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四句否定

1:2013/05/30(木) 06:35:06 ID:haDDP0xo
こんにちは。

今、感じたのですが・・和井恵さんは、もしかしてこちらの討論の掲示板を通して、
あえてご自身も行う事によって、四句分別を討論相手がしている事に気付かせようとされているのではないでしょうか。。

釈尊が四句否定を「友」達に説いたように・・
こちらに集まる方達に、実践としてされているのではないでしょうか。

2和井 恵:2013/05/30(木) 08:03:11 ID:GE8fIX9k
  
いいえ、それはかなり考え過ぎですね。

「四句否定〈無記〉」と、大乗仏教の説く「無分別〈の智〉」とは異なりますから。
〈 … というか、無分別は、四句否定の四番目のパターンなので、×なのです 〉

釈尊は、苦の滅尽に「役に立つ分別〈四諦八正道〉」と「役に立たない分別〈四句分別〉」に分けて、
後者〈存在論的な分析思考や見解〉を否定する…というよりも、
それらへの「無記〈気にしない・考えない・無執着になる〉」を説いたのです。

これが「道智〈善法・苦の滅尽に有用な方法…を証知する能力〉」と
「非道智〈道智の逆〉」を得る修行へとつながり、その果報として、七覚支の「択法覚支」が成就するのです。

「道智」+「非道智」→「行道智〈遠離 ・離貪・解脱・悟りに到るプロセスを証知する能力〉」の獲得

「行道智」を身に付けるところにまで至れば、自己と法を依処とする、自力修行の実践が可能になるのです。



── 釈尊は、周囲の修行者たちから「分別主義者」と呼ばれていました。

経典〈原始仏典〉を読めば分かりますが、釈尊は「無分別」など説いてはいません。

徹底して「How to … 」、つまり、

如何にすれば、苦を滅することが出来るのか、ということを、具体的に、教えていたのです。

3:2013/05/30(木) 16:10:33 ID:haDDP0xo
釈尊は、唯一「苦の滅尽」を目的とした実践方法である「四聖諦」を説かれました。その目的以外については「無記」とされました。このように理解しています。

>「四句否定〈無記〉」と、大乗仏教の説く「無分別〈の智〉」とは異なりますから。
>〈 … というか、無分別は、四句否定の四番目のパターンなので、×なのです 〉

はい。大乗の「無分別智」を釈尊は説かれていませんね。

四聖諦は、渇愛があれば苦があり、渇愛が無ければ苦がない。渇愛が生まれれば苦が生まれ、渇愛が滅すれば苦が滅する。つまりは縁起するのだとこのように理解しています。そしてその方法は、八正道であり、その対象は渇愛の元である「識と名色」の五取蘊・・これを滅する為に止瞑想で心に沸き起こる妄想を沈め、観瞑想によりこれを根絶やしにする。。そしてこれらの行意は、五取蘊の滅尽する流れを作り出し、同時に無明を明智に変化させる方向へと導かれると言う理解です。

四聖諦・・これの繰り返しは、法を正しく理解されている方との出会いにより、無明故の邪思推が正思推へと変化します。そしてこれを繰り返し修行する事により正見(八正道)を得られれば、同時に対立する無明が滅尽されていると言う事で、四聖諦の教えへの執着も滅するので手放される。。。渇愛が滅すれば苦が滅する。と言う理解です。

無明とは仏法を知らない事・・苦があれば四聖諦がある。苦が滅尽すれば四聖諦も滅す。と言う事でしょうか。

4和井 恵:2013/05/30(木) 17:53:33 ID:GE8fIX9k
> 苦が滅尽すれば四聖諦も滅す。と言う事でしょうか。

滅すると言うよりも、「筏の喩え」と同じで、「必要なくなる」のです。

5:2013/05/30(木) 21:42:00 ID:haDDP0xo
>滅すると言うよりも、「筏の喩え」と同じで、「必要なくなる」のです。

そうですね。苦がない場合には四聖諦の教えは不必要となりますね。

№3の私なりの解釈は、釈尊の教えと言う事で大枠での間違いは無いでしょうか。
また何か有りましたら、書き込みさせて頂きたいと思いますので、その際には、解釈間違い等ありましたらご指摘をお願いします。

有難う御座いました。

6和井 恵:2013/06/01(土) 02:42:30 ID:GE8fIX9k

> №3の私なりの解釈は、釈尊の教えと言う事で大枠での間違いは無いでしょうか。

はい、大丈夫ですが、… あえて一言付け加えるとするならば、


> 止瞑想で心に沸き起こる妄想を沈め、

という説明は、テーラーワーダ仏教がよく使う説明なのです。

原始仏典では、そのような説明はあまりされずに、

 1.「五蓋」の中の「掉挙」への対処法として。
 2.「有尋有伺定」を集中して行った後の「休息方法」として。

この二つの効用が、主として語られていることを覚えておくといいと思います。

7:2013/06/01(土) 05:51:27 ID:haDDP0xo
>1.「五蓋」の中の「掉挙」への対処法として。
 >2.「有尋有伺定」を集中して行った後の「休息方法」として。

 >この二つの効用が、主として語られていることを覚えておくといいと思います。

有難う御座います。
行う人の能力の個人差もあるとは思いますが、あくまでも慧解脱を第一の目的とし、有尋有伺定(思推)に集中した時の休息としてで良いのですね。。それと掉挙への対処と言う事は、微妙に沸き起こる一瞬の達成感を鎮める為にと言う理解で宜しいでしょうか。

「観」の瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)の有尋有伺定は「正思推」だと思うのですが、無尋有伺定と止瞑想の無尋有伺定の意味がつかめないのですが、宜しければ教えて頂ければ幸いです。今までの私の認識では、止瞑想では心静かに精神統一を図っていたイメージがあるのですが、この機会に「観」の瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)と止瞑想の無尋有伺定のそれぞれの持つ意味を教えて頂ければと思います。

私は、釈尊の教えについての正確な言葉とその言葉の意味を、こちらにお邪魔するまで知りませんでした。
日常の強烈なストレスを出来る限り減らそうとあれこれ考え・・結果として観の瞑想や止の瞑想を知らず知らずのうちに行っていたようなのです。ですので、今は私の心の状態の把握はある程度出来ていますが、後はそれを仏教ではどのように表現するのかを知りたいと思っています。

よろしくお願いします。

8:2013/06/01(土) 06:07:37 ID:haDDP0xo
すみません、訂正です。

「観瞑想」=「有尋有伺定と無尋有伺定」 で「止瞑想」=「無尋無伺定」でした。

9:2013/06/01(土) 16:15:27 ID:haDDP0xo
心は自然に任せておくと、水が高きから低きに流れるように、現在の位置よりも低い処へ流れやすくなる性質を持つ(例えば、無色界定の無所有処まで高まっても、すぐに識無辺処に、次には空無辺処にと次元が下がる)と言う事で、その目的地に留まり易い様な心の状態をコントロールする為に行うのが「四念処=正念」と言う理解です。

四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)の事で、観察する瞑想による基礎能力と発揮できる力の事ですので、

瞑想時に対象を何かに繋いでおく事(例えば、身念処では、呼吸の出入りと意=意識が対象である呼吸に向いて繋がりを持っている)を「尋」と表現し、この時、意が呼吸の出入りと深く関わっていなければならないと言う事を「伺」と表現していると言う理解です。

観瞑想の「有尋有伺定」は「何かを何かに繋いで置く意があり・何かが何かに深く関わっていなければいけない」と言う事で「無尋有伺定」は「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていなければいけない」と言う事になり・・・止瞑想の「無尋無伺定」は「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていない」となります。

ですので、正思推=正しい意行と言う事で、積極的に意が何かを繋ぎとめ、深く関わっている状態ですので有尋有伺と表現します。

このように考えると観瞑想の「有尋有伺」は、色界の積極的な意行の瞑想で、対象が「色」。
そして同じく観瞑想の「無尋有伺」は、無色界の積極的な意行の瞑想で、対象が「時空間等の無色」。

止瞑想の「無尋無伺定」は、「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていない」と言う事ならば、積極的な意行はなく、その対象も当然ありませんので・・・高まった集中時の一時の休息として使われ、同時に観瞑想時に無知故に発生する「掉挙」を無力化する働きに使われると言う理解です。

・「有尋有伺」は、色界の観瞑想。
・「無尋有伺」は、無色界の観瞑想。
・「無尋無伺」は、休憩や掉挙を沈める止瞑想。

このような解釈をしましたが、どうでしょうか?

10和井 恵:2013/06/02(日) 11:03:14 ID:GE8fIX9k

ご返事が遅れてしまい、申し訳ありません。


> あくまでも慧解脱を第一の目的とし、有尋有伺定(思推)に集中した時の休息としてで良いのですね。。
> それと掉挙への対処と言う事は、微妙に沸き起こる一瞬の達成感を鎮める為にと言う理解で宜しいでしょうか。

> 「観」の瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)の有尋有伺定は「正思推」だと思うのですが、
> 無尋有伺定と止瞑想の無尋有伺定の意味がつかめないのですが、宜しければ教えて頂ければ幸いです。

これについては、このブログ記事の過去記事で、ある程度の説明していますので、

→ http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/b046ce895b45f1f7fd109cea096d77e4 

をお読みください。

その後で、さらに分からない処をご質問頂ければ … と思います。

11和井 恵:2013/06/02(日) 16:52:00 ID:GE8fIX9k

有尋有伺定や無尋無伺定を記した原始仏典については、

苦を消滅させる原理と方法(初級編)その7〜11.

→ http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/24b61faa3177caf40a8d6e4a53c90a0e

で、ある程度説明をしています。


有尋有伺定と有尋無伺定については、まだ、ほとんどブログでは説明をしていません。

この説明に使う経典のほとんどが「増支部経典」なのですが、
現在、『 大蔵出版OD版・南伝大蔵経17〜22下〉』しか出版されておらず、
漢文調で分かりづらい和訳なので、一度訳し直さないと引用が出来ず、
今まで後回しにしてきたのですが、
 
『 原始仏典・和訳&解説 @ 和井恵流 』の方に、

解説なども、同時に書き加えて、早めにUPする予定を立てました。

ですから、少しお待ち頂きますが、それで原典〈一次情報〉を参照してください。

12:2013/06/03(月) 12:03:29 ID:haDDP0xo
釈尊の教えを元に瞑想中に心の中で、初めは言葉や思考によるイメージを作り出してそれに集中する事により、楽味・味著に対する危難・過患の想を作り出し、それを観察します。⇒有尋有伺定と言う理解です。

そしてこれを繰り返す事によって、やがて言葉や思考をイメージしなくてもその危難・過患の想が一瞬で再現出するようになってきます。⇒無尋有伺定と言う理解です。

そしてこの二種類の瞑想を集中して行っていると疲れてきて、又、集中が途切れてきますので、それを緩和させる為に行われる「想もイメージせず、それを観察もしない」と言う状態・・・そして最終的に無色界定では、何も対象とせずただこの状態で、ほんの僅かな危難・過患の想を観察(伺)している状態での瞑想であり、この場合、当然「掉挙」と言う心の浮つきも消え去る事になりますね。と言うのが現在の無尋無伺定と言う理解です。

ですので観瞑想は「有尋有伺定」「無尋有伺定」で、止瞑想が「無尋無伺定」となると言う理解です。

>『 原始仏典・和訳&解説 @ 和井恵流 』の方に、

>解説なども、同時に書き加えて、早めにUPする予定を立てました。

>ですから、少しお待ち頂きますが、それで原典〈一次情報〉を参照してください。

有難う御座います。上記は現在の理解ですが、三種の定がもしも私が今イメージしているものと遠くないものであるのならば、心の奥底のかなり些細な動きを文字で表現されているように感じます。。。尋と伺・・・それとリクエストなのですが、お暇なときで結構ですので「中部10経 念処経」の和井さん流の訳と解説をUPして頂けないでしょうか・・

宜しくお願いします。

13和井 恵:2013/06/04(火) 04:19:06 ID:GE8fIX9k

mixi日記にも書きましたが、私たちの「心」は、筋肉とよく似ているのです。

つまり、それを毎日使い続ければ、その機能は維持され、使わないようにすれば、退化します。
そして、現在、退化してしまっている筋肉を使えるようにするには、リハビリが必要なのです。

不必要な筋肉〈心の働き・煩悩〉を使わずに退化させることと、
必要な筋肉〈煩悩を滅するのに有効な厭逆想と不厭逆想〉を鍛えること。

「観法〈ヴィパサナー〉」には、大きく分けて、このような二つの修行法があるのです。

中部19経「二種考経」では〈 不必要な筋肉を使わない 〉という方法〈有尋有伺定〉が説明されています。
そして20経「考相経」では、上記を含めた、五つの方法が提示されているのです。

一番目が19経の内容〈 不必要な筋肉を使わないという方法 〉。
二番目が「危難」つまり厭逆想を使った方法。
三番目が「思考の停止」つまり、無尋無伺定。
四番目は、新しいパターンの無尋有伺定。

 〈 彼は、粗い思考順路を徐々に回避して、細かい思考順路を順々に行ないます 〉

     ※ 粗い思考回路 … 尋     ※ 細かい思考順路 … 伺

五番目は、ヨーガによる力技。

「有尋有伺定」「有尋無伺定」「無尋無伺定」、それぞれに三パターンくらいの意味があります。


> リクエストなのですが、
> 「中部10経 念処経」の和井さん流の訳と解説をUPして頂けないでしょうか・・

了解しました。
ただ、今日(4日)から三泊四日で、東京逓信病院に「抗がん剤治療」の短期入院をします。
7日(金)のお昼には戻る予定なので、それまでお待ちください。

ただ、「中部10経 念処経」を含め、どの経典もそうなのですが、
そこで「説かれている内容」を把握すると同時に、
そこでは「説かれていない内容」も把握する必要があるのです。

── つまり、その経典の説明には「何が欠落しいるのか」を推察して、
その「足りない説明部分」を、他の経典から「探し出す」作業が、経典を解読する方法なのです。

「念処経」の場合は、身念処は、幾つかの観想法〈矯正法〉が提示されているので善いのですが、
受念処と心念処に関しては、その方法が欠落したまま、ただ「観察しなさい」と説かれているので、
その点において、四念処そのもの〈全体像〉を説明している経典にはなっていないことを、
予め承知しておいてください〈もちろん、説明で補足はしますが…〉。


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