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四句否定

9:2013/06/01(土) 16:15:27 ID:haDDP0xo
心は自然に任せておくと、水が高きから低きに流れるように、現在の位置よりも低い処へ流れやすくなる性質を持つ(例えば、無色界定の無所有処まで高まっても、すぐに識無辺処に、次には空無辺処にと次元が下がる)と言う事で、その目的地に留まり易い様な心の状態をコントロールする為に行うのが「四念処=正念」と言う理解です。

四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)の事で、観察する瞑想による基礎能力と発揮できる力の事ですので、

瞑想時に対象を何かに繋いでおく事(例えば、身念処では、呼吸の出入りと意=意識が対象である呼吸に向いて繋がりを持っている)を「尋」と表現し、この時、意が呼吸の出入りと深く関わっていなければならないと言う事を「伺」と表現していると言う理解です。

観瞑想の「有尋有伺定」は「何かを何かに繋いで置く意があり・何かが何かに深く関わっていなければいけない」と言う事で「無尋有伺定」は「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていなければいけない」と言う事になり・・・止瞑想の「無尋無伺定」は「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていない」となります。

ですので、正思推=正しい意行と言う事で、積極的に意が何かを繋ぎとめ、深く関わっている状態ですので有尋有伺と表現します。

このように考えると観瞑想の「有尋有伺」は、色界の積極的な意行の瞑想で、対象が「色」。
そして同じく観瞑想の「無尋有伺」は、無色界の積極的な意行の瞑想で、対象が「時空間等の無色」。

止瞑想の「無尋無伺定」は、「何かを何かに繋いで置く意がなく・何かが何かに深く関わっていない」と言う事ならば、積極的な意行はなく、その対象も当然ありませんので・・・高まった集中時の一時の休息として使われ、同時に観瞑想時に無知故に発生する「掉挙」を無力化する働きに使われると言う理解です。

・「有尋有伺」は、色界の観瞑想。
・「無尋有伺」は、無色界の観瞑想。
・「無尋無伺」は、休憩や掉挙を沈める止瞑想。

このような解釈をしましたが、どうでしょうか?


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