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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

903避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 15:33:09 ID:ydE4b1w.0
>>895

わかりました、ありがとうございました。
それから、また質問させてもらいます。

質問1
以前、鬼和尚は「すべての観念は主体を想起させる」というようなことをおっしゃっておられましたが、
無我に至った人の場合その段階ではまだ観念は残っているから、それらの残っている観念が認識された際に主体という感覚を起こす、ということが
無我に至った後でもありうるんですか?

でも主体の感覚があるならそれは無我と言えるんでしょうか?

質問2
観念が想起させる主体の感覚、というのは自我とはまた違うものですか?

904避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 15:46:57 ID:rVd9uqEE0
鬼和尚さん、腰痛になってしまいました。
軽いぎっくり腰のような症状です。
何をしたら改善できますか?
ストレッチなどはやっていますが、ここ数週間なかなか治りません…。

905避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 17:16:31 ID:czRftzgI0
過去にどぶにはまって友人に笑われた嫌な記憶があるとします。この場合、どぶにはまった自分を自分だと思うから恥ずかしいのであり、どぶにはまった自分は自我といえます。
そして、どぶにはまる行為を自分の行為だと思うから、どぶにはまった自分を自分だと思って苦が生じます。さらに、どうしてその行為を自分の行為と思うかは、自分の体を自分だと思っていて、その自分の体の行為も自分のものだと思っているからです。
だからこうした過去の行為の苦を乖離するには、行為を生じさせる自分の体を自分のものだと思わないように乖離する必要があると考えました。行為に基づくすべての自我は身体の乖離により解体されるというのが結論です。

まとめると
自分の体を自分のものだと思う→自分の体の行為を自分の行為だと思う→どぶにはまった自分を自分だと思う→苦

この見解は正しいでしょうか?

906糞和尚:2017/11/03(金) 21:28:01 ID:YUVcWBgU0
>>902
それはあくまでも「日本的」霊性なのじゃ。
鈴木大拙は禅をやっていたのじゃ。
仏教の日本独特のものを取り上げただけなのじゃ。

907避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 22:26:09 ID:XZhaK0vE0
>>899
鬼和尚じゃないけど,品質課を作ればいいんじゃないの?
品質課に人員を割けなければ,受け入れ検査,出荷検査など,商品を検査することにして
検査項目,検査方法を決めて,チェックシートを作って,結果を記入して,記録に残すとか

908鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/03(金) 22:34:23 ID:1d4drIFg0
>>896 自分を観察するのじゃ。
 自分を観察して厭離しない限り阿頼耶識も観察できないものじゃ。
 恐れとか何かの理由で自分が観察できないのかもしれん。
 そのような逃避をも観察してみるのじゃ。

>>897 悟っていたじゃろう。
 
>>898 執着は捨てたほうがよいのじゃ。
 苦になるからのう。
 どんどん捨てるのじゃ。

>>899 出来るじゃろう。
 自分には出来ると唱えているとできるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>900 しようと思えばできるのじゃ。
 しなくてよいのじゃ。

>>901 自分という観念を起こす原因を追求するのじゃ。
 どんどんやればそうなるじゃろう。
 やらなければならないのじゃ。
 自我がある限り観るものはあるとおもえるじゃろう。
 まずは自分を観察するのじゃ。
 それが観るものなのじゃ。
 恐れがあるから観られないならばその恐れも観察するのじゃ。

>>902 大拙はスゥエデンボルグなども賞賛していたのじゃ。
 オショーと同じく、全ての宗派を包摂しようとしていただけなのじゃ。
 悟ったとは言っていないのじゃ。
 ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。

909鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/03(金) 22:40:39 ID:1d4drIFg0
>>903 1 真に無我になったならばないじゃろう。
 既にそれが観念とわかってしまったのであるからのう。
 忘我ならばあるかもしれんのじゃ。
 観念は全て刹那に起こるものじゃ。
 忘れていたものも刹那に思い出したりするのじゃ。

 2  違うものなのじゃ。
 それに自我が投射されているのじゃ。
  自我は名前とイメージによる観念であり、分別された認識とは違うものなのじゃ。
 客体と主体を分別された後に自我の観念は投射されるのじゃ。

>>904 痛むところよりずうっと腰の上とか尻等に硬いところや痛む所を探すのじゃ。
 そこを揉み解すのじゃ。
 心臓に向けてさするのじゃ。
 そこが治れば治るのじゃ。
 
>>905 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。

910541:2017/11/03(金) 22:53:23 ID:o7TfOr0I0
>>897 悟っていたじゃろう。
一休の兄弟子の養叟(ようそう)と一休は確執があり、喧嘩別れしたとの話ですが
それは周囲の凡人の解釈で、実際は、どっちも悟っていたので「喧嘩」などはしていなかったのですかね。
悟った人同士でも、意見の相違や感情のぶつけ合いはあるのでしょうか?


>>900 しようと思えばできるのじゃ。
 しなくてよいのじゃ。

しなくてよい。つまり性欲や食欲は放置プレイでよいのでしょうか?
結構、こいつらの力は強いですよね。

>ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。

www予想外の斬新過ぎる解釈
それは本当に、大拙の真意なのでしょうか?鬼和尚の主観と言うことはないのですか?

911541:2017/11/03(金) 22:57:31 ID:o7TfOr0I0
大拙の代表的な書物である『日本的霊性』だけを読むと(多くの人はこれしか読んでいない場合もある)、真宗を取り入れるどころか、
なむあみだぶつと唱えていればいいんだと真宗の信仰に自信を持って、むしろ、禅者のうちに真宗に転向するものが出そうな勢いかと思います。

912541:2017/11/03(金) 23:06:00 ID:o7TfOr0I0
でも、鬼和尚の解釈は面白いと思います。
我々は内心小馬鹿にしているものをあえて賞賛することはありますからね。
歴史上の人物とかの手紙や発言を、そのまんま受け取る学者とかは、人間と言うものが全く分かってないなと感じる事はあります。

913避難民のマジレスさん:2017/11/03(金) 23:49:55 ID:ltsvCJfk0
>>908
鬼和尚、
厭離とは、主体だと思っていたものを客体視した時に起こると考えます。
思考や肉体から厭離し、それらをただ観ている視点に立ち、苦から離れることと理解し、また経験しています。

しかし今回私が観察したのは、思考が現れている瞬間は、それを離れて観ている主体など実はいないということでした。
思考の直後に、それを観ている主体という観念が起こっています。

思考→それを観ている者→「思考から離れているぞ」…

という一連の流れが意識に起こっていました。
これは思考に限ったことではなく、五感もそうでした。
何かを触った瞬間は、それを感じている主体はなく、その直後に感じている主体を作りだしていると言いましょうか。

これは何か別の方向に行ってしまってるのでしょうか。

914避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 02:31:51 ID:ydE4b1w.0
903です。

鬼和尚の主体という概念、難しいです、、、
また、分けて質問します。

質問1
鬼和尚の
「真に無我になったならばないじゃろう。」
という私への返答の中の「真に無我になったならば」という言葉は、
「認識を厭離して無認識に至ったときになる完全な無我の状態になったならば」という意味ですか?
それとも
「本当に無我に至ったのなら(まだ無認識まで至ってはいないが観照が起こって無我に至った)」という意味ですか?

質問2
>>909の文章の中で鬼和尚のおっしゃられたことをまとめると
「すべての観念は主体を想起させるが、無我に至った後はすべての観念が主体を想起させることがなくなる」
ということですか?

質問3
私は目の裏に自己感覚というか主体の感覚があるんですが、上記で言われている「すべての観念が想起させる主体」
と私のこの主体の感覚とはまた別物ですか?

質問4
「すべての観念が想起させる主体」というのを実感としてどんなものか認識してみたいのですが、
そこを意識してそれがその主体だ、というようにわかるものでしたらどうすれば「すべての観念が想起させる主体」
というのを意識の上で捉えられるか教えてくれると助かります。
それとも、それはかなり微細な感覚で人間には到底認識できないようなものなのでしょうか?

915避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 05:52:59 ID:czRftzgI0
>905
身体の観察という膨大な作業を前に呆然となりますが、実践したいと思います。

916避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 09:50:04 ID:DAY232aw0
>>908ご回答ありがとうございます。
まずは自分を観察すると仰ってますが、自分の本心を観察して、自分を観察するのでしょうか?それとも自分を観察して自分の本心を観察するのでしょうか?

917避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 16:18:49 ID:czRftzgI0
顔を観察する時、和尚さんは実際にどのようにされたのですか?鏡を前に置いてじっくり眺めたのか、顔を触って触覚を使って観察したのですか?

918鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/04(土) 21:55:09 ID:1d4drIFg0
>>910>>912 ただ単にお互いを必要としていなかったのじゃろう。

 修業の邪魔になる執着を滅するとよいのじゃ。

 大拙は何でも褒めていたのじゃ。
 騙されてはいかんのじゃ。

>>913 それでよいのじゃ。
 何度でも観るのじゃ。
 完全に観察されれば厭離されるのじゃ。

>>914 1 無認識ではない無我なのじゃ。

 2 そのような解釈でよいのじゃ。
   無我でも主体の無い観念は未だ起こるのじゃ。

 3 それが別かどうか自ら観察してみるのじゃ。
   おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。

 4 おぬしが目玉の裏に感じているものかもしれん。
   おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
   ただひたすらに観察するのじゃ。
   実践あるのみなのじゃ。

>>915 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

919鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/04(土) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
>>916 どちらでもないのじゃ。
 自分の本心だけを観察するのじゃ。
 
>>917 何もしていないのじゃ。
 わしは体が自分とは思っていなかったのじゃ。

920避難民のマジレスさん:2017/11/04(土) 22:38:23 ID:DAY232aw0
>>919ご回答ありがとうございます。
質問ですが自分の本心だけを観察して、自分という観念が起こす原因を追求すれば良いのでしょうか?

921避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 00:20:47 ID:vrNcXKcg0
>>918
鬼和尚、ご回答頂きありがとうございます。今まで思考や肉体を観ることにより「それは私ではない」という距離を取る観察でしたが、転じて思考や肉体の感覚に成り切ることも苦を滅するものだと気づきました。
痛みの後に「私」が起こり、「私が痛みを感じている」という錯覚が苦の原因でした。
痛みそのものになってしまえば痛みは苦ではなく、ただの痛み。と認識しています。
このまま観察を続け、完全に悟ってみたいと思います。

922避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 04:15:41 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん

主体と意識には、どのような違いがありますか?

923避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 05:07:29 ID:ydE4b1w.0
>>918

わかりました、ありがとうございました。

924避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 05:48:06 ID:czRftzgI0
>917
子供の頃から体が自分とは思っていなかったのですか?それとも何かのきっかけで修行を始める頃には体が自分とは思っていなかったのですか?

925避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 12:50:13 ID:DAY232aw0
>>920追記です。
それとも自分の本心だけを観察していればいいのでしょうか?

926避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 15:38:31 ID:Tu1eESLY0
>>909
鬼和尚さんありがとうございます。
腰痛はここ2日でかなり良くなりました。
鬼和尚さんのおかげですm(__)m

927鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/05(日) 21:12:51 ID:1d4drIFg0
>>920 自分の本心を観て自分と言う観念が起こることを観察するのじゃ。
 そして原因も追究するとよいのじゃ。
 自分と言う観念が見えなければ原因を追究することもできないのじゃ。

>>921 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>922 主体は観念なのじゃ。
 本来無いものじゃ。
 意識は観念ではないのじゃ。
 本来存在するものであり、全てなのじゃ。
 観念も主体も意識とは言えるが、謬見によるものなのじゃ。

>>923 どういたしまして、またおいでなさい。

928鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/05(日) 21:22:05 ID:1d4drIFg0
>>924 最初からなのじゃ。
 何を自分と思っているかは人によって違うのじゃ。
 わしは記憶を持つものが自分と思っていたのじゃ。

>>925 本心をどこまでも追求していけば自分に突き当たるじゃろう。
 自分がある人間はなにを観ても最後には自分にいきつくのじゃ。
 恐れずにそれを観るがよいのじゃ。

>>926 よかったのじゃ。
 またおいでなさい。

929避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 22:07:45 ID:bP6oxyAs0
記憶を持つものって誰なんですか?

930避難民のマジレスさん:2017/11/05(日) 23:51:49 ID:ydE4b1w.0
>>928

横レス失礼しますが、「肉体が自分だ」という観念が外れるのは観照が起きたと同時にやっと外れる
ものではないんですか?それによって死の恐怖も消え去る、そういう流れだと思ってるんですが、
子供のころから肉体への同一化がないってかなり特殊では?と感じまして、、

931避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 06:26:45 ID:DAY232aw0
>>927>>928ありがとうございます。実践していきます。

932避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 07:00:31 ID:czRftzgI0
>924
和尚さんのような人でも10年かかったのなら、体を自分と思っている私は悟りにどれだけかかるか不安になります。
一方、執着と人との比較と人目を気にすることが全て自分があることから来ると気付きました。自我乖離に向けたいい兆候だと思います。

933避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 15:58:58 ID:FnHdG3lo0
鬼和尚
最近坐禅をしていると、座禅中のほとんどの時間は忘我の状態だったと気が付きました、
時々、それを眺めている自分がいるんですが、ほとんどの時間は忘我になっているんですね、
実際の普段の生活においても同じような状態だなと、ここ数日、そのような理解が起きたのですが
この理解は正しいでしょうか。

934避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 16:17:29 ID:U6SatYxg0
鬼和尚、ブログの
> 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
について二つ質問があります。

1."何にも気付かないで変ることもない"以外の観察と観念遊戯の違いを見分けるすべはないのでしょうか?
2.また、観念遊戯とはどういう状態のことなのかも詳しくお聞かせください。

935避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 17:16:11 ID:DAY232aw0
>>931お礼に続けて質問申し訳です。
質問ですが、自分と言う観念が起こることを観察して、その原因を追求すると言う事なのでしょうか?

936鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/06(月) 20:48:08 ID:1d4drIFg0
>>929 誰もいないのじゃ。
 誰かが持っているのでもないのじゃ。
 ただ行雲流水の如く主体無くしてあるだけのものなのじゃ。

>>930 無我になる前からなのじゃ。
 自分が肉体ではないと思うものは普通にいるのじゃ。
 思考とか感情が自分と思う者も多いじゃろう。
 肉体は自分のものではあるが、自分そのものではないと思うのじゃ。
 
>>931 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>932 日々実践すれば悟りも近いのじゃ。
 よい気付きなのじゃ。
 自我も見えてきたのじゃろう。
 自我乖離も近いのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>933 それでよいのじゃ。
 よい瞑想なのじゃ。
 忘我と気付きが多くなれば無我も近いのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

937鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/06(月) 20:59:58 ID:1d4drIFg0
>>934 1 今ここにないものごとを空想しているならば観念遊戯なのじゃ。
 今ここにあるものごとを観ているならばそうではないのじゃ。

 2 思考している時とか過去を思い出している時とか未来のことを考えているならば観念遊戯なのじゃ。
  
>>935 それでよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2017/11/06(月) 21:18:32 ID:czRftzgI0
>>932
その言葉を励みにがんばります。ありがとうございました

939避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 14:24:08 ID:U6SatYxg0
>>937
お教えありがとうございます

例えば心が動揺したときに
"同じシチュエーションでも動揺するときとしないときがある"と発見したとします。
それにより何ら変わることはできなくても"するときとしないとき"という発見があったので観察してることになりますか?
それとも過去(記憶)と比較するという思考が入っているので遊戯になってしまいますか?

940避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 16:06:53 ID:ydE4b1w.0
>>936

そうですか、でも鬼和尚は悟る前に死を恐れてはいたんですよね、
肉体が自分だ、という観念がなくてもいまだどこかに自分という感覚があって、それが
死ぬことで消えることが怖かった、そんな感じなんですか

941避難民のマジレスさん:2017/11/07(火) 17:08:18 ID:DAY232aw0
>>937ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を厭離させれば、無我なのでしょうか?

942541:2017/11/07(火) 18:16:18 ID:nhEvgxNI0
鬼和尚は因果律は自己を離れて客観的に実在すると思いますか?

943鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/07(火) 22:19:55 ID:1d4drIFg0
>>938 どういたしまして、またおいでなさい。

>>939 そうじゃ、それが観察なのじゃ。
 記憶された観念をも観察して比較しているのじゃ。
 記憶された観念をあれこれと操作するのが思考であり、観念遊戯になるのじゃ。
 それぞれについてなぜ動揺したり、動揺しないのか条件を観察してみるのじゃ。
 
>>940 そのようなものじゃ。
 感情が自分ではないと思うから恐れもないわけではないのじゃ。
 何を自分と思っていても恐れや不安はあるのじゃ。

>>941 そうじゃ、無我になるじゃろう。
 無我を目指すのではなく、自我を完全に観察して厭離が起こり無我になるのじゃ。
 自我を観ることを目指すのじゃ。

>>942 おぬしがそう思えばあるのじゃ。
 思わなければ無いのじゃ。

944避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 02:25:50 ID:ydE4b1w.0
ラマナとかニサルガダッタは悟りの完成には無我に至るだけじゃなく認識を厭離させる
必要がある、ということを明確に認識しているんでしょうか?

私が無認識について言及しているところを単に見逃しているだけかもしれませんが彼らが
認識を厭離させる必要性やその具体的手順について説明しているところを聞いたことがありません。

945避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 02:32:51 ID:ydE4b1w.0
それとも色々なものを厭離させていった中で知らず知らずのうちに認識も厭離していたが
それを特別重要なこととしてみていなかったが故に別に概念化して提示するほどのものでもないだろう
的な心境だったんでしょうか

946避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 10:22:08 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、心を観察するとは、こういう感じですか?

イライラしている場合、イライラしていることに気づく

混乱している場合、混乱している事に気づく

絶望している場合、絶望している事に気づく

>>927
ご回答ありがとうございます

947避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 10:51:59 ID:DAY232aw0
>>943ご回答ありがとうございます。
質問ですが、何を指針にすれば良いのでしょうか?

948避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 17:05:47 ID:U6SatYxg0
>>943
わかりました。そのように取り組んでみます。ご指導ありがとうございました。

あとですね、もともと自律神経失調症なんですが
最近になって、ほぼ一日中動悸が止まなくなりました。就寝時は特に激しくなります。
痛みや不安感は無いので昼間は気にしないでいられるのですが
就寝時の煩さが酷すぎて薬を飲まないと眠れなくなりました。
このような状態を改善するマッサージ等あったら教えていただけないでしょうか。

949避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 20:33:28 ID:FCZrbmx.0
鬼和尚、
意識が世界を作っていると言います。
「何か」を蛇と認識した時、本当にそれは蛇なのだと思います。
実はそれは縄だった!と気づいた時に縄になるのだと思います。
実相は蛇にも縄にもなるのだと思っていますが、鬼和尚はどのようにお考えですか?
なぜそのような質問をするかと言うと、どう思い返しみてもこれは蛇だったのに、今見ると縄になっている、と言うことが多いのです。

950鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/08(水) 20:35:00 ID:1d4drIFg0
>>944>>945 知らんじゃろう。
 知識として記憶している訳ではないのじゃ。
 それを語ったのは禅の者とオショー位なのじゃ。
 優れた運動選手が自分の動きを全て言葉やイメージで認識し、伝えられるのではないように、
 大悟した者も自分に起きたことを全て知識として記憶し、伝えられるのではないのじゃ。
 
>>946 それでよいのじゃ。
 今ここで起きている心の働きをありのままに認め、気付くのじゃ。
 それが本心を観察する事なのじゃ。

>>947 自らの本心を指針とするのじゃ。
 本心は何を欲しているのか。
 本心は何をしたがっているのか。
 本心はどうしたいのか。
 全て知るがよいのじゃ。
 そのために本心を観るのじゃ。

>>948 もともと人間は心臓が動悸しているものじゃ。
 それを気にしてはいかんのじゃ。
 気にすることが心の病になるのじゃ。

 気にして集中すると動悸が激しくなるのじゃ。
 自分で心臓に集中して動悸を激しくしているのじゃ。
 それによって眠れないのじゃ。
 人の体は集中する処に血液を送り込んで激しく活動するのじゃ。
 走る者は足に集中し、手を使うものは手に集中して激しく動かす準備とするのじゃ。
 寝るときは足の先に集中するとよいのじゃ。
 よく眠れるじゃろう。

951避難民のマジレスさん:2017/11/08(水) 22:37:34 ID:Y5LPInQE0
>>950
ご回答ありがとうございます

主体や自我の観察は、どうすれば良いですか?
自分という感覚を観察しようとしても「ああ、自分が居るなぁ」くらいしか
分からないのですが

952避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 10:14:11 ID:DAY232aw0
>>950ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心に従えば良いのでしょうか?

953避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 15:03:01 ID:ydE4b1w.0
>>950

ありがとうございました。

954避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 15:39:56 ID:U6SatYxg0
>>950
確かに集中すればその部位が暖かくなるわ、なるほど!
…と思いってやってみたのですが、よけいに気になるようになってしまいました。
まるでインド小話のグルに「薬を飲むとき猿のことを考えるな」と言われた男のよう…お恥ずかしい限りです。
修練が足りないのですね。当分はあきらめて薬で凌ぐことにします。
お教えありがとうございました。足先だけに集中できるようになるまで集中の訓練頑張ってみます。

955鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/09(木) 20:19:24 ID:1d4drIFg0
>>949 縄は咬まないのじゃ。
 縄と思ったものが蛇であったならば死んだりするじゃろう。
 縄であるから死なないはずと思っていても死んだりするのじゃ。
 そのように事実を誤認していれば大きな災いにあったりするのじゃ。

 本当は違うものを記憶によって創っていたのかもしれん。
 ただひたすらに観察してみるのじゃ。

>>951 それがどのような原因でいると感じるのか観察してみるのじゃ。
 寝ている時はそのように感じないじゃろう。
 それでは何があるときに自分は感じられるのか、何が無ければ自分は感じられないのか観察して気付くのじゃ。
 更にそのように自分と感じるものは何なのか見極めるのじゃ。
 
>>952 本心に従う以外に人の道はないのじゃ。
 偽りの心に従えば迷うばかりであるからのう。
 先ずは本心がどのようなことを欲しているのか観察してみるとよいのじゃ。

>>953 どういたしまして、またおいでなさい。

>>954 そうじゃ、足に集中するのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

956避難民のマジレスさん:2017/11/09(木) 22:44:04 ID:FCZrbmx.0
>>955
ご回答ありがとうございます。

私はまだ認識のない実相を見たことがないので何とも言えないのですが、認識なくとも毒があって噛みつく細長い「何か」は存在しているということでしょうか?


私が「何か」を「毒があって噛みつくもの」と認識するから、それはそのような特性を帯びるのではないか?それがこの世界なのではないか?と考えています。
もちろん、縄かと思って触ったら蛇だった…ということもあります。
それも、縄と蛇の情報を阿頼耶識が貯蔵しており、様々な認識が相まって予想も付かないことが意識で起こっているのではないかと。
まったく夢と同じ意識の世界がこの現実なのではないかと考えていますが、実際はどうなんでしょうか?

957避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 10:08:37 ID:DAY232aw0
>>955ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察するだけで、自我を観れるのでしょうか?

958避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 17:39:39 ID:DAY232aw0
連投すいません。
鬼和尚さんに沢山質問させて頂きましたが、未だに自我を厭離させる方法がいまいちわかりません。
自分とは何か追求して観察したら良いと仰られますが、追求して観察する事自体が中々出来ないと思います。
心身の全てを観察すれば良いと仰られますが、自分は自分を追求して行こうと思ったので、中々心身の全て観察して行こうと思いません。
具体的に確実に自我を厭離させる方法はどの様にしたら良いのでしょうか?
自分を追求するとか、心身の全てを観察するとかだけでは無く、自分の本心を観察して行うのか、具体的に全体的にお教え頂けるとありがたいです。
自我を観る、厭離させる方法がわからないので普通の人が出来る方法で具体的に出来る方法をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願い致します。

959避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 21:53:23 ID:ydE4b1w.0
>>754で質問した者です。
それに対する>>763の鬼和尚の私に対する答えの内容がいまいちわかりませんでした。

>>738のレスの中に書いてある

> 9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
>
> 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
> のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
> トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
> ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
> う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
> いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
> 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
> 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。

という上記の文ではハートが心の起源となる場所である、というようなことが書いてあるので
一般的に「私」という感覚はハートの中に強く感じられる、というようなことを言ってる、ということなのかなと
おもうんですが、また別のことを指しているんでしょうか?

960鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/10(金) 22:49:37 ID:1d4drIFg0
>>956 おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
 誰かがおぬしの知らぬ間に後ろから殴ればやはり死んだりするのじゃ。
 全てが認識ではないのじゃ。
 唯識も本当は認識優勢論なのじゃ。
 思考や論理に囚われてもいかんのじゃ。
 常に現実を観察して進むのじゃ。

>>957 どこまでも追求すればいずれ観られるじゃろう。
 全てはおぬしとおぬしのものとおぬしのものではないものとして観られているからのう。
 本心を観るならばどこにいっても自分に突き当たるのじゃ。

>>958 おぬしが自我をどうしても観られないというならば、それは自我を観ようとしてはいないからなのじゃ。
 心身の全てを観察すればいずれは観られるのになぜそれだけは実践しようとしないのじゃろうか?
 それでも具体的に自我を観る方法が知りたいとはおかしなことじゃ。
 心身を観察する方法が普通の人でも出来る方法なのじゃ。
 お釈迦様もそれを説いているのじゃ。

 誰でも自我を観られる方法でも自我を観られない者は自分が消える恐れや不安などから観ようとしていないのじゃ。
 そこに逃避があればどんな方法も無意味なのじゃ。
 これからどのような方法を教えてもそれを実践していこうとは思わないと書くじゃろう。
 そして又普通の人でも自我が観られる方法をきくじゃろう。
 本当に自我を観察し、厭離しようと本心から思う者は、どのような困難な方法でもやり抜くじゃろう。
 それが本心からの欲求であるならば当然なのじゃ。

 先ずは自分の本心を観察して、何を本当に求めているのか、何から逃避しているのか気付くのじゃ。
 それが出発点になるのじゃ。

>>959 ただ集中している所に常に自分が感じられるだけなのじゃ。
 実践して見るとよいのじゃ。
 胸に集中していると胸に自分と言う感覚がわくじゃろう。
 眉間に集中していると眉間に自分がいる感覚があるじゃろう。
 マハリシはハートに集中している者であったからそう感じたのじゃ。
 実践によって確めてみるのじゃ。

961避難民のマジレスさん:2017/11/10(金) 23:08:07 ID:DAY232aw0
>>960お答え頂き本当にありがとうございます。鬼和尚さんの仰る通りです。反省しています。
心身の全てを観察したいのですが、自分の本心を観察して心身の全てを観察したら良いのでしょうか?

962避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 09:48:10 ID:czRftzgI0
一旦乖離したものが元に戻ることはありますか?
例えば、観察して乖離した手が、しばらくほっておくとまた自分のものという感覚に戻る事はありますか?

963避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 10:16:20 ID:ozubKx8M0
>>960
鬼和尚、ありがとうございます。
唯識も本当は認識優勢論であるとはどういうことでしょうか?

964541:2017/11/11(土) 11:12:19 ID:o7TfOr0I0
この「蛇縄問題」は興味深いですよね。

>おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。

この場合の「おぬし」が何を意味しているかですよね。
おぬし=真我だとすると、蛇に噛まれたところで、自分には何もおきていないわけです。死んでも居ないし噛まれても居ない。
おぬし=肉体だとすると、「蛇に噛まれて死ぬ」こともありえる。

肉体は老病死を免れないが、それを見ている何かは、老病死を超越している。

真我の立場に立てば、「生命」すら超越しているので、もはや、蛇と縄の区別すら、絶対的ではない。
だからこそ、落ち着いて、蛇と縄を区別できるとも言えるでしょうが

鬼和尚はどう思われますか?

965541:2017/11/11(土) 11:21:28 ID:o7TfOr0I0
西洋の存在論哲学を援用して考えて見ましょう。

蛇も人間も毒も縄も「存在」な訳です。

あらゆるの出来事は「存在の内部交流」のようなもので、その出来事が忠臣蔵だろうと、蛇に襲われるだろうと、車に轢かれるだろうと
それらの出来事はあくまで「人間的解釈」或いは「言語現象」であって、存在論的に観ると、エネルギーがグルグルめぐっているようなもの「存在の戯れ」のようなものといえましょう。

蛇と縄を区別できるのは人間だけです。蛇も縄も、人間の世界にしか存在しません。
蛇も縄も「仮象」に過ぎませんが、そのような区別は生きていくのに便利なので人は採用しています。
つまり、蛇や縄は、「生きよう」と言う人間の「気がかり」「配慮」が生じさせたとも言えます。
だから実体ではない。自殺志願者にとっては、毒蛇は「恋人」ですらあるかもしれない。

966541:2017/11/11(土) 11:45:29 ID:o7TfOr0I0
「全てが認識じゃない」

例えば、マムシの中にも「毒の無いマムシ」も居るかもしれませんね。
しかし「マムシ=毒をもって危険な蛇」と言う知識や認識があれば、その存在者は「毒蛇」に見える訳だ。
また、現代では、精巧に作られた蛇のロボットもあるかもしれません。
そう思えば、蛇と縄を区別するのは、そう簡単ではない。
いや、区別不可能なこともあるかもしれません。
かつては、白人と黒人(有色人種)は明確に「区別」されていた訳ですからね。
白人と黒人で生物学的に何かが変ったわけではなく、これは単に「認識」が変ったのです。
白人と有色人種は別人種と思われ、殺しても罪にならず、人権は存在しなかったのです。
これは、縄と蛇が「実は同じものだった」と言う事例です。
しかし、黒人と白人とが「同じである」と言う根拠も特に無く、結局は「その時代の人間がそう思うからそうする」と言うもの以上のものではない。
時代が変り、新しい分類学が生まれれば、「何で、これらを一緒のものと考えていたのだろう」と言う話になりえる。

つまりですよ。蛇と縄の区別にしても、現在の分類学が生物と非生物で分類しているので区別されるが(学問的区別)
「ほそ長いもの」の集合を一つの種類とするという新たな分類学が生まれれば、蛇と縄は学術的に同じ種族であるなどと言う話にもなりえる。
いやいやいやと、学術が生まれる前から人々は蛇と縄を区別しているよと言う主張もあるだろう。これを情動的区別としよう。
つまり、生命に危険があるか、無いかの区別である。すると、毒の無い蛇は、太いミミズとか別の名称が与えられているかもしれない。
という訳で、蛇と縄の区別は意外と「一筋縄ではいかない」のではなかろうか。
結局は、背後にある、文化的秩序を見ているのであって、本来自然に区別は無い。

そもそも、何故、我々は、これを蛇と呼び、これを縄とするのか
何故これが「蛇」に見えるのか。
それは「私とは何か」の追求とリンクするものが在ると思う。

悟りを得ようとする人が自我が生まれる瞬間を観察するように、蛇と縄が分別される瞬間も「観る」必要があるのではないでしょうか?

967541:2017/11/11(土) 11:53:17 ID:o7TfOr0I0
やはり、結論とすると

存在と言うレベルでは、蛇も縄も同じである。しかし、人間の「認識」がそれらを区別すると言わざるを得ない。

蛇を蛇たらしめて、縄を縄たらしめるのは、人間の認識である。

「人間」が居なければ、蛇も縄も無いのである。

それは「全ては人間の認識が作り出すならば縄を蛇にしてみろ!」と言う話ではない。

そうではなく、「人間」が生まれた瞬間、縄と蛇が生まれるのである。

現代の哲学では、存在論と存在の違いとする。存在的には縄と蛇は区別されるが、存在論的には「無」であると言うように。

968541:2017/11/11(土) 11:57:15 ID:o7TfOr0I0
>存在論と存在の違いとする

↑誤解が生まれそうなので、「存在論的な見方と存在的な見方の違い」と修正

存在論的な見方とは、言わば、「悟った人の視点」と言い換えても良いと思う。あらゆる観念性が落とされた視点のことである。
存在的な見方とは、我々の日常の物事の見方で、実際は対象それ自体ではなく、観念を見ているあり方のことである。

969541:2017/11/11(土) 12:07:55 ID:o7TfOr0I0
この喩えを好んで用いたマハリシは、存在論的な意味で「蛇と縄の喩え」を言っているのだが、

普通の人々は「ん? 生物的な区別の話か?」と思ってしまう。

勿論、鬼和尚も、本質的には、存在論的な意味で、この喩えを用いているのだが、説明が雑なので、やはり、存在的な区別の話に聞こえてしまうのだw

970541:2017/11/11(土) 12:22:08 ID:o7TfOr0I0
まじで、現象学と止観の方法論的差異について考察して見たい

それは全く同じものなのか、違うのか

現象学を一言で言うと、「経験とは何か」と言うことを考察していく学問である。
それにあたって、あらゆる実在性を括弧でくくる(エポケー) 何故、それがそのように見えたり感じたりするのかと言うことを考察する
外界に対しても、観念に対しても同じような態度を取る。

止観は外界にはさほど関心は無いが、心の考察と言う点では一致するものがあると思う。

971541:2017/11/11(土) 12:24:16 ID:o7TfOr0I0
根本的な違いとしては、現象学は特に「悟り」と言う状態を志向しないということである。

恐らく、止観もその過程で、悟りへの執着を取り除くだろうが、そうはいっても「悟り」と言うことをどこかに意識はしていると思う。

一方で、現象学者には「悟り」と言う概念がそもそも無いのである。

972541:2017/11/11(土) 12:38:37 ID:o7TfOr0I0
>説明が雑なので

失礼、説明がシンプルなので、に修正w

973避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 17:25:02 ID:8qFvIk/s0
鬼和尚、質問があります。
和尚のブログなどを参考にして、ヴィッパーサナーをしています。
自分の心を観察しようとして、ブログにある、

> 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
> 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
> と、自分自身に強く誓うのじゃ。

> そして坐るがいい。
> もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
> そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
> 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

の通りにしてみたのですが、不安、嫌悪感、劣等感などは普段の生活でありありと感じる事があるのですが、瞑想中だと
こういった感覚が湧き上がってきません。そういった感覚が湧き上がるまで待って観察すればいいのでしょうか?
それとも、そういった感覚が起こるようにわざと記憶を思い出すようにしたり、念じるなどのことをしたほうがいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

974避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 19:44:21 ID:ydE4b1w.0
>>960

ありがとうございました。

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:28:18 ID:1d4drIFg0
>>961 わしもおぬしも、もはやそうではないとわかっているのじゃ。
 ただ自分の偽りの無い心だけを自分に明かすのじゃ。
 本当は何をしたいのか。
 何のために悟りを求めようとしているのか。
 それを自分に確めるのじゃ。
 それは実は金や名声や権力のためなのかもしれん。
 そうであるからそれらを楽しむ自我が必要なのかもしれん。
 それが本心ならばそれでよいのじゃ。

 悟りの道に求めるものはないと知れるのじゃ。
 いずれそれらが死には対抗できないものと知り、虚しくなれば真に悟りを求めることもできるのじゃ。
 善事を積んで福楽を得ればそれらも楽しめるのじゃ。
 それもまたお釈迦様の教えなのじゃ。
 自らの本心を知って求める道を行くのじゃ。

>>962 それが習慣になればそう感じることも出来るのじゃ。
 しかし完全に厭離されればそれが自分ではないと知っている故に、完全に元には戻らないのじゃ。
 大人が子供の遊びに付き合っているようなものじゃ。
 鬼ごっこの鬼は本当の鬼ではないと知りながら逃げ回るようなものじゃ。
 
>>963 認識が心身全ての活動の源であるというようなものじゃ。
 何かを認識しないとそれを考えることも行動することも出来ないからのう。
 認識が心身の全てに先立って働くものと言う程度の意味なのじゃ。

>>973 それは深い瞑想に入っているからじゃろう。
 普段感じるならば普段の心境で観察して見るとよいのじゃ。
 恐れや不安から観察できなくなれば瞑想に入ってそれらを観察してみるのじゃ。
 そして原因を追究していくとよいのじゃ。

976鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/11(土) 20:29:07 ID:1d4drIFg0
>>974 どういたしまして、またおいでなさい。

977避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:31:20 ID:DAY232aw0
>>975
鬼和尚さん今まで沢山の質問に答えてくださり本当にありがとうございました。
今まで鬼和尚さんと質問を通した会話は本当に楽しかったです。
いつの日か本当に悟りを求める日がきたらその時はよろしくお願いします。
自分の本心を知って求める道を行こうと思います。
本当にありがとうございました。

978避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 21:40:54 ID:czRftzgI0
>962
自分の手という感覚が視覚だけではなく触覚の記憶からも生じている場合、視覚による観察では乖離に不十分で、さらに触覚の観察による乖離も必要なことはありますか?
今の自分の手がそんな感じがしているので質問しました。

979避難民のマジレスさん:2017/11/11(土) 23:05:07 ID:soI.jltg0
>>975
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
そのような意味でしたか。
となると、やはり認識が世界を作っていると考えてしまいます。
いわゆる実相などあるのでしょうか?
実相を実相と観た時点でそれは実相ではないのでは?と思ってしまいます。
それを確かめたいがため、悟りを目指しているところもあります。


541さん、哲学的な考察ありがとうございます。
私は哲学はさっぱりですが、探求していたらいつの間にか現象学的な解釈で世界を見るようになっていました。
それが本当にそうなのか、観察を通じて知れればなと思っています。

980541:2017/11/12(日) 07:28:35 ID:o7TfOr0I0
>>979さん

お返事ありがとう御座います。是非とも、意見交換をして、お互いに悟りを深めていきましょう。

981541:2017/11/12(日) 07:32:40 ID:o7TfOr0I0
>>いわゆる実相などあるのでしょうか?

979さんは哲学にもお詳しそうなので
実相に関しては、「我々に知る事はできない」と言うのが、カント哲学の結論ですよね。
いわゆる「物自体」です。
ただ、あらゆる観念を剥奪して言った先の「存在」のようなものは感じられるような気がします。
「厭離された手」などがその片鱗を見せている気がしますね。

982避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 12:52:28 ID:gH6Q6Ryw0
鬼和尚は、老子と、その著作の老子道徳経をどのように評価されますか?
もし悟りに有用なら、信心銘の時のように鬼和尚の訳解をお願いしたいです。

983避難民のマジレスさん:2017/11/12(日) 15:34:33 ID:8qFvIk/s0
>>975
ありがとうございます。
普段注意して、沸きあがってきたら見るようにしてみます。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/12(日) 21:37:55 ID:1d4drIFg0
>>977 よかったのじゃ。
 本心を受け入れ、認める事はどのような道に行こうとも無駄にはならないじゃろう。
 またおいでなさい。

>>978 それも必要じゃろう。
 完全に観察できなければ厭離は起こらないのじゃ。
 全てをありのままに認識するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>979 あるのじゃ。
 阿頼耶識をも滅することは認識の全てがなくなるのではないのじゃ。
 本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それが悟りなのじゃ。
 それによって真実の世界も見えるのじゃ。
 
>>982 断片しか残っていないのじゃ。
 それも意味不明なのじゃ。
 ほとんどが後世の創作のようじゃ。
 あまり役にはたたないのじゃ。

>>983 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

985避難民のマジレスさん:2017/11/13(月) 18:41:42 ID:czRftzgI0
>978
そうですか、そのように修行します

986鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/13(月) 20:29:21 ID:1d4drIFg0
>>985 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

987避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:06 ID:gH6Q6Ryw0
>>984
そうだったんですね。
では、鬼和尚も悟っていたと言われていた盤珪禅師の「臼ひき歌」はどうでしょうか?
一応貼っておきますね。

988避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:49:44 ID:gH6Q6Ryw0
生れ来りしいにしへ問へば、何にも思はぬ此心。
来る如くに心を持てば、すぐに此身がみな仏。
不生不滅の此心なれば、地水火風はかりの宿。
かりの火宅に心をとめて、我ともやして身をこがす。
過去も未来も只今ばかり、心とめよより只歌うたへ。
心とめずはうき世もあらじ、何もないこそ活如来。
恋しゆかしも只今ばかり、あはぬ昔しがある故に。
昔おもへば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじや。
夢と思へば浮世の中に、うきもつらきもなきものを。
因果歴然我なす事を知りて迷ふは身のひいき。
有為の転変身にならはして、それに迷はば己が損よ。

989避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:50:24 ID:gH6Q6Ryw0
有為の転変わが為す事を知らで迷うて身のひいき。
うその世界をまことのやうに化しばかさる化物ぢや。
いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす。
人にをしへはもとないものぢや、是非を争ふ我身なり。
仏道修行つとめし後は、何もかはりは得ぬものぞ。
迷い悟りはもとないものぢや、親もをしへぬならいもの。
後世のつとめも此頃いやと出入の息のあり次第。
無為の心はもとより不生、無為がなき故迷ひなし。
をしやほしやと思はぬ故に、いはば世界が皆我ものじや。
きめう不思議は一つもないぞ、しらにや世界が皆ふしぎ。
かねを持たりや貧者がいやし、もたぬむかしを忘れたか。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
悪を嫌ふを善じやとおもふ、嫌ふ心が悪じやもの。
としはよれども心はよらじ、いつも変らぬ此心。
嬉し芽出度や老せぬ君に尋あふたりや我ひとり。
我と造れる心の鬼が責めて苦しむ身のとがを。
やすく養う浄土は爰よ五萬五萬の奥もなし。
さとる心を我ぢやと思へ、念と念とで相撲とる。
さとるさとると此頃せねば、朝のねざめも気が軽い。
よきもあしきも一つにまるめ、紙につつんで捨ておけ。
死んで、世界によるひるくらせ、それで世界が手に入るぞ。
とかく浮世はもとないものぢや、心とみよより唯うたへ。

990避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 14:51:09 ID:gH6Q6Ryw0
仏さまこそおいとしうござる、そとの飾りにまばゆかろ。
内の仏にや、そりやまだはやい、門の仁王にまづなりやれ。
われと浄土をたづねて見たら、けつく仏にきらはれた。
鬼の心であつめた金をがきにとられて、目がまうた。
地獄嫌の、極楽好きで、らくな世界に苦をうけた。
金がほしさに命をすてて、すてて見たれば、金いらず。
冬の頃しも悦ぶたき火、夏のくるほどあらいやや。
夏の頃しも乏しき風も秋の果てぬに早やにくむ。
人にかたきもと無きものぢや、是非を争う我が成る。

991避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 20:20:46 ID:gH6Q6Ryw0
>>989 訂正です。

後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。

後世を願ふとひいきを願ふ、いとど我まんにそつかけて。

992避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 22:07:31 ID:Nw8VwStU0
>>988>>991
現代代語訳もアップせんと、ほとんどの人は読めんじゃろう
宝の持ちぐされになってしまうのう

993鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
>>988 産まれて来た根源を聞けば何も思わない心なのじゃ。
種子と言うものじゃな。
来るが如く去るが如くに心を持てば皆如来なのじゃ。
心は本来あるものではなく不生不滅の意識であるからには、物質的な肉体は仮の宿なのじゃ。

そのような物質的な肉体に囚われれば、身を焦がす苦があるばかりなのじゃ。
過去も未来も無く在るのは今ここだけなのじゃ。
そのような過去や未来に囚われずに今ここにあるのじゃ。
心が囚われなければ浮世も無いも同然なのじゃ。
そのような無の境地こそ生き仏なのじゃ。
執着も過去の想いがあるからなのじゃ。
本来は今ここにあるのみなのじゃ。

過去を思うのは夕べの夢を思うようなものであり、皆虚妄なのじゃ。
修業の因果は歴然としてあり、修業をなすべきことと知りながら迷うのは身びいきがあるからなのじゃ。
自分だけは死なないとか、特別とか思っているのじゃ。
この世の無常は誰の身にも訪れるものじゃ。
それに迷っていては損なのじゃ。

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:01 ID:1d4drIFg0
実践することをも知らなければ迷い傲慢になるのじゃ。
虚妄の世界を本当のものと思って騙したり騙されたりして世を終わるのじゃ。
五欲に慣れ親しみ日を送るのじゃ。

元より仏教もないものであるが、これが正しいとかあれが間違いとか争うもののためにあるのじゃ。
修業の代わりになるものはないのじゃ。
迷いも悟りも無いものとは親でも教えてくれないのじゃ。
後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
無為の心は不生であり、無為もなければ迷いも無いのじゃ。

何かが欲しいとか惜しいとかの心は無い故に世界は皆我が物なのじゃ。
それが奇妙不思議と言うこともないのじゃ。
悟らなければ皆不思議なだけなのじゃ。

金を持った者が持っていない昔を忘れて貧乏をいやしむ様に後世を願う心や身びいきも悪なのじゃ。
悪を嫌い善を願う心も悪なのじゃ。

年はとっても心は不変なのじゃ。
不変の心に我はたどり着いたのじゃ。
自ら作った心の鬼も、この浄土にはない安楽の地なのじゃ。

悟ろうとする心があればそれが邪魔になるのじゃ。
 それがなくなれば心も軽いのじゃ。
良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
ありもしない浮世に迷うより、心をとどめずにただ今ここにあるのじゃ。

995鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/14(火) 22:09:33 ID:1d4drIFg0
いとしい仏も外の飾りには眩いものじゃ。
心の内に仏を求めるのじゃ。
それが早ければ門の仁王になるのじゃ。
己の欲で浄土を求めれば仏にも嫌われるのじゃ。
鬼となって集めた金も餓鬼にとられておしまいじゃ。
苦しいのが嫌で快楽がすきでも苦の世界にいるのじゃ。
金が欲しくて命もイランとしても命が無くなれば金も役には立たないのじゃ。
冬には喜ばしい焚き火も夏には暑苦しいものじゃ。
夏には少ない風も秋が終わる頃には激しく吹くものじゃ。
人には元々敵も無いのに是非を争う心が敵を作るのじゃ。

996避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:30:50 ID:Y5LPInQE0
>>994
>良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。

鬼和尚さん、良い悪いの分別を捨てて良いのでしょうか?

良い悪いの分別を捨てたら、悪事も平気で行えてしまいますよね?

997避難民のマジレスさん:2017/11/14(火) 23:33:14 ID:Y5LPInQE0
>>955
ご回答ありがとうございました

998偽和尚★:2017/11/15(水) 00:37:36 ID:???0
次スレ

鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/

立ててくれた人>乙

ということでこちらのスレは切りのいいところでストップします。(まだしません。多分明日します)

999避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 05:54:57 ID:1wPDzgc60
>>849 ご教授ありがとうございました。
真の原因を観察して、観念を遠離しようとする場合、観念による反応が生じた時、
体に起こる感覚を感じていれば、あるとき突然、
観念を抱くにいたった原因に気づく、ということなのでしょうか?
思考による過去への思索はいりませんか?

1000避難民のマジレスさん:2017/11/15(水) 20:13:48 ID:gH6Q6Ryw0
ありがとうございます!まさに鬼ですm(_ _)m

>>後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。

これはどういったことを言っているのでしょうか?

1001鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:56:51 ID:1d4drIFg0
>>996 それは己にとっての好悪の判断なのじゃ。
 りんごは好きであるがみかんは嫌いと言うようなものじゃ。
 それがあれば執着も生まれ、苦と迷いのもとになるものじゃ。

>>999 そのようなこともあるじゃろう。
 思索によることも出来るじゃろう。
 記憶を観察して思い出して原因に気付くこともあるじゃろう。
 原因に気付く事はさまざまな道があるものじゃ。
 注意深く追求していくのが大事なのじゃ。

>>1000 今の息をしている間、日々の生活の中で善事をしたり修業したりすることじゃな。
 生きるとは息をしていることなのじゃ。
 生きているときの行いが大事ということじゃな。

1002鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/15(水) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
>>998 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。


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