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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

61地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:37:38 ID:yb0RBWTc
他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。ドーキンスがこれら主要な各神学の主張全てを適切に理解した上で批判しているとは、とてもとても思えにゃーな。
日本大百科の記述に
>ローマ・カトリック教会では第二バチカン公会議(1962〜65)を開き、現代世界に対する教会のあり方を再検討し、全キリスト者の一致を求め、内的に刷新し、他宗教に対しても開かれた姿勢をとろうとしている。将来の神学は、ますます現代化、一致(エキュメニズム)、革新、他宗教の問題を積極的に取り上げざるをえないだろう。
とありますにゃ。現代のメリケンを中心とした馬鹿宗教は、こうした動きに対する「反動」にゃんな。

>「多数派である信仰者」が、事実上、倫理や道徳の独占をしていることにドーキンス氏は対峙しています。

こんなことは、宗教の多様性を理解したらそうそう言えることではにゃーはずなんだにゃ。
良心的な信仰者は、まさに多数派の倫理・道徳から疎外されているのが現状なのにね。

もちろん、メリケンを中心に馬鹿宗教がでかい面してブイブイ言わせているのは僕も知っているにゃ。でもさー、さっきも書いたけど、これは流れから言うと「反動」なわけでしてにゃ。例えば、「外国人は犯罪者が多いから、みな出て行け」とか、日本で馬鹿ウヨがブイブイいっているという理由で、「日本人(全て)は、アジア侵略に対して何の反省もしてない」とかいう「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」物言いってどうよ?

「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」論法というのは、まさに全体主義者の好む論法だろにゃ。ドーキンスがこの話題で採用している論法にゃんけどな。

だいたい、多数派がカスだなんてことはアタリマエにゃんからな。多数派の屑を基準にするのなら、いかなる国民・民族も生きている価値なんでにゃーだろ。

62地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:39:35 ID:yb0RBWTc
>NANのネタ

長くなりそうなので、メモ風箇条書きで。
・NOMA原理は、成り立ちはするけれど机上の理論だと思う

・ニンゲンの実際の行動に対する影響をあたえるモチーフとして、宗教と科学は対立する
※文化妄想装置論、という妄想を以前にまき散らしたことがあるにゃ。「妄想は適応的」が基本コンセプトでしたにゃ
ttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/board040611.html

・つまり、宗教という妄想はもともと適応的なもの

・宗教感情、というコトバがある。宗教と感情は切り離せない

・道徳感情、倫理感情、というコトバもある。道徳や倫理と感情は切り離せない

・4枚カード問題は、感情を伴う場合においてこそ、ニンゲンが正確で素早い判断ができることを示す

・感情は合理的である

・無論、科学も合理的である

・ブレーキとアクセル、交感神経系と副交感神経系、理性と感情、科学と宗教、などの一見すると対立する要素はいずれも合理的であり、2つそろって現実的な制御が可能となる

63地下に眠るM:2007/11/22(木) 05:59:16 ID:yb0RBWTc
うう、ネミイ
今日はここまでにゃんな

>chochonmage

文化相対主義の原理主義的適用については、もちろん問題オオアリ。


>後悔と懺悔

ジェンナーは息子で天然痘予防接種の人体実験をしたという話があるにゃんね。調べたらどうも伝説の類いのようですけどにゃ。

64リリス:2007/11/23(金) 02:20:28 ID:nrzx3pJo
すこし補足。

猫さん仰るところの「馬鹿宗教」がキリスト教の一部に過ぎないことは存じております。
私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。先の投稿で、一神教の傾向についての言及と「馬鹿宗教」についての言及が混ざってしまいましたので・・・。

NOMA原理に賛同する〜理解を示すクリスチャンは多いだろうと思います。でも、聖書の記述を「事実」として信じる事が重要であるような信仰をもっている人にとっては、NOMA原理と言えど、侵略的で承認し難いものになるのかもしれません。信仰を変容させることなしに、NOMA原理を受け入れることは出来ないわけですから。

AH1さんの仰る「同じ土俵に立とうとしない相手をどうするか」という問題は難しいです。
聖書の記述を「事実」として信じる事がなぜ重要か・・・このような事柄は、「キリスト教」や「プロテスタント」といった同じ土俵の上で色々と議論して欲しいですね。土俵の主要部分を共有する多数の人間が活発に意見交換を行うなら、さほど偏った考えにはならないと思いますので。(無神論者の私は参加できませんが。)無神論者も含めて同じ土俵で議論するなら、それは「社会の構成員として」あるいは「人間存在として」といった大きな枠組みになるのでしょうかね。

65カクレクマノミ:2007/12/04(火) 00:34:17 ID:THRtI5kM
しばらく間が空いてしまいました。

>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。
で、その支持者たちは、いったい何を基準に自分の流派を選んでいるのでしょう?

結局のところ、宗教とは別の理由で持っている価値観をもとに選んでいるのではないでしょうか?
たとえばフェミニズム神学の支持者や提唱者は、もともと何か別の理由でフェミニストであって、だからこそフェミニズム神学を選んだのでしょう。

結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

66後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:32:54 ID:FvvOuBrA
議論の論点は、主に「宗教をどう撲滅するつもりなのか」「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」──という流れになっているようですので、この2点について、私の見解と、ぜひ皆さまの見解をうかがいたい点を述べておこうと思います。

まず前者。「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について。

何度も繰り返しているように、私自身は本気で「撲滅」したいとは思っていません(>>48>>49参照)。重要なのは、「人間はどんな過ちを犯しうる存在なのか」ということを知ることだと思っています。一方で、人間が犯しうる過ちのすべてを、一人の人間が知ることは不可能なので、社会全体がいわば「ファイルセーフ機構」として働くようなシステムであることが望ましいわけです。たとえば、いわゆる「マナー」といったものは、一種の「ファイルセーフ機構」と言えるでしょう(余談ですけど、そう考えると、人類の道徳観念や価値観・倫理観の「進歩」というのは、結果的に(あくまで「結果論として」)この「ファイルセーフ機構」をより良いモノにしていくための営みであった──という見方もできるかも知れません)。

そういう意味で、太古の昔、ヒトにとって「宗教」がそういった「ファイルセーフ機構」として大変有益だったような時代があったであろうことは容易に想像できます(「宗教者」の「宗教がなければ人はどうして善悪を判断できるのか・善良でいられるのか」という主張は、それを端的に表していると私には感じられます)。
しかし、これだけ多様な価値観が混じり合い(>>6で再掲された (2007/11/11 01:13)のコメントの最初の2段落などを参照)、かつ、道徳観念や価値観・倫理についての考察・教訓がこれだけ蓄積されている現代では、むしろ「宗教」自体に「ファイルセーフ機構」が必要になってきているわけです。
──ここまでは、おそらく誰も異論はないでしょう(あれば言って下さい)。では、具体的にどのような「ファイルセーフ機構」が必要であり、また現実的なのか──ということが、問題になるわけです。

ドーキンスや私が、本音として「“宗教”なんてこの世から消えてなくなってしまえば良い」と思っているのは否定できません(ハロウィンを楽しんだり、お盆に墓参りすることまで、なくなって欲しいとは思っていません、念の為)。でも、それは不可能であるということは、よく分かっているわけです。では、どうすればいいのか。
私自身の今の考えは、>>49において、カクレクマノミさんへの返信で書いた通りです。そしてその結果、最終的には、>>3で再掲された(2007/11/07 20:49)のコメントの一番下の段落のようになってくれれば……と考えています。今の日本は、かなりそれに近い状態と言えるかと思います(自分の家族がなんらかの「宗教」にハマっていると知ったとき、日本の平均的な人がどんな反応をするか想像してみて下さい)。他の点はともかく、「宗教」について言えば、現在の日本はドーキンスにとって(そして私にとっても)かなり理想に近い世界なのかも知れません(そのかわり、「宗教」の占めていたトコロに、別のやっかいなモノが次々と居座ってるみたいですけど(苦笑))。

でも、正直に言って、私はそれがベストと言えるだけの根拠や確信があるわけではありません。今のところ、他の考えがないだけです。いずれにせよ、「宗教」を現在のように野放しにしておくのが好ましくないという点には同意して頂けると思うのですけど、では皆さんは、どんな「ファイルセーフ機構」が必要ないし好ましいと思いますか。

67後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:38:37 ID:FvvOuBrA
「宗教をどう撲滅するつもりなのか」について、もう少しだけ。以下はドーキンス擁護みたいな感じになりますが……。

日本では、一般的に「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージがかなり広く浸透しているのではないでしょうか。平均的な日本人は、伝統的な仏教徒やキリスト教徒など「宗教者」の滅私的・道徳的な振る舞いに深い敬意を示すものの、自分の家族がそれらの宗教に入信することを積極的に勧めようとはしないと思われます。これはなぜでしょう。
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージの浸透こそが、「ファイルセーフ機構」として働いていると考えることは、あながち荒唐無稽とは言えないでしょう。しかも、これは「反宗教-原理主義」に陥るわけでもない絶妙な「ファイルセーフ機構」と言える気がします。
では、なぜ、どうやって、そんなイメージが日本人の間に広く浸透したのでしょうか。

ちょっと想像してみて欲しいのですけど、日本の平均的な中学生に「サンタクロースは実在する」ということを信じ込ませるのは、かなり難しいことのように思えます。では「(宇宙人の乗り物という意味での)UFOは実在する」や「FBI超能力捜査官は実在する」はどうでしょうか。「マイナスイオンは身体に良い」とか「化学肥料を使った作物・化学調味料を使った料理は身体に悪い」とかだと疑わせるほうが難しそうです。では、その差はいったいどこにあるのでしょうか。
「1999年に地球は滅ぶ」と信じる人たちの声が大きい社会では、平均的な中学生に「1999年に地球は滅ぶ」と信じ込ませるのは簡単なことだったでしょう。たとえ社会全体で「1999年に地球は滅ぶ」と本気では信じていない人の割合が実は大きかったとしてもです。

>>31でカクレクマノミさんが指摘しているように、ドーキンスは、『神は妄想である』の「はじめに」で、とくに無宗教・無神論者の擁護を重要な目的のひとつとしていることを強調しています(この目的が効果的に果たせているかは微妙ですが)。『神は妄想である』は、「宗教者」の側から無宗教・無神論者に向けられる様々な非難に対する徹底的に練られた決定版「想定問答集」と読むこともできます。むしろ、そのような意図で書かれていると主張してもそれほど不当ではないでしょう。

私としては、『神は妄想である』は、「宗教者」に向けられた本というよりも、「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」というイメージを持っている人・持ちうる人に向けられた本という気がします。「あぁ、そういう気持ちをもっても、そういう態度を表明しても、いいんだ……」という勇気を与える本と言えるでしょうか。

──これらのことは、『神は妄想である』の「はじめに」の最初の1ページ目に書かれていることから、私なりに連想したことです。未読の方は、『神は妄想である』の最初の1ページだけでも立ち読みしてみることをお勧めします。どういう状況にいるどんな人に向けた本なのか、はっきりすると思います。

68後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:56:08 ID:FvvOuBrA
次に、「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について。

この点については、2つの論点から意見を述べたいと思います。一つは「NOMA原理」の観点から、もう一つは「ファイルセーフ機構」の観点から。いずれにせよ「“宗教”または“宗教者”の犯しうる過ち」についての話に収束していくでしょう。

まず、「NOMA原理」の観点から。

ドーキンスは「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と書いていますが、これに全面的に納得する人は少ないでしょう。一方で、ドーキンスは「私は超自然的な神だけを妄想と呼んでいることを心に留めておいてほしい(同書29頁)」と何度も強調しています(「超自然的な」の部分は傍点で強調されています)。

>>16の【立場1】で述べたように、私には、そもそもNOMA違反を犯さない「宗教」を考えること自体が困難です。教義のどこかにNOMA違反を犯している部分があれば、必ずそれは現実と齟齬をきたすことになるわけです。「宗教」はそのとき容易に「教義」のほうを優先する強い傾向があるということは誰も否定できないでしょう。
さらに悪いことに、もしも「教義」を支持するような「科学的事実」があれば、喜んでNOMA原理を(逆の意味で)放棄して、自分たちの「教義」こそ「“正しさ”を独占する」に相応しいということを示す根拠として、その「科学的事実」に飛びつこうとする抗いがたい強い傾向をも有しているわけです。

私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。
──余談ですが、その結果、私が受けた印象は、「それは“宗教”と呼べるようなモノではなく、“文化”といったほうが相応しいモノ」でした。なぜそういう印象をもったのかうまく説明できないのですが、「信仰」という言葉自体に「信じるべき適切な理由がなくとも信念をもちつづけることができるのが、信仰の本質である(同書80ページ)」というイメージを持っていたことが何らかの影響を与えたのかも知れません。

NOMA原理とは少しずれるかも知れませんが、>>16の【立場2d】(補記)に書いたとおり、人は「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」として生きることは可能ですし、文化の多様性という観点からは、むしろ望ましいとさえ思います。
しかし、彼らが「宗教」を擁護することで、いらぬ誤解をしてしまう人々(特に「“正しさ”を独占しようとする宗教家」たち)が多くいるという事実から目をそらすことは「彼らには」許されない──と私は考えています。

(続きます)

69後悔と懺悔:2007/12/04(火) 02:59:05 ID:FvvOuBrA
(続きです)

『神は妄想である』第8章(特に「信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか」の項)で詳しく議論されていますが、超自然的な教義をもつ「宗教」は、多かれ少なかれ「信仰」を奨励せざるをえないわけです。たしかに、「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」は「信仰」の負の面を熟知しているかも知れません。しかしいずれにせよ、「信仰」の奨励は、過激主義者・原理主義者に好都合な土壌の一部になっていること・なりうることは否定できないでしょう。この点に関する「穏健な宗教家」や「自由主義神学者」の責任と義務はとても大きいと考えます。少なくとも「自分たちは過激主義・原理主義ではない」と言っていれば済む問題ではありません。

合コンなどで血液型の話題をする多くの人は、「婚姻相手は血液型を重視して選ぶべきだ」とか「雇用者の採用にあたっては血液型を積極的に利用すべきだ」とか主張しているわけではないでしょう。むしろ「そこまでいくとさすがに非難されるべき差別だと思う」と感じる人がほとんどかも知れません。でも、次のような指摘は、あながち的外れとも言えないのではないでしょうか。
====================
自分が血液型を書くこと、話すことが、根拠のない「社会的現実」を維持するために、どのような貢献をすることになるのか。そこで血液型を書くことに、どんな科学的、倫理的意味があったのか。あなたにそれを思い出していただけるだけで、このページの使命は終わりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
柴内康文氏、Webページ『「血液型と性格」の問題点』より引用
ttp://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/ethics.htm
====================

キリスト教に限らず、「超自然的な」教義をもつすべての「宗教」に対して、これらのことを当てはめて論じてはいけない理由は、私にはないように感じられるのですが、いかがでしょうか。

70後悔と懺悔:2007/12/04(火) 03:00:58 ID:FvvOuBrA
「すべての“宗教”を十把一絡げにして非難するのは不当ではないか」という点について、「ファイルセーフ機構」の観点から、私見を述べたいと思います。

日本人なら誰でも、現在の仏教や神道が「“正しさ”を独占しようとするモノ」でないことを知っています。その意味で、ドーキンス(や私)の「宗教」批判で非難されている点を、現在の仏教や神道などはすでに克服していると言っても良いと思います。

しかし、かつては、仏教も神道も「血塗られた道」を通ってきた「“正しさ”を独占しようとするモノ」であった歴史をもっていることは紛れもない事実なわけです。また、カルト化した・カルト化が危惧される多くの現代の新興宗教が、仏教やヒンドゥ教などの影響を強く受けていることも否定できない事実です。
後者は直前のコメントでの論点から語られるべきことでしょうから、ここでは前者について論じましょう。

まず、リリスさんの>>58での指摘を引用します。「これらの根底には、問いに確固とした答えがあると思う傾向、自分が正しい側にあると思いたがる傾向、人生の価値に保証を求める傾向、などがあると思います。で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです」
この見解には全面的に同意します。むしろ私は、このような人間のもつ本来的な傾向が生み出したモノの一つが「宗教」であるという解釈に説得力を感じます(『神は妄想である』第5章「宗教の起源」参照)。そして私は、「宗教」にはこれらの「人間の問題」に対して「正しい答え」を提示し(それこそが「宗教」の本来的な目的だったと思われます。>>16の【立場2】などを参照)、「その“正しさ”を独占しようとする」強い傾向があることを、ずっと非難してきたわけです。言い換えれば、「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです(同じ点を助長するモノは「宗教」だけではありませんが、今は「宗教」について論じているので、そのことについては割愛)。

しかし、少なくとも、現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。つまり、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」に対する「ファイルセーフ機構」が内蔵された「宗教」である──ということです。これは私にとって非常に興味深いことです。

私は仏教の歴史について詳しいわけではありませんが、もともと釈迦は「人間が本来的に犯しうる過ち」について教え諭していたように思えます。その後「宗教」として組織化されると(その当然の帰結として)「“正しさ”を独占しようとする」傾向が強まっていったように見えます。しかし、まったく不思議なことに、いつのまにか現代では「仏教=(“正しさ”を独占しようとすることも含めた)人間が本来的に犯しうる過ちについて戒めるモノ」という印象を持っている人が多いのではないでしょうか。その意味で、ドーキンスが「実際には、そうしたもの(仏教や儒教:引用者注)は宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある(『神は妄想である』61頁)」と述べたのも一理あると言えるかも知れません。

私が特に興味を持つのは、「このように、みずからが犯しうる過ちに対する“ファイルセーフ機構”をみずから持つことを、ほかのすべての“宗教”にも期待できるのか。そして、その“ファイルセーフ機構”は永久に働き続けると期待しても良いのか」ということです。
もしも期待して良いと信じられるのでしたら、すべての「宗教」を一括りにして非難するのは不当かも知れません。まだ「ファイルセーフ機構」を持たない「宗教」だけを批判の対象にすべきでしょう。
でも、それを期待するほど楽観的になれないうちは、すべての「宗教」を一括りにして、「“宗教”および“宗教者”の犯しうる過ち」について警鐘を鳴らし続けることは大切なことだと、私は考えています(たとえすでに現在はその点を克服している「宗教」があったとしても)。

71chochonmage:2007/12/04(火) 14:16:06 ID:Qhwn4442
”フェイルセーフ ”っすよね? まぁ、英語の日本語表記ですから,
何が正しくて、何が間違ってるとは言いがたいですが、一般的に、ってことで。
すんません、細かいことで。ちょっと気になったもんですから。

内容についてのコメントはまた後ほどさせていただきたく思います。

72chochonmage:2007/12/04(火) 14:34:39 ID:Qhwn4442
>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する
強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

眠いので一言だけ。神道については、「靖国」の愚かしいドタバタを見るに、
上記ご意見には賛同できません。

まぁ、「靖国」の場合、神道という「宗教」以外の要素が大部分を占めている
こともわかってはいるつもりです。
が、「強力なフェイルセーフ機構」、「みずから築き上げた」には全く同意できません。

73次郎:2007/12/04(火) 16:17:38 ID:D2PZoWjk
はじめまして。議論が始まった当初から興味深く拝見させていただいております。

>現代日本の仏教と神道について言えば、これらの「宗教」の好ましくない傾向に対する強力な「ファイルセーフ機構」をみずから築き上げたように、私には見えるんです。

フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。
単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

実際それらと齟齬のある沖縄では、どちらも現地の民間の祖先崇拝を弾圧してますよ。

といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。

74AH1:2007/12/04(火) 18:21:56 ID:fKqeZx4M
なんとなく思っている事を書きますが・・・多分に詭弁めいて来るのですが・・・

後悔と懺悔さんが書いておられるのは、
「宗教=なんだかちょっといかがわしいモノ、あんまりハマりすぎると良くないモノ」を是とする、という事ですよね(このちょっと警戒する感覚をフェイルセーフと呼んでおられるのでしょう)。
これはつまり、個人の理性と良心と自由意志に基づく合理的判断ができなくなる絶対基準に頼ることはやめよう、という意味であるかと考えます。
これは「個人の理性と良心と自由意志」に至上価値を置く価値体系なわけですね。

「それは良い価値体系だと思うか?」と言われれば、「うん、僕はそう思う。もし考えを変えることがあるとしても、他人に価値観を強制されるのはご免だ。」と答えます。

で、聞いてみたい所は結局ここへ戻るんです。
「私は『個人の理性と良心と自由意志」』に全く価値を見い出さない。お前は他人に意見を強制しないと言いながら、俺には『「個人の理性と良心と自由意志』を重視することを強制するのか」

その辺の採るべき態度をいかが御考えになりますでしょう?

私はあまり良い知恵がないのですが、「あんたがそうしたけりゃ勝手にしていいけど、他人まで巻き込むなや。勝手に賛同する奴は知らんけどさ。」くらいしか思い付きません。要するに対策というか態度としては狡獪と懺悔さんの想定しておられるであろう「日本人の普通な態度」とほとんど同じになりそうな気がします。

75AH1:2007/12/04(火) 18:23:41 ID:fKqeZx4M
うわわわ、失礼しました!!
誤 狡獪と懺悔さん
正 後悔と懺悔さん

76後悔と懺悔:2007/12/04(火) 23:55:15 ID:FvvOuBrA
取り急ぎ訂正です。
>>66から>>70までの私の発言の「ファイルセーフ」はすべて「フェイルセーフ」の間違いです。正しくはもちろん「フェイルセーフ」です。chochonmageさん、ご指摘ありがとうございました。

他のご指摘に対しては、しっかりと時間をかけて吟味した上で、自分の考えたことを述べようと思います。ただ、現状、自分の認識の底の浅さというか、視野の狭さは痛感しています。貴重な経験だと思っています。

77次郎:2007/12/05(水) 11:46:24 ID:D2PZoWjk
後悔と懺悔さん
うまく論理的に書けないのですが、結局GOD派とアンチGOD派はコインの裏表のようなものじゃないでしょうか。
どちらも神様に対して強く固着しているのではないでしょうか。

ドーキンスがミイラになってしまったのも彼がアンチGOD派であって、信じるものが「人間理性」というよりも「神を排除するために、神を排しても成り立ちうると彼の信じる人間理性」なのだからのような気がします。

後悔と懺悔さんの思想や考えが浅いというよりも、やはりドーキンスと同種の神へのこだわりが視野の限界を規定しているような気がします。

78地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:43:57 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>>で、ある社会集団を侵略者だと認定したら、「殺られる前に殺っちまおうぜ」となるのは必然ではにゃーの?

>ここでいう「殺す」が何を指す比喩なのかよく理解できません。まさか、文字通りではないでしょうし。

ドーキンスの立場では、信仰集団という社会集団を侵略者だと認定することになるということに異論はにゃーのだね?
ここは重要なところにゃんぜ。


>>他にも黒人神学とかフェミニズム神学とかいろいろありましてにゃー。ちゅうわけで、キリスト教神学に限ってみても、もう百花繚乱なんだにゃ。

>その通りです。キリスト教1つとってもいろんな流派、解釈があり、それぞれに支持者がいます。

で、ドーキンスはそうした多様性を無視して一律に侵略者認定をしているということにゃんね?
しつこいようだけど重要なところにゃんぜ。


>結局多くの人は、宗教とは別の理由で何かを価値観を持っていて、それに合った宗教解釈を選んでいるだけではないでしょうか?
>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。
多様でありえるから倫理に果たす役割がない、ってどういう理屈かにゃ?
いっとくけど、グールドにしろ僕にしろ、宗教に倫理面において特権的な役割を認めたおぼえはにゃーですよ。

>>62ですごく乱暴に書いたけど、倫理と感情、宗教と感情は切り離せないものですよにゃ。
感情の生き物であるニンゲンは、宗教的生物でもあるのだにゃ。

79地下に眠るM:2007/12/06(木) 03:44:58 ID:yb0RBWTc
中高生のセックスが体に悪くて頭も悪くなると仮定しますにゃ。しかも社会秩序を乱す社会の敵、いうなれば侵略者であるとしましょうにゃ。
そう信じ込んでいる馬鹿宗教さんとかチンカス道徳屋とか珍しくもにゃーしな。

で、
この手のチンカス道徳屋は、どうあっても中高生のセックスを禁止したくてしょうがにゃーようだ。

でもさ
セックスを禁止したら、ガキがセックスをしなくなるとでも思っているんだろか?
ここが本当に馬鹿だよにゃ。
どっちかちゅうと、禁止したら魅力が増すものですにゃ。

ガキに教えるべきは、パートナーの身体と人格を尊重し、リスクをコントロールすることだってのが現実的なおとしどころだと思うんですにゃ。

自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

80地下に眠るM:2007/12/06(木) 04:15:12 ID:yb0RBWTc
>>78の補足

>だとしたら、宗教が倫理に果たす役割って、何なのでしょうか?

>>39で書いたことが埋もれてしまっているので再掲

*****************************************
その上、
宗教には積極的に倫理について発言してもらわなければ困るんだにゃ。理由はいま思いつくところで2つ。

1)先ほど言った通り、倫理とは万人に開かれ、万人が従うべき規範だよにゃ。であれば、多数派を無視することはできにゃーのよ。無論、多数決で決まるようなものではにゃーが、多数派を無視もできにゃーわけね。地球上では無神論者よりも信仰者の数のほうがはるかに多く、彼らの依拠する価値を無視できうるはずもにゃー。

2)倫理とか道徳というものは、ようは「価値」「規範」を扱うというこものだにゃ。で、価値や規範というのは実証的・科学的に決められるものではにゃーよな(実証的に価値や規範を決めるのであれば科学的に決めるべき)。で、現実に宗教というものは価値や規範を説いているだろ? 適している適してないとかいうお話以前に、実際に価値や規範を扱っているという事実が厳としてあるにゃんなあ。

つまりさ、
倫理とか道徳といった問題に対して、ある社会集団や個人の独占を許すことも、あるいは排除することもブッブーなのよ。

>一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

したがって、適しているとか適してないとかいう話は問題外。
倫理や道徳については誰でも発言してよいし、責任を多く負うものには倫理の問題から離れることは許されにゃー。どうしても宗教の言い分を聞いておく必要はありますにゃ。したがって「宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは」まさに妥当な見解にゃんねえ。
*****************************************

上記の特に(2)の論点、つまり宗教には倫理規範について発言する義務がある、という論点を忘れてほしくにゃーね

81カクレクマノミ:2007/12/06(木) 04:21:25 ID:THRtI5kM
>「侵略者」

なんだかすごくこだわっておられるようなので、「侵略者」の定義も確認しておきたいです。
もちろん、「殺す」のほうについても説明をお願いします。
「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

>「だとしたら」の前後のつながりがわかんにゃーのだが。

たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう。
ここまではいいですか?

>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは

ドーキンスは(僕の知る限り)一言も、宗教を禁止しろとは書いていませんよ。
それに僕を含め、ここでの議論で宗教を禁止しろという意見は誰も出していないと思いますが。

地下猫さんは、いったい誰に対して罵倒しておられるのでしょう?

82地下に眠るM:2007/12/06(木) 06:23:40 ID:yb0RBWTc
>「重要なところ」を、比喩のままで議論するのは不気味なので。

もとが比喩なんだけどにゃ。
この「侵略者」の比喩は、ドーキンスがNOMA原理(宗教と科学の共存)を提唱したグールドを犬呼ばわりした比喩の解釈として出したものだにゃ。
だから、てっとりばやいのはドーキンスがグールドを犬呼ばわりしたのはなぜかをカクレクマノミが説明することだと思いますにゃ。
ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。
宗教と科学の共存を主張したグールドを犬呼ばわりするというのは、宗教の否定ということにならにゃーというのなら、その解釈を是非とも聞いてみたいものにゃんよ。


>たとえばフェミニスト神学者は、フェミニスト神学を読む前からフェミニストであって、だからこそフェミニスト神学を選択しているという場合がほとんどでしょう。
>他の聖書解釈についても、だいたい同じでしょう

そうでもにゃーと思うんだにゃ。宗教心理学においては「回心」というのは無視できにゃー要素なのだにゃ。ほとんど人格変容をともなうような信仰への目覚めっていうことは事実としてあんのよ。パウロの回心なんかは典型例にゃんな。
でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

83カクレクマノミ:2007/12/06(木) 07:34:55 ID:THRtI5kM
>ちなみに、犬呼ばわりの僕の解釈は>>54で示したとおりにゃんね。

その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。
一応僕の解釈も説明しますが、地下猫さんの比喩の意味についても説明していただけると幸いです。

ここでいう「犬呼ばわり」は、「ご機嫌取り」という意味です。
「神は妄想である」の中での「犬呼ばわり」の前後の文脈は、実は道徳はほとんど出てこなくて、主に「神仮説」についての議論です。
「犬呼ばわり」の対象となっている文章も、グールドが神について述べたものです。

神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

もちろん神仮説の否定が宗教の否定だと言われればそうかもしれませんし、僕もドーキンスが宗教を批判していないとは言っていません。程度の問題として、無神論擁護に重きを置いているとは言いましたが。
ただ、ドーキンスの批判を「侵略者」「殺す」といった比喩で表現するのが妥当かどうかは、その比喩の具体的な意味を説明していただかない限り、判断できません。

>でも、まあここはその前提で話をしていただいてかまいませんにゃ。

前に述べたことを前提にすれば、宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

宗教の原典をそのまま価値観として採用するのは馬鹿げています。だから宗教から価値観を読み取ろうとすれば、何らかの解釈が必要です。すごく大雑把には、この解釈の違いが宗派の違いと言っていいでしょう。
で、ある人がどの解釈を採用するかは、その人がもともとどんな価値観を持っているのかに強く依存します。
だったら、そのもともとの価値観をそのまま採用しても結果はほとんど変わらないのではないでしょうか?

84GB:2007/12/06(木) 15:31:31 ID:Ni9i2QWM
>>77の次郎さんのご意見と、おそらく同じ感想を持ちました。キリスト教文化という
コインの表裏ですよね。ドーキンスが最初に展開する「神は科学の対象となる」
「神はほとんどいない。妄想である」というのも、キリスト教文化圏の中でしか通じない話です。
(ユダヤ・キリスト教、およびイスラム文化圏と言った方がいいか)

人は、具体的な文化の中で育ち「人になる」ことにより、本人が意識することなく、
ある価値体系を共有する人々の一員になります。「重要な問題」が重要なのは、自分が
生きる社会集団(との関係)にとって重要だからです。

文化が指し示す規範の内容は多彩です。「誰も見ていないところでお金を拾っちゃったらどうするか」
から、たとえばアメリカにおける「銃規制」のような歴史的な問題、死生観に絡む事柄まで。
これらは思考方法や感情が絡み合った複雑なものなので、「宗教」だけを切り離すことはできないのでは
ないかと思います。

ただ、キリスト教も科学によって「おバカ」をそぎ落としながら変容してきたのも事実で、
その意味で、「理性」は有効だったし、これからもそうでしょう。でも、西欧文化のコアの部分は
キリスト教という宗教と一体となっており、たとえばフェミニズムという一つの価値観も、
実はキリスト教文化が生んだ発想なのだと私は思っています。

もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう。
外国では、相手の反応にとまどったり不快な思いをすることもありますよね。
それを避けるために、人々は多様な文化を認め合うという方法を長い時間をかけて身につけてきましたが、
ドーキンスの言う「宗教」に関しても、同じことだと思うわけです。(NOMA賛成)。

85atheist:2007/12/06(木) 17:44:00 ID:s2.p1dVI
>自分の狭い視野で「侵略者」と認定したものを禁止してすませようとするのは、チンカス道徳屋とかガリガリ権力亡者とか逝かれナチとかドーキンスの発想にゃんね。

検討外れの批判ですね。それは、地下に眠るMさんの”脳内ドーキンス”に対する批判でしかないと思いますよ。
カクレクマノミさんが指摘されている通り、ドーキンスは(私の知る限りでは)宗教を禁止しろとは書いていません。
ドーキンスが言おうとしているのは、宗教なんてみんなが思っているほど重要なものではないのだから、変に尊重して
無批判な態度をとるのはやめろと言うことだと私は受け止めました。批判的な態度をとるということと全面的に否定して禁止しろということとは、天と地の開きがあります。

86GB:2007/12/06(木) 19:32:59 ID:Ni9i2QWM
しかしドーキンスは、はっきり「宗教は必要ない」と繰り返していますよ。
宗教の害を、これでもかとばかり列挙する中で。

読み進める中で気になる部分は多々ありましたが、10章の「死」に触れた部分もその一つです。
(実は、歴史的な宗教の必要性という視点が欠けているところに首をかしげていたので、とくに印象に残った
わけなんですが)。

死の扱いは(NANさんがおっしゃるように)宗教の根源の一つだと思うので、
ドーキンスが「慰めとして死後の世界を信じる効用」に触れたあとで、
「そうであるなら、なぜ宗教を信じるものは自殺や安楽死に反対するのか」
という意味の内容を述べるくだりは、目を疑いました。
(そこで実例をも挙げている)死を恐れない精神を賞賛するのは良いのですが、
それをもって宗教否定につなげるというのは、啓蒙の暴力、といってよいと思います。

87atheist:2007/12/06(木) 21:17:37 ID:.r2n24dM
「必要ない」というのと「絶滅しろ」というのとは違います。
たとえば、ゲームなどは興味もないし、やるだけ時間の無駄だと思っていますから、
私にとってはゲームは「必要ない」ということになりますが、だからと言って、「ゲームなど禁止してしまえ」などと主張するつもりはありません。
ゲームに関しては、私は「ゲーム脳」などというものはトンデモだと思っているので、過度にのめりこまない限り害はないと思っていますが、宗教に関していえば、宗教が原因だったり宗教を正当化に利用した害悪(戦争、差別、詐欺等)が明らかにが存在します。なにごとにおいても絶対的な悪というものは存在しないと思いますし、当然、宗教には良い面もあるわけですが(人心をまとめる、生きる活力となる、心の慰めとなる等)、問題は宗教のメリットとデメリットではどちらが大きいかということです。ドーキンスが苛立っているのは、宗教が尊重されすぎるあまり、デメリットの方が無視されてしまうという状況に対してではないかと思います。ドーキンスが宗教の悪い面を並べ立てるのはそのためではないでしょうか。

88atheist:2007/12/06(木) 21:30:29 ID:.r2n24dM
補足です。
率直に言って、私は宗教というものは、メリットよりもデメリットの方が大きいと思っていますが、だからと言って「宗教を絶滅しろ」などと主張するつもりはありません。それは、無理に宗教を排除しようとしたときの反作用的な害が大きいからです。私は、殺人は当然悪だと思っていますが、だからと言ってこの世から殺人を無理になくそうとしたら、超管理社会にするしかないないわけで、そのような社会を私は望みません。このことは、私が殺人がこの世からなくなればよいのにと思うこととなんら矛盾しません。

89名無しさん:2007/12/06(木) 22:03:42 ID:zXfK7pu6
私が問題だと思うのは、「人がいかなる基準によって宗教を選ぶのか」
「どの宗教の道徳的価値観を受け入れるべきかを決定するのか」
「なぜ(神という)仲介者を排して、宗教なしにその道徳上の判断基準を判定しないのか?」
という、私にとっては考えにくい「疑問」そのものなんです。

直後に続く(P90)、
「私は、グールドが『千歳の岩』で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を
断じて信じない。先ほども言ったように、私たちはみな、こちらを益するところはなくとも
強大な力をもつ対抗勢力に対して、あらんかぎりの手を尽くして、いい顔をしようとした点で
有罪であり、グールドがしていたのもそれだとしか私には考えらない」

これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

90GB:2007/12/06(木) 22:05:13 ID:zXfK7pu6
あれれ。>>89は、GBです。

91後悔と懺悔:2007/12/07(金) 02:30:25 ID:FvvOuBrA
以下は皆様の見解や示唆とは無関係の、たんなる私の内心の感情的な吐露です。

人間が本来的にもつ性向のうち、私がとてつもなく嫌悪感を覚えるものに、「“正しさ”を独占しようとする」「自分の“正しさ”を受け入れないモノを“敵”と認定する」「“敵”に対してはどのような“罰”も許される」などと思いたがる傾向があります。

私がこれらの性向を憎悪するのは、たぶん、私自身が現実にこのような態度をとってしまっては、後になって悔い恥じることが多かったからでしょう。私は常に「自分はこのような過ちを犯しうる、実際犯してきた人間である」と自戒しながら生きていかなければならない存在であり、それでもなお過ちを犯してしまう愚かな人間です。
そんな愚かな人間でも──「オレは正しい」「あいつは間違ってる」と一度思い込んだら修正不可能になってしまうような、「お前馬鹿なんじゃね、こんなことも分からないのかよ」と罵りたい衝動にかられてしまうような、「あいつなんか死んだほうが世のためだ」と思ってしまうような、そんな愚かな人間でも──人間社会のなかでなんとか無事に(?)生きていられるのは(そもそもそういったことが「愚か」だと気づけたのは)、法体系とか世間体とか理性とか、本当のことは分かりませんが、なにか理由があるのでしょう。

ところで、これらのような強い傾向を持ちながら、なぜ私が人間社会のなかでなんとか無事に生きていられるのか、その理由は分かりませんが、そのような(私にとって)好ましいとは思えない人間の性向を効果的に助長し、それが犯しうる過ちを顕在化・肥大化させ正当化するモノが確かにあるように、私には感じられます。それが、「神」という名で呼ばれているモノだとしても、「啓蒙」と呼ばれているモノだとしても、「科学」と呼ばれているモノだとしても、人間の本来的にもつ性向を煽り立て、それが犯しうる過ちを奨励するかのようなモノは、何であれ、私にとって、嫌悪する対象になりうるわけです。

いずれにせよ、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚だったり、そのことに対する批判を許さない態度は、理屈抜きに、私に度し難い憎悪の感情を湧き上がらせます。そして、そういう態度を促すモノ・助長するモノを、私は非難せずにいられないのです。これが私の動機のすべてです。

当然、以上のことはすべて私の感情的な思いですので、論理的な矛盾や非合理的な欠陥はいくらでもあります。私はこれらの幼稚で衝動的な気持ちを、理性的に捉え直し、より一般的でより望ましい「見解」へと修正していかなければならないのですけど、まだそれがまったく出来ていないわけです(そもそもその湧き上がった感情が「私自身が犯しうる過ち」でないかどうか吟味しなければならないわけで)。

一部の「宗教」は、明らかに、「自分自身が犯しうる過ち」に対して無自覚であり、そのことに対する批判を許さない態度を誇示してさえいます。『神は妄想である』は、そういった態度を助長する土壌として「超自然的な神をもつ宗教」一般の存在を指摘し、無宗教・無神論が「宗教」と対等な立場で互いを批判することが許される世界を要求していると、私は受け取りました。そして、それらの主張にとても強く説得力を感じました。
しかし、皆さんご指摘の通り、まだまだ私の認識は狭く浅はかだということが、よく分かりました。皆さんのコメントは、これからじっくりと時間をかけてしっかり消化吸収し、自分の幼稚で衝動的な気持ちを整理修正する糧としたいと思います。

92AH1:2007/12/07(金) 12:24:26 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さんの>>91はまさに「フェイルセーフ」と書いておられた部分を自らに当てはめ、自戒として書かれたものと拝読します。
つまらない意見ですが、宗教であれ啓蒙主義であれ科学主義であれ、全てが「独占ー排除ー敵対ー撲滅」というループにはまり得るものであり、このループこそが害悪である、という認識は必須でしょう。
実はグールドもドーキンスも宗教について語っている著作はちゃんと読んでいないので伝聞と推定なのですが、この自戒の部分を強く書いているのがグールドであり、ややもすれば侵略的傾向を示す(恐らくはアメリカの原理主義的な一部の)宗教に対するレッドカードとして書かれたのがドーキンスの著作でしょうか。
(まあ、両者が譲り合って境界を決めるのがグールド、押し合って境界を決めるのがドーキンスという感じはするから好みは分かれそうな)
「あいつらが押して来るんだから押し返さないとバランス取れねえだろ!」という苛立ちは、わかる気がします。私は日本に住んでいますので肌で感じているわけではありませんが。

チェンバレンとチャーチルみたいなもんかな?とはいえ、チャーチルが「ついでにドイツを占領し、世界に冠たる大英帝国の版図にしてしまえ!その方が世界は平和!ドイツ人も幸せ!」と言えば「そりゃあんた、ヒットラーと同じっしょ」と言わざるを得ない。
(くり返しますが未読のため、ドーキンスがヒットラー的と言ってるわけじゃないです。押し返すのもやりすぎれば侵略になるだろう、という話。)

93atheist:2007/12/07(金) 13:15:16 ID:Gg732u8U
>これは、(ドーキンスにとっての)神=宗教の全面的な否定ではないですか?

宗教の効用の評価という意味では、全否定といといってもいいでしょうね。
ですが、前にも書いた通り、だからといって、ドーキンスが「宗教を撲滅しろ」と主張しているとは思いません。

「神は妄想である」の「はじめに」を読めば分かる通り、すでに宗教に強くとらわれてしまっている人間を無神論者に転向させるのはほとんど無理だとドーキンスは考えている。

  もし本書が私の目論見どおりの役目を果たしてくれれば、本を開いた宗教的な読者が、
  本を閉じるときには無神論者になっているだろう。なんという厚かましくもずうずうしい楽天主義か!」P16

「神は妄想である」は、宗教に疑いを持ち始めたり、宗教に違和感を持っている人の肩を押して、宗教に対する批判的な態度を進めているのだと思います。
アルコールをやめたいと思っているアルコール中毒患者に対して、アルコールの危険性を説いてアルコールをやめる手助けをしたからといって、その人間が飲酒を全面的に否定しているというわけではないでしょう。

94atheist:2007/12/07(金) 15:24:45 ID:Dffm1ah2
93で引用した箇所だけだと、これがドーキンスの自嘲的な表現だということが分かりにくくて、誤解されそうな気がしてきたので、別の箇所も引用しておきます。

  世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、
  その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教のの名によっておこなわれる
  悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っている----いや
  むしろ、確信している。つまり、両親の信じる宗教を捨てたいという漠然とした願望を抱いて
  いて、できればそうしたいと思っているが、離脱が現実的な選択肢であると気づいていない
  だけの人々がいるはずだ。もしあなたがそういう人間の一人なら、本書はあなたにこそ
  読まれるべきである。(p9)

96名無しさん:2007/12/09(日) 03:18:06 ID:E7qhD8do
なんだか知らないけど、当該の本も読んでないくせに孫引き、引用の
言葉尻をとらえて脳内敵認定&批判てダメじゃね?

97地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:58:19 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

>その>>54の意味を理解するために、「侵略者」「殺す」とはなんの比喩なのかを知りたいのですが。

・宗教(特に、ヘブライの一神教)という「ミーム」は自然科学という「ミーム」に敵対的であり、共存は不可能である、「侵略」というのは宗教と自然科学というミーム相互間が本質的に敵対的であるということであり、「殺す」とはミームの消滅をはかること(ヴィークルの消滅ではない)
ってところかにゃ。
宗教(特に、ヘブライの一神教)と科学の共存は不可であるというのがドーキンスの認識なのではにゃーのかね?

このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?>>87とかえらく非論理的にゃんぜ。ゲームに興味がなく、しかもゲーム特に有害であると考えてないのなら、ゲームを禁止しろとか言い出す必然性がにゃーだろが。もしゲームが有害であると信じるのであれば、ゲーム撲滅を願うのは当然ではにゃーかね。


ある特定の価値に対するニンゲンの態度はおおざっぱにいって3種類。すなわち、積極的肯定・消極的容認・否定、だにゃ。グールドの立場は消極的容認、ドーキンスの立場は否定であるという読みは間違っているかにゃ?
ある価値体系に対して、その有用性を認めず、有害性ばかりを言い募る言論をすることが、その価値に対する撲滅キャンペーンでなければなんだというのかにゃ?

98地下に眠るM:2007/12/09(日) 03:59:36 ID:yb0RBWTc
>神仮説に、妥当な仮説と認められるだけの根拠はなく、まともに考えれば神は「ほとんど確実に存在しない」(ドーキンスの表現)
>たぶんグールドだって、神と同じ程度にしか証拠のないもの(たとえば妖精)について問われれば、ほとんど確実に存在しないと答えたでしょう。
>にもかかわらず、グールドが神についてだけそう言わないのは、宗教のご機嫌取りなんじゃないのか、とドーキンスは述べているわけです。

ここだけど、僕にはドーキンスが厨房にしか見えにゃーよ。人工世界論の富樫クンなみに馬鹿丸出しなのではにゃーのか?
ドーキンスの理屈で「ほとんど確実に存在しない」といっている神はどういう神なんだろね。

例えば、こんな神概念はどないだ?
ウィキ「否定神学」の項より引用
****************************
神はすべてを超え出ている。しかしそのような知識は神についての一面的な知識に過ぎず、否定神学によって否定される。たとえば、肯定神学は神を善を超えたものとして示す。否定神学においては、神は、善ではない。ただしそれは神が悪であるという意味ではなく、人間の思考しうるいかなる「善」をも超えているという意味である。人間や事物は神の善性に似ることができる。なぜなら善の源は神であるから。しかしそれは神が善性において人間と似ていることを意味しない。したがって、神は、人間が把握しうる限りでの善ではない。こうして一切の述語は否定される。否定神学の終局は、一切の形、音、概念、人間に把握されるすべてを捨てて、いわば概念の闇と沈黙において、すべてを超えた光のうちに、神と合一することにおかれる。

中略

ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。

こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立にも影響した。

またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられるそこにおいて、ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。
*******************************

こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?
ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?
だったら教えてくれよにゃ、いままでの発言を保留した上で、カネ出して「神は妄想である」を購入して検討するから。

「神の不在証明」とかいう理屈がありますよにゃ。神は完全であると仮定すると矛盾するから神は存在しないとかいうやつね。しかし、この否定神学における神概念であれば、この不在証明ではまったく歯が立たにゃーことはすぐにわかるだろ?
僕たちは線的な形式論理を日常的に用いているけど、そんなものは論理の中のひとつでしかにゃーだろ。
神秘主義的宗教においては、排中律すら通用しにゃーんだぜ。科学的な知見で存在を否定できうるはずもにゃーんだよ。

否定神学の神概念をここで出してきたのは、たまたま神学ドシロートの僕が哲学との絡みで少しは理解できるからだにゃ。でも、キリスト教の範囲だけでもいろいろな神概念があるんだにゃ。科学的知見で否定できるのは、聖書を逐語解釈したチンケな神くらいなものだろ?

富樫クンの人工世界論ってのは、本質的に無知で何もわかってにゃーくせに世界がわかったとか抜かすお笑い理屈だよにゃ。世界というものがどんなに複雑で記述し難いものかがわかってにゃーくせに、さも自分ではわかったように思うのは厨房でありトンデモだにゃ。
ドーキンスと富樫クンのどこが違うんだろね? 神概念というものがどんなに厄介なものかドーキンスにはわかっているのかにゃ? ボクシングを習い始めて1カ月の練習生をボコボコにして「ボクサーって弱いぜ」とかいっているチンピラ、人工世界論の富樫クン、ドーキンスは同じことをやっているのでなければいいけどにゃ。

99地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:00:53 ID:yb0RBWTc
他にもこんな話もあるにゃ

伊勢田哲治の「科学的実在論はどこへ向かうのか」
ttp://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/realism.html

科学・技術の枠内、あるいは常識的知見において電子の存在は自明であるとしても、科学哲学においては自明でもなんでもにゃーんだな。さっきの話は、ドーキンスの理屈は宗教的ロジックには通用しにゃーという話だったわけにゃんが、欧米世界における合理的思考のひとつの極みである科学哲学に対しても、ドーキンスの理屈って通用しにゃーんでにゃーのか? 電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?
正直なところ分析哲学系はまるでわかんにゃーので、科学哲学における議論を展開する能力が僕にはにゃーんだが、ドーキンスの理屈は科学哲学的にみてどの程度の水準なのか重大な疑義があるのではにゃーのだろうか?

つまり、神学や観念論哲学の知識があるニンゲンだけでなく、分析哲学や科学哲学系のニンゲンもドーキンスを嘲笑してなければいいね、と。


つまりさー、「ほとんど確実に神は存在しない」などとグールドがいわにゃーのは、グールドが科学主義的厨房ではにゃーからだよ。


でさー
こういう底の浅い厨房発言をするのが富樫クンだったら笑っていればいいわけ。ところがカリスマのドーキンス先生がおっしゃると、真に受けるお歴々がでてくるにゃんな。
僕自身は進化生物学をベースにした人間観を採用するがゆえに、「味方陣営のカリスマ」の科学主義的厨房発言を看過するわけにはいかにゃーんだよ。「利己的遺伝子」「ブラインド・ウォッチメイカー」のドーキンスに対する評価は高いつもりにゃんけどな。神を攻撃するドーキンスはただの厨房だにゃ。

で、その厨房としかいいようのにゃー幼稚な認識を振り回して、「敵陣営」の多様さや奥深さを無視して同一視して否定するってのはどういうことよ? 多様さを無視して同一視するのはファシストのお決まりの論法であり、ドーキンス自身もそういうのはダメだといってたんでにゃーのか? 厨房かつダブスタでファッショでは何の救いもにゃーだろ。百害あって一利もにゃーな。

事実、僕はいわゆる創造カガクの言説について、多少なりとも同情的になっちゃったにゃ。
こんなドーキンスみたいな厨房の宗教否定言説がまかり通るのなら、その対抗言説として創造カガクのようなものがあっても当然ではにゃーか。

100地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:01:49 ID:yb0RBWTc
さて、宗教と倫理のからみね

>宗教があってもなくてもその人はフェミニストであったわけで、つまりその人がフェミニズムという1つの価値観を採用する上で、宗教は実のところなんの機能も果たしていないということになります。

はあ?
その理屈だと、カトリックのフェミもプロテスタントのフェミも無神論のフェミも区別をつける必要がなくなっちまうだろ? みんな同じだとでも思ってんの? カクレクマノミの通常の言動を知る身としては、信じられにゃーほど粗雑にゃんな。

ちょっと別の視点から見てみるにゃ。法と宗教の関係ね。
以下は「世界の法思想入門」千葉正士著 講談社学術文庫版 より「結論 諸法思想の比較的特徴」より引用
***********************************************
まず法と宗教との関係について、西欧法思想の特徴がいちじるしい。言うまでもなく、法と宗教の分離を憲法上の大原則としていることである。これは、近代国家法としては普遍的原則であることに疑いない。しかるに、他の法思想はむしろこれと異なる。ユダヤ・イスラム・ヒンドゥー・仏教の各法思想は、宗教と一体である。固有法思想も現在まで報告されているものは、祖神信仰・超自然力信仰・精霊信仰あるいは創造神信仰など何らかの宗教的信仰と結びついている。

中略

だが、西欧法思想も、法理論としては法と宗教を峻別するけれども、法文化としては、両者は、峻別されていないどころか、反対に不可分の関係にある。西欧文化は、諸民族の固有文化とキリスト教が同化した結果であり、西欧人の行動基準はキリスト教倫理か少なくともそれの支配する社会道徳である。

中略

法と宗教の分離という法理論上の原則は、法が自己完結の規範論理体系であるという観念上の要請を概念的に尊重するための文化的な形式だと言わねばならない。逆説的に言えば、法と宗教は、文化的に不可分だからこそ法理論上分離しておかないと、それぞれ固有の特質が混同され存在意義が損なわれると解されて、いわば分業体制がとられたものである。
P290〜292
***********************************************

法と宗教の分離なんて前提だと僕たちは思っているにゃんが、ぜんぜんそうでもにゃーんだよね。このあたりの記述を見ると、宗教が法に対して発言権を持つのは当然もいいところにゃんがな。法と宗教の形式的分離という、キリスト教に特有の法思想を前提にすることは、各文化における法思想に対する押し付けであるという意識は、法人類学においては共有されているもののようにゃんな。

法思想ですら宗教と不可分であるのに、倫理と宗教の分離なんざどこの厨房のタワゴトかと眩暈がするにゃんよ。

それにね
キリスト教の歴史というのは、政治・科学・法などとの分離の歴史であるといえますよにゃ。キリスト教の枠内において、宗教と倫理の分離という話が出てくるのも理解はできるにゃ。しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか? まさに、異文化否定のローラー作戦だにゃ。
ドーキンスは、自分でも知らずに他の文化圏をキリスト教化しようとしているオオタワケ。まさに厨房だにゃ。

101地下に眠るM:2007/12/09(日) 04:04:56 ID:yb0RBWTc
>>96
まともな本相手であれば、おみゃーさんの言う通りにゃんがな。
厨房のタワゴトだと読まずにわかるのであれば、そんなものを読む必要なんてにゃーのだよ。

102後悔と懺悔:2007/12/09(日) 07:51:23 ID:FvvOuBrA
これだけ議論を重ね、コメントを何度も読み直し、それでもまだドーキンスのほうに強く説得力を感じるのは、私が「反宗教-原理主義者」だからなのでしょうか。

たとえ仮にドーキンスが「反宗教-原理主義者」だとしても、ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め、その答えを全人類に(他の「宗教」や無宗教者、これから生まれてくるすべての人たちを含めた全人類に)広く示す義務と責任がある──と思わずにはいられません。
たとえば、超自然的な神や教義の存在は重大なNOMA違反ではないのか。「宗教」は、自らの神や教義を支持する科学的事実があったときにもNOMA原理を遵守することはできるのか。そもそも厳密なNOMA原理の遵守など有り得るのか。(『神は妄想である』第2〜4章など)
たとえば、「宗教」は自らに批判が向けられることに対してどのような態度を奨励してきたのか・今後するのか。その態度の正当性をどう説明するのか。(『神は妄想である』第1〜2, 8章など)
たとえば、「宗教」は自らが犯してきた過ち・犯しうる過ちに対して、どこまで自覚し自省しうるのか。「宗教」は自らが犯しうる過ちに対する有効な「ブレーキ」なり「フェイルセーフ機構」を自らもちうるのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、これらの批判に真摯に向き合った「宗教」があるとして、自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。(『神は妄想である』第8〜9章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

「宗教」批判者の態度など、「宗教批判」そのものに対する皆さんの反論にはそれぞれ正当性があるのでしょう。説得力を感じるものも多いです。しかし、私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

一方、ドーキンスは「宗教撲滅論者」「無宗教-原理主義者」かも知れません(私にはそう思えませんが)。しかし、そのような態度は別にして、ドーキンスが主張する「無宗教者」擁護の言説とその根拠には、とても強い説得力を感じます。
たとえば、他人の「宗教」を、他人の家族や食事の好み以上に尊重しなければならない理由はあるのか。その理由は本当に正当と言えるのか。(『神は妄想である』第1, 5〜7章など)
たとえば、無宗教者が自分の立場を(「宗教」に配慮・遠慮することなく)明言できるということは、社会にとって健全なことではないのか。自分の価値観や道徳観を表明するのに、また、新たな問題について倫理的な考察をするのに、まず「宗教」に配慮しなければならないという社会は、あまりに不健全ではないのか。(『神は妄想である』第1, 8章など)
たとえば、私たちが善良であることに「宗教」はどれほど寄与しているのか。現代ではむしろ「宗教」は人類の「道徳観念」の「進歩」に対する足枷となっているのではないか。(『神は妄想である』第5〜7章など)
たとえば、……。たとえば、……。たとえば、……。……。

ドーキンス(や私)が、「宗教」を有害なモノとみなすよう促しているのか、全否定しているのか、撲滅しようとしているのか、そういった議論はともかく、私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

103後悔と懺悔:2007/12/09(日) 08:01:40 ID:FvvOuBrA
10日以上読み返し自分なりに咀嚼し検討したコメントに対してならば、私のような偏見に凝り固まった人間でも、多少とも何らかの示唆となりうるコメントができるのではないかと期待します。より最近のコメントについては、私がまだ十分に意を汲めていないと思われる点が多々あるので、もう少しじっくりと反芻してみます。

>>57:AH1さん
>これが「この土俵のすばらしさがわからんボケは撲滅したるんじゃー!」になると、「同じ土俵か、死か」という極めて侵略的・暴力的なものになるでしょう。
>その壁は意外と薄いのではないか、と思います。

>>48にも他にも随分と書いてきたと思うのですけど、私が興味深いのは、なぜ「“正しさ”を独占するモノ」を批判すべきだという思想が、「オレの言い分を理解できないヤツは撲滅したるんじゃー!」になりうる、その壁は意外と薄いのではないか──と思われるのだろう……ということです。
決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>でも、信者数が多いという理由で、一部の教義を「宗教」の代表のように扱うならば、それもまた藁人形論法になってしまうのではないか、と案じます。

おっしゃることは正論だと思います。しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。的を射た喩えではないかも知れませんが、「穏健な行革肯定派」は「過激な行革肯定派」が弱者切り捨て政策を次々と断行することに対して責任はないのでしょうか。責任を追及するのは酷だとしても、何の負い目も感じないとすれば、やはり問題かと私は思います。
本音を言えば、>>64でリリスさんが述べているように、ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

>>58:リリスさん
>(前略)で、私は、こういった事柄は人間の問題(必ずしも悪ではない)であって、宗教固有の問題ではないだろう、と思うのです。

もちろんおっしゃる通りです。しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。こういった人間の問題に関して思索するときに、「宗教」という腫れ物に少なくないリソースを向けなければならないというのは(私にとっては)悲しいことです(たとえば、>>6の最初の2段落を参照。これは私があらゆる事柄のなかで最も声を大にして主張したい気持ち・感情の発露です)。
ドーキンスは次のように書いています。「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、(中略)内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカーチームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる(『神は妄想である』378頁)」

>>64:リリスさん
>私はキリスト教は、その母体であるユダヤ教の起源や、啓典宗教であり唯一神を信仰することから、「“正しさ”を独占しようとする」傾向が他の形態の宗教よりも強いのではないかと思っています。しかし信仰の中の「神の前での敬虔さ」がそのブレーキになるだろうと思いますし、“正しさ”と言っても決して静的に硬直したものではなく、動的に探求されてきたものである事は、キリスト教の歴史が示していると認識しています。

「正しさ」が静的に硬直したものでないことは、『神は妄想である』第5〜7章(とくに第7章)の主要なテーマです。人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。
そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。つまり、「動的に探求されてきた」動機は、「宗教」そのものにあるのではなく、たとえば「安息日に薪を拾ったからって処刑するのはやりすぎじゃないか」とか「処女でないという理由だけで婚約者に打ち殺されるなんてあんまりじゃないか」とかいったより素朴でより根元的な感情が動機になっていたのではないかということです。この考えでは、「宗教」そのものは「進歩」に対するブレーキとしてのみ働いているわけです。

104地下に眠るM:2007/12/09(日) 10:24:39 ID:yb0RBWTc
>自分の「宗教」を擁護する人間には、他の「宗教」という名のもとで行われている非倫理的・反道徳的行為に対して責任と義務はないのか。

20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?
ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。
チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

105後悔と懺悔:2007/12/10(月) 00:56:07 ID:FvvOuBrA
かなりムカついたくらいで自分の決めた約束事をあっさり反故にするダブスタ野郎の言うことなんで、適当に無視するなり嘲るなりしてくれれば良いのですけど……。

>>104:地下に眠るMさん
>20世紀における虐殺の多くは無宗教の名の元に行われたのは知っているだろ?

知ってますよ。>>4で地下に眠るMさんご自身が再掲した私の(2007/11/08 20:08)のコメントの最後の一文は信じてもらえてなかったわけですね、残念です。ちなみに、「無宗教の名の元に」という主張にはとてつもなく強い違和感がありますが、地下に眠るMさんがそう主張し続けるなら、いずれ議論の俎上にのぼることになるでしょう。

>>104:地下に眠るMさん
>ドーキンスやチミが、スターリンやポルポトの虐殺に責任をとってからそういう馬鹿発言をするのなら聞いてやるよ。

>>91を書いた直後に、なおそういうことを言われなくちゃいけないんですか。>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論を読んで、なおそういうことを言われるわけですか。
もともと私の問題意識は、「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである(マキアベリ)」にあり、「人が犯しうる過ち」についてであり、ヒトラーやスターリンやポルポトの虐殺のようなことがなぜ起こるのだろうといったことから始まり、より身近な「ニセ科学」問題を経て、理科教員時代に「オウム事件」の衝撃を受け、「宗教」に至っているわけで。私としては、すべては同じ問題意識上にあるんですが。

で、地下に眠るMさんは、私にどんな責任をとれとおっしゃるのでしょうか。
一応、私は微力ながら理科教員として、科学や科学史などの話題を取り上げながら、「人はどんな過ちを犯してきた・犯しうる存在なのか」「どんな自戒が必要なのか」といったことを子供たちや同僚に伝えてきたつもりですが、まだ不足ですか、そうですか。いや、不足なんじゃなくて、そもそもそんなのは責任の取り方として見当違いだとおっしゃりたいのですか。教えて下さい。

ドーキンスがスターリンやポルポトの虐殺にどんな責任をとっているのかは、『神は妄想である』第7章を読むか、彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。

>>104:地下に眠るMさん
>チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタになっていにゃーかどうか、ちっとは考えてからカキコしな。

そうしたいし、そうしているつもりなんですけど、自分の能力を超えることはなかなかできないんで、自分が知らないうちに失態を犯していたり陥穽にはまりこんでしまっていたりしていたときには、そう指摘していただけるのはとても有り難いです。ただ、今回はさすがに納得しかねました。10日以上推敲した結果がアレなわけで、そんな馬鹿で無知な人間にも、どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。

106chochonmage:2007/12/10(月) 01:46:43 ID:Qhwn4442
後悔と懺悔様
猫さんの「ダブスタ」は、後悔と懺悔さんの、

>「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
を受けてのことでしょう。
(無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。
になるという事。)

それから、
>彼に直接手紙でも書いてみたらいかがですか。
は、それを言っちゃあおしまい、ってやつみたいに思います。

ですが、私も猫さんに質問。

スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
とは考えられません。いかがでしょうか。
私の無知なのかも知れませんので、もし文献をご存知でしたらご紹介いただけたら幸いです。

107カクレクマノミ:2007/12/10(月) 02:08:07 ID:THRtI5kM
>このあたりに関しては、atheistクンが屁の突っ張りにもならにゃー出来のワリイ詭弁をご開陳されているにゃんな。必要性がなく、有害でしかない、と弁じるということは、できたら撲滅したいということでなくて何なんだ?

「できたら撲滅したい」と、独裁者の言う「殺してしまえ」というのはずいぶんニュアンスの違う言葉だと思いますが。
まあ何にせよ、ドーキンスが宗教をできたらなくしてしまいたいと考えているのは間違いないと思います。たぶん、地下猫さんが安易な宗教否定を撲滅したがっているのと同じくらいに。

>こういう「一切の述語は否定され」「知解されえない」」ことに本質がおかれる神を、自然科学の理屈でどうやって存在否定ができるんだろ?

ドーキンスは、自分が否定する「神」の定義をかなり絞っています。
ドーキンスが批判対象とする「神仮説」は、
「宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説」(邦訳p.52)
です。これ以外の神の定義が可能なことも、それらについては批判できていないことも、ドーキンスは認めています。
だいたい、無数の神の定義すべてを扱おうと思ったら、たぶん定義の列挙だけで「神は妄想である」よりも厚い本が必要でしょうね。

ドーキンスは、もちろんあらゆるパターンの宗教や神を批判できてなどいないし、それができているとは思ってもいないでしょう。
ドーキンスが直接に議論している宗教はごく一部であり、その他の宗教をどう判断するかは読者への宿題といった所でしょうね。
ドーキンスの批判点をすべてクリアした宗教があるとしたら、胸を張って出てくればいいし、ドーキンスもそれを批判はしないでしょう。

>電子の実在すら自明でないのに、神の不在を弁証するだって?

地下猫さんの議論とは思えないほど甘いなあ。
科学哲学における反実在論に基づいても、神仮説が妥当でないという主張は可能です。
確かに反実在論を考慮すれば電子の実在は自明ではありませんが、「電子仮説」が妥当かどうかは判断できます。

ついでに言うと、科学者の中では素朴実在論の立場が多数派で、反実在論科学哲学者もいちいち科学者の実在論的言明の言葉尻を捉えて嘲笑するほど暇ではありません。
そんなことをしていたら、科学哲学者は素粒子物理学のジャーナルを1冊読み終わる頃には顔の筋肉を痛めてしまうことでしょうし、1年分読み終わる頃には寿命が近付いているでしょうね。

>しかしね、他の文化に対して、宗教と倫理を分離しろなんざあ、実は他の文化を完全に破壊したうえで奇形的なキリスト教化をすることにほかならにゃーのではにゃーのか?

分離"しろ"なんてドーキンスは一言も書いていないし、僕も書いた覚えはありません。
書いてないことに文句を言われても困ります。

108NAN:2007/12/10(月) 02:24:19 ID:???
>>102
>>103:後悔と懺悔さん

私もあなたの主張に批判的ではあるのだけれど、そのポイントは少し違う(あるいは単にちょっとソフト)ものです。議論自体については基本的に傍観していましたが、ここでちょっと気になる点を書いてみます。

>ドーキンスが提起した様々な批判・非難は、「宗教」が真摯に受け止め〜

一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?そもそもすべての「比較」において、どこかに軸が必要になるのは当然なのですが、その軸が、果たして対立軸だったり集団を隔てる壁となり得るものなのか、さらには自分は「どちら側」にいてという前提に立っているのか、その前提は本当に確かなものなのか…それらについて私はとても懐疑的な気持ちでいます。

>私には(ここに限らず)どの議論を見ても、「宗教」擁護者が、「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に向き合っているようには(まったくとは言いませんが)ほとんど感じられないのです。

その議論とはネットの議論ですか?ほとんどの場合、ネットで発言している宗教擁護者というのはどうにもならないガチガチのバカです。というかそもそもネット議論に参加している人口など、すべての宗教者のほんの一部でしかなく、さらに極端なニンゲンばかりである、と私は認識しています。これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

>私としては、様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか──という点に議論が発展していくことを期待したいのですが、皆さんはこの点にはあまり関心がないのでしょうか。

その点は私も大いに関心があるし、そういう議論を歓迎するでしょう。しかし、ドーキンスの著書をベースに議論を進めたところで、書評あるいは人物評(非常にローカルで問題とはまったく別次元である、ということ)から逃れることもできないでしょう。

で、せっかくなのでこの点について少し書くと、宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。ではどのような議論が考えられるのか?私はそれを「絶望の上に立った議論」と表現します。
先にも書いたジンルイの妄想とは、希望だとか理想だとかあるいは「期待」と言い換えることができるだろう、と思っています。相手に対する期待。それはつまり自己の投影であり社会と自分との同一化でもあります。自分は健全で犯罪者ではなく常識を持ち善意的な人間であるみたいな認識です(笑。同時にそれは相手もそういうニンゲンであることを期待している(前提にしている)ことを意味し、共通の文化基盤、共通の生活様式などを自分と同様に相手も保持していることを無意識に要請します。これは群れ生活を営んできたジンルイすべてが持つ広範囲で脆弱な特性でしょう。

さてこの「期待」がほとんどすべての社会生活者が持つ妄想であるのならば、ほとんどすべての社会生活者も、実は宗教者(とここで表現されている仮想集団)となにも変わらない、というのが私の認識です。そこで、少し考えていただきたいのですが、これ、実は巨大宗教のほとんどが持つ「他力本願」の思想とそう変わりがありません。つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。まぁ残念ですが、こんなカタチの「啓蒙」はまったく無意味だし、対立の溝を深めることにしかならないでしょうね。(対立の溝を深めたいならそれもOKなんですよ)

109NAN:2007/12/10(月) 02:24:51 ID:???
絶望とは、相手に期待しない、ということです。この「相手」とは個人や集団に限らず社会だったり因果律で云う結果だったりします。自己の投影を行わず、相手を想定さえせず…って姿勢を極限まで貫いていくと、物凄く宗教的なスタンスが生まれるように私は思います。まぁつまり、敵を撲滅したり殲滅したりっていう、「攻撃(他力本願)」を行う姿勢からはなにも生まれないので、自分以外という認識を捨てて、自分自身が敵そのものになるしかないんじゃないでしょうかね。いわゆるこれは…「出家」みたいなものですね。

>ドーキンスの問題提起のほとんどは、「宗教」自身が解決してくれれば良い問題であるはずなんです。しかし、それに期待をかけたい気持ちが、「宗教」について知れば知るほど萎えてくるというのが、私の正直な気分です。もっと知れば、その気分も変わってくるのでしょうか。

ね、他力本願ですね。宗教者と表現されている人となにも変わりません。念仏を唱えても極楽浄土には行けません。それと同じことです。もしもあなたがクリスチャンのなにかを変えたいのであれば、あなた自身がクリスチャンとして影響力のある存在になるしかないだろう、という意味でもあります。

ここからは私の意見を書きます。
なにがしかの信条、あるいは信仰などによってラベリングされる人々(集団)になにか問題であるのだとして、本当に問題となるのはその「ラベル」にあるのかどうか?そういうことに私は重きを置きます。あるいは、置きたいです。たとえば、大学卒業者に対して中卒者の犯罪率がもしも高いのだとしたら、問題があるのは「中卒者」という集団(サンプル)でしょうか。そうではないはずです。中卒者となるだけのなにがしかの理由や社会システム、そういった要因が必ずあるはずだ、と私は思います。さらにそれらは必ず個別の事象に行き着き、複雑でしょう。この複雑な問題を解決するのだとしたら、相当に慎重で、計画的で、あるいは自力本願的な言動…仮想敵に対する相当に正しい認識あるいは理解をもたないことには、どうにもならないだろうというのが私の意見です。しかし、不可能ではない。これもやはり、私の認識です。

病的な原理主義や妄信、教条的な思考、それらはいつでも誰でも発現し得るありふれた現象で、ボーダーレスに「ある」事象です。たとえば私は法を守らないこともできる…しかも法を守らないからといって必ず人殺しや泥棒になるわけではありません。ではなぜ、私は教条的に法を守ろうとするのだろう?それはニホンジンという集団幻想の中に私がいるからです。(かなりはみ出していますが)

社会は逆に、私(あなた)自身をも投影します。つまり社会(あるいはここで云う宗教者)がなにか「悪い(自身に対して害)」のであれば、それは私自身が認識する「倫理価値の軸」の投影でもある、ということです。

110AH1:2007/12/10(月) 12:37:17 ID:fKqeZx4M
>>決して破られない壁とは言いませんけど、少なくとも、「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒(「ブレーキ」「ファイルセーフ機構」)を持った人・社会ならば、その壁は十分厚いだろうと期待しても不当ではないかと思うのですが、楽観的すぎるのでしょうか。

これは半分は自戒を込めての事なのですが。
壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。押し返すのもやりすぎれば侵略、とはそういう意味です。

もう一つは、こうです。ここで恐らく、後悔と懺悔さんと私は『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という考えを共有しています。それを共有していない人間に対し、共有せよと迫る事は良いのか?ということです。
そりゃまあ、別に構わないとは思います。主張したければする自由があります。運動したければする自由もあります。ただ、ダブスタにならないためには、宗教の自由も布教の自由もあると言わざるをえない。すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(ex. 共産党の街頭演説を狙って軍歌を流した街宣車が来るようなもの)。
つまり、「譲らずに意見を言い合う」という理想論が「大声で喚いている馬鹿が二匹」に落ちぶれるのはとっても簡単じゃないかな、ということです。

さらに一つは、自戒を込めてですが、「宗教は現実世界について正しいことを言っていない、それは科学の役目である」という考えが、科学的には正しいのでしょうが、本当に正しいかと言えば絶対の自信はないということです。同様に『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という私の持っている「幻想」が本当に正しいかどうか、それにも絶対の自信はありません。

また、例えば中絶に反対だから医者を殺すとか、婚前交渉があったからと女性を焼き殺すといった例は私も否定すべきだと思いますが、これはいわば極端な例ですよね。原爆による被害の写真を見せながら「原子力は恐ろしい、科学は危険だ」と言っているような、ちょっと恣意的な気配を感じてしまうのです。
「科学で検証できそうな『現実世界』は全て科学のもの、宗教が口を挟むのは越権行為!」と主張するのは、科学主義としては痛快かもしれないんですが、そうすると宗教の出番って最終的にはほぼ無くなりますよね(なんせ人間がこの世に生きているんだから、この世に何のかかわりもない絵空事なんて宗教にもならない)。これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。

111GB:2007/12/10(月) 19:41:52 ID:Ni9i2QWM
以前頂いた、後悔と懺悔さんからのことば、

>人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる
(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ
思われる)」私には、ドーキンスはこう言っているように聞こえます。

私にも、そう言っているように聞こえます。さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
言っているように聞こえます。でも、

理性、倫理、道徳などという実に人間的な属性が、ヒトの生物学的な基盤の上に立つものであることは
当然だとしても、「倫理もミームで説明できるはず」で済ましてよいのかどうか。
その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

ドーキンスが頭に置いていたのが一神教または組織宗教だけだったとしても、彼の論理の流れは
どうしたって「宗教一般」に関わるものであり、しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、
まるで、と言って良いほど答えていない、と思います。

(人間性の進歩というテーマについての「時代精神」の章でも同じ感想を持ちましたが、ここでは触れません)。
でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…
でも私には、そう映るんです。

112地下に眠るM:2007/12/14(金) 12:28:29 ID:cizMQ0FI
なかなか書くヒマがにゃーので、むかーし第一掲示板に書いたネタのコピペ
形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ



背理  投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2004年01月05日23時40分

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三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************

科学的世界観をもつためには、心に棚をつくらなければならず
信仰においては背理に耐えられなければならにゃーのだね


113atheist:2007/12/15(土) 21:04:22 ID:MCLpIKSA
地下に眠るMさん(以下「Mさん」と略)へ

>形式論理を用いて神や宗教を否定するなんて、基本的に無意味もいいところだにゃ

これは、神の存在を肯定する側にも言えることですね。
そもそも論理によって神の存在を証明しようとすることがおかしいのです。宗教を否定する側が狙っていることは、論理による神の存在証明の弱点を突くことにあるのであって、神の非存在を証明することではありません。だからMさんの批判は宗教批判派への攻撃としては無効なのです。
スパゲッティー・モンスターの存在が否定できないように、なにかが存在しないことの証明は不可能なのです。Mさんはスパゲッティー・モンスターの存在を肯定するのですか?

>すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。

これって単なる開き直りじゃないですか。全然宗教の擁護になってませんよ。むしろ全否定じゃないですか。

114atheist:2007/12/15(土) 21:32:03 ID:nBjbGh2w
GBさんへ

>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と言っているように聞こえます。

確かに、現に存在する複数の倫理/道徳の体系を評価し、その中からひとつを選択するということは科学の問題ではありません。ですが、なぜ現に存在するような倫理・道徳が存在するか、ということなら科学である程度説明できると思いますよ。

>その説明自体がどんなに興味深く楽しい話ではあっても、「人が生きる価値や意味」といった領域は、
(科学で理解できる「生物」には還元できない)、それを紡ぐ仕組み(文化)に対しての洞察が必要なのでは
ないか。

その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん

だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。

>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

なぜ宗教が存在するかという問題(事実の問題)と、宗教が必要かという問題(価値の問題)は別のものです。宗教の問

題になると常にこの問題が混同され、「現に存在するのだから必要なのだ」と考えてしまうのが混乱の元なのです。

115atheist:2007/12/15(土) 21:49:06 ID:nBjbGh2w
MANさんへ

>宗教者であるor無宗教者であるみたいな「境界(ボーダー)」を挟んでディベートしたところで、いつまでも理解や和解
、平和的な歩み寄りに発展することはないでしょうね。

>これはその他の信条や主義、あるいは思想などについてもおおよそ当てはまるものであり、極端な事例ばかりを見て「宗
教者はバカばかりだ」と評価するのは浅はかに過ぎる、と私は思います。

別に私は、宗教家対反宗教家だとか、ドーキンス派対アンチ・ドーキンス派だとかいう枠組みで戦おうなどとは思っていないのです。
宗教を否定することと宗教家を否定することは別のことです。ドーキンスは、宗教をウィルスのように考えている(つまりミームとして考えている)わけで、そのウィルスにどう対抗するべきかということを考えているのだと思います。ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません。問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

116GB:2007/12/15(土) 22:40:59 ID:zXfK7pu6
とりあえず、グールドの言葉で。

「敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である──人類と同じぐらい古く、永続的に警戒することなしには
廃絶することができない伝統である。」
(『神と科学は共存できるか?』P158)

117atheist:2007/12/15(土) 23:14:12 ID:azIdXNDg
もうひとつ問題があるのを忘れていました。
それは、ウィルスに感染していない人の中にも、ウィルスに感染することに意味があると思っている人がいるということです。

GBさんへ
宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

118GB:2007/12/15(土) 23:43:36 ID:zXfK7pu6
すべての人間は、それぞれのウィルスに感染してるんだと思いますよ。

119NAN:2007/12/16(日) 13:33:40 ID:???
>atheistさん

横レスですか?構いませんが、私はあなたの発言について対立軸や立場を指摘していません。ですからあなたの反論は検討違いです。また、あなたの発言は私的にノーマークでした。チェックすらしていないのでどんな主張をしている方なのかさっぱり分かりませんでした。

>問題は、ウィルスに感染している人間が自覚がなかったり、感染していることに誇りを持っていて、ウィルスを攻撃すると怒り出してしまうことです。

そこで、逐語的にここだけ指摘します。
上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。

あなたが比喩として持ち出した「仮想ウィルス」はどんなウィルスですか?感染すれば必ず癌化したり致死的な症状をもたらす殺し屋ですか?それとも、遺伝子の「運び屋」みたいなものですか?ミームというガイネンを持ち出したからには後者を想定しますが、その割には「ミームを持つことに自覚のないことが問題だ」と結ぶあたり、ご自分でなにを主張しているのかさっぱり自覚していない風情に見えます。

あなたは宗教というミームを「殺し屋(ネガティブなもの)」と最初から固定して想定し、そのうえで文脈を組み立てた。ところがミーム(いや、ウィルスですら)はさまざまな性質を持つし、それぞれの環境に対して正方向にも負方向にも作用し得るものであるはずです。これらに「感染」している自覚を持っているほうが平常時には不思議だし、自ら感染したのであれば誇りを持っているであろうことは当然です。

別に私のHNを間違えてても構いませんが、反論らしきことを述べるならまともに推敲した文章でお願いします。

120NAN:2007/12/16(日) 13:56:11 ID:???
ついでにもうひとつ「横レス」しておきます。

>117:atheistさん
>宗教が教条主義と不寛容を強化するのが問題なのだと思いますが。

あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。不寛容なニンゲンとなると、そこら中に見受けられます。たとえば私もそうです(笑。

>114 を見ると、
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩んだりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。


現にあなたも「宗教と云われるものは一切信じない」という枠組みの中に縛られ、教条的に発言しています。どうやら「ゲームは(自分には)必要ない」というミームにも感染しているようだし、その自覚もなく、感染しているこおに誇りすら感じる。まさにあなたの指摘に適合しますが、それは宗教の性質ではなく、ニンゲンの性質でしょう。

121NAN:2007/12/16(日) 15:50:30 ID:???
日曜日に時間が取れるのは珍しいんだけど、なぜか空き時間ができたのでもう少し書き込もう。

宗教に対して、私は以前から強い興味を持っている。しかし、どこか特定の宗教に入信したり、信仰を持っているわけではない。無論、よくある「ニホンの家系」に属するので、菩提寺というものはある。これは禅宗で、比較的古風な宗派だけれど、私が好きな原始仏教とはほど遠い。

ttp://www.j-world.com/usr/sakura/

webには上記「佐倉哲エッセイ集」のように優れたソースもある。恐らく、この方も「入信はしていないが宗教の研究をライフワークにしている」のではないだろうか。宗教と対峙する姿勢にはさまざまなものがある。科学的仮説に対して批判を行ったり、反論を述べるにあたって、該当する仮説をきちんと理解していなければ、激しい見当違いになるのと同様、宗教についてなにか批判を行うのであれば、宗教に対しての一定の理解がなければ、同じく見当違いになるのは当然だ。ネットに多数存在するカルトバカ宗教のアホ信者を蹴飛ばすのは簡単だけれど、巨大宗教に対してこれを行うには相応の覚悟がいる。

しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

「暴力」は問題視されて当然だ。しかしそれが果たして宗教と直接結びつくものなのかどうか?これは科学的創造論者が進化論をさっぱり理解していないのに批判することと対峙する「場面」とは根本的に異なる、と私は思っている。ニホンでも、オウムのテロ行為は記憶に新しいし、私個人も最近とあるカルトの勧誘を受け、薄気味悪い主張に辟易したことがある。しかし、これらは本当に「宗教」という枠組みの持つ性質なのだろうか?はっきりとは云えないのだけれど、私は「違う」と考えている。

あなたはあなたの出身地や出身校についてバカにされると、腹を立てないだろうか?あるいは、宴席で隣に座った誰かが同じバックボーンを持つと知ったとき、喜んだりしないだろうか。これらは平常なニンゲンが誰でも持つ情緒だろうと私は考える。親は自分の子供を思うように育てようと夢想する。言い換えればコントロールだ。度が過ぎると破滅が起きる。さまざまな宗教団体を舞台に起きる事件の数々も、実を云うとそれと同じシナリオで起きているのではないだろうか。義務教育を経て高校〜大学と進学し社会に出て就職する。これを教条的と云わずなんと云えば良いのだろう?毎日同じ時間に起床してどこかに通勤または通学し、だいたい同じ時間に帰宅したり飲みに出たりする。そういう「レール」に乗ることを是とする性質はとりたてて珍しいものでもなんでもない。あるレールを失ったり転落してしまった場合、代替となるレールが必要になるだけのことではないだろうか。そこに宗教の存在理由の「ひとつ」がある、と私は思う。

122NAN:2007/12/16(日) 15:51:05 ID:???
宗教の持つ根本的価値のひとつに「死後の救済」がある。これはすなわち、生の反映でもある。死後も今と変わらないか、それ以上の「生活」があるという教えだ。さらに突き詰めるとそれは、財産の保証もしくは利息の支払い契約でもある。この場合、支払われるものはなんだろうか?それは多分「命、または魂などと呼ばれるガイネン」で表される。つまり、生命が永遠に失われないという期待に対する答えが「救い」なのだろう、と私は考える。

生命は常に、いきなり失われる不安にさらされている。この掲示板を見る誰もが、数分後には後ろから自動車に轢き殺されたり、落雷に当たって命を落とすかも知れない。生きるという連続は所有を蓄積する連続でもある。金持ちがやたらとお布施を弾むのは、掛け金を多くすればそれだけ多くの見返りがあるだろうと期待する心情に他ならない。そしてそれは、実業家が事業に投資するのと原理的にはまったく同じ心境だろう。それらは常に、失われる不安を伴い、射幸心を煽る。射幸心の存在する場所には、大きなビジネスチャンスが必ずある。そう、宗教とは巨大なビジネスでもある。「あなたはなにも失わない」という保証、それが商品である。

宗教の問題とは、所属や帰属意識、喪失の不安、集団繁栄の欲求など、ニンゲンが持つ根源的な「共同体意識」に等しいか、相似していると私は考えている。めちゃめちゃな教義や馬鹿げた教条主義を蔑視するのであれば、あなた、あるいは私が日々精進している「馬鹿げた商材の販売」や「異常な派閥主義」とか「超非人道的な人道政策」など、合法的に正当化された行為だって、同じく蔑視の対象だろう。また、そういうものと自分は一線を引いているという自覚でさえ、それら蔑視されるべきものの対称軸にあるだけのことで、実は相似形なのだ、と私は思う。

最後にテーマに戻ろう。宗教と科学が共存できるか?ということを考える以前に、一般生活と科学は共存できるのだろうか?と私は考える。霊の存在、オーラがどうの、死後の世界、宇宙人、世界規模の陰謀、地球空洞説など…そういうものと科学は、果たして共存しているだろうか?私はむしろ、優れた宗教家は科学を伴侶にできるけれど、大半の生活者は科学と共存できないのではないか?と思っている。科学的検証や実証とは無縁に、テレビで見たから納豆を買う消費者は、それが妄信であることなど歯牙にも欠けず財布を開き、ブランドを信仰し、中身を知りもせずに高価なだけで低性能なメーカー製パソコンを使用する。自分の行動を懐疑しない人格とは、カルトそのものであろう。

123地下に眠るM:2007/12/16(日) 18:39:18 ID:Ja2I4.Nc
>atheistクン
>その仕組みが、なぜ宗教でなければいけないのか?ということがドーキンスの論点なのです。
>現に私自身は一神教にしろ多神教にしろ、宗教と言われるものは一切信じませんが、別に生きる意味や価値について悩ん
>だりしてはいませんよ。私が必要じゃないから、他の人も必要ないはずだ、とは言うつもりはありませんが。

チミは少し悩みなさい。
少なくとも、自分がぜんぜん読めてにゃーとか明後日の方を向いたことを言っているのではないかとかいう疑義を持つべきだにゃ。
字が読めるようになったらまた遊んであげるね。

他の返すべきレスは返しますにゃ。
なんか忙しくて余裕がにゃーのです。ごめんね>おおる

124atheist:2007/12/16(日) 22:12:02 ID:T4.UK3Ao
NANさんへ

全く申し訳ありません。ご指摘を読んだ時点でもしばらく何を言われているのか分からない位「MANさん」だと思い込んでいました。平謝りです。

>上記は「ウィルスに感染した人間が、それが原因で他人に危害を加えたとしても、その人間を非難する必要はありませんし、ウィルスに感染したからといってバカだと否定する必要もありません」というワケの分からない比喩から導いた主張らしいですが、なにか説得力のようなものが存在するなら(云いたいことがきちんとあるなら)説明してもらいたいものです。

分かりくい文章で申し訳ありません。NANさんがおっしゃる通り、ウィルスにもタチの悪いものといいものがあるわけで、私が言いたかったのは、宗教はタチの悪いウィルスだということです。

>あなたが混同しているのは「ヒトとかいうくだらないイキモノ」が教条主義と不寛容に陥りやすい性質を持つということと、宗教がそれを強化する性質を持つ(であろうor自分が知る限りはそうだ)という点です。教条主義を強化するのは宗教に限りません。あらゆる「枠組み」がそれを強化します。

これには同意できません。これだと人間が不寛容になるのは不可避だということになってしまいます。不寛容に抗う「枠組み」も存在すると思います。

地下に眠るMさんへ

ドーモスミマセン。私は苦悩するだけの深みもない、浅薄でノーテンキな人間です。だけど、なんで悩まなくちゃいけないんですかね?苦悩しながら他人に害を与える人間とノーテンキで害のない人間となら、私は後者を選びますが。

私も、平日は忙しいので書き込めないと思います。っていうか、もうここには書き込まないほうがいいのかな?

125atheist:2007/12/16(日) 23:14:30 ID:rUnqyHU.
地下に眠るMさんへ

すみません。最後にもうひとつだけ。
私が文も読めない大馬鹿者だからだと思うのですが、今にいたるまでMさんの宗教に対する立ち位置が分かりません。
「否定神学」だの「啓蒙の弁証法」だのと難しいことを言われても、無知無教養の私には理解できませんので、選択式で

答えてはもらえませんか。そうすれば、私もスッキリした気持ちで退散できます。

1.宗教は絶対的な善である。
2.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見るといいところのほうが勝る。
3.宗教は絶対的な悪である。
4.宗教にはいいところも悪いところもあるが、総体的に見ると悪いところのほうが勝る。
5.宗教は悪であるから絶滅すべきである。
6.宗教は悪であり、できればなくす方向にしたいが、無理に絶滅しようとすると悲惨なことになるので、慎重な対応が必

要である。
7.宗教が善であろうが悪であろうが、多様性をなくすことは問題なので、宗教を擁護する。
8.そもそも宗教をなくすことは不可能なので、善だの悪だの議論しても無意味である。
9.宗教は合理性を超えた深遠なものなので、善だの悪だのという議論からは超越している。
10.ドーキンスは厨房なので、ドーキンスの宗教批判はなにがなんでも否定する。
11.自分の知識をひけらかすのが大切なので、結論はどうでもいいい。
12.その他

複数回答可です。ちなみに私自身は、4と6です。

126atheist:2007/12/16(日) 23:20:42 ID:rUnqyHU.
行ズレ申し訳ない。

127後悔と懺悔:2007/12/17(月) 01:55:49 ID:FvvOuBrA
便宜上、各発言者のコメントに対する返信の形をとっていますが、そういう形を借りて、ここを見ているすべての方に対して主張ないし問題提起をしているつもりですので、そう受け取って頂ければ幸いです。私の発言に関しては横レスを歓迎します(というか、みんな最初からそうだと思っていたのですけど……)。

>>72:chochonmageさん、>>73:次郎さん

ご指摘感謝します。狭く偏った体験・見聞をもとに問題を一般化して論じようとするときの典型的な陥穽ですね。私の>>70のコメントはしばらく検討保留にさせて下さい。

>>73:次郎さん
>単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。
勝手な想像をすれば、キリスト教やイスラム教の世俗化(>>103の一番下のコメント参照)と似たようなことが仏教にも起こった(起こっている)と考えられますけど、そうだとすると、仏教では「原理主義者」とはどう折り合いをつけた(つけている)のでしょうか。

>>73:次郎さん
>といいますか、人類の道徳観念や価値観・倫理観にしても「他者に対する価値観の強要」の歯止めにはならないのじゃないでしょうか。
>つーか、そうであるならドーキンス氏のような主張がそもそも出てこないように思えるのですが、それとも価値観・倫理観の進化がまだ不十分なんでしょうか。

不十分なのだと私は思っています。というか、どんな人・社会でも「十分」ということはないでしょう。言論の自由を尊重する社会はその自由を守るためにトンデモな主張の存在に対するコストを支払わなければならないのと同様、反原理主義を掲げる社会はその中に原理主義者の存在を許してしまうことを覚悟しなければならないのは当然なわけで、もちろん最初からそのことを勘案した上で、それでも反原理主義を唱えているわけです。その点については、何度も弁明したと思います(直近では>>66>>67の「フェイルセーフ機構」の話など)。
そして、何度も繰り返しているように、この点において、価値観・倫理観の進化は、現状では及第点であり信頼にたるものだと思いますし、そう主張する『神は妄想である』第5〜7章の議論には説得力を感じます。人間は本来的に「他者に対する価値観の強要」をしてしまう強い傾向を持った存在ですから、ドーキンスのような主張が絶えず出てくる(「他者に対する価値観の強要」の出現に対するコストの支払いがなされている)ということは、人間の本来的な傾向を暴力や洗脳で抑えつけてはいないし、野放しにもしていない健全な社会である──という見方さえできるかも知れません。

>>77の次郎さんと>>84のGBさんの指摘については、強い違和感がありますが、感情的な印象論を述べてしまう前にもっと肯定的に検討する必要があると思うので、もうしばらく判断保留にさせて下さい。

ところで、議論の本筋とはまったく関係ないのですが……、
「否定神学」については、かつて少し勉強したことがあるのですけど、私にとってはとても難解で、かろうじて文意を汲めた僅かな部分から推察するに、否定神学とは「オレの考えた“神”表現が一番優れている」「ボクの表現で述べられた“神”が一番すごい“神”だ」とレトリックを競い合う品評会のようなもので(モーセス・マイモニデスの「“神は存在しているもの”と言わないで“神は存在していないものではない”と言えば誰にも論破されないんじゃね?」とか)、それでも、ディオニュシオスに始まりトマス・アクィナスを経てクザーヌスまで、どの「神」表現も、「(あらゆるすべての)第一原因(としての神)」をキーワードに、「被造物」「有限者」との対比が強調されていますから、これはまさにドーキンスが批判対象とした神定義(>>107:カクレクマノミさんのコメント参照)に抵触することは、まず間違いないと思います。
というか、『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、>>112で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(>>98)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。
もちろん、(特に否定神学については)私のいい加減な解釈を鵜呑みにされるととても困るので、詳しい方がいらっしゃれば、誤解のないように正していただけると助かります。

128後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:01:56 ID:FvvOuBrA
>>110:AH1さん
>壁は意外と薄いのではないかと書いた理由の一つは、「引けと要求する時の自戒」が常に必要であり、では宗教でなければ皆(自分も含めて)、理性的でタダシイ判断ができるのかと言えば、それを期待するのはどうかな?という漠然とした不安があるからです。

「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。
「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会は、持っていない人・社会に比べて、壁を超えてしまう可能性が小さいとは言えない」という主張ならば、まったく同意しかねます。
「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、>>2の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。

>>110:AH1さん
>すると、なんとなく私の頭の中では、道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景が浮かぶのです(後略)

もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう(よく分からないですが、地下に眠るMさんは特にそういう社会を恐れているように感じます。単なる私個人の印象ですけど)。

一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(各個人はさまざまな言説や事象に触れるたびに自分の立ち位置を揺さぶられるでしょうが)きっと全体としては偏差の大きいガウス分布のような形になるのでしょう。たぶん(望ましい社会ならば)極端にどちらかの端に分布が偏ることはないでしょうし、稀に(>>7で地下に眠るMさんが引用したように)プラトーンのような人間がまったく新たな視点・価値観を社会に投げかけるようなことがあったとしても、多くの人がそれに説得力を感じれば分布は大きく変化するでしょうが、それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。

で、改めて強調しておきたいのですが、私は(たぶんドーキンスも)、すべての人を数直線上の(誰かが「理想的」と考えるような)一点に集めるべきだと主張しているわけではない──ということを何度も何度も繰り返しています。むしろ、そうしたがる傾向(を助長するモノ)を強く非難しているわけです。どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。

余談ですけど、そのような社会では、当然、対立や衝突は起こるでしょう。日常茶飯事と言っていいかも知れません。でも、どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。あとは、>>6の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。

129後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:05:47 ID:FvvOuBrA
>>110:AH1さん
>これは考え過ぎかもしれませんが、「いや、オレは境界をはっきりさせろって言ってるだけだ、何も越権はしてない」と言いながら宗教を「保護区」に追い込み、最後は消滅させようとしているように感じてしまうことがあるんです。

これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。

もしもドーキンスの言説に多くの人々が説得力を感じれば、結果的に「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅」するようなこともあるかも知れません(>>3で再掲されたコメント(2007/11/07 20:49)の最後の段落や、>>49のカクレクマノミさんへの返信を参照)。
でも、そうならなければ、ドーキンスも私も、自分の言説には十分な説得力がなかったと思うだけで、間違っても、ヒトラーやオウム真理教などがそうしてきたように腕力で分からせてやるなどとは微塵も考えていないし、これからも考えることはないというのは明らかでしょう(『神は妄想である』412頁などを参照)。

それなのに、「宗教を“保護区”に追い込み、最後は消滅させようとしている」ような強迫観念を感じるのであれば、ドーキンスの主張にはとても強い説得力があり、それに対する「宗教」の反論にはその程度の説得力しかないと感じている──ということなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。

いずれにせよ、「“宗教”者が危機感を覚えるかも知れないから、“宗教”批判は差し控えたほうが良い」という見解はもっとも強く非難されるべきものだと、私は考えます。嫌悪感さえ覚えます。
「分煙主義者か煙草撲滅論者かに関わらず、煙草の害について述べると、愛煙家が“煙草を絶滅させるつもりか!”と感じて怒り出すといけないから、煙草の有害性を主張するのは控えるべきだ」という見解に、AH1さんは賛同されますか?

私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。
私は、誰であれ、宗教を非難しようとする際には(宗教に限りませんが)、煙草の有害性を指摘するときに煙草や喫煙者に対して通常配慮する以上の気兼ねを感じることがないような社会になって欲しいと願っているわけで(>>102など参照)、それはドーキンスも同じだと思っています(『神は妄想である』36頁、46-47頁など)。

>>84でGBさんが「もし、私が自分の文化、特に無意識の領域を否定されれば、私には感情的な反発が起こるでしょう」と書いています。私も自分の文化や無意識の領域を「非難」されれば感情的な反発が起こりますが、それを言動に移す前に「その非難は正当なものか」と考える理性を持ち合わせている(または「持ち合わせたいなぁ」)と思っています。GBさんは「だから、他人の文化、特に無意識の領域を批判すべきではない」という主張をしたいわけではないと思いますが、もしそういう考えを持った人がいるのならば、私はそれに断固として反論します(私は「反宗教-原理主義者」と言われるのは正直抵抗がありますが、この主張について「原理主義者」と言われるのは構いません)。

批判する側の礼儀の問題はたしかに存在し、それは別に論じる必要があるとても大きな問題です(今の日本ではこちらのほうが重大な問題かも知れません)。でも、これも何度も何度も書いているように(>>102とか)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。そして、その点において、私は(たぶんドーキンスも)十分に「宗教」に対して礼儀を尽くしているつもりです(この点について異論があるのは承知していますが、そういう人は、私が非難してきた点をどう言い換えればより礼儀にかなった穏当な非難になるのか、ぜひとも教えて頂きたいと思います)。

130後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:12:49 ID:FvvOuBrA
>>111:GBさんへ。
まず、私が書いていない文章を、私が書いたかのように引用されるのは、あまり気分のいいものではありません。GBさんによる要約なのなら、そう分かるように書くのが礼儀ではないでしょうか。
実際に私が書いた文章は以下の通りです。
>>49:後悔と懺悔
>(2)「重要な問い」への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(人類の歴史上、事実の問題として、それを妨げている最大の要因は「宗教」であるようにさえ思われる)。この点については、『神は妄想である』第6〜7章で徹底的批判的に議論されている。

>>111:GBさん
>さらに、倫理・道徳等の問題も、「科学」で説明できる(はずだ)と
>言っているように聞こえます。

絶対に勘違いしてはいけないのは(>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論、および、このスレッドの最初のほうの「重要な問い」に関する議論の通り)、倫理や道徳の「正しさ」や「人が生きる価値や意味」といったことが「科学」で説明できるはずだ──とは誰も主張していないということです。そんな馬鹿なことは決して誰も(私が少しでもまともだと思う人間は誰一人)言っていません。ドーキンスも『神は妄想である』89頁でそう述べていますし『利己的な遺伝子』では繰り返しそのことを強調しています。
ただし、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といった話題が「科学」で説明できないと考える理由はないように(私には)思えます。そういうことを研究するのは、「我々が犯しうる過ち(>>91などを参照)」を知る上で大変有益なことだと考えます。私は詳しく知らなかったのですけど、進化心理学という学問分野もあるそうですね。

>>111:GBさん
>そして人の起原にも直接関わる文化が、地球上のどこであっても色濃く「宗教」を含むのは、なぜなのか。

その点については、まさに『神は妄想である』第5〜6章などで直接的に徹底的批判的に議論されているように、私には思えるのですけど……。GBさんが>>111で述べている疑問はすべてそこで明確に取り上げられているように私には思えるので、いったい具体的にどの部分が不満で「しかし、ドーキンスはこの重要な問いに対して、まるで、と言って良いほど答えていない、と思います」と言っているのか、私にはまったく分かりません(このスレッドでのGBさんのコメントを拝見する限り、GBさんは『神は妄想である』は既読のようですし……)。
そもそも、「文化」とか「宗教」とかを論じるには、(上にも書いたように)その前に「人間」そのものについての徹底的な洞察が必要なのではないでしょうか。
ちなみに、ある特定の「文化」が支配的なミームプールのなかで、どのような「宗教」ミームの生存価が高いか、また逆に、ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、どのような「文化」ミームの生存価が高いのか──といった話題は興味深いかも知れません(ある特定の「宗教」が支配的なミームプールのなかで、『「“正しさ”を独占するモノ」は危険だという自戒を持つべきである』という「文化」ミームはどの程度の生存価をもちうるか──とか)。でも、誰でも(私でさえ)思い浮かぶようなテーマですので、きっともうすでに誰かが研究しているのでしょう。

>>111:GBさん
>でも一言だけ、「時代精神」の「進歩」について、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」という、
>実は自己の文化圏内では一定の説得力を持つにしても、そこだけにしか通用しない思い込みであるとするなら…

具体的に言ってもらわないと何が言いたいのか分かりません。たとえば仏教にしても守るべき教義なり価値観なりは持っているわけで、「戒や律はもっと緩和されてもいいのではないか」といった素朴な感情に対して、「それを妨げている最大の要因が宗教だ」と言うことはそれほど荒唐無稽なことではないでしょう。でも、GBさんはそんなことを問題にしたいわけではないですよね。

131後悔と懺悔:2007/12/17(月) 02:22:05 ID:FvvOuBrA
自分は新参者ですし、感情的になりやすく偏見にとらわれやすい無知で浅はかな人間なので、論者としての信頼を得るのは簡単ではないだろうということは初めから理解しているつもりでした。だからこそ、ここでは、>>18で議論に臨む自らの態度を宣言し(すでに破ってますが……)、勧められた書籍はちゃんと購入して読み(>>52)、>>91では自分に対してどのような自戒を課しているのかを明言してきました。そして、「理性的たらんと欲するのであれば、「敵」に対するよりも「味方」「身内」に対してより批判の矢を向けるべき(>>59:地下に眠るMさん)」という態度で、皆さんのコメントをじっくりと時間をかけて検討し自分なりに咀嚼するよう努めてきたつもりです。
しかし、どうやらそれは私の自己満足以外のなにものでもなく、実際には口先だけでまったく実行できておらず、私は未だ多くの方々から信頼に値する論者として見られていない──と認めざるを得ません。

>>106:chochonmageさん
>無宗教を擁護する人間は、「無宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。

あるに決まっています。『神は妄想である』第6, 10章は、その点についての弁明および擁護ですし、この議論の初期に、私が盛んに「人類は“宗教”なしで“重要な問い”にどう向き合えるのか」といった問題提起を繰り返していたのは、「無宗教」者としての最低限の責任だと思ったからです。すべての「無宗教」者がそういう責任を感じているとは言いませんけど、(ドーキンスや私を含めた)多くの人が、様々な場所・機会を利用して、「感じるべきだ」と主張しているのは認めてもらっても不当ではないと思うのですけど……(「“無宗教”者として」という看板では言っていないと思いますが)。
ところで、>>102に書いた他の「宗教」批判についても「無宗教」者は「ダブスタ」ではないか? と、皆さんがなぜ主張しないのか、私にはとても不思議です。
──それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、>>105の私の弁解は信用に値せず、私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。

>>108:NANさん
>その議論とはネットの議論ですか?

私の一連のコメントは、どう考えても「極端な事例ばかりを見て「宗教者はバカばかりだ」と評価」している「浅はかに過ぎる」人間と疑われても仕方がない──ということなのでしょう(なお、正直に言えば、恥ずかしながら、私自身はネット上での「宗教」擁護者の議論にはほとんど接したことがありません)。そして、NANさんが述べられているような一連の主張についても、私はまったく思いを巡らせたことなどなく、素朴で幼稚な感情論を何ら思慮思索することなく無根拠のまま垂れ流していると判断されたのでしょう。もちろん否定はできません。
NANさんには、ぜひとも、そんな偏見に満ちた浅はかに過ぎる私に、「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします(NANさんは仏教思想に造詣が深いようですので、あらかじめ断っておきますが、私はこの点について鈴木大拙を全面的に否定するつもりはありませんし、仏教についてだけ問うているのでもありません)。

──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。

132chochonmage:2007/12/17(月) 08:18:29 ID:vUxNW.gI
後悔と懺悔様

>それはともかく、chochonmageさんはきっと、私のこれまでのコメントの内容と態度から推し量るに、地下に眠るMさんの
>「チミは自分の発言がドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」という見解が妥当であり、>>105の私の弁解は信用に値せず、
>私はこの点に対しまったく無自覚に「“宗教”を擁護する人間には、“宗教”という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか」という
>主張をしたと判断されたのでしょうし、その判断はおそらく正しいのでしょう。

私は上記のように判断していません。少々無思慮に>>106の書き込みをしてしまったようです。
申し訳ありません。

>どこがどう「ドーキンスひいきの引き倒しダブスタ」になっているのか、もう少し分かるようにご説明頂ければ幸いです。
という後悔と懺悔さんの発言に対して単に猫さんのロジックについて私なりの理解を書き込みしてしまったということで、
少々脊髄反応的でした。重ねてごめんなさい。

ただ、後悔と懺悔さんの「“宗教”を擁護する人間」というくくりが私にはあまり適当でなく思えるということはありました。
言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。
それで、そのくくりの「甘さ」が猫さんに反論をポンと返されるような原因になったように思え(スターリンやポルポトの所業がドーキンスや後悔と懺悔さんに直接責任があろうわけはありません。)
というわけで、>>106の私の発言はどちらかというと後悔と懺悔さん側に立ったものであったつもりです。

最初から申し上げておりますが、私は全面的に同意かどうかは別として、後悔と懺悔さんと似たような場所に立っていると思います。(そちらからは迷惑だと言われるかもしれませんが。笑)
それから、私もまたこちらでは「新参者」ですし、こちらにいらっしゃる素晴らしき(恐るべき?)論者の皆さんのレベルにはとうてい及びません。
科学好きを自認しながらもニュートン力学でさえちゃんと理解できていないナサケ無い人間であります。(そういえば、後悔と懺悔さんは理科教員でいらしたそうで。機会があったらちょっと教えていただけませんか。)
後悔と懺悔さんは少なくとも私よりは優れた論者です。

>──いずれにせよ、私がここで議論に参加するには、今一度、自分の議論に臨む態度や姿勢をよく自省する必要が迫られているように感じました。
>これまで、不十分・不誠実な態度・姿勢で議論に参加していたことを、これらの方々に謝罪します。
などとあまり思う必要があるとは私には思えません。

133AH1:2007/12/18(火) 13:25:58 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
ちょっとまとまった時間がとれないので細切れで失礼します
>>128
>「“正しさ”を独占するモノは危険だという自戒・ブレーキ・ファイルセーフ機構を持った人・社会でも、壁を超えてしまう恐れがないわけではない」という主張ならば完全に同意します。

はい,こちらの意味です.ただし,「恐れがないわけではない」の部分を,私の方が強く言っているのではないかと推測します.

>「(前略)それを期待するのはどうかな?」という当然の疑問に関しては、私は、>>2の最初の書き込みから、ずっと何度も何度もその点について考察・擁護し続けています。どの点が検討不足だったり見落としていたりするのか、具体的に指摘していただければと思います。なお、私はこれらの考察にとても強い説得力を感じていて、不安はほとんどありません。

あくまで自戒を込めて・・の話です.

ただ,もう一つ,後悔と懺悔さんが触れておられないように思われる問題を提起していて,それは
「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.
極端な例え話をしましょう.
「隣人愛」を掲げる思想Aと,掲げない思想Bが隣り合わせたとしましょう.BはAをぶん殴ります.では,AはBを隣人とみなして愛するべきか?それとも,「あいつらは隣人愛を理解しない奴らだから隣人とみなす必要はない」とするべきでしょうか.
前者は非常に苦労が多い・・・というかタカ派の侵入を許したハト派状態です.後者はタカ派の侵入を許しませんが,「お前らの隣人ってのは要するに内輪のことだけかい」という誹りを甘んじて受ける覚悟がいるでしょう.

もちろん,Bが好き放題に殴って回ることを許せと言っているわけではありませんよ.この議論に即して言うならば,宗教の無茶な要求に対して,相手が宗教だからと言って甘い顔をしろと言っているわけでは全くありません.第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.私もその姿勢には賛成です.
ただし,このサイトが創造科学とは対立しても創造論と対立しないのは(この事は何度も強調されています)「科学にわからない事はいっぱいあって,そのわからない事について科学は何かを保証することはできない」からでしょう.単に,「科学でわかる事について,科学的に妥当かどうかは言える」というだけです.基本的に,私の宗教に対するスタンスもそんな所です.また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.
つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.
もちろん,「お地蔵様の御利益でガンが治った!医者に行くよりお地蔵様を拝め!」と言い出せば「コラちょっと待てや」と言うでしょう.

134AH1:2007/12/18(火) 13:40:56 ID:fKqeZx4M
追記
『「恐れがないわけではない」の部分』に関して,「どこに漠然とした不安を感じるかというと,多分,この辺です.

>>2
>私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。

確かにそうかもしれない.宗教の種類・有無を問わず,親切や同情といった美徳はヒトに共通性が高いように思えます.
一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.
「宗教がなければ不道徳になる」などという主張は「アホか」の一言で済ませますし,「宗教がなければ道徳を失ってしまいそうだ」と言う人がいれば「しっかりせんかい」と言うでしょうけどね.

135次郎:2007/12/18(火) 13:41:23 ID:D2PZoWjk
ドーキンスが宗教にせよ科学にせよ人間理性にせよ、どの陣営に対しても正しさの独占を認めていないという事になると、当然ドーキンスは多様な価値(正しさ)が共存した社会というものを志向しているはずですよね。

で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

「自分の価値観が一番だ」と思うのは自然ですし、他者に「自分の価値観が如何に正しいか」というのを説くのも、相手が聞きたくないと言わない限りは特に問題ないでしょう。
でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

アマゾンの書評などを見ても、やはりドーキンスは宗教撲滅を啓蒙する書を書いたとしか私には思えません。

そしてやはり今回のドーキンスの行動(著作)は程度の差こそあれ、「今のメリケンの馬鹿クリ((C)地下猫氏)」の主張の裏返し、反動のように思えます。

136PDX.:2007/12/18(火) 15:34:20 ID:???
>アマゾンの書評など

 実際に本を読んだ上で書いた人がどれくらいいるんだろう?とか思ったり。

137次郎:2007/12/18(火) 15:50:05 ID:D2PZoWjk
>>127
>私が特に興味深いのは、仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

詳しくはないのですが、日本の信仰の中心は現在でも祖先崇拝なんでしょう。神道は氏神(祖先神)が中心ですし、お寺に「先祖代々のお墓」がありますよね。
先祖代々の墓なんてえのは原始仏教から考えたら????が27億6千万個位付く代物ですし。

たぶん日本は外来宗教が入りにくいのじゃないでしょうか。お隣韓国でのクリスチャンの率(30%弱)を考えると、日本の1%という数字の異常さが際立ちます。
仏教だけは国策として導入された経緯があり、また江戸時代のキリシタン禁令の時に国民全員が所属寺を持つことが強制された(宗門人別制度)結果、檀家制度が生まれ、それが現在まで受け継がれているので広く普及しているように見えるだけに思えます(僧侶の実情は仏教というより祖先祭祀と特に葬儀を司る職業になっているように思います)。

そういった強制的な普及の結果、住民に受け容れられる形(祖先崇拝教への変化)に成らざるを得なかったのでしょう。平たく言えば檀家がお金出してくれないと干上がるから、檀家が望むような形に変化したという事でしょうかね。

琉球王朝ではこのような檀家制度はなかったため、現在も仏教信者数は他県と比べて少ないようです。

まあ、横にそれすぎなんでこの位にしておきます。

それと、>>77の指摘ですが、巨人ファンとアンチ巨人ファンの例で考えると言わんとしている事がわかりやすいかもしれません。
巨人ファンとアンチ巨人ファンは、巨人に興味があるという点で同類です。好きの反対は嫌いというのが普通なのですが、本当は好きの反対は興味がないなのではないでしょうか。アンチ巨人は巨人を口汚く罵りますが、巨人の興味がない人はそもそも巨人の事を語らないでしょう。

後悔と懺悔さんがアンチなのかどうかは本当は分からないのですが、感覚的にそうであるように感じました。あくまで感覚の話しなんで、その程度と思って下さい。

138NAN:2007/12/18(火) 18:17:12 ID:???
>>131 その他:後悔と懺悔さん

あなたに対して私が批判的である主旨とは、宗教者vs無宗教者のような「枠」に基づいた議論そのものがナンセンスではないのか?という”私の”主観(もしくは基本的な考え方とかライフスタイル)に基づいてのものです。これに対し、

>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。
たとえば私は「創造論者」と「創造科学論者」はきちんと区別しなければならない、と考えています。ですのでこのサイトにおいても創造論者とおおまかにくくった批判に対しては「それは大雑把過ぎないか?」と時折クレームをつけます。それが「宗教者」となると、たとえ前書きや注釈、その他の章立ての中でいくら断りをいれたとしても「失礼で浅はかに過ぎる」と私には見えます。
#ちなみに信仰者である知人が自らの過ちや自戒について述べる機会に接したことなどいくらでもありますが、なにしろリアルな会話ですので記録やソースを提示することはできません。
#ネット上の知人にも、自らがクリスチャンだけど研究機関に於いて古生物学の学術研究に従事している者がいます。しかしここに彼を引き吊り出すことが得策であるとは思えません。

>>129

>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、その危惧を解消しておきたいわけです。

その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。
私はあなたの発言に批判的であるけれど、あなたの発言を禁止しないし、できない。それはほかの誰も同じことで、ある主張に対して別の主張の存在は常に許されています。すでに実現されているものに対して「危惧」を感じ、より上位の影響力を望む行為は、なんらかの「強制力の発動を欲しているのではないのか?」と思われるに値する、と私は考えます。

もちろん私も、原理主義者によるテロや、カルトによるマインドコントロール、集金装置と化した布教や集会、利権構造や政治的圧力団体へと変容している宗教団体について「個別の批判、時には強制力」は、あって然るべきだ、と考えています。しかしそれが「宗教者への無差別な批判(たとえどこかで断りを入れていても)」となると、配慮に欠けるだろうと思うのです。


>)、「宗教」を批判するのに、他人の家族や食事の好みを批判するとき以上の礼儀を要求するのは間違っていると、私は思います(この件について納得行く反論は寡聞にして知りません)。

これも同様です。私は宗教行為を個別に批判する際、まったく遠慮などしません。私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。私はこれまでも個別の信仰者に対し激しい批判や時には暴言さえ撒き散らしているけれど、相手の存在を否定したりはしていません。増してや「宗教」という大きなくくりで自分と他人を峻別したりしません。それで私は憎まれたり疎ましがられたりするだろうけれど、それも私が自由意思のもとに選んだ行動の結果であり、それを受け容れています。

まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。確かに宗教者そのものはいます。ほとんど大部分の日本人が法事に参加し、結婚式に出ています。もうそれだけでその人たちは「宗教者」なのではありませんか?違うというならそれも拒否すべきです。

あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

139NAN:2007/12/18(火) 18:17:45 ID:???
さて、これはついでなのですが…
>>127
>仏教は元々厳しい戒や律など、独自の価値体系を持っているはずですが、なぜ現代では「住民の価値観と齟齬がない」ような状態になっているのかということです。どちらがどちらに擦り寄ったのか私は知りませんが、詳しい方はぜひ教えて頂きたいと思います。

どこの巨大宗教も同じでしょうが、「仏教」とくくってもあまりにバリエーションが多すぎてもはやなにが仏教なのかさっぱり分からないというのが現状ではないでしょうか。少なくとも私が仏教と「呼びたい」宗派は我が国に存在しないように思います。
#このコメントについて詳しく書くと物凄い長文になるので、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」などを参考にしてください。

とにもかくも、私は「宗教」が民間に伝承し広まりやがて国や地域そのものを覆うまでに繁栄していく過程における、無残な世俗化(スノビズムの過程)にこそ注目します。象徴や偶像を否定していたはずの経典から、まるっきりそれが抜け落ちてしまったかのようになにかを拝み、念仏を唱える。そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです。

要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

140NAN:2007/12/18(火) 18:44:59 ID:???
ああ、そうか!とポンと手を打ちつつ…
#「分かったぞ!」とか「そうだったのか!」などと日常的に繰り返すヒトは心が病んでいたりあっちの世界にイっちゃっている可能性が高い。もちろん私もそうだ!

>>「宗教」擁護者が「宗教」そのものに突きつけられたこれらの批判に真摯に答えている例を教えて頂きたくお願いします。

「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w
私はどこの信者でもなく入信せず洗礼も受けず神を信じず来世もなく転生もないと考えているが、仏陀の思想や初期キリスト教には強い興味を覚え文献を漁り、時に僧侶や坊主と同席すれば宗教について長々と論じ、空(くう)や色について思いを馳せ、イン・ヤン模様や曼荼羅をデザインするのが好きで、気が向くと寺院や社殿で写真を撮りそれを3dsMAXでモデリングしたり禅宗用の長い数珠がファッションとしてステキなのではないか、とさえ考えている。

つまり私はどこから見ても「信者」ではないけれど「宗教者」ではあるのかも知れない、と思う。いや、時々自覚するのだけれど再び自覚させられてしまった。恐らく…多分、webに転がる真摯な宗教研究者たちのソースも後悔と懺悔さんが望む「批判に対する真摯な態度」ではないだろうか?

141地下に眠るM:2007/12/18(火) 23:47:31 ID:Ja2I4.Nc
>>127
>『神は妄想である』ではトマス・アクィナス(や否定神学の主張)に詳しく言及していますし(第3章)、>>112で地下に眠るMさんが紹介された三位一体の問題にも触れていますから(54頁以下)、「ドーキンス大先生は、こうした否定神学の神概念すらちゃんと考慮されているのですかにゃ?(>>98)」という疑問に対しては、「十分考慮されている」と答えても許されると思います。

おっけー
それでは仕方にゃーのでカネを出して「神は妄想である」を手に入れ、目を通しますにゃ。
というわけで、今までの発言はいったん留保させていただきますにゃ。

図書館に みすず書房「社会生物学論争史-----誰もが真理を擁護していた----」上下2分冊があって、喜んで借りてきて読み始めたところなんだけどにゃ(すごくおもちろい)。
しかしまあ、自分の発言には拘束されざるをえにゃーので、届いたら優先してそっちを眺めるにゃ。

142カクレクマノミ:2007/12/18(火) 23:51:14 ID:THRtI5kM
少し援護射撃を。

NANさん
>と返されても、宗教擁護者というものが何者なのか?それこそ虚像に過ぎないと私は考えているのでお答えのしようがありません。

今回の文脈で、「宗教擁護者」なる語が定義できるかどうかは本質的な問題でしょうか?
ドーキンスは宗教に対して批判的に問題提起をしているのですから、それに対して答える人は必然的に、少なくともその点においては宗教擁護者と呼べるでしょう。
もちろん、その点については宗教を擁護するが他の点に関して批判するという態度もありうるので、NANさんの主張は一応妥当ではありますが、しかし瑣末な問題にしか見えません。

誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。
もちろんNANさんによる解答でもかまいませんし、WEB上に転がっているならそのうちいくつかを紹介してもらってかまわないでしょう。

143地下に眠るM:2007/12/19(水) 00:34:21 ID:Ja2I4.Nc
>>106
>スターリン、ポルポトの虐殺は、「無神論者」の行ったことに間違いなく、また
>無神論を含む共産主義思想が背景にあったこともまた間違いないとは思いますが、
>「無宗教の名のもと」は少々違うと思うのです。かつて「宗教の名のもと」に行われた
>様々な蛮行は「宗教の教義」そのものに負うところが大だったの思うのですが、
>私が調べた限りでは、スターリン、ポルポトについては「無宗教思想」そのものが虐殺のバックボーンであった
>とは考えられません。いかがでしょうか。

これは答えられるので答えておきますにゃ。
スターリン、ポルポトなどの無神論的全体主義が独裁体制をしいた場合、信仰者が優先的にぶち殺されていることはよく知られていますにゃ。

ウィキの「無神論」の記述から引用すると
*****************************
逆に無神論が政権を握った場合、キリスト教徒やイスラム教徒を初めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。マルクス・レーニン主義の狂信者は虐殺も含む手段で宗教を弾圧した。宗教を無教養で非合理的と決め付けた彼等は、その信者に対しても何ら価値を認めなかった。

中略

無神論者が政権を握り、無神論を公式のドグマとした場合、宗教を信じているものは極めて厳しい迫害を受けてきた。社会主義統治下での教会などは時に虐殺なども含んだ弾圧を受けたことが知られている。しかし無神論者の中にはリチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。
*****************************
ちょっと興奮した記述なので、いまいち信頼感がにゃーけどな。
ところで「リチャード・ドーキンスなどのように宗教などは何の価値もないものであり、弾圧されて当然であるとこれを正当化する向きもある。」って出典が欲しいところだにゃ。

例えば日本史上でもっとも戦闘的な無神論者というと織田信長にゃんが、信長が宗教者ぶち殺しまくりであったことは歴史的事実だよにゃ。ロベスピエールの理性信仰というのも宗教弾圧だったしにゃー。

たいていの政治的言説というのは、統治の倫理的正当性というものを必要とするものですにゃ。倫理的な正しさを具備しにゃーものには統治ができにゃーからね。無宗教を看板にするものは、自らが無宗教・無神論であることをもって倫理的な正当性と見なすわけにゃんな。
「宗教はアヘンである」のであれば、アヘンを撲滅するのは政治倫理的に必要にゃんね。

キョーサン主義の政治倫理的自己規定というのは、自らは無神論であるがゆえにキリスト教道徳より優位であるというものなんだから、キョーサン主義のしでかしたことはすべからく無神論の名の下に行われたという論法は詭弁とはいえにゃーですよ。ちなみに、キリスト教徒は数百年間かけて数億ぶち殺しているといわれているけど、キョーサン主義も20世紀だけで億単位で虐殺しているという話もありますにゃ。まあ、このあたりの数字はいくらでも突っ込みようはあるけどね。


それと>>125
あえていえば8と12。(11と答えればよかったかい?)
宗教はね、手強いんだにゃ。だから、科学主義をこそ警戒しなければならにゃー。

(だいたいね、社会生物学論争においては、僕はウィルソンやドーキンスに肩入れするにゃんぜ)

144NAN:2007/12/19(水) 11:55:57 ID:???
>>142:カクレクマノミさん

>誰によるものであろうと、ドーキンスの批判に対する真摯な解答があるかないかが、目下の問題でしょう。その人が他の点で宗教擁護者と言えるかどうかは、ここでは関係ありません。

???
ドーキンスの批判に「見えない宗教擁護者」が真摯に答える要請はどのように生まれるのかな?もしかしたら、たとえば私がここで議論しているような「姿勢とかやり方」がそういうものなのではありませんか?とすでに書いていますよね。それで不満なのでしたら私は読みたくもない本を無理やり読まされ、それについての読書感想文をwebに掲載する義務があるということですが、その義務はどのように生じるのでしょう。当初から私はここが「書評スレ限定」であるなら辞退するけれど、あくまでここに書かれた内容について触発されるものがあったので書く、と宣言しています。
#ちなみに私も書店で該当の書籍をチェックしましたが、最初の数ページを読んだところで、所有している「悪魔に仕える牧師」などに見られる「いつものアレか」と思い、買いませんでした。しつこいな、と思ったからです。

もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

以前から私は「既存のまともな宗教者による信仰の自由は守られるべきだ」と考えていますし、無思慮な「創造論者」というくくりにクレームをつけ続けています。つまり私は「気まぐれで宗教擁護者を気取っている」わけではなく、首尾一貫して宗教を擁護する主張も繰り返していますが、議論におけるルールや科学的方法論を尊重することも忘れたつもりはありません。また、行間に「言いようのない怒りや憤懣」を挟みながら主張するドーキンスによる宗教批判に比べて、冷静な態度で説得力を持つのはカール・セーガンであろう、とも考えています。

145NAN:2007/12/19(水) 11:56:56 ID:???
この「感想」の論拠は、たとえば「悪魔に仕える牧師」の3−5「立ち上がるべきとき」(p.273〜)より
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今こそ、知識人が、信仰をもつ人々に対して、立ち上がって「もう十分だ!」と叫ぶときだ。
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件の「9.1.1」について述べた序文であり、ドーキンスの怒りと憤りがよく伝わる名文です。一方で、狂信者によるテロを憎む心情に私は十分な理解と同調を持つことができますが、もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます。(私はこの事件についての陰謀説そのものは否定するけれど、米国による情報操作については確実にあったであろう、とも考えている)

またさらに、同書のp.261〜(偉大な収斂)からは

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そのあとで私は、時空の自発的な誕生を可能にした物理法則について尋ねた。「アーそれね」と、彼は微笑んで、「もう、科学の領域を超えてしまっているよ。ここは、われわれのよき友人である牧師たちに任せるしかないところだよ」と言った。しかし、なぜ牧師なのだ?なぜ庭師やシェフじゃいけないのだ。もちろん牧師たちは、シェフや庭師と違って、究極の問いについていくばくかの見識を持っていると主張する。しかし、彼らの主張を真面目に受け止めるべきどんな理由を私たちは与えられているというのだ?
---------------------

以後、アインシュタインやホーキングが持ち出す「神のレトリック」についての批判や、ドーキンスの主張の論理的正当性についてくどくどと続くのですが、他の章にある進化論のエッセイに比べて、これらの文章は、私をうんざりさせ、啓蒙主義に基づく正当性の押し付けにしか見えないものでした。たとえば、

---------------------
さて、天球のティーポットよりももっと確実に超越的存在が見つかるだろうという理由X,Y,Zがもし実際にあるとすれば、X,Y,Zは詳しく説明されるべきである。なぜなら、もしそれが本物であれば、その長所について評価を受けるべき適切な科学的論拠だからである。
---------------------(p.262)

にあるように、仮定につぐ仮定で問題を形式論理に置き換え、超越的存在(もしくは不可知であるもの)の想定さえ認めようとしない態度はどうだろう?と思います。いわゆるこれこそ「神の論理的証明と否定」というヤツではありませんか?こんなレトリック(いや、明らかに詭弁だと思う)が許されるならば、創造科学論者の正当性さえ私は再評価しなければならない、と思います。

146NAN:2007/12/19(水) 11:57:19 ID:???
ビッグバンについて、科学はドーキンスの友人である天文学者が云うほどには不可知であることを認めてはいないでしょう。コンマ数秒どころか限りなくゼロに近い領域に至る「宇宙開闢の瞬間」への科学的説明は私を心躍らせるものであるし、インフレーションがどのように置き、ゆらぎの存在がこれほど多様な宇宙の様相を作るに至る過程はまさに科学的です。その一方、われわれが「原理的に知ることが不可能である領域」を認めざるを得ないこともまた、自明であるはずです。これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地でいっている、ということ)

十分すぎるほどに私が能天気で楽観論者であるのなら、これらドーキンスの主張にもガンガン頷くでしょう。しかし現実はどうでしょうか。「宗教」という仮想敵国を想定するのは楽観論に過ぎる、と私はあらためて主張します。ジンルイがもしも宗教を持たなかったら、と想定することは可能だし、なるほどそうであるなら宗教問題に根ざす紛争も起きないでしょう。その代わり、非常に高い確率で別の思想的主義的「枠組み」によって起きる悲劇が必ず起きているだろう、とも云えます。これはおそらく生命の持つ本質的な「中と外、個体識別」という問題にまで還元できる、根源的な問題であると私は思っています。

一貫した私の疑義は「敵は本当に宗教なのか?」です。一部の宗教者がそうであることは間違いありませんが、そこ「だけ」をことさら主張することは、本当に大事な問題から目をそらし、スケープゴートを祭上げて満足している姿にしか私には見えません。なぜなら宗教を憎むことは非常に簡単であり、安易で、正当性を(ドーキンスがやるように)主張しやすいからです。先に述べたように、宗教を自由に批判することは、とっくにできています。必要があれば、私も遠慮なくやるでしょう。しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?ドーキンスの主張はそれらを混同しすぎているし、感情的で、安直な理想論に見えるのです。(長々と宗教を蔑視することの正当性を述べる書籍を読む気が起きない理由かな)

科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います。仮想敵国など想定する必要はありません。きちんとした検証や論拠の提示、第三者による主張の評価と批判の自由、それらを社会に定着させることこそが「見えない敵」を撃退する唯一の手段なのではないか?と私は思います。

147AH1:2007/12/19(水) 12:24:55 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>128
>>道の片側にカガク万能論者が、反対側に原理主義的宗教がいて、大声で罵りあいつつ演説をぶちかまして、回りではビラをくばっているという馬鹿馬鹿しい光景(後略)
>もし社会からそう見られるのであれば、その社会は(私にとって)望ましい社会なのでしょう。まさか、AH1さんは「大声で喚いている馬鹿が二匹」の存在が許されるような社会は良くない、そういう馬鹿が存在し得ない社会を目指すべきだ──と主張したいわけではないでしょう

「馬鹿」と書いたのは、「自分の主張だけが正しいと信じ、相手を封殺するためなら詭弁も恫喝も辞さない奴ら」という意味を込めています。ですから、存在しないことを望む、ではありませんが、望ましい状態とは思いません。
「相手が馬鹿なんだからこっちもやり返せ」という方法も、決して望ましいものとは思いません(実社会においてやらざるを得ない場合はあるでしょうが)。例えば対テロ、対ゲリラ戦を考えて下さい。やり放題のテロリストと、同じくやり放題の軍隊・・・例えばベルファスト・・・の光景が望ましいとは思いません。
私が理想とする「理性と自由意志を尊重する人」は、相手が原理主義バカであっても、自らが掲げる理性と自由意志の尊重を実践し、決して「科学原理主義バカ」にはならない人です。


>一方の端に「極端な宗教原理主義」があり、逆の端に「極端な反宗教-原理主義」があるような長い長い数直線があって、社会の構成員はそれぞれ自分の立ち位置にあたる場所に立つとすれば、(後略)

はい、私はまさに対立が先鋭化し、その数直線の両端に分布が偏る場合を「馬鹿が二匹」としました。

>それでも(望ましい社会ならば)ある1点に分布が収束したり、極端にどちらかの端に分布が偏ったりすることはないでしょうし、全体の分布が変化するにしてもそれなりの時間をかけてでしょう──あくまで「(私にとって)望ましい社会」であるならば……ですが。

恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。
もちろん、ポアソン分布のような分布型を考えれば、両端の最先端な辺りはゴリゴリでゴチゴチになるのは仕方ない、それをいわばパイロットシップとして、多数は中庸なあたりに分布すればよい・・という考えはあり得ますが。


>どのような価値観であれ言説であれ、批判の対象にならない・なりえないというのは、著しく不健全である──というのが、私の(たぶんドーキンスも)主張の根幹ですから。

もちろんです。批判すればよいと思います。私は「宗教に弱腰になれ」と言っているのではなく、「自分が相手に何を要求しているのか、相手が何を言っているのか、相手を批判する根拠はなにか」といった点を常に自戒を込めて自認しておく必要がある・・・ということを強調したいと思っています。
そして、「相手を批判する根拠」に関して、メタレベルで見た時に「自分が相手を批判する根拠もまた絶対のものではなく、大間違いかもしれない」という点を片時も忘れるわけにはいかないという事です。

>どんな対立にも衝突にも相手の人間がいるわけで、宗教とかイデオロギーとかいった得体の知れないモノを相手に、仮想的な対立や衝突を思い悩んだって仕方ないわけで、その場その場で当事者となっている人間同士が目の前にいる人間と向き合って、その場その場の解決をしていくような社会になっていくしかないでしょう。

全く同意します。これはNANさんも書いておられる事だと思うのですが、結局、個々の事例について「それをやっちゃ良くない」と判断するしかないのではないでしょうか。科学主義に基づくものであれ**教に基づくものであれ、同じく批判されるべきことだと考えます。

>あとは、>>6の最初の2つの段落に書いたとおりです。「宗教者」の美談と言われるものを見ていると、彼・彼女は、目の前の人を見ようとすることなく「神」を見て行動しているだけなのではないか──と思うことの多い私はたぶん身も心も「反宗教-原理主義者」なのでしょう。

これについても個々の事例およびその人の(社会の・時代の)価値観というものに大きく依存しますよね。ここでは一括りにすることは避けたいと思います。

148NAN:2007/12/19(水) 14:55:29 ID:???
瑣末な問題といえば最も瑣末な問題であると私が考える「ドーキンス評」を自発的にやっちまった反省として、このスレの「重要な問いかけ」に戻ろうと思います。なぜならいくら代弁しようとしてもドーキンスが本当はなにを考えているのかなど分からないし、翻訳の過程でさらに文章が曲解されている可能性もある。また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。

(1)宗教は道徳的価値観を独占的に扱えるのか?扱えるのであればその理由は?

道徳的価値観に限ったことではないけれど、倫理を判断するのは個人または個人の集合である社会であって、宗教は選択肢のひとつに過ぎない。また、もしもなにかが道徳的価値観を独占したりしようとしているのであれば、それは宗教というメタなガイネンではなく、個人または団体という特定の利権構造であろう。
で、この「ここでの議論」についてはなんだか水掛け論な雰囲気を読み取ります。宗教が道徳的価値観を独占しているとは思わないし、テーマそのものが「???」という雰囲気にさえ見える。

(2)ニンゲンは宗教なしに「重要な問い」に答えることはできないのか?

どこかの宗教に入信したりしなくても、そんなもん、いくらでもできるでしょ。当たり前じゃん。
しかし、仮に宗教者であろうと無宗教者であろうと、各地各文化における「宗教的な倫理価値の浸透」から逃れることもまた、恐らくはできないだろう。

しかしなぜこんな「当然のこと」が議論の対象となるのか?それはもちろんドーキンスが著書の中でそれを問題視しているからだろうけれど、宗教というメタなガイネンと宗教団体という特定利権を混同することは非常によろしくない、と私は思う。恐らく、議論上のすべての軋轢はこの混同によるものではないだろうか。そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、今は宗教よりも「情報」という単位でこれを行おうとしているものにこそキナ臭さが強い、と私は見ている。

(3)神は本当に必要なのか?

ぶっちゃけ「キリスト一神教」による神など、いらんでしょ。しかし、各人の心にあるだろう神は、必要でしょ。
そもそもこの議論をきちんとやるなら、ドーキンスの著書は捨てちまわないとできないだろう、というのが私の主張でもあるんだよね。だって、西洋的キリスト教的絶対論理というものから、私らニホンジンってのは基本的に縁遠いのだから。
まさに聖書ってのは武力行使に対しての正当性をくくりつけるために利用されてきた、権力者にとっての武器なのだから、有害であるのは歴史的事実なのです。しかし聖書に書かれていること、原点的な教えまでが有害なのだ、と論じ始めたらそれはキリスト教に対する迫害もしくは差別的見解になりますね。

149NAN:2007/12/19(水) 14:56:14 ID:???
(4)宗教は有害なものなのか?

イエス(笑。しかし、有益でもある。薬効と同じことではないのかな?
>>68:後悔と懺悔さん
>私は、まさに「自由主義神学」を標榜するミッションスクールを卒業しました。「自由主義神学者」たちは、そういった「宗教」に内在する危険を十分に知った上で、意識的にNOMA原理に忠実であろうと努めているように思えます(そして私はそう教わりました──正確に言うなら、学校側の意図はどうあれ私はそう受け止めました)。「意識的に」「努めて」いるんです。

すでに分かりきったことなのだけど、私は「宗教」というとき、キリスト教もしくはそれに付随する様々な宗派や思想を「ほんの一部」としか捉えない。一方、ドーキンス及び西洋諸国に住む人々、あるいは我が国に於いてもミッションスクールや教会に多大な影響力を受けている人たちと「宗教」というガイネンに大きな断絶が生まれることは自明なんだよね。その呪縛から逃れない限り、「神は妄想である」という書籍が大事なものに見えちまう妄想からも逃げられないんじゃないかなぁ。
#宗教批判することを躊躇してしまう性向を持つヒトにとって大事なものであるという意味。

ちょっと乱暴なまとめ方をすると、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。
#ローカル事象を一般化しているってことかな。

>>73:次郎さん

>フェイルセーフと言うのが何を指すのかが今ひとつ微妙なんですが、これが「他者に対する価値観の強要」を防ぐと言う意味であれば、仏教も神道も落第でしょう。単に現代日本の大部分では両者の価値観が住民の価値観と齟齬がないというだけじゃないでしょうか。

の指摘にあるように、仏教も神道も権力者の道具になった歴史を持つ。だけどそれさえも「宗教の性質」なのだ、ということにしてしまうと、問題の本質であるはずの「暴力や迫害との断絶」から離れた結論しか出てこないのではないか?というのが私の主張。それは権力者の性質であって利権の要求でもある。この意味において企業論理も国策もまったく同義のものではないか?と私は見ている。

(5)宗教はなくすべきものなのか?無宗教であることは奨励されるべきか?

各個の自由、としか云えない罠。
「宗教は害悪なのでなくすべき」という主張も「宗教は有益なので奨励すべき」という主張も「無宗教であることは中立なので奨励すべき」という主張も、どれもこれも「正しさの要請」であることに変わりがないでしょう。

あらためて書くけれど「宗教擁護者」というのは実態を持つ存在なのか?幻に過ぎないのではないか。なにか不安にとり憑かれた理性とやらが生み出した仮想の標的に過ぎないのではないか。私はそう思う。

個人的なことを敢えて書くと、先に挙げた「佐倉哲エッセイ集」をはじめとする私の周囲に点在する原始仏教に関する書籍とその内容は、私の倫理観の根底を成すものだし、これを捨て去ることが「良い=私にとって利益をもたらす」とは到底思えない。なぜならそれは私が同じように大事にしている科学的方法論とまったく矛盾することなく共存しているし、広義における信仰と云っても差し支えないだろう、とさえ思っている。だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する。

孤独に苦しむひとと向き合うとき、今まさに死と向き合い不安におののくひとと向き合うとき、確かに経典は必要ない。しかしそこで最大の苦慮の末に出てくるであろう言葉や行動に宗教的バックボーンや観念が皆無であることなどあるのだろうか?もしもそういうものは「宗教ではない」と述べるのであれば、それは詭弁だ。ありのままを受け容れることのできない不誠実な態度だ。そんな風に私は思っています。

150AH1:2007/12/19(水) 18:08:32 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん
>>129
>これは特に強調しておきたいところなのですけど、ドーキンスも私も、「宗教」に対して何らかの強制力を発動しようとか、すべきだとは一言も言っていないし、むしろそのことを強く否定しています。あくまで言論として人々に働きかけているだけです。これも何度も何度も繰り返し述べられていることであり、仮に武力や権力を用いた独善的で暴力的な「宗教弾圧」が行われるならば、ドーキンスも私も、それを非難するのは間違いのないことです。

うーん・・それはそうだと思うんですがね。
ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?
しつこく書きますが、科学的および合理的な判断をすべき場面はもちろん多々有ります。ただ、そうでない面について科学や合理性が万能であるかどうかは私には自信がなく、よって「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」とは言いにくいのですね。(たとえば道徳についても宗教抜きに代替可能であろう、と後悔と懺悔さんが述べておられます・・まあ、道徳的な部分は代替可能だろうとは思うんですがね。宗教によらず共通性が高い部分があるし)

そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

>私がここでコメントをしているほとんど唯一の目的は、「宗教に(宗教に限りませんが)非難すべき点があるならば、社会の一員の義務として非難すべきであり、それを躊躇ってはならない(躊躇わせるような社会であってはならない)」と訴えることです。

くり返しますがその点について同意しています。「この社会において無法者を野放しにする事はできない」と最初の頃に書いています。

また「宗教は正しさを独占しがちである」という前提そのものにちょっとした異論がありますが、NANさんが書いておられる事とかぶるので、今はちょっと省きます。

151AH1:2007/12/19(水) 18:57:57 ID:fKqeZx4M
後悔と懺悔さん、

>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。
について、こう言えばいいのかな。かなり失礼な書き方になるんですが・・


宗教を愛する人が、しかしその論理的帰結によって「・・・やはり宗教は存在できない」
と苦渋に満ちた判断するなら、私は危惧を感じません。
しかし、宗教の害を説く人が「いや、弾圧などする気はありません。価値の独占もしません」
と言いつつ、「でも宗教はなくなるかもね」と言ったら、
「・・・え?」
と思うんです。非常に失礼なことを書いているだろうと思うのですが、正直に言えばこういう『感覚』です。

152atheist:2007/12/19(水) 22:06:01 ID:PqsV.DF6
地下に眠るMさん、回答ありがとうございます。これで幾分スッキリしました。
なるほど、8と12ですか。7,8,9あたりだろうなと予想はしていたのですが。(10と11はもちろん冗談ですよ。)
時間がないので、この件に関する私の見解は、また後ほど。

153chochonmage:2007/12/20(木) 14:32:38 ID:vUxNW.gI
NAN様

はじめまして。chochonmageと申します。横レス失礼いたします。
こちらでのご活躍はよく存じ上げておりますし、NANさんの深い学識、ご理解にいつも感服させられるばかりです。
今回の幾つかの書き込みもとても深い内容で感銘を受けました。
特に「絶望」のくだりはなるほどなるほどと読ませていただき、私の自分なりの世界なり社会なりに対する理解を深める
のに大いに参考になりました。
また、本掲示板の皆様の意見を読むうち、細かいところで考えをまとめている間に自分がもともと何を言いたかったのか
よくわからなくなってしまっていたところがあるのですが(なんて頭悪いんでしょう)、NANさんの記述を拝読して私が本来言いたかったことがいくらかまとまってきました。感謝いたしますです。
その上で、少々意見を述べさせていただきたく思います。


>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

同意いたします。結局私が言いたかったのもこれでありました。

>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、
>この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

>また、米国の事情の中で語られるドーキンスの「宗教憎さ」に対して、
>私たちニホンジンは根本的なスタンスの違いを持つ。
>だからあくまで、私はこのスレッドの中にある「言葉」にだけ反応しようと思う。


私事で恐縮ですが、私は人生の半分近くを米国で暮らしています。そこで、「この日本において」とおっしゃるNANさんと
感覚の違いが当然生じるのですが、私にとってドーキンスの主張には現実的な実感があります。
「宗教者」「あるいは宗教の影響力」という存在も極めて身近なものです。

例えば、小学校三年になる息子が私の住所区域の公立小学校に通っているのですが、本年の9月11日に息子から
「God Bless America」、「My Father, God」なる文言を含む歌を歌わされたと聞かされ、大変にショックを受けました。
政教分離であるはずのこの国で(少なくとも建て前としては)公立校でかような歌をなんの説明もなしに判断力のいまだ養われてない子供に歌わせるとは何事じゃ!と早速担任の教師に文句をつけに行きました。
教師はそれらの歌はこの学校で開校以来歌われていること(実際には、米国のありとあらゆる公立校で歌われているようです。)、愛国心昂揚的かつ宗教的(はっきりとキリスト教的であること)を認めました。
私としては、人種の坩堝である米国で上記のような歌を選択するのは適当であるとは思えない旨主張し、担当教員は
私の意見にある程度同意しましたが、歌の変更は私が校長と掛け合うしかない、そして息子には2つの選択があると私に告げました。
その選択とは:

1.他の生徒と一緒に歌うが上記「宗教的」部分に関しては口をつぐんでいる。
2.歌うことを拒否し、歌が終了するまで学校の事務所で待機している。

まぁ、選択があるだけ某国のように国家を強制的に歌わされる状況よりましかと一瞬思いましたが、やはり私としては見過ごす
気持ちにはなれず、連れ合いとも相談のうえ校長に掛け合うつもりでいたのですが、何人かの米国人の友人たちの意見を求めたところ
「気持ちはわかるが絶対に学校は歌を変更しない。歌の選択はもっと上からの支持である。勝てない喧嘩はするな。
特にお前のような無神論者がどなりこむことによってお前の子供が不利益を蒙りかねない。」とのアドバイスを受け、泣く泣く交渉は取りやめました。

米国においては、「atheist」という言葉は大変にインパクトがあります。これは、ドーキンスも著書で指摘していることですが、
私の住んでいる地域ではまだしも、田舎に行けばほとんど人間扱いされないか、「まぁ可愛そうに」といった哀れみを受けるのが関の山かもしれません。
キリスト教に限らず「信仰を持っていない」と自ら述べる人間はかなり敵視され得ます。
「ヒューマニスト」という言葉でさえ、「神を第一義においていない」という意味合いがあるからあまり使うなとアドバイスされたこともあります。

てなわけで、もしNANさんが、日本以外も視野に入れた議論を今後なさってくれたら私としてはうれしく思います。
続きます。

154chochonmage:2007/12/20(木) 14:35:38 ID:vUxNW.gI
>そのために、宗教批判を躊躇わせかねない点はどんな小さなことであれ徹底的に議論し、
>その危惧を解消しておきたいわけです。(後悔と懺悔さんの発言)

>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり
>咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

されていないと思います。
悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。
こういう例もあります。ビデオをご参照ください。
The Price of Atheism
ttp://www.youtube.com/watch?v=sTRDRP2n4Sk
まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

この状況は、日本における〇皇タブーに似ているのではないかと思います。建て前として批判可能かもしれませんが、
公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?実例としては、「噂の真相」右翼襲撃事件が記憶に新しいところです。

「ドーキンス評」が瑣末かとか、なぜ宗教のみがピックアップされるのかとかもっと書きたいことがあるのですが、
眠いので今日はこれでごめんくださいませ。
乱文失礼いたしました。

155NAN:2007/12/20(木) 18:20:44 ID:???
>>153:chochonmageさん

初めまして、ご挨拶ありがとうございます。
ご指摘のとおり、私は西洋諸国、とりわけアメリカ国内の事情については少しも考慮していません。米国における宗教事情は、私が知る限りあまりに異常で、恐らくはこの日本と両極端の相似形になるのではないか?と考えるからです。件のドーキンスの本は、アメリカなど諸外国ではかなりのインパクトを持つであろうが、我が国においてはいささか見当はずれの書籍に見える(もしこの本がリチャード・ドーキンス以外の著者によるものであるなら、ここでこのような議論が起きたであろうか?という予見も含めて)現状についても指摘しておくべき、と考えていました。

恐らく、chochonmageさんが教えてくださったような事例が、かの国内では数多く、日常的に繰り返されているのでしょう。また「キリスト教」の影響も社会の隅々までに及び、特に言論・表現・研究分野で働く人々に対しては、時に深刻なストレスとなっているであろうことは想像に難くありません。(敢えて宗教とは書きません。それはキリスト教)
ドーキンスが犯した間違いは、なぜか「キリスト教の一部勢力もしくは特定できる教会に所属する会派の者たち」という標的の特定を行わず、あたかもすべての宗教が敵であるかのように問題を一般化してしまったことだ、と私は考えます。さらに「アメリカ社会のキリスト教問題における神は妄想である」くらいに事象を特定しておいてくれれば、私は興味深くその本を読んだ「かも」知れません。

さて、私も私事を書きます。
私が育った街には大きな寺社と神社があり、私はその神仏共同体が経営する幼稚園を卒園し、幼い頃から「オシャカサマ」とか「ナムカンゼーオンボサツ」みたいな言葉に触れていました。もしこのとき、私の両親がchochonmageさんのように政教分離に敏感で、子供の教育と宗教問題を厳密に捉えていたなら、そういう幼稚園に通わせることはなかったでしょう。
続いて、私は高校でとある私学に通いましたが、その学校は入学式を靖国神社で行うという素晴らしい(笑)校風を持つ学校でした。さらに私は専門学校にも通いましたが、この専門学校は母体が宗教法人であり、いわゆる神道系の新興宗教(それも”超”がつく拝金主義)に属する組織で、今ではさらに成長して某プロスポーツチームのオーナー企業と化していたり、我が地域では多大な影響力を誇る組織へと成長しています。我が国においても、かように宗教の影響はあるものです。しかし、少なくとも幼稚園以外でカリキュラムの中に宗教的な色合いが滲み出してくることはありませんでした。

我が国の国歌には誰もが知るように宗教的色合いがあります。恐らく、大半の国歌とはそういうものでしょう。私は国歌を拒否するほどに無宗教者であろう、と志したことがなく、君が代に対する嫌悪感もありません。育った街の神社も寺社も好きだし、靖国神社と政治家の問題に議論の必要はあるにしても、靖国神社そのものが「悪い」だとか「避けるべきもの」という感覚はありません。「和の思想」など持ち出すまでもなく、法事に出ては数珠を持ち、結婚式では「アーメン」と唱えている程度のことで不利益を蒙ったり表現活動における制限を受けたり迫害に合うという事態に(幸運にも?)遭遇しなかったので、場に合わせた態度でスルーしてきた、というのが正直なところです。

そんな私ですが、つい最近ひょんなことからとある宗教団体の勧誘を受けたことがあります。日蓮宗系のカルトでした。最初はそんな話に発展するとは分からず、真摯に(笑)話を聞いていたのですが、「実は…」と相手が本題に入ってからは「???」な雰囲気になり、最終的に「君とは二度と会わないし近寄らないように」と念を押すしかない状況へと発展してしまいました。ただし、それは私が無宗教者であろう、としたからではありません。むしろ、多少は宗教と経典を知る者として、あまりにも歪曲された教義や「予言」などが「許せない」と感じたからです。さらに「私はあなたをしあわせにしたい、と思っている」と云われたからには「自分をしあわせにできるのは自分の行いだけだ」と述べるしかありませんでした。

156NAN:2007/12/20(木) 18:21:14 ID:???
では、こうした事例は宗教による私への迫害でしょうか。そうとは思いません。カルト宗教が私に勧誘を仕掛けたことは迷惑な話でしたが、それは私が「彼」と人間関係を生じさせたがために起きた事例であり、もとはといえば私の不注意な人付き合いに端を発する、と考えます。つまり、私のせいです。なぜならカルト宗教はそういう勧誘をするものだ、と知っているのに、今から思えば明らかに勧誘を想起させる行動をとっていた彼の接近を許していたからです。この件について、私は該当する教団への批判をすぐに書き、某誌に掲載しました。しかし編集部の方針によって教団の固有名称を書くことはペケになり、私も合意したので「某カルト教団」と表現するにとどめました。

そこで、
>悪魔の詩事件は記憶に新しいところですし、上記米国人の私に対する警告「息子が不利益を蒙りかねない。」というような
米国社会状況は、田舎に行けば行くほど深刻です。

にお答えするなら、やはり問題は「個別事象」であり、一般化することは困難だ、と私は思います。その問題に苦難するひとは問題を少しでも一般化し、仲間を募り、共に戦おうみたいな意識を持つだろうと理解はできますが、それをやればやるほど事態は溝を深め、新たな迫害を生むだろう、と予想します。つまり「米国の田舎のキリスト教問題」なのです。(個別事象だから議論する必要はない、という意味ではありません。個別事象として議論すべき、ということです)

また、出版…つまり社会に対してある程度公的な影響力を持つ表現者が対象を批判する場合において、その対象がどの程度センシティブでネガティブなレスポンス(たとえば復讐行為)に及ぶだろうか?ということは、リスクとして計上し把握すべきであり、理想論や性善説に立った不用意な扇りを含むタイトル付けなどを「好ましい」と、私は思いません。それは「自由な宗教批判」ではなく、挑戦的で好戦的な宣戦布告と捉えられるだろうことが十分に予想できるからです。

>まぁ、テレビ報道ですから、脚色もあり得るし、情報も一方通行気味ではありますが、充分起こり得る話です。

まさにテレビ報道です。スポンサーがあり、最初から制限された「シナリオどおり」の進行です。また、それらの話が「起こりえない」などと私は思いません。青臭い(ドーキンスのように)理想論を述べたり無駄な論理的正当化を行うよりも、対象の特徴性格長所短所を「科学的に」検討し効果的な戦略を練ったうえで成すべきことをするべき、と考えるのです。(一方で、青臭い理想論を知ることも悪いとは思いません)

>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?

なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。たいてい逆効果です。そういう不注意で無思慮な批判が制限されるのはむしろ当たり前であり、AH1さんが指摘するような「自戒のない」行為に妄信者がネガティブな反応を起こすだろうことは「予想できる」でしょう。自由を勘違いしてはいけません。相手が勝手な言動をしているからと云って、こっちも同じ手口でやり返すというのは対立構造を生むだけです。
#敢えて対立構造を生み、その上で治安的強制力を発動させるという戦略もありますが。

最後になりますが、この議論における最大のナンセンスは論理的正当性に結論を求めているところです。そもそも「情動分野」で起きる感情論や欲求行為に対して、論理をかざすなんて馬鹿げています。土俵が違う、ということです。「科学には答えられない重要な問いかけ」に対して、論理的に答えようなんて矛盾していませんか?宗教は必要ない、といくら論理的整合性を示したところでまったく無意味だろう、と私は思います。(その正当性とやらを見出したひとの心にはとっても有意義だろうが、現実には作用しないだろう、という意味)

157GB:2007/12/21(金) 19:52:30 ID:???
>>130 後悔と懺悔さん
まず、先日の引用部分にミスがあったこと、お詫びします。
文章をごにょごにょいじっているときに、間違えました。ごめんなさい。
(遅くなってますが、とりあえずの返信を…))

「宗教という形質のダーウィン主義的な生存価」についての説明は、それ自体興味深く面白いと思っています。宗教は、(二元論や目的論的な)人の生得的な性向の副産物なのでしょうし、それが集団の生存価を左右したり、また盲信が成員に隷属を強いたりしたことも多かっただろうとも思います。いま、「宗教」の大きな部分は、確かに「火に飛び込む蛾の天空航法の誤作動」を起こしているのでしょうね。でも、

宗教の根源(役割)の一つは、自分がなぜここで生きているのかという、ふつう答えようのない疑問に対する精一杯の解答でもあり、人類誕生の時代から現代まで、地球上のあらゆる場所でそれぞれの事情で紡がれてきたヒトの貴重な歴史だと思うのですね。
哲学や科学(理性)が、それまでの説明内容に修正を加えて人間観を変え、いま結果として宗教のカタチの多くが形骸化したとしても、ふつう答えようのない「意味」を求める人々の要求はたぶん変わらない。文化と一体化したコミュニティの価値観という形で大切にされていくのではないかと思うわけで、それはたとえば、われわれ日本人に伝統的な祖先崇拝という心性についても、同じことなのではないかと思うわけです。

そういう人の心に、「解答などない」とかんたんに言っちゃっていいんだろうか、というのが、私の気分なわけです。

158AH1:2007/12/21(金) 23:40:48 ID:fKqeZx4M
ちょっと仕切り直しというか。

「例えば『メリケンの馬鹿クリ(copryright 地下猫さん)』に文句を言うことを
控えるべきだ、などと考える人」
はこの掲示板にいるんでしょうか?

159リリス:2007/12/23(日) 16:18:36 ID:nrzx3pJo
こんにちは。

ドーキンスの「宗教」批判に対して私が感じている違和感は、NANさんが私などよりずっと丁寧に雄弁に書いておられるので、私が口を挟む余地などまったく無いようです(笑)。ですから、私自身のことを少し書いてみようと思います。

こちらの何人かの方はご存知の通り、私は無神論者であり進化論支持者であって、有神論者や創造科学論者からの批判に対しては好戦的に反応する方です。一方で私は仏教というものを敬愛しています。特定の宗教に入信する意志は無いので「仏教徒」とは名乗りませんが、書物等で接した仏教の教えは、私の倫理観や価値観の一部になっています。仏教において育まれてきた思想体系は、人類の資産だと思っていますし、キリスト教のように多くの人間によって担われてきた宗教にも、きっと尊重されるべき思想体系があるものと思います。私は一神教が好きではないのですが、だからと言って一神教が育んできた良い面を無視してしまわないよう自戒を努力しています。

つまり私は、無神論者であり反原理主義者であり「馬鹿クリ」大嫌い人間であり、かつ、安直な宗教批判に対しては宗教擁護の立場に立つわけです。(宗教を全面的に擁護できるかどうかは保留。これは余りに広範で奥の深い分野だと思うので。)また、思想体系として私は仏教に心を寄せていますが、それとは別に、人間精神への興味から世界各地の神話伝承にも関心を持っています。私から見れば、ドーキンスに賛同する方々は、「宗教」において「ヘブライの一神教」をクローズアップしすぎているのではないか、と感じられます。私自身は、このような一神教は宗教においてむしろ特殊な形態なのではないか、という印象を持っていますので。

たとえば私の手元にある「憎悪の宗教(定方晟著)」では、ヘブライ系一神教について「自分のまわりには敵がいるという意識を吹き込むことで一致している」と述べています。ニーチェもキリスト教の特徴の一つに「ルサンチマン」を挙げました。これらは「宗教」の特徴とは言えないでしょう。「一神教VS多神教(岸田秀著)」に至っては、「一神教は、ひとつの特異な現象、異常な現象として中近東だけに発生したただひとつの例外ではないか」と述べ、「癌細胞のようなもの」という表現まで用いています。世界の神話に興味がある私には、この本の「旧約聖書は、多神教の世界に一神教が無理やり押し入る物語」「自生的な神(自然発生的な多神教の神々)を必死になって排除しよう、弾圧しようとする人工的な神の物語」という観点は面白いものでした。「宗教」と一括りに言ったところで、かつて一神教と対立したのは無神論ではなく土着の宗教でしたし、多神教や汎神論に(どちらかと言えば好意的な)関心を持つ私としては、「宗教」=「ヘブライの一神教」と見なす考え方にも反感を覚えるところです。

で、
後悔と懺悔さん
>しかし一方で、「宗教」を擁護する人間には、「宗教」という名のもとで行われていることに対してまったく責任はないのでしょうか。

たとえば「キリスト教」という名のもとで行われていることに対しては、仏教徒が負うべき責任も、祖霊信仰家が負うべき責任も、無神論者が負うべき責任も、無宗教者が負うべき責任も、基本的に等価であろうと思います。仏教の主流は特定の対象(それが神であっても)に心を捉われることを否定しますから、キリスト教徒と仏教徒の心理的距離は、キリスト教徒とただの無宗教者の心理的距離よりも離れている可能性さえあります。そのことは考慮されているのでしょうか?

160リリス:2007/12/23(日) 16:41:35 ID:nrzx3pJo
後悔と懺悔さん
>しかし、もしも「宗教」がなければ、こういった事柄に対して、より建設的でより望ましい議論ができたはずだと思わざるを得ないのです。
>人類の倫理観・道徳観が、数多の紆余曲折を経ながらも全体としてより望ましい方向に「進歩」してきているということは、疑いのないことだと思います。そして、その点について「宗教」自身の寄与はほとんどないという『神は妄想である』の主張とその根拠にはとても強い説得力を感じます。

この点について、議論が尽くされていないと感じます。
後悔と懺悔さんやカクレクマノミさんは、倫理観・道徳観については
『宗教は実のところなんの機能も果たしていない』
『「宗教」自身の寄与はほとんどない』
とお考えであり、しかし“正しさ”を独占しようとする傾向については、
『宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり』
『「宗教」は「人間が本来的に犯しうる過ち」(のうち近年特に無視できなくなっている点)をこれ以上ないほど効果的に助長するモノであるということです』
とお考えなのですよね。この不均衡はどのような理由によるものでしょうか。

私自身はNANさんのご意見に賛同します。
『正しさを独占しようとする性質あるいは傾向というのは、集団行動を統率する上で生じる自然な要請であって、宗教の性質ではない。もしもそれが宗教の性質だと「固定観念化」しているのであれば、それこそ思考停止だろうし、宗教というものをさっぱり分かっていないと断じざるを得ない、と私は思う。』

つまり、正しさを独占しようとする性質あるいは傾向が宗教の周辺でよく見られるのは、宗教が「感情」や「人が生きる価値や意味」といった領域に関わるものであるからに過ぎず、宗教がそれらの傾向を助長するとは一概には言えないだろう、という考えです。(助長するケースが無い、という意味ではありません。)根拠は、宗教以外の枠組みの中にも容易に「正しさを独占しようとする性質あるいは傾向」を見出しうることです。

それに対して、「助長するものである」とする根拠はどのようなものでしょうか。勿論そのようなケースがある、というだけでは不十分です。私には、宗教全般を網羅するような考察が十分になされないままに、「宗教は人間が本来的に犯しうる過ちをこれ以上ないほど効果的に助長するモノである」と(教条主義的に)決め付けられているような気がしてなりません。

私は「宗教さん」からの批判的発言に対して、脊髄反射的に反論してしまう方なので、ヤフーでは口論に至ることがよくあります。その経験から、「宗教さん」と呼びたくなるような人たちは、逆説的ですが「宗教」に対して真摯でない、という印象を受けました。たとえば猫さんが否定神学で述べられたような「知解されざる神」の概念、人間は神の意図を知りえるのかといった問題や、神とははたして人間が「存在する/存在しない」といった言葉で認識できるような存在かといった問題は、「神」と真剣に向き合うならば不可避なものに思えます。しかし私が対論した(罵倒したとも言う)「宗教さん」達は、そのような事をまったく考えていないようでした。その経験も、私がドーキンスの「宗教」批判よりも、グールドの『敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である』に賛同する理由です。


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