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本迹に関して対話するスレッド

559沖浦克治:2009/07/14(火) 20:56:37 ID:AJ3hr85o0
 白ネコさんはね、曼荼羅至上主義者なんですよ。
 書き込みに如実でしょう。
 あの人はね、人の命より曼荼羅が大事なんです。
 それはさすがにいいにくいので、曼荼羅と拝む人に本迹はない。
 と、言い訳するんです。
 ところがね、本迹は立場の差でもあるんですよ。
 拝んで感激したり、決意したりするのは、拝む人で、お曼荼羅ではありません。
 この、行動する主体が本なんです。
 ピアノを弾いて感動を生む人がいて、コンサートで聴衆を魅了します。
 音はね、楽器から出ますが、音楽そのものはミュジシャンの命から湧き出ているのです。
 どんな立派なピアノがステージにおいてあっても、弾き手が弾いて初めて音楽が出ます。
 この、弾き手が本ですね。
 楽器は道具で迹です。

 お曼荼羅も全く同じ理屈です。
 所が、それは曼荼羅軽視だ。と、ありもしない屁理屈言って自分を正当化するんです。
 御書には、

 『経に云く「諸法実相」是なり、妙楽云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云、又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云、』
 (日女御前御返事)

 このように仰せですよ。
 仏法は必ず世法である。
 こう仰せです。
 ですから、お曼荼羅だけは世法の範疇にない。
 これは明らかに邪義なんです。
 これじゃ困る人達がいますね。
 日蓮正宗と言う宗派の人です。
 お曼荼羅、特に戒壇様が、唯一無二で、人より大事なんだ。
 こう権威付けないと、自分達の宗派は存在できなくなるんです。
 だから、手を変え品を変え、紛らわしい理屈を考え出して、人が本、仏が迹を否定しますよ。
 その証拠にね、天城さんと言う宗門の方がいて、

 自分は人が迹で、仏が本だとは一度も言ってない。

 と、イケシャーシャーと言いますよ。
 回りも乗せられて、そうだそうだ、本来お曼荼羅と人で本迹なんかない。て、浮かれます。
 ところがね、大聖人様はそうはおっしゃらない。

 『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』
 (百六箇抄)

 あらゆる事で、本迹を弁えなさい。
 この様に仰せなんです。
 ですので、白ネコさん、天木さん小野さんはね、創価どころか、蓮祖門下じゃないのです。
 この方々も、御書にありますね。

 『第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云』
 (兄弟抄)

 紛らしく魔は競い起こる。
 従えば悪道に落ちる。
 畏れれば創価は出来ない。
 このように仰せです。
 あの人達紛らわしいですね。

 人のための法なら、人が本。
 法のために人がいるなら、人が迹。
 どっちかですよ。
 中間はありません。
 中間がぼんやりとあると思わせるのが、紛然。です。
 魔の本質です。
 だから、大聖人様は、

 『万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』

 と、紛然を阻止されておられますよ。
 騙されたらいけないですね。

 『いい事をやらないのは、悪い事をするのと同じだ』(趣意)

 牧口先生です。
 人の命こそが尊極の当体なんだ。
 創価の原点です。
 思想宗教の違いが多くのテロを引き起こし、尊極の人命が世界中で失われている現在、最も重要な思想です。
 これを世界中に、人間革命の運動。として広めることこそが、現代社会の最善なんですよ。

 それを、小理屈ひねりまわして否定する人。
 悪いことをする人なんですよ。

560雨煽り:2009/07/16(木) 10:28:22 ID:NjA8zkPc0
『迹門不変真如の理』
『本門随縁真如の智』
迹門と本門です。御書にちゃんと書いてありますね。
読めませんか?

本・迹は随縁・不変のことで、事・理で、俗諦・真諦です。
読めないのか、読んでも理解出来ないのか知りませんが、
これが理解出来なければ、私の引用した文証も理解出来ないでしょう。

まぁ、『難信難解』ですから理解出来なくても不思議はありません。
しかし、自分が理解出来ないからといって、邪義や邪論等と言うのは謗法です。
邪義・邪論と言いたければ、文証を上げてから言えば良いのです。が、
まだ一人も文証を上げた人はいませんね。

「人が本・仏が迹」を非難している人は、誰でもいいですから文証を上げてください。
「人が本ではない」もしくは「本迹には立て分けられない」等の文証を上げてください。
非難している人で、文証を上げられる人、誰かいないのですか?

もしかすると、『不変真如』『随縁真如』の意味が解らないのかな?
『真諦』『俗諦』の意味も解らないのかな?
『事』『理』も解らず『本』『迹』が解る訳無いでしょうね。

561沖浦克治:2009/07/16(木) 22:56:36 ID:AJ3hr85o0
本迹は、一面から捉えるならば、理論と行動の差ですね。
 理論が迹。
 大聖人様の仏法は、法それ自体は普遍真如の理です。
 お題目は変化しません。
 ではお題目を唱え祈り、行動をする。
 これは、随縁真如の智で本になります。
 現実に当てはめると、眺め人は教学は述べるが行動が無いので迹。
 私共は行動をするので本。
 こう言う立てわけです。
 
 『本当の教学は智慧です。
 それは全ての戦いに生きてくるのです。
 世間は逆です。信心なしで、行動するからうまくいかない。
 御書を通して髄縁真如の智をもってやっていくのです。』

 先生の当体義抄講義からです。
 要は、ネットと言う閉鎖空間で、ハンネと言う匿名性に隠れて、小理屈を言い合って戦った気分になっている人は、人生そのものが迹なんですよ。
 ネットで述べる、現実で戦う。
 このコンビネーションが上手く行ってない人は、髄縁真如の智のない、空回りの人生です。
 仏法者ではないですね。

562夕焼け:2009/08/11(火) 18:24:21 ID:CNUGShjo0
「本」・「迹」で捉えるとき、
絶待・相対の二妙で捉える必要があると思います。
特に大聖人の仏法では絶待妙の上から本迹を捉えていく必要があります。
頭は混乱しますが。(^^!

御本尊について考察するとき、
人が「本」だから自己の本尊に唱題すればいいなどと言い始めたら、それは邪義です。
これが、人が「本」という言葉の危うさで、鬼神・魔のつけ入るところです。 
用心いたしましょう。

御本尊は万物下種の種子といえるものです。
日蓮大聖人の教えのとうり、御本尊に唱題することが信心の根本で、
日蓮大聖人が示されたとうり、難を乗越え広宣流布に生きることが成仏の要諦ではないでしょうか。

563夕焼け:2009/08/14(金) 20:27:36 HOST:OFSfa-07p7-168.ppp11.odn.ad.jp
本迹について

本と迹は幾つかの捉え方があると思う。
考えられるものを列挙してみると、

一、理と事で捉える。
一、理と名で捉える。
一、体と用で捉える。
一、因と実で捉える。
一、法と相で捉える。
一、冥と顕で捉える。
一、内証と外用で捉える。

まだあると思うが、引用はまた次回。

いずれにせよ、日蓮大聖人は本迹殊なりと雖も不思議一としている。

564沖浦克治:2009/08/15(土) 06:29:54 ID:AJ3hr85o0
 本迹を最も世間で納得を得られる捉え方は、目的が本、手段が迹。でしょう。

 何のため、の、何が本、ためが迹。
 一言の中に本迹があります。
 そして、分割はふかのうです。
 セットですね。

 行為と、目的です。
 目的があっても、行為がないと達成は不可能ですし、目的がなければ正しい行為は起こせません。
 衆生救済という目的があってはじめて菩薩の行が可能ですね。
 衆生が本で、菩薩は迹ですが、菩薩の中だけでは、四弘誓願と言う誓いが本、そのための行動が迹。
 然しながら、行動にも本迹があります。
 誓願にそった行動が本、外れた行動が迹。
 本迹はいくらでも細かく判定可能です。
 
 仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
 仏は仏法の中に含まれますので、

 仏が迹、衆生が本。
 衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
 人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
 こう決める事が本覚です。
 虚空会とか、御本尊様はその説明です。
 これが、仏法の基本原則です。
 これを外すと、外道になります。

 『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
 (一生成仏抄)

 素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
 所が複雑に読む職種の人がいます。
 日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
 この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。
 イタコですね。
 霊界と現世の橋渡し役です。
 仏法では霊界はありません。
 若退若出が命の本質です。

 『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
 (御義口伝巻下)

 イタコは不要ですね。
 同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
 これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
 すると、僧侶は不要になりますね。
 指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
 過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
 出家は不要です。

 曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
 邪義です。

565:2009/09/15(火) 18:52:51 ID:U5u.EwPE0
沖浦さん はじめまして
本迹についての 質問をしたいんですが よろしいでしょうか?
単なる質問です。

566沖浦克治:2009/09/15(火) 21:43:26 ID:AJ3hr85o0
 Rさん

 先ず自己紹介をどうぞ。
 その後ご質問をしていただいて結構ですよ。

567:2009/09/15(火) 23:09:52 ID:U5u.EwPE0
えっと 簡単ではありますけど、自分は学会2世で男子部に所属しています。
近辺の男子部や壮年部の先輩にはちょっと聞けないので、
直接掲示板で聞いてみようと思いました。
HNなので信憑性に欠けますけど、自称でもかまいません。
信心の体験については共感や納得できる部分もありますし、
ただ、僕の未熟な教学力ではわからない部分もありますけど、
書いている内容についての純粋な質問なので、ご迷惑でなければ、
お時間があるときでかまいませんので、教えてください。

いわゆる、人が本、仏法全体が迹というのは、
仏道修行を指して言われているんでしょうか?  
つまり、仏道修行の中で、人と法を本迹相対しているんでしょうか?

富士宮ボーイというサイトの掲示板で、
分けて相対できないとの主旨の書き込みを見たんですが、
ところが仏道修行としてみた場合、その中に
修行する人と、その為の法、という見方が出来ると思うんですが、
富士宮ボーイで書かれているような、人と法という見方ではなくて、
仏道修行を一つとして見たときに、その中に人と法があるという事なんでしょうか?

法のための修行ではなく、人のための修行ですから、
本分が人になり、余分が法に、相対出来てしまうと思えるわけです。
つまり、一見、人と法を直接、本迹相対しているように見えますが、
実のところ、仏道修行を本迹相対しており、その中に人と法があって、
本分が人になり、余分が法になるとの事なんでしょうか?

568沖浦克治:2009/09/16(水) 06:28:26 ID:AJ3hr85o0
Rさん、おはようございます
 貴方のレスの最初の部分を自己紹介のスレッドに貼っておきました。
 本迹に関してですね。
 仏道修行と言う観点では、修業をする人間が本、そのための法全体が迹。
 要するに主体はどちら側なのか?
 これが基本です。

 例えば、貴方や私が御本尊様にお題目を唱える。
 この時唱えると言う唱題行を行う私や貴方が本、お曼荼羅はもったいなくも迹。
 こう言うたて分けになります。
 創価のご観念文に、

 一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り

 とあります。
 ですが、南無の対象は迹、帰命する側が本。
 大聖人様の仏法はこう言う原則です。
 この場合、人が本であるから御本尊様軽視だ。と、浮かれ騒ぐ愚人も多々おりますが、捨てて置いて結構かと存じます。
 個人の矮小な思い込みと、創価思想は無縁のものでございます。

 『されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり」と判じ給へり、』
 (諸法実相抄)

 この通りです。
 何故今こう言う相対が必要なのか?
 世界広布のためです。
 世界中で起こる不幸の原因は、過てる宗教が原因です。
 その根源の一凶は、人が神や仏の下位に位置づけられる思想にあります。
 自爆テロに代表されるこれらの思想が、本来尤も尊いものである、人の命を神仏の名の元に虚しく散らす元凶となっております。
 仏法は、別けても大聖人様、別けても創価思想は、人こそ本よ、人こそ本仏よ。との革命思想です。
 この思想以外、世界の民衆を救済する法はございません。

 人が迹、仏特に曼荼羅が本との邪義は、日蓮正宗の26世、寛師の唱えた戒壇様本懐論が起源です。
 一大秘法が戒壇様との邪義は、宗門のもので、創価にはその考えはございません。
 以上ですが、他にご質問があおりでしょうか?

569:2009/09/17(木) 01:38:36 ID:U5u.EwPE0
回答ありがとうございました

行動を本迹されてるというのが分かりました
仏道修行、広宣流布、唱題にしても、本分となるものを本、他を迹。
個別にみたら人法一箇ですから、差別はないと書かれてますから、
行動、そのものの本質を本迹相対してますね。
そういう相対でしたら、御書や池田先生の指導と何ら矛盾しないと思います。
言わんとしていることが分かりました。

570沖浦克治:2009/09/17(木) 07:40:04 ID:AJ3hr85o0
 Rさん

 何時でもどうぞ。

571岩志九郎:2013/10/26(土) 13:41:53 ID:???0
新しい掲示板を見つけました。 宗教掲示板を紹介します。 

http://shizu.0000.jp/cult/index2.html
宗教@しずちゃん ■ ▼  宗教に関する話題です。
http://shizu.0000.jp/cult/index2.html

創価カルト、池田先生のスレッドが沢山あって、面白いですよ。
カルトの皆さんも、どんどん投稿しましょうね。


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