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【多角的】引き寄せの法則・肯定派専用スレ【検証】5
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2chオカ板【LOA】ザ・シークレット【引き寄せ】スレから
派生した引き寄せの法則スレです。
多角的検証をしたい、肯定派のためのスレッド。
科学的な面からの検証他理論からのアプローチ
ちょっと変わった実践報告等、なんでもありです。
その他潜在意識系の話題もOK^^
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>>24
>「おまえはまだ○○を必要だと思ってしまっているよ。それを捨ててしまいなさい。」
面白いww
「おまえはまだ○○を必要だと思ってしまっている。それの観念を捨てる必要がある。」
なんつてw
>どちらにでも自由に進める大海原の航海とはいえ、やっぱり北極星みたいな目印ぐらいは
>欲しいわけだぜw
だったら目的を持とうー(爆)
どんな目的でも自由ですばい。
カンバスが真っ白だから、好きな絵が描ける、んだぜw
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>>25
あ、画家さんだったんだぜw
そうそう、そうやって真っ白なカンバスを前に絵を描いてみて、なんだか上手く描けなくて、
「筆が悪いのだろうか?」「もっと高級なカンバスじゃないとダメかしら?」「絵の具のせいだ」
なーんて考えてしまうわけだぜwww
必要なのは何を描くかというハッキリとした意図と、完成図のイメージだっつうわけだぜw
余談だが、だからあの前衛的な抽象画とか絵の具をぶちまけるような偶発性の強い作品とかの
良さがわしにはイマイチわからんのだぜw
でも岡本太郎の良さは最近なんとなくわかってきたのだぜww
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仏教では愛も執着の一つにすぎないらしい。この世界観を仮定すると、執着と愛を分けて考える、108式ただ愛を送るメソッドが根本からナゾに思えてくる。
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>>26
だぜさんと話してると気持ちが暖かくなるぜww
最近、作品製作時に、意図を出来る限り放棄して(意図を意識せず)「起こりうる全ての現象を許す」というアプローチをしています。
すると今までどんだけ努力(爆)しても出現しなかった、放棄したはずの「意図」が巧まずして出てくるんですわ。
いや、それのみならず、全く見たこともない世界が展開します。
「起こりうる全ての現象を許す」が今のテーマです。
おかもっちゃんの爆発もこれかもw
では出かけまーすノシ
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>>27
その仏教の愛ってのはもしかして愛が憎に転化してしまう愛情とかのことじゃないのだろうか?
だとしたら確かにそれは執着に分類される愛だと思うのだぜw
百八の愛ってのは、それとは違う気がするのだぜw
何で読んだか忘れたが、この世の基本、この世界がこの世界として形作られている、
その基本的な波動のことを愛と呼ぶのだ、みたいな意味での愛じゃあないかと思うのだぜw
基本だからその愛の状態になるということは「ゼロ」でもあるわけだぜ。
そうすると仏教の空ともポノポノのゼロとも矛盾なく愛の状態でいられると思うのだぜw
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>>27
ヒント:
仏教で言う「愛」とは愛着、つまり中国の古典語としての「愛」です。
例えばお気に入りのグッズがあって、それを絶対に手放せない、人になんかあげられない、これが「愛」です。
和語で言う「愛(お)しむ」、が仏教で言う「愛」の正体。
現在の我々が使っている愛の概念とは違いますよ。
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エロスとアガペーみたいなもんかな?
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>>28
ホッホー……なるほど、するとあの前衛的なアートも、意図すら放棄し「全てを許容」した
状態を表現しているのだろうかwww
おおう、そう考えるとむしろわしの方に「芸術とはかくあるべき」という固定観念があったわけだぜw
なるほどだぜwww
…ってさあ、これも最近のわしのテーマなんだが、それでも作品を見て「イイ」とか「好きじゃない」
とかがあると思うのだぜ。
わしなんかはな、特に理解できない作品だとか、特にセンスあるなあと感じない作品に対してもだな、
「まぁこの人はこの人で何か訴えるモノがあって、それを自分なりに表現しようとして、努力して、
それで出来上がったのだから別にイイんじゃないだろうか」みたいな感じで『評価』を放棄してしまうのだぜw
でもやっぱりセンスのある作品だとか、見ていて心地よいものだとか、バランスや色使いの良し悪しだとか、
そういうものはあると思うのだぜ。って考えると、例えばわしもWEBでデザインとかしなきゃならんコトが
あるわけだが、自分勝手にやるんじゃあなくて、やっぱりそこらへんの意図も必要になってくるのかしらとか
色々考えてみたりするわけなんだが、まぁ考えても仕方ない部分ではあったりして、えーとりあえず
わしもそろそろ仕事再開するのだぜww
ノシ
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>>20
若いのに何も執着できなくて、枯れた老人みたいになってしまうのもなぁ。
例えば甲子園みたいなスポーツでも、絶対勝ちたい!!という勝利への執心がドラマを生んで人を感動させるわけだし。
叶ってもいいし、そうならなくても構わないっていうゆる〜い精神状態が、必ずしも人を成長させてくれるとは限らないかも。
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>>27
それが慈悲ってやつかな?
ただ相手に慈悲を送るって感じかなぁ。知らないうちに一方的に慈悲が送られてくるのって、嬉しいもんなのかな。
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起こりうるすべての現象を許すか・・
私もそれやってみます。ありがとう。
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>>18
こんなとこに埴谷ファンがいたとは…。
と思ったら、画家さんw
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>>25
>ですばい。
って画家さん、すごく近くに住んでるかもしれないw
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>>32
横ですが、非常に狭く学術的な解釈の、ある一観点だけで言えば、
抽象絵画・前衛芸術の類は、むしろ「意図的な意図」の固まりであるとも言えます。
「抽象的であること、前衛的であること、偶然性によること」を、
強く意図してるわけです。実はあんまり偶然じゃないんですw
宣言が先に来ちゃってたりもします。
もっともこれは、かなり単純化した狭い意味範囲でのことですが。
よくわからん、って人が多くても、しょうがないカテゴリの芸術かな、
とも思うですよw
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>>38
ほほう、偶発が意図だったとはこれまた盲点だったのだぜww
でもってなぜか「意図した思考がシンクロニシティ(偶然の一致)によって現実化する」
ってのとカブって聞こえたのだぜw
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>>36
埴谷先生はいろんな示唆をくれました☆
ぢっちゃんのファンですw
>>37
デフォは福岡ですが今は東京です。
雑談スマヌ。
では地方巡業してきますノシ
>>38
だぜさんもノシ
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本スレ>>422さん、
まずは、同僚や部下に向けたアファメーションを引用して、あなたにアドバイスします。
「雨の日の外出を嫌わず、晴れの日に感謝しろ」・・・自分にとって都合の良い相手だけが
お客様になるとは限りません。世間には嫌な人が意外に多いのだと考えた方がいいです。
あなたの都合で「できれば不幸にあってほしい・痛い目にあわせたい・死んでほしい」など、
とんでもないことだと思いませんか?
「妄想を抱いて不安になるより、そこへ飛び込んで空気に慣れろ」・・・「坊主が憎けりゃ袈裟
まで」などという言葉もありますが、一旦嫌い始めると、とめどなく嫌いになっていく気持ちは
分かりますが、拒絶ばかりしないで、その人の懐に入ってみると、意外に想像するより嫌な
人ではないかもしれませんよ。
「神様は、どこかでお前を見ている」・・・あなたにしてみれば、辛い思いをしながらも耐えに
耐えて接客していることと思います。ですが、同じ環境が永久に続くことなどありえません。
ある時期に環境が好転することは充分にありえます。
最後にリアトラ的に言うと、嫌なお客様は、沢山のお客様の中の一人ですよね?それなら、
「重要度」を下げて、一人のお客様を嫌うエネルギーを他のお客様に好意的に接する為に
使うべきではないでしょうか。
【お願い】
現在アクセス規制により、本スレに書き込みができません。どなたか、上記レスを本スレに
コピペして頂ければ幸いです。m(_ _)m
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>>41
コピペしてきました
ご確認下さい
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/occult/1222257962/426
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>>42さん、
ありがとうございましたm(_ _)m
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>>33
求めないのは枯れているからとは限らない。
満たされているから何も求めないという状態がある。
もちろん何も求めないから執着もない。
食料品の買い物は、飯を食った直後が良い。腹一杯だから買いすぎることがない。w
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>>8
はーい。了解です!
最近忙しくてアップも追いついてないので大丈夫です◎
2スレ分はさすがに沢山ありますwカオスです(違う
頑張ってください!私もこれから続きをまとめますノシ
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>>44
勝負事はハングリー精神がある程度ある方が勝ったりするがな。
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>>46
そうかなあ? 熱くなってやればやるほど負けたりしないか?w
あと、ビギナーズラックってあるよね。あれ、よく分かってないから勝っちゃうんじゃないかと思う。
分からないから力まないで済む。(過剰ポにならない)
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>>47
あるある。
スポーツなんかでも怖いもの知らずの時のほうがいい結果で、技術とか体力とかは
向上してるのに、試合で勝てなくなっちゃったり…
一見「やる気あるのかなぁ」くらいの人のほうがコンスタントに結果残したりすることが
多いようにも感じる。
表面的な見え方の問題かもしれないけど。
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やる気なさげに見えて強いって漫画の世界じゃよくあるけど、リアルのスポーツ界でいるか?
本番で緊張しすぎないよう、熱心に練習を積んでるだけなら分かるけど。
それはやる気ないのと正反対だし。
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スロットは初めてやる機種は必ずお座り一発なんだよねw
不思議だ
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>>49
ちょっと自分「やる気なさげ」の基準が間違ってるのかもしれないw
一般からしたらどの人も充分頑張り屋レベルだと思うけど、練習すごい
やります!って人より、「この人あんまり練習しないんだなあ…」って人のほうが
成績良かったりすること結構あるよ。
単にやりすぎの人はオーバーワークで怪我や故障が多くなりがちで、
本番で力発揮できないってこともあるのかも知れないけど。
「○○(競技名)あんまり好きじゃないです、もう早く止めたいです」とか
言ってる知り合いが全国大会で優勝したこともあったり…
あ、でも色んなタイプの成績上位者いるけど、共通するのはここぞの時の
集中力のすごさは目を見張るもんがあるなと思った。
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>>39
前々からだぜw氏に聞いてみたかったんだが、
だぜw氏は、死後の世界や、輪廻転生みたいなことは個人的に信じてる派なのかな?
ていうのは、最近のだぜw氏の発言などを見ていると、かなり仏教寄りになってきたと第三者から見ると感じられる。
まあ、前からだぜw氏は、オーラの泉や西の魔女〜なんかが好きだから、輪廻支持派会長だと思うんだけど、
俺も前は漠然と死後の世界はあるんじゃないかな〜なんて根拠なく思っていた。(ちなみに俺自身は無宗教)
が、引き寄せスレに参加するようになってから、仏教系の本なんかをさわりだけ何冊か読んだら
仏教では基本的に死後の世界は無いと言ってるよね?
仏教はむしろ、ケン・ウィルパーの『無境界』で書かれている論文のように
そもそも全ては永遠で、生も死も時間も、あらゆる境界は存在していない・・みたいな哲学的世界観だ。
そうなると、生きてる意味って何?なんてたまに思ってしまうんだよな。
もし、永遠を完璧な晴天の青空とするのなら、
俺らの人生や、喜怒哀楽、全ての事象は晴天の下にある、
流れては消えてしまうはなかない雲と一緒だ・・
そうなると、だぜw氏の前世は代々木公園の鳩だったという希望も、単なる妄想かもしれんよ?
人生が流れては消えてしまう雲のようなら、
とりあえず公開が終わらないうちに今からだぜw氏より先に「20世紀少年」観てくるわ。
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雲は自分ではない。その雲を作っている側の空の方が自分だ。だからなくならない。
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>>51
趣味でも勉強でも結果でてる人はやる気に関わらず、すべき努力はしてるよね。
親に言われてピアノを嫌々してて、何かのコンクールで賞を取った知り合いがいたんだけど、その子は実は物凄く負けん気自体が強かったので、手首痛めかけるほど練習してた。
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>>52
それは以前どこかにダラダラと書いた気がするのだが、そもそもお寺の付属幼稚園卒なので
大昔は悪いコトをしたら死んでから閻魔大王に舌を抜かれると思っていたわけだぜw
でまぁその後の死生観というか、あっちとこっちの世界の関係というのは、わしの中では
バシャールだとか神との対話風味になっているのだぜw
ああ、あとエハラーも入れておくのだぜw
それらに共通するのがワンネスっていうんだろうか、やはりそもそもは1つであるという考え方で、
エハラー的に言えばわしらの個々の魂ってのはコップから滴り落ちた水滴の一粒であり、
神との対話的に言えば……えー、ヒトコトで言えないので詳細は省略だぜww
でもって生まれてくる理由だとか輪廻転生だとかは、贖罪的な意味合いでの「カルマ」だとか、
エハラーが言うような「学び」だとかいうよりは、バシャールや神との対話にあるような
『てめえでそうしたいと思って、その家族その性別・その環境・その状況を選んで生まれてきた』
と信じたいのだぜw
ちなみにエイブラハムには惰性的な創造という話があったが、神との対話では「惰性的な転生」
というのもあると言っとるのだぜw
それはつまり生きてようが死んで別の世界にいようが、自分はいつでも創造主であり、
ちゃーんと意図をしておかないと「無意識的に生まれ変わってしまう」ということがあるってコトだぜw
例えば罪の意識の強い魂が、それを無意識的に償いたいと思ってると、それを償うような
シチュエーションで生まれてくるわけだぜ。これが世間一般で言うところの「カルマ」なんじゃないかと
思うのだぜw
逆に言えばだな、死んでからもちゃんと意図を持っていれば「意図的な転生」どころか
「転生するかどうか」もちゃーんと選べる、ってな風に考えている次第なのだぜw
スレ違い御免だぜw
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>>54
負けん気が強いとか劣等感が強くて続けている人は敵が居なくなったら終わりな
感じがするな。目標が他人を抜かすことだから。それと、一番のやつを抜かした
後の伸びがないと思う。やってることが自分の好きなことで他人が関係ないなら
これはない。他人は関係なく伸びる所まで伸びる。
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>>55
聡明なだぜwさんが、江原某なんかの言うことを受け入れているのが自分としては納得できない・・・
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そこはあれだ、許容し可能にする術を使うのだぜw
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>>55
輪廻は個我があるという間違った認識によって起こると自称悟った人が言っていた。
つまり、個別の一人一人の意識はあるように見えるだけで本当はなくて、大きい
意識が一つあるだけ。そちらは永遠にそのままで産まれるだの死ぬだのはない。
江原さん風に言うならこれがコップの中の水だろう。但し、この大きな意識からは
一度も切り離されてはいない点が少し違う(だからこれについては神との対話での
表現の方が近い)。人間の体は大きな木に毎年咲く花のようなものだが、花だけが
自分なのではない。体から生える毛や爪だけが自分ではない
のと同じこと。それは生え替わる末端部分であって本体ではない。
これは単純に物質的なものに置き換えて考えても同じだ。地球は宇宙という環境の
中に咲いた花だ。人間は地球という環境の中に咲いた花だ。環境との繋がりは
なくならないし、それなしでは存在し得ない。そして花を咲かせている環境が
本体であり花は延々と生え替わり続ける末端部分だ。
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>>56
実際はどんな世界でも後進が出てくるので、敵がいなくなって終わりというのははないがな。
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>>59
何か読んでるとフラクタルの模様が思い浮かんだ
自己相似形とか
全体(=大きな意識)と個々(=一人ひとり)が同じ形みたいな
ごめん意味不明で
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ほとんど知識がないのでスマソだが、
その『てめえでそうしたいと思って、その家族その性別・その環境・その状況を選んで生まれてきた』
というのが神との対話に出ているそうだが、いわゆるスピリチュアルというやつだろ?
でさ、それでもいいんだが、てめえでそうしたいというのをどの程度計画しているのかなんだよ。
だって性格や行動は生まれた環境下で後天的に、しかも本人の自由意志によって「選択」され、
それによって形成されていくものだろ?と思うと、どうも納得いかん。
が、しかし大変興味はあるのでも少しお聞きしたい。
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>>62
性格の形成要因は環境だけじゃないでしょ。
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>>59
そそそ、分離しているように見えるだけで実際は繋がっているとわしも思うのだぜw
でもってエハラーも多分分離しているという主張をしているわけじゃあなく、単純にイメージしやすい
説明をするとそうなっちまうという感じだと思うのだぜw
>>61
いや、まさにその通りだと思うのだぜw
それがわしらは神に似せて作られたという意味だ、と誰かが言っていたのだぜww
でもってその最大のパワーこそ創造主としての引き寄せのチカラなのだぜwwww
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>>63
ああ、もちろん。長くなるのではしょって言っただけだよ。w
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つーかさ、本人の「自由意志」でさえ、その計画の中にはすでに織り込まれているってことなのかなってことなのよ。
だとすると、その願望実現系の、あなたには無限の可能性があるんだ云々というのはなんだ?ということになる。
その可能性を追求していくことも織り込んで生まれてくるとかになるのか?
そうなるともうなんか逆に、転生前の計画があろうとなかろうと同じってことにもなるな。w
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>>65
はしょりすぎだw
そんなに長くならんじゃないかそもそもw
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>>62
うむ、わしの理解の範囲でお答えするのだぜw
どの程度の計画かといえば、青写真程度なのだぜ。そこはバシャール2006でも読んでいただくと
わかりやすいと思うのだぜw
性格なんかは後天的な部分もあるが、先天的な部分もまた非常に大きいと思うのだぜ。
生まれたての赤ん坊を見比べても、やっぱり個々に性格は違うのだぜw
で、後天的な部分であれば、逆に自分でそれを意図的に作りかえるコトもできるわけだぜw
それは性格だけじゃあなくて、その計画を立てた青写真に対しても同じなのだぜ。
親兄弟や肌の色、国籍だとか先天的に持ち合わせたものは変えられんのだぜ。
だがそれも計画のうちであって、それらを上手く使うことで今回非常に有意義な経験ができるよう
自分で選んできたわけなのだぜ。
だがそれを上手く使うことも、使わずにいることも、それに抵抗することも自由なのだぜ。
それが「自由意志」というやつだと思うわけなのだぜw
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>>68
はー。なるほど。どうもです。
でも、そういう青写真があるという説があるかと思うと、今度は個我意識すら妄想であって輪廻転生などない、
という説まである、というのがなんとももどかしいねえ。w
まあ、青写真の方は現世の「苦」を受け入れるための方便みたいな感じで受け止めればそれなりに
ある意味たやすく功を奏す感じはあるよねえ。
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>>69
だがな、妄想にしろなんにしろ、今わしもお前もここに存在しているのは事実なのだぜw
あとはそれでどうするかっつうだけのコトだと思うのだぜww
存在の理由を探求する人生もまたよし、理由は考えてもわからんのでとにかくひたすら
意図的な創造主として生きていく人生もまたよし、ってなわけだぜw
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>>70
いや、それにはまったく同意。
考えてもわからんのだよね、多分。
仏教だって宗派によってでも考え方が違う。宗教が違うならますますある。
あるいは、臨死体験なんか読んでも、結局誰同じ死後の世界を見てきた人はいない。
もし本当に「ある」ならどの国の誰が見てきても同じはずでないとおかしい。
だが、みんな自分の知識というか記憶による「解釈」でそういうものだったと言っているに過ぎない気がするんだよね。
悟りの境地だってなんだかみんな違う。だからお前は悟っていない、いやお前こそ、なんて罵りあいまである始末だ。w
てことで、自分にあった楽しい人生を意図的に創造する自分であろうとすること以外になさそうなんだね。
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なんつってまぁ、わしも自分が出会った知識だけでこういう世界観を構築したわけであり、
これからもまた流動的に変化していくと思うのだぜ。
だからまぁあの世のコトは死んでからのお楽しみに取っておけばそれでイイのだぜw
ちなみにエイブラハムはこう言っているのだぜ。
『神、「すべてであるもの」、あるいは見えない世界のものは、
完成した状態では存在していない。
あなたが追いつくのを待っており、あなたの人生経験のすべてを楽しんでいる。
なぜなら、あなたが人生において考え、感じることのすべてが、
新たな要素を「すべてであるもの」に付け加えるからだ。』
つまりこの世界の大元でさえ完成されていないのだから、一個人が完璧に完成された者に
なろうということがそもそもナンセンスなわけなのだぜw
まぁ何かひとつの信念を持つということも素晴らしいコトではあるが、常に何かを自分の中に
取り入れて変化し続けるという態度もまた素晴らしいコトだと思うわけなのだぜww
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ふむう・・なるほどね。
勉強になったよ、有難う。
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どう受け取ったものかという感情がおりてきて。。。。
”今までのようにはもう会えない”と言われていた男性と、先日、”
普通に会う事はできないかな?”と思い切って連絡したところ、会う約束を取り付けることができたのです。
ただ私の中にはずっと、当日ちかくなったら会えないって言われるんじゃないか、断りきれないからとりあえず約束だけしたんじゃないか、という思いがうずまいていました。
なんどもクリアニングを試みたんですが、その抵抗はきえず、、、
なんですが、さっき突然、彼は今もわたしのことが好きだ、というのがふっと降りてきて。。。
すーーっと心が軽くなってしまったのです。
これ、なんなんでしょう、、、、。状況を考えるとどう考えてもそうは思えるはずがないんですが、
今心は軽くなっていて、なんだかほんとに彼はきっとわたしのことを好きだって思っちゃってるんです。
頭がおかしくなってるんですかね、、、
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>>74
んなこと言ったら、どこぞの宇宙人だか神様だかわからんヤツの話を真剣に聞いてみたり、
何が起きても最終的に上手く行くと信じているわしなんかはキ○ガイなのだぜw
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うわぁぁーーーだぜwさん、コメントありがとうございます涙。
なんかほんと、突然ふってきた、って感じでした。。。。
で、今時間たってその突然ふってきた感覚は収まっちゃった感じなんですけど。。
あれ、さっきなんでそう思えたんだろう、、、みたいな感じです。
そっちもおさまったんですが、となるとまた抵抗がぶり返してもいいような気もするんですが、
それも今出てこなくなったんです。
彼はわたしのことが好きだ、っていうのがどっかにいったのと同時に、
ネガティブな思考も全くわいてこない。
あれ、そうだったんだっけ?なんかなかった?って思い返すんですが、
そうだそう思ってたよなとは思うのですが、感情が揺れないというか。。。
今だけでまた抵抗がはじまっちゃうのかもなんですけど。。。
これなんなんでしょう。。。。
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>>74
マルチ乙
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>>75
いや〜新宿のシアター9とかいう映画館で20世紀少年観てきたよ。
新宿三丁目にあんなデカイ映画館あったの知らなかったよ、ビルの9〜13階が全部映画館で、ホテルみたいな作りになってる!
で、20世紀少年の感想だけど、物語に出て来る「ともだち」が108氏、
唐沢ふんする主人公の「ケンジ」がだぜw氏のキャラを連想したな。
宗教と終末思想、人間の可能性を示唆した映画だから、だぜw氏明日にでも近場の恵比寿あたりに観に行ってくれ。
それから仏教では輪廻は無いって言ってるよね?
輪廻、つまり俺やだぜwが今の「個」をもったまま、来世なりに繰り越すことはないと言っている。
そうじゃなくて、そもそも、始まりも終わりも時間も境界も無いから永遠だって言ってる。
それって何?レン博士の言うとこのZEROの概念?108氏がよく言う「死はない」てのもそういう意味??
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>>77
すいません、マルチですよね、これ。。。。
ただちょっと、今自分におこってることがよくわからず。。
こちらでもみなさんのお意見伺えればと甘えてしまいました。
ごめんなさい。
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>>79
まぁまぁ、わしもあっちこっち同じこと書きまくったり何度も同じコト書いたりするので
キニシナイのだぜw
気分がイイのはイイことなのだぜw
気分が良すぎて不安になるなんてーのは愚の骨頂なのだぜww
>>78
まぁすでに漫画でチョコチョコ読んでたのであれなんだが、機会があれば観てみるのだぜw
ちなみにダライ・ラマなんかは確か代々生まれ変わりだったりとか、こないだ見たナントカチベット
ではミミズを殺さないのはもしかしたら前世では自分の母親だったかもしれないから、なんていう
エピソードも出てきたりしていたが、どうなってんだろうか?
まぁ別に細かいコトはどうでもいいのだが、まぁとにかくあれだ、今のコトだけ考えればイイのだぜw
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>>23
お・か・え・り・!
体調はもう良いんですか?
つか良さそうだw
旅を楽しんだようで何よりです。
たぶん「高みを目指すゲームから降りる」手前の分岐点なんだと思いますよ。
だから「降りる覚悟も無く仏教とか言ってんな、小僧が!」ってな訳です。
「ただの人」になるのが仏教の目的、とまざまざ解ってしまった。
勿論、これは普遍的真理ではなく未だついえぬ私の「個人的問題」としての話。
異論反論のどれも否定する気は無いです。
だぜさんの言う通り、仏教は「テメエの為だけの自慰的な」ものなんですよ。
で、結局仏教なんて嘘でした。んなもんありゃしねえよ、という場所に向かうという…
その為の工夫、自分を棄てる工夫、その工夫すら棄てる工夫が整ってるだけで。
かと言って従えば往けるという保証は全く無いというw
往ける「かも」ね、て所までしか言えないようです。
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>>80
だせwさん、ありがとうございます。涙
これまでクリアニングで全然手放せなかった抵抗がなぜ???みたいな感じなのですが。。。
今期待も、ネガティブな思考もないニュートラルな感じです。
なんで今こういう心境なのか全く自分で説明がつかないんですが、理由など考えずに受け入れればいいんですよね。。。
暖かいレスありがとうございました。ちょっと、涙でちゃいました。
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>>18
見ましたよ〜タイムリーでした。
画家さん感謝です。
実はそれ断片的に見た事がありました。原典を見れてラッキーです。
文学的悩みっていう基準が明確になっただけでも収穫。
「内面を毛嫌いする内面」なんていう救いようのない所に行ったとして
それならば内面と共に留まり、徹して向き合い、戸惑い続ける。
格好良いじゃないか、埴谷さんの「どうしようもなく留まる」故の文学的突破と言うか
エネルギーがバシバシ伝わりました。その在り方を誰が否定できようか、という。
矛盾故に正しい、と言うか…うまく言えませんが。
それを踏まえると、カオスそれ自体が今時点での回答そのもの。
後は縁によりコロコロと…問題あればそれもまた縁により明らかになるでしょう。
ちなみにニヤリとしたのは「言葉だけがあった」のくだりですね。
私も「言葉が在る」という事に気付いた瞬間に驚愕した経験があります。
始まりも終わりもないものが常に在ったと気付いた後の体験でした。
しかしねえ、これじゃ「往けない」んだよねえ。
それもまた、よし、です。
感謝感謝。
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>>80
ミミズがだぜw氏の前世ではマミーかぁ・・
じゃあ、前世が日比谷公園の鳩だった記憶があるらしいだぜw氏は、
無意識に母ちゃん食べちゃったかもな・・
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>>81
いやあ、なんだか未だにぼんやりとしているのだぜw
でもって何かむづかしいコトを仰っておられるのだが、わしの鳩並の脳みそではだな、
まぁそれこそ釈迦に説法というヤツだとは思うが、バシャールが言う「全てのものは中立である」
っていうヒトコトでイイんじゃないかと思うわけだぜw
何かそういう仏教的というか哲学的に考えると、なんだか重苦しかったり悲壮感が漂ったり
空虚な感じがしてしまうわけだが、「物事には全て元々備わった意味などないのだから、
そこに自由にポジティブな意味づけをしちゃえ」というこのバシャール的な考え方を採用すれば
非常にパワフルでいられるのだぜw
>>82
そのニュートラル感が、実は本来の自分で在る、というコトだと思うのだぜw
ポノポノだろうが百八メソッドだろうが瞑想だろうが、つまりはそのゼロの地点=全面的な愛の地点
に至るためのものだと思うわけだぜw
で、本当はいつでもその状態でいられるのに、それを邪魔するのがエゴなわけだぜw
でもってその状態にいつも近づくようにしていればだな、面白いコトがゴロゴロと起こるのだぜww
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>>84
そう、そしておまいが毎日食ってるハンバーガーの中には前世のマミーもパピーも
ブラザーもシスターもワイフもダーリンもミンチになって入ってい(ry
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>>85
Yes!
全て中立、意味無し、だぜさんは何にも間違っちゃいません!
しかし私には哲学的思考をする程の頭はありませんw
いつもナイス配球感謝です。
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>>87
いやいや何をおっしゃるのだぜww
わしの方こそその論理的思考の前にいつもビシバシと刺激を受けているのだぜw
まぁ結局あれだぜ、意味がないから意味をつけ、でも意味づけをすることには意味はなく、
意味づけをすることに意味は無いという定義にもまた意味はなく、その定義に意味はない
ということにも意味はなく……∞……という中のどこであきらめて落としどころをつけるかっつう
話なわけで、実際にはみんな見ているモノは一緒なのだなあ、と思うわけだぜw
一緒なんだから、みんなで許容して可能にしあえば丸く収まるのだぜw
優位かどうかを競うんじゃあなくて、自分がどれだけ快でいるかどうかを見せ合えばいいのだぜw
まぁ中には快でいることは罪だと言わんばかりのヤツもいるわけだが、それはそれでイイのだぜw
おっと、いつの間にか独り言になっていたのだぜww
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>>85
鳩並みってどういう例えっすかw
それはさておき、もう少し「自同律の不快」な瞬間を減らしたい
今日この頃w (´ー`)
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>>81
あーそうなんですね。
携帯さんの話はわかりやすいからだぜさんの鳩下の私でも少し理解しました。
真っ白な自分は、さぞかしすがすがしいだろうと思いつつ
あっ・・・パラドクスだw
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内容的にはスレ違いだとは思うが、ここんとこスムーズな引き寄せが続いているので
ちょと日記を書かせて頂くのだぜw
その仏教の国に旅に行ってよう、わしは仏教というか釈迦の行き方に関心が向いたのだぜ。
で、帰ってきてみれば携帯の旦那とその周辺で仏教の話をしていてよう、実は動画の方も
チョロっと観てみてホホホウと思って、ますます興味を惹かれていたら今日いつもの古本屋で
「ブッダの道の歩き方」というスマナサーラという坊さんと立松和平の対談本を見つけたのだぜw
まぁホントに重箱の隅の隅ぐらいの話なのだろうが、まさに昨日あたりの携帯の旦那とのやりとりや
画家さんが言ってたコトがそのまんま書いてあって鱗から目が生えるぐらいの驚きがあったのだぜww
例えばこんな感じだぜw
スマナサーラ「どんな作家でも、よい作品ができるときは自我がないんです。
一時的に自我を忘れて打ち込むから、よい作品ができるんです。」
「一般的に、世界的に芸術作品が評価されるのは、誰にでも喜びを感じさせるような第三のメッセージを
出している場合なんです。だから芸術作品を作るというのは単に自分が言いたいこと、やりたいことを
表現することではなくて、この第三の道を発見しなくちゃいけないんです。第三の道を発見した作品が
後世に残るんです。」
※第三の道=仏教で言う「中道」(中道がどんなもんかはまだおぼろげにしかわからんのだぜw)
-
でまあ前半を読んでひとつ気になる点があったので、携帯の旦那やその他お詳しい方とか
百八もいれば聞いてみたいのだが、こんな一節があったのだぜ。
立松「その第三の道というのは望んで得られるものなのですか?それとも……。」
スマ「それは客観的に見ると出てくるものです。だから仏教で修行する人みんなに言うのは、
『自分でその第三の道をすぐ発見できるように客観性を持ちなさい。理性・智慧を持ちなさい。
自我を捨てなさい。』ということです。自我を捨てたところで、すぐ第三の道を理解できるんです。
その人は素直にどんなことでも受け入れることが出来るし、逆に対応することも出来る。」
この「どんなことでも受け入れることが出来る」ってのは、エイブラハムの「許容し、可能にする術」に
繋がるもんだと思うのだが、引っかかったのは「理性」を持ちなさいの部分なのだぜw
わしはどうも「エゴ」は理性もひっくるめた自我を指していると思っていたので、どうも必要なものまで
捨てすぎていたようなのだぜwww
この「自我」と「理性・客観性」ってのが今のわしにはイマイチ綺麗に分けられず、なんだかグレーな
境界線しかないのだが、まぁそのあたりについて何かお話を伺いたいと思った次第なのだぜw
-
あ、それとだな、ひとつLOAなどとは大きく違うなあと思ったのが、
「自分の考えはなにひとつ通らない」という考え方なのだぜ。
この坊さんが言うには、「私の意思で、私の主観で、私の希望通りに生きているのだ」と
考えるのは「錯覚」であるそうなのだぜw
でもって、「生まれてから死を迎えるまで、自分の意思で自由になにかできるわけではありません。
若いときこの事実に気づくことができれば、人生は楽なのです。」と言うのだぜww
これが仏教的世界観とLOA的世界観の大きい違いかなあとか思ってみたのだが、まぁ現段階では
引き寄せの法則はもちろんあり、もちろん自分の希望通りの生き方をすることもできるが、
実際の実際のトコロではこの仏教的なコトが起きているのではないのかなあ、と思うのだぜw
そろそろ脳みそがオーバーヒートしそうなのでこのぐらいにしておくのだぜww
-
>>93
長老の言う「私」は自我(エゴ)のことじゃないかな。普通は自我の思い通りにはならないよ。w
てか、それで思い通りにしたいという欲望につながってLOAとかに人が群がるんじゃないかな。
ところが、そのLOAでは最終的に手放せと書いてあって、自我を捨てないとお話にならない
ということになる。w
-
つまり、LOAの方式は従来の宗教と似ていて、入り口は方便になっているんだよ。
これやると儲かりまっせという情報でとにかく人を集める。大乗仏教もズバリそれだ。
とにかく集める。寺とか大仏とか巨大なもの作っておいて人をどんどん集める。
経典にも方便(嘘)がてんこ盛りだ。w
で、集まったら更に情報をどんどん出して、最終的に自我を捨てないといかんよと
いう所に導く。で、方法(瞑想とか)を教える。うまくいけば本当に悟ってしまうと。
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>>95
ホッホウ、なるほどだぜw
まぁそれはつまり手品で言うところのタネであり、LOAスレにもたまーに種明かしをしに来る人が
いたりするが、それはやはり会場のお客様に「これからやることにはタネの仕掛けもあるわけですが」
と言うようなものなので、これはホントにシークレットにしておかねばならんのだぜw
-
いや、LOAはよくしらんが、その類は方便自体が目的になってるんじゃないかな。
スマさんの言ってるのはそれすらもすべて捨て去った境地。いわゆる悟りだな。
方向はま反対だ。
だが、>>95の言うように、その道なかばで悟りの道を求める方向に転換するものは
それなりにいるんだということだよな。
-
>>97
ホッホウ、また新たな見解だぜww
うーむ、やはり生きるというコトは奥深すぎてよくわからんものだぜw
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忙しくて本スレロムる時間もないまま
久しぶりにロムってる。
本屋で、ハンコックさんがまた面白そうな本出してる。
引き寄せ本ではないが、
関係ありそうでないような話題がテーマになってる。
仕事が落ち着いたら読んでみよう。
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ハンコックっていうと神々の指紋のヤツだぜ?
そういえばすげえ面白かったのに途中で読み飽きた記憶があるのだぜww
なぜだろうか……うーん………あ、検証による推論よりも、証拠のないバシャールの話に
興味が移ったからだったのだぜwww
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>>92
スマさんは…身も蓋もない事言ってるなあ。
それじゃあ「悟る為には悟りなさい」と言ってる公案並みの言い回しだ…
だぜさん、それ解らなくて「当たり前」の事言ってるんで考えないで良いと思いますよ。
まず、エイブラハムの「許容し可能にする」とは決定的に違う点が「許容する私」の不在です。
しかし、受け入れるとか持つとか「私」ありきな事言ってると思うでしょう?
言葉を追うと迷宮入りする仕掛けだらけ、それが仏教だと考えて下さい。
スマさんの言葉が循環してる時点で論理で追えないんです。
迷宮に追いやってひたすら無駄を踏ませる。
「私」がする事、考える事なんぞ全て無駄だ、と思い知る為の仕掛けです。
スマさんの言う「理性」ってのが、もう通常の人間都合で使う「理性」ってのと違うんです。
で、それは何かと問いたくなる。すると返ってきます。
「ふざけるな、貴様の秤で量ると言うのか?」
その秤こそが「私」だと言うのに、そこに留まるのかい?てな具合です。
…あまり踏み込むと私みたいに毒が回りますよw
で、だぜさんが>>93でピックアップした部分が分岐点に立つ事になる所です。
「私」が無いのに「私の考え、私の意識、希望」て何なんですか?はぁ?馬鹿ですか?
こんな感じで徹底的にイジメられる訳ですw
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こんばんわ、画家です。
>>83
>その在り方を誰が否定できようか、という。矛盾故に正しい、と言うか…うまく言えませんが。
それは「1の状態」ですね。
徹頭徹尾、1。
クリシュナムルティもその1になったときに起こるエネルギーを提唱しておりました。
「悲しみとともに留まりなさい。あなたが悲しみそのものであるとき、とてつもないエネルギーが生まれます」と。
「言葉だけがあった」これは強烈ですね、強烈な救いの言葉です。
>>92
>その人は素直にどんなことでも受け入れることが出来るし、逆に対応することも出来る。
それこそ「起こりうる全ての現象を許す」に近い感覚かも知れません。
私の論法では「自我を捨てたところで、すぐ第三の道を理解できるんです」の言葉が「ならば自我を捨てよう」
とはならないのですよ。
これは108式を実践するにしても、自我が具現化の足を引っ張る、故に自我を○○する、も一緒。
つまり捨てよう、○○しようとする意識そのものが自我ゆえにです。
つか、どうでもいいじゃんそんなもんwみたいな感覚でいます。
作品製作時、アクシデントにより失敗した!と思うと失敗を糊塗しようとする、それが完成に激しく影響する。
完成した作品は失敗の弥縫策によるもので構成されている。
最初に製作意図がある、しかしその意図を逸脱してもいい、そんな態度で対峙するとアクシデントが生じたとき、
そのアクシデントを「ご縁」と感じ「キタキタwよし、ここはいっちょ、よいご縁にしてやろうじゃないのwいくらでもいらっしゃい♪」と
「起こりうる全ての現象を許す」時、自我が消えています。
方法論ではない、ただあり方である、といいますかなんといいますかw
で、真に不思議なことに「起こりうる全ての現象を許す」時、恐れや不安がなく、また起こる現象さえ決して自分にとって
ネガティブな香りを持たない、極めて都合のいい突発的事象が発生する。
うんこをするくらいに簡単にいいものが出来たりします。アフォみたいですw
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>>92
これだけじゃ不親切なんで、オマケです。
第三の道…素直にどんな事も受け入れる…これを馬鹿正直に実践するならば
「認識の後、無意識的な分別を挟まず、分別の手前に留まる」事です。
ひと言で言えば「私の手前に留まる」、つまり私の不在。
スマさんが身も蓋もない事を言ってる、と書いた理由が解るかと思います。
これが困難でも、「決定的に違うが、似ている事」をだぜさんはしょっちゅう言っている。
「認識の後、無意識的な分別は行うものの、意識レベルで無効化し書き換える」
これが「全ては中立、意味は私が与える」の正体です。
実際に効果はあるしハッピーになれますよね。実感されている筈です。
行ける所までこれで行ってみるのもアリですよ。
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おおおう、携帯の旦那といい画家さんといい、一体どこの世界の住人なんだぜwww
お二人の話を聞いて、まぁまだおぼろげのぼんやりのもやもやではあるが、
わしもまだまだ狭い狭い「自我」という視野の中で考え事をしているのだなあと思ったのだぜww
自我を捨てようと思うのもまた自我があるゆえ……
認識の後に分別の手前に留まる……
おおおう、それが出来たときにはもはや悟りどころか神の視点なのだぜwww
何かクビを突っ込んではイカン部分に突っ込んでしまったしまった気がするのだぜwww
見なかったことにしてわしはやはりひとまず在家で現世利益を追ってみるぐらいが
ちょうどいい気がしてきたのだぜwwww
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読み返してみると、半端者の求道者が言って良い事を逸脱してるなぁ。
「言葉の自動律」って事でご勘弁を。異論反論もちろんアリです。
>>102
1になった時のエネルギー!これまた福音です。
55氏のブレイクスルーも、まさにこんな感じでしたね。
勉強になります。
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む、あれだ、あの瞑想をして「何も考えていない」状態を作り出すってヤツを思い出したのだぜw
ヨガか何かの番組を見て自分も真似してやってみたりして、しばらくやって「よし、今何も考えてない!」
って考えていた少年時代を思い出したのだぜw
あー、なんとなく画家さんが言ってるコトってのはあれか、「自我を捨てた作品を作るぞー!」
じゃあなくて、時間を忘れるほどにただただ没頭してやってれば…みたいなことじゃあなかろうか?
するってーと、鳩にもわかる言い方をすれば、要するにバシャールが言ってるような
「ただただワクワクすることをやってください」ってなコトなんだろうかww?
いや、まぁとりあえず今のわしにはそれ以上の理解はできんのだぜwwww
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>>106
だぜさん、自分もそう思いました。
自分はもっと理解度低いけど…。
R25の高橋氏のエッセーに面白いこと書いてありました。
うつ病が流行ってるけど、実は「うつ」ってのは「空」、空っぽの意味だったそうな。
そして転じて「器」となる。
「器」というのは満たされていたらもう入らない。
私達は「世界でひとつだけの花」じゃなく、「世界でひとつだけの花瓶」と。
いろんな花をいけてみようと。
これはポノの考え方に通じると思う。花=霊感とかね。
自我を捨てた状態ってたぶん、無心、夢中になった時に起こっていると思う。
その物事に入り込んでる状態。
「自分というものが解けてしまってる」=「何も意図しない状態」
判断する理性じゃなくて、「自分を器としている理性、智慧」というか。
その瞬間には、認識やカテゴライズすらないんだろうけど。
これはポノるとか今を生きるとか、ワクワクするとかそういうことで出来る。
画家さんのおっしゃる「起こりうるすべての現象を許す」もそうだと感じました。
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あー実に面白い。
俺はね、仏教かじりかけなんでなんとも言えないが、なんてか、瞑想してるうちに
自我の消滅にちかいことが起こって、何かがわかったりしてるとこなんだが。
それはそれで、なるほど、確かにある充足感があるというのがわかる。んだが、逆に現世の欲も薄らいでいくのがわかってさ。
だけどそれは俺にとってまだ早いていうか、ホントに悟ろうと思ったらそう簡単にもいかなさそうだし、
だからもっとそれこそ現世利益を追求してそれなりに金に困らない生活を築きたい俺にとっては、
現世利益を否定する仏教にいつまでも関わってるとどうなんだろって気になるんだよなあ。
だからうまい具合の着地点を教えてもらえたら、あるいは一緒に模索できたらいいなあ、と思ってるんだけど。そういう意味でとても有難いなあ、皆さんの存在。
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>>105
いやいや、かなり刺激的で楽しいのだぜwww
余談だがスマさんは「天才は難しい真理を子供にでもわかる簡単なコトバで説明をする」
と言っていたのだぜw
その点、百八なんかはやはり素晴らしく天才だと思うわけだぜw
いや、別に旦那が難解なコトを言っとるというわけじゃあないのだぜwww
結局釈迦がやさしいコトバで説明をしてくれたところで、それについて考えてみると
難しすぎて本当は理解するのが困難だったりするわけだぜw
そこらへん百八の質疑応答タイムなんかはよう、その質問者に対して「今はそこまで理解すればいい」
という明確なポイントをキチンと明示していて、やっぱスゲエと思うわけだぜw
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>>107
おおう、おもしろい話をサンキューだぜww
そうだよのう、まだまだ悟りには程遠いわしらには、とりあえず「今」に焦点を当てて
やりたいコトをやるぐらいしかできんのだぜw
>>108
わしもほんの瞬間的なものだったが、気まぐれで瞑想していた時に充足感っつうか
もうなんか「わし=宇宙?」みたいな恍惚感を覚えたコトがあったのだぜww
まぁ仏教における現世利益のコトは実はよくわからんのだが、要するに釈迦だって
「幸せになる方法」を説いていたわけだぜ?
それが全て幻想でもよう、まぁとりあえずは色々な幸せを体験できる次元にいるのだから
色々な幸せを模索してみることにするのだぜw
-
てかもうなんか色々書いてたら一体何を求めているのかわからなくなってきたのだぜwwwww
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>>106
だぜ氏:
>「ただただワクワクすることをやってください」
これね、実は思い切りすげえメッセージですよ。
長い間、人間は「条件」が彼のものを齎してくれる、と信じてきた。
神を信じなさい→しからば救われるであろう。
悟りを得て解脱しなさい→存在の苦しみが終わるであろう。
このくらい大規模且つ強烈な取引き、条件付けもないでしょう。
そのためには身を切り裂く思いまでして塗炭の苦しみに耐えてまでそれらを得ようとしてきた。
これが古典的アプローチである。
しかしバシャールはただ一言、最小限の条件に似た言葉を伝えてきた。
「ただただワクワクすることをやってください」
「苦しまなくてもいいのかよ」
「はい、人間は自分以外の者になろうとしている時、苦しみを感じます」
「(゚Д゚)ハァ?」
彼は条件のありかを「観念」として定義した。
ワクワクして生きると自分の限界いっぱいまで行けます。
その限界とは「私はここが限界」だと思っている境界線です。と。
こりゃすごいぜ。
>>105
携帯さん:
>半端者の求道者が言って良い事を逸脱してるなぁ。
半端者の求道者って一体誰が決めているのでしょうw (*´∀`)σ)*´д`) プニ
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>>108
逸脱ついでに…迷わず現世利益でw
いや、本当に。
「別の道がある」ってリソースは無駄にならないし、
どうしても越えられないもの(死の苦しみとか)にぶつかったり、
どうしても私を棄てたい、それ以外に無い、となった時に改めて仏道に入られてはどうでしょう?
未練タラタラじゃ身が入りません。ええ、私のようにw
もうひとつ…「瞑想」してる内は「私」ありきなんですよ。「集中する私」って言うね。
種明かしをしちゃえば「瞑想」すら「踏ませる為の無駄」という…恐ろしや仏教。
私ってのは「分別そのもの」だから、私ありきの内は全部が無駄なんです。
勿論、必要な無駄ですが絶対ではない訳です。
「ただ坐る」、これが出来るまでの補助輪みたいなもんです。
瞑想位は続けられて構わないと思いますよ。
「今、今…」メソッドにも有効です。
>>109
難解ぽい事しか言えない内は、実は何にも解ってないという事かも知れんですな。
はっはっは!話半分で聞くが良いさw
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>>107
一時的に自我が落ちる、って感覚かもしれません。
捨てる意図なんかないしw
この場合の自我は私という感覚、自覚とはちょっと違います。
私は依然、存在している。
仮に私が私を否定する場合、否定している私さえ否定せざるを得ず、その否定している私さえ否定している私も同様、
どこま〜でも〜行こう〜みたいに無限回廊あるのみw
つまり自己否定とは埴谷先生の名言通り、「言葉だけあった」という虚偽です。
一般的な自己否定とは自作自演で交互に役回りを変換させ、「お前は要らない!」「何でだお(涙)」と小芝居打ってるだけですw
その上で「私がいない場所(私が否定される場所、非存在である位相)」を私が夢想するのなら一言、「私は知らない」としか言えないw
且つ、「私がいない場所」には文字通り私はいないわけですから私とはなんら関係ありませんw
つうことでそろそろ秋も本番。
鍋がうまいぜwヽ(´▽`)/
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ダイアルアップなんでID変わります。108・・だってw
>>113 携帯さん有難う。
俺なんかすぐのめりこんじゃって面白くて出家したくなっちゃうんじゃないかって、
いや半分笑い話だけど、そのくらい仏教は魅力はある。
でもそうすると、現世に未練以上のものを残してることが罪悪というか邪魔なんだよね、捨てるべきものという。
で、あーちょっと違うなあと思っていたんだけど、ただ、確かに欲の元である我をある程度すてることで、現世の欲を満たすことでは得られない幸福感ってあるでしょう?
うーん、今度はバシャールでも読んでみるかな。俺、だから今ちょっと混乱してるんですわ。
いや自分の思うとおりの現実を作り上げていくことで現世利益を求めていくってことで決めてはいるんですが。
すみません、だらだらと。
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>>115
一言クッキング♪
現世利益=現世以外での利益
あいつとやりたい!と、宝くじを当てたい!と、悟りを得たい!は
私の世界では等価関係です。
もしよければ物事をシンプルに。
過去、エラく実存主義的な苦悩を抱えたことがありましたが一言でこれを総括すると、こんなん出ました。
「お笑い!頭の体操〜」(ネタが古すぎる)
-
>>116
画家さん
いや俺頭悪いからシンプルに整理つかないんだ。
でも、肝に銘ずるよ。有難う。
-
>>112
そうなんだよねえ。
仏教の話をし始めると自分の理解を越えた所への言及が出始めて。
これ物凄く気持ち悪いんです。
なので、私の話なんて疑った方が良いよって前置きをどこかでしたくなってしまうという…
画家さんにはバレバレだ、それが本当に有難いです。
>>115
気が向いたら「歎異抄」という文献を読んでみて下さい。
現代語のも出てます。五木さんのが解り易いかな。
親鸞の言葉を弟子が纏めたものですが、108式みたいな感じで
「え。仏教てそんだけで良いの?」となりますよw
おー、何してても自由じゃん!みたいな。
しかし、この歎異抄には「他力そのもの」が書かれてます。
うまく読めば、LOAや108式との相乗効果も期待できますよ。
更に他力の果てに「往く」機会に出会う「かも」知れません。
-
やべえ、おまいらの話が面白すぎるのだぜwwww
いやぁ、実はよう、今日はちょっと「見える人」に会ってきたのだぜw
まぁ何が見えるってフツーの人には見えないモノが見えてしまう人なのだぜw
それがまた十年来の知り合いでよう、今までそんなチカラがあるとは知らずにいたのだぜww
それはさておきだな、実は最近ちょっと頭デッカチになりすぎてるんじゃないかとか、
もう少し何か行動を起こした方がいいんじゃないかとか考えていたのだが、そいつ曰く
「今はそういう話を聞いたり学んだりする時期なんだと思いますよ」と言われてちょとホッとしたのだぜw
まぁさっきの坊さんも、人は「道を外れてる人」「道で止まっている人」「道を歩いている人」
「辿りついちゃった人」がいる、なんて言っててよう、やっぱり道にいるなら歩かねばならん、
いや「ねばならん」という表現はキライなので「歩きたい」と思ってみたりするわけだぜw
で、このスレにいるとそんな道しるべが至るところにあったりして、おもしれえと思うわけだぜw
まぁ今後ともご贔屓によろしくおながいするのだぜww
-
>>118
「歎異抄」読んでみます。
そうですね、仏教もどこから入るのかで随分違うみたいだ。
でも今晩は、ひとまず自分の抱えてた迷いがふっきれたみたいに感じる。
また来させてもらいますわ。どうも有難う。
-
>>112
そこが人間的な釈迦の教え方と、宇宙人の教え方の違いなんだろうかww?
今日の感想としてはよう、釈迦はやはり自我だの煩悩だのと戦って苦悩した末に
悟りに至ったから、その自分の道に照らし合わせて「あれを捨てろこれを捨てろ」と
言うのに対して、その宇宙人は初めから悟りの境地のような状態にいるから
常にパワフルなコトばっかり言うのだろうか、なんて思ってみたのだぜwww
でもってまぁ仏教のブの字も知らんわしだが、なんとなく仏教ってのは小難しいコト
言ってるようで実はすげえ人間くせえなあと思ってみたのだぜw
ますます釈迦の人物像というのが気になってきたのだぜww
釈迦の言動だの人物像だのに迫る良書があったらご紹介賜りたい次第なのだぜw
-
携帯さん、画家さん、だぜwさんときて、んんっ!108さんも加わって??
と思ったら、今スレ108さんだったんだねw ちょっとビックリしたw
こんな雑談モードもいいですなぁ。
秋の夜長、マターリ拝見させていただきますw
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>>121
仏教で引っかかるところは最初から存在苦をドンと持ってくるところです。
存在、人生、諸現象は一切皆苦でありその原因が自我であると。
よって自我を超克じゃない、滅したところ安心立命の境涯がある。
さーてさて、病に悩む人間がいたとする。
病から抜本的に解放される方法は唯ひとつ。
首を切ること。
首さえ切れば万病にならない。
仏教はこの理屈に似ていると個人的には思います。
自我が苦しみの根幹なら何故自我なんか持っているんだ、或いは与えられたのか?
与えられたのならさながら罰ゲームに等しい。
尚且つ苦しみからの回避をテーマにしちゃってることから新たなるパラドクスも生まれる。
その後、信徒が何をしようと根幹である「苦しみ」に焦点を置くこととなる。
焦点を当てたれた苦しみは太ってゆく。
ひょっとしてあえてそれを誘導し、一気に突破、それが狙いなのか。
これがほんとうに原初仏教、釈迦自身の教えだったのか、大いに疑問ですばい。
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いやはや・・私、今日休みだったものでね、久々に妻と映画観てきましたわ。
妻は、今流行りのセックス・アンド・ザ・シティを観たいって言ってたんですが、
公開終了間近な『ダークナイト』を観たいと私が年甲斐もなくシアターの前で駄々こねて、たった今見終わって帰ってきたとこですわ。
ダークナイトって知ってます?アメリカンコミックで、バッドマンてありますよね?
あのバッドマンの宿敵のジョーカー側を視点に描いた映画なんですが、
最高でしたわ!
ここ数年で観た洋画の中でもかなり上位にくる作品だと思います。
え?なんで局長が、この精神性の高いスレで、ダークナイトなんてオススメしてるの?なんてお思いでしょ?
いやはや・・この映画は哲学ですわ。ハリウッドも捨てたもんじゃないと思いましたわ。
携帯さんも、だぜw氏さんも108氏さんも、機会があったらぜひ「ダークナイト」を観てみて下さい。
もし、私の読みが正しければ、だぜw氏の心の奥底にある葛藤と、この映画はシンクロしていると思いますわ、これは示唆しておきます。
いやはや・・映画ってほんとにいいもんですね〜
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