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質問スレッド (なんでもお尋ねください)
1
:
仁雛
:2005/12/26(月) 22:15:19
ここは素朴な疑問、スレッドたてるまでもないあらゆる質問を受け付けます。
お気軽にご質問ください。当サイトのこと、晋代(を中心とした中国古代史)のこと、などなど。。。
漢文の翻訳や晋書本文に関する質問は→「漢文翻訳スレッド」にてどうぞー!!
2
:
マナミン
:2005/12/28(水) 23:55:06
初めましてこんにちは。参考になるサイト様で本当に助かっています。
ところで周浚って結局誰と結婚したんでしょう??
絡秀は「妾にしたい」って言われたんですよね・・一体・・。
(「雑談スレッド」42 名前: マナミン 投稿日: 2005/12/22(木) 21:46:01 から仁雛が転載。)
3
:
えちぜん
:2005/12/28(水) 23:57:50
マナミンさん、初めまして。
周浚のことは全然知らなかったのですが、私なりに資料を確認してみました。
参考になりますかどうか。。。
『晋書』巻六十一列伝第三十一に周浚伝があり、次のようにあります。
三子:邈、嵩、謨.
(三人の男子があり、周邈・周嵩・周謨という。)
『晋書』巻六十九列伝第三十九に周邈伝が別にあります。ここではちょっと置いといて。
『晋書』巻九十六列伝第六十六の列女伝に、周邈母李氏伝があります。当サイトでも
列女伝の翻訳がありますので、詳細はそちらを。
周邈母李氏,字絡秀,汝南人也.
(周邈の母、李氏は、字を絡秀といい、汝南の人である。)
とあります。周浚が安東将軍の時に、絡秀の家に立ち寄り、絡秀に一目惚れ。
獨見一女子甚美,浚因求為妾.
(たいへん美しいひとりの女の子が見えただけだった。周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。)
そして、
遂生邈及嵩、謨.
(こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。)
とあります。つまり、周浚の三人の男子は全て絡秀が産んだことになりますね。
さて、ここで『晋書斠注』を見ると、「浚因求為妾」の箇所に注が付けられています。
『世説新語』賢媛第十九18に関連する記述があるようです。語句は違えど、列女伝の記述とほぼ
同じ内容です。劉孝標注に次のようにあります。
按周氏譜,浚取同郡李伯宗女,此云為妾,妄耳.
(按ずるに『周氏譜』には「浚は同郡の李伯宗の娘を娶った。」とある。ここで妾にしたというのは、でたらめである。)(訳は新釈漢文大系『世説新語』下 明治書院を引用)
ところが、『晋書斠注』に戻ると、次のように注があります。
案:本傳與世説大致相同,必有所本.竊謂伯仁昆弟既從母命,以李氏為親親,故譜中諱言,為妾未可.即斥其妄也.
(案ずるに本伝(列女伝)と世説新語の内容はほとんどが同じであり、きっと根拠となることがあったのだ。私見では、伯仁(周邈の字)及び兄弟は母の命に従って、李氏と親しくしたとあるので、『周氏譜』で妾としたなどと悪く言うことはできなかったのだろう。なので、妾にしたというのはでたらめという説は採らない。)
絡秀が周浚の妾でないというのは、『周氏譜』の記述のみで、大勢は絡秀は妾であったとあるのですが、
私は絡秀は妾ではなく、正妻であったと思うのです。というのも、
1.周浚の男子三人は全て絡秀が産んだ子供であること。
2.『周氏譜』の記述があること。
3.『晋書斠注』が言うように列女伝と世説新語の内容がほぼ同じであるのは、むしろ列女伝が『世説新語』の内容をそっくりそのまま採用したのではないかと思われ、それを根拠に『周氏譜』を取らないとする『晋書斠注』に納得いかないこと。
4.列女伝に採用される程の女性の話としては、妾からのし上がったとする方がさらに印象が強烈になる(つまり面白くなる)ことから、誇張されたのではないかと思うこと。
私の想像なども入ってしまっていますが、こんなところです。
長々と書きましたが参考になりますでしょうか?
列女伝の訳は本サイトの列女伝訳を借用しました。
『世説新語』は『世説新語校箋』(中華書局)から引用しました。
『晋書斠注』の漢文解釈に誤りがあれば、ご教示下さい。<(_ _)>
(「雑談スレッド」45 名前: えちぜん 投稿日: 2005/12/25(日) 01:05:12 から転載しました)
4
:
仁雛
:2006/01/06(金) 14:49:46
ちょっと時間が空いてしまいすいません。風邪で正月前後、伏せっていました^^;
自分は、やはり絡秀は周浚の「妾」として迎えられたと思います。
理由はいくつかありますが、主要な点は『晋書』『世説新語』ともに妾としたと書いてある点、もう一点は、絡秀が息子たちに絡秀の家(=李氏)を「親族」として付き合うように迫り、息子たちがそれに従ってはじめて李氏の一族が「方雅之族」(貴族)となった点です。『晋書』列女伝に以下のようにあります。
「浚因求爲妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戸殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大﨟矣。」父兄許之。遂生邈及嵩、謨。而邈等既長,絡秀謂之曰:「我屈節爲汝家作妾,門戸計耳。汝不與我家爲親親者,吾亦何惜餘年!」邈等從命,由此李氏遂得爲方雅之族。」
「周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。彼女の父兄は許さなかったが、絡秀が「家門が病みおとろえているというのに、どうしてひとりのむすめを惜しむのでしょうか!もし貴族と姻戚となれれば、将来大きな利益をねがうこともできるでしょう」といったので、父兄はこれを許した。こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。周邈らが成長すると、絡秀は「わたしが節を曲げておまえたちの家の妾となったのは、実家のためを計っただけです。おまえたちがわたしの実家と親しくしない(→と親族にならない)のなら、わたしはまたどうして余命を惜しみましょう!(=余命を惜しまず自殺する覚悟です)」と彼らにいった。周邈らは母の命に従ったので、これにより李氏はとうとう貴族となることができた。」
訳は解体晋書・NAGAICHIさん訳より。カッコ内のみ仁雛注。
絡秀が正妻であったなら、周氏と絡秀の実家の李氏は無条件に親族ですが、そうではなかったからこそ、絡秀が息子たちに李氏を「親族」として認めさせる必要があったわけです。
雑談スレの56のNAGAICHIさんのカキコミにあるように、李絡秀が妾となった時にはすでに周邈は20余歳でした。ということは、周邈を生んだであろう正妻がいたからこそ、妾としてしか迎え入れられなかったわけです。
その後、正妻が死んだかなにかしたのでしょう。絡秀が息子たちに実家の李氏を親族として認めさせた、ということは事実上、正妻の座に位置したことになります。そのことを受けて、(そのことが「事実」となった後に書かれた)伝記上は『周氏譜』の記述となり、また『晋書』などで3人の子どもを産んだ、という記述になったのだと思います。
以上、ご参考までに♪
5
:
NAGAICHI Naoto
:2006/01/06(金) 21:56:01
『世説新語箋疏』賢媛篇18は面白いこと言ってます。
程炎震が云うには、「伯仁(周邈)は、永昌元年(322)壬午に年五十四で死んでいる。つまり泰始五年(269)己丑の生まれである。開林(周浚)がもし安東将軍となって李絡秀を納れたのであれば、(李絡秀の子であるはずの)伯仁はすでに二十余歳である。この話がデタラメであるのは言うまでもなく、劉孝標が『周氏譜』をもって証したのは、もっともで手堅い根拠である。それでも『晋書』がこの話を『列女伝』に取り入れたのは誤りだ」
『世説新語』賢媛篇と『晋書』列女伝の話がともに信用ならないとすると、李絡秀正妻説もありですね。
(「雑談スレッド」56 名前:NAGAICHI Naoto 投稿日: 2006/01/04(水) 20:22:14 から仁雛が一部訂正の上、転載。)
6
:
マナミン
:2006/01/11(水) 16:14:04
様々な回答ありがとうございました! 私も考えてみましたが
色んな可能性があって頭がこんがらがってしまいました・・笑
一緒に世説新語を調べてるグループのみんなとも話し合ってみます〜。
本当にありがとうございました。
ところで本当に素朴な質問なんですけど、伯仁兄弟の
名前、あれどうやって読むんですか??良ければ教えて下さい┏o
7
:
仁雛
:2006/01/12(木) 00:32:35
>>6
マナミンさんへ
自分の意見はかなり(実証部分とか原文の紹介は)省略してしまっているので本意が伝わっているか、不安ですが、ここで出た意見を、ぜひみなさんで検討してみてくださいね。
>伯仁兄弟の名前、あれどうやって読むんですか??
字(あざな)はいらないですよね?(笑)。
周邈ガイ・周嵩スウ・周謨バクですね。
8
:
えちぜん
:2006/01/13(金) 01:13:43
私は、周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ だと思っていました。
こういう場合、何を調べれば良いのでしょう?『説文解字』?『康煕字典』??
9
:
仁雛
:2006/01/13(金) 15:26:59
周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ
ですね。。。恥をさらしました。
根拠なく、偏や旁の読みにひっぱられて誤読してしまう「百姓読み」の実例になってしまいました^^;
『漢辞海』第二版で確認しました。辞書ひかないとダメですね。
えちぜんさん、ありがとうございます。
10
:
えちぜん
:2006/01/14(土) 00:03:36
邈を「ギ」と読むことに、個人的には違和感を感じています。第一印象は怖い。(^^;)
王祥伝を訳していて荀彧の子、荀邈が出てきますが、当初は「ジュンガイ」
と読んでいたのです。しばらくして何かの本で「ジュンギ」とルビが振られて
いるのを見て、邈を「ギ」と読むと知ったのでした。
今でもこの字を見ると、つい「ガイ」と読みそうになります。(^^;)
11
:
名無晋書さん
:2006/01/24(火) 11:02:08
いきなりごめんなさい。幽明録や捜神記などをよんで中国における女性のイメージというと、
どんな感じのものがありますか?私としては神聖(神女・天女)・悪女・美しいなどがると思いますが
よければおしえてください
(雑談スレッド 64 名前:名無晋書さん 投稿日: 2006/01/24(火) 01:30:55 から管理人が転載)
12
:
仁雛
:2006/01/25(水) 23:16:28
>>11
なかなかイメージとなると難しいので、簡単に答えられないのですが、下記の文章が少し参考になるかもしれません。
黒田真美子「六朝志怪小説の中の女性たち−その愛と死 (特集 中国古典小説入門1−志怪小説の世界」『月刊しにか』8-3・1997年
あと、大学時代に幽明録や捜神記あたりの六朝志怪小説を読んで、「異界や未知なる世界の象徴」としても女性が描かれている、と習いました(か、どこかの本で読みました^^;)。
男性にとっては、女性というのはやはり未知なるもの、男とは違うもの、として対比できる存在ですからね^^; そういうイメージが読み取れる記事があったと思います。
いきなりでも、質問してくださり、ありがとうございます! またどしどしどうぞ。
あと、他の人も答えられる情報をお持ちの方はぜひ書き込みしてください♪
13
:
衛攸之
:2006/01/27(金) 03:42:54
再開おめでとうございます。旧サイトからずっと拝見させていただいておりましたが、今回王導・陶侃伝の翻訳がUPされてるのを拝見し、好きな人物なだけに非常にうれしく感じています。
さて、陶侃といえば、青年時代貧乏生活で苦労したことで有名ですが、他にも「三横」の一人として地元の民衆から嫌われた周処や、陸機の船を略奪しようとした戴淵など、旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?もしご存知でしたら教えてください。
14
:
菅原
:2006/01/29(日) 22:27:56
>>13
衛攸之さん
代表の菅原です。ご訪問ありがとうございます。
本年も新訳を公開予定ですので、今後ともご愛顧よろしくお願いします。
ご質問の件ですが、ご質問の趣旨と少しずれるかもしれませんが、
陸遜の孫の陸機兄弟についての文章で彼らが不遇を味わった旨を読んだような記憶があります。
ただご質問の呉将の末裔の経済的な不遇について言及した研究については私は存じ上げておりませんので、
この件について知っている会員に回答をお願いしようと思いますので、
もうしばらくお待ちください。
15
:
中根
:2006/02/01(水) 20:53:20
>>13
衛攸之さん
会員の中根です。
>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?
宮崎市定『九品官人法の研究 科挙前史』(中公文庫)でこのことが取り上げられています。
宮崎氏によれば、魏晋の貴族がほぼ中央政権の要職を独占してしまったために、
呉出身者は低いポストしか与えられなかったようです。晋書にも「呉の三俊」として
挙げられている陸機兄弟と顧栄ですら、出仕(起家)時には八品の郎中という低い官位が
与えられており、魏の文官の子孫が概ね五品〜七品のそこそこの官位を出仕時に与えられて
いるのに比べると著しく低い身分に留まっています。名門であった陸兄弟ですら八品ですので、
呉の一将軍の子に過ぎない陶侃に至っては伏波将軍府舎人という最低クラスの官職にやっとありついています。
16
:
仁雛
:2006/02/08(水) 14:03:07
>>13
衛攸之さん
書き込みありがとうございます。
>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?
とのことで、
>>15
で中根さんのレスがありますが、あまりお役に立てませんが自分も少し調べてみたのでご紹介します。
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』岩波書店
学会では言わずと知れた名著ですが、第三章の三「西晋支配下の江南」に孫呉旧臣たちの西晋での状況が若干触れられている部分があります。具体的な将軍名は出てきませんが。
巴蜀の旧臣たちの西晋での状況・動向についての分析(実は私の卒論でもやりました//笑)をした研究論文は、大東文化大の中林史朗先生がいくつか書いていますが、孫呉のは不勉強ゆえ知りません^^;
探せばあるのかもしれませんし、
>>14
の菅原代表のレスにもあるように陸機関連で文学畑からの論文はありそうな気がします。いずれにせよ、西晋での巴蜀・孫呉の旧臣たちは西晋王朝下ではあまり出世
できない、西晋ですでに貴族制的な体制ができあがってしまっていたので、「田舎モノ」が入り込む余地がなかったのは諸資料から伺えるところです。学会的には、孫呉の場合は、その後東晋王朝の基盤
となるので、外来の東晋王朝と在来の江東豪族の関係はどうだったかという問題があり、川勝氏の上記著書にもこれに関する研究がありますし、その後研究論文もあると思います。
あとは越智重明先生の一連の六朝貴族制社会を論じた専著に当たると、もしかすれば言及されているかもしれません。ご参考までに書誌情報を下にあげます。
越智重明『魏晋南朝の政治と社会』吉川弘文館・1963年、『魏晋南朝の貴族制』研文出版・1982年、『魏晋南朝の人と社会』研文出版・1985年
また、言及している可能性は低いと思いますが「この本ってどうよ?!」スレの70で殷景仁さんが紹介くださった、安田二郎先生の『六朝政治史の研究』もあります。
衛攸之さんが大学図書館などを利用できる立場でしたら、ぜひご覧になってみてください。結果などをレスしてくださるとうれしいです。
と、このスレを書いて、魏晋南北朝の研究書籍の紹介とその目次くらいは「参考文献スレッド」にupしたいな、そうすれば便利だなと思った次第^^;
17
:
無学
:2006/03/04(土) 20:44:55
1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01
すみません。晉書列傳第五十九の以下の分ですが、読み下しと、どのように訳がせばよいかご教示いただけたら幸いです。
「古人有言:“君子殺身以成仁,不求生以害仁。”又雲:“非死之難,處死之難。”信哉斯言也!是知隕節苟合其宜,義夫豈吝其沒;捐軀若得其所,烈士不愛其存。故能守鐵石之深衷,窅松筠之雅操,見貞心於歲暮,標勁節于嚴風,赴鼎鑊其如歸,履危亡而不顧,書名竹帛,畫象丹青,前史以為美談,後來仰其徽烈者也。」
最初の部分は「古人言う有り。君子は身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず。」となり、『論語』の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」からかと思うのですが。
(「お教え下さい」スレッドの1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01 より管理者・仁雛が転載しました)
18
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/04(土) 20:46:05
/新校本晋書/列伝/巻八十九 列伝第五十九/忠義/序言
- 2297 -
ですね♪
訳はともかく、読み下しは人によって変わってきたりしますから、まずは意味をとっていったら如何でしょう?
基本的な読み下しの方法は辞書にものってますし。
(しかし辞書の説明ってあんまり読んでないんですよね。やっぱり初心にかえって手引きから読んでみようかな、、)
それと、旧字体は新字体にもどしたくて仕方なくなってしまう巫俊です。。
(「お教え下さい」スレッドの2 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/04(土) 18:40:57 より管理者・仁雛が転載しました)
19
:
無学
:2006/03/05(日) 03:30:36
管理人の仁雛さん、お手数をおかけして申し訳ございません。初めてでやり方がよく分からずにスレッドを立ててしまいました。巫俊さんご教示ありがとうございます。ただ、如何せん無学の者で、さっぱりわからないのです。又雲は又云うでしょうか。
(「お教え下さい」スレッドの7 名前:無学 投稿日: 2006/03/05(日) 01:01:45 より管理者・仁雛が転載しました)
20
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/05(日) 03:31:52
>又雲
又云の誤記じゃないかと思いますよ。
(「お教え下さい」スレッドの8 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/05(日) 02:45:13 より管理者・仁雛が転載しました)
21
:
仁雛
:2006/03/05(日) 07:10:42
無学さん、どうもはじめまして。
ところで、なぜに晉書列傳第五十九の意味を知りたいのでしょうか^^; もしよろしければ教えてください。
巫俊(ふしゅん)さん、重ねてレスありがとうございます。ご指摘の通り、該当の部分は「晋書巻八十九・列伝第五十九・忠義」の冒頭部分で、「又雲」は「又云」の間違いですよね。ご指摘ありがとうございます。
とりあえず一行だけ(笑)
「古人に言あり、「君子、身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず、と。また云う、死にあらざるを之れ難しとし、死に處るを之れ難しとす、と。信なるかな、この言や」
昔の人の言葉に「君子は、自分の身を滅ぼしても仁義を成し遂げるもので、生きながらえて仁義を損なうことはしない」とあります。他にも「死ぬことは簡単なことだが、どう死ぬかが難しいことだ」とも言います。まったくその通りですね、この言葉って。
前段は、無学さんの指摘の通り、『論語』衛霊公篇の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」を踏まえています。
後段は、おそらく。『史記』巻八十一、廉頗藺相如列伝論の「知死必勇、非死者難、處死者難」を踏まえた表現でしょう。
いずれも、「仁義・節義のためには、いたずらに生を求めることをせずに、死を選ぶのが立派な人がとる道だ」というニュアンスでの引用だと思います。
22
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/05(日) 09:02:20
>名を竹帛に書き
古風な言い回しなのかもしれませんが、晋の時代はまだまだ竹簡の使用される時代だったようで、
『晋書』の背景って奥が深そうですね。
忠義伝に建てられている人の名前をひとりも知らない私..
だれぞ有名な人も混じってるんでしょうか?
中国にはときどき命を放り投げる士大夫がいますが、けっこう文学作品がされで未完に終わったりしかねないんですよね..
23
:
無学
:2006/03/05(日) 13:14:35
仁雛さん、巫俊さん、ご教示ありがとうございます。
晉書列傳第五十九序については、掛物にある「松柏見貞心」の語の出典を探していて見つけたものです。
晉書の当該文はそれぞれに典拠があるようで無学者には難しいのと、まず「又雲」で躓いてしまいました。(..;
じっと見ていたら、もしかして「又云」かしらと思っては見たのですが。
24
:
仁雛
:2006/03/06(月) 05:17:55
あ!!!!
「漢文翻訳スレッド」に転載すべきことだった・・・^^;
しまった〜。。。
25
:
仁雛
:2006/03/08(水) 00:59:43
無学さん、なるほどそういうことでしたか。
晋書出典の故事成語や四字熟語など、意外にあります。いま、【解体晋書】ブログの運用を計画中で、現実になったらそちらで紹介していこうという話もあります^^;
巫俊(ふしゅん)さん、晋代はまだ木簡・竹簡が公文書では使用されていたと思います。「黄籍」という戸籍帳簿についてはいろいろな議論があって、近年魏晋南北朝の文書については大阪市立大学の中村圭爾先生がいくつか論文を書いてらっしゃいます。
ということで、ちょっと忙しいのでなかなかレスができないのですが、忠義伝の続きを少し出しておきます。
「是れ、節をに隕ちること苟しくも其の宜に合えば、義夫豈に其の沒するを吝しまんや。軀を捐てること若し其の所を得れば、烈士其の存するを愛さざるを知るなり。」
こうした言葉からは、節義のために斃れても、それが道義に適っているなら、義夫は死を惜しまないし、体をなげうっても、それが正しい道理を得ているなら、烈士は生きることを惜しまないものだ。ということが分かる。
26
:
名無晋書さん
:2006/03/08(水) 15:40:08
日本と中国の比較文化(文学)をしたいのですが、
テーマでおすすめのものありますか?
材料は中国は、六朝志怪小説など
日本は、今昔物語を使って、あるテーマ一つを比較したいです。
たとえば、上の本を読んで、『狐』をテーマにしたら、
それぞれの狐の描かれ方とかを比較していきたいのです。
何がいいのか分からなくて困ってます。
27
:
菅原
:2006/03/08(水) 20:36:09
>>26
名無晋書さん
はじめまして、【解體晉書】代表の菅原です。
ご質問のおすすめテーマについてですが、はっきり特定の対象というものはありません。
なぜならこういうテーマを研究する場合はたいていはその対象に対して興味があったり、好きだったりするものであり、
逆に興味のないテーマを勧められたからといって研究してもおもしろくないですよ。
たとえば「狐」が好きなら「狐」、「猿」が好きなら「猿」、「宇宙船」が好きなら「宇宙船」がおすすめテーマになるので、
おすすめテーマは興味があったり、好きなものとなりますね。
そもそもなぜ比較文化(文学)をしたいのでしょうか?
大学のレポートでしょうか?卒業論文でしょうか?趣味の研究でしょうか?
良かったら教えてください。
それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。
あくまで六朝志怪小説と『今昔物語集』とを比較しただけですね。
日本と中国の比較文化と唱うなら、日本も中国もまず最低でもいくつか書物を研究してその国の特色を見つけ、
その日本と中国の特色を比較しないと文化の比較にならないと思います。
『今昔物語集』だけ見て日本の特色といわず、最低でも数冊の日本の説話集などを参照した方が賢明です。
『今昔物語集』を中心にするなら、一説話をピックアップをしてそれと関連する日本や中国の説話を探して
一説話の成立過程を考えた方がいいような気がしますが、
比較文化をしたい理由がわからないので、助言とすることはできません。
28
:
NAGAICHI Naoto
:2006/03/09(木) 01:29:55
>>26
比較文化(文学)ですか〜。僕が広大総科にいたころの専攻はちょうど比較文化でした。まあ不真面目な学生だったので、あまり実には成らなかったですし、今は畑違いの中国史趣味に転けてるので、なんなんですけどね。
テーマについてですが、菅原代表の意見に基本的には賛同します。自分の面白いと思ったところを調べたらよろしいと思います。
『今昔物語集』も、中国起源の話いくつかあるんですね。
干将莫邪の剣の話とか、今昔では莫耶の剣になってて、なんか話かなり違うし。なんだこりゃ。
王昭君が王照君になってたり。
中国屋から見ると、けっこう笑ってしまうストーリーが多いですね。
29
:
NAGAICHI Naoto
:2006/03/09(木) 04:13:07
気になったので、少しフォローを。
上で「菅原代表の意見に基本的には賛同」とか微妙な書きかたをしてしまったのですが、
>>26
さんが自分の調べるテーマを他人に丸投げしてるかのようなところが今イチ感心しなかったという点で共感してるだけでして。
>それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。
と、菅原代表がおっしゃってる部分では、比較文化という学際的分野を狭い間口で捉えすぎているという点で賛同いたしかねます。
>>26
さんは、比較文化(文学)をやりたいとおっしゃってますが、
比較文学においては、全く影響関係のない二者の文学を取り出してその共通点を見つけ出し、影響関係のない二者にどうしてその共通点が生まれたのか考察する…なんてアプローチすらありうるわけです。
影響関係がはっきりしている『今昔物語集』の一説話とその元説話を比べてみて、新しいことが言えれば、もちろんそれもありです。
>日本と中国の比較文化と唱うなら、日本も中国もまず最低でもいくつか書物を研究してその国の特色を見つけ、
>その日本と中国の特色を比較しないと文化の比較にならないと思います。
ということで、必ずしもそういうことは要求されません。
というか、単に国どうしの文学の比較に限らず、比較のアプローチは多数存在しますので。
30
:
仁雛
:2006/03/10(金) 00:31:51
26>>名無晋書さん
いろいろなアプローチが可能かとは思います^^;
そしておすすめは?と聞かれても、「〜〜です」とは答えられないのが現実です。
まずはご自身でそれぞれの本を読まれて、たとえば「狐」であれば、両者で書かれ方が微妙に違っている、とか、この話はそっくりだ
とか、全然違う、というのを発見できるからです。その作業は、上のお二人が言われているように、まずご自身でするべきものだと僕も思います。
いろいろ読んで、発見できなかった、ということも往々にしてあるものですし。
ただ題材に「六朝志怪小説など」と「今昔物語」を使う、とのことですが、初めはもう少し絞った方がいいのかなと思います。
「今昔物語集」は成立年代があまりよく分かっていないらしいです。12c頃でしょうか。そうなると唐宋の伝奇がもう流入していることが考えられるので、六朝志怪小説よりも(それを受けてはいますが)唐宋の説話や伝奇との比較検討がより望ましいかと思います。
「今昔物語集」は「日本霊異記」(9c)とか「三宝絵詞」(10c仏教説話集)「本朝法華験記」(11c。中国の「法華験記」を参考)などから引き写したものだと考えられているので、六朝志怪小説と比較する対象としては「日本霊異記」がふさわしいかと思います。888年の藤原佐世「日本国見在書目録」(日本にある中国書の目録)には「捜神記」「捜神後記」「続斉諧記」「神仙伝」など六朝の志怪モノがあり、唐代のものは「朝野僉載」くらいです。なので、「日本霊異記」が書かれた時に「捜神記」「捜神後記」などを見ていた可能性が高いので、同じモノが異なった書かれ方をしているなら、日中の文化の差から来るものだと言える可能性がありますから。
「捜神記」「捜神後記」は和訳がありますから、ぜひご覧になって「日本霊異記」と比較されるといいんじゃないかなぁと思います。
その中でいくつか気になるモノが出てきたら、他の書籍をあたったり広げていけばいいのではないでしょうか。
自分は歴史屋なので、比較文化(文学)についてはよく知りません^^; ただ、菅原代表の言うこともNAGAICHIさんの言うこともよく分かります。
31
:
菅原
:2006/03/10(金) 20:25:25
>>29
NAGAICHIさん
>それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。
私も比較文化専攻ではないので、「比較文化」を「文化の比較」という意味で使っていますが、
専攻した方から見て幅広い学問の狭義な解釈という指摘は理解できますね。
私は学問のことではなくあくまで文化の比較のことを言っていますね。
国々の文化の比較を1,2冊の書籍だけで行うのは比較にならないという意味であり、
比較文学は念頭には置いていません。
質問の理由が不明なので、幅広い場合に答えているわけであり、
ここで言っているのは大学のレポートや卒論以外の趣味で文化の比較をやる場合の狭義の回答です。
文学という分野の多様性は明白なことであり、いちいち述べるまでもないことと私は思うところです。
どういうアプローチでも可能なのは当然のことです。むしろそれが文学という分野だと思います。
私は26>>名無晋書さんの質問の理由は、比較文化(文学)の講義で『今昔物語集』を使ったレポートの課題があったのではないかと推測するところですが、
そうだとすればますます比較文化云々の部分は蛇足であったと言えるかもしれません。
また仮に『今昔物語集』が課題だとしても、仁雛さんの意見のように『日本霊異記』を読むのもたいへん参考になると思います。
32
:
仁雛
:2006/03/13(月) 17:21:21
>>17
無学さんへ
「故能
守鐵石之深衷、窅松筠之雅操、
見貞心於歳暮、標勁節於嚴風
赴鼎鑊其如歸、履危亡而不顧」
それゆえ彼らは、鉄や石(=強固なことを言う)のような意志を内心に抱き続け、松や竹(=冬でも枯れないことから強い心・節操を言う)のような節操に磨きをかけて、年の暮れ(の寒い中=世の中の道義が廃れて厳しい時期)に正しい心を現し、厳しい風の中(=世の中の道義が乱れて厳しい時期)に強い節を示すことができるのであって、(節義のために)鼎鑊に赴く(=かまゆでの刑に処せられる)ことになっても、家に帰るように平然としていて、命が危ない場面も突き進んでそれでいて躊躇することがないのだ。
「書名竹帛、畫象丹青
前史以為美談、後來仰其徽烈者也」
(そうして彼らの)その名は歴史書に美談として記され、その像(=姿)は書籍に描かれる。前史(史記・漢書・三国志などか)は(彼らの事績を)美談とし、後世(のわれわれ)は彼らの偉業を敬うことになるのだ。
と、自分の試訳はこんな感じです^^; 参考にしていただければ幸いです。
>巫俊(ふしゅん)
すみません、なかなか忙しくて、レスをつけることができずにいます^^;
ご寛容しただければ幸いです。
33
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/14(火) 17:23:02
>鼎鑊
かまゆで・・なるほど(^^;
象徴的な表現が目立ちますね。
>すみません、なかなか忙しくて、レスをつけることができずにいます^^;
お気になさらず。
34
:
無学
:2006/03/15(水) 21:08:14
>>32
仁雛さん
ありがとうございました。
お忙しいところ、お手を煩わせて申し訳ございませんでした。
35
:
仁雛
:2006/03/16(木) 17:59:47
>>34
無学さん
いいえ〜。
ホントは質問のあった翌日くらいには全部できてたんですけどね(笑)。小出しにしてみました^^;
対句表現の多い箇所で、晋書らしいなと思った次第。原文を、左右に並べましたが、右と左でほぼ同内容を書いています。一種の修辞法ですね。
36
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/17(金) 01:11:10
晋代の歴史に関わる五胡十六国の史的考察と、谷川道雄氏の「隋唐帝国形成史論」について。
ひいては中国中世史(唐まで古代と区分するなら中国古代史)の分野で研究されてる皆さま、
あるいは中国史や歴史全般に関心のある皆さまへ、
ちょっと私の質問を投げかけてみてよろしいでしょうか?
ゲルマン民族とヨーロッパの中世史は複雑な絆で結ばれている一方、
五胡と呼ばれた諸民族と中国の中世史は、結局のところ
呉・南唐・呉越→□→南宋→元の江南→明の南京京師体制→□→(太平天国)中華民国→□
(□は江南政権でない時期)
という風に、
東晋以来の南朝の「民族」というか「南人」の政権と「南の漢族」が、
中国の中心のひとつとして存続しているばかりか、時代が経過すればするほど求心力を増していったことから、
(経済力として、政治力として、現在は上海が国際機関も置かれる窓口になっている。)
まるでビザンツ帝国と中国の江南は対照的なんですよ。
東欧ブロックの地域王権に成り下がった形で歴史に書かれるビザンツ(しかも現トルコ)と、
ゲルマンに出自を持ち、ローマカトリックを守護する王権としてのフランク王国(現フランスとドイツ)の関係。
これは北周と陳の関係にそっくりだといえます。
ひとつ決定的に違う点は、北周→隋→唐は中国を統一したのに対し、
ヨーロッパは統一されることはなかったばかりか、ビザンツはイスラム教国のオスマン朝に攻略されてしまうということ。
つまりですね、ヨーロッパは分裂状態のままで、ゲルマン人は一貫して王権を維持しているのですよ。
イギリス・フランス・ドイツ、すべてゲルマンの末裔です。
ゲルマン(西)のヨーロッパが肥大化して、ビザンツ(東)はついに回復されることがなかったのです。
西欧中心のヨーロッパ史からビザンツが排除されたのに対し、
江南と不可分に結びついた中国史が、近世と近現代というステージで成立・定着したことから、
五胡こそ中国の起源であり真髄であるというような「北族の起源神話」はついに中国に定着しなかったと言えるのです。
なおヨーロッパにおける遼・金・元征服王朝の類型としては、マジャール・ブルガール・モンゴルがそれに相当し、
ジェシェン人の清朝の類型としては、ロシア帝国がそれに相当するでしょうか。
日本の類型としてはスペインか、ユーゴスラヴィア諸国か、どこに類例を求めるといいか判断しかねますが、
朝鮮やベトナム・チベットといったものも、類型が求められるでしょう。
37
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/17(金) 01:12:01
こうした類型は「時代遅れのマルクス史観」の得意とするところでしたが、
五胡十六国が隋唐帝国形成の起源と位置づける谷川先生の論法は、
こうしてヨーロッパの歴史と比較してみて、
―ローマの再生に求心力を求めた中世以降のヨーロッパ―
―漢の再生に求心力を求めた中世以降の中国―
そこから統一と分裂の歴史を歩んだ過程がヨーロッパと中国ではっきり異なるということを図式化した上で、
谷川先生の隋唐帝国形成史を再検討する余地があると、踏んでおります。
個人的には、隋唐帝国の形成史に止まることなく、近世史に歩を進めて比較してこそ、混迷する近世史をときほぐし、
変転するヨーロッパの一千年史から、多いに受益するものがあると思っています。
私の知り合いのヨーロッパ史専攻のお人によりますと、ヨーロッパ史というものも、ここ数十年で大きく変貌を遂げており、
「なんとなくヨーロッパ史」なまま中国史ばかりやっておりますと、時代に置いていかれるのではないかと、これは巫俊の呟きですが。
そうやってみると、部族制などと今日はアフリカ史でも憚って使わないような言葉を使用している胡族研究に疑問も覚えたりするのです。
近年の五胡研究の論文で、五胡を「中国史上はじめて異民族が中国を征服した歴史」と書いていたのを見ましたときは、吹き出しそうになったのですが、
殷も周も異民族の中国(夏)を征服した歴史だとお考えにならないのでしょうか?
どうも中世史研究の内部だけで発想すると、そんな五胡から隋唐までで経過の切れてしまう歴史が叙述されるのだと思ってしまいます。
中世史に限定した歴史の叙述としては結構なんですけどね。
夏、殷、周は三代と呼ばれて、晋代から唐代にかけても中国の起源として尊重されましたが、
当の晋代から唐代にかけての士大夫たちは、夏、殷、周の三代が、広い意味での「北族」の牧畜民に由来する王権だと気付いてはいたのでしょうか?
現在のところ、夏は牧畜民の王権だとする根拠はありませんが、夏の禹が西夷の人だったことは、五胡の士人たちの知るところだったと思います。
西夏の国号の遠い由来で、陝北の夏州に統万城をつくったのは、匈奴の夏王朝です。
西方の砂漠に近い森林・草原地帯の王権に、夏の国号を選んだのはそのような理由からだと推測しています。
つまり、五胡(鮮卑ふくむ)の政権が江南を併呑せずに、北中国に割拠し続けて、何らかの変容を経験しながら、近現代を迎えた「架空の歴史」では、
おそらく五胡は中国の起源になっているのです。
それは夏・殷・周が本拠を置いた北中国が中国の起源になったことで、戎狄感とも言うべきものが夏・殷・周の歴史で限りなく控えめに語られたように。
戦国秦に戎狄の風俗があるといいながら、すっかり秦が中国王朝として扱われるように、
五胡は中国王朝として顕彰される機会を逸した不遇な民族といえましょう。
五胡と殷周の「民族」としての比較を行なってみることが、次の計画と課題
―五胡とは何か―
を克服する上で「五胡形成史論」になるものと思われます。
漢代および晋代に新来の民族で、漢人の奴隷として暮らしたことのある五胡は、
おそらく新来の民族を奴隷として扱う「中国」に怨嗟の念を抱いたことでしょう。
それが「中国の打倒」という決起に及び、自ら「中国」と化してしまうということで、「中国」という理念に挑戦したのです。
(殷王朝の使い走り的扱いだった周も、胡族に立場が似ている。)
(ヨーロッパで言う「キリスト教国」は、「中国」に近い発想をしている。ここら辺は『北の十字軍』(講談社選書メチエ)読んでないとピンと来ないかもしれないけど)
(あとは周と五胡の歩んだ歴史の差異とか、殷と周の関係と、匈奴と匈奴に支配されたほかの五胡との関係の相似とか。)
こんな感じに五胡史論を起こしてしまったんですけど、変テコな誤りとか、アドバイスとか、
谷川道雄先生や「隋唐帝国形成史論」についてのことか、ちょっと相談に乗って頂けると感謝します。
本当に中世史(〜唐代の古代史)は初心者なもので、率直な反応を聞いてみたいです。
常々、、「隋唐帝国形成史論」についてはこう思ってた、、とか、中国中世史はこういうものだと思ってる、、とか。
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=uruseiyatsura_com
(サイト開設しました、まだ作成途上ですが、歴史関係のテキストや掲示板を置こうと思っています。)
38
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/17(金) 03:17:55
長文すいません・・・
自サイトに編集して載せようかな・・
フランク王国=北周
ビザンツ=陳
ということで。
谷川先生は隋唐時代というものを理解するには、五胡十六国の変動にカギがあると判断なされて、
五胡の民族移動は、ゲルマン族の民族大移動に匹敵する中国史上の大変革だと考えられ、
中国の中世の始まりを五胡の民族が移動してくる晋代に求めたものと思われます。
39
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/17(金) 03:21:01
そして部族制軍事封建体制とかそんな感じの言葉で、五胡から隋唐までを押さえる用語にしようとなさったのでしょうか。
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=uruseiyatsura_com
(自サイトです)
40
:
巫俊(ふしゅん)
:2006/03/17(金) 04:05:33
>呉・南唐・呉越→□→南宋→元の江南→明の南京京師体制→□→(太平天国)中華民国→□
>(□は江南政権でない時期)
に江南政権でない「元の江南」が交じってるのは愛嬌ということで(^^;
41
:
菅原
:2006/03/17(金) 22:22:22
>>36
〜40巫俊(ふしゅん)さん
たいへん興味深い話ですね。
夏・殷・周と五胡の対比などはたいへん示唆に富む提議だと思います。
ただ中国の方には決して受け入れられないことでしょうが。
なかなか簡単にはお答えするのが難しい質問だと思いますので、どうぞお時間をください。
サイト開設おめでとうございます。
ぜひ拝見させていただきますね。
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