤りですが)
については、もっと知りたいというのが私の願いです。

一国の国民が身につけるべき基本的素養は、自国の歴史と言語です。これは、
一都市の人間についてもいえることです。自都市の歴史と方言を知ることは、
最低条件でありましょう。

118名無しさん:2011/05/03(火) 14:21:26 ID:B2uRLrUQ0
>>116
奈良・・・『鹿男あをによし』(TVドラマ。2008年)
京都・・・『鴨川ホルモー』(映画・演劇。2009年)
大阪・・・『プリンセストヨトミ』(映画。2011年)

これで、万条目学の三部作の映像化が揃いましたね。
『プリンセストヨトミ』も発想が面白いと思います。地下にある「大阪国」には
国会議事堂もあるのですね。

なお、映画『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年。東宝)では、1954年のゴジラ
による襲撃で、首都が東京から大阪に移り、「大阪都」になっています。国会議事堂
が、大阪城の隣に画面合成されているシーンがあります。

119よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/03(火) 15:48:31 ID:bqeVgzg20
菩薩や「輿」粛々と 大念仏寺で「万部おねり」
2011年5月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110503/20110503032.html

 大阪市平野区の大念仏寺(倍巌良舜法主)で毎年5月に行う法要「万部おねり」が5日まで開かれている。法要のクライマックスでは、観世音菩薩など25の菩薩や73年ぶりに修復された「万部輿(こし)」が本堂の周りを練り歩く。

 法要は1349年、法明上人が菩薩の面、衣装をしつらえ、極楽浄土への往生を試みる儀式を執り行ったことが起源とされ、1769年には阿弥陀(あみだ)経1万部を読誦(どくじゅ)する「万部会」の法会も加わった。

 本堂の周りに設けられた来迎橋と呼ばれる通路の上を、お稚児さんや信徒、僧侶扮(ふん)する菩薩たちが厳かな雰囲気で渡る。法要では多くの僧侶らが阿弥陀経を読誦し、東日本大震災の追善と復興祈願も行った。

 会社員時代、仕事で近くによく来ていたという兵庫県の折戸満さん(83)は「河内地域ではよくおねりをするが、ここのは規模も大きく衣装も立派。輿はほかの場所でも見たことがなくて興味深かった」と話していた。

120よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/04(水) 06:14:07 ID:wUZnZjt60
すべてに感謝のざきまいり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110503-OYT8T00773.htm

大東で8日まで

 大東市の野崎観音(慈眼寺)で恒例の「のざきまいり」が行われ=写真=、伝統芸能の奉納などで参拝客を楽しませている。8日まで。

 世の中のすべてのものに感謝をささげる「のざきまいり」は江戸時代から盛んになり、近松門左衛門(1653〜1724年)の文楽などにも登場。今年も1日から、境内で和太鼓の演奏や落語、詩吟の奉納、大道芸などが披露され、参道には露店が並ぶ。

 家族3人で参拝に訪れた同市内の男性(38)は「3歳の娘がこれまで健康でいられたことに感謝するために来ました」と話していた。

 8日午後2時からは「無縁経法要」が本堂で営まれる。催しなどの詳細は、同寺のホームページ(http://www.nozakikannon.or.jp/)で。

(2011年5月4日 読売新聞)

121よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/05(木) 16:56:00 ID:Qo5beYBM0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社御鎮座千八百年記念大祭 5月12日(木) 11:00

同 舞楽   14:00 於:石舞台  奉仕:天王寺楽所雅亮会

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

***********************************

 住吉大社へ行きましたら『御鎮座1800年』の文字がありましので紹介を。
 今日の住吉大社は穏やかな天気で、何組かの結婚式が執り行われていました。
 観光地化されていない神社らしく、ノンビリしているけども参拝者は絶えずに来られるといういい感じでしたねぇ。
 外人さんも来てらっしゃいましたが、神式の結婚式は珍しいらしく写真を撮りまくっていました。

 大阪というのは1800年もの歴史を誇るものがあるかと思えば、そこから一時間も掛からない場所に最新の駅やビルが林立しているのが堪らない魅力ですね。
 何でもあって何でもハイレベルなのが大阪、その『魅力的な大阪 イコール 魅せる大阪』に取り組んでいるな、と感じたのが南海電鉄住吉大社駅。
 二年前に来た時と比べて駅内部の壁や高架下のショップゾーンが美しく整備されていました。
 南海さんも決して経営は楽ではないでしょうが、こういう地道なしかし効果大な取り組みは続けてほしいですね。

122よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/05(木) 17:15:57 ID:Qo5beYBM0
2011年5月 5日
池上曽根史跡公園10周年フォーラム
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/05/20110505-052435.php

 大阪府の和泉、泉大津両市にまたがる弥生時代最大級の集落遺跡「池上曽根遺跡」の史跡公園が開園10周年を迎え、和泉市の府立弥生文化博物館で4日、記念フォーラムが開かれた。弥生時代の世界観を塗り替える大発見が相次いだ同遺跡。和泉市教委の乾哲也さんは「弥生中期後半になると建物が直角線上に配置される点から、大陸の文化が同遺跡に伝わっていた」との大胆な推理を発表。集まった考古学ファンは熱心に聞き入っていた。

123名無しさん:2011/05/06(金) 11:05:32 ID:WLRvktcQ0
>>118
キン肉マンでは大阪城の地下は迷宮で、別門があるということになってました。

124よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/06(金) 17:49:03 ID:nGrapj5Y0
「赤備え」勇壮に 志紀長吉神社幸村の祈願祭
2011年5月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110505/20110505077.html

 大阪市平野区長吉長原2丁目の志紀長吉神社(鈴木理美宮司)で4日、大坂の陣で活躍した武将、真田幸村の「戦勝祈願祭」が行われた。大阪城甲冑(かっちゅう)隊(河井計実理事長)らによる「赤備え」のパレードのほか、軍旗と刀の奉納式典などが執り行われた。

 同神社は大坂夏の陣に参戦した幸村が、死の直前に戦勝祈願をしたゆかりの地。その際に奉納した軍旗は今でも社宝として保存されている。

 祈願祭は幸村の足跡を広く知ってもらおうと、昨年から行われている。甲冑隊の隊員など約40人が大坂の陣の真田軍にならい、真っ赤なよろいを身にまとって登場。同神社の参詣道を約30分かけて練り歩き、境内で鈴木宮司による神事に臨んだ。

 幸村から数えて14代の子孫で東京都在住の真田徹さん(62)も見学に訪れ、「軍旗を奉納したゆかりの地があると初めて知った。400年たってこのような催しが開かれる幸村は幸せ者だと思う」と喜んでいた。

125よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/08(日) 10:39:23 ID:qvs8XGU20
先生ら制作「歴史たんけん堺」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110508-OYT8T00060.htm

 歴史教育について研究する堺市内の教諭らが、旧石器時代〜現代の堺の主な歴史をまとめた冊子「歴史たんけん堺」(B5判、70ページ)を出版した。オールカラーで写真や図をふんだんに用い、各時代のテーマごとに見開きの2ページに収めるなど読みやすく仕上げた。

 「行基の大事業とふるさと堺」「堺の学校のはじまり」「市町村合併と泉北ニュータウン」など28章で構成し、古墳や戦争遺跡、伝統産業などを探訪できるマップをつけた。

 学校の副読本として使うことも意識して、遺跡の場所を現在の地図に記した。例えば、約1万年前の石器が見つかった堺市北区の東浅香山遺跡が、今は大型商業施設になっていることがイメージできるように工夫した。

 執筆したのは、小中学校や高校の教員らでつくる歴史教育研究団体「大阪歴史教育者協議会堺支部」の5人。代表の元小学校教諭小松清生(すがお)さん(63)は「文化や産業が息づく堺の歴史は大変豊か。堺で生きてきた人たちの暮らしがわかるので、読んだ人は歴史好きになってくれるのでは」と話す。

 2000冊発行。1冊1000円で堺市内の主な書店で販売している。問い合わせは小松さん(080・2444・2098)。

(2011年5月8日 読売新聞)

126よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/08(日) 10:52:03 ID:qvs8XGU20
>>121

阪堺電軌 701形・601形に「住吉大社 ご鎮座1800年」幕
http://railf.jp/news/2011/05/07/201100.html

住吉大社は,今年2011年に御鎮座1800年となり,2011(平成23)年5月12日(木)には『住吉大社御鎮座千八百年記念大祭』が行なわれます.
 これにあわせて,阪堺電気軌道では,701形と601形の一部車両に,「住吉大社 ご鎮座1800年」幕を掲出して運転しています.
 この幕には,住吉大社境内に架かる橋(通称:太鼓橋)が描かれています.

127よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/08(日) 12:47:54 ID:qvs8XGU20
色とりどり フジ咲き誇る 中央区・難波宮跡公園
2011年5月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110508/20110508024.html

 大阪市中央区法円坂1丁目の難波宮跡公園のフジの花が見ごろを迎えている。数年前から大阪文化財研究所の職員らが剪定(せんてい)などを行っていたところ、ことし見事な花を咲かせ、芳香を漂わせている。

 フジの花は同公園の北西の門にある「八角殿」が1983年に遺構表示された時に、8本、植えられたもの。しかし、長年、手入れがされていなかったために、枝葉が茂りすぎて春に花が咲くことはほとんどなかった。

 数年前、専門家からフジの育成法を聞いた京嶋覚・総務企画課長(54)が、同研究所の徳井喜代治副参事(65)に依頼。公園管理を行っている業者らとともに年3回の剪定など手入れを始めた。

 当初は花が咲くことも少なかったが、ことしになって8本全てが満開に。紫や白、薄桃色など色とりどりの花が咲き誇っている。徳井副参事は「散歩に来た人が近づいて見てくれる。見事に花がついたのはうれしい」と喜んでいる。

 京嶋課長は「難波宮は大化改新後に中臣鎌足(後に藤原氏となる)らが造営した都。鎌足と中大兄皇子が大化改新のクーデターの密談をしたのがフジの下であったとされ、藤原氏の起源になった。そんなゆかりのある花が多くの人が立ち寄るきっかけになれば」と期待を寄せている。

128よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/10(火) 19:53:23 ID:POE.Zl6Y0
2011年5月10日
13日「人形祭」愛用品、大阪天満宮に奉納
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/10/20110510-052580.php

 節句人形を製造している関西の企業20社でつくる「関西節句人形工業協同組合」が13日、愛用の人形を奉納する「人形祭」を大阪市北区の大阪天満宮で初めて開催する。

 「小町人形」(大阪市東淀川区)の社長で実行委員長の元賀圓治さんは「愛用の人形は捨てられないもの。処理に困っている方は、この機会を利用してほしい」と呼びかけている。

 大阪ではこれまで41年間、府人形問屋組合が四天王寺(同市天王寺区)で人形供養を行ってきたが、「製造者の立場から最後まで人形の面倒をみたい」という思いで企画。大阪にゆかりの深い同天満宮の協力を得て実施が決まった。

 会場では午前9時から午後3時まで奉納する人形を受け付け、午後3時から祭典を行う予定。境内では各社が製造した新しい節句人形やひな人形、市松人形なども展示されるほか、人形を作る際に出るはぎれや、はぎれで作った小物などを販売し、売上金の一部を東日本大震災の被災者への義援金にあてるという。

 奉納する人形の対象は、節句人形などのほか、フランス人形、ぬいぐるみなど人形本体のみで、受付料は1件につき何体でも3千円(ケースなどは不可)。問い合わせは小町人形(電話06・6349・2076)へ。

129よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 09:07:26 ID:POE.Zl6Y0
継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪
2011.5.11 02:11
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110511/osk11051102110001-n1.htm

 祈願のために奉納される白い馬「神馬(しんめ)」。住吉大社(大阪市住吉区)で、約25年間、神馬を務めてきた白雪に代わり、新たに2歳の雄の子馬が白雪の名と神馬を引き継いだ。

 住吉大社の神馬は代々、純和種で真っ白な毛並みを持つアルビノ種とされる。頭数が少ない珍しい馬だ。「神馬が衰えると、次の神馬が必ず見つかる」という言い伝えがあり、待望の子馬が見つかり、関係者は胸をなでおろしている。

 住吉大社では「正月に白馬を見れば邪気を払う」という信仰から白馬(あおうま)神事などに神馬が参加している。

 先代の白雪は昭和61年生まれ。高齢となり足腰が弱り神事への参加が困難になっていたが、後継探しが難航。今年1月、ようやく北海道で見つかった。新たな神馬は体長1メートル50センチ、体重300キロ。9日に命名式を行い、めでたく神馬に。現在、境内の「神馬舎」で過ごし、16日まで参拝者も対面できる。その後は和泉市の牧場で先代の白雪とともに暮らしながら神事に参加する。

 高井道弘権宮司は「鎮座1800年にあわせて新しい神馬が見つかったのは不思議としか言いようがない。大切にしたい」と話している。

130よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 12:29:24 ID:u6OcHqbg0
2011年5月11日
「ニッポン猪飼野」実態に迫る 郷土史家ら論文など集め本出版
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/11/20110511-052620.php

 大阪市生野、東成両区にまたがる地域は長らく猪飼野(いかいの)と呼ばれた。かつては「日本国猪飼野」の住所表記で朝鮮半島から郵便が届いたとされ、最近ではコリアタウンとして人気を博す。そんな特徴ある街に愛着を寄せる住民や郷土史家らが、著名人らのエッセーと論文などを集めた本「ニッポン猪飼野ものがたり」を刊行した。古代からの歴史を探求し、地域にゆかりの著名人番付で風土をひもとくなど、多角的な視点で地域の実態に迫っている。

 編集したのは、郷土史家らで組織する「猪飼野の歴史と文化を考える会」。エッセーや研究論文のほか、インタビューなども含めて約50編を掲載。監修を担当した上田正昭・京都大名誉教授、作家の玄月(げんげつ)氏、詩人の金時鐘(キム シジョン)氏らのほか、郷土史家、ジャーナリストらが原稿を寄せている。

 「わたしの『猪飼野著名人番付』」は、猪飼野で生まれ育ち、現在も居住する同会会長の郷土史家、足代(あじろ)健二郎さんが作成。平成20年に「著名人が大勢いるということを世間に思い切り自慢してやろうと、面白半分に作った」原稿と番付を若干修正し、再録した。

 番付の両横綱は、松下幸之助と司馬遼太郎の両氏。国文学者の折口信夫氏や歌手の田端義夫氏(ともに大関)、パントマイムのマルセ太郎氏(関脇)らも“ランクイン”し、土地にまつわるそれぞれのエピソードを紹介している。

 松下、司馬両氏については、それぞれ「パナソニック発祥の地・猪飼野」「司馬遼太郎・以前」として独立した論文を掲載。司馬氏が幼少の一時期を過ごした地が「鶴橋本通り」で、初めて新聞記者になったのは猪飼野にあった「新世界新聞」とする説を展開している。

 また、「血と骨」などの作品で知られる作家、梁石日(ヤン ソギル)氏を東京の自宅まで訪ねて行ったインタビューを掲載。猪飼野での文学修業や、小説のモデルにした父親の思い出などを語っている。

 このほか、日本書紀に記されている地名・猪甘津からの古代の歴史をつづった「猪飼野をめぐる考古学」、「焼肉は猪飼野からはじまった」「猪飼野ヘップサンダル小史」など、歴史や文化、産業といった多角的な切り口で迫った猪飼野の論文を掲載している。

 足代さんは「古代史への興味が郷土史へ発展し、いつしか猪飼野へと特化していった。古代からの多彩な顔をもつ街を、多角的に描きたかった」と話している。

 A5判、368ページで、価格は2800円(税別)。発行は批評社。問い合わせは足代さん(電話090・5018・8995)。

猪飼野(いかいの) 
大阪市生野区北西部と東成区南西部にまたがる地域が、かつてそう呼ばれた。日本書紀に、この一帯を指す「猪甘(いかい)津」の記述があり、古代には朝廷に猪を献上する猪甘(飼)部が居住したとされる。大正時代に朝鮮・済州島〜大阪の航路が開設されたことから移住が進み在日コリアンの集団居住地として定着。昭和48年の町名変更で猪飼野の地名が消えた。

131よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/11(水) 18:22:05 ID:u6OcHqbg0
【老舗そば屋の碑】 江戸のツルッ 大阪生まれ
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201105090053.html
 そばは東京、大阪はうどん。そんなイメージ、ありますよね。でも実は、江戸の老舗そば屋のルーツが大阪にあるって知っていますか? その「証拠」が大阪市西区新町2丁目の公園に立つ「ここに砂場ありき」と書かれた石碑。子どもが遊ぶ砂場じゃありません。これこそ、今に続く江戸のそば屋で最も長い歴史を持つ「砂場」のことなんです。

 起源は大阪城築城の時にさかのぼる。この辺りは砂利などの資材が置かれ「砂場」と呼ばれていた。「和泉屋と津国(つのくに)屋という2軒のそば屋が『砂場』の呼び名で繁盛してたんです」。そう教えてくれたのは遠く離れた東京都港区にある「虎ノ門砂場」の5代目稲垣隆一さん(72)だ。「そばがはやり始めた江戸に和泉屋ゆかりの者が移り、砂場の暖簾(のれん)を掲げたと聞いてます」。稲垣さんは現在136店が加盟する暖簾会「砂場会」の会長でもある。

 「蕎麦(そば)屋の系図」などの著書があるそば研究家の岩サキ信也さん(サキは「崎」の右上が「立」)によると、様々な人が集まった江戸は職人ら独身男性も多く、つるっと食べられるファストフードとしてそば屋は広がった。中でも有名な「糀町七丁目砂場藤吉」から、1872(明治5)年に暖簾分けされたのが今の虎ノ門砂場なのだそうだ。

 取材の日も70代とおぼしき男性3人が銚子(ちょうし)を傾け、「あの人はねえ、いい女だったよ」なんて話してる。昼間からそば屋で一杯というのが何とも乙だ。勝海舟や山岡鉄舟もなじみだったというから、同じように楽しんでたのかも。自分も一つと、もりそばを食べてみると、細くて白いそばに甘めのつゆがよく合う。「そばは職人に打たせても、つゆは代々店主が作る」と稲垣さん。「大阪発祥の味が江戸の食文化として花開いた、いわば東西合作だと思います」

 大阪のそば屋誕生400年を記念し、大阪府麺類食堂業生活衛生同業組合が1985年に建てたのが、あの石碑だ。「原点は大阪ってこと。誇りを感じます」と組合の前理事長で「民芸そばしのぶ庵(あん)」(大阪市北区)の大橋エイ二さん(エイは金へんに「英」)(73)は言う。

 最近は大阪の若手も老舗に負けてない。「なにわ翁(おきな)」(大阪市北区)の勘田拓志さん(40)は28歳で店を継いだ時、ほれ込んだ店で修業し、機械製麺からすべて手打ちに切り替えた。練ったそば粉を伸ばす手さばきはよどみなく、切り終えた麺は厚みも幅も1.3ミリほどにそろう。

 麺をかむと、心地よい歯ごたえとともにそばの香りが口の中に広がり、かつおだしをきかせたつゆがそばを引き立てる。さすがミシュランで2年連続星を獲得した味だ。「熱心な若手が増え、大阪のそばはレベルアップしてる。東京の人は粋(いき)を重んじるけど、味は大阪の人の方が厳しいと思いますから」と勘田さん。

 そうそう、やっぱり食は大阪ですよね。そのうち、そばの本場と言われる日がやってくるかも!?(石村裕輔)

    ◇

■推薦

 旅行作家 高木美千子さん(77)

 東京の人も感動してますよ  

 ちょっとのつもりで東京から関西に引っ越したはずが、もう37年。グルメ紀行をたくさん書いてきましたが、関西の味ってやっぱり奥行きがありますよね。関西人の味覚ってすごいと思います。もちろん行きつけのそば屋も何軒か。脱サラ組や2代目の若手がけっこう頑張ってて、東京の人を連れて行っても、おいしいって感動してますよ。いまや東京のそばをしのぐ勢いじゃないでしょうか。

    ◇

 〈メモ〉 虎ノ門砂場=東京都港区虎ノ門1の10の6、電話03・3501・9661。なにわ翁=大阪市北区西天満4の1の18、電話06・6361・5457。

132よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 06:11:27 ID:u6OcHqbg0
蓮如上人の功績「四幅御絵伝」公開 久宝寺御坊顕証寺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110512-OYT8T00092.htm

 浄土真宗本願寺派・久宝寺御坊顕証寺(八尾市久宝寺)が、同寺を建立した蓮如上人の功績を描いた「蓮如上人四幅御絵伝(しふくごえでん)」を13年がかりで完成させ、11日の河内蓮如忌法要で初公開した=写真=。

 近松照俊住職(61)が発案し、東西本願寺の学者らが絵柄を話し合い、京都の宮絵師・安川如風氏に絵伝の製作を依頼した。絵伝は4幅の掛け軸で、1幅の大きさ縦2・1メートル、横1・4メートル。蓮如上人が誕生から成長していく様子のほか、村人に説法したり、荼毘(だび)に付され阿弥陀如来となったりする場面などが描かれている。吉野や堺の港などの風景も登場する。

 この日、本堂の余間に絵伝がかけられると、門徒ら約300人が手を合わせ、完成を喜んだ。同寺は今後、法要に限り公開するという。近松住職は「念願の絵ができあがってうれしい。たくさんの人々に蓮如上人の心が伝われば」と話していた。

(2011年5月12日 読売新聞)

133よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 06:15:13 ID:u6OcHqbg0
住吉大社御鎮座千八百年記念大祭 5月12日(木) 11:00
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

同 舞楽   14:00 於:石舞台  奉仕:天王寺楽所雅亮会

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。


■奉祝行事
5月12日(木) 花柳流日本舞踊 於:第一本宮  12:30〜 
 花柳與桂一門による華麗な日本舞踊が奉納されます。(主な出演 花柳與桂・花柳與)

134名無しさん:2011/05/12(木) 18:23:47 ID:K5kJDM.c0
>>129
>継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪

アルビノ種が尊重されると聞いて、
ファイブスターストーリーズを思い出しました。
主人公がそれなので。
(名がアマテラスなのは偶然??)

マンガアニメに興味のない方、すみません。

135よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 19:57:08 ID:rfNnB/Go0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/206 本町橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110512ddlk27070411000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇「大阪最古」の貫禄 川の流れは秀吉時代のままに
 西町奉行所跡を後にして、東横堀川へと戻る。さきの天野屋利兵衛の碑の南、高速道路の出口付近に井原西鶴の文学碑が建っている。1972年に大阪北浜船場ライオンズクラブが建てたもので、「日本永代蔵」の冒頭の一節が刻まれている。

 「金銀こそ命の親と呼ぶべきものだ。だが、人の命はどうなるかわからない。死んでしまえば金銀も役に立たないが、残しておけば子孫のためになる。金銀の力でかなわないことは天下に五つしかない」

 大要、こんなところだろうか。経済小説の元祖だけあって、冒頭からお金のありがたさを説く。ちなみに、金の力でかなわぬ五つに「生・老・病・死・苦」を挙げている。いずれも生き死ににかかわることで、これ以外は金でどうとでもなる、ということだ。それもこれも、よっぽどの大金持ちの話。わたしらにゃ関係ないわな。

 なんて、くだらぬことを考えていたら、碑の陰から猫がじーっとこっちを見ていた。なんだか頭の中を見透かされてるようで、早々に退散。

 大阪案内人の西俣稔さんが、安土町の町名表示板を指して「近江の安土の人が移住したからなんですが、そもそも、安土のいわれは……」。もともとは目賀田山という土地だったが、織田信長はこの地名を嫌った。近くに安土という名の寺を見付け、土地を安んじるとは天下統一に通じると、自らの力を誇った城に安土城と名付けた、という。「信長の支配がなければ、ここは目賀田町になってたんです」

    ◇

 しばらく南へ歩けば本町橋だ。「現存する大阪最古の橋です」と西俣さん。1913(大正2)年に架けられた。ルネサンス風の石造りの橋脚など、なかなかに趣があって、貫禄を感じる。

 そもそもは、東横堀川が開削された時に架けられたとされていて、江戸時代は大坂に12しかなかった、幕府が直接管理する公儀橋だった。「北御堂(西本願寺津村別院)の参道としてにぎわってました」という橋は、今は本町通となっていて、ひっきりなしに車が行き来する。

 本町橋の上で足を止めた西俣さん、東横堀川の下流(南側)を眺めて、「川が左側に曲がってるのがわかるでしょ。これが本町の曲がり。江戸時代から、そう呼ばれてるんです」。確かに、流れが大きく湾曲している。

 「豊臣秀吉が1585年に東横堀川を開削した時、まっすぐに開削すると、浄国寺というお寺にぶちあたってしまうので、秀吉が『寺までつぶすな』と命じ、お寺を避けて曲がったという説があります」

 川の上を阪神高速環状線が通っており、高速道路も川の流れに合わせてカーブしている。「高速を通るドライバーがここでハンドルを切るわけは、秀吉にあるんです。そう考えたら、今と昔、420年以上の時のつながりを感じますね」

 そこまで考えてハンドルを切ってるドライバーがどれくらいいるか。歴史を知れば、見慣れた風景も違って見えてくる。【松井宏員】

136よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 19:58:46 ID:rfNnB/Go0
2011年5月12日
住吉大社1800年 大祭1800人参列
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052683.php

 住吉大社(大阪市住吉区)で12日、神功皇后が住吉大神を祭った鎮座から1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。

 本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。

 住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神を祭り創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。

137よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 20:01:17 ID:rfNnB/Go0
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録目指し 橋下知事ら本部会議
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052682.php

 世界文化遺産の国内候補「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録を目指し、大阪府の橋下徹知事ら関係自治体首長による「登録推進本部会議」の初会合が12日、大阪市住之江区の府咲洲庁舎で開かれた。平成27年の登録実現に向けた最短のスケジュールなどが確認された。

 会長に就任した橋下知事は「世界遺産は京都にも奈良にも和歌山にもあるが大阪にだけない。登録に向けともに頑張りましょう」とあいさつ。各市が検討しているガイダンス施設建設についても「府でも予算を組んで応援したい」と意気込みを示した。

138よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 20:03:16 ID:rfNnB/Go0
■推進会議 仁徳天皇陵などを世界遺産へ
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110512111300455462.shtml

 大阪・堺市にある仁徳天皇陵などの古墳群の世界遺産を目指す会議が12日発足し、5年後の登録に向けて景観整備やPR活動を進めていくことなどが話し合われました。

 会議には古墳群のある地元の市長のほか、大阪府の橋下知事も参加しました。

 仁徳天皇陵や応神天皇陵などおよそ90基の古墳が集まる百舌鳥・古市古墳群は、去年10月に世界文化遺産の暫定リスト入りを果たし、大阪初の世界遺産実現に橋下知事も期待を寄せています。

 「京都・奈良・兵庫・和歌山も世界遺産があるが、大阪だけ無い。なんとか大阪に世界遺産を実現したい」(大阪府 橋下徹知事)

 ただ、周囲で宅地開発が進み「景観がそぐわない」という指摘もあり、会議では今後、5年後の登録を目指して景観整備やPR活動などをする予定です。
(05/12 12:36)

139名無しさん:2011/05/12(木) 20:25:35 ID:6V189dAY0
鳥取も徳島も
きっとメディアには紹介されない遺産があるはず

大阪が通ったあとで良いので
広域連合の他県にも協力してくれるとありがたい。

140よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/12(木) 21:35:06 ID:rfNnB/Go0
古墳群 世界遺産へ推進本部
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005819681.html

「仁徳天皇陵」として宮内庁が管理している古墳を含む大阪の「百舌鳥・古市古墳群」をユネスコの世界遺産に登録しようと、大阪府が地元の3つの市とともに、きょう推進本部を設置しました。
「百舌鳥・古市古墳群」には、堺、羽曳野それに藤井寺の3つの市にまたがって大小87の古墳があり、去年、文化庁の文化審議会の審議を経て、世界遺産への登録候補の暫定リストに記載されました。
大阪府の咲洲庁舎で開かれた推進本部の初会合には、府と地元の3つの市の代表が出席し、橋下知事が「世界遺産登録まであと一歩まできている。府と市が一丸となって登録の実現に向けてがんばりたい」と述べました。
推進本部は平成27年の登録を目指し▼登録に向けた推薦書の作成などを進めるほか▼英語やフランス語など5か国語のリーフレットを作成したり、国際シンポジウムを開いたりして、情報を発信することにしています。

05月12日 15時55分

141よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 06:16:02 ID:rfNnB/Go0
海の神へ神楽の舞 住吉大社1800年大祭、團十郎さんら1800人参列
2011.5.12 12:28
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110512/art11051212340002-n1.htm

 住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。

 本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽や月、松などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が、平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。

 住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神をまつり創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。

 24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。

142よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 06:18:55 ID:rfNnB/Go0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月13日(金) 住吉能  於:吉祥殿  18:00〜  ※前売7,000円 当日8,000円
 大槻能楽堂による能「翁」・狂言「末広がり」・半能「高砂」が奉納されます。
清元流浄瑠璃・三味線  於:第一本宮  15:00〜

143名無しさん:2011/05/13(金) 06:46:30 ID:dvmzlZlE0
実際の歴史はどれくらいなんでしょうね。

大和系でも出雲系でもないようだから
ひょっとすると現存する神社の中では最古ということもありうるのでしょうか。

144よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 19:18:34 ID:HK.8nYc20
住吉大社:伝統守り先人に敬意 鎮座1800年、1800人参列し記念大祭 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110513ddlk27040342000c.html

 「すみよっさん」で親しまれ、海の神を祭る住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれた。約1800人が参列し、真弓常忠宮司は「伝統を守り伝えた先人に敬意を表したい」とあいさつした。

 住吉大社は211年、住吉大神がこの地に鎮座して創建されたとされている。この日は、天皇陛下の御幣帛(ごへいはく)(神前に供える物)が国宝の第一本宮に納められたほか、巫女(みこ)が舞を奉納した。

 東日本大震災の影響で祝賀行事の中止も検討されたが、「関西から日本を元気付けることにもなる」と判断し、開催を決めたという。祝賀行事は24日まで。能の披露、稚児(ちご)行列などを予定している。【山田尚弘】


「すみよっさん」と共に 住吉大社1800年大祭
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513021.html

 鎮座1800年の記念大祭が12日開かれた大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)。大祭には、歌舞伎俳優の市川団十郎さんら約1800人が参列し、いにしえから続く「すみよっさん」の節目の年を祝った。

 住吉大社は神功皇后摂政11年の年である211年に鎮座したと伝えられる。本殿は「住吉造」と称せられる古代の様式で造られ、国宝に指定されている。毎年、5月に創立を祝う神事が行われている。

 大祭では、真弓宮司が祝詞を奏上し、8人のみこが舞や神楽を奉納。式典の後には創立を祝う「卯(う)の葉神事」の舞楽や花柳與桂(よか)社中による日本舞踊の奉納も行われ、祝祭に花を添えた。

 真弓宮司は「住吉大社の歴史は大阪の歴史と共にある。海上守護の神様として親しまれ、まさに水都大阪の守護神。浪速の心のふるさとというべき当社が節目の年を迎え、預かる立場として重責を感じている」と話していた。

 奉祝行事は、13日の住吉能や15日の稚児社参(行列)など24日まで行われる予定。

145よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/13(金) 19:21:33 ID:HK.8nYc20
天神祭の奉納花火は7月25日 協賛金一部を義援金に
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513022.html

 日本三大祭りの一つに数えられる「天神祭」の実行委員会の初会合が12日、大阪市北区の天満宮会館で開かれた。本年度の行事計画として7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、奉納花火を斎行することを決めた。奉納花火の個人協賛金の一部が、東日本大震災の義援金に充てられる。

 同祭渡御行事保存協賛会の役員をはじめ、大阪天満宮の寺井種伯宮司、氏子総代ら関係者約70人が出席した。

 冒頭、あいさつに立った同実行委員会の京極俊明委員長は、東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を表すとともに「自粛ムードもあったが、頑張ろう日本の合言葉のもと、経済の活性化の展開も見られる」と訴え、寺井宮司も「祭りを斎行させていただきたい」と呼び掛けた。

 会合では陸渡御や船渡御などの行事計画が承認された。奉納花火は25日夕に大川沿いの造幣局東側と対岸の桜宮公園の2カ所で行い、計3千発を打ち上げる。昨年、奉納花火の個人協賛は1発5千円で受け付けていたが、今年は5500円とし、500円が東日本大震災の義援金に充てられる。

146名無しさん:2011/05/13(金) 20:02:37 ID:JDOi1VM.0
>>143
創建が非常に古い神社は、実際の歴史は不詳というのが事実です。神話上の人物
が創建者にされているのが特徴です。

ひとつ言えることは、神道は原始的なアニミズムの宗教であり、自然物が御神体です。
三輪山を御神体とする奈良の大神神社などはこれを今に継承しており、拝殿はあっても
本殿はありません。

147よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 00:03:40 ID:HK.8nYc20
非常に古い歴史を誇る大阪。
今、灯り煌く超高層ビルもその悠々たる歴史の流れの一部であります。

住吉大社創建1800年、という歴史がありながら、今も成長を続ける大都会・大阪らし話題です。


「キタ」エリア写真コンテスト−入選作を「うめきた」工事現場に展示
http://umeda.keizai.biz/headline/1055/

 芝田商店会と大阪市北区活性化協会が「キタ」エリアの風景写真を募集した「キタの、むかし・いま・みらいを、感じる写真コンテスト」入選作品が決定し、5月9日より「うめきた」の工事現場仮囲いフェンスに作品が展示されている。

 昨年より地域活性化のための事業を検討してきた芝田商店会、大阪市北区活性化協会、大阪市立大学大学院創造都市研究科の3者。芝田商店街のある梅田周辺は、5月4日に開業した大阪ステーションシティや建て替え工事中の阪急百貨店、開発中の「うめきた」など、大規模再開発事業により街が変化していくことから「そうした風景を写真に残したいという思いから、地域活性化を兼ねて誰もが参加できる写真コンテストを開催しよう」と作品を募集した。

 作品は3月21日〜4月25日の約1カ月間、メール応募のみで受け付け。高校生から60代まで幅広い層から約500点の応募があった。「どの場所なのかがわかる写真」を第一の基準として絞り込み、テーマ別に懐かしさを感じさせる「芝田商店会賞」、刻々と変わる今を表現した「北区商業活性化協会賞」、未来を感じさせるワクワクするような「創造都市賞」、高校生以下を対象にした「フレッシュ賞」と最優秀作品賞、佳作を決定した。

 最優秀作品賞は、ハービスOSAKAを撮影した山田新太郎さんの作品が受賞。選考委員らは「未来的なタッチであるのにもかかわらず、今が鮮やかに表現されている点を評価した」という。最優秀作品賞を始めとする10点の入賞作品は、ノースゲートビルディング北側の工事現場仮囲いフェンスに展示している。

 担当者は「応募作品を拝見していると予想以上に多くの方がキタに愛着を持っていることが伝わる作品がたくさんあった。工事現場仮囲いフェンスという珍しい展示場所も話題を呼んでいるようで、地域活性につながれば」と話す。

 展示は今月20日まで。

148よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 00:20:10 ID:HK.8nYc20
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月14日(土) 神楽まつり  於:吉祥殿
  9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会   13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき)  於:神館  11:00〜
  小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏  於:第一本宮  14:00〜

149よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 17:09:21 ID:BoHn9/Pk0
江戸期の大阪町人「ささいな楽しみ」風俗画展
2011年5月14日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105130117.html

江戸時代の大坂町人の生活や文化にまつわる風俗画や錦絵など約100点を集めた企画展「なにわの遊・楽―芝居・祭り・花暦―」が大阪市北区天神橋6丁目の「大阪くらしの今昔館」で開かれている。

 祭りのにぎやかな様子を描いた生田花朝(いくたかちょう)の風俗画「十日戎」や住吉大社の御田植祭をみやびな色彩で描いた菅楯彦(すが・たてひこ)の風俗画「住吉御田」のほか、庶民の1年間の暮らしを1枚のびょうぶに描いた「大坂月次図屏風(おおさかつきなみずびょうぶ)」などが展示されている。同館学芸員の深田智恵子さんは「大坂の町人たちが持っていた遊び心や日常のささいなことに楽しみを見いだしていた様子を感じてもらえたら」と話す。

 29日まで(16、17、24日は休館)。入館料は企画展のみ300円、常設展と企画展は一般800円、高・大学生500円。問い合わせは同館(06・6242・1170)へ。(池畑聡史)

150よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 22:55:40 ID:BoHn9/Pk0
鎮座1800年 祝福の舞…住吉大社
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110514-OYO1T00534.htm?from=newslist

「すみよっさん」の愛称で親しまれ、今年で鎮座1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で14日、祝賀行事の一つ「神楽まつり」が開かれた。同じ住吉大神を祭る大宮住吉神社(埼玉県)の神楽保存会のメンバーらが、笛と太鼓に合わせて舞を奉納した。

 住吉大社は211年にできたとされ、交易や産業振興に関係が深い海の神様が祭られている。

 お参りに来た近所の無職、大槻孝之さん(69)は「長い歴史を思うとしみじみとする。これからも末永く大阪の街を見守ってほしい」と話した。

 祝賀行事は24日まで開かれ、15日には子ども約300人による「稚児行列」や「住吉踊(おどり)」などが行われる。

(2011年5月14日 読売新聞)

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152よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 23:02:57 ID:BoHn9/Pk0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月15日(日) 1800年を奉祝する神賑行事が終日行われます。

9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会   
13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき)  
於:神館  11:00〜
   小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏  於:第一本宮  14:00〜
稚児社参  10:00吉祥殿出発、住吉公園を経て第一本宮参拝。
※参加には事前申し込みが必要です。
江戸芸かっぽれ  
於:絵馬殿、浅沢社、五月殿、第一本宮  10:30〜
青山太鼓保存会  於:第一本宮  11:00〜
鈴木 哲也 声楽・筝曲  於:第一本宮  11:30〜
住吉踊  於:第一本宮  12:00〜
清々神楽  於:第一本宮  13:00〜
風流武者行事  於:第一本宮  13:40〜
神田代舞  於:第一本宮  14:00〜
田植踊  於:第一本宮  14:20〜
遊輝座 創作舞踊劇「住吉大社絵巻」  
於:第一本宮  14:30〜
平野地車囃子  於:第一本宮  15:30〜
畑 美枝子 オペラ  於:吉祥殿  17:00〜

153よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/14(土) 23:06:46 ID:BoHn9/Pk0
道明寺天満宮
http://www.domyojitenmangu.com/kenko.shtml

献香祭 平成23年5月15日(日) 午前10時30分

泉山御流法印鳥休庵西際好誉宗匠によるお献香です。
 香道を今に伝える泉山御流のお香を神前に供えます。
 献香祭はどなたでも見学していただけます。

154よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:32:05 ID:H4kchipU0
だんじり祭 動きや表情伝える 岸和田で写真展
2011年5月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110515/20110515030.html

 大阪府岸和田市北町のイベントスペース、かじやまち亭で14日、約300年の歴史を持つ地元の「だんじり祭」の様子を撮影した写真展が始まり、9、10月の祭礼に向けてムードが高まりつつある。5月の展示は15日まで。

 岸和田市内のデザイン制作会社、ステージクリエイツが開いた展示会で、入場無料。A4判サイズ約200枚を張り出し、だんじりを引く祭り人の動きや表情を伝えている。

 だんじりが一瞬にして方向転換する「やりまわし」のスピード感は映像で紹介し、会場となった和室の空間は祭り談議を楽しめる。

 地元ではだんじりの新調、修理に伴う入魂式が徐々に始まるシーズンを迎え、同社代表社員の松阪広太さん(30)は「だんじりが動きだすので、6月以降も毎月第4土日曜に写真を展示したい」。祭り人を撮影した同社の古坊健一さん(32)は「だんじりでは彫り物が注目されるけど、300年の伝統は町の人が中心になってやり続けているから」と話していた。

155よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:33:34 ID:H4kchipU0
2011年5月15日
歴史にイチゴに"ごちそうさま" 大阪・泉佐野
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/15/20110515-052794.php

 地域の歴史を学びながら季節の味覚を楽しむイベントが、泉佐野市内で開かれ、約20人の観光客らがイチゴ狩りを楽しんだ=写真。

 泉佐野観光ボランティア協会(吉野勝会長)の主催。南海羽倉崎駅前に集合した一行は、同協会の井澤喜一郎副会長らから、第二次大戦中に同駅から東南側一帯に陸軍明野飛行学校佐野分教所(佐野飛行場)が造成され、広さは約300ヘクタールあったことなどの歴史を学び、正門の門柱などゆかりの場所を見学。

 このあと、同市長滝のイチゴ園でイチゴ狩り。参加者らは、真っ赤に熟したイチゴをほおばり、旬の味わいに満足げな様子だった。

156よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/15(日) 21:56:37 ID:H4kchipU0
大阪View:堺の伝統、はさみ鍛冶 日本刀の技術生かす /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110515ddlk27040203000c.html

 ◇玉鋼使用し、さびにくく フランスで個展、世界へ発信
 堺市堺区に江戸末期の1867年から植木ばさみや花ばさみを作り続けている鍛冶屋がある。「佐助」の5代目、平川康弘さん(60)は、はさみ職人としては数少ない国の伝統工芸士として技術を守りながら、フランスで個展を開くなど海外への普及にも取り組んでいる。【小松雄介】

 はさみの製造で最も難しいのが、硬い鉄を使った刃の部分と軟らかい鉄を用いた本体を合わせる「刃金(はがね)付け」と呼ばれる工程。熱せられた鉄が金づちでたたかれた瞬間、「バーン」という大きな音とともに火花が飛び散る。

 平川さんははさみ鍛冶の道に入って30年以上がたった50歳の時、日本刀の伝統技術を取り入れようと刀匠に弟子入りし、5年間修業を積んだ。日本刀の材料である「玉鋼(たまはがね)」を使用したはさみ作りに挑戦している。「はさみという実用品の中にこそ、日本の技術を残したい」と話している。

 作業場の見学も可能。問い合わせは佐助(072・233・6812)。

157よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 00:20:29 ID:YYZfq7mQ0
稚児行列:福島から避難の兄弟も晴れ姿 大阪・住吉大社
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110516k0000m040154000c.html

 東京電力福島第1原発の事故で福島県富岡町から堺市に避難中の兄弟が15日、住吉大社(大阪市住吉区)の誘いで創建1800年記念の稚児行列に参列した。津波で祖父らを亡くし、家が警戒区域となるなど、混乱続きの2カ月。父母は2人の晴れ姿に目を細めながら「古里や地震のことは忘れてほしくないが、大阪での新生活を切り開く第一歩にしてほしい」と期待した。

 小学4年の新田光覇(こうは)君(9)と、幼稚園年長組の来覇(らいは)君(5)。地震による津波で、南相馬市に住んでいた祖父と曽祖母を失った。家は亀裂が入った程度だったが、原発から約7キロしか離れておらず、地震発生の翌日から避難生活が始まった。親族宅などを転々とし、先月6日、ようやく堺市営住宅に落ち着いた。

 大阪府内での暮らしも1カ月を超え、兄弟の言葉には「分からへん」「ちゃう(違う)」と早くも関西弁が交じる。いつも元気いっぱいだが、時折、母恵理さん(30)に「いつ富岡に帰るの?」「僕の家はあるよね?」と尋ねる。富岡町が立ち入り禁止になる前日の先月21日、父英希さん(33)と恵理さんが一時帰宅。持ち帰った幼稚園の集合写真を見た途端、来覇くんは声も出さないまま、涙をボロボロこぼしたという。

 住吉大社は、「少しでも元気を、また大阪の楽しい思い出を作ってほしい」と一家を招待した。行列には約300人の子どもとその保護者らが参加。一家は行列の先頭に立ち、約1キロを歩いた。

 金の烏帽子(えぼし)の稚児装束に身を包んだ2人は「先頭を歩けて気持ちよかった」「歩くのは疲れたけど、楽しかった」と、晴れやかな表情。恵理さんは、「津波で亡くなったおじいちゃんやひいばあちゃんに、晴れ姿を見せてあげたかった」とつぶやいた。

 一家の居住期限は1年の約束というが、恵理さんは「富岡町の復興は何一つ進んでいない。いずれは戻りたいが、1年では無理。福島に帰るまで住めれば」と話していた。【深尾昭寛】

158よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 18:25:57 ID:/pXicHq.0
国産木綿復活探る 21日にコットンサミット
2011年5月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110517/20110517024.html

 綿花の栽培や国産綿の製品化に取り組む市民団体、企業が一堂に会する「全国コットンサミット」が21日、岸和田市の浪切ホールで開かれる。地域再生や環境保全を背景に機運が高まる国産木綿の復活に向けた方策を地域間交流を通して探る。

 戦国時代に始まった木綿の栽培は江戸時代に各地に広がり、綿紡績や綿織物などの繊維産業の発展が日本の近代化を推進する原動力になったが、その後、木綿の栽培は減退し、国外に依存している状況が続く。

 そこで、「和泉木綿」の伝統を受け継ぐ大阪・泉州地域の岸和田市を会場に約40の団体・企業の代表が集い、失われた機械技術の再生、新製品の創造、販路の確保などの課題の克服を目指す。

 当日は、サミットを開く実行委員会の代表を務める大正紡績(阪南市)の近藤健一営業部長が、注目を集める有機栽培の綿「オーガニックコットン」をめぐる業界の動きや国内綿花栽培の可能性も紹介する。

 国産木綿の復活について、実行委事務局次長の木村元広さん(62)=岸和田市立図書館職員=は「個々の地域、企業が連携することでうまくいく」と話す。サミットはその試金石になる。

159よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/17(火) 19:30:11 ID:/pXicHq.0
2011年5月17日
草創期の新聞 情報伝達はいかに 歴史博物館で展示会
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/17/20110517-052878.php

 新聞草創期の明治前期に大阪で刊行された新聞を集めた「大阪の新聞展」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。テレビもインターネットもない情報入手が困難だった時代に、新聞がいかに市民に情報を伝達していたかがうかがえ、興味深い。30日まで。

大阪で刊行 「東雲」創刊号や「此花新聞」…

 同展は大阪が歴史的に新聞発行のさかんな地域だったことから企画。会場には明治12(1879)年、発行の「朝日新聞創刊号」のほか、そのライバル紙として登場した「此花新聞」や明治中期に大阪で人気を博した、中江兆民主筆の「東雲(しののめ)新聞創刊号」などが並ぶ。

 「此花新聞」の題字の背景には大阪駅や造幣局、天保山の灯台など大阪市街地の風景が描かれていたり、「浪華新聞」は青く染めた新聞紙を使っていたり、と当時の世相などをうかがい知ることができる。

 珍しいのは、明治40年4月に創刊された上町地域のローカル紙「大阪上町新聞」。毎月3号刊行の4面構成という紙面で、主に大阪市の旧東区(現中央区)内のさまざまな情報を記事とし、現在のバーゲンセールにあたる誓文払いの大安売り広告なども掲載されている。

 開館時間は午前9時半〜午後5時(入館は午後4時半まで)。火曜日休館。入館料は大人600円、高大生400円、中学生以下無料。

160よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/18(水) 22:56:47 ID:HSDAGjbA0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。

5月19日(木) 裏千家献茶式  於:第一本宮  10:00〜 
       今日庵茶道裏千家大宗匠 千玄室による献茶が行われます。

161よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/19(木) 06:04:04 ID:HoQnRvJI0
千利休と与謝野晶子 テーマ施設
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110519-OYT8T00083.htm

 堺市は18日、旧市立堺病院跡地(堺区、1.1ヘクタール)に、堺出身の茶人・千利休=写真上、同市博物館提供=と歌人・与謝野晶子=同下、文化学院提供=をテーマにした文化観光施設を建設する基本計画案を発表した。2014年度にオープンし、年間15〜20万人の利用を見込んでいる。

 計画案によると、千利休屋敷跡と与謝野晶子生家跡に近い同病院跡地に、総事業費22億円で2階建て(延べ床2950平方メートル)の施設を建設。2人の生涯や業績を展示品で解説し、茶の湯の体験施設も設ける。南海本線堺駅や路面電車・阪堺線宿院電停に近い地の利を生かし、観光案内所も置くほか、敷地内に民間の土産物店や飲食店も誘致する。

 市は08年、同様のテーマでのホテル併設型施設を目指し、運営する民間事業者を公募する方針を打ち出したが、景気低迷の影響で断念し、市主導の計画とした。

 竹山修身市長は、この日の記者会見で「修学旅行やアジアの国々の観光客を呼び込みたい」と話した。

(2011年5月19日 読売新聞)

162よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/19(木) 19:50:18 ID:mkCZHmh20
国内最古のコウノトリ足跡と判明…大阪の遺跡 水田跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110519-OYO1T00170.htm?from=newslist

「幸福の鳥」弥生人と生きる

大阪府東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代前期(約2400年前)の水田跡で見つかった鳥の足跡が、コウノトリと判明し、奈良文化財研究所が18日、発表した。水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸(どうたく)に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。専門家は「農耕祭祀(さいし)の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。

 これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。同遺跡は1996年に大阪府文化財センターが調査。洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。

 その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。しばらく特定できなかったが、兵庫県立コウノトリの郷(さと)公園(豊岡市)や山階(やましな)鳥類研究所(千葉県我孫子市)も分析に加わり、▽足跡の大きさが約15センチと大型▽サギに比べて指が太い▽指の間が広い――などの特徴からコウノトリのものと判定した。同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。


 一方、銅鐸については神戸市出土の桜ヶ丘銅鐸(国宝)などのように、胴部に首と脚の長い鳥が描かれている例があり、従来はサギかツルとみられていた。

 今回の成果を踏まえ、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長は「水田稲作の初期段階からコウノトリが人の身近な存在だったことは明らか。大柄で美しい鳥を、祭祀や信仰の対象として銅鐸に表現したのでは」と指摘する。

 足跡の石こう型は21日〜7月3日、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開かれる春季企画展で展示される。問い合わせは同館(0725・46・2162)。

 コウノトリ 体長約1メートル、翼長約2メートルになる大型の鳥で、シベリア東部などで繁殖する。日本では国の特別天然記念物に指定されたが、野生は1971年に絶滅。85年、旧ソ連からヒナを譲り受けて兵庫県豊岡市で人工飼育、2005年から野外に放している。現在、放鳥19羽、野外で生まれた幼鳥21羽が生息。市では無農薬、減農薬農法で餌場づくりを進めており、農作業中の人の近くで餌をついばむ姿も見られる。

(2011年5月19日 読売新聞)

163よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:01:48 ID:mkCZHmh20
コウノトリ:国内最古の足跡 「弥生時代、人と共生」−−大阪
http://mainichi.jp/kansai/news/20110519ddn041040008000c.html

 奈良文化財研究所(奈良市)は18日、池島・福万寺遺跡(東大阪市、大阪府八尾市)にある弥生時代前期後半(約2400年前)の水田跡から96年に見つかった鳥の足跡がコウノトリのものだったと発表した。これまで、前橋市で6世紀のコウノトリの足跡が発見されているが、今回の足跡が国内最古となる。

 足跡は長さ約15センチ、幅約12センチで、約100個が人間の足跡と混在して出土した。足跡が付いた直後に洪水で砂が流入したため風化せず、保存状態が良かった。鳥の種類が分からなかったが、奈文研の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)が昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)の獣医らに足跡の石こう型を見せ、大きさや形がコウノトリの特徴と一致することが判明。今年3月に山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)に照会し、特定した。

 ◇銅鐸モデルか
 松井センター長は「弥生時代から人とコウノトリが共生したことを示す発見」と話し、全国各地で見つかった弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥の絵のモデルがコウノトリである可能性も浮上した。

 弥生時代中期の「桜ケ丘5号銅鐸」(国宝、神戸市立博物館所蔵)には、くちばしと首と脚が長い鳥が描かれ、各地で出土した弥生時代の銅鐸にも同様の鳥が描かれている。80年代、ツルが稲穂を落とした場所で稲作が始まったとする穂落神(ほおとしがみ)の伝承を基にツル説が浮上。その後、魚をくわえた鳥の絵に着目し、サギ説が登場。魚を捕るのは夏鳥でなければならず、冬鳥のツルでは矛盾するという説だ。

 松井センター長は「コウノトリは体が大きく、目や脚が赤いので神々しい。弥生人にとって信仰の対象だったのでは」と推測する。

 足跡の石こう型や写真は21日〜7月3日、大阪府和泉市の府立弥生文化博物館で展示される。【高瀬浩平】

164よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:03:14 ID:mkCZHmh20
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/207 本町の曲がり /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110519ddlk27070401000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇渦巻く流れに地蔵堂 手ぬぐいと色町“同居”
 お寺を避けて東横堀川の川筋を曲げた「本町の曲がり」。そのお寺、浄国寺は東区史によると、いったん順慶町に移り、その後、現在地の天王寺区下寺町に落ち着く。この浄国寺には、名妓(めいぎ)とうたわれた夕霧の墓がある。

 無理に曲げたためか、曲がりは流れが渦を巻き、入水自殺する者が後を絶たなかったという。今は川の両岸に雑居ビルやマンションなどが建ち並び、付近にはホテルや大阪商工会議所などもあって、繁華な一帯だが、江戸時代は寂しい場所だったらしい。

 上方落語の「饅頭(まんじゅう)こわい」に「本町の曲がりにかけては、夜は人も通らん寂しいとこやったで」というセリフが出てくる。噺(はなし)はこのあと、曲がりのすぐ南の農人(のうにん)橋で、身投げしようとしている若い女と出会ってひともんちゃくあるのだが……。

 それはさておき、こうした身投げがあまりに多かったから、付近の町民が「これではたまらん」と、水難よけの地蔵堂を建てた−−。宮本又次さんの著作「船場」に、こんなくだりがある。

 曲がりのあたりの駐車場の奥、阪神高速の高架下の薄暗い所に、「曲がり渕地蔵尊」の地蔵堂がある。入り口には金網が張ってあって鍵がかかっている。近所のたばこ屋さんが管理しておられるというので訪ねてみたが、「取材も写真撮影もお断り」とけんもほろろだった。

 どうやら、亡くなった先代の大将がどこからか地蔵を見付けてまつったようだ。地蔵堂の金網越しに、その大将が記した由来書を見ると、97年に地蔵堂を建てたと思われる。地蔵さんが江戸時代からこの世にあるほど古いのかどうかは、地蔵堂に近づけないので確かめようがないが、大将が曲がりの歴史をよく知っていて、水難よけの地蔵を後世に残そうとしたのだろう。由来書の最後にはこうあった。「今後も人々から手厚く敬われることをお願いする次第である」

    ◇

 前に挙げた「船場」から、昔の曲がりの辺りを点描してみる。江戸時代は手ぬぐい染め屋が多く、干し場に手ぬぐいがたなびくのが、おなじみの風景だった。同書には、屋根の上の干し場に手ぬぐいが何十枚も垂れ下がって干されている大正時代末の写真が掲載されているから、江戸時代のみならず明治、大正時代まで、曲がりの代名詞だったようだ。

 また、明治維新前後は、松島に対して小松島と呼ばれる色町として栄えたというから、「饅頭こわい」からだいぶ時代が下って、様変わりしたようだ。安物の遊女が客を引いていて、曲がりは安物の遊女の意味でもあったという。出合い茶屋、いまでいうところのラブホテルもあって、手ぬぐいと色町が同居していたわけだ。想像するだに、なんとも奇妙な光景である。

    ◇

 本町通の1本南の通りで、大阪案内人の西俣稔さんが立ち止まる。細い通りを指して「鰻(うなぎ)小路と呼ばれてた通りです」。東署の裏手にあたり、東署の寮があって、警察車両が止まっている。堺筋の1ブロック手前までの200メートル足らずを歩いてみるが、ビルとビルに挟まれて、なんの変哲もない。

 「でこぼこがあるから、細長くてうねうねしてる地形がうなぎに似てると、名前が付いたんじゃないでしょか」と西俣さんが推測する。別名「絹張小路」といい、繊維と縁が深かった土地柄をうかがわせる。【松井宏員】

165よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:04:12 ID:mkCZHmh20
2011年5月19日
銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052983.php

 池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。

 今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

 同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。

 この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。

 神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。

 大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

 一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。

166よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:14:44 ID:mkCZHmh20
2011年5月19日
国内最古 コウノトリの足跡 大阪府の池島・福万寺遺跡で発見
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052947.php

 大阪府の東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代の水田跡から、国の特別天然記念物コウノトリの国内最古とみられる足跡が見つかり、奈良文化財研究所が18日、発表した。群馬県前橋市の元総社北川遺跡で古墳時代(6世紀)のコウノトリの足跡が確認されているが、西日本では初で、約900年さかのぼる発見となった。

 今回の発見で、絶滅が危惧されるコウノトリが約2400年前には人と共存していたと推定され、神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(どうたく)(国宝)など弥生時代の銅鐸に描かれた鳥が、これまで論争があったツルやサギではなく、コウノトリだった可能性も浮上した。

 足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。

167よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 00:32:21 ID:mkCZHmh20
国内最古のコウノトリの足跡
http://www.nhk.or.jp/lnews/nara/2055878822.html

15年前、大阪・東大阪市の弥生時代の水田の遺跡から見つかった鳥の足跡について奈良文化財研究所が分析したところ、コウノトリの足跡であることがわかりました。絶滅のおそれがあり、国の特別天然記念物に指定されているコウノトリが当時は水田のフナなどを食べるために人里にいたことを示すもので、稲作が始まった当時の人と自然の関わりを示すものとして注目を集めています。
この遺跡は、平成8年に大阪・東大阪市から八尾市にかけて見つかった弥生時代の水田の跡の池島・福万寺遺跡です。
水田の跡から見つかった鳥の足跡がどういう種類の鳥かわからないことから、大阪府文化財センターが奈良文化財研究所に分析を依頼していました。
研究所では、鳥類の専門家に協力を得て日本で記録のある542種の鳥類を調査した結果、足跡の大きさや特徴から今からおよそ2400年前、国内最古のコウノトリの足跡であることがわかりました。コウノトリは当時、日本にたくさん生息し、水田にいたフナなどの小さな魚を食べるため人里におりてきていたと見られています。
弥生時代の銅鐸には鳥の絵が描かれたものが見つかっていて、分析をした奈良文化財研究所の松井章埋蔵文化財センター長は「銅鐸に描かれたのはコウノトリだ。弥生時代にはコウノトリが信仰の対象となっていた」と話しています。

05月19日 10時21分

168よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 01:03:06 ID:mkCZHmh20
弥生人の身近にコウノトリ 大阪の水田跡に最古の足跡
http://www.asahi.com/culture/update/0518/OSK201105180167.html

 大阪府東大阪、八尾両市の池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が、弥生時代前期(2400〜2500年前)のコウノトリのものと確認された。国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる。

 鑑定した奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)らが18日、発表した。数十個が人の足跡とともにまとまって出土したことから、弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれ、サギかツルとみられてきた鳥はコウノトリの可能性がある、とも指摘している。

 1996年に府文化財調査研究センター(現・府文化財センター)が、洪水に埋もれた水田跡(約400平方メートル)で数十個を確認。ほとんどが同じ種類の足跡で、長さ15.1センチのものをひとつだけ石膏(せっこう)で型どりした。

 松井さんが昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)から足型を借りて照合したところ、指の長さや太さなど特徴が一致。共同研究した山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も、コウノトリの可能性が高いという結論を出した。

169よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 20:33:05 ID:P7bAtr1M0
見〜つけた一品:なつかしの甘食 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110520ddlk27040415000c.html

 ◆マルミベーカリー(南海・堺駅徒歩10分)

 ◇牛乳に浸して、とろん
 あ・ま・しょ・く。記憶の奥の方にあった名前を、久しぶりに引っぱりだしてきた気分。元気だったんだねえ。こんな言葉をかけたくなる。「懐かしがって買われる方が多いですね」と店主の春木淳一さん(49)。そんな話をしていたら、迷いもせずに、2パックを手にして、買っていくおばさんがいた。

 「特に変わった作り方ではないんですがねえ」(春木さん)。そこが郷愁をそそる。少しだけPRするなら、ケーキに使う上等な小麦粉を使用していることと、裏をしっかり焼いていること。こうして、密でしっかりした生地に仕上がっている。さてさて、食べ方は……。牛乳に浸して、とろんと軟らかくして食べるのが好き。我流かと思ったら、「もちろん、その食べ方ですよ」と春木さん。認知されていたんだ。

 昭和2(1927)年創業。看板商品の「ポルトガルパン」(250円)は、現地のレシピに忠実に作られ、軽めの食感でほのかな甘みがある。このほか、地元のちんちん電車の形をした「チン電パン」(350円)はバニラクリーム入り。どれも素朴さがいい。【三角真理】

==============

 280円(3個入り)。プレーン、紅茶、クルミの3種類。堺市堺区市之町東2丁1の8、電話072・232・1231。7〜19時。日曜定休。

 ■ひとこと

 毎月21日、四天王寺(大阪市天王寺区)の大師会(だいしえ)で露店の一つとして出店しています。

170よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 21:30:32 ID:P7bAtr1M0
育て伝統の「玉造黒門越瓜」 大阪の児童ら苗植え
2011年5月20日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105190091.html

 なにわの伝統野菜に認証されている「玉造黒門越瓜(しろうり)」を広めていこうと、大阪市中央区役所は18日、同区保健福祉センターで苗植え式を開いた。玉造黒門越瓜保存会員と同市立南大江小学校の4年生約60人が参加し、越瓜の苗10株を植えた。

 江戸時代、大阪城の玉造門付近で作られる越瓜が良質で、かす漬けが評判となり、玉造黒門越瓜と呼ばれるようになった。明治時代ごろから都市化の影響で作られないようになったが、2002年から玉造稲荷神社(同区玉造2丁目)を中心とした同保存会が普及に取り組んでいる。

 この日、子どもたちは同保存会の会員の助けを借りながら、同センター2階テラスの畑に10株の苗植えをし、「実がなったらまた見に来たい」などと話していた。7、8月には長さ約25センチ、太さ約10センチの瓜が収穫できるといい、同区役所は8月下旬に予定されている食育イベントで料理などに使う予定。(吉川喬)

171よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 22:20:32 ID:P7bAtr1M0
芥川龍之介「朝日新聞…一笑」書簡2通を発見 神経衰弱も綴る
2011.5.20 11:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110520/osk11052016060009-n1.htm

 小説家の芥川龍之介(1892〜1927年)が、大阪毎日新聞の学芸部長を務めた岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)に宛てた未発表の書簡2通が同市内で見つかっていたことが20日、分かった。

 ライバル紙への皮肉などを込めた内容で、倉敷市文化振興課は「当時の大新聞同士の事情や芥川の人間性がうかがえて興味深い」としている。

 1通は大正8(1919)年5月の封書。大阪毎日に入社直後の芥川がライバル紙の大阪朝日新聞の文人パーティーに招かれなかったことへの皮肉を述べたもので「招待された顔ぶれをみると(朝日の文芸担当である)柳沢の友だちが多いので一笑しました」と書かれている。

 もう1通は10年10月、海外視察員として中国旅行後に心身が衰弱した芥川が、療養していた神奈川県湯河原町から送った絵はがき。「神経衰弱は中々なほりません」「今度と云ふ今度は殆死ぬほどへこたれました」と、自殺の一因とされる神経衰弱に悩む心情がつづられている。

 平成20年に市に寄贈された泣菫の遺品を調査した岡山大大学院の西山康一准教授らが確認した。

172よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 22:24:57 ID:P7bAtr1M0
>>171

芥川の書簡見つかる
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html

作家の芥川龍之介が詩人の薄田泣菫に宛てた未発表の書簡が岡山県倉敷市で見つかり、当時の芥川の心境を知る貴重な資料として注目されています。
今回、見つかったのは作家の芥川龍之介が岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫に宛てて書いた未発表の書簡2通です。
芥川と交流があり、同じ大阪毎日新聞に務めていた泣菫の孫が3年前に倉敷市に寄贈した資料の中から、岡山大学大学院などの研究者のチームが発見しました。
このうち、大正8年5月の書簡は、大阪朝日新聞の会合に招かれなかったことについて書いたもので、「恐らく商売仇のせいでせう」などと記され、泣菫とともにライバル紙の大阪毎日新聞に勤めていたことが会合に招かれなかった理由だとみずから推測しています。
また、芥川が自殺する6年前の大正10年10月に、療養先から送った絵はがきには、「神経衰弱は中々なほりません」とか、「今度は殆死ぬほどへこたれました」など自殺の一因とされる神経衰弱に悩む芥川の心境が読み取れます。倉敷市文化振興課の秋山剛主任は、「新聞社どうしのライバル関係が読み取れるうえ、徐々に芥川の元気がなくなっていく様子がわかり大変、貴重な資料だ」と話していました。
見つかった書簡は、解析が行われたあと、一般に公開されるということです。

05月20日 19時44分

173よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/20(金) 23:54:08 ID:P7bAtr1M0
芥川龍之介:未発表の書簡発見 薄田泣菫宛て、倉敷で
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html

 芥川龍之介(1892〜1927)の未発表の手紙とはがきが、岡山県倉敷市が所蔵する資料から見つかった。倉敷市出身の詩人で、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部長を務めた薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)(1877〜1945)に宛てた書簡。泣菫の遺族から同市に寄贈された遺品の中にあった。

 手紙は濃いピンクの封筒に入れられ、大正8(1919)年5月23日の消印がある。「大阪朝日の披露会は菊池及(および)僕を招待せず恐らく商売仇(かたき)のせいでせう」などと述べている。泣菫は当時、新進作家だった龍之介や菊池寛を積極的に社員として採用していた。大阪毎日のライバル紙の大阪朝日新聞(現朝日新聞)が文芸関係者を集めたパーティーに招待されなかったことについて、龍之介は「招待された顔ぶれをみると柳沢(朝日の文芸担当)の友だちが多いので一笑しました」と皮肉を記している。

 はがきは大正10(1921)年10月21日の消印で、養生のために訪れていた神奈川県の湯河原から投函(とうかん)されている。「腹下しはやつととまりましたが神経衰弱は中々なほりません」などとあり、後の龍之介の自殺につながる心身の衰弱ぶりがうかがえる。

 泣菫の遺品には、龍之介や寛のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻や谷崎潤一郎ら当時、泣菫と交流のあった作家たちの書簡や生原稿などが多数あり、市が全国の研究者7人に依頼して調査していた。今回確認された龍之介の2通は、岡山大大学院の西山康一准教授と東京成徳大の庄司達也教授が調べた。

 倉敷市文化振興課は「研究し尽くされた芥川龍之介に関して、未発表書簡があったのは大変な驚き。今後も資料調査を続けたい」と説明している。【小林一彦】

 ◇芥川龍之介
 1892年東京生まれ。東大在学中、夏目漱石に認められ文壇へ。1919年、大阪毎日新聞に入社し作家活動に専念した。21年、同社海外視察員として中国旅行。帰国後、心身を病み、27年自殺した。代表作に「羅生門」「河童」「鼻」など。

 ◇薄田泣菫
 1877年、現在の岡山県倉敷市生まれ。97年、詩壇デビューし明治を代表する詩人となった。1912年、大阪毎日新聞入社。学芸部長として、芥川や菊池寛を新聞小説に起用した。代表作に詩集「白羊宮」など。

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176よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/21(土) 23:01:19 ID:BWd4ac5c0
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
国内最古のコウノトリの足跡を展示

国内で最も古いものであることが分かったコウノトリの足跡が大阪府和泉市の博物館で21日から展示されています。

このコウノトリの足跡は東大阪市と八尾市にまたがる弥生時代の水田跡「池島・福万寺遺跡」で見つかったものです。
調査の結果、この足跡は国内で見つかったものの中で、最も古い弥生時代前期のものであることが分かりました。この発見によって、いまや絶滅危惧種とされるコウノトリが当時多く生息し、人間と共存していたことが分かりました。訪れた人は、「こんな時代からおったってコウノトリがいたということは不思議ですなぁ。人間と仲良かったんやろうな」
「(昔は)コウノトリがたくさん住んでいたとは聞いていたが、大阪もコウノなんとかという地区があるけど、これから名前きたのかなと思った」などと話しました。
この展示会は、7月3日まで開かれています。

【河内のムラの物語】
・7月3日まで
・大阪府立弥生文化博物館 .

177よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/21(土) 23:05:37 ID:BWd4ac5c0
スケジュールなどを確認 天神祭講社会合
2011年5月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110521/20110521021.html

 大阪の夏の風物詩・天神祭(7月24、25日)を前に、祭りに奉仕する講社の会合が20日、大阪市北区の天満宮会館で開かれ、当日のスケジュールなどを確認した。

 各講社の代表者ら約60人が出席。12日の実行委員会で承認された陸渡御や船渡御などの行事計画や巡行コースが報告された。

 また、25日夕の奉納花火について、大川沿いの桜宮公園では打ち上げ花火を、造幣局東側では仕掛け花火を中心とし、約3千発を打ち上げることが説明された。

 大阪天満宮講社連合会の宗石剛会長は「震災で自粛ムードもあるが、元気を発信する祭りにしたい」とあいさつ。花火の個人協賛を義援金に充てるなど、東日本大震災の復興を支援していくことも確認した。

178よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:29:34 ID:BWd4ac5c0
イベント情報
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/event/

◆重要文化財「愛珠幼稚園」園舎 一般公開
 23日午後1〜4時、大阪市立愛珠幼稚園(地下鉄淀屋橋駅)。明治34年に建てられた園舎の一般公開。学芸員による建物の解説や園児たちに親しまれてきたグランドピアノの演奏も。参加費無料。参加希望者は当日直接会場へ。大阪市教育委員会事務局文化財保護担当(06・6208・9030)

179よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:36:30 ID:BWd4ac5c0
絵本を「まちかねたワニ」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00081.htm

 約45万年前に生息し、化石が豊中市で出土した巨大ワニ「マチカネワニ」をテーマにした絵本「まちかねたワニ」を市地域雇用創造協議会が5000部作成した。希望者や市内の店舗などに無料で提供している。

 「マチカネワニ」は1964年に同市待兼山町の大阪大豊中キャンパスで骨片の化石が発見され、現場の地名を取って名付けられた。国内で見つかったワニ類の化石第1号で、体長約7メートル、体重約1・3トンと推定。同大学や市がそれぞれマスコットとして活用しており、市内では下水道のマンホールに刻まれている。

 絵本は「マチカネワニ発見の地・豊中をPRしよう」と同協議会が企画。体が大きすぎて竜と間違われた恥ずかしがり屋のワニが、ワニだとわかってほしいと待つうちに絶滅し、化石になったというストーリーで、イラストレーターの仲田万里子さんが絵を手がけた。

 協議会では各店で絵本を活用してもらうほか、今後はマチカネワニに関連した商品開発の支援を進めていく方針で、「マチカネワニを豊中のブランドとして広め、地域活性化につなげたい」としている。

 絵本は15センチ四方の12ページ。問い合わせは同協議会(06・6398・7719)。

(2011年5月22日 読売新聞)

180よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 09:40:02 ID:BWd4ac5c0
『大阪歳時記 五月(皐月)』

http://www.jinjacho-osaka.net/saijiki-osaka/5gatsu/05_saijiki_5gatu_syouman.htm

小満  二十四節気の一つ。   5月21,22日頃    七十二候 

万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来る頃。
天文学的には、天球上の黄経60度の点を太陽が通過する瞬間。
麦畑が緑黄色に色づき始めます。

「住吉大社」 卯之葉神事(うのはしんじ)
大社の創立が、神功皇后摂政十一年辛卯(かのと・う)年の卯月上の卯の日であるという伝承により行われているものです。
現在では、5月初めの卯の日に卯の花の玉串を神前に捧げ、石舞台で卯の花のかんざしをさして舞楽が奉納されるなどの形で行われていますが、江戸時代は、「四月卯之日神事」として、かなり盛大に行われていたようです。 
「住吉名所図会」には、当時の模様が見開き四頁にもおよぶイラスト入りで記述されていますが、それから判断してもかなり盛大であったことが伺えます。
卯の葉神事が行われる前後、卯の花が満開になる時期に合わせて、「卯の花苑」が毎年公開されています。
落語に「卯の日参り」という出し物があります。この話の舞台は住吉大社です。卯の日に参る賑やかな住吉界隈が舞台です。
住吉大社の手水舎にウサギの石像があるのは、うさぎ(卯)に縁の深い神社だからです。

181よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 11:39:00 ID:BWd4ac5c0
【日本三大祭の中で一番賑わう大阪の天神祭について】
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/7_2.html

天神祭の歴史

鉾流神事
当宮鎮座の翌々年の天暦5(951)年に鉾流神事が始まったと伝えられます。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事です。

鉾流神事は、鉾に託して「穢れ」を祓うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っています。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」が始められたのです。

ところが、寛永21(1644)年の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまいました。しかし、昭和5(1930)年に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されています。

陸渡御
神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、神霊を奉安する御鳳輦ですが、この前後を催太鼓や神輿、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。

かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永9(1780)年には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。

船渡御
江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾りたて、御旅所へ御迎えの船列を整えました。昭和12(1937)年の船渡御列は、二百艘に達したといいますが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限しています。

昭和28(1953)年、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っています。


天神祭のご馳走
天満宮の参道にあたる西天満の旧家、内藤壽一さんの家では、天神祭には門にちょうちんを出し、家紋の入った幕をはって迎えます。住まいは明治43年(1910)に上棟された大阪の町屋から、いまはビルになっていますが、天神祭のご馳走は変わりません。
壽一さんの妻の芳美さんは、帰省する子どもたちや孫たちのために、毎年お祭りの料理を用意します。芳美さんに内藤家の天神祭のご馳走を披露していただきました。

メニュー
1.鱧ちり
熱湯にくぐらせた鱧を氷水にさらして冷まします。水気をとって盛りつけ。梅肉、ミョウガとともにいただきます。

2.鱧の照り焼き
骨切りした鱧の切り身にタレをつけてじっくり焼き上げます。はじかみショウガが添えられています。

3.小芋の煮物
ぬめりをとった小芋を薄味で炊き、色よくさっと炊かれた絹さやが添えられます。だされる直前には、すりおろした柚子をかけます。

4.タコとキュウリの酢の物
生タコの足をゆでて、薄切り。輪切りキュウリは塩をした後に水にさらしてしぼり、タコとともに合わせ酢で和えます。ミョウガが添えられています。

5.冷やしそうめん
深鉢に氷と青しそがあしらわれ、薬味には、きざみねぎ、椎茸の煮物、錦糸たまご、えび、すりおろした土ショウガが並びます。

6.白天とかいわれ菜のおすまし・きくらげ入りの白天、かいわれを盛りつけた椀にすまし汁を注いでいただきます。

7.枝豆・ゆでた枝豆も、冷えたビールとともに夏には欠かせないメニューです。
あっさりとした味付け、しゃきっとした歯ごたえ。夏にふさわしい食感と、味を引き締める薬味にも気をつかってだされる料理。どれもおいしそうで、食もすすみます。

182よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/22(日) 18:22:44 ID:aZWKqE4g0
大阪・コウノトリ足跡:“弥生”から命つながる 特定に15年、研究者の熱意 /兵庫
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20110522ddlk28040328000c.html

 ◇奇跡的に保存 野生復帰事業の励みに
 大阪府の池島・福万寺遺跡で見つかり、18日に発表された国内最古のコウノトリの足跡は偶然の産物だった。洪水で水田に泥が入り、足跡が付きやすい堅さになった時、コウノトリが舞い降りた。足跡が付いた直後の洪水で白い砂が入り、風化を防いだ。研究者たちの熱意もあって、弥生時代にコウノトリが飛び交う風景を、現代人が描く手がかりができた。【高瀬浩平、皆木成実】

 調査を担当した大阪府文化財センターの井上智博主査は96年、弥生時代前期後半の水田跡に白い足跡がくっきり浮かび上がっているのを見つけた。「驚いた。鳥の足跡は浅いので、残るのは奇跡的」と振り返る。

 足跡をつけた鳥が分かるまで約15年を要した。県立コウノトリの郷公園(豊岡市)の増井光子・前園長(故人)と、獣医の三橋陽子さん(38)が昨年2月、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長を訪問したのが転機となった。三橋さんは、後趾(こうし)(後ろ側に伸びている足の指)の跡が後斜めに伸びている特徴から、水鳥の中でもサギやハクチョウでなく、コウノトリの可能性があると指摘した。

 三橋さんは「当時コウノトリが列島に生息していたことは分かっていたが、生息域の広がりが確認できる新たな資料が見つかり、大変うれしい」と話した。

 山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も協力。国内で確認された542種すべてを調査対象とし、迷い鳥や発達した水かきがあるカモなどを除外。コウノトリ、アオサギ、ダイサギの3種に絞った。最後は統計学の手法で、足の指が太く、指の幅が広いコウノトリの可能性が極めて高いと結論付けた。

 奈文研は19日、コウノトリの足跡の石こう型、生駒山地を背景にコウノトリが飛び交う田園風景のイラストなどを、大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)に提供した。同館で21日〜7月3日まで展示される。

 コウノトリを野生復帰させる事業を進める豊岡市の中貝宗治市長は「まさに、古代から命がつながっていると感じた。感動した。野生復帰事業の励みになる」と喜んでいる。

183よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 19:43:26 ID:ut67rXZI0
おニューのだんじりお披露目 生野の東桃谷岡地車会
2011年5月23日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105220120.html

 大阪市生野区の東桃岡地車(じぐるま)会(中山英信会長、会員約100人)が古くなっただんじりを買い替え、22日に周辺を練り歩いてお披露目し、会の名称も東桃谷岡地車会に変更した。

 同地車会は2006年に41年ぶりにだんじりを復活させたが、だんじりの老朽化にあわせ、もっと大きなだんじりがほしいという声が上がっていた。このため昨年3月、ほかの保存会が使っていただんじりを購入し、約1年間かけて補修作業をしてきた。

 新しいだんじりは高さ約3.2メートル、長さ約4.8メートル、重さ約2.2トン。以前のものと比べて一回り大きい。ケヤキ製で、屋根周りに青竜(せいりゅう)や朱雀(すざく)が彫られ、あんどんや垂れ幕で装飾されている。同地車会の団体色のピンク色を使ったあんどんが特徴的だ。

 この日は午前中に同区勝山北3丁目の市立東桃谷小学校で新しいだんじりに魂を込める入魂式をし、午後から大人約20人と子ども約50人で周辺を4時間ほど練り歩き、だんじりばやしに乗せ「わっせい、わっせい」と威勢のいい声を響かせた。

 新しいだんじりは、7月の弥栄神社の夏祭りで本番デビューする予定だ。(吉川喬)

184よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 19:51:19 ID:ut67rXZI0
なるほドリ:「百舌鳥・古市古墳群」は世界遺産になるの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110523ddlk27070203000c.html

 ◇昨年、暫定リストに登録 市民一体の体制作り重要
 なるほドリ 今月12日に「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産への登録を目指す推進本部の最初の会議が開かれたね。世界遺産になるのかな?

 記者 世界遺産には文化、自然、複合の各遺産があります。百舌鳥・古市古墳群は、堺、藤井寺、羽曳野の各市一帯に広がる古墳群で、昨年11月に暫定リストに登録されました。

 Q 暫定リストって何なの?

 A 世界遺産条約の締結国による、世界遺産に登録してもらいたい候補の一覧です。地元自治体が国に記載を提案し、認められれば、国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出して、世界遺産登録に向けた動きが始まります。

 Q 「百舌鳥・古市」は世界遺産になるほど貴重なものなの?

 A 「百舌鳥・古市」は世界最大の面積を誇る仁徳天皇陵や日本で2番目の規模となる応神天皇陵を含む、国内最大級の古墳群で、これらの古墳は日本の古代国家形成過程や文化的伝統のあり方を示すものです。世界遺産となっているエジプトのピラミッドなどと並び、普遍的価値があるのです。しかし100基以上あったとされる百舌鳥古墳群の古墳は、開発などで約50基まで減っており、守る必要があります。

 Q じゃあ、世界遺産の登録は実現できるの?

 A 府や堺市などは2015年ごろの登録を目指しています。そのためには、国が候補の推薦書をユネスコに提出し、国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査などを経て世界遺産委員会の審査を受けないといけません。登録のためには普遍的価値の証明のほかに万全の保護措置が求められます。堺市などは古墳周辺の景観保全などを急いでいますが、世界遺産は遺跡や景観を後世に残していくためのものです。市民も一体となって守り伝える体制づくりが重要になりますね。<回答・内田幸一(社会部)>

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 あなたの質問をお寄せください。

 〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係(o.shakaibu@mainichi.co.jp)

185よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/23(月) 20:00:09 ID:ut67rXZI0
古代から現代までの堺の歴史 1冊に
2011年05月22日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001105230002

「歴史たんけん堺」を自費出版した小松清生さん=堺市堺区南瓦町

 古代から現代までの堺の歴史を、カラー写真を交えて紹介した資料集「歴史たんけん堺」を、堺市北区の元小学校教諭小松清生(すがお)さん(63)が自費出版した。筆者は小松さんと教員仲間の5人。小松さんは「市内散策のガイド本としてもどうぞ」と話している。

 小松さんは、教員や市民らでつくる「大阪歴史教育者協議会」の堺支部代表を務める。授業で歴史を教えるとき、教科書には堺の記載が少ないと感じた。「教科書の傍らに堺に特化した本があれば、歴史が身近になる」と、1996年から資料集づくりを始め、2009年に「歴史たんけんプリント堺」(約60ページ)と題した非売品の冊子を完成させた。市内すべての小中学校に配布して一部で副読本として利用された。

 「歴史たんけん堺」は、この冊子をもとに大幅加筆した。縄文・弥生、古代、中世、近世、近代、現代の6部構成で、古代の項目では、堺市南区の泉北ニュータウンにかつて、須恵器の生産工場が点在していたことを知ってもらおうと、現在の建物や道路の地図の上に、窯跡をピンク色で示した。

 このほか、刃物や昆布など伝統産業の成り立ちや、戦時中の空襲を経験した市民らから聞き取った体験談なども紹介。市博物館や市立中央図書館、新聞社などから借り受けた仁徳陵古墳などの写真も掲載している。

 小松さんは「堺は百舌鳥(もず)古墳群や茶の湯、鉄砲など名だたる歴史と文化の街。この資料集が堺を知る一助になれば」と話す。

 B5判70ページ、千円。4月から堺市内の主な書店で販売している。問い合わせは小松さん(ファクス072・254・1717)へ。

186名無しさん:2011/05/23(月) 20:58:18 ID:btK9vXpQ0
被災者招き 初の寄席
2011年5月22日

大阪市阿倍野区の住民らが運営する恒例の「田辺寄席」が21日、同区の桃ヶ池公園市民活動センターで、東日本大震災の被災者を初めて招いて開かれた。

昼の部では、桂文太さんら落語家4人が創作や古典の5題を披露。巧みな話芸に、市民ら約150人でいっぱいの会場では何度も、笑いが起きた。

福島県南相馬市から避難し、家族4人で大阪市西成区の市営住宅で暮らす中橋幸子さん(65)は「生の落語は初めて。語りにはキレがあって、気分転換になりました」と喜んでいた。

田辺寄席は1974年、プロの落語家の芸を楽しもうと始まった。最近は毎月3回開かれ、22日に570回目を迎えるという。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00084.htm

187よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:51:44 ID:ut67rXZI0
古墳時代にタイムスリップ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110524-OYT8T00070.htm

6世紀前半の前方後円墳「今城塚古墳」(高槻市郡家新町)に、武人や馬、水鳥などの形象埴輪(はにわ)のレプリカ約190点がずらりと並んでいる=写真=。

 二重の濠(ほり)に挟まれた堤から外側にせり出すように造られた「埴輪祭祀(さいし)場」から出土した破片から復元。両手を挙げて祈ったり、杯を持ったりする巫女(みこ)の埴輪もあり、亡くなった大王の魂を鎮めるために行われた儀式を表現したという。

 今城塚古墳は継体天皇陵という学説が有力で、高槻市が史跡公園として整備し、隣接する今城塚古代歴史館とともに4月にオープンさせた。同館の森田克行館長は「200点以上の形象埴輪が出土した例はほかになく、造形も優れている。古墳時代の儀式の様子がわかる生きた教材」と話している。

 古墳は自由に見学ができ、歴史館の入館料は無料。月曜と祝日の翌日が休館。問い合わせは同館(072・682・0820)。(斎)

(2011年5月24日 読売新聞)

188よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:53:52 ID:ut67rXZI0
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html

住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。


5月24日(火) 表千家献茶式  於:神楽殿
   不審庵茶道表千家家元 千宗左による献茶が行われます。
※お茶券は各お家元にお尋ね下さい。

189よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/24(火) 05:58:17 ID:ut67rXZI0
遅くなってごめんなさい、昨日行われた祭です。


田村祭(たむらさい)
http://www.jinjacho-osaka.net/osaka-no-matsuri/osakasinai/tamurasai_kumatajinjya.html

神社      杭全神社(くまたじんじゃ)

斎行日時     5月23日(毎年)午前10時祭事施行

内容   杭全神社は征夷大将軍坂上田村磨の孫、当道により、素戔嗚尊を氏神として創建されました。
     毎年、坂上田村麻呂公の命日である5月23日に、田村社において田村七名家の参列の元「田村祭」が行われます。
     神前には特殊神饌「剣菱」が供えられ、参列者にもふるまわれます。

190よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 04:06:33 ID:jQKdS4qA0
「マリア十五玄義図」修復
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110525-OYT8T00086.htm

きょうから茨木の史料館で公開

 茨木市北部の民家で1920年に見つかり、府有形文化財に指定されている絵画「マリア十五玄義図」(縦82センチ、横65センチ)=写真=の修復が完了した。同市が所有者から寄託を受けて保管し、昨年10月から汚れを除いたり、しわを伸ばしたりする作業を行っていた。25日から6月13日まで、同市千提寺の市立キリシタン遺物史料館で公開する。

 「マリア十五玄義図」は、聖母マリアとキリストの誕生から死、復活などの15の出来事を表現している。江戸時代初期にキリスト教を信仰していた人たちが禁教令の中、隠し持っていたもので、木箱に入れて中身を知らせないまま長年、保存されていたという。

 劣化が激しく、紙の亀裂や絵の具の剥離(はくり)などがみられたため、2006年に府文化財になったことなどから、同市が専門業者に修復を依頼していた。

 同図は、国内では同市北部の別の民家からも図柄が異なるものが見つかり、京都大に寄贈されており、国の重要文化財に指定されている。

 市教委は24日、今回修復された図を報道陣に公開。所有者の東満理亜さん(61)は「きれいになってよかった。先祖が苦労して残してきた歴史を知ってほしい」と話した。

 修復記念特別公開展ではキリストの木像や墓碑など約25点も展示される。火曜休館。入館無料。問い合わせは同館(072・649・3443)。

(2011年5月25日 読売新聞)

191よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 19:05:44 ID:g4i3Ym2s0
大阪→東京 移設判明 1907年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110526-OYT8T00072.htm

研究家・福井さん 新聞に記載、その後調査へ

 明治末期の1906年に大阪・天王寺公園に登場した国内初の観覧車が、翌07年に東京・上野の博覧会場に移設されていたことが、観覧車の歴史に詳しい福井優子さん(63)(東京都)の調査でわかった。「グレートホイール」と呼ばれたこの観覧車は、1か月半運行された後に解体されたが、その後の行方は不明だった。福井さんは近く学会誌に寄稿する論文の中で、調査結果を公表する予定。

 福井さんによると、グレートホイールは、日露戦争翌年の1906年に開かれた「戦捷(せんしょう)紀念博覧会」会場の天王寺公園で、同年5月から閉幕の翌6月17日まで運行された。車輪の直径は約15メートル、14個のゴンドラが蒸気で動いていた。

 福井さんが、知人からの情報を基に調べたところ、翌07年に上野で開かれた「東京勧業博覧会」で運行されていた観覧車2基のうち、1基について、同年4月11日付の「都新聞」(現・東京新聞)の記事に「工事中なる空中廻転車は大坂博覧会に使用せしをそのまま運搬せしもの」とあった。

 「大坂博覧会」とは、戦捷紀念博覧会を指すとみられ、同年6月12日付の「国民新聞」(現・同)に掲載された写真などの資料から、ゴンドラ数や形状、蒸気を動力とすることなど、特徴が一致することが確認できたという。

 観覧車は、勧業博覧会で運行された2基のうちの電動式観覧車が長らく「国内第1号」とされてきたが、実際の国内初は大阪のグレートホイールだったとする調査結果を、福井さんが約10年前に発表し、〈史実〉が塗りかわった経緯がある。

 福井さんは「国内第1号を巡る因縁の2基が、勧業博覧会で協働していたとは思いも寄らなかった。観覧車が移設されることは現在もよくあり、グレートホイールも興行主の間で転売されたのだろう。日本で観覧車が普及していく歴史的経緯が少しずつ明らかになってきた」と話す。勧業博覧会終了後にグレートホイールがどうなったのかはわかっておらず、今後調査したいという。

(2011年5月26日 読売新聞)

192よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 19:50:49 ID:g4i3Ym2s0
2011年5月26日
泉州検定に60人が挑戦
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/26/20110526-053224.php

 泉州地域(9市4町)の歴史、文化などの知識を問う「第7回泉州検定」が、大阪府泉南市の市立文化ホールで行われ、府内のほか、千葉などから約60人が挑戦した=写真。

 泉州への関心を持ってもらうとともに、ガイド育成を目的に、NPO法人「りんくうフォーラム」が平成20年から開催。今回から「並級」「上級」に加え、難易度の高い「師範級」が新設された。

 会場では、試験直前まで勉強する受験者の姿も。緊張感がただようなか、「タオル織機を開発した人物は」「岡部宣勝が岸和田藩主になる以前、藩主であった藩は」―などさまざまな問題が出され、参加者たちが真剣に取り組んでいた。

193よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/05/26(木) 21:42:56 ID:g4i3Ym2s0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/208 橋の裏側 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110526ddlk27070416000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇川面から見える個性 凝った意匠が面白い
 ここらで一服。東横堀川の川面から橋を見てみよう。古い橋の裏側は、意匠が凝らされていて、けっこう面白い。最近はリバークルーズがはやってるので、見比べるのも一興。

 現存する大阪最古の本町橋は、正面から見ると実に風格がある。きれいなアーチを描く石造りの橋の裏側は、鋼材が網の目を作っている。1913(大正2)年のころのモノ造りは、実に堅牢(けんろう)だ。それにひきかえ、なんてやぼなことは言うまい。ただ、真上を走る高速道路の高架が邪魔だ。これがなければ、東横堀川の数々の橋の眺めは、ずいぶん違うだろう。

 大阪の高速はたいがい、埋め立てられた川の上を走っている。用地買収の手間がかからなかったからだが、おかげで市内中心部の景観を台無しにしている。ことに東横堀川は、上を高速道路にふたをされて、地図に表れない不幸な川だ。ソウルでは、川の上の高速道路を撤去したが、大阪でもできんもんか。

 高麗橋は本町橋と比べると、つるんとしたコンクリートのアーチが近代的な印象を与える。1929(昭和4)年にできた橋だ。

 普通に橋を渡ってると気付かないが、高欄のデザインもそれぞれ違う。平野橋は扇形だし、本町橋は網の目のようなデザインが施されている。

 橋の真ん中に橋の名前が表示されている。かつて水運に利用されていたからか、と思いきや、この橋名板は09年の水都大阪のイベントに合わせて設けたものだ。写真の撮影は08年なので、高麗橋には橋名がないし、本町橋は橋名板になる前のものだ。

 人がそれぞれ違う顔を持つように、橋もまた、それぞれ違う顔を見せてくれる。

 「川の端と端をつなぐから橋。箸(はし)も食べ物と口をつなぐから、はし。柱もはしごも、つなぐものはハシがつく」と大阪案内人の西俣稔さんが教えてくれる。対岸とつながることで人の行き来が生まれ、物が流れ、町が繁栄していく。

 八百八橋とうたわれた大坂には江戸時代末期、約200の橋があり、幕府が金を出して架け替えたり維持管理する公儀橋はたった12。本町橋や高麗橋がそうだが、それ以外は町橋で、橋の両詰めの町が金を出していた。公儀橋は江戸では御入用橋と呼ばれ、160〜170もあったのと大違いだ。

 「大都市比較統計年表」(08年)を見ると、大阪市の橋の数は839で、東京都区部(475)よりは多いが、18都市中では下から数えた方が早い。しかし、橋の長さと面積の総計は断トツの1位なのだ。長さは約14万4000メートル、面積は約289万7000平方メートルで、他都市とはけたが違う。長くて立派な橋がいかに多いかがわかる。八百八橋の面目躍如といったところだ。

 人々が橋を大事にしてきた大阪の伝統が、今に至るまで脈々と受け継がれている。【松井宏員】


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