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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

1偽和尚★:2017/06/05(月) 00:55:15 ID:???0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part8
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1480943712

230蓮恵:2017/07/11(火) 21:21:15 ID:hu.n.GIQ0
鬼和尚さま

今月のブログ記事で一法専念とのことでしたが、私にとって姿勢を追求することがもっともよい道であるかのように思いました。

武術で語られる浮身、居着かず重力を感じず、浮いたような身体が瞑想においても要にはなるのでないしょうか。

また鬼和尚が姿勢を正しくせよ、と仰いましたが已然、骨盤のまっすぐな正しい座り方ができずにいます。

231としぼっくり:2017/07/11(火) 21:30:31 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

232避難民のマジレスさん:2017/07/12(水) 00:18:11 ID:zLNNGHJI0
>>229
忘我を調べましたが、サマーディのことなんですね。
忘我の状態からさらに進むには、自我を敢えて作り、その正体を目撃することでしょうか?
そのように観念を目撃した先に無我があるのでしょうか?

233避難民のマジレスさん:2017/07/12(水) 13:07:56 ID:Daf3Ag0M0
>>229
なるほど、ありがとうございます。
夜に一人でいて怖い気分の時は、集中どころじゃないですが、怖さから逃げずに雑念として流すところからやってみます。

234鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/12(水) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>230 善いことじゃ。
 姿勢を研究すればサマーディにも自然に至れるようになるじゃろう。
 肉体を使う技とも共通する真理がわかるじゃろう。
 座布団を使ったり、いろいろ試してみるとよいのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>231 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>232 忘我とは自我を忘れている状態なのじゃ。
 自我を思い出したときにそれを観る最も大きなチャンスが訪れるじゃろう。
 自我は自分ではなく、自分のものではなくただ単に忘れたり思い出したりする記憶による観念に過ぎないと気付くのじゃ。
 その時は何も図らずとも自然にやってくるのじゃ。
 そうすれば無我になるじゃろう。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

>>233 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

235避難民のマジレスさん:2017/07/13(木) 01:18:29 ID:a7aNDVMs0
>>234
わかりました。
この忘我から、自我の生成を観るというニュアンスでしょうか。
ギャップに気づくと言いますか。

やってみます。
ありがとうございました。

236としぼっくり:2017/07/13(木) 17:36:48 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
お釈迦様は姿勢を正しくする為に座布団みたいな物を使われていたのでしょうか?
質問を続けて申し訳ないですが、鬼和尚さんは座布団使われるのでしょうか?

237蓮恵:2017/07/13(木) 18:33:38 ID:58WbNv1g0
鬼和尚さま
武道関係ですが、肉体の技術を習得する機会に恵まれました。
姿勢に関しては、肉体の正中線や重心の線を完全に真っ直ぐにするような練習をしているので効果があれば、報告します。

それといままで気づかなかったのですが、自分の居場所がないと感じていることに気づきました。
どこかに居場所を求めているようです。

居場所を求めず、ただ観念を離れることが本当の己の居場所を作る方法だと思うのですが

238避難民のマジレスさん:2017/07/13(木) 18:39:31 ID:czRftzgI0
瞑想して心を鎮め、胸に意識を持っていくと目をつむっているのに目の前が明るくなります。けれど、更に意識して胸に集中しようとすると、それを無意識に思考でやっているのでしょう、戻ってしまいます。
明るくなる、戻る、明るくなる、戻るを繰り返しています。何かアドバイスを頂けないでしょうか。

239鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/13(木) 22:28:08 ID:1d4drIFg0
>>235 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>236 座布団はないのじゃ。
 野外であったから草を積んだりして座るところを創ったのじゃ。
 慣れれば平気なのじゃ。
 わしも毛布とかをしくこともあるのじゃ。

>>237 気付いてよかったのじゃ。
 その観念を厭離すれば居場所も必要なかったとわかるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>238 そのような反応に囚われないようにするのじゃ。
 何が起ころうとただひたすらに集中し続けるのじゃ。
 明るくなることも戻ることも何の意味もないのじゃ。
 ただひたすらに集中し続けることだけが真の実践なのじゃ。

240としぼっくり:2017/07/14(金) 07:08:32 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、鬼和尚さんも姿勢を正しくする為に毛布を使うと言う事でしょうか?

241避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 18:56:43 ID:czRftzgI0
>>238
とらわれないように進みたいとおjいます。ありがとうがおざいました

242避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 20:42:25 ID:izxhxeRQ0
鬼和尚さん、気というのは簡単に言えばどういうものなのでしょう?
オーラとはちがうものですか?

243鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/14(金) 21:15:41 ID:1d4drIFg0
>>240 そうじゃ、骨盤を垂直に保つために尻にしくのじゃ。
 骨盤が垂直になれば姿勢も正しくなり、力を抜いても倒れないのじゃ。
 そして気が頭まで入って無念夢想の状態になるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>241 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>242 気とはエネルギーなのじゃ。
 熱も熱気なのじゃ。
 オーラも生き物の気なのじゃ。
 万物にあり、人の中にもあるものじゃ。

244としぼっくり:2017/07/14(金) 21:41:03 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践によって証明します。

245避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 22:02:18 ID:izxhxeRQ0
>>243
242ですが、なるほどわかりました。
ありがとうございます。

246香雪:2017/07/15(土) 20:03:07 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま

こんばんは。空の法に拙いながらも少しずつ取り組んでいます。
ブログにある言葉を参考にして「自分の身体があるでもなく、ないでもなく」から、
先へ進んで感覚や思考に行こうとすると、消えたくない悲しい思いでいっぱいになりました。

怖れではなかったのですが、それで自己同一化してしまいます。
悲しんでいる自分に酔ってすらいるようです。

そのまま空の法で身体や感覚、思考などまで広げて「あるでもなく」と観続けるべきか、
それとも観察で「悲しみを感じている」としていくべきか、どちらがこの自分を越えていけますか?

よろしくお願いします。

247鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/15(土) 22:21:48 ID:1d4drIFg0
>>244 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>245 どういたしまして、またおいでなさい。

>>246 そのように強い反応があるということはそれが完全にできていると言うことなのじゃ。
 本当に効果があったから自分が消える悲しみも起こったのじゃ。
 おぬしには空の法が向いているのかもしれん。
 そのままその悲しみも空であると念じるのじゃ。
 障害も空であると消しながら進むのじゃ。
 出来るところまでやってみるのじゃ。
 どうしても無理であると感じたならばそれでやめてもよいのじゃ。
 それまで空の法によって進んでみるのじゃ。

248避難民のマジレスさん:2017/07/16(日) 12:18:09 ID:l0xJAHYA0
鬼和尚さん、ちょっと長い質問になってしまったのですが、縁起の観察について教えてください。

去年この掲示板で
「原因が無ければ反応も無いことを観察するのじゃ。
 反応が無ければ自分も無いと更に続いていくのが縁起の観察なのじゃ」
と教えていただいたんですが、昨日ようやくちゃんとその意味がわかった気がします。
その時は難しく考えていたんですが、これはじつはすごく単純なことなのではと思ったのです。

つまり、通常は「自分があるから、反応が起きている」と考えるのですが、実際は、「観念などの原因によって肉体の反応が起こり、その反応に自分を投影している」ということですよね?
だから、「原因となる観念などがなくなれば反応が起きないので、そこに投影していた自分がないことがわかる」、というのが縁起の観察だと思ったのですが、どうでしょうか?

昨日はそこでさらに、鬼和尚さんのブログを参照してみたのですが、縁起の法のところには、悟りに至るまでのプロセスはそこまで詳しく書いてない気がしました。
全体的に観察することで観照が起きやすくなる、と書いてあるだけだと思います。

それで質問したいのですが、「原因がなければ反応がなく、反応がなければ自分もない」ということを自分を投影している反応すべてに適応していくとすごく時間がかかると思うのですが、縁起の法だけで悟りに至ることはできるのですか?
それとも、これは止観の法の一部であって、集中による忘我と組み合わせて使う方法なのですか?

249香雪:2017/07/16(日) 18:45:23 ID:q6UBxgPc0
>>247
鬼和尚さま ありがとうございます。
想像以上に心を揺さぶられてしまい、これは勇気がいるな、と感じていますが、
それ以上に自分に空の法ができている、という言葉に力が湧きました。

このまま空の法で進んでみようと思います。ぜひまたご指導よろしくお願いします。

250鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/16(日) 21:57:04 ID:1d4drIFg0
>>248 そのように感じるならば実践してみると善いのじゃ。
 正しければ反応も起こるじゃろう。

 観察を続けて苦の真の原因である自我に気付けば無我にもなるのじゃ。
 そして観念をも滅することが出来るじゃろう。
 縁起は観察の法であり、常に集中と共に行うものなのじゃ。
 実践によって確めてみるのじゃ。

>>249 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

251としぼっくり:2017/07/16(日) 23:25:51 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
善友とは一体なんなのでしょうか?
失礼な事をお聞きしますが、鬼和尚さんと僕は、善友なのでしょうか?

252避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 00:22:52 ID:gy.DD9Vw0
>>250
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、自我の投影先は人によって異なるので、自分の感じるところを追っていけば良いのですね。

私は身体的な反応が起きた時に、強く自分を感じます。
音を聞いた時や何かに触れている時、胸の辺りからくる感情が湧く時等です。
つまり、肉体が何かの原因から反応することによって、例えば、音を聞いている主体があるように感じ、触っている主体があるように感じ、胸の緊張から感情の主体があるように感じます。
肉体的反応を厭離できれば、主体がそこにないことがわかりそうです。
他にも投影先はあるかもしれませんが、まずは肉体の反応を厭離するべく観察していこうと思います。

それで、鬼和尚さんに聞きたかったことは、私はこのように反応に自分を投影していて、投影先がたくさんあるので、それを観察する優先順位のようなことでした。
主体を感じる肉体的反応はたくさんありすぎて、すべてを厭離するのは私には無理な気がします。
強く主体を感じる反応の一つを選んで、何度も観察すれば良いでしょうか?
でも、このような部分的な厭離だけで自我にたどり着けますか?

あと、集中も必要だと教えていただきありがとうございます。
集中の瞑想も続けて行きたいと思います。

253避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 10:32:53 ID:czRftzgI0
感情は胸の反応を以て自分に起きていると感じているようです。胸の反応自体は自動的に起きているような気がするものの、それが自分の胸(皮膚と心臓の間くらいの場所)だという思いが強くて、どうしても自分の感情だと思ってしまいます。
それで、そのような体の中の反応する臓器?(あるいは箇所)のような観察できないものを乖離するのはどうすればいいですか?

254避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 10:41:34 ID:czRftzgI0
補足
つまり、そういう体の目に見えないところを観察するにはどうすればいいかという意味です。

255避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 12:06:18 ID:czRftzgI0
自己解決
と思っていたら、止観すると感情や反応が自分のでない感じがして、この状態と普段思考先行の状態の違いを観察して、乖離していけばいいのではと気付きました。お騒がせしました

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/17(月) 22:12:35 ID:1d4drIFg0
>>251 素行がよく、学識豊かで、よくないことから遠ざけてくれる人というのじゃ。
 善き友と呼べるじゃろう。
 いろいろ聞けるうちに聞いて実践するとよいのじゃ。
 そうすれば優れた境地にいけるのじゃ。

>>252 そうじゃ、自分が主体と感じるものを観るとよいのじゃ。
 その投射が観られたならば、一切の投射がなくなるのじゃ。
 偽りの主体である感覚をもたらしていたものと気付くからのう。 
 もはや二度とその投射は起こらなくなるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>253>>255 何があろうとそれをありのままに観ればよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

257としぼっくり:2017/07/17(月) 22:27:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
鬼和尚さんを師匠、善き友として精進していこうと思います。これからも色々と聞かせて頂く事があると思いますが何卒よろしくお願い致します。

258避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 23:25:27 ID:/LtJi/2c0
>>256
鬼和尚さん、ありがとうございます。
理解できました。

反応すべてにそれぞれ主体が生まれているのではなくて、いろいろな反応に投射される元の主体があるということなのですね。
私はいつも投射先を観察することを考えてしまうのですが、投射元を観察することが重要なのを思い出しました。
それなら、一つの反応からでも、その主体の感覚をもたらしているところにたどり着けるはずですね。

主体の感覚をもたらしている投射元を見れるように、注意深く観察してみます。
ありがとうございました。

259避難民のマジレスさん:2017/07/18(火) 07:49:20 ID:czRftzgI0
>252の自分が主体と感じるものを観るは、主体の投射先である胸を見るのか投じている主体(自分という観念)を見るのかどちらですか?

260鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/18(火) 21:40:46 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、何度でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>258 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>259 全てを観るのじゃ。
 主体と感じるものも、投射する働きも、投射される客体も全てを観察するのじゃ。
 そうすれば自我の成り立ちに気付いて厭離が起こるのじゃ。
 それはただ観念が投射されている現象でしかないとわかるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

261避難民のマジレスさん:2017/07/18(火) 22:07:55 ID:czRftzgI0
>>259
なるほど全てを見るのですか。そのようにします。ありがとうございました

262避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 07:33:13 ID:GBGdI4v60
お釈迦さまも和尚様も自ら進んでは肉食しないとスレで見ましたが
何か理由があるのでしょうか?慈悲の表れですか?
食べるためには殺生は仕方ないと和尚様の意見を過去レスでは見ましたが

よくベジタリアンの人に対して「動物も植物も生き物を殺して食べるのはおんなじだ」
という意見を見ます、が私は植物と動物は一緒には思えないのです
それなら極端ではありますが人を殺生して食べるのも同じでしょう
食べるためには人を殺生するのも仕方がないことで罪にはならない?
さすがにそんなわけじゃないでしょうし
その点はどうお考えかお聞かせ下さい

263避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 16:45:07 ID:arO.hJ7Q0
鬼和尚、こんにちは。

和尚は自我は観念であると仰っていますが、私にとって自我を投影しているものは何かをしばらく観て参りました。

私にとって自我はすでに肉体でも思考でもありません。
意識の起点と言いましょうか、「物事に注意を向ける」の向ける主体です。
あちら、こちらのこちら側とも言えます。

これは何か「特別な視点」と認識しがちですが、これも経験を元にした記憶です。
過去の気づき経験の記憶に囚われてしまい「特別な視点」としてしまっている。
これも自我であり観念とわかりました。

ここまで観察ましたが、しつこくこの特別な視点があります。
あとどこを観察すればよいのか相変わらず迷っております。
この「特別な視点」をもっと観察したところに答えがあるのでしょうか?

264としぼっくり:2017/07/19(水) 18:35:25 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
無意識の観察が出来る様になるには、どれくらい観察を続けたら良いのでしょうか?

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/19(水) 22:06:04 ID:1d4drIFg0
>>262 それも慈悲なのじゃ。
 自らの為に殺される生き物をなるべく少なくするのじゃ。
 
 植物は大抵根が残れば食べても増えるのじゃ。
 動物は死ねばそれまでなのじゃ。
 善事をする機会も失われるのじゃ。
 そうであるから同じではないのじゃ。

>>263 その視点の観念が今何を想起しているのか観察してみるのじゃ。
 その視点がなくなると思うと恐れが起こるとか、視点があると思えば孤独感があるとかみてみるのじゃ。
 それらの縁起が完全に観られたならば厭離も起こるのじゃ。 
 実践あるのみなのじゃ。

>>264 それは人によって異なるのじゃ。
 大体二千から三千回ぐらいでできるようになるのじゃ。
 夢の中で観察しているとか、しようと思わないのに自然に観察していたとかの兆候があるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

266としぼっくり:2017/07/19(水) 22:15:14 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
1日2回として3、4年くらいですね。
質問ですが、無意識の観察が出来れば、自我に気付く事が出来るのでしょうか?

267避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 23:40:13 ID:arO.hJ7Q0
>>265
鬼和尚、ありがとうございます。

以前まではその視点を真我や本質の私などのよくスピリチュアルで目にするもの同じと認識をしていました。
確かにこの認識を手放すとまた振り出しに戻ってしまい、また昔のように苦しくなるのではないか、という恐怖はありましたが、今となってはこの視点への囚われが先に進むことを妨害してるのではと感じています。
そのため手放しても良いと思っています。

縁起を観るとのことですが、この視点を想起するまでの流れをじっくり観察するということでよろしいでしょうか?

268避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 11:35:08 ID:LstX99Vo0
鬼和尚さん、質問ですが、悟った人や無我の状態の人は、車にぶつかりそうになる等の身の危険を察知した時、どうなりますか?

体が緊張して、恐怖を感じますか?
つまり、体自体が恐怖を感じますか?
それとも、体は緊張するけれど、恐怖は感じませんか?
あるいは、緊張もせず、恐怖も感じませんか?

269避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 15:00:39 ID:M789lx0g0
>>265
常々考えてたことが間違ってはいないようで安心しました
自分のために殺生される生き物をできるだけ少なくすることに努めます
ありがとうございます

270鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/20(木) 21:04:42 ID:1d4drIFg0
>>266 それもできるじゃろう。
 真摯に己を観ようとするならばもっと早く気付くこともできるじゃろう。
 覚悟があれば恐れも超えて無我にいたることも出来るのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>267 想起してからも観るのじゃ。
 視点を手放す恐れも、それによる好悪も全てを観るのじゃ。
 そうすれば観察が完全に成り、厭離も起こるのじゃ。

>>268 恐れは感じないじゃろう。
 体が勝手に反応するじゃろう。
 肉体が最適な対応をするのみなのじゃ。

>>269 どういたしまして、またおいでなさい。

271避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 22:20:02 ID:arO.hJ7Q0
>>270
このような連鎖を観てみるということでよろしいでしょうか?

悟りに対する疑問が起こる

探そうとする

視点を意識する

視点に「真我」「本質の私」などのレッテルを記憶から引っ張って貼り付ける。そのような想起をしている。

「これが悟りだ」「良いものだ」と認識している

「しかしこれで良いのだろうか」と疑問がある

以下ループ


一番目の悟りに対する疑問が起こるのも、
「私が悟りを知って楽になりたい」という本心が根本にあるからです。

つまり悟りで楽になろうとして、悟りの観念に囚われループしているものが私という観念。
そしてこの観念の元になっているのが…記憶?
記憶も観念?
よくわからなくなってきました。

ここを実際に実践でじっくり観察ですね。
ありがとうございます。

272としぼっくり:2017/07/20(木) 22:29:13 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問を続けて申し訳ないですが、真摯に己を観るとはどういう事なのでしょうか?

273としぼっくり:2017/07/20(木) 22:44:44 ID:DAY232aw0
>>272追記です。
真摯に己を観るとは、真摯に自分を観察するという事でしょうか?

274避難民のマジレスさん:2017/07/21(金) 10:10:51 ID:izxhxeRQ0
>>270
鬼和尚さん、ありがとうございます。
つまり、喜怒哀楽の感情は観念が作り出しているのでしょうか?
悟った人は体を動かすのが楽しい、というようなことは感じますか?

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/21(金) 21:57:04 ID:1d4drIFg0
>>271 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>272>>273 そうじゃ、自分と感じるものを観察するのじゃ。
 それが近道なのじゃ。
 観察を日々実践するのであれば自分を観察する事で無意識の時にも自分を観察する機会が増えるのじゃ。
 そうであるから常に自分を追及し、観察するとよいのじゃ。

>>274 そうじゃ、それも観念なのじゃ。
 感じようと思えば感じることも出来るのじゃ。
 観念から離脱しても観念を使うことはできるのじゃ。
 船で彼方の岸に渡ったものが、渡り終えても用の無くなった船を使えるようにのう。
 なんでも自在なのじゃ。

276としぼっくり:2017/07/21(金) 22:25:53 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か観察し、自分と感じるものを観察して行こうと思います。

277としぼっくり:2017/07/21(金) 23:01:28 ID:DAY232aw0
>>276追記です。
お礼がいつも短くてすいません。いつも丁寧なご回答ありがとうございます。

278避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 00:29:04 ID:r3AdvIzY0
>>275
なるほど、ありがとうございます。
感情も観念なのですね。
悟っても感情を自在に使えるのなら安心しました。
ありがとうございました。

279としぼっくり:2017/07/22(土) 09:36:50 ID:DAY232aw0
鬼和尚さんお礼に続けて質問大変申し訳ないですが、自分を観察するとは、自分と感じるものを観察するという事なのでしょうか?

280避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 10:35:35 ID:czRftzgI0
聞こうかどうか迷ったのですが、OSHOのオレンジブックに男女が愛し合っているとき(要するに性交)の瞑想とか気は体のとんがっているところ(性器)に集まるとか書いてありました。このOSHOの態度からして悟りや修行と性的欲求とは関係がないという理解でいいでしょうか。
つまり、性的欲求を満たすことは修行の妨げにならないのかという意味です。

281蓮恵:2017/07/22(土) 11:03:28 ID:vWTE.il20
この世の全ての事象は、自分の心の中で起きているということがわかりました
ある意味、心の一人遊び、観念遊戯ともいえます

282避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 13:40:53 ID:9XP4Lp720
鬼和尚さん

テーリーガーターによく出てくる、
「5つの構成要素の集まり
6つの器官と認識対象とを合わせた12の領域
12の領域に6つの認識作用を合わせた18の要素の教え」
とは、何のことでしょうか?

283香雪:2017/07/22(土) 21:15:42 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 こんばんは。

たまに休んでしまいますが、空観でことごとく「これも空だ、あれも空だ」とやっています。
ところで、自分の気付いたことや体験と合わせて、鬼和尚様のブログなどで教わったことを
僕のブログでも書いてよろしいでしょうか。

284鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/22(土) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>276>>277 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>278 どういたしまして、またおいでさない。

>>279 そうじゃ、今ここで自分と感じるものは何か、観察してみるのじゃ。
 それは人によっては肉体であり、感情であり、それらの集まりと感じることもあるじゃろう。
 それを追求することで確実に自我は観察されることになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>280 関係はないのじゃ。
 囚われなければ妨げにはならないのじゃ。
 それは修行に使うことも出来るが、囚われれば迷いになるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

285鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/22(土) 22:28:19 ID:1d4drIFg0
>>281 そうじゃ、全ては自分の観念なのじゃ。
 自らの観念の世界で苦も起こるのじゃ。
 観念が無ければ実際の世界に生きられるのじゃ。

>>282 それは色受想行識の五蘊なのじゃ。
 肉体と感覚器官と思考と分別と認識なのじゃ。

 眼耳鼻舌身意の器官とその対象である色形、音、匂い、味、感触、心の働きなのじゃ。
 それに視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、心の感覚をあわせて十八なのじゃ。
 要するに感覚の観察を全てにすることじゃな。

>>283 善いことじゃ。
 後に続く者に参考になるじゃろう。
 どんどんやるとよいのじゃ。

286としぼっくり:2017/07/22(土) 22:58:32 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か観察し、自分と感じるものは何か観察して行こうと思います。

287としぼっくり:2017/07/22(土) 23:40:39 ID:DAY232aw0
>>286お礼続けて申し訳ありません。
質問ですが、自分と感じるものは何か、観察する事は、自分を追求し、自分を観察する事になるのでしょうか?

288避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 00:43:12 ID:Tu1eESLY0
>>285
鬼和尚さん、ありがとうございます。
理解できました。
五蘊の説明は、世の中にあるものより鬼和尚さんの説明がわかりやすいですね。
そして、18の要素は、6つの感覚にそれぞれ、器官、対象、働きがあるということですね。
テーリーガーターではこの観察で悟っている人が何人かいるようなので参考にしてみます。
ありがとうございました。

289香雪:2017/07/23(日) 09:17:53 ID:q6UBxgPc0
>>285
鬼和尚様 ありがとうございます。

自分の言葉もどなたかの役に立てるといいな、と思っています。
空観はこれからも実践あるのみ、がんばります。

290避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 12:27:57 ID:czRftzgI0
>>280
スピ界でこの点はタブー視されてますね。なーんだ関係ないのか

291避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 19:15:05 ID:oakPTNLg0
鬼和尚さん、すみません、また質問させてください。

鬼和尚さんは
>>47 で、死に行くものと死によってもなくならないものを追求するようにと教えてくださいましたが、
私はやっぱり、心臓と頭がなくなれば、真っ暗になって何もなくなる気がします。
そして、それを見ているものがあるというのは、ただの想像とか、気のせいなのではないかと疑ってしまいます。

肉体がなくなっても何かが残っているということを、実際に死んだのではないのに、どうしてマハリシはわかったのですか?
想像や気のせいではなく、それが事実だと、なぜわかったのでしょうか?

292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/23(日) 20:45:57 ID:1d4drIFg0
>>287 そうじゃ、それが自分を追及し、観察する事なのじゃ。
 日ごろただ漠然と自分と感じているものが本当に自分なのか観察によって明らかにするのじゃ。
 そうすれば気付きがおこるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>288 どういたしまして、またおいでない。

>>289 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>290 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>291 それを徹底して観察するのじゃ。
 そうすれば疑うこともできない気付きと感得がそこに現れるのじゃ。
 手のあるものが自分の手があるかどうか疑えないように、何度でも確められる完全な感覚があるものじゃ。
 そしてむしろそれまでの死がある自分こそ観念妄想であったと気付くのじゃ。
 それまで徹底して観察あるのみなのじゃ。

293としぼっくり:2017/07/23(日) 21:03:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
しつこい様ですが、自分と感じるものは何か、観察するだけで、自分を追求し観察する事になるのでしょうか?
回答を下さっているのに何度も同じ様な質問申し訳ありません。

294避難民のマジレスさん:2017/07/24(月) 18:42:37 ID:8TunS37.0
鬼和尚
空観の瞑想は具体的にどうやればいいのでしょうか?
何を思い浮かべればいいのでしょうか?
死の恐怖の感情そのものを無くしたくてやってみたいと思ってます

295避難民のマジレスさん:2017/07/24(月) 20:03:24 ID:Daf3Ag0M0
>>292
鬼和尚さん、ありがとうございます。
徹底して観察すれば、それが疑いのない事実だとわかるのですね。
納得できました。

質問なのですが、マハリシが悟ったということは、死に行くものとそうでないものを見る過程で、自我の成り立ちを見たのですか?

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/24(月) 21:20:02 ID:1d4drIFg0
>>>>293 そうじゃ、なるじゃろう。
 実際に何を自分と感じるのか観察してみるとよいのじゃ。
 何度でも聞くとよいのじゃ。
 何度でも答えるのじゃ。

>>294 それは般若心経にも書いてあるのじゃ。
 身体や感覚や思考や分別や認識をそれぞれ空であり、無であると念じていくのじゃ。
 死の恐怖さえも空であり、無であると念じるのじゃ。
 その他自らの一切を空であり、無であると念じるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>295 そうじゃろう。
 死にいくものである自我は観念に過ぎないと気付いたのじゃ。
 それが観念であるからには死もまた観念と気付いたのじゃ。
 おぬしも実践あるのみなのじゃ。

297としぼっくり:2017/07/24(月) 21:50:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
何を自分と感じるのかを観察すると確かに、自分を追求し観察している気がします。自分と感じるものは何か、観察して行こうと思います。
いつも沢山の質問に答えて頂き本当にありがとうございます。

298294:2017/07/25(火) 08:52:20 ID:g.mcEtiU0
>>296
ありがとうございます

299避難民のマジレスさん:2017/07/25(火) 19:05:22 ID:FocWw5K20
>>296
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分でも観察してみましたが、肉体が死ぬとして、脳の死んで行く過程が曖昧になってしまいました。

そこで質問なのですが、阿頼耶識は肉体の機能ですか?
それとも死んだらなくなるものですか?

300299:2017/07/25(火) 19:12:44 ID:FocWw5K20
>>299
すみません、それとも、ではなく、
つまり、死んだらなくなるものですか?
のまちがいです。

301香雪:2017/07/25(火) 20:35:56 ID:q6UBxgPc0
こんばんは。鬼和尚さん。

先日、数息観を10分くらい。雑念が止まらないまま空観に移りました。空観を10〜15分くらい。
「身体は空である。在るでもなく無いでもなく、汚れているでもなく清いでもなく、
増えもせず減りもしない、特徴があるのでもなく、ないのでもない。ただ空である。」
と念じ、それを感覚、感情、思考、分別、認識まで広げてやってみました。
自我消失の悲しみは乗り越えられたと思います。

それで、認識まで念じ終えた後、朝方で眠かったせいなのか、
感覚的には、思考も起こらず全身が止まってる感じがしたのですが、
空観や瞑想を続けていくと、こういったことが起こるものなのでしょうか?

それで、次に何かまた変わった状態が起きた時に、念じたり実践すべきなのは、
どういったことがありますか?長文で申し訳ありません。よろしくお願いします。

302n:2017/07/25(火) 22:34:29 ID:89bMzBlM0
鬼和尚様

ブログの月々の法話をいつも有難く拝読させていただいております。
そこで質問があるのですが、大乗の6つの誤りの5番目として

⑤ 一切空と教える誤り。

 大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
 これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。

とありますが、しかしウダーナヴァルガ 第12章 道 の 七 には、
「一切の形成されたものは空である」
と釈尊が説いておられます。
これはどのように理解すればよろしいのでしょうか。

303鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/25(火) 22:34:45 ID:1d4drIFg0
>>297 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>298 どういたしまして、またおいでない。

>>299>>300 それは自ら観察して確めることなのじゃ。
 先入観があればそれを見てしまうじゃろう。
 おぬしが死んでも阿頼耶識があると感じるならばそれでよいのじゃ。
 死んだらなくなると感じてもそれで善いのじゃ。
 自らのありのままの状態を受け入れ、観察し続けるのじゃ。

>>301 そのようなことは起こるものじゃ。
 これからもいろいろ起こるじゃろう。
 効果があったからなのじゃ。
 これからも肉体がなくなったように感じたり、何もないのに意識がある感じもするじゃろう。
 それらも全てありのままに受け入れ、囚われずに進むのじゃ。
 全てをありのままに受け入れ、それがあったからと驕らず、恐れず、囚われずに修業し続けるのじゃ。

304鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/25(火) 22:39:57 ID:1d4drIFg0
>>302 お釈迦様の空はものごとが無いということなのじゃ。
 一切の形成されたものとは人が分別によって創ったものなのじゃ。
 それが無いと観想するのじゃ。

 行いの報いは人が分別によって作ったものではないから無ではないのじゃ。
 善悪の報いも無であると説いてはいかんとお釈迦様は外道を論破したのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2017/07/26(水) 19:00:36 ID:KPTPnXc20
鬼和尚さま

思考は、痛みや味・音などの感覚と同じなのでしょうか?
体に小石がぶつかれば痛みが生まれるように、
ただそのように起こるだけなのでしょうか?

私は思考がなにか特別なものと思っていることに気付きました。
でも思考や雑念も、他の感覚とおなじように、
ただ因があって起こることが起こっているだけですか?

306香雪:2017/07/26(水) 19:22:37 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 こんばんは。

ご返事ありがとうございます。
観察から空観まで未体験のことが少しずつ起きてますが、効果が感じられて嬉しいです。
肉体がなくなったと感じるなどは、少々ビビッておりますが、
一つ一つに囚われないように注意して励んでいこうと思います。

驕らずに、たまに休むなんて言わず修行し続けます。ありがとうございました。

307避難民のマジレスさん:2017/07/26(水) 20:05:37 ID:2mjcL8.g0
>>303
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分の感じるままに観察すれば良いのですね。
安心できました。
自分のありのままの状態を受け入れて、とにかく観察し続けてみます。
ありがとうございました。

308鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/26(水) 21:57:38 ID:1d4drIFg0
>>305 そうじゃ、思考も縁によって起こるだけのものじゃ。
 石を見れば石の思考が起こり、木を見れば木の思考が起こるじゃろう。
 そのように縁によって起こるものであり、自分ではなく、自分のものでもないのじゃ。
 更に観察してみるとよいのじや。

>>306 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>307 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでない。

309n:2017/07/27(木) 16:46:05 ID:/bG4hUiA0
>>304 鬼和尚様

たしかに「物的証拠が残らなければ、どんな犯罪をやってもいい」というFBIや公安犯罪者などの権力犯罪者が考案し(オウムや創価、朝鮮総連、警察その他に)実行させている集団ストーカーどもは、捕まりさえしなければ自分らの悪行の報いは来ないだろうと甘く見ているから危険きわまりない存在ですもんね。
これは諸行は無常だが、法は無常ではないから諸法無常ではなく諸行無常(そして諸法無我)というのと似ているといえるでしょうか。

ところで、この問題はスッタニパータ874を理解するヒントにもなりそうな気がします。
よろしければ、こちらもご解説願えませんでしょうか

「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

310避難民のマジレスさん:2017/07/27(木) 17:18:54 ID:Ld1ZVK8o0
瞑想している時、想念が起きたらラマナの「私は誰か」で想念を止めることでも悟れますか。

311305:2017/07/27(木) 19:11:54 ID:KPTPnXc20
>>308
ありがとうございます。
さらに観察し、精進いたします。

312鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/27(木) 20:18:59 ID:1d4drIFg0
>>309 なにやら翻訳がおかしいようであるが、要は想いに自我を投射していなければ無我であり、無為となるということじゃな。
 想う者も、誤って想う者も、想い無き者も、想いを消滅した者も全て観念により、自我を形成しているのであるからのう。
 想いを滅した者という観念さえも無ければ無我と成り、無為となるのじゃ。

>>310 悟れないのじゃ。
 それは想念に新たな想念を足しているだけであるからのう。
 ただ流していれば想念は自然に消えていくじゃろう。
 それから私は誰か観察するが善いのじゃ。

>>311 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

313蓮恵:2017/07/27(木) 23:15:38 ID:vWTE.il20
なぜ想念は消えて行くのでしょうか
想念自体が無我だからですか

314310:2017/07/28(金) 11:13:54 ID:Ld1ZVK8o0
>>312
ありがとうございます。
ラマナは想念が起きるたびに私は誰かと問うことで想念は破壊されるといってますが
想念が自然に消えるのを待ってからのほうが良いということでしょうか?

315鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/28(金) 21:22:29 ID:1d4drIFg0
>>313 そうじゃ、それは自分ではなく、自分のものでもなくただ縁によって起こるだけのものであるからなのじゃ。
 縁がなくなれば消えていくだけなのじゃ。
 それが心の性質なのじゃ。
 縁によって起こり、縁がなくなれば消えていくのが想念であり、観念なのじゃ。

>>314 それは自分という想念じゃろう。
 偽りの自分という想念は、私は誰かと問えば消えていくじゃろう。
 それは自分ではないのであるからのう。
 一日中次々に浮かぶ想念を一々消そうとしてもきりがないのじゃ。
 流していけば自然に消えるときが来るのじゃ。
 それを待つがよいのじゃ。

316素人A:2017/07/29(土) 10:25:00 ID:gOqWUDAs0
鬼おしようさん 暇でも珍しく椅子に座って眼つぶって何も考えない
ようにした感覚制減する?そうしたら近くの工場の鉄か金をたたく音が聞こえる、
あれ何で今までも聞こえていたはずなのに何でと思った。扇風機の音も聞こえる。
暇なので相手するか?音を消そうとすればくたびれるたけ暫くすわるか
時間の無駄という意見が出たけど今は何もやる気ないし時間は金ではないし
でも時は金なりの格言すぐ妄想が遊びだしその時は扇風機の音は聞こえない?
まあそういうものか

317素人A:2017/07/29(土) 10:39:23 ID:gOqWUDAs0
眠っている時の夢の状態と瞑想状態は如何違うのか?
感じとして瞑想は運転しているのか。夢はなんか車に連れ去られている感じか

318避難民のマジレスさん:2017/07/29(土) 17:13:44 ID:czRftzgI0
忘我に至るには、集中でサマーディに入る方法と自我投射対象の思考や身体を乖離する方法の2つがあると考えていいですか?

319避難民のマジレスさん:2017/07/29(土) 20:21:39 ID:sJeMfFzk0
鬼和尚、
自我の正体は自己イメージであると観察しました。

観察はしたのですが、観照は起きてないように思います。
普段の生活ではまったく自我のままであり、意識を集中してやっと自己イメージに気づける、といった状態です。

完全に観照状態にならないのは、集中力を養うサマタ瞑想の修行不足ということなのでしょうか。
実はサマタ瞑想はほとんどやっておらず、もしかしたら集中力の問題なのではと思った次第です。

320n:2017/07/29(土) 20:35:16 ID:VgtZuNVA0
>>312 鬼和尚様

自我という誤謬がある限り何を想っても若しくは想わなくてもすべて倒錯であるという教えでしょうか。
日本語だけでも様々な翻訳がなされていますが、これほどわかりやすい明快な解説はありませんでした。
ありがとうございました。

自我といえば西洋文化の代名詞みたいなものとして明治維新以後、日本人の知識人までが自我を素晴らしいものと倒錯するようになってしまいましたが、
考えてみれば人類の不幸、巨悪の根源がこの自我ですね。今ある世界の核兵器を全部使ったら地球を7回全滅させることができるそうですが、この狂った兵器を生み出したのも白人らの自我でした。
そして人工地震をはじめ異常気象を引き起こすことができるHAARP兵器などは、人間の脳波に直接共鳴させ大衆の自我そのものを操ることさえできますが、この狂った兵器を生み出したのも白人らの自我でした。

自我という誤謬に気付かせる鬼和尚様の指導は、人類の自滅から自己を救い出すために必要不可欠なものと再認識しました。

321としぼっくり:2017/07/29(土) 21:17:16 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
瞑想は量より質なのでしょうか?

322鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/29(土) 21:47:37 ID:1d4drIFg0
>>317 そのようなものじゃ。
 自分で運転するほうがずうっと遠くへいけるのじゃ。
 そのように自分で瞑想すれば深い境地にいけるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>319 まだ観ていないのじゃ。
 それが主体として認識されていることを観察するのじゃ。
 イメージだけならばいつでも観られるのじゃ。
 つねに認識されているものであるからのう。
 自我の観念を主体として認識しているとはっきり気づくまで観察するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>320 そうじゃ、無我になればもはや顛倒妄想もなくなるのじゃ。
 一切の苦もないのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

>>321 そうじゃ、一度サマーディにまで至れば全てが変わるじゃろう。
 しかし、質を高めるためには量もこなさなくてはならんのじゃ。
 長く瞑想をしてこそ深く入る道も感得できるのであるからのう。
 精進あるのみなのじゃ。

323避難民のマジレスさん:2017/07/29(土) 22:06:52 ID:sJeMfFzk0
>>322
鬼和尚、

>自我の観念を主体として認識しているとはっきり気づくまで観察するのじゃ。

今のところ、目の前の風景に奥行きはなく2Dであるとあるがままを観て気づきました。
しかし2Dであるのに、薄皮1枚隔てて何もない空間がこちら側にある。
それが自我であり、この何もない空間はイメージであるということには気づきました。

何もない空間さえも認識しない状態にまず入り、そこからその空間を私であると認識する瞬間、それを捉えられれば良いのですが、なかなか難しいです。
より精進致します。

また質問するかと思いますが宜しくお願い致します。
ありがとうございました。

324としぼっくり:2017/07/30(日) 01:24:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
続けて質問ですが、瞑想時間の基準はなんなのでしょうか?

325避難民のマジレスさん:2017/07/30(日) 06:49:27 ID:czRftzgI0
和尚さん>318が省かれた理由をお聞かせください。

326避難民のマジレスさん:2017/07/30(日) 08:10:03 ID:rIFRVnQI0
鬼和尚、
鼻先に集中しようとしてふと思ったのですが、鼻先というのも観念ですよね。

目をつぶっても、身体イメージがべったり張り付いています。

普段の思考や感情などは生じては消えて流れて行くものですが、
体のイメージや自分のイメージなどは、つねに張り付いている気がします。

実際には刺激や思考により、記憶が想起されているだけだけど、
あまりに早すぎるから常にあるように感じる、ということなのでしょうか?

327避難民のマジレスさん:2017/07/30(日) 11:57:45 ID:sJeMfFzk0
鬼和尚、サマタ瞑想について質問です。

数息観は、呼吸一点に意識を集中することにより意識がその一点だけになることかと考えます。

私は呼吸を意識すると過呼吸気味になるので数息観が苦手です。
この代替案として、例えば印契のように両指先で輪っかを作り、この両指先一点(正確には2点ですが)に意識を集中、意識がそれたらまた集中し直す方法でもよろしいでしょうか。

それともやはり呼吸に意識を集中することに意味があり、数息観をすべきなのでしょうか。
何度もすみません、よろしくお願い致します。

328鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/30(日) 21:24:50 ID:1d4drIFg0
>>323 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>324 それは自分が集中していられる時間を基準にするとよいのじゃ。
 あまり長く座っていると体も疲れて集中できなくなるのじゃ。
 その時にはやめてよいのじゃ。
 自分に合わせて時間も決めると善いのじゃ。

>>325 見落としたのじゃ。
 すまんのう。
 
 >>318 そういえるじゃろう。
 観察によって心身が厭離されたならばすでに無我にも至れるがのう。
 止観によれば速やかにサマーディにも至れるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/30(日) 21:33:56 ID:1d4drIFg0
>>326 そうじゃ、認識は一秒以下の速さで起こると科学でもわかっているのじゃ。
 あまりに早い故に思考で疑うことも出来ないものじゃ。
 疑えないものがあると認識するだけなのじゃ。

>>327 それでもよいのじゃ。
 胸や眉間に集中する方法もあるのじゃ。
 自分のやり易い方法で続けるとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。


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