したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

2鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/18(水) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
それは悟りの喩えじゃな。
悟りは他に求めるものではなく、自分の心の奥にあることを喩えているのじゃ。
全て忘れてしまった者の記憶のように、悟りは何も感じない者の心の奥底にあるというのじゃ。
仏教では仏性と言ったりするものじゃ。

3避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 07:54:21 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。
習慣により、文の意味を思考によって分析的に解釈しがちなことに気づきました。自分ごととして、自然に読めるように精進します。

古い思い出せない記憶を思い出そうとすると、注意が内側に向きました。身体では下腹の中心あたりに感覚が生じます。そういえば、自分の名前を呼ばれたときにも、その辺りに感覚が生じるのですが、そこには何かあるのでしょうか?

4避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 20:50:13 ID:Dp/qMVVc0
しかし、これは自然なことだ。人の心の中に光がなければ、人生には何の意味もない。心の中に光がなければ、生に喜びを感じることはできない。

今日、自分自身が不必要で過剰な重荷を見つけるという事実は、生自体が無駄だからではない。生はひとつの無限の充足だ。しかし、私たちは、その充足に、その目的地につながる道を忘れてしまった。私たちは単に存在し、生とは何の関係もない。これは生きているのではなく、死を待っているだけだ。そして死を待つことが退屈以外の何物でもないとしたら、どうしたらいいのか? どうしたらそれは喜びになるのか?

私はあなたにこれを伝えるためにここに来た:あなたが生と勘違いしているこの悪夢から目を覚ます方法がある。道はいつもそこにあった。闇から光への道は永遠だ。それは確かにそこにあるが、私たちはそこから顔を背けてきた。その道に顔を向けて欲しい。この道がダルマ、法であり、宗教である。それは人間の中の光を再び点火させる手段であり、人間の漂流する船に方向性を与えている。マハヴィーラは言う。老いと死を伴う世界の急速な流れに流されている人々のために、宗教こそが唯一の安全の島であり、錨であり、目的地であり、避難所であると。

あなたは人生を喜びで満たす光を渇望しているか? 人間に不老不死を与える真理に到達したいか? もしそうなら、私はあなたを招待する。私の招待を受け入れなさい--喜びのために、光のために、不死のために。それは単にあなたの目を開くという問題だ。そうすれば、あなたは光の新しい世界に住むことになる。他に何もする必要は無い、ただ目を開けるだけでよい。ただ目を覚まして見ればよい。

人間には本当は何も消えていないし、本当は方向性も失っていないが、もし目を閉じていれば、闇はどこにでも広がり、方向性の感覚はすべて失われる。目を閉じれば人はすべてを失い、目を開ければ王となる。

私は、あなたを没落の夢から皇帝の威厳に目覚めさせようと呼びかけている。あなたの敗北を勝利に変えたい。あなたの闇を光に変えたい。あなたの死を不死に変えたい。あなたは、私と一緒にこの航海に乗り出す準備ができているだろうか?
――
オショーは折に触れて、あなたは仏性を忘れているとか、思い出すようにと説いていますが、それによって修行者の目を自分の心の奥深くに向けるように働きかけているということでしょうか。
それにしても、力があって魅力的な文で、勇気づけられます。

5鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/19(木) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
>>3 そこにおぬしの自己観念の投射があるのじゃろう。
 その感覚に自分というものがあるという観念を記憶から思い出しているのじゃ。
 それがなければ自分がどうなるのか見てみると善いのじゃ。

>>10 そうじゃ、心を見るように勧めているのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

6避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 20:36:17 ID:Dp/qMVVc0
>>5 ありがとうございます。
下腹の中心あたりの感覚が無い時は、思考や鼻の先あたりに自分を感じました。
以前は自我を見ようとすると強い拒否感が起こったのですが、今は弱めの拒否感と共に好奇心が起こることが多いです。
起こる拒否感をさらに観察して、厭離しようと思います。

7避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 20:46:29 ID:Dp/qMVVc0
ワークを始める前に、私の愛をどうか受け取って欲しい。 それは、この丘の孤独で人里離れた場所にあなたを歓迎することができる唯一のものだ。他にあげられるものは何も無い。 神の臨在が私の中に創り出した無限の愛をあなたと分かち合いたい。皆に配りたい。そして不思議なことに、分かち合えば分かち合うほど、それは大きくなっていく。本当の富は分配することで増えていくが、分配することで減っていく富は決して本当の富ではない。それでは、私の愛を受け入れてくれるだろうか? 私には見える。あなたの目には受け入れられていて、それに呼応して愛が溢れているのが。

愛は愛を生み、憎しみは憎しみを生む。私たちがあなたに与えるものは何でも、それは現物で返される。これは永遠の法則だ。だから、あなたが望むものは何でも、世に与えるべきものだ。茨と引き換えに花を受け取ることはできない。

私はあなたの目に愛と平和の花が咲いているのを見て、深く感謝している。今、ここにはそれほど多くの異なる人々はいない。愛は多くのものを一つにまとめ、一つに変えていく。それぞれの肉体は分離していて、これからもそうあり続けるだろうが、この肉体の背後には、人々を一つにし、愛で一つにする何かがある。この一体感が得られて初めて、何かを語ることができ、何かを理解することができる。コミュニケーションは愛の中で、愛の中でのみ可能なのだ。

私たちがこの孤独な場所に集まったのは、私があなたに何かを伝え、あなたが聴いてくれるようにするためだ。この伝えることと聴くことは、愛のレベルでしかできない。心の扉は愛だけにしか開かれない。そして、頭ではなく心で聴いてこそ、本当に何かを聴くことができるということを覚えておきなさい。あなたは「心も聴くのですか」と尋ねるかもしれないが、私は聴くことがあるときはいつでも、聴くのは心だけだと言う。これまでのところ、頭は何も聴いたことがない。頭は石のように耳が聞こえない。そして、これは話すことにも当てはまる。言葉は心から出たものだけが意味を持つ。心から発する言葉だけが新鮮な花の香りを持っている。

私はあなたに私の心を注ぐ。あなたの心に私が入ることを許すならば、そこには出会いとコミュニケーションがあるだろう。言葉では表現できないことが伝わるのは、この交わりの瞬間だ。こうして、多くの語られていないことも聴くことができ、言葉にできないこと、行間にあることも伝えることができる。言葉は非常に無力な記号だが、完全な安らぎと静寂の中で聴けば、力強くなる。これを私は「心で聴く」と言う。
―-
オショーも因果の法則を説いていますね。
心で聴く、心で読むというのは、鬼和尚が自分ごととして、意味を確かめながら読むというのと同じでしょうか?
また、頭ではなく、心で読めている場合、それを確かめることはできますか? 例えば私の場合、悟りを得た人の文を読んでいると、心が静かになったり、何か新しいことに気づくことがありますが、他にも目安となり得ることがありましたら、お教えください。

8鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/20(金) 22:53:03 ID:1d4drIFg0
>>6 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>7 そう言えるじゃろう。
 ちゃんと心で読めているならば直ぐにでも実践したくなるじゃろう。
 読み終えて直ぐ瞑想したりするのじゃ。
 それが全てのブッダ達の真の願いであるからのう。
 その願いが届いた証なのじゃ。

9避難民のマジレスさん:2020/11/21(土) 21:00:57 ID:Dp/qMVVc0
しかし、人の話を聞いていても、私たちは自分の考えで頭がいっぱいだ。そして、それは偽りの聴き方だ。それでは、あなたは真の聴き手ではない。聴いているような錯覚に陥っているのだが、実際には聴いていない。正しい聴き方をするためには、心が完全な、すなわち静かな見守りの状態にあることが必要だ。あなたはただ耳を傾けるだけで、他のことは何もしてはならない。そうして初めて、聴き、理解することができる。そして、その理解は光となり、あなたの中に変容をもたらす。この心の状態がなければ、あなたは誰の話にも耳を傾けず、ただ自分の話を聞いているだけだ。あなたの中で激しさを増している騒動が、あなたを吸収してしまう。そして、あなたが夢中になっているとき、何も伝えることはできない。見ているように見えても見てはいないし、聞いているように見えても聞いてはいない。

キリストはまた、「見る目を持つ者は見なさい。聞く耳を持つ者は聞きなさい。」と言った。キリストが話した人たちは目と耳を持っていなかったのだろうか?もちろん彼らには目と耳があったが、目と耳があるだけでは、見ることも聞くこともできない。何か他のものが必要であり、それがなければ、目と耳の有無は関係ない。その何かとは、内なる沈黙と注意深い意識だ。これらの資質があってこそ、心の扉が開き、何かを言ったり聴いたりすることができる。

私はこのサーダナキャンプの期間中、あなたのこのような聴き方を期待する。一度この技をマスターしたら、それはあなたの生涯の伴侶となる。それだけで、つまらない先入観を取り除くことができる。それはあなたを外の偉大で神秘的な世界に目覚めさせ、意識の永遠の光を体験し始めることができる。それが、心の騒動の背後にあるものなのだ。

正しく見ることと正しく聞くことは、このサーダナ・キャンプに必要なだけでなく、すべての正しい生き方の基礎となる。すべてのものが波紋のない完全に穏やかな湖にはっきりと映し出されるように、真実であるもの、神であるものは、あなたが湖のように静かで静止した状態になれば、あなたの中に反映されるだろう。

私はそのような静けさと穏やかさがあなたのもとにやってくるのを見て、あなたの目が私が言いたいことを言うように招いているのを見る。私が見た真実、私の魂を動かしたことを分かち合うように促している。あなたの心はそれらについて聴きたいと切望している。私の話を聴こうと前向きで準備ができているのを見て、私の心はあなたに自分自身を注ぎ出したいという衝動に駆られている。このような平和な環境の中で、あなたの心が完全に静まっているときに、私は必ずあなたに言いたいことを言うことができるだろう。目の前に耳の聞こえない心を見ると、私は口を慎まなければならないことがよくある。あなたの家のドアが閉まっていても、光は外に残っているのではないだろうか? 同じように、私はしばしば多くの家の外に立っている。しかし、あなたのドアが開いているのは良いサインだ。それは良い始まりだ。
――
自分の心を観る実践が全てのブッダ 達の真の願いなのですね。私も実践を続けます。
今日の文では特に分からないことはありませんでした。これまでの文で、これを読む現代の日本人のために修正したり、あるいは補足したりすることがありましたら、お願いします。

10鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/21(土) 21:52:11 ID:1d4drIFg0
オショーは正しく観ることと正しく聞くことを語っているのじゃ。
それはどんな善い教えもエゴに拠って破壊されてしまった歴史を見ているからなのじゃ。
お釈迦様も生まれによる差別を否定したが、大乗では生まれによる差別を説いているのじゃ。
まるで正反対のことをエゴに拠って正しい教えとしているのじゃ。
そのようなことがないように正しく見て、正しく聞くことが推奨されるのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2020/11/22(日) 20:39:06 ID:Dp/qMVVc0
このサーダナキャンプの5日間のプログラムを明日の朝から始めるが、最初にいくつかのことを話させて欲しい。
自分の修行、真理の実現のためには、花を育てるための土を準備するように、心を準備しなければならない。それゆえに、いくつかの格言を心に留めておいてもらいたい。

最初の格言は、「今を生きる」だ。キャンプ中は、過去や未来について考える習慣に流されてはならない。もしあなたが流されてしまうならば、生の瞬間、本当に大切なものは無駄になり、意味もなく過ぎ去ってしまうだろう。過去も未来も存在しない。過去は記憶の中だけであり、未来は想像の中だけだ。現在だけが現実であり、生きている。そして、もし真実が知られるとしたら、それは現在を通して知られることしかできない。

キャンプ中は、どうか過去からも未来からも距離を置いてもらいたい。それらは存在しないことを受け入れて欲しい。あなたがいる、この瞬間だけが存在する。あなたがいるこの瞬間だけが存在し、他には何もない。あなたはその中で生き、完全に生きなければならない。あなたの過去のすべてが漂流してしまったかのように、今夜はぐっすりと眠りなさい。過去に死になさい。朝には新しい人として起きなさい。なぜならば、それは新しい朝だからだ。眠った者を目覚めさせないように。良い眠りにつくように。永遠に新しく,いつまでも新鮮な者に起きさせなさい。

現在に生きるために、覚えておきなさい - そして、毎日24時間見張っていなさい。過去と未来についての機械的な思考が再び立ち上がらないように。見ているだけで十分だ。見ていれば、再び立ち上がることはない。見ていることと気づいていることがその習慣を断ち切る。
――
今は思考が観察できるようになったので、思考に流されていない時には、それが分かるようになりました。思考と同時に起こっている感覚や感情などが同時に認識できている時には、思考に流されていないことが分かります。私はそれを訓練するために、集中の瞑想の後に、例えば指を一つ一つ折り曲げながら、明日やりたいことなどを考えて、指の折れ曲がる感覚と、思考という行為が同時に認識できるように繰り返していました。今日も試しにやってみたのですが、サイコロを回転させながら裏と表の目の数を足すという思考と、右手で指を折りながら、左腕を左右に動かすという行動を同時に認識しようとしたところ、途中から思考に流されてしまいました。
このように、少しずつ行動を複雑にしながら、流されないように観察する方法は有効なのではないかと思うのですが、全体が観念遊戯になっている可能性があります。とりあえず新しい発見があれば大丈夫かと判断しているのですが、これらに関してアドバイスやコメントなどをいただけますでしょうか?
あともうひとつ、オショーは観察ができていれば思考が再び立ち上がることはないと述べていますが、私の場合、観察中でも縁起により勝手に思考が働くことがあります。観察力が上がれば思考は立ち上がらなくなるのでしょうか?

12鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/22(日) 23:52:24 ID:1d4drIFg0
↑訓練としてはよいじゃろう。
 しかし、それによって自分を観察して理解できるものでなければ長く続けるべきではないのじゃ。
 全ての実践は自分を観るためにあるのであるからのう。
 
 自分を観察できて無我になれば思考も立ち上がらないようにできるのじゃ。
 それまでは観察に拠って思考が起きないようにするのは無理なのじゃ。
 自我の危険を感じれば思考で対処しようとするからのう。
 その反応は意志によってとめられるものではないのじや。

13避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 08:46:34 ID:Dp/qMVVc0
>>12 ありがとうございます。
確かに自分を観察して理解することを怠り、逃避として行うのであれば無意味なだけでなく有害ですね。

鬼和尚は修行に関して、観察だけすればよいとか、ただ静かに何もせずにいればよいなど、衆生にとって困難なことは説かない印象があります。
自他の区別が無いのにどうやって、衆生を適切に理解し、道標となれるのでしょうか?

14避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 20:58:53 ID:Dp/qMVVc0
第二の格言は、「自然に生きる」だ。人間の全ての行動は人工的であり、条件付けの結果だ。私たちは常に偽の外套に身を包んでおり、この覆いのために、徐々に本当の存在を忘れている。この偽りの外被を脱ぎ捨てなさい。私たちはドラマを上演するためにここに集まったのではなく、本当の自分自身を知り、見るために集まったのだ。劇中の俳優たちが、演技の後に衣装や化粧を取って脇に置くのと同じように、この5日間では、あなたの偽りの仮面を外して脇に置かなければならない。あなたの中にある根源的で自然なものに出て来させなさい - そして、その中に生きなさい。自分の修行、自分の道は、単純で自然な生を通してのみ開く。このサーダナキャンプの間、あなたは何の地位も、職業も、地位も持っていないことを意識しなさい。これらすべての仮面を捨てなさい。あなたはただのあなたであり、名前も身分も階級も家族もカーストもない普通の人、名も無い、ごく普通の人だ。あなたはこのように生きることを学ばなければならない。なぜならば、本当のところ、それがあなたなのだ。

第三の格言は、「一人で生きる」だ。修行は、完全な孤独の中、全くの一人である時に生まれる。しかし、一般に人は決して一人あることはない。常に他の人たちに囲まれている。外側の周りに群衆がいなければ、その人は内側の群衆の中心にいることになる。この群衆を散り散りにさせなければならない。

内側では、物事が自分に群がってくるのを許してはならない。そして、外にも同じことが言える-このキャンプでは、完全に一人であるかのように、生きなさい。誰か他の人との関係を保ち続ける必要はない。数え切れないほどの人間関係の中で、あなたは自分自身を忘れてしまっている。敵か味方か、父か息子か、妻か夫か、これらすべての関係があなたを飲み込んでしまい、自分の中に自分の存在を見つけることも知ることもできなくなってしまっているのだ。

あなたは今までに、これらの関係から離れて、自分が何であるかを想像しようとしたことがあるだろうか? あなたは今までに、これらの関係の衣装を捨てて、それからかなり離れた自分を見たことがあるだろうか? これらすべての関係から自分自身を取り除き、自分が父親や母親の息子ではなく、妻の夫でもなく、子供の父親でもなく、友人の友人でもなく、敵の敵でもないことを知りなさい - そして残っているものが、あなたの本当の存在だ。あなたの中に残るものが、あなた自身だ。これらの日々の間、あなたはその存在の中で一人で生きなければならない。
―-
自然に生きているのが分かるのは、それが自分にとって楽だったり、生き生きとしたりすることだと思いますが、他に何かありますでしょうか。またもし、仮面の外し方が分からない場合は、どのようにしたら良いのでしょうか?
あと、自分の内側の人間関係から自分自身を取り除く方法もお教えください。

15鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/23(月) 21:53:01 ID:1d4drIFg0
>>13 悟った後にもよく学ぶことで可能になるのじゃ。
 お釈迦様も悟った直後の説法では失敗しているのじゃ。
 人の苦を知り、四諦を説く事で説法もよくなったのじゃ。

>>14 人の居ない所で一週間位生活すると善いのじゃ。
 自然に仮面はなくなるのじゃ。
 仮面とは人との付き合いで必要になるものであるからのう。

 ただひたすらそれを観ることでできるのじゃ。
 無理に取り除こうとしてもできないのじゃ。
 それがどのような原因から起こるのか観ることで消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

16避難民のマジレスさん:2020/11/24(火) 20:52:24 ID:Dp/qMVVc0
これらの格言に従うことで、あなたは到達することができるだろう。修行を続け平安と真理の実現を得るために絶対に必要な、心の状態に。これらの3つの格言に加えて、明日から始める2つの瞑想についても説明したい。

最初の瞑想は朝のためのものだ。この瞑想では、背筋をピンと伸ばし、目を閉じ、首をまっすぐにしなければならない。唇は閉じ、舌は口蓋に触れる。ゆっくりと、しかし深く呼吸する。へそに注意を集中しなさい。呼吸のためにへそに感じる揺れを意識するのだ。これだけで良い。これで心が落ち着き、思考が静まる。この空(くう)から、あなたはついに内側に入る。

二番目の瞑想は夜のためのものだ。床にあなたの体を広げ、手足を完全にリラックスさせる。目を閉じて、約2分間、体がリラックスしていることを自分自身に暗示しなさい。だんだん体がリラックスしてくる。その後、2分間、呼吸が静かになることを暗示する。すると呼吸は静かになる。最後に、2分間、思考が止まってゆくことを暗示する。この意志を伴った自己暗示は、完全なリラクゼーションと空につながる。心が完全に穏やかになったら、あなたの内なる存在の中で完全に目を覚まし、静けさを観る者となりなさい。この観ることは、あなたを自己へと導いてくれるだろう。

この二つの瞑想は必ず実践しなければならない。しかし、実際のところ、これらは本当に人工的な仕掛けであり、あなたはそれらに固執すべきではない。この二つの瞑想の助けを借りれば、心の落ち着きのなさは消えてゆく。そして、私たちが登った後に梯子を必要としないように、いつの日か私たちもこれらの仕掛けを手放さなければならない。瞑想は、それが不要になった瞬間に完全なものとなる。まさにこの段階がサマーディだ。

今、夜は更け、空は星で満たされている。木々や谷間は眠りについている。私たちも今、眠りにつこう。何と静かで静穏なのだろう。私たちもまた、この平和の中に溶け込もう。深い眠りの中で、夢のない眠りの中で、私たちはまさに神が宿る場所に行く。これは自然が私たちに与えてくれた自発的な無意識のサマーディだ。このサーダナキャンプの助けを借りて、私たちもまた同じ目的地に到達することができる。しかし、その時、私たちは意識し、気づいているだろう。これが違いであり、実際、大きな違いだ。前者では私たちは眠っているが、後者では目覚めている。

私たちは今、サマーディを得ることを願って眠りの床に着こう。願いが決意と正しい努力を伴っているとき、それは必ず叶う。

神の導きがありますように。これが私の唯一の祈りだ。

第1章はここまでです。
オショーも止観を説いていますが、もし何か補足などがありましたら、お願いします。横になって行う観の行は、私も試してみます。
あと、サマーディの言葉に関して、鬼和尚は忘我の意味で使っていますが、オショーはどのような意味で使っているのでしょうか?
もう一点、寝る直前に「自我が観られますように」のように願って眠りの床に着くのは効果的なのでしょうか?

17鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/24(火) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
深い意識との一体化というような意味でサマーディと言っているようじゃ。
意識的な瞑想すらもない段階なのじゃ。

そのような願いも効果はあるじゃろう。
寝る時には潜在意識が優先的に成るからのう。
無意識に達成することができるのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2020/11/25(水) 21:03:51 ID:Dp/qMVVc0
第2章 最初の朝 1964年6月4日 午前

あなたに会えて嬉しい。この孤独な場所で、あなたは神を悟り、真実を見つけ、自分自身を知るために集まってきた。しかし、ひとつ質問させてもらってよいだろうか? あなたが求めているのは自分とは別のものだろうか? あなたは離れている人を探すことはできるが、どうやって自分自身を捜し求めることができるのか? 他のすべてのものが捜し求められるという意味では、自分自身を捜し求めることはできない。なぜならばこの場合、捜し求める者と捜し求められる者の間には違いがないからだ。外に世界を求めることはできても、自己を求めることはできない。自己を求めて出て行く者は、自己から遠く離れて行く。この事実を十分に理解することが重要だ。そうすることで初めて、自己の探求が可能になるだろう。もしあなたがこの世の物質的なものを求めるならば、自分自身の外に目を向けなければならないが、もし自分自身を見つけたいと思うならば、あなたは、落ち着いて、平静でなければならない、そして、すべての探求を放棄しなければならない。あなたの本当の姿は、完全な静けさと空虚さの中でしか見ることができない。

探求は興奮でもあり、緊張でもあり、欲求でもあり、情熱でもあることを忘れずにいなさい。しかし、魂は情熱によって実現することはできない。これが難しいところだ。情熱とは、人が何かになりたい、何かを達成したいと願うことを示しているが、魂はすでに人の中に存在している。魂とは、私自身である。情熱と魂は正反対の方向にある。それらは正反対の次元だ。

したがって、魂は実現することができるが、それは欲望の対象にはなりえないことを完全に理解しなさい。魂に対しては、そのような欲望はありえない。すべての欲望は世俗的なものであり、欲望は霊的なものではない。世界を作り上げるのは欲望と情熱だ。この情熱や欲望が、お金のためか宗教のためか、権威のためか神の実現のためか、世俗的な快楽のためか解脱の自由のためか、それは何の違いもない。すべての情熱は無知と束縛だ。

私はあなたに魂への欲望を求めてはいない。欲望の本質を理解して欲しいだけだ。情熱の理解は、その痛みを伴う性格を明らかにするので、情熱から人を解放する。痛みを知ることは、痛みからの自由だ。誰も、痛みを知ったことで、それを望むことはできない。欲望がないとき、心が情熱に邪魔されることも何かを探していることもないとき、その瞬間に、その穏やかで静かな瞬間に、あなたはあなたの本当の、本物の存在を経験する。情熱が消えたとき、魂は自分自身を宣言する。

それゆえに、我が友よ、私はあなたに魂を渇望するのではなく、欲望そのものを理解し、それを取り除くようにと願う。そうすれば、アートマン、魂を知り、悟りを得ることができるだろう。

情熱や欲望と修行について、お教えください。
最近、瞑想は時により、悟りを得たいという欲望があったり、欲望は無くとも意志があったり、あるいは偶然起こったりしています。
オショーによると、悟りへの欲望も厭離することを説いていますが、例えばこの翻訳も欲望によって進められている面があります。
いつ、どのように悟りへの欲望を厭離するのかは、智慧に任せて、とにかく自分の観察に励めば良いのでしょうか?

19鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/25(水) 21:55:47 ID:1d4drIFg0
その欲望以外に全てがなくなった時には捨てるが善いのじゃ。
もはや他の全ての観念を捨て去ってから捨てるのじゃ。
その時にはその欲望に自分を投射しているであろうからのう。
それが捨てられた時に自分もなくなるのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 20:59:18 ID:Dp/qMVVc0
宗教とは何か? 宗教、ダルマは思考や考えることとは何の関係もない。それは無思考と関係がある。考えることは哲学だ。それはあなたに結果や結論を与えるが、あなたに充足感をもたらしはしない。ダルマとは充足だ。論理のプロセスは思考への入り口であり、サマーディは充足への入り口だ。

サマーディはシューニャとチャイターニャ、空虚と意識の結果だ。心は空っぽだが注意深いものでなければならず、その静けさの状態で、真理への扉が開く。真実は空からのみ実現され、その後、生全体が変容する。

私たちは瞑想を通してサマーディの段階に到達するが、一般的に瞑想として理解されているものは、真の瞑想ではない。それもまた思考だ。思考は魂や神に関係しているかもしれないが、それらはまだ思考だ。思考が何に関係しているかに違いはない。現実には、すべての思考は別のもの、外部に関わる。それらは自己ではないもの、物質的なものに関係する。自己についての思考はありえない、なぜならば思考が存在するためには二つが必要だからだ。したがって、思考は二元性を超えたところには連れて行ってはくれない。もしこの統一を実現し、自己の中に生き、それを知るためには、思考ではなく、瞑想がその道だ。

思考と瞑想は正反対の方向にある。 前者は外に向かって動き、後者は内に向かって動く。思考は他を知る方法であり、瞑想は自己を知る方法である。しかし、思考は一般的に瞑想と見なされている。これは非常に深刻で広範囲に広がっている間違いであり、私はこの根本的な間違いに対して警告したい。瞑想とは、行動のない状態になることを意味する。瞑想は行動ではなく、存在の状態だ。それは、自分自身の中で安定していることだ。

行動の中では、私たちは外の世界と接触し、不行動の中では、自分自身と接触する。何もしていないときは、自分が何者であるかに気づくことができるが、私たちは常にさまざまな活動に関わっていて、自分自身のことを知らない。私たちは、自分が存在していることさえ覚えていない。私たちは深く夢中になっている。少なくとも身体は休んでいるが、心は全く休んでいない。起きているときは考え、眠っているときは夢を見る。このような絶え間無い関心事や活動に没頭していると、私たちは自分自身を忘れてしまう。自分の用事で頭がいっぱいになり、自分自身を見失ってしまう。何と奇妙なことだろう! しかし、これは事実なのだ。人ごみの中ではなく、自分の考えや夢の中で、自分の用事や活動に夢中になって、自分を見失ってしまっているのだ。私たちは自分の中で自分自身を見失ってしまった。瞑想は、この自作の群衆から、この精神的な迷いから、自分自身を解放するための道だ。

いつも回答をくださり、ありがとうございます。今回は特に意味がわからないことはありませんでした。
気づいた時にはできるだけ自分の観察に励みます。

21鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/26(木) 21:49:31 ID:1d4drIFg0
オショーは一般的に言われている瞑想は瞑想ではないというのじゃ。
それはまだ思考の過程であり、注意が外に向いているからなのじゃ。
外とは心以外の対象なのじゃ。
呼吸とか眉間とか心臓もまた心の働きではない故に外のものといえるのじゃ。
それらの外の対象から離れて自分という観念を生み出す心の中を観ることが瞑想だというのじゃ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板